さて、どちらが事実だろうか? 以前、向田邦子Click!が巌本真理Click!へのインタビューで「東京大空襲の翌日」、すなわち1945年(昭和20)3月11日に日比谷公会堂でコンサートを開いたエピソードについて、1977年(昭和52)に発行された「家庭画報」2月号掲載の向田のエッセイで紹介していた。ところが、山口玲子の巌本真理へのインタビューでは、同年4月13日夜半に行われた第1次山手空襲Click!の翌日、つまり4月14日に日比谷公会堂でコンサートが開かれたとしている。
巌本真理の疎開(避難)先だった、祖父の家にあたる豊島区西巣鴨653~703番地(旧・西巣鴨町巣鴨庚申塚653~703番地)の巌本善治邸Click!は、東京の市街地から見れば新乃手Click!であり、3月10日の東京大空襲Click!の被害を受けにくい地域だが、同夜のB29は当初の計画エリアを爆撃し終えると、余った焼夷弾を周辺地域にも無差別に投下しているので、その余波を受けて延焼しているのではないかと推測していた。
ところが、1984年(昭和59)に新潮社から出版された山口玲子『巌本真理 生きる意味』には、まったく異なる事実が書かれている。当時は、本郷にあった巌本邸が東京大空襲の6日前、1945年(昭和20)3月4日の局地的な空襲をうけて延焼し、巣鴨の祖父の家へ避難する経緯は同じだ。3月4日の午前8時すぎ、150機のB29が本郷から下谷(上野)地域を爆撃し、4,000戸が罹災し1,000人を超える死傷者が出ている。
記述は、巌本一家が巣鴨庚申塚の祖父・巌本善治邸へ避難した、ほぼ1ヶ月後からはじまる。同所より、少し長いが空襲の様子を引用してみよう。
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一カ月後の四月十三日夜十一時から十四日未明にかけて、再び空襲を受けた。当時の新聞には、「B29百七十機来襲、爆弾焼夷弾を混用、約四時間に亙つて市街地を無差別爆撃せり」と報じられたが、早乙女勝元編『母と子でみる東京大空襲』によれば、この時の空襲は十五日まで続き、東京の西北部と京浜地帯に来襲したB29は延べ七百機、焼失家屋は二十二万戸に達したという。/この空襲によって真理の一家はまたもや焼け出された。バイオリンケース一つを抱えて防空壕にのがれた真理はそのまま、夜の明けるのを待った。その日、四月十四日、真理は日比谷公会堂で演奏することになっていた。午前九時までに消火したと新聞には発表されたが、実際はまだあちこち火がくすぶっていた。電車も止まってしまって、昼すぎになっても動かない。
<井口(基成)さんと演奏会をやることになっていたんで、私、歩いていったんですよ。巣鴨から日比谷公会堂まで。前の晩に家焼けましてね。もう一日がかりみたいで歩いていってやっと新橋のあたりまで行ったら、向うからゾロゾロ歩いてくるんです。それでみんな、何となく私の顔を見るんですよ。なんでだろうと思いました。で、私がそのまま行ったら、その人たちもみんな私の後をゾロゾロついてくる。日比谷公会堂へ行ったら、張り紙がしてあってね、“巌本真理行方不明につき中止”って書いてある。それをはがして演奏会をやりました。ズボンをはいたままで、ずうっと歩いてきたんで足にマメができてしまって>(カッコ内引用者註)
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この一文を読んで、もうカンのいい方はお気づきではないだろうか? 巌本真理は、向田邦子のインタビューで4月13日夜半の第1次山手空襲のことを、「東京大空襲」での出来事として語ってしまっているのだ。
山手空襲に罹災した向田邦子もそうだが、東京では「東京大空襲」といえば1945年(昭和20)3月10日の、一夜にして死者・行方不明者10万人超の膨大な犠牲者を出した、おもに東京東南部の(城)下町をねらった空襲のことをさす。4月と5月の二度にわたる乃手の空襲は、「山手空襲」あるいは「山手大空襲」Click!と表現するのが祖父母の世代からの“お約束”であり、それらを「東京大空襲」とは呼ばない。地元では、空襲直後から地付きの人々の間で一般的につかわれてきている用法であり慣習だ。
