下落合1146番地に住んでいた外山卯三郎Click!が、なぜ自邸から300m余しか離れていないところを流れている旧・神田上水Click!(1966年より神田川)ではなく、旧・千川上水に興味を抱いたのかは不明だ。
井荻駅の近く、井荻町下井草1100番地(のち杉並区神戸町114番地)に自邸を建設Click!したころ、近くを流れる旧・千川上水を散策して惹かれたものか、または大正末から1930年協会の仲間Click!や藤川勇造Click!・藤川栄子Click!夫妻らとともに、下落合からハイキングClick!へ出かけたときの楽しい想い出があるのか、あるいは西落合から下落合Click!(現・中落合/中井含む)の西端を流れる、旧・千川上水から分岐した落合分水Click!に親しんでいたのかは不明だが、1964年(昭和39)1月20日に竹田助雄Click!が発行した「落合新聞」Click!へ、『千川上水物語』と題するエッセイを寄稿している。
ちなみに、外山卯三郎の井荻時代Click!には、井荻駅の北側を通る街道(現・千川通り)に並行して、旧・千川上水が流れていた。神戸町114番地の外山邸から、1本西に通う南北道(現・環八通り)へ出て、そのまま北へ向かうと井荻駅のすぐ西側にある踏み切りへさしかかる。それを、さらに北へ住吉町をまっすぐ歩くと、550mほどで街道沿いの旧・千川上水にぶつかる。右へ曲がれば、すぐに八成橋のある地点だ。
外山邸から10分ほどでたどり着けるので、彼は一二三夫人Click!や子どもたちを連れて頻繁に散歩していたのかもしれない。また、千川上水沿いにはサクラ並木が植えられていた箇所が多く、花見に出かけるのが楽しみだったものだろうか。
「落合新聞」の記事には、当時の下落合3丁目1393番地(現・中落合3丁目)に住んでいた飯塚巳之助という方が、戦後すぐに撮影した千川上水の写真3枚が添えられている。その写真類のキャプションを、竹田助雄が担当している。
外山卯三郎の文章は、たとえば里見勝蔵Click!を評して「即ちゴヴゴリイであり、ドストエフスキーであり、又ストリンドベルヒ」でなければならず、すなわち「あざみの花」Click!だ……というように、ちょっと読者(第三者)が理解に苦しむ例示の連関や、自己完結型の比喩を用いた表現で書かれることが多い。「落合新聞」のエッセイ冒頭でも、「ギリシアの昔に水道あり、それがアラビア人によって設計された……」と、なぜ千川上水を語るのにギリシャ時代から説き起こさなければならないのか、わたしは相変わらず目を白黒させながら彼の文章を読むことになる。
ヨーロッパ水道史の概説は除き、主題である千川上水の部分を引用してみよう。
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十六世紀末に江戸に造られた上水道などは、その意味で近世の水道史上に特筆すべき大きな工事だといえるのです。この当時水道をもっていた都市はロンドンとリュテシア(昔のパリ)ですが、いずれも小規模なもので、とても江戸の上水道のような大規模のものではなかったのです。こんなすばらしい江戸の上水道の遺跡も、今日ではだれも顧る人もなく忘れ去られ、わたくしたち落合住人たちの身近を流れていた千川上水でさえも、その姿を消そうとしているのです。/千川上水は玉川上水を上保谷で分水したもので、(写真上)石神井、練馬、鷺宮、江古田、椎名、千早を経て滝野川に流れていたものです。
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ここでようやく、外山卯三郎が暗渠化される旧・千川上水の風情を惜しみ、戦後急速に進む新たな都市計画へ忸怩たる思いを抱いていたのがわかる。
文中では、江戸市街地の水道網が小規模なロンドンやパリのそれを上まわっていたと書かれているが、小石川上水から神田上水が掘削された江戸初期ならともかく、千川上水が拓かれたあとにはヨーロッパにおける疫病流行の効果的な対策として、たとえばロンドンの市街地では水道網が完備されていたはずだ。江戸後期には、ロンドンをしのぐ150万都市となる、大江戸(おえど)Click!の市街地に引かれた上水道システムClick!は、確かに世界最大規模だったとみられる。
