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下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(3)

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曾宮一念「落合風景」1920頃.jpg

 曾宮一念Click!が描いたこの作品は、以前に「描かれた新宿編」の記事Click!でも、中村彝Click!の「下落合風景」とともにご紹介していた。描かれているのは、目白福音教会Click!(現・目白教会)のヴォーリズが設計した宣教師館Click!(通称:メーヤー館Click!)だ。中村彝も、同館をモチーフに『目白風景』(1919年)や『目白の冬』Click!(1920年)、『風景』Click!(1919~20年)などを連作している。1920年(大正9)に描かれたとみられる、曾宮一念作のタイトルは『落合風景』だ。
 『落合風景』は、長く津田左右吉の邸に架けられていた。当時、津田は曾宮一念のパトロンのひとりだった。曾宮は、下落合623番地にアトリエを建てるとき、津田から建築資金を少なからず支援してもらっていた。でも、津田は当初、資金援助をしたことを曾宮へ名乗り出ず、東洋史学者・池内宏を通じて匿名の支援者というかたちでいたらしい。曾宮が、津田へ作品をとどけたのは、支援者であることが判明したあとになってからのことだ。そのあたりの事情を、先に早大会津八一記念博物館で開催された「早稲田をめぐる画家たちの物語」Click!図録から引用してみよう。
  
 ところで、画室建設に際して、津田から寄付を受けたいきさつを、一念本人はこう回想している。/「大正九年の秋、自分の仕事場を建てるのに苦労していた或る日、池内先生(宏、東大教授)が散歩のついでだといって私を訪ね、封筒入りのお金を届けて下さった。そして『これはボクが上げるのではない、私の友人がキミの事をきいて原稿料をあげるという。その使いにボクは来たのだ。』とのことであった。その友人なる人が津田先生であったのである。もちろん私は失礼ながらお名も存ぜず、お眼にかかってもいないひとであった。/その翌年か紀尾井町に津田先生を訪ね、落合へんの残雪のスケッチをお礼心で持参すると喜んでお受けになり(後略)」(「思い出」『津田左右吉全集』第一期第五巻付録)/ここに登場する池内宏は、かつて早稲田中学で歴史を教えていたことがあり、一念の窮状を耳にしていた。文中でお礼に渡したという「落合へんの残雪のスケッチ」とあるのが、おそらく<<落合風景>>のことだと思われる。
  
 『落合風景』は、1920年(大正9)の冬ごろに描かれていると思われる。画面を観察すると、メーヤー館手前の道路に残雪が描かれているので、降雪のあとに晴れ上がった日に制作されたのがわかる。また、屋根には積雪が見えないので、降雪後しばらくたってから描いたものか、あるいは雪が少量しか降らなかった日の直後の晴れた日・・・ということになる。
 この時期、曾宮一念はいまだ下落合にアトリエを建設しておらず、下落合にやってきたばかりだった。目白通りの北側、下落合544番地に彝が借りておいてくれた借家Click!に住んでいたのだが、ほどなくドロボーに入られて気味が悪くなったものか、しばらくすると大久保駅近くの柏木へ転居Click!している。中村彝が『エロシェンコ氏の像』Click!を、鶴田吾郎Click!ととともに描きはじめた1920年(大正9)9月9日現在、曾宮一念はすでに柏木近くの大久保駅から彜アトリエへ見物にきているので、下落合へとやってきたのは同年の夏以前ではないかと思われる。
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メーヤー館.jpg

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曾宮一念描画ポイント1936.jpg

 『落合風景』は、曾宮が柏木に仮住まいしていた1920年(大正9)暮れか、あるいは翌1921年(大正10)の新年早々の可能性が高いように思う。1920年(大正9)の年末、東京中央気象台の記録によれば降雪した日はわずか2日しかなく、いずれも翌日は快晴となっている。なお、記載されている数字は雪が溶けたあとの水量であり、降雪換算は一般的に×5~10倍の積雪となる。
 ◆1920年(大正9)
  12月7日(雪)・・・降水量44.5mm(積雪量222.5~445mm)
  12月8日(快晴)・・・降水量0mm
  12月9日(快晴)・・・降水量0mm
  12月10日(快晴)・・・降水量0mm
  12月11日(曇り)・・・降水量0mmm
  12月31日(雪)・・・降水量3.6mm(積雪量18~36mm)
 ◆1921年(大正10)
  1月1日(快晴)・・・降水量0.3mm
  1月2日(小雨)・・・降水量3.2mm

 12月7日と31日の降雪のうち、大晦日の降雪はかなり少量であり、積もったとしてもすぐに溶けてしまっただろう。翌日の元旦は快晴で、2日には小雨が降っており、残雪がいつまでもあったとは思えない。それに対し12月7日の降雪は、わずか1日にもかかわらず大雪だったことがわかる。そして、のちの3日間は快晴がつづいているので、こちらのほうが可能性としては高いだろうか。しかも、屋根上の雪がすでに溶けていることを考えると、降雪日の直後(12月8日)ではなく、9日ないしは10日に描かれた可能性が強いように思われる。
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中村彝「風景」1919-20.jpg
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中村彝「目白の冬」1920.jpg

 中村彝が、1920年(大正9)の早春に制作したとみられる『目白の冬』が、11月に新潟県柏崎で開催された個展Click!へ出品しているのを見て、曾宮もメーヤー館をモチーフに描きたくなったものだろうか。ひょっとすると下落合464番地の中村彝アトリエClick!を訪ねたあとでスケッチしたか、あるいは中村彝とともにアトリエから外出して描いているのかもしれない。
 曾宮一念がイーゼルを立てているのは、メーヤー館の南にあたる路上、七曲坂Click!筋の道から東へほんの少し右折した一画だ。道をこのまま右手(東)へ進むと一吉元結工場Click!の干し場へと出られ、左手(西)に進んで突き当りの七曲坂筋を右折(北進)すると、旧・英語学校(のち牧師宿泊施設)のメーヤー館とは角度が異なる建物を右手に見ながら、目白通りへと抜けられる。曾宮がイーゼルをすえた位置の、もう2本南側の道路は桜並木がつづく林泉園Click!沿いの小道であり、下落合464番地の中村彝アトリエはその道沿いの北側に建っていた。
 余談だけれど、中村彝や曾宮一念が下落合へとやってくる以前の明治末か大正初期に、メーヤー館の北側にある竣工したばかりの旧・英語学校の建物をモチーフに小島善太郎Click!が描いている。その作品を、わたしは一度も観たことがないのだが、ひょっとすると出来が気に入らない小島は、戸山ヶ原Click!でもよくそうしたように、未完のキャンバスをそのまま写生現場へ遺棄Click!して帰っているのかもしれない。どのような画面だったのかは想像できないが、描画のタッチとしては1913年(大正2)制作の『目白駅から高田馬場望む』Click!に近いものではなかっただろうか。
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曾宮一念「風景」1923.jpg
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堀潔「聖書神学校メーヤー館」1963.jpg

 また、戦後になると奇跡的に焼け残ったメーヤー館は、堀潔Click!に好まれたのか頻繁にモチーフに選ばれ、繰り返し描かれている。わたしの知る限り、堀のメーヤー館作品は4~5点ほどにもなるだろうか。下落合でも記念的なモチーフが移築されてしまったのが、いまだ残念でならない。

◆写真上:1920年(大正9)の暮れに描かれたとみられる、曾宮一念『落合風景』。
◆写真中上は、モチーフになっている落合福音教会(のち目白福音教会)のメーヤー館(撮影:小道さんClick!)。は、1936年(昭和11)の空中写真に見るそれぞれの描画ポイント。
◆写真中下は、1919~20年(大正8~9)ごろに描かれた中村彝『風景』。は、1920年(大正9)の早春に制作されたとみられる中村彝『目白の冬』。『目白の冬』には目白通り沿いに建つ、メーヤー館とは建築角度の異なる最初期の英語学校(のち牧師の宿泊施設)も描かれている。
◆写真下は、1923年(大正12)に制作された曾宮一念『風景』で「早稲田をめぐる画家たちの物語」展図録より。は、1963年(昭和38)制作の堀潔『聖書神学校メーヤー館』。


「佐々木翠」をめぐるふたりの作家。

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船山馨・春子夫妻邸跡.JPG

 下落合4丁目2108番地(のち2107番地/現・中井2丁目)に住んだ小説家・船山馨は、戦時中に女性編集者であり作家でもあった「佐々木翠」を妊娠させてしまい、親友の椎名麟三へ堕胎の相談をしている。戦争も末期を迎え、「本土決戦・一億玉砕」が叫ばれている時代状況のなか、結婚や子育てなど夢ゆめ考えていなかった船山は、椎名からもらったクレオソート(征露丸)に似た大量の「堕胎薬」を飲ませつづけるが、彼女は大きくて健康な赤ちゃんを産んだ。椎名は「堕胎薬」と偽って、お腹の子が元気に成長するようビタミン剤を調合していたようだ。
 このサイトでは、下落合の目白中学校Click!へ通った埴谷雄高Click!や、「全体小説」の野間宏Click!など“第一次戦後派”と呼ばれる作家については少し触れてきたけれど、かんじんの下落合に住んだ船山馨は、これまで登場してこなかった。先の女性記者を妊娠させたことについて、船山馨は1978年(昭和53)に出版された『みみずく散歩』(構想社)で、次のように書いている。
  
 三日目、彼(椎名麟三)は私のために調製した薬をもってやって来た。それは色も大きさもクレオソート丸に似た錠剤で、それが大きな紙袋に三分の一あまりもあった。私はその量の多いのに不安になったが、彼は効くまで続けて飲ませろと言い、多少量をすごしても先ず危険な副作用はないはずであるという。/私は彼の友情に感激しながら、女にその薬を飲ませつづけた。袋は空っぽになったが、女は、この薬効かないわ、とけろりとしていた。そうして、喰うものもろくにない敗戦直前にもかかわらず、彼女はばかに大きな男の子を産み落し、あわてて私は彼女と結婚した。思うに、椎名君はなにかの「手違い」で、効能絶大な栄養剤を調製したのにちがいないのである。
  
 ふたりは結婚したあと、旧・下落合4丁目に住んでいた出版社・豊国社の社主・高田俊郎の家に身を寄せるのだが、しばらくすると近くの空いている高田の所有地に自邸を建設することになる。この「佐々木翠」(坂本春子)こそが、船山馨が生涯を通じて連れ添い1981年(昭和56)8月5日、船山の死と同日に通夜の席で急死することになる春子夫人のことだ。
 「佐々木翠」は戦前から、文芸誌『むらさき』や『映画芸術』(映画芸術社)の編集者をしながら、同時に寒川幸太郎(菅原憲光)が主宰する文芸同人誌『創作』(創作社)へ、短編小説をいくつか発表している。同時に、彼女は『創作』の編集者兼発行人であり、ときには記者もつとめていた。同誌に掲載された彼女の作品『生活の錘』について、2010年に出版された由井りょう子『黄色い虫―船山馨と妻・春子の生涯―』(小学館)には、次のように書かれている。
  
 春子は小説『生活の錘』を発表し、やはり新進作家として注目を集める。/三十一枚の短編『生活の錘』は、春子自身と重なる婦人記者島子を主人公に、母と妹をかかえた極貧の暮らしと戦争の影、文学への情熱とひとりの男へのかすかな愛、戦地で負傷する弟への思いを描いている。/<<文学に對する彼女の夢・・・それがなかつたならば、島子は今まで生きてゐることさえ出来なかつたかも知れない>>/また愛した人に書く手紙のなかで、こんな思いを吐露する。/<<文学も、生活も、女の幸せも、みんな空廻りをしてゐるのです。私の力では、この三ツの車を同時に引くことが出来ません>>
  
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船山馨.jpg
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船山春子(佐々木翠).jpg

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十返肇・千鶴子邸2007.JPG
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十返肇.jpg

 船山馨と「佐々木翠」=坂本春子が初めて出逢ったのは、船山の日記によれば1940年(昭和15)8月15日に銀座の喫茶店「コロンバン」でだったようだ。「佐々木翠」が作品を掲載し、また編集者や取材記者もつとめる『創作』(のち『新創作』)には、船山馨も同誌3号から同人として参加しており、ふたりの出逢いは必然的だった。
 ちょうど同じころ、「佐々木翠」に恋焦がれていた小説家がいた。やはり戦後、旧・下落合1丁目286番地(現・下落合2丁目)の権兵衛坂中腹に自宅をかまえることになる、十返肇(とがえりはじめ)だ。「佐々木翠」へのアプローチは、十返肇のほうがむしろ早くから積極的で、彼女が船山馨と出逢ったころには、すでに結婚を申しこんでいたらしい。
 十返肇は、自分の母親へ「佐々木翠」を何気なく引き会わせ、ふたりの結婚を承諾してもらおうと、1942年(昭和17)ごろ彼女を宝塚歌劇へと誘っている。しかし、劇場へやってきたのは「佐々木翠」の姉の娘で、彼女はついにやっては来なかった。それでも諦めきれない十返は、のちに彼女の住居をつきとめ強引に口説こうと逢いに出かけている。でも、彼女の住まいには友人の「船山馨」の表札が出ており、軒下には赤ん坊のおしめが干されていた・・・。
 これらの事実は、由井りょう子『黄色い虫―船山馨と妻・春子の生涯―』によれば、十返肇の妻である十返千鶴子Click!が、船山馨の十三回忌の席で証言しているようだ。まるで、矢田津世子Click!を追いかけて下落合をウロウロしていた坂口安吾のようなことを、十返肇もやっていたらしい。戦後、下落合のわずか1,500mほどしか離れていない同じ町内に住み、さまざまな作品を発表しつづけながら、そこで生涯を終えることになろうとは、当時の十返肇も船山馨も、そしてなにより春子夫人=「佐々木翠」自身も思ってなかったにちがいない。
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船山邸1960.jpg
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高田俊郎所有地1947.jpg

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竹田助雄「船山春子」.jpg

 2006年に亡くなった十返千鶴子は、その散歩エッセイに近所の中村彝(鈴木誠)アトリエClick!について記述した作品を残しており、いずれ近い将来に壊されてしまうのをたいへん惜しんでいた。彼女は、わたしが彝アトリエの鈴木様Click!へ手紙を出し、やがてはお訪ねすることになる、いちばん最初のきっかけをつくってくれた方だ。残念ながら面識は一度もなかったけれど、中村彝アトリエの保存が実現できたことを、きっと喜んでくれていると思う。
 また、「落合新聞」Click!竹田助雄Click!は、御留山Click!の緑地保存の署名集めのため、1965年(昭和40)4月に船山家を訪問している。春子夫人の印象について、1982年(昭和57)に出版された竹田助雄『御禁止山―私の落合町山川記―』(創樹社)から引用してみよう。なお、竹田助雄は春子夫人がことさら印象深かったものか、彼女の挿画まで描いている。
  
 玄関に入れば、すぐのところが畳敷の茶の間になっていることを私は知っている。呼鈴はあったかどうか・・・、玄関の外から声をかけたら、中から、それはそれは聞きとりにくいほどの低い声で、「どうぞ」という夫人の返事が聞こえた。その声の低さが、何を意味するのか私にはよく分かるのである。つまり、只今、執筆中という暗黙の注意が、表に立っている私に伝わってくる。/戸を徐かに引いて玄関に入ると船山春子夫人は火鉢に屈みこむような姿勢で、火箸でしずかに灰をならしていた。そして、顔だけはこちらに向けて私を見ると、ますます低い声で、「どうぞ」という。/終始、火鉢に屈みこんだままである。私はそれほど近しい間柄ではないのに、家族が、ひょいと外へ出て、ひょいと戻ってきたような、さりげない様子なのだ。私にはその夫人が、きびしい玄関番のように映った。/私は上がりこむ。茶の間は薄暗い。まるで内証話でもするように顔を近づけて「ちょっと、お願いがあってあがったんですよ」と声を殺せば、夫人は傍らの茶だんすに手を伸ばして音を立てずに湯呑みなどを出しながら、「なんですか」とひっそり。
  
 船山馨・春子夫妻というと、太宰治Click!の心中事件で穴の開いた朝日新聞の連載小説を強引に引きうけさせられ、昼夜を問わず無理な執筆の必要性から、夫婦そろって覚醒剤メタンフェタミン(通称ヒロポン)による中毒となり、借金と貧困にあえぎつつ文学界でさまざまなエピソードを残しているのはつとに有名だが、下落合での日常について語られることはあまりなかったように思う。そういう意味から、夫妻の生涯をていねいに追いかけて記録した由井りょう子『黄色い虫―船山馨と妻・春子の生涯―』は、きわめて貴重な作品といえるだろう。
 同書で、春子夫人が好んだおやつに「目白のボストンのケーキ」が何度となく登場するのだが、わたしは目白よりも高田馬場駅前の、喫茶室も付属した「ボストン」のほうが印象深い。目白通りの「ボストン」は、確か10年ほど前に火災で焼失して、いまは残念ながら残っていない。
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船山馨「みみずく散歩」1978.jpg
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由井りょう子「黄色い虫」2010.jpg

 春子夫人は、横浜市長を辞めて社会党の委員長へ就任するために、総選挙へ立候補した飛鳥田一雄の選挙ビラまきを、高田馬場駅頭で手伝っている。おりしもベトナム戦争Click!の真っ最中で、修理を終えた米軍の戦車が相模補給廠から横浜港のノースピアまで、国道16号線を使って輸送されようとしたとき、途中に架かる橋梁の脆弱性を理由に飛鳥田市長が輸送を阻止した記憶も真新しい時期だ。国道16号線沿いの市民たちが、米軍の輸送をストップさせるために道路へ座りこんでしまう騒然とした情景を、わたしも強烈な印象の映像とともに憶えている。
 船山家と飛鳥田一雄のつながりについては、当時、飛鳥田の秘書をつとめていた新宿区議会議員の根本二郎様より、貴重な資料をいただいているのだけれど、それはまた、別の物語・・・。

◆写真上:旧・下落合4丁目2107番地(現・中井2丁目)の、船山馨・春子夫妻の邸跡。
◆写真中上は、独身時代の船山馨()と春子夫人(佐々木翠/)。下左は、2007年に撮影した十返肇・千鶴子邸(解体前)。下右は、船山馨とも親しかった十返肇。
◆写真中下上左は、1960年(昭和35)に発行された「東京都全住宅案内帳」(住宅協会/人文社)にみる船山邸。上右は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる高田俊郎所有の下落合4丁目2108(のち2107)番地。空き地になっており、戦前までは松原邸が建っていた。は、『御禁止山―私の落合町山川記―』(創樹社/1982年)に挿入された竹田助雄の挿画「船山春子」。
◆写真下は、1978年に出版された船山馨『みみずく散歩』(構想社)。は、2010年に出版されたばかりの由井りょう子『黄色い虫―船山馨と妻・春子の生涯―』(小学館)。

