かつて上落合に住んでいた、数多くのプロレタリア作家や美術家について調べているとき、1968年(昭和43)に理論社から出版された山田清三郎Click!の『プロレタリア文学史/上・下』も、資料のひとつとして参照していた。おそらく、戦後まもなく出版された同書は、当時、もっとも詳細なプロレタリア文学史料だったろう。
山田清三郎が住んでいたのは、上落合(2丁目)791番地(現・上落合3丁目14番地)で最勝寺Click!境内のすぐ西側だ。ごく近くには、一時期だが上落合(2丁目)740番地には宮本百合子Click!が住んでいたし、上落合(2丁目)549番地に住む壺井繁治Click!を「村長」に結成された、上落合(2丁目)783番地の「サンチョクラブ」Click!(漫画家・加藤悦郎邸)があり、その周囲には数多くのプロレタリア作家や美術家たちが住んでいた。その山田清三郎が検挙され、1934年(昭和9)6月に撮影された「出版・入獄記念集会」と題する記念写真が残っている。(冒頭写真)
「入獄記念会」とか「出獄記念祝賀会」というパーティは、別にプロレタリア作家たちの専売特許ではなく、滑稽新聞の宮武外骨Click!が1904年(明治37)にはじめたものだ。当時、官吏侮辱罪で実刑判決を受けた彼は、大阪監獄へ収監される直前に祝賀会を開いている。権力を批判して入獄4回、罰金15回、発禁14回のレコードをもつ宮武外骨Click!は、検挙されて入出獄を繰り返すうちに「祝賀会」を催すようになった。また、毎号「記者入獄記念碑」を紙面に「建立」し、当時の官憲や政府への抵抗をやめなかった。くしくも、山田清三郎を中心に「出版・入獄記念集会」が開かれたのと同年、1934年(昭和9)には45年前の入獄3年の冤罪が明らかになった宮武外骨の「筆禍雪冤祝賀会」が開催され、大審院(現・最高裁)の判事(尾佐竹猛)までが出席している。
さて、山田清三郎の「出版・入獄記念集会」写真にもどろう。この記念写真には上落合を中心として、その周辺地域に住んでいた多くの人々がとらえられている。まず、上段左側には下落合の南側、戸塚4丁目593番地(現・高田馬場3丁目)に住んでいた窪川稲子(佐多稲子Click!)と窪川鶴次郎Click!がお互い少し離れて写っている。そのまま右横へ目を移すと、上落合689番地(のち上落合460番地へ移転)にあった全日本無産者芸術連盟(ナップ)の付近に住んでいたとみられる、『文化村を襲った子供』を書いた小説家の槇本楠郎Click!がいる。同作は、1928年(昭和3)の「戦旗」12月号に掲載されているので、槇本はそのころ上落合にいたものだろう。
槇本楠郎の右隣りには、上落合460番地に住んだ劇作家で脚本家の久板栄二郎がいる。1934年(昭和9)という年は、久板が池田生二とともに『演劇運動の新らしき発展のために』を日本プロレタリア演劇同盟出版部から刊行したばかりのころだ。なお、上落合460番地は村山知義・籌子アトリエClick!のあった上落合186番地の北側、約130mほどのところにあった家屋で、全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア文化連盟(コップ)、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の本部が置かれていた場所だ。
次に、久板栄二郎のひとりおいて右隣りには、上落合602番地から葛ヶ谷303番地(のち西落合1丁目303番地)へと転居している、洋画家でグラフィックデザイナーの柳瀬正夢Click!が写っている。写真が撮られた1934年(昭和9)6月は、鬼頭鍋三郎Click!の隣りにある旧・松下春雄アトリエClick!で仕事をはじめていたはずだ。松下春雄の淑子夫人Click!は、すでに彩子様Click!たちを連れて池袋の実家にもどっていただろう。
写真の中段左には、上落合688番地に住んでいた小説家で劇作家の藤森成吉Click!が見える。藤森は前年の1933年(昭和8)、治安維持法違反で特高Click!に検挙されて「転向」したはずだが、山田栄三郎の記念集会に参加しているのでその心中は異なっていたのだろう。戸坂潤をはさんで右隣りには、上落合829番地の「なめくじ横丁」Click!から上落合599番地へと転居した、詩人で小説家の上野壮夫Click!がいる。全日本無産者芸術連盟(ナップ)から引きつづき日本プロレタリア文化連盟(コップ)へと参加していたが弾圧が激しく、この記念写真が撮られるころには解散を余儀なくされていた。
また中列の中ほど、当時は同人雑誌「現実」を刊行していたころの文芸評論家・亀井勝一郎の前には、上野壮夫と同じく上落合829番地の「なめくじ横丁」から上落合599番地へと転居した、上野の妻であり小説家でエッセイストだった、ちょっと派手めなコスチュームの小坂多喜子がいる。また、彼女の右上隣りには、第三文化村Click!にあたる下落合1470番地の「目白会館」Click!から、上落合460番地へと転居した武田麟太郎Click!が写っている。前年に、小林秀雄Click!らと刊行した「文学界」で執筆しており、いまだ「人民文庫」(1936年)は創刊していない。
