そろそろ梅雨入りの季節になるころ、落合地域やその周辺では麦がたわわに実る“麦秋”を迎え、あちこちで麦刈りの風景が見られただろう。牧野虎雄が1933年(昭和8)に描いた『麦秋』は、いまだアトリエがお隣りの長崎町1721番地にあったころの作品だけれど、この近辺の刈り入れどきを迎えた麦畑Click!の情景を描いている画面だと思われるのだ。
収穫を終えた麦は、梅雨が明けるころから麦打ち(棒打ち)の作業にかかる。刈り取った麦の穂から、棒でたたいて麦の実を落とす作業だが、真夏の炎天下での仕事なので汗まみれになり、水をいくら飲んでも足りなくなるほど、農作業の中でもとびきりたいへんな重労働だった。さらに、麦の穂には「ノゲ」と呼ばれる針のような硬い毛がついており、麦打ちをするとそれが飛んで肌にチクチク刺さって痛いため、真夏に肌をできるだけ隠した服装で作業をしなければならなかった。1日が終わるころには、汗もまったく出なくなり身体じゅうの水分が抜けきれ、身につけているあらゆる着物が汗の塩でパリパリになるほどだったらしい。
そんな過酷な作業を、できるだけ気をまぎらせながら陽気にリズムよくこなすために、いろいろな労働歌「麦棒打ち歌」が生まれた。落合地域や周辺域にも、いくつかの棒打ち歌が伝わっている。これらの歌は多くの場合、男衆と女衆のかけ合いで唄われることが多かった。
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お前さんとならば、どこまでも/親を捨て、この世が、暗(やみ)になるとも、
十七、八の麦棒打ちは、くるり棒が折れるか/麦が打てるか
大山先きに、雲が出た、あの雲は/雨か風か、嵐か
お前さんと色の、始まりは/五匁目の、煙草が色の始まり
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ここに出てくる大山(おおやま)とは、江戸期に「大山参り」の参詣旅で人気を集めた、神奈川県の丹沢山塊にある大山Click!のことだ。この地域では、富士講Click!とともに大山講も盛んだった。現在でも晴れていれば、東京から富士山や丹沢、足柄、箱根の山並みがハッキリと見えるが、当時はもっとクッキリとした山容が眺められたのだろう。また、男女のかけ合い歌のため、ちょっと色っぽい「棒打ち歌」も伝わっている。おそらく、幕末から明治期ごろにかけて唄われだしたものだろう。
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お前さんの年はなんの年/十六でささげの年、なりごろ
新宿町に咲く花は/朝はしおれて、昼蕾んで、夜開く
のし込め、のし込め
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ここでいう新宿町とは、現在の新宿駅周辺(旧・淀橋町)のことではなく、江戸期から甲州街道の最初の宿場町(のち大江戸の市街地編入とともに廃止)として栄えた、四谷に近い内藤新宿(ないとうしんしゅく)町のことだ。その西外れには遊郭があり、その様子はここでも岡本綺堂が書いた芝居『新宿夜話』Click!でご紹介している。明治以降も、同所は歓楽街として隆盛をつづけ、のちにいわゆる「赤線地帯」が廃止になるのは、1958年(昭和33)になってからのことだ。
落合地域や周辺域で作られていたのは、小麦に大麦、それにビール麦の3種類だった。10月の終りから11月にかけ、あちこちの田畑で肥溜めから肥料(ダラ肥)をまき、麦まきをする光景が見られたようだ。12月になると、土から顔を出した芽に「土寄せ」や「中耕い」の作業が行われる。その後、麦は冬の間にどんどん伸びるのだが、厳寒期の霜で麦株が浮きあがって寒さで枯死しないよう、足で株を踏んで歩くいわゆる「麦踏み」作業が行われた。だいたい12月の下旬から3月ぐらいにかけて、麦踏みに追肥、中耕い、土寄せの各作業が延々とつづくことになる。
