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美校の校友会名簿を参照すると、1926年(大正15)から1928年(昭和3)までの鈴木誠Click!の住所は、下落合703番地と記載されている。だが、これは明らかに誤りだろう。なぜなら、1927年(昭和2)7月末から、鈴木誠は下落合661番地の佐伯祐三Click!アトリエへ留守番として転居しており、1929年(昭和4)に旧・中村彝Click!アトリエへ引っ越すまで、佐伯アトリエで家族とともに住んでいたからだ。
校友会名簿ではときどき見られるようだが、画家が転居した新住所を編集部に通知し忘れ、旧住所のまま数年間にわたり掲載されてしまう事例のひとつではないかとみられる。この時期、実際の鈴木誠の転居経緯を記すと、以下のとおりだ。
1922年(大正11)~1926年(大正15/昭和元) 下落合703番地(?)
1927年(昭和2)7月末 下落合661番地(佐伯祐三アトリエ)
1928年(昭和3) 同上
1929年(昭和4)6月? 下落合464番地(旧・中村彝アトリエ)
しかし、校友会名簿にはもうひとつの誤りが重なっているように思える。それは、下落合703番地という記載自体も、活字組みのミスか誤植の可能性が高いとみられることだ。下落合703番地という地番は、青柳ヶ原Click!の西側に口を開けている不動谷(西ノ谷)Click!の南側にふられた地番であり、大正末から昭和初期にかけて住宅が吉村邸と星野邸の2棟しか建っていない東向きの斜面、ないしは谷底の区画になるからだ。
これが昭和期に入ると、1932年(昭和7)の淀橋区成立にからめて行われた地番変更にともない、下落合703番地という地番がふられた家は計4棟、すなわち「火保図」を参照すると南原繁邸Click!の北側に接した星野邸に菅野邸、そして北側の2棟の住宅だったとみられる。これ以外、大正末から昭和初期にかけ他のどの資料類や地図類、証言などを参照しても、下落合703番地の位置に家屋は確認できない。不動谷(西ノ谷)の入口近く、おそらく下落合703番地のエリアに昭和初期の段階で設置されていたのは、同谷の湧水を利用して営業していた釣り堀と、その管理小屋だけなのだ。
鈴木誠が結婚の直後から、法外な安い家賃で借りていた“わけあり物件”、みずから「化け物屋敷」と記述している大正末から昭和初期にかけての家は、次のように表現されている。1980年(昭和55)に出版された『近代洋画研究資料/佐伯祐三Ⅲ』(東出版)所収の、1968年(昭和43)発行の「繪」11月号に掲載された鈴木誠『下落合の佐伯祐三』から孫引きしてみよう。
▼
私は卒業して結婚、下落合の昔風にいうと、洗場の上の化け物屋敷を借りて住みついた。隣りに曽宮一念氏の画室があった。/間もなく彼(佐伯祐三)が近くに画室を新築して来た。私は研究科に通うことになり彼と一緒に上野へ通っていた。(カッコ内引用者註)
▲
鈴木誠は、東京美術学校では佐伯の1学年上であり、同じ大阪出身ということで気のおけない友人として仲がよかったようだ。だからこそ、佐伯は二度めの渡仏時、鈴木誠にアトリエの留守番を頼んだのだろう。
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大正末に確認できる、下落合703番地の星野邸と吉村邸はともに新築の住宅であり、ボロボロのわけあり「化け物屋敷」などではない。また、上記の記述で「洗い場」Click!が登場しているが、野菜の洗い場は青柳ヶ原をはさんで、東側の諏訪谷Click!にも西側の不動谷(西ノ谷)にも、湧水源の近くに存在していた。西側の不動谷(西ノ谷)にあった洗い場の池の端で、佐伯は手ごろなサイズの木を伐ってクリスマスツリーにしているのは、以前にもこちらでご紹介Click!している。ところが、問題なのは「隣りに曽宮一念氏の画室があった」というくだりだ。
