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昭和初期の画室つき西洋館を拝見。

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アトリエつき住宅.JPG

 大正期から昭和初期にかけ、下落合には数多くのアトリエが建設された。アトリエが“主”で生活空間が“従”のような建築もあれば、大きな邸宅の一画に画室が設置され、あとの広い空間は家族が使用していたケースもある。前者の代表的な例が1916年(大正5)に下落合464番地に建設された中村彝アトリエClick!であり、後者の代表例が1919年(大正8)に下落合540番地に建てられた大久保作次郎アトリエClick!だろうか。
 アトリエが主体の家は、もちろんアトリエ自体を建てるのにせいいっぱいで母屋にまで資金がまわらない、経済的な理由がいちばんに挙げられるのだけれど、年がら年じゅう制作三昧をしたいという、画家の創作姿勢に起因するケースもあるのかもしれない。一方、家の一部に画室が付属している場合は、すでに画家として食べていけるまでの仕事をしているか、あるいは家族の誰かが画家をめざしていた・・・というケースが考えられる。
 落合地域には、別に画家の邸ではないけれど、アトリエを設置した住宅をところどころで見かける。いまでこそ数が少なくなっているが、昔はもっとたくさん建っていたのだろう。それは、その家の誰かが画家をめざしていた可能性も考えられるが、落合地域に住みたがる画家をターゲットに、当初から画室つきの借家として建設された事例もあったかもしれない。大正期から戦前にかけ、落合地域は画家のアトリエだらけの様相を呈していたが、きょうは家の一部に画室を配置した、大正末から昭和初期にかけての代表的な住宅建築をご紹介したい。参考にするのは、1929年(昭和4)に主婦之友社から発行された『中流和洋住宅集』だ。
 宅地は80坪と、当時としてはあまり広くはないのだが、30畳大の画室を備えた大きな西洋館仕様の邸宅が建っていた。昭和初期なので、すでにコンクリート工法Click!が広く普及し、住宅の基礎や玄関のたたきはコンクリ仕様となっている。門と玄関は、西側の道路に面して設けられており、玄関を入るとすぐ左手に2階への階段が設置されている。また、家族が多かったせいか、階段につづいてトイレがふたつ設置されているのがめずらしい。
 また、家の外観の問題として、玄関のすぐ左横にトイレがある配置もめずらしいが、それをトイレのようには見せないような外的デザインの工夫が施されている。写真を見ると、すりガラスのはまったトイレの大きめな窓には、花鉢を置けるほどの白い木製ベランダが設けられており、さらに垣根沿いに植えられた樹木によって、道路からの視界が遮断されるように工夫されている。
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1階平面図.jpg

 玄関の正面は8畳ほどの客間で、右手が6畳大の子どもの勉強部屋になっている。玄関を上がり“「”字型の廊下を曲がると、右手に先の客間とテラスへ出られる6畳大の食堂がつづき、左手はコンクリート仕様の浴室に板敷の台所(2.5坪)、女中部屋とつづいている。台所の下には、1坪ほどの地下蔵が掘られていて、板敷を持ち上げると食料品などを貯蔵できるようになっていた。また、台所には浴室の炊き口や、裏門へと抜けられる扉が設置されていた。
 廊下の突きあたりには、4.5畳ほどの納戸があり、その左側が和室である8畳大の居間、納戸の右手が6畳大の子ども部屋になっている。妙な位置に納戸があるのだけれど、これは邸内の風通しを考えての設計らしい。東に面した納戸の窓と、廊下側のドアを開け放しにしておくことで、夏の暑い時期などは1階へ風を呼びこむ効果があったようだ。ここに納戸のような空間を置かないと、居間の扉を開け放しにしなければ風が入らず落ち着かなかったせいもあるのだろうが、もうひとつ、納戸は洋と和との生活切り替えスペースとして意識された気配を感じる。
 既述のように、この邸は2階も含めて多くが洋風生活なのだが、1階の居間と子ども部屋が昔ながらの和室となっている。そして、納戸と居間あるいは子ども部屋との出入口には、ドアではなく襖が設置されているのだ。すべてを洋風にせず、居間と子ども部屋に押入れつきの畳敷きを残したのは、やはり睡眠は布団を敷いてとりたいという施工主の想いがあったのだろう。外観は完全に西洋館でも、この邸にはあるべきはずの寝室スペースが想定されていない。
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外観.jpg
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2階平面図.jpg

 玄関わきの階段を上がって廊下を進むと、まず6畳大の“広間”に出るドアがある。おそらく来客などがあった場合の、多目的な部屋として使用されたのだろう。広間の南側には、総リノリウム張りで10畳大の書斎がある。そして、2階の東側には広間からも書斎からも入ることができる、ベランダつき33畳大の広大なアトリエが設けられていた。
 この家を建てた施工主の名前は伏せられているが、おそらく家の意匠や生活様式などから洋画家だ思われる。でも、居間の8畳間には軸画をかざった床の間が設けられ、その横の壁には4振りの造りつけと思われる刀掛けが見られる。壁のこのような高い位置へ、打ち刀を掛けるのも奇妙でおかしな光景だが、ひょっとすると子どもたちがイタズラして怪我をしないよう、あらかじめ配慮した設計なのかもしれない。
 『主婦之友』に大正期から連載された、住宅紹介シリーズ記事Click!を集約した『中流和洋住宅集』には、下落合2096番地のアビラ村Click!島津家Click!が建設した三ノ坂沿いの別荘風住宅Click!や、下落合2108番地の吉屋信子邸Click!などが紹介されているので、この画家の家も落合地域に建っていた可能性がある。ただし、家の大きさや11,900円もかかったという工費などから、1929年(昭和4)現在には画壇でかなり名の知られた画家だったろう。
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玄関.jpg
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居間.jpg

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食堂.jpg

 ようやく絵が売れはじめ、土地を購入したり長期借地契約を結んだりしたあとの画家たちは、ウキウキしながらアトリエつき自邸の設計にとりかかったことだろう。でも、主婦之友編集部によれば初めて家を建てた人の大半は、「この家は失敗しましたが、こんど建てるときは、きつといゝ家を建てますよ」と答えたのだそうだ。一生に何度も家を建てられなくなった現在、エアコンも電子レンジもICTも存在しなかった「不便」な時代にせよ、やはりうらやましいと感じてしまうのだ。

◆写真上:旧・下落合西部のアビラ村エリア(現・中井2丁目)に残る、1923年(大正12)ごろに建設された画室つき住宅の事例で、現在は1階部分が米穀店になっている。
◆写真中上:主婦之友社『中流和洋住宅集』(1929年)に掲載の、画室つき住宅の1階平面図。
◆写真中下は、西側の接道に面した門と玄関外観。は、広い画室のある2階平面図。
◆写真下上左は、両開きのドアがついた玄関。上右は、妙な刀掛けのある和室の居間。は、洋皿や絵画が飾られた食堂でガスストーブと洋風火鉢が置かれているのがめずらしい。


中央線から旧・神田上水へ墜落。

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東中野神田川鉄橋.JPG

 敗戦の翌年、1946年(昭和21)6月4日(水)に東中野駅と大久保駅間の神田川鉄橋で、大きな事故が発生した。いまでは、とうてい考えられない事故だ。この鉄橋は、下落合駅から南へ1,200mほどの旧・神田上水に架かっており、結婚式場・日本閣のすぐ東側に位置している。
 同日午前8時25分ごろ満員の通勤客を乗せて、たまたま鉄橋上にさしかかっていた中央線急行電車の前から4両目、進行方向(新宿駅方面)に向かって左側後部ドアの窓ガラスが、カーブの遠心力による乗客の圧力で窓ガラスごと吹き飛び、ドア付近にいた乗客たちがいっせいに旧・神田上水へ投げ出されるという惨事が起きた。運転士と車掌はこれに気づかず、電車が新宿駅に到着してから目撃した乗客たちの報告で初めて事故を知った。
 この事故で、いったい何人の乗客が外へ投げ出されたものか、目撃証言もまちまちで一定せずわからなかった。午前9時すぎに連絡を受けた東中野駅では、捜索隊を神田川(当時は旧・神田上水)へ派遣しているが、2時間後に学生服姿の中央大生(18歳)の遺体を、かなり下流にあたる下落合の清水川橋付近で収容している。でも、4日じゅうにはこれ以上の墜落者は発見できず、事態は深刻さを増していった。翌6月5日には、中央線の各駅員と保線要員40名を動員し、川面にモーターボートを浮かべて本格的な捜索活動が行われている。
 でも、同日も東中野から上落合、下落合あたりまでの流域で、墜落者の手がかりはまったく得られなかった。1946年(昭和21)6月5日に発行された、朝日新聞の記事から引用してみよう。
  
 四日朝八時二十五分ごろ中央線吉祥寺発東京行の急行省線電車が超満員で東中野、大久保間の神田川橋上にさしかゝつた際、前から四両目の車両の後端左側のドアがカーブの遠心力で中側から圧されたゝめ羽目板とガラスが枠だけ残して飛び出し、乗客数名が河中に墜落、電車が新宿駅に着いたのち乗客の目撃者から車掌に報告された。東中野駅員保線区員が神田川沿岸を捜索したところ、十時ごろ高田馬場駅付近で学生服の死体一つを発見、(中略) ほかに行方不明の男女は二、三名ある模様で、目撃者の一人は男二、女一計三名といひ、他の目撃者は男三、女二計五名といひつきとめられないので河川筋を捜索中である。
  
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朝日新聞19460605.jpg

 戦前からコンクリートで護岸工事が行われ、水深も浅く流量もそれほど多くはない旧・神田上水にもかかわらず、墜落者が発見できないのはなぜか? あいにく、この年は梅雨入りが早く、降りつづいた雨により数日前から川は増水気味だった。東京鉄道管理局では、捜索範囲を思いきって下流域にまで拡げるとともに、警察へとどけられる中央線の利用者で、4日以降に行方不明になっている人物の特定を急いだ。すると、吉祥寺の女学生(18歳)と三鷹在住のOL(24歳)のふたりが4日に家を出たまま帰宅せず、家族が警察へ捜索願いを出していることがわかった。
 東中野駅の駅員を中心に、鉄橋から下流域で大がかりな捜索が行われていたのと同日、山手線・高田馬場駅では下落合の橋下で学生の遺体が見つかったことを受け、駅員を動員して川面を橋上から見張らせていた。すると、下落合方面から若い女性の遺体が流れてくるのを発見し、戸塚警察署の署員も加わって川沿いを必死で追跡している。でも、江戸川Click!(現・神田川)の始点にあたる旧・大洗堰Click!跡までくると流れが急に速くなり、遺体をついに見失ってしまった。
 当時、ドアが壊れるか開くかして、乗客が電車から振り落とされる事故はそれほどめずらしくはなかった。中央線の事故から2日後の6月6日、今度は満員の都電からふたりの女学生が振り落とされて死傷している。また、1946年(昭和21)には、すでに14名の乗客が電車から墜落して死傷していた。いずれも通勤通学時の満員電車で起きており、同年2月4日には総武線の錦糸町駅と両国駅の間で、2月23日には中央線のお茶の水駅で墜落による死傷事故が発生している。
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朝日新聞19460607.jpg

 だが、中央線の事故が大ごとになったのは、墜落した乗客たち全員が増水した神田川へのまれており、なかなか遺体が見つからなかったからだ。翌6月6日の続報では、まだ中央大生ひとりの遺体しか収容されていない。また、墜落した人数もいまだ特定できず、車内に残された遺留品から4名~6名ぐらいと、曖昧な報道がつづいていた。同日の朝日新聞記事から引用してみよう。
  
 四日朝満員省電の扉が破れ、東中野駅近くの神田川へふり落された乗客数名の死体は、二時間後に小関勉君(一八)が発見されただけで、東鉄では五日も中央線沿線の各駅員、保線員四十名を動員、日通のモーターボートも繰り出し、捜査中だが、同日夕刻までには依然他の死体はみつからない。(中略) 婦人一名の死体は駅員が引揚げそこなつてゐるので、結局、被害者は合計四名ないしは六名とみられてゐる。
  
 結局、この事故で神田川へ墜落して死亡した乗客は、男性3人女性2人の計5名であることが判明したのは、さらに数日後のことだった。女性の遺体は、江戸川の大曲Click!まで流されて見つかっている。この遺体が、高田馬場駅近くの橋上から追跡された三鷹在住のOLだった。
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戸塚神田川鉄橋1955.jpg
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戸塚神田川鉄橋.JPG

 敗戦直後の電車は、戦争をくぐり抜けた古い車両も混じり、構造自体が木製で脆弱なため事故率が高かったせいもあるのだろうが、なによりもラッシュ時の混み方が並みではなかったのだ。「すし詰め」という言葉がピッタリなほど、通勤通学時間帯の電車は超満員だった。少しでも乗れる人数を増やすため、この時期の省線電車は車内に設置されていた手すりさえ外して運行されていた。だが、この事故を契機に、戦前と同様に車両の中央へ「つかまり棒」の列を復活させることと、ジュラルミン製の板を張って壊れやすいドアや、ガラスの窓枠を補強することが決定されている。

◆写真上:上流の万亀橋から見る、事故があった中央線の東中野-大久保間の神田川鉄橋。
◆写真中上:1946年(昭和21)6月5日に発行された、事故の様子を報じる朝日新聞。
◆写真中下:同年6月7日に事故の続報を伝える朝日新聞だが、中央線の事故があった2日後に、今度は満員の都電から女学生ふたりが転落して死傷する事故が発生している。
◆写真下は、東中野の鉄橋から流されてきた学生の遺体が見つかった、下落合の清水川橋から1955年(昭和30)に撮影された山手線の神田川鉄橋。は、戸塚側の神田川水面から見た同鉄橋だが雨が降るとあらゆるものを押し流す滝のような急流Click!となる。

星野家に残る目白文化村の空襲記録。

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星野邸・東条邸跡.JPG

 第二文化村Click!から南へと下る振り子坂Click!のとっつきに、戦時中は戦時金融金庫理事をつとめていた大きな星野剛男邸が建っていた。1923年(大正12)に箱根地土地Click!が第二文化村を販売するのと同時に、土地を購入して家を建てたのは陸軍中将で『落合町誌』(1932年)にも登場する父親の星野金吾だ。その子息である星野剛男は、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!を、その前後の出来事とともに記録している。
 星野剛男の「目白文化村の空襲記録」と題する日記は、空襲当日をはさみ東京や落合地域の様子を活写していてたいへん貴重だ。同年4月13日に、西武線沿線と川沿いの中小工場をねらった空襲で、第一文化村と第二文化村、そして第四文化村の大半が焼かれたClick!のだが、第三文化村はいまだ無事だったようだ。ところが、同年5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!により、第三文化村もその大半が延焼した。星野邸は、4月13日の第1次山手空襲で焼失している。「目白文化村の空襲記録」の著者である星野剛男について、『落合町誌』から引用してみよう。
  
 日興證券株式会社支配人兼総務部長 星野剛男  下落合一,七二四
 陸軍中将星野金吾氏の長男にして明治二十二年七月を以て生れ、大正二年早稲田大学政治科を卒業し、日本興業銀行に入社後同行神戸支店支配人代理に累進、同九年同行の別働機関たる日興證券株式会社の創立に際し、同社大阪支店長に就任し兼て大阪株式取引所国債取引員となり、昭和二年同社本店営業部長を経て現時支配人兼総務部長の要職に在り、夫人春子は陸軍少将中岡彌高氏の令妹にて三輪田高女の出身、長男慎吾君は落合第一(小学)校を経て学習院中等科在学中である。(カッコ内は引用者註)
  
 星野邸は、以前よりご紹介している安東邸Click!から淀橋区長・山口重知邸をはさんだ2軒上、第二文化村の三軒道路に面して建っていた。うちの子どもたちがまだ小さかったころ、下落合みどり幼稚園Click!まで送っていく途中の、山手通りへと下りる坂道の右手角の敷地になる。佐伯祐三Click!「下落合風景」Click!でいえば、ちょうど第二文化村の水道「タンク」Click!「文化村前通り」Click!を描いた描画ポイントのすぐ背後にあたり、樹木が大きく育っていなかった当時、振り返れば巨大な星野邸が見えていたはずだ。1945年(昭和20)4月13日の、第1次山手空襲による目白文化村の焼失エリアとしては、この三軒道路沿いは最南端にあたる一帯だ。
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星野邸1925.jpg
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星野邸1926.jpg

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星野邸1936.jpg
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星野邸1944.jpg

 星野剛男による「目白文化村の空襲記録」は戦後、近くに住んでいた毎日新聞の名取義一に託され、1992年(平成4)にまとめられた地元資料『東京・目白文化村』にその一部が収録されている。かなり長くなるが、貴重な記録なので空襲前後の文化村の様子をご紹介したい。
  
 昭和二十年二月二十六日 晴
 昨日の雪晴れて終日快晴、夜月明らかなり。然し乍ら積雪三尺去る二十二日の大雪以上にして行路難。出務に意外の時間を要し十二時半事務所に到着。帰途山手線上野廻りにて早く帰る。途中昨日のB29盲爆の跡を車窓に見る。神田下谷殊に甚だし。神保町の本屋街全滅は文化の灰塵惜しむべし。
 同三月十日 晴
 (第四十四回陸軍記念日) 午前〇時半頃空襲警報、B29約百三十機宛連続房総方面より帝都上空に約三千乃至四千米の低空侵入し来たり都内各所に盲爆、東より南に亙り一帯に中空を紅に染むる火災頻発、午前三時漸く敵機退去。交通機関中絶の間を漸く四谷迄都電省電にて行き後は徒歩にて中岡家を見舞い金庫事務所に出務。職員等も全部出揃わず。/午後副総裁他役員と共に火災に罹りたる大野総裁邸を見舞い其焼け跡の惨Click!に驚く。
 同三月十二日 晴
 沢操より電話、昨日未明の空襲により芝公園地宅全焼、着のみ着のまま避難、水光社に一夜を明かし野原家に仮に引き移りたる由、大いに驚く。遂に空襲による親族中に犠牲者を出すに至れるは遺憾痛憤。
 同三月十五日 曇
 早朝七時警戒警報発令され情報によれば敵機動部隊の動き警戒を要するものありとの事。幸い無事にして午後三時解除さる。/調所政君来訪、令兄泰中尉十九年十一月十三日内南洋に於て名誉の戦死されし由海軍省より内報ありし趣通知さる。洵に惜しき事なり。
 同三月十八日 晴
 午後退避壕を地害物品入に改造に着手。(ママ)/午後警報二回鳴る。九州に敵機動部隊現れし由大本営発表あり。又此の日畏くも聖上(天皇)親しく鹵簿(ろぼ)を帝都罹災地に進めさせられ御巡幸遊ばさる。民草(たみくさ)をあはれと見そなわす大御心感激に不堪。
 同三月二十一日 晴
 大本営より悲痛なる発表あり。硫黄島守備の皇軍は遂に十七日全員壮烈なる総攻撃敢行、午後通信絶えたりという。/栗林中将最後の電文壮絶を極め感奮を禁じ難し。いよいよ本土に敵は近迫し来る。/都内は速に疎開を促進しつつあり。又帝国議会は軍事特別措置法案上程審議中なりという。(後略)
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星野邸1938.jpg

