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おそらく、1950年(昭和25)前後に撮影されたとみられる西武線Click!を走る車両(2両編成)と、下落合東端の丘に連なる近衛町Click!の家々をとらえた写真が残っている。写っている丘の一帯は、二度の山手空襲Click!と敗戦まぎわの戦闘爆撃機による散発的な空襲からも運よく焼け残り、戦後もほぼそのままの姿をしていた近衛町の南端、学習院昭和寮Click!とその周辺の住宅街だ。
まず、手前に写っている西武線の下り電車は「モハ311形」Click!と呼ばれた車両で、西武鉄道では国電の戦災車両「モハ50形」をベースに、再利用して走らせていた車両だとみられる。1954年(昭和29)には、「モハ501形」と呼ばれる新車両(当時の湘南電車=東海道線に“顔”が似ている)が登場してくるので、周囲の状況を勘案すると、おそらく1950年(昭和25)前後に撮影されたものだろう。画面の右下に見えているのは、西武線の旧・神田上水(1966年より神田川)をわたる鉄橋Click!であり、電車がくぐって通過しようとしているのは西武線の山手線ガードClick!だ。
敗戦後すぐの車両について、2015年(平成27)に開催された「川越鉄道全通120周年記念企画展」図録(東村山ふるさと歴史館)から、一部だが引用してみよう。
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新宿線の車両モハ311形式(国電モハ31/50形式)
(前略)第二次世界大戦において西武鉄道は自社の車両に被害は受けなかった。しかし慢性的な車両不足であったため、国鉄の被災車両(モハ50形)の台車を購入して作られたのがモハ311形である。また、このほか被災車両を復旧し導入することも行った。
モハ501形、サハ1501形
昭和29年製のモハ501形、サハ1501形は昭和20年以降に初めて製作された新車であり、西武独自の形式として誕生した。とくにモハ501形は当時流行していた湘南スタイルで、蛍光灯証明、放送装置などがついた最新形であった。(カッコ内引用者註)
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山手線の線路土手ごしに見えている、白いビル状の建物が1928年(昭和3)に竣工した、2階建ての学習院昭和寮第一寮だ。第一寮Click!は目白崖線の斜面に建設されているため、地下の南面にも寮室があり、南側から見ると3階建てに見える。その右手には、近衛町の南端斜面にあたる44号Click!の住宅地に建設された家々がとらえられている。
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中でも特徴的なのは、F.L.ライトClick!が設計した自由学園校舎Click!を2階建てにしたような、大きな西洋館の佐野邸Click!だ。佐野邸は、大久保作次郎Click!がモチーフに採用して、1955年(昭和30)に制作された『早春(目白駅)』Click!では、佐野邸を南斜面から丘上へ「移築」した構成で描かれている。画角のせまい、やや望遠ぎみに撮影された写真だが、佐野邸2階部の三角屋根の突出しているのがとらえられている。
佐野邸のほかにも、大庭邸や武尾邸、岸邸、今井邸、玉置邸、長瀬邸(花王石鹸Click!の長瀬邸Click!とは別宅)とみられる家々の屋根が確認できる。1933年(昭和8)に、学習院昭和寮を斜めフカンから低空撮影した写真と比べてみると、その後、新たに建設された家々を除き、ほとんど家並みの変わっていないのが見てとれる。また、画面の右端、電車の“顔”の右横に架線柱で隠れるように、大きな建物がひとつとらえられているが、この位置に建っていた建物は戦後に改めて建て直された、学習院の校舎ないしは施設のうちの1棟だろう。拡大すると、屋根や窓の形状から西洋風とみられる大きな建築が、戦後になって学習院のバッケ(崖地)Click!上に建設されている。
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さて、100~135mmぐらいの望遠レンズで撮影したとみられる、冒頭写真のカメラマンは、西武線が急カーブを描き山手線のガードをくぐって、山手線土手と西武線の高架にはさまれた狭隘なエリア、当時の住所でいうと早稲田通りも近い戸塚町2丁目32~38番地(現・高田馬場2丁目)から、ほぼ北北東を向いてシャッターを切っている。空襲で焼け野原になった同エリアは、戦後すぐのこの時期には商店建築や木造アパートなどが建ち並びはじめており、それらの建物の2階に設置された北向きの窓、ないしはベランダあたりから撮影したものではないだろうか。
