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以前、大正期から昭和初期に建てられた、下落合のコンクリート構造物Click!について書いたことがある。大正後期から、一般の住宅Click!や宅地造成でセメントClick!が多用されるようになった。おもにコンクリート塀を観察した事例が多かったが、多摩川の砂利と秩父のセメント資材Click!を運搬する、高田馬場駅の南に西武鉄道Click!が設置した建設資材・砂利置き場Click!や、大正期に同社が全面協力した村山貯水池Click!(多摩湖)の建設に用いられたコンクリート堤防Click!などを観察して記事にしている。
今回は、旧・陸軍施設が集中し、新宿が戦前に「軍都」Click!と呼ばれるきっかけとなった、戸山ヶ原Click!について細かく観察してみたい。ただし、山手線をはさみ東西に展開していた陸軍施設Click!の構造物Click!については、これまでも何度か取り上げ、素材のコンクリートが壊されたあとの残滓については、何度か記事Click!に取りあげてきているので、きょうは山手線東側の戸山ヶ原Click!に残るコンクリートの構造物について、改めて細かく観察してみたい。
まず、明治期から設置されていた陸軍戸山学校Click!と、古くからの陸軍軍楽学校の周辺を観察してみよう。初期の陸軍戸山学校は、大正期まではのちの陸軍衛戍病院Click!(現・国際医療センター)の位置から、大久保通り沿いに箱根山Click!の南東下ぐらいまで細長くつづいていた。戸山学校が、東側の敷地を陸軍衛戍病院にゆずり、大久保通りから箱根山の東側一帯へ広く、そして深く展開するのは、大正末から昭和期に入ってからのことだ。また、箱根山をはさんで戸山学校の西側に、陸軍幼年学校の校舎が建てられるのも大正末以降のことだ。
軍楽学校と軍楽隊は混同されがちだが、軍楽学校の西側の箱根山東山麓、戸山学校敷地の北側へ、昭和初期に軍楽隊の兵舎が建設されている。また、陸軍衛戍病院の北側へ陸軍軍医学校を建設する際、戸山ヶ原の大きな谷戸が中途で埋め立てられ、衛戍病院と軍医学校の往来をしやすくしている。ちょうど、下落合の第一文化村Click!における前谷戸の追加造成Click!と同様に、谷戸の途中が土砂で埋められてしまったため、湧水源にあたる谷戸の突き当たりの谷間は、ほぼそのままの地形で残されている。現在、国立健康・栄養研究所の南側敷地が、急に凹状にへこんでいるのはそのせいだ。このあたりの土木工事は、戸山学校が西側へ移動するとともに衛戍病院が建設される、大正末から昭和初期にかけて行なわれている可能性が高い。
さっそく、その付近のコンクリートの残滓を観察すると、戸山学校の敷地や軍楽学校、あるいは軍楽隊のあたりには、それらしい遺物をいくつか確認することができる。まず、昭和初期に建てられた将校会議室Click!(現・戸山教会)の西側には、随所に玉砂利の粒が大きいコンクリート片が散らばっている。当時は、鉄筋を支柱あるいは芯にしてコンクリートの構造物を造るよりも、多摩川の良質で大きめな玉砂利をふんだんに使い、セメントとともにそのまま固めて用いる例が少なくなかった。場所からいえば、これらの玉砂利(というか小石と表現したほうが適切な大きさだ)を用いたコンクリートの残滓は、戸山学校の校舎かその基礎、外壁、あるいは塀などに使われていたものではないだろうか。
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その戸山学校跡から、箱根山を左まわりへ西へ歩くと、軍楽隊兵舎跡と野外音楽堂跡に出る。軍楽隊の野外音楽堂は1943年(昭和18)3月に竣工したものだが、実はそれ以前から軍楽学校の練習場として、この窪地は使用されていたのではないだろうか。なぜなら、同音楽堂へと下る階段のコンクリートが、意外に古いとみられるからだ。この階段は、表面を薄いコンクリートでコーティングされているが、その下からのぞくコンクリート階段は、やはり大粒の玉砂利が用いられていて古い仕様だ。つまり、表面を覆うコンクリートは、階段を設置するのと同時の可能性もあるが、野外音楽堂ができた際、あるいは後世に追加でコーティングされたのかもしれず、本来のコンクリート階段はその下層に塗りこめられている可能性がある。
