以前、正月になると東京をはじめ関東各地で見られた、各戸まわりの獅子舞いClick!について書いたことがある。「シシ」というと、原日本の文化が色濃く残る東日本では、シシ=シカ、アオジシ=ニホンカモシカを意味する用語として、近世までつかわれていた言葉だ。大江戸(おえど)の街中の随所で開店していた肉料理屋=ももんじ屋Click!では、イノシシに限らずシシ(シカ)やアオジシ(ニホンカモシカ)の料理を出していた。
シシ舞いは、山ノ神などから遣わされたシシ(シカ)神=「まれびと」「まろうど」(折口信夫)の性格が強い。江戸期になると、シシ舞いあるいはシシ踊りの「シシ」に、中国や朝鮮半島から“輸入”された「獅子(ライオンをイメージしたとみられる架空の動物)」が習合し、シシ(シカ)舞いやシシ(シカ)踊りが、獅子舞いあるいは獅子踊りへと変節していく。江戸の街中では、獅子舞いといえばもはや輸入された大陸の獅子の面をかぶっていたが、日本ならではの基層文化が色濃く残る東北では、シシ(シカ)舞いやシシ(シカ)踊りが現代までよく伝わり、無形民俗文化財として継承されている。
中部地方の静岡や四国地方の愛媛などで、例外的に伝わっているシシ(シカ)舞いあるいはシシ(シカ)踊りは、鎌倉期や室町期、江戸期に各幕府の命で、関東や東北地方から移封された御家人や大名が伝えたものだ。南関東では、江戸期から正月の獅子舞いは盛んだったが、日本古来のシシ(シカ)舞いあるいはシシ(シカ)踊りの系譜は、北関東の一部を除いて、もはやほとんど見られないものと思っていた。
ところが、落合地域の西隣りにある江古田(えごた/中野区)地域の江古田氷川明神Click!を取材しているとき、同社に合祀されている御嶽社(山ノ神)の奉納舞いとして、シシ舞いが演じられていることを知った。現代では、原型が明らかにシシ(シカ)舞いあるいはシシ(シカ)踊りとみられる舞踊も、中国や朝鮮半島の文化が習合した江戸期からだろうか、「獅子舞い」あるいは「獅子踊り」と表現されるようになっている。この表記は、東北地方でもまま見られる現象だ。
江古田の御嶽社で奉納されるシシ舞いは、「江古田獅子舞い」と呼ばれ中野区の無形民俗文化財に指定されている。毎年、秋に行われる江古田氷川社の例祭に合わせ、獅子舞いは行列をつくって街中を練り歩くようだ。獅子の構成は、大獅子と女獅子、中獅子の3名で、その周囲には花笠の踊り手も付随している。音曲を担当する9名の笛吹きに、獅子は腹にくくりつけた太鼓を打ち鳴らすといういでたちで、東北地方のシシ(シカ)舞いあるいはシシ(シカ)踊りとまったく同様の姿だ。
東北地方に見られるシシ舞いやシシ踊りと異なる点は、江古田の獅子頭(ししがしら)は頭上にシカの角が生えていないことだろう。また、東北地方のシシ舞いやシシ踊りが、おしなべて勇壮で動きも荒々しく、音曲もテンポがかなり速いのに対し、江古田獅子舞いのほうは舞踊も穏やかで、音曲はいかにも村祭りのお囃子を想起させる音色だ。このあたり、江古田氷川社にもともと伝わっていた村祭り囃子と、いつの時代からか習合してしまったものだろうか。あるいは、荒々しいはずのシシ舞いが、江戸期あたりから家内安全や厄病退散を願う、農村の穏やかな奉納舞いへと変化していったのかもしれない。
江古田獅子舞いの起源は、平安末期あるいは鎌倉期の寺社創建までさかのぼるとされている。同獅子舞いについて、1984年(昭和59)に中野区教育委員会が出版した『なかのものがたり』から引用してみよう。
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江古田の獅子舞の起源は、そのむかし江古田村の東に御嶽神社という堀河天皇の時代(八百八十年ほど前、平安時代後期)に創建されたといわれる村の鎮守がありましたが、この御嶽神社と東福寺(創建は建久年間といわれます)とによって鎌倉時代に始められたと伝えられています。(一説には、江古田村丸山にあった修験寺大蔵院の関根法印という人が創始したともいわれます) したがって、大正二年(一九一三)に御嶽神社が氷川神社に合祀されるまでは、御嶽神社に獅子舞の奉納が行われていました。/この獅子舞は、悪魔を退治し、災難をなくし、村人の幸福をまもるものとして、村人に疫病が流行したときなどは村内の各家々をまわって、病魔を退散させるための舞いをしたそうです。そのため別名「祈祷獅子」ともいわれました。
