10年ほど前に、下落合で暮らしていた洋画家・小松益喜Click!の作品をご紹介していた。作品は、1927年(昭和2)に制作された『(下落合)炭糟道の風景』Click!だ。描かれたカーブの道と道幅、地形、両側に拡がる風景などから、正面の建物は雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)沿いの下落合274番地にあった基督伝導隊活水学院Click!の、大正期に建っていた旧校舎ではないかと想定していた。あるいは、清戸道Click!(目白通り)のカーブから、元病院の建物を活用した目白聖公会Click!の旧教会堂を描いたものかとも考えたが、それにしては大正期の地図でさえ確認できる数多く並んだ店舗が見えず、商店街の風情がまったくない。
以前の記事の中で、「炭糟道」の炭糟とは石炭ガラのことで、土がむき出しだった路面の吸水性を高めて泥沼化することを抑えたり、ロードローラーや整地ローラーなどで圧力をかけて固めることにより、コンクリートやアスファルトとまではいかないまでも、道路の簡易舗装ができる素材だったことをご紹介している。馬車や牛車、自動車が頻繁に往来する幹線道路や街道では、泥道に車輪をとられて立ち往生する車両がまま見られていた。そこで登場したのが、「炭糟」と呼ばれる石炭ガラだった。「炭糟」は、正式名称を「シンダー・アッシュ」といい、おもに火力発電所など大量に石炭を使用する施設や工場から排出される石炭ガラ(灰)のことだ。
大正期の東京市街地では、幹線道路はコンクリート舗装あるいは石材が敷かれクルマの往来が容易であり、住宅街の路面にも砂利が敷かれて固められていたけれど、郊外の郡部ではほとんど土面がむき出しの道路のままだった。地元の自治体に、路面を舗装する予算的な余裕がないのも原因だったが(おそらく下水道の整備のほうが重要視されただろう)、当時の舗装は道路を利用する近隣住民の寄付によって行われていたケースが多い。
落合地域における道路事情について、1932年(昭和7)に刊行された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
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明治十七年十月品川赤羽間の鉄道が村の鼻先を貫縦して黎明を告ぐるものがあつたが、当時土木事務に就ては何等の施設なく、道路の改修補装は殆ど各部落有志の手に委任の状態であった、併ながら時代の進運に依る必然的の要求は、到底かゝる姑息なる方法を許さゞるに至りて、土木費を村費に計上するに至つたのは明治四十年以降の事である。而も其予算が甚だ微々で到底全般の要求を満すべくもなく、今日に至りし道路網の一新には、悉く地元の寄付奔走の力が與つて居る。
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1932年(昭和7)現在でも、ほとんどの道路が土面のままだった落合町だが、小松益喜が描いた「炭糟道」は、まがりなりにも補修(簡易舗装)の手が加わっている幹線道路だ。この補修費が、町の予算で賄われたものか、住民たちの寄付で賄われたものかは不明だが、描かれた道路が目白崖線の下を走る雑司ヶ谷道(新井薬師道)だとすれば、馬車の往来が頻繁だった落合中部に住む華族による寄付か、あるいは増えはじめた工場の物流を考慮した道路整備の一環だったのかもしれない。
さて、そもそも「炭糟道」は、石炭による産業革命が早くから進行していた、イギリスで誕生したもののようだ。もともとの名称を「シンダー・レーン」あるいは「シンダー・ロード」と呼び、それを和訳したものが「炭糟道」、あるいはイギリスの詩人アンドリュー・モーションによる「石炭殻の道」ということになる。火力発電所などから出る石炭ガラには、粉状のフライ・アッシュと粒状のシンダー・アッシュが含まれるが、道路の簡易舗装に用いられたのは粒状のシンダー・アッシュのほうだった。
イギリスの文学作品を読んでいると、1950年代以前(特に戦前)の情景を描いた作品に、ときたま「炭糟道」の記述が登場している。たとえば、2014年(平成26)に徳間書店から出版されたロバート・ウェストール『ウェストール短編集/真夜中の電話』所収の、『ビルが「見た」もの』から引用してみよう。
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猫がいたのは、二番目の訪問者がやってくるまでのことだった。シンダー・レーンと呼ばれる石炭がらで舗装した道を、郵便配達員の自転車の細いタイヤが、シャリシャリと音をたてて村から上がってくる。ビルはうれしくなった。あれは年配の配達員のパーシーだ。勾配がきつくて、少し息が切れている。/もう一人、名前のわからない若い配達員がいるが、その男ならもっと勢いよく登ってくる。なぜ名前がわからないかというと、その若い配達員は長居することがないからだ。自転車を降りて目の見えない男としゃべるのが気づまりなのだろう。