巌本真理が「東京大空襲の翌日」と答えてしまったため、向田邦子は当然、同年3月10日の東京大空襲をイメージし、その翌日の日比谷公会堂における演奏会は3月11日の出来事だという前提で、あとの記述を進めている。わたしも同様に、「東京大空襲の翌日」といえば、3月11日にちがいないので、その光景をイメージしながら記事を書いた。ところが、巌本真理は地元における「東京大空襲」と「山手大空襲」の呼称や規定を知らなかったか、あるいは東京で遭った空襲をすべてひっくるめて「東京大空襲」と大雑把に表現したものかは不明だが(近年、そのように混同し曖昧な表現をする人たちが増えている)、向田邦子の認識との間で少なからず齟齬が生じてしまったのだ。
念のため、米軍のF13Click!が撮影した爆撃効果測定用の空中写真でも確認しておこう。1945年(昭和20)3月10日午前10時35分ごろ、東京上空で撮影された空中写真の1枚に、遠景だがかろうじて巣鴨地域がとらえられた画面が残っている。それを見ると、どうやら同地域は空襲の被害を受けていないように見える。ところが、同年5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!の8日前、5月17日に撮影された爆撃効果測定用の空中写真を参照すると、巣鴨庚申塚界隈が焼け野原になっているのが見える。すなわち、巌本真理の避難先だった同地域は、同年4月13日夜半の第1次山手空襲で被災していることが明らかだ。
巌本真理が、日比谷公会堂へ徒歩で向かったのは第1次山手空襲の翌日、1945年(昭和20)4月14日(土)のことであり、東京大空襲から1ヶ月余がすぎた(城)下町界隈では、すでに余燼はくすぶってはいなかったはずだ。あちこちの焼跡には、疎開先のない地付きの人々による粗末なバラック小屋が建ちはじめていたかもしれない。だから、下町方面の人々は生きのびた幸運を噛みしめながら、いまだ食糧に飢えていたとはいえ、ヴァイオリンコンサートへ出かけてくる“余裕”が生れていたのだ。
『巌本真理 生きる意味』には、巌本真理が生れた巣鴨庚申塚の邸についての興味深い記述もある。彼女の生家は、巌本善治が運営していた明治女学校の校舎に使われていた、真四角の西洋館だったというのだ。同書より、再び引用してみよう。
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(巌本真理の)住居は東京・巣鴨庚申塚の明治女学校跡にあった。かつてはこの辺り一帯、旧中山道に接してざっと五千坪あった土地が、廃校後は五百坪になっていた。内庭をかこんで三棟あり、善治は鉤の手の広い和風平屋建に住んでいた。東に隣接する二階建西洋館が、真理の両親の新居に当てられた。かつては明治女学校の教室に使われた、日本に唯一というスコットランド風の建物だったという。といっても格別の趣きはなく、殺風景な真四角の家で、一階は応接室と食堂の二部屋に、台所、風呂がつき、玄関脇の螺旋階段を上ると二階が寝室と書斎になっていた。(カッコ内引用者註)
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いまに伝わる明治女学校の外観写真に、校舎の一隅だろうか正方形とみられる西洋館をとらえた写真がある。明治女学校の南西側に隣接した巌本善治邸の敷地に、部材を解体して移築したのか、あるいは床下にコロをあてがい“曳き家”をしたのかは不明だが、この建物がのちに巌本一家が暮らし、巌本真理が生まれた西洋館である可能性が高い。
◆写真上:またまた古いステーショナリーを集め、向田邦子ドラマClick!のタイトルバック風に。親父の遺品を整理していたら、満州までの郵便料金や航空郵便の情報などが掲載されたキング切手印紙葉書入Click!や、親父の学生時代のノート(ドイツ語)が出てきた。右端は、第5回帝展(1924年)で販売された二瓶等Click!の入選絵葉書『裸女』。
◆写真中上:上は、巌本真理のブロマイド(左)と東京藝術大学の教授時代に撮られたポートレート(右)。下は、明治女学校の記念碑が建つ巌本善治邸の敷地跡。
◆写真中下:上は、空襲前の1944年(昭和19)に撮影された巌本善治邸の敷地界隈。中は、1945年(昭和20)3月10日午前10時35分ごろに撮影された東京市街地。(城)下町方面は焼け野原だが、乃手地域の巣鴨界隈は空襲を受けていないのが判然としている。下は、第2次山手空襲(5月25日夜半)のわずか8日前=同年5月17日に撮影された巣鴨庚申塚地域。4月13日の第1次山手空襲で、すでに被爆していたのがわかる。
◆写真下:上は、王子電車(現・都電荒川線)の庚申塚電停。中左は、1984年(昭和59)出版の山口玲子『巌本真理 生きる意味』(新潮社)。中右は、1938年(昭和13)ごろ撮影の巌本真理。下は、巌本真理の生家とみられる明治女学校時代の真四角な西洋館校舎。