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星野邸1947.jpg

 同四月一日 晴
 朝八時頃一機侵入し来たり高田馬場駅付近に投弾Click!、大きな気味悪き音きこゆ。
 同四月四日 雨
 午前一時頃より四時二十分頃迄B29約九十機は単機又は数機編隊を以って低空より侵入し来たり、遂に淀橋区にも火災起これり。時限爆弾投下による轟音次々に聞え物凄し。
 同四月五日 曇
 小磯内閣総辞職す。
 同四月十四日 晴
 昨夜十一時頃B29来襲の警報鳴り渡り防空活動に入りしが従来に比し我が家の方面に来襲頻りなり。〇時過ぎ益々激しく遂に我が家に焼夷弾の集中爆撃し来たり一瞬にして全家屋炎上、火勢猛烈にして如何ともすべからず。遂に避難を決意して四人名を呼びあって御霊神社境内に赴く。/午前三時頃火勢静まると共に帰る。完全に焼けて一物を剰さず。敵米英の暴挙真に憎むべし。/防空壕に直撃弾を蒙りしに不拘、一同無事たりしは不幸中の幸というべし。/付近一帯より目白駅迄一面の焼け野原と化し去る。嶺田家の好意にて同家離れ家に立ち退き御厄介になる。
 同四月十九日 曇後雨
 罹災以来御厄介になりし嶺田家を本日限り辞去することとし同家の並々ならぬ好意に感謝しつつ午後二時暇乞いす。・・・去る昭和二年以来(先考の時より二十二年)のなつかしき下落合邸の廃きょに暫しの別れを告げて去る。洵に千万無量の感に不堪。/一日も早く再びここに帰り来ん事を期しつつ・・・。/敵機B29機と小型機五十機午前九時半頃来襲あり。
  
 罹災後の星野家の4人が、一時的に滞在していたのは坂道の途中に建っていた同じ第二文化村の、星野家からは斜向かいにあたる嶺田邸だった。同日の空襲では、道をはさんで坂上の星野邸と杉坂邸が全焼しており、坂の中腹の西側に建っていた先の山口邸と安東邸、東側に建っていた「空襲記録」にも登場している調所邸と嶺田邸の4軒が焼失をまぬがれている。
 ちなみに、1944年(昭和19)11月13日に戦死したとの報が入った、海軍の調所泰中尉の記述が出てくるが、当時の海軍はフィリピンへ上陸する米軍迎撃のために「捷一号作戦」を発動しており、10月中にフィリピン沖で行われたいずれかの海戦、あるいは航空戦に参加していたのではないか。また、11月13日は米軍の空母艦載機による、マニラ湾大空襲の日とも一致している。
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星野邸1941.jpg

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嶺田邸1.JPG
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嶺田邸2.JPG

 余談だけれど、戦後、星野邸の広い敷地を購入して住んでいたのは、戦時中に米国の首府の名前を冠した店の名前が軍部からやり玉にあげられ、やむなく店名の変更を余儀なくされた銀座の大店の経営者である東條家だ。うちは以前より、ひょんなことから東條様とはおつきあいがあり、この春の京都旅行でも古い町屋への宿泊ではたいへんお世話になった。現在、第二文化村の東條邸Click!は解体され、その跡地には新築の住宅が9棟建ち並んでいる。

◆写真上:戦前は星野邸で戦後は東條邸だった、下落合1724番地の第二文化村の現状。
◆写真中上上左は、1925年(大正14)の箱根土地による「目白文化村分譲地地割図」にみる星野金吾邸。上右は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる星野邸。は、1936年(昭和11)の空中写真()と1944年(昭和19)の空襲直前に撮られた写真()にみる星野邸。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」に描かれた星野邸。は、敗戦後の1947年(昭和22)に米軍が撮影した振り子坂界隈の様子で、いずれも北が左側になる。
◆写真下は、1941年(昭和16)に上落合上空の南斜めフカンから撮影された振り子坂界隈のめずらしい空中写真Click!は、第二文化村に安東邸とともに現存する嶺田邸。

早稲田大学のみなさん、ありがとう。

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早大演劇博物館.jpg

 早稲田大学Click!会津八一記念博物館Click!で、「早稲田をめぐる画家たちの物語」展が開催されている。会津八一Click!を支点に、下落合の中村彝Click!曾宮一念Click!、そして小泉八雲Click!の三男であり里見勝蔵Click!佐伯祐三Click!らとともに、ヴァイオリンのパートで“池袋シンフォニー”Click!にも参加していた小泉清などを紹介したものだ。そしてもうひとつ、取り上げられた画家たちは、会津八一が教師をしていた早稲田中学校Click!に在籍した共通項を持っている。
 会場は、同記念博物館の1階と常設展示のある2階の一部を使い、画家たちの作品やデッサン、書簡類などを展示していた。残念ながら、展示会場の撮影許可はいただけなかったが、非常に面白い視点からの展覧会だと興味深く拝見した。また、画家たちの軌跡が街に眠る「ものがたり」として紹介されている点でも、同博物館にはわたしと同様の感覚や視線をお持ちらしい学芸員の方々がおられそうで、とても親しみをおぼえる企画だった。
 早稲田や戸山ヶ原Click!の界隈で画家や美術家をテーマにすえれば、必然的に彼らが集中的に居住していた落合地域と長崎地域が大きくクローズアップされてくる。特に、会津八一がらみなので今回は落合地域が目立って大きく扱われており、下落合東部の近衛町Click!や中央部の目白文化村Click!に加え、下落合西部のアビラ村(芸術村)Click!が大きく取り上げられたのがとてもうれしい。しかも、落合地域全域を描きこんだ二つ折りのマップを、図録の最初に挿入していただいており、同図録やマップを手に落合地域とその周辺を散策するには最適で、ますますうれしい。
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早稲田をめぐる画家たちの物語図録.jpg
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早稲田をめぐる画家たちの物語・下落合.jpg

 佐伯祐三の制作メモClick!に残る「アビラ村の道」Click!金山平三Click!の転居通知「アヴィラ村二十四号」Click!、そして、なによりも島津家Click!東京土地住宅Click!が1922年(大正11)ごろ、おそらく共同で計画していたと思われる開発図面「阿比良村平面図」Click!に残るアビラ村(芸術村)の名称は、現在の地元・下落合でさえ限りなく影が薄くなっている。そういう意味で、下落合西部(現・中井2丁目)の街の成り立ち、地域のアイデンティティ的な基盤の底部を確認する意味からも、この名称が改めて取り上げられるのはとても意味深いと思う。
 先のマップで、ひとつ残念な箇所がある。それは、参考文献として挙げられているわたしの「目白文化村」サイトClick!のサエキくんマップ記事や、新宿歴史博物館の「佐伯祐三-下落合の風景-」展図録(第2刷)Click!の修正直後に判明した、林武Click!の長崎地域における居住地の位置だ。きっかけは、南長崎でテーラー双葉を経営されている中沼伸一様Click!のお宅で2010年(平成22)9月、1925年(大正14)4月に作成された「下落合及長崎一部案内図」(出前地図)の西部版Click!を発見し、その詳細な検討を通じて、長崎町における林武の住居Click!がハッキリしたからだ。
 長崎地域では、大正期から昭和期にかけ、短いサイクルで大規模な地番変更Click!がたてつづけに行われており、わたしも「佐伯祐三―下落合の風景―」展でご一緒した美術家の方も、すっかり地番変更の“ワナ”にひっかかってしまったのだ。造形美術研究所が建てられた、長崎町1938番地の300m北への移動ほどではないけれど、長崎村4095番地は1925年(大正14)から大正末にかけて150mほど移動していると思われる。「佐伯祐三-下落合の風景-」図録の第3刷では、ぜひ「ご近所マップ」(113ページ)を修正したい最優先の課題となっている。
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佐伯祐三ご近所マップ.jpg
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早稲田をめぐる画家たちの物語マップ.jpg

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「出前地図」西部版1925.jpg

 具体的には、「早稲田をめぐる画家たちの物語」展図録の012ページに掲載されている二つ折りマップ「目白・落合の地図」で、地図上部の「林武の家②(1925-26年)」と記載されている柿色のポイントだ。マップでは、現在の長崎バス通りと目白通りの二叉にある交番裏Click!あたりに林武の旧宅が収録されているけれど、実はバス通りをはさんだ反対側に拓けた住宅地、現・南長崎第二保育園の東側にあたるエリアが、1925年(大正14)4月現在の長崎4095番地だ。こちらでも、判明したあとすぐに報告記事Click!をアップしたのだが、あまり目立たなかったものか。
 「下落合及長崎一部案内図」の西部版には、同地番とともにすでに「林」の姓も採取されている。これにより、林武が上落合725番地界隈から長崎4095番地へ転居したのは、1925年(大正14)4月よりも前、かなり早い時期だったことがわかる。わたしのサイト、あるいは「佐伯祐三-下落合の風景-」展図録に掲載の「佐伯祐三アトリエご近所マップ」に記載された林武旧宅は、大正末から昭和の最初期にかけて行なわれたとみられる、地番変更後の長崎4095番地だった。このあと、1930年(昭和5)にも再び大規模な地番変更が実施されており、長崎地域の地番表記は繰り返し大きく変わっていく。「早稲田をめぐる画家たちの物語」展図録でも、第2刷からぜひ修正していただければ幸いだ。
 余談だけれど、長崎地域の歴史を掘り下げて研究されている方は、数年ごとに大きく変わる地番表記に頭を抱えられているのではなかろうか。場合によっては、年単位ではなく月単位で目標物の地番を規定していかないと、同じ年でも途中からまったく異なる地番がふられているので、誤差を生じてしまう不安が常につきまとうことになる。わたしも、今後は大正初期から中期、大正末、昭和最初期、昭和5年前後、豊島区成立の昭和7年、「長崎南町」時代、そして「椎名町」時代と注意深く地番を観察していきたいと考えている。
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下落合霞坂秋艸堂.jpg
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下落合文化村秋艸堂.jpg

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小泉清「房総風景」1953.jpg
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曾宮一念「波太港沖の岩礁」1960.jpg

 同展では、中村彝や曾宮一念と会津八一との交流について興味深いエピソード(ものがたり)が語られている。また、ここではいまだカバーできていない、曾宮一念と津田左右吉との深い交流など、興味深いテーマも取り上げられている。さらに、小泉清や内田巌についても同博物館秘蔵のめずらしい資料も含めて展示されていた。機会があれば、こちらでも改めてご紹介したい。「早稲田をめぐる画家たちの物語」展は、早大の会津八一記念博物館Click!にて11月10日(土)まで。

◆写真上:本学3号館が建て替え中なので、演劇博物館がめずらしい角度で眺められる。
◆写真中上:「早稲田をめぐる画家たちの物語」展の図録では、下落合が大きくクローズアップされている。特に、近衛町や目白文化村と並び、アビラ村(芸術村)の記載がうれしい。
◆写真中下上左は、「佐伯祐三-下落合の風景-」展図録の「佐伯祐三アトリエご近所マップ」に記載の林武宅跡と正しい位置関係。上右は、「早稲田をめぐる画家たちの物語」展図録の「目白・落合の地図」に記載された林武宅跡と正しい位置関係。は、1925年(大正14)4月11日作成の「下落合及長崎一部案内図」(出前地図)西部版に採取された長崎4095番地の林武邸。
◆写真下は、下落合にあった会津八一邸で下落合1296番地の霞坂秋艸堂Click!()と目白文化村の下落合1321番地にあった文化村秋艸堂Click!(:旧・安食邸)。下左は、1953年(昭和28)に制作された小泉清『房総風景』。下右は、1960年(昭和35)におそらく常宿の江澤館Click!に滞在して描かれたとみられる曾宮一念『波太港沖の岩礁』。

杉並へ移る画家、杉並から帰る画家。

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里見勝蔵邸跡.JPG

 昭和初期になると、下落合から新たに開発された現・杉並区各地の文化住宅街へ引っ越す画家や美術家の一群がいる。そのまま杉並へ落ち着いた画家もいれば、そこで死去した画家、あるいは落合地域が恋しくなったものか再びもどってくる人々もいた。そんな彼らが杉並で残した暮らしの痕跡を、散歩をしながらめぐってきたのでご紹介したい。
 1928年(昭和3)5月に、下落合1560番地から杉並町天沼287番地(現・杉並区天沼2丁目)へと引っ越して研究所を開いた画家に、1930年協会Click!前田寛治Click!がいる。研究所の弟子たち(前田はモテたので女弟子が多かったようだ)は、中央線を荻窪駅で下車すると、北へ5~6分ほどダラダラ坂を上りながら前田のアトリエを訪れていた。天沼八幡社の境内へ突きあたると、右手(東側)の路地を入って右折した先の南西角地が天沼の前田写実研究所だった。敷地は広く、現在でも大きな邸が建っているので、前田の研究所も比較的大きな建物だったと思われる。前田寛治はこの地で病に倒れ、1930年(昭和5)4月に33歳の若さで急死している。特高警察Click!による顔面の殴打が、急速な病状悪化の遠因になっているのかもしれない。
 同じころ、1930年協会の里見勝蔵Click!と、同協会スポークスマンで哲学者であり美術評論家でもある外山卯三郎Click!は、ほとんどふたり同時に家を建てて引っ越している。里見勝蔵は、森田亀之助Click!邸の隣りにあった下落合630番地のアトリエClick!から井荻町下井草1091番地(現・杉並区下井草5丁目)へ、外山卯三郎は下落合1147番地の実家・外山秋作邸Click!から井荻町下井草1100番地(同)へ、新築の家を建てて引っ越している。ふたりの家の設計者は、F.L.ライトClick!の弟子である田上義也であり、ともに西武鉄道が造成した住宅地へ隣りの区画同士で家を建てて住んだ。この新興住宅地については、1927年(昭和2)3月に発行された貴重なパンフレット「西武鉄道沿線御案内」Click!(初版)にも、井荻駅のすぐ南側に収録されている。ゆるやかな南東斜面に建つライト風の両邸は、まだ田畑が多かった井荻町界隈ではよく目立ったことだろう。この新築邸に引っ越した外山卯三郎は、結婚したばかりの新婚家庭Click!だった。
 西武新宿線を井荻駅で下り、整然と区画整理された三間道路のダラダラ坂を南へ3分ほど歩くと、すぐに里見邸と外山邸にたどり着く。十字路はすべてスミ切りClick!がなされ、昭和初期の住宅地らしく築垣や縁石には大谷石が用いられている。すでに両邸とも存在していないが、現在でも閑静な住宅街の雰囲気はそのままだ。里見邸と外山邸のあたりが、ちょうど等高線が張り出した南向きの尾根上となっており、両邸から南へ500mほど下った谷間には、妙正寺川の湧水源である妙正寺池Click!が豊富な水量をたたえ、流れの源には「落合橋」が架かっている。
 里見邸と外山邸は、厳密には隣り同士ではなかったことが、1932年(昭和7)に杉並区が成立して、新しい町名や地番がふられたことから明らかになっている。『美術年鑑』によれば里見は杉並区神戸町116番地で、外山は杉並区神戸町114番地と、三間道路をはさんだ区画は確かに隣り同士なのだが、里見邸は東側区画の東角地、外山邸は西側区画の東角地と、両邸の間に別の敷地が1軒分はさまっている。ただし、初期のころは両邸の間に家がなく空き地だったせいで、「隣り同士」のような感覚だったと思われる。
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杉並町全図(前田)1929.jpg
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前田寛治邸跡.JPG

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天沼八幡社.JPG
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天沼住宅街.JPG

 また、中央線の阿佐ヶ谷駅で下車し、線路に沿って北西へ5~6分ほど歩いたところに、第一文化村Click!北側の下落合1385番地のアトリエClick!から引っ越した、新婚時代の松下春雄Click!が住んでいた。扇状に拡がった道筋の杉並町阿佐ヶ谷520番地(現・杉並区阿佐ヶ谷北2丁目)、いまだ緑の多い路地の東北角に松下アトリエは建っていた。当時の地図を参照すると、520番地の敷地には家が3~4軒(おそらく借家)が建てられているのが見えるが、現在では1軒の大きな邸敷地となっている。阿佐ヶ谷駅の北側は、昭和初期から住宅街が形成されているのだが、すでにほとんどが新しい家に建て替えられており、当時の古い家屋はあまり見かけなかった。
 松下春雄は、阿佐ヶ谷520番地で1929年(昭和4)6月から、落合町葛ヶ谷306番地へアトリエを新築する1932年(昭和7)4月までの3年間をすごしている。阿佐ヶ谷時代のアルバム写真Click!を見ると、生まれたばかりの二女・苓子様が写り、隣家には大きな西洋館が写っているのが確認できる。ひょっとすると、写真にとらえられた隣接する西洋館が大家の住まいだったのかもしれない。このときの松下邸は和風だったらしく、縁側で撮影された家族写真も残されている。
 さて、落合と杉並を往還した画家ではないが、杉並町から落合地域へと引っ越してきた画家がいた。1932年(昭和7)の暮れに杉並町の自宅で特高に逮捕され、翌1933年(昭和8)暮れに市ヶ谷刑務所を出所すると、小林勇Click!の世話で上落合2丁目602番地へと転居した柳瀬正夢Click!だ。柳瀬の住居は、高円寺駅を降り南へ7~8分歩いたところ、杉並町馬橋229番地(現・杉並区高円寺南2丁目)のアパートにあった。アパートといっても、かなり狭く粗末な造りだったようで、柳瀬はイーゼルも立てられない暮らしをしていた。馬橋での暮らしの様子を、1996年(平成8)に出版された井出孫六『ねじ釘の如く 画家・柳瀬正夢の軌跡』(岩波書店)から引用してみよう。
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井荻町全図(里見・外山)1930.jpg
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外山卯三郎邸跡.JPG

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大谷石角切り.JPG
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妙正寺池.JPG

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西武鉄道沿線御案内1927.jpg
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杉並区神戸町1936.jpg

  
 大震災の難をさけて門司にもどっていた柳瀬は、帰京するとまもなく、下宿の娘青木梅子と馬橋のアパートに世帯をもった。/如是閑の義妹の山本きよ子がわけてくれた二個の茶碗と数枚の皿が、しばらくのあいだの主な家財であった。/柳瀬は本名の正六を嫌って自ら正夢と名を改めたが、なぜか妻の梅子という名も気に入らず、小夜子と呼ぶことにし、彼の友人知己は、それが妻の本名だと思っていた。(中略) 小夜子はまだ少女のおもかげを残してはいたけれども、貧乏生活を耐えることのできる姉さん女房のようなところをもっていた。/マヴォ第二回展が終ってみると、柳瀬はめったにパレットを手にしなくなったのを、小夜子は自分のせいかと気にやんだことがあった。六畳間にはイーゼルにカンバスをたてかけるような空間はなく、柳瀬は卓袱台にケント紙をひろげて、本の装幀ばかりするようになっている。(中略) 柳瀬の家計はつねに貧しく、ときに電灯代もとどこおって明りがつかない夜もあったが、小夜子の口からぐちのこぼれることはなかった。
  
 柳瀬正夢が住んでいた場所は、ご紹介した5人の旧居跡の中でも、いちばん大きくさま変わりしている一画だ。高円寺駅の南口から、アーケード付きの商店街が南へ長く伸びているが、その延長線上に柳瀬の旧居跡は包含されてしまっている。いまでは住宅街ではなく、同一の石畳が敷かれ同じデザインの街灯が設置された、にぎやかな商店街(のつづき)になってしまっているのだ。だから、借家やアパートが散在していた、当時の様子を想像することがむずかしい。ちなみに、引用文で紹介されている小夜子(梅子)夫人は、このアパートで結核の病状が悪化し、柳瀬が服役中の1933年(昭和8)8月に帝大病院で死去している。
 ご紹介した5人の画家のうち、外山卯三郎は井荻の家から下落合1147番地の実家へともどり、松下春雄は1932年(昭和7)に落合町葛ヶ谷306番地にアトリエを新築Click!し、家族を連れてもどった。また、柳瀬正夢は1934年(昭和9)の早春より、松下春雄が建てたClick!(当時の地名・地番は西落合1丁目303番地)を松下の死後に借り受けて、上落合から転居することになる。ちなみに、外山卯三郎と松下春雄のご遺族は、現在でも同地を離れずに住まわれている。
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荻窪1万分の1(松下)1929.jpg
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松下春雄邸跡.JPG

