1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災Click!については、わが家の伝承も含め、これまで市街地の被害に関する数多くの記事を書いてきた。また、地元の落合地域はもちろん、隣接する高田町(現・目白)や戸塚町(現・高田馬場/早稲田)、野方町(現・上高田/江古田)などの資料からも、震災直後の街の様子を取りあげてきた。ついこないだも、新宿地域の淀橋台の揺れClick!について記事にしたばかりだが、今回は高田町の北東側に位置する、雑司ヶ谷の震災当時の様子を書いてみたい。
雑司ヶ谷における関東大震災時のエピソードは、少し前に地震による延焼で全滅した洲崎遊郭から脱出し、楼主たち追手から逃れるために、鬼子母神参道前の雑司ヶ谷の交番へと駆けこんだ娼妓たちのエピソードClick!をご紹介している。その記事で、事件の経緯を記録していた資料として、同年10月1日に出版された『大正大震災大火災』Click!(大日本雄弁会講談社)から引用しているが、地元の高田町の資料では関東大震災に関する記述がほとんどないことにも触れている。
たとえば、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)では、関東大震災の記述はわずか5行弱にすぎない。同書より引用してみよう。
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突如、九月一日、関東地方に大震火災の事変あり、幸に此の町は其の災禍を免かれたが、東京市中は殆んど全滅の姿となり、避難し来るもの夥しく、町は全力を傾倒して、之が救済に努めた。爾来、この町に移住者激増し、従つて家屋の建築も増加して、田畑耕地は住宅と化し、寸隙の空地も余す所なく、新市街地を現出するに至つた。
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実際には、学習院の特別教室から出荷した火災で同校舎が全焼したり、住宅にも少なからず被害が出て負傷者もいたはずなのだが、それほど深刻な被害がなかったせいか東京市街地の街々とは異なり、非常にあっさりとした記述になっている。
これは、豊島区全体の歴史を概観した区史でも同様で、たとえば1951年(昭和26)に出版された『豊島区史』(豊島区役所)にいたっては、わずか2行と少しの記述で終わっている。同書の、「各町の町制時代」の項目から引用してみよう。
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大正十二年九月一日、関東地方に大震火災起り、幸にこの地方は災禍を免れたが、東京市中は殆んど全滅の状態となつた。罹災者は陸続とこの町に避難して来たので、町は全力をあげて救済につとめた
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豊島区のレベルで見るなら、立教大学のレンガ造りの本館が崩落したり、そこそこの被害は出ているはずなのだが、犠牲者がほとんど出なかったことが、おしなべて関東大震災の印象を希薄にしているのだろう。
地震による被害よりは、市街地から押し寄せる膨大な被災者たちの救援や、罹災者の避難場所としての記憶のほうが強く残ったのだと思われる。大震災の当時は、住宅が近接して建てられておらず、火災が拡がる怖れはきわめて低かっただろうし、住宅の周囲には田畑や空き地があちこちに残っていたせいで、避難場所にも困らなかった。
また、東京市街地と武蔵野の台地エリアでは、地震による揺れの大きさが異なっていた可能性が高い。2011年(平成23)の東日本大震災でも、東京の低地や埋め立て地を中心とする市街地一帯では震度5強を記録したのに対し、新宿区の上落合に設置されている地震計は震度5弱にとどまっている。関東大震災でも同様だったとは、具体的なデータが残されていないので断言できないが、目白崖線沿いの地盤は市街地よりも震動がひとまわり小さかった可能性がある。
しかし、それまで経験のない関東大震災の大きな揺れは、雑司ヶ谷の住民たちを驚愕させるには十分だった。1977年(昭和52)に新小説社から出版された、中村省三『雑司ヶ谷界隈』から引用してみよう。著者は子どものころ雑司ヶ谷電停のすぐ西側、雑司ヶ谷水原621番地界隈(現・南池袋2丁目)に住んでいた。
