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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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菓子屋が異常に多い大正末の高田町。

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自由学園校舎1.JPG
 大正末の高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の小売り商店には、菓子屋が飛びぬけて多い。高田町雑司ヶ谷1151~1154番地(のち雑司が谷町6丁目→現・西池袋2丁目)にあった自由学園Click!の高等科女学生たちが、卒業制作のプロジェクトとして1925年(大正14)に実施した同町の全戸調査では、144店の菓子屋および70店の駄菓子屋が報告されている。合計すると214店舗となり、これは高田町の人口や面積からすればとんでもなく多い数字だ。
 たとえば、1925年(大正14)2月末の時点で高田町内の米屋は70店、八百屋(青果屋)は86店、魚屋は47店、肉屋は16店、酒屋は96店、燃料販売(薪炭屋)は89店、豆腐屋は26店(彼女たちは、実際に各店舗をすべて訪問して実地調査している)だが、菓子屋(駄菓子屋含む)は214店と突出している。
 前回の記事に、卒業レポート『我が住む町』Click!(自由学園/1925年/非売品)に掲載されたカラーの店舗数グラフを掲載したけれど、菓子屋と駄菓子屋を合計すると、他店に比べて飛びぬけた数字であることがおわかりいただけるだろう。高等科の女学生たちは、高田町の全戸数をベースに何戸の家々が、菓子屋・駄菓子屋を支えているのかを算出したところ、1店につきわずか33戸(家庭)の顧客で商売が成立していることに呆れている。
高田町店舗.jpg
 同様に、1店舗を支える高田町の家庭数は、米屋が102戸(家庭)、八百屋(青果屋)が82戸、魚屋が151戸、肉屋が442戸、酒屋が74戸、薪炭屋が79戸、豆腐屋が272戸で、これは当時の東京市全体の割合(1店舗/顧客戸数)と大きくは変わらないが、高田町では菓子屋の多さのみが異常な数値となっている。
 彼女たちの菓子店についてのレポートを、『我が住む町』から引用してみよう。
  
 (高田町の)店といふのは大概日用品の小売店で、近所の人々が相手であるとすれば、誰でも小売商が多過ぎるといふことに気がつく。そして中でも一番多いのは菓子屋であつた。(中略) たしかに小売商の王であらう。主食物でもないこの菓子屋が、こんなに多いのをみても、時を定めずお茶を飲みお菓子を食べ、来客には同じやうに菓子をすゝめることの多い、兎角無駄食ひに時と金とを費やしてゐる我々の生活が省みられる。高田町の戸数から割出してみると約三十三軒の家で一軒の菓子屋を支へてゐることになる。これを東京市市勢調査の統計にあらはれてゐる四十七軒に比較してみると、高田町の菓子屋があまりに多すぎるのである。(カッコ内引用者註)
  
池袋西口西池袋(昭和初期).jpg
目白通り米屋1931.jpg
自由学園校舎2.JPG
 ちなみに、女学生たちは高田町と東京市ばかりでなく東側に隣接する小石川区(現・文京区の一部)の統計とも比較し、1店舗当たりの顧客戸数を算出している。それによれば、小石川区の全域で米屋は227店で1店/94戸(家庭)、八百屋(青果屋)が272店で1店/113戸、魚屋が264店で1店/120戸、肉屋が64店で1店/495戸、酒屋が312店で1店/102戸、菓子屋が594店で1店/53戸、薪炭屋が252店で1店/126戸、豆腐屋が57店で1店/556戸となっている。
 小石川区の数字は、全東京市の割合とも大差なく近似しているが、高田町はいずれの小売店も顧客戸数が少なめで、かなり激しい競合状態(顧客の奪いあい状態)であったことがうかがわれる。そして、彼女たちがとにかく「無駄食ひ」wを指摘するように、特に菓子屋(駄菓子屋含む)が非常に多いのが高田町の特色だった。
 顧客の戸数(家庭)が少なければ、商品の価格を上げて利益率を多くしなければ、商店経営は成り立たない。つまり、彼女たちは高田町の物価がおしなべて他町よりも高いのは、同業の小売商店があまりに多すぎるからであり、その競合が激化するから店舗ごとに商品価格を吊り上げざるをえないのだと分析している。今日の商売からいえば、競合が激化すれば他店よりもできるだけ安く販売し、より多くの顧客を獲得するというのが常套だが、それはマスマーケティングの発想であって、大正末の限られた町内の、そのまた限られた商業地では、まったく逆の現象が起きていたことがわかる。今日的な表現でいえば、同業店の競合で“物価高スパイラル”に陥っていたわけだ。
 では、高田町への菓子店集中の理由を、彼女たちはどのように分析していたのだろうか。ひとつは、関東大震災Click!のために東京市街地から移入してくる人々が急増し、そこで新たな生活基盤を築かなければならなかったことを挙げている。ふたつめとして、新たな商売をはじめるとなると、菓子屋が資本も少なくもっとも手軽に開店できる店舗だったため、自然に“供給過多”の現象が起きているのではないかと推測している。
 彼女たちの分析はここまでだが、それに加え高田町は東京の市街地に隣接した“近郊”であり、大震災後の人口急増を見こんだ小売商たちが、復興が遅れている地域から大挙して高田町へと移転してきたのではないかとも推測できる。この傾向は、被害が少なかった東京市の外周域や近郊ではよく見られる現象であり、復興が遅れている(城)下町Click!から料亭や置屋などが次々と移転して、神楽坂という花柳界を新たに形成したように、近い将来は人口が急増し、交通機関も整備されることを見こした移転ではなかっただろうか。
山手線目白駅.JPG
武蔵野鉄道.JPG
王子電車.JPG
 自由学園高等科の女学生たちは、実際に町内の菓子屋全店を訪問しているが、その詳しいインタビューの中で、とある菓子屋が面白いことを指摘している。高等科3年だった奥村數子と、菓子屋の主人との会話を少し引用してみよう。
  
