山田つるClick!が、どのようにして「神通力」にめざめたのかは、実際に目撃した第三者がいないので委細は不明だが、夫の山田勝太郎によれば、医者も見離した難病に苦しめられ病臥を繰り返していた中、突然「神霊」のお告げを受けて、「身を清めてから死にたい」と夫に別れを告げたころからはじまる。医者から、余命わずかといわれたのがショックだったのか、半ば自暴自棄のような精神状態でもあったようだ。
1918年(大正7)に太卜出版から刊行された竹齋山人『仙神伝授魔法神通力』によれば、山田つるは「深山の神霊」へ病気平癒を祈願するために、真冬の雪が降り積もった「霊山」(社殿が奉られた北国の山のようだが、どこの山かは特定していない)へ登り、道に迷って危うく遭難しかかる。崖地の雪庇を踏みぬいて渓谷へ転落し、雪解けがはじまった渓流に全身が浸かってしまい、濡れねずみになって意識を失ったまま凍死しかかるが、もともと生命を捨てて自暴自棄になりながら冬山に登っているので、意識をとりもどすと再び山頂の社殿めざして歩きはじめた。
すると、しばらくしてどこからか「再攀せば安全なる道を発見すべし」という声が響きわたり、その声を頼りに上っていくと、やがて頂上にある社殿にたどり着いた。以来、彼女は「自己心神の統一」ができるようになり、物体の「透視」や「千里眼」の能力を備えるようになった……ということらしい。明らかに、体温が急速に奪われる冬山の遭難時に起きがちな、幻視幻聴症状の一種だと思われるが、下山して巣鴨庚申塚にもどってきたときは、すでに「神がかり」になっていて、端からは異様に見える言動をするようになっていたという。以降毎日、夜に水垢離をつづけていると自身の病気も快方に向かい、しだいに「神通力」を発揮するようになったということらしい。
山田つるのもとには、大勢の弟子たちが集まったが、その中には著名人たちも多く含まれていた。どこか岡田虎二郎Click!による「静坐会」Click!の活動にも似ているが、その様子を1916年(大正5)9月27日の東京朝日新聞より引用してみよう。
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此神様の弟子三千人とは話半分に聞いても大した者(ママ)だが、周囲に四五人の使徒のような高弟があつて、其下ツ葉の弟子連の中には小山内薫、生田長江、沼波瓊音、栗原古城、広瀬哲士、阿部秀助、山田耕作、諸口十九などの人々がある、いづれも神様を礼拝する時は感極まつて踊り出す、其姿の珍妙な事は話にならない、岡田三郎助君も此程小山内君に勧められて神様を拝みに行き聾を癒して貰つたといふ▼中にも沼波君の熱心は大したもので今は雑誌の方も潰せば一切の生活の道を犠牲にして朝から晩まで神様の家に入り浸りの姿である、此間福来博士が沼波君を訪れると夕立が来た 「傘を持つて来なかつた」と博士が心配するのを沼波君は「お帰りになる時雨を晴らせて上げます」と云つたが、果して博士が帰りかけると、雨はカラリと上つたと当人の自慢話、それから先頃電燈料を払はないかして電線を切られた、すると「アンナ物はなくとも点火して見せる」と云つてそれ以来神通力で電燈を点けて居るといふ話もある
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「ほっといても、雨はいつか降ったり止んだりするだろ!」とか、「おまえは電気ウナギみたいなやつだな!」とか、ヤマダClick!のようなツッコミを不用意に入れてはいけない。本人たちは、いたって大マジメなのだ。
記事に書かれている小山内薫Click!は、「事故物件」や「化け物屋敷」ばかりを引き当てて転居を繰り返していたが、もともと「心霊(神霊)現象」には興味があったのだろう。また、福来博士とは目白にやってきた超能力者・御船千鶴子Click!の記事で登場している、東京帝大の福来友吉Click!のことだ。
