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鷹狩りで仕事が増える御留山。

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御留山山頂.jpg
 代々の徳川家が、千代田城を出て江戸近郊で狩りをするのは、生類憐みの令Click!の5代将軍・綱吉の時代を除いては恒例行事化していた。将軍家に限らず、徳川御三家(紀伊・尾張・水戸)はもちろん、御三卿(一橋・清水・田安)も頻繁に近郊で狩りを催している。
 狩りは鷹狩りが中心だったが、田畑を避けてそこいらの野原や林で行われる狩場を、「放鷹」「御鷹野」「御鷹場」などと呼んでいた。これらの土地は、別に将軍家が直接管理している特別な場所ではなく、江戸郊外の村はずれだったり武蔵野の原野だったりと、狩りのとき以外は村人も自由に往来できるエリアだった。それに対して、将軍家直属の狩り場であり、付近の村人もいっさい立入禁止に指定されていた場所が、「御留山」「御留場」と呼ばれたエリアだ。
 下落合の「御留山」Click!は、下落合村の村民が立ち入るのはおろか、勝手に鳥や獣を獲ったり、樹木の枝葉を払ったり集めたりすることさえ禁止されていた。特に付近の村民たちが、小鳥を勝手に捕獲するのを禁じたお触れまでが残っているので、きっと将軍家による獲物が少なかった鷹狩りのあとに発令されたか、あるいは御留山に指定されているにもかかわらず、村人が入りこみ小鳥を獲っていくのが目に余るようになったからだろう。
 これに対して、一般の野原で行われた鷹狩りでは、村民たちがいろいろと気をつかい、獲物が少なくならないよう鷹狩りの前に鶉(うずら)を大量に放鳥したりしている。これは別に、村人の将軍家に対する忠誠心や親切心から出ているのではなく、将軍家が快適な狩りをすると村々へのギャランティも大きくふくらんだからだろう。大規模なイベントが開催されると、その地域に大きな現金収入があるのは、いまも昔も同じなのだ。
 でも、村々の農民たちは忙しい農作業の合い間をぬって、将軍家の鷹狩り準備や勢子(大勢の人間が一定の区画を包囲し、音を立てて獲物を追い出す役目)など、狩り当日の使役をしなければならず、鷹狩り開催のお触れが出ると名主や村人たちは、臨時の大きな現金収入に喜ぶと同時に、農作業のやりくりを心配しなければならず、痛しかゆしの思いをしただろう。では、将軍家が鷹狩りに村々を訪れることになると、どのような仕事が発生していたのだろうか?
鐘岱愛鷹之記19世紀.jpg 御留山バッケ.jpg
 まず、「御場筋左右草刈」や「御道筋木之枝おろし」という仕事がある。これは、将軍家の鷹狩り一行が通過する道筋の両側を、見苦しくないように草刈りや樹木の枝払いをして、事前にきれいにする役目だ。また、同じような仕事で「御場古蘆刈」や「秡緑通草刈取」というのもあった。河川沿いに生えた蘆の枯葉を刈りとったり、狩り場の邪魔な小樹や草を払ったりする作業だと思われる。鷹狩り一行が道をまちがえたり、野原や雑木林で迷ったりしないよう案内板や標識、道しるべを建てる仕事もあった。「御伝板掛ヶ方梁杭打込御場拵」がそれで、将軍家の「御立場」Click!(展望台)があった御留山では、これらの作業に加えて御留山自体の手入れも発生しただろう。
 鷹狩り一行が、馬を休める場所も造らなければならず、「御馬繋杭仕立」や「諸色持送」がそれだ。馬の干し草や水、世話係などの仕事が発生している。さらに、一行を道案内するガイド役や、狩りに参加して獲物を追いたてる勢子役、一行にふるまう食事や茶菓などの手配と、近隣の寺院・名主宅での御膳所接待など、さまざまな雑役「諸案内向並勢子世話役」が発生している。狩りが夏であれば、焚いていぶす蚊やりの杉葉、汗を流す風呂には桃葉を用意するなど、村方は万事細かな気をつかっている。また、狩りのために臨時に設置した案内板や急ごしらえの厩場などは、一行が帰ったあとすべて撤去するのだが、その撤去作業費も幕府へすべて請求していた。
将軍家駒場鷹狩図1786.jpg
鷹狩絵巻.jpg
 こうして、とどこおりなく将軍家の鷹狩りが済むと、村々には少なからぬ現金が支払われる。御鷹野役所へ、狩りにかかった村の諸費用見積りを提出し、それに対して幕府勘定方から支払い日と支払い場所を指定する連絡が村へとどくことになる。
 落合地域では、御鷹野役所が設置されていた角筈村(現・新宿)まで、朝の五ツ半(午前9時ごろ)に受けとりに出かけることになる。下落合村の西隣り、上高田村の「堀江家文書」には、鷹狩りにかかった代金を角筈村へ受領しに出かけた、江戸後期の「請取証文」が保存されている。
  
 御用急キ
 明後廿日角筈村において諸人足扶持米相渡候間触下町村 三渕持参同所ニ朝五半時相揃候様可申触候 不参の町村には渡方不相成候間不参無之様急度可申触候 萬一外御用等ニ而難罷出分も有之候ハバ右之書付ヲ以代請取之儀可申出候
 一、当朝五半時迄雨天小雨ニ而も同道之積ニ相心得事
 右の趣都而差支無之様可取計もの也
  十一月十八日   御鷹野/御役所(黒印)
  
御留山拡張1.jpg 御留山拡張2.jpg
 大きな現金収入があるとはいえ、農閑期の冬場ならまだしも、農繁期の夏場に鷹狩りのお触れが出たりすると、村々では田畑の仕置きにアタマを抱えたにちがいない。待ったなしの農作業のやりくりに人を雇ったり、鷹狩り準備のために発生する準備作業は、使役が発生していない近隣の村々へ加勢を頼んだかもしれず、幕府からの支払金が丸ごと村人の臨時収入になったとは思えない。そのうちのいくらかは、臨時支出として村の外へ出ていったのではないだろうか?

◆写真上:御留山ピークにある四阿から、北側の急峻な谷戸方面を眺めたところ。
◆写真中上は、江戸後期に制作されたとみられる『鐘岱愛鷹之記』(部分)。は、御留山の南側にあるバッケで右隅に見えているのは藤稲荷社Click!(別名・東山稲荷社)。
◆写真中下は、1786年(天明6)に駒場で催された巻狩りの様子を伝える『将軍家駒場鷹狩図』。は、やはり江戸後期に板橋の徳丸ヶ原で行われた『鷹狩絵巻』(部分)。
◆写真下:財務省官舎が解体され、「おとめ山公園」の拡張工事が進む御留山の現状。


もとの木阿弥になった放射線量。

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放射線測定器1.jpg
 先年の暮れ、家の周囲とベランダの落ち葉掃きをした際、昨年につづいて放射線量の測定Click!を行なった。すると、やはり想像していたとおり、ベランダや屋根、雨どいに落ちてきた落ち葉の放射線量は、福島第一原発事故の当年(2011年)とまったく同様、正常値をゆうに倍以上も超える計測結果を記録した。つまり、2011年の暮れに落ち葉除去と洗い流し掃除をし、その後も何度かそれを繰り返して、平常値に近い数値=0.11~0.12µSV/hに近づけたはずなのだが、それがわずか1年で0.30µSV/hに近い数値にもどり、もとの木阿弥になってしまったわけだ。
 やはり、落ち葉を取り除いた家の周囲の土面も、2011年と同様に計測Click!してみたのだが、こちらはさすがに事故年に比べて数値が下がっている。土の表面に堆積した放射線同位元素が、雨で流されるか地中に浸みこむか、風で吹き飛ばされたのだろう。でも、落ち葉が堆積したところは、相変わらず一昨年とほとんど同じ放射線量にもどっていた。すなわち、また最初から「除染」掃除をやらなければならない、事故当年の“ふりだし”状況にもどったことになる。特に、小さな子供のいる家では、念入りに家の周囲を大掃除したほうがいいのだろう。
 これには、ふたつの理由が考えられる。ひとつは、福島第一原発の事故はまったく収束してはおらず、原子炉の中がどうなっているかもわからず、また炉心がどこまで溶融して沈下しているのかもつかめない状況、つまり事故は収束するどころか現在進行中のまま、延々と放射性同位元素が周辺環境へ漏れつづけ、まき散らされているということだ。これらの放射性物質が北風に運ばれ、相変わらず東京地方へ降りそそいでいる可能性がある。原発周辺の汚染は、ひどくなりこそすれ決して止まってはいない。数年前までは想像だにしえなかった、放射性物質のたれ流し状況に、われわれが単に「馴れて」しまっているにすぎない。
 ふたつめの理由として考えられるのは、事故の直後から地表に堆積した放射性物質が雨などで地下深くに浸透し、それを樹木が吸い上げて枝葉に蓄積し、昨年暮れから落ち葉とともに再び降りそそいだ・・・という可能性だ。このケースだと、来年もまた同様の放射性物質を含んだ枯れ葉が降ってくるのはまちがいないだろう。いや、さらに「濃縮」化現象が進み、事故年や昨年よりも高い数値の、放射性物質を含んだ枯れ葉が降りそそぐかもしれない。
ケヤキ林.jpg
 冬に葉を落とした樹木は、その枯れて腐食した落ち葉を養分にして、再び枝葉を育てることになる。このリサイクルが、放射性物質の「濃縮」現象を促進し、年をへるとともに放射線の濃度が高くなる要因だ。チェルノブイリケースClick!では、事故後5年ほどは多くの動植物に含まれる放射線濃度が高まりつづけ、低くなることはまれだったという。
 福島第一原発の汚染地域で捕獲されたイノシシから、とんでもなく高い放射線濃度が検出されたのは、ついこの間のことだ。おそらく、山の汚染された木の実や葉、根などを食べ、川の水を飲みつづけたのだろう。また、雨水や湧水で洗い流された汚染土を含む水が河川に注ぎこみ、やがては海の生態系を猛烈に汚染して、食物連鎖の頂点にいる海の魚たちに高い「濃縮」現象がみられるのも、まちがいなくこの5年前後の間だ。福島に限らず、その周辺域や関東地方でも、動植物における高い放射性物質の「濃縮」汚染は、これからスタートする大きな課題だ。
 もっとも、「濃縮」による高い数値の汚染が確認されても、いまの政府やマスコミは「風評被害」のクレームを怖れて発表を控えるか、その事実を隠ぺいするのかもしれない。国民や消費者の放射線被害を防ぎ、安全性を第一に考慮しなければならない立場の人々が、原発の事故隠しの時代とまったく同様、相も変わらず汚染隠しをつづけるのだろうか?
 「除染」が終了したとされる地域の作業実態、そして放射線による汚染濃度が低減したと発表される地域の計測実態を知るにつけ、すでに途方もない楽観論と、「大本営」発表の焼き直しが透けて見えはじめている。インパール作戦の佐藤師団長(東北出身)ではないけれど、「馬鹿ノ四乗」的な事態はぜがひでも避けてほしいものだ。放射線に、適当なゴマカシはいっさい通用しない。
落ち葉1.JPG 落ち葉2.JPG
 こんなお粗末で不徹底な対策や施策をつづけていると、多くの人々に取り返しのつかない放射線障害を生み、ヒロシマ・ナガサキの被爆(曝)者の70年を、もう一度フクシマで繰り返すことになってしまうだろう。チェルノブイリ事故から数年後、日本の団体や医療機関は周辺域で被曝した人たちへの本格的な支援をスタートしたが、放射線に関するWHOの規定を厳密に遵守した当時のソ連政府のほうが、はるかに誠実でまともに見えてくるのは、心底情けないことだ。それでさえ、被曝者の間に膨大な放射線障害を生んでしまった、いや現在も生みつつあるのだが・・・。
 下落合の近くの公園では、昨年の暮れから今年の初めにかけ、ほぼ毎日のように落ち葉を片づける“掃除機”のモーター音が響いていた。毎朝8時ぐらいから作業がスタートするので、少しうるさく感じ苦情を入れたくなったのだが、ハタと気がついて考え直した。例年なら、数日にわたる集中的な掃除で終了していた作業のはずだが、事故後は晩秋から冬にかけてほぼ毎日のようにつづけられている。ひょっとすると、汚染された落ち葉の実態を知っている方が仕事をされているのではないか? 公園には近くの保育園や幼稚園、小学生たちが大勢遊びに立ち寄る。堆積した落ち葉の中を駈けまわったり、クッションのようになった枯れ葉の吹き溜まりへ寝転んだりする。それを気にして、しつこいまでの落ち葉掃除をつづけているのではないか。
 余談だけれど、1月14日の大雪を計測してみたが、少なくとも落合地域に降った雪には放射性物質がほとんど含まれておらず、ほぼ平常値に近い0.09~0.11μSv/hだった。風向きが真北だったせいで、雪を降らす雲へ汚染が拡がらなかったのだろう。積雪が放射性物質で汚染されると、とてもやっかいなのはチェルノブイリケースをみても明らかだ。
下落合雪中20130114.JPG 放射線測定器2.JPG
 暮れにベランダの落ち葉掃除を終えたあと、今年も屋根や雨どいの掃除をいつもの業者に頼んだ。これでなんとか、生活環境の放射線量は平常値にもどっただろう。でも、恒例の作業とはいえ、入念な洗い流しまでつづけなければならない面倒な大掃除が、これから5~10年もつづくのかと思うと、ふだんから樹木の恩恵Click!を多分に受けているとはいえ、やはりとても気が重くなるのだ。

◆写真上:落ち葉掃きのあと、家の周囲を計測すると0.11μSv/hまで低減した。
◆写真中上:秋口に撮影した、葉を落とす前の膨大なケヤキの枝葉。
◆写真中下:同様に秋に撮影した近所の公園の落ち葉で、0.25~0.28μSv/hを記録した。
◆写真下は、1月14日の大雪風景だが放射性物質はほとんど含まれていなかった。は、3階のベランダで計測したところ落ち葉がないにもかかわらず0.20μSv/hを超えていた。

夏子が語る下落合2丁目801番地。

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下落合1.JPG
 さまざまな絵画や小説、映像などには下落合が登場してくるのだが、そこでは山手線のもよりの駅名「目白」や「高田馬場」ではなく、大正初期から地域の独特なアイデンティティを形成していた「下落合」という地名が意識的に使われることが多い。それは、山手線の駅に近いにもかかわらず、「代官山町」のことを誰も「渋谷」や「恵比寿」と呼ばないのと同じような感覚だろうか。
 これまでにも、下落合が登場する中井英夫Click!久生十蘭Click!の小説作品をご紹介してきたけれど、それらはごく一部にすぎない。下落合風景を描いた絵画作品を多くご紹介している関係から、文学の中に登場する下落合風景を取り上げる機会が少ないだけだ。旧・下落合4丁目2107番地(現・中井2丁目)に住んだ船山馨Click!の作品にも、ときどき下落合が姿を見せる。1961年(昭和36)に河出書房新社から出版された、船山馨の現代小説『夜の傾斜』から引用してみよう
  
 康子はしのび笑いをして、ハンドルをまわした。/車は下落合を目白の通りへ折れた。矢代のアパートは、目白駅にちかい商店街の、細い露地裏にあった。/康子は自動車を、表通りにパークさせた。/「寄って行かないか。お茶をいれるよ」/「そうね。しばらく藻の匂いを嗅がないから・・・」/車の鍵をハンドバッグにほうり込みながら、康子は矢代とならんで、狭い露地を入っていった。
  
 船山のすべての作品を読んだわけではないので不明だが、おそらくいくつかの現代小説作品には下落合や目白通り界隈が登場していると思われる。
 物語の中に、下落合の具体的な住所が登場する作品もある。1973~1974年(昭和48~49)に放映されたドラマ『さよなら・今日は』Click!(日本テレビ)だ。子どもを棄てた母親が、吉良家のアトリエを訪れて去った日、過去のいろいろなものをあれこれ背負いすぎている自分に気がつき、それらを“清算”するために新しい「何か」を探しはじめようと決意する、吉良夏子(浅丘ルリ子)の台詞だ。1974年3月9日に放映された、同ドラマの第23話「子供は誰のもの」から引用してみよう。


 下落合2丁目801番地は、1971年(昭和46)まで下落合にあった実在の地番だが、ドラマが放映された当時はすでに地番変更で存在していない。現在の地番になおせば、下落合4丁目7番地に相当するエリアだ。きょうは、旧・下落合2丁目801番地周辺に住んだ芸術家には、どのような人たちがいたのか・・・というのがテーマだ。実は、下落合(2丁目)800番地周辺は下落合でも有数のアトリエ密集地であり、大正期から画家たちが住みつく“アトリエ村”の様相をていしていた。
下落合2.JPG 下落合3.JPG
 吉良家の大きな西洋館に付属するアトリエは、画家ではなく彫刻家だった“祖父”が建てたという設定になっているので、時代は大正末から昭和初期のころだろう。このサイトでは、落合地域の画家は数多く取り上げているけれど、やはり下落合を往来してゆかりの深い多くの彫刻家たちまでは、まったく手がまわっていない。記事に登場しているのは、せいぜい夏目貞良Click!北村西望Click!片山義郎Click!中原悌二郎Click!荻島安二Click!保田龍門Click!、そして少し外れた上戸塚の藤川勇造Click!ぐらいだろうか。だから、画家ではなく彫刻家のアトリエが下落合(2丁目)800番台の地番にあっても、なんら不自然ではない。
 大正期に下落合800番地へ、雑司ヶ谷から引っ越してきた画家には鈴木良三Click!がいる。薬王院の森(戦時中に伐採され、現在の新墓地エリア)に隣接する、制作にはもってこいの静かな環境だったろう。ちょうど関東大震災Click!が起きる直前に転居してきており、震災直後にはアトリエの壁面が崩れた中村彝Click!が避難してきて、短期間だが鈴木家で暮らしてClick!いる。画家志望で佐渡からやってきた河野輝彦Click!が、彝アトリエのあと片づけや修復に手をつけはじめるまで、中村彝は下落合800番地ですごしていた。
 大震災後に家が傾き、やはり下落合804番地にアトリエと自宅を新築して引っ越してきた画家がいた。目白通りも近い下落合645番地に住んでいた、中村彝の親友である鶴田吾郎Click!だ。鶴田吾郎は、下落合804番地のアトリエに2年と少し住んでいたが、長男を疫痢で喪い中村彝を見送ったのがこたえたものか、大正末には新築の自宅兼アトリエを放棄して、長崎の地蔵堂Click!近くに見つけた家(長崎町字地蔵堂971番地)へ転居してしまう。
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 同じく、下落合800番地界隈には、中村彝アトリエへ通いつづけた画家の鈴木金平Click!も住んでいる。具体的な地番はいまだ不明だけれど、鈴木良三がいた下落合800番地に近接していたらしいことは、証言類を掲載した資料からもうかがい知れる。また、大正末から昭和初期にかけ、下落合804番地には洋画家の服部不二彦Click!が住んでいた。これは、おそらく鶴田吾郎が長崎町地蔵堂へ転居したあと、鶴田が建てたばかりのアトリエ付き住居へ、服部が代わりに入居しているのではないかと想定できる。
 そして、画家たちのアトリエが集中していたのを、おそらくよく知っていた画家が1926年(大正15)9月22日に、薬王院の墓地沿いにつづくコンクリート塀を左手に、下落合800番台エリアの敷地を右手に入れて描いている。佐伯祐三『下落合風景』シリーズClick!の1作、「墓のある風景」Click!だ。この薬王院に隣接する一帯は、戦後も画家たちが住みつづけアトリエ建築が見られた。
住所表示変更1971.jpg 下落合801番地1936.jpg
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 吉良邸(桜の洋館)の建築時期は、おそらく関東大震災の直後あたりではないかと想定することができる。邸内には、大正時代のオルガンや柱時計、西洋鎧などの骨董品が見られるので、震災後に東京の市街地から郊外の下落合へと転居してきた芸術家のひとりだったのだろう。だとすれば、下落合(2丁目)801番地の吉良邸+アトリエは、鈴木良三と鶴田吾郎のアトリエに隣接している敷地なので、彫刻家の祖父と両画家とはご近所同士のつきあいだったのかもしれない。w

