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中村彝と「巣鴨の神様」山田つる。(上)

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至誠殿跡.JPG

 以前、中村彝Click!の結核治療にからめて、巫女の系譜と思われる「巣鴨の神様」Click!や、関東地方に多い三峰社の御師Click!、あるいは御嶽社Click!とみられる修験者のことを書いたことがある。その記事に対し、「今日も日暮里富士見坂」さんClick!からごていねいなリプライをいただき、中村彝に関する主要著作のほとんどが、「巣鴨の神様」=山田つると「池袋の神様」=岸本可賀美とを混同している旨、ご教示をいただいた。
 確かに、古い著作では中村彝『藝術の無限感』(岩波書店/1926年:重版以降の記述か?)そのものをはじめ、小熊虎之助Click!の『心霊現象の科学』(芙蓉書房/1974年版・元版:新光社/1924年)、米倉守『中村彝―運命の図像―』(日動出版/1983年)、鈴木秀枝『中村彝』(木耳社/1989年)、あるいは鈴木良三Click!による著作など、中村彝に関するほとんどの書籍で、のちに「巣鴨の神様」=山田つるは逮捕され、祈祷に使われた水晶玉(神水如意宝珠)はラムネのビー玉だったことが判明した……というようなことが書かれているが、これは1916年(大正5)12月12日に東京監獄へ収監された「池袋の神様」=岸本可賀美のことであって、「巣鴨の神様」=山田つるのことではない。
 しかも、中村彝の多くの年譜では、彝が「巣鴨の神様」のもとへ出かけたのは、1917年(大正6)の春(3月ごろ)となっており、「池袋の神様」こと岸本可賀美が逮捕され水晶玉(如意宝珠)がラムネのビー玉だと暴露されたのが、前年の1916年(大正5)12月なので、これでは逮捕され収監中であり、東京地裁で公判中の「池袋の神様」のもとへ、中村彝は結核の平癒祈祷ため東京監獄へ面会しに出かけたことになってしまう。
 中村彝が岡崎キイClick!の勧めで、結核の奇蹟的な治癒を祈念しに出かけたのは、北豊島郡巣鴨村(大字)巣鴨(字)庚申塚660番地(1918年より西巣鴨町)にあった「至誠殿」の山田つる(巣鴨の神様)のもとであって、山田つるは「池袋の神様」こと岸本可賀美とはなんら関連がないし逮捕されてもいない。中村彝が、山田つるのもとへ出かけたころの様子を、身近にいた鈴木良三の証言から引用してみよう。1977年(昭和52)に中央公論美術出版から刊行された、鈴木良三『中村彝の周辺』より。
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 落合は方角が悪いといって、一時雑司ヶ谷の方へ引越させたのもキイの昔堅気(ママ:昔気質)の押しの強さからだし、落合へ帰ってから直ぐアトリエに風呂桶をすえ、杉っ葉を沢山つめて水を満し、日中まだ肌寒いのに彝さんを水浴させ、傍らのふとんに寝かせるという荒療治を実行させたりしたのも、迷信ばかりではないようで、せっかく訪ねて来た客に面会謝絶を喰わせても、変な行者や、神がかりの祈祷者は案外容易に受け入れてあやしげなまじないをさせたのも、キイの強引なすすめに従わせたためであった。/彝さんにとっては病気が治るためならと思ってキイに従ったのであろうが、他から見ると馬鹿馬鹿しい限りであった。
  
 小熊虎之助の証言、あるいは梶山公平『夭折の画家 中村彝』(学陽書房/1988年)で抜粋された引用文によれば、「巣鴨の神様と称する巫女の所へ精神療法を受けに行ったこともあった」と書いてあるので、わざわざ目白駅から山手線に乗って大塚駅で降り、敷設されたばかりの王子電車(現・都電荒川線)に乗り換えて、巣鴨庚申塚の「至誠殿」まで出かけているのだろう。おそらく、岡崎キイが付き添っていったと思われる。
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中村彝の全貌展図録2003.jpg

