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膨大な作品が欠落したままの漫画史。

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プロレタリア美術研究所への道.JPG
 日本は「漫画大国」だといわれるけれど、その歴史が詳細に語られることは案外少ない。たいがい、1945年(昭和20)の敗戦からスタートするか、せいぜい戦前の『のらくろ』(田河水泡Click!)、あるいは『冒険ダン吉』(島田啓三)や『ノンキナトウサン』(麻生豊)、『東京パック』の北澤楽天あたりまでで、またアニメでは戦時中の「ディズニーを超えるため」に国策として制作された、『桃太郎 海の神兵』(瀬尾光世/1944年)などがたまに登場するだろうか。
 もともと新聞や雑誌などに漫画を描く作者たちが、岸田劉生Click!木村荘八Click!などに象徴されるように、本格的なタブロー画家を兼ねているケースが多かったのと、専業漫画家の数が少なかった(漫画では食えなかった)ことにもよるのだが、漫画史があまり語られない要因には、漫画が政府当局を批判する(同時に思想をアジプロする)風刺や揶揄の直接的な表現方法であり、明治期(見方によっては江戸期)より一貫して弾圧の対象となってきた経緯もあるからだ。
 江戸期には、「北斎漫画」に代表されるように、読本や読売(瓦版)などへ挿入される版画用の漫画や戯画も存在していたが、今日につながる漫画は欧米で描かれていた新聞や雑誌メディアの直接的な模倣からはじまっている。明治期に登場した初期の漫画作者としては小林清親Click!、平福百穂、小川芋銭、竹久夢二Click!、北澤楽天、そして宮武外骨Click!の雑誌類に挿画を描きつづけた漫画家たち(大正期まで)が挙げられる。自由民権運動に呼応した『団団珍聞』(野村文夫)、帝国議会の開催期に現れた『滑稽新聞』や大正デモクラシーの中で人気が高かった『スコブル』(ともに宮武外骨)などが掲載メディアとして登場している。
 そして、大正期に入ると漫画をベースに編集されたメディア『東京パック』(北澤楽天)を中心に坂本繁二郎、川端l龍子Click!山本鼎Click!小杉未醒Click!石井鶴三Click!石井柏亭Click!、和田三造、満谷国四郎Click!赤松麟作Click!倉田白羊Click!織田一麿Click!など、落合地域でもおなじみの洋画家や日本画家と漫画作者とを兼ねた人たちが数多く輩出している。でも、彼らの中で漫画を専業にして描く作者は少なかった。また、明治期に鋭利化した風刺や揶揄の筆鋒はにぶり、エログロ・ナンセンスを主題にしたものが急増している。この時点で、漫画という表現方法は、おおっぴらに「市民権」をえたわけだけれど、それは当局の弾圧や規制を受けず馴れあうようにして、また同時に出版社側も発禁を心配することなく“当たり障り”のない表現においてだった。
 さらに、大正期から昭和初期にかけ、新聞社を中心に漫画の「新時代」ともいわれる全盛期を迎えている。1915年(大正4)には東京漫画会(のち日本漫画会)が結成され、新聞各紙は漫画の評判や人気度を競い合っていた。「東京朝日新聞」の岡本一平Click!や山田みのる、「東京日々新聞」の幸内純一、「読売新聞」の前川千帆や柳瀬正夢Click!、「国民新聞」の池辺鈞Click!、「中央新聞」の下川凹夫、「やまと新聞」の宍戸左行、「都新聞」の代田収一、「時事新報」の森島直造、そして地下の「赤旗(せっき)」には小松益喜Click!や寄木司麟などがいた。共産党の「赤旗」を除き、多くの新聞では当時の世相や流行、生活を風刺する漫画表現が多かった。
須山計一「われらのプロ吉」1927.jpg 岡本唐貴「祖国と廃兵」1931.jpg
 漫画という表現の位置づけ自体が古く、画家たちの余暇仕事のような感覚のままだった日本漫画会と訣別し、漫画の「新時代」に適合する新たな団体「日本漫画家連盟」が1926年(大正15)7月に誕生する。結成の中心になったのは麻生豊、宍戸左行、在田稠(しげる)、下川凹夫、柳瀬正夢、そして村山知義Click!だった。漫画を「新興美術運動」のひとつと位置づけ、画家が片手間にこなすアルバイト的な仕事ではなく、それ自体が独立した芸術表現であることを明確に宣言している。同連盟の設立が、「絵画の亜流」芸術とは一線を画し、現在へとつづく日本の漫画芸術の出発点となった。日本漫画家連盟は旗揚げの際、宣言文を採択している。その全文を、『日本プロレタリア美術史』(造形社)所収の松山文雄「プロレタリア漫画小史」から、少し長いが引用してみよう。
  
 われわれは独立せる漫画芸術の確立と発達を期す。
 われわれは人類幸福の妨げとなる凡ての物を排除せんことを期す
 宣言 / 漫画界は沈滞しきっている。総ての芸術中漫画程おくれているものはない。未だにポンチ絵の域を脱し得ないでいる。いうまでもなく漫画家に、形式の如何に拘らず、辛辣なる文明批評家、深刻なる人生批評家であらねばならない。しかるに今日のそれは如何であるか。新聞雑誌に売品主義の俗悪漫画を造るを唯一の目的として、漫画家の本性を忘れんとする現状ではないか。それがため娯楽雑誌、婦女雑誌は宣伝上のいわゆる大家を濫造し、玉石混淆の有様である。漫画の見識のない事夥しい。社会は民衆芸術を低級芸術と誤解しているようだ。漫画芸術のためには飽くまでも売品主義、俗悪芸術と闘わねばならない。故にわれわれは美術と思想との間に介在する新芸術の独立を計り(ママ)、わが有力巨大なる武器に十分磨きをかけ、文化戦野に立つ必要がある。如上の理由からして、われわれは今回日本漫画連盟を組織し、共同団結して目的達成に勇往邁進する覚悟である。
  
 まるで、絵画界における「文展」に対する「二科」、「帝展」に対する金山平三Click!らによって推進された「第二部会」Click!、あるいは「二科」に対する「三科」のような勢いのある“宣言”文なのだが、すでにお気づきのように、明治期の藩閥政治に対する自由民権運動や議会開設運動、日清・日露戦争に対する反戦論調の戯画表現、財閥丸抱えによる政党政治の腐敗に対するデモクラシズム・・・というように、政治や社会の流れに対して、その動向をチェック・監視し批判・風刺する役割としての芸術表現、より前倒しにした言い方をすれば、現状の政治や社会の流れへ対峙しえるべき思想の発露手法としての漫画表現への希求が、日本漫画家連盟の宣言文には強く感じとれる。同連盟は結成と同時に、漫画専門誌の『ユーモア』を刊行しはじめている。
竹本賢三「弾圧」1930.jpg
 昭和初期において、日本漫画家連盟の方向性は必然的にプロレタリア美術運動と結びつくことになった。そのせいで、のちに同連盟自体の存在や活動が全的に抹殺され、大量の作品が当局から発禁処分を受けて闇に葬られ、また展覧会などでは作品が特高Click!に没収されて行方不明ないしは廃棄された。その徹底ぶりは、江戸期の風刺漫画・戯画に対する幕府の締めつけや、明治期の自由民権や議会開設運動のころにみられた弾圧などよりも、はるかに規模が大きく徹底かつ野蛮なものだった。今日、ほとんどの作品が失われているため、大正期から戦前にいたる膨大な作品類は「なかった」ことにされて、日本の漫画史に登場してくることもまれだ。この時期の漫画は、“当たり障り”のない政府迎合型の作品のみが語られ、文学における「プロレタリア文学」というようなジャンル的位置づけさえ、まったくなされないまま今日にいたっている。
 わたしは、特定思想をアジプロするだけの押しつけがましいプロレタリア文学も美術も、はたまた漫画も残念ながらキライだけれど、実際にあった事実を直視せず「なかった」ことあるいは矮小化する史観はもっとキライだ。おそらく、大正期から戦前にかけて創作された漫画の中で、ボリューム的にはもっとも大きかった思われるプロレタリア漫画が、まるでこの世に存在しなかったかのようなすまし顔で語られる漫画史は、とても奇異かつ不可解に感じるのだ。
 昭和初期のプロレタリア漫画運動の中核をになったのは、古い師弟関係で成立する“習得”ではなく、教育のカリキュラムとして漫画講座が開設されていた長崎町大和田1983番地(現・南長崎2丁目)のプロレタリア美術研究所Click!(元・造形美術研究所)だが、特高ばかりでなく最後は憲兵隊によってとことん破壊しつくされた同研究所の存在自体も、いまでは限りなく薄められている。
プロレタリアカット漫画集30集1930.jpg 松山文雄「反戦絵本・誰のために」1931.jpg
村山知義「魅力なき裸体一名裸にされた帝国主義」1930頃.jpg 柳瀬正夢「田中大将の公平なる肥料分配」1928頃.jpg
 わたしは中学時代を終えるころから、漫画を読むことがほとんどなくなっているので、いまさら漫画について書くのも妙なことなのだけれど、落合・長崎地域を調べているとどうしても避けて通れないテーマに、画家のタブローと隣り合わせで表現されていた漫画の存在がある。また、戦後の代表的な漫画家が集合していたトキワ荘Click!も近いので、どうしても触れてみたくなるのだが、あとは椎名町・長崎地域の方たちにおまかせして、わたしは落合地域へともどることにしたい。w

◆写真上:昭和初期に、プロレタリア美術研究所への看板があったという地元伝承が残る道筋。
◆写真中上は、「労働農民新聞」や「無産者新聞」などへ連載されて人気が高かった須山計一『われらのプロ吉』。は、1931年(昭和6)に描かれた岡本唐貴『祖国と廃兵』。
◆写真中下:1930年(昭和5)ごろ『プロレタリアカット漫画集』(戦旗社)掲載の竹本賢三『弾圧』。
◆写真下上左は、1930年(昭和5)に戦旗社から出版された『プロレタリアカット漫画集』第30集。上右は、1931年(昭和6)に制作された松山文雄『ハンセンエホン・誰のために』。下左は、1930年(昭和5)に描かれた村山知義『魅力なき裸体/一名裸にされた帝国主義』。下右は、1928年(昭和3)ごろに制作された柳瀬正夢『田中大将の公平なる肥料分配』。


老後を楽しく暮らす美寿夫人の原動力。

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笠原邸の庭先1955.jpg
 1955年(昭和30)の4月に、朝日新聞のカメラマンが撮影した1枚の下落合写真が残っている。写っているのは、立っているのが笠原美寿Click!で、しゃがんで庭いじりをしているのが孫娘のどなたかだ。キャプションには、「庭いじりの笠原さんとお孫さん」と添えられている。同じ年の前月、朝日新聞の“ひととき”欄に「七十代の夢」と題する原稿が掲載されてから、朝日新聞社には大きな反響が寄せられた。全国的な反響を受けて、改めての取材記事なのだろう。このあと、笠原美寿は雑誌や新聞の取材を頻繁に受けるようになる。
 朝日新聞への投稿は、地域へ老人専用施設の建設を提言する内容だったが、施設のさまざまな用途や催いものの企画などを含め、全国で同様の必要性を感じていた人々に、大きなインパクトを与えたようだ。当時74歳の笠原美寿は、朝日新聞の投稿者の集まりである「草の実会」で、老人問題研究会の特別会員になったのをきっかけに、下落合で「落合木の実婦人会」を結成することになる。その設立趣意書および規約のリーフレットを、当時の新聞記事とともに、笠原美寿の二女・山中典子様よりお送りいただいたのでご紹介したい。
 「落合木の実婦人会」の所在地は、新宿区下落合2丁目679番地(現・中落合2丁目)となっており、笠原美寿の自宅、すなわち「八島さんの前通り」Click!または「星野通り」Click!に面した笠原吉太郎Click!のアトリエだった。朝日新聞の記者が訪問する前年、1954年(昭和29)に笠原吉太郎は死去しているが、敗戦後からアトリエは実質使用されていなかった。
 空いていたアトリエは、ときどき近くに住むシュルレアレズムの画家・阿部展也(下落合に住んでいたと思われるが住所が不明だ)が、仕事場として借りていたらしい。ちょうど、松下春雄Click!が死去したあとのアトリエClick!柳瀬正夢Click!が借りていたのと同様のケースだが、阿部展也の場合はアトリエのみを借りており、母屋には笠原一家が住みつづけていた。
朝日新聞19550313ひととき.jpg
落合木の実婦人会1955.jpg
笠原吉太郎1920頃.jpg 笠原美寿(女学生時代?).jpg
 1955年(昭和30)4月14日発行の朝日新聞に掲載された、笠原美寿の取材記事から引用してみよう。なお、この記事に添えられているのが、下落合の自宅で撮影された冒頭の写真だ。
  
 美寿さんのご主人吉太郎氏は昨年二月になくなった。画家の佐伯祐三らと親交があり、ヴラマンク風の画をかいていた。芸術家の妻として八人の子供を育てた三十年間は、お勝手と食堂の往復だけで過ぎた。貧乏暮しをどうしたら明るく便利にできるか、そんな必要の中から、美寿さんはいろいろな「暮しの工夫」をやってきている。衣生活を全部洋服に切りかえたのが大正九年ごろ、まだ婦人服地を売る店などどこにもないころで、横浜の外人相手の店から材料を探してきて、全部自分で仕立てた。メイセンとかお召とか、着物の種類によって子どもたちにひけ目を感じさせたくないという気持からだった。また家族においしいパンを食べさせたいという願いからテンピの改良もやった。それが最近ある工場主の好意で工場生産に乗せられることになり、美寿さんはいまたいへんに忙しい。/「七十代の夢」が、“ひととき”に出てから、美寿さんのもとにも、たくさんの人から便りがとどいた。老人ホームの夢は美寿さん一人の夢ではなくなった。
  
 写真にとらえられているのは、自宅の東側、谷間に面した庭園の一画だと思われる。カメラは、笠原邸の母屋から東を向いて撮影されており、庭の向こう側には電柱の最上部、変圧器と碍子のついた横木の尖端部分が見えている。すなわち、口を開けた谷間は不動谷(西ノ谷)であり、笠原美寿の背後には国際聖母病院Click!の施設がとらえられている。
朝日新聞19550414.jpg
朝日新聞19550414写真.jpg
 右手の建物は、建設当初は「慈善院」および「慈善病院」と呼ばれた施設で、おそらく戦前に医療を満足に受けられない、貧しい人々あるいは老人のために建設された無料医院と医療入院施設、あるいは時代によっては「孤児院」Click!(特に戦時中など)に利用されたとみられる建物だ。フィンデル本館Click!を除き、国際聖母病院ではひときわ大きな建築だった。また、左手に見えているのは聖母ワインを醸造していたワイナリー、または当初は吹きっつぁらしで「シベリア鉄道」と呼ばれた、フィンデル本館からつづく渡り廊下の一部の屋根だと思われる。
 笠原邸のある西ノ谷(不動谷Click!)西側の丘上や、国際聖母病院の南側に拡がる丘上、そして諏訪谷Click!をはさんで対岸となる東側の丘上(現・下落合)は、空襲による延焼を奇跡的にまぬがれており、1970年代まで大正期から昭和初期の風情が面影Click!を色濃く残していた一画だ。そのころまで街の風景に大きな変化がなかったため、わたしも実際に目にしており、笠原吉太郎の『下落合風景(小川邸の門)』Click!の描画ポイント特定や、佐伯祐三Click!が諏訪谷を描いた「下落合風景」作品Click!の描画位置などが比較的たやすかったといえる。
笠原邸眺望1947.jpg
聖母病院絵葉書1934頃.jpg
 朝日の新聞記事をきっかけに、74歳の笠原美寿は90歳で死去するまでの十数年間、「笠原手織会」の会長の仕事も含め、以前にも増して多忙な日々を送ることになる。最後に、彼女がしょっちゅう口にしていた言葉を、笠原豊『笠原美寿の生涯』から引用してみよう。「一日のうち一時間でも二時間でも仕事をしてこそ、生きる喜びがある。これが老後を楽しく暮らす原動力になる」。


◆写真上:1955年(昭和30)4月14日の朝日新聞に掲載された、笠原邸の庭園と笠原美寿。
◆写真中上は、1955年(昭和30)3月13日発行の朝日新聞「ひととき」欄に寄稿した笠原美寿「七十代の夢」。は、下落合で結成された「落合木の実婦人会」の設立趣意書。下左は、下落合の邸横に立つ笠原吉太郎。1920年(大正9)の新築から間もない時期と思われ、笠原邸が下見板張りの外壁(焦げ茶)で白い窓枠の西洋建築だった様子がうかがえる。下右は、女学生姿の星野美寿(笠原美寿)で青山学院時代のものだろうか。山中様は古いアルバムを探してくださっており、笠原吉太郎とともに写る佐伯祐三や1930年協会のメンバーたちの姿が残されていないかどうか楽しみだ。
◆写真中下は、1955年(昭和30)4月14日発行の朝日新聞に掲載の取材記事。は、同時に掲載された笠原邸写真の背景のクローズアップ。
◆写真下は、1947年(昭和47)の空中写真にみる笠原邸からの撮影ポイント。は、1934年(昭和9)ごろに発行された聖母病院絵葉書にみる撮影ポイント。絵葉書には笠原邸のような2階家が描きこまれているが、他の家々がリアルでないようにあくまでもイメージだろう。

吉田博の野営(キャンプ)生活の奨め。

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鎗ヶ岳1949.jpg
 山岳写真家という言葉はいまでもときどき耳にするが、山岳画家というショルダーはあまり聞かなくなった。山岳風景をアルプスのような高山に登って描いてくる・・・というような仕事は、昔ならなおさら強健な身体やトレーニングを積んだ体力を必要としたことから、そもそも画家の中でもかなり条件が限られてくる。本格的な山岳画家のパイオニア的な存在に、旧・下落合2丁目667番地の第三文化村Click!にアトリエをかまえて住んだ吉田博Click!がいる。
 吉田博Click!は、大正初期から登山をはじめ山岳風景を描きつづけている。当時の山岳は、「登山」という概念さえいまだあまり拡がっておらず、山小屋さえ十分な設備のものは存在しなかった。また、登山用具や装備も貧弱で、たとえば日本アルプスクラスへ登るのであれば、最低でも3人の「人夫」(案内人:今日でいうなら登山ガイドのこと)を雇わなければならず、そう簡単に一般人が出かけられるような場所ではなかった。しかも、天幕(テント)など野営用具も未発達で、たいへんな苦労をしながら山登りをすることになる。
 1921年(大正10)に発行された『主婦之友』8月号に、北アルプスを登攀しては絵を制作していた吉田博Click!の手記が掲載されている。当時の北アルプスとその周辺は、いまだ国立公園にさえ指定されてはおらず、人跡未踏のエリアがまだたくさん残っていた時代だ。彼は、地元で人夫を3人雇って登攀している。人夫3人の雇用というのは、当時は最低限の人数であり、登山経験が少なかったり初心者のケースだと登山人数にもよるが7~8人になることもめずらしくなかった。
 少し古い例だが、弘前第三十一連隊Click!が冬の八甲田山系を縦走しようとしたとき、念を入れて6名の案内人を雇っているのは、結果的に丸1日遭難しているとはいえ妥当な判断だったろう。6人いれば、そのうちの半数が誤った判断を下したとしても、残りの案内人によって誤りの修正が比較的容易にできたと思われるからだ。同隊は、雪中の八甲田の山中を1日彷徨しているが、なんとか全員無事に田茂木野へのルートを見つけて下山している。
 吉田が登るのは、もちろん白一色になる冬の雪山ではなく、さまざまな色彩にいろどられる夏山だった。その様子を、1921年(大正10)発行の『主婦之友』8月号に掲載された、吉田博「日本アルプス山上の天幕生活―夏の変つた生活法として一般の方にお勧めします―」から引用してみよう。
  
 山の生活にどれだけのものを持つて行くかと云ひますに、人に依つては随分仰山な準備もしますが、私は極めて簡単にします。薬は多年の経験から薄荷入りの気付一個、食糧は熱湯を注いで直ぐ食べらるるもの、例へばトロロ昆布、麦こがし、ココア入り粉ミルク、飴玉、氷砂糖、塩気のかつた缶詰、梅干、味噌、白米でありますが、困難の多い登山には発汗も従つて多いので、つまり外へ出る塩分の補ひとしても、塩分の多い副食物は必要であります。山へ瓶詰の醤油を携帯するといふやうなことは、及びもつかない贅沢であります。普通は未だ擂つていない味噌を携行します。時によつては麓を立つ時に擂つて来ますが、いづれにしても味噌は最も簡便です。人跡を絶つ山間に十二三日も送るのですから、私は兎も角として、同行の人夫は随分無聊に苦しみます。そのためにもと思つて、私は種々の缶詰類を用意しますが、製作の上の苦心の他にまたこういふ些細なところにまで注意が要ります。
  