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ここでは、「炭糟道」あるいは「石炭殻の道」と和訳されず、そのまま「シンダー・レーン」とされている。また、文中にもあるとおり、土面がむき出しの道路ばかりでなく、急な坂道は雨が降ると泥で滑りやすく危険なため、産業廃棄物であるシンダー・アッシュを吸水や滑りどめとした舗装が行われていたのだろう。下落合は、目白崖線沿いのあちこちに急勾配の坂道が通っていたため、シンダー・アッシュによる簡易舗装は街道や幹線道路ばかりでなく、特に傾斜が急な坂にも施されていたかもしれない。
当時、大雨が降ると道路はぬかるみとなり、クツや洋服の裾が泥だらけになるばかりでなく、泥沼にクツを取られ「発クツ調査」Click!が必要になったり、荷運びの車輪が泥沼に沈んで1日動けなくなったりする事例が頻発していた。当時、下落合に建設された住宅には、玄関先に“靴洗い場”Click!が設置された邸もめずらしくない。
また、道の側溝(ドブ)にはフタがほとんどなかったため、大雨であふれた汚水が道路にまで拡がり、町の衛生上Click!も好ましくなかった。さらに、坂道ともなるとぬかるみに加え、大雨が降れば水が滝のように坂下まで流れ落ちるため、なんらかの道路整備は当時の郊外の町々では喫緊の課題だったろう。
では、石炭ガラの「炭糟」=シンダー・アッシュとはどのようなものなのだろうか? 2001年(平成13)に『環境技術』4月号に収録された、金津努の論文「フライアッシュの有効利用」から少し引用してみよう。
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燃焼させた石炭の約13%が石炭灰となって排出される。この内、ボイラー下部のホッパー内に落下するものがクリンカアッシュと呼ばれ、石炭灰の5~15%、ボイラーから煙道を通って電気集塵機で捕捉されるものがフライアッシュと呼ばれ、石炭灰の85~95%を占める。また、空気余熱器・節炭器を通過する際に落下採取されるものをシンダーアッシュと呼ぶが、量的には数%と少なく、一般には、原粉サイロにおいてフライアッシュと一緒に貯蔵される。したがって、石炭灰のほとんどはフライアッシュということになる。/フライアッシュ、シンダーアッシュ、クリンカアッシュとも、化学成分はほとんど同じであるが、物理形状が異なり、それぞれ0.1mm以下、0.1~1.0mmおよび1.0~10mmである。特にフライアッシ ュは粒形が球形でガラス質のものが多い。
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上記によれば、石炭ガラのうち0.1~1.0mmほどの粒状の灰が、シンダー・アッシュと呼ばれる素材になるようだ。道路の土面をおおうようにこれを敷きつめて、多少の圧力をかけることにより簡易舗装にしていたものだろう。また、水分を含むと固まったのかもしれない。小松益喜のタブロー『炭糟道の風景』、あるいはA.モーションによる詩集『石炭殻の道』の表紙に描かれた絵を見ると、道の表面がかなり黒っぽく描かれている。
しかし、今日のコンクリートやアスファルトの路面とは異なり、炭糟道は風雨への耐久性が低かったにちがいない。数年たつと舗装面はボロボロになり、結局は土面が露わになってしまったのではないだろうか。砂利や玉石を敷きつめたほうが、まだ長持ちしたような気がするけれど、おそらくその工法だと費用がかなりかさんだのかもしれない。
◆写真上:イギリスに残るシンダー・レーンだが、玉砂利を混合しているようだ。
◆写真中上:上は、1927年(昭和2)に制作された小松益喜『(下落合)炭糟道の風景』。中は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる同作の描画ポイント候補。下は、燃焼が終わって取りだされた石炭ガラ。この状態ではフライ・アッシュとシンダー・アッシュ、そしてクリンカ・アッシュが分離されていない。
◆写真中下:上は、昭和初期の目白通り。右手に写る下落合544番地のタバコ店や柿沼時計店の前から西を向いて撮影した風景で、左手は目白福音教会Click!(目白平和幼稚園)の敷地。中は、同時期の目白通りで下落合558番地の吉野屋靴店前から東を向いて写した風景。右手は目白福音教会(目白英語学校)の敷地で、吉野屋靴店の先には志摩屋、近江屋とつづいている。目白通りに、シンダー・アッシュによる簡易舗装が行われていたかどうかハッキリしないが、両写真ともにわだちを残して走るダット乗合自動車Click!の後部が写っている。下左は、2009年(平成21)に出版されたA.モーション『石炭殻の道』(音羽書房)。下右は、2014年に出版されたR.ウェストール『真夜中の電話』(徳間書店)。
◆写真下:上は、1926年(大正15)制作の佐伯祐三『下落合風景』Click!(部分)で、道路が黒く塗られているようなのが気になる第一文化村の北辺に通う二間道路。中は、1950年代後半に撮影された第一文化村の三間道路。砂利が敷かれているだけで、舗装されていないようだ。下は、1960年代の同じ三間道路。すでに簡易舗装されているようだが、当時は周辺に土庭が広い邸宅が多く、風で運ばれた土が路面にうっすらと積もっている。