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阿佐ヶ谷松下家19300721.jpg
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阿佐ヶ谷松下家19301104.jpg

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杉並町全図(柳瀬)1929.jpg
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柳瀬正夢邸跡.JPG

 昭和初期、画家たちが落合地域から杉並へ転居したのには、いろいろな理由が想定できるけれど、落合地域から田園風景ののどかな文化村という風情が消え、東京の市街地とあまり変わらない繁華な住宅街へと変貌していったのも理由のひとつだろうか。借家住まいの画家たちは、家賃の急激な値上がりに耐え切れなくなったのかもしれない。また、1927年(昭和2)4月に西武電鉄Click!が開通したことで、沿線に西武鉄道による宅地開発Click!が進み、中央線沿線の新興住宅地ともあいまって、一種の「杉並ブーム」とでもいうべき現象も起きているようだ。画家たちは、安い家賃(地代)やより落ち着ける環境を求めて、杉並地域へ転居していったと思われる。

◆写真上:井荻町下井草1091番地(のち杉並区神戸町116番地)の、里見勝蔵邸跡の現状。
◆写真中上上左は、1929年(昭和4)作成の「杉並町全図」にみる杉並町天沼287番地。上右は、同番地にあった前田寛治の前田写実研究所跡。下左は、前田邸のすぐ西側にある天沼八幡社の拝殿。下右は、天沼で見つけた昭和初期に建てられたとみられる和洋折衷住宅。
◆写真中下上左は、1930年(昭和5)作成の「井荻町全図」にみる井荻町下井草1091番地と同1100番地。上右は、井荻町下井草1100番地の外山卯三郎邸跡。中左は、西武鉄道が開発した井荻駅前住宅地の大谷石によるスミ切り。中右は、同住宅地から南へ500mほどのところにある妙正寺池。下左は、1927年(昭和2)に西武鉄道が発行した「西武鉄道沿線御案内」にみる井荻駅南側の西武住宅地。下右は、1936年(昭和11)の「杉並区市街図」にみる神戸町の両邸。
◆写真下上左は、「荻窪」1/10,000地形図にみる杉並町阿佐ヶ谷520番地。上右は、同地の松下春雄邸跡。は、松下春雄アルバムから阿佐ヶ谷時代を写したもの。赤ちゃんは二女・苓子様で、隣家には大きな西洋館がとらえられている。下左は、1929年(昭和4)作成の「杉並町全図」にみる杉並町馬橋229番地。下右は、同地の柳瀬正夢が住んだアパート跡の界隈。

笠原吉太郎の鐘馗と美寿夫人の手ざわり。

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ホームスパン1.jpg

 先日、みずから発明した「笠原手織機」Click!を使って、笠原美寿Click!が編んだニットのワンピースをお見せいただいた。写真で見るだけでは、織りの手ざわりや質感がわからないでしょう・・・と、わざわざ貴重な作品を孫の山中典子様Click!がお送りくださったのだ。美寿夫人が、下落合の晩年まで実際に着用していたもので、前裾にはストーブによる焦げ跡まで残っている。
 わたしは一度もお会いしたことがないのだが、どこか手織りの温かさとぬくもり感がこもり、美寿夫人の体温がじかに感じとれるような気がする作品だ。手織機で編んだニットの生地を、ワンピース(美寿夫人は「ホームスパン」と呼んでいたらしい)に縫い上げたもの。手織機というと、細い絹や木綿、麻の糸を織りこんでいく布を想像しがちだが、笠原手織機はセーターやマフラー、じゅうたんなども織ることができる汎用性の高い織機だった。1994年(平成6)に出版された、星野達雄『からし種一粒から』(ドメス出版)所収の、笠原美寿「笠原の手織機と基礎織」から引用してみよう。
  
 織ってみると願い通り、ホームスパンはじめ、絹、木綿、麻、古いきれ、化学繊維、じゅうたんなど織りこなせます。織巾は六十センチ~九十センチまで織れる機台があります。以来木工所にこの見本通りのものを作らせ今日に至ったわけです。それは(昭和)三十二年頃でした。/以来、手織の希望者がありますので、私はお座敷教室を始め皆さんに大変よろこばれました。老人の孤独などよくいわれますが、私は孤独どころか毎日楽しく愉快でそして忙しく、いつの間にか十余年の月日が流れ、上から読んでも下から読んでも八十八という米の年を迎えました。(カッコ引用者註)
  
 このあと、笠原美寿は身体が不自由な車イス生活を送る人たち向け、あるいは片手が不自由な人向けの、「レール式手織機」の開発にも成功している。足を使わず、手だけで織れる織機はいろいろあるが、より簡便で労力のいらない笠原手職機は当時、かなり人気が高かったようだ。
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笠原手織機.jpg
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 星野美寿(笠原吉太郎Click!と結婚して笠原美寿)は、1882年(明治15)に群馬県利根郡利南村大字戸鹿野において、名主で沼田銀行頭取でもあった父・星野銀治と母・はまの間に長女として生まれた。兄弟姉妹は、美寿のほかに6人生まれている。母・はまは、美寿が16歳のとき36歳の若さで急死している。少女時代の美寿の様子を、笠原豊『笠原美寿の生涯』から引用してみよう。
  
 小学校時代の美寿はお転婆で、強情な子で時々母にしかられて蔵に入れられたこともあった。小学4年頃から本好きになり、家にある本は手当たり次第に読み耽った。沼田市の升形高等小学校を卒業後、裁縫、機織りの稽古など娘としての修業に励んでいた。恵まれた少女時代であったが、突如不幸が襲った。それは美寿が16才の夏、母が突然の急病で、アッという間に帰らぬ人となってしまったのである。(中略) それからは、習い事どころではなく、母の身替りとなってキリキリ舞いで働いた。父の身の回りの世話、作男や女中を相手に養蚕の仕事など休む間もなかった。幸い2年後に父に後妻がが来て、やっと自分をとりもどすことができた。
  
 美寿は18歳になると、東京の青山学院にあった女子手芸学校へ入学し、同学院でキリスト教教育を学んで洗礼を受けた。このあと、一度沼田へともどり家事を手伝いながら、桐生出身で当時は農商務省の技師だった笠原吉太郎Click!と見合いし、1904年(明治37)に結婚している。
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ホームスパン2.jpg
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ホームスパン3.jpg

 山中様から、お貸しいただいたものの中に、笠原吉太郎Click!が1942年(昭和17)5月の端午の節句に描いた「鐘馗像」があった。初めて実物を間近で観る、笠原吉太郎の描画の様子だ。墨と筆で、色紙へ一気に鐘馗像を描き、水彩絵の具か岩絵の具で顔に肌色をさしている。裏には、山中典子様の弟である常昭様にあてて、「贈/常昭節句を祝ひて/昭和十七年五月/笠原祖父」とある。初めて目にする、笠原吉太郎の肉筆だった。
 太平洋戦争がはじまったころから、笠原吉太郎は絵筆をとらなくなっていた。いや、“絵筆”ではなく笠原の場合はパレットナイフのみで描いていたようなので、ことさら筆を握るのはめずらしかったにちがいない。戦後は、ほとんどまったく絵を描くことなく、空いたアトリエをシュルレアリズムの画家・阿部展也などに貸していたようだ。だから、家族への記念作品とはいえ、笠原吉太郎が晩年近くに描いた“最後”のころの作品ということになりそうだ。
 もうひとつ、笠原吉太郎は油彩の洋画が専門であり、水彩画や墨を用いた日本画を残していない。にもかかわらず、「鐘馗像」は墨と水彩(顔料?)を使って描かれている。戦前のどこかの時点で、油彩画ばかりでなく日本画への魅力を感じ、さまざまな試作を行なっていたのではないか?・・・という想定も成り立ちそうだ。もっとも、フランスのリヨン国立美術学校意匠図案科では、油彩とともに水彩の勉強もしていたのかもしれないが・・・。それにしても、ずいぶん手馴れた筆致なので、この時期、ふだんから墨や筆を扱いなれていたと想定することができる。
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笠原吉太郎「鐘馗像」1942.jpg
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笠原吉太郎「鐘馗像」裏面.jpg

 1954年(昭和29)に笠原吉太郎が死去すると、美寿夫人はそれまで温めていた企画を一気に展開しはじめている。「笠原手織り会」をはじめ、朝日新聞社の「草の実会」、地元下落合の「落合木の実婦人会」をはじめ、さまざまな工夫をこらした道具や製品を発明している。そこに通底する勤勉さや社会観、人間観は、実家の星野家に代々伝わるキリスト教の影響が色濃いと思われる。

◆写真上:笠原美寿が笠原手織機で織った、ニットのワンピース(ホームスパン)。
◆写真中上は、コンパクトな笠原手織機。は、笠原美寿(右)と叔母の星野あい(左)。落合の南・東中野に住んだ星野あいは、1948年(昭和23)から長く津田塾大学学長をつとめた。
◆写真中下:美寿夫人のワンピース(ホームスパン)の、襟のリボンと織り目の拡大。
◆写真下:1942年(昭和17)に色紙へ描かれた笠原吉太郎「鐘馗像」()と裏面のサイン()。

なんてこった、まったくなんてこった。

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金山平三アトリエ01.jpg

 旧・下落合西部(現・中井2丁目)に建つ、金山平三アトリエClick!の解体がすでにはじまっている。満谷国四郎Click!とともに、アビラ村(芸術村)Click!の名づけ親と思われる金山平三Click!が、下落合2080番地に自身でデザインしたアトリエを建設したのは1925年(大正14)3月のことだ。日本画家の中野風眞子の証言によれば、金山は「二の坂の上辺りは、アヴィラそっくりの地勢である。非常によく似ている。それで僕は早速アヴィラ村と命名した」と語っている。
 金山アトリエ解体のニュースは昨日、モスさんClick!からお知らせいただいたのだが、寝耳に水で驚愕してしまった。モスさんも書かれているように、先週の日曜日(10月28日)、吉武東里Click!が設計した島津一郎アトリエClick!が公開され、わたしも所有者の方からお誘いをいただいていた。しかし、急用で行けなくなり非常に残念な思いをした。もし用事がなければ、まちがいなく金山アトリエ前を通過して島津アトリエを訪れていただろうから、4日前には異変(工事予定プレート)に気づいてたはずだ。でも、「工事のお知らせ」の予定表には「11月2日~12月5日」が解体予定とされ、11月2日のきょう、工事業者が家の周囲に足場を組み解体工事がすでにスタートしている。これでは、解体までのリードタイムが短すぎて保存へ向けたなんの動きもできない。
 新宿区の地域文化部文化観光国際課のご担当も寝耳に水だったらしく、持ち主の方からの連絡で金山アトリエ解体を初めて知ったのは、つい10月22日のことだ。それから、わずか1週間ほどしかたっていない。モスさんの記事にもあるとおり10月29・30・31日、そして11月1日の4日間、新宿区と早稲田大学による大急ぎの記録調査が入っている。調査の終了後、翌日には解体工事がスタートしたことになる。最近解体された近衛町の旧・杉邸Click!もそうだが、いくら貴重な近代建築だからといって持ち主の方の「売って解体したい」という意向を、「やめてください」とも「ダメです、待ってください」ともいえはしない。だが、金山平三アトリエは落合地域にとっては特別な存在なのだ。それは、美術(芸術)の街Click!を視点にすえた場合の“街づくり”においては、画家のアトリエを点と線でつなげる、きわめて重要な地域資産のひとつだからだ。それが、目白駅を起点とすれば山手通りの手前で途切れてしまい、目白文化村を介して旧・下落合西部(アビラ村)までの“導線”がつづかないことになってしまう。美術好きな訪問者の多くは、途中から下落合駅へと下ってしまい、中井駅までは足を伸ばさなくなってしまうだろう。
 旧・下落合東部には、いま復元工事が進んでいる中村彝アトリエClick!がある。下落合中部(旧・下落合2丁目→現・中落合2丁目)には、こちらでもあまたご紹介してきた目白文化村Click!第三文化村に隣接する佐伯祐三アトリエClick!がある。そして、下落合西部(旧・下落合4丁目→現・中井2丁目)には、すでに松本竣介アトリエClick!刑部人アトリエClick!が存在しないいま、アビラ村(芸術村)のコアとなる記念物は金山平三アトリエだった。しかも、金山平三Click!は中村彝や佐伯祐三たちと同様に、地域画家ではなく全国的に知られた高名な画家でファンも数多い。金山の出身地である兵庫県立美術館には、彼の作品や資料を集めた金山平三記念館がオープンしている。
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金山平三アトリエ02.JPG
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 アビラ村(芸術村)Click!には先年、文化庁の登録有形文化財に指定された島津一郎アトリエがあるけれど、同アトリエはあくまでも私邸内でたいせつに保存された建物であり、常時、誰もが芸術散歩の途中で訪れることができる状況にはない。だからこそ、美術の側面からいえば、空襲にも遭わずにそのまま焼け残った大正建築の金山アトリエは、かけがえのない存在であり同地域のコアでもあったのだ。せっかく、下落合西部のアビラ村(芸術村)が広く認知Click!されてきた矢先、金山アトリエを失うことは街の大きな文化的損失といっても過言ではないだろう。
 中村彝=鈴木誠アトリエClick!のように、所有者の方の「できれば残したい」という意思があり、また早めにそのことが判明していれば、さまざまな方面への働きかけや、いろいろな分野の方々へのネゴシエーションが可能なのだが、今回の金山アトリエのケースは突然、抜き打ち的に現象化した無念なケースだ。きょう(11月2日)から解体工事に入っているので、保存はもちろん移築も含めて、もはやいかんともしがたい状況なのだろうか。関東大震災Click!東京大空襲Click!、そして東京オリンピックの「町殺し」Click!で、あちこちが名所・旧跡だらけなのになにもない(城)下町Click!のことを、これまでさんざん書いてきたけれど、せっかく苦難な時代をくぐり抜けてたいせつに保存されてきた乃手の重要な記念物が、アッという間に消滅するのが残念でならないのだ。
 金山アトリエの外観は、建築当初からほとんど変更されていない。その後にお住まいの方々も、ていねいにメンテナンスを繰り返されており、この30年以上にわたり安心して観賞させていただいてきた。でも、内部が各時代によりかなり改装されているようだが、中村彝アトリエの保存状態および復元条件もまさに同じだった、いや、より困難な条件ではなかったろうか。きょうは、アトリエの窓が開け放たれており内部を垣間見ることができたのだが、壁面の漆喰や天井の様子は、むしろ中村彝アトリエよりもはるかに良好な状態のように見える。また、黒光りした焦げ茶色の柱もそのままであり、すべてを解体してから復元が必要となる中村彝アトリエよりも状態がよく、むしろ保存が容易なようにさえ思える。
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金山平三アトリエデザイン帖.jpg
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金山平三アトリエ07.JPG

 ただ、残念なことに所有者の方が、そのような文化的意志や希望を持たなければ、周囲がいくらとやかくいっても、一歩も前へ進めないのもまた確かなのだが・・・。金山アトリエの内部の様子を、1975年(昭和50)に日動出版から出版された飛松實『金山平三』から引用してみよう。
  
 ややうす暗い玄関に立つと、廊下がT字型に走つてをり、廊下に沿ふ壁の向かうがアトリエで、玄関からは、廊下越しにアトリエの背中の壁を見てゐるわけである。古びたオルガンのある廊下の左端は二階へ通じる階段となり、右の突き当たりは洋間の応接兼居間に続いてゐる。/居間の調度類、例へば大机(一.五×一メートル)、物置、戸棚などは、何れも太い角材や部厚い板で作られてゐて、それらが皆茶褐色に沈み、如何にも時代がかつた民芸調の趣きを備へてゐる。壁際に五段ばかりの用棚があつた。四センチ近い厚さの棚板の間隔が、どの段も不同で、それでゐて板の厚みや、支柱の角材の太さが、お互ひにバランスをとり合ひ、美事な統一と均整を保つてゐる。/「どつしりとした珍しい棚ですね。先生の設計ですか。」/「あなた、これが分かつたかね。いいでせう。正倉院の写しです。友人が寸法書きをもつてゐたので、借りて作らせました。」 さう聞くと、いよいよ変化と統一の妙の迫つてくる棚であつた。/居間の南側が広縁で、サンルーム風になつてゐる。古びた藤の安楽椅子や、サイドテーブル代はりの古い一斗樽などがあり、茶や菓子はこの上に置かれることが多かつた。/此処からは繁つた庭木を透して遥かに大東京の街々を眺望することが出来た。東京タワー、国会議事堂他の高層ビルは言ふまでもなく、秋晴れには、西方雲上に富士の秀嶺を望見できるのであつた。
  
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 これほど唐突ですばやい解体工事の着手なので、神戸にある兵庫県立美術館の金山平三記念館も、いまだアトリエが消滅しようとしているのを、まったくご存じないかもしれない。ひょっとすると、兵庫県立美術館(金山平三記念館)の敷地近くへ移築したい・・・という要望が出るのかもしれないのだが、もはや手遅れだろうか? いずれにしても、これから20年、30年先を展望した“街づくり”インフラのかけがえのないリソースを、またひとつ落合地域は失うことになる。

◆写真上:解体工事がスタートした金山アトリエで、南東側から足場が組まれはじめている。
◆写真中上:1970年代から見馴れた、アビラ村(芸術村)の象徴的な建築・金山平三アトリエ。
◆写真中下上左は、1924年(大正13)9月ごろに金山平三が描いたアトリエデザイン。上右は、同アトリエの庭で踊る金山平三とらく夫人Click!は、アトリエ北側の採光窓。
◆写真下は、保存されている金山平三のパレット。は、アトリエ北側の窓。Image may be NSFW.
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落合第四小の校歌は富永教諭が作詞。

