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落合大根の沢庵漬けの作り方。

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落合大根1.JPG
 江戸東京には、江戸期に品川の東海寺にいた沢庵和尚が発明した漬け物だから、「沢庵漬け」と呼ばれている…というエピソードが根強く残っている。でも、沢庵が徳川家光に供したとされる漬け物=今日の「沢庵漬け」は、当然のことながら沢庵が生まれる以前からこの世に存在していた。この大根の漬け物に対する命名は、たまたま沢庵和尚のエピソードにからめ、あと追いで江戸期に付けられた名称にすぎないと思われる。
 落合地域とその周辺では、昭和初期あたりまで大根の栽培Click!が盛んに行われていたが、野菜が少なくなる冬場、あるいは凶作に備えて作られる漬け物のことを、古来より「たくわえ漬け」と呼称していた。この呼び名は、おそらく沢庵和尚が出現する以前から存在していたと思われ、「蓄え」という音へのちに「沢庵」とかぶせてしまったのが実情ではないだろうか。あるいは、家光はそれが「たくわえ漬け」だというのを重々承知のうえで、音が似ている和尚の名前と重ね大塚商会レベルの駄ジャレを飛ばしたつもりで、「沢庵漬け」と呼びはじめたのかもしれない。塩と米糠で漬ける「蓄え漬け」は、おそらく室町期から存在していたと思われる。
 近代の落合地域で栽培されたいわゆる“落合大根”は、宮重種と練馬種がほとんどだが、畑地での収穫が終わると目白崖線沿いのあちこちにあった湧水池=洗い場Click!で泥を落とされ、雑司ヶ谷道Click!を通じて江戸川橋や神田にあった青物市場へ出荷されるか、沢庵漬けの材料として加工場へ運ばれて干された。落合地域で沢庵漬けの生産がもっとも盛んだったのは大正期で、製品は国内ばかりでなく、米国のハワイまで輸出されていた記録が残っている。
 さて、当時の沢庵漬けの製造工程をみてみよう。落合地域など、江戸近郊で使われていた方言=江戸東京弁の一部が混じるが、そのままの形でご紹介しよう。まず、いい大根を作るには「ジダケ(地丈)」が必要で、関東ローム層まで達する間には厚い黒土層が必要だった。根菜類は、地下へ向かってまっすぐ垂直に伸びるため、浅い黒土の耕作では出来が悪い。7月のお盆前後から畑を「ウナイ(深く耕す)」して、「ナワズリ(縄ずり)」を行ない種子を定間隔で直線状にまいていく。芽が出た葉のうち、いちばん元気がいい苗を残して、あとはすべて引っこ抜いて棄ててしまう。
落合大根2.JPG 佐伯祐三スケッチ「農婦」.jpg
 やがて、11月の中旬には収穫期を迎え「コギ(引き抜き)」が行なわれる。獲れた大根は、洗い場へ運ばれて泥を落とすのだが、近くに湧水池がなかった上落合などでは、「大盤(おおばん)」と呼ばれる大きなタライ桶を畑に置き、川から水を「ニナイ(水桶)」で運んで貯めておく。大盤は3つあり、一番盤は土落とし、二番盤は鮫皮か藤屑で表面の汚れ落とし、三番盤では再びよく洗ってから「アミ(干し縄)」方へ運んでいく。「アミ」とは、大根を干すために編んだ縄のことで、これに大根を挿しては「レン(連)」にして吊るし、よく乾燥させてから夕方に取りこむ。
 夜は、水分の多い大根が凍結してしまうといけないので、地面に藁(わら)か蓆(むしろ)を敷き、取りこんだ大根を積み上げ、その上から再び藁や蓆をかけて、最後に藁で作った「サンダラボッチ」と呼ばれる大きな覆いをかける。翌朝になると、再び丸太に連を吊るして大根を乾燥させ、夕方になると取りこんで「サンダラボッチ」をかけておく。この作業を連日、10日~20日間ぐらいつづけると、大根は乾燥でクタクタになる。これが、沢庵漬けの原料の状態だ。
 通常は、米糠7割に対して塩3割を混ぜ、四斗樽へ乾燥した大根を次々と漬けていく。より長期間の保存をするためには、米糠5割に塩5割、あるいは特別に超長期間の保存食として米糠3割に塩7割という、非常にしょっぱい沢庵漬けもあったらしい。四斗樽は押蓋でふさがれ、その上から「バンギ(番木)」と呼ばれる角材を2本置き、その上に板を敷いて大きな漬け物石(50kg~70kg)を載せる。このような作業は昭和初期まで、落合地域やその周辺域の農家で一般的につづけられていた。
下落合の畑.jpg
 下落合4丁目2107番地に住んだ作家・船山馨Click!は、毎年、自宅で漬け物を作るのが楽しみだったようで、冬になると軒下に大根を吊るして干していた。それを見ていた婦人客から、「大根を腐らせて、もったいないことを…」と、とがめられたエピソードが残っている。船山は沢庵漬けではなく、北海道の鰊漬けを作っていたのだが、かなり心外に感じて印象に残ったものか、1978年(昭和53)に構想社から出版された『みみずく散歩』でこう書いている。
  
 この秋、私は一念発起して鰊漬けを四斗樽に二本試作した。/ちょうど大根を荒縄で編んで乾かしているところへ、来あわせた婦人客が「まあ、もったいない」と咎めるような嘆声を発したのには面喰らった。漬物などズブの素人の私が貴重な大根を無駄にしている、という意味かと思ったが、そうではなかった。「せっかくのお大根を、どうして腐らせるんですの」と婦人が言ったからである。/私はその都会育ちの御婦人に、やおら鰊漬けの漬け方を講釈し、北海道流の漬物がいかに珍味であるかを自慢し、正月には樽をひらいて、まずあなたに賞味していただく。その時、あなたの漬物の概念に革命が起きるでありましょう、などと言った。
  
沢庵漬け.jpg 四斗樽(明治期).jpg
 いかにも、乃手Click!らしいエピソードなのだが、戦後になると沢庵漬けは作るものでなく買うものであり、江戸東京でも有数の大根と沢庵漬けの名産地だった落合地域にさえ、その作り方を知らない女性が出現していたようだ。もっとも、わたしも一度として沢庵漬けを自宅で作ったことはないけれど、それが大根を干して乾燥させることからはじめるぐらいは、なんとか承知している。

◆写真上:下落合の近くの畑地では、いまでも“落合大根”が栽培されているが、少量生産なのでもっぱら自宅消費用に作られている。おそらく、都心・新宿に残る最後の大根畑だろう。
◆写真中上は、次々と畑から収穫され最後に残った落合大根。は、佐伯祐三のスケッチ「農婦」。キセルで一服する農婦が描かれているが、川端で大根を洗い終えたところだろうか?
◆写真中下:下落合に残るSさんの畑には、四季折々の花々が植えられていて楽しい。
◆写真下は、東京ではお馴染みの沢庵漬け。は、明治期に造られたとみられる四斗樽。


息子が創った「竹中英太郎伝説」。

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竹中英太郎「赤のディートリッヒ」1974.jpg
 以前、下落合2191~2194番地あたりの「熊本村」(熊本人村)に住んでいた、画家の竹中英太郎Click!についてご紹介Click!したことがあった。この記事は、九州で警察署の給仕や鉄工所、炭鉱などで働きながらサンディカリズム的な左翼運動をしていた英太郎が、1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!の際、憲兵隊による大杉栄・伊藤野枝夫妻の虐殺に憤激し、東京は下落合に住んでいた編集者でのちに作家となる小山勝清宅に転がりこむ劇的なシーンからはじまっていた。大杉たちを殺した権力へ報復するために、要人暗殺を決意し「白鞘の短刀を懐に呑んで」、1923年12月に東京へとやってきたことになっている。
 当時の五ノ坂上に形成されていた「熊本村」(熊本人村)には、上記の小山勝清のほかに橋本憲三や高群逸枝Click!夫妻、平凡社の下中家三郎、映画脚本家になる美濃部長行など、九州の出身者が多く暮らしていた。このあたりの様子は、ナカムラさんClick!のサイトが詳細に調べて記述されているので、ぜひそちらをご参照いただきたい。わたしが当時の記事に引用した、備仲臣道の『美は乱調にあり、生は無頼にあり~幻の画家・竹中英太郎の生涯』(批評社)から再び掲載しよう。
  
 そこへ要人暗殺を企てた英太郎が、牛原のつてで小山を頼ってゆき、暗殺失敗後もそのまま居着くことになって、小山の世話で彼の家とは畑をへだてた隣りに一軒を借りた。(中略)/下落合の熊本出身者の世界では、誰かが家を借りると、たちまち一人か二人の文学青年やアナーキストが居候に入り込む。それが、ごく普通のことになっていたから、仲間内の者は、ひもじい思いはしながらも、なんとか命をつないでいくことができた。
  
 その後、竹中英太郎が東京へと出てきたのは、おそらく政府要人に対するテロルを実行するためではないことが、さまざまな検証や遺族への調査を通じて明らかになりつつある。上記の記述は、まったくの創作だった可能性が高いのだ。それは、備仲臣道が空想して描いたのではなく、竹中英太郎の息子・労(つとむ)が父親の伝記を劇的に盛りあげるため、随所で思うぞんぶんに脚色してしまったことによるらしい。竹中労は、父・竹中英太郎の生涯について著作のあちこちに記述しているけれど、それらは事実の記録としての英太郎像ではなく、労が妄想し創作した「竹中英太郎伝説」だったようだ。備仲臣道は、竹中労が表現した「竹中英太郎伝説」を、近しい肉親である息子自身の証言であるがゆえ、そのまま忠実にトレースして書いているにすぎない。
記念写真1930.jpg 江戸川乱歩「陰獣」1928.jpg
夢野久作「支那米の袋」1929.jpg 横溝正史「鬼火」1935.jpg
 竹中英太郎は、熊本から経済学と絵画を学びに東京へ出てきたようだ。そのときの状況を、鈴木義明『夢を吐く絵師・竹中英太郎』(弦書房)からの孫引きで、1988年(昭和63)に発行された『太陽』(平凡社)の竹中英太郎本人へのインタビューから、少し長いが引用してみよう。ちなみに、英太郎は同年の4月8日に新宿駅東口で倒れ、虚血性心不全のため82歳で急死している。
  
