肉食獣のオオカミが、塩を欲しがるという傾向は世界じゅうで記録されている。米国では、海水をなめるために山から下りたオオカミの群れが、わざわざ海岸線まで40kmも夜間移動するのが観察されている。肉食のオオカミの腸の長さは、体調の4倍ほどの長さにすぎず、雑食性のイヌに比べてかなり短い。塩分が不足気味になるのか、オオカミが塩を欲しがるのは国や地域の別なく、世界に共通する特徴のようだ。
日本各地にも、ニホンオオカミClick!に関連して多種多様な伝承が残っている。山地では岩塩を探してなめるとか、人間がオシッコをした木の葉や土をなめるといった昔話だ。人間が弁当やオシッコなど、なんらかの「塩分」を持っているのをよく知るニホンオオカミが、それを目当てに人のあとを尾けてくるのを、オオカミに襲われそうになった……と解釈したとしても不思議ではない。
以前の記事Click!にも書いたように、神経質で警戒心の強いニホンオオカミが人を襲ったケースはきわめて少ない。むしろ、江戸期に野犬の群れをニホンオオカミと見まちがえて、幕府や藩に「書き上げ」(報告)をしていた事例のほうが圧倒的に多そうだ。また、「ニホンオオカミ」と「ヤマイヌ」のちがいが判然とせず、山にいるイヌに似た動物はすべてニホンオオカミ=ヤマイヌと混同した可能性も高い。
シーボルトが持ち帰り、ライデン博物館に展示されている「ニホンオオカミ」とされる動物のはく製標本(シーボルトは2種の個体を持ち帰ったが、博物館側が同一種だと安易に判断してもう1種を廃棄した)と、日本に伝わるやや大きめなニホンオオカミの毛皮のDNAが一致しない。ニホンオオカミと同様に、明治期のストリキニーネで絶滅したとされるヤマイヌ(コヨーテやジャッカルに近似する動物)のいたことが、近年の研究では指摘されている。また、江戸期の記録の多くが、ニホンオオカミとヤマイヌを混同していたフシも見える。ライデン博物館に展示されているのは、どうやらニホンオオカミではなくヤマイヌらしい……というところまで解明が進んできた。
さて、完全な肉食獣のニホンオオカミClick!は、「塩分」を好むというテーマに話をもどそう。1993年(平成5)にさきたま出版会から刊行された柳内賢治『幻のニホンオオカミ』には、次のような伝承や逸話が紹介されている。
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昔の農家では、縁の下に小便溜まりがしつらえてあって、そこへオオカミが深夜小便を舐めに来たという話もある。しかし、オオカミが人間の小便を舐めるようになるのは、病気のかかり始めだという説もあるから注意を要する。/またオオカミは、神社仏閣や古い民家の床下などに発生するシラネバを好んで舐めた。シラネバとは、雨期などに湿った土の上に発生する、白がかった一種の菌ののことである。/家が焼けると味噌が焦げ、特異な臭いを発する。オオカミがそれを嗅ぎつけて集まってきたという昔話もあった。(略)/同じような話であるが、信州などにおいては、夜間味噌を入れてある蔵の戸を開けることを固く禁じてていたそうである。(略)/オオカミはそれほどまでに塩を欲しがるので、塩を携帯して道中する者がねらわれた。そういう場合昔の人は、道中必ずタバコや松明など火の気のある物を所持して行くように心掛けたものである。
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上記の伝承は、おそらく江戸時代からのものとみられるので、「塩分」欲しさに集まってきたのがニホンオオカミだったのか、それともヤマイヌだったのかははっきりしない。人間をそれほど怖れていないところをみると、イヌに近い種のヤマイヌなのかもしれない。なお、シラネバは粘菌Click!の一種らしいが、どうやら地域の方言名のようなので正式な名称は不明だ。
上落合にも、ニホンオオカミまたはヤマイヌをめぐる面白い昔話が残っている。落合地域は、江戸期から各種の「講」が盛んな土地柄だった。江戸東京では代表的な富士講Click!をはじめ、三峯講、大正講(?信仰内容が不明)、成田講、善光寺講、大師講などが昭和期まで伝えられている。成田講は千葉の成田山新勝寺へ、大師講は神奈川県の川崎大師へ参詣する講中のことだ。ほかにも、江戸期には月見岡八幡Click!の境内に勧請されていた第六天Click!にちなんだ第六天講や、山頂の阿夫利社へ参詣する大山講、道中手形が比較的容易に認可されて関西旅行ができた伊勢講などがあったかもしれない。
この中で、三峯講をめぐる興味深い話が伝わっている。三峯講とは、もちろんニホンオオカミの一大棲息地だった埼玉県秩父の三峯社に参詣する講中のことだ。1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会が刊行した、『昔ばなし』から引用してみよう。