◆写真上:『さよなら・今日は』のロケシーンで、もっとも多く撮影された下落合の相馬坂。
◆写真中上は、丘上から南を眺めたタイトルバックで毎回登場した富士女子短期大学(当時)の時計塔。は、秋から冬にかけてのドラマなので雪がちらつくシーンもあった。
◆写真中下は、薬王院側から眺めた下落合(2丁目)801番地界隈。は、久七坂筋から眺めた下落合800番台の敷地あたり。この敷地の北側にもアトリエ集合区画があり、半径50m以内に曾宮一念Click!鈴木誠Click!(一時)、牧野虎雄Click!片多徳郎Click!村山知義Click!(一時)、蕗谷虹児Click!らがほとんど軒を並べるようにして住んでいた。
◆写真下上左は、1971年(昭和46)発行の「住居表示新旧対照案内図」。上右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合2丁目801番地。下左は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる同番地。下落合804番地には、洋画家・服部不二彦のアトリエが収録されている。下右は、下落合のアビラ村Click!(芸術村)に現存する島津一郎Click!の彫刻アトリエ。

記事に引用した第23話「子供は誰のもの」は、子どもを棄てた母親(緑魔子)と吉良邸のアトリエ(喫茶店「鉄の馬」)が解体される直前という、重たくてせつないテーマが展開される回なので、きょうは吉良家のアトリエに“異民族”が進入してきた、第2話(タイトルなし)の「予告編」をおとどけします。劇中で使われた歌は、当時に大ヒットしていた夏木マリの「絹の靴下」で、唄っているのは山村聰、緒形拳、原田芳雄、林隆三の4人です。第1話Click!の「予告編」つづきとしてどうぞ。

Part01
Part02
Part03
Part04

二二六事件の朝は電車が動いていた。

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雪の下落合1.JPG
 これまで二二六事件については、このサイトでも東日本橋にあった実家の祖母と親父の行動Click!をはじめ、銀座のカフェで壁画の仕事をしていた画家たちの反応Click!、大雪が積もったその朝の下落合の様子Click!、下落合3丁目1146番地の佐々木久二邸Click!へ避難してきた岡田啓介首相の動向Click!、そして佐々木邸から600m南南西にあった蹶起将校のひとり竹嶌継夫中尉の実家Click!について、陸軍皇道派の「原理主義的社会主義」思想Click!など、さまざまな側面から繰り返し取りあげてきた。今回は、地元・下落合の記録をもとに、1936年(昭和11)2月26日の朝、西武電鉄や山手線がはたして運行していたかどうかの考察だ。
 多くの書籍や資料では、当日の朝は電車が「運行を停止していた」ことになっている。だが、ほんとうだろうか? これも元となる記述があり、それが別の資料へと単純に引き写された、詳細な検証や“ウラ取り”のない誤記録なのではないか? 下落合には同日の朝、中井駅から西武線に乗り、高田馬場駅から山手線・中央線と乗り継いで東京外語学校へ登校し、期末試験を受けようとした学生の記録が残っている。つまり、西武線も山手線も大雪でダイヤは乱れていたかもしれないが、なんとか動いていたのだ。そう証言しているのは、のちに東京日々新聞の記者になる下落合の名取義一だ。彼の妹も、西武線と山手線を乗り継いで女学校へ出かけている。名取義一の『東京目白文化村』(自費出版/1992年)の「あの二・二六事件のとき」から引用してみよう。
  
 大雪の昭和十一年二月二十六日、東京外語の一年生で、第三学期の試験・第二日目---父は風邪で休み---なので、学校へと玄関を出た。/すると、ちょうど妹が、通学の千代田高女近くから戻ってきた。/して「大変よ。何かあったらしいの。学校へはゆけないので・・・」とえらく興奮して話しかけいきた。/「何事だろう」と考えながら、といってラジオ・ニュースは・・・まだだし、と家を出て平常の如く西武線・中井駅から省線・水道橋駅へ。ここから神田の古本街を通り「如水会館」の所に来ると、黄色い冬外套で、剣付銃の兵士が通行人をいちいち検問しているではないか。/なるほど、大事件が起きたのだナ、と。/「誰だ、どこに行く」と訊かれ「外語生です。今日は試験なので・・・」と応えると、「よし。行け」とあっさり通してくれた。
  
 この記述から、実にいろいろなことがわかる。まず、電車が通常どおり運行されていたのはまちがいのない事実だということ。登校時間である早朝は、いまだラジオから事件を伝えるニュースが流されていなかったこと、事件が起きてから間もない時間帯にもかかわらず、どこの連隊かは不明だが警備の兵士が、すでに神田などの街中へ出ていたこと、しかも兵士の「誰何(すいか)」は義務的に行われており、一般の通行人を強く制限したものではなかったこと・・・などなどだ。
雪の下落合2.JPG 雪の下落合3.JPG
 ラジオからニュースが流れなかったというのは、早朝だったからかもしれず、親父の記憶ではラジオのニュースを聞いて祖母とともに両国橋のたもとで円タクをひろった・・・ということになっている。祖母と親父が家を出て、円タクに乗ったのは午前9時ごろだったらしいが、そのとき一時的にせよ、やはりラジオからなんらかのニュースが流れた可能性を否定できない。
 事件の当日、戒厳令が発令される以前に、東京の街中へ警備兵が広く散開・配置されたのは午後3時ごろから・・・とする記述の本や資料も多いが、それも誤記録らしいことがわかる。学生たちが登校する時間帯には、すでに第一師団か近衛師団かは不明だけれど、いずれかの兵士が街中へ警備のために配置されていたのだ。祖母や親父の円タクを何度も止めて「誰何」したのも、この所属が不明な連隊の兵士たちだった。
 そして、蹶起した部隊が麻布一連隊と三連隊あるいは近衛師団だったことが判明した時点で、東京以外の関東各地に駐屯していた連隊へ出動を命じ、すでに散開していた地元東京の兵士たちと警備を交代していると思われる。東京の街中へ配置された警備兵も、第一師団と近衛師団の兵士たちだったろう。だが、彼らの中にも蹶起将校たちに呼応する部隊が出ないとも限らない・・・と、陸軍省は懸念したにちがいない。そうなれば、市街地へ配置した兵士たちに、東京市を占拠されてしまうことになる。つまり、午後から警備兵を市内に配置・・・という記録は、関東各地の兵士たちが東京へ到着し、警備を交代したのが午後3時前後だったのではないか。
雪の下落合4.JPG
 東京外語には、二二六事件に参加した元・陸軍一等主計(大尉相当)だった磯部浅一の姻戚が通っていたようだ。名取義一の1年後輩で、何度か特高警察Click!あるいは憲兵隊Click!からの事情聴取を受けていたらしい。引きつづき、「あの二・二六事件のとき」から引用してみよう。
  
 二年生になってだが、校内で「あの二・二六事件の将校に関係があるのが・・・」というヒソヒソ話が聞かれた。といって、何語部の学生なのか、さっぱり分らなかった。/そのうち、この学生が「縁者の処刑後に呼び出され・・・何でもその将校が天皇を恨むような・・・」との不可解な噂に、一体どういうことなのか、謎だと思うと同時に、ゾーッとした。/後年、この学生は一年後輩で磯部須美男と名乗る人=英語部=であることを知った。=小説『人間の条件』の五味川純平こと、栗田茂氏と同級生=/彼は決起将校らのリーダー・磯部浅一・元一等主計の夫人・登美子さんの弟とか。戦後、在日米軍関係の仕事をしていたようだ。
  
 戦後になって、初めて蹶起将校たちの思想性が明らかとなり、また財閥や軍需産業資本との癒着による陸軍省のひどい腐敗構造=軍産コンプレックスや、極端な貧富の落差が生じた当時の経済・社会構造、そして戦争へと突き進む道筋が次々と解明されるにおよび、戦前は「反乱」「反逆」とされていた二二六事件の位置づけは大きく変化した。それまで、遺族や関係者は世間から隠れるように生き、姻戚筋は極端に肩身の狭い思いをしつづけなければならなかっただろう。
千住回向院.JPG 千住回向院・磯部浅一墓.jpg
 わずか77年前の出来事にもかかわらず、公文書などに残る「公式記録」と、当時の人々がその朝、実際に体験した事実とが随所で大きく食いちがう事件もめずらしい。換言すれば、それほどこの事件の内実がことごとく隠蔽・秘匿され、陸軍省や当時の日本政府のご都合主義により事実が歪曲・捏造され、1945年(昭和20)8月15日まで闇から闇へと葬られてきた証左なのだろう。

◆写真上:久しぶりの大雪の朝を迎えた、下落合は薬王院の山門前にて。
◆写真中上:3階から眺めた下落合の雑木林では、冠雪の重みで折れた枝々も多い。
◆写真中下:同じく、下落合を通る鎌倉街道=雑司ヶ谷道の雪。77年前に佐々木久二が怒りながら円タクで帰宅し、岡田首相が佐々木のクルマで避難してきた日も同じような風情だったろう。
◆写真下は、小塚原Click!近くにある南千住の回向院。は、同院にある磯部浅一の墓。

水不足に悩んだ神奈川県の象徴。

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神奈川県庁本庁舎1.JPG
 子どものころから、この建物にはいったい何度遊びに出かけたことだろう。日本大通りにある神奈川県庁本庁舎、1950年(昭和25)に大学を出たばかりだった親父の勤め先だった。この年、神奈川県では急増する人口に対応するため、大学の理工系を出た学生たちを建築・土木の設計専門職員として多めに採用しており、先祖代々、寛永年間から江戸東京をかつて一度も離れたことのなかった家の親父が、のちに一時的にせよ同県の海辺Click!に住むきっかけとなった年でもある。
 もちろん、当時はこの建築のことを「キング」などと呼ぶ人間はひとりもおらず、「ホンチョーシャ」が通称だった。1966年(昭和41)に新庁舎が完成すると、さっそく親父は冷暖房完備の「シンチョーシャ」のほうへ移って喜んでいたが、50歳を迎えるころから再び「ホンチョーシャ」勤務へともどっている。新庁舎が完成したとき、小学校では神奈川県庁の本庁舎と新庁舎を空撮した“下敷き”が配られたのを憶えている。下敷きには県歌が印刷されていて、「♪光あらたに~雲染めて~」といまでも唄えるのは、このときに親父から習ったせいなのだろう。ちなみに、神奈川県歌は4番まであるのだけれど、通常は3番までしか唄われない。4番は、どこか公害問題を連想させるような歌詞だったため県にクレームが寄せられ、以降は唄われなくなってしまった。
 森鴎外Click!が作った横浜市歌、「♪わが日の本は島国よ~朝日輝ふ海に~」が歌えるのは、母方の売れない画家であり書家だった祖父Click!が横浜に住んでいて教えてくれたからだ。親父の勤め先へ遊びに出かけ、ついでに祖父の家へ立ち寄る・・・あるいはその逆のコースを、子どものころに何度も歩いた。港の山下公園や、横浜市庁前の横浜公園では、よくアイスクリームを買ってもらって食べたものだ。横浜スタジアムができる前の横浜公園は、地味で静かな公園だったが明るくて気持ちのいい場所だった。この公園が、明治の最初期から存在していたのをつい最近知った。
 また、本庁舎や新庁舎の地下にはいくつかの商店が入り、そこのカメラ屋で初めて一眼レフカメラを買った想い出もある。小遣いをためて買ったのは、当時は「世界最小・最軽量」とうたわれた、オリンパスのM-1だ。いまだ、「OM」シリーズにならない最初期のモデルだった。
 さて、このころの親父の仕事はたいへんだったろう。「ドーナッツ化現象」という言葉が生まれたころで、東京を囲むように人口の密集地帯が形成されようとしていた時期と重なる。ちょうど、横浜市の人口が250万人からすぐにも300万人を超えようとしており、大阪市を抜いて日本第2の都市になろうとしていた。さまざまな公共インフラが、造っても造っても絶対的に不足していた時代だった。下水道はおろか、上水道がまったく不足しており、住宅の建設に水道の敷設が追いつかないありさまだった。「飲み水がない!」という基本的な生活インフラの課題が、県内各地で起きていた。
神奈川県庁本庁舎2.JPG 横浜開港資料館.JPG
 飲料水の確保のため、ダムや貯水池、浄水場の設計・建設に親父は忙殺されていた。親父が初めて手がけたのは、相模ダム(相模湖)の建造につづいて計画された、津久井ダム(城山ダム)と津久井湖の建設だった。飲料水不足を解消するために企画された「相模川総合開発」と呼ばれる一連の事業に、親父は20年以上もかかわっていたように思う。役所の勤務時間内では、とても仕事が終わらないので、家にまで大量の設計図面や青焼きが持ちこまれ、計算尺を片手に徹夜仕事がつづいていたようだ。当時、家の2階には図面が散乱していたのを憶えている。わたしは、不要になった古い青焼きを大量にもらっては、その白い裏面に絵を描いて遊んでいた。
 相模川総合開発は、わたしが高校生になるころには一段落したようで(確か第5~6次開発まであったように思う)、神奈川県の東部が水不足になることはほとんどなくなっていた。逆に、あまった水道水を、水不足が深刻な東京の西部市街地へ援助給水するまでになっていた。これは現在でもつづけられており、東京の西部住民は利根川水系でも多摩川水系でもなく、神奈川県の丹沢山塊から湧く相模川水系の水を飲んでいることになる。
 横浜市を中心とする、神奈川県東部の水不足は解消されつつあったけれど、神奈川県西部の上水道は相変わらず不足していた。そこで、相模川につづいて「酒匂川総合開発」がスタートするのだが、親父はこの事業にそれほど深くはかかわっていなかったようだ。もっとも、仕事の最前線である“現場”を歩きながらキツイ設計実務をこなす年齢をとうにすぎて、管理職になっていたせいもあるのだろう。酒匂川に関連した設計図を、家に持ち帰ったことは一度もなかったように思う。神奈川県の西には、箱根の大きな芦ノ湖があるので、その貯水を活用すればとても水不足など起こりそうもないのだが、芦ノ湖の水は神奈川県の所有物ではなかった。芦ノ湖という容れ物は、なるほど神奈川県の箱根にあるのだけれど、その中身の水の所有権および利用権は、長期にわたり静岡県にあった。「芦ノ湖の水が使えればなぁ~」と、親父は県西部の水不足が深刻化するたびにこぼしていた。
山下公園.jpg マリンタワー.jpg
日本郵船氷川丸.JPG マリンタワー灯台.JPG
 芦ノ湖の水利権が静岡県のものになったのは、実は江戸時代の初期に行なわれた深良隧道(箱根用水)工事に起因している。1660年代に、駿河の深良村で水田開拓の計画が持ちあがり、山の下にえんえんとトンネルを掘って芦ノ湖の水を活用することが決まった。芦ノ湖側と深良村側から、手掘りで同時にトンネルを掘りはじめ、4年後にはわずか1mほどの段差のまま、両者は暗闇の中で出会っている。江戸期の土木工事の精密さを裏付けるエピソードだが、それ以来、芦ノ湖の水利権は駿河国(静岡県)が握ることになってしまった。
 子どものころに一度だけ、芦ノ湖のモーターボートを雇ってなにもない湖畔で水の中に入り、親父とともに深良水門から中を見たことがあるけれど、手掘りのノミの跡も生々しい江戸期の面影そのままだったのを憶えている。親父も、ふんだんにある芦ノ湖の水を利活用できない要因を、一度自分の目で確かめてみたくなり、家族を連れて出かけたくなったのだろう。
 県庁の本庁舎を見るたびに、慢性的な上水道不足にあえいでいた当時の神奈川県の姿が思い浮かぶ。もっとも、そんなイメージができあがったのはかなり後年のことで、当時のわたしは本庁舎や新庁舎からの眺望も大きな楽しみのひとつだった。横浜港をはじめ、吉武東里Click!が設計したグリーンのドームが美しい横浜税関Click!や、レンガ色も鮮やかな開港記念会館、世界一高い灯台だったマリンタワーなど、中区の主要な市街地を一望することができた。桜木町の海側は、運河と倉庫と水上生活者の街で、MM21が存在しなかった当時は怪しい街角に見えたものだ。
横浜税関本関庁舎.JPG 横浜開港記念会館.JPG
 先日、横浜を歩いてずいぶん懐かしい風景に出逢ったのだが、マリンタワーが赤と白のカラーリングからシルバーになったのは、いつからなのだろう? ついでに、わたしが子どものころの氷川丸は、船体が淡いグリーンに塗られていたけれど、黒く塗られるようになったのはいつごろからなのだろう? 昔の情景が、アタマの中を次から次へと駆けめぐったのだが、元町の喫茶店でカウンターのアルバイトをしながら、横浜のJAZZ喫茶やライブハウスを片っ端からハシゴしてまわるのは、もう少しあとの時代になってからのことだ。でも、それはまた、別の物語・・・。

◆写真上:古い建築のせいか、知事室も会議室もあまり豪華に感じない神奈川県庁本庁舎。
◆写真中上は、本庁舎を南側の角から。は、本庁舎前にある横浜開港資料館。
◆写真中下上左は、マリンタワーの展望台から眺めた懐かしい山下公園から大桟橋方面の風景。上右は、わたしには目新しかった銀色に輝くマリンタワー。下左は、子どものころ船内で嵐の大波によるローリングの体験シミュレーションができた日本郵船の氷川丸。下右は、2008年までギネスブックにも登録されていた世界一高かったマリンタワー灯台の照灯。
◆写真下は、吉武東里の横浜税関本関庁舎。は、結婚式もできる横浜開港記念会館。