 (オルグのため)全九州から選ばれた人間が炭鉱へもぐったことがありまして。筑豊二五万の労働者が結束すれば、革命は一夜にしてなるという妄想ですよ。ところがね、世の中そんなものじゃない。だいいち炭鉱の労働ってとても言語に絶するものでして、真っ暗闇でしょ、太陽のありがたさがしみじみわかるんです。ほっと見上げる空にお日様があることがね、どのくらい救いだったことか。一日働いたら四日くらい動けませんでしたよ。それでも私は半年近く頑張りましたが、仲間は一人去り、二人去り、病気になりということで、一夜にして革命どころの騒ぎじゃない。惨憺たる敗北を喫したんです。/仲間の豹変ぶりを見るうちに、これは生半可な勉強じゃだめだ、東京に出て本式の勉強をしなきゃいかんと思って上京したんです。大正十三年、十七歳でした。 (中略)/私はね、経済学を勉強しようと思っていたんですよ。ロシア革命が起こったのが十一、二の頃、それから数年、世界的なすごい影響下にあったわけですね。もう三年たてば世の中は変わるんだ。誰をどうしなくても貧乏人が圧倒的多数になって世の中は変わるんだと、少しものの本を読んだりする連中は、皆、そう思いたくなるような時代でしたよ。 (カッコ内は引用者註)
  
 竹中英太郎が東京へと出てきたのは、関東大震災と同年(1923年)の12月ではなく、翌1924年(大正13)の17歳になってからのことだった。それは、同年4月に熊本で「熊本無産者同盟」の結成に参画し、5月のメーデーを組織していることからも、英太郎がいまだ熊本にいたことが裏づけられている。また、英太郎は炭鉱の労働現場に入り、実際に過酷な坑内労働を半年ほど経験している。彼が東京へ出る決意をするのは、1924年(大正13)の秋になってからのことだ。
竹中英太郎「桜散る女」1975.jpg
竹中英太郎「失われた海への挽歌」1975.jpg
 竹中英太郎が通った画学校は、下落合に住んだ多くの洋画家たちも通った学校としてお馴染みの、小石川区下富坂町にあった川端画学校だ。当時の川端画学校は、すでに東京美術学校を受験するための“予備校”のような存在になっており、佐伯祐三Click!山田新一Click!も同校へ通学している。英太郎も、あるいはどこかで美校を意識していたのかもしれない。
 また、竹中英太郎は絵の勉強と並行して、第一外国語学校英文科へも入学している。仏文科ではなく英文科なのを見ると、こちらは絵画の勉強とは切り離した別の目的のために通学しているような感じを受ける。和訳本ではなく、経済学の書籍を原書で勉強したかったのではないだろうか? 特に1924年(大正13)当時、マルクスの『経済学批判』Click!(通称『資本論』)は一部の翻訳しかなされておらず、第1巻の抄訳が1919年(大正8)に出版されたばかりだった。しかも、ドイツ語版の原本からではなく英語版からの翻訳だったように思う。
 でも、英太郎には経済学をじっくり勉強している余裕が、少しずつなくなっていく。彼が描く小説の挿画が徐々に注目されはじめ、編集長・横溝正史の抜擢で『新青年』(博文館)に掲載された江戸川乱歩の『陰獣』の挿画を担当すると、その人気へ一気に火が点いた。もはや、学費を稼ぐためにはじめた挿画のアルバイトが、家族を養うための本業になっていった。
 こうして、竹中英太郎は挿画家への道を歩みはじめ、江戸川乱歩をはじめ甲賀三郎、木下宇侘児、夢野久作Click!、横溝正史、内田百閒Click!三角寛Click!三上於菟吉Click!、海野十三などの作品に引っぱりだことなった。1936年(昭和11)に二二六事件Click!が起きると、陸軍青年将校たちのグループ「桜会」に関係していたことから逮捕・拘留されている。ほどなく釈放されると、英太郎は国内の制作活動をいっさいやめて、朝鮮半島から満州へと旅立っていった。竹中労は、英太郎が満州で大陸浪人をして「大活躍」したように描いているが、これも事実からかなり乖離しているようだ。
竹中英太郎「熟れた果実」1979.jpg
竹中英太郎「少女像a」1979.jpg 竹中英太郎1960.jpg
 戦後、竹中英太郎は山梨県を中心に少年時代と同様、一貫して労働運動にたずさわり、日本新聞労連の中央執行委員会副委員長までつとめている。英太郎がもう一度、本格的に絵筆をとるようになるのは1967年(昭和42)、61歳になってからのことだ。竹中労がプロデュースしていた、京都府制100周年の記念映画『祇園祭』のための作品だが、労がプロデュースを下りたために未発表となった。その後、英太郎は再び絵筆をとりはじめ、新たな作品を生みだしていく。来日したマレーネ・ディートリッヒのために、帝国ホテルのスイートルームへ彼女をモチーフにした作品を3点提供したり、五木寛之のベストセラー小説『戒厳令の夜』の映画化で作品を描いたりと、挿画ではなく本格的なタブロー画家として活躍しはじめるのだが、それはまた、別の物語…。

◆写真上:1974年(昭和49)にマレーネ・ディ―トリッヒの来日時、帝国ホテルの宿舎に架けられていた竹中英太郎『赤のディートリッヒ』。『黒のディートリッヒ』は、彼女が気に入って持ち帰ったらしい。のちに英太郎は、「3枚ともプレゼントしたのに、欲のない婆さんだ」と述懐している。
◆写真中上上左は、1930年(昭和5)に撮影された竹中英太郎(右から2人目)。左端には、下落合2111番地に住んだ林唯一Click!が見える。上右は、1928年(昭和3)の江戸川乱歩『陰獣』の挿画。は、夢野久作『支那米の袋』(1929年/)と横溝正史『鬼火』(1935年/)の挿画。
◆写真中下は、1975年(昭和50)にレコードジャケットとして描かれた竹中英太郎『桜散る女』。は、同年にレコードジャケット用に制作された竹中英太郎『失われた海への挽歌』。
◆写真下は、映画「戒厳令の夜」の“絵画作品”として1979年(昭和54)に描かれた竹中英太郎『熟れた果実』。下左は、同映画のため同年に制作された竹中英太郎『少女a』。下右は、1960年(昭和35)に甲府で撮影されたと思われる竹中英太郎。

