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「帝展に落選」する帝展無鑑査の片多徳郎。
下落合734番地で暮らした片多徳郎Click!は、つるゑ夫人に7人の子どもたちとともに9人の大家族で、とても賑やかな家庭だった。それに、面倒をみていた親戚を加えると、およそ10人以上の人々に囲まれ、頼りにされて生活していたことになる。だが、片多徳郎は常に孤独感に苛まれていたようだ。...
View Article大正初期の近衛邸の丘をとらえた写真。
神田川の北側、高田村(大字)高田(字)稲荷938番地(1920年の高田町以降は高田八反目778番地)に、薗部染工場が創立されたのは1913年(大正2)のことだった。薗部辰之助が創立した同工場は、現在の宝印刷の本社がある南側、十三間通り(新目白通り)にかかるあたりに敷地があり、下落合の町境からわずか180mほどしか離れていない。...
View Article大正期の「目白」情報が満載の『我が住む町』。
ちょっとこれまで類例がない、面白い資料を古書店で見つけた。1925年(大正14)に卒業を目前にした自由学園高等科の女学生たちが中心になってまとめ、自由学園Click!の羽仁もと子Click!が同年5月に出版した『我が住む町』という詳細なレポートだ。ここでいう「町」とは東京府北豊島郡高田町で、現在の目白、雑司が谷、高田、西池袋、そして南池袋の地域一帯のことだ。...
View Article哲学堂上空から下落合を鳥瞰1941年。
陸軍航空隊が撮影したとみられる、非常にめずらしい空中写真を入手した。ちょうど、西落合2丁目968~990番地(のち同2丁目430番地)の四村橋Click!ぎわに建っていた、オリエンタル写真工業第二工場Click!の真上あたりから、ほぼ真東を向いて撮影された斜めフカンの空中写真だ。...
View Article高田町の全商店舗調査1925年。
1925年(大正14)2月に、高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)に存在するすべての住宅、商店、企業、工場、各種施設を調査した自由学園高等科の女学生たちClick!は、卒業レポートとして『我が住む町』を出版している。これは、アンケート用紙を配布して記入する国勢調査よりもよほど詳しく、全戸を訪問して直接のインタビューや観察をもとに記録する調査だった。...
View Article高田町の全工場・事業所調査1925年。
前回、自由学園高等科の女学生たちが実施した社会調査レポート『我が住む町』Click!から、1925年(大正14)2月の時点で高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)に存在していた、すべての商店について記事Click!にしたが、今回は同町で操業していたすべての工場や事業所についてご紹介してみたい。...
View Article高田町の「貧乏線」調査1925年。
大正末の高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)を対象とした「貧乏線の調査」Click!では、自由学園高等科の女学生たちClick!が社会調査の方法論を学ぶために、高田町四ッ谷(四ッ家)344番地(現・高田1丁目)に住んでいた早稲田大学の教授・安部磯雄Click!に相談したことは前の記事でも書いた。その教えにより、彼女たちは詳細な質問カードを作成している。...
View Article夕立がきそうな三宅克己『諏訪の森』。
1918年(大正7)のよく晴れた夏の日の午後、淀橋町柏木407番地のアトリエをあとにした三宅克己Click!は、画道具を肩に蜀江山Click!を左手に見ながら迂回すると、中央線・大久保駅の先にある道路(現・大久保通り)へと抜けて踏み切りをわたった。そのまま新大久保駅のガードをくぐり、すぐに北へと左折して戸山ヶ原をめざす。戸山ヶ原Click!の写生では、以前から歩きなれた道順だ。...
View Article高田町の商店レポート1925年。(1)米屋
自由学園高等科の女学生Click!で、卒業を間近にひかえた2年生の渡邊美喜が訪ねた店舗は米屋だった。畑の間を歩いて店舗に向かっているため、この米穀店は自由学園近く雑司ヶ谷上屋敷あたりの商店だろうか。...
View Article1,800万人のご訪問と目白文化村絵はがき。
自由学園Click!が1925年(大正14)5月に出版した、『我が住む町』Click!(非売品)の高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)を対象にした全戸調査Click!が面白くて夢中で記事Click!を書いているうちに、いつのまにか訪問者数がのべ1,800万人を超えていました。いつもお読みくださり、ほんとうにありがとうございます。 ★...
View Article高田町の商店レポート1925年。(2)肉屋
高田町Click!(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の肉屋を訪ねたのは、自由学園Click!高等科2年生の金子勇城子という女学生Click!たちだった。「肉屋と云へば、あの鋭い肉切包丁を連想して何となく恐しい感じがする」と、やや怯えながら2軒の肉屋を訪問している。...
View Article下落合を描いた画家たち・柏原敬弘。
洋画家の柏原敬弘Click!が、いつごろから下落合803番地に住んでいたのか、資料がないので正確なところはわからない。だが、1924年(大正13)以降は絵を描いておらず、鈴木誠Click!によれば「気が狂った」状態になったので、画家をやめてしまったものと思われる。それまでは、同住所のアトリエで制作しているので、かなり早くから下落合に住んでいた可能性がありそうだ。...
View Article高田町の商店レポート1925年。(3)魚屋
自由学園Click!高等科2年の、梅津淑子がインタビューClick!に訪れた魚屋が面白い。親切で頭もよく働く主人だったらしく、彼女が聞きたいことへ的確に答えてくれている。ただし、最初に訪ねたときは、彼女が自由学園の制服を着ているにもかかわらず、魚屋の商売を実地に体験したい女の子、つまり1日店員で仕事がしたい女学生だと勘ちがいしたらしく、早とちりの受け答えをしている。...
View Article高田町の商店レポート1925年。(4)八百屋
自由学園Click!高等科の2年生だった、山田久子が訪ねた八百屋(青果屋)も話し好きで面白い主人だった。最初は、お客とまちがえられモジモジしてしまった彼女だが、自由学園の調査だと告げると、主人は「そんなら八百屋といふ商売程もうからないものはないと書いて下さい」といって笑った。...
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