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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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下落合を描いた画家たち・三宅克己。

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三宅克己「落合村」1918.jpg
 1918年(大正7)の第12回文展に、三宅克巳(こっき)Click!は『諏訪の森』と『落合村』という2点の作品を出品している。『諏訪の森』は、豊多摩郡戸塚町92番(現・高田馬場1丁目)に建っている諏訪社Click!の鬱蒼とした境内の杜と、南側につづく戸山ヶ原の防弾土塁Click!下の小道を描いたものだ。そして、もう1作の『落合村』が下落合の目白崖線と、上落合の丘陵とにはさまれた一面の田園風景を、めずらしい横長の画用紙を用いてとらえた、かなり広角の視界で描いたとみられる画面だ。
 1906年(明治39)に、淀橋町角筈から豊多摩郡役所の北隣りにあたる、淀橋町柏木407番地(現・北新宿1丁目)のアトリエへ転居した三宅克己は、付近に拡がる風景を精力的に描いている。特に戸山ヶ原Click!には頻繁に出かけたようで、陸軍の施設が建ちならぶ以前の草原や雑木林、金川(カニ川)Click!などの風景を画用紙に水彩で写している。山手線をはさみ東西に拡がる、戸山ヶ原の北側に位置する戸塚町の諏訪社や落合村もまた、そのような写生散策の一環として画道具を肩に立ち寄ったものだろう。
 1918年(大正7)という早い時期の落合村なので、目白崖線沿いには目印となるような建築物や構造物は少ない。もちろん、下落合氷川社Click!薬王院Click!は以前から存在しているが、山手線に近い近衛邸Click!(近衛町Click!は未開発)や御留山Click!相馬邸Click!七曲坂Click!大島邸Click!西坂Click!徳川邸Click!ぐらいしか目立つ大屋敷は建設されていない。崖線の麓には、下落合の「本村」Click!あたりと「小上」の丘下の「北川向」Click!に集落が多少あるものの、田畑ばかりの農村風景が拡がっていた時代だ。
 さて、『落合村』の画面を検討してみよう。一面が、見わたす限り田園風景だ。木々の様子から、新緑の初夏を迎えた落合村のような気配が漂う。手前の草原は、開墾と灌漑、そして田植えを待つ水田だろうか。奥の黄色い一面のエリアは、「麦秋」(5月)を迎えた麦畑のように見える。強い光線は、左手上空から手前のほうへ少し斜めに射しているようで、やや逆光ぎみの画面だ。左手が南側に近い方角だとすれば、右手から奥に連なる丘は下落合の目白崖線ということになる。つまり、三宅克己は旧・神田上水と妙正寺川が流れる、下落合と上落合の谷間からほぼ西側を向いて描いていることになる。
 画面には、家々がほとんど見えない。唯一、画面左手の小高い丘の下に、大きめな家の屋根らしい長方形のフォルムがふたつ(2軒)、とらえられているのみだ。つまり、1913年(大正2)に建設されたコンクリート建築の非常に目立つ目白変電所Click!も見えなければ、下落合氷川社らしい針葉樹が繁る境内の杜も、中核的な集落だった本村らしい家々が重なる屋根も、どこにも描かれていない。ということは、この画面は山手線からかなり離れた、落合村の西部を描いたものではないかと想定することができる。
 また、もうひとつの“ヒント”として、田畑の間に背が高めな草むらが繁茂し、樹木が点々とつづくラインが見てとれるだろう。このような場所は、田畑には開墾できない道路か川、灌漑用水などが流れている例が多い。画面の手前に、大きくカーブをしながら横切るライン、右手でカーブした奥で複雑なかたちで入り組み、画面の右手枠外へとつづいていくライン、同様に画面右手の複雑に入り組んだあたりから、木々を繁らせながら目白崖線沿いに画面奥へと遠ざかっていくラインなど、数多くの“緑のライン”が確認できる。道路にしては、非効率的で妙な形状をするこのラインは、おそらく水流=河川だろう。
三宅克己アトリエ跡.jpg
柏木407_1918.jpg
落合村地形図1910.jpg
 以上のような想定で、改めて画面を眺めてみると、この風景に一致しそうな場所がわずかながら存在している。描画ポイントは下落合村ではなく、戸塚町の旧・神田上水沿いに拡がる田圃の中、宅地化が進んだのちの住所表記では、戸塚町上戸塚509番地となるあたりの水田の畦道だ。非常に広角で描かれた風景で、しかも当時は目標物がほとんど存在していないため、厳密な描画ポイントではなく「あたり」としか想定できないが、上記の地番あたりから北西を向いて、下落合(右手)と上落合(左手)の田畑が拡がる、谷間全体を写しとっているのではないかとみられる。
 それぞれ、画面に描かれたものを特定してみよう。まず、右手のけわしい丘は、現在の久七坂Click!が通う南へ張りだした急斜面の丘と、西坂が通う徳川邸Click!のある丘だと思われる。手前に繁った樹木に覆われ、諏訪谷Click!あるいは不動谷Click!(西ノ谷Click!)への入口、ないしは「本村」の外れに建つ家々の屋根は隠れて見えない。大きめな西洋館だったとみられる徳川邸(当時は別邸)だが、丘の林に囲まれているので望見できない。ほぼ真正面のあたりには、前谷戸Click!(大正後期から不動谷)が口を開けているはずだが、やはり濃い樹林に前を遮られて判然としない。市街地に住む人々が、週末になるとピクニックにきていたころの落合村の風情だ。