武田麟太郎の右隣りには、上落合829番地の「なめくじ横丁」で暮らしていた小説家の立野信之Click!がいる。小林多喜二Click!とともに書いた、『新芸術論システム・プロレタリア文学論』(天人社/1931年)などで特高に検挙されたが「転向」して出獄し、記念写真と同年には転向文学とされた『友情』を執筆している。また、立野信之のひとりおいて右隣りには、上落合630番地の詩人・野川隆Click!が写っている。記念写真の翌年(1935年)、壺井繁治らが結成した「サンチョクラブ」へ参加することになる。
中段の右側には、落合地域の北隣りにあたる長崎町を転々としていた詩人で小説家、また画家でもある小熊秀雄Click!の姿がある。小熊も「サンチョクラブ」に参加して、頻繁に上落合(2丁目)783番地の事務局を訪れていた。1930年代に入ると、小熊秀雄のスケッチに落合地域や、その往来に描いたとみられる作品Click!がみられるが、おそらく「サンチョクラブ」への行き帰りで目にとまった風景を素描にしたものだろう。
下段左の生田花世Click!の前には、落合地域の北東隣りにあたる高田町の、雑司ヶ谷鬼子母神門前の雑司ヶ谷24番地に住んでいた、詩人で劇作家、小説家、童話作家の秋田雨雀Click!の姿がある。この記念写真が撮られた1934年(昭和9)には、新協劇団を結成して事務長となり雑誌「テアトロ」を創刊したころだ。1929年(昭和4)には、三木清Click!や羽仁五郎などとともにプロレタリア科学研究所(プロ科)を創設して所長を引き受けており、1940年(昭和15)ついに特高に検挙されることになる。
秋田雨雀の右並びにいる老夫婦は、上落合502番地に住んでいた教育家で政治家だった蔵原惟郭と、北里柴三郎Click!の妹であるシウ夫人だ。息子で次男の蔵原惟人Click!は、1932年(昭和7)に治安維持法違反で特高に検挙され、この記念写真のときは懲役7年の実刑判決を受けて獄中にあった。出獄するのは、記念写真から5年後の1939年(昭和14)になってからのことだ。そして、蔵原夫妻の右並びが「出版・入獄記念集会」の主役である、上落合791番地の山田清三郎と山田きよ夫人だ。
山田きよの右隣りには、上落合215番地に住んでいた小説家で文芸評論家の林房雄Click!がいる。林は、上落合186番地の村山知義・籌子邸Click!と上落合460番地の久板栄二郎邸(ナップ本部)の、ちょうど真ん中あたりに住んでいた。また、林房雄が鎌倉・坂ノ下の舟大工「米さん」に無理やり頼みこみ、由比ヶ浜でフロートClick!波乗りをしていたエピソードは、つい先ごろご紹介している。林房雄の右隣りには、やはり上落合460番地のナップ本部に住んでいた小説家の江口渙が写っている。前年(1933年)に虐殺された小林多喜二の葬儀委員長をつとめたが、それを理由に特高に逮捕されていた。
江口渙の右隣りには、当時は上落合549番地に住んでいた壺井繁治Click!が座っているが、妻の壺井栄Click!の姿が見えない。また、壺井の右並びには共同印刷争議に取材した『太陽のない街』で知られる、小説家の徳永直が写っている。記念写真の撮られたころは、転向小説とされる『冬枯れ』を執筆中だろうか。
この記念写真が撮られたのは、四谷区新宿2丁目71番地にあった喫茶店「白十字堂」だが、所在地に「新宿」とあるものの四谷新宿(よつやしんしゅく)のことで、四谷区新宿2丁目=現・新宿区新宿(しんじゅく)3丁目に相当する地番だ。新宿伊勢丹Click!から新宿通りを、四谷方面に150mほど歩いたところに「白十字堂」は開店していた。
さて、この記事にはいまだここで取りあげていない、落合地域とその周辺域に住んでいた人々がおおぜい登場している。この文学関係者たちの物語を書いていくとすれば、あといったい何年ぐらいかかるのだろうか?
◆写真上:1934年(昭和9)6月に四谷区新宿の喫茶店「白十字堂」で開かれた、山田清三郎の「出版・入獄記念会」で下段中央が山田清三郎・きよ夫妻。
◆写真中上:上は、1968年(昭和43)出版の山田清三郎『プロレタリア文学史/上・下』(理論社)。中は、戦後に撮られた山田清三郎。下は、記念写真の左側に写る人々。
◆写真中下:上は、写真右側に写る人々。赤の人名は、いずれも落合地域在住者または在住経験者だが、その他の人々も落合地域に隣接するエリアの居住者が多い。中は、1935年(昭和10)結成の「サンチョクラブ」。前列左から3人目が中野重治Click!、4人目が壺井繁治で右端に小熊秀雄。小熊秀雄の左隣りは、神戸にある光子夫人の実家から上落合1丁目510番地に“単身赴任”で住んでいた岩松淳(八島太郎)Click!だろうか? 下は、上落合2丁目783番地の「サンチョクラブ」跡(上)と徳永直『太陽のない街』の舞台となった小石川の千川沿いの住宅街(下)。
◆写真下:上は、1933年(昭和8)にほていやデパートの屋上から撮影された四谷方面。右手に見えている緑地は新宿御苑で、喫茶店「白十字堂」は黄色の矢印あたり。中は、1933~35年(昭和8~10)の「火保図」をもとに作成された「新宿盛り場地図」(新宿歴史博物館)にみる「白十字堂」。下は、「白十字堂」があった四谷区新宿2丁目71番地界隈で現在の画材店「世界堂」の斜向かいあたり。