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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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巡査も見て見ぬふりの闘鶏賭博。

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JA全農たまご.jpg
 わたしは競輪や競馬、競艇、パチンコ、スロットなどのギャンブル類はほとんどまったくやらない。競馬はときどきTVで見るけれど、アラブやサラブが全力疾走するのを無性に見たくなるからで、馬は賭けるよりも実際にかわいがったり、乗って走りまわるClick!ほうが好きだ。でも、昔から唯一好きなゲームがある。高校時代からやめられない麻雀だ。
 わたしの両親は、ギャンブルと名のつくものがすべて大キライだった。わたしが高校時代に、家庭麻雀をやろうといったら「とんでもない!」と、ひどく怒られた。まあ、親父は超マジメかつ謹厳実直な公務員だったので、賭けごとにつながるようなゲームには強い嫌悪感を感じていたのだろう。神奈川県内の建設・土木・施設群の設計を担当するという仕事がら、梅雨どきや暮れになるとゼネコンから中元や歳暮が次々と送られてくるのだが、それを玄関先ですべて例外なく突っ返していたのを憶えている。ときに配達した郵便局員が怒ってしまい、「返送するなら、改めて郵便局から発送してほしい」と、玄関先で親父やお袋とケンカになることさえあった。酒を1滴も飲めない親父には、もちろん接待などきかなかったので、建設会社は盆暮れの贈答に注力したものだろうか。
 ことほどさような家庭環境だったので、わたしが麻雀を習ったのは高校のクラス担任からだった。学校の勉強は、授業以外にはほとんどしなかったが、担任の教師からは自宅にまで遊びにいって麻雀を教えてもらった。学生時代も、友人たちとけっこう徹夜でゲームをやったものだが、結婚してからは毎週のように、麻雀大会がわが家で開かれることになった。連れ合いの親父さんが大の麻雀好きで、ほとんど下落合のわたしの家へ義母とともに入りびたりになったからだ。
 義父Click!と下落合との濃いつながりもあったせいか、この地域が懐かしかったのだろう。東京大空襲Click!の負傷者を、第1師団のトラックで下町から国際聖母病院Click!へピストン輸送をしたときから、義父と下落合のつながりは戦後もしばらくつづいていたようだ。義父は、二二六事件Click!の直後に第1師団の麻布1連隊に徴兵されて出征しているが、当時の自宅も麻布(現・六本木)にあった。「六本木のキン坊といやぁ、当時は界隈でちったぁ知られたもんよ」と、肩をそびやかしてイキがっていたけれど、確かに麻雀はめっぽう強かった。わたしは、3回に一度ぐらいしか勝てなかったように思う。ちなみに、親父と義父とは性格が正反対の水と油で、見ているとおかしかった。どっちが山手人(麻布)だか下町人(日本橋)だか、傍からは皆目わからない摩訶不思議なふたりだった。
近郊農家01.JPG 近郊農家02.JPG
近郊農家03.JPG 近郊農家04.JPG
 さて、落合地域でも賭けごとはけっこう盛んだった。といっても、大正期以前のことだ。地付きの方々に取材していると、「闘鶏」の話がどこかで出てくることが多い。大正期の落合地域には、関東大震災Click!が起きるまで、江戸期からの農家がいまだあちこちに散在していた。そこではニワトリClick!が飼育され、新鮮な鶏卵が東京市街地へ出荷されていた。余裕のある農家では養鶏場を建て、大規模な鶏卵生産の事業にも乗りだしていたらしい。佐伯祐三Click!アトリエClick!南東側にも、のちにハーフティンバーのオシャレな中島邸(早川邸)Click!となる敷地に、小規模な養鶏場Click!が開設されていた。この養鶏場は、少なくとも大正末までつづいている。いまでも、聖母坂には農協の全国鶏卵センター(現・JA全農たまご)が残っているけれど、昔からの名残りなのだろう。
 付近の農家で飼われていたのは、産卵を目的としたニワトリだけではなかった。軍鶏(シャモ)と呼ばれる、闘鶏用のニワトリも数多く飼育されていた。そして、落合地域では定期的に闘鶏大会が開催され、そこでは少なからぬ金額の賭博が行なわれていた。大阪の河内地域を舞台にした、今東光の小説などにも闘鶏の描写がしばしば出てくるけれど、闘鶏は江戸期から農村で行われていた全国的な娯楽のひとつだったと思われる。農家では、シャモは特別ないいエサを与えられ、少しでも体形が大きくて強くなるよう、闘鶏に備えて大事にだいじに育てられた。