JAZZめぐりと丘上散歩の学生バイト。

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 横浜・元町の入り口あたりにあった喫茶店で、カウンターのアルバイトを1年と少しの間していたのは、大学3年生のときだった。なぜ、横浜Click!の石川町界隈なのか・・・? それは、周辺に老舗のJAZZ喫茶やJAZZのライブスポットがたくさんあって、バイトを終えたあと、あるいはバイトがはじまる前に、それらの店へ出かけては好きなだけ音楽を楽しめたからだ。ちなみに、わたしがバイトをしていた喫茶店はとうにつぶれている。
 当時、石川町の駅前には、鎌倉のJAZZハウス「IZA」の横浜支店である、「IZAⅡ」Click!がオープンしたばかりだった。鎌倉へ遊びに出かけるたびに「IZA」には立ち寄っていたので、横浜に支店がオープンしたのはとても嬉しかった。先年、鎌倉でJAZZバーに意匠変えした「IZA」に寄ってマスターに訊いたら、「IZAⅡ」はわずか2年ほどしか開店しておらず、すぐに大赤字で閉店しているそうだ。開店してから1年ほどで、横浜へ支店を出したのは経営ミスだと気づいたらしい。わたしは、ちょうどその間だけ、近くでバイトしながらうまく同店へ通っていたことになる。
 バイト先の業務は、カウンターの中でサイフォンを使ってコーヒーをいれ、トーストやサンドイッチなどの軽食も作るという、わたしにとってはとても楽しい仕事だった。もともと、コーヒー好きで料理好きだったので世界じゅうのコーヒー豆をオーダーし、それを挽くところからはじめられ(コーヒー豆の種類は、濃いロースト系も含めれば40種類を超えていた)、20種類ぐらいのパン料理を作るのがまったく苦にならなかった。早番の日は、朝6時半に出勤してはモーニングサービス用のゆで卵とサラダ作りからはじまる。遅番の日は、午後3時ごろ出て夜の混雑に備えた仕込みをしていた。その空いた時間や、バイト時間の前後に付近を散歩しまくっていた。
 まず、桜木町で降りて野毛の街並みを歩いていくと、吉田衛のおじいちゃんがやっていたJAZZ喫茶「ちぐさ」Click!があった。ここは、言わずと知れた日本最古のJAZZ喫茶で、ときどきレコードだけでなくJAZZコンボのライブも演っていた。戦後すぐのころは、占領軍の米兵たちもたくさん通ってきていたらしい。クレージーキャッツも穐吉敏子Click!も、渡辺貞夫もここから出発している。
 明るい店内で、分厚いバインダーを使って綴じたディスコグラフィー(英文タイプライター打ちの手作りだった)から、好きな曲を選んでリクエストする。ふつうは、ひとりLP片面1回きりのリクエストなのだが、ほかにお客がいなくなると、吉田おじいちゃんはわたしにバインダーを持ってきて、「好きなの聴きな」とやさしく言ってくれた。「ちぐさ」では、JAZZピアノの作品をいちばん多く聴いたと思う。特に1970年代末だったから、マッコイ・タイナー(p)+オーケストレーション作品をよくかけた憶えがある。自宅で聴いても迫力がないため、「ちぐさ」の大きなスピーカーで聴きたかったのだ。
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 次によく通ったのは、やはり桜木町駅に近い花咲町のJAZZハウス「ダウン・ビート」だ。ここでは、オーディオの特性からホーン系の作品をよくリクエストしたけれど、とても居心地のいい店だった。何時間でもゆったりでき、本もここでずいぶん読んだ。細長い、ウナギの寝床のような店内なのだが、何時間いても飽きなかったのはソファの座りごこちが快適だったからだろう。よくかかっていたのは、50年代末から60年代初めにかけてのウェストコースト録音のアート・ペッパー(as)作品だ。この西海岸サウンドは、わたしが子どものころに湘南Click!マイルスClick!のミュートサウンドとともに、お兄ちゃんやお姉ちゃんたちがよく聴いていた“音”だろう。
 対照的なのが、関内駅近くの馬車道にあるJAZZハウス「エアジン」で、背もたれもないボロボロの綿のはみ出たイスで座りごこちは最悪だった。東京の新宿「PIT INN」Click!と並ぶ横浜「エアジン」は、ライブハウスの老舗なのでチャージ料やドリンク代が貧乏学生のわたしにはかなり高く、ちょくちょく寄るというわけにはいかなかったのだが、12月31日の大晦日にここでライブを11時45分まで聴いてから山下公園へ抜け、寒さにふるえながら港内に停泊した艦船の、年越しいっせい「ボーーッ」(汽笛)を聞くのが毎年の楽しみだった。
 そして、石川町の「IZAⅡ」だ。ここもライブハウスなので高価だったけれど、「エアジン」ほどではなかった。それに、ここの料理はどれもうまく、特に専門店でもないのにピザがビックリするほど美味だったのを憶えている。「エアジン」とは異なり、日本のミュージシャンが主体だったけれど、ここで聴いた小宅珠美(fl)カルテットがとても強く印象に残っている。
 バイト先の喫茶店には、さまざまな国籍のウェイトレスが働いていた。近くの中華街からきている日本に来たばかりの台湾の子もいれば、隣りの山手町に祖父母の代から住んでいる、欧米諸国の生粋浜っ子の娘たちもいた。彼女たちは、日本語の日常会話に困らないよう喫茶店のバイトを通じて会話を練習していたようで、ひょっとすると喫茶店の経営者が外国人たちのコミュニティと親しく、彼女たちの安全なアルバイト先として、優先的に引き受けていたのかもしれない。
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 大学の講義がなく、早番で終わった日などは彼女たちを誘って、元町の丘上をよく散歩した。現在では、「イタリア山」と呼ばれているイタリア領事館跡あたりから急坂を登り、フェリス通りを港のほうへ歩きながら「フランス山」(当時はこのような呼び方はほとんどしなかった)を降りてくる・・・というコースは、仕事で疲れたスタッフたちのよく歩く気分転換コースだった。いまよりも、もう少し緑が濃くてエリアも広く感じた元町公園から外人墓地も、息抜きには最適なスペースだった。
 先日、まさにそのコースを久しぶりに歩いてきたのだが、尾根上のフェリス通り沿いに建っていた西洋館が、どもみんなキレイに整備されているのに驚いた。わたしの学生時代は、ボロボロで朽ち果てそうな、お化け屋敷のような邸もたくさんあったと思うのだが、いまではどれもこれも美しく化粧直しがされて、中には喫茶店になっている西洋館も少なくない。また、当時はけっこう残っていた日本家屋が姿を消し、丘上の住宅街はほとんどモダンな西洋館ばかりになっていた。横浜の住宅街は大磯Click!と同様、大正期ばかりでなく明治建築の西洋館がいくつかみられる貴重な街並みで、特にフェリスの丘上は全体が登録有形文化財のような風情や景観をしている。
 休日に出かけたので、もう少し混んでいるかと思ったら、あまり人が歩いておらず静かで快適な散歩ができた。歩いているのは、地元の住民が多そうだ。いまの人たちは、みんなMM21のほうへ出かけてしまうのだろうか。わたしの学生時代に比べたら、元町もかなり空いていた印象だった。
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 ひとつ、昔と大きくちがうところがあった。フェリス女学院の前に、いかめしいガードマンたちが数十メートルおきに配置されている点だ。フェリスの校舎にカメラを向けるのもはばかられるほどで、こんないかめしい雰囲気はわたしの学生時代にはなかったことだ。ひょっとすると、フェリスへ通う女学生たちへレンズを向ける、“カメラ小僧”たちが急増した時期でもあったのだろうか?
 さて先日、今年で27回忌を迎える「落合新聞」Click!の故・竹田助雄様Click!の奥様より、TOSHIROさんを通じてたいへんうれしいコメントをいただいたので、次回からはしばらくの間、再び落合地域の物語やエピソードをご紹介する記事にもどりたい。

◆写真上:領事館跡の「イタリア山」に整備された、渋谷・南平台から移築された明治建築の外交官の家(奥)と山手町から移築されたブラフ18番館(手前)。カメラを向けていたら、近所のイタズラそうな女の子がレンズの画角に入るよう、グルリとまわって走り抜けていったのが横浜らしい。
◆写真中・下:フェリス通りを歩くと、そこらじゅうが重要文化財や登録有形文化財だらけだ。ほとんど地元と思われる人しかおらず、昔の学生時代のようにゆっくりと静かな散歩ができた。

妙正寺川のもうひとつの「バッケ堰」。

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 落合地域の記録を重ねて読んでいると、現在の六ノ坂下の水車場Click!近くにあったバッケ堰Click!とはどうしても思えない、もうひとつ別のバッケ堰らしいものが登場してくる。高群逸枝Click!が夫の帰りを待ちながら五ノ坂上Click!から見下ろし、林芙美子Click!が洋画家の中出三也Click!甲斐仁代Click!がいっしょに暮らしていた豚小屋奥のアトリエを訪ねたとき、常に目にしていたバッケ堰とは異なる妙正寺川のさらに上流にあった堰だ。
 ここでややこしいのは、大正期にバッケが原Click!と呼ばれていた上落合西部の妙正寺川にあった堰が、「バッケ堰」と呼ばれていたこと。でも、昭和初期に上落合の同地域が急速に宅地化され、広い河原沿いの原っぱが少なくなると、バッケが原の呼称が西の上高田側へと徐々に移動Click!し、太平洋戦争がはじまるころは中井御霊社Click!や目白学園の西側バッケ下の河原一帯が、バッケが原と呼ばれていたこと。そして、そこに形成された妙正寺川の堰(現在の御霊橋)もまた、いつの間にか地元の住民には「バッケ堰」と呼ばれたことだ。つまり、通称「バッケ堰」と呼ばれた灌漑用の川堰が、落合地域にはふたつ存在していたことになる。
 双方のバッケ堰ともに、堰の上には橋がわたされ、六ノ坂下のバッケ堰は妙正寺川の整流化工事とともに消滅したが、御霊社西側のバッケ堰は御霊橋として現在でも残っている。しかし、御霊橋の堰も通称「バッケ堰」と呼んでいたのはおもに下落合側の住民で、上高田側の農民は「新堰」と呼んでいた。これは、より古い時代からあった四村橋Click!近くの下流に築かれた「旧堰」に対して「新堰」と呼んだもので、西へ移動したバッケが原にある同堰を「バッケ堰」と呼んだのは、下落合側の新しい住民たちだったのだろう。もちろん、「新堰」の水利運用の管理権は下落合側ではなく、上高田Click!で水田や麦畑を経営していた農家にあった。
 上高田の子どもたちは、御霊橋のバッケ堰すなわち新堰を、上級者の水練場にしていたようだ。初中級者は、不動堂のある桜ヶ池Click!や池からの小流れで形成された灌漑池でまず泳ぎを習い、次いで「新堰」で形成された深淵で練習をはじめたようだ。1982年(昭和57)に出版された細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田昔語り』(いなほ書房)の「明治・大正・昭和編」から引用してみよう。
  
 我々の小供の時は、水泳は、独りで行くこともなく、泳げる年上と一緒だった。場所は桜ヶ池は冷た過ぎて、泉の中を腰から臍の辺までつかり、往復する事は鳥はだが立って泳ぎには無理だった。(中略) 不動様の水路の水は冷たくきれいで、七、八寸の八ツ目鰻が随分居たし、沢蟹もいたし、夏の夜は蛍が沢山出る処だった。川底は他の水路の底は泥であったが、こちらは小砂利や砂気が多かった。/石橋の水泳を卒業すると、今度は、新堰(現在の御霊橋)の堰の上や堰下で磨きをかける。上下とも、小さい連中には、背のたたぬ所であった。陽気の暑い時は六月末、大体七、八月の大雨で増水した水が、堰坂の上を物凄い勢で押流した翌日、天気さえ良いと、ガキ大将の集合がかかる。これから新堰で飛込をするから行けとの命令だ。
  
葛橋バッケ.JPG 妙正寺川(染の小道).JPG
下落合西部1941.jpg
 また、四村橋にあった「旧堰」についての記録もみえている。この堰は、ちょうど下落合村の葛ヶ谷と上高田の境界にあった堰で、おそらく江戸時代に建設されていると思われる。「旧堰」もまた、水利の管理権は上高田側にあったので、上高田の農民たちが建設したものだろう。
  
 上高田の堰場は、現在の四村橋、オリエンタル前の橋の直ぐ下手にあった。四村橋といういわれは、上高田、片山、江古田、葛ヶ谷の四村の境なので、この名がつけられた。堰の水は、現在の妙正寺川の南側の山裾に水路があった。大雨で出水の時は、堰板を上げてやらぬと、堰が破壊されて、後々大変なことになる。/鈴木弥太郎さんの話によると、大水の時いつも真先に堰板を上げに来るのは、細井の萬五郎さんと俺で、ある時萬五郎さんが大水の流れに落ち、巻き込まれて終い(ママ)、はるか下手から浮び上った時は、本当に良かったと思ったよと、当時の苦心談を話すのを度々聞かされたものである。
  
 こちらでも、幕末の火薬製造にかかわる爆発事故や、長野新一Click!が1924年(大正13)に描いた下落合風景作品である『養魚場』Click!でも取りあげている、水車橋近くの水車小屋は上高田の記録にもたびたび登場してくる。上高田の農民たちは、この下落合の水車小屋で収穫した米や麦を加工していたのだ。水車小屋の名前は、江戸期からつづく「稲葉の水車」で、近接する池では釣り堀用のフナやコイなどの川魚が養殖される「養魚場」だった。「養魚場」を経営していたのは、上高田の鈴木屋(のちに結婚式場「日本閣」)の鈴木家で、水車小屋を経営していた稲葉家とは姻戚関係にあったが、のちに鈴木家が同水車を経営している。落合側の記録でも、「稲葉の水車」は小島善太郎Click!の実家近くの水車場Click!とともに頻繁に登場している。
上高田和田山.JPG
新堰・御霊橋(細井稔).jpg
 ただし、時代が下るにつれて落合側では住宅街が拡がり田畑が減って、上高田側に住んでいた農民の利用が急増していったらしい。昭和初期には、ほとんど上高田生産の穀物用水車のようになっていたようだ。「稲葉の水車」は付近の宅地化が進むとともに、鉛筆の芯を製造するための炭素の製粉に変わっていった。再び、同書から引用してみよう。
  
 現在の中野区営の野球場の裏手の御霊橋は、前述した懐かしい泳ぎ場所新堰で、このやや上手から目白の山下を道沿いに導水して、落合い(ママ)田んぼと、一部は稲葉の水車に流れていた。/稲葉の水車は今の落合公園の南側、妙正寺川に近い北側にあり、まわりは、杉や樫に囲まれ、相当広い場所を占めていた。落合公園のあたりは、鈴木屋(日本閣の前身)の釣堀用の養魚場であった。/稲葉氏は鈴木屋と姻戚関係であるが、何か失敗し、後に鈴木屋鈴木磯五郎氏に所有が移った。/水車は相当大きく幅約三尺、直径は三間以上あった様に思う。悪戯盛りが水車で遊んでいる時、水の取入口から水車の下に落ち、幅に余裕があったのでうまく輪の下を流され、妙正寺川の本流まで押し流された悪童がいた。命に別状なく怪我もせずに済んだ。
  
桜ヶ池1954.jpg 桜ヶ池.JPG
桜ヶ池地図1933.jpg 桜ヶ池不動堂1947.jpg
 「稲葉の水車」の稲葉家は、幕末にやはり火薬製造にかかわっていたようで、黒色火薬をつくるために硝石や硫黄、炭などを細粉していたらしい。当時の黒色火薬は、硝石粉70%に硫黄粉15%、炭粉15%ずつ混合して製造されていた。淀橋水車Click!は爆発事故を起こして跡形もなく吹っ飛んだけれど、下落合の「稲葉の水車」はなんとか事故をまぬがれていたようだ。

◆写真上:御霊橋あたりから眺めた、目白崖線のバッケ。
◆写真中上上左は、葛橋から眺めた佐伯祐三Click!「洗濯物のある風景」Click!の描画ポイント。は、2月に行われた「染の小道」で生徒たちが染めた反物がわたされた妙正寺川の川面。は、1941年(昭和16)の空中写真にみるバッケ堰と新堰(バッケ堰=御霊橋)。
◆写真中下は、一面の田畑が拡がる和田山(井上哲学堂Click!)下の上高田。は、昭和初期の新堰=御霊橋の様子で『ふる里上高田昔語り』に掲載の細井稔・挿画より。
◆写真下上左は、1954年(昭和29)に改修された桜ヶ池。上右は、現在の桜ヶ池。この池の近くに建っていた、1954年(昭和29)以前の桜ヶ池不動堂の写真がぜひ見たいものだ。下左は、1933年(昭和3)の地形図にみる桜ヶ池と旧・不動堂。下右は、1947年(昭和22)の空中写真。旧・桜ヶ池不動堂は1954年(昭和29)まで、現在の位置より南側の区画に建っていた。

月見の風流は山手線の車窓から。

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 日本鉄道の品川~赤羽線が1885年(明治18)3月1日に開業したあと、1906年(明治39)に同鉄道が政府により国有化されると、1909年(明治42)12月16日には山手線Click!としては初の電車が走っている。もっとも、当時はいまだ環状線ではなかった。
 電車で郊外をグルリと走る山手線は、当初は通勤通学などに利用する乗客も少なく、むしろ東京市街地の住民には思いがけない“趣味”で人気があった。武蔵野Click!の面影を色濃く残した郊外をめぐる、静かな「月見電車」だ。電車の車窓から眺める新東京風景として、さっそく「東京電車八景」の名所選びまで登場している。当時、山手線の乗車賃は、かなりの区間を乗っても10銭余で済んだため、安く手軽に出かけられる郊外散策に人気が集まった。
 特に山手線で人気があったのは、神田停車場あたりを通過する車窓から遠望できる月夜のニコライ堂と、目白停車場Click!より新宿停車場Click!へと向かう車窓から眺める、明るくて冴えた月影だったようだ。当時は市街地にも高い建物や強い灯りが少なく、ニコライ堂の尖塔やドームのシルエットが月光に映え、美しく目立っていたのだろう。明治末の目白から新宿にかけては、これといった建築物はほとんどなにもない。上戸塚から諏訪ノ森、そして戸山ヶ原にいたるまでつづく雑木林が線路際まで拡がり、その樹間から見え隠れする月がことにキレイだったようだ。神田上水をわたる鉄橋上からは、川面にゆれる澄んだ月明かりが美しかっただろう。
 当時の山手線は1両運転のシンプルな電車で、座席数が52席、定員が96名のコンパクトな車両だった。月見ばかりでなく、雪が降ると市街地からの乗客数が急増し、「雪見電車」としても人気を集めたようだ。当然、車内には酒が持ちこまれ、まるで今日の“お座敷電車”か“宴会電車”のような様相をていしたらしい。また、当時の電車は、今日の山手線とは比較にならないほどゆっくりしたスピードで走っていただろうから、車窓からの風景もじっくり眺められたのだろう。
 落合地域から戸塚地域、戸山ヶ原Click!大久保百人町Click!あたりにかけての月見は、なにも明治期に限った風流ではなく、江戸期の大田蜀山人(南畝)Click!が仲間うちで散策を楽しんだ時代から、すでに月見の名所として有名だった。でも、大正期に入り山手線沿線の宅地化が進むと、風流な山手線ブームは姿を消していった。今日の山手線からは、沿線に高層ビルが林立しているので夜空に月を見つけるのもむずかしい。ましてや、ビルの灯りやネオンサインが邪魔をして、月がまったく目立たなくなっているから、視線はしばらく夜空をさまようことになる。
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 戸塚村からの請願で、1910年(明治43)に目白停車場と新宿停車場の間にもうひとつ駅が計画された。この駅の勧請も、あながち交通の便の向上ばかりでなく、大勢の「風流」客を想定した諏訪町や上戸塚の人々が、商業的な繁栄をあてこんでの企図も含まれたかもしれない。そのあたりの状況を、1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 当時新宿、目白間には停車場の設け無く、里人は専ら目白駅を利用する外に余儀なかつたが、明治四十三年九月十五日に至り、町民一致の請願と地主有志の献身的運動により、初めて開駅せられたのが現在駅の発祥である、之より先駅名を戸塚里民は上戸塚駅と欲し、然らざる者は諏訪之森と申請して、こゝにも地方意識を暴露したが、遂に天降りて高田馬場と名づけられ、本町の存在が爾来著しくユモアーさるゝに至つた。
  
 ・・・と皮肉っぽく書いているが、駅名をめぐる地元と鉄道院の確執Click!を意識してのことだろう。
 実際に駅の設置が具体化してくると、地元では駅名をめぐる問題が持ちあがった。駅の位置は、戸塚村上戸塚にあるので「上戸塚停車場」あるいは「戸塚停車場」、ないしは駅の南に拡がる「諏訪ノ森停車場」が有力だった。でも、鉄道院が提案したのがなんと「高田馬場停車場」だったので紛糾したのだ。幕府の練兵場である高田馬場(たか<た>のばば)は、計画されている駅から東へ1km以上も離れた位置にある、まったく場ちがい筋ちがいの名称だったからだ。
 駅名に対する住民の反対はなかなか収まらず、ついに鉄道院は「高田馬場」は地名ではなく、鉄道院が構想した架空の駅名であり、幕府の「高田馬場(たかたのばば)」とはまったく縁もゆかりもない「たかだのばば停車場」だと逃げ、この駅名を強引に「天降りて」押しとおしてしまった。その余韻は、いまだに戸塚地域(特に名前をさらわれた下戸塚地域)の人々に残っており、地元資料の駅名に対するルビのふり方ひとつにも、当時の混乱や地元の怒りの名残りが感じられる。
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 この駅名に関するいい加減なつけ方は、既設の目白駅にもいえていて、江戸期の関口近くにあった目白の地名位置と目白駅は、1.5kmも離れてしまっている。また、のちに高田馬場と新宿間の百人町に設置される駅名も、地元では当然「百人町停車場」を主張しているが、最終的には「新大久保停車場」という名称になった。大久保の中心地(西大久保・東大久保地域)から、やはり数百メートル西へずれている。しかし、「百人町停車場」に決まりかけていた時期もあったらしく、当時の地図を精査すると同駅を当初、「百人町」としているものを見つけることができる。
 「たか<だ>のばば駅」の設置について、1977年(昭和52)に出版された国友温太『新宿回り舞台―歴史余話―』の「駅名と地名」から引用してみよう。ちなみに、国友は戸塚地域のみならず新宿区各地をきめ細かに取材して歩き、緻密な調べと記録で同書を自費出版している。
  
 駅の開設は住民の請願によるものだが、駅名を「上戸塚」、もしくは「諏訪之森」にしてほしいと申し出た。駅付近の地名である上戸塚、近くの諏訪神社(現存)の森にちなんだものである。だが、この案は通らず、国鉄は高田馬場と命名した。高田馬場とは江戸時代現戸塚一丁目にあった馬術練習場だが、明治以降は旧観を失い、しかも駅から一キロ以上も離れている。高田馬場は堀部安兵衛の仇討で有名だが、この仇討物語全くのデタラメだから、駅名のつけ方はちょっとピントがはずれた。しかしともかく、山手線の駅名中、地名を採用しない唯一の駅が誕生したのである。
  
 少し前に、日本橋の蠣殻町にある地下鉄半蔵門線「水天宮前駅」が、水天宮の日本橋浜町への遷座後にどのような駅名に変わるのか?・・・と書いたけれど、駅名は絶対の存在ではない。山手線では、地元の社(やしろ)の名称をつけた烏森駅が、新橋駅へと変わった例がある。先の百人町停車場が、開業前後に急きょ新大久保停車場へと変更されたケースもある。山手線ではないけれど、中央線の柏木駅Click!が11年後に東中野駅へと変更された事例もある。
高田馬場駅1968_1.JPG 高田馬場駅1968_2.JPG
高田馬場駅1970.JPG 山手線土手上.jpg
 万が一、架空でピント外れな駅名「高田馬場」が変更される機会があれば、ぜひ本来の地名を反映した「上戸塚」か「諏訪ノ森」にしてほしいと思う。それにしても、地名由来の駅名だと神田川(旧・平川=ピラ川Click!)沿いに展開する無数の古墳(百八塚Click!)がらみの冨塚=「十塚・戸塚」Click!への気づき、または出雲神の中でも特に勇猛なタケミナカタの諏訪社Click!にちなむことになるから、明治政府はひそかに怖れて懸念し、意図的に両地名を忌避したものだろうか?