落合第四小学校の卒業アルバム1941年。

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落四小プール1941.jpg

 先日、落合第四小学校の1941年(昭和16)に作成された貴重な卒業アルバムを、堀尾慶治様Click!よりお見せいただいた。同年は太平洋戦争開戦の年であり、「非常時」から多くの領域で物資統制が開始されていたため、紙質もそれほどよくないものが使用されているのだろう、表紙などの劣化が著しく、かなり傷んだ状態になっている。以前、小日向の黒田小学校Click!卒業アルバムClick!(1937年印刷)をご紹介しているが、わずか4年のちがいにもかかわらず用紙や印刷、あるいは写真の品質が目に見えて落ちているのがわかる。
 当時の落合第四小学校は、1学年が3組の構成だった。ちょうど、現在と同じぐらいの規模になる。ただし、男女共学のクラスは1組しかなく、それぞれ「男組」「男女組」「女組」と分かれていた。堀尾様は「男組」だったため、「男女組」にいる男子たちが軟弱そうに思えたためか、「相手にしなかった」(うらやましかった)そうだ。w 当時の思想や社会的な規範を考えるなら、当然のことだったろう。わたしなら、まちがいなく「男女組」志望なのだけれど・・・。w
 余談だけれど、わたしの高校時代のクラスは文科コースの外れだったせいか、男子16人に対して女子が2倍の32人もいた。なにかというと、圧倒的な女子がヘゲモニーを取るクラスだったので、たいへん気楽ですごしやすく、まるで下町のような環境だったのがなつかしい。彼女たちにまかせておけば、なんとなくすべてが丸く収まっていて、細々とした気づかいや心配は不要だった。男子たちは、よほどの異議・異論がない限り、彼女たちに巻きつくように暮らしていれば、快適な高校生活を送れたのだ。ただし、他のクラスからは「たいへんだよなぁ、まったく」と同情されたのだが、とりあえずかたちだけ相槌を打ちつつ、「お気楽で、ぜんぜんたいへんじゃないし」と密かに思っていたのだ。わたしの軟弱な下町気質Click!は、おそらく高校時代に増幅されたものだろう。
 さて、落四小の卒業アルバムには、当時の貴重な校舎や校庭が写っている。北側にあった校舎をバックに写っているのは、同小学校の校歌を作詞した富永熊次教諭Click!の男組。富永教諭の左側、加藤校長をはさんで座っているのが卒業間近な堀尾慶治様だ。各クラスを総合すると、女子のほうがやや多い学年だったようで、モノクロ写真にもかかわらずかなり華やかさが感じられる。1941年(昭和16)の春なので、いまだカーキ色の国民服姿は見えず、女子は思いおもいの服装を着てスカートをはき、教師は三つ揃えのスーツにネクタイ姿だ。おそらく、翌年の1942年(昭和17)春より、卒業アルバムの服装は一変していると思われる。この年が、太平洋戦争前における最後の、ふつうで「まとも」な姿をして写る卒業アルバムだろう。
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落四小卒業アルバム1941.jpg
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落四小遠足1941.jpg

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落四小男組1941.jpg

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落四小男女組1941.jpg
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落四小女組1941.jpg

 アルバムには、各クラスの写真とともに鎌倉遠足の写真も掲載されている。写っているのは、二階堂ヶ谷(にかいどうがやつ)の鎌倉宮(かまくらぐう)前での記念写真なのだが、わたしの世代の遠足では、もちろん頼朝と政子さんClick!の鶴岡八幡宮のほうで撮影をした。「♪鎌倉宮に詣でては~尽きせぬ親王(みこ)の御恨(みうら)みに~」のほうが、史的に重要だと考えられていた非科学的で強烈な皇国史観Click!の時代だ。
 そのほか、空襲によって焼けてしまう貴重な下落合の住宅街風景もとらえられている。まず、校庭で体操をする男女組の向こう側(東側)に見えているのは、相馬坂Click!をはさんだ御留山Click!(現・おとめ山公園Click!)だ。当時は、相馬孟胤Click!の死去から2年がたち、相馬家は中野区広町20番地(現・中野区弥生町6丁目)へ引っ越したあとで、東邦生命の太田清蔵Click!や、ほどなく社長に就任する長男の太田新吉Click!ら太田一族が暮らしていた。
 1941年(昭和16)というと、福岡に開設されたばかりの香椎中学校Click!の校長・長沼賢海Click!が、御留山の旧・相馬邸Click!にいた太田清蔵を九州から訪ね、屋敷の正門Click!(黒門Click!)の移築計画を相談しはじめていた年だ。同時に、相馬邸母屋の解体もスタートし、敷地の北側を住宅地として造成する計画もすでに始動していただろう。敷地を東西と南北に横切る三間道路も切り拓かれようとしていた。アルバムの写真に見える御留山の森は、冬期に撮影されたものだろう、落葉していてそれほど緑が濃いようには感じられない。
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落四小校庭1941.jpg

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落合第四小学校1936.jpg
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落合第四小学校1947.jpg

 もう1枚の下落合風景写真は、校庭の南側、一段下がったバッケ(崖)下にあった同小学校のプール端で男組を撮影したものだ。ちょうど、現在の落合第四幼稚園が建っている場所にあたる。画角は、西北西を向いており画面左手(南側)の家々の前には、鎌倉街道である雑司ヶ谷道Click!(現・新井薬師道)が通っている。その道沿いにある、電柱にご注目いただきたい。この電柱は電燈線ではなく、変圧器の載る電力線Click!だと思われるが、佐伯祐三Click!が描く『下落合風景』Click!に登場する電力柱とウリふたつだ。特に、『八島さんの前』Click!シリーズに描かれた電柱と比較すると、佐伯がいかに正確に下落合の電柱を描写していたかがわかって興味深い。佐伯はサッサッと、電柱をテキトーに描きこんでいるわけでないことが明らかだ。エリアからみて、この電柱は東京電燈の「近衛線」ではなく「氷川線」Click!のほうだろう。(冒頭写真)
 電柱が建つ道路を隔てた向こう側、下落合1丁目87番地に見えているのは、ラス張りにスレート葺きで防火建築に指定されていると思われる、三菱薬品合資会社の研究施設だ。その左手(南側)にチラリと屋根が見えているのが井上邸、三菱薬品合資会社の背後の樹間に見えている住宅が、同じ番地の田所邸だろう。また、樹木に隠れて見えないが、落四小学校のプールの並び(西側)の下落合1丁目274番地には、落合キリスト伝道館の大きな西洋館が建っていた。これらの建物は、すべて1945年(昭和20)の二度にわたる山手空襲Click!で焼失している。
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落四小「火保図」1938.jpg

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落四小電柱1941.jpg
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佐伯祐三「八島さんの前通り」1926.jpg

 卒業アルバムとともに、堀尾様から林間学校や遠足などでの記念写真も同時にお見せいただいた。特に林間学校では、生徒全員が集団で食事をとる風景などが写っているのだが、のちの学童疎開で撮影された食事風景に比べると、子どもたちの表情には暗さや屈託がなく、とても明るいのが印象的だ。また機会があれば、ぜひこちらでご紹介したいと思っている。

◆写真上:1941年(昭和16)に、できて間もない落合第四小学校プールで撮影された男組。
◆写真中上上左は、1941年(昭和16)春に作成された卒業アルバムの表紙。上右は、鎌倉は二階堂ヶ谷の鎌倉宮で撮影された遠足の記念写真。は、卒業アルバムの男組記念写真で堀尾様とと富永教諭が写る。は、同じく卒業アルバムから男女組()と女組()の記念写真。
◆写真中下は、校庭で体操をする男女組を写したもので向かいの森は御留山。下左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる落合第四小学校。下右は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された同校。北側に新校舎が建ち、南のバッケ下にはプールが造られているのが見える。
◆写真下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる落合第四小学校と撮影ポイント。下左は、プールでの記念写真に見える電柱の拡大。下右は、1926年(大正15)9月21日に描かれたとみられる佐伯祐三『八島さんの前通り』(タテの画)の部分。

佐伯作品が架けられた笠原吉太郎葬儀。

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笠原吉太郎葬儀.jpg

 笠原吉太郎Click!の孫娘にあたられる山中典子様より、貴重なアルバムの一部や夫人・笠原美寿Click!の手織り作品をお送りいただいた。そこには、笠原吉太郎のプロフィールとともに、1954年(昭和29)に80歳で死去した際の葬儀写真が含まれている。
 その葬儀のときの祭壇に、まずは目を惹きつけられた。正面に笠原吉太郎の遺影が置かれているが、その上部には佐伯祐三が1927年(昭和2)5月に制作した、そして先年に新宿歴史博物館で開催された「佐伯祐三―下落合の風景―」展Click!にも出品されている、『笠原吉太郎像(K氏の像/男の顔)』Click!が架けられている。この作品は、笠原吉太郎が1927年(昭和2)4月に『下落合風景を描く佐伯祐三』Click!(朝日晃の画名ママ)を描いたため、その返礼として1ヶ月後に笠原吉太郎へ贈られたものだ。同作品は、長く笠原邸の居間に架けられていた。
 笠原制作の『下落合風景を描く佐伯祐三』は、おそらく笠原吉太郎から佐伯祐三へ贈られていると思われるのだが、わたしは同作をいまだ実際に観たことがない。いま、笠原吉太郎『下落合風景を描く佐伯祐三』はどなたがお持ちで、どこにあるのだろうか? 朝日晃が2001年(平成13)に大日本絵画から出版した、『そして、佐伯祐三のパリ』には同作のモノクロ画像が掲載されているけれど、この画面がはたして作品の全体像なのか、それともイーゼルに向かう佐伯の立ち姿部分のみを拡大して、トリミングしたものなのかが不明なのだ。
 もし、佐伯がイーゼルを立てている周辺の風景がカットされているとすれば、ぜひ全画面を観てみたい。周囲の風景を把握できれば、おそらくわたしは、佐伯が下落合のどの場所に立っているのかがわかると思う。そして、佐伯が向かっているキャンバスには、下落合のどのような風景が描かれつつあるのかも、もしそのときの作品が現存しているとすれば、50点余の『下落合風景』Click!の中からすぐに推定することができるだろう。あるいは、作品が現存していなくても、下落合の当時の風情や地形などから、作品の姿を具体的に想定することが可能だ。また、当該の『下落合風景』は1927年(昭和2)4月に描かれていることを、ピンポイントで特定することもできる。
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笠原吉太郎「下落合風景を描く佐伯祐三」192704.jpg
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佐伯祐三「笠原吉太郎像」192705.jpg

 笠原吉太郎の葬儀は、おそらく自宅で執り行われたのだろう、わたしが想像していたよりもはるかに質素だ。基本的には親族が中心の葬儀だったようで、昔からの画家仲間が集まるような大きな“葬儀会場”のイメージではない。戦後、笠原吉太郎はほとんどタブローを制作をしていなかったので、画壇から離れていたせいもあるのだろう。写真からは、親族中心の静かでしめやかな雰囲気が伝わってくる。この直後から、美寿夫人による東奔西走の大活躍Click!がスタートするのだが、その慌ただしさはいまだこれらの写真からは感じとれない。
 お送りいただいた写真の中には、いままで見たことのない1938年(昭和13)に撮影された笠原吉太郎のサイン入りプロフィールや、戦後に自邸の庭で撮影されたとみられる笠原夫妻の記念写真が含まれていた。また、こちらではご紹介できないけれど、笠原邸のおそらく居間に集まる家族写真の背後には、笠原吉太郎が戦前に制作したとみられる静物画が2点、壁に架けられているのが見てとれる。1点は、サイドテーブル上の花瓶に活けられた草花であり、もう1点は皿の上に置かれた2匹の魚と、南欧を思わせるデザインのワインボトルだろうか? 残念ながら、今回お送りいただいた室内写真には、『下落合風景』Click!と思われる作品は架けられていなかった。
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笠原吉太郎1938.jpg
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笠原吉太郎.jpg

 笠原吉太郎の肖像写真の中には、1973年(昭和48)に発行された『美術ジャーナル』復刻第6号に掲載の、外山卯三郎Click!「画家・笠原吉太郎を偲ぶ」へ反射原稿として入稿されたとみられる、写真の原版も含まれていた。同誌の印刷はかなり悪く、画面が暗くてよくわからなかったのだが、今回お送りいただいた写真原版でようやく細かなディテールをつかむことができた。
 写真類とは別に、三越で1932年(昭和7)に開催された、江戸期からの「切り絵」細工の催しかなにかで作らせたのだろう、笠原吉太郎のシルエットを描いた切り絵が、資料に含まれていたのが面白い。切り絵の作者は、「H.TAKAYAMA」と記載されているが、当時はけっこう名の知られた肖像切り絵師だったものだろうか?
 また、美寿夫人が笠原手織り機Click!で作り、孫娘の典子様へプレゼントされたパステルカラーのショールが印象深い。織り目というよりは編み目に近い表面を見ると、1960年代になって普及しはじめた毛糸の編み機による作品のようにも見えるのだが、このような編み物もまた、笠原手織り機ですばやく手軽にできたらしい。そして、このような織りの実証を通じて、美寿夫人はのちに編み機「あやとり」の開発へ取り組んでいったのではないだろうか?
 もうひとつ、着なくなった着物の生地を幅細く裂き、それを“糸”代わりにして手織りにした「裂き織り」と呼ばれる手法の作品もお見せいただいた。この着物は、山中典子様のお母様が着古したもので、それを美寿夫人が細かく裂いて手織りにし、半巾帯に仕上げたものだ。紬(つむぎ)など普段着用の半巾帯として、とてもしぶく美しい出来になっている。いかにもモノを大切にし、質素な生活にさまざまな発明や工夫をこらしていた美寿夫人らしい作品だ。
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笠原吉太郎・美寿夫妻.jpg
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笠原吉太郎切り絵1932.jpg

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美寿夫人ショール.JPG

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笠原手織り機半巾帯.jpg

 下落合の「八島さんの前通り」Click!(星野通りClick!)に面した下落合679番地へ、1920年(大正9)にアトリエ付きの2階建て西洋館を建設したころは、笠原夫妻と子どもたちだけの家族だったものが、戦後に笠原吉太郎が亡くなるころには、子どもたちが次々と結婚して孫を産み、ゆうに20人を超える大家族を形成していた。笠原邸の室内で、また庭園で撮影された家族写真を拝見していると、そのにぎやかで明るい大家族の華やぎが画面から伝わってくるようだ。

◆写真上:1954年(昭和29)に行なわれた、笠原吉太郎の葬儀祭壇。遺影の上には、1927年(昭和2)5月に佐伯祐三が制作した『笠原吉太郎像』が架けられている。
◆写真中上は、1927年(昭和2)4月に制作された笠原吉太郎『下落合風景を描く佐伯祐三』。は、同年5月に制作された佐伯祐三『笠原吉太郎像(K氏の像/男の顔)』。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に撮影された未公表の笠原吉太郎プロフィール。は、1973年(昭和48)に発行された『美術ジャーナル』復刻第6号に掲載の写真原版。
◆写真下上左は、戦後に下落合の自邸の庭で撮影されたとみられる笠原吉太郎・美寿夫妻。上右は、三越の切り絵イベントで作られたとみられる笠原吉太郎のシルエット肖像。は、美寿夫人が笠原手織り機で織って孫の山中典子様にプレゼントしたショール。は、美寿夫人が着物を裂いて「裂き織り」にしたしぶい半巾帯。

下落合へ東西南北から迫る大道路。

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十三間通り(新目白通り).JPG

 1944年(昭和19)になると、戦争の激化や資材不足から工事がストップしてたとはいえ、落合地域の住民は、東西南北から直線状に迫ってくる幅員の広い大道路の存在を意識していただろうか。西北と東から迫るのは十三間道路(現・新目白通り)であり、南北から落合地域を東西に分断するように迫るのは改正道路Click!(環六=山手通り)だった。これらの大道路は、まさに落合地域で落ち合うような進め方で工事が進捗していた。
 この時期、北西から迫る十三間道路は、西落合の新青梅街道に到達する地点(現・地下鉄大江戸線・落合南長崎駅あたり)まで、東から迫る十三間道路は早稲田大学の北側、都電の終点であるグランド坂下Click!まで。また、北から迫る改正道路は、すでに目白文化村Click!の第一・第二文化村の東端を削っており、南から迫る改正道路は上落合を東西に分断して、西武電鉄Click!の中井駅へと迫っている。これらの大道路は、既存の道路を拡幅したものとは大きく異なり、郊外住宅地をカーブの少ない真っ直ぐな形状で貫いていた。
 災害時や戦時の火除け地、すなわち防火帯としての役割りも担っていたのだろうが、道幅が十三間(約24m)あるにもかかわらず、早稲田の十三間道路沿いの家々は建物疎開Click!を命じられ、1944年(昭和19)の10月までに道路の北側から神田川までの間に建つ家々が、取り壊されはじめている。これにより、江戸川橋の交差点から早大のグランド坂下、つまり都電の終点・早稲田駅まで50~100mの防火帯36号江戸川線Click!が出現しようとしていた。
 防火帯としての役割のほかに、十三間道路には戦時中から囁かれていたウワサがあった。それは、都内(1943年より東京府→東京都)の陸軍飛行場が爆撃され使用不能になったとき、これら直線状の大道路を戦闘機の代替滑走路として使用する・・・というものだ。国立公文書館の陸軍資料を調べてみても、このウワサの真偽はわからないのだが、中国大陸の幅員の広い道路建設に陸軍が深く関与している状況をみると、あながち兵站や軍事輸送のみを意識した道路建設とは思えないフシがある。国内の、しかも首都圏の大道路であれば、陸軍は工事を認可する過程でさまざまなことを仮定、あるいは構想していると思われるからだ。
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十三間通り(北西)1944.jpg

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十三間通り(東)1944.jpg

 昔から十三間通り(新目白通りの通称)を通ると、親父はそのたびに何度か「戦時の代替滑走路を意識して造られたんだよなぁ」と口にしていた。また、年配のタクシードライバーからも、わたしが「十三間通りから下落合の氷川社まで」と行き先を告げると、「お客さん、なんで十三間の広くて真っ直ぐな道路にしたか知ってます?」と話しかけられた。「帝都防衛のための戦闘機の滑走路でしょ?」と答えると、「そうなの、だからいい舗装がされてたんだ」・・・と、わたしがタクシーから降りるまでずっと戦時中の想い出話がつづくことになった。
 都内の主な大道路が、代替滑走路の用途として使われるというウワサは、実は戦時中にとどまらない。戦後、連合軍による占領下でも、まったく同じウワサが市民の間で囁かれていた。それは、GHQが都内の主要道路を接収して、“不沈空母”としての代替滑走路にする・・・というものだった。もちろん、米ソ戦を前提とした“構想”だったのだろう。しかも、十三間道路や二十間道路をそのまま使用するのではなく、幅員を100mまで拡幅した広場に近い道路を建設するというもので、明らかにB29やB36の長距離爆撃機を意識したウワサとして流れていた。
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改正道路(北)1944.jpg

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改正道路(南)1944.jpg

 1984年(昭和59)に出版された、中井英夫『続・黒鳥館戦後日記-西荻窪の青春-』(立風書房)の1947年(昭和22)5月1日の記述に、そのウワサが書きとめられているので引用しよう。
  
 東京のどこそこの道路を百米にひろげて、それは、いざといふ時の滑走路にする為だとか、七百時間以上の飛行経験者はゾクゾク徴用されてゐるとか、いやもう、米ソ戦の噂でもちきり。
  
 火のないところに煙は立たないというが、公式記録には残っていないものの、戦中戦後を通じて東京の大道路を滑走路目的で使用できないだろうか?・・・と考えた、陸軍関係者やGHQの関係筋がいても決しておかしくはないだろう。大きな長距離爆撃機はともかく、当時の戦闘機だったら弾薬や燃料補給の課題さえ解決できれば、十分に離発着ができたと思われるからだ。
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道路計画1933.jpg

 いま、十三間通り(新目白通り)沿いでは、電柱をなくす共同溝の設置が急ピッチで進められている。電線や通信線を共同溝へ収容する大規模な工事は、おそらく下落合では1922年(大正11)より造成された目白文化村Click!以来ではないだろうか。文化村では、通信ケーブル(電話線)は収容しきれず地上に残ったけれど、十三間通りの工事はすべてのケーブルを地下へ埋設するようだ。

◆写真上:下落合の南を貫く十三間通りで、右側がケーブル類の共同溝への埋設工事現場。
◆写真中上は、1944年(昭和19)に北西から迫り西落合まできている十三間通り(新目白通り)。は、同年に東側の早稲田から迫る同通り。道路北側の住宅街が同年10月現在、防火帯36号江戸川線建設のための建物疎開で、徐々に解体されているのが見える。
◆写真中下は、1944年(昭和19)に北側から下落合まで達していた改正道路(山手通り)の工事。は、同年に南から上落合を分断し中井駅の手前まできていた改正道路。
◆写真下:1938年(昭和8)の「淀橋区全図」に描かれた、改正道路(山手通り)と十三間通り(新目白通り)の建設予定計画で、現ルートとは微妙に異なっているのが面白い。特に十三間通りは、戸山ヶ原の陸軍施設への物流が意識されたものか、省線・高田馬場駅まで突き抜けている。