上高地小梨平から穂高1949.jpg 上高地から穂高連峰.jpg
天幕内の吉田博1921.jpg 吉田博「鎗ヶ岳」1926.jpg
 当時の登山は、専用の登山用品などほとんど存在せず、草鞋(わらじ)をはいて登るのが普通だった。吉田博は、草鞋に毛皮の外套をはおり、菅笠をかぶって画道具を背負いながら登っている。当時の天幕(テント)はその名のとおり、下に敷くシートがないので、地面の上に毛布を敷いて横になる。天幕内で焚き火をして、それをひと晩じゅう絶やさないのが慣例だった。現在のテントのように、密閉されないので可能だったのだろう。吉田は、このような生活を10日間以上つづけても睡眠不足にはならず、疲れはしないと書いている。むしろ、山で疲労するのは、「日中に背中を太陽に照らされることによるやうです」と書く。このあたり、いまの感覚ではよくわからないのだけれど、2,000mを超える山岳では紫外線が強く、それに当たりすぎると身体に強い疲労感をおぼえたものか、あるいは発汗による倦怠感をおぼえたものだろうか?
 吉田博は、天幕を張ったポイントをベースに、ひとりでスケッチをしながら周囲を歩きまわるのだが、その間、3人の人夫は食事の用意や水、薪の確保などの仕事をしている。基本的な調味料や米は携帯したようだが、副食物は現地調達が原則だった。正式な名称は不明だが岩茸や岩苔、アザミの芽、渓流がある場所ではイワナなどを採って食べていたらしい。北アルプスではよくライチョウが姿を見せるので、人夫や登山者が追いまわしている光景も見られた。
 海の写生もそうだが、山の写生でもある瞬間を手早く切りとらないと、刻々と山肌や空の色彩が変化してしまう。翌日の同時刻に、再び写生をしようとしても色彩が異なり、また天候もすぐに変わりやすいので“つづき”を容易に描けないのだ。一度中断したスケッチを、再びはじめることができずに途中であきらめて、廃棄された作品は膨大な枚数にのぼるようだ。
吉田博「穂高山」1926.jpg
吉田博「雲海に入る日」1922.jpg 吉田博「上高地より穂高岳を望む」1921.jpg
 当時から、マナーの悪い登山者もいたらしい。天幕をたたんで、山小屋のある低山へともどってくると、荒らされた小屋を目にすることもたびたびあったようだ。同誌から、再び引用してみよう。
  
 製作も済んで出発と定まれば、小屋をたゝんで、その場で天幕や衣服を乾かしてしまひます。毎朝、天幕は驟雨に逢つた洋傘のやうに湿つてゐるのです。ものが乾いてゐないことは、山では最も不快なことです。従つて濡れて小屋に来ることも一番困ることです。第一火が焚けません。濡れても燃ゆるものには白樺の皮がありますが、これはその筋から禁止されてゐますから、勢ひ這松の末枯を取つて焚くのです。昔の登山者は、小屋に宿つても、次に来るものの為めに、一夜の野宿に事欠かないほどの薪を残して行つたものたさうですが、今の登山者は、薪を残して行くどころか石垣さへも壊して、高根から落して興ずるものがあります。人跡の絶えた山中では、小石原に微に残ってゐる草鞋の跡や、唯だ一本伐倒された灌木の枝も道しるべとなります。前者が無意識にした親切も、後者にとつては唯一の頼りとなるのです。/私のやうに山中に日を送る事の多いもののつくづく感ずる事は、登山者各々がもう少し相互に親切にし合つて、気持のいゝ登山をする事が出来るやうにしたいと云ふ事です。
  
 『主婦之友』に掲載された吉田博の手記は、野外生活の奨めという切り口からも書かれている。当時、日本ではキャンプという概念がほとんど普及していなかったが、欧米では大流行していた。都会生活で身体を壊しがちな家庭には、単に日を送る別荘生活などではなく、自然を愛好する野営(キャンプ)が最適なのではないか・・・と結んでいる。
大正時代の天幕(テント).jpg
吉田博「鷲羽岳の野営」1926.jpg 鎗の見える剃刀尾根1949.jpg
 キャンプやハイキングClick!は、大正末から昭和初期にかけて一般化してくる。登山用具やキャンプ用品が、ようやく庶民の手にとどくようになるのも、ちょうどそのころからだ。でも、現在からは到底信じられないけれど、1960年代ぐらいまでの防水布製テントやシート、防雨天幕、支柱、ペグなどは相当な重量で、普通の人が手軽に背負えるような仕様ではなかった。

◆写真上:1949年(昭和24)の夏に、稜線から親父が撮影した北アルプスの鎗ヶ岳。
◆写真中上上左は、同年に親父撮影による上高地小梨平からの穂高。上右は、上高地から眺めた穂高連峰の現状。下左は、1921年(大正10)の『主婦之友』に掲載された天幕内の吉田博(右)。下右は、1926年(大正15)に描かれた吉田博『日本アルプス十二題』のうち「鎗ヶ岳」。
◆写真中下は、やはり吉田博『日本アルプス十二題』のうち「穂高山」。下左は、1922年(大正11)制作の同『雲海に入る日』。下右は、1921年(大正10)制作の同『上高地より穂高岳を望む』。
◆写真下は、大正中期の天幕(テント)による野営(キャンプ)の様子。下左は、1926年(大正12)制作の吉田博『日本アルプス十二題』のうち「鷲羽岳の野営」。下右は、1949年(昭和24)に撮影されたカミソリ尾根から眺めた鎗ヶ岳で、写っているのは大学を卒業したばかりの親父。

下落合に観世の能舞台があった。

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観世喜之邸跡.JPG
 根っからの(城)下町Click!育ちの親父が、なぜ山手趣味の謡(うたい)Click!にはまったのかはよくわからない。習っていたのは観世流で、膨大な謡曲関連の資料や、練習用のLPレコード/テープが部屋にはズラリと並んでいた。それは、芝居や仏教彫刻・寺院建築に関する書籍や資料類に匹敵するほどのボリュームだったろう。数ある謡曲の中で、耳にタコができてしまったのは、『橋弁慶』と『隅田川』だ。親父の部屋から、あるいは風呂場から練習する声が頻繁に聞こえていたので、わたしまでが両曲をそらんじられるまでになってしまった。
 『隅田川』(金春流でいえば『角田川』)は、室町期の1420年代に観世元雅が創作したとされる謡曲だが、江戸期に入ると「隅田川もの」と呼ばれる一連の芝居や文芸を生みだす母体になった作品だ。物語はあまりにも有名なので省略するが、いまでもTVで同曲が演じられているのを見かけると、夜道をだんだん玄関へと近づいてくる親父の帰宅の足音と、謡の声音を思い出す。もっとも好きで、頻繁に口ずさんでいたのは『橋弁慶』だったようだが・・・。
 子どものころ、ときに能を観に連れていってくれたことがあったが、新派Click!舞台Click!とまったく同じで、わたしにはちょうどいい午睡タイムだった。芝居とは異なり、演者のくぐもった声音は聞きとりにくく、むずかしい文語調の表現でなにがなにやら意味不明だし、その動きは芝居に比べればやたらじれったくて、舞台の展開も終始変わり映えがしない・・・という、子どもにとってはまさに寝てすごすしかない時間と空間だったのだ。いまから思えば、そうそうたるメンバーが演じていたのであり、もったいないことをしたと思うのだけれど、当時は早くうまいもんClick!を食べにいきたくて、早々に退屈な時間がすぎてくれればと、そればかりを願っていた。
 家には、仏教美術の置き物や壁架けはたくさんあったけれど、能面のたぐいはひとつもなかったと思う。おそらく、親父は謡曲そのものに熱中していたのであり、その道具類や楽器には興味を惹かれなかったのだろう。唯一、舞台で使用する扇類はいろいろと揃えていたような記憶があるけれど・・・。腹の底から絞りだすように詠じる謡の心地よさは、きっとカラオケへ出かけて無我無心で歌いまくったときに感じる爽快感や解放感に通じるものがあり、いまなら親父はカラオケへ出かけて各大学の寮歌でも勇んで歌っていたのかもしれない。親父は謡曲を、わたしの知る限り25年以上つづけていたので、しまいにはレコードや書籍、資料類は書棚からあふれていた。
隅田川.jpg 橋弁慶.jpg
 わたしの世代では、『隅田川』というと1976年(昭和51)に発売された、穐吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンドの『Insighta(インサイツ)』(RCA)に収録された、B面全曲(当時はLPレコードだった)の「Minamata(ミナマタ)」が思い浮かぶ。オーケストレーションの途中から、観世寿夫(シテ)に亀井忠雄(大鼓)と鵜澤速雄(小鼓)の『隅田川』が混じりはじめると、のどかで平和な村に不吉な影がさしはじめる。曲は、当初はコード(協和音)のあるバップのサウンドでスタートするのだが、途中からモードないしはフリーの演奏が少しずつ響きはじめる。
 穐吉敏子の娘のかわいい歌声、「♪ムラあ~り、その名を~ミナマタという~」からスタートする組曲「Minamata」は、曲の構成全体が水俣地域の歴史物語になっていて、おそらくネコの脳が有機水銀に侵され踊り狂う現象がみられるあたりからだろうか、観世寿夫の不吉な謡がどこからともなく入り混じりはじめる。それまでオーケストラは、統一されたコード演奏を繰りひろげていたのだが、楽器ごと徐々にコードが消滅していき、破局へ向けてバラバラな不協和音のフリーイディオムへと急速に突入していく。そして、ひときわ『隅田川』の謡が大きく、野太くエンディングへ向けて途切れずに響きつづける・・・というような展開だった。これも、江戸期からつづく悲劇「隅田川もの」の流れだろう。
穐吉敏子「Insights」1976.jpg 穐吉敏子.jpg
 1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には、下落合515番地に二世・観世喜之邸が採取されている。牛込区矢来町60番地の観世九皐会能楽堂(のち矢来能楽堂)の前身となる、いわゆる現在の「矢来観世」が主催する能楽堂は、当初、下落合の自邸内に設置されていた。目白通りから、目白中学校Click!(近衛新邸Click!の敷地の一部)の角を、南へ林泉園Click!へ向かって100mほど入った右手(西側)に、広い敷地の観世喜之邸は建っていた。
 1930年(昭和5)に矢来町へ新しい能楽堂が竣工するまで、能楽シテ方観世流と呼ばれる矢来観世家の拠点だったのだろう。ちなみに、1930年(昭和5)に完成した矢来町の観世九皐会能楽堂は、1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲Click!で焼失しているが、戦後の1952年(昭和27)に名称も新しく矢来能楽堂として再建され現在にいたっている。
 この二世・観世喜之邸の下落合能楽堂には、能楽関係者ばかりでなく近所の能楽ファンの人々も、たくさん集ったのではないかと思われる。きっと当時の乃手には、謡をやっているファンが大勢いただろう。下落合の観能会の広告でもないかどうか、当時の資料に気をつけてみたい。余談だけれど、現在の下落合では謡の声音をほとんど聞いたことがない。そのかわり、面白いことに清元や常磐津の三味の音色をあちこちで聞く。20年ほど前まで住んでいた聖母坂のマンションの隣りには、小唄のお師匠(しょ)さんが住んでいて、午後になると毎日三味の稽古をしていた。まるで下町のような風情なのだが、たまには乃手の下落合らしい謡や詩吟の声音が聞こえてこないものだろうか。
観世喜之邸1926.jpg 観世喜之邸跡1936.jpg
 早大演劇博物館Click!には、さまざまな時代の能面や伎楽面が保存されているが、親父に連れられて何度か出かけた憶えがある。親父は、能面の陳列棚の前で立ちどまってはしばらく鑑賞していたようだが、わたしは文楽の頭(首)のあるガラスケースへ貼りつき飽きもせず眺めていた。もちろん、わたしのめあては、なにを考えてるのかわからないちょっと不気味な能面ではなく、そのままストレートにすごく怖いガブClick!のお姉さんであり、以来、彼女たちに魅入られ憑かれてしまったのだ。

◆写真上:観世流の能舞台があった、下落合515番地の観世喜之(二世)邸跡の現状。
◆写真中上:能楽の代表的な演目である、『隅田川』()と『橋弁慶』()。
◆写真中下:1976年(昭和51)に発表と同時に購入した憶えのある、穐吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンド『Insighta』(RCA)のジャケット()と、穐吉敏子の近影()。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる二世・観世喜之邸。は、10年後の1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる観世喜之邸跡。

上落合で継続された国会議事堂の設計。

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国会議事堂設計図1.JPG
 上落合470番地にあった1921年(大正10)築の吉武東里邸Click!は、ハーフティンバーが美しいチューダー様式の西洋館を中心とした、敷地面積330坪におよぶ大きな和洋折衷建築だった。1923年(大正12)9月に関東大震災Click!が起きると、吉武邸も門が崩れるなどの被害を受け、一家は近くの竹やぶに避難しているが、邸自体に大きなダメージはなかったようだ。
 1918年(大正7)の第一次募集以来、国会議事堂の設計案づくりはつづけられていたが、関東大震災により大手町や霞が関の官庁街はほとんど焼け野原になってしまった。おそらく、国会議事堂の設計に関する重要資料や図面も、同震災の延焼によりその多くが焼けているだろう。震災直後の1923年(大正12)10月から、吉武東里Click!は宮内省を離れ大蔵省営繕局の臨時技師となり、第三仮議院(正式な国会議事堂が完成するまでの仮議事堂)の設計にも着手している。この洋風2階建ての大きな建築(建坪6,304坪)は、わずか80日の突貫工事で完成した。
 もちろん、仮議院はあくまでも臨時の議会場であって、正式な議事堂の設計も同時に並行してつづけられた。でも、多くの省庁は大蔵省営繕局も含め、関東大震災のために壊滅的な被害を受けている。その様子は、実はすでに当サイトでも写真入りでご紹介していた。大震災で焦土と化した官庁街に出現し、鳥居龍蔵Click!によって撮影された小型の前方後円墳「柴崎古墳」Click!(将門首塚)の写真こそが、震災で壊滅した大蔵省の焼け跡そのものだ。
 いや、官庁街のみならず東京の(城)下町Click!は、繁華街を中心に大きな被害を受けていた。では、仮議院も含め国会議事堂の設計は、どこで継続して行われていたのだろうか? 吉武東里のご遺族の家には、国会議事堂の詳細な設計図面が残されている。そして、ご家族の方からの重要な証言も得られた。吉武東里のご遺族にあたる、渡鹿島幸雄様のお手紙から引用してみよう。
  
 この屋敷(上落合の吉武東里邸)にかかわる、叔父吉武泰水(東里の次男で、生前、建築計画学を興し、東大名誉教授として、神戸、九州の芸工大学学長なども歴任)の話を印象深く記憶しておりますが、国会議事堂建設が緒に就いた際、折悪しく関東大震災に見舞われ、大蔵省を始め官庁街は灰塵に帰し、そのため、この屋敷を仕事場として、国会議事堂建設にかかわる技官をはじめとした関係者が、大勢集い、設計図面をはじめ資料作成に従事し、その慌ただしさのなかで、家族は落ち着きのない日々を堪えねばならなかったそうであります。/ですから、当時、関東大震災を免れたこともあって、国会議事堂建設に多大な貢献を果たした記念すべき建物と言えるかもしれません。(カッコ内は引用者註)
  
 大震災の被害が比較的少なくて済み、1階に広い作業スペースを確保できる上落合の吉武東里邸が、壊滅してしまった官庁街の仕事場にかわり、大震災後における国会議事堂設計チームの拠点になっていた様子がうかがわれる。おそらく、屋敷西端に位置する吉武東里の広い書斎・アトリエ(10畳大)はもちろん、その東側に接した雑務室(6畳大)、その北側に接した広い洋間(10畳弱)、そして中央部の居間兼食堂(10畳大)にいたるまで、議事堂の設計チームが「占拠」していた可能性があるのだ。南側の庭園に面したサンルーム(5畳大)を入れれば、ゆうに40畳を超えるフロアが確保できることになる。そのために、家族は生活上かなり不便な思いをしたのだろう、印象深い記憶として当時の様子が吉武家に伝わっている。
大蔵省焼け跡1923_1.jpg 大蔵省焼け跡1923_2.jpg
吉武東里邸1941.jpg 吉武東里邸跡.jpg
 渡鹿島様からお送りいただいた国会議事堂の設計図面は、「帝国議会議事堂建築報告書付図」の中央塔の部分だ。おそらく、実際の図面から縮小されB4サイズで収録されているのだろうが、吉武東里の筆跡を明確化するためにA全大に拡大してお送りくださった。実際の図面サイズは、記載された文字の大きさからして相当に大きなものだったのだろう。だから、各部の詳細な設計図を描いていくには、その作図台の設置とともに相当広いスペースを必要としていたことがわかる。それには、かなりのスペースを確保できる上落合にあった築3年の吉武邸1階フロア部は、臨時の設計チームの利用に最適だったのではないだろうか。
 吉武東里は、議事堂の外観デザインばかりでなく、内装や家具調度にいたるまで詳細なデザインをしていたことが、東京大学の長谷川香様Click!の調査で新たに判明している。吉武東里の遺品の中から、「議事家具製作図面」が発見されたためだ。その内容について、長谷川香様の『吉武東里に関する研究―近代日本における図案家という職能―』(2011年)から引用してみよう。
  
 (前略) 中身は大きく3部に分けられており、「貴衆両院ノ部」29項、「貴族院ノ部」23項、「衆議院ノ部」41項から成っており、図面に描かれている内容は、タオル箱、椅子、机、帽子掛け、衝立て、文書戸棚等多岐にわたるが、全て縮尺1/10、尺寸法で表現されている。(中略) さらに、図面には細かい寸法調整の書き込み(略)が多々見られ、細部にまでこだわり設計した様子が伺える。さらに図面の筆跡は全て同じであることから、東里はおそらくこれらの膨大な量の家具の設計を、一人で手掛けていたと考えられる。このように今回発見された家具図面からは、議事堂設計がなされた大正から昭和初期においては、今日とは違い既製品の家具が充実しておらず、国会議事堂という特殊な用途の建築を設計するにあたり、そこで使用されるほとんどの家具がその都度、新たに設計されていたことが分かる。東里は、議事堂の内観意匠において、室内装飾から家具にいたるまで、実に膨大な量の設計業務を手掛けていたことが分かる。
  
吉武東里邸設計図1.JPG
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伊藤博文銅像1911.jpg 国会議事堂.jpg
 吉武東里による国会議事堂の外観デザインは、再三にわたり注文がついて修正されている。今日では、古代ヨーロッパのマウソレウム(霊廟)のデザインが取り入れられていることが定説となっているが、その意匠に決定するまでは実にさまざまなデザイン案が繰り返し制作され、提案されている。吉武東里は、初期のドーム案と和風の瓦屋根とを禁じられてしまい、途方に暮れていた時期もあったようだ。ドーム仕様のデザインを提出すれば「西欧追随」だと批判され、和風の意匠を提出すると近代国家として「ふさわしくない」と否定されたらしい。
 吉武が最終的に意識したのは、神戸の大倉山に建立された伊藤博文像の台座デザインだったといわれる。1885年(明治18)に内閣制度を整え、初代首相に就任した伊藤博文にちなんだコンセプトのもと、武田五一設計による同像の意匠を取り入れることにより、意思決定者の頭数が多すぎるデザインプレゼンテーションを通そうとしたのではないか。その様子を、2000年(平成12)発行の『近代画説』(明治美術学会)に掲載された、鈴木博之『国会議事堂の意匠』から引用してみよう。
  
 息子である吉武泰水の証言によると、吉武東里は最初はドームを戴いたデザインをしていたにも関わらず、それはあまりに西欧追随的なデザインであると批判され、それ以外の意匠を模索しなければならなくなったという。宇治の平等院鳳凰堂のような瓦屋根も考えたが、今度は近代国家としての意匠にならない。吉武は、ドームと瓦屋根というふたつの一番オーソドックスな意匠を封じられたところで、国会議事堂の設計をしなければならなかった。そこで彼は別のデザイン源を求めた。/ドームも瓦屋根も封じられたなかで、吉武が思い浮かべた師、武田五一のかつて伊藤博文銅像のために用いたデザインは、国会議事堂にまことにふさわしいものと思われたはずである。
  
 国会議事堂は1936年(昭和11)11月にようやく完成をみるのだが、そのわずか4年後に政党制および議会制そのものを否定し死滅させる大政翼賛会Click!が誕生し、明治政府以来の大日本帝国は戦争と破滅への道を、まっしぐらに突き進んでいくことになる。吉武東里や大熊喜邦Click!はもちろん、当時は、いまだ誰も想像だにしえなかったことだろう。議事堂に死者を葬るマウソレウム(霊廟)のデザインを取り入れてしまったことは、偶然とはいえ歴史の皮肉というべきだろうか。
国会議事堂設計図2.JPG 国会議事堂設計図3.JPG
国会議事堂設計図4.JPG 国会議事堂設計図5.JPG
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松本竣介「議事堂のある風景」1942.jpg
 もうひとつ、面白いエピソードがある。大震災後、上落合で設計がつづけられ1936年(昭和11)に完成した議事堂だが、その6年後に議事堂をモチーフに選んだ画家が、吉武邸とは反対側の丘上に住んでいた。下落合4丁目2096番地に住み、1942年(昭和17)に『議事堂のある風景』を描いた松本竣介Click!だ。議会政党制が死滅していた当時、松本はなぜあえて議事堂をモチーフに選んでいるのだろうか? 吉武東里は、刑部邸Click!島津邸Click!の近くに住むこの画家のことを耳にしていただろう。でも、松本は議事堂の設計が目の前の上落合で行われていたことを、おそらく知らない。