◆写真上:月見客で、山手線がにぎわったと思われる満月の夜。
◆写真中上:目白駅と高田馬場駅の間にある、山手線と西武新宿線の神田川鉄橋あたり。
◆写真中下は、1965年(昭和40)撮影の高田馬場駅。は、駅前広場が完成して間もない1971年(昭和46)6月23日に行われた山本豊市・作「平和の女神」像の除幕式。先日、豊島区の「としまアートプログラム」のトークイベントに参加したら、山本豊市の曾孫さんにお会いした。
◆写真下は、都電が廃止される1968年(昭和43)に撮影された高田馬場駅。駅前広場はなく、諏訪町の住宅や商店が建ち並んでいた。下左は、1970年(昭和45)の同駅で駅前広場ができかかっている。下右は、高田馬場駅を出て月見にはもってこいだった土手上を走る山手線。


イサム・ノグチも通ったアトリエ研究会。

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阿部展也アトリエにて.jpg
 下落合679番地に建っていた笠原吉太郎アトリエClick!を、戦後に借りて仕事をしていたとみられるのは、シュルレアリズムやキュビズムを研究・表現した洋画家であり写真家、前衛美術家、マルチ・アーティストとさまざまなショルダーをもつ阿部展也(芳文)だ。
 阿部展也(のりや)Click!は、この笠原アトリエで「アトリエ研究会」(あるいは「日曜研究会」とも)を催し、若い駆けだしの美術表現者たちを集めては現代美術に関する画塾、講習会、ないしは情報交換会のような集いを定期的に開いていた。阿部が笠原アトリエを借りて制作をしていたのは、戦争が終わった1940年代後半から1957年春までのおよそ10年間だ。
 1949年(昭和24)の秋、阿部展也のアトリエを訪ねた彫刻家・松浦万象の記録が残っている。2000年(平成12)に発行された「画家・阿部展也発見」展から、松浦の文章を引用してみよう。
  
 1949年秋、下落合のアトリエを訪ねた。阿部さんは初めてとは思われない気さくさで、丁寧に話をしてくれた。「毎週日曜日午後、数人で研究会のようなものをやっているので来てみないか」と言う事で、思いがけなく予定をたてる事にした。/当の日曜日は主に数人の若い20代の画家、年上の者は一人か二人位、他は建築家、写真家も一人づつ(ママ)加わっていたはじめに阿部さん自身が現在描きかけの絵を見せ、その絵に関する話をしたり、また雑談から始める日もあった。
  
 この下落合で催されたアトリエ研究会には、ときにイサム・ノグチも通ってきていた。阿部展也が仕上げた『蛸猿』という作品の画面を、ノグチは何枚もカメラで写真に収めている。なにか、制作のヒントになるような触発を受けたものだろうか。イサム・ノグチと阿部展也は、欧米の視点から日本文化を眺めるとどのように映るのか、それが日本文化の欧米側からの“発見”にどのように結びつくのか、あるいは相互に影響や触発しあう状況とは具体的にどのようなものなのか・・・など、おもに洋の東西文化の接点をテーマに議論しあっていたようだ。
 アトリエ研究会(日曜研究会)は、ときどき講師もまねいていたらしい。美術研究家の江川和彦が講師に招かれ、ジョージ・キープスが著した『Language on Visual(視覚言語)』の原書購読会なども行なわれている。研究会のメンバーには、美術畑ばかりでなく建築家なども参加していた。
阿部展也「作品」1949.jpg 阿部展也「シンワA」1951.jpg
  
 このアトリエは他にも思いがけない人が出入りするので、まるでコミュニケーションの交差点になっている様だった。日曜研究会は二年余り続けたが、この間も阿部さんの制作は進んでいた。「飢え」の2、「太郎」「花子」「骨の歌」もその一部であって、それぞれの制作過程を見ることが出来た。その頃の作品について瀧口修造は「象形と非象形の相克」(『アトリエ』1950年11月号)と言う見出しで阿部展也の芸術について美術誌に書き記している。
  
 阿部展也は戦前、おもにヨーロッパの現代美術に強い関心をしめしていたけれど、下落合でアトリエ研究会を開いていたころは、ヨーロッパの美術界からは少し距離をおきはじめ、独自の世界を展開しようとしていた。米国で開花したヨーロッパとは異なる現代美術についても、アトリエ研究会では課題に取りあげられている。「現代ヨーロッパ美術、それも二十世紀前半には多彩な現れ方があり、それぞれのポリシーを通しての研究者になるのは自由だが、アーチストは、時に足踏みも必要なだけすればよいのだ」・・・という言葉を下落合時代に残している。
 この時期の阿部展也は、下落合679番地の笠原アトリエを恒常的に借りていたようだけれど、阿部自身も笠原邸に間借りをして住んでいたとは想像しにくい。戦後は制作しなくなってしまったとはいえ、笠原邸には笠原吉太郎Click!美寿夫人Click!と家族たちがそのまま暮らしていたはずで、邸自体を阿部に貸していたとは考えられない。広い邸なので、アトリエつづきの部屋を阿部に貸していた可能性は残るのだが、阿部には子どもたちも含めた家族がいたはずだ。笠原夫妻のご子孫にうかがっても、阿部展也のことを記憶されていないところをみると、阿部は笠原アトリエだけ借り受けて自身は家族とともに、ごく近くの家に住んでいた可能性もありそうだ。
阿部展也「骨の歌」1950.jpg
 下落合時代からの阿部の仕事について、再び同図録から松浦万象の文章を引用してみよう。
  
 52年秋頃、阿部展也は美術文化協会を離れ、その後も新しい作品を発表してゆく、50年代では曲線のある有機体の中に「つまるもの」「つまらねえもの」があるが、この頃の集成と思える造形が印象的だ。「人間シリーズ」その他、方向も変わり、60年代近くからは主題性から離れ、造形思考、そして抽象に、阿部のローマ時代後期の絵画になってゆく。しかし抽象表現的な傾向は下落合時代からも窺う事が出来る。制作だけでなく幅広い触手は私達にも関心の対象を広げさせてくれた。東欧等の探索旅行はその民族文化の接点を連想し、多くの写真と言葉の一部を残した。
  
 下落合のアトリエでくつろぐ、阿部展也の写真が残っている。写真家の大辻清司が撮影したものだが、北側と思われる大きな採光窓を背景に、ソファへゆったりと座る阿部の姿がとらえられている。初めて垣間見る笠原吉太郎アトリエの内部写真だが、印刷がやや不鮮明だ。もし笠原家のご子孫のアルバムClick!からアトリエ写真が見つかれば、改めてご紹介したい。
阿部展也「オブジェ」1953.jpg 阿部展也「モダンアーチストの肖像」1953.jpg
 阿部展也は1957年(昭和32)の3月まで、下落合679番地のアトリエあるいは付近の家に住みつづけたが、その後、隣りの中野区へと引っ越している。角筈の熊野十二社Click!もほど近い、その西側(中野区側)のにぎやかな商店街の裏手にあたる、住宅街の一画が転居先だった。

◆写真上:写真家・大辻清司が撮影した、下落合のアトリエでくつろぐ阿部展也。
◆写真中上:いずれも下落合679番地の阿部展也アトリエで制作された作品で、1949年(昭和24)の阿部展也『作品』()と1951年(昭和26)の同『シンワA』()。
◆写真中下:阿部展也の代表作である、1950年(昭和25)に描かれた『骨の歌』。
◆写真下:下落合のアトリエ内部がうかがい知れる作品2点で、1953年(昭和28)制作の阿部展也『オブジェ』()と同『モダンアーチストの肖像』()。撮影は、いずれも写真家・大辻清司。

面白い中村彝アトリエのフィニアル。

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 復元された中村彝Click!アトリエの、屋根上のフィニアル(飾り立物)Click!が面白い。初期型アトリエの屋根に載っていたのは、切妻の外側に向かってまるで波止場のもやい綱をとめる繋船柱のような形状をしたフィニアルだった。復元されたアトリエには、それとは多少デザインが異なるけれど、建築家の方々が似たようなフィニアルを探してくださったようだ。
 以前、「杏奴」で復元にかかわる方々にお話をうかがったとき、大正期と同じデザインのものは残念ながら現在では製造されていないということで、フィニアルは現状で入手可能なものを用いるとうかがっていた。わたしは、水戸の茨城県近代美術館の敷地内に再現された彝アトリエ・レプリカClick!(関東大震災以後の改装タイプ)に使用されている、尖がった一般的なフィニアルを想定していたのだけれど、それらしい似たような「波頭」型のフィニアルを見つけられたらしい。
 どこか、蕨手刀の柄(つか)のようなかたちにも見えるフィニアルで、水戸出身の彝にはピッタリのように思えてくる。建築家の方は、意識されていたかどうかは不明だけれど、茨城県は全国でも蕨手刀の出土地としてはトップレベルを誇る土地がらだ。こちらでも、高根古墳(7世紀前半)の蕨手刀Click!をご紹介している。のちに、日本ならではのオリジナル刀剣である湾刀へと進化する、まさに祖形となった古墳時代の作品だ。おそらく、ナラのヤマトに「蝦夷(えみし)」などと蔑称された、東北の舞草鍛冶(もぐさかじ)あるいは月山鍛冶(がっさんかじ)あたりが中心となって開発し、のちに関東そして西日本へと伝わり、いわゆる日本刀Click!を形成する大もとになった体配だ。その茨城を象徴する、蕨手刀の柄(つか)を模したようなフィニアルが、彝アトリエの屋根に載せられている。
 既存のピンク色が混ざったような、鈴木誠アトリエClick!の屋根に載っていた戦後の日本瓦ではなく、戦前に焼かれたフランス瓦が見つかり、それを復元に用いると聞いたときと同様のうれしさを感じる。彝アトリエに用いられていたのは、大正期のベルギー製の屋根瓦Click!だが、戦後に生産された日本製の瓦よりも、ほぼ同じ時期の隣国フランスで製造された同系色の屋根瓦のほうが、より当時の意匠や風情に近い姿で、リアリティの高い復元ができるのはいうまでもないだろう。
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 実は、大正期の中村彝アトリエに載っていた瓦と、おそらく同一と思われる屋根瓦やフィニアルは、下落合464番地の彝アトリエから西へ200mほど離れた、下落合579番地に建つ井出邸Click!にも採用されていた。彝アトリエと同様にオレンジがかった赤い瓦で、フィニアルはほとんど同一といってもいいデザインをしていた。残念ながら、同邸は先年リニューアルで建て替えられてしまったけれど、おそらく彝アトリエと同じ屋根材が用いられていたのではなかろうか。
 以前、中村彝アトリエ保存会Click!でご一緒した、彝アトリエの近くにお住まいの建築家・植田崇郎様Click!より、彝アトリエと大正末から昭和の最初期に建てられたと思われる井出邸、さらに六天坂のスパニッシュ風西洋館の典型である中谷邸Click!の屋根瓦とを比較した、たいへん興味深い写真をお送りいただいたが、その井出邸がこんなに早くリニューアルされ建て替えられてしまうのであれば、フィニアルだけでも彝アトリエの屋根復元へ流用させていただけていたらと思うと、少し残念な気がしている。それほど、井出邸のフィニアルは旧・下落合全域(中落合・中井含む)でもほかに例を見ない、独特なデザインをしていて気になる存在だった。
 彝アトリエは、既存の腐食していない建築部材を可能な限り活用した、1916年(大正5)に建てられた当時の初期型アトリエの姿として、すでに竣工している。曾宮一念Click!が目にしたら、おそらく総毛だつようなリアルな出来ばえだろう。南の芝庭や北側の井戸、井戸端に植えられていた柿、彝手植えのアオギリや藤棚、そして本来の門があった位置のエントランスや玄関口もできあがった。あとは、「中村彝アトリエ記念館」として3月17日のオープンClick!を待つだけの状態になっている。
屋根瓦比較.jpg
井手邸1_2006.JPG 井手邸2_2006.JPG
 従来、1929年(昭和4)に鈴木誠Click!が改装する際、母屋へと流用されていた彝アトリエの窓のひとつも、窓ガラスごとアトリエ側へともどされている。ガラスも既存のものをそのまま流用しており、いわゆる“大正ガラス”と呼ばれる表面が波打った趣きのあるものだ。既存材や古材を、最大限に活用した今回の彝アトリエ復元は、根津教会のケーススタディと同様に、美術史的にも建築史的にみても、非常に価値のある保存形態といえるだろう。
 この中村彝アトリエの復元・保存プロジェクトを後世へのデファクトスタンダードとして、美術家に関するアトリエの復元・保存には、建築分野の視点のみによる企画・設計ではなく、現時点における美術史分野の懸案課題や追求テーマ(当の美術家をめぐる今日的な研究課題とはなにか?)に通暁しているチームによる復元プロジェクトを、ぜひ今後とも望みたい。新宿区では、このようなプロジェクトについては、さまざまな設計・建築事務所によるコンペティションを実施していると思われるが、単なる近代建築の保存・復元案件ではなく美術家のアトリエの場合には、美術史における課題や懸案を十分に掌握し意識したプレゼン企画へ、より留意していただき採用を決定してほしいものだ。
中村彝アトリエ2.JPG 中村彝アトリエ3.JPG
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中村彝アトリエ6.JPG 中村彝アトリエ7.JPG
 解体された佐伯祐三Click!アトリエの、数多くの部材Click!がいったいどこへ消えてしまったものか、わたしは「佐伯祐三アトリエ記念館」の竣工と同時に新宿区へ訊ねているが、いまだ回答をいただいていない。繰り返すが、美術史の今日的な課題に注意深く留意し、またそれらを前提とし充分に配慮した復元・保存のコンペティションを展開してほしい。ひとたび消滅してしまえば、二度と再びアトリエ自体をテーマとする研究の進捗も深化も、永遠に望むことができないからだ。

◆写真上:復元・保存された、中村彝アトリエの屋根上に設置されたフィニアル。
◆写真中上:正面から見た彝アトリエと、西側切妻上のフィニアル()と東側のフィニアル()。
◆写真中下は、植田崇郎様よりお送りいただいた鈴木誠アトリエ()と井手邸()、六天坂は中谷邸()の屋根瓦比較写真。は、リニューアル前の2006年に撮影した井手邸。屋根上のフィニアルは、おそらく1916年(大正5)竣工の中村彝アトリエのものと同一だと思われる。
◆写真下:竣工した中村彝アトリエを、さまざまな角度から。窓枠やガラスの一部にも既存の部材がそのまま活かされており、ガラスの表面が波打つ“大正ガラス”が見られる。