巡査も見て見ぬふりの闘鶏賭博。

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 わたしは競輪や競馬、競艇、パチンコ、スロットなどのギャンブル類はほとんどまったくやらない。競馬はときどきTVで見るけれど、アラブやサラブが全力疾走するのを無性に見たくなるからで、馬は賭けるよりも実際にかわいがったり、乗って走りまわるClick!ほうが好きだ。でも、昔から唯一好きなゲームがある。高校時代からやめられない麻雀だ。
 わたしの両親は、ギャンブルと名のつくものがすべて大キライだった。わたしが高校時代に、家庭麻雀をやろうといったら「とんでもない!」と、ひどく怒られた。まあ、親父は超マジメかつ謹厳実直な公務員だったので、賭けごとにつながるようなゲームには強い嫌悪感を感じていたのだろう。神奈川県内の建設・土木・施設群の設計を担当するという仕事がら、梅雨どきや暮れになるとゼネコンから中元や歳暮が次々と送られてくるのだが、それを玄関先ですべて例外なく突っ返していたのを憶えている。ときに配達した郵便局員が怒ってしまい、「返送するなら、改めて郵便局から発送してほしい」と、玄関先で親父やお袋とケンカになることさえあった。酒を1滴も飲めない親父には、もちろん接待などきかなかったので、建設会社は盆暮れの贈答に注力したものだろうか。
 ことほどさような家庭環境だったので、わたしが麻雀を習ったのは高校のクラス担任からだった。学校の勉強は、授業以外にはほとんどしなかったが、担任の教師からは自宅にまで遊びにいって麻雀を教えてもらった。学生時代も、友人たちとけっこう徹夜でゲームをやったものだが、結婚してからは毎週のように、麻雀大会がわが家で開かれることになった。連れ合いの親父さんが大の麻雀好きで、ほとんど下落合のわたしの家へ義母とともに入りびたりになったからだ。
 義父Click!と下落合との濃いつながりもあったせいか、この地域が懐かしかったのだろう。東京大空襲Click!の負傷者を、第1師団のトラックで下町から国際聖母病院Click!へピストン輸送をしたときから、義父と下落合のつながりは戦後もしばらくつづいていたようだ。義父は、二二六事件Click!の直後に第1師団の麻布1連隊に徴兵されて出征しているが、当時の自宅も麻布(現・六本木)にあった。「六本木のキン坊といやぁ、当時は界隈でちったぁ知られたもんよ」と、肩をそびやかしてイキがっていたけれど、確かに麻雀はめっぽう強かった。わたしは、3回に一度ぐらいしか勝てなかったように思う。ちなみに、親父と義父とは性格が正反対の水と油で、見ているとおかしかった。どっちが山手人(麻布)だか下町人(日本橋)だか、傍からは皆目わからない摩訶不思議なふたりだった。
近郊農家01.JPG 近郊農家02.JPG
近郊農家03.JPG 近郊農家04.JPG
 さて、落合地域でも賭けごとはけっこう盛んだった。といっても、大正期以前のことだ。地付きの方々に取材していると、「闘鶏」の話がどこかで出てくることが多い。大正期の落合地域には、関東大震災Click!が起きるまで、江戸期からの農家がいまだあちこちに散在していた。そこではニワトリClick!が飼育され、新鮮な鶏卵が東京市街地へ出荷されていた。余裕のある農家では養鶏場を建て、大規模な鶏卵生産の事業にも乗りだしていたらしい。佐伯祐三Click!アトリエClick!南東側にも、のちにハーフティンバーのオシャレな中島邸(早川邸)Click!となる敷地に、小規模な養鶏場Click!が開設されていた。この養鶏場は、少なくとも大正末までつづいている。いまでも、聖母坂には農協の全国鶏卵センター(現・JA全農たまご)が残っているけれど、昔からの名残りなのだろう。
 付近の農家で飼われていたのは、産卵を目的としたニワトリだけではなかった。軍鶏(シャモ)と呼ばれる、闘鶏用のニワトリも数多く飼育されていた。そして、落合地域では定期的に闘鶏大会が開催され、そこでは少なからぬ金額の賭博が行なわれていた。大阪の河内地域を舞台にした、今東光の小説などにも闘鶏の描写がしばしば出てくるけれど、闘鶏は江戸期から農村で行われていた全国的な娯楽のひとつだったと思われる。農家では、シャモは特別ないいエサを与えられ、少しでも体形が大きくて強くなるよう、闘鶏に備えて大事にだいじに育てられた。
 もちろん、大正時代だろうと現代だろうと闘鶏賭博は明らかな違法行為で、賭博の現場を見つかれば関係者は即全員が現行犯逮捕される・・・はずなのだが、農村の数少ない昔ながらの娯楽のひとつということで、地域を巡回する警察官の目をあまり惹かないよう地味で目立たなく開催すれば、なんとか大目に見てくれたようだ。中には、取り締まるはずの地元交番の警察官がこっそり賭けに参加していたケースもあったようで、警察でもあまり厳密に追及・取り締まりをすると逆にヤブヘビとなり、内部の不祥事が露見しかねないので、あらかた見て見ぬふりが多かったものだろうか。
伊藤若冲「大鶏雌雄図」1759.jpg 伊藤若冲「南天雄鶏図」1761.jpg
 シャモには、ふつうのニワトリとはまったく異なり小麦や糠、野菜類のほか小魚の粉末、焼いたウナギの頭、生卵の黄身などがエサとして特別に与えられた。ヒナたちが育っていく過程で、力強く体形も大きなシャモが選ばれ、数羽が闘鶏用として飼育されることになる。そして、シャモがもっとも元気になる秋口になると、あちこちの農家から“ケンカ場”と呼ばれる闘鶏場へ、手塩にかけて育てた1羽を抱きながら三々五々集まってくる。ケンカ場には、蓆(むしろ)を周囲にめぐらした“土俵”が造られており、シャモたちはその中で死闘を繰り広げることになる。ケンカをする前のシャモには、飼い主が口に含んだ水を噴きかけて“気合い”を入れたそうだ。
 シャモのオスは、本来が戦闘的な性格なので土俵の中に相手を確認すると、すぐにも蹴り合いやつつき合い、羽打ち合いのケンカをはじめる。シャモは、相手の鶏冠(とさか)や頬、首筋をねらって足の爪で蹴ったり、くちばしでつついたりするので、双方がいつまでも戦意喪失しないとお互い血だらけになって、しまいには死ぬほど弱ってしまうらしい。また、自分よりも強い相手だと認識したシャモは、土俵の中を逃げまわるか片隅にうずくまってしまうので、すぐに勝負はついたようだ。そのような弱いシャモは、さっそく晩の鶏鍋にされてしまっただろう。一方、勝ったシャモはていねいに治療され次の闘鶏に備えるか、次世代の種軍鶏として生かされた。
 観客はシャモたちの死闘を見ながら興奮し、どちらが勝つかカネを賭け合うのだけれど、巡査に見つかると面倒なことにもなりかねないので、ケンカ場は畑の物置き裏や納屋の陰など目立たないところへ設置された。そして、開催日や闘鶏場所などのスケジュールは、仲間内の口づてでそのつどコッソリと連絡が取られていた。シャモを着物の前に入れ、胸元からチョコンと首だけ出して持ち運ぶのも全国共通のようで、巡査に見とがめられるのを避けるためのスタイルなのだろう。
養鶏場1925.jpg 下落合658養鶏場跡.jpg
 シャモを使った闘鶏は、もちろん男の賭博だが、女性だけの博打(ばくち)も昔の近郊農村では盛んだった。といっても、若くて働き盛りの女性は参加権がなかったらしく、歳をとって余裕ができたお婆さんたちが主体だったようだ。寄り合い(という名の賭場なのだが)に集まった人数よりも、1本だけ多い紐(ひも)の束をこしらえる。そして、その中に1本だけ当たりの印をつけた紐を混ぜ、参加者が選んだ紐にそれぞれカネを賭ける・・・という単純な博打だ。この博打には、胴元役をこなすお婆さんが必要だが、有力者の妻や地付きの女性が引き受けていたらしい。

◆写真上:現在でも聖母坂には、全国農業協同組合連合会(JA)の全農たまご(株)がある。
◆写真中上:東京近郊にいまでも残る農家や、大きな庄屋(名主)屋敷の長屋門(下右)。
◆写真中下:ともに伊藤若冲の『動植綵絵』シリーズ作品で、軍鶏(シャモ)を描いた1959年(宝暦9)制作の「大鶏雌雄図」()と1761年(宝暦11年)制作の「南天雄鶏図」()。
◆写真下は、1925年(大正14)に作成された「下落合及長崎一部案内図」(出前地図/中央版)Click!にみる佐伯アトリエの南西側にあった養鶏場。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる佐伯邸周辺で、養鶏場跡に建っていた中島邸(のち早崎邸)の大きな西洋館が空襲で焼けている。

『雑記帳』の休刊後にきた時代。

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 松本竣介・禎子夫妻Click!が、下落合4丁目2096番地の綜合工房(松本竣介アトリエClick!)で編集・出版していたエッセイ誌『雑記帳』Click!は、その執筆陣をみると当時の美術・工芸・文学・建築…etc.、すべての芸術分野をカバーしていることがわかる。だから「綜合」と銘打っているのだが、執筆者の居住地をみると面白い傾向が見えてくる。やはり当時、落合地域あるいはその周辺域に居住していた人々、あるいは勤務地が近い人々が多いのに気づく。
 洋画家・松本竣介Click!(当時は佐藤俊介)は、子どものころに罹った流行性脳脊髄膜炎がもとで聴覚を失っているので、原稿は手紙で依頼するとしても、執筆者宅へ実際に原稿を受け取りにいったり、広告取りなど実務をこなすのは、もっぱら禎子夫人の役割りだったろう。自由学園を卒業すると、羽仁もと子が主宰する『婦人之友』の編集部で働いていた禎子夫人には、この仕事がそれほどむずかしいことではなかったかもしれない。
 でも、『雑記帳』は月刊誌なので、並たいていの忙しさではなかったにちがいない。1936年(昭和11)10月にスタートした『雑記帳』は、1冊の定価が30銭、6ヶ月の定期購読で1円80銭(送料込み)、1年間の定期購読だと3円50銭(同)という値段がつけられていたが、それでも「高い、もう少し安くならないか」というクレームが編集部へ寄せられていたらしい。でも、出版事業の財政は大赤字で、毎号発行を重ねるごとに赤字額が徐々にふくらんでいったようだ。『雑記帳』は、1937年(昭和12)12月号をもって、通巻14号で休刊してしまう。
  余談だけれど、わたしも大学を卒業してしばらくすると、月刊でミニコミ誌を発行していたことがある。『雑記帳』に比べたら、ページ数も少なく印刷もお粗末なものなのだが、芸術や社会分野を中心に、さまざまな執筆者に依頼して原稿をご好意で寄せてもらった。足かけ3年ほど通巻19号までつづいたけれど、原稿料が払えない代わりに毎号欠かさず執筆してもしなくても、読者(兼執筆者)へ配達する…という約束で成立していた。広告は掲載せず、定価はなしの無料配布だった。いまでは文芸評論家、作家、歌人、映像プロデューサー、デザイナー、政治家…と各分野で活躍する人たちが原稿を寄せてくれているが、勤めの仕事との両立だったので、とても執筆者宅をまわるわけにはいかず、原稿はFAXか郵便で送ってもらっていた。現在なら、テキストも画像もメール添付で、もっとスピーディかつ効率的にできただろう。
 メールはおろか、FAXさえ存在しない昭和初期の『雑記帳』時代は、企画にはじまり台割り(ページ構成)、原稿受け取りや広告取り、誌面レイアウト、挿画の手配や制作、印刷所との打ち合わせ、ゲラ刷りの校正、そして配送業務と、毎日が目のまわるような忙しさだったにちがいない。日々、本業の仕事を抱えていたとはいえ、『雑記帳』の半分以下のページボリュームでさえ、わたしは目のまわるような思いをしたものだ。松本竣介も、展覧会への作品出展など画業を抱えての出版事業だったので、おそらく禎子夫人の役割りがことさら大きかったと思われる。
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 1937年(昭和12)の暮れに発行された、『雑記帳』12月号(通巻14号=最終号)では、本号で永久に休刊してしまう雰囲気はまったく感じられない。初期の号に比べ、ページ数も格段に増加しているし執筆者も増えつづけ、海外の翻訳短編小説も2編掲載されるなど、変わらない充実ぶりをみせている。表紙にはモディリアニの素描が採用され、巻頭の扉やコンテンツには三岸節子やドガ、福澤一郎、鳥海青児、松本俊介(竣介)などの挿画が並んでいる。『雑記帳』編集部では、相変わらず維持会員を募集しつづけており、本号以降も発刊がつづくことを示唆している。維持会員募集の呼びかけを、同誌最終号の巻末の通巻総目次および奥付のページから引用してみよう。
  
