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少し前に佐伯祐三Click!が『セメントの坪(ヘイ)』Click!の画面下層にある、画家自身のアトリエを描いたとみられる、1926年(大正15)の8月以前に制作された『わしのアトリエ(仮)』Click!をご紹介した。同作は、「下落合風景」シリーズの第1作かもしれないのだが、実はほかにも疑わしい画面がいくつかある。
その画面は、佐伯祐三のアトリエからわずか西へ100mほど、道路わきに大谷石蓋による共同溝が設置された第三文化村Click!の街角から、排煙する目白通りに近い菊の湯Click!の煙突を遠景に描いた、めずらしく空が晴れわたった『下落合風景』Click!だ。2005年(平成17)に練馬区立美術館で開催された「佐伯祐三―芸術家への道―」展では、『白い壁の家(下落合風景)』という追題がふられた作品だ。同作は個人蔵のため、展覧会に出品されることはきわめてめずらしい。画集では、1968年(昭和43)に講談社から刊行された『佐伯祐三全画集』のみに収録されている。
『下落合風景(白い壁の家)』は、佐伯が1926年(大正15)の秋に書き残した「制作メモ」Click!の、いずれの作品にも該当しない。同作のキャンバスは45.8×61.2(12号P)で、「制作メモ」の画面サイズがいずれも一致しないのと、東京中央気象台の記録による快晴の日に描かれた「制作メモ」のタイトルと、同作の画面内容ともまったく合致していない。すなわち、同作に描かれた樹々(特にケヤキの変色)や道端の草が茶色く枯れている様子から、同年の晩秋あたりの作品ではないかと想定している。
さて、同作の画面を眺めた方は、すぐ上部の広いスペースへ描かれた空の部分に違和感をおぼえるのではないだろうか。空の下半分が、なにやら別の色合いでモヤモヤしており、空の右側にもなにかを塗りつぶしたような、幅の広いハケの跡が明らかに見てとれる。しかも、空の下のモヤモヤは、上からブルーの絵の具を重ねてははいるが薄塗りで、どうやらグリーン系の絵の具で描かれたとみられる、なんらかのフォルムが透けて見える。同作の画面を高精細スキャニングして、さまざまな角度から仔細に観察すると、そこには思いがけないかたちが浮かびあがってくる。
徐々に見えてくるのは、奥(右手)に向かってパースのきいた、細長いがかなり大きな建物だ。右へいくにしたがって細くなる、長い屋根と思われるかたちの下部には、窓の桟がタテヨコにたくさんついた窓枠が、奥に向かって幅をせばめながら連なっているように見える。画面をそのまま素直に観察すれば、その建物の途中には、なにやらタテにまっすぐ四角ばった煙突のような突起物があるようだ。そして、その突起物の向こう側(右手)には、再び桟枠の多い大きめな窓が奥へと連なっているように見える。
描かれたのが1926年(大正15)だとすれば、これに合致する建築の風景は下落合でたった1ヶ所しか存在しない。しかも、佐伯はもう少しあとの時期に、この建物のある南側の斜面から西側を向き、雪が降ったあとににぎわう目白文化村の“スキー場”Click!、すなわち『雪景色』Click!(1927年ごろ)を描いている。佐伯は、工事が進む建設中だった落合第一小学校(以下 落一小学校)の新校舎、すなわち建設の真っ最中だった同校の西側ウィングの校舎を、いまだ建設されていない講堂(体育館)の側から描いている可能性が高い。
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落一小学校の新校舎+講堂は、佐伯が二度めのフランスへと旅立ってしまったあと、1927年(昭和2)10月に竣工しているが、同校では関東大震災Click!の直後から急増しつづける生徒への対応と、各地へ散らばった仮校舎での不便な学習環境を少しでも早く解消するために、教室の入る校舎の建設を最優先していた。したがって、学校全体が完成するのは1927年(昭和2)10月だが、それ以前から建設を終えた新校舎へ順次生徒を入れはじめ、授業を行っていたと考えられる。そして、工事の最終フェーズに残されたのが、校庭の南側に位置する講堂だった。
佐伯が、『白い壁の家』の下層に眠る画面を描いているのが1926年(大正15)と想定できるのは、1927年(昭和2)になると講堂の基礎工事がはじまり、佐伯の描画ポイントには立てないから、すなわちイーゼルを立てて眺められた風景が講堂の建設でふさがれてしまうからだ。この講堂の基礎工事は、おそらく1927年(昭和2)の早い時期にスタートしているとみられ、同年の春(おそらく5月)に描かれた松下春雄Click!の『下落合風景』Click!では、1階部分のコンクリート支柱がようやくできあがっているのを見てとることができる。したがって、佐伯が落一小学校の新しい西ウィング校舎を描けたのは、1926年(大正15)の年内だと思われるのだ。
