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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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1936年(昭和11)の東京名勝めぐり。

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下落合谷戸雑木林.JPG
 親父が遺した本に、1936年(昭和11)に銀座の地人社から出版された『大東京史蹟名勝地誌』がある。東京が(城)下町Click!の15区編成から35区編成Click!になって、しばらくしてから出版された、現代でいう「街歩き」のガイドブックのような本だ。おそらく親父が中学生になったころ、街歩きに興味をおぼえた1940年(昭和15)ごろに入手したのだろう。空襲で同書が焼けていないのは、日本橋の実家から諏訪町(現・高田馬場1丁目)にあった大学の下宿まで、そのまま持って出たからだとみられる。
 ページを開くと、親父が実際に訪れた場所や歩いたところには赤鉛筆で印やメモが残されており、どうやら戦前戦後を通じて東京各地のかなり広範な地域を歩いているようだ。ただし、「街歩き」のガイドブック風の編集といっても、新たな加わった20区Click!は東京郊外の風情がいまだ強く、「街歩き」ではなく「ハイキングコース」として紹介されている区や地域もめずらしくない。
 旧・15区とその周辺地域のページが真っ赤なのに対し、ほとんど赤鉛筆のマーキングが見られない地域、すなわち中学~大学時代の親父があまり散歩しなかったらしい地域としては、蒲田区(現・大田区の一部)、城東区(現・江東区の一部)、荏原区(現・品川区の一部)、世田谷区、杉並区、足立区、葛飾区、江戸川区の8区が挙げられる。面白いことに、わたしも上記の5つの地域や街々は歩くことが少なく、あまり馴染みがない。
 逆に、書きこみが多く赤鉛筆で真っ赤なのは、東京15区の市街地はもちろんだが、新たに加わった区で赤い印が目立つのは品川区、目黒区、淀橋区、中野区、豊島区、瀧野川区、荒川区、板橋区、向島区などだ。空襲で焼ける前、これらの地域には鎌倉期から江戸期までの建築や彫刻、遺構、史蹟、芝居の舞台、あるいは風情などが数多く、または色濃く残っていたからだろう。同書を読んでいると、学生時代の親父が歩いた東京市内の足跡がそのまま透けて見えて面白い。
 ただし裏を返せば、戦争で東京に残っていた文化財の大半が灰になっているのに気づき、改めて愕然とする思いだ。わたしは旧・荒川区や向島区、瀧野川区、瀧野川区などのエリアにはめったに出かけないが、それは関東大震災Click!では助かったものが空襲でほとんどが焦土と化し、本来あるべき古くからの文化財が根こそぎ失われた地域であり、親父とは異なり出かけるきっかけや意欲が喪失してしまったからだと気づく。
 さて、落合地域は同書ではどのように扱われているのだろうか? 淀橋区のページを見てみると、残念ながら下落合氷川社と富士(藤)稲荷社、月見岡八幡社の3ヶ所しか紹介されていない。それも無理からぬことで、旧・落合町よりも旧・淀橋町や大久保町、戸塚町のほうが史跡や遺構、芝居にちなんだ記念物、物語や伝承などが圧倒的に多い。淀橋の熊野十二社や成子天神社、東大久保の西向天神社、戸塚の亨朝院や宝泉寺、高田馬場址などには赤鉛筆の記載があるが、落合地域はスルーしているのか書きこみがない。もっとも、親父がいた諏訪町の直近で、いつでも歩けると思っていたせいもあるのだろう。
 同書に掲載されている、落合地域3社の紹介文を引用してみよう。
  
 氷川神社
 下落合一丁目(ママ)にあり、奇稲田姫命を祀る。故に女體の宮と称し、高田の氷川社が祭神素戔嗚尊なるに対して、当社を配して夫婦の宮としたといふ。村社例祭十月四日。
 富士稲荷
 下落合二丁目(ママ)にあり、東山稲荷ともいふ。清和天皇の後胤経基が京都の稲荷を勧請したといふ。境内に藤の老木があつたから社名が起つた。今の藤は二代目。
 八幡神社
 誉田別尊を祭る(ママ)。上落合一丁目にあり上落合村の旧鎮守神。創建古く義家手植の松といふもあつた。又、藤の古木がある。
  
大東京史蹟名勝地誌1936.jpg 大東京史蹟名勝地誌目次淀橋区.jpg
新井薬師1936.jpg
井上哲学堂1936.jpg
 下落合氷川社と富士(藤)稲荷社とで、当時の所在地が逆だ。氷川社は旧・下落合2丁目で、富士(藤)稲荷は旧・下落合1丁目にある。また、由来らしきことが書かれているけれど、各社は創建時期が不明で(それほど聖域としては古く)ハッキリしない。
 特に藤(富士)稲荷Click!は、奉納されていたのが太刀とおぼしき刀剣(鎌倉期?)Click!だし、周囲に展開するバッケ(崖地)Click!状の地形などから古代の大鍛冶に由来する鋳成神(いなりしん)Click!、ないしは小鍛冶に由来する火床の荒神(こうじん)Click!が、後世(おもに室町期から江戸期)に農業の神とされる朝鮮半島(秦氏)由来の稲荷神へと習合または転化しているのではないかと疑っている。しかも、神田川(旧・平川)流域の目白崖線沿いには、タタラ遺跡を示す金屎(スラグ)の出土例が多く、出雲の鋳成(タタラ製鉄Click!)と関連が深い氷川社が点在しているのでなおさらだ。
 同書に書かれている遊覧場所として、落合地域の近くでは新宿御苑Click!や新歌舞伎座(東京市電新宿車庫前)、伊勢丹Click!新宿三越Click!、帝都座、武蔵野館Click!早大キャンパスClick!雑司ヶ谷鬼子母神Click!などが挙げられているが、落合地域は含まれていない。むしろ、ハイキングの際に立ち寄るエリアとして認識されていたようで、同書では50のハイキングコースが紹介されている。そのうち、落合地域にもっとも近いコースは「新井薬師と哲学堂」コースだ。以下、同書より引用してみよう。
  