 新しい知性の生育のためには、友人の大きな協力が是非必要だ。われわれの新しい時代をつくるために。新年を控へて、志を同じくする人々に広く紙面を開放する準備も出来てゐる。われわれは、ひたすら新しい希望のもとに批判精神の向上に専念する。読者は一人でもいい新しい仲間を作ることによつてこの仕事に協力してくれないだらうか。協力を切望する次第です。
 (奥付呼びかけ文)
 新しき知性・生育のために「雑記帳」発展への御協力を乞ふ!/「雑記帳」維持会員募集
  略 規
 ☆雑記帳維持会員は、毎月会費1円を綜合工房宛御送付くださること。
 ☆維持会員には雑記帳の外、誌上掲載の素描を上質紙に別刷額面用として毎月一葉宛各会員に御送付申上げます。(但し頒布の画は全巻を通し御希望のものを差上げますが特に御指定無き場合は当方にお任せ下さい。)
 ☆維持会員になつて下さる方は月末迄に金一円振替又は小為替にて綜合工房宛御振込下さい。それによつて維持会加入と看做します。
                        東京市淀橋区下落合四ノ二〇九六  綜合工房
  
松本邸1938.jpg
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 『雑記帳』が廃刊に追いこまれたのは、中国との全面戦争で戦時体制が強化されるなか、さまざまな物資の値上がりや欠乏、統制が出はじめており、赤字つづきの綜合工房に大きなダメージを与えたせいもあるのだろう。しかし、当然のことながら、当時の時代背景として時局や時流に抗するがごとく、「芸術の自由」や表現の自立を標榜するような雑誌が、当局からなんの注意も払われずに発刊されつづけていた…ということなどありえない。
 社会や政治、思想に対する問題意識や批判精神を根絶やしにしようともくろむ警察からは、「新しい希望のもとに批判精神の向上に専念」するような出版物は、かなり目ざわりな存在として見られていただろう。松本竣介のアトリエにも特高警察Click!の刑事が訪れ、また西武電鉄の中井駅前には常に特高が張り込むというような状況を迎えていたらしい。松本夫妻はもちろん、見えないところでは同誌への執筆者たちにも、なんらかの圧力が加えられているのかもしれない。
 1937年(昭和12)12月号=最終号の巻末には、禎子夫人の実父で慶應大学の英文学教授だった松本肇が翻訳した、オー・ヘンリーの『クリスマス宵祭』が掲載されている。現在の邦題では、『賢者の贈り物』と訳されている作品だが、若い夫婦がクリスマスプレゼントの皮肉な行きちがいから、いちばん大切にしていたものをお互いが失ったにもかかわらず、贈った相手を限りなく幸福にする…という、いかにもキリスト教的な“ヒューマニズム”をベースにした犠牲と愛情の物語だ。
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 でも、このような“ヒューマニズム”(松本は、この曖昧な用語を「好んで」多用している)さえ許容されない時代が、すぐそこまで迫っていた。下落合地域の病院Click!を含むキリスト教会や信者たちが、特高や憲兵隊に弾圧Click!されはじめるのは、『雑記帳』の最終号からわずか4年後のことだ。1941年(昭和16)に発行された『みづゑ』4月号に、政治からの芸術家の(人間性にもとづく)自立、表現の自由を婉曲に主張した「生きてゐる画家」を書いたにもかかわらず、松本竣介が上落合の佐々木孝丸Click!のように「自由主義者」として特高に逮捕されなかったのは、聴覚を失っている彼を「みくびった」ものか、それとも圧力をかければ戦争画家として取りこめると考えたものだろうか?

◆写真上:松江に疎開中の息子に宛て、1945年(昭和20)5月28日に出された絵手紙。5月25日の第2次山手空襲Click!直後に東中野から見た目白崖線で、松本邸の右手に見えている赤い大屋根は島津源吉邸だろうか。先に開催された「生誕100年・松本竣介」展のパンフには、「アトリエのあった下落合周辺は、その後の空襲であたり一面、焼野原となりましたが、幸いにも竣介宅の一角だけは罹災をまぬがれた」と書かれているけれど、空襲で延焼したのは下落合中部の目白文化村Click!までで、下落合西部=アビラ村(芸術村)Click!一帯はほとんど空襲の被害を受けていない。
◆写真中上上左は、婦人之友社で勤務する1932年(昭和7)ごろの松本禎子。上右は、自邸の玄関と庭先で撮影された1939年(昭和14)ごろの松本夫妻。画面右手が南側だと思われ、東隣りに写っている西洋館は1938年(昭和13)現在の島津一郎Click!邸だと思われる。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる松本邸。は、1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真にみる松本邸と撮影位置の推定。
◆写真下は、1937年(昭和12)に発刊された『雑記帳』12月号=最終号の目次。下左は、同号の表紙。下右は、オー・ヘンリーの作品を翻訳した禎子夫人の実父・松本肇。

風まじりに棒打ち歌の流れる下落合。

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 そろそろ梅雨入りの季節になるころ、落合地域やその周辺では麦がたわわに実る“麦秋”を迎え、あちこちで麦刈りの風景が見られただろう。牧野虎雄が1933年(昭和8)に描いた『麦秋』は、いまだアトリエがお隣りの長崎町1721番地にあったころの作品だけれど、この近辺の刈り入れどきを迎えた麦畑Click!の情景を描いている画面だと思われるのだ。
 収穫を終えた麦は、梅雨が明けるころから麦打ち(棒打ち)の作業にかかる。刈り取った麦の穂から、棒でたたいて麦の実を落とす作業だが、真夏の炎天下での仕事なので汗まみれになり、水をいくら飲んでも足りなくなるほど、農作業の中でもとびきりたいへんな重労働だった。さらに、麦の穂には「ノゲ」と呼ばれる針のような硬い毛がついており、麦打ちをするとそれが飛んで肌にチクチク刺さって痛いため、真夏に肌をできるだけ隠した服装で作業をしなければならなかった。1日が終わるころには、汗もまったく出なくなり身体じゅうの水分が抜けきれ、身につけているあらゆる着物が汗の塩でパリパリになるほどだったらしい。
 そんな過酷な作業を、できるだけ気をまぎらせながら陽気にリズムよくこなすために、いろいろな労働歌「麦棒打ち歌」が生まれた。落合地域や周辺域にも、いくつかの棒打ち歌が伝わっている。これらの歌は多くの場合、男衆と女衆のかけ合いで唄われることが多かった。
  
 お前さんとならば、どこまでも/親を捨て、この世が、暗(やみ)になるとも、
 十七、八の麦棒打ちは、くるり棒が折れるか/麦が打てるか
 大山先きに、雲が出た、あの雲は/雨か風か、嵐か
 お前さんと色の、始まりは/五匁目の、煙草が色の始まり
  
 ここに出てくる大山(おおやま)とは、江戸期に「大山参り」の参詣旅で人気を集めた、神奈川県の丹沢山塊にある大山Click!のことだ。この地域では、富士講Click!とともに大山講も盛んだった。現在でも晴れていれば、東京から富士山や丹沢、足柄、箱根の山並みがハッキリと見えるが、当時はもっとクッキリとした山容が眺められたのだろう。また、男女のかけ合い歌のため、ちょっと色っぽい「棒打ち歌」も伝わっている。おそらく、幕末から明治期ごろにかけて唄われだしたものだろう。
  
 お前さんの年はなんの年/十六でささげの年、なりごろ
 新宿町に咲く花は/朝はしおれて、昼蕾んで、夜開く
 のし込め、のし込め
  
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 ここでいう新宿町とは、現在の新宿駅周辺(旧・淀橋町)のことではなく、江戸期から甲州街道の最初の宿場町(のち大江戸の市街地編入とともに廃止)として栄えた、四谷に近い内藤新宿(ないとうしんしゅく)町のことだ。その西外れには遊郭があり、その様子はここでも岡本綺堂が書いた芝居『新宿夜話』Click!でご紹介している。明治以降も、同所は歓楽街として隆盛をつづけ、のちにいわゆる「赤線地帯」が廃止になるのは、1958年(昭和33)になってからのことだ。
 落合地域や周辺域で作られていたのは、小麦に大麦、それにビール麦の3種類だった。10月の終りから11月にかけ、あちこちの田畑で肥溜めから肥料(ダラ肥)をまき、麦まきをする光景が見られたようだ。12月になると、土から顔を出した芽に「土寄せ」や「中耕い」の作業が行われる。その後、麦は冬の間にどんどん伸びるのだが、厳寒期の霜で麦株が浮きあがって寒さで枯死しないよう、足で株を踏んで歩くいわゆる「麦踏み」作業が行われた。だいたい12月の下旬から3月ぐらいにかけて、麦踏みに追肥、中耕い、土寄せの各作業が延々とつづくことになる。
 春になると、一面の青々とした麦畑が出現するのだが、このころには田畑に植えられたのがなんの麦なのか、一目瞭然になったという。葉が濃い深緑でノゲの長いのが小麦、ふつうの緑色の葉でノゲが短めなのは大麦、そして葉の緑が淡くてノゲが長めなのはビール麦で、遠くからでも植えられた麦の種類が識別できたらしい。こうして、穂がよく実り葉も黄褐色に変わった麦秋の畑では、梅雨入りをする前に麦刈りが行なわれる。刈りとった麦は、束ねられて農家の軒下や物置に置かれ、次には「麦こき」と呼ばれる穂を刈りとる作業を待つことになる。
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 この一連の作業は、農家の働き手が集中して行える仕事ではなく、他の農作業と並行して行う片手間の仕事だった。当然のことだが、麦を収穫し終えた田畑へは、稲の苗を植えたり野菜の種をまいたりしなければならない。落合地域では、水はけがよい田では米作りと麦作りの二毛作が可能だったが、水はけの悪い場所は畑地となり、夏から秋にかけては野菜を栽培し、晩秋から初夏にかけては麦を栽培していた農家が多かった。したがって、初夏から秋にかけては目がまわるほどの忙しさで、どこの農家でも人手が足りずに“助っ人”と呼ばれる、ふだんは農業をしていない人々(ただし農作業の経験はある臨時のアルバイト)を集めては、日雇いで作業を手伝ってもらうことも多かったようだ。会社や工場へ勤めている通勤人でも、農繁期となると会社を休んで近所の農作業を手伝う風景が、昭和初期のころまで見られた。
 1週間ほどつづく「麦こき」が終わると、ご紹介した棒打ち歌の「麦打ち(棒打ち)」作業が炎天下でつづく。竹の棒のアタマに金具を取りつけ、そこへ1m前後の丸太や鉄板の端を固定して、それがうまく回転するように細工をする。竹棒をうまく操りながら、丸太や鉄板を地面に打ちおろしてたたきつける。地面には、「麦こき」を終えた麦の穂が敷きつめられており、穂から麦の実を分離させる作業だった。こうして収穫された麦の実は四斗樽で保管され、天気のよい日には天日干しで乾燥と殺菌が繰り返される。そして、ようやく出荷の俵詰め作業がはじまるのだ。
 半年以上かかって苦労を重ねる麦作りだが、1935年(昭和10)前後の物価では1石(約165kg)あたりの米が34円70銭なのに対し、大麦は19円80銭と半値強の価格だった。これは市場価格なので、農家から米穀店へと売られる際の原価は、もっと低い額だったろう。その中から種代やダラ肥以外の肥料代、人を雇えば手間賃、農機具を借りれば借り賃などを差し引けば、手もとにはいくらも残らなかったのではないか。麦を俵詰めのまま売ったのでは、ほとんど値が上がらなかったので、水車場Click!で粉に挽いて小麦粉や大麦粉にしてから卸すという、今日的な表現をすれば新たな付加価値をつけて販売する農家も多かったらしい。中でも小麦粉は、池袋駅の南側に東京パンの大きな工場Click!があったので、時代とともに需要が増えたのではないだろうか。
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 でも、関東大震災Click!を境に東京郊外の宅地化が急速に進むと、田畑を苦労しながら耕作するよりも田畑をつぶして宅地にし、その借地料あるいは建てた借家の賃料で暮らしたほうが、よほどラクで実入りのいい時代がやってくる。田畑を前に、「こんなこと、バカバカしくてやってらんねえべ」と感じた農家も多かったろう。大震災のあと、またたく間に住宅街化の波が、落合地域とその周辺へ押し寄せてきた。着物を汗の塩だらけにして働いていた農家は、いつの間にか、自分たちが付近に良好な住宅地をふんだんに抱えた、大地主へと変貌していることに気づいたのだ。

