旺文社というと、中学校の教科別にそろっていた参考書類や、高校時代に親が短期間とってくれていた受験雑誌「蛍雪時代」(ほとんど読みはしなかったが)が思い浮かぶ。あるいは、小学校時代に出版されはじめ、父母やPTAが推薦しそうな有名作ぞろいだった黄緑色の旺文社文庫を思いだす。もっとも、わたしが旺文社文庫で買ったのは、注釈がやたら多かった夏目漱石の作品ただ1冊のみだったのを憶えている。
もうひとつ、旺文社には有名な「赤尾の豆単」と呼ばれた、大学入試用の『英語基本単語集』というポケットサイズの参考書があったようなのだが、わたしの世代は森一郎の『試験にでる英単語』(青春出版社)を使うのが主流になっていたので、一度も開いてみることはなかった。大学入試によく出る英単語3,800語を選んだ「赤尾の豆単」は、同社の沿革によれば1935年(昭和10)に初出版されているので、親父も高等学校(現在の大学予科)の入試で愛用していたようだ。
旺文社は当初、「欧文社」という社名だったのだが、日米戦争がはじまった1942年(昭和17)に、敵性語を意味する「欧文」を社名にするとはケシカランと(ほとんどいちゃもんレベルの難癖だ)、軍部からの圧力で社名変更をさせられた経緯がある。敗戦後、「聖母病院」はもとの国際聖母病院Click!へと名前がもどり、「東條靴店」はワシントン靴店Click!へと店名がもとにもどっているが、「欧文社」はもとの社名にはもどることなく旺文社のまま現在にいたっている。
赤尾好夫が欧文社を創業したのは、1931年(昭和6)に下落合1986番地(のち下落合3丁目1986番地/現・中井2丁目)の自邸内においてだった。以前こちらでもご紹介している、熊倉医院Click!を中心に1935年(昭和10)ごろ撮影された振り子坂沿いの家並みには、山手坂の上にひときわ大きくそびえる西洋館の切妻がとらえられている。それが、広い敷地内に編集部や添削部などのオフィスが建っていた赤尾好夫邸だ。
わたしが、下落合に赤尾好夫邸と旺文社(欧文社)があったのを知ったのは、それほど昔のことではない。ちょうど同社が創立された翌年、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」に、赤尾好夫の名前が収録されていなかったのだ。それまでは、上記の振り子坂界隈の写真と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」とを見比べながら、山手坂の上には「赤尾」という人が住んでいた巨大な西洋館が建っていたのだな……ぐらいの認識でしかなかった。赤尾好夫と旺文社(欧文社)の存在を知ったのは、下落合における矢田津世子Click!の転居先Click!を追いかけている際、「矢田坂」の上を調べているときだった。
さて、下落合の赤尾邸で創業した欧文社は、翌1932年(昭和7)になると受験生を対象にした欧文社通信添削会を設立し、受験事業の全国展開をスタートしている。また、添削会の展開と同時に機関誌「受験旬報」も定期刊行しはじめるが、これが1941年(昭和16)に「蛍雪時代」と改題される受験雑誌の母体となった。「受験旬報」は、旧制の高等学校や専門学校、大学予科の受験生をターゲットに、月ごとに3回も定期発行されている。
通信添削会が大ヒットし、数多くの受験生会員を全国レベルで獲得することができたのは、試験問題の正誤を単純に添削するだけでなく、赤ペンでていねいに誤りの原因や傾向を書き添え、ときには受験生を励まし鼓舞する言葉までが添えられていたからだという。ていねいな添削をするためには、大勢の添削要員を社内に抱えなければならず、創業時には17名だった添削スタッフはみるみる増えていったようだ。
ほとんどの社員が、通信添削会の業務にかかりきりで忙殺されてしまうため、「受験旬報」の編集・発行は赤尾好夫ともうひとりのスタッフのふたりだけでまかなっていたらしい。同誌の内容も、巻頭言をはじめ多くの原稿は赤尾自身が執筆しており、その慣習は「蛍雪時代」になっても変わらずにつづいている。1935年(昭和10)には、上記の『英語基本単語集』(赤尾の豆単)と『入学試験問題詳解(全国大学入試問題正解)』の2冊を出版している。そして、1940年(昭和15)には同社初となる『エッセンシャル英和辞典』を出版し、翌1941年(昭和16)には「受験旬報」を受験総合雑誌「蛍雪時代」と改題して、教育出版界にゆるぎない地歩をかためるまでになった。