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明治女学校.jpg

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西巣鴨1909.jpg

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西巣鴨1916.jpg

 「巣鴨の神様」こと山田つるが、忽然と巣鴨庚申塚にあった明治女学校の跡地に出現したのは、明治末ないしは大正の初めごろのことだ。山田つるが、神託を伝える巫女として仕えていたのは、富士山麓の須走で偶然に見つけたといわれる、出雲神のオオクニヌシ(大黒天)像だった。彼女は、それを「至誠殿」と名づけた社に奉っては、さまざまな「神通力」や「奇蹟」、「千里眼」などの能力を発揮している。
 特に不治の病を治す力に長けていて、東京はおろか関東各地から「患者」を集めては祈祷によって治療していたらしい。そのせいか、数年もたつころには山田つるを師と仰ぐ弟子が、3,000人を数えるまでになったといわれている。当時の様子を、1916年(大正5)9月27日に発行された、東京朝日新聞の朝刊から引用してみよう。
  
 文士連巣鴨の神様信心
 神様と云ふのは鉱山師の女房で御神体は金と縁のない大黒様
 大塚の電車終点から五六町行つた巣鴨庚申塚に不思議なものが現れて迷信に凝り固まつた善男善女を集め繁盛比類無い有様である、近くにはあの気狂病院がある為かも知れないが、一体あの辺は妙な処で、先年「無我の愛」の一団がお籠りした苦行堂もたしかあの界隈にあつた、これは丁度その近くで「巣鴨の神様」と云へば巣鴨界隈で知らぬ人はない、躄や聾やめつかちなどが其御利益に依つて癒して貰はうものと日夜門前市を為す盛況である▼神様は鉱山師山田勝太郎の妻鶴子(四十二)と云ふ一寸垢抜けのした女 当人は口を緘して前身の秘密を語らないが、何れは水商売をして来たそれしやの果らしい、当人の話に依ると二三年前の一夜神託があつて東海道の或る田舎から捜し出して来たといふ大黒天の像を座敷内の神殿に祀つて、至誠殿と名付けて居る、鶴子は日夜其礼拝に余念なく、気が向かねば一間に引籠つたきりで幾日も夫にさへ顔を合せないが如何にして神通力を得たものか、それからといふもの透視もすれば躄も癒す、一寸した病人を癒した話などは腐る程あるらしい
  
 巣鴨庚申塚660番地にあった「至誠殿」は、1909年(明治42)に閉校した明治女学校の敷地西側、明治末から大正初期にかけて同女学校の運動場跡の一画とみられる地所を開発したらしい、新興住宅地の中にあった。
 1909年(明治43)年に作成された1/10,000地形図には、いまだ明治女学校が採取されているが、王子電車の軌道と庚申塚電停は描かれていない。1916年(大正4)作成の同地図になると、王子電車が描かれて周辺の宅地化が進んでいるのが見てとれる。ただし、巣鴨庚申塚660番地界隈の様子はそれほど変わっているようには見えない。あたりには明治女学校の跡地である原っぱが拡がり、その中にポツンと山田夫妻宅、つまり「至誠殿」を含む建物があったことになる。
 山田宅の様子について、1916年(大正5)6月10日発行の読売新聞朝刊に、記者の訪問記が掲載されているので引用してみよう。ちなみに、同記事では祭神をアマテラスと誤記しているが、同年の9月10日の同紙記事で「大国主(オオクニヌシ)」と訂正している。出雲系と新たな伊勢系の神をとりちがえるとは、日本の神に対する基礎知識が訪問記者に欠如していたとしか思えないが、その点を含みおいて参照いただきたい。
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中村彝と岡崎キイ.jpg

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東京朝日新聞19160927.jpg

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読売新聞19160610.jpg

  
 奇蹟を行ふ婦人/巣鴨至誠殿の神様として知られる
 如何なる難病も根治する、又、どんな深刻な煩悶も立ち処に解決する、そればかりでなく此世にあり得べからざる奇蹟をも示すといふ一婦人が現れたがその指導を受けてゐる人々のなかでは沼波瓊音、野上八重子(ママ:野上弥生子)、広瀬哲士等の文士諸氏のほか真面目に熱烈に人生問題に就て苦しんで居る多くの△知名の人があり、近々幸田露伴氏も来らんといふ事であります、大教主と仰がるゝ此婦人は如何なる人で如何なる事を説くのであらうかと巣鴨庚申塚に訪れました。至誠殿は?と聞くと「あゝあの神様の家ですか」と教へて呉れる、広い野原を前にした洋館の主人、山田勝太郎氏夫人鶴子(三十六)さんがその人です。洋館に続いた日本造の建物が加持をする処である、正面には天照皇大神(ママ)を恭しく祭り人々はその前の広間に正座し、夫人に姿勢などを直して貰つてゐるが、丁度岡田式静座と同様に躰を震動させて居りました。
  