下落合623番地の曾宮アトリエから、下落合703番地の地番がふられた区画まで、直線距離でさえたっぷり200m以上はある。よく農村などでみられるように、田畑や牧草地が間にはさまるため、直近の家が数百メートル離れていても「隣家」と表現することはありえる。大正末の当時、青柳ヶ原には家が1軒も建っていなかったので、曾宮アトリエから下落合703番地に建っていたとされる「化け物屋敷」までは「隣り」と表現されていたのか?……とも考えたが、あまりにも不自然なのだ。
つづいて、同様に下落合703番地の「化け物屋敷」について書いたとみられる、1980年(昭和55)に出版された『近代洋画研究資料/佐伯祐三Ⅱ』(東出版)所収の、1967年(昭和42)発行の「みづゑ」1月号に掲載された鈴木誠『手製のカンバス』から引用してみよう。
▼
私は学校の卒業と同時に、駒込から目白落合に、二階ふた間もあるなにかわけのある家を法外に安く貸(ママ:借)りることが出来たので、引越して住むようになったが、これより前にすでに彼(佐伯祐三)は、近所にアトリエを新築して住んでいた。その年の冬、通称洗い場という近所のお百姓さんがよく「ごぼう」を洗いに来る谷間、その南側に建てたこの家の日当りのよい縁側で、シャベルを借りに来た彼と、寝ころがって雑談をしていたようだった。/突然彼は「俺はナー、この頃頭が重うてしょうがない。医者に見(ママ:診)てもろたら蓄膿やいうとおる。画描きは頭悪るかったらアカン。人に聞いたら富士山麓に坪が一銭という所があるそうな、俺はそこでニワトリ飼うたろかと考えてるネン。ドヤ?」(カッコ内引用者註)
▲
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この文章を読むと、なおさら不動谷(西ノ谷)にふられた下落合703番地の風情には思えない。洗い場が見下ろせ、縁側に寝そべって陽なたぽっこができる南向きの日当りのいい2階家、しかも「隣りに曽宮一念氏の画室」がある場所は、どう考えても下落合703番地のある不動谷(西ノ谷)ではなく、曾宮一念アトリエの前に口を開けた諏訪谷の情景に思えてくるのだ。
おかしいおかしいと首をかしげながら、今度は諏訪谷の古い地図を次々とひっくり返していたら、ハタと気がついた。諏訪谷は、1926年(大正15)ごろよりスタートした宅地開発により、昭和に入ってから同谷にある住宅には、すべて下落合727番地という地番がふられるようになる。以前、宮坂勝アトリエClick!の作品記事でも、「火保図」からの引用とともにご紹介したとおりだ。
ところが、大正期以前の地図には同谷の西側半分に、下落合730~731番地という地番が記載されていることが判明した。特に、1911年(明治44)発行の「豊多摩郡落合村」図では、曾宮アトリエ敷地の斜向かいから青柳ヶ原にかけての西側一帯が、下落合730番地とされている。(下落合731番地は未記載) つまり、校友会名簿に記載された「下落合703番地」は、下落合730番地の誤植ではないだろうか。そう考えると、鈴木誠の文章がすみずみまで腑に落ちるのだ。
すなわち、鈴木誠が住んでいた家賃が法外に安い“わけあり物件”=「化け物屋敷」の2階家は、曾宮一念アトリエの斜向かい、諏訪谷の洗い場の上に位置する、陽当たりのいい南向き斜面の上部に建っていたのではないだろうか。この位置なら、曾宮アトリエのまさに「隣り」(斜向かい)であり、佐伯アトリエからもついでに立ち寄れる150mほどの距離になる。そして、鈴木誠の文章にもなんら不自然さを感じないのだ。ちなみに、鈴木誠は「化け物屋敷」でどのような怪奇現象や心霊現象に遭遇しているのか、あるいはどんな「わけあり」の経緯があったのかまでは、残念ながら記録していない。
