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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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高田町の「衛生環境」調査1925年。

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美術山本鼎1921.jpg
 自由学園高等科の女学生たちClick!「貧乏線」調査Click!につづき、1925年(大正14)2月末に実施した「衛生調査」は、高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の全戸にわたる調査Click!となった。もちろん、高等科の卒業予定者だけでは調査スタッフが足らず、本科5学年と高等科2学年を合わせた全校生徒が参加する大規模なプロジェクトとなった。訪問先が留守だったり、調査を拒否した家庭を除くと町内の7,076世帯が彼女たちに協力している。
 衛生調査は、おもに「塵埃(生活ゴミ)」「汚物汲取り(便所)」「清潔屋(クズ屋)」「下水」の4つの課題に分かれているが、各家庭における病人の有無も調べている。同年2月末の時点で、病気にかかり寝ていた人は重症者と軽症者を合わせて町内に498人、全人口の1.4%に匹敵する。中には、不衛生からくる伝染病で病臥していた人もいたのだろうが、高田町では1924年(大正13)に伝染病に罹患した町民が203人、そのうち死亡した住民は54人で、死亡率は約27%と高かった。内訳は、以下のとおりだ。
高田町伝染病患者.jpg
 これら伝染病のうち、不衛生な生活環境に起因するものが少なくない。高田町では、町内の衛生環境を向上させるために塵埃の回収に1,880円58銭/月、便所の汲取りに3.617円49銭/月、清潔屋(クズ屋)に681円33銭/月の支出をしていた。年額にすると74,152円80銭となり、今日の貨幣価値に換算すれば約4,000万円と、人口が35,000人余の郊外町にすれば大きな支出になる。
 もちろん、高田町の予算ですべてのゴミや汚物を回収できたわけではなく、多くの住民は民間業者に委託していた。たとえば、塵埃の処理を見てみよう。
高田町家庭塵埃.jpg
 「自家で処置」とあるのは、生活ゴミを自宅で燃やしたり穴を掘って埋めたりする方法と、そこいらの空き地や川へ出かけて投棄する(ぶちまけてくる)場合だ。「不明」は、回答拒否か要領を得ない答え方をした家庭で、おそらく「そこらへぶちまけ」ケースが多く含まれているとみられる。
 民間の塵埃掃除人(ゴミ屋さん)へ依頼するケースでは、たとえば896戸の4人家族で総額299円08銭/月、1戸あたりの平均は33銭37厘/月を支払っている。塵埃回収の料金については、戸別や人員別、回数別など詳細をきわめた集計や分析をしているが、膨大な統計コンテンツになるので割愛し、カラー印刷された「塵埃表」のみを掲載しておくことにする。また、各家庭のほか、95の工場Click!におけるゴミ処理法も調査しており、業者に委託する総料金は24円30銭/月となっている。
高田町工場塵埃.jpg
 「自家で処置」とあるのは、焼却炉などの設備がある工場だろう。「不明」は家庭の場合と同様に、回答拒否か明確な答えが得られなかった工場で、どこかへ投棄するか川へ流していたケースも含まれているのだろう。
衛生調査依頼趣意書.jpg
衛生調査質問カード.jpg
 次に、汚物汲取りの状況を見てみよう。大正末、すでに上下水道が引かれ、浄化槽が設置された東京の市街地では水洗トイレが普及していたが、東京市の外周域や近郊では上下水道ともに未整備で、トイレは汲取り式が一般的だった。それでも水洗トイレにしたい家庭や施設では、高額な浄化槽設備を敷地のどこかに埋設して、これまた高価な水洗トイレ設備一式を購入し、大規模な工事をしなければならなかった。したがって、おカネ持ちで敷地が広い邸宅でなければ、水洗トイレClick!には手がとどかなかった。これは高田町に限らず、落合地域でもまったく事情は変わらない。
 以下、1925年(大正14)に出版された『我が住む町』Click!(自由学園)から引用しよう。
  
 我々の大部分は汚物を汲取人に托してゐる。其の他自家で始末するもの、家主が処置するもの等あるけれど、三.五六パーセントにすぎない。汲取人に托するものゝ内無料が二.七一パーセント、物品をあたへるのが〇.二六パーセント、他はすべて一月に幾何かづゝ料金を支払つて居る。表に示すのはすべて一ヶ月分の料金高で、五銭八銭と云ふのは半年か一年分を支払つて居るのを一月に換算したもの。/料金にずてぶん差のあるのもあるが、汲取人に托すものゝ内五十六.八三パーセントまでは五〇銭から七〇銭までの料金を支払つてゐる。戸数は三千七百二十四戸、次いで三〇銭から五〇銭までの料金を支払ふ家で三〇.〇五パーセント、一千九百六十九戸である。
  