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 こちらでも以前にご紹介Click!した、落合第四小学校の校歌の作詞者が、1939~1941年(昭和14~16)に落四小へ在職していた、教諭の富永熊次であることが改めて正式に規定された。前回の記事中でも書いたが、1939年(昭和14)ごろ富永教諭が目の前で校歌を作詞している様子を、現場で目撃している元・生徒たちが何人もいるにもかかわらず、「紙」に記録された資料がないために、長い間「作詞者:不詳」とされていたものだ。
 このような史的な課題は、別に落合第四小学校の校歌に限らず、あらゆるところに存在している。エピソードがあった地域、あるいは事件があった現場で直接の目撃者が複数いるにもかかわらず、また、そのエピソードを記憶・伝承している地元の方々が多数いるにもかかわらず、「紙」として記録・保存された資料がないから「なかったこと」、または「不明」とされているケースだ。実際の体験者や伝承者が目前に数多く存在しているのに、「ウラづけ」となる「紙」資料ないしは「印刷」物がないので「なかった」「不明」とされる・・・、こういうのをなんと表現すればいいのだろう。すべてが書類の堆積で成立している、前世紀のお役所的な視座とでもいえばいいだろうか。
 まったく本末転倒の視点、認識法だといわなければならない。その「紙」資料や「印刷」物自体も、そもそも体験者や目撃者の記憶・伝承と、それに取材した人間の“消化”表現とをもとに作成されていることを忘れている。再度のケース引用で恐縮なのだが、江戸の町火消しには「へ・ら・ひ組」Click!はなかったなんて資料が、公的な文化行政レベルでもいまだに存在する。昔からの火消しの子孫でも、江戸東京を通じて記憶や伝承をしっかりと保有している地付きの人でもいいから、ちゃんと「当事者」に、ないしはそれが存在した“現場”に取材してほしい。
 「紙」資料がないから、史的にも「なかった」あるいは「不明」とする、“研究室引きこもり型”、あるいは“資料室入りびたり型”の没主体的で怠惰な姿勢は、ぜひやめてほしい研究スタイルなのだ。これは、どのような史的研究にも当てはまるテーマなのではないか。町火消しの「へ・ら・ひ組」は、明治期に採集された纏印や受け持ち範囲などの資料が、どうやらかろうじて見つかっているので、ようやく少しずつ訂正されはじめているようなのだが・・・。でも、ちまたに多く出ている流行りの江戸ブーム本などではいまだ訂正もされず、そのままの状態で出版されつづけている。それらを後世に図書館や資料室などで参照した人たちは、地元に“ウラ取り”しないまま相変わらず江戸に「へ・ら・ひ組」は存在しなかった・・・なんて研究成果を発表することになるのだろうか?
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 今回の落合第四小学校校歌の事例も、まさに「紙」資料がたまたま見つかったから「認め」られた同様のケースだ。なぜ、当時の校歌制定の現場にいた当事者たちの証言があるにもかかわらず、「紙」資料へ絶対的に依存・盲信するのだろうか? 「紙」の記録になると、とたんに当事者や目撃者、現場を体験した人たちの証言や地域の記憶よりも、価値や信憑性が高くなるとでもいうのだろうか。だとすれば、もう一度繰り返すが少なくとも史的な研究においては、逆立ちしている視点だといわざるをえない。実際の目撃者や体験者、現場の記憶や地域の伝承をできるだけ多く(主体的に)採集・確認し、それを出発点(基盤)にすえるのが一義的な方法論だろう。
 これにより、先入観や錯誤(証言者からの情報自体の吟味をも含む)をできるだけ排除でき、また後世の粉飾や付会、利害関係が絡むご都合主義的な解釈を加えた行政や社史などの「紙」資料wを止揚でき、ニュートラルな研究姿勢が保持できることになるのではないか。
 落合第四小学校の校歌のテーマは、この情報を提供していただいた堀尾慶治様Click!たちが、たまたま今年(2012年)の夏に自費出版に近いかたちで編纂された菅野英二『新宿区立小学校「校歌」の歴史』を見つけられたから「規定」できたものだ。この本が出版されなければ、また偶然に見つけられないでいたなら、このあともずっと落四小の校歌は「作詞者:不詳」状態がつづいていたのだろう。この書籍の中に、同校の校歌が1939年(昭和14)2月5日に制定され、翌1940年(昭和15)6月22日に大久保尋常小学校の校歌と同時に認可された(淀橋区の教育官報に掲載された)経緯が、作詞・作曲者のネームが入った譜面とともに記録されていた。同書に収録された、落合第四小学校の校歌に関する部分と菅野英二による解説を引用してみよう。
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富永熊次教諭.jpg
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 ◎淀橋・大久保尋常小学校(開校 明治十二年=一八九七・十二月四日)
  作詞 水澤澄夫 作曲 福井直秋
  認可 昭和十五年(一九四〇)六月二十二日(官)
 ◎淀橋・落合第四小学校(開校 昭和七年=一九三二・四月一日)
  作詞 富永熊次 作曲 林良夫
  認可 昭和十五年(一九四〇)六月二十二日(官)/
 落合第四小学校の校歌(富永熊次/林良夫)は、同校の先生方の手により昭和十四年(一九三九)二月五日に制定された。認可申請は多少の時を経てからのようで、認可は大久保小学校と同じ昭和十五年(一九四〇)六月二十二日であった。現在も歌われている。
  
 落四小の校歌は、当初3番まで存在したが1939年(昭和14)という時局がら、歌詞に軍国主義的な表現がかなり強かったのだろう、戦後に3番は廃棄され現在は2番までしか唄われていない。同じ富永熊次が作詞した、前任校である淀橋第四小学校の校歌は、制作時期が1930年(昭和5)と比較的早かったせいか軍国調の歌詞はなく、戦後もそのまま3番まで唄い継がれている。
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官報記載情報.jpg
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 同書では、新宿区内の小学校で戦前に作られた校歌が戦後も唄いつづけられたケースと、軍国調が強すぎるため戦後は廃棄された校歌とが分類されている。同書で取りあげられた小学校のうち、前者には落合第四小学校をはじめ、落合第一小学校(旧・落合小学校Click!)、牛込仲町小学校、大久保小学校、戸塚第一小学校などが挙げられ、後者の例には落合第二小学校、富久小学校、四谷第三・第四・第五小学校、天神小学校、戸塚第二小学校などが記載されている。

◆写真上:開校80周年を迎えた、おとめ山公園に隣接する落合第四小学校。
◆写真中上:菅野英二『新宿区立小学校「校歌」の歴史』に掲載された、落四小校歌の譜面。
◆写真中下は、1941年(昭和16)の卒業アルバムにみる富永熊次教諭(前列左)で、富永教諭の右横は当時の加藤校長。は、1947年(昭和22)に米軍機が撮影した落合第四小学校。空襲Click!による延焼をまぬがれ、現在の落合第四幼稚園の位置に付属のプールが見える。
◆写真下上左は、菅野英二『新宿区立小学校「校歌」の歴史』所収の記録。上右は、2002年(平成14)の創立70周年の記念に空撮された落合第四小学校。は、1937年(昭和12)に行なわれた落合第四小学校の遠足。羽田穴守稲荷社近くの海岸で潮干狩りをしているが、現在の羽田風景からは想像もできない光景だ。前列の印が、資料を提供くださった堀尾慶治様。


豪華客船が空母へ、不運な吉武東里。

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 子どものころ、よく小遣いをためては艦船のプラモデルを買って組み立てた。客船や専用船、軍艦、帆船、クルーザーと船のプラモデルだったらなんでも好きで、寝ずに真夜中まで組み立てては叱られた。最初に船のプラモを買ってくれたのは、親父だったと思う。どこかに行きつけのおもちゃ屋があって、その店でお土産に買ってきてくれたらしい。
 幼稚園のころのことで、当然わたしは組み立てられず親父が作ってくれたのだが、あれはプラモの組み立てを親父自身が楽しんでいたのだろう。小学校時代から高校生まで、ずっと戦争がつづいて満足に子どもらしい遊びができなかった不満を、幼児のわたしにかこつけて追体験していたのかもしれない。祖父も船が好きで、戦前のさまざまな艦船写真を所有していた。その中には旧・海軍の“軍艦ブロマイド”もあって、日米開戦の直前、1940年(昭和15)に横浜沖で行われた「紀元二千六百年」の観艦式で制作された記念絵葉書もあった。おそらく、祖父も見学しに出かけているのだろう。いちばん印象に残ったのは、第2次改装を終えた戦艦「長門」が白波を蹴立てて疾走する姿(おそらく改装直後の公試運転で撮影)だった。当時の第1艦隊第1戦隊は、戦艦「長門」と「陸奥」が主力だったので記念絵葉書になったものだろう。
 「紀元二千六百年」のこの年、大きく運命を狂わされた建築家がいた。上落合470番地Click!に住んだ吉武東里Click!だ。東京と横浜で開催される予定だった日本万国博覧会は中止され、数々のパビリオンを建築予定だった吉武東里の仕事は、すべてが水泡に帰した。東京会場に予定されていた月島周辺では、勝鬨橋Click!のみが完成しただけですべての工事が中止された。また、同時に吉武が手がけていた日本最大の豪華客船の内装設計も、戦時体制強化のため船自体を海軍が買い上げることになり、彼のデザインはまったくの徒労に終わった。戦争にからみ、これら一連の仕事がすべて失われたことは、吉武東里にとっては大きなショックだったろう。彼は5年後の1945年(昭和20)4月、敗戦を見ず失意のうちに60歳の生涯を閉じている。
 吉武東里が内装を手がける予定だったのは、1938年(昭和13)に日本郵船が計画した、当時としては日本最大の豪華客船「橿原丸」と「出雲丸」だ。排水量は27,700tと大きく、速力も当初の計画では25ノット弱と客船にしては速い船足だった。橿原丸(900番船)は、のちに戦艦「武蔵」が竣工する三菱重工の長崎造船所で、出雲丸(660番船)は川崎重工の神戸工場で翌1939(昭和14)に起工されている。吉武は、日本最大となる船の内装に意欲を燃やしていただろう。
 1938年(昭和13)の当時、海軍は戦時における民間船舶の接収・改装を前提に「大型優秀船建造助成施設」制を施行しており、姉妹船である橿原丸と出雲丸の建造では総工費の6割を海軍が負担している。海軍はカネも出すが口も出すで、同船の建造では設計レベルから深く関与し、艦載機50機前後の特設航空母艦(正規空母ではない)へ改装することを前提に計画が進められた。吉武東里を含む船内の設計チームが始動したのは、同船が計画された当初からだったろう。
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横須賀工廠ガントリークレーン1970.jpg
 橿原丸の船内デザインには吉武東里、中村順平、村野藤吾、久米権九郎、前川國男、岡本薫の6名が、出雲丸のそれには吉武のほか、久米権九郎、雪野元吉、本野精吾、渡辺仁ほかが設計チームを結成して取り組んだ。これまで、橿原丸の船内装飾へ吉武東里がかかわったことは知られていたが、出雲丸への設計関与が確認されたのは、東京大学の長谷川香様Click!により吉武東里の遺品の中から660番船(出雲丸)の1等喫煙室の設計デザインが発見されたからだ。現存している吉武のデザインは、出雲丸の1等喫煙室のほか、橿原丸の1階エントランス背景図のペガサス案と京都夜景案、1等ギャラリー関連デザインなどがある。
 豪華客船の橿原丸と姉妹船の出雲丸は、起工後わずか1年ほどで海軍に建造中の船体を接収されることになる。先の万博中止と同じ年、1940年(昭和15)には早くも航空母艦への改装が決定し海軍へ引き渡されることになった。このときの国際情勢や軍部の動向を見ていると、海軍が「大型優秀船建造助成施設」を適用した時点から、そもそも客船として竣工させるつもりはなかったように思われる。おそらく、橿原丸と出雲丸の設計図が作成されるのと同時に、海軍の艦艇建造部ではまったく別の図面が引かれていたような感触があるのだ。
 海軍工廠の船渠(船台)に新艦建造の余裕がないため、民間の船渠で船体(艦体)のみを造らせておき、進水時期を見はからって接収したようにも見える。艤装工事のみなら、大きめな岸壁とクレーンさえあれば可能だが、船体の組み立てはそうはいかない。また、海軍には民間のいくつかの造船所でも大型船を建造できるよう、設備を整えさせるという思惑があったのかもしれない。大型船の建造には、船渠上にガントリークレーンの設置が不可欠だった。両艦は1942年(昭和17)の半ばに航空母艦として竣工し、橿原丸は「隼鷹」、出雲丸は「飛鷹」と命名された。
 吉武東里がデザイン予定だった両船の内装について、長谷川様は以下のように総括している。『吉武東里に関する研究―近代日本における図案家という職能―』(2011年)から引用しよう。
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 (前略)東里が手がけた船内装飾の特徴として 1)他の船室との調和、2)室内装飾に取り込まれた絵画の使用、の2点が挙げられるだろう。/1)他の船室との調和に関しては、周囲の部屋の図面が残されていない660番船(出雲丸)では定かではないが、900番船(橿原丸)において東里が手掛けた一階エントランスと一等ギャラリーというどちらも様々な部屋をつなぐ空間であった。確かな図案技術によってあらゆる様式を使いこなす東里は、村野や前川といった個性の強い建築家らにより様々な様式が混在する船内を、調停する役割を期待されていたのではないだろうか。/2)室内装飾に取り込まれた絵画の使用は、二条離宮や御料車、藤山雷太記念碑、そして国会議事堂にも共通する要素だと言えるだろう。船内という限られた空間においては、室内空間の形態によって変化に富んだ空間を生み出すのは難しい。そうした際に、室内の形態は変えずして、室内装飾に壁画や天井画といった要素を巧みに取り込んで空間を豊かにするという技術は、船内装飾において非常に有効であった。/上述の2つの特色を踏まえると、豪華客船の室内装飾とは高度な「図案」技術を必要とされるものであり、まさに橿原丸と出雲丸という戦前最大規模の室内装飾は、東里に任されるべくして任されたと言えるだろう。(カッコ内は引用者註)
  
 特設空母に改装されたことで、橿原丸と出雲丸の設計当初に想定されていた速力は増し25ノットを超えているが、このスピードは30ノット前後の正規空母が一般的だった当時としてはかなり遅い。したがって、両艦は日米の機動部隊が正面から対峙する海戦へ参加するよりも、補助・支援的な作戦や任務につくことが多かった。だからこそ、速力が遅く装甲も薄い艦にもかかわらず、戦争の最終段階まで命脈を保つことができたのだろう。
 空母「飛鷹」は、1944年(昭和19)6月のマリアナ沖海戦で米軍機の攻撃を受け、多数の魚雷や爆弾を受けて沈没している。ただし、装甲が薄い客船用の船体にもかかわらず、沈没までにはかなりの時間があり、被弾箇所の火災が鎮火したこともあって多くの乗組員が駆逐艦に救助された。また、空母「隼鷹」は1944年(昭和19)12月に、長崎沖で米潜水艦の攻撃を受け魚雷2本が命中したが、なんとか佐世保港までたどり着くことができ、応急修理後に港内へそのまま繋留されている。「隼鷹」は敗戦時、沈まずに“浮かんで”いた唯一の空母だった。
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飛鷹(消火訓練).jpg

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 子どものころ艦船のプラモデルを作っていると、空母「大鳳」や「信濃」Click!には特別に強い印象を抱いた。それは、日本の空母にはめずらしくアイランド型の艦橋を採用しており、そこから突き出た煙突が飛行甲板へ排煙が流れるのを防ぐため、斜め26度で外側に倒れているからだ。それまでに設計された空母(改装空母含む)では、排煙は舷側に突き出たやや不格好な煙突から海面へ向けて排出されるよう設計されており、艦橋の上に煙突が突きだしている艦姿がめずらしかったからだ。そのテストケースとして、斜め煙突の設計が初めて採用・導入されたのが、橿原丸と出雲丸を改装し1942年(昭和17)に竣工した特設航空母艦「隼鷹」と「飛鷹」だった。
 同じアイランド型艦橋をもち、似た艦影をしていた正規空母「大鳳」がわずか魚雷1本で、巨大なバルジClick!を備えた「信濃」が魚雷4本で沈没したのに対し、船足も遅く薄い鋼板で造られた橿原丸の「隼鷹」が、攻撃を繰り返し受けながらも戦後まで生き残ったのは、ほとんど奇跡に近い。

◆写真上:1938年(昭和13)に描かれた、日本郵船の豪華客船「橿原丸」の完成予想図。
◆写真中上は、橿原丸の船内デザイン案で一等食堂()と一等入口広間()。は、わたしが子どものころまで残っていた旧・横須賀海軍工廠のガントリークレーン(1970年撮影)。
◆写真中下上左は、1945年(昭和20)の敗戦後に佐世保港で撮影された空母「隼鷹」。舷側を観察すると客船「橿原丸」のままで、できるだけ速度を上げるためか雷撃防御のバルジは装備されていない。上右は、翌1946年(昭和21)に撮影されたドックで解体を待つ「隼鷹」。は、1941年(昭和16)4月に海相より発令された特設空母「隼鷹」と「飛鷹」の乗組兵員数表(改正版)。
◆写真下上左は、1942年(昭和17)に竣工直後の空母「飛鷹」。艦体はいかにも客船のような姿で、正規ではなく特設空母のため艦首に菊の紋章が見えない。上右は、消火訓練中の「飛鷹」で艦橋から突きでた斜め26度の煙突が印象的だ。は、公文書館に残された「飛鷹」飛行隊の戦闘行動調書。1944年(昭和19)2月19日が最後の記録で、飛行隊がラバウルまで進出していたのがわかる。「飛鷹」は、わずか4ヶ月後の同年6月にマリアナ沖海戦に参加して撃沈された。

もう少しで消えそうな「もしもし」。

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大正の壁電話.jpg

 電話のあいさつ言葉である「もしもし」が、武家が使用していた(城)下町Click!旧・山手弁Click!の「申す申す」から転訛したものだ・・・という通説が、ずいぶん以前からもっともらしく語られてきた。これもまた、明治以降にどこかでつくられた付会ではないかと思う。そもそも、日本語で母音が大きく変化する、すなわち「申す」の「す(u)」の母音が「し(i)」に変わるというのは稀だという課題もあったりする。東京弁では、「おかえ(e)り」(山手言葉)と「おかい(i)り」(下町言葉)が混在するように「e」が「i」に変化する、あるいはその逆のケースは多いのだが・・・。
 いきなりの余談で恐縮なのだが、原日本語(アイヌ語に継承)では「u」から「o」「a」への転訛、あるいはその逆が見られる。「ウ・ス」(usu)、「オ・ソ」(oso)、「ア・ソ・(マ)」(aso-ma)は、いずれも活火山あるいは噴火を意味する原日本語(古・現アイヌ語)だけれど、母音の推移はその時代で語られる言葉によって、非常に特徴的な変化を見せている。
 さて、「申しあげる」「申しわけない」という言葉は、別に武家のみが使用した言葉ではなく、同様に(城)下町の町人たち(特に神田や日本橋などの商人たち)も、ふつうに使用していた表現だ。「もしもし」という呼びかけの言葉は、江戸期からつづく(城)下町言葉(一部は山手言葉)には存在しており、特に旧・山手言葉(武家言葉)に特化した言い方ではない。
 また、路上などで誰か知らない人に呼びかけるとき、江戸期の下町言葉では「もしもし」だが山手言葉ではもう少し武骨な「おいおい」が主流だったろう。電話が普及しはじめたのは山手の官吏が多く働く官公庁が早いのだろうが、1890年(明治23)に東京-横浜間で電話が初めて開通すると、しばらくして爆発的に普及していったのはビジネスの現場、すなわち東京市街地(下町)の商業・製造・金融街だった。そこでは当然、電話の向こうではどこの誰が電話口に出るかわからない状況(当時は交換台が仲介システムとして存在していた)なので、「こんにちは」でも「やあ」でも「よう」でもなく、不特定の相手へ呼びかける「もしもし」になったと思われるのだ。
 2012年(平成24)の『日本橋』11月号に、1875年(明治8)11月5日に発行された読売新聞からの引用がある。「明治の日本橋区/今月の事件簿」という、路上観察学者の林丈二が書いた記事だ。当時の読売新聞に設けられている、読者の声欄に寄せられた投書から引いたものだ。
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 モシモシ、子供ある親御たち、私はまことに見るごとに、冷やつこい汗が出ますから、どうぞ止めさせて下さいな。ほかでもない、子供衆が独楽当てをして遊ぶのは、まるで戦場(いくさば)のように東西に別れて双方から我劣らじと、鉄輪の独楽を打ち合いまするが、もし足にでも当たつてご覧なさい。じきにケガをするし、悪くすると生まれもつかぬ身体にになつて、おまけに人に笑われますから、よくよく諭して止めさせて下さい。実に剣呑(けんのん)だ。
  