1950年(昭和25)ごろといえば、朝鮮戦争が勃発して日本は戦争特需にわき、ようやく敗戦時の悲惨な食糧不足による飢餓状態から脱しようとしていた時期だ。だが、全国的に感冒(インフルエンザだとみられる)が流行り判明しているだけで18万人が罹患し、三原山の噴火やジェーン台風により336人の死者がでるなど、ことさら自然災害が目立つ年でもあった。この年、西武線では西武鉄道が経営していたユネスコ村と多摩湖ホテルClick!とを結ぶ、単線の「西武おとぎ線」が開通している。
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1950年(昭和25)前後に鉄道ファンが撮影したらしい西武線と下落合の丘だが、大正初期に撮影された薗部染工場Click!の写真と比べると、丘全体が住宅で埋めつくされているのがわかる。古い鉄道写真を参照すると、車両そのもの以外に周辺の風景までが写っているケースの多いことに気づいた。鉄道ファンではないので、写真の隅にチラリと見えている当時の街並みのほうへ惹かれてしまうわたしだが、落合地域の界隈で周辺の風景まで含めてとらえられた鉄道写真を見つけたら、改めてこちらでご紹介したいと思う。
◆写真上:1950年(昭和25)ごろに撮影された、西武線の電車と下落合の丘。
◆写真中上:上は、西武鉄道が保存しているモハ311形とクハ1411形の車体カラーリング。中上は、1933年(昭和8)に撮影された近衛町の南端に位置する丘。中下は、第2次山手空襲直前の1945年(昭和20)5月17日にF13偵察機Click!から撮影された下落合界隈。下は、戦後の1948年(昭和23)に撮影された焼け跡が拡がる近衛町。
◆写真中下:上・中は、冒頭の写真にとらえられた家並みの部分拡大と建物の特定。下は、1957年(昭和32)の空中写真にみる撮影ポイントと画角。
◆写真下:上は、1956年(昭和31)の空中写真にみる撮影ポイントあたりで、商店やアパートと思われる建物が見える。中は、1991年(平成3)に撮影された改修前の神田川に架かる斜めの神高橋Click!と西武新宿線。(新藤兼人『東京交差点』Click!より) 冒頭写真の撮影ポイントは、山手線土手と西武線高架にはさまれた画面の左枠外にある狭隘エリア。下は、飲み屋街になっている狭隘エリアの現状で撮影ポイントにはもちろん立てない。
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おそらく、1950年(昭和25)前後に撮影されたとみられる西武線Click!を走る車両(2両編成)と、下落合東端の丘に連なる近衛町Click!の家々をとらえた写真が残っている。写っている丘の一帯は、二度の山手空襲Click!と敗戦まぎわの戦闘爆撃機による散発的な空襲からも運よく焼け残り、戦後もほぼそのままの姿をしていた近衛町の南端、学習院昭和寮Click!とその周辺の住宅街だ。
まず、手前に写っている西武線の下り電車は「モハ311形」Click!と呼ばれた車両で、西武鉄道では国電の戦災車両「モハ50形」をベースに、再利用して走らせていた車両だとみられる。1954年(昭和29)には、「モハ501形」と呼ばれる新車両(当時の湘南電車=東海道線に“顔”が似ている)が登場してくるので、周囲の状況を勘案すると、おそらく1950年(昭和25)前後に撮影されたものだろう。画面の右下に見えているのは、西武線の旧・神田上水(1966年より神田川)をわたる鉄橋Click!であり、電車がくぐって通過しようとしているのは西武線の山手線ガードClick!だ。
敗戦後すぐの車両について、2015年(平成27)に開催された「川越鉄道全通120周年記念企画展」図録(東村山ふるさと歴史館)から、一部だが引用してみよう。
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新宿線の車両モハ311形式(国電モハ31/50形式)
(前略)第二次世界大戦において西武鉄道は自社の車両に被害は受けなかった。しかし慢性的な車両不足であったため、国鉄の被災車両(モハ50形)の台車を購入して作られたのがモハ311形である。また、このほか被災車両を復旧し導入することも行った。
モハ501形、サハ1501形
昭和29年製のモハ501形、サハ1501形は昭和20年以降に初めて製作された新車であり、西武独自の形式として誕生した。とくにモハ501形は当時流行していた湘南スタイルで、蛍光灯証明、放送装置などがついた最新形であった。(カッコ内引用者註)