 24.新井薬師と哲学堂
 西武村山線の新井薬師下車(ママ)、又は中央線の中野駅からバスが通ふ。寺は東京の一流行仏。薬師駅の北方で妙正寺川が大曲流をなし、台地がその間に突出して、東北の和田山の台地と対し、雑木林、松林などあつて風光がよく、野方風地区として指定され種々設備中とある。哲学堂の参観をはじめ一日の散策の絶好地。
  
江戸古図(室町期以前).jpg
芝丸山古墳平面図.jpg
 ここでも、新井薬師前(あらいやくしまえ)駅は「新井薬師駅」Click!と認知されているのが面白い。w 書かれている和田山が井上哲学堂Click!のある山で、鎌倉期の以前から和田氏Click!の館があったという伝承が地元各地に存在している。また、落合地域の周辺には、「和田」のつく地名や伝承がいまでも数多く残っている。
 また、「野方風致地区」の名称が出ているが、北上する妙正寺川の東側でエリアつづきの落合町葛ヶ谷も、1930年(昭和5)に「葛ヶ谷風致地区」Click!として東京府により指定されている。風致地区とは、風光明媚な地域なので自然を保護する目的でつくられた制度だが、葛ヶ谷は昭和初期になると耕地整理が進み、ほどなく「西落合」という町名で新興住宅街を形成している。ただ、同書が出版された1936年(昭和11)の時点では、あちこちに畑地や雑木林がいまだに散在して、妙見山Click!に代表される鬱蒼とした丘陵地帯が展開し、ところどころにモダンな住宅や画家のアトリエClick!が建ちはじめたばかりなので、それなりにハイキングは楽しめただろう。
 もうひとつ、落合地域に近いハイキングコースとして、「山手七福神巡り」が掲載されている。同書より、再び引用してみよう。
  
 48.山手七福神巡り
 四谷(ママ:区)新宿二丁目大宗寺(ママ)の布袋、牛込区原町一丁目経王寺の大黒天と神楽坂善国寺の毘沙門天。それに淀橋区西大久保二丁目に恵比寿(鬼王神社)/同々福禄寿(鈴木豊香園)/同々寿老人(法善寺)及び同東大久保拔弁天(厳島神社)がある。
  
 「大宗寺」は太宗寺の誤植だが、落合地域に比較的近いのは西大久保と東大久保に展開する史蹟だろうか。(それでも2~3kmは離れているが)
 当時の落合地域は、大正期からつづくモダンな新興住宅街と華族屋敷の敷地にされていた丘陵や雑木林などが多く、とりたてて名勝と呼ばれるような場所はいまだ生まれていない。散歩をするには、まだ街角や風景が真新しく、ハイキングコースにするには住宅地化が進みすぎていて興ざめ……、そんなエリアが1936年(昭和11)現在の落合地域だった。落合地域が、散策のコースとして脚光をあびるのは、そこに集っていた画家や作家など芸術家たちの姿がようやく浮かびあがり、また緑が多く残された「新宿の秘境」Click!あるいは「新宿の奥座敷」として注目されるようになった、戦後もかなりたってからのことだ。
関口芭蕉庵1936.jpg
雑司ヶ谷鬼子母神1936.jpg
雑司ヶ谷鬼子母神参道1936.jpg
 同書の序文に、「今日の『東京』に多大の影響を与へたものは勿論江戸文化である。否、今日の『東京』は『江戸』の延長である。(中略)『東京風』なるものが『江戸』から承け継いだもので、それが今日の東京に有形無形に残ってゐる」と編集者の手で書かれているが、「東京風」のうち無形はともかく、有形の多くのものが戦争で失われているのが残念でならない。せめて無形の「東京風」は、この城下町の基盤またはリソースとして、多彩な領域の文化や風俗、習慣とともにこれからも末長く継承していきたいものだ。

◆写真上:下落合にいまもそのまま残る、谷戸地形の湧水源に形成された雑木林。
◆写真中上は、1936年(昭和11)に地人社から出版された『大東京史蹟名勝地誌』()と目次の「淀橋区」の一部()。は、1935年(昭和10)ごろに撮影された新井薬師Click!は、同年ごろに撮影の井上哲学堂の「三賢人碑」。
◆写真中下は、室町期ごろの江戸の様子を表現した左側が北の江戸古図。左下に平川Click!(現・神田川)の流れが描かれ、江戸湾へ張りだした岬(エト゜=鼻)には柴崎村(現・大手町)の神田明神Click!が、その北(左側)には太田道灌の江戸城Click!が見えている。は、1936年(昭和11)時点の芝丸山古墳Click!の全景。周囲には10基の倍墳が描かれているが、実際に調査され記録されているのは11基なので1基が記載漏れだ。また、当時は芝丸山古墳のくびれ部に「造り出し」が残っていたのがわかる。
◆写真下は、同年ごろの関口芭蕉庵Click!は、同年ごろの雑司ヶ谷鬼子母神と参道。当時は、境内や表参道に仲見世が連なっていたのがわかる。

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