 もちろん、大正時代だろうと現代だろうと闘鶏賭博は明らかな違法行為で、賭博の現場を見つかれば関係者は即全員が現行犯逮捕される・・・はずなのだが、農村の数少ない昔ながらの娯楽のひとつということで、地域を巡回する警察官の目をあまり惹かないよう地味で目立たなく開催すれば、なんとか大目に見てくれたようだ。中には、取り締まるはずの地元交番の警察官がこっそり賭けに参加していたケースもあったようで、警察でもあまり厳密に追及・取り締まりをすると逆にヤブヘビとなり、内部の不祥事が露見しかねないので、あらかた見て見ぬふりが多かったものだろうか。
伊藤若冲「大鶏雌雄図」1759.jpg 伊藤若冲「南天雄鶏図」1761.jpg
 シャモには、ふつうのニワトリとはまったく異なり小麦や糠、野菜類のほか小魚の粉末、焼いたウナギの頭、生卵の黄身などがエサとして特別に与えられた。ヒナたちが育っていく過程で、力強く体形も大きなシャモが選ばれ、数羽が闘鶏用として飼育されることになる。そして、シャモがもっとも元気になる秋口になると、あちこちの農家から“ケンカ場”と呼ばれる闘鶏場へ、手塩にかけて育てた1羽を抱きながら三々五々集まってくる。ケンカ場には、蓆(むしろ)を周囲にめぐらした“土俵”が造られており、シャモたちはその中で死闘を繰り広げることになる。ケンカをする前のシャモには、飼い主が口に含んだ水を噴きかけて“気合い”を入れたそうだ。
 シャモのオスは、本来が戦闘的な性格なので土俵の中に相手を確認すると、すぐにも蹴り合いやつつき合い、羽打ち合いのケンカをはじめる。シャモは、相手の鶏冠(とさか)や頬、首筋をねらって足の爪で蹴ったり、くちばしでつついたりするので、双方がいつまでも戦意喪失しないとお互い血だらけになって、しまいには死ぬほど弱ってしまうらしい。また、自分よりも強い相手だと認識したシャモは、土俵の中を逃げまわるか片隅にうずくまってしまうので、すぐに勝負はついたようだ。そのような弱いシャモは、さっそく晩の鶏鍋にされてしまっただろう。一方、勝ったシャモはていねいに治療され次の闘鶏に備えるか、次世代の種軍鶏として生かされた。
 観客はシャモたちの死闘を見ながら興奮し、どちらが勝つかカネを賭け合うのだけれど、巡査に見つかると面倒なことにもなりかねないので、ケンカ場は畑の物置き裏や納屋の陰など目立たないところへ設置された。そして、開催日や闘鶏場所などのスケジュールは、仲間内の口づてでそのつどコッソリと連絡が取られていた。シャモを着物の前に入れ、胸元からチョコンと首だけ出して持ち運ぶのも全国共通のようで、巡査に見とがめられるのを避けるためのスタイルなのだろう。
養鶏場1925.jpg 下落合658養鶏場跡.jpg
 シャモを使った闘鶏は、もちろん男の賭博だが、女性だけの博打(ばくち)も昔の近郊農村では盛んだった。といっても、若くて働き盛りの女性は参加権がなかったらしく、歳をとって余裕ができたお婆さんたちが主体だったようだ。寄り合い(という名の賭場なのだが)に集まった人数よりも、1本だけ多い紐(ひも)の束をこしらえる。そして、その中に1本だけ当たりの印をつけた紐を混ぜ、参加者が選んだ紐にそれぞれカネを賭ける・・・という単純な博打だ。この博打には、胴元役をこなすお婆さんが必要だが、有力者の妻や地付きの女性が引き受けていたらしい。

◆写真上:現在でも聖母坂には、全国農業協同組合連合会(JA)の全農たまご(株)がある。
◆写真中上:東京近郊にいまでも残る農家や、大きな庄屋(名主)屋敷の長屋門(下右)。
◆写真中下:ともに伊藤若冲の『動植綵絵』シリーズ作品で、軍鶏(シャモ)を描いた1959年(宝暦9)制作の「大鶏雌雄図」()と1761年(宝暦11年)制作の「南天雄鶏図」()。
◆写真下は、1925年(大正14)に作成された「下落合及長崎一部案内図」(出前地図/中央版)Click!にみる佐伯アトリエの南西側にあった養鶏場。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる佐伯邸周辺で、養鶏場跡に建っていた中島邸(のち早崎邸)の大きな西洋館が空襲で焼けている。


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