◆写真上:吉武東里のご遺族が保管されている、「帝国議会議事堂建築報告書付図」の中央塔設計図。高さは65.45mあり、当時の日本橋三越を抜いて東京でもっとも高い建築となった。
◆写真中上は、関東大震災で全焼した「柴崎古墳」(将門首塚)の大蔵省。下左は、1941年(昭和16)に撮影された上落合470番地の吉武東里邸。下右は、吉武邸跡の西側接道の現状。
◆写真中下は、1921年(大正10)に建設された吉武東里邸設計平面図の母屋西側の拡大。は、吉武東里邸設計側面図の北側正面。下左は、1911年(明治44)に武田吾一によって設計された大倉山(神戸)の伊藤博文像台座。下右は、完成した国会議事堂の中央塔部。
◆写真下:上は、国会議事堂の中央塔設計図の、各部を拡大した図面表現。は、日本軍が連戦連勝をつづける1942年(昭和17)1月に制作された松本竣介『議事堂のある風景』。

「演劇に専念する」で押しとおした原泉。

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 映画に舞台にと、数えきれないほどの作品に出演した原泉(はらせん)だが、近年では市川崑の横溝正史シリーズや大林宣彦の青春映画、伊丹十三の作品などでの印象が強いだろうか。特に伊丹の『タンポポ』(1985年)では、夜のスーパーマーケットで津川雅彦と追いかけっこをする、剽軽な原泉の姿は忘れられない。また、もっとも印象に残る歴史的な写真としては、小林多喜二Click!の遺体の枕元に寄り添う姿だろう。彼女は、小林多喜二が築地署で虐殺された際、近くの築地小劇場の舞台に出演していて、いちばん早く多喜二の異変を知って駆けつけ、そのまま検束されそうになっている。原泉は戦前、夫の中野重治Click!とともに上落合に住んでいた。
 原泉は1905年(明治38)に、島根県松江市和多見町で生まれた。母親を早くに亡くし、継母との折り合いが悪くなって東京へとやってくることになる。自活をするようになってから、書の才能を活かして書道家・岡本高蔭の内弟子になったが、在京している妹の学費稼ぎのため、東京美術学校の学生や画家を対象にしたモデルの仕事をはじめている。彼女は、谷中にあったモデル事務所「宮崎」に属し、おもに彫刻家のモデルになった。この「宮崎」というモデル事務所は規模が大きかったらしく、美術学校や画家・彫刻家たちの間でかなりのシェアがあったようだ。原泉の同僚には淡谷のり子や、のちに埴谷雄高Click!夫人となる伊藤敏子などがいた。
 以前、中村彝Click!がモデルを採用するとき、病状の悪化からモデル事務所へ出向いて面接することができないため、事務所からモデルたちをまとめて下落合へ派遣してもらい、アトリエでオーディションClick!をしていた様子を書いた。のちに、伊藤野枝Click!と別れた辻潤Click!が再婚することになる小島キヨClick!も、谷中の事務所から中村彝のもとへ派遣されたモデルのひとりだ。おそらく、彝好みの小島キヨも「宮崎」に所属していたのではないだろうか。なぜなら、中村彝は下落合464番地にアトリエを建設する直前、新宿中村屋Click!を出て伊豆大島へ出かけたあと、1916年(大正5)まで転々と暮らしていた街が下谷区谷中初音町Click!(近くの駅名では日暮里)だったからだ。
 また、もう少し古い話になるが、荻原守衛(碌山)Click!が制作した『女』(1910年)のモデルにもなり、その後は東京美術学校の教授で日本画家の松岡映丘、つづいて京都で仕事をしていた日本画家・竹内栖鳳のモデルをつとめ、京都から東京へ帰着後に急死した人気モデル・岡田みどりClick!も、どこかで同モデル事務所と関係していたのかもしれない。人気モデル“みどりさん”の姓が「岡田」と判明したのは、2010年(平成22)に新宿歴史博物館で行われた、「新宿中村屋サロンの美術家たち」展で萩原碌山の『女』が展示され、そのキャプションにモデル名が記載されていたからだ。
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佐多稲子と原泉.jpg 埴谷雄高と原泉.jpg
 原泉を気に入り、いつもモデルに採用した芸術家には、平松豊彦や堀江尚志など彫刻家が多かった。彼女の端正な容姿やたたずまい、面影が画家よりは彫刻家に好まれたのだろう。平松豊彦は日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)に所属し、彼を通じて原泉は西沢隆二と知り合うのだが、それからは平松と西沢と原の3人で連れ立って、演劇を観にいく機会が増えたようだ。当時、築地小劇場で上演されていた千田是也Click!・訳で佐野碩・演出の『解放されたドンキホーテ』(1926年)、千田是也・演出で柳瀬正夢Click!・装置の『手』などを鑑賞している。
 のちに、非合法活動で地下へ潜った西沢隆二や杉本良吉、小林多喜二などが一時期、平松家にかくまわれていたといわれている。ちなみに、彫刻家・平松豊彦の娘は父親の演劇好きに影響されたのだろう、のちに女優・吉田日出子を名乗るようになる。
 原泉もまた、平松豊彦や西沢隆二に付いてまわるうち、演劇の魅力や面白さにとりつかれていったようだ。知り合いを通じて早稲田大学演劇部に紹介され、同部の“女優”として同大の舞台にも何度か出演している。やがて、1928年(昭和3)から新劇協会あるいは前衛座、村山知義Click!が主催する前衛劇場に属していた当時の人気女優であり、今日では日本映画界の女優第1号といわれる花柳はるみの付き人となり、本格的に演劇の勉強をするようになった。花柳はるみの自宅は目白台にあり、原泉は目白まで毎日、“師匠”を迎えに通ってくるようになる。
 わたしは出雲女の原泉が大好きClick!なのだが、舞台・映画女優という職業柄、出雲弁のアクセントを廃し東京弁がしゃべれるようになるまで、徹底した訓練をつづけたらしい。これは余談だが、現在の文学座研究所にも東京弁講座(「標準語」ではない)があり、アクセントの統一には「標準語」ではなく、杉村春子が主催する以前から東京弁Click!の山手方言と下町方言とがつかわれているのを知った。わたしは、シャキシャキと「サ」行に力を入れてしゃべる原泉しか知らないのだが、一度でいいからやわらかな素の出雲弁で話す原泉の姿を見てみたかった。ちなみに、「原泉」は戦後の芸名で、戦前は花柳はるみに付けてもらった「原泉子(せんこ)」を名のっている。
上落合48_1929.jpg 落合中央公園.JPG
上落合48.JPG
 原泉が、中野重治と結婚したのは窪川稲子(のち佐多稲子Click!)の仲介だったらしい。彼女は、「家庭の中に閉じ込めるようならば、結婚することはやめたいと思います。結婚しても、演劇運動を続けることを認めてほしいのです」と、中野重治に面と向かって宣言したようだ。1930年(昭和5)にふたりは結婚し、翌1931年(昭和6)2月に上落合48番地に引っ越してきてきた。また、翌1932年(昭和7)には上落合481番地へと転居している。
 現在の上落合48番地は、東京都の落合水再生センター(旧・落合下水処理場)の敷地内に当たる。同センター内の落合中央公園にある野球場の、ちょうどホームベースとピッチャーマウンドの間あたりが、旧・上落合48番地があったところだ。もっとも、この界隈は神田川の直線化工事のため、戦前から区画整理が行われており、川沿いのために住宅地というよりはむしろ工業地の趣きが強く、前田地区Click!と呼ばれて火事が多かった一帯だ。上落合48番地に中野重治・原泉夫妻が住んだ期間は短く、ひょっとすると区画整理あるいは工場建設のために借家の立ち退きを迫られたか、あるいは火災の延焼に巻きこまれているのかもしれない。
 次に引っ越した先の上落合481番地は、ちょうど現在の月見岡八幡社Click!の裏(西側)あたり、あるいは同社の拝殿・本殿ないしは落合富士Click!の山頂部を移設したあたりの地番だ。現在地へ月見岡八幡社が移転したのは戦後のことであり、戦前は村山知義Click!アトリエClick!前が同八幡社の境内だった。旧・上落合481番地の周辺には、戦前あるいは戦後すぐのころに建てられたとみられる古い住宅が、いまだにポツンポツンと残っている。
 夫婦が上落合に住んだ期間、中野重治は特高警察Click!による検束と保釈を繰り返し、落ち着かない日々を送っていただろう。この間、上落合に住んでいた村山知義・籌子夫妻Click!壺井栄Click!藤川栄子Click!などと知り合っているのかもしれない。また、上落合の中野・原夫妻の家には、ときに西田信春や石堂清倫が居候していたらしいが、西田は翌1933年(昭和8)2月に九州で検挙され、久留米署ないしは福岡署の特高により虐殺された。1932年(昭和7)4月4日に中野重治が特高に「治安維持法違反」で検挙されると、原泉は上落合481番地の借家を追い出されている。
上落合481_1929.jpg 上落合481_2.JPG
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 その原泉も、“ターキー”こと水の江滝子Click!を中心とする松竹少女歌劇団の争議に関連し、1933年(昭和8)7月12日に検挙され、つごう4ヶ月間も警察署をたらいまわしにされ拘留されている。この間、豊多摩刑務所に服役している中野重治を支援していたのは、戸塚町の窪川稲子や上落合の村山籌子Click!たちだった。原泉は、特高に政治活動をやめるよう迫られるのだが、今後は「演劇活動に専念する」で押しとおし、「政治活動をやめる」とはいわなかったようだ。彼女の存在が特異なのは、非合法の日本共産党への入党を拒否しつづけたことだろう。釈放後も、入党して地下へ潜れという同党からの強いオルグを断わり、一貫して演劇の「表舞台」へ立ちつづけた。

◆写真上:中野重治・原泉夫妻の家があった、上落合481番地(路地の左手)あたりの現状。
◆写真中上は、築地署で虐殺された小林多喜二の遺体に寄り添う原泉(右端)。下左は、中野重治を結婚相手に奨めた佐多稲子(右)と原泉。下右は、埴谷雄高Click!(右)と原泉。
◆写真中下上左は、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる上落合48番地。上右は、落合水再生センターの上にある落合中央公園。は、野球場のグラウンドになっている上落合48番地の現状。ちょうど、ピッチャーマウンドからホームベースあたりまでが旧・上落合48番地。
◆写真下上左は、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる上落合481番地で月見岡八幡社は移転前。上右は、手前の家の奥が旧・上落合481番地の敷地。は、奥の緑が現・月見岡八幡社の杜で、路地の左手が中野重治・原泉夫妻が住んでいた旧・上落合481番地。

佐伯祐三は曙工場を訪ねたか。

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 1926年(大正15)の晩秋あたりから、翌1927年(昭和2)の夏にかけて建設された、下落合666番地の巨大な納三治邸Click!については、佐伯祐三Click!の描いた「八島さんの前通り」のバリエーション作品Click!で、すでにここでも取りあげている。佐伯祐三アトリエの界隈では、ひときわ目立つ大きな西洋館なので、養鶏場跡Click!に建設されたハーフティンバー仕様のオシャレな中島邸Click!とともに、周辺ではことさら目立つ存在だっただろう。
 納三治は、おそらく高田町の字池谷戸浅井原(いまの池袋駅南側)界隈、当時の住所でいえば高田町雑司ヶ谷から、下落合へ邸宅を新築して引っ越してきており、雑司ヶ谷では1917年(大正6)から毛糸製造工場を経営していた。下落合の納邸は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲で延焼してしまうのだが、それまでは第三文化村Click!の中でもっとも大きな西洋館だった。高田町雑司ヶ谷953番地にあった、納三治が社主をつとめる「曙工場」について、1919年(大正8)に出版された山口霞村・編『高田村誌』(高田村誌編纂所)から引用してみよう。ちなみに、曙工場は北辰牧場Click!と並び、同村誌の「工業地としての高田」の中で紹介されている。
  
 曙工場
 雑司谷九百五十三番地、大正六年末の創立に成り、納三治氏の個人経営とす。生産品目は毛糸専門にして、即ち羅紗毛布帽子用毛糸にして生産額は一日参百貫を越へ、英国製新機械を進転せしめ日々に隆盛の機運に赴きつゝあり、第一第二工場の計画を有し当地に於ける大工場の一として矚目すべきもの也。
  
 大正末から昭和にかけ、下落合に大きな邸宅を建設しているところをみると、その後も事業がうまくいっていたのだろう。1924年(昭和13)に開発された、第三文化村のかなり広い敷地を購入し、三間通りから少し引っこんだ位置に2階建ての大邸宅を建設している。ちょうど、佐伯邸の斜め南西隣り、三間通りに面した八島知邸Click!の南隣り、そして青柳正作・辰代邸Click!の西隣り、のちに建設される吉田博アトリエClick!の坂道をはさんだ北隣りにあたる位置だ。
雑司ヶ谷953曙工場.jpg 曙工場1936.jpg
 さて、高田町雑司ヶ谷953番地にあった納三治の曙工場は、山手線の線路をはさみ西側の自由学園明日館Click!婦人之友社Click!の、ちょうど反対側(東側)の位置にあたる地番だ。曙工場の西隣りには、武蔵野鉄道の線路をはさみ、画家たちがデッサンの修正用に愛用Click!していた食パンの生産拠点、東京パンの大工場が建っていた。そして、もうひとつ面白いことに気がつく。佐伯ファンの方なら、もう薄々気づかれていると思うが、佐伯が描いた『踏切(踏み切り)』Click!をわたり、北へ200m足らずのところに納三治の曙工場は建っていた。
 佐伯は、自宅の南西隣りに建ちはじめた、巨大な西洋館の工事現場へなんら興味を示さなかった・・・とは思えない。「下落合風景」Click!を描きに外出するときなど、建物の基礎ができて柱が建ち並び、壁が造られ、屋根が葺かれるのを面白そうに観察していたのではないか。そこで、自宅建設を見物にきていた納三治と知り合った可能性がある。また、納家のほうでは、住宅建設がはじまると同時に、当然のことながら近隣へ大工仕事の騒音が響くのを、あらかじめ詫びがてら挨拶まわりをしているだろう。つまり、佐伯祐三と曙工場の納三治は、1926年(大正15)の秋に納邸の建設がはじまったあたりから知り合いだった可能性が高いのだ。
 また、納三治の側からみれば、自宅の北東隣りに二科賞を受賞した、ある程度著名な画家が住んでいることを、当然知っていたと思われる。第1次渡仏からもどった佐伯の作品は、1926年(大正15)秋の二科展で特別陳列されており、アトリエで行われた「記者会見」Click!の様子は、彼の家族写真とともに当時の新聞や雑誌で大きく取り上げられていたからだ。新進気鋭でフランス帰りの画家の作品を、納三治が価格も手ごろなので下落合の新邸に飾りたい・・・と思ったかどうかは、裏づけがないのでわからないが、その可能性がないとはいえないだろう。
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 ここからは、空想の領域なのでなんの“ウラ取り”も存在しないのだが、自邸を第三文化村に建設中の納三治は、将来の隣人となる佐伯へ、「目白駅の向こう側で、ここからも目白橋をわたって歩ける距離だから、一度キミの作品を見せがてら遊びに寄りたまえ」と、当時は曙工場近くにあった自邸へ誘いはしなかっただろうか。佐伯は、「え~がなえ~がな、たいそうな西洋館建てはる人やさかいな~、作品もぎょうさん買(こ)うてくれるかもしれへん。オンちゃん、また巴里へいけるがな~」・・・と、さっそく“営業”に出かけたかもしれない。w
 そして、曙工場へ向かう途中で、「え~がな、この踏み切り、わしのモチーフにえ~がな。よっしゃ、描いたろかい」と、あとで画道具とキャンバスを抱えて出かけたか、あるいはすでに「踏切」を描いていたので曙工場への道筋を、納三治から聞いたときすぐに見当がついたものか、そのあたりはまったく不明なのだが、ひょっとすると有力なパトロンのひとりになるかもしれない、近い将来隣人となる工場主を訪ねたと考えても、それほど不自然ではないだろう。
 大正期から昭和初期にかけ、西洋館が大量に建設されるとともに、それら邸宅の壁を飾る洋画のニーズがうなぎ上りに増えていった。静養がてら、茅ヶ崎にアトリエをかまえていた萬鉄五郎Click!は、明治期から大きな西洋館が建設されつづけていた別荘地・大磯Click!で、作品の展覧会を企画しているのをみても、彼ら洋画家のマーケティング感覚がおおよそわかるだろう。西洋館が主体の街並みが形成されると、そこでは必ず洋画の大量需要が見こめる・・・そんな時代だったのだ。佐伯祐三も、萬鉄五郎と同じ感覚をもっていたとしても、なんら不思議ではない。
踏切1926.jpg 踏切跡.JPG
 でも、1927年(昭和2)6月17日から6月30日まで開かれた、1930年協会第2回展Click!が終了した直後、佐伯祐三はおそらく納三治邸が完成するかしないかのうちに、家族を連れて湘南・大磯山王町418番地Click!へ避暑に出かけている。そのとき、納家へいくつかのパリ作品あるいは「下落合風景」を納めることができたのか、あるいは購入してもらえなかったのかは定かでない。

◆写真上:「八島さんの前通り」沿いの、八島邸跡(左手の白い建物)とその奥(南側)の納邸跡。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」にみる曙工場。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「踏切」や東京パン工場と曙工場との位置関係。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる佐伯祐三アトリエと納三治邸の位置関係。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同邸とその周辺。
◆写真下は、1926年(大正15)制作といわれる『踏切(踏み切り)』Click!。(キャンバス裏面に制作年の記載があるのだろうか?) は、雑司ヶ谷字中谷戸見行島にあった踏み切り跡の現状。

松下春雄の大工仕事と鬼頭鍋三郎の「牛」。

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松下春雄「雪の日」1925.JPG
 大正から昭和にかけて、画家たちはアルバイトとして本の装丁や挿画、新聞や雑誌の風刺画などの制作を手がけている。すでに名前の知られた画家でさえ、コンスタントに作品が売れつづける保証はどこにもないので、制作の合間にさまざまなアルバイトをしていた。関東大震災Click!の際、今和次郎Click!のもとでバラック建築の装飾を手がけたのも洋画家なら、昭和初期にビアホールや喫茶店などの壁画Click!をまかされていたのも彼らだった。
 落合地域では、村山知義Click!による村山籌子Click!の童話作品に描いた挿画がすぐにも思い浮かぶが、佐伯祐三Click!も本の装丁を手がけ、岸田劉生Click!でさえ新聞の風刺漫画Click!のアルバイトをときどきこなしていた。そして、帝展に入選や特選を繰り返していた松下春雄Click!も、少しでも生活を安定させるためなのだろう、挿画の仕事を引きうけている。
 昭和の初期、出版業界では子供向けの読み物が人気を集めたのか、各社とも小学生向けの本を次々と出版している。いわゆる「少年少女世界の◎◎◎」というようなシリーズ、あるいは全集ものの企画だった。文藝春秋社も、昭和に入ると石川寅吉を編集長に『小学生全集』全80巻・別巻8冊という、子供向けの大規模な物語全集を企画・出版している。1929年(昭和4)には、その第35巻「外国歴史物語」が発行されているが、その挿画の一部を担当したのが松下春雄だった。アジア・ヨーロッパ・アメリカの歴史、いわゆる“世界史”を扱った同書では、トラファルガーの海戦とネルソン提督の戦死を描いた章の挿画を担当している。艦上で重傷を負ったネルソンを描いた挿画には、タブローとは異なる「HARUO」のサインが入れられている。
 第35巻「外国歴史物語」をたまたま入手できたので、この挿画作品をお見せしに山本和男・山本彩子ご夫妻Click!を再び訪ねたとき、とても面白いお話をうかがった。松下春雄は、大工や工作の仕事が大好きだったのだ。松下春雄は父親を早くに亡くしており、建具商を営んでいた兄の家で育てられている。だから、大工道具や工作用具がかなり身近な存在だったのだろう。邸内のちょっとした家具調度は、彼によって造られたものが数多く置いてあったそうだ。
小学生全集35「外国歴史物語」1929.jpg 挿画家クレジット.jpg