◆写真上:いまに残る下落合の畑地では、さすがに麦作は行われていない。
◆写真中上:付近を描いたとみられる、1933年(昭和8)に制作された牧野虎雄『麦秋』。
◆写真中下は、落合地域でも多く栽培された小麦()と大麦()。下左は、大正期には盛んに栽培されたビール麦。下右は、大正から昭和初期のころにみられた東京郊外の農民スタイル。1982年(昭和52)に出版された、細井稔・加藤忠雄『ふる里上高田の昔語り』より。
◆写真下は、収穫した麦を粉にするのに使われた「稲葉の水車」近くの水車橋。は、都心を少し離れれば現在でも住宅街の中に畑地を多く見つけることができる。

かげろひ立つ春を想う淑子夫人。

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 洋画家・松下春雄Click!の夫人である松下淑子Click!(旧姓・渡辺淑子)は、1933年(昭和8)12月31日の大晦日、急性白血病により30歳の夫を喪った。当時の女性が、一家の「大黒柱」であり働き手の連れ合いを亡くした場合、子どもを抱えて生きていくのは並たいていのことではなかっただろう。現在のように、女性の働き口がすぐに見つかる時代ではなかった。夫は定期収入のあった勤め人ではなく、生活がいまだ不安定な新進画家であり、自邸とアトリエClick!をようやく西落合306番地(のち303番地)へ建設したばかりで、家財の蓄えもほとんどない状況だったにちがいない。しかも、松下淑子はいまだ幼い子どもを3人も抱えていた。
 ふつうなら、洋画家・渡辺與平(宮崎與平)を病気で亡くした亀高文子Click!(渡辺ふみClick!)や、小林多喜二Click!特高Click!に殺された伊藤ふじ子Click!のように、新たな夫を見つけて再婚するのがあたりまえの世の中だった。また、そうしなければ生活が困難だった。でも、松下淑子は二度と再婚せず、3人の子どもを無事に育てあげることに専念して、生涯独身を張りとおした。夫・松下春雄を亡くしたことが、彼女の心にとっては取り返しのつかない巨大な衝撃であり、生涯消えることのない大きな傷となって、その後の生き方を頑なに規定してしまったものだろう。
 渡辺淑子の実家は、武蔵野鉄道・上屋敷駅Click!近くの西巣鴨町池袋大原1464番地で開業医をしており、比較的裕福な家庭環境に育っている。淑子の妹は、ごく近くの自由学園Click!に通学しており、娘を自由学園へ通わせることになんら抵抗感をおぼえない、大正期のリベラルな家庭の雰囲気だったのだろう。当時の松下春雄は、渡辺医院の南にあたる西巣鴨町池袋大原1382番地の横井方に下宿していて、ふたりはここで出逢いClick!お互いが恋愛感情を抱いた。
 そして、ふたりは3年後に結婚するのだが、出逢いから結婚までかなりの時間が経過しているのは、渡辺医院の院長、つまり淑子の父親である渡辺濟(すくう)医師が娘との結婚について、画家として独立し生活できるめどが立ったら結婚してもいい…というような条件を、松下春雄に提示したというのが、わたしの想像だ。淑子夫人は、池袋での出逢いから恋愛、結婚までの事情を、娘の彩子様に詳しく話してはいない。松下春雄が画業に精進を重ね、文展の水彩画部門へ連続入選をはたしていくのは、渡辺淑子との恋愛時期とシンクロしているように思われる。
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 結婚生活は3人の子どもにめぐまれたが、松下春雄の急逝のためわずか5年9ヵ月しかつづかなかった。松下の死後、葬儀を済ませた淑子夫人は、自邸とアトリエを画家仲間を通じて紹介された柳瀬正夢Click!に貸して、自身は3人の子どもたちを連れ池袋の実家へともどった。実家が医院で比較的豊かだったとはいえ、3人の子どもを抱えて自邸+アトリエの賃料だけでは食べてはいけず、子どもたちが大きくなるまでさまざまな仕事を重ねているようだ。また、柳瀬正夢一家も西落合に長くは住まず、やがて入居者を探さなければならなかっただろう。
 世の中は、閉塞的な戦時体制や「非常時」へと急速に傾斜していき、1941年(昭和16)に太平洋戦争がはじまると、ほとんどすべての物資に配給制が適用され、食べ物さえ十分に入手できなくなった。同年から、長女の彩子様(13歳)、二女の苓子様(11歳)、そして長男の泰様(8歳)の食べ盛りの子どもたちを抱え、1945年(昭和20)に戦争が終わったあとあとまで、食べ物を手に入れる苦労がつづくことになる。1944年(昭和19)の秋、池袋の実家が建物疎開のルートにひっかかり立ち退きを迫られると、淑子夫人は3人の子どもたちを連れて、松下春雄との思い出の家である西落合1丁目303番地の自邸+アトリエへともどっている。
 松下淑子は、生涯を松下春雄の妻としてこの自邸で終えることになるのだが、そのあとに家を建て替えて住まわれているのが、長女の山本和男様・彩子様Click!ご夫妻だ。山本和男様が、1970年(昭和45)の松下春雄33回忌に出版した『加伎路悲(かぎろひ)』には、淑子夫人が遺した俳句集「春の星」が収録されている。同書から、夫人の句をいくつか引用してみよう。
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  春 の 星
 子の進学喜憂を頒つ夫のなし
 かたつむり家負わされし寡婦われは
 幾とせか孤愁の蚊帳をひとり釣る
 時雨るれど墓前に黙す刻たのし
 秋深し子等一人づつ去りて行く
 相聞の歌にかなしき初時雨
 台風や子を支へとし三十年
 柿落葉遺作の前にはじらひぬ
 安らかな眠は別離大つごもり
  
 「春」とは、もちろん松下春雄のメタファーだ。歿後30年以上もの年月が経過しているにもかかわらず、夫と死別したばかりのような感覚でいる、淑子夫人の心情が俳句に切々とこめられている。まるで、1933年(昭和8)12月31日の大つごもりの日から、時計の針がピタリと停止してしまったかのようだ。山本和男様は、『加伎路悲(かぎろひ)』の序文へ次のように書いている。
  
 昭和画壇の新星として脚光をあびた松下春雄が逝って、いつしか三十三年が過ぎた。/当時、紙上でその哀話が伝えられた若い未亡人と三人の遺児たちの存在も、そのひとの名と共にすっかり世の記憶から消え去ってしまった。/けれど、戦争という波濤をものりこえ、戦後のインフレの嵐にもめげず、未亡人は静謐にしかも勁(つよ)く生き続け、遺児たちもつつがなく成人した。/「加伎路悲」(かぎろひ)は新しくめぐり来る春をも象徴し、過ぎ去った日日のはるかな追憶へもいざなうだろう。この小冊子を深いねぎらいをこめて松下未亡人の還暦の栞に贈りたい。
  
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 戦後の混乱期が徐々に終息してくると、松下春雄と建てた西落合の邸にもどっていた淑子夫人は、家じゅうのあちこちに、そして付近に拡がる西落合ののどかな風景のあちこちに、夫の姿が見えていたのだろう。それは水彩から油彩へと表現を変え、アトリエで100号を超える大きなキャンバスを前に格闘する夫の姿であり、ときに落合用水の流れる緑の濃い谷間へ子どもたちを連れて散歩に出かけた、楽しげな面影だったのかもしれない。松下淑子の日めくりカレンダーは、1933年(昭和8)の大晦日から二度とめくられることがなかった…、そんな気さえしてくるのだ。