春になると、一面の青々とした麦畑が出現するのだが、このころには田畑に植えられたのがなんの麦なのか、一目瞭然になったという。葉が濃い深緑でノゲの長いのが小麦、ふつうの緑色の葉でノゲが短めなのは大麦、そして葉の緑が淡くてノゲが長めなのはビール麦で、遠くからでも植えられた麦の種類が識別できたらしい。こうして、穂がよく実り葉も黄褐色に変わった麦秋の畑では、梅雨入りをする前に麦刈りが行なわれる。刈りとった麦は、束ねられて農家の軒下や物置に置かれ、次には「麦こき」と呼ばれる穂を刈りとる作業を待つことになる。
この一連の作業は、農家の働き手が集中して行える仕事ではなく、他の農作業と並行して行う片手間の仕事だった。当然のことだが、麦を収穫し終えた田畑へは、稲の苗を植えたり野菜の種をまいたりしなければならない。落合地域では、水はけがよい田では米作りと麦作りの二毛作が可能だったが、水はけの悪い場所は畑地となり、夏から秋にかけては野菜を栽培し、晩秋から初夏にかけては麦を栽培していた農家が多かった。したがって、初夏から秋にかけては目がまわるほどの忙しさで、どこの農家でも人手が足りずに“助っ人”と呼ばれる、ふだんは農業をしていない人々(ただし農作業の経験はある臨時のアルバイト)を集めては、日雇いで作業を手伝ってもらうことも多かったようだ。会社や工場へ勤めている通勤人でも、農繁期となると会社を休んで近所の農作業を手伝う風景が、昭和初期のころまで見られた。
1週間ほどつづく「麦こき」が終わると、ご紹介した棒打ち歌の「麦打ち(棒打ち)」作業が炎天下でつづく。竹の棒のアタマに金具を取りつけ、そこへ1m前後の丸太や鉄板の端を固定して、それがうまく回転するように細工をする。竹棒をうまく操りながら、丸太や鉄板を地面に打ちおろしてたたきつける。地面には、「麦こき」を終えた麦の穂が敷きつめられており、穂から麦の実を分離させる作業だった。こうして収穫された麦の実は四斗樽で保管され、天気のよい日には天日干しで乾燥と殺菌が繰り返される。そして、ようやく出荷の俵詰め作業がはじまるのだ。
半年以上かかって苦労を重ねる麦作りだが、1935年(昭和10)前後の物価では1石(約165kg)あたりの米が34円70銭なのに対し、大麦は19円80銭と半値強の価格だった。これは市場価格なので、農家から米穀店へと売られる際の原価は、もっと低い額だったろう。その中から種代やダラ肥以外の肥料代、人を雇えば手間賃、農機具を借りれば借り賃などを差し引けば、手もとにはいくらも残らなかったのではないか。麦を俵詰めのまま売ったのでは、ほとんど値が上がらなかったので、水車場Click!で粉に挽いて小麦粉や大麦粉にしてから卸すという、今日的な表現をすれば新たな付加価値をつけて販売する農家も多かったらしい。中でも小麦粉は、池袋駅の南側に東京パンの大きな工場Click!があったので、時代とともに需要が増えたのではないだろうか。
でも、関東大震災Click!を境に東京郊外の宅地化が急速に進むと、田畑を苦労しながら耕作するよりも田畑をつぶして宅地にし、その借地料あるいは建てた借家の賃料で暮らしたほうが、よほどラクで実入りのいい時代がやってくる。田畑を前に、「こんなこと、バカバカしくてやってらんねえべ」と感じた農家も多かったろう。大震災のあと、またたく間に住宅街化の波が、落合地域とその周辺へ押し寄せてきた。着物を汗の塩だらけにして働いていた農家は、いつの間にか、自分たちが付近に良好な住宅地をふんだんに抱えた、大地主へと変貌していることに気づいたのだ。
◆写真上:いまに残る下落合の畑地では、さすがに麦作は行われていない。
◆写真中上:付近を描いたとみられる、1933年(昭和8)に制作された牧野虎雄『麦秋』。
◆写真中下:上は、落合地域でも多く栽培された小麦(左)と大麦(右)。下左は、大正期には盛んに栽培されたビール麦。下右は、大正から昭和初期のころにみられた東京郊外の農民スタイル。1982年(昭和52)に出版された、細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田の昔語り』より。
◆写真下:左は、収穫した麦を粉にするのに使われた「稲葉の水車」近くの水車橋。右は、都心を少し離れれば現在でも住宅街の中に畑地を多く見つけることができる。