1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、赤尾好夫の自邸つながりでオフィスとみられる別棟が3棟、耐火モルタル造りの母家から離れた社屋とみられる2棟の建物を確認することができる。これらの建築は、増えつづける添削スタッフを収容しオフィスを増やすために、増築に次ぐ増築を繰り返した結果なのだろう。赤尾邸の敷地は、東西南の方角へそれぞれ凸状に張りだす妙な形状をしているが、周囲の住宅敷地を買収しながら社屋を増やしていったのかもしれない。
赤尾邸内にあった欧文社が、社員たちを邸内では収容しきれなくなり、牛込区横寺町55番地(現・新宿区横寺町55番地)へ新社屋を建てて移転したのはいつなのか、同社のWebサイトをのぞいてもいまひとつハッキリしないが、おそらく1935年(昭和10)すぎあたりではないかと想定している。
赤尾好夫が受験生に向けた言葉に、有名な「勉強十戒」というのがある。わたしはまったく知らなかったが、1960年代に作られたものだそうで、なんだか「勉強」や「学習」というワードを「仕事」に変えれば、そのまま高度経済成長を支えたモーレツ企業の営業部や、販売部門に貼ってある訓戒スローガンのようだ。
勉強十戒
一、学習の計画を立てよう、計画のないところに成功はない。
二、精神を集中しよう、集中の度合が理解の度合である。
三、ムダをはぶこう、戦略の第一は時間の配分にある。
四、勉強法を工夫しよう、工夫なき勉強に能率の向上はない。
五、自己のペースを守ろう、他をみればスピードはおちる。
六、断じて途中でやめるな、中断はゼロである。
七、成功者の言に耳をかたむけよ、暗夜を照らす灯だ。
八、現状に対し臆病になるな、逃避は敗北だ。
九、失敗を謙虚に反省しよう、向上のクッションがそこにある。
十、大胆にして細心であれ、小心と粗放に勝利はない。
高校時代にはデッサンや絵ばかりを描きつづけ、20年ほど早い「ゆとり世代」を満喫していたわたしには、とてもマネのできない「お勉強」法だ。自身の好きなことであれば、「十戒」でも「二十戒」でも設け、寝食も忘れて集中しがんばるのかもしれないが、退屈な学校の「お勉強」ではカンベンしてほしい。自身にとっての「戒め」は人から与えられるものではなく、18歳にもなれば自らの思考(思想)や性格と照らし合わせ、自らの知見や経験から学びとり設定していくものではないだろうか。
赤尾好夫は戦時中、軍部に協力し大々的に戦意高揚を煽ったとして、戦後にGHQからパージ(公職追放)を受けているが、旺文社の受験雑誌や参考書、辞書の人気は衰えることはなかった。むしろ、1960年代ごろから激しさを増していった「受験戦争」では、旺文社の本は大学入試には不可欠な参考書や補助教材となっていく。
赤尾好夫が、いつまで下落合3丁目1986番地にいたのかはさだかでないが、二度にわたる空襲でも自宅は被害を受けていないので、戦後まで暮らしていたのではないだろうか。戦後の空中写真でも、その大きな西洋館の屋根や離れ家を確認することができる。
◆写真上:下落合3丁目1986番地の、旺文社(欧文社)=赤尾好夫邸跡。(左手一帯)
◆写真中上:上は、1935年(昭和10)ごろに撮影された赤尾好夫邸。中左は、1940年(昭和15)に発行された「受験旬報」4月下旬号。中右は、欧文社通信添削会の広告。下は、1941年(昭和16)に「蛍雪時代」へ改題直前の「受験旬報」の目次。
◆写真中下:上は、1940年(昭和15)の「受験旬報」5月下旬号の奥付で、下落合から横寺町55番地へ移転しているのがわかる。中左は、1941年(昭和16)に改題された「蛍雪時代」10月号。中右は、戦後の1946年(昭和21)に発行された「蛍雪時代」10月号。下は、敗戦色が濃くなった1943年(昭和18)発行の「蛍雪時代」10月号目次。
◆写真下:上は、赤尾好夫(左)と代表的な著作である1935年(昭和10)に初出版の『英語基本単語集』(豆単/右)。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」(左が北方向)にみる下落合3丁目1986番地(現・中井2丁目)の赤尾邸。下は、1936年(昭和11/上)と1947年(昭和22/下)の空中写真にみる空襲から焼け残った赤尾邸。
★おまけ
現在も残る昭和初期に建設された、欧文社=赤尾好夫邸の斜向かいにあたる和館。