神田川の北側、高田村(大字)高田(字)稲荷938番地(1920年の高田町以降は高田八反目778番地)に、薗部染工場が創立されたのは1913年(大正2)のことだった。薗部辰之助が創立した同工場は、現在の宝印刷の本社がある南側、十三間通り(新目白通り)にかかるあたりに敷地があり、下落合の町境からわずか180mほどしか離れていない。
設立当初は、周囲を水田や畑地に囲まれており、田園風景の中に高い煙突のある染工場がポツンと出現したような風情だった。工場の建物のまわりには障害物がなく、山手線の線路土手がよく見わたせた。薗部染工場について、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)から引用してみよう。
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薗部工場
工場主は薗部辰之助氏なり、高田村大字高田九百三十八番地にあり、大正二年七月まで東京市に営業経営せるを同年同月此の地に転場せるものなり、絹絲、人造絹絲、綿絲メリヤス類、其他各種の染色業とす。販路は輸出向染色、或は陸軍御用の染色機絲縫絲の染色加工となす。規模頗る大なるものにして、一ヶ年の染色量数は、約三萬貫以上に及び、敷地総坪千坪、建坪四百餘坪を有す。日々隆昌繁栄の域に進みつゝあり。(電話 番町四六九一番)
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高田村の稲荷938番地(現・高田3丁目)へ移転する以前、同工場は下谷区南稲荷町(現・台東区東上野)で操業をしていた。『高田村誌』の巻末には、同村で営業する工場や店舗、牧場、医院、薬局などの広告がまとめて掲載されているが、薗部染工場は残念ながら広告を出稿していない。
その後、同工場は順調に業績をのばし、1917年(大正6)には敷地の東側にオフィスというか事務所の建屋を、西側には大きな蔵を建設している。社長の薗部辰之助は、高田村が町制の施行とともに高田町に変わった翌年、1921年(大正10)に町議会議員に立候補して当選し、弦巻川(金川)Click!の改修工事や高田町の道路工事、下水道工事、旧・神田上水(1966年より神田川)の改修工事などを手がけている。以下、1994年(平成6)に豊島区立郷土資料館から刊行された図録『町工場の履歴書』から、薗部工場と薗部辰之助について引用してみよう。
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(前略) 高田町職業紹介所初代所長・高田町青年団副団長・高田町教育会評議員・東京工場協会目白支部長などを歴任、さらに学習院下の交番を寄付するなど、大正末から昭和初期の高田町政を担ってきました。「父は豊島区のことになるとしゃかりきになってやった」と三男の孝三氏はいいます。/戦時中工場は軍服の糸染めを行い、毛糸会社は企業整備で東北振興公社に合併、戦後は大正製薬に工場を売却し、新円封鎖で財産の大半を失い、辰之助の事業は終止符を打ちます。/辰之助は、工場地帯の煤煙で持病の喘息が悪化しても高田の地を動かず、戦後も豊島区から決して離れようとはしませんでした。
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文中には、薗部辰之助が学習院下の交番を寄付したことが記されているが、1925年(大正14)に源水橋が旧・神田上水(神田川)に架けられたのも、彼の尽力によるもののようだ。もちろん、1930年代後半に行われた神田川の整流化工事で、現在の源水橋はもとの位置から90mほど北へと移動している。
戦後、大正製薬に敷地を売却したと書かれているが、3畳ひと間の小さな下宿だった「みち子」の部屋から、喜多條忠Click!が眺めていた同社の煙突下の敷地が、薗部染工場が建っていた敷地の一部だったことになる。
さて、神田川を流れに沿ってたどるように、染色業の工房や工場について調べていたとき(佐伯祐三Click!が描いた『踏切』Click!の、中原工場Click!もその一環だった)、山手線をはさみ下落合のすぐ東隣りで操業していた薗部染工場に出合ったわけだが、その創業間もない写真を見つけて面白いことに気がついた。
この写真は、いまだ工場長宅の西側に蔵が建設されておらず、また工場の東側に事務所の建物も存在しないので、1917年(大正6)よりも前に撮影されたものだと規定できる。工場の建屋と煙突、それに染糸製品の干し場が手前にとらえられており、敷地の左奥には薗部辰之助の自邸2階家が付属している。
