1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」Click!を参照していると、あちこちに製氷工場を見つけることができる。これは、落合地域に湧く水の質がよく、製氷事業には適していたからだろう。以前、田島橋の北詰めで営業していた目白製氷会社工場(のち同じ下落合の豊菱製氷会社Click!に買収)について書いたことがあった。
事情明細図に記録された数多くの製氷工場を見て、落合地域の住民は夏などかき氷とかがふんだんに食べられ、快適にすごせたのでは?……と思うのは早計で、これらの事業所は氷の生産工場であって小売店=氷室(ひょうしつ)ではない。他の商品一般と同様に、流通をへて一般の小売店=氷室で販売されることになる。ただし、商品が氷なだけに長時間の流通は困難で、工場から直接仕入れる氷室も多かっただろう。
1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」には、下落合968番地の豊菱製氷会社と、上落合2番地の山手製氷会社Click!が収録されている。同書より、その2社の解説を引用してみよう。
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豊菱製氷株式会社 下落合九六八
(前略) 本社は資本金十六万円(全払込)を以て、大正十二年六月創業せしものにて、鑿井水道一日製氷能率二十五噸、一千噸の貯蔵庫を備へ、経営方針着々効を収めて、現今帝都同業者間に重きを成す。社長水野豊氏は(中略) 芝浦製作所に恪勤すること十余年、現会社設立の創意中心となりて完成後、専務取締役に就任し、(中略)大震火災に際会し製氷三百余噸を赤十字社及び警視庁に寄付して罹災者の救護に便じたる如きは、活ける社会時相に照応して機宜を得たるものである。
山手製氷株式会社 上落合二
本町産業界に雄飛して鬱然たる勢力を為す、山手製氷株式会社は大正十一年四月の創立にして同十四年四月増資、現在資本金は三十二万円全額払込済である、一日産出額九十噸、冷蔵量二千五百噸を有し、工場施設の整頓は方今製氷界稀に見る精致を画されてゐる。同社の役員は左の如くにて、何れも業界の誠意を網羅し、現下経済界多難の折柄、尚且つ順調の業績を辿りつゝある(後略)
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ともに製氷工場としては、大きな規模の事業所だったのがわかる。文中に「鑿井水道」とあるのは、井戸水を活用した工場の専用水道のことだ。冗談のようだが、豊菱製氷社長の「みずのゆたか(水野豊)」という名前が面白い。また、同社は1935年(昭和10)前後に下落合212番地(田島橋北詰め)にあった目白製氷会社を工場ごと買収しているので、氷の生産量は山手製氷に迫っていたかもしれない。
当時、氷の需要としては電気冷蔵庫が高価でなかなか買えないため、氷冷蔵庫(冷蔵箱あるいは氷室=ひむろとも呼ばれていた)の用途が多かった。冷蔵箱といっても、いまの若い子にはピンとこないかもしれないが、頑丈な木製の箱の中に氷を入れて密閉し、内部の温度を下げて冷蔵庫がわりに使う箱のことだ。戦後も電気冷蔵庫はなかなか普及せず、家庭に同機が入りはじめたのは昭和30年代になってからだろう。もちろん、冷蔵箱は今日の電気冷凍冷蔵庫とは異なり、「冷蔵」するだけで「冷凍」(製氷)など望むべくもなかった。
冷蔵箱の需要のほか、おカネ持ちの屋敷やホテル、百貨店などの施設では、夏の冷房代わりに氷柱が随所に立てられていた。いまでもエアコンがききにくいホテルや料理屋、あるいは半ば装飾として置かれる結婚式場や劇場、コンサートホールなどでご覧になった方も多いのではないだろうか。夏になると、応接間や居間、寝室などに氷柱を建てて涼をとっていたお屋敷も、落合地域には少なからずあったはずだ。
また、現代と同じように飲食店で出す、かき氷の材料としても仕入れられただろうし、肉屋Click!や魚屋Click!とその卸売り市場では腐敗を遅らせるために、やはり夏になると大量に氷を注文しただろう。もちろん、カフェやミルクホール(ともに女給さんのいる洋風飲み屋のこと)、バー、飲食店、喫茶店などで冷たい飲み物に氷を入れるのにも高い需要があった。さらに、医療関係施設でも熱冷まし用に氷が注文されていただろう。
自由学園Click!の女学生たちClick!は、残念ながら氷室の店舗を訪問した記録を残していないが、高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)には、同町から落合地域まで氷を配達する氷室(ひょうしつ)、チェーン店形式の氷専門店が開店していた。1923年(大正12)に外口要蔵が設立した、同志舎外口製氷所を中心とする同志舎氷室(ひょうしつ)だ。同志舎外口製氷は当初、天然氷の販売が専門の店だったが、米国のフリック社から10トン製氷機を導入し、工場で氷を造れる本格的な体制を整えた。操業していたのは下落合の北側、長崎村地蔵堂1075番地(現・豊島区千早1丁目)の谷端川近くだった。そして、同製氷所を中心に同志舎の氷室(小売店)が、長崎をはじめ落合、練馬など各地域へ氷を販売している。