久しぶりの“ももんじ屋”で舌鼓。

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ももんじ屋1.JPG

 あけまして、おめでとうございます。本年も「落合道人」サイトを、よろしくお願い申し上げます。
  
 子どものころ、明治座Click!での新派Click!の芝居(新国劇Click!の上演もあったかもしれない)で午睡Click!したあと、日が暮れていれば江戸期からのすき焼きを継承する、日本橋薬研堀の鴨すき「鳥安」Click!へ、昼間だったら大橋(両国橋Click!)をわたった東詰め、江戸期からつづく本所の“ももんじ屋”(肉料理屋)である「豊田屋」へ立ち寄っては、うまいもんを食べていた。
 いきなり余談だけれど、安産の神様で全国から参詣者を集める有馬の水天宮Click!が、日本橋浜町の明治座前へ遷座しようとしている。明治期から蠣殻町にあったので、出かけるには地下鉄の人形町駅か水天宮前駅で下りていたから、そちらのほうが馴染み深いのだけれど、わたしの故郷(東日本橋の薬研堀)のすぐ南側に引っ越してくるのが、ちょっとうれしくもある。でも、半蔵門線の水天宮前駅はどうなってしまうのだろう。「元水天宮前」駅とでも改名するのかな? 江戸期の赤羽橋にあった、有馬屋敷以来のめずらしい遷座だ。
 江戸すき焼きの鳥安は、当時は料理屋というよりは料亭の趣きがあって、夕方からしか営業していなかったが、ももんじ屋は昼間から営業していたので、まだ明るいうちに舞台が終わると食べに寄れたのだ。ももんじ屋の豊田屋さんは、1718年(享保3)の開店だから、そろそろ創業300年を迎える。徳川吉宗が将軍に就き、前年に大岡忠相Click!が南町奉行に任命された時代だ。開店した当初から、おそらく新しもん好きなわたしの先祖は食べに通っていたと思われる。
 “ももんじ屋”とは、江戸時代を通じて存在した肉料理屋の一般名称で、特定の店に固有の屋号ではない。江戸も後期の朱引き墨引きが拡大した大江戸(おえど)時代になると、街中のあちこちには“ももんじ屋”が見世を開いていた。江戸期には、四つ足の獣肉は食べなかった・・・なんてウソ八百の付会が生まれたのは、いったいどういう根拠からだろう? 地方から江戸の藩邸へ詰めていた、自由に出歩けず(城)下町の様子をよく知らない乃手の武家ならともかく、下町に住んでいた町人や御家人・旗本なら、“ももんじ屋”は決してめずらしい存在ではなかったはずだ。
 「薬食い」などといわれ、体調が悪く病気のときにやむをえず食っていた・・・なんて記述も、流行りの江戸ブーム本で見かけるけれど、これも地元(下町)の伝承や記録を知らない、まったくいい加減な記述だ。町人たちが足しげく通う、「下世話」な見世でうまいもんClick!を食べるのに、病気を治すための「薬食い」だなどと、上役に言いわけをしなければならなかった、どこかの藩士の伝承だろうか? もっとも、肉料理が身体を温めるのは事実で、夏場よりも冬のほうが客足は伸びたらしい。安藤広重Click!が描く、『名所江戸百景』Click!の第114景「びくにはし雪中」には、「十三里Click!」(焼き芋屋)の斜向かいに「山くじら」の看板を出した、いかにも厳寒期には流行りそうな“ももんじ屋”(屋号は不明)が見世を張っている。こちらは、京橋界隈にあったももんじ屋だ。
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ももんじ屋2.JPG
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ももんじ屋3.JPG

 豊田屋さんにうかがったら、1960年代には昼も夜も開店していたのだが、1970年後半から夜だけの営業になり、現在は夜だけでなくランチタイムには再び営業をはじめているそうだ。わたしが、豊田屋さんへ最後に食べに寄ったのは、1970年代の半ばぐらいだったろうか? だから、1979年(昭54)に木造2階建ての店をビルに建て替えてから初めて出かけたわけで、およそ35年ぶりぐらいになる。それだけ、薄給のわたしには、いまや高級料理となってしまった“ももんじ”は、敷居が高かったわけだ。日本橋側の江戸すき焼き「鳥安」さんへは、最近までずっと途切れず出かけているので、本所側の豊田屋さんにはずいぶんご無沙汰をしてしまった。
 わたしが物心つくころ、昼下がりの豊田屋さんの2階からは大川(隅田川)が見え、川を上り下りするポンポン船の音が聞こえていたように思う。世界万国博覧会'40Click!のために造られた勝鬨橋Click!が、いまだ開閉していた時代だ。川端の柳が風にゆれ、広小路のクルマの音はそれほど気にならなかった。ところが、1964年(昭和39)の東京オリンピックで、周囲の風情は激変してしまう。関東大震災Click!の教訓から、防災インフラClick!として造られた大川端の火除け地や避難場所が、次々と高速道路に変わっていったのだ。おかげで、豊田屋さんは首都高の真下とはいわないまでも、とんでもなくクルマの騒音がうるさい店になってしまった。1979年(昭和54)に店舗をビルに建て替えるまで、店内には上を走るクルマの騒音がかなり響いていた。
 さて、久しぶりの江戸“ももんじ屋”なのだが、メニューが少し変わっていた。わたしが食べて、子ども心にも「超マズイ!」と思ったタヌキ汁がなくなり、代わりにクマ汁が加わっていた。タヌキは、誰が食べても臭くて脂っぽくてうまくないと思うので、だいぶ以前にメニューから外されたのだそうだ。再び余談だけれど、昨年の秋口から、うちの裏庭でタヌキが2~3匹、ガサゴソとうるさい会議を開いている。「タヌキは、まずくて食えないんだな・・・」といったのが聞こえて、「ここなら安心だポン!」と縁の下に巣穴か、トイレでもこしらえていなければいいのだけれど・・・。
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両国橋東詰め.JPG
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広重「びくにはし雪中」安政.jpg

 豊田屋さんで、昔どおりのシシ鍋コースを注文したところ、シカの刺身とから揚げ、それにクマ汁がついていた。わたしは淡白な赤身のニホンジカ肉と、対照的にこってりしたツキノワグマ肉の両方が大好きなので、さっそくワインもいっしょに注文する。クマ鍋も出しているそうだが、やはりシシ鍋のほうが数段うまい。クマ肉は、北陸の寿司屋がよくそうしているように、殺虫のためにルイペにして、刺身で赤みがさしたところを食べるのがいちばんうまいと思う。
 江戸のシシ鍋は、いわゆる「ぼたん鍋」のことではない。いま風にいうなら、すき焼きにもっとも近い料理のしかただ。あらかじめ、すき焼き風の鍋に醤油と甘味噌ベースの汁をうっすらと張るので、「シシすき」ではなく「シシ鍋」と表現される。ここでも、江戸期からの料理である“すき焼き”に関連して、明治期から普及した「牛すき焼き」と「牛鍋」との取りちがえによる混乱=料理名の珍現象は、さすがに江戸期からの老舗なので見られない。
 この街では、すき焼き鍋(鉄板)で肉を焼いてから食う(なぜか今日では「関西風」などと呼ばれてしまっている)のが、江戸からのすき焼き料理であり、あらかじめ少しでも汁を張れば「XX鍋」と呼ばれてきている。明治期に、東京じゅうで流行った牛鍋を称して、「東京のすき焼きは汁を先に張る」・・・などというトンチンカンな“解説”は、ももんじ屋の「薬食い」とまったく同様、少なくともこの街(城下町)のことを知っている人間の口から出た言葉ではないだろう。ついでに、「日本橋や銀座は下町じゃないですよ」にいたっては、もはやおきゃがれClick!もんで、なにをかいわんやだ。銀座の岸田劉生Click!が聞いたら、即座に「バッカ野郎!」とぶん殴られるだろう。w
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ももんじ屋6.JPG
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本所から東日本橋.JPG

 豊田屋さんのシシ鍋は、昔と変わらず絶品だった。わたしは、「ぼたん鍋」風のシシ鍋は食べたくないけれど、江戸“ももんじ屋”ならではのシシ鍋だったら、佐伯祐三の下落合「すき焼き大会」Click!ではないけれど、冬なら毎週でも食べたい。(毎日はさすがに無理だ) わたしの記憶では、子ども時代のシシ鍋には、すき焼きとまったく同じ具が入ったように思う。すなわち、焼き豆腐に椎茸(ないしは榎茸)、長ネギ、春菊、しらたきだ。でも、当代の豊田屋さんではキノコが入らず、春菊の代わりに芹が入っていた。なるほど、春菊よりも芹のほうがシシ肉の味を引き立たせている。

◆写真上:すき焼きに似た昔ながらの鍋を用いる、ももんじ屋「豊田屋」の江戸東京風シシ鍋。
◆写真中上は、1979年(昭和54)にビルへ建て替えた豊田屋の見世先。は、しばらく寝かせて食べごろになった野生のシシ肉。養殖ではなく三重、滋賀、兵庫などで獲られた野生イノシシしか仕入れておらず、養殖ものやブタ肉とは異なり脂身がしつこくなくあっさりとしている。
◆写真中下は、シカ肉の刺身()とから揚げ()。下左は、大橋(両国橋)の東詰め(本所側)。下右は、安政年間に描かれた安藤広重の『名所江戸百景』のうち114景色「びくにはし雪中」。ももんじ屋(肉料理店)は別にめずらしい見世ではなく、大江戸のあちこちに開店していた。
◆写真下は、鼈甲色になるまで煮こんだいちばんうまくて食べごろのシシ肉。は、本所側から大川をはさんで日本橋側の薬研堀(東日本橋)あたりを眺めた夜景。ひときわ強いライトは日本橋中学校(旧・千代田小学校)の校庭で、その右手に見えるビルが旧・ミツワ石鹸Click!のあったカゴメビル。その右下には、震災復興計画で設置された元祖・すずらん通りClick!が見えている。

船山馨と鞍馬天狗とパリ・コミューン。

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船山馨邸跡.jpg

 いまや「池袋モンパルナス」Click!で有名な小熊秀雄Click!だが、彼は1936年(昭和11)から翌年にかけ読売新聞で文芸批評を担当していた。対象となる作家や作品を具体的に論ずるのではなく、“詩”の形式に託しての批評を試みている。そこで批判にさらされたひとりが、「行動主義」文学運動の先頭に立っていた、下落合435番地の近衛町に住む小説家・舟橋聖一Click!だった。
  
 コロモが自由主義で
 タレが行動主義で
 中身がファシズム
 でもあつたりしたら
 困りもんだよ
 君も少し自分の
 鼻に罨法(あんぽう)をしたまへ
 柔くなつたら
 僕のところへ訪ねてきたまへ
 僕が鼻を踏んでやらうから
  
 舟橋はそれを読んで激怒し、自伝小説『真贋の記』で行動主義文学運動の「中身がファシズムだと言はれては、腹に据ゑかねた」と書いている。でも、下落合679番地の女性運動家・高良とみClick!がそうであったように、小熊はファシズムや軍国主義、やがては日本を1945年(昭和20)8月15日の破滅へと導いていく“亡国”思想や政治とは一見、対極に身を置いているように見えながら、少しずつ身動きがとれない状況へと追いこまれ、知らないうちに取りこまれ、ついには沈黙させられていく作家たちの軌跡が、小熊の詩人らしい直感から透けて見えていたものだろうか?
 早稲田大学で学費が払えず、明治大学へ入学し直した船山馨Click!(明大も学費が払えず中退)は、国文学の授業を舟橋聖一に教わっている。だから、恩師である舟橋を一刀両断にした小熊秀雄には批判的だが、1978年(昭和53)に出版された『みみずく散歩』(構想社)では、どこか小熊に同情的な文章を残している。文学者たちが、雪崩をうってファシズムへと取りこまれていく様子を、そして軍国主義の暴力と恫喝への抵抗力が日に日に衰弱していく様子を目の当たりにしている船山馨は、小熊秀雄が「少しくヒステリックな罵声を浴びせたとしても、心中の憂悶は思いなかばに過ぎるものがある。ちかごろの社会情勢は、再び当時と酷似した様相を呈してきている。私は小熊氏をあの世から呼び戻してみたいような気がする」・・・と書いている。
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小熊秀雄.jpg
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舟橋聖一邸残月の間.JPG

 船山馨は、1973年(昭和48)の『蘆火野』(朝日新聞社)で、幕末から戊辰戦争の激動の時代に函館で生きた主人公・河井準之助を、1871年(明治4)春のパリ・コミューンの革命状況下で死なせている。パリ・コミューンは、もちろんのちのマルクスやレーニンによって規定される“プロレタリア革命”とは異なり、どちらかといえばブランキ主義者やプルードン主義者による社会主義的解放自治(区)をめざしたパリ市民の一斉蜂起なのだけれど、幕府の直参である河井準之助が戊辰戦争ではなく、フランス料理を学びに渡航した先のパリ・コミューンで死亡するのは非常に象徴的なのだ。
 戊辰戦争は、徳川幕府軍が勝とうが薩長軍が勝とうが、そこで形成される近代的産業資本主義段階を迎えたレイヤ上の政治は、発達史論争の“労農派”と“講座派”の規定対立はさておき、政府として形象化されるのは庶民不在のもので、相変わらずたいしたちがいはなかっただろう。「天下分けめ」などといわれる関ヶ原の戦Click!が、どちらへ転ぼうとおよそ変わりばえのしない封建主義的な武家政権だったにちがいないのと同様で、封建基盤を支える庶民が一貫して不在なのは差異がない。だが、政治的あるいは社会的な変革概念からいえば、1871年(明治4)春のパリ・コミューンは本質的に異なっている。そのような状況の中で、準之助の生命がついに燃えつきるところに、『蘆火野』を貫く野太い経糸のテーマ性が見えている。そしてもうひとり、主人公をパリ・コミューンの中で死なせようと考えていた同時代の小説家がいた。横浜の大佛次郎だ。
 1961年(昭和36)から1970年代まで、ノンフィクション『パリ燃ゆ』を書きつづけた大佛次郎は、かつてアラカンこと嵐寛寿郎が演じて圧倒的に人気があった「鞍馬天狗」を、やはりパリ・コミューンで死なせようと考えていた。この事実は、1982年(昭和57)8月5日に船山馨・春子夫妻の一周忌で川西政明とともに講演した、当時は日本社会党の委員長だった飛鳥田一雄が証言している。
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船山馨「蘆火野」.jpg
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大佛次郎「パリ燃ゆ」.jpg

 飛鳥田一雄は横浜市長時代、港の見える丘公園に隣接して大佛次郎記念館を設立しており、生前の大佛とは親しかった。現在の同記念館は、フランス国立図書館を除けば、パリ・コミューンの資料館としては世界最大の規模となっている。横浜の大佛次郎記念館が、パリ・コミューンの資料にこだわるのは『パリ燃ゆ』のせいばかりでなく、フランスの周辺国でも見られたように当時、横浜港にもパリ・コミューンの亡命者が何人か上陸しているとみられるからだ。
 当時、飛鳥田一雄の秘書だった根本二郎様Click!よりいただいた、1982年(昭和57)の船山馨一周忌記念講演を文章化した、飛鳥田一雄『「蘆火野」と私』から引用してみよう。
  
 「蘆火野」の連載の最中、また大佛先生と「先生、ついに船山さんにやられちゃったじゃないか」という話をしたのであります。私はそういう意味でですね、日本の文学者が少なくとも日本の社会をこういうふうに、そして、新しい社会というものを考える場合にパリコミューンに至らざる人はないのではないだろうか。大佛さんは鞍馬天狗をそういう深い、非常に深いパリコミューンへの理解のなかで、愛する鞍馬天狗を、愛するパリコミューンの庶民の手の中で殺そうと考え、船山先生は船山先生で順之助(ママ)をついにパリコミューンの中で殺してしまうのであります。
  
 飛鳥田一雄は、歴史の研究家としても知られるが、日本で農民一揆がもっとも多発したのは、徳川幕府の時代ではなく、明治時代だったことを同講演で述べている。幕府が崩壊し、時代にうまく適応できない「不平士族」や、明治維新とは「こんなはずじゃなかった尊皇攘夷派」の不満分子については、教科書をはじめあちこちで語られることが多いが、いちばん「こんなはずじゃなかった」と感じていた農民や庶民の視座から、維新という時代をとらえた著作は思いのほか少ない。
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 日本を“亡国”寸前にまで運んでいった大日本帝国による「こんなはずじゃなかった」は、1945年(昭和20)8月15日までつづくことになるのだが、幕末に消息を絶った鞍馬天狗も、またパリ・コミューンで死んだ『蘆火野』の河井準之助も、そのみじめで情けない壊滅的な終焉を知らない。

◆写真上:『蘆火野』が執筆された、旧・下落合4丁目2107番地の船山馨邸跡。
◆写真中上は、下落合北側の長崎町を転々とした詩人であり画家でもあった小熊秀雄。は、旧・下落合1丁目435番地で暮らした舟橋聖一邸の「残月の間」に残る床(とこ)。
◆写真中下は、船山馨『蘆火野』の原稿。下左は、1973年(昭和48)に出版された『蘆火野』(朝日新聞社)。下右は、1961年(昭和36)から書き継がれた大佛次郎『パリ燃ゆ』(同)。
◆写真下は、船山馨()と大佛次郎()。は、飛鳥田一雄()と嵐寛寿郎()。