 ここでの「モシモシ」は、読売新聞を読んでいる自分と同じ不特定多数の読者(子どもをもつ親)へ向けた、呼びかけ調子として用いられている。この「モシモシ」の町言葉の用法が、のちに電話口での呼びかけ用語として広く一般化していった様子がうかがわれる。著者の林丈二も、「また電話のない時代に、『モシモシ』と始めているのが面白い。こういう習慣がそのまま電話での話しかけに移行したことがわかる」と書き添えている。
 交換台があった時代、「もしもし、落合長崎局の〇〇〇〇番お願いします」という電話のかけ方だったのが、自動電話交換機(PBX)になって相手へじかにかけられるようになり、電話口へ誰が出るかわからない状況になると、「もしもし、こちら〇〇〇だけど、どなた?(どちらさま?)」あるいは「もしもし、〇〇〇さんのお宅ですか?」という呼びかけに変わっていく。
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 でも、携帯やスマホが普及し、デジタルPBXやVoIPサーバによる音声ネットワーク時代になると、あらかじめ電話口に出る相手がピンポイントで特定される、あるいは能動的に規定できるから、つながった当初に「もしもし」などという呼びかけの言葉は基本的に不要になっていく。固定IPアドレスがふられた端末同士なら、当人以外の誰かが出る可能性などほとんどゼロに近いので、ますます改まった呼びかけは不要だろう。「もしもし」は、むしろちゃんと相手に自分の声が聞こえているかどうか、話中の確認言葉へと移行しつつある。
 最近、携帯端末の電話に出ると、誰からの電話であるかは自明なので「もしもし」からはじまらず、いきなり用件からスタートするケースが急増している。一時期、「もっしー」Click!というちぢめた簡略形の呼びかけ言葉が流行ったけれど、いまではそれさえも省略されがちだ。電話口の「もしもし」用法は、単に相手への呼びかけ言葉という意味合いを超えて、どこか「こんにちは」とか「元気?」とか、挨拶の意味合いをも包含する言葉だったようにも思う。
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千疋屋マロンパフェ.jpg
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高野マロンパフェ.jpg

 先日、飯田橋で人待ちをしていたら、呂律が少し不自由なお年寄りから声をかけられた。「もしもし、九段下へ行きたいんですが・・・」と聞こえたので、東西線の地下鉄階段までご案内をしたのだが、もう少し若い世代だったら「もしもし」ではなく、「すみません」(山手言葉)あるいは「すいません」(下町言葉)と呼びかけられるところだろう。知らない他者へ呼びかける、おもに(城)下町でつかわれていた「もしもし」は、電話口ばかりでなく日常会話からも消えていきつつあるようだ。

◆写真上:大正期から普及しだした、壁掛け用の電話機。
◆写真中上は、日本橋の北詰め。は、日本橋から千代田城をはさんで眺めた新宿方面。
◆写真中下は、昭和30年代の黒電話。は、現在もかろうじて現役の昭和公衆電話。
◆写真下:記事とはなんの関係もない、日本橋・千疋屋()と新宿・タカノ()のマロンパフェClick!。これはハナからまったく勝負にならず、千疋屋のマロンパフェは次元が異なる圧倒的な美味しさで、タカノの「オシャレ」なパフェがこざかしくまた物足りなく感じた。

600万+230万人のみなさん、ありがとう。

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 少し前、わたしのブログを訪問してくださった方が、のべ600万人を超えた。地元の落合地域から、あるいはここ江戸東京地方からのみならず、全国各地や遠く海外からアクセスしてくださる方もいる。このブログとは異なるサーバへ、別のページとして起ち上げている「目白文化村」Click!「わたしの落合町誌」Click!など、一部の別ドメインへのアクセスカウントを加えると、ゆうに800万人を超えている。2004年の暮れ、東京は新宿区北部のまるで“離れ”のように引っこんだ、非常にローカルかつ局所的な地域をめぐる人々の物語をテーマに、「こんな記事、誰か読む人がいるのかな?」と個人的な嗜好の記録として、あるいは家族の地域アデンティティの形成用として、怖るおそるサイトを開設したときには、まったく想像だにしえなかった数字だ。
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 こののべ人数は、東京都市部(23区)の全人口に匹敵するボリュームだろうか?  あと1週間ほど、11月24日でスタートから丸8年が経過するのだが、この8年間に書いた記事、あるいは直近の3年間に書いた記事の「アクセスベスト10」を調べてみたくなった。
 余談だけれど、11月16日現在の「下落合みどりトラスト基金」Click!サイトへのアクセス数は46万人超、すでに保存が決定し役割りを終えた「中村彝アトリエ保存会」Click!サイトへのアクセス数は27万人超となっている。
  
 閑話休題
 きょうは、わたしが落合地域へ初めて足を踏み入れた、1974年(昭和49)の早春あたりの情景についてちょっと書いてみたい。1970年代半ばの落合地域は、いまとは比べものにならないほど緑がゆたかで、また落ち着いた家並みがつづく典型的な乃手Click!(旧山手ではなく、おもに大正期に山手線の内外に形成されたモダンな新山手)の風情をしていた。学校が近かったのと、のちに南長崎へ下宿Click!することになるので、落合地域のあちこちを歩きまわっていた。
 当時の風景を撮影しておかなかったのは残念きわまりないのだが、先日、新宿歴史博物館Click!の資料室へ立ち寄ったとき、1970年代に撮影された落合地域の風景写真を掲載した資料があったので、さっそくコピーさせていただいた。そこに写る街並みは、わたしが20代のときに目にしていた、忘れられない落合地域の風情だ。写真が掲載されていたのは、1978年(昭和53)に新宿区が出版した写真集『新宿区30年のあゆみ~ガレキの中から、30年のいま~』だ。
 目白崖線の上から眺める新宿西口には、いまだ京王プラザホテルに住友ビル、三井ビル、安田ビルの4本しかなかった時代だ。下落合の坂道を下れば、背の高いマンションなどほとんどなかったので、富士女子短期大学の時計塔Click!がひときわ空に突きでて見えていた。学校への行き帰りに落合地域を歩いたので、必然的に下落合(現・中落合・中井含む)の風景が脳裏に刻まれ、地形や土地勘とでもいうべきものが身についたのだが、上落合や西落合(旧・葛ヶ谷)は通学路から外れるためあまり歩いてはおらず、それが刻まれたのはもっと後年になってからのことだ。
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 同写真集に掲載された街角で、もっとも懐かしいのは近衛町Click!と神田川(と妙正寺川)、そして中井駅とその北側斜面(アビラ村Click!)に拡がる光景だろうか。近衛町コースは、権兵衛坂やオバケ坂のコースとともに、学校からの帰路に選ぶことが多く、日立目白クラブClick!の西側にある急階段を上り、尾根上に出てから北へと歩いて林泉園Click!の尾根道をたどりアパートまで帰っていた。当時の近衛町は、マンションではなく大邸宅が並ぶ丘上の住宅街で、1922年(大正11)に東京土地住宅Click!が開発した大谷石の築垣がそのままあちこちに残る、静かで落ち着いた典型的な乃手の住宅街だった。
 ときに中井駅へ出たのは、目白文化村を散歩しながら通学するときだ。山手通り沿いには高いビルがあまりなく、中井駅の高圧電線の鉄塔Click!が遠くからでも視認できた。山手通りを南へ向けて歩いていると、前方には中井駅の位置を教えてくれる高圧鉄塔が、ふり返れば東池袋にそそり立つサンシャイン60がよく見えた。同時に、当時はあちこちで開業していた銭湯の煙突から、午後になると排煙がもくもく空へ立ちのぼっていたのを憶えている。
 中井駅の北側、下落合西部(現・中井2丁目)を歩いたのはアルバイトが休みの土日が多かったように記憶している。重厚でひっそりとした近衛町とも、オシャレでハイカラな目白文化村とも異なる雰囲気の住宅街で、このブログをスタートしてからアビラ村Click!(芸術村)の経緯を知ったとき、初めてストンと街の成り立ちや“アイデンティティ”が腑に落ちる思いがした。70年代は、いまだ茅葺きの家々が残っており、中井御霊社Click!の拝殿屋根も茅葺きのままだった。
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 ひと口に落合地域といっても、その範囲は思いのほか広大であり、エリアによって多彩な表情を見せる、歩いても歩いても飽きないとても“楽しい”街だと思う。当時はほとんど散歩をしなかった西落合(特に三角形に突き出た北端部は当時、ほとんど足を踏み入れていなかった)は、昭和初期に碁盤状の三軒道路を含め整然と形成された美しい街であり、古い道筋をそのまま残す下落合や上落合ともまったく異なる風情を色濃く宿している。このように、落合地域はエリアによって実にさまざまな街の“匂い”を楽しめる、「一粒」で4つも5つも美味しい街だと感じるのだ。
 これらの街の風情や感触は、人々が住宅を建てはじめた当時から、大なり小なり形成されていたと思われ、換言すれば、そのような街々の“匂い”へ惹かれるように、このサイトに登場するさまざまな人々が各エリアに集い、落合地域ならではの物語を形成していったのだろう。そして、現在でも少なからず、それぞれの街にはそこで暮らした人々の多彩な物語や伝承とともに、その“匂い”をそこはか感じとることができるのだ。それは、いたるところ名所や旧蹟だらけなのにもかかわらず、その“匂い”の大半が失われてしまった(城)下町とは大きなちがいだ。
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 落合第四小学校が、2002年(平成14)に開校70年を記念して、同校を中心に下落合の東端部の空撮を行なっている。この写真は、“下敷き”にして生徒たちに配られたものだが、わたしが初めて落合地域に足を踏み入れた1974年(昭和49)の空中写真と比較すると、緑の減少がいちじるしい。1974年の空中写真は、真冬に撮影されているため一見、2002年の写真ほうが緑が多い印象を受けるのだけれど、落合地域の緑の減少率は新宿区の街々では群を抜いてワースト記録を更新しつづけている。「タヌキの森」Click!の課題もそうだが、ほんの少しでも70年代に眺めた、緑ゆたかで落ち着いた下落合の美しい街並みへもどってくれたら・・・と願わずにはいられない。

◆写真上:柿が実った晩秋の、いかにも下落合風景らしい風情。
◆写真中上:いずれも、新宿区が1978年(昭和53)に出版した写真集『新宿区30年のあゆみ』より。は、神田川と妙正寺川の合流地点()と田島橋の少し下流()。田島橋の向こうには富士短期大学の時計塔が見え、また右手にはすでに三越マンションが建設されている。は、懐かしい風情の近衛町()と目白崖線から眺めた中井1丁目から高田馬場駅方面の眺め()。
◆写真中下は、山手通りの陸橋から眺めた中井駅()と斜面に拡がるアビラ村(芸術村)の街並み()。は、同じく陸橋から眺めた中井駅踏切り()と上落合2丁目の街並み()。
◆写真下は、1974年(昭和49)の空中写真にみる山手線が近い旧・下落合の東端部の街並み。は、落合第四小学校の開校70周年を記念して撮影された同じ地域の空中写真。

アクセスランキングにみる記事ベスト10。

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 2004年11月にこのブログをスタートして以来、アクセスが多い記事にはどのようなものがあるか、丸8年が経過したいま興味がわいたので調べてみた。期間は2004年11月24日から、2012年11月11日までのほぼ8年間にわたって掲載した、1,434の記事が対象だ。もっとも、過去の記事になればなるほど、アクセス数が多いのは自明なので、ここ3年弱のベスト10の記事もついでに調べてみる。結果は、以下のとおりだ。(カッコ内は11月11日現在のアクセスカウント)
◆総合ランキング(2004年11月24日~2012年11月11日)
 総合1位:下落合が気になったわけ。 (34,012人)
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 これは、下落合を舞台にしたドラマ『さよなら・今日は』に関する初出の記事で、いまや記事のコメント欄が情報交換のボードのようになっており、コメント数もゆうに350を超えている。NTV関係者の方、あるいは映像ソフトの企画部門の方がご覧なら、2,000セットほどの限定販売(30,000円超の価格だろうか)で、十分に採算が合いそうな数字の感触では?
 総合2位:特報! タヌキの森裁判が全面勝訴。 (20,503人)
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 総合3位:さようなら、パンの「神田精養軒」。 (18,016人)
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 総合4位:ご近所でしたら、いつでもどうぞ。 (16,206人)
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 総合5位:本郷の岩崎美喜と、大磯の澤田美喜。 (14,898人)
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 総合6位:「荻外荘」で“近衛の桜”を拝見。 (12,353人)
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 総合7位:住民に罵声をあびせる「説明会」とは何事だ? (12.227人)
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 総合8位:高橋お伝の弁護をしよう。 (12,129人)
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 総合9位:劉生日記にみる関東大震災の予兆。 (10,774人)
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 総合10位:ページ全段が不倫騒動の朝日新聞。 (10,659人)
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◆次点
 総合11位:ネコ好き歌好きキレイ好きの九条武子。 (10,128人)
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 総合12位:B29が目白に墜ちてきた。 (10,373人)
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 「タヌキの森」は、他の記事も含めてアクセス数が多いテーマだ。また、下落合から「神田精養軒」がなくなってしまったことは、この地域に限らず東京全域にお住まいのみなさんが、相当ガッカリされている様子がうかがわれる。ミツワ石鹸も復活していることだし、1日でも早い事業再開で美味しいパンを再びとどけてほしい。高いアクセス数で意外なのが、大磯の澤田美喜に関する記事だ。上掲の記事に限らず、大磯に関する記事は人気が高い。
 もうひとつ意外なのは、下落合やその周辺域に住んでいた旧・華族について書いた記事へのアクセスが案外多いことだ。特に、九条武子に関する記事への関心は高く、彼女のどこにそれほど魅力があるのか、わたしにはよくわからない現象のひとつ。また、江戸期の(城)下町のエピソードに関する記事も、コンスタントにビジターを集めている。
 総合ランキングでベスト10入りした画家は、3.11の前日に震災がらみで書いた岸田劉生についてだった。この記事は、東日本大震災の直前に書き、3月11日をはさみ12日まで更新しつづけている。さて、8年間の記事すべてが対象では、古い記事の閲覧数が多いのはあたりまえなので、ここ3年弱の記事にしぼってランキングを調べると、どのような傾向が見えてくるだろうか?
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◆過去3年間ランキング(2010年1月2日~2012年11月11日)
 短期1位:補助73号線のために中央図書館がどく? (6,693人)
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 おそらく、計画道路沿い(池袋・上屋敷・目白・下落合・上戸塚)の住民のみなさんが、強い危機感を抱いてアクセスされていると思われる。補助73号線に関する記事は、ほかにもいくつか書いているが、いずれも高いアクセス数をしめし、この問題についての関心の高さがうかがわれる。
 短期2位:前代未聞の「佐伯祐三」展。 (6,331人)
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 短期3位:「荻外荘」の応接室を拝見する。 (5,369人)
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 短期4位:目白にあった八甲田の雪中行軍写真。 (4,703人)
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 短期5位:旧・陸軍東京第一衛戍病院へ入院しよう。 (4,288人)
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 短期6位:愛しさ怖さガブのみ写真集。 (3,675人)
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 短期7位:午前7時の九条武子。 (3,568人)
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 短期8位:不可解な諏訪通りガードのトンネル工事。 (3,455人)
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 短期9位:「標準語」は東京弁じゃないってば。 (3,169人)
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 短期10位:佐多稲子のルポ・戸山アパート1953年。 (3,157人)
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◆次点
 短期11位:江戸の製法そのままのゴマ油。 (3,153人)
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 短期12位:一世を風靡した蕗谷虹児の少女たち。 (3,115人)
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 最近の記事でみると、旧・陸軍の施設が林立していた戸山ヶ原関連のテーマがよく読まれているのがわかる。もっとも、わたしが集中的に取り上げたせいもあるのだけれど・・・。画家では、佐伯祐三と蕗谷虹児がランクインしている。文楽のガブが6位に入っているのは、きっとなにか別の写真集と勘ちがいしたアクセスが多いのではなかろうか?w
 ここでも、九条武子は強い。また、記事全体を通じて言えるのは、戦争に関連した記事の閲覧数が多いことだ。おそらく目白・落合地域をはじめ、戦争を同時代に体験した東京の方々からのアクセスが多いのではないだろうか。小野田製油所のゴマ油のランクインは、きっと混じり気のないピュアな美味しさから全国的に人気が高いせいだろう。ちなみに、わたしも昔から愛用しているし、下落合ならではの物産をご紹介したまでで、広告宣伝費はもらっていません。念のため。
 このほか、佐伯祐三に関する記事はコンスタントに読まれ、また福島第一原発の事故以降は貝原浩とチェルノブイリ関連の記事へのアクセスが急増しているのが目立っている。(城)下町のテーマでは、わたしの故郷である日本橋界隈を紹介した記事への訪問者が多いようだ。

どんな役でも演ってやろうの佐々木孝丸。

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 佐々木孝丸ほど、舞台や映画での役柄と、その思想性とが乖離していた人物はいないだろう。映画やTVなどを例にとれば、「越後屋」的な悪徳商人や経営者、腐敗した官僚、硬直化した企業の重役、いわくありげなフィクサー・黒幕・暴力団組長など枚挙にいとまがない。
 わたしが印象に残る映画作品には、小学生時代になぜか文部省・教育委員会推薦の巡回作品として体育館で上映された、『戦艦大和』(阿部豊監督/1953年)の有賀艦長役と、最近DVDで観た『ゼロの焦点』(野村芳太郎監督/1961年)におけるヒロインの夫の上司、結婚式でしかつめらしい祝辞を述べる博報社wの重役だろうか。いつも、「この人にはなにを言ってもムダ」・・・というような、ゴリゴリに固まった組織内の頑固な現状肯定・保守主義者(ときに教条主義的な狂信者)のような役どころばかりなのだが、佐々木孝丸Click!が戦前戦後を通じて、あちこちの争議現場で唄われた「♪起て~飢えたる者~よ、いま~ぞ日は近し~」の、『インターナショナル』の元祖・訳詞者なのは案外知られていない。フランスの詩人アルベール・ポティエの作品を佐々木が訳し、1922年(大正11)に代々木にあった農家の藪で唄われたのが最初だったようだ。このあと、1929年(昭和3)に佐野碩とともに再度、歌詞のブラシュアップが行なわれている。
 わたしは、残念ながら舞台上の佐々木孝丸の姿は観たことがなかったと思う。滝沢修の舞台は、何度か親父に連れられて観ているので、もしそこで共演していたら“観た”ということになるのだが記憶にない。この人の仕事は、むしろ脚本家あるいは演出家としての業績のほうがはるかに大きいのかもしれないのだが、わたしの世代では、そのような印象はまったく形成されていない。むしろ、森繁久彌Click!へ代替わりする前の、日本俳優連合の理事長としての記憶のほうが鮮やかだ。わたしの学生時代には、すでにあまり活躍をしていなかったのではないか。
 余談だけれど、先年ネットで放映された連続スリラードラマ『恐怖のミイラ』(1961年)で、わけのわからない考古学博士役に佐々木孝丸が出演していて仰天してしまった。もう、この人はまったく役柄を選ばず、「面白い!」あるいは「そろそろ暮らしに困るなぁ」と思ったら、なんでも引き受けてホイホイ出てしまう気さくな性格だったように思える。映画『月光仮面』(1958年)では、「どくろ仮面」を楽しそうに演っていたらしい。わたしの世代では、『マグマ大使』の“ゴア様”を滝沢修か宇野重吉、芥川比呂志が演じているような感覚なのだが・・・。
 1917年(大正6)に東京へやってきてから、佐々木孝丸はなにかと目白・落合地域や新宿地域とのつながりが濃い。転がりこんだ芝園橋近くにある友人の下宿から、徒歩で最初に訪問したのが目白駅の北側、山手線沿いにあった雑司ヶ谷字大原の「大日本文学会」だった。翌年、エスペランティストの秋田雨雀Click!を頻繁に訪問できるよう、佐々木は雑司ヶ谷鬼子母神Click!近くへ引っ越してきている。近くの目白台には、のちに前衛座の舞台をともにする花柳はるみも住んでいる。
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 1920年(大正9)には、新宿中村屋Click!の2階を借りて創作戯曲の朗読会「土の会」を開催した。この会には、秋田雨雀に佐々木孝丸、相馬黒光Click!相馬千香Click!(当時は自由学園の生徒)、神近市子Click!水谷八重子(初代)Click!、そしてワシリー・エロシェンコClick!などが参加している。「土の会」は、のちに中村屋の「土蔵劇場」へと発展していき、演劇界ばかりでなく文学界からも島崎藤村Click!や有島武郎らが集まるようになった。関東大震災Click!で倒壊してしまう「土蔵劇場」で、舞台装置のすべてを担当していたのが画家の柳瀬正夢Click!だった。
 佐々木孝丸は、1927年(昭和2)11月に月見岡八幡社Click!(移転前)の北側、上落合215番地の大きな家へと引っ越してくる。広い家を選んだのは、前衛芸術家同盟(前芸)の事務所と稽古場とを兼ねていたからで、佐々木は家族とともにこの屋敷で暮らしていた。のちに、中野重治・原泉Click!夫妻が越してくる上落合481番地の家から、わずか40mほど東寄りの位置だ。
 屋敷の事務所や稽古場には、林房雄Click!をはじめ村山知義、藤森成吉、蔵原惟人Click!、中野正人、川口浩、山田清三郎、柳瀬正夢、河原崎しづえ、杉本良吉、藤枝丈夫などが出入りし、当時における最先端の演劇拠点のひとつとなっていた。ここでの様子について、1959年(昭和34)に出版された、佐々木孝丸『風雪新劇志―わが半生の記―』(現代社)から引用してみよう。
  