◆写真上:1931~1933年(昭和6~8)にかけて西落合のアトリエで描かれた、面影から明らかに淑子夫人がモデルと思われる松下春雄『和装の女(椅子による女)』。
◆写真中上上左は、小学生のころの渡辺淑子(右)。上右は、独身時代の同女。は、1928年(昭和3)4月1日の結婚式における渡辺淑子と松下春雄(中央)。下左は、下落合1385番地の家で1929年(昭和4)3月23日に撮影された淑子夫人と生後100日目を迎えた彩子様。下右は、1929年(昭和4)10月17日に阿佐ヶ谷520番地近くの写真館で撮影されたと思われるふたり。
◆写真中下:。は、1930年(昭和5)5月17日に撮影された淑子夫人と彩子様を膝に抱く同女。は、1932年(昭和7)6月19日に西落合306(303)番地のアトリエの淑子夫人。は、1934年(昭和9)10月に池袋の実家で撮影された遺影を手にする淑子夫人と子どもたち。松下春雄の急逝から10ヶ月経過しているが、子どもたちを抱え呆然自失の淑子夫人の姿が痛ましい。
◆写真下は、1934年(昭和9)2月11日から東京府美術館で開かれた「松下春雄遺作展」にて。男性の中央が、松下の親友だった鬼頭鍋三郎Click!中左は、1936年(昭和11)の松下春雄3回忌における墓前の淑子夫人と子どもたち。中右は、1940年(昭和15)に池袋で家族とともに撮影された淑子夫人。は、1937年(昭和12)10月23日に撮影された淑子夫人と子どもたちの連続写真。カメラの前を横切ろうとした瞬間に写ってしまった淑子夫人で、久しぶりに笑顔を見せる彼女だが、夫の死後、アルバムで微笑む淑子夫人はこの連続写真の2枚しか存在しない。

だらだら芝神明の熱い大喧嘩。

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 先日、東京タワーへ「山本作兵衛の世界」展を観に出かけたついでに、芝神明(しんめい)宮へ立ち寄ろうとしてすっかり忘れ、帰ってきてしまった。この社は、神田明神Click!などに比べれば比較的新しい社で、1005年(寛弘2)の藤原時代に創建されたのだが、江戸後期に伊勢宮の代参社として、また旅の無事を祈念する道中安全の神として大流行りした社だ。
 先年も墳丘長が127m、周濠を想定すれば200m近いと改めて想定された芝丸山古墳Click!に出かけたついでに…と思っていたのだが、やっぱり立ち寄るのを忘れて地下鉄に乗ってしまった。同社に近づくとなぜか健忘症になるようで、よほどわたしとは縁がないのか相性が悪いのだろう。^^; 子どものころ、一度だけ親父に連れられて同社へ立ち寄った記憶があるのだが、芝神明宮の「だらだら祭り」にちなんだ「だらだら餅(太々餅)」の幟ぐらいしか憶えがない。
 神明宮の祭りが「だらだら祭り」と呼ばれるのは、毎年9月11日から21日まで延々と行なわれるからで、江戸期に誰かが「いつまでも、だらだらやってんじゃねーよ!」とイラついたことから、その名がついたものだろう。たいがいは、サッとはじまって3日ほどでサッと終わる、どこか儚(はかな)さが漂う祭りが多い江戸の町内で、11日間もつづく祭礼は異例というか異様だ。このあたりも、わたしの波長に合わない理由なのかもしれない。奉られているのは、天照大神と豊受大御神、それに源頼朝と徳川家康だが、地元とは無縁なヤマトの神々や、庇護し援助してくれた歴代の権力者を“神”にしておもねるところも、わたしの性に合わないゆえんだろう。
 そんな“だらだら”としまりのない芝神明宮なのだが、江戸有数の「ケンカ場」としてはしごく有名だ。史実としても、また芝居の舞台としても広く東京じゅうに知られ、今日にいたるまで連綿と語り継がれている。もともと、芝神明宮の近くには花柳界があって賑わっており、実は芝神明に参詣するというのが口実で(実際に参詣したかどうかはわからない)、男たちが神明町にあった花柳界へ出入りするのが目的だった…という見方もできる。むしろ、参詣客で賑わったと伝わるのは、花柳界が賑わったというのと同義ではないだろうか。芝神明宮の境内で大乱闘を演じたのは、品川の谷山(やつやま=八ツ山)Click!から因縁持ちこしの、町火消し「め組」(鳶職)と相撲取り連だった。
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 ケンカの様子は読売(瓦板)で江戸じゅうにバラまかれ、のちに芝居『神明恵和合取組(かみのめぐみ・わごうのとりくみ)』(通称は「め組の喧嘩」)として竹柴其水が台本を書き、のちに師の河竹黙阿弥Click!が三幕目を加筆している。史実では、神明宮の境内で開催中だった相撲の春場所を見物しようと、め組の辰五郎たちが取組場へ入ろうとすると、そのうちのひとりが木戸銭を要求されたところからはじまる。芝神明の一帯は、め組の所轄受け持ち区域であり木戸御免が通常なのだが、相撲の木戸番には含むところがあったものか、木戸御免を無視して通さなかった。この場は、力士の九龍山が木戸番に加勢したので、辰五郎はいったん引き下がった。
 気分なおしに、辰五郎たちは近くの芝居小屋へと向かうのだが、そこで再び木戸前でもんちゃくを起こした九龍山と鉢合わせしてしまい、先ほどの仕返しとばかり、力士の肥満や巨体を笑って芝居小屋の満座の中で恥をかかせた。それに激高した九龍山は、辰五郎らと芝居小屋で本格的なケンカになってしまう。火消しの頭(かしら)や相撲の年寄り連などが仲裁して、ケンカはいったん収まったかのように見えたが、満座の中でコケにされた九龍山は腹の虫が収まらず、同じ部屋の力士たちを焚きつけて、町火消しに再びケンカを売った。
 め組のほうも、町中の半鐘を打ち鳴らしては火消し仲間を集め、芝神明宮の境内で力士たちとの大乱闘となってしまった。駆けつけた町奉行所の与力や同心たちが間に割って入り、死者こそ出なかったものの怪我人が多数出て、火消し側と力士側の双方合わせて36名が捕縛された。
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 町火消しは町奉行所の管轄だが、相撲は寺社奉行所の管轄であり、事件の後始末が少々ややこしくなる。当時としては異例の、町奉行と寺社奉行に第三者の勘定奉行も加わっての評定になった。奉行が3人そろって、ひとつの事件を裁くのは異例中の異例だったことからも、江戸じゅうが沸騰したこの事件に、幕府がケンカ再燃の火種をのちまで残さないよう、裁きのしかたに腐心していたのがわかる。結果は、先にケンカをしかけた火消し側にきびしく力士側に甘いものだったが、いちばん重い刑が百叩きで江戸追放(追放といってもほとぼりが冷めるまでだが)と、おしなべて軽い刑だった。この裁きで面白いのは、人間たちの罪を相対的に軽くするためか、火消しを集めるのに鳴らされた半鐘が「遠島」になっていることだ。半鐘というモノに最大の刑罰を与え、人間には深い恨みを残さぬようできるだけ配慮した…という気配がする。
 「め組の喧嘩」では、芝神明宮の境内が2幕出てくるのだが、二幕目の木戸銭を払う払わないでモメた相撲場の場面と、四幕目の大喧嘩の場面だ。外題である「めぐみ」とシャレた『神明恵和合取組』は、其水の師である黙阿弥が命名したといわれている。芝居の登場人物たちは、め組の浜松町・辰五郎、纏(まとい)Click!持ちの露月町・亀右衛門、柴井町・藤松、宇田川町・長次など、すべてめ組の管轄内にあたる町名がふられているのが面白い。いまでは、芝神明宮の境内はせせこましくなり、とても大勢の人間が大乱闘できるようなスペースはなくなってしまっている。
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 芝神明宮前の参道にあった「だらだら餅(太々餅)」だが、わたしは一度も食べたことがなかったように思う。幕末あたりからつづいていた菓子のようなのだが、親父も買わなかったのだろう。名前からして、きっとひと口では食べられない、ダラダラした太くて長い餅だったのではないだろうか。w  いまでは名前さえ聞かないので、きっと地域に根づかず廃れてしまったのだろう。

◆写真上:目白崖線よりも険しそうな、東京タワー下にある芝の大バッケ(崖地)を上から。
◆写真中上:だらだら祭りのクライマックスを描いた、安藤広重「芝神明祭礼止図」。
◆写真中下は、誰も撮影しないと思われる芝崖線の森中からの東京タワー。w は、1953年(昭和28)に撮影された芝神明宮で、左手に「だらだら(太々)餅」の提灯が見えている。
◆写真下は、『神明恵和合取組』一幕目の舞台で辰五郎が15代目・市村羽左衛門、九龍山浪右衛門が3代目・市川左団次、四ツ車大八が2代目・実川延若。下左は、め組の辰五郎が当たり役だった市村羽左衛門のブロマイド。下右は、3代・国貞と2代・広重の合作浮世絵「芝神明生姜市」で、人物の背後に「だらだら(太々)餅」を売る参道の大見世が描かれている。

議事堂が完成直後の吉武東里インタビュー。

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 国会議事堂がほぼ完成したころ、上落合1丁目470番地(吉武邸が建設されたころは上落合469番地)の吉武東里邸Click!へ大分新聞の記者が取材に訪れ、議事堂を建設する際の経緯やエピソードについてインタビューしている。無事に仕事をやりとげたばかりの吉武東里は、郷里の新聞記者を迎えリラックスした様子で取材を受けている。
 国会議事堂は、1893年(明治26)5月に衆議院書記官長だった水野遵(じゅん)と貴族院書記官長だった金子堅太郎が、当時の内閣総理大臣である伊藤博文Click!あてに出した「議院建築上申書」から、支柱となる鉄筋が組みあがった1927年(昭和2)4月7日の棟上式まで都合34年、棟上式から1936年(昭和11)11月の竣工まで9年が経過している。建設の着工から竣工までは丸18年、初期計画の段階から竣工までは実に50年余がたっていた。1890年(明治23)第一次仮議事堂の時代から数えても、すでに46年もの歳月が流れている。
 帝国議会議事堂(現・国会議事堂)の建設について、両院の書記官が1893年(明治26)に首相あてに作成した上申書の一部を、渡鹿島幸雄様Click!よりお送りいただいた『帝国議会議事堂建築報告書』(大蔵省営繕管財局編纂/1938年)の資料から引用してみよう。。
  
