下落合661番地に住んだ佐伯祐三Click!の資料を調べていると、佐伯米子Click!の手紙やハガキClick!類にいき当たることがままある。史的な事実を裏づける重要な資料もあれば、戦後の美術ファンあてに出された返信や、自作が出品されている展覧会へ誘う案内状的な手紙も多い。そんな1通が、わたしの手もとにもある。
江古田1丁目に住む美術愛好家の夫妻に向けた、展覧会へのお誘いの手紙だ。おそらく、過去に佐伯米子Click!の作品を購入してくれた人物か、あるいはどこかの展覧会で知りあって、ときどき連絡を取りあっていた既知の夫婦なのだろう。文面を読むと、彼女の手紙にしてはかなりざっくばらんな雰囲気で書かれており、ある程度親しく手紙や電話のやりとりをしていた様子が伝わってくる。
この手紙が書かれたのは1960年(昭和35)5月11日、郵便局の落合長崎局Click!が受けつけたタイムスタンプは5月12日、宛名の人物へ配送されたのは近所なので同日か、あるいは翌5月13日だったとみられる。
同年5月11日~13日にかけ、気象庁の記録によれば東京地方は快晴がつづいているが、なぜか佐伯米子が書いた宛名書きのインクの文字がにじんでいる。彼女が投函前に、水滴のついた茶飲みか濡れた布巾をそばに置いていたか、同封筒を託されて投函した女中または絵画教室に通ってきていた教え子の手が濡れていたか、あるいは受け取った夫妻が手紙の表面に水滴をたらしでもしたのだろう。
1960年(昭和35)前後の佐伯米子は、手紙の差出人書きを手書きにせず、住所や電話番号が入った印判を多用している。印判には、「新宿区下落合二の六六一/佐伯米子/電話(96)三四九四番」と刻まれており、朱肉を用いて捺印していた。佐伯アトリエに電話が引かれたのは、おそらく戦前からだと思われるが、この(96)3494という電話番号は戦後のものだ。佐伯祐三が存命中には、おそらく電話は引かれていなかっただろう。電話の必要が生じれば、隣家に住む落合第一尋常小学校Click!の教師で『テニス』Click!をプレゼントした青柳辰代邸Click!か、北隣りの朝子夫人Click!が曾宮一念Click!のファンだったらしい酒井億尋邸Click!で借りていたのかもしれない。
電電公社の落合長崎局Click!の市内局番が「9」からはじまるのは、わたしの学生時代も1960年(昭和35)の当時も変わらない。佐伯米子の時代は「9X」と2桁だが、わたしの時代は「9XX」と3桁になっていた。もちろん、現在は「9」の上に別の数字がふられ、市内局番は4桁になっているので、(96)3494にいくら電話しても「お客様がおかけになった電話番号は」とつながらない……とは思う。大林宣彦Click!作品のように時空がゆがみ、「はい、佐伯でございます」と彼女が出たりしたら怖いのだが。
では、佐伯米子が江古田の美術ファン夫妻に出した手紙を引用してみよう。
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先日は、お電話ありがとう存じました。/あのせつは頂度、人がきて、入口にまたせてございましたもので、おちつきませんで失礼致しました。/ただ今現代美術が始まっておりますので、どうぞ、おひまを作ってお越し下さいますよう。なかなかのんびりとしたよい会でございます。/イタリの版画も多くまいっております。このたびは私小さいのを二点出品致しました。アルルの古城と静物でございます。どうぞごらん下さいまして、御批評頂きたく。でも自分でみましても、弱い感じが致しました。額を細く致したのもしっぱいでございました。/ではお二人ともお元気で。さようなら
五月十一日 さえき
方々から御招待状がまいっていることと存じますが。
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文中で、「現代美術が始まって」と書かれているのは、同年4月末から5月まで東京都美術館で開催されていた、第4回現代日本美術展のことだろう。彼女が「弱い感じ」と書いているように、自身でも不出来だったのを自覚していたようで、同展のあとに発行された美術誌に、彼女の作品をことさら取りあげた“見出し”は見つからない。
佐伯邸の玄関先に待たせていた「人」が気になるが、おそらく足の悪い彼女は気軽に買い物へ出られないので、近所の商店からまわってきた御用聞きClick!の可能性が高そうだ。「落合新聞」Click!の竹田助雄Click!がスクーターに乗り、佐伯米子のもとへ取材に訪れるようになるのは、「落合秘境」=御留山Click!の保存運動がスタートした1964年(昭和39)以降のことだが、あるいは鎌倉の近代美術館から取材に訪れた若き嘱託学芸員だったりすると、がぜん展開が面白くて物語性を帯びるのだが、おそらくそうではないだろう。
この文面でもそうだが、佐伯米子の手紙はどこか受けとった相手にしなだれかかるような匂い、相手にもたれかかるような感触がにじみ出て、わたしには苦手な文章だ。特に相手が、高名な人物(特に画家仲間)だったり、自分よりも年上だったりすると、その傾向がいちじるしく強くなるように思われる。こういう人によって態度を変える裏表のあるところが、同性から快く思われなかった性格の一端Click!でもあるだろうか。