 私は、またもや高円寺を引き払つて、上落合へ移り、そこを前衛座の事務所にした。そして、脱退組は即日この新事務所に集り、新たに「前衛芸術家同盟」(略称「前芸」)を結成した。/例によつて例のごとく、双方からの「声明」戦や「宣言」戦が行われ、「大義名分」をふりかざしての正面きつた主張の反面、醜い個人的な中傷や漫罵の泥仕合もくりかえされた。前芸は機関誌として「前衛」を発刊することになつた。ところで、又しても前衛座の争奪戦だ。
  
 ・・・と、佐々木孝丸は繰り返す“セクト主義”と、劇団の分裂(争奪)騒ぎの渦中にいた。
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 翌1928年(昭和3)5月、佐々木孝丸がとある大衆食堂で昼食にライスカレーを食べながら打ち合わせ中、「深夜泥酔して高歌放吟し、路上に於て婦女にたわむれ」た現行犯を理由に検挙されると(もちろん特高Click!によるデッチ上げだ)、残された家族は近くの村山知義Click!(上落合186番地)に相談して、上落合189番地に新しい家を借りている。ちょうど、月見岡八幡社(移転前)の南側、三角アトリエClick!から東へほぼ30mほど、ほとんど並び隣りといってもいい位置だ。
  
 留守中に、私の家はまた引つ越していた。プロ芸・前芸の合同(「ナップ」Click!のこと)によつて、事務所も稽古場も淀橋へ移つたので、それまでいた家が広過ぎるし、第一私個人では家賃を払いきれないので、今度は上落合の村山知義のマヴォー的な怪奇な様相をした三角形の家のすぐそばに、こじんまりとした二階建ての貸家を見付けてそれへ引き移つたのだ。私の市ヶ谷(刑務所)滞在中に、妻が、山田清三郎夫妻と相談して、そこにきめたのであつた。前衛座以来、私の家は常に、団体の本部と稽古場と私邸とを兼ねていたのだが、一年半ぶりで、自分たち家族だけの住居をもつことになつたわけであつた。(カッコ内は引用者註)
  
 その後、地下に潜った「党」からの理不尽な要求や、つまらない政治論に終始するアジ・プロ的な「演劇」論、繰り返される人間関係のゴタゴタなどに心底嫌気がさし、自身が「ダラ幹」だと糾弾され「村八分」になったのを機会に、佐々木孝丸はすべてのポストを辞めて、逃げだすように一俳優にもどった。左翼演劇から距離を置くようになっていたため、佐々木はなんとか検挙をまぬがれていたが、1940年(昭和15)に彼は「自由主義者」として改めて特高に逮捕されている。この時期、佐々木孝丸は滝沢修、小沢栄太郎、宇野重吉、松下達夫、嵯峨善兵、東野英治郎(当時は本庄克二)、松本克平などといっしょに仕事をしていた。
 戦後の昭和30年代、地方へ映画ロケに出かけた佐々木孝丸は、待ち時間にブラブラしていたら草原でコーラスを唄う、異様に明るい若者たちに「おじさんも、一緒に唄おうよ!」と腕を引かれた。おそらく、日本共産党による“六全協”直後だったのだろう、「歌声運動」の若者たちが自分の作詞した『インターナショナル』を唄いはじめたので、佐々木はほうほうの体で逃げだしている。
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 昭和初期の演劇運動史を追いかけていると、わたしが山歩きの帰りに必ず立ち寄る、大磯Click!の裏山にある記念公園の主にいきあたる。佐々木孝丸とも劇作や演出面で親しく、湘南の海を眺めるのが大好きだった高田保に直結するのだが、それはまた、別の物語・・・。

◆写真上:村山知義アトリエの東並びにあった、上落合189番地の佐々木孝丸邸跡の現状。
◆写真中上は、警官隊に催涙弾を投げられて急に弱る恐怖のミイラは、「やっぱり肺呼吸してると考えなければいけません、板野博士」。東京の閑静な住宅街で、「ミイラがいたぞー!」と叫ぶ警官はシュールで楽しい。は、1961年(昭和36)の『ゼロの焦点』の博報社重役より。
◆写真中下は、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる佐々木孝丸邸の移動。は、1936年(昭和11)の空中写真で上落合215番地には大きな屋敷が見えている。
◆写真下は、1957年(昭和32)10月24日に撮影された佐々木孝丸(撮影:滝沢修)。は、現在の月見岡八幡社の斜向かいにあたる、上落合215番地の佐々木孝丸邸+前衛芸術家同盟(「前芸」)の事務所兼稽古場の跡。当時の大谷石の築垣が、いまだあちこちに残る。

昭和初期の散策・ハイキングブーム到来。

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 昭和初期に、東京郊外を散策するちょっとしたブームが起きた。それは、いつか黒田初子Click!のところで書いた東京郊外(この時期の「郊外」はさらに外周域へと拡大していた)の山歩きハイキングClick!だったり、景観地や温泉地、名所などをめぐる“小さな旅”のような、ちょっとした手近で気軽な観光だった。そのためのサークルやクラブが、東京の街中にもいくつかできている。このようなブームが起きたのは、東京郊外に新興住宅街が増え、同時に、さらに外周域へと走る電車や乗合自動車の交通網が急速に整備されたからだ。
 先日、親父の書籍を整理したら、東京市大森区馬込町東2丁目1099番地に結成された、「旅の趣味会」の機関誌「旅の趣味」と、同編集部が1937年(昭和12)に発行した『東京探墓案内』が出てきた。年会費が50銭で、機関誌「旅の趣味」を毎月とどけてくれる、同好会的なゆるい組織だったようだが、機関誌および発行物ともにガリ版刷りの簡易なものだ。機関誌の用紙は薄く、まるで昔の花紙のような粗末な紙に印刷されている。
 また、出版されている本類もわら半紙にガリ版刷りで、昔ながらの和綴じの仕様をしている。価格も、送料込みで1円50銭とわりあい安価だ。いかにも、仲間うちでこしらえた手づくりの資料という感触がし、書店では手に入らないマニアックな情報誌となっている。
 昭和に入ると、東京郊外や関東各地への行楽が、一部の特権階級やおカネ持ちの趣味だけでなく、庶民の楽しみにまで普及しだしたことを示している。大正期は、いまだ郊外の行楽地や別荘地へと出かけるのは、華族を中心とする「上流階級」か、あるいはごく少数の資産家のみに限られていたのが、昭和に入ると大量に生まれたいわゆるサラリーマン層の形成とともに、「中流階級」と呼ばれた一般市民の間にも趣味が浸透してきたのがわかる。
 機関誌「旅の趣味」の誌面から、同会の結成の経緯やコンセプトの文章を引用してみよう。
  
 「旅の趣味会」は毎月会報を発行し登山、ハイキング、温泉遊覧、ドライブ、見学、集会、出版等を催し趣味道に精進しております。会費一ヶ年五拾銭。振替東京四二四四四番「旅の趣味会」宛送付のこと。/誰人でも御旅行の場合には本会に特別の連絡のある機関を利用し、コース、旅館、費用其の他一切プランを無料で斡旋に応じますれば御照会を乞ふ。御報あれば参上して委細御相談に応じます。/旅の趣味会の行事は(ママ)集合目標はT・S・Kのバツヂによれば御購入を乞ふ。一個送料共金七拾銭/貴下の御尽力により一人でも我等の新しき同志の加名(ママ)を是非共御勧誘下さいまし
  
 注目すべきは、昭和10年代ともなると「ドライブ」が行楽の中に登場している点だ。おカネをがんばって貯めれば、一般市民でも自家用車が手に入る時代になりつつあった。
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 「旅の趣味」に掲載されている記事は、近々催される郊外旅行やハイキングなどの案内や、前回の催しに対する参加者の感想が多いのだが、中には郊外の住宅分譲地の案内までが載っている。たとえば、1938年(昭和13)9月1日に発行された「旅の趣味」43号では、板橋区(ママ:おそらく練馬区の誤りだろう)の武蔵野電車(武蔵野鉄道Click!=現・西武池袋線)桜台駅近くの不動産物件が紹介されている。駅からほど近く、坪単価が16円で330坪と土地もかなり広く、住宅にも商店にも向く物件として紹介されている。
 また、観光地の記念品や物品の販売も行なわれていたようで、同誌43号には「事変一週(ママ)年駅弁・二〇銭」と「事変一週(ママ)年エハガキ(陸軍省発行)・三〇銭」などと書かれている。「事変」とは1937年(昭和12)に起きた日中全面戦争(日華事変)のことだが、その1周年に発売された記念弁当を販売していた・・・とはとうてい思えない。当時の物流環境では、注文宅へ配達する前に中身が腐ってしまっただろう。おそらく、弁当の包み紙を頒布していたと思われ、当時から各地の駅弁に使われていたパッケージを集めるコレクターがいたのだろう。
 機関誌「旅の趣味」に掲載された散策へ、会員ならいつでも自由に参加できた。会員には専用のバッチが配布され、そのバッチを胸につけて催事の集合場所へ出かけていくのだ。もちろん、交通費も食費(弁当)も参加者の各自負担だった。
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湘南道路1937_2.JPG
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湘南道路1937_3.JPG

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江ノ島1934.jpg

 同誌が発行されていたころ、親父はまだ千代田小学校Click!へ通学していた時分で、「旅の趣味」の会員になっていたとはとても思えない。おそらく、祖父母が同会の会員になっていて、東京ばかりでなく関東各地の“小さな旅”を楽しんでいたと思われる。ひょっとすると、その物見遊山に親父も参加しているのかもしれない。なぜ親父が、このような資料を保存していたのかといえば、おそらく同会が発行する『東京探墓案内』に惹かれたからだろう。
 『東京探墓案内』は、東京35区とその外周域に存在している、江戸期からの著名人たちの墓を総合索引付きで細かく網羅した、当時でもめずらしい書籍だ。1937年(昭和12)現在の墓と、所在地である寺院が紹介されているのだが、墓は早々に引っ越さないので親父はのちのちまで活用していたのだろう。わたしも同書で、いろいろとめずらしい情報を知ることができたのだが、中にはすでに改葬されて、記録されている当時の寺には存在しない墓もある。
 たとえば、落合地域の周辺でいうと1937年(昭和12)現在、南町奉行だった大岡越前守忠相Click!の墓は上落合にある落合斎場Click!の西側、上高田の功運寺Click!にあることになっているが、戦後の1960年代の初めに子孫が茅ヶ崎市堤の菩提寺・浄見寺へと改装してしまっている。同書を読んだ当初、功運寺で大岡の墓を見落としたものかと、もう一度出かけそうになった。
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大東京史蹟名勝地誌1936.jpg
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地人社出版目録1936.jpg

 「旅の趣味会」が、大森区馬込Click!に結成されたのも興味深い。大正期まで、大森は海岸の海水浴場とともに別荘地として拓けた土地柄だが、昭和期に入ると郊外住宅地として急速に開発され、いわゆる「中流階級」の住宅が建設されつづけることになる。おそらく、当初はそんな大森の住宅街で形成された散歩クラブかサークルが徐々に大きくなり、昭和10年代に入ると東京市全域をカバーする郊外散歩や、ハイキングを中心とする趣味の会へと発展していったものだろう。

◆写真上:1937年(昭和12)に撮影された、自家用車の広告用カラーフィルム。湘南のユーホー道路(湘南道路=国道134号線)でロケが行われ、遠景に高麗山と湘南平(千畳敷山)が見える。
◆写真中上は、1938年(昭和13)発行の「旅の趣味」第43号の表1と2ページで、ガリ版2色刷りなのがめずらしい。下左は、1937年(昭和12)に出版された佐々木庄蔵『東京探墓案内』の表紙。下右は、旅の趣味会が出した本の出版目録(1938年現在)。
◆写真中下は、冒頭写真と同じく1937年(昭和12)に撮影された広告カラーフィルムの1シーン。は、江戸後期の物見遊山でも超人気スポットだった江ノ島(1934年撮影)。
◆写真下は、小旅行・ハイキングブームの中で1936年(昭和11)に地人社から出版された『大東京史蹟名勝地誌』の表紙。は、ブームを背景にした地人社の出版目録(1936年現在)。

上落合から六番町への大熊喜邦。

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大熊友右衛門邸跡.JPG

 先に、1944年(昭和19)ごろに作成されたとみられる、防護団の落合第二分団名簿Click!をある方からいただいたが、その中に上落合1丁目443番地に「大熊友右衛門」という名前を見つけていた。もちろん、国会議事堂Click!の設計にたずさわった大熊喜邦Click!が一時期住んでいた場所を探していたので大熊姓には敏感になっていた。大熊喜邦は、おそらく昭和初期に麹町区へと引っ越しているが、その実家ないしは姻戚の家が上落合に残っていた可能性がある。
 わたしは、吉武東里Click!の子女でありいまもご健在の靄子様が、庭で採れた「落合柿」を近所に住む大熊喜邦Click!の家へとどけていたという証言を、長谷川香様Click!を通じてうかがっていたので、当時は落合第二小学校Click!(現・落合第五小学校の位置)へ通っていた小学生が、重たい柿を入れた包みを抱えながら出かけられる場所、すなわち吉武東里邸Click!から半径200m以内に大熊邸があったと想定していた。上落合1丁目443番地の大熊友右衛門邸は、上落合1丁目470番地の吉武邸から北へ50m足らずのところにあって、上記の条件に合致する。
 防護団名簿の警護班項目にある大熊友右衛門邸は、古川ロッパ邸Click!のすぐ北東側(現・上落合公園に隣接)で、鈴木文四郎邸の斜向かいにあたる家だ。小学生の幼い女の子をひとりで行かせても、往復に10分とかからない安心してお遣いに出せる、きわめて近所の家ということになる。吉武邸の西側にある接道へ出てから、北東へとカーブする道筋を20mほど歩けば、おそらく上落合1丁目443番地の大熊邸の屋根はすぐそこに見えていただろう。
 念のために、いまの住民明細地図を取り出して確認してみたところ、大熊様は現在でもそのままお住まいで、当主のお名前に「喜」の字がつけられていることも知った。さっそく、上落合へ日曜日にお訪ねしてみたのだが、主婦らしい方から「大熊友右衛門なんて人は知らない」といわれてしまった。おそらく、なにかのまちがいだろう。1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲Click!の被害についてお訊ねしても、まったくご存じではないようだった。
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防護団落合第二分団1.jpg
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 現存する大熊家から、防護団名簿に名前の載る同地番の「大熊友右衛門」さんのことをご教示いただけそうもないので、そちらからの直接取材をあきらめ、大熊喜邦関連の資料から名前をたどるしかなさそうだ。大熊家は、江戸時代に旗本をつとめていた家柄で、大熊喜邦が(もちろん親兄弟ないしは親戚もいっしょだったかもしれないが)上落合へ引っ越してきたのは、おそらく吉武東里が邸を建設する1920~1921年(大正9~10)ごろのことだったと思われる。
 それ以前の上落合は、妙正寺川に架かる寺斉橋Click!とその周辺に家並みClick!が見られるだけで、1921年(大正10)に吉武東里邸が竣工する、妙正寺川へと下る北向き斜面は一面、麦などの畑地Click!だった。同地周辺に家々の姿が見られるようになるのは、おそらく畑の地主が宅地造成をスタートしたとみられる大正中期以降のことだ。したがって、大熊喜邦が吉武邸の近くに越してきたものか、逆に大熊が住んでいたので吉武東里が近くに家を建てたものか、あるいは両人が相談してほとんど同時に住んだものか、その経緯は定かではないのだけれど、少なくともふたりが下落合2095番地の島津源吉邸Click!の設計をコラボレーションで手がける1920~1921年(大正9~10)の時期には、吉武東里だけでなく大熊喜邦も上落合にいたと思われるのだ。
 さて、なぜ大熊喜邦は上落合から、麹町区六番町へと引っ越しているのだろうか? 江戸末期の旗本・大熊家は、1858年(安政5)に発行された尾張屋清七版の江戸切絵図「東都番町絵図」(再版)によれば、裏六番町通りの南側に位置した角地に屋敷をかまえている。
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火保図1938.jpg

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吉武邸への道.JPG

 明治維新からしばらくすると、幕臣だった大熊家はおそらく土地家屋を明治政府に没収され、住みなれた屋敷からの立ち退きを命じられているだろう。明治後期には、住所表記が麹町区下六番町4番地と変更され、軍人で華族の小澤武雄邸、あるいは実業家の有島武邸の敷地の一部になっている。ちなみに、有島武の息子が小説家の有島武郎や里見弴、画家の有島生馬Click!だ。
 幕末に住んでいた当主の名前は、尾張屋清七の切絵図によれば「大熊鐸之助」という旗本だが、この人物が大熊喜邦の祖父にあたる人物だ。大熊鐸之助は、幕末に和宮付広敷番之頭をつとめた旗本であり、その役目の装束が江戸東京博物館に収蔵されている。大熊鐸之助の子息が大熊喜知であり、そのまた息子が大熊喜邦だ。
 もともと自邸が建っていた土地で、自身が生まれた屋敷でもあるので、大熊喜邦は当該の敷地を改めて買いもどしているとみられ、上落合から麹町区下六番町(現・千代田区六番町1番地)へと転居したときには、まさに幕末に大熊鐸之助の屋敷があった裏六番町通りの角の敷地、または同一の区画内にある近接した土地を入手して、新たな自邸を建設している。つまり、上落合へ住んでいたのは、彼にとっては最初から一時的な生活として位置づけられており、いずれは自身が生まれた故郷の地である、麹町区下六番町へもどるつもりでいた・・・ということなのだろう。
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東都番町絵図1858.JPG
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 大熊喜邦が上落合で暮らしていたとき、祖父・大熊鐸之助の兄弟、あるいは父・大熊喜知の兄弟、姻戚の人々ははたしてどこで暮らしていたのだろうか? そして、大熊喜邦とかなり年上のように思われる大熊友右衛門とは、なんらかの関係があったのだろうか。もし関係があるとすれば、大熊鐸之助と大熊友右衛門とはどのような関係だったものだろう? 大熊喜邦の資料に少しずつあたりながら、これからもぜひ追いかけていきたいテーマだ。

