自由学園Click!が1925年(大正14)5月に出版した、『我が住む町』Click!(非売品)の高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)を対象にした全戸調査Click!が面白くて夢中で記事Click!を書いているうちに、いつのまにか訪問者数がのべ1,800万人を超えていました。いつもお読みくださり、ほんとうにありがとうございます。
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きょうは、高田町から西隣りの下落合にもどって、いつかテーマに取り上げた箱根土地Click!による目白文化村Click!の絵はがきシリーズClick!について書いてみたい。というのも、箱根土地がSPツールとして発行した絵はがきのうち、カラー(人着)ではなくモノクロの絵はがきの1枚を、ようやく手に入れたからだ。
写真にとらえられているのは、1922年(大正11)に販売がスタートした目白文化村の中で、もっとも早期に竣工したとみられる、またしても第一文化村の神谷邸(下落合1328番地)だ。キャプションも、「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」と添えられている。神谷邸が絵はがきに登場するのは、人着でカラーリングされた第一文化村の街並みをとらえた、もっとも有名な「目白文化村」絵はがきClick!と、ほぼ2ヶ月後に発行されたとみられる「目白文化村の一部」絵はがきClick!に次いで三度目だ。
これほど頻繁に登場するのは、神谷家と箱根土地との間で目白文化村の広報宣伝に関する、なんらかの契約がなされていたものだろうか。モノクロの絵はがきは、この「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」以外にも、同じく第一文化村の永井外吉邸(下落合1601番地)の応接間と台所をとらえた室内写真のもの、各1種類ずつが存在しているとみられる。永井外吉は東京護謨Click!や箱根土地などの役員なので、販促用の絵はがき制作で自宅内部の撮影に協力しているのだろう。
「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」に写っているのは、キャプションのとおり神谷邸の門と玄関、そして中央の母家と南にのびるウィングの一部だ。目白文化村が販売された1922年(大正11)、同じ第一文化村の中村邸Click!(下落合1321番地)と同様に、箱根土地の建築部に勤務していた河野伝Click!の設計だと伝えられている。明らかに当時流行していたライト風Click!の建築だが、母家の建て替えは戦時中から戦後にかけて行われているとみられ、わたしが目にすることができたのは大谷石とレンガを組み合わせた、特徴のある門の意匠だけだった。1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!の直前、4月2日にF13偵察機Click!によって撮影された空中写真を見ると、南と東へのびるウィングの屋根は確認できるが、中央の母家が解体されているように見える。
さて、従来のカラー(人着)絵はがきとモノクロ絵はがきには、着色の有無以外にも大きく異なる点がある。絵はがきの裏面、つまり宛先や文面を書く面のレイアウトだ。従来のカラー(人着)絵はがきは、明らかに最初からSPツールとして制作されているため、差出人欄には箱根土地株式会社と所在地、連絡先電話番号などがあらかじめ刷られており、目白文化村を宣伝するボディコピー(文面)が印刷されている。
第一文化村の街並みを撮影した「目白文化村」絵はがきでは、「ウイルソンは『住居の改善は人生を至幸至福のものたらしむる』と極言致して居ります」ではじまるボディコピーが、また「目白文化村の一部」絵はがきでは、「新緑の風薫る目白文化村は昨夏本社が趣味と健康とを基調として建設致候ものにて直に分譲済と相成申候」ではじまるボディコピーが印刷されていた。双方のカラー(人着)絵はがきとともに、配達された郵便スタンプや文面から販売開始の翌年、1923年(大正12)に見込顧客あてに郵送されたものだとわかる。だが、モノクロ絵はがきの裏面はまったく異なっている。
「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきは、通常の観光絵はがきと同様のデザイン・レイアウトであり未使用なのだ。つまり、販促用としてではなく、一般の絵はがき(郵便はがき)として汎用的に利用できるようになっている。しかも、「目白文化村の一部」絵はがきに見られた印刷所の記載、「合資会社日本美術写真印刷所印行」という文字もなく、フランス語で「UNION POSTALE UNIVERSELLE/CARTE POSTALE」と青文字で刷られているだけだ。「万国郵便連合のはがき」というのも大げさだが、日本で印刷された当時の絵はがき類には、たいてい印刷されているフレーズだ。
「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきが制作されたのは、いつごろのことだろうか。もし、先述した永井外吉邸の室内を写したモノクロ絵はがきと同時期だとすれば、第一文化村の前谷戸Click!の埋め立て(1923年夏)が完了し、下落合1601番地に永井邸が建設されたあと、1925年(大正14)ごろということになる。そのころには、目白文化村の販売はあらかた終わり、第四文化村Click!を除く他の区画はほとんど完売していたので、販促ツール用の絵はがきを改めてつくる必要がなくなっていただろう。だから、汎用的な絵はがきの仕様になったのだとみることができる。
また、別の角度から考察してみると、1923年(大正12)の初夏に印刷され見込顧客へ大量に配布された、カラー(人着)の「目白文化村の一部」絵はがきにみる神谷邸の庭と、モノクロの「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきの庭とでは、玄関横に植えられている樹木の高さがかなり異なる。カラー(人着)絵はがきのほうは、玄関横の樹木の先端が門柱とほぼ同じぐらいの高さなのに対し、モノクロ絵はがきの樹木は、門柱よりもかなり上へ突き出て成長しているのだ。
どのような樹木なのかは不明だが(針葉樹のアカマツのような気がするが)、少なくとも1m以上は成長しているように見える樹木のグロースタイムを考慮すると、両絵はがきの間には数年間の経年が想定できそうだ。したがって、モノクロの「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきは、大正末から昭和初期に印刷された可能性が高いとみられる。ただし成長が速い、たとえばアカマツやクスノキ、クヌギ、ヒノキなどの庭木だと、1年間に場合によっては1m前後も伸びることがあるため、いちがいに断定することはできない。(わたしも不用意にヒノキを植えて、ひどい目に遭った経験があるw)
大正末から昭和初期にかけて制作されたらしい「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきだが、以前にも書いたように「目白文化村絵はがきセット」が存在した可能性が高くなった。販売当初のカラー(人着)絵はがきを除けば、すでに3種類のモノクロ絵はがきが判明している。また新たな絵はがきを発見したら、改めてご紹介してみたい。
◆写真上:汎用性を備えた、「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがき。
◆写真中上:上は、1923年(大正12)3月10日に発送されたもっともポピュラーなSP用「目白文化村」カラー(人着)絵はがき。中は、1923年(大正12)5月22日に発送されたSP用「目白文化村の一部」カラー(人着)絵はがき。下は、会津八一Click!の文化村秋艸堂跡Click!(旧・安食邸Click!)前から突きあたりの神谷邸の門を望む。
◆写真中下:上は、1923年(大正12)3月10日の「目白文化村」カラー(人着)絵はがき裏面のボディコピー。中は、1923年(大正12)5月22日の「目白文化村の一部」カラー(人着)絵はがき裏面のボディコピー。下は、郵便はがきとして汎用性をもたせた「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきの裏面。
◆写真下:上は、1923年(大正12)5月22日の「目白文化村の一部」絵はがきに写る神谷邸の植木。中は、「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきに写る成長した植木。下は、第一文化村の二間道路でいちばん奥が神谷邸の門と大谷石の階段。(すでに解体)