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西洋医学所と蘭疇医院の松本順。

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蘭疇医院跡.JPG

 大磯に日本初の海水浴場Click!を設置する松本順Click!(幕府奥医師時代は松本良順)は、1970年(明治3)の秋、高田八幡社(穴八幡社Click!)近くの馬場下町24番地にいた。日本初の西洋医だった彼は、日本で初めての本格的な西洋医学病院を自邸からほど近い下戸塚村4番地に建設している。ベッドの病床50床、畳の病床約30床の洋式の外観をした近代病院「蘭疇(らんちゅう)医院」は、1870年(明治3)10月に竣工した。
 病院の竣工披露宴には、江戸期から築地にあった外国人居留地Click!にいる各国の医師たちや、日本橋魚河岸の問屋連は新鮮な魚を大量にとどけ、田之介や団十郎、菊五郎、勘弥など大江戸のおもだった歌舞伎役者や円朝などの噺家、旧幕臣たちや近隣の人々など総勢700人ほどが参集したという。松本良順が、幕府の西洋医学校(旧・幕府医学所)の頭取だった緒方洪庵の死後、跡を継いで頭取となり幕府軍とともに江戸から会津、庄内、そして仙台へと戦場の負傷者や病人の治療に当たっていたのを、江戸の人々は知悉していたからだ。しかも、病人やケガ人の治療には旧式の蘭方ではなく、長崎での豊富な臨床経験を踏まえた最先端の西洋医術であることも知っていた。
 薩長政府に逮捕され禁固刑がとけた直後から、松本良順は蘭方ではなく本格的な西洋医学を用いた病院の建設構想を抱いていた。彼が幕府医学所で副頭取をしていた際、相変わらずのオランダの蘭方書に依存した“文献医学”に終始していた緒方洪庵への反発も、病院建設のモチベーションの中に大きな位置を占めていたのだろう。医師は、外科や内科、眼科、小児科を問わず実地の臨床経験を積まなければ意味がないし、具体的な技術も習得できないと考えていた。
 松本良順が開設した下戸塚村4番地の蘭疇医院は、かつて丸ごと焼きリンゴで有名だった「茶房 早稲田文庫」や、早稲田大学の第一学生会館があったあたりの地番だ。1880年(明治13)のフランス式1/20,000地形図を参照すると、下高田村4番地には長い塀に囲まれた3棟の建物が確認でき、1886年(明治19)の1/5,000地形図では建物のかたちまでが確認できる。北側の大きな建物が洋風の医院本館で、南側の2棟が別病棟や松本内塾(医学校)、医師や職員の宿舎だろうか。また、馬場下町24番地の松本邸は、カニ川(金川)Click!を庭園に取りこんだ大きめな屋敷だったようだ。
 松本良順は、佐藤泰然の二男として1832年(天保3)に麻布で産まれている。佐藤泰然は、のちに順天堂を設立する蘭方医だった。やがて、彼は漢方医で幕府奥医師だった松本家へ養子に出されるが、義父の松本良甫は蘭方の知識も必要と考え、良順にオランダ語を積極的に学ばせている。そして、最新の医学はオランダから来航した軍医のいる、幕府の海軍伝習所で習得すべきだと考え、1857年(安政4)に彼を長崎に送りだしている。当時、大江戸の街ではコロリ(コレラ)が流行りはじめており、伝統のある漢方医も、緒方洪庵ひきいる幕府医学所も、この伝染病に対してはまったくの無力だった。ちなみに、安藤広重Click!はこのときの流行で罹患し死亡している。
 長崎でオランダの軍医ポンペに付いて、旧来の蘭方学ではなく解剖をともなう当時最先端の外科や内科、眼科、小児科などの医療を、実際の患者たちを診察しながら5年間にわたってみっちり学んだ松本良順は、ポンペの帰国と同時に1862年(文久2)に江戸へともどった。江戸では、幕府医学所が西洋医学校(のち東京帝大医学部)と改称され、頭取には蘭方医の緒方洪庵が就任していたが、翌年に洪庵が死去すると、最新の医療技術を身につけた唯一の西洋医・松本良順が頭取に就き、前年から江戸市中で大流行していたコロリ(コレラ)と西洋医学校は全面対峙していくことになる。また、西洋医学による臨床治療をまったく理解しない、当時は主流派だった漢方医との確執も激しくなっていく。このとき、松本良順はまだ若干32歳だった。
 また、西洋医学所の頭取は、将軍付きの幕府奥医師も兼務しているため、彼は14代将軍・徳川家茂に西洋医学をベースとした本格的な洋式病院の建設を具申するが、家茂の死去とその後に起きた政局の混乱でついに実現できなかった。
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蘭疇医院1880.jpg

