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わたしの実家があった、日本橋米沢町(薬研堀Click!=現・東日本橋)から大橋(両国橋)Click!を対角にはさんだ大川向うに、芥川龍之介Click!が住んでいた。本所小泉町(現・両国2丁目)には、発狂した母親・新原フクに代わり彼を引きとることになった、フクの兄にあたる東京府へ勤める芥川道章の家があった。また、彼は東京府を退職後、龍之介の実父が経営する耕牧舎の経理も担当していた。
芥川家は代々、千代田城の茶坊主をつとめる家がらだったので、龍之介がまとっていた江戸東京の(城)下町Click!アイデンティティは、おもに養家の生活で身につけたものだろう。本所小泉町の界隈には、芝居でも頻繁に登場する本所回向院Click!や御竹倉、百本杭Click!、吉良邸跡Click!、勝海舟邸跡Click!などの名所があり、彼は後年、それらの情景を懐かし気にエッセイへ書き残すことになる。彼は養家から、わたしの親父の母校である府立三中、そして一高へと通っている。
ちょっと余談だけれど、わたしが子どものころ、親父の本棚には芥川作品が少なからず並んでいたのを憶えている。あとで改めて気づいたことだが、親父は上記の先輩・芥川とまったく同様に府立三中から一高、帝大文科を進路コースに希望していたのではないか。だが、1943年(昭和18)の学徒出陣Click!にひっかかってしまったため、文系に進めば生命が危ういので泣く泣くあきらめ理系に進んでいる。後年、キライな数学や理科を無理やり勉強したことをさんざんこぼしていたが、おそらく芥川の学んだコースを進学の理想としていたのだろう。いまにして思えば、親父が凝った研究は文学に演劇、仏教美術、能楽と、例外なく一貫して文系好みの趣味だったことに気づく。
さて、芥川龍之介というと、この本所小泉町にあった養家と、1914年(大正3)10月から移り住んだ田端435番地の家が圧倒的に有名だ。それは、1975年(昭和50)に近藤富枝Click!が出版した『田端文士村』(講談社)の中で芥川龍之介が大きくクローズアップされ、田端での生活が詳細に書きとめられているからだと思われる。だが、本所小泉町の時代と田端時代の間には、あまり目立たないが彼の新宿時代がはさまっている。芥川龍之介は、「牛屋の原」あるいは「牛屋横丁」と呼ばれた、内藤新宿町2丁目裏(現・新宿2丁目)の家で暮らしていた。
当時の新宿駅東口は、青梅街道(現・新宿通り)沿いに商店や住宅がまばらに並んでいる程度で、家々の裏にまわると一面に草原や林が拡がっているような風情だった。そして、内藤新宿町2丁目裏には、芥川龍之介の実父・新原敏三が経営する東京牧場Click!のひとつ、約7,000坪を超える広さを誇る耕牧舎牧場Click!(本社:芝区新銭座町)があった。耕牧舎は、牛乳の品質がことによかったらしく、取引先には築地精養軒(旧・西洋館ホテルClick!)や帝国ホテルClick!などの名前が見える。
芥川家が、本所小泉町から新宿へ転居したのは、養父の芥川道章が耕牧舎の経理を担当していたのと、1910年(明治43)8月に東京地方を直撃した台風による東京大洪水Click!で、本所小泉町の家が冠水したからだといわれている。
同年に芥川家は本所の家を出て、内藤新宿町2丁目71番地の耕牧舎牧場内へと引っ越した。牧場内の家は、実父の新原敏三が建てて借家にしていた1軒だったという。当時の耕牧舎牧場とその周辺の風情を、1977年(昭和52)に出版された国友温太『新宿回り舞台』(私家版)から引用してみよう。
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▼
耕牧舎は、春になるとまるで花園のようだった。カラタチの花は牧場の柵がわりとなり、ボケ、ツバキ、つつじが花を開き、サクラのトンネルができた。足元はレンゲ、ヤマユリで埋まった。/耕牧舎の支配人新原敏三は、昭和二年七月服毒自殺した作家芥川龍之介の実父で、富豪の渋沢、益田、三井の出資を得て経営していた。龍之介は生まれて間もなく芥川家の養子となったが、この牧場でよく遊んだ。近年、芥川家資料により明治三十五年当時の地所が七千四百四十八坪、飼牛の数百八頭だったことが確認されている。大規模な牧場だったのである。敏三は大正八年に歿し、後継者はいなかった。/大正十年三月、表通りの遊女屋は都市の体面を汚すという理由で、耕牧舎跡地に一括移転を命じられた。ご存知、戦後赤線として栄えたあの一画である。