大正期から昭和初期にかけてのコンクリート構造物には、大粒で良質な玉砂利がふんだんに使われている。ところが、昭和に入ってしばらくすると、河川で採取できる良質な玉砂利がなかなか採れずに高騰し、セメントとともに混ぜる砂利は、より安価な小粒のものへと変わっていく。戦時中から戦後にかけてはさらに不足し、小粒の砂のような砂利が用いられるようになった。戦後は、河川の良質な砂利(小粒でさえ)を手に入れるのが困難となり、やむをえず海の砂利を用いることが多いため、塩分で内部の鉄筋が腐食しやすいという課題が浮上しているのは周知のとおりだ。
つまり、見分け方のひとつの目安として、大粒の良質な玉砂利をふんだんに用いて、芯として鉄筋が用いられていないコンクリート構造物は年代が古く、その砂利が細かくなるほど新しい……という、たいへん大雑把なとらえ方だが、あながち的外れではない観察法ができることになる。もっとも、昭和10年代に建設された大金持ちの住宅には、良質な玉砂利が惜しげもなく使われているだろうし、経費節約のために小粒の砂利を用いた大正初期のコンクリート建築もあるので、いちがいに決めつけるわけにはいかない。そしてもうひとつ、それがなんらかの軍事施設であれば、少しぐらい経費がかさんでもコンクリートに高価な玉砂利を混ぜることには、なんら支障がなかったという事情も考慮しなければならないだろう。
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さて、つづいて戸山学校と衛戍病院の北側一帯を見てみよう。このあたりは、昭和10年代に入ると次々に陸軍施設(おもに秘匿を要する特別施設)が建てられるエリアだ。戸山学校の北側には、陸軍中野学校Click!の統括機関である兵務局分室Click!(通称ヤマ)が設置されている。また、軍医学校の西側にある谷間には、防疫研究室や細菌研究室Click!(731部隊の本拠地)が設置されている。だが、10年ほど前に歩いて写真に収めた、戸山学校北側のコンクリートブロックを重ねた築垣が、コンクリートの新しい擁壁に変わってしまっていた。かろうじて、衛戍病院の北側に少し残されていたが、こちらの築垣は西側の箱根山までつづいていた築垣に比べやや新しそうだ。
防疫研究室や細菌研究室と兵務局分室(ヤマ)を仕切っていたコンクリート塀はそのままだが、10年ほど前に撮影した随所に転がる大粒の玉砂利を用いたコンクリート片は、すっかり片づけられてなくなっていた。元・看護師の証言から、敗戦と同時に戸山ヶ原の随所へ埋められたとみられる人骨標本の第2次発掘調査の際に、散らばるコンクリート片を集めて廃棄したものだろうか? 衛戍病院の西側につづくコンクリート塀も、のちに補修されているとはいえ古そうだ。ただし、用いている砂利がかなり細かいため、昭和期に入ってからの建築ではないかと思われる。この塀の上には、かつて新しいコンクリートを重ねたり、新たなブロックを積み上げたりした痕跡が残っている。
防疫研究室や細菌研究室の跡にできた、戸山公園多目的広場も歩きまわってみたかったが、あいにく少年野球の試合日でゆっくり見学することができなかった。ほかにも、戸山公園の西側、明治通りに面してつづいていた幼年学校跡にも、大正末から昭和初期とみられるコンクリート片がいまだに散在している。校舎の基礎あるいは塀、外壁などに用いられたものか大きな玉砂利が密に詰まる、たいへん贅沢な造りをしている。