◆写真上:上落合1丁目443~44番地界隈の現状で、大熊友右衛門邸跡は左手の一画。
◆写真中上:1944年(昭和19)ごろに作成されたとみられる、「淀橋区防護団・落合第二分団名簿」の表紙()と、大熊友右衛門の名前が掲載された警護班のページ()。
◆写真中下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる吉武東里邸(上落合1丁目470番地)と、50mほど離れた大熊友右衛門邸(上落合1丁目443番地)の位置関係。下左は、いまでは公園となっている上落合1丁目444番地。下右は、同公園前から吉武邸の方角を眺めたところ。
◆写真下は、1858年(安政5)に発行された尾張屋清七版の江戸切絵図「東都番町絵図」(再版)にみる六番町の旗本・大熊鐸之助邸。は、大熊鐸之助の孫にあたる大熊喜邦。


使われなくなった昆虫自動販売機。

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 子どものころ、夏休みの自由研究のテーマに困ると、よく昆虫採集でお茶をにごしたものだ。1960年代の神奈川県の海辺Click!は、ありとあらゆる虫たちの宝庫で、虫網をもって外出するとほんの1時間ほどで虫籠いっぱいのトンボやセミ、チョウ、バッタなどが捕まえられた。
 中でも好きだったのが、種類ごとに捕まえる技術やノウハウが異なるトンボだった。子どもたちは、トンボの種類ごとに捕まえ方をいろいろ工夫してスキルを磨いたものだ。海岸近くの原っぱや林にいたのは、ギンヤンマをはじめカトリヤンマ、ウスバキトンボ、シオカラトンボ、ムギワラトンボ(シオカラトンボ♀)、ナツアカネ、ミヤマアカネ、コシアキトンボ、ホソアカトンボ、アキアカネ・・・。そして、どうしてもオニヤンマが捕まえたくなると、清流のある近くの大磯丘陵Click!へ出かけていっては、河原で待ち伏せをしていた。オニヤンマは、なかなか海の近くにはやってこないので、森の中に小川が流れているような場所まで出かけなければならなかった。
 採集した虫たちは、保存液を注射したあとピンで刺しバフィン紙などで羽を押さえてかたちを整え、しばらくの期間“乾燥”させることになる。この間、虫たちはわたしの部屋からあふれて、家じゅうの風通しのよい場所へあちこち置かれるため、母親はずいぶん気味の悪い思いをしたのではないだろうか。ただ、わたしの母親は根がおてんばだから、虫を毛嫌いするタイプではなかったが。やがて、虫たちの肢体が固まると、背広の空き箱などにコルク地を敷いてつくった即席の採集箱へ、1匹ずつピンでとめながらネームシールを貼っていく。母親も気が向くと、ときどき虫たちの標本をもちながらネーム貼りを手伝ってくれた。
 こうして、自由研究をなんとかクリアし学校へ採集箱をもっていくと、同じクラスの女子Kがとんでもなく美しい採集箱を抱えて登校していた。まるで、現代の東急ハンズかなにかで入手したような、横にスライドするガラス張りのコルクケースに、湘南の海岸べりなどでは絶対に採れない、めずらしいチョウやトンボの標本がズラリと並んでいる。シオカラトンボとかオニヤンマとかが並んだ、わたしの研究などみすぼらしくて児戯に等しく(児戯なのだが)、プロの標本家がこしらえたような見事な出来だった。よく見ると、ネームも和名と同時に学名までが入れられているではないか。呆気にとられているわたしに、「ありゃ、きっと東京のデパートで買ったんだべ」と友人が囁いた。
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 当時、緑の減少と殺虫剤の普及、大気・水質汚染など生活環境の悪化から、東京にいた昆虫は一気に激減していた。そこで、夏になるとデパートでは、秋の虫聞きの季節でもないのに虫を売っていたわけだけれど、わたしは「ウソだ、なにかの冗談だろう」と信じなかったのだが、TVのニュースを見るかぎりほんとうだった。そこらに、佃煮にするほどウジャウジャいる虫たちを捕まえ、湘南電車で1時間ちょっとの東京へ売りにいけば、電車賃を差し引いてもかなりの額の小遣いが稼げるじゃないか・・・と、子どもながら真剣に考えたものだ。
 近所にいるミンミンゼミやギンヤンマなどでは、とても女子Kに太刀打ちできないと悟ったわたしは、翌年、夏になると避暑がてら遊びに出かける箱根で、高原特有の昆虫採集をやってやろうと企てた。箱根には、平地には見られないめずらしい昆虫たちがたくさんいる。単なるシオカラトンボではなくオオシオカラトンボ、ナツアカネではなくホンサナエ、カナブンなんかじゃなくオオルリハムシだっているんだからね~・・・と、一所懸命に採集して標本をつくり学校へ持っていった。さて、夏休み明けに勇んで採集箱をもっていくと、女子Kときたら、・・・海外の昆虫だと? 「負けたべ」と友だちにポツンといわれ、すごすごと目立たない位置に採集箱を置いて、下校するわたしだった。
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 先日、「不便でゴメン!!」と入り口の幟であらかじめ謝罪wする板橋区立美術館Click!へ出かけたとき、ロビーでびっくりするようなものを見つけた。飲み物を買おうとしたら、なんと昆虫の自動販売機が置いてあるのだ。よく見ると、電源が入っていないのかランプが消えているので、もはや使われていないのだろう。これは、いつごろ設置されたものなのだろうか? まさか、1970年代でもあるまい。中には、めずらしいカブトムシやカミキリムシなどの標本が、円筒形のガラスケースに収められ、かつて実際に販売されていたようだ。価格が入っていないので不明だけれど、生きていない標本とはいえ500円とか、1,000円ぐらいはするのだろうか?
 最近の東京は、空気や水がきれいになりつつあるせいか、虫が少しずつだが増えてきている。この夏も、セミは地域に昔から生息する全種類の鳴き声を聞いたし、トンボもオニヤンマヤやギンヤンマを含めて見かける。すごい勢いで2階のガラス戸に衝突して、ベランダでもがいていたのはツノのないカブトムシの♀だ。ナナフシやオオカマキリが、網戸にたかってジッと動かないでいる光景は何度も目にしている。虫好きなわたしとしてはうれしいのだけれど、わが家にはそれをうれしく思わない人間がふたりいる。連れ合いと、オスガキ上の嫁さんだ。
 このふたり、家の中で虫を見かけたときのパニックが並みではない。「ギャ~ッ、Papaさーーん!」と、新しい娘の叫び声がどこかでするので、「すわっ、なにか事件かドロボーか!?」と飛んでいくと、ちっぽけなアブラムシ(ゴキブリの東京方言Click!)だったりクモだったりするのだ。先日は、ヤモリの出現でもお呼ばれした。アブラムシはともかく、クモやヤモリは益虫(獣)なので外へ逃がしてやると、「また入ってくるし~」というような少し不満顔をするのだが、巨大な怪獣に追いまわされる虫のほうがよっぽど怖いぜ・・・といっても、なかなか彼女たちは納得しない。わたしも、子ども時代を虫が激減した東京ですごしていたら、虫ぎらいになっていたのだろうか?
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箱根・強羅別荘地1922頃.jpg

 うちのオスガキふたりは、小学生時代に各地でいろいろな虫をさんざん採ってあげていたので、アレルギーはほとんどないようだ。昆虫の好ききらいは、生まれ育った居住地の問題ではなく、やはり家庭環境、それも親からの影響が大きいのだろうか? でも、Tシャツにたかがミンミンゼミをたけられただけで、まるでサスペンス劇場のワンシーンのように、湘南平じゅうに響く死にそうな悲鳴をあげてしまうのは、わたしにはどう考えても、やっぱり異常としか思えないのだが。

◆写真上:多摩川あたりから眺めた都心方面。水や空気はかなりきれいになっているが、緑の減少が止まらないので、昔のような虫たちの復活もなかなか進まないのだろう。
◆写真中上:うちの裏にある塀で、2時間ほどジッと擬態をしながら動かなかったナナフシ。
◆写真中下は、板橋区立美術館に残る昆虫自動販売機。は、歩きなれた大磯の山道。
◆写真下:1922~23年(大正11~12)ごろに撮影された、箱根・強羅の別荘地街。早雲山へ向かって延びるケーブルカーは1921年(大正10)に敷設され、ケーブルカーをはさみ左側が小田急電鉄Click!開発の別荘地で、右側が箱根土地Click!開発による別荘地。ケーブルカー駅の左下には、F.L.ライトClick!が設計し関東大震災Click!で倒壊してしまう福原有信別荘が見えている。

みなさん、お送りいただきありがとう。

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 先日、早稲田大学の會津八一記念博物館Click!で開催された「早稲田をめぐる画家たちの物語-小泉清・内田巖・曾宮一念・中村彝-」展について記事Click!を書きお送りしたところ、ごていねいに同博物館の学芸員の方から訂正した図録をお送りいただいた。長崎4045番地にあった林武邸のイラストマップ上の位置に関して、わざわざシールを作成して対応してくださったのだ。ものすごく迅速なご対応に驚嘆するとともに、かえってわたしのほうが恐縮してしまった。
 新宿歴史博物館の「佐伯祐三―下落合の風景―」展図録Click!も、いま第2刷が出ているけれど第3刷の増刷時まで待たず、シール対応で修正したらいかがだろうか。もっとも、印刷部数が多いので作業負荷の高いシール対応ではなく、『新宿区の民俗―落合地区編―』で実施済みのような、正誤地図の訂正紙片を挿みこむ方法もあるだろうか?
 「佐伯祐三―下落合の風景―」展図録は人気が高いせいか、初版1万部はほぼ1年で完売してしまい、現在はテキスト面での修正が済んだ第2刷が販売されている。刷数が多いため、博物館側の作業のたいへんさは想像がつくので、ステップバイステップの段階的な考証作業を前提に、より正確な記述をめざすという考え方のもと、次は第3刷で訂正する・・・という方法もあるとは思うのだが、正誤がハッキリしているのでどうしても気持ちの悪さは残るのだ。
 このケーススタディでも自明のことなのだが、紙に「印刷」され「記録」されたものでさえ、あくまでも過渡的なものにすぎない・・・ということなのだ。研究の深化ないしは取材の拡がりを通じて、いつ新たな事実が判明し、記載された情報が古くなってしまわないとも限らない。だから、それを絶対視し過信しすぎると、大きな“落とし穴”Click!に陥ってしまう怖れがあることになる。いくつかのケースでの自戒を含めて、改めて確認しておきたいテーマだ。
 もうひとつ、「紙」と「印刷」の不便さについても、どうしても想いがつのる。いつもネットで表現しているせいか、新しい資料の発見や証言が得られると、あるいは新たな事実が判明すれば、発見や証言を提示する記事とともに、そのテーマに関連した過去記事を含めて、即座にサイト全体へ統合的なフォロー・反映が行える。でも、印刷された紙という2次元の固定されたメディアでは、まったく不可能な作業だ。尾崎翠の旧居跡Click!や町火消しの「へ・ら・ひ組」のケースのように、誤りが止揚されずに引きつづき拡大再生産される危険性が常につきまとうことになる。
 さらに、「紙」と「印刷」というメディアをもどかしく感じるのは、先にも書いたが2次元の閉じられた世界であり、記載されているコンテンツからタテ方向にもヨコ方向にも視界を拡げることができない・・・という限界だ。つまり、印刷物はそれだけで“自己完結”しているメディアであって、そこに書かれているテーマなりキーワードなりを別の側面から参照するには、もうひとつ別の本や資料を入手して参照しなければならない・・・という不便さがある。Webメディアなら、そのような必要が生じた場合、リアルタイムで自在にタテ軸・ヨコ軸の次元を立体的に、あるいは同じテーマで同一レイヤをどこまでもたどることができる。このちがいは、とてつもなく大きい。
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早稲田をめぐる画家たちの物語図録.jpg
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 「電子書籍」という言葉があるけれど、単に紙の本を携帯端末でも読めるようにした・・・だけでは、まったく今日的なネットワークの意味がない。また、テキストや画像、音声、映像に“紐付け”されたデータベースを自在に活用できない「電子書籍」も、ほとんど存在意味が希薄だ。それならば多くの場合、携帯端末よりも紙の書籍のほうが軽くて携帯に簡便だろう。多くの出版社は、紙メディアを電子メディアに置き換えているだけで、なんら新しいビジネスモデルを提起しえないでいる。おそらく、投資対効果が不安で手をつけかねているのが実情なのだろう。
 名指しで恐縮なのだけれど、平凡社は『世界大百科事典』のデータベースを構築しているが、これはあくまでもデータや記録のリソースであり過去のアセットにすぎない。そのデータそのものを切り売りするのではなく、それを基盤としてその上にどのような新しいアプリケーション(本来の意味での電子書籍)を提供できるかによって、同社が出版界の最前線へ躍り出られるかどうかの大きな瀬戸際に立っている・・・と感じるのは、わたしだけだろうか?
 これは「百科事典の平凡社」に限らず、大量のデータや記録を蓄積している、あらゆるメディアについてもいえることだ。データは、百科事典のような知識的データ(つまりテキストや画像など)に限らない。さまざまな機器から発せられる、膨大なセンサリングデータのプールを前提とする、ビッグデータ解析の課題も同様だ。ちょっと話が大きく脱線してしまたけれど、最近、紙の印刷物(本や資料)を大量に読んだり参照するにつけ、つれづれ感じていることを書いてみた。
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 さて、もうひとつうれしいことがあった。旧・下落合の西側(現・中落合/中井)と上落合の妙正寺川沿いで活躍されている「染の小路」実行委員会が、その定期発行誌「そめコミ」に拙サイトの記事を連載してくれることになった。「染の小道」Click!のみなさんが実施しているイベントは、わたしも見に出かけたことがあり、毎年ひそかに楽しみにしている。
 妙正寺川の川面へ、色とりどりに染めた反物をわたす“インスタレーション”を展開したり、地域の公園や学校のキャンパスを使ってさまざまなイベントを開催している。機関誌「そめコミ」はもちろん無料で、「染の小道」へ参加している工房や新宿区の公共施設などで配布されているそうだ。折りを拡げるとA4サイズの仕様だが、同地域のさまざまな情報や催事、物語などが掲載されている。現在は第2号まで発行されており、今後の成長が楽しみな地域密着型のメディアとなっている。ちなみに、「染の小道2013」は、来年2月22日(金)~24日(日)に開かれるそうだ。
 さらに先日、大草眞理子さんClick!より『続・鬱病は治らない』(日本文学館)をいただいた。まだ、出版前のプロトタイプのようだが、この年末には全国の書店に並ぶのだろう。ということは、昨年に出版された前作『鬱病が治らない』の売れ行きが、すこぶるよかったとみえる。ひょっとすると、いま販売されている前作は在庫切れによる増刷なのかもしれない。
 内容について触れると、“ネタばれ”になるのであまり書かないが、新作『続・鬱病は治らない』は前作に比べて「鬱病」についての記述、あるいはその原因となった出来事についての記述がかなり多い。つまり、前作と比較すると「鬱病」とは直接関係のないエピソードの部分(著者は「遊び」の部分と書いている)が減り、より切実で症因となった内面的なテーマ(課題)の解説が増えている・・・ということだろうか。そして、わたしも、なぜかあちこちに登場してくるのだけれど、「五月のそよ風」の学生時代ではなく、学校を卒業してから現在までつづくエピソードがほとんどだ。
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 そういう意味では、ちょっとホッとしてはいるのだけれど、わたしの連れ合いまでが登場するとは思わなかった。わたしが不在で電話に出られなかったとき、ふたりでいったいなんの話をしていたものやら・・・、ほんとうに市外通話の電話代がたいへんだったのではなかろうか? いずれにしても、続編が出版されたことは、また現状がとりあえず落ち着いていることはとても喜ばしいことだ。

◆写真上:東京では、モミジの緑から赤へのグラデーションがきれいな季節だ。
◆写真中上:「早稲田をめぐる画家たちの物語-小泉清・内田巖・曾宮一念・中村彝-」展の図録表紙()と、シール貼りで対応くださった下落合全域マップの林武邸跡()。
◆写真中下は、「染の小道」実行委員会が発行する『そめコミ』の第1号()と第2号()。は、『そめコミ』第1号に掲載された「落合今昔ものがたり」の第1回。
◆写真下は、そろそろ発売されるころの大草眞理子『続・鬱病は治らない~一鬱病患者の一生態~』(日本文学館)。は、散歩道に積もりつづける落葉。

久しぶりの多摩湖でコンクリート散歩。

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 ずいぶん久しぶりに、西武線に乗って多摩湖(村山貯水池Click!)の周辺を散歩してきた。前回、出かけたのがいつごろなのか、憶えていないほど久しぶりだ。幼稚園か小学校時代には遠足やハイキングで、高校時代からこっちは友だちと遊びに出かけているはずだが、ハッキリした記憶がない。手元には、高校時代の1974年に撮影した多摩湖とその周辺のTRY-Xで撮影したモノクロ写真があるのだけれど、確かそれ以降も出かけているはずだ。小学校時代に出かけたユネスコ村は、いつごろなくなってしまったのだろうか?
 今回、久しぶりに歩いてみて、その多摩湖周辺の変貌ぶりに驚いてしまった。そもそも、「多摩湖」という駅名そのものが存在しなくなっている。いつの間に、「西武遊園地駅」に変わったのだろう? ということは、少なくとも1979年(昭和54)以降に訪れていないか、あるいは意思的な行動をしてはおらず、多摩湖駅だと思いこんで乗降していたことになる。
 1974年の写真を見ると、駅の周辺は武蔵野の雑木林が一面に拡がるうっそうとした森で、住宅などほとんど建ってはいない。現在では、「西武遊園地口」となっている北口改札から、多摩湖の西北部へとつづく道があったはずだ。駅の北口から北東方向へ少し歩くと、1960年代の初めに解体された多摩湖ホテル(村山ホテルClick!)の跡へと出られた。西武遊園地駅を下りて驚いたのは、北口が西武遊園地への直通改札となって“消滅”していることもさることながら、駅の直近まで住宅地が押し寄せていることだ。雑木林や畑地が、ほとんどすべて消えていた。
 駅の南口はほぼそのままの風情で、今回はこちらを通って多摩湖へと抜けることにする。昔ながらのガードをくぐって、多摩湖側へと抜けるのは同じなのだが、昔は雑木林だったところが一面に都立公園として整備されていて、人がたくさん散歩している。おそらく、近くにお住まいの方々が、休日の散歩へ出てきたのだろう。昔は、人っ子ひとりいない寂しい森の道が、現在は公園管理事務所と芝庭が拡がる、明るい場所へと変貌している。雑木林の間にあった湧水源が、近所のおとめ山公園Click!のように整備され、武蔵野原生林の面影はほとんどなくなっていた。
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多摩湖1974_2.jpg

 今回、多摩湖へ出かけたのは、西武鉄道Click!が東村山駅にセメントと玉砂利を大量に蓄積Click!して、貯水池工事の物流拠点としていたころ、1916年(大正5)から1925年(大正14)にかけて進められた貯水池建設の大工事で、実際に造られたコンクリート構造物の様子を観察しておこうと思ったからだ。だが、当時のコンクリートを観察するのは容易ではなくなっていた。1998~2002年(平成10~14)にかけて行われた、多摩湖の堤体強化工事によって、大正期のコンクリートが全的に撤去され新たに造りかえられていたのだ。それでも、一部の堤護岸や遊歩道のコンクリート柵はそのまま保存されていたので、工法を細かく観察することができた。
 保存されたコンクリート堤はレーザーで切断され、断面もよく観察できるように展示されていたのだが、それを見てまず最初に感じたのは、下落合における大正末期に建設された住宅の塀や基礎にみられる、大量の良質な玉砂利を用いた工法と非常に近似している・・・ということだ。内部に鉄筋を用いず、大粒の玉砂利とセメントを混ぜ、そのまま任意の形状の型にはめて固めたものだ。下落合のコンクリート工法Click!でいうと、1925年(大正14)から1926年(大正15)にかけ諏訪谷Click!の住宅開発で建設された、擁壁や塀の仕様に相当する。佐伯祐三Click!「下落合風景」Click!の1作として描いた「セメントの坪(ヘイ)」Click!と、まったく同様の造りとなっている。この仕様が、大正期のコンクリート工法ではかなり一般的だったのだろう。
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堤体工事.jpg