ネルソンの戦死.jpg
 この80年間で、そのほとんどが失われてしまったが、山本家ではいまだに2つの家具がそのまま現役で使われている。ひとつは、当初はサイドテーブルとして制作されたのだろう、花瓶や固定電話を置いておくのにちょうどいい、セピア色に塗られた小テーブル。現在は、彫刻台として用いられている。もうひとつは、庭での作業用として使われている小さな腰かけイスで、あずき色のペンキで塗られた作品だ。松下一家はガーデニングが好きだったようなので、当初から庭用の作業イスとして制作されたものかもしれない。
 いずれも、たっぷりとした厚みの板を用いており、サイドテーブルの脚などにほどこされたデザインや彫刻は、プロはだしの腕前を見せているのに驚く。おそらく、少年時代に兄の建具店で、さまざまな道具や工具をいじりながら育ったのだろう。画家の余技とはとても思えない、かなり高レベルな仕上がりだ。ちなみに、松下春雄はカンナClick!を手にしても、佐伯祐三のように「切れるがな~、気持ちええがな~」と、アトリエの柱を手当たりしだいに削ってしまう・・・というような妙な性癖Click!はなく、きわめてノーマルかつ真面目に大工仕事をしていたようだ。w
 1929年(昭和4)の春から、柳瀬正夢Click!が松下邸を借りることになるのだが、当時の柳瀬アトリエの写真にとらえられた、アトリエの作りつけらしい本棚なども、ひょっとすると松下春雄が仕事の合間にこしらえた“作品”なのかもしれない。
サイドテーブル.jpg 腰かけ.jpg
松下春雄邸1932.jpg 松下一家193304.jpg
 もうひとつ、ビックリすることがあった。1932年(昭和7)に、西落合1丁目293番地に自宅を建設した、「サンサシオン」Click!の盟友である鬼頭鍋三郎Click!は、建て増しでアトリエができる間のことだろうか、徒歩1分弱のところにあった西落合1丁目306番地の松下春雄アトリエを、ときどき借りにやってきていた。松下一家と鬼頭鍋三郎がいっしょに写る楽しげな情景も、アルバムに何枚か残されているのだが、アトリエ内で仕事をする鬼頭の様子をとらえた貴重なショットもある。鬼頭が松下アトリエで描いていたのは、近くの東京牧場Click!で写生してきたものだろうか、「牛」の絵だった。なんと、そのデッサンの1枚が山本家に保存されていたのだ。
 630×480mmの木炭デッサン用紙に描かれた「牛」は、横向きの全身像だった。ちょうど、松下アトリエで撮影された鬼頭鍋三郎の背後にあるイーゼルに載った、「牛」全身像のバリエーション作の1枚だろう。デッサン用紙は、現在でも販売されているキャンソン&モンゴルフィエ社のもので、用紙下部には「Canson & Montgolfier France」の透かしが入っている。ちなみに、世界で初めて熱気球による飛行に成功したモンゴルフィエ兄弟は、16世紀に創業した同社の係累にあたる。鬼頭鍋三郎のデッサン画『牛』は、アルバムの添付位置や当時の状況から、1932年(昭和7)ごろに描かれたものだろう。同作はいま、わたしがお預かりしている。
 デッサン画『牛』が松下アトリエに残されたのは、鬼頭鍋三郎が忘れていったのではないとすれば、アトリエを頻繁に借りた松下春雄へのお礼、あるいは記念という意味合いがこめられているのだろう。鬼頭の手もとにも、松下春雄のデッサンが何枚か残されていたのかもしれない。
鬼頭鍋三郎「牛」1932.jpg
松下アトリエの鬼頭鍋三郎1.jpg 松下アトリエの鬼頭鍋三郎2.jpg
 鬼頭鍋三郎Click!は、戦前戦後を通じて女性像を描くことが多かったが、どこかに牛を描いたタブローが存在している可能性がある。「牛」ないしは「牧場」というタイトルなのかもしれないが、その画面には西落合の彼のアトリエからほど近い、当時の長崎地域に点在していた安達牧場Click!や、籾山牧場Click!などの情景が描かれているのかもしれない。鬼頭作品の中に、従来はヨーロッパか北海道あたりの風景を描いたと思われている、牧場ののどかな風景作品はないだろうか?

◆写真上:山本邸に保存されている、1925年(大正14)制作の松下春雄『雪の日』。下落合1445番地に住んでいたころの作品で、西坂近くの丘上から南を向いて描いているように感じる。
◆写真中上上左は、1929年(昭和4)に文藝春秋社から出版された『小学生全集』第35巻「外国歴史物語」の表紙。上右は、挿画家たちのクレジット。は、松下春雄「ネルソンの戦死」。
◆写真中下は、松下春雄が工作したサイドテーブル()と腰かけ()。下左は、1932年(昭和7)の竣工直後に撮影された松下邸。下右は、長男・泰様が生まれた直後の1933年(昭和8)4月に撮影されたとみられる家族写真。前列が彩子様(右)と苓子様(左)、後列が淑子夫人(右)と胸に抱かれる泰様、左端が松下春雄で産院から退院した際の記念写真と思われる。
◆写真下は、1932年(昭和7)ごろに制作された鬼頭鍋三郎のデッサン画『牛』。は、同年ごろに松下春雄アトリエで「牛」のデッサン画を連作する鬼頭鍋三郎。


上落合の吉武東里邸を拝見する。

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吉武東里邸跡.JPG
 敷地面積330坪の上落合470番地へ、大きな吉武東里邸が建設されたのは1921年(大正10)のことだ。(資料によっては1920年とするものもある) その詳細な設計平面図および側面図を、ご遺族の渡鹿島幸雄様Click!よりお送りいただいたので、さっそく吉武邸を“訪問”してみたい。中井駅から徒歩5分ほどで、吉武邸の北側に接した道路にある門へとたどり着くことができる。妙正寺川の流れる北側から歩くと、途中に鈴木文四郎邸や古川ロッパ邸Click!の前を通ることになる。
 大谷石で築かれた門は関東大震災Click!で崩れ、一家は近くの孟宗竹が茂る林へ避難Click!したと伝えられているが、落合地域は震災の被害をあまり受けておらず(全壊家屋は2棟と伝えられている)、ほどなく吉武邸の門も修理されただろう。門から見える吉武邸のファサードは、大熊喜邦Click!とのコラボ設計で翌年に竣工する島津源吉邸Click!のデザインと似ており、柱を漆喰の外壁へ露出させるチューダー調のハーフティンバー工法を採用している。
 門を入ると玄関先まで、大谷石の踏み石が敷かれたゆるいS字型の小径が長くつづいている。吉武邸がめずらしいのは、南北に四角い330坪の敷地中央に家屋を建設し、北と南の双方に広めの庭園を設けていることだ。落合地域の住宅は、たいがい敷地のどちらか(北側が多い)に母屋を寄せて建設し、おもに南側を庭園とするレイアウトが多い。吉武邸の場合は、敷地が広いせいもあるのだが、北のアプローチ側の庭は樹木庭園に、南側の庭園は花壇と菜園が設けられ、四季を通じてガーデニングを楽しみ、まざまな花を観賞できるようになっていた。門から玄関の周囲に植えられていたのは、ヒマラヤスギやキンモクセイだったようだ。
 さて、現在は落合第五小学校に保存されている大谷石Click!の敷石を踏みながら玄関まで歩いていくと、母屋中央のファサードはいかにも堂々としていて、訪れた人たちは思わず改めて見あげたことだろう。玄関を入ると、左手が女中室に加え、台所、風呂場、トイレと水まわりの設備がつづき、いただいた設計図の側面図に描かれた煙突は風呂場のものと思われる。ちなみに、屋敷内にはトイレが2ヶ所設置されているが、臭い抜きの管が設計図にないところをみると、落合地域でも試みがはじまっていた水洗トイレだったのかもしれない。もちろん、下水道はあまり普及していなかったので、当時は水洗で流したあと、敷地内の地下槽に集めて貯めておく方式だった。南側の庭には、広い菜園が5面も耕作されていたので、肥料として用いていたのかもしれない。
吉武東里邸1936.jpg 吉武東里邸1938.jpg
 玄関の右手が、多目的に使えそうな9.5畳大の洋室、正面が10畳大の食堂兼居間、その西側が6畳大の雑務室、そして西端が10畳サイズの吉武東里の書斎兼アトリエとなっている。また、食堂兼居間の南側には5畳大のサンルームが設置され、花壇や花のアーチが観られるようになっていた。これらの部屋々々は、関東大震災の直後から仮議院や国会議事堂の設計チームによって、設計業務を継続させるために「占拠」されていたと思われる。フラワーアーチの向こうには、噴水が設置されていそうな丸い池があり、その両側や向こう側(南側)にはいくつもの家庭菜園が拡がっている。また、花壇の西側、ちょうど吉武東里の書斎兼アトリエの真ん前(南側)には、おそらく毎朝新鮮な卵を採集できたであろう、鶏舎が建てられていた。
 母屋中央の、大きな三角屋根の真下にあたる食堂兼居間の東側には、6畳と4.5畳の和室が設けられ、洋間とは異なる和の居間として使われていたようだ。また、東側には南へ突き出た離れがあり、庭に面したかぎ状の縁側廊下とともに10畳の和室が設置されていた。この離れの先へ、昭和期に入ると部屋が増設され、吉武邸は東側のウィングとして大きなカギの字型の姿に変貌していくのだが、家族が徐々に増えたせいだと思われる。
 平面図に描かれた南側の庭を観察すると、柿の木が多いのに気づく。もともと、落合地域は「落合大根」Click!とともに「落合柿」のブランドで江戸期から知られており、秋になると柿の実は市街地へ向けて出荷されていた。大正期、近所に住んでいた大熊喜邦Click!のもとへ、秋になると子女の靄子様が「落合柿」をとどけたのは、これらの木々から収穫した実だったのだろう。吉武東里の造園へのこだわりについて、東京大学の長谷川香様Click!は造園家・椎原兵市との関係を指摘している。長谷川様の『吉武東里に関する研究―近代日本における図案家という職能―』から引用してみよう。
平面図・北側.jpg
平面図・中央.jpg
平面図・南側.jpg
平面図・2階.jpg
  
 さらに、靄子氏の証言で興味深かったのは、この庭作りは業者に頼まず家族の手によってなされていたこと、そして一年中楽しめるほどの豊かな樹種があったという点である。東里は、子供達に植栽の手入れや飛び石の設置などを任せ、さらに季節ごとにお茶やイチジク、アケビ、柿などの収穫をし、それらが食卓を飾ったという。/つまり、東里が理想とした住宅庭園とは美しい「鑑賞」の庭であると同時に、家族が参加して楽しめる「実用」の庭だったと言える。そして彼の住宅設計における庭園へのこだわりは、ある意味室内装飾や主家のファサードデザインよりも、よほど強かったと言えるだろう。/そうした背景には、同郷の親友であり、京高工、宮内省と生涯を通じて関わりの深かった造園家・椎原兵市の影響があるのではないかと考えられる。
  
 大きな三角屋根の2階は、8畳大あるいは5畳大の子供室が計3部屋あり、南の庭に面した2部屋には小さなバルコニーが設置されていた。子どもの視線で2階から南の庭を眺めたら、おそらく広大な庭園に感じたことだろう。
 玄関のある敷地北側の東角には、北の接道に玄関を設けた貸家が建てられている。6畳が2間に3畳が1間のコンパクトな貸家なのだが、吉武家の副収入源として1921年(大正10)当初から建設されていたようだ。この借家については、外観のデザインが残っていないので詳細は不明だけれど、おそらくその間取りから和風の住宅ではなかったかと思われる。
 なお、平面図に描かれた南の庭には、南端にある菜園の先に深さ5尺(約1.52m)の防空壕が描かれている。1921年(大正10)当時から、のちの空襲を予想して防空壕を設置したとは到底考えられないので、おそらく1944年(昭和19)ごろに描き加えられたものだと思われる。もし、上落合の防護団の防護板Click!が焼けずに残っていれば、いつ設置されたのかの詳細までが判明するだろう。防空壕の南側は、やはり大分県出身の野々村金五郎(金吾)邸で、その広大な邸敷地(上落合472番地)は戦後、中井駅前(現・落五小の位置)から移転した落合第二小学校となっている。
側面図・北側(ファサード).jpg
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荻窪西洋館1.jpg 荻窪西洋館2.jpg
 先日、荻窪界隈のいわゆる「文化村」を散歩していたら、吉武邸と見まごう建築を見つけた。門や縁石、アプローチの敷石はすべて大谷石が用いられており、ハーフティンバー様式の外壁に大きなスレート仕様の三角屋根を採用している。もっとも、吉武邸よりも敷地は3分の1ほどと小さく、母屋もややコンパクトなのだが、おそらく吉武邸もこのような意匠をしていたのだろう。吉武邸の大きな屋根は、中井駅からしばらく歩いていくと樹木の間から見えはじめたにちがいない。

◆写真上:吉武東里邸が建っていた上落合470番地の現状で、現在は5戸に分割されている。
◆写真中上は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる吉武東里邸で、すでに離れが建て増しされ南へ伸びているのが見てとれる。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる吉武邸。
◆写真中下:1921年(大正10)に作図されたとみられる、上が南で下が北の吉武邸平面図。
◆写真下は、同年に作図されたと思われる初期型の吉武東里邸の立体側面図。は、荻窪界隈の「文化住宅」街に現存する三角の大屋根が美しい西洋館(内部は和洋折衷か?)。

「線道」をつけてもらえばよかった。

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「線道」教室看板.JPG
 戦前、(城)下町Click!にはいろいろな習いごとが存在していた。それは、江戸期からエンエンとつづいているものもあれば、明治以降、急に流行り出したものもある。特に音曲の心得に関しては、町場では「線道をつける」といった。わたしの祖母は、親父に「線道」をつけようと清元を習わせていた。その清元用の細竿Click!が家に伝わっているけれど、もちろんわたしは「線道」などつけられなかった。せいぜい、昭和初期の世代までつづいた習いごとだ。
 「線道をつける」とは、別に芸の道へ進ませることではなく、下町人の一般教養のひとつをそう表現したものだ。長唄、清元Click!、常磐津、新内、端唄、浄瑠璃など、いずれかを三味(しゃみ)を片手に口ずさめないと、打ち合わせ(寄合や仲間内)とか祭事・祝事で大恥をかくことになるからだった。今日でいえば、宴会で持ち歌のひとつや隠し芸がなければ、呆れられるのと同じような感覚だが、「線道」ははるかに重大な教養のひとつで、少なくとも日本橋地域では九九ができないとか、文字が満足に書けないのと同等の、“無教養”に近い感覚だったらしい。
 大学を出た学士だろうが博士だろうが、「線道」がついていない人間はどこにいても片すみで小さくしてなければならない・・・という、下町独特の感覚があった。(この感覚は、いまでも薄っすらと感じられるのだが) だから、「線道」も芸もまったくないわたしは、祖父母以上の世代から見れば、箸にも棒にもかからない無粋で無教養な人間・・・ということになる。江戸の後期になると、この感覚は町人ばかりでなく旗本や御家人などの武家の世界にまで拡がっていったようだ。音曲(三味)以外には、踊りや琴、月琴、尺八などが必須の習いごととして登場してくる。
 逆に、武家の世界のたしなみだった剣術や柔術、謡(うたい)Click!、詩吟、茶、歌(和歌)などが町人の間に浸透していったのも江戸後期になってからだ。長さ2尺(刀の長さは刃長のこと)以上の打ち刀を指しては歩けないのに、人気のある刀鍛冶Click!へ大刀を注文打ちしてもらったり、あるいは古刀を購入して観賞用に所有する町人が激増Click!していった。鑑定会や能楽、茶会、歌会などに参加する町人もめずらしくなくなっていく。だが、明治になると改めて山手と下町の趣味や教養は再び分離し、軍人や官吏の趣味と町場(一般市民)のそれとは、大きなちがいを見せるようになる。
国芳団扇絵「猫のけいこ」.jpg 尽し絵「猫之善悪」.jpg
 親父が習っていた清元のお師匠(しょ)さんについて、わたしは詳しく聞きそびれているのだが、とてもきびしい女師匠だったようだ。明治期には、「線道」のお師匠さんは岡本綺堂Click!によれば、女性が6割に対して男性は4割だったそうだ。でも、昭和初期にはおそらく女師匠の割合が、江戸期と同様に激増していたと思われる。親父の感覚でさえ、「線道」の男師匠のところへなど気味(きび)が悪くて通いたくないからだ。また、娘を持つ親も、男師匠よりは女師匠のもとへ通わせたがっただろう。当時の月謝は、50銭が通り相場だったらしい。
 ただし、月50銭なら安いじゃないかと、安心してばかりもいられない。月ざらい(毎月の発表会)や季節ざらい(年4回の発表会)は、改めておカネを払わなければならないし、春は師匠宅の畳がえ、冬は炭代(暖房費)、年に一度は師匠の三味皮の張り替え・・・と、そのつど50銭だ1円だのと弟子たちの出費はつづく。ましてや、大きな発表会へ出るともなれば、仲間うちへの祝儀だ飲食代だと、おカネはかさむ一方となる。また、そのぐらいのおカネを生徒たちから徴収しないと、月50銭っぱかりでは師匠の生活(たつき)が成り立たないという事情もあった。それでも親たちは、子供になんとか「線道」をつけようと通わせることになる。
 さて、このような町内の「線道」師匠は、下町(旧・城下町)ばかりかと思いきや、山手にも数多く存在していた。もちろん、習いにくる弟子(生徒)は町場に比べれば少なかっただろうが、「線道」とは別に大きなニーズがあったのだ。たとえば、山手の家でお客をもてなすとき、なんの音曲もないと寂しい。かといって、主人や夫人、書生がなにか気のきいた長唄のひとつも唄えるわけではない。だからといって、芸者を呼んだりすれば出費もかさむし世間体も悪い。そこで、近所にいるお師匠さんに出張してもらい、少し三味を爪弾いて口ずさんでもらえば、そこそこ品位を崩さずスマートな宴席や食事会が演出でき、座が白けずに保てる・・・というわけだ。また、乃手では弟子たちの通い稽古ではなく、師匠が弟子の家へとおもむく出稽古も盛んだったらしい。師匠にとって出稽古のいいところは、通い稽古に比べて何倍かの月謝を期待できたからだ。
黙阿弥・常磐津「戻橋」.jpg
一条戻橋1950頃.jpg 晴明稲荷社.jpg
 戦前、山手に住んでいたお師匠さんたちの大半は、通い弟子たちの月謝で食べていたわけでなく、このような音曲の出張サービスや出稽古で暮らしていた。現在でも、山手で「線道」の師匠宅(いまでは教室)を見かけるが、戦前からつづいている師匠宅は、おそらくそのような山手マーケットのニーズに応えてきたのだろう。また、戦後になって教室を開いているお師匠さんは、下町から山手へ転居してきたのであり、わたしが下落合で耳にする三味の音の大半は、もともとは下町の人たちのような気がする。もちろん下町でも、戦後は「線道」をつける人たちの数が激減し、むしろ山手の比較的時間に余裕のある夫人連のほうが、趣味におカネをかけてくれるのではないか?・・・という期待や読みがあったからなのかもしれないし、1964年(昭和39)の東京オリンピック以降、「おきゃがれClick!てなもんよ。こんなとこ、もう住めやしませんのさ」と、住環境の悪化に見切りをつけてサッサと乃手へ転居してきたのかもしれない。
 岡本綺堂が1940~1941年(昭和15~16)に書いた『東京明治風俗』(のち『東京風俗十題』へと改題)の中から、山手や下町で流行っていた当時の音曲趣味について引用してみよう。
  
 東京で昨今最も流行するのは義太夫で、相応に身分のある人も、髭面を皺めて「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん」などと唸っていること、かの謡曲と同様である。/次は長唄で、これは比較的に品が好いので堅気な家庭の娘が習うのと、長唄が地であれば他の浄瑠璃を習うのに都合がよいために、芸妓屋の下地ッ子、その他の芸人が習うのとで、昔から一般的に行われている。/しかし、江戸生粋というのは清元、これに次ぐのが常磐津で、いやしくも粋とか通とかいう手合はまずこれに取りかかることに決まっているようである。さらに河東節、一中節などとくると、これは通人のうちでもある一派が特別に賞翫することで、とても世間一般には通用せぬ。
  
岡本綺堂旧居跡.JPG 日本橋路地裏.JPG
 わたしが小学校に上がるころ、なにか習いごとを・・・ということになり、さすがに「線道をつける」などということはなかったけれど、母親は「弦道」をつけたかったらしくピアノを習わせたいといった。でも、親父は「男の習いごとじゃない」といって首をタテにふらなかった。親父にしてみれば、ピアノを習うという行為は乃手の女子のたしなみのように映っていたのだろう。おそらく、そのような家庭環境からだろうか、当時のわたしの感覚でさえピアノやバレエをやっている男子は、どこか気味が悪かったのを憶えている。いまから思えば、ピアノは惜しいことこの上ないのだが・・・。いろいろとすったもんだのあげく、わたしは中村彝Click!孫弟子Click!のもとへ絵を習いに通うことになるのだが、「線道」や「弦道」はおろか、「筆道」さえ満足に習得できないまま今日にいたっている。

◆写真上:飛鳥山の都電駅の近くで見かけた、いまやめずらしい「線道」教室の看板。
◆写真中上は、国芳『猫のけいこ』に描かれたお師匠さん。は、尽し絵にみる「新内流し」。
◆写真中下は、河竹黙阿弥Click!が書いた常磐津舞踊『戻橋』で小百合は7代目・尾上菊五郎と渡辺綱は7代目・松本幸四郎。下左は、戦後間もない1950年(昭和25)ごろに撮影された一条戻橋。下右は、そのすぐ近くにあるキツネの化身といわれる安倍晴明を奉った晴明稲荷社。
◆写真下は、下落合から下戸塚をはさんだ南側の大久保百人町312番地界隈に住んでいた岡本綺堂邸跡。は、いまにも三味の音が聞こえそうな日本橋の路地裏。

