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あけまして、おめでとうございます。本年も「落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)」サイトを旧年同様、どうぞよろしくお願い申し上げます。
2020年最初の記事は、落合地域やその周辺域とも、はたまた江戸東京地方ともまったく関係のないテーマなので、音楽とその再生に興味のない方はパスしてください。
★
たまに、コンサートへ出かけることがある。音響の専門家が設計し、倍音(ハーモニック)や残響(リバヴレーション)が考慮されたコンサートホールでの演奏もあれば、落合地域やその周辺にある施設を利用した音楽会のときもある。同じ音楽家が演奏しても、ホールや施設によってサウンドが千差万別に聴こえ、またスタジオ録音のレコード(音楽記録媒体またはデータ=CDやネット音源)とも大きく異なるのは周知のとおりだ。
落合地域や周辺の施設を使って演奏されるのは、必然的にクラシックないしは後期ロマン派以降の現代音楽が多い。確かに教会や講堂でJAZZやロックを演奏したら、もともとがライブ空間(音が反射しやすく残響過多の空間)なので、聴くにたえないひどいサウンドになるだろう。近くの高田馬場や新宿、中野などにはJAZZ専門のライブハウスがいくつかあるのだが、若いころに比べて出かける機会がグンと減ってしまった。
わたしは、音響技術が高度に発達していく真っただ中を生きてきたので、「生演奏」が素晴らしく「レコード演奏」が生演奏の代用である「イミテーション音楽」……だとは、もはや考えていない戦後の世代だ。むしろ、音響がメチャクチャでひどい劇場やコンサートホール、ライブハウスで生演奏を聴くくらいなら、技術的に完成度の高いレコード演奏のほうがはるかにマシだと考えている。
ちょっと例を挙げるなら、F.L.ライトClick!の弟子だった遠藤新Click!設計の自由学園明日館Click!講堂で演奏される小編成のクラシックは、どうせダメな音響(超ライブ空間だと想定していた)だろうと思って出かけたにもかかわらず、ピアノやハープが想定以上にいいサウンド(予想外にデッド=残響音の少ない空間だった)を響かせていたが(もっとも、イス鳴りや床鳴りが耳ざわりで酷いw)、すでに解体されてしまった国際聖母病院Click!のチャペルClick!は、残響がモワモワこもるダメな空間ケースの代表だった。もっとも、このふたつの事例に限らず、重要文化財や登録有形文化財などの建物内を、音響効果のために勝手に改造するわけにもいかないだろう。
気のきいた音響監督がいれば、ライブすぎる室内には柔らかめのパーティションやマットレス、たれ幕、カーテンなどを運びこんで残響を殺すだろうし、デッドな空間にはサウンドが反射しやすい音響板やなにかしら固い板状のものを用意して演奏に備えるだろう。ただし、おカネが余分にかかるので、録音プロジェクトでもない限りは、なかなかそこまで手がまわらないのが現状だ。
生演奏のみが音楽本来のサウンドで、各種レコードによる演奏がその代用品とは考えないという“論理”には、もちろん大きな前提が存在する。音楽家が演奏する空間(屋内・屋外を問わず)によって、得られるサウンドの良し悪しが多種多様なのと同様に、レコードを演奏する装置やリスニング環境(空間)によってもまた、得られるサウンドは千差万別だ。ホールや劇場で奏でられる生演奏が、音楽のデフォルトとはならないように、とある家庭のリスニングルームで鳴らされているサウンドが「標準」にならないのと同じなのだ。そこには、生演奏にしろレコード演奏にしろ、リスナーのサウンドに対する好みや音楽に対する趣味が、要するにサウンドへの好き嫌いが大きく影響してくる。
