Quantcast
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

智恵子は古墳の丘上に立ったか。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
大井林町1号墳倍墳?.JPG

 以前、品川大明神社(牛頭天王社)Click!にからめて、大森海岸のバッケ(崖地)Click!近くに密集する古墳群をご紹介したことがあった。やはり、江戸期まで「屍家」Click!などの禁忌的な「いわく」の伝承Click!があったものか、山内家をはじめ土佐藩の墓所にされていた鮫洲の丘(現・大井公園)と、その周辺域に拡がる古墳群だ。
 特に、大井公園を中心に土佐藩の墓域だった鮫洲駅西側の丘陵と、大井町駅にいたる起伏の多い丘陵地は、皇国史観Click!の戦前ではなく、戦後に科学的な視野のもとに詳しい調査がなされているので貴重だ。この一帯を調査したのは、学習院Click!の発掘調査チームを率いた徳川義宣Click!(よしのぶ)だった。下落合の北隣り、目白町4丁目41番地(現・目白3丁目)に住んでいた徳川義宣については、こちらでも何度か過去にご紹介Click!している。だから、戦前の妙な史観やフィルターで視界が歪んではおらず、その科学的な発掘データや報告書は貴重で信ぴょう性が高い。
 さて、鮫洲駅の北側に拡がる丘陵地帯から見ていこう。古墳時代から、東海道線や京浜急行が敷設される明治期まで、この丘の下にはすぐに海岸線が迫っていた。いまでは埋め立てが沖まで進んでいるが、明治後期(1904年ごろ)に作成された地形図を見ても、古墳期とあまり変わっていないとみられる海岸線のかたちを確認することができる。地勢は、江戸湾(東京湾)に面した浜辺から、西へ100m前後の比較的平坦な土地がつづき、いきなり17mを超える崖や丘陵が立ち上がっている。現在は、宅地開発でずいぶん急斜面が修正されているが、明治期までは海から眺めると、まるで屏風が立ちはだかるような風情に、崖や急斜面が見えたのではないか。
 JR大井町駅から京急・鮫洲駅にかけての丘陵は、おもに大森海岸を中心とした別荘地や療養地として早くから拓けている。こちらでも、1933年(昭和8)に下落合へ転居する予定だった高田町雑司ヶ谷旭出41番地(現・目白3丁目)の戸田家Click!(のち徳川家敷地Click!)が、おそらく家族に病人でも出たのか大井町へ転居先を変えている事例をご紹介Click!している。大井町は、明治期をすぎると宅地開発が急速に進み、発掘が可能な古墳はごく一部に限られていった。一帯の発掘調査が行われた時期は、すでに古墳であることが判明していたエリアが戦後すぐのころ、また調査の報告書や紀要のタイムスタンプを見ると、京浜工業地帯の衰退とともに再開発が進んだ1980~1990年代ごろが多かったようだ。
 品川歴史館でも、「品川区内の古墳についてはあまり知られていない状況」と書いており、先の徳川義宣チームの発掘を除き、現代的な調査はこれからが本番というニュアンスだ。2006年(平成18)に雄山閣から出版された『東京の古墳を考える』(品川区立品川歴史館編)所収の、内田勇樹「品川の古墳」から引用してみよう。
  
 品川区内の古墳についてでありますが、大井林町一・二号墳と呼ばれる古墳と仙台坂一・二号墳、それと大井金子山古墳群、南品川横穴墓が現在調査され確認されているものです。/図1の古墳分布図をご覧下さい。6は大井林町二号墳と呼ばれている古墳です。4は、墳丘などは確認されていないのですが、大井林町一号墳と呼ばれております。そこから、二五〇メートル北側の2,3とあるのが仙台坂一、二号墳です。そのさらに北側の7が南品川横穴墓です。/この辺一体(ママ:帯)に古墳が集まっていますが、図の左下側の大井四丁目に8があります。そこには大井金子山横穴古墳群が位置しております。(図版略)
  
Image may be NSFW.
Clik here to view.
大井町鮫洲1909頃.jpg

Image may be NSFW.
Clik here to view.
大井町鮫洲国土地理院.jpg

Image may be NSFW.
Clik here to view.
大井林町2号墳学習院徳川チーム測量.jpg

 上記の文章からもうかがわれるように、早くから別荘地や住宅の建設が進んだため、墳丘が壊されて埴輪片や副葬品などが露出している古墳が多かった。したがって、これらの古墳はたまたま発掘調査が可能だった地点の記録であり、著者は「古墳が集まってい」ると表現しているが、地域全体の“面”としては捉えられていないので、これらは大井町地域のほんの一部の遺構を垣間見せているにすぎないのではないか?……という点に留意する必要があるだろう。
 上に挙げられている古墳で、徳川義宣チームが戦後間もない1949年(昭和24)に発掘調査を行ったのは、大井林町333番地の斜面に築造された大井林町2号墳だ。墳丘はかなり破壊されており、徳川チームは50m前後の前方後円墳だったと規定している。(ただし最新の見方では、古墳の軸線がややずれているとされる) 同チームは、墳丘の周辺から散乱した埴輪片を採集している。
 また、大井林町248番地の伊達家邸内にあった、大井林町1号墳も徳川チームが調査しているが、その様子は品川大明神社の記事で詳しく取りあげているのでそちらを参照されたい。大井林町1号墳も、やはり墳丘が崩された残滓が残されており推定50m前後の前方後円墳だとされている。また、同古墳があった位置に隣接して、大井町公園内に直径10m前後の小さな前方後円墳状または円墳状の残滓(大井町公園内古墳)がかろうじて残されているが、大井林町1号墳の倍墳だろうか?
 大井林町1号墳から北へ古墳群の北北西へ230mほど、大井林町から北へ250mほどのところには、仙台坂1号・2号墳の2基が築造されていた。この2基は直径が数十メートル規模の円墳状をしており、埴輪片や周濠までが確認されている。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
大井林町1号墳.JPG