下落合を描いた画家たち・安藤広重。

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雑司ヶや不二見茶や.jpg
 安藤広重Click!の『富士三十六景』は、死後に刷られたこともあり、昔から比較的注目されにくい地味なシリーズとなっている。親父の話によれば、うちでもこのシリーズは収集してなかったらしい。彼自身が刷りの現場に立ち合っていない(アートディレクションしていない)からだが、その中にはずいぶん面白い構図の斬新な作品が多いように思う。
 同作は、広重が甲州へ幕絵を描きに出かけた際、あちこちで写生した風景も含まれているのだろう。もちろん、『富士三十六景』は北斎の『富嶽三十六景』を強く意識したものだが、それがよけいに同シリーズを“二番煎じ”として、目立たない位置へと追いやっているゆえんだろうか。同作は、風景画として開拓した遠近法を存分に取り入れ、きわめて広重らしい作品に仕上がっている。もう少し、注目されてもいい作品群のようにも思えるのだが・・・。
 さて、『富士三十六景』シリーズの1景「雑司ヶや不二見茶や」には、目白崖線の丘上から西南西を向いて富士をとらえた風景が描かれている。およそ、標高29~30mの地点だ。富士見茶屋の「珍々亭」Click!では、裾をつまんだ遠出姿の女性が下落合の目白崖線ごしに、白く雪でおおわれた富士山を眺めている。鬼子母神Click!へ参詣にきたものか、あるいは広重晩年の作なので鼠山に建立され、1841年(天保12)に破却された鼠山Click!の巨刹・感応寺Click!を見物にきたのをスケッチしたものか、お参りあとの気だるさがそこはかとなく漂う絵柄だ。
 画面の右手(北側)へと入りこむ谷間が、のちに山手線が敷設されることになる金久保沢Click!の奥深い渓谷で、対岸に見えているバッケClick!(崖地・急斜面)は、のちに学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)が建てられる、下落合の半島状になった丘麓にあたる。その向こう側に見えている藁葺き屋根の人家は、藤稲荷Click!(富士稲荷)社の坂下に建てられた農家、あるいは参詣客相手の茶屋ではないかと思われる。当時は大きかった藤稲荷の境内にはみごとな藤棚や滝があり、江戸市街から物見遊山の人たちでにぎわっていた。そのあたりの右手(北側)が、ちょうど大正初期に相馬邸Click!が建てられる御留山Click!で、現在ではおとめ坂とおとめ山通りClick!が通っている。
雑司ヶや不二見茶や(拡大).jpg
佐伯ガード.JPG 日立目白クラブバッケ.JPG
藤稲荷バッケ.JPG 権兵衛山(大倉山).JPG
 崖線の麓には道が通い、付近の農民あるいは旅人が数人歩いているのが見えているが、鎌倉街道の道筋である雑司ヶ谷道Click!(現・新井薬師道)だ。手前をひとりで歩く人物のあたりが、現在の山手線土手にうがたれた「佐伯ガード」Click!ということになる。このあたりの山手線は10mほどの土手を築き、その上に線路を敷設しているが、金久保沢の谷奥に近づくにつれ線路土手Click!は消えて、いつのまにか電車は谷底の切通しを走るようになる。
 画面の左手、女性の陰になっているあたりに集落が見えているが、下落合村字東の耕作地にあった農家だろう。その集落の上、富士山の左手に丘陵のつづきで描かれた高い山が見えている。この山が、高田・落合地域を東西に横切る目白崖線ではもっとも高い、旧・下落合西部の目白学園Click!が建設された標高37.5mの突き出た丘だ。ちなみに、下落合の東部でもっとも高い丘は、御留山から西へ権兵衛山(大倉山)Click!を通じて連なり、鎌倉期に拓かれた七曲坂Click!をはさみ明治期から3等三角点が設置されている、標高36.5mの「タヌキの森」Click!ピークだ。
 実は、旧・下落合の東部でもっとも高い「タヌキの森」から権兵衛山にかけては、もうひとつの広重作品にも登場している。長谷川雪旦が描く『江戸名所図会』の、下高田村の「姿見橋」と似たような構図で描かれた、安藤広重『名所江戸百景』第116景の「高田姿見のはし俤の橋砂利場」だ。『江戸名所図会』と同作を比べてみると、丘陵のかたちまでがそっくりなのがわかる。
江戸名所図会「姿見橋」.jpg
 高田姿見のはし俤の橋砂利場.jpg 落合ほたる.jpg
 画面の手前や中央に描かれているのは、下高田村の姿見橋Click!高田氷川明神Click!だが、画面の左手(西側)へとつづく山並みが下落合の丘だ。いちばん高く描かれているのが、先述した三角点のある標高36.5mの「タヌキの森」ピークで、その手前が権兵衛山(大倉山)だろう。「タヌキの森」と権兵衛山の間には、鼠山へと抜ける古い七曲坂が通っており、やはり大正期になると坂の西側に大嶌子爵邸の巨大な西洋館が建設されることになる。
 そして、いちばん高い山の右手に描かれたもうひとつのピークが、この時期には将軍の鷹狩場であり、庶民の立入禁止エリアだった御留山だ。手前の御留川Click!(神田上水)と御留山とで、広重は知ってか知らずか(おそらく知っていただろう)、幕府直轄の立入禁止エリアを近景と遠景にふたつ重ねて描いていることになる。双方の御留場(立入禁止エリア)を縫うように、両作では旅人や物見遊山の観光客が往来している光景がとらえられている。
 安藤広重の弟子だった二代広重は、この「姿見のはし俤のはし砂利場」の情景とはまったく正反対の構図で、のちに風景画を制作している。三代豊国とともに、西側の下落合から妙正寺川(北川Click!)の西ノ橋(比丘尼橋Click!)を入れて描いた、『書画五十三次・江戸自慢三十六興(景)』第30景の「落合ほたる」Click!がそれだ。やはり、下落合の「タヌキの森」ピークと御留山などが描かれており、もちろん二代広重は師の作品とともに、その構図までを強く意識していただろう。
高田姿見のはし俤の橋砂利場(拡大).jpg
西ノ橋.jpg タヌキの森.JPG
 もうひとつ、ホタルの名所としても両作は一対をなしている。天保ごろまではホタル狩りの名所として、下高田村の姿見橋周辺が江戸市街からの観光客Click!でにぎわっていた。でも、幕末のころになると従来は鄙びた月見の名所Click!の落合地域が、にわかにホタル狩りの名所として流行りだす。北川(妙正寺川)と神田上水とが合流する、まさに「落合」地点が流行の観光スポットとなった。現在でも高田側では椿山荘で、落合側ではおとめ山公園で、毎年、ホタル観賞会が開かれている。

◆写真上:安藤広重の死後に刷られた、『富士三十六景』の1作「雑司ヶや不二見茶や」。
◆写真中上は、「雑司ヶや不二見茶や」にみる下落合側の部分拡大と描かれているモチーフ。中左は、山手線の土手上から見た下落合側の日立目白クラブの急峻なバッケだが、手前のビルに隠れてほとんど見えない。中右は、「佐伯ガード」をくぐる鎌倉街道の雑司ヶ谷道。下左は、藤稲荷のある御留山バッケ。下右は、権兵衛山(大倉山)の中腹から新宿方面の眺望。
◆写真中下は、長谷川雪旦が描く『江戸名所図会』の「落合惣図」。下左は、安藤広重『江戸名所百景』の第116景「高田姿見のはし俤の橋砂利場」。下右は、三代豊国・二代広重による『書画五十三次・江戸自慢三十六興(景)』の第30景「落合ほたる」。
◆写真下は、「高田姿見のはし俤の橋砂利場」の部分拡大。下左は、下落合駅前にあたる西ノ橋(比丘尼橋)。下右は、「タヌキの森」のピークから眺めた冬の富士山。(撮影:武田英紀様)

大震災後に改めて提起された防災住宅。

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コンクリート住宅(昭和初期).jpg
 関東大震災Click!の直後から、「防災住宅」という概念が本格的に生まれている。明治期に建てられた建物においても、耐震・耐火の観点はすでに見られていたのだが、明治東京大地震Click!などの震災や火災があったにしては、きわめて幼稚で不十分なものだった。1923年(大正12)9月の関東大震災以降、昭和初期まで漸次形成される「防災住宅」の概念には、常に3つのテーマが意識されていた。すなわち、耐震・耐火・防犯だ。
 あめりか屋Click!山本拙郎Click!は、「防災住宅」の実際について研究を重ね、1929年(昭和4)に具体的な提言とともにその概要をまとめた。同年に出版された『中流和洋住宅集』(主婦之友社)の巻末には、「耐震耐火建築と盗難除け」と題する文章が発表されている。そこでは、3つのテーマについて、それぞれもっとも効果的な施策を提言し、具体的な設計や建築材、工法、調度にまで踏みこんだ記述をしている。もっとも、これらの施策は当時の建築技術をベースに、大震災や犯罪などの教訓を踏まえているのであって、今日からみればその多くが時代遅れで通用しないだろう。でも、災害に対して当時の人々がどのように備え、思いのほか敏感に対応し、またその方法を深く吟味していた“姿勢”を知ることは、今日的にも大きな意味があると思うのだ。
 まず、山本拙郎は未曽有の被害をもたらした関東大震災を前提に、耐震住宅についてもっとも多くの紙数を割いている。彼の文章のほぼ4分の1が、住宅敷地のテーマに費やされている。そして、なによりも耐震住宅で優先されなければならない課題は「地盤」=立地だと位置づけている。次いで、その上に建築される住まいの構造が重要だとし、このふたつの課題を耐震住宅を実現するための基本的な要素だとしている。でも、関東地方の住宅すべてが、強固な地盤の上に建てられるとは限らない。山本は耐震住宅で最重要の地盤について、同書で次のように解説している。
  
 しかし、これも、実際問題としては、交通とか、教育、費用その他の関係等により、地盤の強固なところばかりを求めることは、困難になつてまゐりますが、敷地を選ぶに方(あた)つては、なるべく地盤の強固な土地といふことを念としなければなりませぬ。もし地盤の軟弱なところでありますならば、充分にその基礎工事、即ち地形に注意すべきであります。(中略) この地盤の強固なところとしましては、勿論岩盤即ち岩石の上でありますが、これは実際問題として、何処にも求めることは困難でありますから、一般的には、赤土の地盤がよいのであります。たゞ、いずれの地盤にせよ、断崖の上下や、川沿ひの地等は、建物の敷地として、好いところとは言へません。(中略) また田圃跡とか、埋立地等も、住宅敷地としては避くべきであります。
  
 これでは、首都圏のほとんどの地盤は上記いずれかの土地に該当し、「避くべき」住宅敷地となってしまいそうだ。日本橋や銀座は江戸最初期の埋立地だし、東京郊外だった落合地域は急峻な崖線が走り、昔から平川(のち神田上水)が流れ、そのほとんどの土地が田畑跡ということになる。山本は、強固な岩盤が求められない以上、せめて富士山などの火山灰が時間をかけて堆積した「赤土」=関東ロームを選び、その上に建てる住宅の建築法へ工夫を施そうと提唱している。
関東ローム1.JPG 関東ローム2.JPG
 山本がもっとも推奨するのは、鉄筋コンクリート工法Click!による住宅だ。ただし、強度計算にもとづく鉄筋の本数や配置、柱の太さなど施工に誤りがなければ安全だが、計算に誤りがあったり施工に手抜きがあったりすると、コンクリート建築は木造住宅よりもはるかに重いのでかえって危険だ・・・と、きわめて今日的な「姉歯物件」的な課題にも触れている。もっとも安全な住宅は鉄筋コンクリート建築だが、次に安全なのが木造西洋館、つづいて平屋の日本家屋、次いで2階建ての日本家屋、もっとも危険なのは石造りのレンガ積み家屋だと規定している。
 山本は耐震住宅の設計にあたり、柱の建て方や筋違(すじかい)の入れ方、壁造りなどを詳しく解説したうえで、関東大震災で家屋倒壊の原因となった重たい瓦屋根についても触れている。
  
 また瓦は、なるべく軽いものがよく、従つて銅板、亜鉛板等の金属板葺(ぶき)がよいのですが、防寒、防暑、外観の点から観て欠点があり、スレート葺や石綿板スレート葺は、耐久力がないので、やはり瓦がよいのです。赤瓦、緑瓦等の西洋瓦は、外観もよくて、効果は上質の日本瓦と同質であります。たゞ瓦葺は、震動のために辷(すべ)り落ちますから、それを防ぐために、一枚々々線鉄(ワイヤー)で結び、尻釘を打つやうにするか、または瓦の裏面に引掛りの突起のある、引掛桟瓦で葺くやうにすればよいのであります。
  
 山本はトタン葺きやスレート葺きは推奨せず、あくまでも西洋瓦の屋根にこだわっている。確かにトタンやスレートには、彼がいうような欠点があるのだけれど、外壁や内壁からの防寒防暑の技術が発達し、屋根材の品質も飛躍的に向上した今日からみれば、やはり通常の瓦屋根は家の重心を高め、よほど地盤が強固な敷地ならともかく、震災時の倒壊リスクを増やす要因のひとつとなるだろう。このあたり、ハウスメーカーのあめりか屋としては、トタンやスレートの屋根よりも、輸入ルートをもっていた西洋瓦へ防災の工夫をほどこして普及させたい・・・という意図が感じられる。
朝日住宅展1号型.jpg 朝日住宅展10号型.jpg
木造西洋館.jpg
 ここで「石綿板スレート」という用語が登場しているが、大正初期から使われている、曾宮一念Click!が表現するところの「布瓦」Click!に通じる屋根材だろうか? 同材は「耐久力がない」と書かれているので、おそらく震災前から普及している「布瓦」も同じ課題を抱えていたのだろう。
 耐震建築の記述に比べ、耐火建築について山本拙郎は非常にあっさりとした書き方をしている。すなわち、鉄筋コンクリート建築を採用して窓をスチールサッシにし、鉄の鎧戸を付ければ防火対策はほぼ万全という姿勢だ。木造家屋の場合は、外壁の下に防水フェルトと鉄網や銅板を張り、その上へモルタルを厚く塗ればある程度は防火に役立つとしている。ただし、このような工法は経済的負担が大きいのと、耐火への効果としては十分でないとし、木造建物に根本的な防火対策を施すには、土蔵のような建築にする以外にないとも書いている。あくまでも、鉄筋コンクリート建築がお奨めなのだが、16年後に起きた東京大空襲Click!では、金属をも溶かす高熱の大火流によって、コンクリート建築といえどもひとたまりもなかった。外壁はなんとかかたちをとどめたが、中身が丸焼けになったビルや住宅が続出している。
 防犯住宅について、山本は特に雨戸の設置法や窓の仕様、ドアや窓のカギについて詳述している。また、台所や風呂場、トイレなどの窓の外に鉄格子をはめ、ほかの窓には錠付きの鎧戸を推奨している。また、当時は先端技術の家庭用錠だったのだろう、「ボタン・ロック」や「ナイト・ラッチ」という西洋錠を紹介している。(あめりか屋で扱っていたのだろう) でも、おそらく山本が建てた顧客先の経験からなのか、いくらドアや窓へ厳重に防犯設備を施しても、錠をかけ忘れたり鎧戸や雨戸を開け放しにして泥棒に入られる、人為的なミスはどうしようもない・・・と結んでいる。
筋違・燧.jpg 鉄棒挿入錠.jpg
 落合地域の目白崖線は、地表を4~5mほどの関東ローム層に覆われている。基礎はコンクリートとはいえ、うちは脆弱な木造を主体とする3階建て住宅なので、まず建築士から提言されたのは4m下にある比較的固い粘土層まで、細い杭でもいいから何本か打ちこんだほうが比較的安全だ・・・ということだった。また、屋根は瓦ではなく、重心を下げる軽いスレートにするよう強く奨められた。山本拙郎が抱えていた本質的な課題は、現在でも変わらずそのまま生きつづけている。

◆写真上:山本拙郎が推薦しそうな、昭和初期とみられる鉄筋コンクリート製の西洋館。
◆写真中上:住宅の建設を待つ下落合の敷地は、どこも分厚い関東ローム層で覆われている。
◆写真中下は、昭和初期に朝日新聞社主催で開催された「朝日住宅展」出品の、コンクリート製1号型住宅()と10号型住宅()。は、山本節郎が2番めにお奨めの木造型西洋館。
◆写真下は、木造家屋の耐震設計では一般的な筋違(すじかい)と燧(ひうち)の工法。は、泥棒除けとして玄関などの錠として普及したらしい頑丈な鉄棒挿入式錠。

豪邸の大泥棒は下落合がターゲット。

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下落合1218番地.JPG
 大正時代に東京市外の別荘地へ豪邸をかまえ、裕福な暮らしをしていたおカネ持ちが、稀代の大泥棒だったという事件があった。当時は閑静な郊外だった、田端202番地に大邸宅を建てて住んでいたのは実は盗賊で、1921年(大正10)ごろから大正末までの5年以上にわたり、東京郊外に建っていた大きめな西洋館ばかりをねらって「仕事」をしている。
 こちらのほうが、敗戦直後のかなりドジな「怪盗ルパン事件」Click!よりもよほどルパンっぽいのだが、1926年(大正15)8月21日に発行された東京朝日新聞(夕刊)の記事から引用してみよう。
  
 大邸宅を構ふる紳士風の大賊
 大家のみを襲つて貴金属を専門に/内偵に苦心した滝野川署
 市外田端町の一角に紳士紳商連の別荘が点在してゐる中に同町二六三(誤報でのちに二〇二)に住む榎本進(三五)といふ一戸がある、その生活の豪奢なことと主人の風さいの堂々たるとは立派な紳士振りで自分も『株屋である』と称してゐたがその挙動に怪しい点があるのを滝野川警察署で注意し内偵のところいよいよ正体をつかみ同署刑事は十数日前に自称株屋の榎本進を引致した、進は強情に紳士であり正業のあるものだと主張したが警察署で苦心の結果遂に希代の貴金属大泥棒であるとの確証を挙ぐるに至つた、進は大正十二年頃から富豪、紳商の邸を襲うて高価な貴金属を専門に盗みを働いてゐたが堂々たる邸宅と紳士風の風さいとに隠れて巧に世間を欺いてゐたものであつたが進の付近には床次政本総裁、斎藤男その他名士、富豪の別荘が多く時々貴金属類が盗難に逢ふので滝野川署でも怪しいと見た進の周囲に注意してゐたがいよいよ罪跡明白となり取調一段落と共に近く検事局へ送られることになつたが同署長は打合せのために二十日午前十時頃警視庁に中谷刑事部長を訪ひ秘密に協議した/田端の榎本方は進が引致されてから戸締厳重に空家となつているがそれまでは内縁の女房と二人暮しで近所との交際も避けてゐた、内縁の女房は進が引致されると共に向島辺へ逃出したといふのである (カッコ内は引用者註)
  
 実はこの段階では、容疑者はいまだ田端近辺での盗みを自供しているにすぎず、「仕事」をはじめたのは1923年(大正12)ごろと、それほど以前からではないことになっている。ところが、このあと刑事の執拗な取り調べに観念したのか、次々と東京郊外での盗みを自供しはじめた。
東京朝日新聞19260821.jpg
 1926年(大正15)8月25日に東京朝日新聞へ掲載された続報では、犯人の住所が「田端町二〇二」に訂正されているのだが、犯行をスタートしたのは1921年(大正10)ごろからと報じられている。また、榎本容疑者から盗品を買って売りさばいていた、日本橋区南茅場町のブローカーも判明して逮捕されている。そして、泥棒を繰り返していたのは榎本容疑者の近所(田端)ばかりでなく、むしろ東京西部の市外地がメインだったことが明らかになった。
 続報が掲載された8月25日までに、10件ほどの余罪を自供しているのだが、盗みに入った10邸のうち半分が落合地域(下落合4邸+上落合1邸)であり、ほかに下荻窪2邸、幡ヶ谷1邸、阿佐ヶ谷1邸、世田谷1邸という「仕事」ぶりだった。ちなみに、下荻窪の2邸とは政治家・床次竹二郎別邸と陸軍大佐・小畑巌三郎邸、幡ヶ谷は日本化学肥料の重役・立石花次邸、阿佐ヶ谷は学習院教授・倉敷福太郎邸、世田谷は陸軍中将・白井二郎邸という被害状況だ。
 では、同年8月25日に発行された東京朝日新聞の長い続報から、抜粋して引用してみよう。
  