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もっとも、ここでいうレコード演奏とは、ヘッドホンを介してPCやiPod、タブレット、スマホなどの貧弱なデバイスにダウンロードした音楽を聴くことではない。また、TVに接続されたAVアンプや大小スピーカーの多チャンネルで、四方八方からとどく不自然でわざとらしい音(いわゆるサラウンド)を聴くことでもない。音楽の再生のみを目的としたオーディオ装置Click!を介して、空気をふるわせながらCDやダウンロードした音楽データ(ネット音源)を聴くレコード演奏のことだ。すなわち、個々人のサウンドに対する好き嫌いや音楽の趣味が前提となるにせよ、できるだけコンサートの大ホールや小ホール、ライブハウスなどで音楽を楽しむように、それなりに質のいいオーディオ装置類をそろえ、部屋の模様を音楽演奏に適するよう整えることをさしている。
音楽を奏でるオーディオ装置は、この60年間に星の数ほどの製品が発売されているので、家庭で聴く音楽は個々人が用意する装置によっても、またその組み合わせによっても、それぞれまったく異なっている。たとえ、同一機種ばかりのオーディオシステムを揃えたとしても、その人の音の嗜好を前提としたチューニングによって、かなり異なるサウンドが聴こえているはずだし、なによりも個々人の部屋の設計や仕様・意匠、置かれた家具調度の配置、装飾品の有無などがそれぞれ異なることにより、スピーカーから出るサウンドはひとつとして同じものは存在しない。畳の部屋にイギリスのオートグラフ(TANNOY)を置いてクラシックを聴く作家もいれば、コンクリート打ちっぱなしの地下室に米国のA5モニター(ALTEC)を設置してJAZZを鳴らす音楽評論家だっている。だから、家庭で音楽を聴く趣味をもつ人がいたら、その人数ぶんだけ異なるサウンドが響いているということだ。この面白さの中に、自身のオリジナリティを強く反映させた音楽を楽しむ、オーディオファイルの趣味性やダイナミズムがあるのだろう。
「レコード演奏家」という言葉を発明したのは、オーディオ評論家の菅野沖彦Click!だ。2017年(平成29)の秋に、久しぶりに買った「Stereo Sound」誌について記事を書いたが、その1年後、一昨年(2018年)の秋に萱野沖彦は亡くなった。彼はもともとクラシックやJAZZを得意とする録音技師(レコード制作家)で、優れた録音作品を数多く残しており、そのディスクはサウンドチェック用として日本はもちろん、世界各地で使われている。彼は録音再生の忠実性(いわゆる「原音再生」論)は、現実の家庭内における音響空間には実現しえないと説いている。2005年(平成17)にステレオサウンド社から出版された、菅野沖彦『レコード演奏家論』から少し引用してみよう。
▼
論理性に基づく録音と再生音の同一性は再生空間が無響空間である以外に成り立たないのである。そして、無響室は残念ながら快適な居住空間とはほど遠く、異常で不自然な空間であることは万人が認めるところ。音楽を楽しむどころか、一時間もいたら気が変になるだろう。したがって、時空の隔たった録音再生音響の物理的忠実性は、論理的にも現実的にも成り立たないことが明白なのだ。/さらに、これに関わるオーディオ機器の性能の格差や個体の問題は大きい。特にスピーカーが大きな問題であることはよくご存じの通りである。今後も、この現実についての論理的、技術的、そして学術的な解決はあり得ないであろう。伝達関数「1」は不可能なのである。
▲
したがって、個々の家庭における音楽再生は、個々人が選ぶ好みのオーディオ装置と、個々人が好む音楽を楽しむ環境=部屋の仕様や意匠によって千差万別であり、そこに音楽のジャンルはなんにせよ好みのサウンドを響かせるのは、個々人の趣味嗜好が大きく反映されるわけだから、それを前提にレコード(CDやダウンロードしたネット音源)をかける(演奏する)オーディオファイルは、「レコード演奏家」と呼ぶのがふさわしい……というのが菅野沖彦の論旨だ。