この手紙でも、最後に書かなくてもいいような追伸、「方々から御招待状がまいっていることと存じますが」と付け加えることで、「いろいろな画家からお誘いがあるのでしょうけれど、それらはさておいて、わたしの作品を観にきてね」と、どこかねっとりとした念押し感と、気味(きび)の悪い媚びを感じてしまうところが、佐伯米子たるゆえんなのだろう。封筒の裏に、ちょっと芝居がかって「五月十一日 よ」と書くのも、なんだか恋人あての「御存じ」付け文のようで後味が悪い。
わたしは、彼女が死去した1年6ヶ月後の高校時代に、下落合を訪れて佐伯アトリエの門前に立っているが、もし生前に会って取材をしていたら、(城)下町Click!女子らしからぬ“ちょっと苦手な女性”になっていたかもしれない。
足にハンディがあったため、おのずと身についてしまった性格ないしは姿勢なのかもしれないけれど、同じ下町で同郷の銀座で生まれ育った典型として、わたしが真っ先に思い浮かべるのが岩下志麻Click!のようなシャキッとした女性のイメージなので、よけいに気になるのかもしれない。でも、佐伯祐三は、そういうところがことさら「かわいい」と感じたからこそ結婚したのだろう。わたしには、ちょっと理解できない好みであり感覚なのだが。
ほぼ同時期に、佐伯米子が山田新一Click!にあてた手紙がある。こちらは、1961年(昭和36)10月1日に書かれ、翌日に投函されたらしく10月3日の新宿局による消印が押されている。手紙の郵便料金が、10円から一気に35円へ値上がりした直後のものだ。長くなるので、その一部を引用してみよう。
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山田新一様 十月一日 米子拝
お手紙拝見して、思わず、遠い京都の空をみつめました。涙をポタポタこぼしながら、きっと、もってはいらっしやらないのを、無駄と思いつゝおたづね致したのに……。/世の中が、こんなにかわり、私も生きて皆様にお会いすることが、はづかしく、平気をよそおっておりましても、心では、人さまに申し上げられない、苦しい思いでこさいます。思えば生前には、とりわけ親しくして頂いて、朝鮮の釜山にいらっした頃、フランスへの途中、宿(ママ:泊)めて、頂いたり、他、数々の思い出話しがあの時こさいました……。/お父様のやさしい方でしたこと、/こうして生きながらえている、私の悲しさつらさは、きっと、いつかはお話出来る時もこさいませふ、/こん度の名画全集には藤島先生と二人のります。/どなたに伺っても手紙をもっていらっしやいません。筆無性(ママ)でしたからね。(後略)
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文中の「こん度の名画全集」とは、1961年(昭和36)に平凡社から出版された『世界名画全集/藤島武二・佐伯祐三』(同全集続刊6巻)のことだ。おそらく、佐伯祐三が友人に出した手紙を掲載しながら、彼女はそのときの思い出を巻末の解説か、あるいは挿みこみの月報(季報?)にでも書こうとしていたのではないか。
佐伯米子は、「筆無性でしたからね」と書いているところをみると、山田新一Click!は「もう佐伯の手紙は、1通も残っていない」とでも回答したものだろうか。だが、山田新一は佐伯からの数多くの手紙やハガキ類を、たいせつに保存していたはずだ。なぜなら、佐伯米子の死去から8年後、1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された山田新一『素顔の佐伯祐三』では、それらの手紙やハガキ類を写真でていねいに紹介・解説しているし、また彼は朝日晃へ佐伯アトリエの1921年(大正10)における竣工時期などがおおよそ想定できる、美術史的にも重要なハガキClick!を提供しているからだ。
美術ファンへの手紙とは異なり、山田新一Click!あての手紙には朱肉の印判を使用していない。相手が夫の親友だった山田新一では、手書きにしないと失礼だと感じたのだろう。どこか憐れみを誘うような、メメしい文面にムズムズと居心地の悪さを感じるのだが、手紙の封緘に「の」の字を書くのもジメッとした甘えを感じて、わたしとしては気持ちが悪い。
◆写真上:佐伯米子の印判が押された、美術ファンあてに送られた封書の裏面。
◆写真中上:上は、1960年(昭和35)5月12日の落合長崎局スタンプが押された手紙の表面。中は、封入された手紙の内容。下は、麹町の心法寺にある佐伯家の墓Click!。佐伯祐三に米子、彌智子の一家がそろって眠る墓は、ここ1ヶ所しかない。
◆写真中下:上は、アトリエで制作中の佐伯米子。中は、野外で写生中の佐伯米子。下は、1947年(昭和22)ごろ制作の佐伯米子『エリカの花』Click!。
◆写真下:上・中は、1961年(昭和36)10月1日に書かれた京都にいる山田新一にあてた封書の表裏。下は、夫の手紙について書いた同手紙の内容。