非「動」的な本とリンゴ本大作戦。

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 昨年3月末に買った、当時はクラス最薄・最軽量(2012年7月に発売されたNECのLavieZに、現在はその座を奪われているのだろう)のウルトラブックが、暮れの仕事がいちばん忙しい時期に壊れた。1,000gちょっとのCore i7+4GB+SSD(102GB)を搭載したWindows7マシンで、どこへ出るにも手軽に持ち歩け、処理スピードにもまったく不満はなかったのだが、購入してからわずか8ヶ月でおかしな“ふるまい”を起こす製品は、長いPC生活の中では初めての経験だ。
 やっぱり餅は餅屋で、家電系のメーカーではなく、ちゃんとICT専門のベンダー製品にしておけばよかったかな?・・・という思いが、さっそく頭をよぎった。これまで、自作したPC×3台を除き、会社でも家庭でも導入した製品は、大型コンピュータからネットワーク、携帯端末にいたるまですべての事業分野をカバーしている、技術の蓄積が豊富な専門のICTベンダー製品ばかりだった。ところが、このウルトラブックだけはその軽さや機能性、デザインなどに惹かれて、つい例外的に家電系の製品を選んでしまったのだ。導入後、わずか8ヶ月でおかしくなるとは思いもよらなかった。
 さっそく、サポートセンターに連絡を入れて修理を依頼した。いまだ1年以内の保証期間中なので、当然、どのような不具合でも無償修理だと思っていたのが、そもそもまちがいのもとだった。今回の症状は、PCがECOモードでスリープ状態になった場合、それを元にもどそうとするとログイン画面にもどらず、また強制的に終了(リブート)しようとするとそれもできない・・・という、使う側にとっては手の打ちようがないものだった。PCはそのまま、スリーブ状態が恒常的につづく状態となる。おそらく、電源プログラムのどこかにバグがある・・・と思われるふるまいだ。
 ところが、サポートセンターへ修理を依頼するだけで、ただそれだけで保証期間中に4,200円を請求されるとは思ってもみなかった。しかも、「そのような症状はみられなかった」・・・などというコメントがとどき、ついでに「基板に水をかぶった痕跡があるので、マザーボードを交換したほうがいい」などという“診断”結果がとどいて、じゃあ保証期間中なのだから無償で交換してくれるのかと思ったら、交換には約9万円近くかかるのだそうだ。マザーボード交換は、保証の対象には入っていないという。9万円あれば、DELLあたりで同性能の機種がもう1台買えるじゃんか。(爆!)
 ちなみに、わたしはPCにコーヒーを飲ませたことも、水をかけたことも、風呂に浸かりながら極楽PC操作をしたことも、プールでウルトラブックを背負いながら泳いだことも、ましてや雨の中をPC片手に「雨に歌えば」を踊った憶えもない。仕事のデスク上で、あるいは打ち合わせの会議室のテーブル上で使用してきただけで、まったく腑に落ちないのだ。これはいったい、どういうことだろうか? 別の箇所の重大な不具合を、ひそかにリコールしようとしていると勘ぐられてもしかたないだろう。
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 保証期間中なら、どのような症状でも無償で診てくれる、ごくふつうのICT専門ベンダーの製品を使いなれていたせいか、この家電メーカーの対応にはあっけにとられた・・・というか、つくづく呆れてしまった。いつだったか、このメーカーの製品(なんの家電だったのかは忘れた)について納得ができないので電話を入れた顧客が、いつの間にかクレーマーの常習犯のような扱われ方をされ、そのような印象がマスコミを通じて流布された・・・という出来事があったけれど、これでは別にクレーマー常習犯じゃなくても、文句の電話のひとつやふたつ、かけてやりたくなるのもわかるような気がするのだ。もちろん、保証期間中にもかかわらず部品+作業費+サポート料で約9万円のマザーボード交換などとんでもない、そのまますぐに返送してもらった。
 いまのところ、電源まわりのおかしなふるまいは再発していないけれど、いずれまた近いうちに起きるのかもしれない。次に起きたら、まちがいなく早々に廃棄処分にしてやろう。そして、重要なデータは、すべてクラウド上のストレージへ逃がしておこう。やっぱり、次は国内・海外製の別なく、コンピュータ専門のちゃんとしたシステムベンダー製品にもどることにしよう。
 もうひとつ、昨年のクリスマスに知人から意外なプレゼントをいただいた。MacOS Xを搭載した、なんとMacBook Proだ。最新のマシンを購入したので、従来の製品を惜しげもなくプレゼントしてくれたわけだけれど、2010年に発売された仕様やデザインともに最新の機種に近い製品だ。
 わたしは、Basic→DOS→WindowsないしはLinux(Ubuntu)と使ってきているので、アップル社のMacにはこれまでまったく縁がなかった。アップル社の製品で使っていたのは、学生時代を終えるころからBasicベースのせいぜいAppleⅡcとAppleⅡeぐらいまでで、ちょうど初代Macが発売されるころ、わたしはNECの日本語DOSマシン、8ビット機(PC-8801)あるいは16ビット機(PC-9801)を使用していた。また、1983年(昭和58)には、DOSマシンPC-9800シリーズの上をいくPC-10000(PC-98を凌駕するPC-100と呼ばれていた)が、NECの98開発部隊とはまったく異なる事業部の研究開発で発売され、さっそくそれも会社で購入して使っていた。
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 1983年(昭和58)の早々に発表され、発売されたPC-100(正式型番はPC-10000)は、いまや伝説化しているけれど、ほとんどすべての操作がマウスだけで完結できる16ビットPCであり、のちに発売されるMacやWindowsのコンセプトを先取りした、世界初の革命的なマシンだったと思う。当時としては超高解像度だった720×512picのディスプレイを、タテにしてもヨコにしても使える仕様で、日本語ワープロを利用するときはタテで、表計算ではヨコというように、MacやWindowsが登場する前夜の、次の時代を見すえた最先端マシンだった。JS-WordやMultiplanなどを標準で搭載し、バンドルされたアプリケーションでほぼふつうの仕事が完結できる性能を備えていた。わたしは、その圧倒的な高解像度からPC-100にグラフィックソフトを入れて使っていた憶えがあるが、仕事をせずに標準添付のロードランナーもずいぶん楽しんだ。
 そんなDOS→(PC-100)→WindowsないしはLinuxのわたしに、Macをポンと気前よく贈呈していただけたのは、「Macのほうがすっごくいいよ~」なのか「Mac党になれば楽しいよ」なのか、はたまた「たまには気分を変えてイタズラしてみたら~」なのか、「MacじゃなきゃPCじゃねえ! 人間じゃねえ!」なのかは不明なのだけれどw、マシンを前に「ウ~~ン」・・・と腕組みをしてまった。操作がまったくわからないので、面くらったのだ。コンピュータは、もちろんDOS/WindowsやUNIX/Linuxを問わず汎用機のはずなのだが、こんな言い方ができるとすれば、Macは「パソコン専用機」なのだ。これまでの感覚やカンが、多くの操作で通用しない。クリックボタンがひとつしかないのも、なれてしまえばなんでもないことなのだろうけれど、メニュー表示にいちいち困惑する。
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 ドキュメント作成系のアプリケーションが入っていないので、クラウドのSaaSでこっそりOfficeを動かそうとしたら、さっそく冷えびえとした画面硬直とともに、「おとつい来やがれてんだ」とはじき出されてしまった。おそらく、クラウド側から「あんた、あたしたちの仲間じゃないよね? なりすましてるよね!」と叱られたのだろう。.NET(ドットネット) FrameworkがMac内に存在しないせいなのだが、さて、Javaあたりで動作するOffice互換のドキュメント作成SaaSあたりが、どこかでサポートされていないだろうか? いまのところ、こたつに入ってみかんを食べながらWeb活用しかできていないのだけれど、それだけではせっかくの高性能マシンがあまりにももったいないのだ。それにしても、Mac OSベースのブラウザSafariを通じて開くさまざまなWebサイトは、Mac搭載のわたしに馴染みのない日本語フォント依存も手伝って、これほど印象やレイアウトがちがって見えるのかぁ・・・と、改めてしみじみ実感している。もうひとつ、いただいといてなんですが、日本語IME(古い表現なら日本語FEP)「ことえり」の使いにくさは、なんとかならないものだろうか?

◆写真上:買って間もないウルトラブック()と、いただいたばかりのMacBook Pro()。
◆写真中上:保障期間中に修理センターへ送っただけで、4,200円を請求されたウルトラブック。保証対象外のメンテナンス作業や部品交換は保証書にちゃんと書いてあると、「読まないほうが悪い」と言わんばかりの対応だった。まるで、契約書をかざして損害を小さく小さく見積もる損害保険屋さんみたいで、技術に誇りと責任を持つITベンダーの姿はなかった。
◆写真中下は、Basicの勉強に使っていたAppleⅡc()と、PC操作にイノベーションを起こしたNECのDOSマシンPC-100()。は、いままで縁がなかったモノめずらしいMacBook Pro。
◆写真下:Web閲覧しか使ってもらえないので、ちょっと怒りっぽくなっているMacBook Pro君。


うつろいゆく「武蔵野」の記憶と風景。

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小金井ハケ下の道1955頃.jpg

 昭和の初期、「東京行進曲」Click!(作詞:西條八十)に「♪かわる新宿あの武蔵野の~ 月もデパートの屋根に出る~」と唄われた、きょうはその「武蔵野」について少し書いてみたい。国木田独歩Click!が、1901年(明治34)に『武蔵野』(民友社)を出版したとき、彼の頭の中で形成されていた武蔵野のイメージは、戸山から大久保、新宿、渋谷にかけての情景だったろう。でも今日、新宿や渋谷のことを、誰も「武蔵野」の風情が残る街などとは呼ばない。
 東京の西部を走る、山手線の内外地域が一般的に「武蔵野」と意識されていたのは、せいぜい昭和初期ぐらいまでだろうか。あるいは、神田や日本橋、京橋、銀座、本所、深川など江戸期からつづく市街地の“町殺し”Click!でへそを曲げた(城)下町人Click!たちが、1960~70年代ぐらいまで意図的にそう呼んでいたぐらいだ。戦後10年以上たって生まれたわたしの世代では、新宿や渋谷が「武蔵野」だとは到底思えないし、まったく感じられない。わたしの「武蔵野」感覚は、中央線沿線を中心にもっと西へ西へと移動している。
 先日、多摩湖Click!へ散歩に出かけたけれど、もはや多摩湖周辺も「武蔵野」と呼ぶには無理があるような状況になっていた。つまり、東京の人口が増え住宅街が西へ西へと拡がるにつれ、「武蔵野」の概念もそれにつれて西へと移動していった・・・ということなのだ。これは落合地域において、いつか書いた「バッケが原」Click!の西への移動にも似ている。西武電鉄Click!の開通とともに、住宅街が東から西へと押し寄せてくると、バッケが原は上落合から上高田へと少しずつ移動していった。「武蔵野」の概念もまったく同様に、若山牧水Click!が東京西郊を散歩して『東京の郊外を想ふ』を著したころから、おそらく30~40kmはゆうに西へズレているのではないか?
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五日市街道1955頃.jpg
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府中大国魂神社1955頃.jpg
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深大寺近く1955頃.jpg

 1950年(昭和25)に書かれた大岡昇平『武蔵野夫人』(新潮社)では、すでに「武蔵野」は東京の23区を抜けて小金井Click!や国分寺が意識されている。今日、小金井市や国分寺市、あるいはそのものズバリの名称である武蔵野市の現代的でおシャレな街並みを、はたして本来の「武蔵野」というイメージで語れるかどうか、大いに疑問だ。もはや、街中から武蔵野原生林を探すのさえ、目的をもって意識的に散歩をしないとむずかしくなりつつある。ずいぶんあとまで、「武蔵野」の自然の面影を宿していた世田谷区の西部でさえ、いまや緑地を自治体が買収・保護して公園化しないと、雑木林が後世まで継承できない状況にまでなっている。
 先日、アルバムを整理していたら、たくさんの「武蔵野」写真が出てきた。ひとつは、親父のアルバムに挿みこまれていた1950年代の「武蔵野」の姿。もうひとつは、わたしが高校時代に歩きまわった1970年代半ばの「武蔵野」の写真類だ。1950年代の写真は、現在の小金井市から日野、世田谷あたりの情景であり、わたしが買ったばかりの一眼レフで撮影した写真は小金井市から国分寺市あたりの情景が多い。つまり、親父世代の「武蔵野」は同地域が意識されていたのであり、わたしの世代ではすでに「武蔵野」の“面影”を求めた散歩になっている・・・というちがいがある。
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小金井野川1974.jpg

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 現在、同じようなことをしようとすれば、親父はもっと東京西部へ出かけることになるのだろうし、わたしもせいぜい「武蔵野」の“面影”を探すには、電車を1時間以上は乗り継がなければならないのだろう。そのうち、車窓からの視界は多摩丘陵へと突き当り、結局は昔ながらの「武蔵野」らしい「武蔵野」を探し出せないまま、引き返すことになるのかもしれない。
 つまり、なだらかな丘陵地帯に拡がる見わたす限りの草地や雑木林の風情は、もはやとっくの昔に滅び幻影と化していて、行けども行けども住宅街が拡がる東京郊外の景色を眺めるだけに終わるのかもしれない。知らないうちに、「武蔵野」の実景はとっくのとうに滅びてしまい、冷んやりと静謐でさびしく、またどこか懐かしくてあたたかな焚き火の匂いが漂う「武蔵野」の風情は、いつまでも頭の中だけに活きつづけるイメージとして残っていくのかもしれない。
 目をつぶると、ときおりヒヨドリやショウビタキ、ツグミなどが鳴きかわし、こずえを晩秋から初冬の風がわたって落ち葉を散らす「武蔵野」の“音”を、いまでも東京のあちこちで聞くことができるのだが、目を開ければ公園や緑化保存区画の屋敷林跡、神社の境内杜だったりする。落葉樹の落ち葉焚きが、防火と有害物質の発生を理由に自治体の条例で禁止されてから久しい。
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 いつだったか、五日市街道を化石採集しながら歩いた子どものころ、雑木林で遊んでいた地元の子たちと仲よくなり、親たちが「そろそろ帰ろうか」というのに聞こえないふりをして、2時間ぐらい遊んでいたことがあった。わたしが帰りかけると、いつまでも雑木林の樹上で手をふっていた子どもたちの姿を思い出す。そのときも、どこかで落ち葉を燃やす焚き火の匂いがしていた。

◆写真上:小金井のハケ下から畑地へと通う、「武蔵野」の典型的な雑木林の道。
◆写真中上:いずれも親父のアルバムから出てきた1955年(昭和30)ごろの「武蔵野」写真。は、五日市街道()と武蔵小金井駅の北側にある小金井橋()。は、小金井の桜橋付近()と小金井浄水場()。は、府中の大国魂神社()と調布の深大寺近くに拡がる雑木林()。
◆写真中下:いずれも、1974年(昭和49)にわたしが撮影した小金井風景。は、当時は未舗装だったハケの道。中左は、崖線沿いにつづくハケの風情。中右は、当時は生活排水による悪臭が問題化しはじめていた野川。は、ハケの道沿いの典型的な雑木林風景。
◆写真下は、1955年(昭和30)ごろの小金井貫井弁天社()と現在の同社()。は、同じく1955年ごろに撮られた世田谷にある徳富蘆花の旧居跡()と現在の蘆花恒春園()。

佐多稲子のルポ・東京遊覧バス1988年。

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丸の内南口はとバス乗り場.JPG

 わたしは、いまだ「はとバス」に乗ったことがない。いつか一度は乗ってやろうと思うのだが、いままでその機会がついぞなかった。東京駅の中央郵便局前から乗る「はとバス」は、ひょっとするとわたしがふだん気づかない、この街の別の顔を見せてくれるのではないか?・・・、あるいは、「東京」という街のイメージをどのような風景で“演出”し、実際の地元の暮らしとどれほどの乖離感があるものなのか?・・・というようなことを、確かめてみたい気持ちもあったのだ。
 以前、戦後の戸山ヶ原Click!に建設された戸山アパートを取材レポートした、佐多稲子Click!「ルポ・戸山アパート1953年」Click!をご紹介しているが、今度は彼女が「はとバス」に乗った面白い記事を見つけたのでご紹介したい。佐多稲子が、「はとバス」の夜のツアーに出かけたのは、1988年(昭和63)の晩秋で、亡くなる10年ほど前のことだ。夜のコースの料金は6,900円で、昼間のツアー料金が3,800円だった時代だ。1988年(昭和63)11月4日発行の『週刊朝日』に掲載された、佐多稲子「値段の風俗史<3>―東京定期遊覧バス乗車賃―」から引用してみよう。
  
 東京に住んで七十年余り、私はこの方面の東京にはすっかりなじんでいるのだが、今宵はいつもとちがっている。いつもなら、何かの用事で、行先きも決まっているが、今宵は、どこを廻るというのは自分たちで決めたにしろ、乗り降りは「あなた任せバス任せ」である。その気分はいつもとちがう。呑気なことで、街の眺めさえ変った感じがする。
  
 当時、東京遊覧バス(はとバス)の夜のコースには、「夜のディズニーランド」「夜の六本木と浅草」「夜の六本木と新宿」「デラックス赤坂ナイト」などの各コースがあったらしいが、佐多稲子が選んだのは「夜のお江戸」コースだった。ちなみに、近所で気軽な新宿はともかく、夜の六本木や赤坂にはほとんど興味がないけれど、「デラックス赤坂ナイト」というのはどのようなコースだったのだろうか? 1988年といえばバブル真っ盛りのころなので、赤坂山王町あたりの料亭に芸者を30人ほど呼んでの、大ドンチャン騒ぎコースだったのかもしれない。
 佐多稲子が選んだ「夜のお江戸」コースは、ほかの夜のコースに比べてずいぶんとしぶい内容だったようだ。食事は、「前川のうなぎ」か「駒形のどぜう」のどちらかが選べ、彼女は「駒形どぜう」を選んでいる。わたしも、どちらか選べといわれたら、いくら「う」好きでも現在の「前川」Click!は選ばないだろう。佐多稲子は、大正期に浅草で働いていたころから「駒形どぜう」には通っていたようなので、懐かしさも手伝ったのかもしれない。昔を思い出しながら、店の風情や味に「その頃と変ったようにもおもえない」と書いている。事実、わたしも「駒形どぜう」は昔ながらの味だと思う。
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 とにかく先ずおなかを満たし、そのあと浅草演芸ホールで独楽廻しの曲芸を見、落語を一席聴いた。落語を聴くのはゆっくりのときの方がいいのだろう。噺家さんは中年のえらい人に見え、噺も上手だったがその人の名前や、噺の筋を忘れた。が、寄席へ入るというのは、「江戸」気分のひとつにはちがいない。大分前の正月に寄席へ行ったきり、今はテレビですませているから、寄席の気分も「お江戸」である。当夜の浅草演芸ホールは、バスの客が入ると、大体いっぱいであった。
  
 舞台で独楽廻しをしていたのは、「言わずば回れ」Click!の曲こま師・三増巳也さんのお父様ではないだろうか?w 芝居や寄席では、はとバスのお客さんがドッと入ってきて、舞台や噺の途中なのにもかかわらず無粋にドドッと出ていくのが、慌ただしくてうるさいと超不評なのは耳にしていたけれど、いまでも舞台や寄席の立ち寄りコースがあるのだろうか?
 きわめつけは、吉原の料亭「松葉屋」で行われていた「花魁ショー」の見学だ。松葉屋は、とうに店じまいをして現在はマンションになっているので、佐多稲子が観たのは客足が落ちはじめた最後のころの舞台だ。わたしは、親父の千代田小学校Click!(現・日本橋中学校)時代の同級生だった柳橋芸者Click!の女性を含め、芸者さんには知り合いがいるけれど「花魁」は知らない。もっとも、職業としてマジに「花魁」をしていたら、いまなら売春防止法違反で即座に逮捕されるだろうが・・・。
  
 タイムスリップという云い方があったっけ、とおもう。是非はともかく活力旺盛なこの東京は、江戸気分をも演出してくれて、その江戸は、夜のコースだから「花の吉原」となるのだろう。/松葉屋を出るとき、ここの女主人らしい着物姿の年配の人が、門のきわに立ってみんなを見送った。その女主人は、特に私を見て笑顔でおじぎをした。私も同じようにあいさつを返した。一行の中で、私ひとりが着物を着た年寄りだったから、松葉屋の女主人にそれが目についたのだろう。松葉屋の女主人のあいさつは、私に親しい感じがした。「夜のお江戸」コースはここで終る。出発点の東京駅前へ戻るまでの全部の所要時間は四時間位だったろう。
  
 このとき、佐多稲子を見送ったのは、松葉屋の女将・福田利子だろう。もちろん、彼女は佐多稲子の顔を知っていたので、ていねいに挨拶をしたのにちがいない。
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歌麿「青楼六家選松葉屋粧ひ」享和年間.jpg

 「花魁ショー」は、1961年(昭和36)から松葉屋でスタートしており、日本へ観光に訪れる欧米人たちには大人気だった。「オイラン」や「ゲイシャ」、「ショーグン」がいた日本へ、イメージ先行の妄想を思いきりふくらませることができていた時代だ。ところが、現実には本で読んだ200年前の「日本」や「江戸」はどこにも存在せず、高層ビルと高速道路が林立し、もはや街中で「キモノ」姿の女性を探すことさえ困難になってくると、観光客たちはそれがとんでもない幻想だと気づき、日本のほかの文化や“風景”に目を向けはじめたのだろう。
 ましてや、欧米の有名なビルや土地、株、美術品などを片っ端から買いあさっていた、バブル絶頂期の日本資本の姿を目のあたりにして、女性がキレイでエキゾチックな東洋のつつましい島国イメージなど、すっかりどこかへ吹き飛んでしまったにちがいない。ちょうど、米国西部へ出かけて「インディアン」(先住民のネイティブ・アメリカン)の襲撃を逃れた幌馬車隊を探すようなもので、「あんた、何時代を生きてるの?」と言われかねないような、決定的な齟齬と幻滅を感じてしまったのだろう。松葉屋はバブル崩壊後、1998年(平成10)に店じまいをしている。
 現在のはとバス料金を改めて調べてみたら、コースにもよるけれど昼夜の別なくだいたい3,000~6,000円ぐらいの価格帯だった。もっとも安いコースには、2,800円というのもある。つまり、1988年(昭和63)当時とほとんど値段が変わっていないのだ。むしろ、6,000円以下のコースが増えているところをみると、佐多稲子がバスツアーに参加したこの年が、もっとも高かった時期なのかもしれない。1949年(昭和24)の250円からスタートしたはとバスだが、延々と値上がりしつづけてきた料金が、1990年(平成2)あたりを境に横ばい、あるいは下降をつづけていることになる。
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 さて、下落合にも東京遊覧バス(はとバス)がやってきた時期がある。1955年(昭和30)からしばらくの間、日本の伝統的な版画美術を紹介する観光コースとして吉田博アトリエClick!が注目され、1日に100人前後の観光客が訪れていた。狭い「八島さんの前通り」Click!には、はとバスを停めておけるスペースはないので、国際聖母病院Click!の駐車場にでも入れておいたのだろうか? 

