自由学園高等科の女学生Click!で、卒業を間近にひかえた2年生の渡邊美喜が訪ねた店舗は米屋だった。畑の間を歩いて店舗に向かっているため、この米穀店は自由学園近く雑司ヶ谷上屋敷あたりの商店だろうか。
「落ちやうとして落ちきらぬ夕陽が、高くそびえた雑木の間をもれて、向ふのガラス窓に赤々と映えてゐる静な春の夕暮だつた」と、まるで文学作品のような冒頭ではじまる取材レポートは、どうやら以前から知り合いだった米屋を訪問しているらしい。主人のことを、「元気のいゝ米屋さん」と表現していることから、自宅の近所にある家では馴染みの店なのかもしれない。
米俵がたくさん積まれた店前に立ち、ガラス戸を開けるとあいにく主人は留守だった。応対に出たのは愛嬌のあるまだ子どもの小僧で、出直そうかと迷っていると、年上の小僧が配達を終えたのか店にもどってきた。そこで、大きいほうの小僧を相手に、彼女はさっそく米の流通ルートや消費者(高田町)のニーズを聞きだそうと取材をはじめた。以下、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)の、「小売商を訪ねて」から引用してみよう。
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『こちらのお米はどちらから参りますか。』『山形からきますんです、庄内米と云ひますが……あゝ主人が帰つて参りました。』 ふりかへると若いこの家の主人が、にこにこして立つてゐる。小僧さんが主人にいろいろとわけを話してくれる。『あゝさうですか。では知つてゐるだけお答へいちしませう。えゝお米には硬質と軟質があります。硬質の方は炊くとふえますが、味は軟質のにおとります。これでまあ硬質の方は工場等と云ふ大ぜい人のゐる所に喜ばれ、楽をしてゐる方は皆軟質向きですね。うちなどはこの辺のことですから、軟質ばかりしか扱つてをりません。一番よく売れますのは矢張三等米ですな。半搗米は割合によく売れる様になつてきました。二十俵について一俵くらゐの割です。』
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現在でも、山形米は東京で非常に人気が高い。特に寿司屋の握りは、古くからの店ではシャリに庄内米(山形米)を指定しているところが多い。コシヒカリやあきたこまち、ゆめぴりかなど、北国のさまざまなブランド米が誕生する中で、山形米の占める割合いは大きいだろう。うちでも、山形の「つや姫」を常食にしている。
「三等米」は、いまでもある米の等級規格で、粒ぞろいが45%以上の食用米のことで、質の悪い米粒の混入率が30%以下のものを指している。「半搗米」とは、完全に精米して白米にはしない「五分搗き米」などのことで、ビタミンなどの栄養価をより多く摂取できる米のことだ。大正期には、いまだ江戸期からつづく脚気が多かったものか、健康に気を配る家庭では白米ではなく「半搗米」を注文していたのだろう。
また、「硬質米」と「軟質米」の区分は、現在つかわれている用語と大正期の用語とでは意味が異なっており、「硬質米」というのはおもに西日本で生産された水分量の少ない米を指し、「軟質米」とは関東以北で収穫された米を指している。もちろん、高田町に限らず江戸東京では、昔から北国の「軟質米」が好まれていて価格も高い。この米屋は、上り屋敷あたりの屋敷街で商っているせいか、軟質米しか扱っていないようだ。
次に、女学生Click!は米の流通ルートについて質問している。当時の米は、農家からまず生産地にある一次問屋に売られ、その問屋から各県レベルの問屋に卸される。その段階で、県庁で行われる厳密な品質検査に合格しなければ、他の県への輸出が許されない。この検査で、その収穫年の“標準米”(各県ごと)が決定される。このあと、ようやく他県(たとえば東京市)の問屋へ輸送する許可が下りる。
東京市の問屋から、各小売店へ卸されるときは、米一石につき20銭の口銭(手数料のこと)をとる。ただし、米相場の上下によっては、この口銭だけで膨大な利益を生むことができる仕組みだ。女学生は、生産地の問屋の利益についても訊いているが、米屋は「その辺は一寸わかりません」と答えている。そして、最終的に小売りから消費者に売るときの利益は、平均7分ほどの儲けだと回答している。高田町で、もっとも米が売れるのは10月で、1日に12俵ぐらいの商いがあるらしい。この店は、主人+小僧がふたりの3人なので、繁忙期はなかなかたいへんだったようだ。
つづけて、『我が住む町』から女学生の取材レポートを引用してみよう。
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『(前略) 勘定は震災後は全部現金でしたが、この頃はまた掛買ひのお客様が多くなりました。家では現金の方が都合がいゝのですが、どうしてもさうばかりは参りませんので。何が一番こまるつてまあ米が悪いとか何とか小言を云はれるのは、いゝ米を持つて行けばいゝのですが、金を払つて貰へないのには一番弱りますな。それにつゞけてとつて頂いたお家ですと、あまり強く云ふことも出きませんしね。もうこの店を開いてから五年になりますが、とれなかつたのは五百円位です。でも家なんかは気をつけてをりますから割に少い方でせう。』/かう語りおへて人のよさゝうな主人は盛んにもみ手をしてニコニコしてゐる。私は心からお礼を云つて表に出た。
