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敷地面積330坪の上落合470番地へ、大きな吉武東里邸が建設されたのは1921年(大正10)のことだ。(資料によっては1920年とするものもある) その詳細な設計平面図および側面図を、ご遺族の渡鹿島幸雄様Click!よりお送りいただいたので、さっそく吉武邸を“訪問”してみたい。中井駅から徒歩5分ほどで、吉武邸の北側に接した道路にある門へとたどり着くことができる。妙正寺川の流れる北側から歩くと、途中に鈴木文四郎邸や古川ロッパ邸Click!の前を通ることになる。
大谷石で築かれた門は関東大震災Click!で崩れ、一家は近くの孟宗竹が茂る林へ避難Click!したと伝えられているが、落合地域は震災の被害をあまり受けておらず(全壊家屋は2棟と伝えられている)、ほどなく吉武邸の門も修理されただろう。門から見える吉武邸のファサードは、大熊喜邦Click!とのコラボ設計で翌年に竣工する島津源吉邸Click!のデザインと似ており、柱を漆喰の外壁へ露出させるチューダー調のハーフティンバー工法を採用している。
門を入ると玄関先まで、大谷石の踏み石が敷かれたゆるいS字型の小径が長くつづいている。吉武邸がめずらしいのは、南北に四角い330坪の敷地中央に家屋を建設し、北と南の双方に広めの庭園を設けていることだ。落合地域の住宅は、たいがい敷地のどちらか(北側が多い)に母屋を寄せて建設し、おもに南側を庭園とするレイアウトが多い。吉武邸の場合は、敷地が広いせいもあるのだが、北のアプローチ側の庭は樹木庭園に、南側の庭園は花壇と菜園が設けられ、四季を通じてガーデニングを楽しみ、まざまな花を観賞できるようになっていた。門から玄関の周囲に植えられていたのは、ヒマラヤスギやキンモクセイだったようだ。
さて、現在は落合第五小学校に保存されている大谷石Click!の敷石を踏みながら玄関まで歩いていくと、母屋中央のファサードはいかにも堂々としていて、訪れた人たちは思わず改めて見あげたことだろう。玄関を入ると、左手が女中室に加え、台所、風呂場、トイレと水まわりの設備がつづき、いただいた設計図の側面図に描かれた煙突は風呂場のものと思われる。ちなみに、屋敷内にはトイレが2ヶ所設置されているが、臭い抜きの管が設計図にないところをみると、落合地域でも試みがはじまっていた水洗トイレだったのかもしれない。もちろん、下水道はあまり普及していなかったので、当時は水洗で流したあと、敷地内の地下槽に集めて貯めておく方式だった。南側の庭には、広い菜園が5面も耕作されていたので、肥料として用いていたのかもしれない。
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玄関の右手が、多目的に使えそうな9.5畳大の洋室、正面が10畳大の食堂兼居間、その西側が6畳大の雑務室、そして西端が10畳サイズの吉武東里の書斎兼アトリエとなっている。また、食堂兼居間の南側には5畳大のサンルームが設置され、花壇や花のアーチが観られるようになっていた。これらの部屋々々は、関東大震災の直後から仮議院や国会議事堂の設計チームによって、設計業務を継続させるために「占拠」されていたと思われる。フラワーアーチの向こうには、噴水が設置されていそうな丸い池があり、その両側や向こう側(南側)にはいくつもの家庭菜園が拡がっている。また、花壇の西側、ちょうど吉武東里の書斎兼アトリエの真ん前(南側)には、おそらく毎朝新鮮な卵を採集できたであろう、鶏舎が建てられていた。
母屋中央の、大きな三角屋根の真下にあたる食堂兼居間の東側には、6畳と4.5畳の和室が設けられ、洋間とは異なる和の居間として使われていたようだ。また、東側には南へ突き出た離れがあり、庭に面したかぎ状の縁側廊下とともに10畳の和室が設置されていた。この離れの先へ、昭和期に入ると部屋が増設され、吉武邸は東側のウィングとして大きなカギの字型の姿に変貌していくのだが、家族が徐々に増えたせいだと思われる。