◆写真上:東京駅の南口に近い、中央郵便局の前から出発する「はとバス」乗り場。
◆写真中上:1923年(大正12)の撮影()と、1970年代に撮影()された佐多稲子。
◆写真中下は、1988年(昭和63)11月に松葉屋で上演されていた「花魁ショー」。は、享和年間(1801~1804年)ごろに描かれた歌麿『青楼六家選』のうち「松葉屋/粧ひ」。当時の松葉屋は料亭ではなく、吉原へ登楼する客たちを迎える引手茶屋だった。
◆写真下:1949年(昭和24)から1988年(昭和63)まで、40年間の「はとバス」料金の推移。

「写真づら」が気に入らない曾宮一念。

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 戦前は写真館へ出かけると、男の子は幼児でも軍服の衣装で写真を撮った。コスチュームは写真館でレンタルすることもあったが、わざわざこしらえて写真館へ家から着て出かけることもあった。連れ合いの母は、歌舞伎の名場面ごとのオリジナル衣装を着せられ、スタジオで撮影した膨大なアルバムを保存している。義母の当時の家は麻布にあり、幸運にも空襲で焼けなかったのだが、うちの親父の実家のアルバムは1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!でほとんどが焼失し、現在残っているのは諏訪町Click!の下宿へたまたま持って出た1冊Click!にすぎない。
 その中には、かろうじて戦災をまぬがれたセーラー服で海軍もどきの格好をして写る、3歳ぐらいの親父の姿が残っている。ただ、厳密に海軍の軍服姿でないのは、明治期から軍服の“コスプレ”が禁止されていたからだろう。幼児用の小さな軍服だろうが、ホンモノそっくりに作ってしまうと当局からとがめられた。陸軍の兵士とまったく同じ格好をして街中を歩き、路上で警官にとがめられたのは、明治生まれで6歳になったばかりの曾宮一念Click!だった。
 曾宮一念は、3歳のころから陸軍兵士とまったく同じ格好で写真館へと通い、毎年、スタジオで記念写真を撮っていたらしい。(親がそうさせていたのだから撮らされていた・・・というべきだろうか) 本人は、イヤでイヤでしかたがなかったようだが、陸軍のコスチュームをとがめられてからは、うちの親父と同じように海軍のセーラー服(もどき?)姿に変わったようだ。海軍のほうは、それほど口うるさくなかったのかもしれない。毎年繰り返されるイヤな記念撮影について、下落合623番地Click!に住んでいた曾宮一念は、松本竣介Click!が編集していた『雑記帳』Click!へ寄稿している。1936年(昭和11)に発行された『雑記帳』11月号に掲載の、曾宮一念「写真づら」から引用してみよう。
  
 その後、下町に移つて坂本幼稚園の帰途交番で巡査にとがめられた、兵士と全く同じだからといふのである、いくら同じでも六歳のニセ兵隊では悪事もすまい、とにかく、服も小さくなつたのでそれからは水兵服に変更した。その頃は写真をうつすことは一大事であつたから、さう度々うつしに行くことは無かつた。壮大な写真館に登つて物々しい背景の前に例の鉄柱で頭を固定され、前方に暴風警報の如き赤玉を目標ににらめさせられる。これでは誰れだつて呼吸が止つて顔筋がひきつり総毛立つにきまつてゐる。
  
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 『雑記帳』へ寄稿されたエッセイを、このところつづけていろいろと読んでいるが、曾宮一念と木村荘八Click!の文章が軽妙洒脱さではひときわ抜きんでている。特に曾宮の文章は、どれほど話題が飛躍しようが文脈が混乱せず、尻切れとんぼになることもなく安心して読んでいられる。翌1937年(昭和12)の『雑記帳』3月号に掲載された、長谷川利行Click!のわけのわからない文章とは対照的だ。1929年(昭和4)に発行された『アルト』2月号の佐伯祐三評Click!以来、久しぶりに読んでしまった長谷川の文章には、相変わらず気持ちが悪くなった。二度と読む気が起きない長谷川利行のエッセイは、気分が治ったら改めて紹介することにしたい。w
 曾宮一念が書いている「鉄棒」は、もちろんカメラ技術が未発達でシャッタースピードが遅かった明治期のスタジオ用具であり、親父の世代にはすでに存在していない。人の写真を見るのは大好きだが、自分の写真は撮られるのも見るのもイヤだった曾宮一念は、少し対人恐怖症の気があるようにも思うのだけれど、画家に高額な謝礼を払って肖像画を描かせる人の気持ちがまったくわからない・・・などと、自身の“商売”に差し障りが出そうなことまで書いている。風景や花にしても、絵葉書に採用された写真のほうが正確かつ情緒に富んで美しいケースが多いとし、油絵を否定するようなことをいっておきながら、そんなことになれば自分が「食ひ上げ」になるのでカンベンしてほしい・・・と、曾宮独特のユーモアは相変わらず『雑記帳』でも存分に発揮されている。
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曾宮一念「砂丘」1956頃.jpg

  
 この為めに出来上がつた私の肖像はいつも日常談笑の相を欠いてゐるのが多い、あながちに私が神経質な根性曲りの故のみでも無いと思ふ。然し、この二、三年の間にうつされたものは容貌のどこかに疲れを帯びた病相とでもいふべき感じが表はれてゐた。私は近年頗る美味に飲食もしてゐたし、時には快適に潮風をうけて写生をしてゐた時も多かつたのである。然しさういふ事に身を置いてゐる以外の日常に、もし座位や、直立の姿勢をとらされた場合には大てい軽快な精神と肉体の調和を得てはゐなかつたであらう、その疲労感が髭剃りの自惚鏡には抹消されても冷静なレンズには遠慮無く焼付けられてしまふのである。こんな意味から実際の見合よりも写真結婚の方がその真を知り得ることもあらう、写真では十把一からげの女でも実物となつて眼口が物を言ひ出しては相当な威力を発揮すること受合(ママ)である。かうなると表情の絶えず移動する映画の中で、うつかり役者を見染めたりしてはとんだ採算違ひをすることになるぞ。
  
 曾宮一念は101歳の長寿だが、その間、数多くの友人・知人の死にめぐり合っている。1936年(昭和11)現在、画家仲間では親しかった近所の中村彝Click!佐伯祐三Click!、そして片多徳郎Click!を失っていた。曾宮は友人・知人の死顔を見るたびに、「生前日常よりも遥かに平和で清潔で時には福相」を浮かべていると感じるのは、自己内部の欲望や苦悩がすでに過ぎ去り安穏な表情にもどったからだとしている。そして、曾宮自身が友人から「臥てゐる時だけイイツラをしてゐる」といわれるのは、対人による苦痛やカメラのレンズ前に立つ緊張がないからだ・・・と感じている。
 わたしも、カメラの前に立つとどこかで顔の筋肉がこわばっているのか、ふだんの自分の顔とはかなりちがう表情をしているのに気づく。それは、子どものころ写真館でひどいめにあったからではなく、カメラや写真が特にキライなわけでもなく、また、曾宮のようにどこか対人恐怖症の気があるからでもなく、おそらく写真に撮られるような顔ではないことをよく知っているからだろう。
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東京美術学校記念写真1915頃.jpg

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曾宮一念「いちぢくの習作」193612.jpg
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松本竣介アトリエ跡.jpg

 曾宮一念が連れていかれたのは、日本橋浜町か霊岸島界隈で開店していた写真館なのだろう。親父が保存していた記念写真は、ほとんどが日本橋人形町の写真館Click!で撮影されたものだが、その店が空襲で焼けたかどうかが不明のままだ。人形町は、日本橋区でかろうじて焼け残ったエリアが多い地域だから、ひょっとすると戦後までネガ類が保存されていた可能性がある。それを親父が追跡して調べたのかどうか、結局、訊かずじまいになってしまった。

◆写真上:1921年(大正10)に、下落合623番地へアトリエを建てた直後に撮られた曾宮一念。
◆写真中上は、1896年(明治29)に写真館で撮影された陸軍兵士姿で3歳の曾宮一念。は、1929年(昭和4)に日本橋人形町の写真館で撮影された海軍軍服もどきを着る3歳の親父。
◆写真中下は、曾宮一念「写真づら」が掲載された1936年(昭和11)発行の『雑記帳』11月号。は、1956年(昭和31)ごろに遠州灘を描いたと思われる曾宮一念『砂丘』。
◆写真下は、1915年(大正4)ごろの撮影と思われる東京美術学校のクラス記念写真で矢印が曾宮一念。手前に座っているのは、師である藤島武二Click!(左)と黒田清輝Click!(右)。下左は、1936年(昭和11)発行の『雑記帳』12月号に掲載された曾宮一念の挿画『いちぢくの習作』。下右は、全14巻の『雑記帳』が発行された下落合4丁目2096番地の松本竣介アトリエの現状。

高田馬場風景を連作した横井礼以。

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横井礼以アトリエ跡(上戸塚781).JPG

 大正初期に愛知県弥富から東京へやってきて、下落合の南側に拡がる戸塚町上戸塚(現・高田馬場4丁目)にアトリエをかまえた洋画家がいた。大正の後期から、同町上戸塚866番地に藤川勇造・藤川栄子夫妻Click!がアトリエを建てて住んだ位置から、さらに南西へ200m(徒歩5分)ほど、上戸塚781番地に住んだ横井礼以(れいい:横井礼一)だ。横井は大正初期から東京におり、藤川夫妻よりも先に同地へアトリエを建てて住んでいたかもしれない。
 山手線をはさんで西側の戸山ヶ原Click!にも近く、上戸塚781番地の道筋を南へ歩くと射撃場着弾地の天祖社Click!へと抜け、西へとたどると現在の手塚プロダクションへと出る。ちなみに、わたしの学生時代には、手塚(治虫)プロダクションは高田馬場駅Click!近くの、早稲田通り沿いに面したビルに入っており、道路端には「鉄腕アトム」の像が置かれていたと記憶する。
 1912年(大正元)に東京美術学校を卒業した横井礼以は、作品を文展に応募し翌々年の1914年(大正3)から2年連続して入選をはたしている。ところが、翌1916年(大正5)には文展で落選し、これを機会に横井は文展の限界を感じて見かぎっているらしい。横井の作品に、マチスからの影響が急速にみられるようになるのもこのころだ。のちに「大正アヴァンギャルド」と呼ばれる画家たちの、もっとも最先端を突っ走っていたひとりが横井礼以だった。
 1917年(大正6)の秋は、二科展に応募してさっそく入選。翌々年には、早くも二科賞を受賞している。そして1923年(大正12)、37歳の横井は二科会の会員となった。フォービズムあるいはキュビズムの影響を受けた横井作品の中でも、上戸塚781番地にあったアトリエの庭先を描いた『庭』(1925年)は、この時期における彼の代表作であるばかりでなく、「大正アヴァンギャルド」の絵画分野の代表作として、今日でも展示される機会が多い。
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横井礼以アトリエ1929.jpg
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横井礼以アトリエ1936.jpg

 このような創作状況の中、横井は自邸周辺の風景をモチーフに多くの作品を残している。美術館などに収蔵された風景画には、タイトルに「高田馬場」と付いた作品がみられるが、幕府練兵場の高田馬場Click!を描いたのではなく、アトリエ周辺の「戸塚風景」という意味合いでタイトルに用いていると思われる。小林勇Click!が、西落合1丁目303番地にあった柳瀬正夢アトリエClick!を「東長崎のアトリエ」と表現している感覚と同様に、そこの地名ではなく最寄りの駅名を地域にかぶせて呼んでいたようだ。このあたり、最寄りの駅名をあえて使わず、目白文化村Click!のことを本来の地名をかぶせて、「下落合文化村」Click!と一貫して表現しつづけた松下春雄Click!とは異なる意識だ。したがって、当時は戸塚町なので違和感のあったタイトルが、現在は地名が高田馬場となっているため、逆に違和感を感じにくくなっている。(公的施設のほとんどは戸塚のままだが)
 大正の中期、彼の表現は具象から抽象へと変貌をとげていた過渡的な時期であり、風景画にも大きな変化が表れている。1916年(大正5)に描かれた『風景』では、文展を意識しているのかスタンダードな写実に徹しているが、二科賞を受賞したあとの1920年(大正9)に制作された『高田馬場風景』では、まるで別人のような作風になっている。『風景』(1916年)では自身の尖鋭な表現欲求を抑え、『高田馬場風景』(1920年)では思うぞんぶん試みていると感じる。
 さて、1925年(大正14)制作の『庭』は上戸塚781番地を描いたものだとわかるが、『風景』や『高田馬場風景』はどこを写生したものだろう? 現在ではあまり感じられなくなっているが、上戸塚は起伏の多いこのような地形があちこちに散在している。それは、現在の山手線を車窓から眺めていてもわかるだろう。高田馬場駅の西側は急斜面の丘Click!になっており、旧・下落合西部からは丘陵が高田馬場駅を隠してしまって眺望できない。その丘陵の起伏に富んだ丘上に、上戸塚の街が拡がっている。早稲田通りは、神田上水(1960年代より神田川)の河岸段丘上の尾根筋をたどるように貫通しており、早稲田通りの北側はまさにバッケ(崖地)Click!となっている。
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横井礼以「風景」1916.jpg

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横井礼以「高田馬場風景」1920.jpg

 抽象表現が色濃い『高田馬場風景』は、光線の当たり具合が左手前からのように見える。手前を南側だとすると、視点が4~5階建てのビルほどもあるこの崖地は、早稲田通りの近くから北側を向いて描いた風景なのかもしれない。一方、精緻な写実筆致の『風景』は、そんなバッケの淵に建つ家々を描いたものか、あるいは早稲田通りから南側に入ると、戸山ヶ原へ向けて再び上り坂がつづくので、そのような斜面に造成されたひな壇上の住宅を写生したのかもしれない。
 1927年(昭和2)の春、横井礼以は東京を離れている。それは、夫人に軽い結核の症状が見つかったからで、彼は上戸塚のアトリエを人に貸して、故郷の愛知県知多半島にある海辺の街・河和へ転地療養に出かけた。アトリエを処分せず、レンタルにしてそのまま残しているので、横井は再び東京へもどるつもりだったと思われるのだが、夫人の健康が回復しても、彼は二度と愛知県を出ることはなかった。彼は1930年(昭和5)、名古屋市内で設立された「緑ヶ丘洋画研究所」の所長を引き受け、市内の若い画家たちを育成する仕事をはじめている。そのころの横井の様子を、2011年(平成23)に出版された中山真一『愛知洋画壇物語』(風媒社)から引用してみよう。
  
 横井はこれに応じ、一九三〇年(昭五)、四四歳にして「緑ヶ丘洋画研究所」をスタートさせた。太平洋戦争がはげしさを増し、事実上の閉鎖となってしまうまで、十数年間でおおよそ二百名以上もが巣立っている。/その中では、尾沢辰夫や市野長之介、西村千太郎ら一九二四年に名古屋で洋画グループ「アザミ会」を結成したり、戦前の二科展で活躍したフォーヴ系の画家がやはり目立つ。最も期待していた尾沢が三七歳で亡くなると、悲しみは深かった。いずれにせよ、同研究所に学ぶ者たちのこともあって、東京へもどる気はしだいに薄れていく。
  
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横井礼以「庭」1925.jpg
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横井礼以.jpg

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横井礼以「盛夏」1953頃.jpg
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手塚プロダクション.jpg

 戦後は、二科会の仲間だった熊谷守一Click!とともに改めて二紀会へと参加し、「日本的洋画」表現をめざす姿勢を打ち出した。「心象」というキーワードを用いて、やわらかく幻想的でメルヘン風の独特な作品群を残している。なお、二紀会に参加していた元「サンサシオン」Click!メンバーの中野安次郎Click!は、横井礼以の義弟にあたる。

◆写真上:上戸塚781番地(現・高田馬場4丁目)の角地で、横井礼以アトリエ跡の現状。
◆写真中上は、1929年(昭和4)に作成された「戸塚町全図」にみる藤川アトリエと横井アトリエの位置関係。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる横井アトリエ。
◆写真中下は、1916年(大正5)に制作された横井礼以『風景』。は、1920年(大正9)に描かれた同『高田馬場風景』。わずか4年の間に、作風が大きく変化しているのがわかる。
◆写真下上左は、現代でも横井礼以の代表作とされる1925年(大正14)制作の『庭』。上右は、横井礼以のプロフィール。下左は、戦後の1953年(昭和28)に描かれた横井礼以『盛夏』。下右は、横井アトリエ跡から西へ向かう道の左手にある手塚プロダクション。

最勝寺・大師堂を子細に観察する。

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最勝寺大師堂(明治末).jpg

 少し前に、最勝寺の大師堂が佐伯祐三Click!の描く『堂(絵馬堂)』Click!モチーフの可能性があると書いた。さっそく明治末に撮影された大師堂の写真を、ある方からお送りいただいたのでご紹介したい。写真が載っていたのは、明治末に刊行されていた『東京近郊名所図会』Click!(または復刻版以降は『新撰東京名所図会・西郊之部』)だ。
 かなり画質の悪い写真なのだが、詳細に観察してみよう。ここに写る大師堂は、まちがいなく1868年(明治元)に廃寺となった、内藤新宿の三光院(現・花園稲荷社)の境内に建立されていた堂にまちがいないだろう。同年、大師堂は上落合村の最勝寺Click!へと移築されている。1935年(昭和10)に最勝寺が火災で全焼した際、大師堂まで類焼しているかは現・住職さえご存じではなく、もはや定かではないのだが、もし本堂から少し南に離れた位置に建っていた大師堂が焼け残っていたとしたら、敗戦の年まで地域住民が目にしていた大師堂はこの建物だ。
 でも、江戸期からの大師堂建築が火災をまぬがれて建っていたとしても、また1935年(昭和10)の火災で焼失し新しい太子堂が建設されていたとしても、いずれにせよ1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲Click!で焼失している。佐伯祐三が1926年(大正15)から1927年(昭和2)にかけて、もし最勝寺へ立ち寄り大師堂を目にしているとすれば、また『堂(絵馬堂)』としてタブローに仕上げているとすれば、お送りいただいたこの堂の姿ということになる。
 最勝寺・大師堂の様子を、『新撰東京名所図会・西郊之部』の紹介文から引用してみよう。
  