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なるほど……と思う。カメラ好きが、同じ機種のデジカメを使って撮影するのが同じ被写体でないのはもちろんだが、同一の被写体を撮影したとしてもプロのカメラマンとアマチュアカメラマン、それに写真撮影が好きな素人とでは、撮影する画面や画質、構図、さまざまな機能やテクニック、表現を駆使した技術面でも大きく異なるのは自明のことだ。機械はあまり使わないが、絵画の表現も同様だろう。画家によって、好みの道具(筆・ナイフ・ブラシなど)や好みの絵の具は大きくちがう。レコードの再生にも、人によって道具のちがいやサウンドの「色彩」や響きのちがいが顕著だ。
1988年(昭和53)に音楽之友社から出版された、菅野沖彦『音の素描―オーディオ評論集―』の中から少し引用してみよう。
▼
音への感覚も、多分に、この味覚と共通するものがあるわけで、美しい音というものは、常に音そのものと受け手の感覚の間に複雑なコミュニケーションをくり返しながら評価されていく場合が多い。もちろん、初めからうまいもの、初めから美しい音もあるけれど、そればかりがすべてではない。(中略) 物理学では音を空気の波動(疎密波)と定義する。もちろん、この定義はあくまで正しい。しかし、特に音楽の世界において、音を考える時には、それでは不十分だし、多くの大切なものを見落してしまうのである。私たちにとって大切なことは、音として聴こえるか否かということ。音として感じるかどうかということであって、その概念は、あくまで、私たち人間の聴覚と脳の問題なのである。音は、それを聴く人がいなければ何の意味をも持たない。受信器がなければ、飛び交う電波の存在は無に等しいのと同じようなものである。
▲
確かに音楽を再生して聴くという行為は、うまいもんClick!を味わう舌に似ていると思う。もともとデフォルトとなる味覚基盤(多分に国や地方・地域の好みや伝統的な“舌”に強く左右されるだろう)が形成されていなければ、そもそもなにを食べても「美味い」と感じてしまう野放図な味オンチの舌か、なにを食べても「こんなものか」としか感じられない不感症の舌しか生まれない。そこには、相対的に判断し、味わい、受け止め、感動する基準となる舌が「国籍不明」あるいは「地方・地域籍不明」で不在なのだ。
音楽を愛し多く聴きこんできた人が、オーディオ装置を通して奏でるサウンドは、その響かせる環境を問わずおしなべて軸足がしっかりしており、リアルかつ美しくて、説得力がある。換言すれば、どこか普遍化をたゆまず追求してきた“美”、料理で言えば普遍的な美味(うま)さが、そのサウンドを通じてにじみ出ている……ということなのだろう。
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そんな経験を多くしてきたわたしも、オーディオ装置には少なからず気を配ってきたつもりなのだが、ここ数年で大きめな装置が家族から「これジャマ、あれも、ジャマ!」といわれ、処分せざるをえなくなった。現在は、一時期の4分の1ほどの面積ですむ装置で聴いているけれど、それでも工夫と努力をすれば、それなりに美しい(わたしなりの)サウンドを響かせることは可能だ。それだけ、現代のオーディオ装置の質や品位は高い。最後に、わたしのオーディオの“師”だった菅野先生のご冥福をお祈りしたい。
◆写真上:舞台上に大小のハープが並ぶ、遠藤新が設計した自由学園明日館講堂。
◆写真中上:上は、2005年(平成17)出版の菅野沖彦『レコード演奏家論』(ステレオサウンド社)と同年撮影の著者。中・下は、菅野沖彦のリスニングルームの一部。スピーカーはユニットを自由に組み合わせられるJBLのOlympusやマッキントッシュXRT20、CDプレーヤーにはマッキントッシュMCD1000+MDA1000やスチューダA730、プリ・パワーアンプ類にはアキュフェーズやマッキントッシュなどが並んでいる。JBLの上に架けられている絵は、“タッタ叔父ちゃん”こと菅野圭介Click!の作品だろうか?