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先述した軍楽隊の野外音楽堂へ下りる階段の造りは、1922年(大正11)に橋上駅化された目白駅Click!でも見ることができる。内面は、大粒の玉砂利をふんだんに混ぜて頑丈な構造にしつつ、外面にはなめらかなコンクリートを薄くコーティングして、階段を上り下りしやすいようにしている。確かに、大粒の玉砂利がのぞく階段は、蹴つまずく怖れがあって危険だし、なによりもなめらかにコーティングしたほうが見栄えがいいにちがいない。ちなみに戸山ヶ原Click!への散歩は、自宅からすべて徒歩でまわったため約10kmも歩いてしまった。緑が多いとはいえ、盛夏の戸山ヶ原Click!散歩は疲れるのだ。
◆写真上:陸軍軍楽隊の野外音楽堂に下りる、谷間の2ヶ所に設置された階段。
◆写真中上:上は、1923年(大正12)作成の戸山ヶ原東部の1/10,000地形図。中は、以前に撮影していたコンクリート残滓で、戸山学校北側の擁壁(上)、防疫研究所跡に転がるコンクリートブロック(中)、防疫研究所・最近研究所と兵務局を仕切る塀(下)。下は、1944年(昭和19)の敗戦直前に撮影された戸山ヶ原東部。
◆写真中下:上は、軍楽隊の野外音楽堂へと下りる階段の表面が剥がれた中面の様子。中は、1956年(昭和31)に地元で復元された野外音楽堂(上)と、公園のまるで四阿風に変えられた現代の風情(下)。下は、2枚とも戸山学校跡の周辺(箱根山の東側)に散らばる大粒の良質な玉砂利を使ったコンクリート片。
◆写真下:上は、陸軍衛戍病院の東側擁壁(上)と西側の塀(中)。東側の擁壁表面に貼られたコンクリートブロックの亀裂から、中面のより頑丈な擁壁がのぞいている。コンクリート建築のため空襲でも焼けず、戦後は国立第一病院としてそのまま使われつづけた陸軍第一衛戍病院。中は、明治通り沿いに残る陸軍幼年学校跡のコンクリート塊。下は、エレベーター工事のため解体中の目白駅階段の断面。鉄筋は使われておらず、大粒の玉砂利を使った無垢のコンクリートで、表面を小砂利混じりのセメントでなめらかにコーティングしているのは、戸山ヶ原の軍楽学校あるいは軍楽隊の階段と同じ仕様だ。
★おまけ
東五反田は池田山のバッケ坂に残る、大正末の建設とみられるコンクリートの柵柱(上)と、大正期に竣工した村山貯水池(多摩湖)の高欄柱の断面(下)。
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以前、大正期から昭和初期に建てられた、下落合のコンクリート構造物Click!について書いたことがある。大正後期から、一般の住宅Click!や宅地造成でセメントClick!が多用されるようになった。おもにコンクリート塀を観察した事例が多かったが、多摩川の砂利と秩父のセメント資材Click!を運搬する、高田馬場駅の南に西武鉄道Click!が設置した建設資材・砂利置き場Click!や、大正期に同社が全面協力した村山貯水池Click!(多摩湖)の建設に用いられたコンクリート堤防Click!などを観察して記事にしている。
今回は、旧・陸軍施設が集中し、新宿が戦前に「軍都」Click!と呼ばれるきっかけとなった、戸山ヶ原Click!について細かく観察してみたい。ただし、山手線をはさみ東西に展開していた陸軍施設Click!の構造物Click!については、これまでも何度か取り上げ、素材のコンクリートが壊されたあとの残滓については、何度か記事Click!に取りあげてきているので、きょうは山手線東側の戸山ヶ原Click!に残るコンクリートの構造物について、改めて細かく観察してみたい。
まず、明治期から設置されていた陸軍戸山学校Click!と、古くからの陸軍軍楽学校の周辺を観察してみよう。初期の陸軍戸山学校は、大正期まではのちの陸軍衛戍病院Click!(現・国際医療センター)の位置から、大久保通り沿いに箱根山Click!の南東下ぐらいまで細長くつづいていた。戸山学校が、東側の敷地を陸軍衛戍病院にゆずり、大久保通りから箱根山の東側一帯へ広く、そして深く展開するのは、大正末から昭和期に入ってからのことだ。また、箱根山をはさんで戸山学校の西側に、陸軍幼年学校の校舎が建てられるのも大正末以降のことだ。
