1925年(大正14)2月に、高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)に存在するすべての住宅、商店、企業、工場、各種施設を調査した自由学園高等科の女学生たちClick!は、卒業レポートとして『我が住む町』を出版している。これは、アンケート用紙を配布して記入する国勢調査よりもよほど詳しく、全戸を訪問して直接のインタビューや観察をもとに記録する調査だった。
事前に高田町Click!と高田警察署から、自由学園による調査が実施される主旨を各町内に連絡し周知をしてもらい、さらに訪問の数日前には、女学生たちが調査趣意書と訪問日時などを記載したパンフレットを全戸にポスティングするという、本格的な社会調査の手法を採用したものだ。住宅や商店、工場、各種施設をまわる中で、商店を訪ねたのはこの社会調査を企画した最上級生、つまり卒業が目前に迫った高等科3年生の女学生たちが多かった。なぜなら、顧客を相手に営業中の商店で、忙しい主人にインタビューするのはことさら難しいと判断したからだろう。
しかし、無視されたり追いだされたりした店がわずかにあったものの、おしなべて商店の主人たちは、彼女たちの質問にできるだけ親切かつ詳細に答えている。また、調査目的に関係のない商売の話や世間話も多かったらしく、また女学生たちもそれが面白く感じたのか、特に商店調査については別章を設けて詳細に報告している。
1925年(大正14)2月の当時、高田町には2,790軒の事業所があり、そのうち1,861軒の商店が営業をしていた。初めに、食品店や飲食店について見てみよう。
まず、今日ではあまり見られないが、「八百屋(青物屋)」と「果実屋」が分かれているのがわかる。現在では青果店が当りまえだが、当時は野菜とフルーツは市場がちがっていたせいか、別々の店舗で売られていた。現代でも例外的に、大きな病院の近くなどではフルーツ専門店を見かけることがある。
「芋屋」は焼きイモ屋のことだが、「納豆屋」や「砂糖屋」が独立しているのも面白い。これらは、仕入れ先の卸しや市場が特別で異なるからだろう。魚介類でも、魚と貝とでは「魚屋」と「蛤浅蜊屋」とで分離している。魚市場と、ハマグリやアサリを仕入れる貝市場とが異なっていたせいだろう。食べる氷、つまりかき氷は「飲用氷屋」として分類されており、冷蔵用や冷房用の製氷業は含まれていない。
高田町に菓子屋Click!が異常に多いのは、先の記事でご紹介しているが、「葉茶屋」はふつうの煎茶を売るお茶屋のことだ。蕎麦Click!とうどんClick!では、やはり圧倒的に「そば屋」が多い。「蒲焼屋」が2軒記録されているが、すでに廃業してしまった店だろうか、現代の旧・高田町のエリアで感心する「う」Click!にはいまだ出会ったことがない。こんにゃくを専門に扱う、「蒟蒻屋」が独立していたのも面白い。
次に、衣服や生活用品を扱う店を見てみよう。
「綿屋」は、医療・衛生に使用する脱脂綿や、布団などに詰める綿など、多種多様な綿類を扱う問屋か専門店だったとみられる。高田町や落合町には、旧・神田上水沿いに製綿工場Click!が数多く営業していた。
大正期の高田町は、まだ和服の装いが多かったのか「足袋屋」が10軒も営業していた。また、和装には不可欠な「小間物屋」も、30軒とかなり多い。日本髪を結う“もとゆい”の需要も、大正末ではそれほど落ちていなかったとみられ、中村彝アトリエClick!裏の一吉元結工場Click!は、いまだ順調に操業をつづけていただろうか。
今日では、駅のキオスクやコンビニでさえ売っている傘だが、当時は「雨具屋」として独立していた。いまの傘は使い捨てが多いが、当時は修理も行っていたのだろう。また、外働き用の雨合羽も扱っていたと思われる。「染料屋」は、着古した着物などの生地を染め直す、染料の専門店だったのだろう。
「唐物屋」は、江戸期には中国や朝鮮から取り寄せた輸入品の専門店だったが、大正期には陶器などの食器を扱う“瀬戸物屋”の意味だろう。親の世代でも、「唐物屋」といえば陶製の食器を売る店のことであり、茶碗や皿などが割れると「唐物屋さんに行かなきゃ」といっていた。ちなみに、「唐物屋」が古物商(骨董店)をさす地方もあるようだが、自由学園の調査でも「古物商」は別のカテゴリーに分類されており、「唐物屋」=“瀬戸物屋”だったことがわかる。