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取水塔工事.jpg

 しかし、ほんの少し時間が経過した大正末から昭和初期になると、コンクリート工法にはたいていの場合、芯に鉄筋が用いられより強固な構造が一般的となるようだ。下落合では、中村式コンクリート工法Click!で有名な近衛町Click!帆足邸Click!がそうだし、また昭和最初期から戸山ヶ原へ次々と建設されることになる、大久保射撃場Click!など陸軍の頑丈なコンクリート建築も、セメントと玉砂利をこねただけの仕様ではなく、多くの場合、強度を上げるために鉄筋が芯に用いられている。もっとも、戸山ヶ原の建物は軍事施設なので、よけいに頑丈な構造にする必要があったのだろう。1931年(昭和6)に竣工する国際聖母病院Click!フィンデル本館Click!もまた、60cmという分厚い外壁の中には鉄筋コンクリート工法が導入されている。
 多摩湖のケースは、切断されたコンクリートの断面を見ると明らかなように、構造物の中心にまで3cm前後はありそうな、大きくて良質な多摩川流域の玉砂利がぎっしりと詰められている。鉄筋をまったく用いず、これでどの程度の強度が保てるのかは不明だが、少なくとも大正中期から末期にかけての貯水池建設なので、1990年代末からリニューアル工事がスタートしていることを考えると、都合80年ほどは確実にもったことになる。
 多摩湖周辺を散歩していると、商店がほとんどないのに閉口するのは、いまも昔も変わらない。いずれかの駅前に行かないと、飲み物の自動販売機さえ近くにないのだ。広い都立公園の中も、飲み物や食べ物を売っている露店が1軒あるだけで、カフェひとつ存在しない。食べ物屋は、西武遊園地の中にはいろいろあるようだが、周囲の住宅街にはほとんどなにもない。おそらく、新しい住宅街もまた西武鉄道が開発したものだろう。お店をたくさん作ると、遊園地の中へ入ってくれない・・・というような思惑があり、あえてコンビニや商店の誘致を抑制したものだろうか?
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多摩湖コンクリート01.jpg
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多摩湖コンクリート02.jpg

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諏訪谷コンクリート.jpg
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防疫研究室コンクリート.jpg

 わたしがその昔、多摩湖周辺を歩いたころ、1925年(大正14)に造られた第一取水塔には入れなかったものの、1973年(昭和43)に増設された第二取水塔へは近寄れたような気がする。でも、いまは第二取水塔へも入れなくなっていた。第一取水塔の意匠をそのまま踏襲して建造された第二取水塔だが、窓などのデザインが微妙に異なっているのが面白い。第一取水塔は、近寄ってコンクリート部分を細かく見たかったのだけれど、残念ながら遠くからでは観察できなかった。

◆写真上:多摩湖の堤から眺めた、第一取水塔(手前)と第二取水塔(奥)。
◆写真中上は、西武遊園地駅の南口()と、1974年(昭和49)に撮影した多摩湖駅の北口()。は、多摩湖まで迫る住宅街()と、1974年の多摩湖周辺の風情()。は、現在の多摩湖()と、1974年現在の多摩湖()。第二取水塔は、モノクロ写真の前年に完成している。
◆写真中下は、現在のリニューアルされた多摩湖堤防()と、大正中期に建設中の堤防()。は、第一取水塔()と大正末に竣工間近な第一取水塔()。
◆写真下は、大正期に造られた多摩湖のコンクリート構造物。輪切りにされた断面をみると、鉄筋の芯が入っておらず中心まで多摩川の玉砂利が詰まっている。下左は、諏訪谷に建造されたコンクリート塀の残滓。下右は、戸山ヶ原(現・戸山公園)の防疫研究室跡に残るコンクリート塊。鉄筋が用いられていないので、建物の残骸ではなく塀か擁壁の一部だと思われる。いずれも、西武線が運んだ多摩川の玉砂利とセメントではないだろうか。

佐伯祐三の『踏切』ガードが規定できた。

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武蔵野鉄道ガード1_1983.jpg

 1926年(大正15)ごろに、佐伯祐三Click!が描いた『踏切(踏み切り)』Click!が、lot49sndさんClick!の撮影したガード写真でハッキリと規定できた。まちがいなく佐伯は、武蔵野鉄道のガードを西側に設置された山手線踏み切りの手前から、線路向こうの東北東を向いて描いている。
 lot49sndさんが写真を撮られたのは、1983年(昭和58)ということなのでそれほど大昔ではなく、近ごろまで大正期のレンガ造りガードがそのまま残っていたことになる。わたしが学生時代から、目白駅の北側まで足をのばしていたら、そして佐伯がモチーフに取りあげている風景に興味をおぼえていたら、まちがいなく「アッ!」と声をあげたポイントだったろう。ちなみに、ガードに積まれたレンガの構造は、山手線のガードClick!とまったく同じイギリス積みの工法だ。貴重な写真をご提供いただき、ほんとうにありがとうございました。>lot49sndさん
 ガードの手前、左手にはコンクリートの塀がつづいているが、大正期の風景にはなかったものだ。佐伯の『踏切』では、踏み切り番小屋と鉄道員の宿舎のような建物が見えているが、昭和に入るとほどなく、その北側に建っていた東京パン工場Click!に納入する、小麦粉を製造する製粉工場へと変わっている。製粉工場は、先にわたしが踏み切り跡を取材Click!しに出かけたときも営業(倉庫?)しており、写真に写るコンクリート塀は当時の工場の塀かもしれない。
 レンガ造りのガードの上を、古いタイプの西部池袋線が通っているが、その下にはガードの向こう側の風景が垣間見える。住宅街の屋敷林と思われる樹木が見えているが、佐伯作品のガード向こうに見えている緑は、なんらかの祠が奉られた社(やしろ)の樹木だろう。この社は、昭和初期になると消滅しているようなので、旧・雑司谷中谷戸尼行嶌830番地(現・南池袋1丁目)界隈で暮らす住民の誰かが勧請した稲荷のひとつで、住民が移転するとともに消滅したものだろうか?
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佐伯祐三「踏切」1926頃.jpg

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雑司ヶ谷ガード1983.jpg
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雑司ヶ谷ガード1926頃.jpg

 佐伯作品で、踏み切りをわたる少年と思われる人物は、この神社の祭りに出かけるところかもしれない・・・と、かつて書いたことがあったけれど、もしこの社が個人宅に由来する稲荷であったとするなら、人が集まる祭礼が行なわれていたとは考えにくい。また、江戸期ないしはそれ以前から、五穀豊穣のために勧請された農事の稲荷だとすると、同地の急激な宅地化の進行とともに自然消滅、ないしはどこかへ合祀された可能性もありうる。その場合は、大正末から昭和初期まで、なんらかの小さな祭礼が地域の行事としてつづいていたのかもしれない。
 また、ガードの西側正面ばかりでなく、ガードへ入った中側から山手線の踏み切り方向も撮影されている。そこには、大正期の佐伯が描いた人々が横断する『踏切』とは異なり、クルマの往来を意識してかなり拡幅された、わたしも山手線の車内から眺めた見憶えのある踏み切りが見えている。また、踏み切りをわたった西側、旧・雑司ヶ谷西谷戸大門原1126番地(現・西池袋2丁目)あたりには、赤い屋根のかなり古い2階建て住宅(アパート?)がとらえられている。
 この一画は1945年(昭和20)4月13日の米軍による鉄道と河川沿いをねらった、激しい第1次山手空襲Click!にさらされている。でも、1947年(昭和22)に米軍が撮影した爆撃効果測定用の空中写真では、踏み切りの西側にかろうじて焼け残ったとみられる木造2階建ての家が見えているので、写真にとらえられた赤い屋根の家屋は、当時のものがメンテナンスを繰り返されて、そのまま建っていた可能性が高い。ひょっとすると、佐伯祐三も目にしていた2階家なのかもしれない。
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武蔵野鉄道ガード2_1983.jpg

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踏み切り1983.jpg
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踏み切り1926頃.jpg

 この踏み切りは、下落合とその周辺を描いていた佐伯祐三の描画ポイントClick!のひとつだ・・・ということ以上に、重要な意味を持つようになった。それは、佐伯が第1次滞仏からもどり、1926~1927年(大正15~昭和2)にかけて日本にいたとき、下落合661番地の佐伯アトリエClick!の南西隣り、下落合666番地(第三文化村敷地)に巨大な西洋館の自邸を建てていたのが、納三治Click!であることに気づいたからだ。納三治は、『踏切』に描かれた雑司ヶ谷ガードから、北へわずか100mほど歩いたところで羊毛の毛糸を製造する曙工場Click!を経営していた。
 佐伯祐三は、1927年(昭和2)の夏に下落合666番地の隣家、すなわち納邸が竣工するまでの間、納三治から誘われて工場か自邸に招かれているか、あるいは佐伯が第三文化村でもっとも大きな西洋館の壁を飾る、第1次滞仏作品の“売りこみ”がてら、曙工場を訪ねている可能性は高いとみられる。その途中で、武蔵野鉄道の雑司ヶ谷ガードを発見し、新橋駅のガードClick!や山手線の下落合ガードClick!につづき、手前の踏み切りとともにモチーフに選んでいるのではないか。つまり、武蔵野鉄道のガードが『踏切』の描画ポイントであるという事実以上に、佐伯の落合地域における当時の足取りが、具体的に透けて見えそうな点がとても面白いのだ。
 余談だけれど、いま豊島区では画家たちが作品を制作したポイントへ記念プレートを建てはじめている。アトリエ村のあたりが中心になるのだろうが、佐伯祐三『踏切』の描画ポイントにも、プレートを建ててはくれないだろうか? またしても、新宿区は先を越されることになりそうだが、佐伯のモチーフ選びの視点からいえば、落合町下落合も高田町雑司ヶ谷も関係がない。新宿区では、まだやる気配を感じないので、ぜひ佐伯祐三描画ポイント・プレートClick!のさきがけ建立をお願いしたいものだ。また、長崎町(現・豊島区)側から下落合の府営住宅を描いたとみられる作品Click!の描画ポイントもあったりする。
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佐伯祐三「ガード風景」1926頃.jpg
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佐伯祐三「下落合ガード」1926頃.jpg

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雑司ヶ谷ガード1947.jpg

 佐伯が描いた『踏切』には、鉄道員の宿舎と思われる建物に架かる看板Click!が見えている。この看板についても、その後調査をつづけているけれど、池袋中原にあったと思われる、「中原工業」あるいは「中原工機」、「中原工場」、「中原工務店」という名の企業は、いまだ見つかっていない。『高田村誌』、『高田町史』、『戸塚町誌』、『落合町誌』、『長崎町誌』と参照しても見つからなかった。もし存在するとすれば、『西巣鴨町誌』には社名と事業内容が掲載されているだろうか?

◆写真上:lot49sndさんが1983年(昭和58)に撮影された、旧・武蔵野鉄道の雑司ヶ谷ガード。
◆写真中上は、1926年(大正15)ごろに雑司ヶ谷の山手線踏み切りおよび武蔵野鉄道のガードを描いた佐伯祐三『踏切(踏み切り)』。下左は、1983年(昭和58)に撮影された雑司ヶ谷ガード。下右は、佐伯祐三『踏切』から雑司ヶ谷ガードの部分拡大。
◆写真中下は、lot49sndさんが1983年(昭和58)に撮影されたガード下からの山手線踏み切り。下左は、踏み切りの部分拡大。下右は、佐伯祐三『踏切』の部分拡大。
◆写真下上左は、1926年(大正15)ごろに新橋ガードを描いた佐伯祐三『ガード風景』。上右は、同年ごろに下落合ガードを描いた同『ガード』。は、1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真。踏み切りの西には、かろうじて焼け残ったとみられる2階建ての木造住宅が見える。

中村彝と若山牧水の“動線”。

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中村彝「木立風景」1909.jpg

 房総半島(千葉県)の白浜や布良(めら)は、明治時代より多くの画家たちを集めた写生地として有名だ。下落合でいえば、たった一度ないしは数度しか出かけなかった佐伯祐三Click!中村彝Click!のような画家もいれば、曾宮一念Click!安井曾太郎Click!のように繰り返し毎年のように訪れては、いつも宿泊する定宿Click!を決めていた画家たちもいる。きょうは、それほど足しげく訪れていたわけではないが、初期代表作である1909年(明治42)に白浜で描いた『巌』(1909年)や、1910年(明治43)に布良(めら)で制作した『海辺の村(白壁の家)』Click!を残している中村彝と、いつも彝とは“ニアミス”を繰り返した歌人・若山牧水Click!について書いてみたい。ちなみに、中村彝と若山牧水は房総ばかりでなく戸山や大久保町、淀橋でも比較的近くに住み、戸山ヶ原Click!などの周辺域を散策していたと思われるのだ。
 若山牧水が早大英文科時代に下宿していたのは、穴八幡Click!(高田八幡)社に隣接した下宿だった。牧水は、そこから戸山ヶ原や落合地域を散策しては、武蔵野の風情を楽しんでいた。明治末の戸山ヶ原や落合地域での散策について書かれた『東京の郊外を想ふ』では、当時は近衛邸Click!の敷地内に設置されていた、御留山Click!の北側に切れこんだ谷戸の「落合遊園地」(のち林泉園Click!)や藤稲荷Click!氷川明神社Click!などを訪れているのがわかる。彼の著作を読むと、ひとりで東京郊外を散歩しながら、武蔵野の面影とともに寂寥感にひたっていたように感じるのだけれど、牧水の散歩は多くの場合、実は美しいガールフレンドを同行していた。
 下落合を歩いたときも、『東京の郊外を想ふ』ではあたかもひとりで、もの哀しく寂しい風情を残した武蔵野を逍遥しているように書かれてはいるが、実はガールフレンドを同行しており、藤稲荷下や下落合氷川社の境内、あるいは蘭塔坂Click!(二ノ坂)を上がったところの小上Click!にあった水茶屋(喫茶店)で、団子でも食べながら休憩しているのかもしれない。
 園田小枝子と若山牧水との出逢いは、牧水が大学の夏休みに宮崎県の実家へ帰省し、そのついでに神戸の親戚の家へ一時的に滞在した、1906年(明治39)の夏のことらしい。そして、小枝子がいきなり牧水の下宿を訪れたのは、翌1907年(明治40)4月6日のことだった。小枝子は、東京で自活するために牧水を頼ってきたのだ。このときから、牧水と小枝子の武蔵野歩きがスタートする。おそらく、ふたりの武蔵野散策は、牧水が早大を卒業する前後までつづいていたのだろう。
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 同年暮れから翌1908(明治41)の正月にかけ、牧水と小枝子は霊岸島から船で房総半島の尖端にある館山へとわたり、安房郡長尾村根本(現・南房総市白浜町根本)に滞在した。このとき、牧水と小枝子とは初めて結ばれるのだが、のちに歌集『別離』所収の作品を数多く詠んでいる。
  
 ああ接吻(くちづけ)海そのままに日は行かず鳥翔(ま)ひながら死(う)せ果てよいま
 山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇(くち)を君
 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
 かなしげに星は降るなり恋ふる子等こよひはじめて添寝しにける
  
 ふたりは連れ立って戸山ヶ原や落合地域、遠出をするときは荻窪や吉祥寺、日野あたりまで出かけているようだ。牧水は2つ年上の小枝子に夢中になり、結婚を申しこむが意外にも拒否されて愕然となる。世間的な常識の中で育った小枝子は、牧水の生活力のなさや頼りなさに結婚など考えられなかったのだろう。また、ふたりの関係が小枝子の東京にいる親戚に知られることとなり、彼女は自由に出歩けない環境に置かれるようになった。1909年(明治42)の夏、牧水はひとりで傷心を抱えながら、安房郡豊崎村布良(現・館山市布良)へと出かけている。すでに牧水も、自分を理解してくれない彼女に幻滅を感じはじめていたのかもしれない。
 一方、中村彝は結核の初期症状を治すため、療養を兼ねた写生旅行で1905年(明治38)から翌1906年(明治39)にかけて、頻繁に布良をはじめとする房総半島の海辺の町に滞在している。1908年(明治41)には、渋谷村豊沢の寺から大久保百人町に開店していた時計屋の2階へ転居し、付近の戸山ヶ原を散策しながら写生を繰り返していたようだ。ちょうど、牧水と小枝子が戸山ヶ原を起点に、あちこちを散策していた時期と重なる。
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中村彝「春の戸山」1906.jpg
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戸山ヶ原1909.jpg

 1909年(明治42)の夏、日暮里1054番地(ほどなく日暮里1067番地へ転居)に下宿先を変えていた中村彝は、房総の白浜へ出かけ『曇れる朝』Click!や『巌』などを制作し、同年秋の上野公園竹之台陳列館で開かれた第3回文展に入選している。このとき、なじみ深い布良に滞在していた若い歌人のウワサを、彝は房総を海岸沿いに移動する画家仲間や、地元の話好きな住民から耳にしていたかもしれない。また、翌1910年(明治43)の春には、鶴田吾郎Click!とともに再び房総白浜を訪れており、鶴田から日本画家の川端龍子を紹介されている。
 同年の夏、中村彝は何度めかの布良を訪れ『海辺の村(白壁の家)』を制作し、その年の秋の第4回文展に入選している。同じ1910年(明治43)、若山牧水は園田小枝子との恋を詠った処女歌集『別離』を東雲堂から出版し、前田夕暮Click!の歌集『収穫』と並んで評判になった。文学界では、いわゆる「牧水夕暮時代」の幕開けだと讃えられている。ちなみに、結婚したばかりの前田夕暮もこの時期、西大久保201番地へ新居をかまえていた。
 彝と牧水のふたりが、明治末にすごした動線を地図に描いてみると、そのラインが非常に近似しているのに気がつく。ふたりは東京の、そして房総半島のあちこちで“ニアミス”を繰り返しているのだが、それは彝と牧水のみの共通線にとどまらず、当時の画家や文学など芸術家をめざす青年たちが、なにかを必死で求め行動した「青春の動線」とでもいうべき近似ラインなのだろう。
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中村彝「巌」1909.jpg
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中村彝「自画像」1909.jpg

 ほどなく、牧水は淀橋町柏木54番地に住まいを移し、彝は淀橋町角筈12番地の新宿中村屋へ転居している。牧水が小枝子とともに憩いのときをすごしたと思われる落合遊園地(林泉園)の真ん前、下落合464番地へ彝がアトリエを建てて引っ越してくる6~7年ほど前の出来事だ。

◆写真上:1909年(明治42)制作の、白浜あたりを描いたとみられる中村彝『木立風景』。
◆写真中上は、若山牧水()と園田小枝子()。は、1907年(明治40)の暮れから1908(明治41)の正月にかけて牧水と小枝子が滞在した長尾村根本(現・白浜町根本)の海岸線。
◆写真中下は、1906年(明治39)に戸山ヶ原を描いた中村彝『春の戸山』(水彩)。は、1909年(明治42)に撮影された戸山ヶ原。彝と牧水は、ともにこの風景の中を散策していた。
◆写真下は、1909年(明治42)に白浜で描いた中村彝『巌』。は、同年の『自画像』。
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中村彝アトリエ復元20121214.jpg

中村彝アトリエ復元工事2012年12月14日

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