1日の製氷能力は、36貫(135kg)の直方体の氷塊を200本以上(約27トン以上)生産できたというから、田島橋の目白製氷会社を買収する以前の、『落合町誌』に記録された豊菱製氷会社とほぼ同じぐらいの生産量だったのがわかる。製氷法は、氷罐(36貫)を食塩水で満たした製氷槽に並べて、製氷槽内の配管に冷媒となる液体アンモニアを流して冷却し、氷罐の水を氷結させるという手順だった。
同志舎が目白駅前に設立した、小売りの氷室・目白同志舎に勤務していた小村定明という方の証言が残っている。1994年(平成6)に豊島区立郷土資料館から刊行された、「町工場の履歴書」展図録から引用してみよう。
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修業先では同志舎と染めた半てんを着て氷の配達をした。お得意さんは落合や目白の近衛邸Click!、相馬邸Click!、尾張徳川邸Click!、戸田邸Click!などのお屋敷だった。当時の氷は1貫(3.75kg)8銭、夏は12銭位だった。工場は大正12年5月に完成し、当時の従業員は5人位で、機関士が1名いた。その年の9月に関東大震災があり、製氷機が壊れたため10月過ぎまで中断した。その間、飯田橋の日東製氷会社に大きい若衆2人と一緒に荷車で毎日氷2本(360kg)を取りにいった。椿山荘の坂下に立ちん坊がいて、10銭で椿山荘まで押してくれた。/工場に氷を取りにいく時は荷車(大八車Click!)を使い、氷の配達は自転車、リヤカーを使った。氷1本36貫(135kg)の長さは3尺3寸(約1m)。リヤカーだと氷2本、牛車Click!だと12本運べた。工場は夏忙しいので、フォード製トラックの運送屋に頼んだりしたが、当時の車は馬力が出ず、氷8本が限界だった。/店は創業当初で8店くらいあった。昭和5年5月頃店を持って独立した。場所は長崎町字荒井1779番地。店名は「荒井氷売場」、戦時中に「小村氷室」と変更した。
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大正期に、氷室・目白同志舎が開店していたのは高田町1702番地(現・目白3丁目13番地)、いまでいうと三菱UFJ銀行の目白駅前支店があるあたりだ。
拙サイトでは、実は同志舎のチェーン店氷室のひとつをすでにご紹介している。それは1925年(大正14)に制作された「出前地図」(西部版)Click!に掲載されている、二又子育地蔵尊向かいの目白通りに面して開店していた「凍氷販売店同志舎支店」だ。先の目白同志舎にならうなら、こちらは椎名町同志舎と呼ばれていたのかもしれない。
さて、1960年代から電気冷凍冷蔵庫が家庭へ急速に普及しはじめ、1970年(昭和45)の時点では普及率が90%を超えている。したがって、街中の氷室も急速に事業を縮小せざるをえなくなったが、先述したように現代でも大きな氷塊の需要は、さまざまな業務や店舗、イベントなどで変わらずに継続している。
たまには盛夏に、冷蔵庫の氷ではなく大きな36貫(135kg/550×280×1,080mm)の氷柱を注文して、家庭で冷え冷えになったり、かき氷を飽きるほど食べるのも面白い趣向かもしれない。36貫の氷塊の価格は、およそ16,000円~18,000円ぐらいのようだ。また、1貫(3.5kg)の角氷(ブロックアイス)なら500円前後で買える。ただし、食べすぎてお腹をこわしても、拙サイトでは責任を負いかねるのであしからず。
現在でも、小村氷室は長崎1丁目27番地で、同志舎目白外口氷室は目白2丁目16番地で営業をつづけており健在だ。さすがに自転車や大八車の配達ではなく、いまなら小型トラックで下落合にもとどけてくれるだろう。プロが良質な水で製造する氷は、冷蔵庫の氷とはまったくちがう風味がして、毎夏のヤミツキになるかもしれない。
◆写真上:1日90トンの製氷機能があった、上落合2番地の山手製氷会社。
◆写真中上:上は、1932年(昭和7)に撮影された下落合968番地の豊菱製氷会社。中は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる豊菱製氷。下は、十三間通りClick!(新目白通り)に敷地を削られた豊菱製氷が操業してたあたりの現状。
◆写真中下:上は、1935年(昭和10)作成の「淀橋区詳細図」にみる山手製氷会社。中は、1925年(大正14)の「大日本職業別明細図」にみる製氷会社の広告。下落合の豊菱製氷会社と、長崎の同志舎外口製氷所が並んで掲載されている。下は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる長崎町1075番地の同志舎外口製氷所。
◆写真下:上は、夏は氷柱がひとつ置かれているだけで涼しげだ。中は、目白2丁目で営業中の同志舎目白外口氷室。下は、長崎1丁目で健在の小村氷室。