▲
なんだか、植物の花園が人間の「花園」になってしまった気もするが、耕牧舎牧場は実父・新原敏三の死とともに解散している。
著者の国友温太は、芥川龍之介が内藤新宿町2丁目71番地に住んでいたのを知らなかったのか、「この牧場でよく遊んだ」ぐらいしか書いていない。だが、龍之介が18歳だった1910年(明治43)の秋から、22歳になった1914年(大正3)10月に田端435番地へ転居するまでの4年間、彼は内藤新宿に拡がる花畑の中ですごしていた。
内藤新宿町には耕牧舎牧場だけでなく、大平舎牧場などいくつかの東京牧場Click!が建設されていた。それら牧場の草地が、春を迎えると花畑のようになったので、明治末から大正期にかけて華園稲荷社(のち花園稲荷社)や花園町の名称が生まれている。
さて、芥川龍之介が内藤新宿町から田端へ転居したのは、養父・芥川道章とともに宇治紫山から一中節を習っていた宮崎直次郎が、田端で「天然自笑軒」という料理屋を出していたからだといわれる。うちでは、親父が子どものころから習っていた江戸の清元Click!が、音楽の素養(家庭や地域の教育における必須の習いごと)だったが、芥川家では上方の一中節が採用されていたらしい。芥川龍之介もまた養父から三味を押しつけられ、おそらくいやいやながら師匠のもとへ習いに通わされていたのではないだろうか。
当時の田端には、画家や陶芸家、彫刻家たちが数多く住んでいた。落合地域とのつながりでいうと、谷中初音町15番地(現・谷中5丁目)へ転居する前の満谷国四郎Click!がアトリエをかまえている。また、同じ洋画家では田辺至Click!や柚木久太Click!、山本鼎Click!、倉田白羊Click!、森田恒友Click!などが住んでいた。
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田端へ転居した翌1915年(大正4)に、芥川龍之介は田端をテーマにした詩をつくっている。近藤富枝の『田端文士村』から、孫引きしてみよう。
田端にうたへる
なげきつゝわがゆく夜半の韮畑 / 廿日の月のしづまんとす見ゆ
韮畑韮のにおひの夜をこめて / かよふなげきをわれもするかな
シグナルの灯は遠けれど韮畑 / 駅夫めきつもわがひとりゆく
このころ、芥川龍之介は才媛だった吉田彌生に恋い焦がれて悩んでいた。結婚したいと養父母に打ち明けたところ、実母も含めた猛反対にあい失意のどん底にあった。それにしても、この詩に登場する「シグナル」や「駅夫」など、まるで第1次渡仏からもどったばかりで田端駅の操車場などを描いた、佐伯祐三Click!の画面を想起させるワードだ。
芥川龍之介は、エッセイ『大川の水』の中で「自分は大川あるが故に『東京』を愛し、『東京』あるが故に、生活を愛するのである」と書いている。はたして、大川(隅田川)が見えない丘や坂道、崖地や谷間が多い田端の生活は、彼にとってどのようなものだったのだろうか? 同書を書いた近藤富枝もまた生粋の日本橋っ子で、わたしの実家があった日本橋米沢町(現・東日本橋2丁目)のすぐ南に隣接する日本橋矢ノ倉町1番地(現・東日本橋1丁目)の出身(母親の出自は生粋の神田っ子だった)であり、彼女たち一家はいやいや郊外の新乃手である田端へと転居している。同書より、つづけて引用してみよう。
▼
わずか六歳の幼女であったけれど、(芥川龍之介と)同じようにこの郊外暮らしを、どうしても承服できかねるものが心の奥にくすぶった。大川のにおいがやはり恋しかった。縁日や川開きや祭りの賑わいを失ったのも悲しかったが、人情のニュアンスが全くちがうのにとまどう思いだった。それは生意気にも子ども仲間に歌舞伎のせりふが通じないもどかしさだったり、こっちの歯ぎれのよさが、お茶っぴいと批判される口惜しさでもあった。/その夏三百坪ある庭の蝉の鳴き声は、耳を覆いたいほどのろうがましさであり、緑のにおいさえ腹立たしくてならなかった。母が三人目の女の子を生んだが、お宮詣りもしないうちに、子なしの夫婦にもらわれていったのだ。そして母さえも神田福田町のさとへ帰り、二度と田端へもどらなかった。(カッコ内引用者註)
▲