なお、講堂の南側にかよう前谷戸(不動谷)Click!へと下る斜面を大きく崖状に削り、講堂下にプールが造成されるのは、1936年(昭和11)7月になってからのことだ。目白文化村を中心とした、地元の自治組織「廿日会」が資金を募り、同小学校へ子どもたちが喜ぶプールを寄贈している。
ところで、『白い壁の家』は先述のように、かなり秋の深まりを感じさせる画面であり、1926年(大正15)9月15日から10月23日までの「制作メモ」の記録からは季節的にも、キャンバスのサイズ的にも外れる作品だ。したがって、それ以前に制作していた作品を塗りつぶし、改めて『白い壁の家』を制作しているとすれば、「制作メモ」に記されたタイトルのキャンバスを再利用している可能性がある。
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そのような観点から「制作メモ」を見直すと、同年10月12日に『小学生』というタイトルがあることに気づく。第二文化村の益満邸のテニスコートを描いた『テニス』Click!(10月11日)、落一小学校の生徒を描いたとみられる『小学生』(10月12日)、落一小学校のすぐ西側、第一文化村の南に隣接した宇田川邸の敷地一帯を描いた『風のある日』Click!(10月13日)、第二文化村の水道タンクを描いた『タンク』Click!(10月14日)、そして第二文化村の外れにあたる三間道路を描いた『アビラ村の道』Click!(10月15日)と、落一小学校から第二文化村までの道沿いを5日間連続して描いていた時期だ。距離にすれば、落一小学校から第二文化村の外れまで、わずか500mにすぎない。ほぼ同じ道沿いを描きつづけた一連のタイトルの中で、仕上がりが気に入らなかった『小学生』(10月12日)をつぶして、『白い壁の家』を描いてはいないだろうか。
『小学生』は15号のキャンバスサイズだが、小さめな木枠(12号P相当)に張りなおして用いているのかもしれない。そう考えると、佐伯の画面にしては上部に描かれている空の幅があまりに狭すぎてバランスが悪いのも、なんとなく説明がつきそうな気がするのだ。もし、『白い壁の家』の下に塗りこめられてしまった画面が、10月12日制作の『小学生』だったとすれば、新築の校舎や蒼々と繁った生け垣あるいは樹木の緑を背景に、すでに新校舎で授業を受けていた落一小学校の生徒たちを手前にとらえて描いているのだろう。つまり、『白い壁の家』のコンクリート塀がまぶしい第三文化村の新海邸や、いかにも文化村っぽい風情の加藤邸、あるいはその前の二間道路には、講堂の建設が間近に迫った空き地で遊ぶ小学生が、何人か塗りつぶされている可能性がある。
さらに、こんな推測も成り立つ。10月12日に制作した『小学生』は、当初、落合第一小学校の教師をしていた隣家の青柳辰代Click!へプレゼントする予定であり約束だった。ところが、その仕上がりがまったく気に入らなかった佐伯は、急きょ前日の12月11日に描いていた『テニス』を贈ったのではないだろうか。その後、同作は佐伯の頒布会でも売られずアトリエに放置され、しばらくたったあと上から『下落合風景(白い壁の家)』が描かれている……、そんな感触が強くするのだ。
『白い壁の家』は現存しているので、ぜひ実際の画面を細かく観察してみたいものだ。2005年(平成17)の「佐伯祐三―芸術家への道―」展で、わたしは実際に同作を目にしているはずだが、画面の下層にまで当時は意識がまわらなかった。
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同作の“下絵”にも名前がないと引用に困るので、『あのな~、メンタイClick!がいつか通う尋常小学校な~、隣りん青柳の奥さんから新築工事中や聞いとったさかい、いっぺん見といたろ思て出かけたらな~、おっちゃん絵描きなん? うちの父ちゃんも絵描きやねんで~ゆう面白(おもろ)くてなれこい、けったいな小学生がおったんでな~、つい写生してしもたわ。……って、なんで東京山手の小学生が大阪弁しゃべっとんねん!……そやねん。(仮)』では長すぎるので、いちおう『小学生(仮)』としておきたい。w
◆写真上:1926年(大正15)ごろに制作された、佐伯祐三『下落合風景(白い壁の家)』。
◆写真中上:上・中は、同作の空の部分に確認できる下層に描かれていたとみられる建物の形状。下は、1932年(昭和7)撮影の新築なった落合第一小学校。
◆写真中下:上・中は、空の部分の拡大と確認できるタテ線とヨコ線が交叉した描線。下は、1950年代に撮影された落合第一小学校の旧・木造校舎。