小山内薫は、1916年(大正5)6月3日から、帝劇で新劇場の初回公演を行っているが客がほとんど集まらず、どうやら“拝み”の「巣鴨の神様」頼みになっていたらしい。当時の小山内薫の様子と、「巣鴨の神様」への奉納劇について、1961年(昭和36)に青蛙房から出版された戸板康二『対談日本新劇史』より引用してみよう。インタビューに答えているのは、当時は新劇の俳優で映画監督もこなした田中栄三だ。
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それから間もなく七月になりまして、暑い日でしたが巣鴨の神様の至誠殿に一周年記念のお祭りがありました。富士の裾野の方に神様の本体をたずねて、みんなが御幣を持って行ったんです。御幣が風になびく方向に行ったら、須走の百姓家の庭にある物置の中へ導かれた。その物置の中に大黒様が八体あったんで、それを頂いて帰って来た。その時の仮装をして一周年のお祭りをしたわけですね。芝居や踊りを奉納するというわけで、小山内先生のおやじで、私の客、諸口の娘で、チェーホフの『犬』(結婚申込)をやったんですよ。(中略) 小山内先生も隠し芸の「夕ぐれ」を踊りましたよ。(中略) そのころ新劇場は失敗してお金がないころなんで、小山内先生もちっともお金がないんですよ。玄関の畳の下をあけたら五十銭銀貨が出来たから巣鴨の神様へ行こう、という時代でした。昼間至誠殿でやった小山内先生の講話の時には「何事もあなた任せの年の暮」の句を引いていろいろ話をしていられました。
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貧乏な演劇青年、しかも日本に入ってきて間もない新劇をめざしていた青年たちが、まったく集客できずに「巣鴨の神様」頼みだった当時の様子がわかって面白い。このとき演じられたのは、チェーホフの『犬』のほかスティーブンスンの『失踪商人(ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件)』だったという。
「至誠殿」に集合していた画家や作家、演劇人、歌人などの様子を見ると、岡田虎二郎が主宰する「静坐会」に凝っていた相馬黒光(良)Click!の、新宿中村屋Click!のとある時代を見ているようだ。36歳か42歳か年齢が不詳の、ちょっと垢抜けて艶っぽかったらしい山田つるは、その「神通力」や「千里眼」「透視」の能力はともかく、多くの人を惹きつけ集めることができる魅力は備えていたようだ。
もともと山田家は資産があって裕福だったらしく、山田つるは「神通力」を使いながら貧しい病人は無償で「治療」したり、「千里眼」を使って失せモノや未来を「透視」してやったりしていたのも、多くの人々から信用された要因らしい。病気の「治療」法とは、病人を正座させ意識を集中させてから御幣を振りかざして祈祷を加えるというようなもので、電車賃や俥代が払えない貧者には俥をかってタダで「往診」までしていた。
おそらく、中村彝Click!も「至誠殿」の床に座らせられ、山田つるが唱える祈祷の言霊を聞きながら、御幣の祓いを受けていたのだろうが、結核菌を殺す「治療」が無償だったかどうかまではさたがでない。貧しい小山内薫ら演劇青年たちは、おそらく無償で……というか、「至誠殿」で「巣鴨の神様」から食事をふるまわれるなど、持ちだしで面倒をみてもらっていたようだ。
弟子のひとりで、電気ウナギのように自家発電ができるらしい省エネでエコな沼波瓊音は、読売新聞の記者に「仕て始めて感得されるので語るものでない、末世と悲しんだ此世にかやうな光明をなげられ人生至高の境に行く路の開かれたるを喜ぶ」(1916年6月10日朝刊)と語り、また東京朝日新聞の記者には「太陽もけさうと思へば必ず消せる」(1916年9月27日朝刊)などと語っているので、どうやら山田つるの能力は修行を重ねれば弟子たちにも相伝するらしい。