◆写真中下:上は、英国のタンノイ「オートグラフ」。下は、作家・五味康祐の練馬にあった自宅のリスニングルームで日本間にオートグラフが置かれている。
◆写真下:上は、米国のアルテック「A5」でJAZZ喫茶でも頻繁に見かけた。下は、JAZZ評論家・岩崎千明のリスニングルームに置かれたアルテック「620Aモニター」。よく見ると、JBLの「パラゴン」の上に「620A」が置かれているのがビックリだ。反響音を減殺するために、カーテンを部屋じゅうに張りめぐらしているようだ。TANNOYとALTECの製品写真は、いずれも「Stereo Sound」創刊50周年記念号No.200より。
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あけまして、おめでとうございます。本年も「落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)」サイトを旧年同様、どうぞよろしくお願い申し上げます。
2020年最初の記事は、落合地域やその周辺域とも、はたまた江戸東京地方ともまったく関係のないテーマなので、音楽とその再生に興味のない方はパスしてください。
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たまに、コンサートへ出かけることがある。音響の専門家が設計し、倍音(ハーモニック)や残響(リバヴレーション)が考慮されたコンサートホールでの演奏もあれば、落合地域やその周辺にある施設を利用した音楽会のときもある。同じ音楽家が演奏しても、ホールや施設によってサウンドが千差万別に聴こえ、またスタジオ録音のレコード(音楽記録媒体またはデータ=CDやネット音源)とも大きく異なるのは周知のとおりだ。
落合地域や周辺の施設を使って演奏されるのは、必然的にクラシックないしは後期ロマン派以降の現代音楽が多い。確かに教会や講堂でJAZZやロックを演奏したら、もともとがライブ空間(音が反射しやすく残響過多の空間)なので、聴くにたえないひどいサウンドになるだろう。近くの高田馬場や新宿、中野などにはJAZZ専門のライブハウスがいくつかあるのだが、若いころに比べて出かける機会がグンと減ってしまった。
わたしは、音響技術が高度に発達していく真っただ中を生きてきたので、「生演奏」が素晴らしく「レコード演奏」が生演奏の代用である「イミテーション音楽」……だとは、もはや考えていない戦後の世代だ。むしろ、音響がメチャクチャでひどい劇場やコンサートホール、ライブハウスで生演奏を聴くくらいなら、技術的に完成度の高いレコード演奏のほうがはるかにマシだと考えている。
ちょっと例を挙げるなら、F.L.ライトClick!の弟子だった遠藤新Click!設計の自由学園明日館Click!講堂で演奏される小編成のクラシックは、どうせダメな音響(超ライブ空間だと想定していた)だろうと思って出かけたにもかかわらず、ピアノやハープが想定以上にいいサウンド(予想外にデッド=残響音の少ない空間だった)を響かせていたが(もっとも、イス鳴りや床鳴りが耳ざわりで酷いw)、すでに解体されてしまった国際聖母病院Click!のチャペルClick!は、残響がモワモワこもるダメな空間ケースの代表だった。もっとも、このふたつの事例に限らず、重要文化財や登録有形文化財などの建物内を、音響効果のために勝手に改造するわけにもいかないだろう。
気のきいた音響監督がいれば、ライブすぎる室内には柔らかめのパーティションやマットレス、たれ幕、カーテンなどを運びこんで残響を殺すだろうし、デッドな空間にはサウンドが反射しやすい音響板やなにかしら固い板状のものを用意して演奏に備えるだろう。ただし、おカネが余分にかかるので、録音プロジェクトでもない限りは、なかなかそこまで手がまわらないのが現状だ。
生演奏のみが音楽本来のサウンドで、各種レコードによる演奏がその代用品とは考えないという“論理”には、もちろん大きな前提が存在する。音楽家が演奏する空間(屋内・屋外を問わず)によって、得られるサウンドの良し悪しが多種多様なのと同様に、レコードを演奏する装置やリスニング環境(空間)によってもまた、得られるサウンドは千差万別だ。ホールや劇場で奏でられる生演奏が、音楽のデフォルトとはならないように、とある家庭のリスニングルームで鳴らされているサウンドが「標準」にならないのと同じなのだ。そこには、生演奏にしろレコード演奏にしろ、リスナーのサウンドに対する好みや音楽に対する趣味が、要するにサウンドへの好き嫌いが大きく影響してくる。