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私の家は今でも残っているその土蔵の西側で、大震災の時にはこの土蔵の瓦が数枚、私の家のせまい庭先に落下してきたものだ。(中略) 大正十二年九月一日、いわゆる関東大震災は、私の小学校一年生の時、その雑司ヶ谷の家で遭遇した。始業式を終えて家へ帰ると、父が昼食の仕度をしていた。母は夏休みで郷里へ戻った姉と妹とを迎えるために帰省して不在であった。 / 父に言われるまま茶卓の上に茶碗や箸などを並べていたが、いきなり大きくゆれ出したと思うともう坐ってもいられなかった。襖が大きく弓なりに曲り、はじかれたようにとんできた。気が付くとその時はもう父は私のかたわらに居て、私をおさえつけるようにして茶卓の下にもぐり込ませていた。後での父の話だと、大ゆれがくる前にゴーッという物凄い地鳴りのような音がしたということだが、子供の私にはおぼえがない。
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このあと父親は、著者を家の北側にあった空き地へ避難させたあと、隣家で腰を抜かして動けずにいた「小母さん」を助けだして、空き地へと連れてきている。
父親は、昼食がまだなのを思いだし、家の中へ何度か駈けこんでは飯櫃や茶碗などの食事道具を持ちだすと、「小母さん」も含めた3人で茶漬けClick!を食べはじめた。その後、周辺の住民たちが全員無事なのを確認すると、家の中にいては余震が危ないということで、住民たちは柿の木のある広場状の空き地へ集まった。
しばらくすると南の空、つまり早稲田方面に黒煙が上がりはじめたのを見て、著者の父親は様子を見に出かけている。この黒煙は、おそらく学習院のキャンパス内で起きた、特別教室が全焼した火災の煙だろう。つづけて、同書より引用してみよう。
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ところが夕方近くなっても父が戻って来ないので私は心細かったが、とにかく泣きもしなかったことだけはおぼえている。夜はその柿の木を中心に隣り組の者達が畳をしき蚊帳を吊って雑魚寝をした。流言が出始めたのはその頃からで、男の大人達は竹槍などを用意し交代に見張りについた。私の父も隣りのお兄さんもいつの間にか戻っていて、仲間に加わっていたのを蚊帳の中から眺めた記憶はある。/一方私の母は郷里で、東京方面全滅のニュースで居ても立ってもいられなかったそうである。(中略) 母と叔父は惨たんたる下町方面の被害状況を目のあたりにして、雑司ヶ谷までたどりついてみると、余り変っていない町の姿にかえってびっくりしたそうである。事実雑司ヶ谷の私の家の附近で、倒れたり傾いたりした家は殆ど皆無で、私の家の被害も障子や襖の破損と、棚の上などから落ちてこわれた器具などで大したことではなかったらしい
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しかし、1923年(大正12)当時の1/10,000地形図を参照すれば明らかだが、雑司ヶ谷はあちこちに森が点在する緑豊かな地域で、家々も密集して建てられてはおらず、随所に空き地が拡がるような風情だった。したがって、同じ関東大震災クラスの揺れが再び雑司ヶ谷地域を襲ったら、現在の稠密な住宅街では被害がどれほど拡がるのかは不明だ。
東日本大震災がそうだったように、(城)下町Click!に比べて揺れがやや小さめなのはまちがいかもしれないが、どこかで大きな火災が発生すれば、おそらくひとたまりもないだろう。関東大震災では、犠牲者のおよそ95%以上が大火災による焼死者だった。
◆写真上:関東大震災の直後、目白駅付近から眺めた東京市街地の大火災による煙。
◆写真中上:上は、1918年(大正7)に撮影された四ッ谷(四ッ家)付近の目白通り。右手に見えている白亜の洋館は、できたばかりの高田農商銀行Click!。中は、同年に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の参道近く(高田若葉7番地)にあった高田村役場。下は、震災と同年に作成された1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷地域とその周辺。
◆写真中下:上は、1923年(大正12)9月の関東大震災で崩落した立教大学本館の中央塔。下は、同震災で火が出て全焼した学習院の特別教室跡。
◆写真下:上は、いまも大正当時の面影が残る雑司ヶ谷の森の大樹。中は、1975年(昭和50)ごろに撮影された中村省三の旧居跡。奥に見えるのが大震災で屋根瓦が落下した土蔵で、背後の高層ビルは建設中のサンシャイン60。下は、本記事とは直接関係ないが鬼子母神の参道沿い雑司ヶ谷古木田487番地にあった初見六蔵邸跡。初見六蔵は、長崎アトリエ村のひとつ「桜ヶ丘パルテノン」Click!を企画して建設している。