だが、天理教の中山みきや大本教の出口なほが、その後、大きな教団として成長していった……というか、事業戦略としてのマーケティングやプロモーションが上手で、組織を大規模化していった「女神」たちに比べ、「巣鴨の神様」こと山田つるは、あくまでも個人による私的な「治療」や「施術」の域を出ず、また夫の山田勝太郎とはのちに別居して巣鴨から田端へ転居してしまったため、「教団」としてのまとまりや組織化ができないうちに、彼女のブームは下火になってしまったように見える。
「巣鴨の神様」が、田端へ転居しているのが興味高い。彼女が主柱にすえていたのはオオクニヌシ(=オオナムチ=大黒天)であり、同神は「北辰」、すなわち北極星あるいは北斗七星の象徴でもあるからだ。先の「今⽇も⽇暮⾥富⼠⾒坂」さんClick!によれば、転居先は大正末の電話帳で北豊島郡瀧野川町田端171番地(現・田端3丁目)ということだが、この位置は千代田城の天守跡からほぼ正確に真北の方角にあたる。おそらく田端でも、彼女は細々と「神通力」を発揮しつづけていたのではないかと思われるが、それから「田端の神様」が出現することはなかった。
また、巣鴨庚申塚660番地の「至誠殿」があったとみられる跡地には、1927年(昭和2)作成の「西巣鴨町東部事情明細図」を参照すると、「星道会」という宗教団体らしい名称の本部が置かれている。これが、大正期の後半から昭和初期にかけ山田勝太郎が主宰していた「巣鴨の神様」の、のちの姿ではないか……と想像がふくらむ。
「至誠殿」跡の取材では、地元で生まれ育った庚申塚大日堂(山田夫妻宅に隣接)の方に、山田つるや「至誠殿」のことをうかがってみたが、大正末の「星道会」も含めてすでにご存じではなかった。庚申塚の地元では、「巣鴨の神様」の山田つるも「星道会」の建物も、戦争前後には早々に忘れ去られたようだ。
1916年(大正5)の夏、東京各地ではコレラが大流行していた。山田つるのもとへは、コレラの患者も訪れたらしく、コレラ菌を殺す祈祷なども行われていたようだ。結核よりもはるかに症状が激烈な、体内のコレラ菌を殺せて快癒させられるなら、中村彝の体内に巣くう結核菌などたちどころに殺せるのではないか……と、江戸の「コロリ」時代の安政期生まれだった岡崎キイが考えたとしても、無理からぬことだったかもしれない。
<了>
◆写真上:「至誠殿」があったとみられる場所へ向かう、大正時代からつづく道。中村彝も岡崎キイに連れられて、この道を「至誠殿」まで歩いたのだろう。
◆写真中上:上は、1918年(大正7)に出版された竹齋山人『仙神伝授魔法神通力』(太卜出版)と山田つるの解説ページ。下は、熱心な「巣鴨の神様」信者だった小山内薫(左)と、山田つるに難聴を治してもらった岡田三郎助(右)。
◆写真中下:上左は、1921年(大正10)発行の「婦人世界」1月号に掲載された石橋臥波『女神様列伝』。ちなみに「巣鴨の神様」は巫女であり、ときに不治の患者や下層階級を慰める「女神」だが、逮捕された「池袋の神様」こと岸本加賀美は占い師であり男性だ。上右は、「至誠殿」についての証言が語られた1961年(昭和36)出版の戸塚康二『対談日本新劇史』(早川書房版)。中は、奉納新劇や奉納踊りの様子を伝える1916年(大正5)9月10日発行の読売新聞。下は、「至誠殿」周囲の現状。
◆写真下:上は、1927年(昭和2)作成の「西巣鴨町東部事情明細図」に掲載された「星道会本部」(星道会館)。なお、赤い点線で囲んだ鳥居マークは庚申塚大日堂(寺院)で「卍」マークが正しい。下は、アトリエのテラスに座る岡崎キイと病臥する中村彝。