現在は、「授産場(所)」というと、国や自治体などの行政機関が運営する障害者あるいは高齢者向けの施設をイメージするが、戦前はまったく異なっていた。授産場は、おもに女性向けに設置された職業訓練所のような存在だったのだ。
今日では、女性がどこかに勤めて働くのは不思議でもなんでもなくなり、むしろ仕事をしているのがあたりまえの社会になったが、戦前は多くの女性たちが働きたくても就職口がきわめて限られており、結婚をして男の稼ぎに依存して生きる以外に、選択肢はきわめて少なかった。
だから、早くから夫と死別したり離婚して子どもを抱えていたり、夫のかせぎが少なく「内職」による副収入を必要としたり、あるいは生涯独身を決意した女性たちは、家庭環境が裕福でないかぎりは「手に職」をつけなければ生きてはいけなかった。つまり、就職が容易でない以上、「内職」で日銭をかせいで生活する以外に生きる術(すべ)がなかったのだ。大正期に、東京各地へ設置された授産場は、なんらかの事情で生活に困った女性たちへ、技術の習得と仕事の斡旋をする公共施設として機能していた。
東京府や東京市、あるいは公的団体が設置した公立授産場は、大正末の時点で6ヶ所を数えることができる。その多くは、関東大震災Click!で肉親を失って生活に困窮する女性を対象にスタートしているが、昭和期に入ると家庭の副業(内職)や、生活困窮者へ向けた技能訓練・仕事斡旋施設の傾向が強まっている。授産場は1924年(大正13)3月に、震災善後会から給付された資金が基盤となっている。翌1925年(大正14)11月に(財)東京府家庭副業奨励会が改めて設立され、東京各地に授産場が設立された。1926年(大正15)現在の東京府内には……、
①東京府設千駄ヶ谷授産場 豊多摩郡千駄ヶ谷町千駄ヶ谷752番地
②東京府設目白授産場 北豊島郡高田町高田1160番地(1168番地?)
③東京市設本所授産場 本所区押上町213番地
④東京市設深川授産場 深川区千田町296番地
⑤愛国婦人会授産場 麹町区飯田町1番地
⑥家庭製作品奨励会 麻布区笄町103番地
……の6ヶ所に授産場があった。私設の授産場は、小規模ながら数多く存在していたが、当然学校と同じような経営のため、入会金(入学金)や材料費、講習料(授業料)などが発生して、公立授産場のように技術を無料で習得できるわけではなかった。
以前、下落合に住んでいた伊藤ふじ子Click!についてご紹介したことがある。彼女は、画家を志して上野松坂屋の美術課に就職したが、すぐに明治大学の事務局へと転職している。また、同大の事務職と同時に、非常勤のグラフィックデザイナーとして銀座図案社でも仕事をしていた。そして、ほどなく小林多喜二Click!と知りあい結婚すると、これらの仕事をやめてしまった。ところが、1年ほどの結婚生活で小林多喜二が特高Click!に虐殺Click!されると、改めて「手に職」をつけるために下落合1丁目437番地にあった私設の「授産場」クララ社(クララ洋裁学院)に通い、同社の紹介で東京帝大セツルメントの洋裁講師として再び勤めはじめている。
伊藤ふじ子のように、過去に仕事をしていて少し蓄えのある女性は、民間の「授産場」へと通えたが、その余裕がない女性は順番待ちをしながら公立授産場へ通うしかなかった。東京府が運営していた授産場の規則が残っているので、引用してみよう。
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東京府家庭副業奨励会授産場規則
一、本会の授産場は大震災により、職業を離れたる人々や、其の他一般の家庭に副業を授けるのを目的とします。
二、入場希望者は所定の申込書に記載事項記入の上提出して下さい。
三、入場希望者には別に資格の制限を設けません。
四、入場希望者が甚だ多数の時は、一時お断りすることがあるかも知れません。
五、入場を承諾した場合には、直ちに其の旨御知らせ致します。
六、入場者のうち技術を知らないか又は未熟な方には講習を受けさせます。
七、講習に要する材料は場合に依り無料で提供します。
八、仕事が出来る方には材料を供して授産場又は家庭で就業してもらひます。
九、講習及び製作に要する器具、機械は本場に備へつけてあります。
十、場合に依り家庭で作業する方からは保証金の提出を要求することがあります。
十一、一人前になつてからは毎月五日及二十日の両度に工費を支払ひます。当日が休日に当つた場合は翌日に繰り上げます。
