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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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高田町の商店レポート1925年。(2)肉屋

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自由学園桜の季節.JPG
 高田町Click!(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の肉屋を訪ねたのは、自由学園Click!高等科2年生の金子勇城子という女学生Click!たちだった。「肉屋と云へば、あの鋭い肉切包丁を連想して何となく恐しい感じがする」と、やや怯えながら2軒の肉屋を訪問している。
 最初の肉屋は、にぎやかな表通り(目白通りだろう)の店舗で、大きな店構えだった。そこの主人は、現金買いのお客が多いと話してくれたが、得意先の軒数などを訊くと「さあ分りませんね」と教えてくれず、商売の中身については話したがらなかったらしい。取材中に5人の客が来店したが、いちばん売れるのはロースや上肉だという主人の言葉を最後に、彼女たちは店を出た。「調査によつて多くの人々に接する機会を持つた私たちは、大分人の気持を察することがさとくなった」と書いているように、取材の深追いをしても詳しく話してくれそうもないと、早々に見切りをつけたのだろう。
 夕方近くなって、彼女たちはもう1軒の少し小さめな肉屋を訪問している。ちょうど、問屋の営業担当(お爺さん)が主人と話している最中で、彼女たちはさまざまな情報を運よく仕入れることができた。その場に、小売りの主人と問屋の双方がいたことで、大正末における肉類の流通経路や販売方法、肉の種類、流通コスト、売れ筋商品など詳細にわたり話を聞くことに成功している。
 1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)に所収の、「小売商を訪ねて」から引用してみよう。まずは問屋の話だ。
  
 「東京の肉屋の肉は、みんな三河島の屠殺場からくるんですよ。その牛は主に神戸、広島、伊勢、伊賀あたりからきます。つまり三河島にある問屋が、そつちの方から牛を買ふんです。牛一頭の値段? そうですね、まあ大体三百円位でせう。目方は凡そ六十五貫位ありますね。それを三河島まで一車(七噸積)に九頭位入れて運ぶんです。運賃は一頭について六円五十銭位かゝります。三の輪にきた牛は屠殺場で(株式組織の会社)検査され、それを通過したものは殺されて又問屋の手にもどります。そこからこの辺の小売商にくるんです。問屋のとる利益ですか。そいつは分りませんね。何しろ検査に通らない時は三百円丸損になつちまふこともあるんですから。その上それにまた運賃をかけて田舎にもつて行つて肥料にするんですからね。なかなか引合ひませんよ。さあならし一割二三分の利位になりますかな」
  
 「一車(七噸積)」と書かれているのは、肉牛を運ぶ貨物列車のことだ。問屋のお爺さんの答えに、女学生は「そんなにたびたび損をするのか」と訊くと、「ちよいちよいあるんですよ。もう買つたものですから検査に通らなくたつてどうすることも出来ません。何しろ損すれば大きいんだから」と答えている。彼女は、「損」ばかりを強調する問屋の老人は小売商の手前、利益を少なめに繕うための方便ではないかと疑っているが、おそらくこの老人のいうことは事実だろう。
 大正末、特に関東大震災Click!以降から昭和初期にかけ、「牛肉」や「牛乳」Click!に関する衛生管理がことさら厳しくなった時期と重なる。以前、守山牛乳Click!の記事でも書いたが、乳牛や肉牛を飼う農家の衛生管理Click!に、その土地の自治体や警察は非常にきびしい制約や条件を課していた時代だ。その条件をクリアできず、廃業に追いこまれた牧場や飼育農家、あるいは加工工場も少なくない。
 当局の取り締まりは、食品に由来する伝染病や腐敗による食中毒を防止するためだが、三ノ輪にあった肉牛の検査場ではこの時期、かなりシビアな病原菌などの検査が行われていたのだろう。規定を超える菌が発見された牛は、食用には不適当として即座に生産地へ送り返されていたにちがいない。
牛鍋.jpg
 つづけて、同時の取材となった肉屋の主人の話を聞いてみよう。
  
 『問屋からこゝまで自動車で運びますからこの運賃は五両(五円)位かゝります。きたての肉はかたくて食へません。だから今のところ、一週間おいて売りはじめます。矢張り一割二三分儲けるんですね』 主人の話通りに計算してみると、元価一貫目六円七十銭の肉が問屋小売の手を経て我々の家にくる時には八円四十銭となるわけである。普通よく肉屋の奥の大きな棚にぶら下つてゐる肉がこゝにもあつたので私達がそれに就て聞いて見ると、『あの肉片は普通十二貫位で問屋から九〇円で買ひます。あの肉が一頭から四つとれるんです。あれは無駄なしにどこでも売れますよ。骨は肥料に買ひにきますから。肉はくさりやすいのでこまります。殊に陽気の変り目が一番こたへますね。そんな時はまわりのくさつた部分をとつていゝところだけを百匁(約375g)八銭位で売るんです。普通すぢといふやつですが、……』(カッコ内引用者註)
  