松下春雄アトリエへ遊びに行く。

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①松下アトリエ北側19320803.jpg
 昨年、新宿歴史博物館へ画像データとして保存された、山本和男・彩子様Click!ご夫妻がお持ちの松下春雄Click!アルバム(計3冊)だが、その精細なスキャニングデータをいただいたので順次ご紹介していきたい。大正末から昭和初期まで豊多摩郡落合町(村)葛ヶ谷Click!と呼ばれ、東京府の風致地区にも指定されていた一帯が耕地整理され、新たに淀橋区落合町西落合としてスタートした昭和初期の貴重な風景がとらえられている。
 まず冒頭の写真は、落合町葛ヶ谷306番地、のちに西落合1丁目306番地(さらに303番地)の松下春雄邸+アトリエClick!を、北側の畑地から撮影したものだ。1932年(昭和8)8月3日に松下自身によって撮影されたとみられ、手前の畑地では付近の農民が作物の手入れ作業している様子がとらえられている。ちょうど松下がカメラをかまえている地点は、1938年(昭和13)ごろに道路が拡幅されて貫通するあたりだが、当時はその気配すら感じられない。畑地の左手(東側)には雑木林が残り、また松下邸の右手(西側)にも、背の低い林が見えている。
 北側から松下邸を観察すると、面白いことがわかる。母屋の右手(西側)には、北側に大きな採光窓を備えた独立したアトリエが見えているけれど、母屋の左手(東側)にも採光窓が設置され、アトリエがあったことがわかる。山本様の証言によれば、当初、松下は仕事場として左手(東側)に自身のアトリエを設置している。しかし、盟友の鬼頭鍋三郎Click!が東京へ出てくることになり、西側の空いた敷地にアトリエを建てさせてあげた・・・という経緯らしい。つまり、短期間だが左手(東側)が松下アトリエで、右手(西側)の独立した建物が鬼頭アトリエだった時代があった。東京へやってきた鬼頭は、寝泊りもこのアトリエでしていた時期があったらしい。鬼頭鍋三郎が、松下邸のアトリエで「牛」の素描を描いて仕事をしている様子は、以前こちらの記事Click!でもご紹介している。
 鬼頭鍋三郎が、松下春雄アトリエから東へ歩いて1分以内の西落合1丁目293番地Click!にアトリエを建てると、おそらく松下邸のアトリエを利用することはなくなっただろう。その時点で、双方のアトリエは松下春雄が使用していたと思われる。また、松下春雄の急死後、柳瀬正夢Click!にアトリエを貸すことになった1934年(昭和9)以降も、建物はそのまま同様の意匠をしていたと思われ、松下邸にはアトリエがふたつ設けられていたことになる。柳瀬は、アトリエのひとつを自身の画家としての仕事場に使い、もうひとつを仲間を集めた本の装丁やデザインなどの仕事をする、“編集室”のような部屋として活用していたのではないか。
 アルバムには、松下邸の周辺を撮影したと思われる、1933年(昭和8)2月13日の西落合風景が記録されている。まず、近くの原っぱで遊ぶ彩子様と苓子様をとらえた写真②③。これも松下春雄が、娘たちを連れて散歩に出た途中で撮影したものだろう。当時の西落合は、耕地整理の面影がいまだ色濃く残っており、三間道路が規則正しく東西と南北に敷かれたものの、このような原っぱがあちこちに残っていた。太平洋戦争がはじまるころ、西落合にはずいぶん家々が建ち並びはじめているが、少し遅れて耕地整理がスタートした妙正寺川Click!をはさんだ下落合の西側、上高田地域Click!は戦後まで原っぱが拡がり、「バッケが原」Click!という通称が戦後もしばらくつづいていた。1945年(昭和20)4月13日の空襲で、目白文化村Click!の住民たちが逃げたのも中井御霊社Click!から、上高田のバッケが原にかけてだった。
②原っぱ1_19330213.jpg ③原っぱ2_19330213.jpg
④松下邸19320602.jpg
⑤門19320602.jpg ⑥テラス19320602.jpg
 松下邸とその周辺も、ていねいに撮影されている。まず、写真は松下邸の門(バラのアーチ)からエントランスをとらえたものだ。1932年(昭和7)6月2日の撮影で、阿佐ヶ谷のアトリエClick!から落合地域の新築アトリエへもどって1ヶ月ほどたったころだ。表札の「松下春雄」の文字も真新しい。この写真は、実は柳瀬正夢一家が門前で記念撮影をしている写真と、画角がほとんどピタリと一致している。柳瀬の写真では、アーチにはモッコウバラと思われる蔦状の緑が繁っていて、かなり落ち着いた風情を見せている。松下アトリエにおける柳瀬一家の写真類については、柳瀬正夢研究会の甲斐繁人様を通じて柳瀬正夢のご遺族から承諾がいただければ、改めてこちらでご紹介したい。
 写真は、少しピンボケ気味だが門前に建つ彩子様(右)と苓子様(左)だ。また、写真は母屋の居間に面したテラスに立つ彩子様(左)と苓子様(右)が写っている。いずれも、門前の写真と同様1932年(昭和7)6月2日の撮影で、このとき松下春雄は新築した邸をいろいろな角度から撮影している。写真は、翌1933年(昭和8)4月19日にやはりテラスで撮影された、少し大きくなった彩子様(左)と苓子様(右)だ。居間のテラスは南に面しており、庭で遊ぶ姉妹の姿がよくとらえられている。写真は、同年4月29日に庭で撮影された彩子様。この日、淑子夫人が長男・泰様を出産したあと、西落合の松下邸に赤ちゃんを抱いてもどってきた日で、母親をすっかり赤ちゃんに取られてちょっとおかんむりの表情だろうか。
⑦姉妹19330419.jpg ⑧彩子様19330429.jpg
⑨アトリエ採光窓19330619.jpg
⑩彩子様193306.jpg ⑪彩子様1933夏.jpg
 写真は、アトリエの採光窓を開けて換気している様子で、1933年(昭和8)6月19日に撮影されている。撮影された様子から、300号前後の大型キャンパスを搬出する南側の扉が開けられて空気を通している松下春雄アトリエ(東側アトリエ)のように思えるが、建築から間もない松下邸にあったアトリエの採光窓を近くからとらえた写真はめずらしい。柳瀬正夢の写真にも見あたらず、ほとんどこの写真1点のみだ。写真から推察すると、窓の上部が斜めに開閉し、天井窓にはカーテンのような遮光布が開閉できるようになっていたと思われる。
 写真は、1933年(昭和8)6月に撮影された庭で遊ぶ彩子様で、松下邸前の三間道路を背にしている。写真は、同じく同年夏に撮影されたテラスの彩子様で、昭和初期に流行った大きなキューピー人形がとても印象的だ。写真は、新築の松下邸の庭を西側のアトリエ南側から、東のテラスや玄関の方向を向いて、1932年(昭和7)6月2日に撮影されたもの。先の写真④⑤⑥と同時に、松下春雄自身が撮影していると思われる。
 写真は、南を向いた居間から庭で遊ぶ淑子夫人と彩子様(右)、苓子様(左)を写したもの。阿佐ヶ谷のアトリエから引っ越してきて4ヶ月後の、1932年(昭和7)8月3日に撮影されている。現在でも、この位置から東側には庭が残っており、山本和男様(彩子様の夫)の陶芸作品などが配置されている。また、写真は、同じくテラスの前で1933年(昭和8)5月1日に撮影された松下一家。おそらく、近くに住む大澤海蔵か鬼頭鍋三郎Click!、あるいは松下家の女中が撮影していると思われる。わずか8ヶ月後の12月31日に、突然の急性白血病で松下春雄が急死Click!することになるなど、想像だにしえない家族の笑顔あふれる記念写真だ。右から左へ、彩子様・松下春雄・苓子様、生まれて32日目の泰様、そして淑子夫人の順だ。その後、生涯独身を通した淑子夫人は亡くなるまで、このような無心で幸福の笑みを浮かべることは少なかっただろう。
 松下春雄アルバムは、主に3冊に分けられて記録されている。赤い柄の布表紙のものは、おもに西落合時代(1932年4月~1933年12月)と阿佐ヶ谷時代(1929年6月~1932年5月)が少し、女性と動物たちの絵が入ったグレーの布表紙は、下落合時代(1925年~1929年6月)と阿佐ヶ谷時代、黒い革表紙のアルバムは“通史”的な写真掲載で、松下春雄や渡辺淑子(結婚して松下淑子)の独身時代の写真も数多く含まれている。
⑫庭19320602.jpg
⑬居間から庭19320803.jpg ⑭松下家族19330501.jpg
松下邸1947空中.jpg おそらく、上屋敷(現・西池袋)で渡辺医院Click!を開業していた親の反対を押し切り、生活が不安定な画家と結婚したと思われる渡辺淑子については、その筋をとおす毅然とした気性と強い性格から、落合地域に住んだ画家たちの妻の中では、松本竣介Click!禎子夫人Click!とともに、もっとも惹かれる女性なので、改めてひとつの記事にまとめてみたい。次回は、松下春雄が詩人・春山行夫や洋画家・大澤海蔵と住んだ下落合1445番地Click!の鎌田方の様子、そして結婚後に目白文化村は第一文化村の北側、落合第二府営住宅Click!に接した下落合1385番地Click!のアトリエの様子を、貴重な写真類とともにご紹介したい。

◆写真上:新築間もない西落合の松下邸+アトリエだが、アトリエが東西にふたつあり左手(東)が松下春雄アトリエで、右手(西)が鬼頭鍋三郎アトリエ(一時)だった。
◆写真中・下:松下アルバムに残る西落合アトリエの写真類と、1947年(昭和22)の空中写真にみる撮影ポイント。築15年が経過した松下邸の庭には、濃い緑が繁っているのが見てとれる。

「落合柿」の成り木責めとは?

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タヌキ食べ残し柿.jpg
 このところタヌキが数匹、家のまわりをウロウロしている。暖かくなって、タヌキたちの活動も活発化しているのだろう。ときどき、すごい声で「グギャーギャーッ」と鳴き交わすので、繁殖期に入ったのかもしれない。タヌキが冬に備えて、大量に食べる大好物にカキの実がある。本州で栽培される在来種の果物の中で、もっとも糖度が高くて甘いのはカキではないだろうか。昔から、よくカキの食べすぎは身体を冷やすなどといわれてきたが、糖分の過剰摂取によって冬を間近にひかえた季節に冷え性にならないよう戒めたものだろう。落合地域は、江戸期の早い時期から「落合柿」の産地として知られていた。
 落合地域で収穫されるカキだから、地元の地名をとって「落合柿」と呼ばれていただけで、別に「落合柿」という品種が存在するわけではない。落合地域で採れるカキの種類には、「禅寺丸」や「蜂屋」、「樽柿(富有)」、「百目」、「早生柿」、そして「渋柿」などの種類があったようだ。この中で、もっとも糖度が高く甘いカキが「禅寺丸」と「樽柿(富有)」で、市場でも人気を二分していたようだ。それぞれのカキは、早めに収穫して保存しておくと甘みが増すものから、完熟を待ってもがないと渋みが残って売り物にならない種類まで、収穫のタイミングもさまざまだった。
 収穫したカキは、平ざるに入れて大八車に荷造りし、江戸川橋の青果市場か神田のやっちゃ場へと出荷された。ただし、出荷前にカキの木を丸ごと買い占めにくる、市街地の商人(おそらく水菓子屋だろう)などもおり、カキの実をめぐる商売のかたちもいろいろだったようだ。中には、11月に行なわれる池上本門寺などの「御会式」用に、付近のカキを買い占めて歩く商人もいたらしい。落合地域のおもな農産物である穀物や野菜類に加え、「落合柿」は農家の大きな副収入源としてたいせつに栽培されたのだろう。
 落合地域でカキの巨木として有名だったのは、新宿区の文化財(天然記念物)に指定されていた小野田家のカキの樹だ。樹齢は200年ほどだったようだが、2003年(平成15)に小野田邸の解体とともに落合公園へ移植Click!されたあと、残念ながら枯死してしまったようだ。1982年(昭和57)に出版された、『新宿区の文化財(4)史跡(西部篇)』(新宿区教育委員会)から引用してみよう。
禅寺丸柿.jpg 樽(富有)柿.jpg
  
 この柿の木は樹齢約二百年の古木で、高さは十五メートル前後、根廻りは一・九メートル、目通し一・七メートルもあり、柿の木としては巨木といえよう。カキの原種ヤマガキと推定されているが、面白いことには、一木で甘柿と渋柿が実ることで小野田家の伝えでは甘柿の方はデンジュマル、渋柿の方はイモンとのことである。若木のうちに継木をしたものであろう。/古木ながら盛いがよく、うっそうと葉が繁り、沢山の実をつけている。
  
 少しでも甘く美味しいカキの実を収穫するために、落合地域には昔から「成り木責め」と呼ばれる、一種の“おまじない”のような風習があった。おそらく、落合地域だけでなく、周辺の村々でも行われていた、昔ながらの風習だろう。本来はカキの木だけでなく、実のなるさまざまな樹木に対しても行なわれていた“おまじない”ではないだろうか。ちなみに、「成り木責め」は現在でも全国各地の果樹園などでみられる風習のひとつだ。
 新しい年を迎え、カキの木が新芽を準備しはじめる新春(1月)の7日~15日、その木の根元を鉈(なた)の背中で、少し強めにたたいてまわるというものだ。そして、鉈の背で少し傷ついた根元に向かって、「ならべっこ、ならべっこ、成るか成らぬか、成らねば根っ子から伐り倒すぞ」と、3回ほど繰り返して脅すのだ。さらにそのあと、まるで坂上二郎のように「成ります、成ります」と自分で返事をしw、傷ついた根元に正月の小豆がゆをすりつけていく。
蜂屋柿.jpg 百目柿.jpg
 この脅し文句には、いろいろなバージョンがあったようで、農家ごとに“決まり文句”のようなものが存在したらしいが、鉈の背中で根元をたたく所作は共通している。実際に、根元を少し鉈で傷つける農家もあれば、ただトントンとたたいて終わりという家もあったらしい。「ならべっこ、ならべっこ、成るか成らぬか、隣りの爺さんに訊いたなら、成るとおっしゃった。そんなら勘弁してやるぞ」と唱えるだけで、「成ります、成ります」の自答が省略されるケースもあったようだ。
 この風習は、カキの木へ語りかけて(脅かして)少しでも実を多くならせよう・・・というような単純な意味合いではなく、木の精霊(木霊)を責めることで、新たな生命が自然神から吹きこまれるというような、昔ながらのアニミズム的な世界観にもとづく習慣が、そのまま20世紀までつづいていたようだ。この“おまじない”は、実のなるカキの木へ1本残らず行われた。
カキの古木(小野田家).jpg 秋色風景.jpg
 これだけ「落合柿」が採れたのだから、きっと農家の軒下にはいたるところに干し柿が吊るされていただろう。わたしは、果物は干したものよりも生のままのほうが好きなのだが、ときどき無性に干し柿が食べたくなることがある。いまは、身体によくないのでめったに食べないけれど、干し柿にやや塩気が強めのバターをつけて食べるのが好きなのだ。ときどき、お節料理にも入れたりする。

◆写真上:食べ物が豊富な秋、タヌキがぜいたくな食べ方をした熟ガキの実。
◆写真中上:落合地域で採れた、甘みの強い禅寺丸柿()と樽(富有)柿()。
◆写真中下:同じく、とんがったお尻が特長の蜂屋柿()と百目柿()。
◆写真下は、旧・下落合4丁目の小野田弥兵衛邸の庭にあったカキの古木。は、秋になるといまでも下落合のあちこちで目にするカキの実。

昭和初期の落合第四小学校の遠足。

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石神井三宝池.JPG
 大正期から昭和初期にかけ、落合地域の小学校では遠足や林間学校が企画された。もっとも、当時の落合地域はまだ自然がいっぱい残っていたので、わざわざ遠い遠足に出かけるまでもなかったように感じるのだが、ごく近場の周辺散策から電車に乗って遠くまで、学年に応じた遠足が行なわれていた。牛込柳町近くの市谷小学校では、戸山ヶ原から下戸塚(早稲田)・落合方面へ遠足やハイキング(郊外運動)に出るぐらいで、当時の落合地域は目白崖線からの眺めもよく、いまだ自然にめぐまれた景勝地だったと思われる。このサイトでも、ハイカーたちの火の不始末から西坂・徳川邸Click!下でボヤ騒ぎになった事件Click!をご紹介している。
 牛込区(現・新宿区)の区立市谷小学校では、戸山ヶ原から下戸塚(現・早稲田)方面へ遠足に出かけるのを学校行事にしていた。明治から大正にかけては、遠足とは呼ばず「郊外運動」と表現されていた。同校の「市谷学報」には、遠足に参加した4年生の女の子の作文が残されている。1977年(昭和52)に自費出版された、国友温太『新宿回り舞台』から孫引き引用してみよう。
  
 きょうはお天気でしたから、先生につれられて郊外運動に出かけました。朝八時学校を出て原町の坂を上がり、若松町を通って戸山学校の前から大久保に出て、戸山の練兵場で兵士の体操を見ました。それから戸山ヶ原を越し、諏訪神社へ参けいして二十分ばかり休んでつみ草をしました。畑には一面の麦のほが出ていました。そして一行は早稲田大学から喜久井町を経て学校に帰って来たのは十一時でした。いい空気を吸ってのんびりしてゆかいでした。
  
 これは半日遠足の記録だが、東大久保や戸山、早稲田を牛込柳町から見て「郊外」と認識している視点が面白い。牛込区や四谷区(ともに現・新宿区)から見れば、大久保村や戸塚村、落合村はもはや東京市街地ではなく、街の郊外と認識されていた。
 落合地域の小学校では、共通に出かけた遠足地として羽田海岸と穴守稲荷がある。東京湾を眺めながら穴守稲荷にお参りし、ついでに羽田海岸で潮干狩りを楽しむというコースだった。以前、こちらでも堀尾慶治様Click!落合第四小学校Click!時代に出かけた、羽田への遠足写真Click!をご紹介している。小学校も中学年になってからの遠出で、低学年では先の市谷小学校と同様に、近くの戸山ヶ原Click!(山手線西側の着弾地側)などへ出かけていたようだ。
鎌倉遠足.jpg 高徳院盧舎那仏.JPG
鎌倉衣張山山頂1963.jpg
 また、小学校によっては練馬・石神井の三宝寺と三宝池Click!が遠足地として選ばれていた。当時の石神井公園には、いまだ東側の広いボート池が存在せず、西側の三宝池と中世の石神井城跡を散策するのが小学生たちの遠足コースだったらしい。高学年になると、遠足地も地元からかなり離れた場所が設定され、電車に乗って高尾山や鎌倉などへ出かけている。
 当時の遠足の様子を、隣り町である上高田の小学校の記録に見てみよう。ちなみに、この遠足の様子は堀尾様たちよりも少し上の世代の記録だろう。1982年(昭和57)にいなほ書房から出版された、細井稔・加藤忠雄・共著の『ふる里上高田昔語り』から引用してみよう。
  
 愈々(いよいよ)電車で行く遠足となると、羽田海岸の潮干狩りに、穴森神社となる。今の羽田空港は一面の遠浅の海岸で、波打ちぎわはやや高い砂丘で、松林が一面に続き、白亜の燈台があった。アサリ、蛤が袋にいっぱい取れ、潮吹貝などいくらでもいた。やがて潮が上って来ると、海の水は透き通るように綺麗だった。/穴守稲荷の赤い沢山の鳥居や、茶店、土産売りのねえさんやおばさんが、赤や紫の前掛けで大勢賑やかな事に驚いた。前には多摩川の清流が広々と流れ、岸辺は一面に葦が茂っていた。その間から川崎大師へ渡し舟が出て、ノンビリした光景だった。
  
羽田遠足19370514.JPG 羽田穴守稲荷社.jpg
林間学校01.JPG
 先日、堀尾様にお話をうかがったとき、1940年(昭和15)の小学校卒業のときに催される遠足(修学旅行)が、「非常時」下のために「贅沢」だとされ、淀橋区(現・新宿区)内の小学校で抽選になった経緯をご教示いただいた。従来は、卒業を控えた時期には区内の小学校で必ず行われていた旅行だが、戦時体制の強化とともに全校で行うわけにはいかず、抽選で選ばれた小学校のみが修学旅行に出かけられた。落合第四小学校は残念ながら抽選にはずれ、近場の鎌倉日帰り遠足になってしまったらしい。鎌倉では、当時の皇国史観Click!教育を反映してかメインの鶴岡八幡宮ではなく、護長親王の鎌倉宮で遠足の記念撮影が行われている。
 また、小学校の夏休みに催された林間学校の様子をとらえた写真も、堀尾様よりお見せいただいた。日中戦争が泥沼化していた戦時とはいえ、いまだ太平洋戦争前なので日本本土が戦場になることはなく、子どもたちの表情は一様に明るく快活だ。1944年(昭和19)ごろからいっせいに開始され、米軍の空襲に備えて町から農村へと子どもたちを避難させた「学童疎開」の写真に比べると、その表情に根本的なちがいが見られる。そして、なによりも子どもたちの前に用意された食事が、「学童疎開」時の貧弱な食べ物に比べ、まだ豊かで多彩だ。
 わたしの小学校時代の遠足先には、やはり鎌倉が含まれていた。バスで出かければ湘南道路(134号線=ユーホー道路)を海岸沿いにまっすぐ走り、ものの数十分で鎌倉市街に到着するほどの距離なので、小学生の遠足先としては近場だった。もちろん、わたしの時代は鶴岡八幡宮や高徳院(鎌倉大仏)が記念撮影の場所だった。ちなみに、廬舎那仏の大仏殿が室町期の大津波で倒壊しさらわれたのを、確かこの遠足で耳にしている。関東大震災Click!時の津波Click!の倍以上、おそらく20mを超える津波が発生しないと、長谷の大仏殿までは到達しなかったはずだ。
林間学校02.JPG
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 小学校の低学年では、春と秋に行われた遠足で湘南平Click!や花水川上流、相模川の寒川浄水場などが選ばれた。高学年になると、相模湖や多摩地域、大山などへ出かけた憶えがある。林間学校は、芦ノ湖畔の小学校を借り切って泊まったのだが、持っていくお菓子がいつもより多かったのと、校庭でキャンプファイアやフォークダンスをしたこと以外、あまりハッキリとした印象がない。おそらく宿泊先が小学校だったので、あまり環境的な変化が感じられなかったせいなのだろう。

◆写真上:小学校の遠足先のひとつに選ばれた、練馬・石神井城址の三宝池。
◆写真中上上左は、落合第四小学校の卒業記念に行なわれた鎌倉遠足。護良親王(もりながしんのう=大塔宮)が幽閉された、二階堂ヶ谷(にかいどうがやつ)の鎌倉宮前での記念写真。上右は、室町期に大仏殿が津波でさらわれ露座となってしまった高徳院の盧舎那仏(鎌倉大仏)。は、1963年(昭和38)に父親のカメラをイタズラしてわたしが撮影した鎌倉市街。衣張山山頂からの眺めで、稲村ケ崎の向こうには江ノ島がかろうじて見えている。当時の鎌倉はひっそりとしていて、観光バスが訪れる名所旧跡を除いては市街地でもほとんど人が歩いていなかった。
◆写真中下上左は、1937年(昭和12)5月14日に行われた落合第四小学校の羽田遠足。上右は、羽田穴守稲荷社の現状。は、夏休みに富士山の山麓で行われた落四小の林間学校。
◆写真下:ともに、落合第四小学校の林間学校記念写真。は富士山の稜線がうっすらと見え、の食事風景は子どもたちの表情に屈託がなくみんな明るい表情をしている。