 ◎最勝寺 弘法大師堂
 最勝寺は大塚の北に在り。八幡神社の西より外松邸の前を過て此に至るの間。高砂講にて建し案内札あり。/当寺は高天山(門前石標にかくあり。風土記橋には西方山と見ゆ)と号し。(ママ)安養院と称す。新義真言宗にして中野宝仙寺の末なり。現住職は斎藤了渓氏。/本堂は茅葺にて。(ママ)前に高野槇の大樹あり。/弘法大師堂は東に面す。月輪弘法大師と称し。(ママ)土佐国東寺のうつしなり。府内八十八ヶ所第二十四番の札所たり。/門前に文化年間宇田川文蔵の建し石標。大師堂南に宇田川銀之助寿蔵碑あり。共に前記宇田川家のものと知られたり。
  
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最勝寺1938.jpg
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最勝寺.jpg

 大師堂をとらえた冒頭写真は、1909年(明治42)ごろに『東京近郊名所図会』への掲載用に撮影されたものだ。佐伯が『堂』を制作する、およそ17~18年前の姿ということになるのだが、作品に描かれた堂の姿と写真の大師堂とは、あちこちが微妙に異なっているのがわかる。まず、屋根上の宝珠のかたちだが、形状は似ているものの大師堂の宝珠のほうが大きくてややずんぐりしている。屋根の反りも、佐伯の『堂』が急カーブなのに対し、最勝寺の大師堂はそれほどでもない。そして、もっとも異なる特徴は、屋根から前に張り出した庇の有無だ。
 宝珠のかたちや屋根の反りの表現は、強調やデフォルマシオンの可能性も残るのだけれど、建物の形状そのものを大きく変えて描くことは、この時期にみられた佐伯の表現からは考えにくい。とすれば、最勝寺の大師堂は『堂』に描かれた建物ではないのだろうか? 実は、写真を拡大して子細に観察すると、屋根の前面にくびれのような段差があることに気づく。つまり、もし屋根の前面に庇があるとしても、撮影の角度や位置によっては屋根と一体化し、前に張り出した庇が見えなくなることがあるのではないか?・・・という疑念が生じてくるのだ。
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屋根庇?.jpg

 さて、1909年(明治42)ごろの大師堂には、堂の前面になにやら壁状の遮蔽物が設置されていたようだ。この板塀あるいは絵馬掛けのようにも見えるものは、堂の前面と、もうひとつ左手にも一部が見えている。したがって、大師堂の軒下から下部の様子は隠れて見えないのだが、江戸東京府内八十八ヶ所の第二十四番札所でもあった同寺では、遍路用になにかの願掛け“施設”、あるいは大規模な燈明立てでもこしらえていたものだろうか?
 写真では、かろうじて軒下の漆喰で塗られた白壁が見てとれるが、このあたりの意匠は佐伯が描いた『堂』によく似ていることがわかる。ただし、堂の正面にある塀状のものが大正末までそのまま存在していたとすれば、佐伯は堂全体を視界に入れて描くポイントまで、イーゼル位置を後退できないことになる。また、もし塀状の遮蔽物が取り除かれていたとしても、その手前には香立てと思われるものが設置されている。佐伯の『堂』には、香立てが描かれていない。
 堂の規模やサイズとしては、最勝寺の大師堂は佐伯の『堂』にピッタリではあるのだけれど、どうもいまひとつスッキリと合致してくれない。堂の背後にある木々は、明治期の写真では鬱蒼と繁っているが、佐伯の画面ではまるで植えたばかりの苗木のように、背が低くまばらな繁みとなっている。もっとも、大正末から昭和初期にかけ、堂裏へ墓地などを新たに造成したとすれば、既存の樹林を一度伐採し、墓地の区画整理が終わった時点で、再び植えた可能性も想定できるのだが。
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最勝寺大師堂(拡大).jpg
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絵馬堂1926.jpg

 わたしの感触としては、写真である程度明らかになった最勝寺・大師堂よりも、やはり「洗濯物のある風景」Click!を制作した描画ポイントの背後100m余のところにある、上高田の桜ヶ池不動堂Click!のほうに強く惹かれる。佐伯が立ち寄ったであろう気配を、なぜか濃厚に感じてしまうのだ。

◆写真上:『新撰東京名所図会・西郊之部』に掲載された、明治末撮影の最勝寺・大師堂。
◆写真中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる最勝寺。本堂の南側に、東を向いて建っていた大師堂が採取されている。は、最勝寺本堂の現状。
◆写真中下:大師堂の屋根の拡大写真で、手前に庇を思わせるくびれが見てとれる。
◆写真下は、最勝寺大師堂。は、1926年(大正15)ごろ制作の佐伯祐三『堂(絵馬堂)』。

早すぎる里見勝蔵の『下落合風景』。

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里見勝蔵「下落合風景」1920.jpg

 1920年(大正9)に里見勝蔵Click!が描いた『下落合風景』Click!の、正面に描かれた和風の住宅がどうしても気になっていた。緑が濃い森の中にポツンと建っている家屋なのだが、この時期の里見は東京美術学校を卒業後、東京ではなく実家のある京都で暮らしていたはずだ。それなのになぜ、25歳の里見はわざわざ京都から東京へと出てきて、『下落合風景』などを描いているのだろうか。そもそも、なぜ彼は下落合へ足を踏み入れているのだろうか?
 1920年(大正9)現在、京都から東京へやってきて訪ねるほどの、親しい友人画家が下落合で暮らしていたという記録はどこにも見えない。東京に住む友人、あるいは卒業した母校でも訪ねたあと、ついでに下落合へ立ち寄ってスケッチをしたのだろうか? でも、それではなぜ下落合なのか?・・・という謎は解けない。松下春雄Click!「下落合風景」シリーズClick!を描きはじめる5年前、佐伯祐三Click!が同様のシリーズClick!を制作する6年も前のことだ。まだ、この時点では下落合地域の風景をモチーフに選ぶ、画家たちの“下落合ブーム”Click!は起きていない。せいぜい、遠出のできない病身の中村彝Click!が、自宅とその周辺をスケッチClick!している程度だ。
 当時の下落合には、どのような画家たちが住んでいたのかを考えてみよう。1916年(大正5)にアトリエを建てて谷中初音町3丁目12番地・桜井方から引っ越してきた下落合464番地の中村彝をはじめ、関東大震災Click!で家が傾く被害を受ける下落合645番地の鶴田吾郎Click!(のち下落合804番地へアトリエClick!を建てて転居)、中村彝の弟子にあたる豪華なアトリエ付き住宅を建設した下落合584番地の裕福な二瓶等(徳松)Click!、目白通りをわたった北側で小出楢重Click!の借家もすぐ近くにあった下落合540番地の大久保作次郎Click!、すでに長崎1721番地へ引っ越してきていたかもしれない牧野虎雄Click!(のち下落合604番地へアトリエClick!を建てて転居)などが、特に目立つところだろうか。だが、彼らの中に里見勝蔵とことさら濃い接点のある人物はいない。わざわざ京都から下落合まで出かけてきて、訪ねるほどの親しい仲間が見あたらないのだ。
 また、大正中期の下落合に「芸術村」とでもいうべきアトリエが建ちはじめた様子を、里見勝蔵が見物に訪れた・・・という可能性はある。いまだ密な住宅街や繁華街は、江戸期からの集落だった清戸道Click!沿いの椎名町(現・目白通りと山手通りの交差点あたりの下落合・長崎界隈)に建設された落合第一・第二府営住宅Click!と、目白駅のごく近辺に限られていただろう。だから、森林や畑地、草原の中にポツンポツンと建設された、いかにも田園風景の中に見え隠れするアトリエの風情を少なからずのぞいてみたかったのかもしれない。また、鈴木良三Click!らが「目白バルビゾン」Click!と呼んでいた画家たちが集まる下落合に、里見勝蔵は興味を惹かれたものだろうか。
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地形図1918.jpg
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事情明細図1926.jpg

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森田亀之助空中写真1936.jpg

 もうひとつ、可能性として考えられることがある。里見の画家仲間や友人ではないが、東京美術学校の恩師が下落合に住んでいた。東京美術学校で英語と西洋美術史を担当し、この時期は助教授に就任していた下落合323番地Click!(のち下落合630番地へ自邸を建てて転居)に住む森田亀之助Click!だ。恩師といっても森田は若く、1920年(大正9)現在は37歳だった。里見とは、10歳ちょっと歳が離れているだけだ。里見は、森田へなにかの相談をするために下落合へやってきたのかもしれない。同年、里見は京都で結婚し、再び東京へ出てきて池袋に住むことになるのだが、池袋シンフォニーClick!などを通じて佐伯祐三や山田新一Click!と知り合うことになる。翌1921年(大正10)には、念願のフランスへ向けて旅立っている。
 里見勝蔵が、森田邸を訪れてなんらかの相談ごとを持ちこんだとすれば、海外旅行をする際のアドバイスだろうか? それとも、京都から東京へ再び出てくるにあたっての、当面の住まい(アトリエ)に関する相談だろうか? わたしは、どうも後者のように思えてならない。なぜなら、里見は帰国後の大正末に、下落合630番地へ自邸を建てて引っ越していた森田亀之助を訪ね、その隣りにあった同番地の借家Click!を紹介されていると思われるからだ。「森たさんのトナリ」Click!の家を借りた経緯と同様のことが、1920年(大正9)の下落合で起きてやしないだろうか。
 萬鉄五郎が目白中学校Click!の美術教師を介して、茅ヶ崎の療養先から下落合のアトリエを物色Click!していた例をみるまでもなく、画家や美術家の知り合い同士の間で、借家やアトリエ物件の情報が頻繁にやり取りされているのを見ても、それほどピント外れな推測ではないだろう。
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森田亀之助邸跡.JPG
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大正期和館.JPG

 1920年(大正9)10月ごろ、佐伯祐三は下落合に借家(おそらく下落合523番地Click!)を借りて引っ越してくるが、この時期はいまだ里見と佐伯はそれほど親しくなかっただろう。同年暮れに投函された山田新一あてのハガキClick!の文面でも、佐伯は山田を通じて里見とコミュニケーションをとろうとしている。したがって、里見のほうからそれほど親しくない後輩の佐伯を、わざわざ京都から出てきて訪ねた・・・とは考えにくいのだ。でも、美校の恩師である下落合の森田亀之助邸を訪れたとすれば、それほど不自然ではないように思われる。
 森田邸を訪問したあと、里見は付近の風景に制作欲を刺激され、ついでにスケッチブックを取りだして写生したものだろうか。ひょっとすると、下落合323番地の森田亀之助邸を、七曲坂Click!庚申塚Click!が奉られていた北側の林間から南を向いて描いているのかもしれない。画面の右側から夕陽と思われる光が射しこみ、相馬坂から七曲坂へと抜ける小道沿いの森田邸の門は、おそらく北を向いていただろう。もし、描画ポイントが森田邸の北側だとすれば、里見の背後は切り立った低めの崖地となっていただろう。現在の落合中学校グラウンドがある数メートルの段差で、1/10,000地形図にもこの低い崖線が記載されている。
 森田邸は、数年前まで文具店「はとや」さんClick!が建っていたあたりだが、小路をはさんだ北側には現在、落合中学グラウンドへと上がるスロープ状のなだらかな坂道が設置されている。里見は森田邸の門を出たあと、急にその静寂なたたずまいをスケッチしたくなったのかもしれない。
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里見勝蔵「マリーヌの記念」1924.jpg
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里見勝蔵「雪景-リラダム-」1924頃.jpg

 当時の森田邸は、権兵衛山Click!(大倉山)の山頂に近い地点だが、1/10,000地形図を参照しても当時は森田邸以外、周辺に家屋は採取されていない。もし、作品のモチーフが森田邸だとすれば、背後に見える森は権兵衛山のピークであり、その向こう側は目白崖線の南斜面ということになる。ただ、画面中央の家の左奥にも、もう1軒の家がありそうな雰囲気に感じるのだが・・・。

◆写真上:1920年(大正9)という、かなり早い時期に制作された里見勝蔵『下落合風景』。
◆写真中上上左は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる下落合323番地の森田亀之助邸とその周辺。上右は、1926年(大正15)の同地点で森田邸はすでに存在していない。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同地点。北側の森が伐採されて宅地造成が行なわれ、権兵衛山(大倉山)にはテニスコートができ山頂付近の森が草原になっているのが見てとれる。
◆写真中下は、北側スロープからの森田邸跡の眺め。崖線との段差を埋めるため、土砂で斜面が造成されたと思われる。は、大正期に下落合へ建てられたとみられる夕暮れの和館。
◆写真下は、1924年(大正13)に制作された里見勝蔵『マリーヌの記念』。は、1924~1925年(大正13~14)ごろに描かれたとみられる里見勝蔵『雪景―リラダム―』。

中井英夫とわたしの西荻感覚のちがい。

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西荻住宅01.JPG

 先日、ほとんど初めて西荻窪の街並みを散歩してきた。街全体の印象としては、どこか昔の(1960~70年代の)東京の匂いがただよう住宅街や商店街だったのだが、この感覚はわたしの世代以降のみのもので、親以上の世代ともなると、実はまったく異なる感想を抱くのだろう。おそらく、正反対の印象になるのではないだろうか?
 敗戦後、しばらく西荻窪の姉の家に住み、やがて下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)の家で暮らすようになる作家に、下落合とその周辺を物語の舞台に『虚無への供物』を書いた中井英夫Click!がいる。中井英夫は、少年時代から日記や創作ノートをつけており、召集されて市ヶ谷の陸軍参謀本部へ詰めていたときも、腸チフスにかかり陸軍病院へ入院中も、また同病院を退院して西荻にあった姉の家へ身を寄せていたときも、ずっと毎日欠かさず日記を書いていた。1945年(昭和20)3月10日夜半の東京大空襲Click!では、田端にあった実家が延焼して彼の膨大な蔵書や、それまでに書きためた日記やノートの類をすべて焼失している。
 東京生まれで東京育ちの中井英夫にしてみれば、東京市街から遠く離れた西荻窪での生活は不本意だったらしく、1946年(昭和21)1月24日付けの日記には以下のような記述がある。1983年(昭和58)に出版された、中井英夫『黒鳥館戦後日記』(立風書房)から引用してみよう。
  
 どうせ東京に住むとならば、築地か人形町か薬研堀か、もしくは本郷、上野、浅草、それでなければ直次郎を気取つて駒込あたりに侘びずまひ、本当の江戸に生きぬきたい。もとより己が生得の田舎気質は、何遍お江戸の水で洗はうとあくのぬけるしろものではない乍ら、こんな西荻あたりは場末の面白さも見られず、ほとほとに愛想もつき果てた。今度の戦争で焼けなかつたその事自体が荻窪以西の如何に片田舎であるかを示してゐる。(中略)/東京に住むことのうれしさ、誰がクソ、どうあつても此処だけは離れぬ、ここだけは己のふるさと。さういへば今朝の新聞には、戦災者の麦ふみの写真など出てゐたけれども、何とそれが神田の町中での事だといふに、ふるさともあまりの土くささに、わびしさをもよほさずにゐられない。
  
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 おそらく、この感覚が親から上の世代にあたる東京人共通の“想い”であったろう。中井が挙げた街の名前は、大江戸(おえど)から東京を通じての典型的な(城)下町Click!であり、この地方では通りがいい街名のはずだった。だが、彼も日記の別の箇所で書いているように、それらの街は今度の戦争であらかた焦土と化し、「昔の東京」の残り香がかろうじて残っているのは、皮肉にも空襲を受けなかった東京郊外のエリアのみになってしまったのだ。
 この感覚は、1960年代に旧・日本橋区に住んでいた人々も盛んに口にしており、東京西部の山手線外側へ転居することを「郊外へ引っ越す」Click!と表現し、まるで“都落ち”するような暗くこわばった表情をしていた。わたしには、もはやそのような感覚は皆無なのだが、中井英夫の世代、そして東京オリンピックを境に下町が敗戦につづき、二度目の“町殺し”Click!の破壊をこうむる様子を目の当たりにした、中井よりあとの親たちの世代までは、確かに活きていた感覚なのだろう。
 さて、わたしの感覚は、彼らの世代とはまったく正反対になる。むしろ、東京郊外のほうが東京オリンピックによる破壊や高度経済成長期の乱開発、80年代のバブル期の地上げなどをかろうじてまぬがれており、わたしが子どものころに味わった東京の街の感覚が、いまだうっすらと香っている地域・・・というような位置づけになってしまうのだ。西荻窪を歩いていて感じたのは、昔の東京っぽさがどこか底流で地下水脈のように感じられる街並みということだ。
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 荻窪界隈は、早くから中央線(甲武鉄道)が通じていたせいで、大正末あたりからまとまった郊外住宅地が各地に建設されている。いわゆる「荻窪文化村」または「杉並文化村」と総称される分譲地だが、1927年(昭和2)に西武電鉄Click!が開通すると、井荻界隈を中心に住宅街の形成に拍車がかかった。それらの住宅地に新居をかまえ、下落合から転居した画家たちの物語はすでにご紹介Click!したとおりだ。空襲をほとんど受けていないせいで、当時の文化住宅と呼ばれた西洋館や和洋折衷住宅、あるいは戦前の古いタイプの日本家屋があちこちに残っているのも、昔日の落ち着いた東京山手のような雰囲気を感じるゆえんだろう。
 住宅の耐久年数がすぎたものか、あるいは相続税の課題が重くのしかかったものか、大正末から昭和初期に建設された家々は、年々解体され建て替えられているけれど、それでも築垣や垣根、屋敷林などに昔日の面影が宿り、空も広く落ち着いた街並みをなんとか保っている。もっとも、地元でずっと暮らしてきた方々にしてみれば、80年代あたりを境に風景が激変しているといわれるかもしれない。下落合も同様、おそらく西荻窪以上に街並みの変貌が著しい地域だ。
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 中井英夫が、下落合で自宅をかまえた位置が興味深い。彼は、山手空襲Click!で大きな被害を受けた近衛町Click!などの下落合東部ではなく、大半が炎上した目白文化村Click!のある下落合中部でもなく、ほとんど空襲被害を受けなかった下落合西部のアビラ村(芸術村)Click!の西端、目白学園近くに住んでいる。中井もまた、昔日の東京山手の面影を下落合に見いだし、どこか懐かしさを感じながら「落ち着く場所」として、住まいを選んでいるのではなかろうか? それとも、「己の名前と同じ最寄りの駅名が気に入つてゐる」・・・だったりしたら、もう笑うしかないのだが。w

◆写真上:西荻窪に現存する、大正末か昭和初期の建築と思われるみごとな西洋館。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる西荻窪。中井英夫は、この風景を眺めながら「亡国」陸海軍と大日本帝国への怒りの日々をすごしていた。画面中央は、善福寺川沿いに形成された段丘斜面の古墳地名「丸山」あたりで、明らかに円墳あるいは前方後円墳と思われるサークル状の丘が見えている。杉並区郷土資料館へ出かけると、西荻窪駅の周辺で少なくとも3ヶ所の大型古墳が確認されており、荻窪もまた古墳だらけの土地柄なのだが、そのほとんどはいまや住宅街の下になっている。下左は、1983年(昭和58)に出版された中井英夫『黒鳥館戦後日記』(立風書房)。下右は、東京都の登録有形文化財に指定されている松庵の水口家西洋館。
◆写真中下・写真下:昔の東京山手の匂いがする、西荻窪の街並み。


静物画がオバケになってしまう小出楢重。

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 二科展で樗牛賞や二科賞を受賞した前後、小出楢重が下落合540番地の大久保作次郎Click!アトリエのごく近くに「百姓家」を借りて住んでいたのは、目白駅からの帰宅途中、強度の貧血により原っぱで倒れ俥屋に救われたエピソードとともに、少し前の記事Click!でご紹介した。
 同じ大阪出身で、下落合にアトリエを設けた大久保作次郎Click!佐伯祐三Click!鈴木誠Click!などとは異なり、小出楢重は落合地域から関西へともどり、1931年(昭和6)に44歳で急逝するまで同地ですごしている。小出は、岸田劉生Click!と同様に、妖怪やオバケの類がとても好きだったらしく、彼のエッセイにはときどき怪談やオバケ話が顔をのぞかせる。たとえば、こんな調子だ。岩波書店の『小出楢重随筆集』(1987年)に収録された、『楢重雑筆』(1927年)から引用してみよう。
  