この文章を読むと、大川で164mの大橋(両国橋)をはさんだ対岸の“近所”で育った芥川龍之介に、近藤富枝は非常な親近感をおぼえていたのがわかる。彼女の母親は、どうしても乃手の生活になじめず、早々に実家のある市街地の神田に帰ってしまった。
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わたしもまったく同様に、ときどき寂しい思いをすることがある。なにかの会話にひっかけて、好きな黙阿弥Click!芝居のセリフなどちょっと口にしても、ピンときて洒落た返しをされた方は、落合地域ではほとんどいない。想像してみるに、洒落返しをされそうなのは、洋画家・刑部人Click!の芝居好きを受け継いだ、刑部家Click!の方々ぐらいだろうか。
◆写真上:耕牧舎牧場があった、内藤新宿町2丁目裏あたりの現状。日傘をさし、紺色の絽に弁柄帯を締めて歩く清楚な“男子”が、わたしとしては目ざわりで悩ましい。
◆写真中上:上は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる耕牧舎牧場。中は、1968年(昭和43)発行の「新宿区立図書館紀要2」所収の『豊多摩郡の内藤新宿』に掲載された1902年(明治35)ごろの耕牧舎界隈。下は、1906年(明治39)に撮影された青梅街道(現・新宿通り)。右手の商店壁面に、「牛」の文字とともに耕牧舎の看板広告が見える。
◆写真中下:上は、2葉とも明治期に撮影された耕牧舎牧場。柵内には、たくさんのホルスタインが見てとれる。中は、耕牧舎跡地になる新宿2丁目界隈の現状。下左は、1977年(昭和52)出版の国友温太『新宿回り舞台』(私家版)。下右は、1975年(昭和50)に出版された近藤富枝『田端文士村』(講談社)。
◆写真下:上は、田端435番地にあった芥川龍之介邸跡の現状。中は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!直後に撮影された田端駅周辺の騒然とした様子。下は、芥川龍之介が利用した山側口の駅舎がそのまま残る田端駅南口。
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わたしの実家があった、日本橋米沢町(薬研堀Click!=現・東日本橋)から大橋(両国橋)Click!を対角にはさんだ大川向うに、芥川龍之介Click!が住んでいた。本所小泉町(現・両国2丁目)には、発狂した母親・新原フクに代わり彼を引きとることになった、フクの兄にあたる東京府へ勤める芥川道章の家があった。また、彼は東京府を退職後、龍之介の実父が経営する耕牧舎の経理も担当していた。
芥川家は代々、千代田城の茶坊主をつとめる家がらだったので、龍之介がまとっていた江戸東京の(城)下町Click!アイデンティティは、おもに養家の生活で身につけたものだろう。本所小泉町の界隈には、芝居でも頻繁に登場する本所回向院Click!や御竹倉、百本杭Click!、吉良邸跡Click!、勝海舟邸跡Click!などの名所があり、彼は後年、それらの情景を懐かし気にエッセイへ書き残すことになる。彼は養家から、わたしの親父の母校である府立三中、そして一高へと通っている。
ちょっと余談だけれど、わたしが子どものころ、親父の本棚には芥川作品が少なからず並んでいたのを憶えている。あとで改めて気づいたことだが、親父は上記の先輩・芥川とまったく同様に府立三中から一高、帝大文科を進路コースに希望していたのではないか。だが、1943年(昭和18)の学徒出陣Click!にひっかかってしまったため、文系に進めば生命が危ういので泣く泣くあきらめ理系に進んでいる。後年、キライな数学や理科を無理やり勉強したことをさんざんこぼしていたが、おそらく芥川の学んだコースを進学の理想としていたのだろう。いまにして思えば、親父が凝った研究は文学に演劇、仏教美術、能楽と、例外なく一貫して文系好みの趣味だったことに気づく。
さて、芥川龍之介というと、この本所小泉町にあった養家と、1914年(大正3)10月から移り住んだ田端435番地の家が圧倒的に有名だ。それは、1975年(昭和50)に近藤富枝Click!が出版した『田端文士村』(講談社)の中で芥川龍之介が大きくクローズアップされ、田端での生活が詳細に書きとめられているからだと思われる。だが、本所小泉町の時代と田端時代の間には、あまり目立たないが彼の新宿時代がはさまっている。芥川龍之介は、「牛屋の原」あるいは「牛屋横丁」と呼ばれた、内藤新宿町2丁目裏(現・新宿2丁目)の家で暮らしていた。