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山手線の線路土手ごしに見えている、白いビル状の建物が1928年(昭和3)に竣工した、2階建ての学習院昭和寮第一寮だ。第一寮Click!は目白崖線の斜面に建設されているため、地下の南面にも寮室があり、南側から見ると3階建てに見える。その右手には、近衛町の南端斜面にあたる44号Click!の住宅地に建設された家々がとらえられている。
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中でも特徴的なのは、F.L.ライトClick!が設計した自由学園校舎Click!を2階建てにしたような、大きな西洋館の佐野邸Click!だ。佐野邸は、大久保作次郎Click!がモチーフに採用して、1955年(昭和30)に制作された『早春(目白駅)』Click!では、佐野邸を南斜面から丘上へ「移築」した構成で描かれている。画角のせまい、やや望遠ぎみに撮影された写真だが、佐野邸2階部の三角屋根の突出しているのがとらえられている。
佐野邸のほかにも、大庭邸や武尾邸、岸邸、今井邸、玉置邸、長瀬邸(花王石鹸Click!の長瀬邸Click!とは別宅)とみられる家々の屋根が確認できる。1933年(昭和8)に、学習院昭和寮を斜めフカンから低空撮影した写真と比べてみると、その後、新たに建設された家々を除き、ほとんど家並みの変わっていないのが見てとれる。また、画面の右端、電車の“顔”の右横に架線柱で隠れるように、大きな建物がひとつとらえられているが、この位置に建っていた建物は戦後に改めて建て直された、学習院の校舎ないしは施設のうちの1棟だろう。拡大すると、屋根や窓の形状から西洋風とみられる大きな建築が、戦後になって学習院のバッケ(崖地)Click!上に建設されている。
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さて、100~135mmぐらいの望遠レンズで撮影したとみられる、冒頭写真のカメラマンは、西武線が急カーブを描き山手線のガードをくぐって、山手線土手と西武線の高架にはさまれた狭隘なエリア、当時の住所でいうと早稲田通りも近い戸塚町2丁目32~38番地(現・高田馬場2丁目)から、ほぼ北北東を向いてシャッターを切っている。空襲で焼け野原になった同エリアは、戦後すぐのこの時期には商店建築や木造アパートなどが建ち並びはじめており、それらの建物の2階に設置された北向きの窓、ないしはベランダあたりから撮影したものではないだろうか。
1950年(昭和25)ごろといえば、朝鮮戦争が勃発して日本は戦争特需にわき、ようやく敗戦時の悲惨な食糧不足による飢餓状態から脱しようとしていた時期だ。だが、全国的に感冒(インフルエンザだとみられる)が流行り判明しているだけで18万人が罹患し、三原山の噴火やジェーン台風により336人の死者がでるなど、ことさら自然災害が目立つ年でもあった。この年、西武線では西武鉄道が経営していたユネスコ村と多摩湖ホテルClick!とを結ぶ、単線の「西武おとぎ線」が開通している。
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1950年(昭和25)前後に鉄道ファンが撮影したらしい西武線と下落合の丘だが、大正初期に撮影された薗部染工場Click!の写真と比べると、丘全体が住宅で埋めつくされているのがわかる。古い鉄道写真を参照すると、車両そのもの以外に周辺の風景までが写っているケースの多いことに気づいた。鉄道ファンではないので、写真の隅にチラリと見えている当時の街並みのほうへ惹かれてしまうわたしだが、落合地域の界隈で周辺の風景まで含めてとらえられた鉄道写真を見つけたら、改めてこちらでご紹介したいと思う。
◆写真上:1950年(昭和25)ごろに撮影された、西武線の電車と下落合の丘。
◆写真中上:上は、西武鉄道が保存しているモハ311形とクハ1411形の車体カラーリング。中上は、1933年(昭和8)に撮影された近衛町の南端に位置する丘。中下は、第2次山手空襲直前の1945年(昭和20)5月17日にF13偵察機Click!から撮影された下落合界隈。下は、戦後の1948年(昭和23)に撮影された焼け跡が拡がる近衛町。
◆写真中下:上・中は、冒頭の写真にとらえられた家並みの部分拡大と建物の特定。下は、1957年(昭和32)の空中写真にみる撮影ポイントと画角。
◆写真下:上は、1956年(昭和31)の空中写真にみる撮影ポイントあたりで、商店やアパートと思われる建物が見える。中は、1991年(平成3)に撮影された改修前の神田川に架かる斜めの神高橋Click!と西武新宿線。(新藤兼人『東京交差点』Click!より) 冒頭写真の撮影ポイントは、山手線土手と西武線高架にはさまれた画面の左枠外にある狭隘エリア。下は、飲み屋街になっている狭隘エリアの現状で撮影ポイントにはもちろん立てない。