 人間が霊魂という、単に火のかたまりであって青い尻尾を長く引いているだけのものであれば、フランス人も、日本人も、伊太利人も、ロシア人も、支那も印度も先ず大した変りはないので、知らぬ間にアメリカ人が日本へ集っていたり日本の人だまが皆巴里へ集っていたりなどしても、ちょっと区別がつかないので目に立たず、人種問題も起らないし、早速生粋のパリジャンにもなれる。欧州から日本へ、日本から欧州へと往復するにもただブラブラと青い尻尾さえ引摺れば済むのだから、今の若い日本の画家等にとっては大変な福音なのだ。
  
 こんな調子で、冗談なのか本気なのかはわからない、ちょっとおかしなエッセイはつづいていく。
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 1925年(大正14)に描かれた、小出楢重の『蔬菜静物』という作品がある。現在は東京近美に収蔵されている静物画なのだが、小出の親しい友人たちはこの作品をオバケの絵だと評した。「君の絵は妖気を含んでいる」といったのは、盟友の黒田重太郎だ。小出は、『蔬菜静物』を描く前年の1924年(大正13)、黒田重太郎や國枝金三らとともに大阪西区に信濃橋洋画研究所を開設している。親しい黒田や國枝が、『蔬菜静物』を観てオバケだといったのは、ふだんから小出が妖怪やオバケの話を、仲間うちで好んでしていたせいなのかもしれない。
 オバケの静物画について、小出は1925年(大正14)に「私の蔬菜静物に就いて」という短いエッセイを書いている。同年に発行された、「みずゑ」10月号から引用してみよう。
  
 自分の絵に就いては自分の絵が一番何もかも物語つてゐる事であるので、何んともかく事柄がありません、たゞあれだけのものですが、昨日黒田君や國枝君と陳列を終つた会場内を眺めてあるいてゐた時、黒田君が私の絵の前で西瓜が舌を出してゐると申しましたら國枝君がトマトが目をむいたと云ひました。ナル程さう云へばきうりがくらやみから手を出してゐます、自分は何も気づかずに居ましたが全くさう聞けばその通りで私もなる程と思ひました、君の絵は妖気をふくんで居るぞと黒田君の言葉です成る程(ママ)自分の事は他人の方がよく知つてくれてゐるものだとこれにも感心して了ひました、國枝君はこの色調は昔しの幻燈のおばけ絵の様だとも云ひましたが、それもその通りです、すべて批評はかう行かねばなりません、自分の感想の代りとして確かな他人の噂を紹介して置きます。
  
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 ふつう、自分の作品をオバケだなどといわれたら憤慨しそうなものだが、小出楢重は深く納得してしまっている。それにしても、小出の静物画は野菜や果物をゴチャゴチャと、めいっぱいテーブルの上によく並べたものだ。きっと、描きたくなるようなモチーフが八百屋に寄ったらたくさん見つかったので、買ってきたものを全部テーブルに載せたのだろう。並んでいる蔬菜類から、おそらく秋の展覧会向けに制作した8月ごろの筆だと思われる。
 写生をしに出かけた先などでも、小出は「妖気」を含んだ不気味なものに惹かれている。その文章から、今日的な表現でいうなら「見える」「感じる」「霊がいる」・・・というような感覚に近しいものだろうか。同じく岩波の随筆集に収録された、『大切な雰囲気』(1930年)から引用してみよう。
  
 真夏の昼、蝉の声を樹蔭に聞きながら本堂の縁側に憩いつつ内陣の暗闇を覗くと、この女の黒髪が埃をかぶってその幾束かが本尊の横手の柱から垂れ下がっているのを見るとき、いとも冷たい風が私の顔を撫で、私の汗は忽ちにして引下るであろうところの妖気を感じるのである。私はこの不気味を夏の緑蔭に味わうのが好きである。そこには女一代の古びたるフィルムの長尺物を感じることさえ出来る。
  
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 生まれつき心臓が悪く僧坊弁閉鎖不全症Click!に加え、貧血気味で胃アトニーを長く患っていたせいか、小出楢重Click!は細かなところにまで気がまわる神経質な性格だったらしい。だからこそ、口ベタにもかかわらず内面は饒舌で、流暢な筆致による優れた随筆集を残すことができたのだろう。同じ口ベタな画家でも、文章を書くのも読むのも苦手だったらしい佐伯祐三とは、まったく異なるタイプだった。画家には、「無口な大阪人」が多くいそうな気さえしてくる。

◆写真上:1925年(大正14)の晩夏、秋の展覧会用に制作された小出楢重『蔬菜静物』。
◆写真中上は、1928年(昭和3)制作の同じくテーブル上にゴチャゴチャとモチーフがいっぱいの小出楢重『卓上静物』。は、1930年(昭和5)に描かれた同『枯木のある風景』。
◆写真中下:いずれも小出楢重の随筆集で、1927年(昭和2)の『楢重雑筆』()と1930年(昭和5)の『めでたき風景』()、死後に出版された1936年(昭和11)の『大切な雰囲気』()。
◆写真下:記事とはまったく関係ない、女子高生と佐伯祐三『立てる自画像』(1924年)。当サイトでも、負け犬さんの映評が載る『リンダ リンダ リンダ』Click!(山下敦弘監督/2005年)より。

落合地域を駆け抜けた彰義隊。

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 1868年(慶応4)の2月、目白は雑司ヶ谷鬼子母神Click!近くの茗河屋に、徳川三卿のひとつ一橋家の家臣・渋沢成一郎(渋沢栄一の兄)らが呼びかけて、幕府の旗本や御家人たちが参集した。集会では大将頭取に渋沢成一郎を、副頭取には天野八郎をすえ、隊員を一番隊から十八番隊まで分けて、部隊の総称を「彰義隊」Click!と決定している。一隊が50名なので、この時点ではおよそ1,000名近くの幕臣が集まったことになる。
 のちに彰義隊は、大江戸市中の警備・巡察を勝安房守Click!から正式に命じられ、隊員は3,000名にふくれあがった。でも、市街各地で略奪や暴行、辻斬り、強盗などアルカイダ型市民無差別テロをはたらく薩長軍と頻繁に衝突し、ついには全面対峙の様相をおびていく。江戸市中には(明治期の東京になってからも)、さっそくあちらこちらに無数の狂歌が張り出された。「京錦(きょうにしき)東へ来ては色もさめ これから先は二束三文」、「かご(鹿児)を出ておのが音を張る轡虫(くつわむし) いまに武蔵の露と消えなん」・・・etc.。わたしの世代さえ、これらの狂歌を10や20は挙げることができる。江戸東京市民の明治政府に対する抵抗Click!や取り返しのつかない反感Click!は、おそらく会津以上に強烈で根強く、見方によっては最後まで残った薩長軍閥が破産して露と消えた1945年(昭和20)8月15日以降も、少なくとも親の世代Click!まではつづいていた。
 このあたりの経緯は、江戸市内における反薩長勢力をあぶり出すための、薩長軍による意図的なテロ・挑発行為の要素も、多分に含まれていただろう。だが、彰義隊の装備は昔ながらの刀と鑓がメインで、最新兵器で武装した薩長軍には到底かないそうもなかった。彰義隊の隊員たちが、大江戸近郊へ頻繁に姿を見せるようになるのは、そんな時期のことだ。
 隊員たちは数人でチームを組み、近郊農家を訪ねては物資の調達にまわって歩いた。中でも、使わなくなって廃棄された穴の開いた鉄製の古鍋や古釜、納屋にしまわれていた古い農機具などを、「公方様の鉄砲玉を造るのだ」といっては供出を求めていった。落合地域にも何回か訪れ、古鉄を回収していったようだ。このとき、調達にやてきた隊員たちは礼儀正しく、人品人柄も卑しくなくて村々では丁重に一行を迎え、古鉄や古材の回収に協力している。
 しかし、彰義隊の所帯が大きくなるにつれ、不良御家人やもともと幕臣ではない不平浪人、博徒などが混じりはじめると、隊員の質は目に見えて落ちはじめたようだ。上野の山にたてこもって、薩長軍との最終的な全面戦争がはじまると、そのような不良隊員はさっさと逃げ出すか、初期の戦闘に加わるか加わらないうち早々に「落ちのび」ていった。下落合村や上落合村では、敗走する彰義隊の隊員たちがたびたび通過し、村の若い男たちは彰義隊に徴兵されるというウワサも立って、村民は農作業も手につかずに戦々兢々としていたらしい。
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 当初は、いちおう礼儀正しい旧・幕臣たちなので、村々の名主宅で休息させては食事を給し、田無方面へと落ちのびるのを助(す)けていたようなのだが、質の悪い隊員の中には村民に乱暴や狼藉、略奪を平然と働く連中もいて、近隣の村々では大急ぎで対策を迫られることになった。
 そのような無法者が現れた場合の措置として、1861年(文久元)6月に江戸近郊の村々へ幕府より通達された「御触れ」に論拠を求め、村内に侵入した害悪をもたらす無法者に対しては、付近の村々も含めた村民が一致協同で対処し、場合によっては打ち伏せてもかまわない・・・とする内容ものだ。無法者の出現は、付近の村々にすばやく伝わるよう半鐘Click!の早鐘(連打)にすることも、付近の村々が集まって開いた寄り合いで取り決められた。
 上野戦争Click!からしばらくして、新井薬師Click!の門前に見世を開いていた腰掛茶屋で、身なりから彰義隊の残党と思われる2人組が食事をした。ふたりは飯代を払おうとせず、そのまま立ち去ろうとしたので店の亭主がとがめると、逆に亭主をさんざん脅して茶屋を離れた。まさか、7年前に幕府が発令した「御触れ」が、そのまま近郊の村々で活きているとは知らなかったのか、あるいは世情騒然としていた当時、そのぐらいのことで大事になるとは考えてもみなかったのか、はたまた幕府領の農民が幕臣を助けるのは当然と横柄にかまえていたものか、このふたりは大まちがいをしでかしてしまったことになる。特に、茶屋の亭主を脅迫したのがいけなかったのだろう。
 さっそく、新井村をはじめ付近の村々では早鐘が鳴りはじめ、ふたりは近くから駆けつけた村民に取り囲まれてしまった。そこで、素直に謝ってさえいれば大事にはならなかったのだろうが、マズイことに刀を引き抜いて村民を脅し包囲を突破したらしい。彼らは西へは逃げず、東の上高田村から下落合村方面をめざして逃亡した。
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 ふたりが彰義隊の隊員であれば、残党の探索がきびしい江戸市中へと近づく東ではなく、西へと逃げのびるのが自然なのだが、なぜか、もと来た道(新井薬師道=中ノ道Click!)を引き返しはじめたらしい。深読みすれば、このふたりは「彰義隊」を看板にすれば近郊で優遇されるとでも聞きかじった、隊員を装う食いっぱぐれの浪人だったのかもしれない。真相はやぶの中なのだが、村民を甘く見くびった彼らに非があるのはまちがいないだろう。
 下落合方面へ逃げたふたりは、途中で早鐘を聞いて駆けつけた東隣りの上高田村の村民たちと、道ではち合わせしてしまう。彼らは、焦って江古田村へと向かう街道を左へ折れたが、ふたりを追いかける村民の数は増える一方だった。やがて、下落合村の葛ヶ谷(現・西落合)にある四村橋Click!あたりで、再び付近の村民たちに包囲されてしまった。このときは、急を聞いて駆けつけた下落合村の村人たちも加勢していただろう。
 ふたりの武家は抜刀しているので、村人を斬ろうとすると包囲の輪が拡がり、逃げようとすると輪がちぢまるといった具合で、にっちもさっちもいかなくなってしまった。そこへ、ハシゴを持ってきた村民たち(おそらく村の火消役Click!だろう)がいて、ふたりの武家をハシゴ伏せにしてようやく制圧した。村民たちは容赦なく、このふたりを打(ぶ)ち殺して遺体を現場の四村橋近くに埋めた。
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 通常、無銭飲食ほどの軽微な“無法”なら、取り押さえたあと最寄りの番屋へ人を走らせ、引きわたすのが筋なのだろうが、このときはあまりにも時期が悪すぎた。おそらく、彰義隊の残党が次々と村内を通過し、村民たちはあらぬウワサにも振りまわされて、強い不安感にかられていた。幕府が消滅したあと、自分たちの行く末さえ見えず焦燥感にかられてもいたのだろう。ふたりの武家の無銭飲食と茶屋亭主への脅迫は、マッチをすって“火薬庫”へ投げこむような行為だったにちがいない。

◆写真上:現在は南千住の円通寺に移築されている、弾丸の貫通孔があちこちに残った上野・寛永寺の黒門。例によって、わたしの正面に大きなマリモ君Click!がひとつ出現している。
◆写真中上上左は、上野戦争で戦死した上野山にある彰義隊の墓標。上右は、当時は最新だったスナイドル銃の威力はすさまじく、弾が黒門の分厚い部材をたやすく貫通している。は、上野戦争直後に撮影された寛永寺の境内。薩長軍の放火で、伽藍の多くが焼失している。
◆写真中下は、新井薬師の山門脇にある地蔵堂で腰掛茶屋はこの右手の参道沿いにあった。は、明治期に撮影された腰掛茶屋で「栗めし」が名物だったようだ。
◆写真下は、彰義隊「残党」の2人組が逃げた下落合村へとつづく新井薬師道(中ノ道)の界隈。は、かつて四村橋のたもとで見かけた印象深いアトリエ建築。

めずらしい作品が目白押し中村彝展。

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 中村彝アトリエの復元Click!と同期して、新宿歴史博物館Click!では今年の3月17日(日)から5月12日(日)まで、地元では初の個展となる「中村彝―下落合の画室(アトリエ)―」展の開催が予定されている。同展では、中村彝の展覧会ではおなじみの作品が陳列されるのと同時に、中にはめったに実物を観ることができない作品も出展が予定されている。
 そのうちのひとつが、1919年(大正8)の暮れの降雪日(降雪の様子や光線の具合から、おそらく12月17~18日の午前中)に制作されたとみられる、当時は中村彝アトリエClick!の北側30~40mほどの位置に建っていた、一吉元結工場Click!の建屋をモチーフに描いたパステル作品『雪の朝』Click!だ。同作は、ほどなく成蹊学園の中村春二Click!に贈られ、同学園が発行していた機関誌『母と子』(第9巻第2号/編集長・厚見純明)の表紙にも採用されている。
 この時期の一吉元結工場は、彝アトリエの西側にある現在の接道(制作当時はまだ正式に道路として敷設されてはいなかった)を目白通りへ向けて北上すると、道の右手(東側)にあたる位置に建っており、路地をはさんで左手(西側)の区画には一面の広い干し場と、その北側には干し場に沿って東西に細長い職人長屋が建設されていた。中村彝は、その干し場の中に入りこんだり、あるいは近くの路地から落合福音教会(彝の時代は目白福音教会)の宣教師館(メーヤー館)Click!を、都合4点のタブローに仕上げている。すなわち、『目白風景』Click!(1919年)と『風景』(1919~1920年)、『目白の冬』Click!(1920年)、『下落合風景』(仮題:1919年ごろ)だ。
 この中で、最後の『下落合風景(仮題)』は日動美術館が収蔵していたものでタイトルさえ付いておらず、おそらく今回が史上初の出展になると思われる。わたしとしては、この作品にはぜひ中村彝の『下落合風景』ないしは『宣教師館(メーヤー館)』という作品名を付けていただきたいのだが、はたして彝はどのようなタイトルを希望していたのだろうか? ちょっと余談だけれど、日動画廊のご厚意で一昨年に拝見した、佐伯祐三Click!が渡仏直前に描いた『下落合風景』Click!に、昨年、ついに買い手がついたらしい。購入したのは東京の方なので、もし佐伯展の企画があれば貸し出しの許可をいただけると思われる。『下落合風景』シリーズClick!の中でも、佐伯のサイン入りで特に出来がいい本作は、ぜひ佐伯展でもう一度、他作品と並べて観賞してみたいものだ。
 また、もうひとつのテーマとして『目白の冬』に描かれた建物規定と制作年の訂正を、ぜひ地元で展示されるのを機会に実施してほしいと思うのだが、それには作品貸し出しの際の規定があって、簡単には修正できない可能性があるようだ。これは、茨城県近代美術館が『目白の冬』に描かれた建物を「元結工場」だと誤って規定(特に年譜表現)してしまい、制作年を中村彝『芸術の無限感』Click!に所収された書簡をもとに、元結工場の記述が登場する1919年(大正8)12月に繰り上げてしまっている課題だ。それまでは、同作は1920年(大正9)の制作とされていたはずであり、彝の死後間もない『芸術の無限感』でもそのように規定されている。しかし、同じ茨城県近代美術館の出版物には、従来どおりに1920年制作と規定する年譜も存在しているのだが・・・。
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落合のアトリエ1916.jpg
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一吉元結工場1947.jpg

 下落合に長くお住まいの住民なら、あるいは彝アトリエの周辺にお住いのみなさんなら、すぐにも気づくはずだが、『目白の冬』に描かれているのは他のタブローと同様に目白福音教会の宣教師館(メーヤー館)であり、一吉元結工場ではない。元結工場の建物は、屋根上に換気用の小屋根がもうひとつ乗る、『雪の朝』に描かれた当時の町工場然とした仕様の建物であり、彝が死去してから数年後、おそらく大正末から昭和初期に、彝アトリエの北西側(旧・干し場の南側)に職人長屋ともども移築されて建っていた。それが幸いして、1945年(昭和20)5月25日の空襲にも焼け残り、戦後もアトリエ周辺にお住まいの方々の記憶にも強く残る建物だ。
 また、中村彝が12号キャンバスに描いた一吉元結工場作品が存在するのも、『芸術の無限感』の書簡から明らかなので、わたしは相変わらずタブローをはじめ、その下描きや習作も含めてあちこち探しつづけている。ひょっとすると、戦争で焼けてしまったのかもしれないが、写真に撮られた画像がどこかに残っていないか、ずっと気になっているのだ。
 ちなみに、わたしがいま“指名手配”をしている画面は3点あり、彝の12号「一吉元結工場」作品(そのスケッチや習作の画面を含む)に、曾宮一念Click!が戦後に目にしている佐伯祐三の40号(!)「曾宮さんの前」Click!、そして下落合の西端を描いた佐伯祐三『下落合風景』の1作「洗濯物のある風景」Click!でイーゼルを据えた佐伯の背後、野方町上高田358番地界隈に建っていた、『堂(絵馬堂)』Click!のモチーフ探しにからむ桜ヶ池・不動堂の1954年(昭和29)以前の写真だ。同年に、大正期からつづく古い堂がリニューアルされていることが判明した。
 特に、最後の桜ヶ池・不動堂が『堂(絵馬堂)』に描かれた建物と同一であった場合、美術史上においては非常に重要な意味をもってくることになる。それは、上高田92番地Click!に建っていたとされる「吉薗周蔵」の自宅とケシ畑、そしていまも上高田に住む地付きの人々の記憶に残る、同じ地番の区画で先日その実在をつきとめた、小池鶴吉が開業した居酒屋「つる店」(=つる屋)に、佐伯の描画ポイントが限りなく接近することになるからだ。「つる店」(つる屋)は、小池とめ(小池鶴吉の妻ないしは娘)の時代には居酒屋と旅館とを兼ねた営業をしていたと思われる。
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 中村彝アトリエの復元工事も、スムーズに進捗している。工事中、建築学に関連したML(メーリングリスト)で面白い情報をいただいた。彝アトリエの復元には、従来の古い部材をできるだけ活用するコンセプトが導入され、柱や壁板はもちろん屋根瓦まで従来の鈴木誠アトリエClick!のもので使える部材がそのまま流用される予定だと聞いていた。でも、屋根瓦は戦後になって鈴木家が葺きかえたものだ。MLでは彝アトリエの復元に関連する情報として、戦前の古いフランス製で同色系の瓦のストックが見つかったので、それを用いて屋根を復元する・・・というものだった。
 中村彝ファンならご存じのように、1916年(大正5)に彝がアトリエを建てたとき、用いられた赤い瓦はベルギー製のものであり、ほぼ同時期のフランスで造られた同色系の屋根瓦が入手できたとすれば、より初期の屋根に近いものが復元できると思われるので、このニュースが事実だとするとたいへんうれしい。大正期に所沢の陸軍飛行隊が、東京市街地へ向かうときに目印にしたという彝アトリエの赤い屋根は、よりリアリティの高い復元ができそうなのだ。
 今度の「中村彝」展には、残念ながら『エロシェンコ氏の像』Click!(1920年)は出品されない。このところ、東京近美から外部展への貸し出しがつづき、作品が少し「疲れ」ているようなので「休ませる」必要があるようだ。確かに、新宿区では一昨年の「新宿中村屋に咲いた文化芸術」展でも同作が展示されていた。そのかわり、彝アトリエで『エロシェンコ氏の像』と同時に制作された鶴田吾郎Click!『盲目のエロシェンコ』Click!は、新宿中村屋Click!から出品される予定になっている。
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 さらに、完成した自身のアトリエを描いた『落合のアトリエ』Click!(1916年)、アトリエの庭を描いた『庭の雪』Click!(1919年)、『目白の冬』と同様にメーヤー館を東側から描いた『風景』Click!など、大正期の下落合風景作品が同展に出品される。もちろん、彝の代表作も多く展示される予定だ。ひとつ残念なのは、同じ新宿中村屋の娘でも長く彝アトリエの壁面に架けられていたとの証言があり、また彝アトリエをときどき訪問していたとみられる相馬千香Click!のプロフィール、1912年(明治45)制作の『帽子を被る少女』Click!がないことだ。わたしは一度、姉の俊子Click!とはちがって頬が“ぶんどう色”Click!をしていない、可憐な千香の肖像画をじかに観てみたい。もうひとつ、できれば青地に白い水玉模様の大正カルピスClick!が展示できると、もう言うことはなにもないのだが。w