外山卯三郎は、千川上水が「落合住人たちの身近を流れていた」と書いているが、落合地域で身近に感じられる河川は、もちろん町内を流れる旧・神田上水(1966年より神田川)と、その支流である妙正寺川のほうだろう。千川上水から南へ分岐した落合分水は、旧・葛ヶ谷地域(現・西落合)にお住まいだった方々、あるいは旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)の西寄り地域にお住まいだった方々には、暗渠化されるまで身近に感じられたのかもしれないが、下落合(中落合/中井含む)と上落合にお住まいのほとんどの方々は、おそらく旧・千川上水よりもときには暴れて洪水を起こす、目の前を流れる旧・神田上水や妙正寺川のほうがはるかに身近に感じていただろう。
このあと、徳川幕府による千川上水の工事史、あるいは明治以降に同用水を活用した紡績業や製糸業の発達史の概説“講義”がつづくが、この部分は戦前から膨大な書籍や専門書が、今日まで数多く出版されているので省略させていただき、外山卯三郎自身の感慨や主張が書かれている部分を、再び『千川上水物語』から引用してみよう。
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戦後、あちらも、こちらも戦災のために荒廃してしまいましたが、千川上水一帯の桜並木は、老木となって枯れたものは別として、落合や長崎、練馬の方面の人たちは一つのオアシスのように親しまれていたのです。それが戦後の区画整理や都市計画のために、ゆかりのある姿も消失してしまっているのです。それでも石神井の近くまでゆきますと、まだ千川上水の昔のおもかげをしのぶ桜並木(写真左上)が、静かな風情をとどめているようです。豊玉あたりでは、拡張された道路の真中に、この誇りたかい千川上水の桜の木が、傷だらけのはだに、真白な砂ほこりをかむって気息えんえんとしているのです。
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この文章から56年後の今日、流れがかろうじて残る旧・千川上水沿いには緑地道や遊歩道が設置され、流れの大部分は暗渠化されてしまったものの、千川通りには随所でみごとなサクラ並木が復活している。ただし、外山卯三郎が願っていた風情は、旧・千川上水の流れに沿ってつづくサクラ並木の光景だったのだろう。それは、おそらく井荻時代に家族たちとともに歩いた、思い出深い花見の情景だったのかもしれない。
外山卯三郎が惜しんだ、戦後の再開発で消えてゆく上水沿いのサクラ並木は、下落合の自邸からは遠い旧・千川上水ではなく、すぐ近くの旧・神田上水(神田川)で「復活」している。もっとも、このサクラ並木は旧・江戸川Click!(大洗堰Click!から千代田城の外濠手前の舩河原橋Click!までの川筋)沿いに植えられ、江戸期からうなぎClick!と花見の名所となっていた風景を、さらに上流の旧・神田上水沿いで再現したものだ。
江戸川橋から、面影橋Click!の西側にある高戸橋まで、約2kmほどつづく旧・神田上水沿いの光景を眺めたら、おそらく外山卯三郎は花見の時期には家族を連れて散策したくなっただろう。井荻の自邸には、当時の住宅としてはたいへんめずらしいテラスに面してプールがあったほどだから、水浴びや泳ぐのが好きだった彼は、さっそく小学生たちに混じって、きれいになった神田川Click!で泳いでいたのかもしれない。
ちなみに、毎年夏休みの時期になると神高橋Click!の下で、水着になった大勢の小学生たちが神田川で泳いで(水遊びClick!をして)いるが、学校の夏季行事の一環なのだろうか。それとも、新宿区が主宰する神田川水遊びイベントに参加した子どもたちなのだろうか。
◆写真上:旧・千川上水を描いた、1957年(昭和32)制作の春日部たすく『千川落日』。
◆写真中上:上は、「落合新聞」1964年(昭和39)1月20日号の外山卯三郎『千川上水物語』。中上は、旧・玉川上水(右)と旧・千川上水(左)の分水嶺。中下は、練馬区と杉並区の境界を流れる旧・千川上水。下は、練馬駅付近を流れる旧・千川上水。いずれも「落合新聞」掲載の写真で、1950年(昭和25)ごろ撮影されたもの。
◆写真中下:上は、1935年(昭和10)ごろ撮影されたサクラ並木の千川上水。写っている人物は、東環乗合自動車Click!(旧・ダット乗合自動車Click!)のドライバーとバスガール。(提供:小川薫様Click!) 中上は、1950年(昭和25)に豊島区内で撮影された千川上水。中下は、1955年(昭和30)ごろ撮影された西落合1丁目を流れる落合分水。下は、同じく下落合(現・中井2丁目)の妙正寺川にそそぐ暗渠化された落合分水の合流口。
◆写真下:上は、1941年(昭和16)に撮影された空中写真にみる杉並区神戸町114番地の外山卯三郎邸と旧・千川上水の位置関係。中は、2葉とも旧・神田上水沿いにつづくサクラ並木。下は、夏休みには水遊びで賑わう神田川。(写真は神高橋下)