中村彝アトリエ関連の追加のご要望。

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中村彝アトリエ1.JPG
 タイトルを見ただけで、「うるさいこと」を言われそうだ…と身がまえた、新宿区の「中村彝アトリエ記念館」Click!ご担当のみなさま、たいしたことはないのでご安心を。w わたしは、「タヌキの森」Click!のように新宿区建築課が行なった、違法かつまったく筋の通らないことには徹底してこだわり批判しつづけるけれど、今回の中村彝アトリエClick!の復元は非常に優れた仕事であり事業だと思うので、大きな賛辞を惜しまない。あとは、植えたばかりの緑が大きく育ち、生垣が伸びてこんもりとした下落合らしい風情になるのを待つだけだ。
 アトリエ前のアオギリに、二股に分かれた若木を植えたのにも思わずニヤリとさせられ、彝の生活を意識したキメ細やかな心配りを感じる。おそらく、アオギリがもう少し育って木陰をつくるようになったら、中村彝Click!がそうしたように鳥かごを吊るそう…と考えている方が、きっとご担当の中におられるのだろう。w また、芝庭の南端には、当初の植樹計画にはなかったツバキClick!もちゃんと植えられていて、思わず「あっ、ありがとう」とつぶやいてしまった。
 さて、その上でのご要望なのだが、彝アトリエの中に落合地域をめぐる画家たち(さまざまな芸術家も含まれている)のエリアマップが掲示されている。その中に、中村彝のかんじんな師匠である下落合753番地に住んだ満谷国四郎アトリエClick!の記載がない。太平洋画家会では、中村彝の直接の師であり、彝は房総の布良(めら)で制作した『海辺の村(白壁の家)』Click!を満谷のもとへ見せにいき、文展(文部省美術展覧会)への出品を強く奨められている。
 満谷国四郎Click!は当時の文展審査員であり、彝の『海辺の村(白壁の家)』や『田中館博士の肖像』Click!(特選)などを、鑑査を通じて選定した当事者でもある。また、『エロシェンコ氏の像』Click!の展示にも満谷は深くかかわっているだろう。つまり、中村彝が世に出るきっかけをつくり、またその作品へ常に注目し推薦していた、大正画壇のもっとも重要な人物のひとりだ。さらに、中村彝アトリエの近くに早くから住み、病気が進行した彝のアトリエにも、たまに足を向けていた記録が残っている。実際には病状の悪化で活動できなかったが、彝を文展審査員に推挙したのも満谷の力が大きいのだろう。そして、満谷は展覧会で「小使いさん」Click!とまちがえられた今村繁三Click!から、彝と同様に少なからぬ支援を受けていた画家でもある。
 満谷国四郎は、下落合西部(現・中井2丁目)に東京土地住宅Click!(島津家Click!金山平三Click!も企画や開発に関連していただろう)によって計画され、画家たちが集合して暮らす予定だったアビラ村(芸術村)Click!の「村長」になるはずだった人物でもあり、中村彝アトリエ関連の地域マップには不可欠な存在だ。九条武子邸のすぐ上あたりに、ぜひ加えてほしい満谷国四郎アトリエだ。
中村彝アトリエ2.JPG 中村彝アトリエ3.JPG
中村彝アトリエ4.JPG 中村彝アトリエ5.JPG
 また、同マップに下落合1443番地の木星社Click!も加えていただけないだろうか。大正期の美術誌『木星』は、中村彝の動向を繰り返し取りあげており、彝に注目しつづけた美術出版社だからだ。中村彝が没した直後には、『みづゑ』240号(1925年2月号)と同様に『木星』(同年月)も、「中村彝追悼特集」号を発行している。マップの位置的には、すでに記載のある下落合1445番地の鎌田方に下宿していた松下春雄Click!の南側、当時の住民名でいうと鎌田邸の南隣りの小泉邸から、道をはさんだ斜向かいあたりに木星社の社屋は建っていた。
 ついでに、中村彝の弟子である下落合800番地Click!鈴木良三Click!と、彝の少し後輩であり彝につづいて下落合にアトリエを建てている同時代の画家、大久保作次郎Click!の記載もないので加えていただければと思う。鈴木良三は、マップの下落合804番地に記載の鶴田吾郎アトリエClick!に隣接する区画で、中村彝が関東大震災Click!のときに一時避難Click!して暮らしていた家でもある。また、鈴木良三は中村彝会の会長を長くつとめていた重要な人物のひとりだ。大久保作次郎は、中村彝がアトリエをかまえてから2~3年後、目白通りの北側へ三角に出っぱったエリア=下落合540番地へ、すでに1919年(大正8)から住んでいるのが確認できる。また、大久保アトリエの近くに、一時期だが友人の小出楢重Click!が百姓家を借りて暮らしていたのもご紹介Click!済みだ。
 さらにもうひとつ、佐伯祐三Click!山田新一Click!とは東京美術学校の入学時におけるクラスメイトであり、彝アトリエのすぐ西にアトリエを建てて彝のもとへ通っていた二瓶等(二瓶徳松)Click!の記載もほしい。二瓶は、師である中村彝自身から作品を直接購入していると思われ、おそらく佐伯もそれを観ているはずで、佐伯祐三と中村彝とを結ぶ重要な存在だ。二瓶自身も、近衛町をスケッチするなど多数の「下落合風景」作品Click!を残している。
 さて、彝アトリエに掲示された芸術家マップへのご要望は以上なのだが、新宿歴史博物館Click!で開催されている「中村彝―下落合の画室―」展の図録のほうは、ちょっと“重症”だ。それは、図録に掲載されている寄稿論文に大きな錯誤がみられるからだ。お相手が早稲田大学Click!の教授なので、指摘させていただくのは心苦しいのだけれど、画家たちが集合した下落合と長崎アトリエ村Click!をめぐる、明らかな誤りなのであえて書かせていただきたい。同図録に掲載された、中川武「落合のアトリエ建築について」から引用してみよう。
満谷国四郎.jpg 木星社.jpg
鈴木良三.jpg 大久保作次郎.jpg
  
 この地域で最初に注目を集めたのは、後に池袋モンパルナスと呼ばれた長崎アトリエ村である。大正期から戦前、戦後にかけて、池袋から長崎町周辺に沢山の芸術家たちがアトリエ付住宅に住み、一種の文化圏をつくり、アトリエ村と呼ばれた。現在のJR山手線池袋駅周辺にかつて映画館や喫茶店が多く集まる街区があり、そこが池袋モンパルナスと呼称されていたことに因んで、隣接地も含めて「すずめが丘」、「さくらが丘」などの各アトリエ村を総称して池袋モンパルナス文化圏というかなり広域的な地域イメージを形成していった。目白文化村は池袋モンパルナスの発展の気運に触発された面がかなりあるが、大正11年(一九二二)の第一文化村から同14年の第四文化村まで、箱根土地株式会社(後の国土計画、コクド)によって郊外住宅地として分譲されている。和洋折衷式の、三角屋根、洋瓦葺の外観が多い文化住宅であったこの目白文化村を挟むように近衛町の旧近衛邸跡地と現中井二丁目付近が、スペインのアビラの風光と似ていることを理由にアビラ村(別名芸術村)が、東京土地住宅株式会社により分譲開発が計画された。
  
 下落合にお住いのみなさんのみならず、豊島区側の目白や長崎地域にお住いの方々が読まれたら、「あれれっ?」となる表現だと思う。事実、中村彝アトリエ記念館で同図録を手にされた豊島区の美術家のおひとりは、「長崎アトリエ村の成立と、目白文化村の売り出しの時系列が逆なんだけどな」といわれた。そう、成立時期が逆さまなのだ。
 まず、大正初期から下落合に画家たちや美術関係者が集まりはじめ(長崎の下落合寄りにも大久保作次郎の親友である牧野虎雄Click!や、岸田劉生Click!が通ってきていた河野道勢Click!がいたが)、「目白バルビゾン」という呼称も生まれ、徐々に芸術家たちが多く住む街というイメージが形成された。1922年(大正11)に、下落合で目白文化村と近衛町の分譲地販売がスタートし、同時に満谷国四郎を村長とする下落合西部(現・中井2丁目)のアビラ村(芸術村)Click!の構想が明らかになると、さらに西洋画・日本画を問わず画家や彫刻家たちの集合に拍車がかかった。
 大正後期から昭和初期にかけ、落合地域はアヴァンギャルドな村山知義Click!グループや1930年協会Click!(のち独立美術協会Click!)、プロレタリア美術Click!、また逆に官展を舞台に活動する画家たちの一大芸術拠点のような様相をていするようになる。やがて、落合地域や池袋駅周辺の様子を横目で見つつ、画家たちを相手にアトリエ付き住宅を建てれば入居者が多く集まる…というマーケティングを行ない、のちに「アトリエ村」と呼ばれる住宅群を地主たちが長崎地域へ建てはじめるようになる。長崎アトリエ村の存在が顕著になるのは、1930年(昭和5)以降のことだ。
アオギリ.jpg 今村繁三.jpg
「中村彝-下落合の画室-」展図録.jpg 中村彝アトリエ6.jpg
 図録の論文は個人の方の文章でもあるし、印刷物なのでこれからの訂正はむずかしいのかもしれないが、中村彝アトリエ記念館の壁に設置されたマップのほうは、epsかai形式のデータ出力だと思われるので、ぜひ中村彝ゆかりの人物たちが暮らしたポイントを、イラレ(Illustrator)で追加していただければ幸いだ。細かいことをいえば、彝のパトロンである今村繁三Click!も、晩年は下落合の聖母坂の下、徳川邸の近くに住んでいたのだが…。
 このほかにも、彝アトリエに掲示されている落合地域のマップと、中川論文の佐伯祐三関連の記述にはいろいろ気になる点があるので、また改めてつづきの記事をアップしたいと考えている。

◆写真上:中村彝アトリエの内部で、鈴木誠アトリエ時代に増築のため幅が狭められていた東側の壁Click!が、もとの幅にもどされている。彝は、ここに楕円形の鏡を吊るしていた。
◆写真中上:彝アトリエの古材があちこちに用いられ、また保存・展示されているアトリエ内部。建築材には「へ」に「吉」の焼印が残されているので、「やまよし」という店名だろうか。落合地域かその周辺域に、この名の材木商が確認できれば、同一の材木を用いた建築の存在や請け負った工務店、設計者など新たなことが判明するかもしれない。数十年後、解析技術や近代建築関連のDBがもっと進歩・充実すれば、さらにいろいろな細かい情報がわかるだろう。
◆写真中下は、中村彝にゆかりが深い下落合753番地の満谷国四郎アトリエ()と、下落合1443番地の木星社()の位置。は、中村彝の愛弟子だった下落合800番地の鈴木良三宅()と、彝のすぐあとにアトリエを建てた下落合540番地の大久保作次郎アトリエ()の位置。
◆写真下上左は、二股に分かれたアトリエ前面のアオギリ。上右は、徳川邸近くの聖母坂界隈に住んでいた今村繁三。下左は、「中村彝―下落合の画室―」展図録。下右は、通常はこちらが出入口だった彝アトリエの勝手口で、カキの木Click!もちゃんと復活して植えられている。

松下春雄の住まいと佐伯祐三が見た光景。

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落合小と第四文化村1_19290524.jpg
 松下春雄Click!は、1925年(大正14)に池袋の上屋敷Click!(西巣鴨町池袋大原1382番地の横井方)から、下落合1445番地の鎌田方Click!へと転居している。これが、松下が落合地域へ足を踏み入れる端緒となった引っ越しだった。このとき、おそらく彼は上屋敷にあった渡辺医院の娘、渡辺淑子Click!とはすでに恋愛関係にあったのだろう。
 3年後、1928年(昭和8)の3月20日に、松下は目白文化村の第一文化村に接した北側の一画、下落合1385番地の借家へと転居している。同年4月6日に、松下は渡辺淑子と結婚式を挙げているので、それが直接引っ越しのきっかけになったのだろう。この間、彼は目白文化村Click!とその周辺域の風景をモチーフにした、『下落合文化村』Click!をはじめとする下落合風景シリーズClick!を、油彩ではなく水彩で描きつづけている。このころ、帝展へは油彩部門ではなく水彩部門に応募しつづけており、応募作は毎年順調に入選をはたしている。
 松下春雄は、箱根土地Click!が名づけた「目白文化村」という開発宅地名を一度もタイトルに用いず、一貫して「下落合文化村」と表現している。地名を優先する松下独自の考えからか、あるいは地元では「ここは目白じゃなくて下落合だよ」という意識により、当初、地元の住民たちからそのように呼称されていたものかは不明だけれど、中村彝Click!が下落合へやってきて暮らしているにもかかわらず、地名ではなく最寄りの駅名「目白」を多用したのとは対照的だ。
 松下春雄アルバムClick!には、1925年(大正14)に移り住んだ下落合1445番地の鎌田方を撮影したと思われる写真と、南側を第一文化村に隣接し、住宅が建てこむ府営住宅エリアの下落合1385番地の新居で、明らかに淑子夫人との生活を撮影したと思われる貴重な写真とが残されている。まず、1928年(昭和3)5月に我孫子旅行の直前に撮影されたと思われる家屋写真、そしておそらくその家の2階から撮影した風景写真とが、きわめて重要だと思われる。結婚式を終え、新婚旅行からもどった松下は、鎌田家へあいさつに出向いているのではないか。
 この残された数枚の情景こそが、下落合1445番地の鎌田家の路地および下宿していた建物、さらには鎌田家2階の窓辺から南側の眺望を思い出の記念として、松下自身が撮影した可能性が非常に高い。単独で写っている家は、初めて松下が落合地域へやってきたときに下宿している鎌田家であり、家が建ち並ぶ路地は袋小路で突き当りの敷地が滑川邸、左側が落合町役場に面した「松月庵」(蕎麦屋?)の裏手、また路地の右側には手前に写る小泉邸と、その奥に鎌田邸があると思われる。松下は、鎌田家に下宿してから外出するときに、何度も木星社Click!前のこの路地を往復しているのだろう。そして、鎌田家の2階から撮影したと思われる1葉も残っている。
下落合1445鎌田方1.jpg 下落合1445鎌田方2.jpg
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 手前に、路地の入口左手(東側)にあった小泉邸と思われる屋根が写り、遠景には徐々に低くなる地形とともに、多数の西洋館らしい住宅群がとらえられている。ちなみに美術雑誌『木星』Click!の出版社である木星社は、小泉邸とは道をはさんで南側の斜向かいに建っていた。射しこむ光は西陽のように見えるので、鎌田邸の2階西側の窓から南側を向き、ここでの暮らしで見なれた風景を写しているのではないだろうか。方角的には、会津八一Click!秋艸堂Click!が建っていた霞坂から、何度もスケッチに足を運んだ徳川邸Click!のある西坂方面ではないかと思われる。
 つづいてアルバムには、下落合1385番地の借家で撮影した写真が多数掲載されている。淑子夫人とともに暮らしはじめ、長女・彩子様Click!が生まれたせいもあり、松下はカメラを手にする機会が増えたのだろう。1928年(昭和3)8月13日に、下落合の森で『草原』を制作中の松下春雄をとらえた写真には、写生に淑子夫人の寄り添う姿も見える。カメラを渡されて撮影しているのは、松下の友人のひとり(鬼頭鍋三郎Click!?)だろうか。借家の画室をとらえた貴重な写真類も残されており、このころから完成した作品画面をカメラに収める習慣が生まれたのだろう。画室で撮影された作品は、スケッチ写真で描かれていた『草原』(1928年)で、手前に淑子夫人を座らせプロフィールとともに撮影している。このとき、淑子夫人のお腹には長女・淑子様がいた。
 下落合1385番地から杉並町阿佐ヶ谷Click!へ転居するのは、彩子様が生まれたあとの1929年(昭和4)6月なので、アルバムで5月末までの日付が入った写真類が下落合1385番地の情景だ。その中に、うれしくて飛び上がりそうになった写真が含まれていた。箱根土地本社の不動園Click!あたりから、南東側の第四文化村Click!の敷地を向いてモッコウバラと思われる花垣を撮影した写真だ。このポイントから、松下は第一文化村の水道タンクを遠景に入れた『五月野茨を摘む』Click!(1925年)と、落合第一小学校の竣工Click!間近な校舎を入れた『下落合文化村』Click!(1927年)を描いている。そして、1929年(昭和4)5月24日に撮られたモッコウバラ写真の向こうには、完成したばかりの落合第一小学校の新築校舎と講堂がとらえられている。(冒頭写真)
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「草原」と淑子夫人19280820.jpg
落合小と第四文化村2_19290524.jpg
 手前に見えている空き地は第四文化村だが、同時点ではまだ家が1軒も建っていないのがわかる。現在の場所でいえば、松下春雄は山手通りの真ん中あたりに立って、落合第一小学校の方角を向いていることになる。そして、一連のバリエーション写真には、佐伯祐三Click!が「文化村スキー場」を描いた『雪景色』Click!の、尾根上にとらえられている長屋状の建物(箱根土地の資材加工作業場か資材倉庫か)北端の1棟が写っているようだ。初めて目にする、佐伯と同時代の第四文化村および「文化村スキー場」界隈の実景だ。佐伯祐三は、この尾根道を何度も往復して『下落合風景』シリーズClick!を描いていたのであり、佐伯自身も繰り返し目にした光景だろう。キャンバスを手にした松下と佐伯は、このあたりで邂逅しているのではないか。
 下落合1385番地の家では、お腹が大きくなった淑子夫人を1928年(昭和3)12月4日に、居間と思われる部屋で撮影した写真が残っている。このわずか9日後の12月13日に、長女・彩子様が誕生している。夫人の背後には、下落合の森を描いたとみられる『草原』と同じ傾向の作品が架けられていた。このときから、生後の彩子様をとらえた写真が急増することになる。1929年(昭和4)4月に撮られた、彩子様を抱く夫妻の写真背後には、目白文化村と第二府営住宅とにはさまれるような敷地だった、下落合1385番地の家々が写っている。中出三也Click!甲斐仁代Click!など、他の洋画家たちも暮らしたので、アトリエ仕様の借家が建っていたのかもしれない。
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下落合1385_2_192904.jpg 下落合1385_3_192904.jpg
 戦災による焼失をまぬがれた松下春雄アルバムは、彼の仕事ぶりや昭和初期の家族の様子が具体的に見られ、また画家仲間との交流が詳細にたどれるばかりでなく、当時の落合地域の風景を実際に目にすることができる、願ってもない貴重な資料といえるだろう。その枚数は膨大にのぼるので、また気がついた貴重な写真があれば随時こちらでご紹介していきたい。

◆写真上:『五月野茨を摘む』のモチーフに描かれた不動園近くのモッコウバラ垣越しに、完成して間もない落合小学校の西側校舎と講堂(画面中央から左手)。手前の敷地は第四文化村で、前谷戸からつづく深い谷間が中央にあり、文化村住民がスキーを楽しんだ急斜面が右手にある。
◆写真中上上左は、下落合1445番地にあった下宿先・鎌田家と思われる住宅の一部。上右は、鎌田邸へ通じる袋小路。は、同邸の2階からの眺望と思われる霞坂・西坂方面らしい風景。
◆写真中下は、1928年(昭和3)8月13日に撮影された下落合の森をスケッチする松下春雄と寄り添う淑子夫人。は、下落合1385番地の画室で完成した『草原』と淑子夫人。は、冒頭のモッコウバラと落合小学校を撮影したバリエーション写真の1枚。この画面では、箱根土地の加工作業棟か資材倉庫と思われる長屋状の建物が、スキー場の尾根上(右端)にとらえられている。
◆写真下上左は、居間と思われる部屋の淑子夫人(右)。上右は、乳母車に入れられた屋外の彩子様。は、彩子様を抱く松下夫妻の背後には下落合1385番地の家並みが見えている。

本記事をお読みになった山本和男様・彩子様より、「まったく書いてある通りで、ぜひ亡き母(淑子夫人)にも読ませたかった」とのご連絡をいただいたのがうれしい。これで、写真の建物が下落合1445番地の鎌田宅の下宿であること、また第一文化村の北側に接した一画に芸術家たちが多く住んでいた、下落合1385番地界隈の情景であることが確認できた。