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もっとも、ここでいうレコード演奏とは、ヘッドホンを介してPCやiPod、タブレット、スマホなどの貧弱なデバイスにダウンロードした音楽を聴くことではない。また、TVに接続されたAVアンプや大小スピーカーの多チャンネルで、四方八方からとどく不自然でわざとらしい音(いわゆるサラウンド)を聴くことでもない。音楽の再生のみを目的としたオーディオ装置Click!を介して、空気をふるわせながらCDやダウンロードした音楽データ(ネット音源)を聴くレコード演奏のことだ。すなわち、個々人のサウンドに対する好き嫌いや音楽の趣味が前提となるにせよ、できるだけコンサートの大ホールや小ホール、ライブハウスなどで音楽を楽しむように、それなりに質のいいオーディオ装置類をそろえ、部屋の模様を音楽演奏に適するよう整えることをさしている。
音楽を奏でるオーディオ装置は、この60年間に星の数ほどの製品が発売されているので、家庭で聴く音楽は個々人が用意する装置によっても、またその組み合わせによっても、それぞれまったく異なっている。たとえ、同一機種ばかりのオーディオシステムを揃えたとしても、その人の音の嗜好を前提としたチューニングによって、かなり異なるサウンドが聴こえているはずだし、なによりも個々人の部屋の設計や仕様・意匠、置かれた家具調度の配置、装飾品の有無などがそれぞれ異なることにより、スピーカーから出るサウンドはひとつとして同じものは存在しない。畳の部屋にイギリスのオートグラフ(TANNOY)を置いてクラシックを聴く作家もいれば、コンクリート打ちっぱなしの地下室に米国のA5モニター(ALTEC)を設置してJAZZを鳴らす音楽評論家だっている。だから、家庭で音楽を聴く趣味をもつ人がいたら、その人数ぶんだけ異なるサウンドが響いているということだ。この面白さの中に、自身のオリジナリティを強く反映させた音楽を楽しむ、オーディオファイルの趣味性やダイナミズムがあるのだろう。
「レコード演奏家」という言葉を発明したのは、オーディオ評論家の菅野沖彦Click!だ。2017年(平成29)の秋に、久しぶりに買った「Stereo Sound」誌について記事を書いたが、その1年後、一昨年(2018年)の秋に萱野沖彦は亡くなった。彼はもともとクラシックやJAZZを得意とする録音技師(レコード制作家)で、優れた録音作品を数多く残しており、そのディスクはサウンドチェック用として日本はもちろん、世界各地で使われている。彼は録音再生の忠実性(いわゆる「原音再生」論)は、現実の家庭内における音響空間には実現しえないと説いている。2005年(平成17)にステレオサウンド社から出版された、菅野沖彦『レコード演奏家論』から少し引用してみよう。
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論理性に基づく録音と再生音の同一性は再生空間が無響空間である以外に成り立たないのである。そして、無響室は残念ながら快適な居住空間とはほど遠く、異常で不自然な空間であることは万人が認めるところ。音楽を楽しむどころか、一時間もいたら気が変になるだろう。したがって、時空の隔たった録音再生音響の物理的忠実性は、論理的にも現実的にも成り立たないことが明白なのだ。/さらに、これに関わるオーディオ機器の性能の格差や個体の問題は大きい。特にスピーカーが大きな問題であることはよくご存じの通りである。今後も、この現実についての論理的、技術的、そして学術的な解決はあり得ないであろう。伝達関数「1」は不可能なのである。
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したがって、個々の家庭における音楽再生は、個々人が選ぶ好みのオーディオ装置と、個々人が好む音楽を楽しむ環境=部屋の仕様や意匠によって千差万別であり、そこに音楽のジャンルはなんにせよ好みのサウンドを響かせるのは、個々人の趣味嗜好が大きく反映されるわけだから、それを前提にレコード(CDやダウンロードしたネット音源)をかける(演奏する)オーディオファイルは、「レコード演奏家」と呼ぶのがふさわしい……というのが菅野沖彦の論旨だ。