そして、もうひとつのテーマとして、佐伯祐三は「化け物屋敷」の鈴木誠アトリエを、はたして「下落合風景」シリーズClick!の1作に描いているのではないだろうか。それは、以前にもほんの少し触れたように、曾宮一念アトリエの一部を左端に入れて描いた『セメントの坪(ヘイ)』Click!で、画面の右端にチラリとのぞく2階家の一部こそが鈴木誠の「化け物屋敷」アトリエであり、大正期以前すなわち鈴木誠が結婚して駒込から転居してきたとみられる、当時の下落合730番地にあたる敷地にほかならないからだ。
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1926年(大正15)の夏に制作された『セメントの坪(ヘイ)』は、佐伯祐三が関西を中心とした頒布会でも手離さず、下落合のアトリエで大切に保存しつづけ、1927年(昭和2)6月に開かれた1930年協会第2回展、および同年9月に開催の第14回二科展へ出品した愛着のある自信作だ。その画面には、下落合623番地にあった曾宮一念アトリエと下落合730番地の鈴木誠アトリエの、双方を入れている可能性がきわめて高い。
◆写真上:洗い場の上、諏訪谷の南斜面上にあたる2階家があったあたりの現状。
◆写真中上:上は、1911年(明治44)に作成された「豊多摩郡落合村」図(上)と、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」(下)にみる下落合703番地。中は、1938年(昭和13)に作成された北が左側(上が東)の「火保図」記載の下落合703番地とみられる4棟の住宅。下は、不動谷(西ノ谷)の釣り堀と管理小屋があったあたりの現状で、左手(西側)に見えている大谷石による築垣上の斜面区画が下落合703番地。
◆写真中下:上は、、1911年(明治44)に作成された「豊多摩郡落合村」図(上)と、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」(下)における下落合730番地。中は、諏訪谷の現状で洗い場は赤い屋根の住宅左手(東側)あたりにあった。下は、1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる下落合730番地と703番地の位置関係。
◆写真下:上は、コーラの自販機の向こう側あたりが鈴木誠アトリエとみられる2階家があったあたり。中は、1926年(大正15)8月以前に制作された佐伯祐三の「下音愛風景」シリーズの1作『セメントの坪(ヘイ)』。下は、同作の右端に描かれた2階家の拡大。『セメントの坪(ヘイ)』のカラー画面を、佐伯が得意な股メガネでのぞくと、もうひとつ別のアトリエがぼんやりと浮き上がってくるのだが、それはまた、次の物語……。
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美校の校友会名簿を参照すると、1926年(大正15)から1928年(昭和3)までの鈴木誠Click!の住所は、下落合703番地と記載されている。だが、これは明らかに誤りだろう。なぜなら、1927年(昭和2)7月末から、鈴木誠は下落合661番地の佐伯祐三Click!アトリエへ留守番として転居しており、1929年(昭和4)に旧・中村彝Click!アトリエへ引っ越すまで、佐伯アトリエで家族とともに住んでいたからだ。
校友会名簿ではときどき見られるようだが、画家が転居した新住所を編集部に通知し忘れ、旧住所のまま数年間にわたり掲載されてしまう事例のひとつではないかとみられる。この時期、実際の鈴木誠の転居経緯を記すと、以下のとおりだ。
1922年(大正11)~1926年(大正15/昭和元) 下落合703番地(?)