今日も下落合のどこかですれちがい。

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落合第一小学校.JPG
 山本和男様・彩子様ご夫妻Click!が保存されている、松下春雄Click!が撮影した落合第一小学校Click!第四文化村Click!界隈の風景写真Click!について、もう少し詳しく検討してみたい。前回の記事にも書いたが、この写真は佐伯祐三Click!も直接目にしているほぼ同時期の実景なので、佐伯作品とも照らし合わせて改めて考察したい。
 まず、手前のモッコウバラと思われるバラ垣は、箱根土地本社の不動園Click!と第四文化村の敷地を分ける小道沿いに設けられた、不動園側の生垣のように思われる。バラの下には、垣根のような棒状のものが見えており、松下は垣根をこえて不動園の内側から、落合第一小学校の西側校舎と講堂のある南東の方角を向いてシャッターを切っていると想定できる。不動園内へ深く入りこんで写生した、松下作品『文化村入口』Click!(1925年)も存在するので、当時、箱根土地(のち中央生命保険倶楽部)前の不動園は、一般人が自由に出入りし散策できた可能性が高い。
 不動園の北端、旧・箱根土地の本社屋に接する東側で生徒たちが記念撮影した、落合第一小学校の卒業アルバムClick!も残されている。おそらく箱根土地の不動園は、ボタンで有名な西坂・徳川邸の静観園Click!とともに、小学生たちの図画授業における野外写生や、画家たちの風景作品の制作ポイントClick!になっていたのではないだろうか。特に、モッコウバラ(松下は「野茨」と表現)が咲く5月下旬ごろは、あちこちでスケッチブックを拡げる画家や絵が趣味の人々、そして生徒たちの姿が見られたのだろう。そんな中に、松下春雄や佐伯祐三たちもいた。
 松下は撮影をする際、画面構成のイメージからだろうか、長く伸びたバラのつるを左右へアーチ状にわたして整形し、その間から深い渓谷(前谷戸Click!からつづく谷戸地形の谷間)を撮影するような構図でシャッターを切っている。中央に見える大きな建物の切妻は、落合第一小学校(のち落合第一尋常小学校→落合第一尋常高等小学校→現・落合第一小学校)の講堂であり、左手の横長の建物は、同小学校の第四文化村に面した西側の校舎Click!だ。松下は、『下落合文化村』Click!(1927年ごろ)で竣工間近な同小学校を描いており、同作の画面では右手の講堂の支柱が建てられ、まさに建築中の様子がとらえられている。同作は、もう少し早い時期の制作かもしれない。
落合第一小学校01.jpg
落合第一小学校02.jpg 落合第一小学校03.jpg
 小流れのある中央の渓谷をはさみ、右手の丘上に見えている建物は、位置的にみて文化村「スキー場」Click!の尾根上に立つ建物の1軒のように思われる。佐伯祐三が描いた『雪景色』Click!(1927年ごろ)の丘上にある、箱根土地の住宅建設資材倉庫あるいは資材加工場、ないしは目白文化村の建設工事の関係者が寝泊まりする“飯場”と思われる、横長で平屋の建物の一部かと思われるのだが、写真からはハッキリしない。また、文化村「スキー場」の急傾斜も、この角度からだと傾斜面が撮影位置とほぼ垂直になり、ハッキリと視認することができない。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!には、巻頭のグラビアに落合第一尋常高等小学校を市郎兵衛坂Click!あたりから撮影した校舎全体の写真が掲載されているが、1929年(昭和4)の松下写真からわずか3年後にもかかわらず、小学校の西北側(左手)に開発された第四文化村には、ちらほら家々が建ちはじめている様子がとらえられている。この写真で、中央あたりの校舎の屋根上に見えている火の見櫓は、1932年(昭和7)に淀橋区が成立するまで存在した落合町役場に近接する、消防落合出張所のものだ。
 また、西側(左側)校舎の外れ、遠景に見えている大きな西洋館と思われる建物は、第四文化村入り口にある谷へとくだる坂道の、向かって右手(西側)に建てられて間もない高木邸ではないかと思われる。高木邸は、1945年(昭和20)4月13日の文化村空襲(第1次山手空襲Click!)にも、また5月25日の第2次山手空襲にも焼け残り、戦後の空中写真で確認することができる。ただし、改正道路(山手通り)の敷設により、邸の西側敷地をやや削られているのではないだろうか。
落合第一尋常小学校1932.jpg
松下春雄「五月野茨を摘む」1925.jpg 松下春雄「下落合文化村」1927頃.jpg
 松下春雄は、写真の撮影位置に近いポイントから、南南西を向いて1925年(大正14)に仕上げたのが『五月野茨を摘む』Click!であり、翌々1927年(昭和2)に南東へ向いて制作したのが『下落合文化村』ということになる。『五月野茨を摘む』では、第一文化村の水道タンクや同文化村の洋風建築を入れて描いているけれど、当時の第一文化村Click!はすでに住宅がもう少し建てこんでいたのではないかと思われ、このような緑濃い中に洋館が1棟ポツンと建っているような風情だったかどうかは、多少疑問の余地がある。松下の画面上における“構成”なのかもしれない。
 また、竣工が近い落合第一小学校をモチーフにした『下落合文化村』では、やはり不動園のおそらく内側に入りこんで、南東側の第四文化村および落合第一小学校のほうを向いて制作している。同作が描かれた1927年(昭和2)に、同小学校の新校舎は落成するので、建設の最終段階に入った同校の姿をとらえていると思われる。また、佐伯祐三の『下落合風景』シリーズClick!では、「制作メモ」Click!の1926年(大正15)10月12日に「小学生」(15号)のタイトルが見えるので、ひょっとすると佐伯も完成が近い落合第一小学校の近くで、小学生を画面に入れた風景作品を描いているのかもしれない。つまり、松下春雄と佐伯祐三はあちこちでニアミスを繰り返していた可能性があるのだ。どこかで出会って、互いに会釈ぐらいはする仲になっていたのかもしれない。
松下春雄「文化村入口」1925.jpg 佐伯祐三「雪景色」1927頃.jpg
落合第一小学校1936空中.jpg
 1926年(大正15)から翌年にかけての冬、佐伯祐三は第四文化村の坂道をくだって谷底に下り、降雪のあと住民たちがスキーやソリを楽しむ文化村「スキー場」の情景を描いている。松下春雄の写真でいうと、中央に暗く落ちこんだ谷底あたりから、西側急斜面の尾根上を見あげている構図だ。また、松下が箱根土地本社Click!レンガ建築Click!を入れて『文化村入口』(1925年)を描いたあと、佐伯はおそらく翌年、まさに松下が1928年(昭和3)から暮らしはじめる近辺、前谷戸に面した第一文化村北辺の二間道路Click!を描いている。キャンバスやイーゼルを抱えた目立つこのふたりが、下落合のどこかで出会わないほうがむしろ不思議だ・・・そんな気さえしてくるのだ。

◆写真上:山手通りから眺めた落合第一小学校の現状で、谷の下に見える大谷石の擁壁は第四文化村のもの。松下春雄の撮影ポイントは、山手通りの下になっていて立つことができない。
◆写真中上:1929年(昭和4) 5月24日に松下が撮影した、バラの生垣と落合第一小学校。レンズを少しずつ南へずらして、角度を変えながら撮影しているのがわかる。
◆写真中下は、竣工から5年後の1932年(昭和7)に撮影された落合第一小学校の全景。は、松下春雄『五月野茨を摘む』(1925年/)と松下春雄『下落合文化村』(1927年/)。
◆写真下上左は、1925年(昭和14)に描かれた松下春雄『文化村入口』。上右は、1927年(昭和2)ごろ制作の文化村「スキー場」を描いた佐伯祐三『雪景色』。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる松下写真の撮影ポイント、およびそれぞれの作品の描画ポイント。

中村彝が描いたメーヤー館4部作。

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中村彝「風景」(不詳).jpg
 笠間日動美術館に「秘蔵」されていた中村彝Click!の風景作品()が、新宿歴史博物館で開催されている「中村彝―下落合の画室―」展Click!へ出品されている。もちろん、彝が描いた下落合風景の1作で、またしても彝アトリエの北西に建っていた、目白福音教会Click!の宣教師館(メーヤー館Click!)を風景モチーフの中心にすえて制作している。これで、メーヤー館を描いたタブローは4作めになるので、勝手に中村彝の「メーヤー館4部作」と呼ばせていただくことにする。
 彝のメーヤー館を描いた作品には、もっとも有名で紹介画像も多い『目白の冬』Click!(1920年・大正9/)をはじめ、『目白風景』Click!(1919年・大正8/)、『風景』Click!(1919~20年/)の3作がすでに広く知られている。また、『目白の冬』のスケッチ類や習作も含めると、都合5~6点ほどにもなるだろうか。それに、今回のメーヤー館作品『風景』(制作年不詳)が加わり、タブロー4部作となったわけだ。これら4作の中で、メーヤー館のみならず北側に建っていた角度ちがいの建物、戦前は牧師の宿泊施設などに利用され、大正最初期の建築当初には英語学校として使われていたという伝承が残る建物と、2棟が画面へ同時に描かれているのは、『目白の冬』と今回の笠間日動美術館が収蔵していた『風景』のみだ。おそらく、北側の旧・英語学校として使われていた建物も、ヴォーリズが設計を担当した建築なのだろう。
 また、手前に一吉元結工場Click!の干し場を大きく取り入れて描いているのも、『目白の冬』と同一構図なのだが、メーヤー館の見え方の角度から判断すれば、『目白の冬』よりもほんのわずか南寄りに視点を移した画角となっている。ただし、目白福音教会と元結工場の干し場との境界にあった柵越しに見えている、目白福音教会側の敷地に建てられていたらしい物置小屋に視点をすえて画面を考えると、『目白の冬』よりも描画ポイントがやや北寄りになってしまうことになる。このあたり、中村彝が意識的にメーヤー館の角度を微妙に変えて描いているか、あるいは物置小屋を北ないしは南にあえてずらして描いているものか、実景とは異なる彝の画面構成だろう。
中村彝「目白の冬」1920.jpg
中村彝「風景」1919-20.jpg
 いずれにしても、ちょうど中村彝がイーゼルを据えたすぐ背後に、大正期の一吉元結工場の建物、『雪の朝』Click!(おそらく1919年12月の降雪日)に描かれた建屋があったはずだ。また、干し場や工場で働くこの時期の職人長屋は、干し場の北に接して東西に長い長屋風の建物として建っていたと思われる。元結工場の建物および敷地は、大正末ないしは昭和初期に規模を大幅に縮小して、干し場の南側へ移築され事業を継承している。洋髪の急速な普及で、元結工場は大きなダメージを受け、昭和期に入ると元結ばかりでなく“水引き”の生産もはじめていたかもしれない。
 20~30mほど南南西へ移った一吉元結工場だが、1945年(昭和20)の空襲にも職人長屋ともども焼け残っているので、周辺住民のみなさんの記憶にもハッキリと残る建物だった。近くにお住まいの生江明様によれば、元結工場と職人長屋の前にあった井戸のある中庭で、子どものころよく遊ばれていたらしい。余談だが、「中村彝―下落合の画室―」展では成蹊学園の機関誌『母と子』に掲載された『雪の朝』が展示されており、ネームには「制作年不詳」とされているが、同展図録ではなぜか「1916年(大正5)頃」というキャプションがついている。これは、どのような根拠にもとづくものだろうか? 『雪の朝』の裏面などに、制作年が記載されているならご教示いただきたい。
中村彝「目白風景」1919.jpg
大正期の元結工場跡.JPG 「風景」1919描画位置.JPG
 日動美術館所蔵の『風景』()には、干し場で作業をする元結工場の麦わら帽子をかぶった職人たちも描かれている。『目白の冬』()では、職人や子どもたちが5人ほど描きこまれているが、『風景』ではふたりの職人が、製造した元結を天日乾燥させている情景がとらえられている。風景や人物の服装などから、制作されたのは4~5月ごろだろうか、春ないしは初夏のような趣きを感じる。目白福音教会との敷地境界にある板塀沿いには、ツツジのような紅い花が咲く生垣の低木群が描きこまれている。生垣は教会側にもあったらしく、塀の向こう側にもチラリと低木の上部がのぞいているようだ。目白福音教会の敷地側には、庭の手入れ作業に必要な道具類でもしまっておいたものだろうか、当時、小さな物置きが建っていたのがわかる。
 1919年(大正8)の『目白風景』()は、モノクロの画面しか手元にないので細かく観察はできないが、やはり天日干しの作業をする人物たちがとらえられているように見える。おそらく、周囲をウロウロするニワトリも描かれているのだろう。『目白の冬』には、白色レグホンと思われるニワトリが8~9羽描かれ、1919~1920年(大正8~9)の『風景』()には、メーヤー館へと伸びた袋小路の路地にやはり3羽のニワトリが登場している。いずれも、卵の採集を目的に飼われていたニワトリだと思われるが、初期の佐伯アトリエClick!と同様に彝アトリエの周囲も、ニワトリの鳴き声がうるさかったのではないだろうか。日動の『風景』には、残念ながらニワトリが1羽も描かれていない。w
目白福音教会1936.jpg
 中村彝が描いた1919~1920年(大正8~9)あたりの作品を観ると、アトリエClick!からおよそ半径30m以内の位置から見た風景しか描いていないことがわかる。それだけ、遠出をする体力や気力が、もはや彝には残っていなかったのだろう。中村彝が、メーヤー館の北側に建っていた同じくヴォーリズの設計と思われる、旧・英語学校(昭和期には牧師宿泊施設)を描いた作品を見つけた。この建物は、小島善太郎Click!も大正初期に写生しているのだけれど、それはまた、別の物語…。

◆写真上:日動美術館に収蔵されている、目にしたことがない中村彝『風景』(制作年不詳)。
◆写真中上は、1920年(大正9)に描かれたもっとも有名な中村彝『目白の冬』のメーヤー館。は、メーヤー館をほぼ真東にある袋小路の路地から描いた同『風景』(1919~1920年)。
◆写真中下は、1919年(大正8)に制作された画面右寄りにメーヤー館がある中村彝『目白風景』。下左は、大正期に一吉元結工場があったあたりの現状で彝の死去後に30mほど南へ移転している。下右は、『風景』(1919~1920年)を描いた路地の描画ポイントあたりの現状。
◆写真下:1936年(昭和11)の空中写真にみる、中村彝が描いた各作品の描画ポイント。

目白福音教会へ踏みこんだ中村彝。

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中村彝「風景」不詳(部分).jpg
 中村彝Click!が、1919年(大正8)の暮れに12号キャンバスに描いていたと思われる、彝アトリエClick!裏に建っていた一吉元結工場Click!の作品画像が残っていないかどうか探していたら、目白福音教会Click!の宣教師館(メーヤー館Click!)に近接して北側に建っていた、旧・英語学校(一時は聖書学校として、また昭和期には牧師たちのゲストハウスとして使われていたようだ)を描いたとみられる作品を見つけた。現在では展覧会でも目にすることのないめずらしい作品だ。
 中村彝は、いま開催中の「中村彝―下落合の画室―」展Click!に出品されている、笠間日動美術館が所蔵していた『風景』Click!(制作年不詳)や、『目白の冬』Click!(1920年)の画面右端に、この建物をチラッと入れて描いている。この作品は、その旧・英語学校(のち牧師宿泊施設)をモチーフの中心にして制作していると思われる。同建物は、落合福音教会(のち目白福音教会と改称)が計画された最初期に建築され、メーヤー館Click!とごく近似した意匠をしているので、明治期における最後期のヴォーリズ建築事務所による仕事だと想定することができる。
 見つけた作品画面は、戦後の中村彝の画集や展覧会の図録では精細なカラー画面をどうしても確認できないので、ひょっとすると戦災で失われてしまった1枚なのかもしれない。なお、目白福音教会の同館は、下落合や目白駅付近の風景を多く制作している小島善太郎Click!も、大正の早い時期に写生しているはずだが、現在ではその画面を見つけられない。小島の自伝では、作品が気に入らないと写生場所の付近へ棄ててくるので、同館を描いた作品も気に入る仕上がりにならず、林泉園の谷間へでも放りこまれてしまったものだろうか。
 同作を見つけたのは、彝が死去した翌年、1925年(大正14)2月に発行された『みづゑ』240号の「中村彝追悼号」だ。同作は『風景』というタイトルが付けられ、制作年は不詳ということになっている。1925年(大正14)のこの時点では、「森巻吉」という人の所蔵品だったことが、巻末の「アトリエ雑記」に記されている。同誌の巻頭図版に、カラーで掲載されている作品のひとつが『風景』なのだが、現代とは比べものにならない大正当時の4色(3色?)製版によるオフセット印刷なので、どこまで精細なタッチが再現され、その色彩が忠実に表現されているかどうかはわからない。おそらく、実物の印象とはかなり異なるのではないかと思う。
 これは、新宿歴博で開催中の「中村彝―下落合の画室―」展に展示されている『雪の朝』Click!にもいえることで、成蹊学園が当初、同作を1923年(大正12)2月5日に発行された教育機関誌『母と子』(成蹊学園出版部)の表紙に採用した際の印刷品質を見ても明らかだ。同誌の印刷は3色分解による製版なので、実物の作品画面と比較すると、よけいにタッチや色彩のちがいが目につく。おそらく、『みづゑ』240号のカラー印刷も大なり小なり、同じレベルの印刷だと思われる。
 『風景』の構図は、庭木と思われる低い樹木の間から少し大きめな西洋館を描いているもので、手前に描かれた朱色の花がカンナだとすれば、夏から秋にかけて制作された可能性が高い。よく晴れあがった日に描かれたらしく、木々の葉や建物の壁面には強い陽射しがあたっているように見える。太陽は手前、つまりこの画面をスケッチしている中村彝の左寄り背後にあり、南側からほぼ北側を向いて写生をしているらしいことが、陰影などから想定できる。空は、印刷からはグレーっぽく見えるのだが、実際は快晴の空でブルーなのではないか。
みづゑ240号1925.jpg 中村彝「風景」不詳.jpg
 彝が描いたメーヤー館でも同様に感じるのだが、2階建てのかなり大きくて立派な教会付属の西洋館が、屋根裏部屋の設けられたまるで1階建ての建物のように描かれている。それは、メーヤー館も、また北側の旧・英語学校も、周囲を低木の生垣や樹木で囲まれているせいで、彝の描画位置からは1階部分が隠れて見えなかったからだ。『風景』の画面では、建物の東側(右側)へ規則的に植えられた生垣と思われる樹木が並んでいるのが見えている。これら2~3mほどの木々が、1階部分を覆って彝の視界から隠していることになる。
 これは、津田左右吉が所蔵していた曾宮一念Click!のメーヤー館作品『落合風景』Click!(1920年)にもいえることで、周囲の生垣がかなり伸びてメーヤー館を1階建ての西洋館のように見せている。彝のメーヤー館4部作では、真東にある袋小路の路地から描いた『風景』(1919~1920年)が、突きあたりに見えている目白福音教会の敷地境界に設置されていた板塀に、1階部分を丸ごと隠されながらも、周囲に高い木々がないためにどうやら2階建てらしい風情に描かれている。
 さて、彝は旧・英語学校をどこから描いているのだろうか? 従来のメーヤー館を描いた立ち位置、すなわち一吉元結工場の干し場からでは、同館の北側に位置する旧・英語学校をこのような角度で眺めることはできない。もう少し西側のメーヤー館に接近して北側を眺めなければ、旧・英語学校はこのように見えなかっただろう。すなわち、彝は元結工場の干し場から西へ歩き、目白福音教会の板塀を越えて敷地内にだいぶ入りこみ、同作を描いていることになる。
 新宿歴博に展示されている笠間日動美術館の『風景』(制作年不詳)や、『目白の冬』(1920年)には、元結工場の干し場と目白福音教会の敷地との境界に設置された板塀がとらえられている。両作には、板塀の途中に扉が描かれており、日動の『風景』の板塀では扉が開いているように見えるので、教会内へは当時から誰でも自由に出入りできたのだろう。彝は、まさに描かれたこの扉からメーヤー館の近くまで足を踏み入れているのかもしれない。
中村彝「風景(日動)」不詳(部分).jpg 中村彝「目白の冬」1920(部分).jpg
旧・英語学校跡1.JPG 旧・英語学校跡2.JPG
 彝が描いている位置は、メーヤー館の東約20~30mほどのポイントになるだろうか。手前の緑は、目白福音教会の敷地内を東西あるいは南北に区切っていた当時の生垣で、画面に描かれた樹木はメーヤー館から東へまっすぐに伸びていた生垣の一部ではないかと思われる。区画割りの杭らしいものも描かれた生垣越しに、彝はほぼ北西を向いてイーゼルにすえたキャンバスに向かうか、あるいはスケッチブックを手持ちで写生しているのだろう。彝の左手(西側)には、メーヤー館がすぐそこに大きく迫って見えていたはずだ。現在の場所でいえば、描画ポイントは目白平和幼稚園の園庭南端、または日本聖書神学校の幼稚園寄り校舎あたりということになる。
 この『風景』も、また『目白の冬』(1920年)でも、メーヤー館と旧・英語学校の外壁はベージュあるいはタマゴ色に塗られている。でも、強い陽射しがあたった建物の外壁表現として、このような色あいで表現するのは、別にめずらしくはなかっただろう。当時の2館は、はたして何色の外壁をしていたのだろうか? 東側の路地から眺めた『風景』(1919~1920年)のメーヤー館は、薄いグリーンの外壁で塗られているが、彝が建物の陽陰表現をたまたまグリーンで表現したか、あるいは周囲の樹木の緑が映えていたものか、どちらかはわからない。
 メーヤー館の北側に建っていた旧・英語学校の建物は、本格的な英語学校の大きな校舎が目白通り沿いに完成すると、戦前には牧師たちの宿泊施設として活用されてたようだ。だが、1944年(昭和19)の秋から目白通り沿いの南側で幅20mにわたって実施された建物疎開Click!により、同建物は解体されていると思われる。地元では、空襲で焼夷弾が直撃して焼けた…という伝承もあるけれど、当時の特高Click!憲兵隊Click!によるキリスト教会への弾圧を考慮すると、目白通り沿いの建物疎開計画Click!でキリスト教会の建物が解体をまぬがれていたとは、どうしても考えにくい。
旧・英語学校(牧師宿泊施設).jpg
旧・英語学校空中1936.jpg
 中村彝が、1919年(大正8)の暮れに描いていた一吉元結工場の作品画面を探していたら、思わぬ作品に出あうことができた。『みづゑ』240号に収録された『風景』は制作年が不詳だけれど、いまだ病状がそれほど悪化せず外出が可能だった時期には、かなりの点数にのぼる下落合風景を描いているのではないか? 彝が下落合へとやってくる以前に描かれたとされている、ひょっとすると制作年の誤記かもしれない作品、あるいは「制作年不詳」とされている作品にも留意が必要だ。元結工場の作品を探しがてら、彝が下落合464番地にアトリエを建てた1916年(大正5)以降の作品を中心に、もう一度注意深く検証してみたいと思っている。