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三峯講は武州三峯神社を信仰するもので「火防せ(ひぶせ)」の神さまでした。大正の終わり頃までは、講中の人は三峯詣りに行き、神社で一晩泊りました。神社で泊っていると、夜中に「山犬」が群れをなして出て来て廊下を歩き廻ったそうです。廊下にお塩を盛っておくと、ペロペロとなめて居たそうです。この講中も昭和の初めになると、普通の参拝人のようになり日帰りでお詣りをしていましたが、戦後なくなってしまいました。
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話者の年齢からすると、この話を古老から聞いた時期とからめて、三峯社で「山犬」が塩をペロペロとなめていたのは、明治末から大正前期あたりのことではないかと思われる。つまり、1905年(明治38年)に絶滅したとされるニホンオオカミ(またはヤマイヌ)が、その後も秩父の山奥で生き残っていた可能性が高いということだ。文中には「廊下」と書かれているが、建物の外周をめぐる回廊のような造りの“縁側”に、秩父連山に棲息していた「山犬」たちは出没していたのかもしれない。
人間の気配がするにもかかわらず、平然と人家に近づいている点を考慮すれば、この動物は警戒心の強いニホンオオカミとは異なる、いわゆるヤマイヌ(ライデン博物館の標本と同一種)だったものだろうか。山に入りこんだ雑食性の野犬の群れにしては、盛り塩をペロペロなめている点が異様だ。それとも、イヌが野生化するとオオカミやヤマイヌと同様に「塩分」を欲しがるものなのだろうか。三峯講は下落合にもあったので、ひょっとすると同様の昔話がどこかに残っているかもしれない。
日本では、過去50年間にわたり確認できない動物は「絶滅」したと規定されているが、確認し写真に撮られているにもかかわらず「それとは気づかれない」まま、「絶滅」扱いされている種もありそうだ。ニホンオオカミあるいは別種であるヤマイヌとされる動物もまた、その事例のような気がしてならない。江戸期からかろうじて生き残っているヤマイヌの写真を見ても、これは「オオカミの特徴を備えていない」とニベもない学者や専門家がいたり(コヨーテやジャッカルはオオカミの特徴を備えてはいない)、ニホンオオカミの写真が撮影されても「謎のイヌ科の動物」という当たり障りのない表現のしかたで逃げ、決して“現場”へ出かけて具体的な確認・検証をしようとはしない。
そういえば25年ぐらい前、タヌキの家族Click!が近所のあちこちにたくさん棲んでるよと、生物学が専門の知り合いに話したら、「新宿に、タヌキが棲息できる環境はない。野犬かハクビシンの見まちがいだろう」と一蹴されたのを思いだす。「そんなこといったって、現実に目の前にいるんだってば」といっても、机上の記録や理論・規定が書かれた“紙”資料を優先する彼にしてみれば、想定の外で「ありえない」ことだったのだろう。だが、それから何年もたたないうちに、東京23区内だけで1,000頭を超えるタヌキの生息が想定されるようになった。
既存の知識や「常識」にしがみついていては、科学(自然・社会・人文科学を問わず)は一歩も前へ進まない。仮説(問題意識)とまではいかなくとも、疑義や疑念があるのなら積極的に現場へ出向いて確認・検証を試みるのが学術的あるいは科学的な手法であり、また科学者や研究者としては最低限に必要な姿勢(思想)ではないだろうか。
なんだか少し脱線気味だけれど、上落合の三峯講中が秩父で遭遇した塩をなめる「山犬」たちは、ニホンオオカミだったのだろうか、それともヤマイヌだったのだろうか? いまでも秩父では、ニホンオオカミまたは近似動物の目撃情報が絶えることはない。
◆写真上:狛犬の代わりに狛狼が迎える、ニホンオオカミを奉った秩父三峰の三峯社。
◆写真中上:上は、大分県の祖母・傾山山中で2000年(平成12)に撮影されたイヌに近似した動物。(西田智『ニホンオオカミは生きている』のグラビアより) 中は、チュウゴクオオカミ。下は、世界に広く分布するタイリクオオカミ。
◆写真中下:上は、1996年(平成8)に秩父山中で撮影されたイヌに近似する動物。(同書より) 中は、北米大陸のコヨーテ。下は、アフリカ大陸のヨコスジジャッカル。.
◆写真下:上は、1849年(嘉永2)制作の国芳『為朝誉十傑』(部分)に描かれた狼。中は、1861年(文久元)制作の国芳『宮本武蔵相州箱根山中狼退治』(3枚綴のうちの2枚)の狼。下は、1886年(明治19)制作の芳年『月百姿 北山月 藤原統秋』(部分)の狼。いずれもニホンオオカミかヤマイヌかが不明で、実物を見ずに想像で描いていると思われる。