十二、講習製作に際して材料器具機械を不注意の為め破損又は汚損したる場合には弁償を要求するかも知れません。
十三、講習時間は凡そ午前八時から午後五時までとし、改善の都度掲示します。
十四、種類に依る日割は別に掲示します。
十五、不都合の行ひのあつた方には、退場させ場合に依りて賠償させます。
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この規則を読むと、明らかに「家庭婦人」を意識した書き方であり、また、よほどひどい失敗か損害を与えないかぎりは、いつでも無償で技能講習や仕事の斡旋サービスを受けられた様子がわかる。
山手線の線路沿いで、下落合の近衛町Click!への東側入口にあたる目白授産場では、おもに洋裁・和裁・刺繍、編み物がメインの授産場だった。
ちなみに、1926年(大正15)発行の「婦人世界」5月号(実業之日本社)では、目白授産場の所在地が高田町高田1160番地(現・目白3丁目)となっているが、同年に作成された「高田町北部住宅明細図」では高田1168番地となっている。いずれの地番も、坂道に沿った隣り同士の敷地であり、どちらかが誤植か採取ミスだと思われる。
目白授産場のあるダラダラ坂を、そのまま北へと道なりに上っていくと、下落合414番地に建つ近衛町の島津良蔵邸Click!に出るが、途中で分岐する1本めの急坂を西へ左折すると杉卯七邸Click!の前へ、2本めの坂道を西へ左折すると小林盈一邸Click!の前へと出られるという位置関係だ。毎朝、目白駅で下車した東京西北部で暮らす女性たちは、線路沿いをぞろぞろと歩きながら目白授産場へと通ってきたのだろう。
目白授産場で行われていた講習、あるいは仕事の種類について、1926年(大正15)発行の「婦人世界」5月号から引用してみよう。
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目白授産場
北豊島郡高田町大字高田一一六〇(目白駅より東南へニ丁線路沿ひ)
(仕事の種類)
ミシン洋裁 シャツ、エプロン、割烹着、子供服等。/和服裁縫(一般和服も蒲団類、刺子等)/フランス刺繍(クツシヨン、手提袋、ハンケチ、エプロン、テーブルクロース等)/レース編物(皿敷、手提袋、人形飾)/毛糸編物(帽子、靴下、スヱーター等)/其他手工品種々(委細は各授産場へ御問合せ下さい)
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当時、山手線の線路沿いや近衛町は、樹木が密集した一大森林地帯であり、目白授産場から近衛町の丘へ出ようとすると、あたかも山道を歩いていくような風情だったろう。まるで別荘地の森の中に、大きめな西洋館がポツンポツンと建っているような風景だった。もちろん、生活に追われている目白授産場の女性たちは、そのような風景が目に入らなかったかもしれない。あるいは、休み時間に気分転換の散歩がてら、誘いあって丘を上りながら近衛町を散策しただろうか。
下落合と高田(現・目白)の町境にあった目白授産場は、地元資料である『高田町史』(高田教育会/1933年)にも、戦後の1951年(昭和26)の『豊島区史』(豊島区役所)でも取りあげられていない。東京府や東京市による運営だったせいか、特に注目されなかったのだろう。いくら町内の施設や建物であっても、役所の管轄がちがえば扱いは案外冷たい。周辺の町誌で唯一の例外は、1933年(昭和8)出版の『中野町誌』(中野町教育会)で、同年に神田川沿いの中野町小瀧に創立された東京市中野授産場が詳しく紹介されている。
◆写真上:高田町高田1160番地(1168番地?)にあった、目白授産場跡の現状。左手のビルと、北西隣りの駐車場を合わせた敷地だったと思われる。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」にみる目白授産場。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。
◆写真中下:上は、目白授産場の敷地だったとみられる駐車場。中は、目白授産場前の北へと上るダラダラ坂。下は、近衛町の丘へと上る急坂。
◆写真下:上は、1926年(大正15)発行の「婦人世界」(実業之日本社)に掲載された授産場情報。下は、1933年に(昭和8)設立された中野授産場。