工場の手前には田圃が一面に広がり、その稲穂がつづく中に大胆な柄のワンピースを着て、帽子をかぶった洋装のモダンな女性がひとりとらえられている。薗部辰之助の妻だろうか、大正初期にこのようなハイカラなワンピース姿で高田村を歩いたりしたら、周辺の農民たちは度肝を抜かれただろう。
1922年(大正11)から販売がスタートした目白文化村Click!でさえ、洋装の女性が下落合を歩くと注目されていた時代だ。上落合に住んだ村山籌子Click!は、1923年(大正12)でさえ洋装で買い物に出かけると、近所の子どもたちがものめずらし気にゾロゾロついてきたと証言するような状況だった。東京の市街地ならともかく、郊外の農村地帯ではほとんど着物の生活がそのままつづいていた。
しかし、わたしが大正初期の園部染工場をとらえた写真に惹かれたのは、田圃に写るモダンな女性の姿ではない。その女性の右上に写る、山手線と線路土手の向こう側の風景だ。線路上には、2両編成とみられる山手線の電車が走っているのが偶然とらえられているが、その向こう側には学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)が建つはるか以前の、いや近衛町Click!が開発される以前の、当時は近衛篤麿Click!が死去し近衛文麿Click!の邸敷地だった、下落合の丘の一部が写っている点に惹かれたのだ。
その丘の中腹には、1軒の住宅がとらえられているが、これが大正の半ばに発行された陸軍参謀本部の1/10,000地形図Click!にも採取されている、下落合406番地に建っていたポツンと1軒家(住民名不詳/近衛家が敷地内の斜面に建てた豪華な四阿か?)に、ほぼまちがいないだろう。大正初期に、近衛邸のあった下落合の丘がとらえられた写真は非常にめずらしい。そして惜しいことに、山手線が走る線路土手のすぐ右手枠外には、雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)がくぐるレンガ造りのままのガードClick!が、ハッキリと見えていたはずだ。画角があと5度ほど右にふれていれば、大正初期の山手線・下落合ガードClick!の姿が判明していたはずなのだ。
薗部染工場は、昭和期に入るとかなり増改築をしたものか、1936年(昭和11)の空中写真では、まだ創業時の建物配置の面影をとどめているが、戦時中に撮られた1944~45年(昭和19~20)の空中写真を見ると、敷地内の建屋の配置が一変している。そして、1945年(昭和20)4月13日と5月25日の二度にわたった山手大空襲Click!でも、かろうじて延焼をまぬがれている。特に4月13日の第1次山手空襲では、道路をはさんだ東隣りの工場が焼夷弾の直撃を受けたものか全焼しており、薗部染工場では延焼防止に必死だったのではないだろうか。
神田川沿いの町工場を調べていると、学生時代の記憶と重なり思わぬ収穫があるのが面白い。1994年(平成6)出版の『町工場の履歴書』(豊島区立教育委員会)は、資料としては非常に秀逸な内容となっている。また神田川沿いの面白いテーマを見つけたら、あるいは学生時代に見かけた戸塚や高田、下落合の情景を思いだしたら、ぜひ書いてみたい。
◆写真上:右手の建物から十三間通り(新目白通り)にかかる、薗部染工場跡の現状。
◆写真中上:上は、創業の1913年(大正2)から1916年(大正5)の間に撮影された薗部染工場。手前にモダンな洋装の女性が写り、遠景には山手線とともに下落合の近衛邸のある丘がとらえられている。中は、1917年(大正6)に工場の拡張工事が竣工した直後の記念写真。下は、1917年(大正6)の1/10,000地形図にみる同工場。
◆写真中下:上は、大正初期に撮影された薗部染工場の部分拡大。2両編成で走る山手線と、下落合の斜面に建つポツンと1軒家。中は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる同工場。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同工場。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる薗部染工場。道路をはさみ東隣りの工場は焼けたが、同工場は延焼をまぬがれている。中は、1925年(大正15)に撮影された源水橋(旧流)の竣工式。下は、現在の源水橋で旧橋から90mほど北に位置している。