わたしは、文学畑の「無頼(ぶらい)」という言葉が好きではない。無頼というのは、寄るべのない身ひとつで暮らしを立て、ときに困窮すれば伝法なことをやらかしながら身すぎ世すぎをしている人間のことをいうのであって、いつでも支援を受けられる故郷の裕福な実家やパトロンを背景に、都会で「好き勝手なことをして暮らしている高等遊民」のことは、無頼とはいわない。
「無頼作家」とか「無頼詩人」とかいう言葉を聞くと、まずマユにツバしたくなるのが常なのだけれど、経歴をよくよく読んでみると故郷の実家が素封家であったり、親兄弟の中に金満家がいたりと、およそ無頼とは無縁でほど遠い、かけ離れた「有頼」の生活をしている人物がけっこう多い。こういう人たちは、親離れできない人とか自立できない人、あるいは「ボクちゃん」Click!などと呼びはするがw、まかりまちがっても芝居の『天保六佳撰』Click!に登場する輩たちのように無頼とはいわない。
上落合742番地に住んだ尾形亀之助Click!も、どこかで「無頼詩人」と呼ばれているらしいのだが、実家は宮城県でも有数の素封家だったらしく、その晩年に没落するまで42年間の生涯にわたり、家からの仕送りをベースに生活をつづけている。もっとも、それぐらいの余裕がないところにしか、文学(芸術)の芽は育たないというのであれば、今日の経済的な“低空飛行”の世相を背景に、ことさら文学が沈滞し隆盛をみない説明もたやすくつくのかもしれないが……。
さて、先ごろ友人から「こんな本を見つけたよ」と、尾形亀之助の詩作で挿画が松本竣介の『美しい街』という本を貸していただいた。もちろん、尾形亀之助と松本竣介はその生涯にわたり、交わったことは一度もないと思われるし、尾形の詩集に松本が挿画を描いたこともないだろう。同書は、2017年(平成29)に夏葉社から初版が出版された新刊本だ。だが、大正期からの上落合2丁目742番地に住んだ尾形と、1936年(昭和11)から下落合4丁目2096番地で暮らした松本とは、ふたりとも落合地域の住人なので、さっそく興味を引かれて読みはじめた。
その中に、松本竣介が野方町168番地に建っていた、荒玉水道Click!の野方配水塔Click!を描いたスケッチが掲載されていた。(冒頭写真) 西落合にお住いの方なら、1928年(昭和3)11月から落合地域への通水がスタートした、野方配水塔正面の窓が穿たれている凸部の角度から、どのあたりから配水塔の方角を向いて描いたのかを、すぐに想定することができるだろう。同スケッチは、1985年(昭和60)に綜合工房から出版された『松本竣介手帖』に収録されているのだが、松本が下落合で暮らすようになってからほどなく、付近を散策しながら見つけて写生した風景の1枚なのかもしれない。
手前に藁葺き農家が描かれているが、その向こう側には建てられたばかりとみられる住宅の切妻が2棟とらえられている。1932年(昭和7)に東京が35区制Click!になり淀橋区が成立すると、地名が落合町葛ヶ谷から西落合に変わっているが、スケッチは西落合1丁目403番地(旧・葛ヶ谷403番地)あたりの畑地、ないしは空き地から西を向いて描いたものだ。ただし、西落合は1930年(昭和10)前後に大きな地番変更が行われ、住所表記の再編が行われているので、西落合1丁目403番地は、ほどなく西落合1丁目346番地界隈となっている。西落合の藁葺き農家は、1950年代まで残っていて目にすることができた。
さて、『美しい街』に収録された尾形亀之助の作品には、上落合界隈の風情を詠んだとみられる詩がいくつか見られる。「郊外住居」や「十一月の街」などに、落合地域らしい表現を拾うことができる。たとえば、「郊外住居」にはこんな描写がある。
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街へ出て遅くなった
帰り路 肉屋が万国旗をつるして路いっぱいに電灯をつけたまま
ひっそりと寝静まっていた
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この作品は、1926年(大正15)~1927年(昭和2)ごろにつくられているので、「街」へ出るには上落合から中央線の東中野駅Click!まで歩いて新宿へ出たか、あるいは1927年(昭和2)4月に西武電鉄Click!が開通しているので、自邸から直線距離で170mほどの近くにある、中井駅から山手線の土手際にある高田馬場仮駅Click!に出たか、微妙な時期にあたる。前者だとすれば、この情景は東中野駅から上落合側(北側)へとつづく商店街だし、後者だとすれば中井駅前から寺斉橋をわたるあたりの商店街だが、時期的にみれば東中野駅からの「帰り路」のような気がしている。
また、「夜がさみしい」には次のような一節がある。
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電車の音が遠くから聞えてくると急に夜が糸のように細長くなって