 東京朝日新聞と読売新聞とでは、山田つるの年齢が6つもちがっているが、「神様」なので自在に年もとれば若返りもできたのかもしれない。w
 中村彝が下落合にアトリエを建設して、谷中初音町3丁目12番地から下落合464番地へ転居してきたのは1916年(大正5)8月20日、そして身のまわりの世話を焼く岡崎キイ(当時58歳)がアトリエに入ったのが8月末だった。したがって、彼女は同年9月10日の読売新聞、ないしは9月27日の東京朝日新聞に掲載された「巣鴨の神様」の記事をアトリエで読んで、急に彝を巣鴨庚申塚の「至誠殿」へと連れだしているのではないだろうか。
 この時期、中村彝は宮崎モデル紹介所Click!から通ってきていた「お島」Click!をモデルに、ほぼ全身像の『裸体』(40号)を仕上げている。だが、サイズの大きなキャンバスに向かい無理をしたせいか、9月の下旬に入ると喀血がつづき、10月になると寝こむことが多くなった。そのせいで、志賀潔医師が実施していたワクチン療法にも通えなくなるほど体力を消耗している。この病状の悪化には、無理を押して電車に乗り、巣鴨庚申塚へと外出した疲労も重なっているのかもしれない。
 そして、同年の12月12日に「池袋の神様」こと、巣鴨村(大字)池袋(字)中原に住んでいた岸本可賀美が逮捕されている。すなわち、その収監記事を読んだ中村彝自身か岡崎キイ、あるいは彝の身近にいた誰かが「巣鴨村」の文字のみに目をとめて、「巣鴨の神様」が逮捕されたと誤読し、先の岸本可賀美がらみで暴露されたラムネのビー玉の話へとつなげている可能性が高い。
 ・北豊島郡巣鴨村(大字)巣鴨(字)庚申塚 至誠殿の「巣鴨の神様」こと山田つる
 ・北豊島郡巣鴨村(大字)池袋(字)中原 天然教社の「池袋の神様」こと岸本可賀美
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中村彝「裸体」191608.jpg

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明治女学校跡.JPG

 「至誠殿」の山田つること「巣鴨の神様」はその後も“健在”で、1921年(大正10)に実業之日本社から発行された「婦人世界」1月号に収録の石橋臥波『女神様列伝』でも、天理教の中山みきや大本教の出口なほなどと並び、彼女の現況も紹介されている。次回は、山田つるが「神がかり」になった経緯や、さまざまな「奇蹟」の詳細をご紹介したい。
                              <つづく>

◆写真上:明治女学校跡の一画にあたる、山田つるの「至誠殿」があった巣鴨庚申塚660番地あたりの現状。右寄りに見えている石碑は、「明治女学校之址」の記念碑。
◆写真中上は、2003年(平成15)開催の『中村彝の全貌』展図録の年譜より、山田つると岸本可賀美を混同している記述。「巣鴨の神様」は、祈祷に水晶玉(ビー玉)は使っていないし逮捕されてもいない。『藝術の無限感』P450から引用とあるが、初版および第5版の同書では確認できない。は、明治女学校の校舎。は、1909年(明治42)と1916年(大正5)の1/10,000地形図にみる明治女学校と巣鴨庚申塚660番地の位置関係。
◆写真中下は、下落合に竣工したばかりの中村彝アトリエの前庭で、イスに座る岡崎キイと後列中央の中村彝。中村彝の隣りは、中原悌二郎(左)と長谷部英一(右)。は、1916年(大正5)9月27日発行の東京朝日新聞に掲載された「巣鴨の神様」記事。は、1916年(大正5)6月10日発行の読売新聞に掲載された「巣鴨の神様」記事。
◆写真下は、1916年(大正5)8月制作の宮崎モデル紹介所の馴染みモデル“お島”を描いた中村彝『裸体』。は、広大だった明治女学校跡地の現状。

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