 当時の肉屋は、電気冷蔵庫が高価でなかなか導入できないため、夏場の肉の管理はたいへんだったろう。それでも、氷を入れて冷やすだけの初期の冷蔵庫は、どの店舗にも設置されていたとみられる。
 この店は、料理屋へかたまりのまま売る以外は、すべて現金買いの客が主体だった。店頭での売上げは、平均30円/日ぐらいで売れ筋の肉は「中肉」(百匁90銭)、顧客が支払う額からいうと30~40銭ぐらいがいちばんの多いと答えている。また、1~2斤(約600g~1.2kg)と肉をまとめ買いする客は5人にひとりぐらいで、この店では「小配達」(屋敷まわりの御用聞きのこと)はやっていない。
 「小配達」のある肉屋は、早朝の5~6時から店を開けなければならないが、女学生たちが訪れた肉屋は周辺の料理屋へ納品するケースが多く、朝の開店が遅いかわりに夜は急な注文に備え、遅くまで店を開けておかなければならない。同じ肉屋でも、屋敷へ納入する店と料理屋へ納入する店とで、うまく棲み分けていた様子がうかがえる。
自由学園体操授業(本科1年生).jpg
 お客が多いのは、やはり肉が腐りにくい冬で、夏になると売上げが4割ほど減ると答えている。親切な主人は、業務上のかなり細かいことまでいろいろ教えてくれたようだ。女学生たちが、あまりに牛肉のことばかり気にして訊くので(彼女たちの好物だったのだろう)、「あんた達は豚のことはきかないんですか」と、逆に取材をうながされている。
  
 私達はさう云はれてはじめて気がついた。『私の店は豚は直接田舎(埼玉)からうちの自動車で買ひ出しにゆくんです。一匹十貫から十五六貫ので、まあ二十七八円です。それを大宮か熊谷の屠場で殺してこつちへ持つてくるんです。一噸積みの自動車で二十二匹位つめます。さあ運賃は二十二円位ですかな。私の家では豚は他の肉屋にも卸します。洋食屋なんかは、牛肉より豚肉の方がずつとたくさん使ひますよ。現金買いの客ですか。そりゃ矢張牛肉の方が多いですね。うちらは平均一日豚三匹半 牛は二日に半頭位出ます。牛豚合せて一日十貫目です まあ大して忙しくありませんね』 まつかな火の一ぱい入つたばけつの火鉢にあたりながら主人はかう話してくれた。
  
 取材の最中にも、5~6人の大人や子どもが肉を買いにきていた。知っていることはなんでも教えてくれる、非常に親切で話好きな肉屋だったらしく、商店レポートの中では他店に比べかなりボリュームが大きくなっている。
 さて、同じ大正期の目白通り沿い、下落合で開店していた肉屋では、妙な注文に首をかしげていただろう。毎日、牛肉を1斤(約600g)ずつ配達するよう、下落合661番地に住む見るからに変な画家Click!から頼まれたのだ。しかも、配達している小僧の話によれば、毎日休むことなく朝昼晩の三食、すき焼きClick!を食いつづけているらしい。
佐伯アトリエ内部.JPG
 毎日コンスタントに売れつづけるのだから、それはそれで肉屋の主人にとってはありがたい客なのだが、もう1ヶ月近くも配達がつづいていた。「まあ、世の中には奇妙な人がいるもんさね」と、主人は竹皮で器用に肉をくるむと、配達の小僧に手わたした。さて、次回は日本橋河岸Click!へ社会見学にくるよう誘う、親切な「魚屋」の訪問記だ。
                                <つづく>

◆写真上:校庭の南に咲く満開のサクラを、自由学園の校舎中央ホールから。
◆写真中上:よく外来者から、すき焼きと混同される明治以降に生まれた東京の牛鍋。すき焼きは鴨肉やももんじClick!をメインにした、大江戸からの料理だ。
◆写真中下:入学したばかりの本科1年生による、校庭での体育の授業。
◆写真下:日々三食、すき焼きばかりを食べつづけた変な画家のアトリエ内部。

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