 西洋館をかせぎ場に五年間に十万円泥棒
 大邸宅を構へて納まつてゐた偽株師榎本の自白
 田端に大邸宅を構へた希代の怪賊が滝野川署に捕へられたことは去る二十一日の本紙夕刊既報の如くであるが、その後取調べ進むと共に遂に一切の犯行明白となり、これによつて去る十年来右怪賊のため頻々たる被害に無警察呼ばゝりまでした付近一帯の住民がはじめて安心するに至り中野、滝野川両署も又連日の非常警戒を解くと同時に二十四日滝野川署では事件の一切を公表した、(中略) 犯人榎本は十年頃から現在にかけて中野、高円寺、滝野川、落合の一帯を荒し所轄署は全力を挙げて警戒手配中滝野川署の伊澤刑事は田端二〇二に広壮な邸宅を構へてゐる本人に目を付け身許調査を開始した(中略) 不審の点が多いので同刑事は去る七月十日川上、高久の二刑事と共に同家に出張取調べを行ひ翌日再び出張したところ、榎本は早くも風を食つて逃げた(中略) 同人は百姓上りで十年から富豪の邸宅を襲つてゐたもので外出の場合持参する黒かばんにはきり、のみ、はさみ等を容れ、途中印ばんてん等に変装の上窃盗を働くのであつたが多くは西洋館をねらひ、株券あるひは現金のみを専門に盗み、株券は情を明かして前記丸天株式店に売却して居た、しかしてこの五年間同人が襲つた被害件数は約五百件、被害価格十万円に達し、そのうち主なる被害者は左の諸氏である(以下略)
  
東京朝日新聞19260825.jpg
下落合1218番地界隈.JPG 下落合1705番地.JPG
 最後のつづきに、おそらく被害額が大きかったのだろう、おもな被害宅が10軒リストアップされている。襲われた落合地域の5邸には、まず下落合1218番地の村田綱太郎邸がある。村田は、東京砲兵工廠の技師をしていたが1922年(大正11)に死去しているので、榎本容疑者の「仕事」としては早い時期のものだろう。つづいて、村田邸と同番地であり隣家だった下落合1218番地の陸軍少佐・谷儀一邸(旧・谷千城邸)が被害に遭っている。両邸とも雑司ヶ谷道Click!に面しており、外山卯三郎Click!の実家である外山秋作邸Click!や、二二六事件Click!岡田首相Click!が身をひそめた佐々木久二邸Click!の斜向かいにあたる。
 つづいて被害を受けたのが、下落合1367番地に住む父親が発明した「タカジアスターゼ」を継続研究していた医学博士・高峰博邸だ。目白文化村Click!の第二文化村にあった高峰邸は、以前こちらでご紹介した松下市太郎邸Click!の向かいのお宅で、濃い屋敷林に囲まれた瀟洒な西洋館だった。同じく、第二文化村の医学博士・島峰徹Click!邸も被害に遭っている。現在は延寿東流庭園となっている下落合1705番地で、目白文化村では比較的少なかった和風建築の邸だった。
 また、上落合583番地の報知新聞の記者をしていた石川寿三郎邸も、榎本容疑者に侵入されている。同邸は、柳瀬正夢Click!宅の道をはさんで真向いの少し奥まったところにある邸で、やはり森に囲まれた瀟洒な西洋館のような風情をしている。周辺には、1936年(昭和11)現在でも濃い樹林が多く、大きめな邸が点在しているような環境だった。
 さて、榎本容疑者の検挙と同時に、田端の豪邸で同棲していた、22歳の「内縁の妻」と16歳の女中も検挙されているようだ。妻のほうは、夫の「仕事」を見て見ぬふりをしていた窃盗教唆として、また女中のほうは容疑者と妻との連絡をひそかに取ろうとした逃走幇助の容疑だと思われる。
下落合1218番地1926.jpg 谷千城.jpg
下落合1367番地1926.jpg 下落合1705番地1926.jpg
 それにしても、大正期の落合地域はとてもおおらかというか、戸締まりやセキュリティが甘いというのか、次から次へと泥棒の被害に遭っていたのがわかる。以前にも、下落合の泥棒事件Click!をいくつかご紹介しているけれど、同一犯によるこれほど大がかりで、被害額も大きな事件は初めてのケースだ。怪しい物音を聞いて目がさめた満谷国四郎Click!が、若い奥さんに「泥棒」退治をまかせて邸からさっさと逃げ出したClick!のも、このような頻発する泥棒事件が背景にあったからだろう。

◆写真上:かつて谷儀一邸や村田綱太郎邸があった目白崖線の沿いの下落合1218番地。
◆写真中上:1926年(大正15)8月21日の東京朝日新聞(夕刊)に掲載された逮捕直後の記事。
◆写真中下は、1926年(大正15)8月25日に同紙へ掲載された続報記事。下左は、下落合1218番地界隈の風情。下右は、島峰徹邸跡の第二文化村にある延寿東流庭園。
◆写真下上左は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合1218番地の谷儀一邸(旧・谷千城邸)。上右は、1932年(昭和7)の『落合町誌』に掲載された谷千城。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる、第二文化村の高嶺博邸()と島峰徹邸()。

時代とともに姿を変える送電塔。

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下落合送電鉄塔.JPG
 以前、大正期から昭和初期にかけての電柱Click!について、あるいは少し前には電柱から引かれる電燈線や電力線のケーブルClick!について書いた。きょうは、さらにその上流にあたる「電力系統網」と呼ばれる、高圧電力の送電塔について書いてみたい。
 1932年(昭和7)に淀橋区が成立するまで、落合地域へ電力を供給していたのは公共の電力機関、すなわち東京市の電気局ではなく、私企業である東京電燈株式会社だった。ただし、東京市内でも落合地域に近い牛込区や四谷区、つまり東京郊外に近い市街地では、東京市電気局よりも東京電燈株式会社からの供給量のほうが多かった。
 たとえば、1955年(昭和30)に出版された『新宿区史』によれば、落合地域の東に位置する牛込区では、1916年(大正5)現在の「常時燈戸数」(電燈線が引かれた住宅や工場など建物の総数)は23,049戸に及ぶが、内わけをみると東京市の電気局によるものが9,250戸に対し、東京電燈は13,799戸と公営の電力供給を大きく上まわっている。1930年(昭和5)現在でも、東京電燈による電力供給が公営をリードしつづけており、東京市電気局によるものが11,733戸に対し、東京電燈は14,367戸と相変わらず市場では優位に立っていた。
 さて、落合地域は東京市郊外(行政区外)の豊多摩郡になるため、東京市の電力系統網は利用できなかった。代わりに進出していたのが東京電燈で、その落合出張所が下落合1386番地に設置されている。この地番は落合第二府営住宅Click!のエリアにあり、第一文化村Click!のすぐ北側にあたる位置だ。1932年(昭和7)出版の『落合町誌』から、電力の普及について引用してみよう。
  
 本町一般の配電は東京電燈株式会社の独占にて、落合出張所を(下落合一,三八六電話大塚三三一〇)に設置す。現在本町内取付数は(昭和七年五月)使用四万七千八百十二燈、休止九千五百十九燈にして、其の軒数は使用六千五百八十六軒、同休止千百五軒に及べり。
  
 東京電燈が落合地域(とその周辺域)へおもに電力を供給していたのは、1913年(大正2)から運転を開始した山梨の水力発電所「鹿留発電所」Click!の系統網を通じてだった。そして、大正初期に落合地域へ引かれたのは、目白崖線の麓を通る東京電燈の「谷村線」と呼ばれる電力系統だ。
東電落合出張所1935.jpg 中井駅送電鉄塔.jpg
東京電燈谷村線1921.jpg
送電塔(大正期).jpg
 それ以前の明治期には、同じ東京電燈の系統網だったと思われる、椎名町(現在の駅名ではなく、その南300~400mのところに江戸期からあった市街地のこと)方面からの支線の供給を受けていた。つまり、東京電燈の落合出張所が置かれた府営住宅が形成されるあたりだ。この系統網は、明治期から計画が進行していた落合府営住宅の建設と無関係ではないだろう。
 1917年(大正6)の1/10,000地形図を参照すると、椎名町界隈へ電力を供給していた系統(名称は不明)は北側、すなわち王子方面からの送電によるものであり、系統の終端は長崎村荒井1773番地の北100mほどのところにあった。この終端あたりから、椎名町(現在の目白通りと山手通りの交差点あたり)を経て、目白通り(清戸道Click!)をまたぎ下落合378番地の近衛旧邸Click!まで引かれた電力ケーブルは、「近衛線」と呼ばれて現在にいたっている。
 明治期から大正期にかけて、高圧電力の系統網用に建てられた送電塔は、電柱と同様に木製だった。郊外に建設された初期の木製送電塔は、ちょうど「円」の字のような形状をしている。また、送電するケーブルの本数が増えると、「円」の形状が複雑化して支柱の数も増えているようだ。大正初期に妙正寺川沿いへ設置された、東京電燈谷村線の送電塔の姿は、1922年(大正11)に制作された鈴木良三『落合の小川』Click!にとらえられている。
 でも、木製の送電塔は台風や落雷などに対して耐久性が低く、また安全面でもいろいろと問題が発生していたのだろう。大正末ごろから、木製の送電塔は鉄塔へと順次建て替えられている。その建て替えられたばかりの谷村線鉄塔が、麦畑の向こうへ1列に並んでいる様子を見て、おそらく絵心を強く刺激されたのだろう、1923年(大正12)ごろから1925年(大正14)の早い時期まで上落合725番地界隈に住んでいた林武Click!が、その様子を風景作品に残している。
鈴木良三「落合の小川」1922.jpg
林武「下落合風景(仮)」.jpg佐伯祐三「下落合風景」1926頃.jpg
 この林武の風景画(無題)は、今年(2012年)に関西の個人宅から発見されたもので、テレビ東京の番組Click!で取りあげられたものだ。大正末ごろに用いられた林のサインから、おそらく「落合風景」にまちがいないと思われる。また、当時の林は作品がたまってくると、関西方面へ「行商」に出かけていた・・・という、本人を含む証言とも一致している。これまで林の作品は、目白文化村の箱根土地本社Click!を描いた『文化村風景』Click!(1926年)しかご紹介できなかったが、近いうちに本作についても描画位置とともに取りあげてみたい。
 佐伯祐三Click!も、「下落合風景」シリーズClick!では送電鉄塔を描いている。たとえば、蘭塔坂Click!(二ノ坂)から上戸塚方面を描いた『下落合風景』Click!(1926年ごろ)では、目白崖線の麓にある避雷針つきの高い鉄塔がとらえられている。この鉄塔は、現在の西武線中井駅あたりに建っていたものだろう。描かれた当時、鉄塔の下では鉄道連隊による工事Click!に備えて、線路敷地や駅舎建設予定地の整備が西武鉄道の手で行なわれていたかもしれない。
 鉄塔のほかにも、高層の構造物が佐伯の画面にはいくつか描かれているが、火の見櫓あるいは煙突のフォルムなのか、いまいちハッキリしない曖昧な描写だ。そして、遠景には戸塚町上戸塚163番地にあった、谷村線の終端である東京電燈目白変電所Click!と、さらに遠くには関東大震災Click!で建設が大きく遅延Click!していた、早稲田大学・大隈講堂Click!の建設中の姿がとらえられている。
送電鉄塔1937.jpg
送電鉄塔1955.jpg
 妙正寺川沿いに連なっていた谷村線の送電鉄塔は、西武電鉄が開通すると間もなく再びその姿を変えている。そそり立つ四角錐の、いかにも鉄塔然としたフォルムは少なくなり、西武線の線路をまたぐように設置された「円」の字に近い形状、つまり明治期に建てられた木製の送電塔の姿へ回帰しているのだ。2007年(平成19)に目白変電所(配電所)が解体されると、同変電所へと通じていた数少ない四角錐の送電鉄塔も廃止になり、いまではケーブルもすべて外されている。

◆写真上:西武新宿線の線路をまたぎ、下落合駅方面までつづく「円」の字形の高圧送電塔。
◆写真中上上左は、1935年(昭和10)の「淀橋区落合市街図」にみる東京電燈落合出張所。上右は、中井駅の上にかかる高圧送電鉄塔の現状。は、1921年(大正10)の1/10,000地形図に描かれた目白崖線の麓を走る東京電燈谷村線。は、大正初期と思われる木製の送電塔。
◆写真中下は、1922年(大正11)に妙正寺川沿いを描いた鈴木良三『落合の小川』(部分)。は、1924年(大正13)ごろの制作とみられる新発見の林武『下落合風景(仮)』(部分)。は、1926年(大正15)の秋ごろ描かれたと思われる佐伯祐三『下落合風景』(部分)。
◆写真下は、1937年(昭和12)に撮影された妙正寺川から眺めた高圧送電鉄塔。は、戦後の1955年(昭和30)に中井駅の渡線橋から撮影された送電鉄塔群。右へカーブする線路の正面やや左手に見えているのは、上落合863番地の銭湯「三の輪湯」Click!の煙突。

落合地域での堤康次郎の起業を追う。

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堤邸跡_下落合735.JPG
 堤康次郎Click!が、大正初期から中期にかけて設立した株式会社の所在地、あるいは役員たちの名前を見ているととても興味深い。軽井沢や箱根、国府津など別荘地の現地事業拠点は別にして、設立時から大正末にかけ本社が落合地域へと収斂していく現象がみられるのだ。それは、堤の自宅が下落合575番地にあったことと、おそらく無関係ではなく、また会社の役員たちの住居もまた、落合地域とその周辺にあったことも深く関連していると思われる。
 堤康次郎Click!は早大在学中から、さまざまな事業に手を出しており、市街地の町工場を買収して講義の合い間をぬいながら、経営業務に出社するというようなことまでやっていたようだ。いまでは、あまりめずらしくなくなった大学生による起業なのだが、当時としては家業に関連した新しい事業を起ち上げるのではなく、学生がまったく純粋に企業を経営することなど考えられない時代だったろう。また、大学からつながる人脈ばかりでなく、下落合地域の人脈を掌握し、のちに事業発展の基盤を築いたことは周知の事実だ。
 まず、1917年(大正6)12月に設立した、沓掛遊園地株式会社から見ていこう。資本金20万円で登記されている、同社の本社所在地は落合村下落合575番地であり、堤康次郎の自宅の地番と重なっている。沓掛遊園地は、軽井沢など避暑地における遊園地(庭園)の開発および経営を行った会社だ。同地番の自宅は、1925年(大正14)に箱根土地株式会社Click!の本社が目白文化村Click!の開発を終了し、国立へと移転するまで存在したと思われるが、大正末になると堤が経営する駿豆鉄道の取締役だった長坂長の自宅へと変わっている。この向かいの家で、近所同士の奇妙な強盗事件Click!があった顛末は、すでに記事でご紹介したとおりだ。
 下落合における堤の持ち家は、下落合575番地の邸ばかりでなく、その周辺にいくつか展開していたと思われ、のちに遺族の回想では国立へ引っ越したあと、再び家族のみが下落合へともどって暮らしつづけていたことがうかがえる。(ただし下落合575番地ではないようだ) また、1945年(昭和20)夏のポツダム宣言受諾の直前、夜間には「行方不明」となった米内光政Click!の姿が下落合の林泉園あたりで何度か目撃されているのも、空襲で焼けてしまった海軍大臣官邸の臨時官邸として、麻布仙台坂の邸を提供していた堤康次郎が関与している気配を濃厚に感じるのだ。
長坂邸_下落合575.jpg 下落合575付近.JPG
 沓掛遊園地株式会社の設立に先立つ1917年(大正6)5月に、堤は東京護謨株式会社の設立に関与している。同社は、現在の落合水再生センターClick!のある落合村上落合前田136~147番地にあり、のちに火災が頻発するエリアClick!として有名になった神田上水沿いの工場街だ。同社の役員には、第一文化村に大きな邸をかまえる永井外吉Click!の名前が見えている。ちょうど、佐伯祐三Click!「下落合風景」Click!の描画ポイントになった、目白文化村の前谷戸を埋め立てた北端に位置する区画だ。1932年(昭和7)に出版された、『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 東京護謨(株)取締役 永井外吉 下落合一,六〇一
 石川県士族永井孝一氏の二男にして拓務大臣永井柳太郎氏の従弟である、(ママ) 明治二十二年十月の出生、同二十七年家督を相続す。郷学を卒へるや直に業界に入り前掲会社の外、嘗ては駿豆鉄道箱根土地(ママ)、東京土地各会社の重役たりしことあり。家庭夫人ふさ子は拓務政務次官堤康次郎氏の令妹である。
  
 堤の一族・学閥を基盤とした人脈の片鱗がうかがえるが、拓務大臣だった永井柳太郎も沓掛遊園地株式会社の重役に名を連ねている。永井柳太郎は、堤が大学を卒業後に社長をつとめた政治雑誌『新日本』の主筆だった人物で、その永井の従弟で堤の義弟となった永井外吉は、以降、堤が起こした企業のいわば常連取締役となっていく。
 次に、1919年(大正8)2月に資本金10万円で設立された千ヶ瀧遊園地株式会社も、沓掛遊園地と同様に軽井沢の別荘地における開発・経営を行っていた会社だ。本社は、大久保町西大久保18番地と落合地域の南側なのだが、同社の取締役にも永井外吉などお馴染みの名前が見えている。千ヶ瀧遊園地の本社は、箱根土地が開発した三光町の「新宿園」Click!まで、明治通りを南下してわずか1,000mのところ、陸軍幼年学校とは通りをはさんで西向かいにあった。
箱根土地本社1925.jpg 箱根土地本社・不動園跡.JPG
東京護謨1929.jpg 東京護謨工場跡.JPG
 また、1919年(大正8)11月に資本金100万円で設立された株式会社グリーンホテルは、本社が落合村上落合前田であり、これは先に設立された東京護謨株式会社の本社工場の地番と一致している。つまり、そのままグリーンホテルが昭和期まで事業を継続していたとすれば、同社は東京護謨株式会社の工場敷地内に本社が存在していたことになる。
 そして、株式会社グリーンホテルが設立される半年前、1919年(大正8)4月には箱根土地株式会社が資本金50万円で設立されている。初期の登記簿上の本社は、下谷区北稲荷町11番地となっているが、下落合1340番地の第一文化村東側、不動園Click!と名づけられた前谷戸Click!沿いの敷地へレンガ造りの本社屋Click!が完成すると同時に、同地へ移転していると思われる。おそらく、1921年(大正10)から翌年あたりにかけての移転だろう。同社が1925年(大正14)に国立へ移転する際、社屋を売却した相手先は中央生命保険(現・三井生命保険)だった。
 創立初期の箱根土地株式会社の経営陣は、それまで堤が設立してきた企業の役員構成とかなり重なっている。後藤新平を通じて紹介された社長の藤田謙一をはじめ、取締役は若尾璋八、前川太兵衛、永井外吉、吉村鐡之助、九条良政、九鬼紋七などが役員を引きうけている。また、“黒子”役に徹することが多かった堤康次郎自身も、同社ではめずらしく役員に名を連ね、1921年(大正10)10月に専務取締役へ就任している。役員の中に、九条良政の名前があるのがめずらしいが、彼は下落合753番地に住んだ九条武子Click!の夫・良致の、腹ちがいの義兄ということになる。
堤邸1925.jpg 堤邸1936.jpg
 1925年(大正14)に作成された「出前地図」(中央版)Click!を参照すると、下落合575番地とは異なる下落合735番地に堤邸が収録されている。この家は、九条武子邸Click!から西並びへ100mほど進んだ右手(北側)の位置にあたる。ところが、翌年の1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、同家は森田邸へと記載が変わっており、堤の名前が消えている。下落合575番地の家を駿豆鉄道取締役の長坂家にゆずったあと、堤康次郎邸はここにあったのかもしれない。

◆写真上:1925年(大正14)現在に堤邸があった、下落合735番地の現状。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に採取された下落合575番地の駿豆鉄道役員・長坂長邸。は、同邸跡の近くに残る古い蔵建築。
◆写真中下上左は、1925年(大正14)作成の「出前地図」(西部版)Click!に記載された箱根土地本社。上右は、第一文化村に隣接した箱根土地跡(右手)の現状。下左は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる上落合前田の東京護謨。下右は、現・落合水再生センターの同工場跡。
◆写真下は、1925年(大正14)作成の「出前地図」(中央版)に記載された下落合735番地の堤邸。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同地番の界隈。