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ここでも、大江戸の昔と変わらない、商人泣かせの乃手Click!の「顧客」が登場している。大正末の「五百円」といえば、今日の300万~500万円ぐらいだろうか。商品をとどけさせて消費してしまったあと、その商品に難癖をつけて金を払わない詐欺のような手口だが、商人は客商売なのでなかなか訴訟沙汰にはできない。
商人から掛け買いをして、あとから難癖や脅しでカネを払わないケチな旗本や諸藩を称して、江戸の街中では象徴的に「人が悪いよ糀町(麹町)」Click!(乃手は人品がさもしい)といわれていたが(確かに江戸期の商人は裕福だったが、武家は内証が火の車だった邸が多い)、同じようなことが大正期の山手でも起きていたようだ。「いま、おカネがないから待ってくれ」と素直に打ち明けて話せば、商人たちはしかたがないので待っただろうが、自家の商品をけなされ貶められてまで商売はしたくなかっただろう。「家(うち)なんかは気をつけていますから」に、主人の苦労がにじんでいるようだ。
さて、自由学園高等科2年生の渡邊美喜が訪ねた米屋は、たいへん親切な商店だった。同学園高等科2年生で、おそらく同一人物とみられる「渡邊みき」(こちらは名前が仮名で書かれている)が訪ねた床屋では、けんもほろろの扱いを受けている。最初は、本科1年の女学生が訪ねたのだが、怒られたので年長の渡邊みきに報告したものだろう。つづけて、同書の「調査の感想」から引用してみよう。
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一年の方が私のそばに来てさゝやいた、「このうち変なのよ。怒つてるの」 それは床屋だった。私はガラス戸を開けた。床屋の主人は客の頭を刈つてゐた。私が「自由学園……」と云ふなり主人は怒鳴つた、「今小さい人が来て、家ではいゝと云ふのに、こんな紙をおいていつたんです。」 そして私の問ひに対して「そんな事は町会でおきゝなさい」と云つた。で私は「では恐れ入りますが町会で分らない所だけきかして頂き度うございますが」と前おきをしてきいた。併し彼は知らん顔をしてだまつてゐる 何を云つても。
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このあと、奥からおかみさんが出てきて女学生たちの質問になんとか答えてくれるのだが、彼女たちは主人の失礼な対応に少なからず腹を立ててもどっている。
巻末の「調査の感想」では、訪れた商店や住宅について感じたことを、歯に衣を着せず自由に“評価”しているのが面白い。もともと、高田町の環境向上を願ってはじめた調査だっただけに(事実、このレポートは高田町に提出され町政の参考にされている)、それを理解できない大人たちについては容赦なく不満をぶちまけている。
中には、女学生ならではの観察眼から人間を3つのタイプに分けている感想もあったりするので、読んでいて飽きない。羽仁もと子は、彼女たちの自由な文章を添削せず、おそらくそのまま掲載しているのだろう。次は、「肉屋」の取材レポートをご紹介したい。
<つづく>
◆写真上:黄色い灯りがともる、夜の自由学園校舎(現・自由学園明日館)。大正当時ならなおさら、周辺の環境へモダンな灯りをともしていたのだろう。
◆写真中上:当時の米屋の店先には、問屋からとどく米俵が山と積まれていた。
◆写真中下:自宅で撮影された、自由学園創立者の羽仁吉一・羽仁もと子夫妻。
◆写真下:1921年(大正10)5月5日に撮影された、自由学園高等科の入学記念写真。
一年の方が私のそばに来てさゝやいた、「このうち変なのよ。怒つてるの」 それは床屋だった。私はガラス戸を開けた。床屋の主人は客の頭を刈つてゐた。私が「自由学園……」と云ふなり主人は怒鳴つた、「今小さい人が来て、家ではいゝと云ふのに、こんな紙をおいていつたんです。」 そして私の問ひに対して「そんな事は町会でおきゝなさい」と云つた。で私は「では恐れ入りますが町会で分らない所だけきかして頂き度うございますが」と前おきをしてきいた。併し彼は知らん顔をしてだまつてゐる 何を云つても。
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このあと、奥からおかみさんが出てきて女学生たちの質問になんとか答えてくれるのだが、彼女たちは主人の失礼な対応に少なからず腹を立ててもどっている。
巻末の「調査の感想」では、訪れた商店や住宅について感じたことを、歯に衣を着せず自由に“評価”しているのが面白い。もともと、高田町の環境向上を願ってはじめた調査だっただけに(事実、このレポートは高田町に提出され町政の参考にされている)、それを理解できない大人たちについては容赦なく不満をぶちまけている。
中には、女学生ならではの観察眼から人間を3つのタイプに分けている感想もあったりするので、読んでいて飽きない。羽仁もと子は、彼女たちの自由な文章を添削せず、おそらくそのまま掲載しているのだろう。次は、「肉屋」の取材レポートをご紹介したい。
<つづく>
◆写真上:黄色い灯りがともる、夜の自由学園校舎(現・自由学園明日館)。大正当時ならなおさら、周辺の環境へモダンな灯りをともしていたのだろう。
◆写真中上:当時の米屋の店先には、問屋からとどく米俵が山と積まれていた。
◆写真中下:自宅で撮影された、自由学園創立者の羽仁吉一・羽仁もと子夫妻。
◆写真下:1921年(大正10)5月5日に撮影された、自由学園高等科の入学記念写真。