1927年(昭和2)7月末 下落合661番地(佐伯祐三アトリエ)
1928年(昭和3) 同上
1929年(昭和4)6月? 下落合464番地(旧・中村彝アトリエ)
しかし、校友会名簿にはもうひとつの誤りが重なっているように思える。それは、下落合703番地という記載自体も、活字組みのミスか誤植の可能性が高いとみられることだ。下落合703番地という地番は、青柳ヶ原Click!の西側に口を開けている不動谷(西ノ谷)Click!の南側にふられた地番であり、大正末から昭和初期にかけて住宅が吉村邸と星野邸の2棟しか建っていない東向きの斜面、ないしは谷底の区画になるからだ。
これが昭和期に入ると、1932年(昭和7)の淀橋区成立にからめて行われた地番変更にともない、下落合703番地という地番がふられた家は計4棟、すなわち「火保図」を参照すると南原繁邸Click!の北側に接した星野邸に菅野邸、そして北側の2棟の住宅だったとみられる。これ以外、大正末から昭和初期にかけ他のどの資料類や地図類、証言などを参照しても、下落合703番地の位置に家屋は確認できない。不動谷(西ノ谷)の入口近く、おそらく下落合703番地のエリアに昭和初期の段階で設置されていたのは、同谷の湧水を利用して営業していた釣り堀と、その管理小屋だけなのだ。
鈴木誠が結婚の直後から、法外な安い家賃で借りていた“わけあり物件”、みずから「化け物屋敷」と記述している大正末から昭和初期にかけての家は、次のように表現されている。1980年(昭和55)に出版された『近代洋画研究資料/佐伯祐三Ⅲ』(東出版)所収の、1968年(昭和43)発行の「繪」11月号に掲載された鈴木誠『下落合の佐伯祐三』から孫引きしてみよう。
▼
私は卒業して結婚、下落合の昔風にいうと、洗場の上の化け物屋敷を借りて住みついた。隣りに曽宮一念氏の画室があった。/間もなく彼(佐伯祐三)が近くに画室を新築して来た。私は研究科に通うことになり彼と一緒に上野へ通っていた。(カッコ内引用者註)
▲
鈴木誠は、東京美術学校では佐伯の1学年上であり、同じ大阪出身ということで気のおけない友人として仲がよかったようだ。だからこそ、佐伯は二度めの渡仏時、鈴木誠にアトリエの留守番を頼んだのだろう。
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大正末に確認できる、下落合703番地の星野邸と吉村邸はともに新築の住宅であり、ボロボロのわけあり「化け物屋敷」などではない。また、上記の記述で「洗い場」Click!が登場しているが、野菜の洗い場は青柳ヶ原をはさんで、東側の諏訪谷Click!にも西側の不動谷(西ノ谷)にも、湧水源の近くに存在していた。西側の不動谷(西ノ谷)にあった洗い場の池の端で、佐伯は手ごろなサイズの木を伐ってクリスマスツリーにしているのは、以前にもこちらでご紹介Click!している。ところが、問題なのは「隣りに曽宮一念氏の画室があった」というくだりだ。
下落合623番地の曾宮アトリエから、下落合703番地の地番がふられた区画まで、直線距離でさえたっぷり200m以上はある。よく農村などでみられるように、田畑や牧草地が間にはさまるため、直近の家が数百メートル離れていても「隣家」と表現することはありえる。大正末の当時、青柳ヶ原には家が1軒も建っていなかったので、曾宮アトリエから下落合703番地に建っていたとされる「化け物屋敷」までは「隣り」と表現されていたのか?……とも考えたが、あまりにも不自然なのだ。
つづいて、同様に下落合703番地の「化け物屋敷」について書いたとみられる、1980年(昭和55)に出版された『近代洋画研究資料/佐伯祐三Ⅱ』(東出版)所収の、1967年(昭和42)発行の「みづゑ」1月号に掲載された鈴木誠『手製のカンバス』から引用してみよう。
▼
私は学校の卒業と同時に、駒込から目白落合に、二階ふた間もあるなにかわけのある家を法外に安く貸(ママ:借)りることが出来たので、引越して住むようになったが、これより前にすでに彼(佐伯祐三)は、近所にアトリエを新築して住んでいた。その年の冬、通称洗い場という近所のお百姓さんがよく「ごぼう」を洗いに来る谷間、その南側に建てたこの家の日当りのよい縁側で、シャベルを借りに来た彼と、寝ころがって雑談をしていたようだった。/突然彼は「俺はナー、この頃頭が重うてしょうがない。医者に見(ママ:診)てもろたら蓄膿やいうとおる。画描きは頭悪るかったらアカン。人に聞いたら富士山麓に坪が一銭という所があるそうな、俺はそこでニワトリ飼うたろかと考えてるネン。ドヤ?」(カッコ内引用者註)