 文中で、「自家で始末」は“有機肥料”として使う農家、「家主が処置」と汲取り料金が無料の家は、おそらく近くの農家と契約して肥料用に提供している家庭だろう。汚物汲取りや清潔屋についても、女学生たちは各戸別、人員別、さらに工場などについて詳細な分析をしているが、長くなるのでカラー印刷の表を掲載するにとどめたい。
 生活ゴミの中でも、燃えないゴミや粗大ゴミなどは清潔屋(クズ屋)に引きとってもらうのが一般的だった。7,076戸のうち、清潔屋を呼んで回収してもらうのが5,212戸で、全体の73.66%を占めている。このうち、19戸が無料でゴミを引きとってもらっている。ゴミといっても、金属やリサイクルできるものが含まれているため、清潔屋はそれらを専門業者に転売しては利益を得ていた。
 また、清潔屋を呼ばない家庭が1,707戸(24.1%)もあり、処理が不明の家が157戸(2.22%)ある。同書の巻末には、生徒たちによる「調査の感想」が掲載されているが、ゴミを近くの空き地や川へ投棄する事例があり呆れているので、清潔屋に払うおカネを惜しんだ家庭も少なくないのだろう。無料の家19戸を除き、5,193戸が清潔屋に払う総額は664円13銭/月、平均1戸あたり12銭8厘/月だった。
塵埃調査グラフ.jpg
汚物汲取清潔屋グラフ.jpg
 最後に、「下水」について見てみよう。当時の高田町では、下水道の大部分は道路脇に掘られていた溝(開渠が8割強)を流れており、調査できた全7,183戸の83.34%を溝下水が占めていた。ただし、この溝は石やコンクリートで固められた、蓋もある完全なものから蓋のないもの、側面のみを固めて底は土が露出しているもの、ただ土を溝状に掘っただけのものなど形態はさまざまだったようだ。
 次に多かったのが、「吸い込み式」と呼ばれるもので、穴を掘って下水をそのまま地中に浸みこませる方式だ。これも、土管を地中に埋めて遠く離れた田畑などへ送り地中に浸みこませる、今日の下水管のような高度なものから、家の排出口に土管を埋めて敷地内に掘った穴へ注ぎ、地中に浸みこませる一般的なもの、汚水を家の外の排出口からそのまま地中に浸みこませるものなどいろいろだ。全戸のうち、13.4%の家庭が地面への「吸い込み式」を採用している。同書より、再び引用してみよう。
  
 溝と云つても蓋のないもの、又流れずに滞つてゐるもの、その為めに蚊等の発生の激しいと聞くことが多い。又此の町の飲料水、使用水は全部井戸からであるが、下水の不完全の為め汚水の井戸の方に浸透したりして非常に不潔であると云ふことも、或方面にはあつた。高田町の下水、それは決して完全のものではない。
  
 以下、下水の方式と戸数の表を掲載してみよう。
高田町下水方式.jpg
 自由学園の女学生たちは、1925年2月26日(木)と27日(金)の2日間、朝から6調査区に分けた高田町へいっせいに散って調査をはじめた。調査区6班全体の総班長を決め、その下に調査区ごと6班長を置き、さらに細かな地区別のリーダーを決めて、準備会や予行演習で打ち合わせをした手順どおりに各戸をまわっている。
東京市陸上競技大会選手1923.jpg
 また、自由学園の校舎には、とどく情報の交差点として留守番の後方支援班を置き、午後4時をめどに町から調査員たちが次々ともどってくると、作っておいた熱いお汁粉を給食している。後方支援班を除き、高田町をまわった調査員は総勢167人だった。

◆写真上:1921年(大正10)に撮影された美術授業で、教師は洋画家の山本鼎Click!。「自由画運動」を推進していた山本鼎は、進んで学園の教師を引き受けたのだろう。
◆写真中上は、女学生たちが高田町の全戸へ事前に配布した「衛生調査依頼趣意書」。は、同調査に使用された家庭の衛生状態の質問カード。
◆写真中下:1925年(大正14)出版の『我が住む町』(自由学園/非売品)に掲載の「塵埃調査」グラフ()と「汚物汲取/清潔屋調査」グラフ()。
◆写真下:1923年(大正12)に開催された、東京市陸上競技大会に出場する選手たちの記念写真。高跳びや幅跳び、ハードルなどの競技で強かったようだ。

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