Image may be NSFW.
Clik here to view.
大井公園内古墳.JPG

Image may be NSFW.
Clik here to view.
大井林町2号墳付近.JPG

Image may be NSFW.
Clik here to view.
南品川横穴墓付近.JPG

 次に、大井4丁目の斜面から発見された大井金子山横穴墓群と、ゼームズ坂のすぐ西側の崖地にある南品川横穴墓について、同書より引用してみよう。
  
 図8~11に大井金子山横穴墓があります。大田区との境に位置する所で、品川区から大田区側にかけて多くの横穴墓が密集している地帯で、その一部をなしていると考えられます。/横穴墓は図8にもあるように三基調査されまして、一号墳から成人骨が五個体、未成人骨が一個体、小児骨が二個体と刀子と鉄鏃が検出されています。二号墳からは遺物はとくに検出されず、三号墳からは人骨などが確認されております。構築の時期は七世紀頃と報告されています。/図7の南品川横穴墓はゼームズ坂を上った所にある印刷会社の建設工事中に発見されたもので、人骨と鉄製の釧片が出土しており、七世紀後半と考えられています。(図版略)
  
 上記にも書かれているが、東京地方で横穴式古墳がいっせいに構築されはじめるのは7世紀の後半から世紀末までが中心であり、これまで何度かここでも書いてきたように、下落合横穴古墳群Click!が古い時代の調査(1960年代前半)で8世紀(奈良時代)とされたままなのが、いまひとつ納得できないテーマとして残っている。出土した直刀Click!などを観察しても、古墳時代の墳墓簡易化が進んだ7世紀後半、あるいはせいぜい8世紀初頭までの古墳時代末期とするのが妥当ではないだろうか?
 さて、大井町から鮫洲にいたる古墳跡をたどって現地を散策してきたが、南品川横穴墓がうがたれていた斜面のゼームズ坂といえば、雑司ヶ谷や目白で青春時代Click!をすごした長沼智恵子Click!(高村智恵子)が、息を引きとったゼームズ坂病院が思い浮ぶ。同病院は、ゼームズ坂から西へやや入った上り坂の途中にあったのだが、現在はマンションや住宅が立ち並んでいて昔日の面影はまったくない。病院跡には、高村光太郎Click!の詩「レモン哀歌」の碑が建立されており、碑前にはレモンがいくつも供えられていた。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
高村光太郎「智恵子の首」1916頃.jpg

Image may be NSFW.
Clik here to view.
南品川ゼームズ坂病院1935.jpg

Image may be NSFW.
Clik here to view.
ゼームズ坂病院跡.JPG

Image may be NSFW.
Clik here to view.
高村光太郎レモン哀歌碑.jpg

 わたしは、高村光太郎の感傷的な『智恵子抄』や映画(東宝1957年/松竹1967年)などで有名になった、統合失調症を発症した高村夫人としての智恵子よりも、下宿先の子どもであり文展に入選して有頂天になっている夏目利政Click!を叱りつけたり、雑司ヶ谷や目白界隈を精力的に散策しながら、次々とタブローを仕上げて太平洋画会の展覧会へ出品し、青鞜に参加して「新しい女」を生きようとしていた洋画家・長沼智恵子のほうに惹かれるので、この界隈の風景作品(後藤富郎Click!によれば『鬼子母神境内』や『弦巻川』というタイトルの作品が確認できる)が見つかったら、ぜひ紹介してみたいテーマだ。

◆写真上:大井林町2号墳(旧・伊達家屋敷)の跡に建設された大井公園に残る、同前方後円墳の倍墳のひとつかもしれない大井公園内古墳。
◆写真中上は、1909年(明治42)ごろに作成された大井町から鮫洲地域の地形図。は、同地域で発掘調査が可能だった古墳群。は、1949年(昭和24)に学習院の徳川義宣チームが発掘調査を実施した大井林町1号墳の実測図。
◆写真中下は、大井林町1号墳跡の現状(上)と、同古墳に隣接していたとみられる大井公園内古墳(下)。は、大井林町2号墳があった付近のバッケ(崖地)斜面。は、ゼームズ坂沿いの南品川横穴墓が発見された付近の住宅。
◆写真下は、1916年(大正5)に制作された高村光太郎『智恵子の首』。は、智恵子が死去した南品川ゼームズ坂病院(上)と同病院跡の現状(下)。は、病院跡に建てられた「レモン哀歌」碑に供えられているレモン。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

Trending Articles