「下駄屋」と「靴屋」では、「下駄屋」の店舗のほうが圧倒的に多いが、高田町に勤め人(サラリーマン)の家庭が急増し、洋風生活や洋装が当りまえになっていくにつれ、この割合が逆転する昭和時代はもうすぐそこだ。
その他、上記に分類されない高田町の商店を見ていこう。
「砥屋」は、別に日本刀の研師Click!がいた店ではなくw、切れ味の悪くなった包丁や鋏、鎌などの農具を研ぎなおす専門店だ。いまでも下落合では、たまに「砥屋」さんClick!が住宅街をまわってくる。大正期には、「文房具屋」と「万年筆屋」が分離しているのもめずらしい。万年筆は、当時はまだ高級文房具で、修理などには専門技術が必要だったのだろう。また、昔ながらの筆を売る「筆屋」も1軒だけだが残っている。薬品を扱う「薬屋」と、ガーゼや包帯、マスクなどを売る「衛生材料屋」が分離しているのもめずらしい。「ゴム屋」は長靴やゴム草履、ゴム管、ホースなどゴム製品全般を扱う店だろう。
高田町に、「釣針屋」があるのが面白い。旧・神田上水あるいは弦巻川Click!で、住民たちは釣りでもしていたのだろうか。「犬屋」と「鳥屋」は、別に食べるための店ではなく、今日のペット屋さんだ。大正末から昭和初期にかけ、文化住宅ではペットを飼うのが大流行Click!していた。特に洋犬の人気が高く、鳥もオウムやインコ、カナリヤなど輸入された鳥類も大人気だった。自由学園を卒業した上落合の村山籌子Click!は、少しでも生活の足しにとシェパードClick!のブリーダーをやっており、下落合の吉屋信子Click!に売りつけてイヤな顔をされている。
「飼料屋」は、運送業のウマや牧場のウシ、養鶏場のニワトリなどに食べさせるための飼料を売っていた店だ。山手線・目白駅Click!には東側に貨物駅Click!が併設されており、「馬具屋」の2軒ともども駅に到着した荷物の運搬には馬力Click!が不可欠だった。また、雑司ヶ谷の北辰社牧場Click!をはじめ、高田町とその周辺には「東京牧場」Click!が多く、ウシたちの飼料も取り扱っていたのだろう。1925年(大正14)の高田町は、急速に宅地化が進み人口が急増しているが、どこかでまだ田畑をやっている農家が残っていたのか、「種物屋」が1軒のみ営業をつづけていた。
「銅鉄屋」と「原料屋」は、具体的な商売の内容が不明だが、前者は鉄や銅などの金属を購入しては転売する、金属ブローカーのような仕事だろうか。新しい住宅街では、自家用車(マイカー)を持ちはじめた家庭も増え、「自動車屋」が町内に4店ほど開業しているが、「自転車屋」にいたっては32軒も営業している。大正末に、自転車がいかに町民の“足”になっていたかを示す数字だ。
ペットブームと同様に大流行していたのがビリヤードClick!だが、高田町には7軒の「撞球場」が店開きしていたのがわかる。仕事にも学校にもいかず、多くの人々が「撞球場」へ入りびたりになり、社会問題化しそうになったほどのブームだった。また、同様に趣味の店として「碁石屋」も1軒記録されている。
現在は「雑貨屋」で扱っている掃除道具のホウキが、「箒屋」の専門店(2軒)で売られているのも面白い。竹をはじめ、棕櫚やパームなどの材料を使って組み立てるホウキは、独自の工場ルートから市場に卸されて流通していたものだろうか。
以上のように、自由学園の女学生たちは全1,861軒の商店を戸別訪問して調査を行っており、概観レポートでは「高田町に善良な風紀を害するやうな商売のないことは喜ぶべきことである」と結んでいる。個々の商店については、業種別に詳しいレポートが掲載されているのだが、それらをいつか訪問記としてシリーズ化してみたいと思っている。
◆写真上:旧・高田町を東西に走る目白通りで、バス停の目白警察署前あたり。
◆写真中上:1926年(大正15)に作成された「高田町(千登世町/若葉町/鶉山/稲荷/四ッ谷/豊川/美名実/古木田/雑司ヶ谷町)住宅明細図」にみる、目白通りと雑司ヶ谷鬼子母神の表参道沿いに展開する当時の商店街。
◆写真中下:上は、目白通りに面した雑司ヶ谷鬼子母神の表参道入口の現状。下は、雑司ヶ谷鬼子母神の境内までつづく参道沿いの商店建築。
◆写真下:1926年(大正15)作成の、「高田町住宅明細図」に掲載された商店一覧。