落合町防護団の分団名簿をいただいた。

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防護団落合第二分団1.jpg 防護団落合第二分団2.jpg
 先日、ある方から1944年(昭和19)ごろに印刷・配布したとみられる、貴重な「淀橋区防護団・落合第二分団名簿」(萬世社印刷製)をいただいた。なぜ貴重かといえば、このような戦時の書類はほとんどが空襲で焼けるか、戦後に処分されてしまった例がほとんどだからだ。
 B6版のサイズで全40ページ(表1・表4を含む)、右側をホチキスで2ヶ所とめた簡易な小冊子なのだが、なにが貴重かといえば戦争末期に下落合は3丁目(現・中落合)から4丁目、御霊下の5丁目(いずれも現・中井)、上落合は1丁目から2丁目(現・上落合3丁目を含む)にかけ、防護団の落合第二分団に参加していた(組織化されていた)人々の名前と家々を、ピンポイントで特定することができるからだ。そして、一般的に「防護団員」あるいは空襲に備えた町内の「防空役員」と表現されている防護団そのものが、どのような組織割りでどのような班構成になっていたのかを直接知ることができる点でも、かけがえのない資料といえるだろう。
 まず、防護団落合第二分団の展開範囲だが、上落合の全域と、下落合側では下落合5丁目のほぼ全域、下落合3丁目および4丁目の中ノ道Click!から南側ということになる。このエリアから判断すると、隣りの防護団落合第一分団は下落合1丁目と2丁目(現・下落合)の全域、下落合3丁目と4丁目(現・中落合と中井)の中ノ道より北側ということになるのだろう。おそらく、西落合(旧・葛ヶ谷)は面積的にも広いので、落合第三分団が組織されていたように思われる。
 落合第二分団の分団長には、上落合2丁目577番地の高山治助が就任している。副分団長には、下落合4丁目1923番地の野口乙喜、上落合1丁目4番地の古屋芳行、上落合2丁目829番地の清水宗二の3名が就任している。また、顧問としては地域の相談役あるいは長老的な立場からだろう、上落合から小林亨次郎、福室鏻太郎、大島善作の3名が、下落合からは田中佐八、赤羽六三郎の2名が参加している。そのほか、庶務と会計の役職が設置されていた。ここに登場する人物名は、大久保射撃場の廃止・移転運動Click!にかかわった人たちが多く、町会の役員あるいは地域活動に熱心だった人々が中心になっているのだろう。
 おそらく、東京市街に設置された防護団組織はどこも共通しているのだろう、防護団には任務別に9つの班が置かれ、それぞれが空襲時における専門の役割りを担うことになっていた。すなわち、警護班、警報班、防火班、交通整理班、避難所管理班、工作班、防毒班、救護班、配給班の9班だ。1944年(昭和19)7月に日本軍守備隊が全滅しサイパン島が陥落すると、日本本土への長距離爆撃機による直接的な空襲が、より現実味をおびて想定されるようになる。それとともに、防護団による空襲の被害を想定した防空演習の頻度も、がぜん高くなっていっただろう。
防護団落合第二分団3.jpg 防護団落合第二分団4.jpg
 防護団の警護班は、空襲時のパニックを防止あるいは収拾し、治安を維持するための役目だったと思われる。警報班は、敵機の動きをラジオの東部軍管区情報などで常に把握し、また実際に敵機が視認できる場合は家の上階や屋根、火の見櫓などへ上ってその動きを監視する役目だ。池袋で防護団に参加していた武井武雄Click!は、この警報班に所属して上空のB29の動きを監視し、伝令や電話を使って防火班との連絡をとっていたと思われる。
 防火班は、実際に分団の管轄エリアへ焼夷弾あるいは250キロ爆弾が投下された場合、火災現場に駆けつけて消火を受け持つ班だ。防火ハタキとバケツリレー、ときには小型の消防ポンプを使って、炎上する家屋を消火するわけだが、空襲前に行われた防空演習でもっとも見馴れた光景が、この防火班の活動だったろう。ニュース映画や報道写真などにも、「備えはよいか、敵も必死だ」のキャッチフレーズとともに、その活動が頻繁に紹介されている。
 以前にご紹介した東日本橋Click!の防護団役員で、防空演習ではエラソーに団員や周囲へ威張りちらし(元・軍人だったのかもしれない)、いざ1945年(昭和20)3月10日夜半に東京大空襲Click!がはじまると、よく情勢や被害も見きわめないうち防火ハタキやバケツ、小型消防ポンプを持って待機する班員たちをよそに、「退避~~ッ!」と真っ先に防空壕へ飛びこんで周囲から顰蹙をかったのは、この防火班ないしは警報班の班長だったと思われる。また、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、下落合の高良興生院Click!へたまたまやってきた消防自動車を、高良とみClick!たちがつかまえ消火活動を行ったのは、落合消防署の消防車であり防護団の防火班ではない。あとでも触れるが、B29による絨毯爆撃には、防火ハタキやバケツリレーなどほとんど役には立たず、防護団のメンバーを含めた住民たちは、爆撃や火勢から逃げまわるのに必死だったのだ。
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 防護団の交通整理班は、避難する人々を統率したり緊急車両を誘導したり、あるいは混乱を収拾するのが役目だったと思われる。また避難所管理班は、管轄内にある防空壕の管理や大火事が起きた場合の避難場所の確保、工作班は防空壕や消火設備(消防ポンプや消火栓、天水桶など)の設置が任務だったろう。防毒班は、敵機から投下される爆弾に毒ガス兵器が使われた場合、その解毒や防ガスあるいは危険区域の指定などを、防毒マスクをつけながら行う役目だとみられる。さらに、救護班と配給班は、空襲被害でケガをした人々の治療や、避難した人たちへ必要品や食料を配る役目を担っていたと思われる。
 こうして、各班とも多様な演習を繰り返し空襲に備えたわけだけれど、実際に1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲、つづいて5月25日の第2次山手空襲Click!では焼夷弾が雨のように降りそそぎ、とても防護団が満足に活動できるような状況ではなかった。下町Click!の東京大空襲でも、担当区域にとどまりマジメに防火活動を行っていた人々が、火勢に囲まれて逃げ遅れ多数が焼死している。B29による住宅街や繁華街に対する無差別絨毯爆撃は、空襲の開始と同時にすみやかに避難しなければ生命が危うい、それほど容赦のない苛烈なものだった。
 防護団の落合第二分団が展開していた、上落合への空襲の様子を1989年(平成元)に編纂された『おちあい見聞録』(コミュニティおちあいあれこれ)から引用してみよう。ちなみに、同冊子に収められた空襲の証言者(上落合在住)は「3月」としているが、上落合全域が空襲で焼け野原となったのは1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲だ。おそらく、3月10日の下町が被害に遭った東京大空襲と、その後に行われた山手空襲Click!とを混同しているものと思われる。
  
 (前略) 夢中で郵便局の前を通って、中井駅の方向に走りました。家族3人が手をしっかりと握り合って、そうだ、落二(今の落五小学校)へ行こう。そばまで行ってみると、校庭は真っ赤な火の海です。もとに戻ってバッケの原へ行こうと、のどが乾く(ママ)ので薬罐の水をかわるがわる口飲みしながら中井駅まで来ると、バッケの方から大勢逃げてくるではありませんか。どこへいっても、下落合方面からもこちらに逃げてくるのです。どのくらい時間がたったでしょうか。辺りを見まわすと、火はだいぶ下火になってきました。/空襲も終わったようです。急に家に帰りたくなりました。なにもかも全部焼けてしまった。放心というのは、あの時のことでしょう。(カッコ内は引用者註)
  
中井駅前の防空演習.jpg 焼け跡の上落合.jpg
 落合第二分団名簿を見ていると、各班員の名前の下にカッコで漢字1文字がつけ加えられている。「同」や「協」、「栗」、「下」、「田」、「大」、「三」、「若」の字がみえる。これは、その人物が所属していた地域の町会の略号と思われ、「同」は同志会、「協」は上落合協和会、「栗」は栗原親和会、「下」は下部親和会、「田」は前田親交会なのだろう。ただし、「大」「三」「若」の3つが不明なのだが、住宅が急増していった昭和10年代に設置された、新しい町会のやはり略号なのだろう。ひょっとすると、町会の名称は土地の字(あざな)からとられており、「大」は大塚(旧・上落合2丁目南部)、「三」は三輪(旧・上落合2丁目北部)の可能性があるが、「若」はちょっと想像がつかない。

◆写真上:1944年(昭和19)ごろに印刷されたとみられる「淀橋区防護団・落合第二分団名簿」。
◆写真中上は、任務ごとに分けられた班別の目次。は、顧問や役員を印刷したページ。
◆写真中下:各班の班員名が住所とともに記録された、「落合第二分団名簿」の本文ページ。
◆写真下は、中井駅前で行われた落合第二分団による防空演習の様子。は、1945年(昭和20)5月25日の空襲で焼け野原になった上落合の住宅街から西武線方面を眺めたところ。

江戸名所図会から東京名所図会へ。

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七曲坂.JPG
 明治中期から末期にかけてまとめられた東京の地誌本に、『新撰東京名所図会』(東京15区)と『東京近郊名所図会』(東京市郊外)とがある。これは、江戸期に長谷川雪旦Click!の挿画で斎藤家3代が記録した膨大な『江戸名所図会』Click!を模倣したもので、紀行文の合い間に挿画をあしらうのは同じだが、挿画も当然、モノクロ版画からカラー印刷になっている。また、挿画のほかに当時の写真が掲載されているのも貴重だ。同シリーズが重要なのは、『江戸名所図会』と同様に旧・江戸市街地のみならず近郊の名所や旧跡も訪ねている点だが、明治になって忘れられがちな江戸東京の伝承やフォークロアを書きとめている点も挙げられる。
 『東京近郊名所図会』(『新撰東京名所図会』の市外編なので復刻版では「新撰東京名所図会〇〇之部」と表現されることもある)で、豊多摩郡の落合地域が取りあげられたのは1909年(明治42)10月発行の第50号だ。同号には、『江戸名所図会』と同様の名所・旧跡も載っているが、明治以降に拓けた新しい風物や情景を取材しているのが面白い。たとえば落合氷川明神社Click!について、新しい『東京近郊名所図会』では戸山ヶ原Click!に駐屯する近衛騎兵連隊Click!の演習とからめて、次のように記述している。なお、引用文はすべて復刻版の記述による。
  
 水田に臨む。盥石(たらいいし)よりは泉水溢れ落つ。之を掬(すく)うに清冷なり。たまたま兵士の餐後(さんご)こもごも来りて、飯盒(はんごう)を落泉の下に洗うを見る。社殿は瓦葺きしら木造りにて、境内老樹散立し、喬松五株社南に列す。
  
 近衛騎兵連隊の兵士が、やはり近くで騎乗演習Click!をしていたのだろう、今回は落合遊園地(林泉園)ではなく氷川明神の近くで大休止し、昼食をとっていた様子が伝わっている。境内には泉が湧き、タライ型の石が湧水源に置かれていた様子がわかる。このタライ型の石が、具体的にどのような形状をしていたものか、「下落合丸山古墳」Click!の玄室石とのからみで気にかかる。
 氷川社前の雑司ヶ谷道を西へ進むと、目白崖線の随所に当時から別荘地が拡がっていた。この時期、御留山Click!相馬邸Click!は建築直前なので存在せず、七曲坂Click!の大嶌邸もまだない。
宇田川家門前.jpg 薬王院バッケ.JPG
  
 本村より小上に至る沿道は南に水田を控え、北は高地に倚(よ)れるを以て一見別荘地に適す。されば徳川邸の外ここに居を卜するもの二三あり、其の他なお工事に着手し居るを見る。安井小太郎氏の三計塾は徳川邸の前通りに在り。
  
 すでに、西坂の徳川別邸Click!が採取されているが、崖の上や下で工事に着手していたのは相馬邸や武藤邸Click!だったのかもしれない。安井小太郎の三計塾の話が出ているが、もちろん同塾を江戸期に主宰していたのは安井息軒であり、この時期、三計塾は麹町二番町から下落合へ移転してきている。「三計」とは、安井息軒が唱えたいまでもつかわれている格言で、「一日の計は朝にあり、一年の計は春(元旦)にあり、一生の計は少壮時にあり」からきている。塾生たちは、下落合で師・息軒の教えを実践し勉学に励んでいたのだろう。
 『東京名所図会』の著者は三計塾をのぞき、張りだした崖上の徳川別邸を見あげながら、雑司ヶ谷道Click!(途中から中ノ道)と呼ばれる、現在の新井薬師道を西へとたどっている。
  
 落合辺は清水に富みしものと見え、噴井を有する茶店小上(こうえ)に二軒、本村に一軒あり、夏時の得色想像うべし。
  
 字小上は、現在の金山平三アトリエClick!(旧・下落合小上2080番地)あたりで、明治期に水茶屋(喫茶店)が2軒あったことがうかがわれる。小上の下のバッケ(崖地)は、刑部昭一様Click!によれば戦後になっても金属の鉄パイプを突き刺すだけで、大量の水が噴出したというので、地下水脈がとても豊富な斜面だったのだろう。字本村に1軒とある茶店は、おそらく氷川明神社の境内にある江戸期からつづいていた水茶屋のことだと思われる。この茶店については、明治期に早稲田から下落合へ散歩にきた若山牧水Click!も記録している。また、旧家についての記述もある。
中井御霊社1980年代.jpg 中井御霊社.jpg
上落合住宅街1955頃.jpg 上落合住宅街.JPG
  
 (宇田川家は上落合)六百六十番地に在る当地の旧家なり。現主を新右衛門という。門前榎の老樹あり。太さ二囲半、その門に左の如く表示せり。
 八十八ヶ所弘法大師御参けいの御方様へ夕けいよりちょうちんをさしあげます。
 大師の崇信者たることを問わずして知るべし。その南東高地に同家歴代の墓地もあり。
  
 宇田川家の墓地は、のちに近くの最勝寺Click!へと改葬されたようで、大正期に目白文化村Click!の南側に住み、箱根土地へ土地を売らずにいろいろと嫌がらせを受けた宇田川家Click!、つまり現在は佐伯祐三Click!描画ポイントClick!にお住まいで、佐伯展の図録づくりClick!ではお世話になった最勝寺の檀家である宇田川様は、その末裔のおひとりだ。ちなみに、落合地域に多い宇田川家は鎌倉時代までさかのぼれる、もともとは関東武士団の出自のようで、800年を超える歴史の中で落合地域に根づいてきたと思われる。おそらく、和田山Click!(現・哲学堂公園Click!)に館のあった、鎌倉武将の和田氏とのつながりが濃かった一族だろう。また、最勝寺の記述もある。
  
 弘法大師堂、現在職は斉藤了渓師。本堂茅葺にて、前に高野槇の大樹あり。弘法大師堂は東に面す。門前に文化年間宇田川文蔵の建てし石標、大師堂南に宇田川銀之助寿蔵碑あり。共に前記宇田川家のものと知られたり。
  
 わたしは、桜ヶ池不動堂Click!に気をとられて、近くの最勝寺の大師堂を見落としていた。もちろん、佐伯が描いた『堂(絵馬堂)』Click!のモチーフに関してのことだ。最勝寺も戦災で焼けているので、当時の写真が残っているかどうか不明なのだが、追って調べてみたいテーマだ。
 上落合から小滝橋Click!へと南下し、以前、石をぶっつけられたお姉さん幽霊の記事でご紹介した、お花畑の遊園地「華州園」Click!も紹介されている。現在は小滝台と呼ばれる住宅街で、上落合の区画が一部入りこんだ高台のエリアだが、江戸期には「御成山」と呼ばれていたらしい。
  
 御成山、華州園は柏木停車場より北東三丁の処に在り四時の花卉(かき)を培養し縦覧に供す。園は凡そ一万五千坪ありて各処に花壇を設け、中央に温室あり、香色常に絶ゆるなし。其の地は神田旧上水渠の北西岸なる高所に倚り水田を一望し、風景愛すべし。園内四阿(あずまや)あり以て休憩すべし。亭しゃあり以て娯楽すべし。販売部の外、陶器の陳列所もあり。この地はもと御成山と称し、将軍啓行の地なり。
  
最勝寺.JPG 華洲園跡.JPG
 柏木停車場とあるのは現在の東中野駅のことで、ちょうど下落合の小島善太郎Click!が駅の踏み切り番として働いていたころの情景と重なってくる。バッケ堰Click!近くの水車小屋跡に、家族とともに住んでいた小島善太郎は、上落合を抜けて華洲園のある御成山の麓を歩きながら停車場へ毎日通っていた。御成山は、「御立場」Click!のある御留山と同様に徳川将軍が鷹狩りを催したか、その帰りに休憩しに立ち寄っているのかもしれない。御成山の西側にあたる小滝橋も、あちこちの斜面から泉水が湧いており、その小流れでラムネが冷やされている光景を著者は目撃している。

◆写真上:鎌倉時代に拓かれた、目白崖線下の鎌倉街道から分岐して鼠山へと抜ける黄昏の七曲坂。右手につづくコンクリートの擁壁が、旧・大嶋子爵邸が建てられた大正期からのもの。
◆写真中上は、1932年(昭和7)ごろに撮影された宇田川家の門前。は、薬王院の崖地。
◆写真中下は、1980年代末に撮影された茅葺きの中井御霊社()と現在の同社()。は、1955年(昭和30)に撮影された上落合住宅街()と、なつかしい風情が残る同住宅街()。
◆写真下は、山手通りの開通で境内が削られた最勝寺。は、御成山・華洲園跡の住宅街。

最勝寺の大師堂は『堂』なのか?

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 佐伯祐三Click!が描いた『堂(絵馬堂)』について、下落合とその周辺の寺社をしらみつぶしに当たってみたところ、わたしは桜ヶ池の不動堂Click!がいちばん“怪しい”とにらんでいる。それは、すぐ近くに「洗濯物のある風景」Click!の描画ポイントがあり、佐伯がイーゼルを立てた妙正寺川の土手とみられる地点の背後に、桜ヶ池不動堂の屋根がよく見えていたと思うからだ。
 でも、画面に描かれた堂の可能性がある建築物として、上落合の最勝寺境内にあった大師堂の可能性もある。大師堂は、現在でも存在しているのだけれど、描かれた堂に比べてかなり規模が大きい。いままで、最勝寺の大師堂をあえて調べなかったのは、この寺院最古の檀家のひとつである宇田川様Click!から、佐伯の『堂』をご覧いただき「うーん、見たことがないな」とのお返事をいただいていたからだ。その時点で、最勝寺の大師堂はわたしの調査対象から外れた。
 しかし、ちょっと気になるエピソードを最近になって仕入れた。それは、最勝寺Click!は1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲Click!で、境内の伽藍をひとつ残らず焼失しているのだけれど、それ以前にも、1935年(昭和10)に火災に遭って伽藍を全焼しているのだ。つまり、戦前に同寺の境内を見馴れていた方であったとしても、既存の建物とは異なる本堂や大師堂を記憶されているのであり、それ以前の建築物は異なる姿をしていた・・・ということになるのだ。宇田川様のご記憶にないということは、1935年(昭和10)以降の最勝寺の姿に心あたりがない・・・ということなのかもしれない。さっそく、最勝寺へ佐伯の『堂』画像を手に出かけてみる。
 佐伯祐三は、妙正寺川の向こう側(南側)に大きな寺があることを、おそらくまちがいなく知っていた。それは、寺斉橋Click!の南詰めには林重義Click!のアトリエがあり、その近辺に出かけていた可能性が高いのと、下落合の丘上から上落合側を見下ろせば、いやでも上落合787番地の最勝寺の大きな境内と伽藍が目に飛びこんできたにちがいないからだ。たとえば、蘭塔坂Click!(二ノ坂)の坂上から上落合(南側)を向いて描いた「遠望の岡(?)」Click!(1926年9月27日)や、蘭塔坂(二ノ坂)自体を描いた「切割(?)」Click!(同9月29日)の地点からは、同寺の本堂の大屋根がよく見えたことだろう。ちょうど、安藤広重Click!が描く『名所江戸百景』Click!の各作品に、築地本願寺の大屋根が目立って見える光景と同じような印象を、当時の落合地域を歩く人々に形成していたと思われるのだ。
最勝寺1930.jpg 最勝寺1936.jpg
 また、フランスでも地図を見るのが好きだった佐伯は、1926年(大正15)の秋に発行されたばかりの「下落合事情明細図」Click!、あるいはいまだその所在を確認できていない「上落合事情明細図」を手に、どこになにがあるのかをモチーフ選びを前提に研究していた可能性が高いのだ。これらの地図や資料類は佐伯米子Click!の死後、「制作メモ」Click!などとともに遺族の手によって整理され、佐伯アトリエClick!の庭先で焚き火にくべられてしまったのかもしれないのだが・・・。
 さて、さっそく最勝寺を訪問して住職に取材をさせていただこう。現在のご住職は戦後生まれの方で、戦前の最勝寺の姿をまったくご存じなかった。また、寺に保存されていた資料や写真類は、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲ですべてが灰になったということで、戦前の堂の姿さえ確認することが不可能だそうだ。ましてや、大正期から1935年(昭和10)の火災時までの伽藍の姿は、残念ながらいっさいが不明とのお答えだった。それまでに、誰か外部の方が撮影をして保存していれば別だが、そのような話は聞いたことがないという。
 1936年(昭和11)の空中写真を見ると、現在の大師堂とほぼ同じ位置に、やや小さめの堂らしき建物がようやく確認できる。これは、1941年(昭和16)に南側から撮影された、斜めフカンの空中写真でも同様なのだが、いずれも1935年(昭和10)の火災のあとで再興された伽藍の姿なのだろう。空襲後の1947年(昭和22)の空中写真には、明らかに小堂が建っていたと思われる痕跡を確認できる。なお、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』には、すでに大師堂の記述があるので、おそらくこの堂が1935年(昭和10)の火災まで存在していた建物のことだろう。
最勝寺山門1928.jpg
最勝寺1941.jpg 最勝寺1947.jpg
  
 最勝寺  上落合七八七番地
 高天山大徳院と号す、真言宗豊山派に属し、本尊阿弥陀如来を安置す。開基は詳でないが旧時中井御霊社、下落合富士稲荷社の別当寺、府内八十八ヶ所第二十四番の札所である。寺内に大師堂がある、元新宿三光院に建てしものを明治初年こゝに遷したものである、院内の高野槇は稀に見る名木と好事界に謳はれ、当山の寺宝とも云ふべきである。(後略)
  