 『お客様と云ふものは案外人のよいもので、一つのものを買つてその値段が他より少し高い時、手前共のはアンコがいいとか又品が違ふとか云ふと、ほんとうにして買つて行きますよ。ですからね、各小売商で同じ物でも他店とはちよつと器用に形を代(ママ:変)へたりして、値段はいろいろにつけられます。そこへ行くとビスケツト類なんか、一番つまりません。製造元が二つ位しかありませんから、品がいゝとも云へないし、どこの菓子屋にもあるものですからな、キヤラメル類でもさうです。かうしたものはまあ利益は五分位と云ふ所ですな。併し自分の家独特と思つてゐても、お菓子屋同志(ママ:同士)互ひに探偵を使つて方々の家を探りあふのですから、直ぐまねされます。それで利益を少くして安く売ると云ふ段になるのですが、お客といふものは、また変なものでして、他に少し位安い所があつても、買ひつけた店を好むものですよ。安くするだけ結局損をする形になるから、ついどこでも同じ様になつて行くのです。』
 『本当に物価が高い高いと云ひながら、それに甘んじて居るのですね。』(中略)
 『お菓子屋さんはこの辺に随分ありますね。』
 『ほんとうにね、特にお菓子屋なんか多すぎますね、それと云ふのも優しくて素人にも出来るからですな――。』(カッコ内引用者註)
  
 「自分はいい買い物をした」と思いこみたがる消費者の心理を読んだ、まるで営業マンのクロージングを思わせる商売上手な主人の話だが、うちは他店よりも高いものを買っているという、どこか乃手Click!の見栄や格好づけをしたがる性質を、うまく商売に利用しているともいえそうだ。特に下町から移転した商店では、乃手の性質や傾向を見こして商品に「付加価値」らしきことを盛りこみながら、営業していたのではないだろうか。
高田町北部住宅明細図1926商店.jpg
目白駅前(昭和初期).jpg
目白駅前1970前後.JPG
 さて、高田町の西側あるいは南側に隣接する同時代の落合町では、リテールの現場はどのような様子をしていたのだろう。大正末の詳細な調査記録が残っていないので、正確なことはいえないのだが、高田町と大差ない状況ではなかったかと思うのだ。

◆写真上:女学生たちも歩いただろう、F.L.ライト設計による自由学園の回廊部。
◆写真中上は、昭和初期の西池袋界隈。は、1931年(昭和6)に撮影された目白通り沿いの米屋。は、自由学園の独特なデザインの採光窓。
◆写真中下は、高田町の中心的な駅である山手線・目白駅。は、高田町の北部を通る武蔵野鉄道(現・西武池袋線)。自由学園は、同線のひとつめの停車駅だった上屋敷駅が直近だった。は、高田町の西側を走る王子電気軌道=王子電車(現・都電荒川線)。1925年(大正14)当時は鬼子母神電停が終点で、南側に車庫があった。
◆写真下は、自由学園高等科によるリサーチの翌年にあたる、1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」にみる高田町の施設や商店。は、昭和初期に撮影された東環乗合自動車Click!バスガールClick!たちが写る目白駅前の商店街。(小川薫アルバムClick!より) は、1970年前後の撮影とみられる目白駅前の様子。

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