平面図に描かれた南側の庭を観察すると、柿の木が多いのに気づく。もともと、落合地域は「落合大根」Click!とともに「落合柿」のブランドで江戸期から知られており、秋になると柿の実は市街地へ向けて出荷されていた。大正期、近所に住んでいた大熊喜邦Click!のもとへ、秋になると子女の靄子様が「落合柿」をとどけたのは、これらの木々から収穫した実だったのだろう。吉武東里の造園へのこだわりについて、東京大学の長谷川香様Click!は造園家・椎原兵市との関係を指摘している。長谷川様の『吉武東里に関する研究―近代日本における図案家という職能―』から引用してみよう。
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さらに、靄子氏の証言で興味深かったのは、この庭作りは業者に頼まず家族の手によってなされていたこと、そして一年中楽しめるほどの豊かな樹種があったという点である。東里は、子供達に植栽の手入れや飛び石の設置などを任せ、さらに季節ごとにお茶やイチジク、アケビ、柿などの収穫をし、それらが食卓を飾ったという。/つまり、東里が理想とした住宅庭園とは美しい「鑑賞」の庭であると同時に、家族が参加して楽しめる「実用」の庭だったと言える。そして彼の住宅設計における庭園へのこだわりは、ある意味室内装飾や主家のファサードデザインよりも、よほど強かったと言えるだろう。/そうした背景には、同郷の親友であり、京高工、宮内省と生涯を通じて関わりの深かった造園家・椎原兵市の影響があるのではないかと考えられる。
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大きな三角屋根の2階は、8畳大あるいは5畳大の子供室が計3部屋あり、南の庭に面した2部屋には小さなバルコニーが設置されていた。子どもの視線で2階から南の庭を眺めたら、おそらく広大な庭園に感じたことだろう。
玄関のある敷地北側の東角には、北の接道に玄関を設けた貸家が建てられている。6畳が2間に3畳が1間のコンパクトな貸家なのだが、吉武家の副収入源として1921年(大正10)当初から建設されていたようだ。この借家については、外観のデザインが残っていないので詳細は不明だけれど、おそらくその間取りから和風の住宅ではなかったかと思われる。
なお、平面図に描かれた南の庭には、南端にある菜園の先に深さ5尺(約1.52m)の防空壕が描かれている。1921年(大正10)当時から、のちの空襲を予想して防空壕を設置したとは到底考えられないので、おそらく1944年(昭和19)ごろに描き加えられたものだと思われる。もし、上落合の防護団の防護板Click!が焼けずに残っていれば、いつ設置されたのかの詳細までが判明するだろう。防空壕の南側は、やはり大分県出身の野々村金五郎(金吾)邸で、その広大な邸敷地(上落合472番地)は戦後、中井駅前(現・落五小の位置)から移転した落合第二小学校となっている。
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先日、荻窪界隈のいわゆる「文化村」を散歩していたら、吉武邸と見まごう建築を見つけた。門や縁石、アプローチの敷石はすべて大谷石が用いられており、ハーフティンバー様式の外壁に大きなスレート仕様の三角屋根を採用している。もっとも、吉武邸よりも敷地は3分の1ほどと小さく、母屋もややコンパクトなのだが、おそらく吉武邸もこのような意匠をしていたのだろう。吉武邸の大きな屋根は、中井駅からしばらく歩いていくと樹木の間から見えはじめたにちがいない。
◆写真上:吉武東里邸が建っていた上落合470番地の現状で、現在は5戸に分割されている。
◆写真中上:左は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる吉武東里邸で、すでに離れが建て増しされ南へ伸びているのが見てとれる。右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる吉武邸。
◆写真中下:1921年(大正10)に作図されたとみられる、上が南で下が北の吉武邸平面図。
◆写真下:上は、同年に作図されたと思われる初期型の吉武東里邸の立体側面図。下は、荻窪界隈の「文化住宅」街に現存する三角の大屋根が美しい西洋館(内部は和洋折衷か?)。