なぜ駅名と地名は乖離したがるのか。
先日、駅のホームで電車を待っていたら面白い……というか、愕然とする発見をした。西武新宿線の「新井薬師駅」で電車を待ちながら、駄菓子を大人買いしたあとホーム上でぼんやりしていたときのことだった。ここの駅名は「新井薬師駅」ではなく、「新井薬師前駅」が正確な名称だったのに気がついたのだ。(爆!) 帰ってから、さっそく拙サイトの13記事25ヶ所にわたる「新井薬師駅」を、「新井薬師前駅」に訂正した。...
View Article雑司ヶ谷地域の関東大震災。
1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災Click!については、わが家の伝承も含め、これまで市街地の被害に関する数多くの記事を書いてきた。また、地元の落合地域はもちろん、隣接する高田町(現・目白)や戸塚町(現・高田馬場/早稲田)、野方町(現・上高田/江古田)などの資料からも、震災直後の街の様子を取りあげてきた。ついこないだも、新宿地域の淀橋台の揺れClick!について記事にしたばかりだが、今...
View Article山田清三郎の「出版・入獄記念会」。
かつて上落合に住んでいた、数多くのプロレタリア作家や美術家について調べているとき、1968年(昭和43)に理論社から出版された山田清三郎Click!の『プロレタリア文学史/上・下』も、資料のひとつとして参照していた。おそらく、戦後まもなく出版された同書は、当時、もっとも詳細なプロレタリア文学史料だったろう。...
View Article下町と山手の用法がゴチャゴチャする件。
「下町」という言葉が、城下町をちぢめた用語であることは、ずいぶん前に江戸期からつづく江戸東京語のひとつであることを、三田村鳶魚(えんぎょ)Click!の証言としてご紹介したことがある。江戸東京地方では、まだるっこしい言葉はどんどんちぢめて発音されるので、別の地方の人が誤解することも多い。...
View Article小島が棄て佐伯が拾い里見が保存した作品。
小島善太郎Click!が描いた、初期の代表作である『四ツ谷見附』Click!(1914年)には、10点ほどの画面があったようなのだが、わたしは1作を除いてできの悪い作品はすべて、小島自身の手で写生現場にキャンバスごと棄てられたか、処分されたと思っていた。ところが、少なくとも1918~1919年(大正7~8)ごろまでは3種類の画面が残っており、小島の部屋の壁に架けられていたという証言が残っている。...
View Article1916年(大正5)に記録された落合村の民俗。
1916年(大正5)の落合村の風景は、明治期から華族や政治家、財閥、おカネ持ちの別荘地として東部の一部が拓けていた以外、江戸近郊の農村地帯の風情をそのまま残していただろう。旧・神田上水Click!や妙正寺川(北川Click!)の周囲には稲田が拡がり、そこから眺める目白崖線には鬱蒼とした雑木林が繁っていた。...
View Article東京郊外にあった「遊園地」の系譜。
明治期の後半から大正期にかけ、東京の郊外には「遊園地」が各地に造られた。ここでいう「遊園地」とは、今日でいう多種多様なアトラクションやゲーム、パビリオンなどが設置されイベントが開かれる、いわゆる遊園地のことではない。...
View Article陸軍に注文の多い初年兵たち。
国立公文書館に保存された、軍関係の資料(おもに陸軍が大多数)を参照していると、ときどき目についてひっかかる資料がある。それは、「要注意兵卒ノ状況ニ関スル件報告」というようなタイトルをつけた陸軍大臣や陸軍省副官あての報告書で、大正後期から昭和初期にかけて特に急増しているドキュメント類だ。...
View Article第一寮棟で暮らした学生たち。(下)
学習院昭和寮Click!が解体されはじめてから、わたしは何度か日立目白クラブの周辺を訪れているが、先日はテニスコートの西側に繁っていた竹林の伐採に遭遇した。崖上の竹林は、秋の夕陽を受けると黄金色に輝いて美しく、それが消滅してしまったことは非常に残念でならない。それにしても、どこまで緑ゆたかな目白崖線の景観を破壊し、灰色のビルを建設すれば気が済むのだろうか?...
View Article平民の子を抱くのは死ぬより辛い屈辱。
目白通りの北側、高田町雑司ヶ谷上屋敷(あがりやしき)3621番地(現・西池袋2丁目)で暮らしていた宮崎白蓮Click!(柳原白蓮Click!)、あるいはその夫である宮崎龍介Click!については、これまで落合地域から遠くない場所で起きたことなので、ここの記事でも何度か取りあげて書いてきた。...
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