 而シテ其計画ノ順序ハ、議院ノ製図ヲ募集又ハ調製スルヲ以テ第一トス、其製図確定セサレハ、設計方法及費額等ヲ定ムルコト能ハス、況(いわん)ヤ議院ノ製図ノ如キハ、欧米建築技師ト雖モ、未タ一定ノ考案ナキカ如キ一大難事ナルヲヤ、故ニ今日先ツ本議院建築ノ議ヲ決定セラレ、普ク世間ニ広告、懸賞問題トシテ、内外国人ヨリ議院ノ製図ヲ募集シ、内務省ニ於テ之カ調製設計ニ著手(ママ)スルコト目下ノ急務ナリト信ス、依テ此段及上申候也
  
 国立公文書館を調べてみると、金子堅太郎による第一次仮議事堂の資料や、水野遵による日清戦争中の広島臨時仮議事堂に関する資料を、いくつか見つけることができる。
第一次仮議事堂改修参観1891.jpg 広島仮議事堂陸軍借用資料1894.jpg
第一次仮議事堂.jpg
 帝国議会議事堂が、ようやくその全貌を周囲へ見せはじめた竣工の年、1936年(昭和11)2月26日には“原理主義的社会主義”を唱える陸軍皇道派の将校たちによる二二六事件Click!が勃発し、市内全域に戒厳令が発令・施行されている。その間、吉武東里たちは工事どころではなかっただろう。吉武は大雪の朝Click!、山手線や西武線が動いていないため出勤できず、上落合の自宅にいただろうか?(午前中は、電車が運休していたとする記録が多いが、実際に乗って通勤・通学した方が大勢いる) それとも、わたしの祖母がそうしたように通りがかりの円タクで、大蔵省へと駆けつけているだろうか? 当時の蔵相は、赤坂の自宅で殺害された高橋是清だった。
 吉武邸からわずか100m余のところ、邸の隣家だった野々宮金吾邸(戦後は落合第二小学校)の南側の上落合1丁目512番地には、蹶起将校のひとりである竹嶌継夫中尉Click!の家があった。また、吉武邸から北北東へ500mほどの下落合3丁目1146番地の佐々木久二邸Click!には、官邸を脱出した岡田啓介首相Click!が身をひそめていたのを、当日の吉武東里はおそらく知らない。
 わたしの祖母と、千代田小学校Click!の生徒だった親父は二二六事件の朝、円タクを雇って日本橋から竹橋、霞が関、溜池、赤坂周辺を兵士の「誰何」Click!に何度か停車させられながらめぐっているので、おそらく竣工間近な帝国議会議事堂の姿も車窓から目にしているだろう。工事は、二二六事件で少なからず遅れたにちがいないのだが、同年の11月の竣工式Click!になんとかこぎつけることができた。その前の月、1936年(昭和11)10月に大分新聞の記者が吉武邸を訪れ、インタビュー取材を行っている。10月28日に掲載された、同紙の記事から引用してみよう。
  
 (前略)東国東(くにさき)郡来浦町出身の吉武東里氏(吉武郁爾氏長男)は、嘗て宮内省東宮御所御造幣に奉仕、貢献したる近代建築界の名匠で、新議事堂着工と同時に大蔵省営繕管財当局が、未曽有の大建築に鑑みて特に懇請、主任技師として重任に当らしめたものである 二十五日記者は写真班を携へて淀橋区上落合一の四七〇吉武氏邸を訪ふと、折よく快晴の日曜に盆栽の手入れ中だつた氏は「いやァわざわざ、別に苦心談なんてなんにもないがね」と稍々薄くなつたざんぎり頭に手をおいて快よく記者を応接室に招じた----
  
 ・・・という出だしのインタビューは、議事堂設計のコンペティションの段階から竣工にいたるまで、おおよそ全体の経緯が語られているので、かなりの長時間にわたる取材だったと思われる。吉武東里は、世界の建築史上でも例がない特徴として、以下のように語っている。
大分新聞19361028.jpg
  
 僕が一番苦心した点、即ち此議事堂の最も変つた点、或は誇つていゝ特徴といふか・・・それは便殿と中央大ホールである、形態を以ていふならこれに類するやうな建築が世界史上前例が無いのである、なほいへば調度、内部装飾等が総て日本古来の趣きを以て現はしてあることである 従来世界一と称せられて居た大英帝国国会議事堂にしても、コヂツク (ママ) 建築を以て十二年、然るに日本新議事堂は、近代ルネツサンスの粋をあつめて最進歩の建築工程を辿つてなほ十八ヶ年半を要した、敷地二万坪、建坪五千七百坪、総建坪一万五千七百八十坪の全容積で旺盛な四本の列柱大玄関に向つて右は貴族院、左が衆議院である、一階事務所、二階政府委員室、三階職員室並に会議室となつて居り議席は貴族院四六〇名、衆議院四六六名分であるが将来増員の場合を考慮に容れて最大限六三五の議席が各準備されて居ります
  
 現在の議員数は、向かって右の参議院が242席、左の衆議院が480席となっている。竣工当時に比べれば議員総数は減っているが、衆議院の議席数は逆に増えている。チープガバメントの観点から、衆議院の議員数が多すぎるという批判がたえないのは周知の事実だ。
 また、用いられた建築資材や部材などの調達についても、一般建築の既製品が存在しないため、吉武は製造や入手の苦心談を披露している。
  
 今日完工して見れば何でもないやうですが大体骨組みの出来上るまでの営繕管財局の苦心は非常なもので、このため八幡製鉄所では新たに工場を造るなどといふやうなこともあり、材料にしましても全部国産の建前から朝鮮、台湾等全国から集められ、現に議院石などゝいふ名前も出来て居ります、大理石でも広く探して見れば却々(なかなか)良いのがあるもので、山口、徳島、高知、茨城等には殊に良質なものがそのため尠からず発見されました、或はシヤンデリヤの具台或は換気、さては新聞社の原稿発送機関に至るまで、細かく申上ぐれば苦心の結晶でないものはありません、然し自分としてはたゞ大局的に主任技師としての責を果したまでゞ営繕管財局諸員一同の協力と、一方これに細部的に携つた延人員二百五十万といふ多数の人々の努力に依つて初めて完工したものであります、
  
上棟式19270407.jpg
中央広間.jpg 参議院本会議場.jpg
 「植込みの方も既に綺麗に出来上りましたしサボテン、芝生等の紅緑すつきりした中に地上二百十六尺の塔上に登れば東京湾は脚下に、遠く富嶽と対することが出来ます」と語る吉武東里だが、わたしは中央塔からの展望の記憶がない。国会議事堂は、子どものころ二度ほど見学したことがあるが、塔上へのぼらなかったのか、あるいは周囲の建物に遮られすでに展望がきかなくなっていたものか、見通しがよかった憶えがないのだ。もっとも、1960~70年代の東京はスモッグがひどく、中央塔へのぼったとしても富士山はおろか、東京湾も見えたかどうか怪しいのだが。

◆写真上:1936年(昭和11)10月26日に、上落合の吉武邸で撮影された家族写真。応接室の壁に架けられている静物画らしい作品は、吉武東里本人による制作Click!だろう。
◆写真中上上左は、貴族院の書記官長・金子堅太郎と衆議院の書記官長・曾禰荒助による第一次仮議事堂改築に対する参観告知。上右は、1894年(明治27)の広島仮議事堂建設に関する陸軍用地借用照会。は、1890年(明治23)11月に竣工した第一次仮議事堂。
◆写真中下:1936年(昭和11)10月28日の大分新聞に掲載された吉武東里インタビュー。
◆写真下は、1927年(昭和2)4月7日に鉄骨が組みあがった段階で行われた上棟式。吉武は「右木綿綱付」として、前から4人目にいる。は、中央広間()と参議院本会議場()。