 『落合町誌』には「大師堂」と書かれているが、「太子堂」とする資料もいくつか散見される。また、内藤新宿にあった三光院の大師堂を、最勝寺の境内へ移築したと記載されているので、移築元の三光院を調べれば資料があるかとも考えたのだが、同院自体が明治初年に廃寺となっている。現在の花園稲荷社境内にあった寺で、もはや確認するすべがどこにもない。
 ちなみに、佐伯祐三の『下落合風景』シリーズClick!で確認すると、「遠望の岡(?)」が最勝寺にもっとも近い画角を描いていることがわかる。正面に「ほてい屋百貨店」(現・伊勢丹)を描いているが、この画角からすると最勝寺の屋根は、右側の画面枠の外側すぐのところに大きく見えていたはずだ。佐伯がもう少し広角で描いてくれれば、屋根の東端が画面に少しは入ったかもしれない。
最勝寺本堂.JPG 最勝寺大師堂2.JPG
遠望の岡?1926頃.jpg 堂(絵馬堂)1926頃.jpg
 現在、『堂(絵馬堂)』はやはり西日本にあるようだが、機会があればぜひ実物を詳細に観賞してみたいものだ。実物の作品画面から得られる情報量は、先の日動画廊で拝見させていただいた『下落合風景(八島さんの前通り)』Click!でも明らかなように、写真よりも圧倒的に多いからだ。所有されている方はぜひ、次に予定されている佐伯展への出品を検討していただきたいものだ。

◆写真上:落合地域では最大の寺である、上落合の最勝寺に建立された戦後の大師堂。
◆写真中上は、1930年(昭和5)に作成された1/10,000地形図にみる最勝寺。本堂の南側には、現在と同じ位置に大師堂と思われる建物が採取されている。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる最勝寺。同じ位置に、大師堂と思われる小屋根が見てとれる。
◆写真中下は、1928年(昭和3)に撮影された最勝寺山門で「落合よろず写真館」(コミュニティおちあいあれこれ/2003年)より。下左は、1941年(昭和16)に南斜めフカンから撮影された最勝寺。1936年(昭和11)の空中写真ともども、1935年(昭和10)に起きた火災以降の撮影のため新しい建物群だろう。下右は、空襲後の1947年(昭和22)に撮影された焼け跡の最勝寺。
◆写真下は、現在の最勝寺本堂()と南側に位置する大師堂()。下左は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三「遠望の岡(?)」(部分)の画角から推定する最勝寺の眺望位置。下右は、同じく1926年(大正15)ごろに描かれた佐伯祐三「堂(絵馬堂)」。

中村彝アトリエ記念館の工事がスタート。

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中村彝アトリエ工事1.JPG
 中村彝Click!アトリエClick!、のちに鈴木誠Click!のアトリエでもあった下落合464番地の建物が解体され、中村彝アトリエ記念館Click!の建設工事がスタートした。現在、同地番は更地になっており、解体されたアトリエや母屋の部材に関する再利用の可否選定、吟味が行われているのだろう。解体前の調査では、実にいろいろなことが判明している。
 そのひとつは、1929年(昭和4)に鈴木誠が彝アトリエを購入して、母屋を含めた増改築を行う際に、アトリエを改築Click!して不要になった部材をそのまま廃棄せず、母屋の建設へ再利用していることが判明している。特に、もともと彝アトリエに設置されていた窓が、鈴木誠によって新たにアトリエ西側へ建設された母屋の窓として再利用されていた事実を、調査にあたった建築家の方々からうかがった。今回のアトリエ記念館は、1916年(大正5)に中村彝がアトリエを新築した初期の姿を再現することになっているので、母屋の窓として活用されていた部材を、もう一度アトリエの本来設置されていた窓にもどしたい・・・という意向もうかがっている。
 今回の中村彝アトリエの再現は、彝がアトリエとして使用していた時代の部材の中で、そのまま活用できるものはできるだけ活かしながら、初期型アトリエを再建していくというコンセプトで進められている。アトリエばかりでなく、母屋に用いられていた部材にも再利用できるものが見られるとのことで、できるだけ新規の部材を減らし、1916年(大正5)現在あるいは鈴木誠アトリエClick!として利用されはじめた1929年(昭和4)現在の部材を、最優先で活用しようとする試みだ。
 これは建築史学の観点からのみならず、美術史学の視点からも非常に重要なテーマだ。できるだけ新建材を減らし、本来の部材を用いながら元の姿を再現することは、のちの美術史あるいは建築史の研究素材として“生の資料”をそのまま後世へ伝えることになる。外壁や柱のキズ、支柱に残る大工の墨書きや材木店の焼き印、窓枠の汚れや破損ひとつとってみても、そこにはなんらかの史的物語や経緯が宿っている可能性があり、また後世に判明するかもしれない新たな事実に関する“ウラ付け”としての、有力な証拠になる可能性さえあるからだ。
 同じ下落合の島津一郎アトリエClick!(文化庁登録有形文化財)のように、本来の姿をほとんど変えずに、お住まいの方がていねいなメンテナンスを繰り返されて残っている建築はきわめてまれなケースであり、現存している建築の木材や屋根瓦などを、できるだけ活かしながら再構築していくことが、もう一度繰り返すが、さまざまな研究や学術上でも必要不可欠なテーマといえる。現在では分析が不可能な部材や材質、塗装などの出所、あるいは消えてしまって現在の技術では確認できない文字や印なども、20年後には解析技術の進歩で容易に判明するかもしれないからだ。
中村彝アトリエ工事2.JPG 水戸レプリカ天井木組1988.jpg
鈴木誠アトリエ1930頃.jpg
 このように、もともと使われていた部材を活かしながら木造家屋を再構築することは、現在の建築あるいは防災(防火・耐震)に関する法律や条例を踏まえるならば、建築家の方々は非常に面倒でむずかしい課題や“しばり”を抱えることになるのだろう。できるだけ本来の姿を再現しようとすれば、常にそれらの法律や条例との板挟みになることは、素人のわたしにも容易に想像がつく。根津教会の再構築ケースでは、それら法律面をクリアするための申請や調整に、もっとも作業負荷やリードタイムがかかったともうかがった。でも、元の部材を活用しつつアトリエ初期の姿を再現してこそ、かけがえのない資料的な価値を高めることにつながり、学術研究の素材としても十分に活用できる可能性が、後世へ限りなく拡がることになると考えるのだ。
 さて、わたしがとても気になっていたテーマのひとつに、彝アトリエの岡崎キイClick!の部屋や台所へと通じるドアにペインティングされていた、なんらかの画像Click!の課題があった。この画像は、1925年(大正14)に発行された『ATELIER(アトリエ)』2月号に掲載された写真Click!から判明したものだ。今回の調査では、現存するドアをすべて赤外線カメラを使ってわざわざ検査してくださったが、ドアの下からなんらかの絵画あるいは模様が浮かび上がることはなかった。
 ご担当の建築家の方は、ひょっとすると写真そのものに起因するなんらかの影ないしは汚れではないかともいわれたが、わたしや同席した美術家の方は、やはり彝が残したなんらかのドアペインティングのように見えている。ひょっとすると、1929年(昭和4)に鈴木誠アトリエとして改築される際、ドアの塗装を一度すべて除去し、表面をきれいにしたあと、改めてベージュがかったグレーペンキが塗られているのではないかと想像している。ただしこの課題も、より高精細な赤外線カメラ、あるいはより高度な透過技術が開発されれば、微かな痕跡をたどって“謎”が解明できるかもしれず、当初のアトリエドアを後世に残してこそ可能性をつなぐことができるテーマだろう。
中村彝アトリエドア1.JPG 中村彝アトリエドア2.JPG
アトリエの鈴木誠1930頃.jpg
 もうひとつ、彝アトリエの庭に繁っていた“緑”のテーマがある。できるだけ樹木を残してほしいという要望はお伝えしたが、これも種々の建築法あるいは防災法などと絡む課題があるかもしれない。また、一度はすべて解体し初期型アトリエを再構築する際には、重機などの設置や建築資材の搬出・搬入があるため、邪魔な樹木は撤去する必要もあるだろう。現在の状況は、南の門脇にある1本を残して、他の樹木はすべて撤去されている。
 この撤去が、タヌキの森Click!ケースのように、将来的に緑地公園化を実現して再び樹木を植えもどすために、生えていた既存の木々を一時避難的に近くへ移植しているものか、あるいはまったく新しい樹木を植え、従来の樹木はほとんど用いられないのかは不明だけれど、もし後者だとすれば再びアトリエの周囲に緑が繁るまでには、それなりの時間が必要となるだろう。ただし、彝アトリエが建設された1916年(大正5)の当時、庭に植えられていた樹木をできるだけ忠実に再現したい・・・という、建築家のみなさんの意向はうかがっている。
 それら樹木の中で、彝の作品や物語と絡めてもっとも有名なものに、アトリエの手前に植えられたアオギリと、林泉園Click!の桜並木に近い芝庭の南端に植えられたツバキがある。アオギリについては、現状のものは屋根をはるかに超える巨木となってしまっており、そのまま再構築される彝アトリエの前へ植えもどすのはおそらく困難だろう・・・というお話はうかがっていた。また、芝庭の端のツバキについては初期の計画図面に記載がなく、再現されるかどうかは不明だ。彝が暮らしていたころ、西側の勝手口に近い井戸の傍らに生えていた柿は、元どおりに再現されるようだ。
中村彝アトリエ工事前.JPG 中村彝アトリエ1916.jpg
 中村彝アトリエに関しては、その保存活動の最初期から関わらせていただいた経緯Click!もあるので、ぜひ後世の美術史あるいは建築史の研究者が直接資料として参考になるよう、レプリカではなくホンモノの部材などにこだわって、可能な限りそのまま再利用してほしいと思ってきた。幸い新宿区のご担当や、再構築を手がける建築家のみなさんのご理解もいただけ、その方向性で事業が進展している。個人的な望みをいえば、アトリエ記念館がオープンする際には、タヌキも往来Click!する従来は豊かだった屋敷林の風情へ、少しでも近づけてくれればと願っている。

◆写真上:建物が解体され更地となった、下落合464番地の中村彝(鈴木誠)アトリエ跡。
◆写真中上上左は、工事がスタートした8月ごろのアトリエの状況。上右は、茨城県近代美術館の敷地内へ復元されたアトリエレプリカの天井木組み。は、1930年(昭和5)ごろの新築間もない鈴木誠アトリエと鈴木家の人々。母屋の右手には、中村彝が植えたアオギリが見えている。
◆写真中下は、アトリエに残るドアで、いずれかのドア表面になにかが描かれていたと思われる。は、1930年(昭和5)ごろに撮影されたとみられるアトリエで制作中の鈴木誠。
◆写真下は、アトリエの前に植えられ巨木化したアオギリ。は、1916年(大正5)の竣工直後に撮影されたとみられる中村彝アトリエ(震災前の最初期型)。

下落合を描いた画家たち・林武。(2)

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林武「下落合風景(仮)」1924頃.jpg
 先日、送電鉄塔の記事Click!でご紹介しているテレビ東京の番組Click!で発見された、林武Click!の風景画について書いてみたい。林武は、1922(大正11)の後半または1923年(大正12)の早い時期から1925年(大正14)にかけ、2年間ほどを上落合725番地界隈ですごしている。筋向いには、佐伯祐三Click!北野中学Click!における先輩であり、のちにフランスでも交流することになる林重義Click!(上落合725番地→716番地)が住んでいた。ふたりの林が、裸同然の下着姿で付近を走りまわり、地元の青年団から注意されたエピソードClick!もご紹介している。
 林武はこのあと、1925年(大正14)の早い時期に上落合から下落合を飛び超えて長崎4095番地、すなわち目白通り沿いにある長崎子育地蔵Click!の東側へ転居している。そして、翌1926年(大正15)には下落合の目白文化村Click!へと足を運び、箱根土地の旧・本社ビル(中央生命保険倶楽部)をモチーフに『文化村風景』Click!を制作した。つまり、関東大震災Click!が起きた1923年(大正12)前後から大正末にかけて、林武は落合の風景画を連作しているとみられる。
 さて、本年の初めに発見されTV番組で紹介された風景画には、大正末に用いられていた林武のサインが入っている。画面の左下すみに赤で「T.Hayashi.」と入り、サインの描かれた画面手前には収穫を待つ麦畑と思われる情景が拡がっている。おそらく大正末に住み、麦畑が一面に拡がっていた落合地域の風景だと想定できる。そして、この作品の決定的な特徴は画面を左から右へと横切る、高圧電線の系統と思われる送電鉄塔の列だ。
 1922年(大正11)に描かれた鈴木良三の『落合の小川』Click!では、この東京電燈谷村線の送電塔には、明治期から大正中期まで東京郊外で見られた木製の「円」字型柱が用いられていた。ところが、1926年(大正15)に制作されたとみられる佐伯祐三の『下落合風景』Click!(蘭塔坂=二ノ坂Click!からの眺め)では、すでに頑丈な四角錐の鉄塔に建て替えられているのが見てとれる。おそらく、関東大震災で被災した系統網が多数あり、東京電燈では木製の送電塔を耐久性に優れた鉄製のものへ建て替えていると思われるのだ。したがって、林武の風景画が上落合在住作品だとすれば、1924年(大正13)に麦が黄金色に実る初夏に描かれた公算が高い。
 なぜなら、前年の1923年(大正12)の初夏は関東大震災前であり、あえて東京電燈が既存の木製送電塔を強固な鉄塔へと建て替える必然性が薄いと感じられるし、1925年(大正14)の初夏だと、林武はすでに上落合に住んでいないからだ。1925年(大正14)4月に作成された、「下落合及長崎一部案内図」(出前地図)西部版Click!の長崎4095番地には、すでに引っ越しを終えた林邸が収録されている。つまり、林武が上落合で林重義アトリエの筋向いに住み、同風景を目にしてスケッチをする機会があったのは、1924年(大正13)の初夏がもっとも可能性が高いことになる。
地形図1921.jpg
地形図1921(モチーフ).jpg
空中写真1936.jpg
 さて、画面を詳しく観察してみよう。空は佐伯の『下落合風景』シリーズClick!のように、少し雲が多い様子をしているが、光線は右手から当たっているように見える。つまり、画面の右手が南側だと想定することができる。地面は緩斜面であり、左手から右手へとゆるやかに下っている。東京電燈谷村線の鉄塔がこのような位置に見え、土地が南へとなだらかに下っている地域は、下落合側ないしは上落合側でもおのずと範囲が限られてくる。送電鉄塔の向こう側、すなわち北側に連なる緑の高台は目白崖線=下落合の丘であり、林武は妙正寺川ないしは旧・神田上水が流れる谷底付近から、東北東の方角を向いて描いていることになる。
 でも、谷村線の鉄塔列は、寺斉橋Click!をすぎてほどなく妙正寺川をわたる地点から、下落合側の南斜面ではなく上落合側の北斜面に沿って設置されており、この作品の風情とは正反対の地形、すなわち南の右手から北の左手へと下っていく緩斜面へと変わる。したがって、本作の風景は送電鉄塔が妙正寺川を上落合側へ渡河するポイントよりも西側、北から南へ向けた緩斜面に鉄塔列が並ぶ下落合側でなければ、地形的な整合性がとれないことになる。そう考えてくると、おのずと描画ポイントの範囲が絞られてくるのだ。
 画面の手前にはふたりの人物が描かれており、そこには農道がありそうな気配を感じとれる。ふたりの人物の右手には、麦畑とは異なる緑色の草地が見えている。同様の草地は少し離れたその向こう側にも見え、遠景の草地は送電鉄塔のすぐ真下までつづいているようだ。通常、一面の麦畑の中にあえて草原の空き地を設けるとは考えられないし、もしこの緑地が麦畑の畦道ではないとすれば、当時は小川だった妙正寺川の岸辺、つまり小川土手と考えても不自然ではないだろう。当時の妙正寺川は、整流化(直線化)工事が施される前で大きく蛇行を繰り返しており、本作の風景のように手前で小蛇行をし、少し先へいくと送電鉄塔の下まで大きく蛇行する地点、そしてふたりの人物が立ち話をしているような農道と思われる道路が南北に横切り、谷村線の鉄塔列がこのような角度で見える地点というのは、下落合側にたった1ヶ所だが存在している。
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林武「下落合風景(仮)」2.jpg 林武「下落合風景(仮)」3.jpg
林武「下落合風景(仮)」4.jpg 林武「下落合風景(仮)」5.jpg
 それは、昭和初期ぐらいまでに字「御霊下」と呼ばれ、一部の土地に葛ヶ谷(西落合)の飛び地を含んでおり、のち1932年(昭和7)より下落合5丁目となる妙正寺川の北岸一帯の麦畑だ。しかも、描画ポイントはかなり西寄りの位置で、林武の背後には水車橋とその名前の由来となった水車小屋Click!が見えるような位置だったろう。現在の場所でいうと中井1丁目にある落合公園のすぐ東側、蛇行する妙正寺川の北岸あたりに林はイーゼルをすえていたことになる。画面で見ると、麦畑の中に入りこんでスケッチしているようにも思えるが、林武が立ていたのは妙正寺川の草原土手に近い位置かもしれない。林は、寺斉橋近くの上落合725番地の自宅から、妙正寺川を土手沿いに上流へと歩きつづけ、この風景モチーフを見つけているのかもしれない。
 画面右端に描かれている建物は、収穫した麦の製粉場を兼ねていたバッケ堰Click!下の水車小屋(小屋というより当時の小工場ぐらいの製粉所)であり、同じく右端のこんもりとした緑(樹林)は、上落合の北斜面に点在していた森だろう。ちなみに、林武が描いた当時の水車小屋は新しいもので、明治期からあった旧・水車は蛇行した北側の流れに設置されていた。そして、新・水車小屋の建設とともに不要になった旧・水車小屋を、のちに小島善太郎Click!の父親が借り受けて付近の農民相手に銭湯を営業していたエピソードClick!は、すでにここでもご紹介している。
 画面右寄りの遠方に、ゴチャゴチャかたまっている家々は、林武や林重義が住んでいた寺斉橋周辺の家並みだ。肉眼で見るよりもやや大きなサイズに描かれているようで、実景をかなり誇張しているようにも思えるのだが、画家の目は望遠・広角が自由自在なのでなんともいえない。送電鉄塔の列は、大雨が降った際に妙正寺川の氾濫を想定してか、少し高めの位置に並んで建てられているが、1926年(大正15・昭和元)のおそらく晩秋から暮れにかけ、鉄塔の列に沿って千葉の鉄道連隊Click!により西武電車の線路が敷かれることになる。
 送電鉄塔の向こう側、画面の左から右へと横切っている緑のラインは、下落合の目白崖線だ。でも、そそり立つようなバッケ(崖地)状の丘陵には描かれていないのは、林武が立っている位置が妙正寺川沿いのかなり低い場所であり、緩斜面自体を中心に描いているのと、この風景画のポイントとなる送電鉄塔の列を強調したいがため、あえて背景の丘陵を高くしなかったものか。あるいは、実際に現地を歩いてみるとわかるのだが、目白崖線ではもっとも高い37.5mのピーク(目白学園の丘)があるにもかかわらず、それほど丘陵が高くは感じない。描画ポイントの位置が、川の上流域ですでに高めの土地になっているからかもしれない。
 画面の左端には、少し大きめの西洋館らしい建物が描写されている。この位置に建っていたのは、五ノ坂下のやや西寄りに位置する建物だが、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみえる大きな平山邸だろうか? 五ノ坂の下にあった、西洋館の林芙美子邸Click!のすぐ西側に建っていた邸なのだが、わたしはその外観をこれまで一度も見たことがない。
妙正寺川(鷺宮).jpg
新杢橋から水車橋.JPG 落合公園東端.JPG
 大正末のこの時期、もうすぐ結成される1930年協会Click!の主要メンバーたち、小島善太郎Click!里見勝蔵Click!前田寛治Click!、そして佐伯祐三らはパリ市街のみならず落合地域のあちこちですれちがうように暮らし、また風景を描いた画家たちはモチーフを求めてウロウロと周囲を散策しているのだが、林武もまた、上落合725番地と長崎4095番地を拠点に落合地域を歩きまわっている。そして制作した作品がたまってくると、彼は関西方面へ“行商”に出かけていた。佐伯の作品と同様に林武の「下落合風景」もまた、関西方面にたくさん埋もれているのではないか。

◆写真上:麦が実った1924年(大正13)初夏に制作されたと思われる林武『下落合風景(仮)』。
◆写真中上は、1921年(大正10)の地形図にみる描画ポイントと画角。は、画面の風景と地形図との対比。は、1936年(昭和11)現在の空中写真にみる描かれた地域。すでに西武電鉄が敷かれて妙正寺川も工事がはじまり、送電鉄塔は同鉄道と重なるように設置されている。
◆写真中下:画面の部分拡大だが、遠景の薄塗りに対し手前の麦畑は絵具が厚塗りだ。
◆写真下は、西隣りの中野側を流れる妙正寺川で周辺は落合地域と同様に麦畑だったと思われる。下左は、新杢橋から上流(西側)の水車橋を眺めたところ。現在では、妙正寺川の流れが当時とは大きく異なるため描画ポイントを厳密に規定することはできないが、林武は川の北側土手(写真では右手)にイーゼルをすえて描いたと思われる。下右は、落合公園の東端から西武新宿線の線路(鉄塔跡)と目白崖線のある北東を向いて撮影した風景。

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