◆写真上:『みづゑ』240号の巻頭に収録された、中村彝『風景』(制作年不詳/部分)。
◆写真中上は、1925年(大正14)2月に発行された『みづゑ』240号の「中村彝追悼号」。は、『雪の朝』と同様にタテ長のプロポーションで小品と思われる中村彝『風景』の全画面。
◆写真中下は、『目白の冬』(1920年/)と日動の『風景』(制作年不詳/)にみるメーヤー館の北側に建つ旧・英語学校の西洋館。下左は、右手の白いビルのあたりに同館は建っていた。下右は、彝アトリエの北側からの眺めで同館は遠景に見える白いビルのあたり。
◆写真下は、1930年(昭和5)に東側の芝庭から撮影された旧・英語学校(当時は牧師宿泊施設)の西洋館。は、アトリエ周辺で中村彝が下落合風景を描いた作品群の描画ポイント。

「うるさいこと」を書かせてください。

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中村彝アトリエ01.jpg 中村彝アトリエ照明1925.jpg
 中村彝アトリエ記念館Click!の内部に掲示されている、落合地域に去来した芸術家たちのマップClick!については、彝がらみの親しい人物たちの記載が抜けていたため、ご要望というかたちで以前も記事にしている。その後、「中村彝―下落合の画室―」展の図録の58ページにも、同マップが掲載されていることに気がつき、じっくり詳しく見ることができたので、もう少しこだわって書いてみたい。きょうは、ちょっとだけ「うるさいこと」を書かせていただきたいと思っている。
 まず、同マップをご覧になった方はすぐに気づくと思われるのだが、中村彝Click!佐伯祐三Click!などをはじめとする落合地域に在住した画家たちが、すべてブルーのマーキング、すなわち「作家、その他著名人の住宅」に分類されている。そして、尾崎翠Click!林芙美子Click!宮本百合子Click!などの作家たちが、全員「画家の住宅・アトリエ」に分類されている。(爆!) これは、ちょっとありえない誤りだと思われるので、重ねて訂正をお願いしたい。
 さらに、先のご要望に書いた中村彝ゆかりの画家に加え、下落合(4丁目)2096番地の松本竣介Click!や下落合(同)2111番地の林唯一Click!、下落合(同)2191~2194番地あたりの「熊本村」にいた竹中英太郎Click!(まだまだ他にもたくさん気づくのだが)などのアトリエや旧居跡が記載されていない。これは、どのような基準やフィルタリングで制作されているマップなのだろうか?
 また、会津八一Click!の旧居跡(秋艸堂Click!)が下落合1296番地の霞坂秋艸堂Click!と、目白文化村Click!(第一文化村)にあった旧・安食邸Click!、下落合1321番地の文化村秋艸堂Click!のふたつが収録されているが、その中間に改正道路(山手通り)の下敷きになってしまったあたりにも、会津八一の旧居跡が記されている。もし万が一、拙サイトの最初期の記事「会津八一の不運な引っ越し」Click!をもとに記載されているとすれば、のちに会津八一の手紙やハガキに記載された差出人住所を年代順にたどる細かな検証作業Click!を通じて、1935年(昭和10)前後に落合地域へ実施された大規模な地番変更により、「不運な引っ越し」ではなく最初から第一文化村の旧・安食邸へ移転したことを、改めて規定しなおしていたはずだ。そして、当初の記事や関連する記事などへも、それが判明した時点で逐一註釈を追加していた。出典には、早稲田大学の図録Click!とは異なり、わたしのサイトの記載がないので、どのような資料を参考にされているのだろう?w
マップ記載.jpg
 また先日、ある方から“お怒り”の電話がかかり改めて気になったのだが、中村彝アトリエ記念館の保存事業にかかわった人々の紹介に、中村彝アトリエ保存会Click!のメンバーやボランティアなどのお名前がほとんど掲載されていないのは、いったいどういうわけなのだろう? 気がつけば、アトリエの保存活動にはまったく、あるいはほとんど関係のなかった人たちの名前が並んでいるのがちょっと異様に感じられるのだ。鈴木良三Click!会長のあとを継いだ中村彝会の梶山公平会長も病床から参加され(残念ながら活動途中で逝去)、2007年2月から2010年7月まで3年半にわたる地元・下落合の住民のみなさんや、彝とのゆかりが深い新潟・柏崎などを中心とした中村彝アトリエ保存会の地道な活動も、ずいぶん“安く”見られたものだ。
 1960年代後半に下落合で起ち上げられ、竹田助雄氏Click!を中心とするグループが延々と仕事や生活の時間を割いて展開した、御留山の「秘境」緑地保存活動Click!(おとめ山公園化)も無視同然だったが、こういうところから新宿区が地元の強い反感をかっていくのが、わからないのだろうか? それとも、保存会メンバーの中に「下落合みどりトラスト基金」Click!のメンバーと重なる人物、たとえばわたしや、他の人々が混じっていたせいだからなのだろうか?
 さて、「中村彝―下落合の画室―」展図録のコンテンツにもどろう。再び、早稲田大学の中川武教授が寄稿した「落合のアトリエ建築について」への疑問なのが心苦しい。同論文では、下落合に建っている(いた)各時代ごとのアトリエ建築についての比較検討が論じられている。佐伯祐三アトリエにも触れ、以下のような記述がなされている。同論文から、当該部分を引用してみよう。
  
 旧佐伯祐三アトリエ:佐伯自らの構想と施工によりつくられたと云われている。大正8年(一九一九)に、まず和館住居に住みながら、翌年アトリエが増築されている。画室は、急勾配の切妻屋根の妻壁一杯に開けられた窓と西側屋根面の天窓、そして南京下見板張りの外壁が特徴である。昭和60年(一九八五)に和館が取り壊され、洋館アトリエ棟が改修されていた。
  
 下落合661番地の佐伯邸母家が、1919年(大正8)に建てられたというのは、どのような根拠にもとづく記述なのだろうか? これでは、佐伯が池田米子Click!と結婚するかなり前から(というか知り合ったばかりのころから)、下落合へ早々に新居を建設していることになってしまうのだが…。朝日晃が厳密に検証して確認する以前(1980年前後まで)、親族たちの誤記憶(特に兄・祐正)や、佐伯米子の年齢サバ読みによって作成されていた、まちがいだらけの既存年譜の影響だろうか? 米子は佐伯祐三よりも10ヶ月ほど年上(学年では1年上)だが、「わたくし、祐三さんより1歳年下ですのよ」と周囲へ話してしまった関係から、年譜作成の際にどうしてもツジツマが合わなくなり、出来事を千子二運ならぬ1~2年遡上させて、ずいぶん長期にわたり佐伯年譜には大きな誤差が生じていた。(佐伯よりも2歳年上だとする説も、いまだ完全に否定されていなかったように思う) それを朝日晃がようやく指摘・修正できたのは、米子夫人が1972年(昭和47)に死去してのちのことだ。
中村彝アトリエ02.JPG 中村彝アトリエ03.JPG
中村彝アトリエ04.JPG 中村彝アトリエ05.JPG
 三重県立美術館に収蔵されている、1920年(大正9)12月(2日ないしは2X日)に佐伯が山田新一へあてたハガキClick!(朝日晃が山田新一から預かって保存し、のちに三重県立美術館へ寄贈している)には、3ヶ月前の同年9月に死去した父・佐伯祐哲の遺産相続と手に入れたおカネをベースにしているのだろう、結婚したばかりの米子夫人Click!と住む新居を建設するか、それとも兄・祐正Click!が強く奨めるフランス留学をしようか、かなり迷っている様子が記録されている。フランス行きを考慮し、渡航を予定している里見勝蔵Click!に通貨レートを訊いてくれないかとまで書いている。そして、翌年(1921年)に佐伯はパリへはいかずに自邸を建てることに決めたのだろう。佐伯邸は曾宮一念Click!が記憶しているように、曾宮アトリエが竣工したのと同年1921年(大正10)の後半、おそらく晩夏か秋に入ってから竣工していると思われるのだ。この間、同年3月には弟・佐伯祐明の病状が悪化し死去しているので、佐伯が下落合でスムーズに自邸を建設できているとは思えず、米子夫人を連れて大阪へもどっていた期間もあるはずだ。
 つまり、池田米子との結婚前であり、いまだ東京美術学校へ入学して間もない佐伯には、1919年(大正8)に下落合へ自邸を建設する理由も、また経済的な余裕もなかったはずだ。
 ただ、佐伯邸建設の年代規定はともかく、佐伯は母家を先行して建設し、そこへあらかじめ米子夫人や女中と住みながら、母家に接した北側へあとからアトリエを増築している可能性は否定できないと思う。建築中だったアトリエのカラーペインティングについて、下落合623番地の曾宮一念邸を訪ねている際、わたしは近衛町に建っていた下落合523番地の仮住まいと思われる借家Click!から、米子夫人とともに曾宮アトリエを訪れている…と想定したのだが、すでに住んでいた完成済みの母家、つまり下落合661番地の自邸(母家)から増築中のアトリエに関するペンキ塗りの参考にと、1921年(大正10)4月(ときに夏あるいは秋だったという曾宮証言も残っている)に、曾宮アトリエのカラーリングを見学しに訪れた可能性も否定できないからだ。
中村彝アトリエ06.JPG 佐伯祐三アトリエ採光窓.JPG
刑部人アトリエ.jpg 島津一郎アトリエ.JPG
 彝アトリエに展示されているマップは、できるだけ早く修正していただきたい最優先の課題だ。また、「中村彝」展の図録に第2刷が予定されていれば、こちらのマップも修正いただきたい。ただし、いつも新宿区がお世話になっている早大理工学術院の中川武教授の論文に関しては、区側からなかなかご指摘しづらいのであれば、この記事と、先の長崎アトリエ村の成立に関して、時系列が逆だと指摘させていただいた記事とを、「下落合の地元にうるさい人がいまして、ホントに困っているんですよ~、まったく」w…ということで使っていただいてもかまわない。現状のままでは、新宿区における文化事業の品質や信頼性を、問われかねない内容になっていると思われるからだ。

◆写真上:アトリエの照明も当時に近いものが設置され、細やかな復元コンセプトを感じる。
◆写真中上:アトリエ掲示と図録掲載のマップに、ぜひ加えてほしい画家の3人。
◆写真中下上左は、当初の大谷石による礎石が活かされたアトリエの基礎部。上右は、大正ガラスがそのまま活用された勝手口の窓。下左は、忠実に再現された壁龕(へきがん)。下右は、アトリエに置かれた家具・調度類もできるだけ当時に近い状態で復元されている。
◆写真下は、画室北面に設置された採光窓の比較で中村彝アトリエ()と佐伯祐三アトリエClick!()。は、刑部人アトリエClick!()と巨大な島津一郎アトリエClick!()の北面採光窓。

萩原稲子が下落合にやってくるまで。

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馬込バッケ階段.JPG
 萩原稲子(旧姓・上田稲子)が、大森のバッケ(崖地=八景)Click!に通う八景坂の途中、首くくり松の木陰で若い画学生の恋人とキスしていたのを、夫である萩原朔太郎に目撃されたのは、1928年(昭和3)ごろのことだった。・・・こういう書きだしではじめると、萩原稲子は夫・朔太郎に離婚されてあたりまえの、ふしだらな浮気女のように感じるのだが、実情はそれほど単純ではなく、まったく異なっていた。萩原朔太郎は、妻が自分以外の男とダンスをし、恋愛関係になるのを眺めることに一種の快感をおぼえる、変態的で奇妙な性癖をしていたのだ。
 上田稲子(のち萩原稲子)は、旧・金沢藩の家臣の家柄に生まれ、屋敷は旧・加賀藩上屋敷(そのほとんどが現・東京大学)の敷地内にあった。1918年(大正7)5月に萩原朔太郎と結婚するが、萩原家の姑(萩原ケイ)と結託した朔太郎の妹たちから徹底的に攻撃され、正式な結婚なのにもかかわらず「妻とはいっさい認めない」と一貫して疎外され、家族から排斥されるような扱いを受けている。妻が攻撃され、萩原家から追い出されかねない扱いを受けていることに対し、かんじんの朔太郎はまったくの無関心で、稲子を守ろうとも家族との間をとりなそうともしなかった。家庭内の紛糾を、朔太郎は一貫して無視するか逃げまわり、見て見ぬふりをしていた。
 この萩原家の母親と娘たちが一致団結し、長男・朔太郎を「独占」しつつ、妻の座にいる女性を徹底的にいじめ抜くという性癖は、その後も朔太郎の2番目の妻・美津子にもまったく同様に繰り返され、彼女は物理的に萩原家から締めだされ、たたき出されている。再婚した美津子の窮状にも、朔太郎はなんら注意を向けず、また解決策をこうじようともせず家を出た妻のもとに通うだけで、まったくの無関心を決めこんでいた。姑と小姑たちに繰り返し現れる、朔太郎の妻に対する病的な攻撃性は、今日の精神分析学的な視座から見れば、なんらかの「病名」がつくのだろう。この間、家庭の修羅をよそに萩原朔太郎自身は、よそに妾を囲っているというありさまだった。
馬込西洋館.JPG 萩原朔太郎.jpg
 1927年(昭和2)ごろから、大森駅近くの馬込には文学関係者が多く集まりだし、のちにいわゆる「馬込文士村」と呼ばれる住宅街が形成されている。翌1928年(昭和3)11月には、室生犀星も馬込に転居し、北原白秋と萩原朔太郎とともに三大詩人が集合していた。そこではモダンな生活が営まれ、夜ごとにダンスパ―ティが開かれるなど、昭和初期における最先端の文化街のひとつとなっていた。馬込でも、朔太郎はまったく妻を顧みず相手にもしなかったようだ。では、なぜ結婚したのか?・・・と思うのだが、そこが朔太郎のおかしな性格だとしかいいようがない
 夫の奨めでダンスパーティへ出席するようになった稲子は、馬込では宇野千代Click!に次いで髪を思いきって断髪にしたモダンな女性だった。次に断髪にしたのが、川端秀子(川端康成の妻)だった。そして、稲子がよその男に抱かれながらダンスをし、親しげに囁き交わしているのをジッと見つめながら嫉妬心を燃やすのが、朔太郎にはこの上ない快感だったようだ。ある酔った青年が、稲子夫人にキスしてもいいかと訊きにきたとき、朔太郎は「えーえ。かまへませんよ。もう一つ先きのことを為さつたつてかまひませんよ」と答えている。
 夫から無視されつづけ相手にされない妻の稲子に、ダンスパーティやサロンを通じて若い恋人ができるのは時間の問題だった。また、朔太郎もどこかでそれを望んでいた。八景坂でキスをしていたのを朔太郎に目撃された若い男は、宇野千代から紹介されたまだ18歳の画学生だった。朔太郎は稲子に恋人ができると、馬込の“文学サロン”における人間関係の緊張感と、わくわくするような嫉妬心に喜びを感じていたらしい。また、稲子はもともとが乃手Click!の武家でお嬢様育ちのため、わがままな性格で気が強い一面があったようだ。その後、稲子は朔太郎に見切りをつけ、娘ふたりを残したまま若い画学生と駆け落ちしてしまう。文士たちの間に起きた、さまざまなウワサを流すネットワークのことを、当時は「馬込放送局」と呼んでいたらしいが、宇野千代と萩原稲子のふたりは、「馬込放送局」には願ってもない、かっこうのゴシップ・ヒロインだったろう。
萩原稲子(上田稲子).jpg 萩原稲子1929.jpg
寺斉橋1932.jpg
 こんなふたりが、そのまま夫婦生活をつづけられるはずがなく、結局、1929年(昭和4)7月に離婚している。離婚直後の稲子の言葉を、2010年に出版された川西正明『新・日本文壇史』(岩波書店)の「室生犀星と萩原朔太郎」から、川西の要約文として引用してみよう。
  
 結婚して十一年たち、九歳と七歳の娘がいる。その夫婦の関係がなぜ崩れたかと言えば、お互いに救いようのない性格の不一致からである。もっと解りやすく言えば、我儘の衝突であった。萩原は、結婚生活に無頓着であった。私は当初から一つの融合出来ぬ冷たさを感じていた。その冷たさは萩原の根本的な性格であった。私は我儘で負けず嫌いな性格である。人と妥協することは苦手であった。好きなら好きと遠慮なく言うが、厭になったらそれきりもう何もかも厭になる性格の女である。/結婚当初から互いの自由を尊重する契約を交わした。当然ながら自我の衝突がおこった。萩原は子供が病床に苦しんでいても、飲みに行くことを止めなかった。私はそういう萩原の行為を拒んだ。二人は口論になり、別れ話がもち上がった。こうしたことが線香花火のように火花を散らしては消えていく毎日だった。
  
 1932年(昭和7)に上田(萩原)稲子は「落合文士村」というよりは、画家など美術家のアトリエのほうが圧倒的に多いので、「落合芸術村」とでも総称すべきエリアへとやってきた。そして、年下の駆け落ちした画学生をカウンターに入れ、下落合3丁目1909番地の寺斉橋Click!北詰めに「ワゴン」を開店している。三富と呼ばれる画学生は、神楽坂で逸見猶吉が経営していたバーのバーテンダーをしていたことがあり、その経験を活かした起業だったのだろう。「ワゴン」のショルダーは喫茶店または珈琲店となっているが、酒も当然置いているカフェバーのような店だった。1937年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!には、開店して間もない「ワゴン」が偶然写真に撮られている。
ワゴン1932.jpg 喫茶店ワゴン跡.jpg
 「ワゴン」には、近所の檀一雄Click!林芙美子Click!太宰治Click!尾崎一雄Click!武田麟太郎Click!、古谷綱武をはじめ、神楽坂のバーで三富といっしょだった逸見猶吉、宍戸義一、石川善助、伊藤整、百田宗治などが通ってきている。ウィスキーのストレートが1杯10銭だったので、カネのない文士たちは稲子ママの顔を眺めながら、チビリチビリやる居心地のいい店だったのだろう。

◆写真上:馬込の崖地に通うバッケ階段で、擁壁には文士たちのレリーフが嵌めこまれている。
◆写真中上は、馬込に残る昭和初期の西洋館。は、妙な趣味をしていた萩原朔太郎。
◆写真中下上左は、馬込時代と思われる萩原稲子。上右は、1929年(昭和4)に喫茶店「ワゴン」で撮影された上田稲子(萩原稲子)。は、「ワゴン珈琲店」の看板が見える寺斉橋北詰め。橋のたもとに座るお父つぁんは、稲子ママのいる「ワゴン」が開店するのを待っているお客だろうか。
◆写真下は、『落合町誌』編纂時に偶然撮影された下落合3丁目1909番地の中井駅前に開店した喫茶店「ワゴン」。は、寺斉橋の北詰めにあった喫茶店「ワゴン」跡の現状。

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