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なるほど……と思う。カメラ好きが、同じ機種のデジカメを使って撮影するのが同じ被写体でないのはもちろんだが、同一の被写体を撮影したとしてもプロのカメラマンとアマチュアカメラマン、それに写真撮影が好きな素人とでは、撮影する画面や画質、構図、さまざまな機能やテクニック、表現を駆使した技術面でも大きく異なるのは自明のことだ。機械はあまり使わないが、絵画の表現も同様だろう。画家によって、好みの道具(筆・ナイフ・ブラシなど)や好みの絵の具は大きくちがう。レコードの再生にも、人によって道具のちがいやサウンドの「色彩」や響きのちがいが顕著だ。
1988年(昭和53)に音楽之友社から出版された、菅野沖彦『音の素描―オーディオ評論集―』の中から少し引用してみよう。
▼
音への感覚も、多分に、この味覚と共通するものがあるわけで、美しい音というものは、常に音そのものと受け手の感覚の間に複雑なコミュニケーションをくり返しながら評価されていく場合が多い。もちろん、初めからうまいもの、初めから美しい音もあるけれど、そればかりがすべてではない。(中略) 物理学では音を空気の波動(疎密波)と定義する。もちろん、この定義はあくまで正しい。しかし、特に音楽の世界において、音を考える時には、それでは不十分だし、多くの大切なものを見落してしまうのである。私たちにとって大切なことは、音として聴こえるか否かということ。音として感じるかどうかということであって、その概念は、あくまで、私たち人間の聴覚と脳の問題なのである。音は、それを聴く人がいなければ何の意味をも持たない。受信器がなければ、飛び交う電波の存在は無に等しいのと同じようなものである。
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確かに音楽を再生して聴くという行為は、うまいもんClick!を味わう舌に似ていると思う。もともとデフォルトとなる味覚基盤(多分に国や地方・地域の好みや伝統的な“舌”に強く左右されるだろう)が形成されていなければ、そもそもなにを食べても「美味い」と感じてしまう野放図な味オンチの舌か、なにを食べても「こんなものか」としか感じられない不感症の舌しか生まれない。そこには、相対的に判断し、味わい、受け止め、感動する基準となる舌が「国籍不明」あるいは「地方・地域籍不明」で不在なのだ。
音楽を愛し多く聴きこんできた人が、オーディオ装置を通して奏でるサウンドは、その響かせる環境を問わずおしなべて軸足がしっかりしており、リアルかつ美しくて、説得力がある。換言すれば、どこか普遍化をたゆまず追求してきた“美”、料理で言えば普遍的な美味(うま)さが、そのサウンドを通じてにじみ出ている……ということなのだろう。
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そんな経験を多くしてきたわたしも、オーディオ装置には少なからず気を配ってきたつもりなのだが、ここ数年で大きめな装置が家族から「これジャマ、あれも、ジャマ!」といわれ、処分せざるをえなくなった。現在は、一時期の4分の1ほどの面積ですむ装置で聴いているけれど、それでも工夫と努力をすれば、それなりに美しい(わたしなりの)サウンドを響かせることは可能だ。それだけ、現代のオーディオ装置の質や品位は高い。最後に、わたしのオーディオの“師”だった菅野先生のご冥福をお祈りしたい。
◆写真上:舞台上に大小のハープが並ぶ、遠藤新が設計した自由学園明日館講堂。
◆写真中上:上は、2005年(平成17)出版の菅野沖彦『レコード演奏家論』(ステレオサウンド社)と同年撮影の著者。中・下は、菅野沖彦のリスニングルームの一部。スピーカーはユニットを自由に組み合わせられるJBLのOlympusやマッキントッシュXRT20、CDプレーヤーにはマッキントッシュMCD1000+MDA1000やスチューダA730、プリ・パワーアンプ類にはアキュフェーズやマッキントッシュなどが並んでいる。JBLの上に架けられている絵は、“タッタ叔父ちゃん”こと菅野圭介Click!の作品だろうか?
◆写真中下:上は、英国のタンノイ「オートグラフ」。下は、作家・五味康祐の練馬にあった自宅のリスニングルームで日本間にオートグラフが置かれている。
◆写真下:上は、米国のアルテック「A5」でJAZZ喫茶でも頻繁に見かけた。下は、JAZZ評論家・岩崎千明のリスニングルームに置かれたアルテック「620Aモニター」。よく見ると、JBLの「パラゴン」の上に「620A」が置かれているのがビックリだ。反響音を減殺するために、カーテンを部屋じゅうに張りめぐらしているようだ。TANNOYとALTECの製品写真は、いずれも「Stereo Sound」創刊50周年記念号No.200より。