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蘭疇医院1886.jpg

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早稲田大学第一学生会館.jpg

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早稲田中学校・高等学校.JPG

 そのころ、大江戸の市中では、薩摩藩の益満休之助Click!に組織化された、テロリスト集団(約500名といわれる)による、女子や子どもへの無差別辻斬りや家々の火付け、商家への押しこみによる殺傷事件が頻発し、町医者だけでは対応できず、松本良順はコロリばかりでなく、火消しなどとも連携しながら負傷者の治療にあたった。また、鍛冶屋や金工師、錺職人などと相談して、これまで江戸の医師が見たこともない最新式の医療器具をそろえている。このあたり、以前にヒットしたドラマの展開と酷似している。当時の様子を、2005年(平成17)に講談社から出版された吉村昭『暁の旅人』より引用してみよう。
  
 良順は、医学所に通いながらも落着かず、教授も医学生たちも眼に動揺の色を濃くうかべていた。/寒さがきびしくなった頃、薩摩藩についで長州藩の大軍勢が京方面にそれぞれ繰り出したことがつたえられた。幕府に反抗する姿勢をみせていた両藩が、いよいよ行動に出たことを知った。/悪天候がつづき、江戸の町々には徒党をくんだ盗賊の群れが、富豪の家々をつぎつぎに襲い大金を奪いとっていた。その数は多く、それらが三田の薩摩藩邸に屯ろする浪士らによるものだという噂がしきりであった。/さらにかれら浪士が江戸の各所に火を放って江戸城を襲うという風説が流れ、それを裏づけるように(1867年)十二月二十三日早朝、江戸城二の丸の女中部屋から出火、全焼した。薩摩藩士の放火だという説がもっぱらで、江戸は混乱をきわめた。/薩摩藩江戸屋敷の内偵をつづけていた幕府は、庄内藩に警戒させていたが、浪士らは庄内藩屯所に発砲。これをきっかけに十二月二十五日、庄内藩をはじめ幕府側は四方から砲撃を集中し、藩邸を焼きはらった。(カッコ内引用者註)
  
 このとき、テロリストの頭目だった益満休之助は捕縛され獄につながれた。
 松本良順は、薩長軍が江戸に迫ると西洋医学校を閉鎖して、入院治療中の患者たちを安全な浅草今戸の称福寺へ移送し、自身は幕府の官費で長崎留学をさせてもらった恩義から、弟子のおもだった医師たちを引き連れて松平容保のいる会津へと向かった。会津の日新館で、藩医たちに銃創の治療や弾丸の摘出手術のしかたなどを教え、会津戦争による負傷者の治療を行うが、会津が陥落しそうになると松平容保の言葉にしたがい、会津藩と同盟関係にあった庄内藩へと向かっている。
 庄内藩に入ると、会津・鶴ヶ城の陥落を知り、また庄内藩が薩長軍へ恭順の姿勢をしめしたため戦闘にはならなかった。間をおかず、松本良順は榎本武揚からの手紙を受けとると、幕府の艦隊が停泊している仙台へ単身向かった。「開陽丸」に乗艦すると、榎本からともに蝦夷地の箱館(函館)におもむき新政府の樹立に参画するよう勧められた。だが、榎本とともに艦隊にいた旧知の土方歳三からは、それとは逆に西洋の先端臨床医学を習得している医師は日本で良順ひとりしかおらず、幕府の艦隊と行動をともにして死ぬよりは、江戸に帰って将来性のある新しい医学の普及につとめるべきだと強く説得された。
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松本順(幕末).jpg

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松本良順「養生法・上」(幕末).jpg
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松本順「海水浴法概説」1886.jpg

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こゆるぎの浜.JPG

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松本順(晩年).jpg

 松本良順は、ここで大きく迷い苦悩することになる。自分のような幕府の奥医師は、幕府軍とともに行動をともにして死ぬのが筋だと考えていたが、1日も早く日本に西洋医学を普及させる大規模な病院を建設するのが使命だ……とも考えた。彼は迷いに迷ったあげく、土方歳三の言葉にしたがって仙台から船で横浜へと帰着している。しばらく身を潜めていたが、ほどなく新政府軍に捕縛され禁固刑をいいわたされた。その刑期を終えると同時に、彼は早稲田の地で本格的な洋式の病院建設に着手したのだ。
 松本良順が建設した蘭疇医院は、長崎でポンペとともに建設した幕府の最新式養生所をベースにしており、今日の病院とほとんど変わらない部局の構成をしている。診療室をはじめ入院加療病棟、手術室、医師・看護人詰所、薬局、会計員詰所、小使詰所、賄所(台所)、浴場などの設備を備えていた。入院患者の食事には、栄養価の高い洋食を支給し、近くの牧場Click!から仕入れた牛乳の常飲を勧めた。また、病院とは別に松本内塾という学校を創立し、常時40名前後の塾生に西洋医学を教え、院外でも20人前後へ教授できる外塾を設置した。さらに、医学の原書を学べるよう語学塾の蘭疇舎を設け、外国人がドイツ語と英語の2ヶ国語を教えている。
 この時点で、蘭疇医院のある早稲田は、日本における最先端の臨床医学を学べる中心となり、全国から西洋医をめざす学生たちが集まった。また、開院と同時に東京各地から患者が来院し、重症者の入院はすぐに20床を超えている。その多くが、幕末に西洋医学所の頭取だった良順の活躍をよく知る、江戸東京の市民たちだった。
 ある日、数多くの患者が来院する蘭疇医院に、訛りの強いしゃべり方で名刺を差しだして、松本良順に面会を求めた男がいた。名刺には「山県狂介」とあり、ほどなく蘭疇医院から北東へ500mほどのところにある目白の椿山Click!を買収し、自邸の椿山荘Click!を建設する山県有朋だった。山県は松本良順へ、新政府へ参画するよう執拗に説得をつづけたが、彼は幕府に恩義を感じていたので頑として断りつづけた。だが、山県は何度も来院しては西洋医学の、特に陸軍における軍医部の重要性を説いていくので、松本良順は新政府への参画は固辞したがその熱心さにほだされ、政府ではなく山県の私邸に出かけて個人的な相談にのるアドバイザーの役割は引き受けることにした。
 だが、良順は山県の強引さに負け、最終的には初代・陸軍軍医総監の役職を引き受けさせられ、陸軍軍医部と軍医学校の開設にあたることになった。同時に、幕府を倒した薩長政府に仕える自身の名を恥じ、松本良順の「良」を取り松本順に改名している。彼が東京に近い大磯Click!を、避暑・避寒の本格的な保養別荘地として推奨し、日本初の海水浴場を開設したのは1882年(明治15)10月、早稲田に蘭疇医院を開いてからちょうど12年めのことだった。以来、大磯は江戸東京人のあこがれの別荘地として今日にいたっている。
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松本順墓.JPG