軍楽学校と軍楽隊は混同されがちだが、軍楽学校の西側の箱根山東山麓、戸山学校敷地の北側へ、昭和初期に軍楽隊の兵舎が建設されている。また、陸軍衛戍病院の北側へ陸軍軍医学校を建設する際、戸山ヶ原の大きな谷戸が中途で埋め立てられ、衛戍病院と軍医学校の往来をしやすくしている。ちょうど、下落合の第一文化村Click!における前谷戸の追加造成Click!と同様に、谷戸の途中が土砂で埋められてしまったため、湧水源にあたる谷戸の突き当たりの谷間は、ほぼそのままの地形で残されている。現在、国立健康・栄養研究所の南側敷地が、急に凹状にへこんでいるのはそのせいだ。このあたりの土木工事は、戸山学校が西側へ移動するとともに衛戍病院が建設される、大正末から昭和初期にかけて行なわれている可能性が高い。
さっそく、その付近のコンクリートの残滓を観察すると、戸山学校の敷地や軍楽学校、あるいは軍楽隊のあたりには、それらしい遺物をいくつか確認することができる。まず、昭和初期に建てられた将校会議室Click!(現・戸山教会)の西側には、随所に玉砂利の粒が大きいコンクリート片が散らばっている。当時は、鉄筋を支柱あるいは芯にしてコンクリートの構造物を造るよりも、多摩川の良質で大きめな玉砂利をふんだんに使い、セメントとともにそのまま固めて用いる例が少なくなかった。場所からいえば、これらの玉砂利(というか小石と表現したほうが適切な大きさだ)を用いたコンクリートの残滓は、戸山学校の校舎かその基礎、外壁、あるいは塀などに使われていたものではないだろうか。
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その戸山学校跡から、箱根山を左まわりへ西へ歩くと、軍楽隊兵舎跡と野外音楽堂跡に出る。軍楽隊の野外音楽堂は1943年(昭和18)3月に竣工したものだが、実はそれ以前から軍楽学校の練習場として、この窪地は使用されていたのではないだろうか。なぜなら、同音楽堂へと下る階段のコンクリートが、意外に古いとみられるからだ。この階段は、表面を薄いコンクリートでコーティングされているが、その下からのぞくコンクリート階段は、やはり大粒の玉砂利が用いられていて古い仕様だ。つまり、表面を覆うコンクリートは、階段を設置するのと同時の可能性もあるが、野外音楽堂ができた際、あるいは後世に追加でコーティングされたのかもしれず、本来のコンクリート階段はその下層に塗りこめられている可能性がある。
大正期から昭和初期にかけてのコンクリート構造物には、大粒で良質な玉砂利がふんだんに使われている。ところが、昭和に入ってしばらくすると、河川で採取できる良質な玉砂利がなかなか採れずに高騰し、セメントとともに混ぜる砂利は、より安価な小粒のものへと変わっていく。戦時中から戦後にかけてはさらに不足し、小粒の砂のような砂利が用いられるようになった。戦後は、河川の良質な砂利(小粒でさえ)を手に入れるのが困難となり、やむをえず海の砂利を用いることが多いため、塩分で内部の鉄筋が腐食しやすいという課題が浮上しているのは周知のとおりだ。
つまり、見分け方のひとつの目安として、大粒の良質な玉砂利をふんだんに用いて、芯として鉄筋が用いられていないコンクリート構造物は年代が古く、その砂利が細かくなるほど新しい……という、たいへん大雑把なとらえ方だが、あながち的外れではない観察法ができることになる。もっとも、昭和10年代に建設された大金持ちの住宅には、良質な玉砂利が惜しげもなく使われているだろうし、経費節約のために小粒の砂利を用いた大正初期のコンクリート建築もあるので、いちがいに決めつけるわけにはいかない。そしてもうひとつ、それがなんらかの軍事施設であれば、少しぐらい経費がかさんでもコンクリートに高価な玉砂利を混ぜることには、なんら支障がなかったという事情も考慮しなければならないだろう。