◆写真上:2013年3月17日(日)~5月12日(日)で開催される「中村彝―下落合の画室―」展。
◆写真中上上左は、1916年(大正5)にアトリエが完成した直後に描かれた中村彝『落合のアトリエ』。上右は、1919年(大正8)の暮れに制作されたと思われる『雪の朝』。は、戦災にも焼け残り1947年(昭和22)の空中写真にとらえられたメーヤー館()と一吉元結工場()。
◆写真中下:いずれも同展へ出品される作品で、は相馬俊子を描いた『少女』(1914年/)と田中館愛橘Click!を描いた『田中館博士の肖像』Click!(1916年/)。は、いずれも目白福音教会の宣教師館(メーヤー館)を描いた『風景』(1919~20年/)と『目白の冬』(1920年/)。
◆写真下:竣工が間近な、1916年(大正5)現在の復元による中村彝アトリエ。工事の方によれば建物は内装まで含めておおよそ完成しており、あとは周囲の造園工事が残るだけとなっている。さて、屋根上に載るフィニアル(飾り立物)がどのようなものか、ワクワクしながら待っている。

さようなら、「カフェ杏奴」さん。

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 わたしが、下落合でパイ専門店「ローリングピン」Click!さんとともに、もっとも多く通った喫茶店「カフェ杏奴」Click!さんが、2月いっぱいで閉店してしまう。開店当初から、13年間も通って情報交換や地域交流、そして取材資料の整理や記事の原稿書き、ときには仕事に利用してきた。ここの記事のおよそ4分の1ほどは、カフェ杏奴で仕上げたものだ。
 改めて備えつけの杏奴ノートを開くと、2000年12月に当時は小学校低学年のオスガキの書きこみがすでにみえるので、わたしが「Chinchiko Papa」のハンドルネームを使いはじめたのもちょうど同じころだ。2004年に、カフェ杏奴で『ブログの力』出版にからんだ集まりが開かれ、ほどなく日本橋を中心とする下町Click!の物語をメインに書いてみようとブログを起ち上げたのだが、カフェ杏奴で知り合った玉井さんClick!に誘惑されw、目白文化村Click!について書きはじめたのが都合30年以上も暮らしている落合地域へこだわるきっかけとなり、つづいて同じくカフェ杏奴の常連だったsusumenysiさんClick!に、下落合と周辺域にまつわる怪談話の連載をとそそのかされてw、とうとう落合地域の各時代ごとの“ネバーエンディングストーリ―”Click!にはまってしまった。
 つまり、すべてはカフェ杏奴からはじまっているのであり、落合地域全体のやや東側に位置する、いわば地域の一大拠点とでもいうべき存在になっていたのだ。だから、わたしはママさんからお父様が倒れ、その介護のために閉店すると突然聞かされたときには、まったく途方に暮れてしまった。折りしも、刷り上がったばかりの「中村彝―落合の画室(アトリエ)―」展Click!のリーフレットをとどけたばかりだった。さて、いったいどうしたものだろう?
 わたしの場合、美味いコーヒーを飲みタバコを吸いながら、アタマの中で組みあがっている文脈を一気に記事へ落としていく書き方なのだが、なかなか家では雑用に気が散ってそれができない。だから、落合地域を取材がてら、あるいは散歩がてらに立ち寄るカフェ杏奴の快適な空間は、資料整理と原稿書きには願ってもないスペースだったのだ。
 ほかにも、落合地域にはカフェや喫茶店が何軒かあるけれど、落ち着けなかったり禁煙だったり、またコーヒーが美味しくなかったり、地下で無線LANが入らなかったり・・・で、なかなかわたしにフィットするお店が見つからない。唯一、華洲園Click!(小滝台)の丘裾にある早稲田通りに面した上落合1丁目の喫茶店「Collie」は、とても気に入っているのだが家からはやや遠すぎる。
 いっそ、高田馬場駅へ出てしまえば、学生時代から馴染みのJAZZ喫茶「Milestone」Click!も健在だし、あちこち喫茶店だらけなので困らないのだろうが、目白・落合・長崎地域の取材や散歩をしたあと、わざわざ高田馬場駅へ出るのも面倒くさい。やはり、下落合の自宅に近づいたときに立ち寄れていたカフェ杏奴は、わたしにとってはかけがえのない貴重な存在だった。
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 わたしも心底、困ってしまうのだが、もっと困りはてているのがカフェ杏奴に滞在していた画家のみなさんだ。2月末にカフェ杏奴を出なければならない、彼らの声をちょっと聞いてみよう。
 「あのな~、わし~、どこにも行くとこ、あらへんし」
 「なに言ってやがる、サエキくんClick!。ちゃんと新築で、ピッカピカのアトリエがあるじゃんか」
 「そないなことゆうたかてな~、ソミヤはんClick!、アトリエだけとちゃいまんがな~」
 「あん? どういう意味だい、サエキくん」
 「アトリエだけならな、ええんやけどな~、オンちゃんClick!もな~、しっかりおんねんで」
 「・・・・・・」
 「そやさかいな~、なんとのう、帰りとないねん」
 「・・・まあ、あたしゃなんとも言えねえがね」
 「いまごろな~、小堀杏奴Click!とカフェ杏奴の文句ぎょうさんためてな、ジ~ッと待っとんのや」
 「米子さんから、ダブル杏奴の文句とグチてえわけかい?」
 「ほんまでっせ。あのな~、ヒヒヒヒヒのキーーーッゆうて、わしのことジッと待っとんのや~」
 「なんだか、おっかねえな、サエキくん」
 「ほんま、ビーナスはんはガブClick!ちゅうわけでな~、えろう怖いのんや」
 「サエキくんは、まだいいじゃねえの。オレなんか、また宿なしのアトリエなしに逆もどりだぜ」
 「わしもな~、ソミヤはんといっしょにな~、いっそ野宿でもしよかいな」
 「キミたちも、マジに大変だねえ。2月末じゃ寒いし、野宿も野グソもこたえるよ。はっはっは」
 「中村センセClick!はな~、昔のアトリエがもうすぐ完成やさかい、余裕でんがな~」
 「そうだよ、ツネさんはなんの心配もいらないしさぁ」
 「まあ、困ったらボクのアトリエへ来たまえ。少しの間だったら、キイおばさんの3畳間へ泊めてやってもいいと思ってるんだ。ソミヤくんに、え~と、キミは確か、サエキくん・・・だったかな?」
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 「わしもなんじゃ、中村くん。暮れにアトリエが青天の霹靂で壊されて、宿なしClick!なんや」
 「おや、金山くんClick!もかい。じゃあ、そこらで踊らないなら、うちへ来るかい? はっはっは」
 「ところで、中村センセ、地元新宿で初めての個展、おめでとうございます」
 「おう、ありがとう、オサカベくん。これでやっと、胸のつかえが下りたよ。はっはっは」
 「新宿中村屋から、ぎょうさん出品されるそうやないか」
 「金山くん、中村屋ゆーな!」
 「わしが聞いた話じゃ、中村くん、アトリエも、なんじゃ、俊子ちゃんだらけゆう話じゃ」
 「俊子ゆーな!・・・」
 「・・・しかし、こうるさい中村くんを黙らせるには、これがいちばんやな、人くん」
 「あとな~、劉生センセとカルピスClick!でも、大人しくなるんやで~」
 「劉生もゆーな! サエキくん!」
 「でも、金山センセ、冗談からタライで、ほんとうにタライまわしになっちゃいましたよ」
 「ふーーむ、わしたちの身のふり方も、困ったもんじゃな、人くん」
 「いっそのこと、島津さんのアトリエClick!にでも行きますかね」
 「わしも歳とったさかいな、らくClick!もチロリアンハウスより、和風の家が喜びそうじゃ」
 「じゃあ、金山センセ、いっそのこと、フミコばばあの家にでもご厄介になりますか?」
 「人くん、天下の林フミコさんを、ばばあ呼ばわりしちゃいかんな」
 「だってだって、金山センセが、そう呼びはじめたんですよ!」
 「わしゃ、そんな下品で悪い言葉づかいはせんぞ! きっと、なにかの聞きまちがえじゃ」
 「・・・そうでしょうか」
 「あたりまえじゃ。林フミコさんに、失礼やないか、人くん」
 「そいえば、こないだ林さんがセンセの更地になったアトリエ跡にみえて、これでムウドンの丘Click!の眺めも、陽当たりもよくなったわ、ほんとスッキリしたこと、ホホホ・・・と喜んでましたね」
 「・・・あっ、あの、口ぎたないフミコばばあが、そんなこと言いやがったんかい!?」
 「ほらほら、いま、なんておっしゃいました?」
 「・・・人くん、黙らっしゃい!」
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 やはり、画家のみなさんは、すっかり途方に暮れてしまっているのだ。さて、ほんとうに困った。わたしもこれから、休みの日にどこでコーヒーを飲み、どこで記事を書いたものだろう。ちなみに、2代目「カフェ杏奴」を継いでいただける方は、どこかにおられないだろうか?(;_;)

◆写真上:「中村彝」展の告知が貼られた、すっかりお馴染みの「カフェ杏奴」扉口にて。
◆写真中上:やさしい光が射す、13年間ですっかりお馴染みな「カフェ杏奴」の店内。
◆写真中下・下:杏奴のママさんに抱っこされてご機嫌のサエキくんと、宿なしアトリエなしになる画家たちの中で、ただひとり初期アトリエの復元と個展が近づいてはしゃぎまわる中村センセ。

日本橋の“すずめ色”いろいろ。

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 日本橋には、昔から“すずめ色”というカラー表現がある。現在、「雀色」というと多くの場合、ややくすんだ褐色の1種類に限定されてしまうのだけれど、この1色限定は古い時代からのものではない可能性がある。また、江戸東京の町々では、それぞれ異なった色の規定や表現、さらには職業により色の通称があったと思われるので、日本橋の“すずめ色”がそのまま京橋や尾張町(銀座)を通りこして、新橋で通用していたかどうかはさだかでない。
 日本橋の“すずめ色”とは、1色ではなく多色を意味する表現だ。スズメが雛から親鳥へと成長する過程で顕在化するさまざまなカラー、すなわち茶、薄黄(薄緑)、ねずみ(灰)、黒、そして白だ。しかも茶は、くすんだ朱色に近いものまで含めて48種類、ねずみ色にいたってはゆうに100種類を超えていて、銀色に近いねずみ色(銀ねず)までが含まれる。いずれも、ねずみ(灰)をほんのわずか溶かしこみ、ややすんだ渋い味わいをもった色合いで、これらの“すずめ色”こそが生活や装いにおいての美の基準色となっていた。
 日本橋は通油町の長谷川時雨Click!も、どこかの文章で書いていた憶えがあるのだけれど、“すずめ色”に紺屋染めの青(藍色や紺色)をプラスしたカラーリングが、スマートで美しい(野暮Click!ったくなく洗練されて粋な)生活の基本色として、少なくとも日本橋界隈では位置づけられていた。これは大なり小なり、現在でも「江戸色」の一部として脈々と活きて受け継がれており、江戸東京全域とはいわないまでも(おそらく明治以降の乃手の色に対するとらえ方は、だいぶ異なるのかもしれないのだが)、この(城)下町Click!ならではの美意識だろう。
 そのカラーの中に、赤や緑、紫、橙、黄ましてや金や銀の光り色といった、原色あるいは派手でどぎつくゴテゴテした色合いは存在していない。どこか、灰をうっすらと掃いたような中間色、いま風にいえば落ち着いたパステルカラー調の地味で渋く、差しこむ自然光で刻々と変化するような微妙な色合いこそが美しいのであって、それらのいわば扱いや合わせのむずかしい色合いを楽しみ、おもに女性がさりげなくスマートに着こなしてこそ、この街の意気地であり甲斐性だ・・・というような、ちょっと素人ばなれした美しさを追求する、独特な感覚があった。
 特に若い女性は、それだけで派手かつ美しく色気があるので、地味で渋い色合いを着こなせれば、ますますそれが際立って映えるという、暗黙の“お約束”のような美意識が厳然と存在した。
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 でも、異なる地域(街)の人にとってはおそらく理解できない、カラーに対する趣味や美のローカル感覚なのかもしれない。また、近年に織りや染め、ファッションのメーカー・学校などによる、あえて地域色を薄めるか消滅させるかし、「標準化・一般化」された装いの「教科書」的なカラーリングの概念からは、大きく外れた趣味なのだろう。でも、「美意識」も「食文化」とまったく同様だが、いくら「美しいよ」「美味しいよ」「これが“正しい”んだよ」と、よその地域の価値を押しつけようとしても(多分に商売気も絡んでいるのだろうが)、まったくムダとはいわないまでも徒労に近い行為だろう。地域文化は、ガンコで根が深い。このあたり、言語における無理やり一般化された「標準語」Click!の押しつけにも似て、あえて地域色を薄めた趣味が幅をきかせがちだったり、学校で強制(特に生活言語)されがちなのは、なんともさびしく情けない限りだ。
 わたしの親世代から上の、口さがない下町スズメにいわせれば、着物や洋服を問わず原色系あるいは派手で金きらきんの強烈な色合いを着ていると「洗練されてない」、「無粋ね」、「野暮よ」、「町風じゃないわ」、「ちんどん屋だ」、「大べらぼうだ」、「田舎じみた格好するな」、「眼が痛い」、「水道(すいど)の水で洗われてない」、「下品だわ」、「垢抜けてない」、「なんだそりゃ?」、挙句のはては「どっからきたんだい?」と、もうさんざんな言葉を浴びせられるだろう。
 いまでこそ、成人式や卒様式などのハレ着には、江戸東京地方を強く意識したしぶい色合いの振袖や羽織袴が復活しているけれど、それらの色合いが絶滅寸前だった“金きらきんで真っ赤っか”状況の、1950年代末の高度成長時代から1990年ぐらいまでつづいたバブリーな時代までは、かなり世代が上の人たちといっしょに街中を歩くと、「おい、見てみろ、金魚が泳いでら」と半分あわれみをこめたような物言いで、年寄りたちは揶揄したものだ。実際に、彼ら(彼女ら)にはそれが限りなくみっともなく、また醜悪(=悪趣味)に映っていたのだろう。
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 わたしの世代にも、この美意識は多少なりとも頑固に受け継がれており、着るものに原色系のカラーを選ぶことはまずありえない。クローゼットを開けると、知らずしらず黒や濃薄茶、多彩なねずみ色(灰色)=“すずめ色”へと、着るものが偏っているのに気づく。装いに限らず、生活のさまざまな彩りや家具調度でも、できるだけ派手な色合いは選択から避けているのがわかる。モノトーンとはいわないまでも、余計な色合い(「余計」と感じること自体が、すでにここのローカルな色彩感覚だろう)を排除しているのが明らかだ。
 正月に、下落合は近衛町のカフェ「花想容」Click!で渋い小紋を作った知り合いの女性と、あと何人かが喫茶する楽しい集いがあったようなのだが、花想容のお土産に「江戸帖」と題した2013年のダイヤリーをいただいた。江戸東京の伝統的な着物の柄や、微妙な色合い、(城)下町の趣味を強く意識した装丁とデザインで美しい。つかわれているカラーは、いわゆる“すずめ色”+藍・紺が主体で、落ち着いていて見あきず、ひと目で気に入ってしまい愛用している。
 「江戸帖」の中から、染め呉服の老舗「竺仙」の5代目主人・小川文男の言葉を引用してみよう。
  
 私たちには表舞台にこそ出てこないが、依然、綿々と流れている血のようなものがあるのだと小川氏は言う。だからデザインという目に見えるものに接したとき「あっ、いいじゃない。」と、魂が揺さぶられるのだと。/自然な暮らし方、環境にやさしい暮らし方がいいというだけならば、それは明治時代でもいいわけだ。しかし、そこには、自分たちが創り、積み重ねてきた文化はない。充てがわれた西洋の文化を日本風にアレンジしたにすぎないからだ。(江戸の美意識[デザイン]より)
  
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 さて、家に新しい娘が増え、また、もうひとりの娘がときどき顔を見せる昨今の情勢なのだが、彼女たちは若くて、それだけで十分に華やかで美しいのだから、ぜひ、この地方(とりあえず「日本橋」地域を希望)の美意識を体現した装いや姿恰好をしてほしいものだ。まかりまちがっても、地元の美意識をもった人たちから、「金魚」や「ちんどん」のうしろ指をさされるようにはならないでほしい。でも、うっかりそんな話を口にしようものなら、神田川や妙正寺川沿いに昔から数多く展開する、江戸友禅染めや江戸小紋の工房Click!へ引っぱっていかれ、「パパさん、これ欲っし~~!!」などと、ゼロがたくさん並んだ着物の前でいわれかねないので、ひっそり沈黙をつづけている。
 今年も「染の小路」Click!が、妙正寺川(上落合と旧・下落合の西部)を中心に開催されるそうだ。2月22日(金)・23日(土)・24日(日)のスケジュールで、美しい色合いの反物が川面を染める。その期間、わたしは女性陣からはちょっと・・・というか、できるだけ距離をおいてすごすことにしよう。

◆写真上:妙正寺川の川面に反物や浴衣地をわたした、「染の小道」による川のギャラリー。
◆写真中上は、わたしの親の世代までがよく着こなしていた“やたら縞”のしぶい色合いの柄。は、いまの季節にぴったりな渋いねずみ(灰)の混ざった緑の“雪持笹”。
◆写真中下:5,000種類を超える型紙で無数の柄を創案する、江戸小紋の染めつけ作業。
◆写真下上左は、伝統柄のひとつ“寒牡丹”。上右は、江戸美学研究会の編集による「江戸帖」。は、神田川で捕獲されたアユたち。そろそろ、妙正寺川にももどっているだろうか。

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