その端に電車がゆわえついている
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「ゆわえつけられている」ないしは「ゆわえられている」というところ、少しおかしな表現だが、この「電車の音」は遠くから聞えるので、ゆはり中央線だろうか。同線の東中野駅と尾形亀之助の自宅は、直線距離でちょうど500mほどだ。もし、「電車の音」が西武線だとすれば、かなり「近く」に聴こえていなければならない。
「坐って見ている」には、近くの銭湯の煙突が登場している。
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風が吹いていない
湯屋の屋根と煙突と蝶
葉のうすれた梅の木
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下落合742番地の尾形邸は、妙正寺川へと下る北向き斜面の丘上、また西の字(あざ)栗原へと緩やかに下る坂の上に建っていた。そこから煙突や屋根まで含めて見下ろせる銭湯は、目の前にあった上落合720番地の「鶴ノ湯」だ。寺斎橋を南にわたって、すぐ右手にあった銭湯で、現在では敷地が山手通りの高架下になってしまっている。おそらく、部屋の窓ないしは縁側から「坐って見てい」たのだろう。
また、「昼寝が夢を置いていった」には、上落合に多かった原っぱが登場している。
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原には昼顔が咲いている
原には斜に陽ざしが落ちる
森の中に
目白が鳴いていた
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同じ上落合に住んだ尾崎翠Click!の作品にも、いくつかの「原」Click!が登場しているが、大正末から昭和初期にかけての上落合は、水田や麦畑などの畑地が次々とつぶされて耕地整理が進み、住宅が建設される前の原っぱがあちこちに散在していた。これは、松本竣介が野方配水塔を描いた西落合でも、同様の風景が拡がっていたはずだ。
最後に、「十一月の街」を引用してみよう。
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街が低くくぼんで夕陽が溜っている
遠く西方に黒い富士山がある
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尾形亀之助邸は、北向き斜面の上にあるが西側へもやや傾斜しており、南の接道は西へ向けてだらだらと下っている。自宅の庭あたりから暮れなずむ西側を見やると、妙正寺川に沿った上落合の栗原から三輪(みのわ)にかけて、やや低くくぼんで見えただろう。そして、視界の左手にはシルエットになった富士山を黒々と見ることができたはずだ。
時期は少しずれるが、1934年(昭和9)に上落合2丁目740番地へ宮本百合子Click!が転居してくる。上落合2丁目742番地の尾形亀之助邸から、南北の小道をはさんだ3~4軒北寄りの家で落合第二小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)のすぐ南側に接した丘の上だ。そのときまで、もし尾形が同所に住んでいたとしても、「高等遊民」の詩人とプロレタリア作家とでは水と油で、お互い交流することはまずなかったのではないか。
◆写真上:尾形亀之助『美しき街』の挿画、松本竣介の野方配水塔スケッチ。西落合1丁目403番地(のち346番地)の旧道沿いから、配水塔を描いているとみられる。
◆写真中上:上は、松本竣介の描画ポイントあたりから野方配水塔を眺めた現状。中は、1936年(昭和11/上)と1947年(昭和22/下)の空中写真にみる描画ポイント。下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる地番変更後の描画ポイントあたり。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)に撮影された野方配水塔と敷設されて間もない新青梅街道。(「おちあいよろず写真館」より) 中は、1955年(昭和30)ごろ撮影された茅葺き農家や畑地とモダン住宅が混在する西落合3丁目(旧・西落合1丁目)界隈。下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる地番変更後の尾形亀之助邸とその周辺。
◆写真下:上は、西に向かって下り坂になる旧・上落合2丁目742番地の尾形亀之助邸跡。中は、2017年(平成29)に出版された尾形亀之助『美しき街』(夏葉社/上左)と尾形亀之助(上右)、1985年(昭和60)出版の松本竣介『松本竣介手帖』(綜合工房/下左)と画室の松本竣介(下右)。下は、1922年(大正11)に制作された尾形亀之助『化粧』。