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この文章を読むと、なおさら不動谷(西ノ谷)にふられた下落合703番地の風情には思えない。洗い場が見下ろせ、縁側に寝そべって陽なたぽっこができる南向きの日当りのいい2階家、しかも「隣りに曽宮一念氏の画室」がある場所は、どう考えても下落合703番地のある不動谷(西ノ谷)ではなく、曾宮一念アトリエの前に口を開けた諏訪谷の情景に思えてくるのだ。
おかしいおかしいと首をかしげながら、今度は諏訪谷の古い地図を次々とひっくり返していたら、ハタと気がついた。諏訪谷は、1926年(大正15)ごろよりスタートした宅地開発により、昭和に入ってから同谷にある住宅には、すべて下落合727番地という地番がふられるようになる。以前、宮坂勝アトリエClick!の作品記事でも、「火保図」からの引用とともにご紹介したとおりだ。
ところが、大正期以前の地図には同谷の西側半分に、下落合730~731番地という地番が記載されていることが判明した。特に、1911年(明治44)発行の「豊多摩郡落合村」図では、曾宮アトリエ敷地の斜向かいから青柳ヶ原にかけての西側一帯が、下落合730番地とされている。(下落合731番地は未記載) つまり、校友会名簿に記載された「下落合703番地」は、下落合730番地の誤植ではないだろうか。そう考えると、鈴木誠の文章がすみずみまで腑に落ちるのだ。
すなわち、鈴木誠が住んでいた家賃が法外に安い“わけあり物件”=「化け物屋敷」の2階家は、曾宮一念アトリエの斜向かい、諏訪谷の洗い場の上に位置する、陽当たりのいい南向き斜面の上部に建っていたのではないだろうか。この位置なら、曾宮アトリエのまさに「隣り」(斜向かい)であり、佐伯アトリエからもついでに立ち寄れる150mほどの距離になる。そして、鈴木誠の文章にもなんら不自然さを感じないのだ。ちなみに、鈴木誠は「化け物屋敷」でどのような怪奇現象や心霊現象に遭遇しているのか、あるいはどんな「わけあり」の経緯があったのかまでは、残念ながら記録していない。
そして、もうひとつのテーマとして、佐伯祐三は「化け物屋敷」の鈴木誠アトリエを、はたして「下落合風景」シリーズClick!の1作に描いているのではないだろうか。それは、以前にもほんの少し触れたように、曾宮一念アトリエの一部を左端に入れて描いた『セメントの坪(ヘイ)』Click!で、画面の右端にチラリとのぞく2階家の一部こそが鈴木誠の「化け物屋敷」アトリエであり、大正期以前すなわち鈴木誠が結婚して駒込から転居してきたとみられる、当時の下落合730番地にあたる敷地にほかならないからだ。
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1926年(大正15)の夏に制作された『セメントの坪(ヘイ)』は、佐伯祐三が関西を中心とした頒布会でも手離さず、下落合のアトリエで大切に保存しつづけ、1927年(昭和2)6月に開かれた1930年協会第2回展、および同年9月に開催の第14回二科展へ出品した愛着のある自信作だ。その画面には、下落合623番地にあった曾宮一念アトリエと下落合730番地の鈴木誠アトリエの、双方を入れている可能性がきわめて高い。
◆写真上:洗い場の上、諏訪谷の南斜面上にあたる2階家があったあたりの現状。
◆写真中上:上は、1911年(明治44)に作成された「豊多摩郡落合村」図(上)と、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」(下)にみる下落合703番地。中は、1938年(昭和13)に作成された北が左側(上が東)の「火保図」記載の下落合703番地とみられる4棟の住宅。下は、不動谷(西ノ谷)の釣り堀と管理小屋があったあたりの現状で、左手(西側)に見えている大谷石による築垣上の斜面区画が下落合703番地。
◆写真中下:上は、、1911年(明治44)に作成された「豊多摩郡落合村」図(上)と、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」(下)における下落合730番地。中は、諏訪谷の現状で洗い場は赤い屋根の住宅左手(東側)あたりにあった。下は、1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる下落合730番地と703番地の位置関係。
◆写真下:上は、コーラの自販機の向こう側あたりが鈴木誠アトリエとみられる2階家があったあたり。中は、1926年(大正15)8月以前に制作された佐伯祐三の「下音愛風景」シリーズの1作『セメントの坪(ヘイ)』。下は、同作の右端に描かれた2階家の拡大。『セメントの坪(ヘイ)』のカラー画面を、佐伯が得意な股メガネでのぞくと、もうひとつ別のアトリエがぼんやりと浮き上がってくるのだが、それはまた、次の物語……。