当時の新宿駅東口は、青梅街道(現・新宿通り)沿いに商店や住宅がまばらに並んでいる程度で、家々の裏にまわると一面に草原や林が拡がっているような風情だった。そして、内藤新宿町2丁目裏には、芥川龍之介の実父・新原敏三が経営する東京牧場Click!のひとつ、約7,000坪を超える広さを誇る耕牧舎牧場Click!(本社:芝区新銭座町)があった。耕牧舎は、牛乳の品質がことによかったらしく、取引先には築地精養軒(旧・西洋館ホテルClick!)や帝国ホテルClick!などの名前が見える。
芥川家が、本所小泉町から新宿へ転居したのは、養父の芥川道章が耕牧舎の経理を担当していたのと、1910年(明治43)8月に東京地方を直撃した台風による東京大洪水Click!で、本所小泉町の家が冠水したからだといわれている。
同年に芥川家は本所の家を出て、内藤新宿町2丁目71番地の耕牧舎牧場内へと引っ越した。牧場内の家は、実父の新原敏三が建てて借家にしていた1軒だったという。当時の耕牧舎牧場とその周辺の風情を、1977年(昭和52)に出版された国友温太『新宿回り舞台』(私家版)から引用してみよう。
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耕牧舎は、春になるとまるで花園のようだった。カラタチの花は牧場の柵がわりとなり、ボケ、ツバキ、つつじが花を開き、サクラのトンネルができた。足元はレンゲ、ヤマユリで埋まった。/耕牧舎の支配人新原敏三は、昭和二年七月服毒自殺した作家芥川龍之介の実父で、富豪の渋沢、益田、三井の出資を得て経営していた。龍之介は生まれて間もなく芥川家の養子となったが、この牧場でよく遊んだ。近年、芥川家資料により明治三十五年当時の地所が七千四百四十八坪、飼牛の数百八頭だったことが確認されている。大規模な牧場だったのである。敏三は大正八年に歿し、後継者はいなかった。/大正十年三月、表通りの遊女屋は都市の体面を汚すという理由で、耕牧舎跡地に一括移転を命じられた。ご存知、戦後赤線として栄えたあの一画である。
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なんだか、植物の花園が人間の「花園」になってしまった気もするが、耕牧舎牧場は実父・新原敏三の死とともに解散している。
著者の国友温太は、芥川龍之介が内藤新宿町2丁目71番地に住んでいたのを知らなかったのか、「この牧場でよく遊んだ」ぐらいしか書いていない。だが、龍之介が18歳だった1910年(明治43)の秋から、22歳になった1914年(大正3)10月に田端435番地へ転居するまでの4年間、彼は内藤新宿に拡がる花畑の中ですごしていた。
内藤新宿町には耕牧舎牧場だけでなく、大平舎牧場などいくつかの東京牧場Click!が建設されていた。それら牧場の草地が、春を迎えると花畑のようになったので、明治末から大正期にかけて華園稲荷社(のち花園稲荷社)や花園町の名称が生まれている。
さて、芥川龍之介が内藤新宿町から田端へ転居したのは、養父・芥川道章とともに宇治紫山から一中節を習っていた宮崎直次郎が、田端で「天然自笑軒」という料理屋を出していたからだといわれる。うちでは、親父が子どものころから習っていた江戸の清元Click!が、音楽の素養(家庭や地域の教育における必須の習いごと)だったが、芥川家では上方の一中節が採用されていたらしい。芥川龍之介もまた養父から三味を押しつけられ、おそらくいやいやながら師匠のもとへ習いに通わされていたのではないだろうか。
当時の田端には、画家や陶芸家、彫刻家たちが数多く住んでいた。落合地域とのつながりでいうと、谷中初音町15番地(現・谷中5丁目)へ転居する前の満谷国四郎Click!がアトリエをかまえている。また、同じ洋画家では田辺至Click!や柚木久太Click!、山本鼎Click!、倉田白羊Click!、森田恒友Click!などが住んでいた。
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田端へ転居した翌1915年(大正4)に、芥川龍之介は田端をテーマにした詩をつくっている。近藤富枝の『田端文士村』から、孫引きしてみよう。
田端にうたへる
なげきつゝわがゆく夜半の韮畑 / 廿日の月のしづまんとす見ゆ