 画面の中央左寄りに描かれた、ケヤキと思われる大樹のすぐ左手に見える小高い丘は、「小上」と字名がつけられていた一ノ坂Click!蘭塔坂Click!(二ノ坂)あたりの丘だと思われる。その麓には、妙正寺川の北岸の字名「北川向」(通称:中井村Click!)に散在する、家々の屋根が2軒採取されている。現在でいうと、中井駅の北東側あたりの山麓だ。少しかすみ気味の遠景には、もうひとつ台地状の小高い盛り上がりがとらえられているが、現在は目白学園Click!のある「大上」と呼ばれた丘だろう。目白崖線に連なる丘では、37.5mといちばん標高が高い最高点だ。
 以上のような想定をすると、田畑の中に描かれた水流とみられる曲線も特定できる。まず、手前で大きく蛇行をしている川は、左手が小滝橋の架かる上流にあたる旧・神田上水だ。また、目白崖線の下を風景の奥まで延々とつづいている樹木のラインは、上落合と下落合の間を流れる妙正寺川ということになる。当時の旧・神田上水や妙正寺川は、江戸期そのままに川幅も狭く川底も浅い流れだった。そして、この時期の両河川が落ち合う合流点は、画面右端に描かれた樹林の中だ。現在の位置関係でいうと、久七坂の南約100mほどのところ、西武線・下落合駅のホームあたりということになる。
三宅克巳「落合村」1918右.jpg
三宅克巳「落合村」1918左.jpg
三宅克己「落合村」水流.jpg
 さらに、画面左端に書かれた「K.Miyake 1918」のサイン上から、こんもりとせり出している緑は、上落合にある光徳寺の境内北側あたりの樹林であり、その向こうに麦畑を斜めに横切る細い緑色の線は、妙正寺川のバッケ堰Click!から上落合の「南耕地」まで引かれた、灌漑用水の細い小流れだろう。この用水は、途中まで妙正寺川と並行するように流れているが、途中で「へ」の字状にクラックし、「南耕地」から南下して旧・神田上水沿いに「八幡耕地」の田畑までを潤していた。
 さて、この画面を眺めていて不可解に感じた部分がある。「あれ?」と思われた、この地域にお住まいの方も多いのではないだろうか。この作品が描かれたのと同年、1918年(大正7)の1/10,000地形図を参照すれば、その不可解なテーマがすぐに判明する。1913年(大正2)に目白変電所Click!が建設されているのは先述したとおりだが、同変電所へと向かう高圧線の木製塔が1本も描かれていないことだ。三宅克己が写生した当時、この田園風景の中には妙正寺川に沿うように、右岸あるいは左岸に東京電燈谷村線の木製高圧線塔が連なっていたはずだ。鈴木良三Click!が1922年(大正11)に制作した、『落合の小川』Click!に描かれているあの高圧線塔Click!だ。もう少し時代が下ると、林武Click!佐伯祐三Click!も高圧線塔(佐伯は明らかに高圧線鉄塔Click!)を描いている。
 三宅克己は、画面に入れるモチーフと捨象するものとを分けて描いている、すなわち“構成”を行っているのではないか? 他の作品でも、住宅街もほど近い道路に、電柱がただの1本も描かれていないなど、やや不自然な表現が見られるのだ。『落合村』と同時に、第12回文展へ出品された『諏訪の森』でも、宅地化が進みつつある諏訪社前の通り=諏訪通りClick!に、電柱が1本も描かれていないのが不自然に感じる。『落合村』にしても、もう少し家々の屋根が見えていてもいいのかもしれない。三宅は、自身で風景の“美”やバランスを壊すと判断したものは、画面から積極的に捨象してはいないだろうか?
鈴木良三「落合の小川」1922部分.jpg
地形図1910.jpg
地形図1918.jpg
 『落合村』は初夏の風景だと思われるが、同年の『諏訪の森』は空に積乱雲が立ちのぼる真夏の情景だ。秋の第12回文展に向け、柏木407番地のアトリエから北上し、5月ごろ『落合村』を制作した三宅克己は、今度は山手線の内側に入り盛夏の戸山ヶ原を縦断して、『諏訪の森』の制作に取りかかっているのだろう。下落合の南東側にあたる、戸塚町Click!の『諏訪の森』も画面を入手しているので、機会があればご紹介したい。

◆写真上:横長の画用紙に描かれた、1918年(大正7)制作の三宅克己『落合村』。
◆写真中上は、淀橋町柏木407番地(現・北新宿1丁目)の三宅克己アトリエ跡(右手)。画面の左手は豊多摩郡役所が建ち、右手が柏木406~407番地だった。は、『落合村』を描いた1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる三宅アトリエ界隈。は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる『落合村』の描画ポイントと画角。
◆写真中下:画面に描かれた、目白崖線沿いに展開するモチーフの特定。
◆写真下は、1922年(大正11)制作の鈴木良三『落合の小川』(部分)に描かれた東京電燈谷村線の高圧線塔。は、1910年(明治43)と1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図の比較。『落合村』と同年の1918年(大正7)には、すでに東京電燈谷村線が敷設されていたはずだ。

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