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松本順(軍医総監).jpg
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吉村昭「暁の旅人」2005.jpg

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順天堂1889.jpg

 松本順が軍医総監に就任すると、早稲田にあった蘭疇医院の建物は、清水徳川家Click!の家臣だった山瀬正己が譲り受け、医薬を研究し製造・販売する製薬会社を設立している。会社を運営していたのは、幕府の西洋医学所で松本順の教え子のひとりだった福原有信という人物だった。彼のつくった早稲田の売薬合資会社は「資生堂」という社名で、のちに彼は銀座へと進出し「銀座資生堂」と社名を変更することになる。

◆写真上:蘭疇医院跡の現状で、右手の茶色いビル(小野記念講堂)から手前にかけて。
◆写真中上は、1880年(明治13)の1/20,000地形図にみる馬場下町24番地の松本良順邸と戸塚村4番地の蘭疇医院。は、1887年(明治20)の1/5,000地形図にみる同所。は、蘭疇医院があった跡地あたりに建っていた早大第一学生会館(解体)と、松本順邸があった馬場下町24番地の早稲田中学校・高等学校の敷地。
◆写真中下は、幕末に撮影された松本良順。中上は、幕末に執筆された松本良順『養生法』()と、1886年(明治19)に出版された松本順『海水浴法概説』()。中下は、日本初の海水浴場が開かれた大磯のこゆるぎの浜。は、最晩年の松本順。
◆写真下は、大磯の鴫立庵にある松本順墓碑。中左は、軍医総監時代の松本順。中右は、2005年(平成17)出版の吉村昭『暁の旅人』(講談社)。は、1889年(明治22)にニコライ堂から撮影された松本順の実父・佐藤泰然が起こした「順天堂」。手前は神田川(外濠)の崖地で、右手にある洋風校舎は東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)。
おまけ
 今日のBGMは、松本順の活躍が原作のプロトタイプになったとみられる「JUN」と「JIN」のJ.M.で近似した、やはりこれ「Dr. Minakata's Theme」Click!でしょ。

◆付記/大磯の松本順と新島八重。
 
本文が長くなるので割愛したが、大磯を日本初の海水浴場に指定し、大磯町東小磯宮ノ上1015番地外にいち早く別荘をかまえた松本順Click!と、大磯の旅館で夫の新島襄が死去したあと、別荘あるいは隠居所の敷地として購入したものだろうか、妻の新島八重Click!が手に入れて所有していた大磯町神明前906番地外の敷地とは、大磯駅と東海道線の線路をはさみわずか200mしか離れていない。
 ふたりは、会津戦争時に負傷者の治療所にされていた日新館で、あるいは銃創を受けた負傷者の治療の際にでも、すでにお互い知りあっていた可能性がありそうだ。新島襄が死去したあと、新島八重は会津戦争で世話になった松本順を訪問して、居住あるいは別荘の建設を勧められたのかもしれない。このあと、新島八重は従軍看護婦としてすごす時間が多かったのも、会津戦争時に日新館で治療に当たっていた松本順の姿と施術を見ていた、あるいは手伝った経験でもあったのだろうか。
 新島八重が所有していた大磯の土地を譲り受けて別荘にしていたのは、後年、下落合の七曲坂Click!を上がりきった丘上にあたる下落合330番地に屋敷をかまえていた、華族(男爵)の箕作俊夫(みつくりとしお)だったことはすでに記事に書いた。
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大磯駅1946.jpg

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