東京の街で、もっとも劇的にガラリとさま変わりをした街といえば、おそらく築地がNo.1クラスだろうか。江戸末期から明治期にかけ、西洋館が建ち並ぶまるで日本とは思えないような、エキゾチックな街並みが形成され、1923年(大正12)の関東大震災Click!でほぼ全滅Click!したあとは、1935年(昭和10)に魚介類や青物などの市場が日本橋Click!から移転してきて、まったく趣きが異なる街へと変貌した。
とはいえ、幕末から明治期にかけての外国人居留地の面影は、残されたキリスト教会や同教系の病院などに、かろうじて残されている。また、築地居留地生まれで発展したキリスト教系の学校も数多く、立教学校(現・立教大学)や築地大学校(現・明治学院大学)、女子大学(現・東京女子大学Click!)、耕教学舎(現・青山学院Click!)、東京中学院(現・関東学院大学)など、そしてミッション系ではないが慶應義塾(現・慶應義塾大学Click!)も築地地域が源流となっている。
明治末から大正初期にかけ、築地の異国情緒ただよう街並みをモチーフにした絵画が、フュウザン会Click!や生活社、その後の春陽会Click!などの展覧会を中心に流行している。ちょうど、大正末から昭和初期にかけ、モダンな「田園文化都市」の街並みが拡がる落合地域の風景が、二科会や1930年協会Click!を中心にブームClick!を巻き起こしたのと同じような現象だ。前者の築地風景では岸田劉生Click!が、後者の落合風景では佐伯祐三Click!がそのブームの中心を担った画家だろうか。
ただし、岸田劉生は築地のエキゾチックな風情を好み、進んでそれをとらえようとしているのに対し、佐伯祐三は下落合のモダンな雰囲気をほとんど描いてはいない。むしろ、宅地造成が終わったばかりの殺伐とした、赤土が露出したままの風景や、工事中の落ち着かない郊外の風景に視点をすえ、あえてまとまりがなく“キタナイ”過渡的な開発風景ばかりをモチーフにひろって描いているように見える。それは、劉生が築地の中心部を描いているとみられるのに対し、佐伯は下落合の外れや開発途上の地区(当時の新興住宅地の外れ)を好み、描画ポイントに選んでいるのとはちょうど対照的だ。
さて、岸田劉生がせっせと築地に出かけて風景画を描いていたころ、1912年(大正元)に銀座で開催されたフュウザン会第1回展には、先の劉生をはじめ斎藤與里、高村光太郎Click!、木村荘八Click!、萬鐵五郎Click!、小島善太郎Click!、鈴木金平Click!、バーナード・リーチなどが参加していた。岸田劉生は築地風景とともに、数多くの肖像画も出品していた。当時の様子を、1971年(昭和46)に日動出版部から刊行された、土方定一『岸田劉生』より引用してみよう。
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このフュウザン会時代の岸田劉生の作品を顧みると、第一回展には十四点(肖像画を六点、風景画を八点) 第二回展には十九点(肖像画を十点、風景画を九点)と全く精力的に仕事をしている。すべてファン・ゴッホ、セザンヌの影響の強いもので、これは第二回展に続いて同年の秋(大正二年)に高村光太郎、木村荘八、岡本歸一とともに開催した生活社展(生活社主催、十月十六日から同月二十二日、神田のヴィナス倶楽部)に続いているものであり、また生活社展において岸田劉生のこの系列は一つの頂点に達している。(中略) 現在から見ると、これらの作品は習作を出ていないものが多い。けれども、『築地居留地風景』、『斎藤與里の肖像』、『バーナード・リーチ氏像』などは、逞しい、色調の美わしい作品であって、時代にとっても記念的な作品といっていいように、ぼくには思われる。
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二度にわたるフュウザン会展に出品された、風景画を合計すると17点にものぼるが、その作品の多くに築地風景が含まれていた。
当時の築地は、四方を川(隅田川河口)や堀割りに囲まれ、居留地の市街へ入るには三方いずれかの橋をわたらなければならなかった。築地は、東側には江戸湾(東京湾)も近い大川(隅田川)が流れ、現在は明石町から佃島へ佃大橋が架かっているが、昔は佃の渡し舟Click!があるきりだった。また、南北西の堀割りには、8ヶ所ないしは9ヶ所の橋が架かっており(1872年の大火で北部の敷地が拡大しているので変動がある)、居留地内の堀割りにも7ヶ所の橋が架かっていた。