◆写真下:上は、1927年(昭和2)5月ごろに描かれた松下春雄『下落合風景』。落一小を西側(箱根土地不動園)から見た風景で、講堂1階部のコンクリート支柱ができあがりつつある。中上は、松下春雄が1929年(昭和4)5月24日に描画ポイントから撮影した落一小学校の校舎と講堂。(左手) 中下は、1926年(大正15)の10月11日から15日まで佐伯がたどった足跡と『下落合風景』の描画ポイント。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる佐伯祐三の『小学生(仮)』と『雪景色』(1927年ごろ)の描画ポイント。
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少し前に佐伯祐三Click!が『セメントの坪(ヘイ)』Click!の画面下層にある、画家自身のアトリエを描いたとみられる、1926年(大正15)の8月以前に制作された『わしのアトリエ(仮)』Click!をご紹介した。同作は、「下落合風景」シリーズの第1作かもしれないのだが、実はほかにも疑わしい画面がいくつかある。
その画面は、佐伯祐三のアトリエからわずか西へ100mほど、道路わきに大谷石蓋による共同溝が設置された第三文化村Click!の街角から、排煙する目白通りに近い菊の湯Click!の煙突を遠景に描いた、めずらしく空が晴れわたった『下落合風景』Click!だ。2005年(平成17)に練馬区立美術館で開催された「佐伯祐三―芸術家への道―」展では、『白い壁の家(下落合風景)』という追題がふられた作品だ。同作は個人蔵のため、展覧会に出品されることはきわめてめずらしい。画集では、1968年(昭和43)に講談社から刊行された『佐伯祐三全画集』のみに収録されている。
『下落合風景(白い壁の家)』は、佐伯が1926年(大正15)の秋に書き残した「制作メモ」Click!の、いずれの作品にも該当しない。同作のキャンバスは45.8×61.2(12号P)で、「制作メモ」の画面サイズがいずれも一致しないのと、東京中央気象台の記録による快晴の日に描かれた「制作メモ」のタイトルと、同作の画面内容ともまったく合致していない。すなわち、同作に描かれた樹々(特にケヤキの変色)や道端の草が茶色く枯れている様子から、同年の晩秋あたりの作品ではないかと想定している。
さて、同作の画面を眺めた方は、すぐ上部の広いスペースへ描かれた空の部分に違和感をおぼえるのではないだろうか。空の下半分が、なにやら別の色合いでモヤモヤしており、空の右側にもなにかを塗りつぶしたような、幅の広いハケの跡が明らかに見てとれる。しかも、空の下のモヤモヤは、上からブルーの絵の具を重ねてははいるが薄塗りで、どうやらグリーン系の絵の具で描かれたとみられる、なんらかのフォルムが透けて見える。同作の画面を高精細スキャニングして、さまざまな角度から仔細に観察すると、そこには思いがけないかたちが浮かびあがってくる。
徐々に見えてくるのは、奥(右手)に向かってパースのきいた、細長いがかなり大きな建物だ。右へいくにしたがって細くなる、長い屋根と思われるかたちの下部には、窓の桟がタテヨコにたくさんついた窓枠が、奥に向かって幅をせばめながら連なっているように見える。画面をそのまま素直に観察すれば、その建物の途中には、なにやらタテにまっすぐ四角ばった煙突のような突起物があるようだ。そして、その突起物の向こう側(右手)には、再び桟枠の多い大きめな窓が奥へと連なっているように見える。
描かれたのが1926年(大正15)だとすれば、これに合致する建築の風景は下落合でたった1ヶ所しか存在しない。しかも、佐伯はもう少しあとの時期に、この建物のある南側の斜面から西側を向き、雪が降ったあとににぎわう目白文化村の“スキー場”Click!、すなわち『雪景色』Click!(1927年ごろ)を描いている。佐伯は、工事が進む建設中だった落合第一小学校(以下 落一小学校)の新校舎、すなわち建設の真っ最中だった同校の西側ウィングの校舎を、いまだ建設されていない講堂(体育館)の側から描いている可能性が高い。
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落一小学校の新校舎+講堂は、佐伯が二度めのフランスへと旅立ってしまったあと、1927年(昭和2)10月に竣工しているが、同校では関東大震災Click!の直後から急増しつづける生徒への対応と、各地へ散らばった仮校舎での不便な学習環境を少しでも早く解消するために、教室の入る校舎の建設を最優先していた。したがって、学校全体が完成するのは1927年(昭和2)10月だが、それ以前から建設を終えた新校舎へ順次生徒を入れはじめ、授業を行っていたと考えられる。そして、工事の最終フェーズに残されたのが、校庭の南側に位置する講堂だった。