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「神社(じんじゃ)」Click!という呼称は、明治期から薩長政府が各地の社(やしろ)を勝手に改変し、日本の神々に貴賤のヒエラルキーClick!を形成する政治的(かつバチ当たり)な利用政策(「国家神道」化Click!)の一環として名づけた呼称なので、それ以前の時代に起きた事蹟を語る場合には、「御嶽社」と表現するのが適切だろう。
獅子舞いは、700年前よりはじまったとされているが、わたしは東北地方のシシ舞いあるいはシシ踊りがそうであるように、もっと以前から地域で行われていた「まれびと」舞い(踊り)が、寺社の創建とともにその信仰や宗教の中へ取りこまれた(囲いこまれた)のではないかと想像している。つまり、シシ神=「まれびと」ないしは「まろうど」への信仰や祭事は、もっと以前から行なわれており、日本ならではの自然神とも結びついた古代からの舞踊のひとつではないだろうか。このあたり、宮崎駿が描く『もののけ姫』の世界=原日本のアニミズムに直結する光景だ。
上記の文章では、江古田村(江古田地域の集落)が平安後期から存在したように書かれているが、地域周辺の遺跡を見まわしてみれば、それ以前の旧石器から縄文(新石器)、弥生、古墳、ナラの各時代にわたる遺構が発掘されているので、さらに以前から人々の集落が存在していたのは明らかだろう。そのいずれかの時代に、アニミズムに由来するとみられるシシ(シカ)神の舞踊が生まれたとしても不思議ではない。
同書に収録された、「七百年の伝統をもつ江古田の獅子舞」から再び引用しよう。
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正保年間(一六四四~四八)に、徳川三代将軍家光が江古田方面に鷹狩りにきたとき、東福寺の境内で、この獅子舞をご覧になり、それ以後、「御用」とかかれた札をかかげることが許されました。/雑司ヶ谷の鬼子母神境内などで尾張侯、清水侯、紀州侯などにご覧に入れたときは、獅子舞の道具一式を櫃(ひつ)に入れ「御用」という木札をたててはこんだそうです。/獅子舞の根幹は、シカ踊りといわれていますが、田楽法師によってその形がととのった田楽舞の一つです。江古田の獅子舞は、その服装や演出がむかしの伝統、格式を少しも崩さず現在までつづけられており、これは都内でも非常に珍しいものの一つといえます。
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当時から、江戸とその周辺でも稀有なシシ(獅子)舞いで、江古田地域に限らず江戸の街でも評判になっていた様子がうかがえる。
著者は、「むかしの伝統、格式を少しも崩さず」と書いているが、どこかで頭上に生えていた角がなくなり、シシ(シカ)の顔面が中国や朝鮮半島からもたらされた獅子の顔面へと、宗教的な背景も含め近似させられているのはまちがいないだろう。
「都内でも非常に珍しい」としているが、明らかにシシ(シカ)舞い、あるいはシシ(シカ)踊りを原型とするような舞踊が、東京にも残っていることを、しかも落合地域のすぐ西隣りで伝えられてきたことを知り、わたしもビックリしているしだいだ。原日本の世界へといざなう、シシ(シカ)舞いあるいはシシ(シカ)踊りに直結するような同様の舞踊が、南関東の別の場所で伝承されていないかどうか、とても興味のあるテーマなのだ。
このところ、新型コロナウィルスで世の中が騒がしいが、このようなときこそ「村人に疫病が流行したときなどは村内の各家々をまわって、病魔を退散させる」、江古田獅子舞いの活躍どきではなかろうか。秋の例祭からは外れるが、江古田氷川社の境内で昔ながらの厄病退散の臨時獅子舞いが催されたら、わたしもぜひ見物に出かけてみたいと思う。
★この記事を書いてから、落合地域の北隣りにある長崎神社(江戸期は長崎氷川明神)でも、原日本が香る同様のシシ舞いが行われていることに気がついた。シシの顔つきは、やはり江戸期以降の“中国顔”(獅子)で角もないが、南関東でも原日本をルーツとするシシ舞いが、丹念に探せばけっこう残っているのではないだろうか。
◆写真上:秋に江古田氷川社の境内で、御嶽社に奉納される江古田獅子舞い。
◆写真中上:上は、街中へも繰りだす江古田獅子舞い。(『なかのものがたり』より) 中は、江古田氷川明神社の境内。下は、山形県米沢に伝わるシシ(シカ)踊り。
◆写真中下:上・中は、岩手県花巻のシシ(シカ)踊りを描いた壁画と実物で、頭上にシカの角が見られる。下は、岩手県釜石のシシ(シカ)踊り。
◆写真下:上は、岩手県盛岡のシシ(シカ)踊り。中は、山形県庄内のシシ(シカ)踊り。下は、いまでは高いビルに囲まれてしまった江古田氷川明神社の参道と鳥居。