つまり、築地はその名のとおり江戸幕府が埋め立てた江戸湾に面する新しい敷地で、ほぼ標高数メートルの土地に堀割りが縦横に走り、西洋館がぎっしりと建ち並ぶさまは、居留地に住む南欧出身の外国人には、ヴェニスの街並みを想起させたかもしれない。それほど、江戸期から明治期にかけて築地の街は、東京のほかの街に比べて異質であり、「日本ではない」空間そのものだったのだ。
日本画や洋画、版画を問わず、当時の画家たちはそんな築地風景に惹かれ、たくさんの作品を生み出している。ことに明治期には、江戸からつづく浮世絵師や版画家がその風景を多くとらえているが、明治後期になると洋画家たちも築地の風景にこぞって取り組みはじめている。ヨーロッパへ留学しなくても、日本でそれらしい風景や街並みが手軽に描ける写生地として、築地や横浜は画家たちの人気スポットになったのだろう。
関東大震災の直前、1923年(大正12)の春ごろには、築地に住んでいた当時は作家で翻訳家でもあった桑山太市朗の家へ入りびたり、次々と築地風景を制作していた洋画家に三岸好太郎Click!がいる。1992年(平成4)に求龍堂から出版された匠秀夫『三岸好太郎―昭和洋画史への序章―』より、築地での様子を引用してみよう。
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三岸の出品画に、築地の風景があるが、外人居留地のあった築地は異国情緒に溢れ、鏑木清方の名作<築地明石町>(昭和二年帝展出品)に見られるように、多くの画家の画心をひらいたところであった。大正初年、岸田劉生もここを多く描いたことがあり、第一回春陽会展にも、中川一政<居留地図>、木村荘八<築地船見橋にて>が築地風景を出品している。三岸は築地に住んだ桑山と交友を深めており、前出節子夫人宛書簡にも記されているように、大正一二年春頃には、桑山宅に泊り込んで盛んに築地界隈を描いた。桑山書簡によれば、時には桑山がモデル代を出して、下谷の宮崎(註、モデル斡旋屋)からモデルを雇い、光線の具合のあまりよくない桑山宅の二階で三岸と岡田七蔵と三人で裸婦を描いたこともあり、また久米正雄の紹介状を貰って、当時鳴らした帝劇女優森律子の築地の家を訪ねて、律子の河岸沿いの家を描いた画を売ろうとして断られたこともあったという。
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築地のオシャレな街には、当時の先端をいく文筆家や表現者たちが好んで住みつき、その後の魚臭い街角とは無縁だったことがわかる。
築地の東側には、江戸期そのままの西本願寺(築地本願寺Click!)の大屋根がそびえ、堀割りの向こう側には江戸期と変わらぬ白壁の蔵に商家が林立し、反対側の隅田川の河口域には大小さまざまな船が帆をかけて往来する風情の中、橋をひとつわたっただけで、見たことのない“異国”にまぎれこんでしまったような錯覚をおぼえる街、それが1923年(大正12)8月までの築地の姿だった。
当時、横浜へ出かけるまでもなく、築地を散策した画家たちは、その特異でエキゾチックな風景や情緒を眼に焼きつけたまま銀座などへ出ると、ふだんはハイカラに感じていた銀座の街並みが、いかにも日本のせせこましく泥臭い街角のように感じて、再びモチーフを探しに築地を訪れてみたくなったにちがいない。
◆写真上:昔日の築地の面影をいまに伝える、聖路加国際病院のトイスラー記念館。
◆写真中上:上は、立教大学に保存されている1894年(明治27)の「築地居留地鳥瞰図」(上)と「築地居留地略図」(下)。中は、1891年(明治24)に制作された勝山英三郎『築地居留地近海之景』。下は、明治初期に撮影された築地写真×3葉。
◆写真中下:すべて岸田劉生が描いた築地風景で、上から1911年(明治44)制作の『築地居留地』と『築地風景』、同年ごろ制作の『築地風景』、1912年(明治45)6月19日制作の『築地居留地風景』、1912年(大正元)制作の『築地居留地風景』と『築地明石町』。
◆写真下:上は、ホテル「メトロポール(聖路加ガーデン)」(上)と「聖三一大会堂」(下)の写真。中は、1923年(大正12)の大震災直前に描かれた三岸好太郎『築地風景』。下は、制作年不詳の井上重生『居留地図』。