佐伯が、『白い壁の家』の下層に眠る画面を描いているのが1926年(大正15)と想定できるのは、1927年(昭和2)になると講堂の基礎工事がはじまり、佐伯の描画ポイントには立てないから、すなわちイーゼルを立てて眺められた風景が講堂の建設でふさがれてしまうからだ。この講堂の基礎工事は、おそらく1927年(昭和2)の早い時期にスタートしているとみられ、同年の春(おそらく5月)に描かれた松下春雄Click!の『下落合風景』Click!では、1階部分のコンクリート支柱がようやくできあがっているのを見てとることができる。したがって、佐伯が落一小学校の新しい西ウィング校舎を描けたのは、1926年(大正15)の年内だと思われるのだ。
なお、講堂の南側にかよう前谷戸(不動谷)Click!へと下る斜面を大きく崖状に削り、講堂下にプールが造成されるのは、1936年(昭和11)7月になってからのことだ。目白文化村を中心とした、地元の自治組織「廿日会」が資金を募り、同小学校へ子どもたちが喜ぶプールを寄贈している。
ところで、『白い壁の家』は先述のように、かなり秋の深まりを感じさせる画面であり、1926年(大正15)9月15日から10月23日までの「制作メモ」の記録からは季節的にも、キャンバスのサイズ的にも外れる作品だ。したがって、それ以前に制作していた作品を塗りつぶし、改めて『白い壁の家』を制作しているとすれば、「制作メモ」に記されたタイトルのキャンバスを再利用している可能性がある。
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『小学生』は15号のキャンバスサイズだが、小さめな木枠(12号P相当)に張りなおして用いているのかもしれない。そう考えると、佐伯の画面にしては上部に描かれている空の幅があまりに狭すぎてバランスが悪いのも、なんとなく説明がつきそうな気がするのだ。もし、『白い壁の家』の下に塗りこめられてしまった画面が、10月12日制作の『小学生』だったとすれば、新築の校舎や蒼々と繁った生け垣あるいは樹木の緑を背景に、すでに新校舎で授業を受けていた落一小学校の生徒たちを手前にとらえて描いているのだろう。つまり、『白い壁の家』のコンクリート塀がまぶしい第三文化村の新海邸や、いかにも文化村っぽい風情の加藤邸、あるいはその前の二間道路には、講堂の建設が間近に迫った空き地で遊ぶ小学生が、何人か塗りつぶされている可能性がある。
さらに、こんな推測も成り立つ。10月12日に制作した『小学生』は、当初、落合第一小学校の教師をしていた隣家の青柳辰代Click!へプレゼントする予定であり約束だった。ところが、その仕上がりがまったく気に入らなかった佐伯は、急きょ前日の12月11日に描いていた『テニス』を贈ったのではないだろうか。その後、同作は佐伯の頒布会でも売られずアトリエに放置され、しばらくたったあと上から『下落合風景(白い壁の家)』が描かれている……、そんな感触が強くするのだ。
『白い壁の家』は現存しているので、ぜひ実際の画面を細かく観察してみたいものだ。2005年(平成17)の「佐伯祐三―芸術家への道―」展で、わたしは実際に同作を目にしているはずだが、画面の下層にまで当時は意識がまわらなかった。
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同作の“下絵”にも名前がないと引用に困るので、『あのな~、メンタイClick!がいつか通う尋常小学校な~、隣りん青柳の奥さんから新築工事中や聞いとったさかい、いっぺん見といたろ思て出かけたらな~、おっちゃん絵描きなん? うちの父ちゃんも絵描きやねんで~ゆう面白(おもろ)くてなれこい、けったいな小学生がおったんでな~、つい写生してしもたわ。……って、なんで東京山手の小学生が大阪弁しゃべっとんねん!……そやねん。(仮)』では長すぎるので、いちおう『小学生(仮)』としておきたい。w
◆写真上:1926年(大正15)ごろに制作された、佐伯祐三『下落合風景(白い壁の家)』。
◆写真中上:上・中は、同作の空の部分に確認できる下層に描かれていたとみられる建物の形状。下は、1932年(昭和7)撮影の新築なった落合第一小学校。
◆写真中下:上・中は、空の部分の拡大と確認できるタテ線とヨコ線が交叉した描線。下は、1950年代に撮影された落合第一小学校の旧・木造校舎。
◆写真下:上は、1927年(昭和2)5月ごろに描かれた松下春雄『下落合風景』。落一小を西側(箱根土地不動園)から見た風景で、講堂1階部のコンクリート支柱ができあがりつつある。中上は、松下春雄が1929年(昭和4)5月24日に描画ポイントから撮影した落一小学校の校舎と講堂。(左手) 中下は、1926年(大正15)の10月11日から15日まで佐伯がたどった足跡と『下落合風景』の描画ポイント。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる佐伯祐三の『小学生(仮)』と『雪景色』(1927年ごろ)の描画ポイント。