韮畑韮のにおひの夜をこめて / かよふなげきをわれもするかな
シグナルの灯は遠けれど韮畑 / 駅夫めきつもわがひとりゆく
このころ、芥川龍之介は才媛だった吉田彌生に恋い焦がれて悩んでいた。結婚したいと養父母に打ち明けたところ、実母も含めた猛反対にあい失意のどん底にあった。それにしても、この詩に登場する「シグナル」や「駅夫」など、まるで第1次渡仏からもどったばかりで田端駅の操車場などを描いた、佐伯祐三Click!の画面を想起させるワードだ。
芥川龍之介は、エッセイ『大川の水』の中で「自分は大川あるが故に『東京』を愛し、『東京』あるが故に、生活を愛するのである」と書いている。はたして、大川(隅田川)が見えない丘や坂道、崖地や谷間が多い田端の生活は、彼にとってどのようなものだったのだろうか? 同書を書いた近藤富枝もまた生粋の日本橋っ子で、わたしの実家があった日本橋米沢町(現・東日本橋2丁目)のすぐ南に隣接する日本橋矢ノ倉町1番地(現・東日本橋1丁目)の出身(母親の出自は生粋の神田っ子だった)であり、彼女たち一家はいやいや郊外の新乃手である田端へと転居している。同書より、つづけて引用してみよう。
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わずか六歳の幼女であったけれど、(芥川龍之介と)同じようにこの郊外暮らしを、どうしても承服できかねるものが心の奥にくすぶった。大川のにおいがやはり恋しかった。縁日や川開きや祭りの賑わいを失ったのも悲しかったが、人情のニュアンスが全くちがうのにとまどう思いだった。それは生意気にも子ども仲間に歌舞伎のせりふが通じないもどかしさだったり、こっちの歯ぎれのよさが、お茶っぴいと批判される口惜しさでもあった。/その夏三百坪ある庭の蝉の鳴き声は、耳を覆いたいほどのろうがましさであり、緑のにおいさえ腹立たしくてならなかった。母が三人目の女の子を生んだが、お宮詣りもしないうちに、子なしの夫婦にもらわれていったのだ。そして母さえも神田福田町のさとへ帰り、二度と田端へもどらなかった。(カッコ内引用者註)
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この文章を読むと、大川で164mの大橋(両国橋)をはさんだ対岸の“近所”で育った芥川龍之介に、近藤富枝は非常な親近感をおぼえていたのがわかる。彼女の母親は、どうしても乃手の生活になじめず、早々に実家のある市街地の神田に帰ってしまった。
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わたしもまったく同様に、ときどき寂しい思いをすることがある。なにかの会話にひっかけて、好きな黙阿弥Click!芝居のセリフなどちょっと口にしても、ピンときて洒落た返しをされた方は、落合地域ではほとんどいない。想像してみるに、洒落返しをされそうなのは、洋画家・刑部人Click!の芝居好きを受け継いだ、刑部家Click!の方々ぐらいだろうか。
◆写真上:耕牧舎牧場があった、内藤新宿町2丁目裏あたりの現状。日傘をさし、紺色の絽に弁柄帯を締めて歩く清楚な“男子”が、わたしとしては目ざわりで悩ましい。
◆写真中上:上は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる耕牧舎牧場。中は、1968年(昭和43)発行の「新宿区立図書館紀要2」所収の『豊多摩郡の内藤新宿』に掲載された1902年(明治35)ごろの耕牧舎界隈。下は、1906年(明治39)に撮影された青梅街道(現・新宿通り)。右手の商店壁面に、「牛」の文字とともに耕牧舎の看板広告が見える。
◆写真中下:上は、2葉とも明治期に撮影された耕牧舎牧場。柵内には、たくさんのホルスタインが見てとれる。中は、耕牧舎跡地になる新宿2丁目界隈の現状。下左は、1977年(昭和52)出版の国友温太『新宿回り舞台』(私家版)。下右は、1975年(昭和50)に出版された近藤富枝『田端文士村』(講談社)。
◆写真下:上は、田端435番地にあった芥川龍之介邸跡の現状。中は、1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!直後に撮影された田端駅周辺の騒然とした様子。下は、芥川龍之介が利用した山側口の駅舎がそのまま残る田端駅南口。