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防疫研究室や細菌研究室と兵務局分室(ヤマ)を仕切っていたコンクリート塀はそのままだが、10年ほど前に撮影した随所に転がる大粒の玉砂利を用いたコンクリート片は、すっかり片づけられてなくなっていた。元・看護師の証言から、敗戦と同時に戸山ヶ原の随所へ埋められたとみられる人骨標本の第2次発掘調査の際に、散らばるコンクリート片を集めて廃棄したものだろうか? 衛戍病院の西側につづくコンクリート塀も、のちに補修されているとはいえ古そうだ。ただし、用いている砂利がかなり細かいため、昭和期に入ってからの建築ではないかと思われる。この塀の上には、かつて新しいコンクリートを重ねたり、新たなブロックを積み上げたりした痕跡が残っている。
防疫研究室や細菌研究室の跡にできた、戸山公園多目的広場も歩きまわってみたかったが、あいにく少年野球の試合日でゆっくり見学することができなかった。ほかにも、戸山公園の西側、明治通りに面してつづいていた幼年学校跡にも、大正末から昭和初期とみられるコンクリート片がいまだに散在している。校舎の基礎あるいは塀、外壁などに用いられたものか大きな玉砂利が密に詰まる、たいへん贅沢な造りをしている。
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先述した軍楽隊の野外音楽堂へ下りる階段の造りは、1922年(大正11)に橋上駅化された目白駅Click!でも見ることができる。内面は、大粒の玉砂利をふんだんに混ぜて頑丈な構造にしつつ、外面にはなめらかなコンクリートを薄くコーティングして、階段を上り下りしやすいようにしている。確かに、大粒の玉砂利がのぞく階段は、蹴つまずく怖れがあって危険だし、なによりもなめらかにコーティングしたほうが見栄えがいいにちがいない。ちなみに戸山ヶ原Click!への散歩は、自宅からすべて徒歩でまわったため約10kmも歩いてしまった。緑が多いとはいえ、盛夏の戸山ヶ原Click!散歩は疲れるのだ。
◆写真上:陸軍軍楽隊の野外音楽堂に下りる、谷間の2ヶ所に設置された階段。
◆写真中上:上は、1923年(大正12)作成の戸山ヶ原東部の1/10,000地形図。中は、以前に撮影していたコンクリート残滓で、戸山学校北側の擁壁(上)、防疫研究所跡に転がるコンクリートブロック(中)、防疫研究所・最近研究所と兵務局を仕切る塀(下)。下は、1944年(昭和19)の敗戦直前に撮影された戸山ヶ原東部。
◆写真中下:上は、軍楽隊の野外音楽堂へと下りる階段の表面が剥がれた中面の様子。中は、1956年(昭和31)に地元で復元された野外音楽堂(上)と、公園のまるで四阿風に変えられた現代の風情(下)。下は、2枚とも戸山学校跡の周辺(箱根山の東側)に散らばる大粒の良質な玉砂利を使ったコンクリート片。
◆写真下:上は、陸軍衛戍病院の東側擁壁(上)と西側の塀(中)。東側の擁壁表面に貼られたコンクリートブロックの亀裂から、中面のより頑丈な擁壁がのぞいている。コンクリート建築のため空襲でも焼けず、戦後は国立第一病院としてそのまま使われつづけた陸軍第一衛戍病院。中は、明治通り沿いに残る陸軍幼年学校跡のコンクリート塊。下は、エレベーター工事のため解体中の目白駅階段の断面。鉄筋は使われておらず、大粒の玉砂利を使った無垢のコンクリートで、表面を小砂利混じりのセメントでなめらかにコーティングしているのは、戸山ヶ原の軍楽学校あるいは軍楽隊の階段と同じ仕様だ。
★おまけ
東五反田は池田山のバッケ坂に残る、大正末の建設とみられるコンクリートの柵柱(上)と、大正期に竣工した村山貯水池(多摩湖)の高欄柱の断面(下)。
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