境内が古墳だった氷川明神の展開。

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スサノオ社1.jpg
 以前、神田川(旧・平川)沿いの丘陵あるいは斜面、低地などに「百八塚」Click!の伝承が残り、無数の塚=古墳が存在していたのではないかというテーマで、いくつかの記事を書いてきた。その中で、東側の「丸山」Click!(御留山の麓あたり)と西側の「摺鉢山」Click!(聖母坂下あたり)という典型的な古墳地名にはさまれた、下落合氷川明神社も古墳を整地して築かれているのではないかと仮定してきた。また、上落合には「大塚」という古墳地名も残り、実際に山手通りの建設で崩されるまで浅間塚古墳(落合富士)Click!が存在してきたことからも、古代には「古墳群」と名づけてもいいような、塚の密集地帯ではなかったかと想定している。この“密集”状況は、神田川沿いの戸塚(富塚=十塚)Click!あたりから大久保地域Click!まで、古墳跡が連続してつづいているように見える。
 今回は、東京にある氷川明神社の中で、実際に古墳の墳丘が整形されたものであることが、発掘調査や玄室の出現、埴輪の出土、玄室に使われた房州石の確認などで考古学的に証明されており、その上に社殿が建立されている例を見ていこう。下落合や高田と同様に、それぞれ土地の名前をとった「〇〇氷川神社」(明治期以降の呼称)と命名されてはいるものの、それにかぶせて境内全体が古墳名として呼ばれている聖域だ。
 南関東の古墳では、玄室の石組みに房州石(千葉県南部産で貝化石が混じる凝灰質砂岩)が用いられることが多く、古墳専用の石切り場が房総半島の先端部に存在し、石材をおそらく水運によって関東各地へと供給していたことが知られている。房州から運ばれた石材は、専門の石工集団や古墳設計者によって加工され、南関東に展開する古墳群に使用された。社(やしろ)の境内にあった巨石が、従来は縄文期の遺物、あるいはそれ以前の巨石信仰の名残りであるメンヒルと考えられていたものが、調べてみると房州石であることが判明し、古墳の玄室に用いられた石材の一部だと規定された例も多い。ただ、国分寺崖線や府中崖線に連なる古墳では、房州石ではなく同地域の地中から露出した、やわらかい凝灰質砂岩が用いられているケースもあるようだ。
 さて、東京の丘陵地域はともかく、低地に古墳が次々と発見されたのは、皇国史観Click!の呪縛から解放され、少なくとも科学的に古代史がとらえられるようになった、おもに戦後になってから(ここ60年ほど)のことだが、足立区の毛長川あるいは綾瀬川の流域が“古墳の巣”のような状況であることが判明したのは、1980年代後半になってからのことだ。もちろん、バブル経済のさなかだった当時、マンション建設などの再開発が進み、その工事の過程で次々と古墳が出現したからだ。現在では、すべてが住宅街の下になってしまっているが、地名や塚名だけを挙げても、摺鉢塚や駒形塚、庚申塚、兜塚、二本松塚などの古墳が確認されている。
 同地の入谷氷川明神になっているのが、足立区入谷にある「白幡塚古墳(入谷古墳)」だ。この氷川明神の歴史は新しく、それまでは墳丘に八幡が奉られていたことから「八幡塚」ないしは「八幡山」と呼ばれていたらしい。氷川社が勧請されたのは、近代になってからのことだ。古墳の形式は、直径が30mほどの小規模な円墳で、時代的には弥生末期から古墳時代初期の遺跡とみられている。白幡塚古墳の近くには、より歴史が古く由来が不明な伊興氷川明神と、鎌倉期に勧請された舎人氷川明神とがあるが、いずれも古墳上に造営された氷川社だ。
入谷氷川明神.jpg 伊興氷川明神.jpg
舎人氷川明神.jpg スサノオ社2.JPG
 足立区東伊興にある伊興氷川明神は、古墳時代には旧・入間川の流域だった地域に建ち、沿岸に築かれた円墳「伊興氷川神社古墳」の上に築かれている。もともと土台となった円墳からは、さまざまな古墳期の遺物が出土しており、副葬品と思われる鏡など古墳特有の祭祀遺物が発見された。のち氷川明神が築かれるときに円墳は崩され、方型に整形されたとみられている。伊興氷川神社古墳に接した東隣りには、金塚古墳があったという伝承が残る。
 もうひとつ、旧・利根川水系だったとされる毛長川の沿岸には、鎌倉期に大宮氷川社からスサノオが勧請された舎人氷川明神がある。この氷川社も、古墳期の円墳と思われる塚上に築かれたものだとの伝承が残っている。周辺には、弥生期から古墳期にかけての集落跡や方形周溝墓の遺跡が密集している地帯だ。現在では、墳丘がまったく残っておらず、鎌倉期に氷川社を勧請した時期にすべて崩されてしまったとみられている。
 氷川社ではないが、足立区東伊興から南へ8kmほど下がった、荒川区南千住の千住大橋南詰めに建立されている、同じ出雲神のスサノオ社(素戔嗚神社)も古墳上に築かれた社ではないかとみられ、考古学的には「素戔嗚神社古墳」と呼ばれている。スサノオ社の伝説では、小山から出現した奇岩を霊場として修験者が参拝していたところ、突然奇岩が光り輝きスサノウ命などの神々が出現した…ということになっている。この奇岩が現われた小山へ、江戸期に富士山の熔岩を運んで富士塚Click!が造営されている。現存する「奇岩」の一部を調査したところ、玄室に多用される房州石であることがわかり、境内全体が古墳らしいことが判明した。おそらく、墳丘の一部が崩れで玄室が出現し、その石組みの異様さから中世に霊場とされていたのだろう。古墳の形式は不明だが、伝承などからおそらく円墳ではないかと推定されている。
下落合氷川明神社1.JPG 下落合氷川明神社2.JPG
下落合氷川明神1936.jpg
 さて、もうひとつ面白い現象が東京の西側、大田区田園調布に見られる。田園都市株式会社Click!が、田園調布の街並みを開発する際に、古墳と思われる遺跡を数多く崩しているのは有名なエピソードだが、「観音塚古墳」もそのひとつだ。同古墳の残滓は住宅街の真ん中にあり、戦後の1947年(昭和22)になってようやく本格的な発掘調査がされた。結果、埴輪や鉄剣、馬具などが多数出土し、50m前後の規模の前方後円墳であることが確認されている。だが、同古墳が聖域として信仰を集めていたのは江戸時代からだった。出土した人物形埴輪を、当時の人々は「観音様が出現した」ととらえ、墳丘の頂上に「観音塚」として祀っていた。
 同じく田園調布の街中には、墳丘が宅地化ですべて崩された「浅間様古墳」がある。明治期のスケッチから円墳と規定されているが、江戸期になって羨道から玄室への横穴に八幡神(大日如来)を祀ったことから、「お穴様」あるいは「穴八幡」と呼ばれていたようだ。
 もう、お気づきだろう。これらの逸話から、すぐに想起されるのが江戸期の戸山ヶ原「洞阿弥陀」Click!だ。山の斜面に空いた洞窟に、「仏像」が祀られていたということだが、斜面が崩れてあらわになった玄室ないしは羨道へ、その場から出土した人物形埴輪を祀っていたのではないか…との想定が、観音塚古墳のケーススタディから垣間見える。戸山の洞阿弥陀も、いまではすべて住宅街の下になっているので確認するすべはないのだが、房州石の痕跡でも残っていないだろうか。
 そして浅間様古墳の八幡神からは、高田八幡Click!に出現した古墳の羨道ないしは玄室を思い出す。この事跡により、同社が江戸期から“穴八幡社”と呼ばれるようになったのは、田園調布の浅間様古墳とまったく同じケースだ。穴八幡宮が、200mクラスの前方後円墳であることを疑う人は多いが、同社の北側に高田富士Click!に衣替えされていた富塚古墳Click!(100m前後の前方後円墳)の存在からも、その可能性はきわめて高いと思われる。房州石で造られた富塚古墳の羨道および玄室は、甘泉園の西へ移転した水稲荷社の本殿裏に保存されている。これらの事例や傍証により、神田川沿いの丘上や斜面、または低地には古墳群が密集していた感触を強くおぼえるのだ。
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下落合氷川明神1960.jpg
 東京の街中で、“タタリ”の伝承に出会うことがある。「あそこはお化けが住む、おっかない場所だから近づくな」というように、古代の墓域や霊域のようなエリア周辺に多いのだが、そのような場所を発掘調査すると古墳の遺物が出土するケースも数多い。大手町の将門塚古墳(柴崎古墳)Click!などが好例なのだが、下落合とその周辺域で、あるエリアや地点をめぐるタタリの伝承はないだろうか? そして、あまり神田川流域では見かけない、どこか細工をしたような板状の房州石が、落合地域にある寺社の境内にひっそりと保存されてやしないだろうか。下落合を散歩していて、「タタリじゃ~、明神様がお怒りじゃ~!」というような巫女さんにはかつて追いかけられたことがないので、下落合氷川明神にはタタリの伝承はなかったように思われるのだが。w
 「丸山」」や「大原」、「前谷戸」など下落合とソックリな地名相似が見られる、飛鳥山から滝野川にかけての丘陵地域も、あちこち古墳だらけなのだが、それはまた、別の物語…。

◆写真上:千住大橋のすぐ手前にある、荒川区南千住のスサノオ社(素戔嗚神社古墳)。富士塚に使用されていた富士山の溶岩が、狛犬の台座に流用されている。
◆写真中上上左は、毛長川の流域にある入谷氷川明神社(白幡塚古墳=入谷古墳)。上右は、同じく伊興氷川明神社(伊興氷川神社古墳)。下左は、同流域にある舎人氷川明神社(舎人氷川神社古墳)。下右は、冒頭写真のスサノオ社(素戔嗚神社古墳)の本殿(左側)。
◆写真中下は、下落合の字である丸山と摺鉢山(大正期以前に使用された字)にはさまれた氷川明神社。は、1936年(昭和11)の空中写真にとらえられた同社。
◆写真下は、1947年(昭和22)に撮影された下落合氷川明神の焼け跡。境内を斜めに横断する小道は、宝永年間のあとに設置された用水路の痕跡だと思われる。は、1960年(昭和35)に撮影された摺鉢山(左)の円形と、釣鐘の形状を残す下落合氷川明神社の境内。

陸軍士官学校で配られた写真。(1)

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①米駆逐艦ポープ19420301.jpg
 わたしの友人のお宅から、陸軍士官学校で配布(有償)された写真類がまとめて見つかったので、順次ご紹介していきたい。こちらでも、陸軍士官学校(以下「陸士」)の学生たちが演習で作成した戸山ヶ原Click!地形図Click!や、市ヶ谷にあった校舎Click!の写真はご紹介しているけれど、陸士内部の様子を含めた写真類を目にするのははじめてだ。
 陸士は、1937年(昭和12)に市ヶ谷から座間へ移転しているが、航空機の軍事的な有効性が決定的になりつつあった翌1938年(昭和13)、所沢に陸軍航空士官学校が増設されている。陸軍の所沢飛行場近くに設置されたもので、こちらの記事でも西武鉄道の貨物線を利用して所沢地域で実施された、航空機や観測気球の移動・運搬演習Click!の陸軍文書をご紹介している。当時の陸士は、座間の本科で基礎を学習したあと専攻別に分かれて進学したようで、その方は陸軍航空隊の士官になるために、所沢の陸軍航空士官学校へ進まれている。
 発見された写真は、いずれもネガから印画紙へと焼かれた“生”写真で、戦闘の記録から陸士内部で行われた演習のスナップ写真にいたるまで、その種類は多岐にわたっている。1941年(昭和16)12月からはじまる太平洋戦争の最中に、陸軍航空士官学校へ在籍されていた関係から、実際に行われた戦闘写真は海軍報道部によるものが圧倒的に多い。なぜ陸士なのに、海軍の戦闘写真が多数配布されているのかは、所沢が陸士の「航空」専科である点に留意したい。太平洋戦争の緒戦では、海軍の機動部隊や航空隊による戦果が圧倒的だった。制空権のない戦闘は必ず敗れることを、海軍が次々と実際に“証明”して見せていたからだ。
 ここに掲載した陸士配布の写真は、1942年(昭和17)の前半に行われた海軍の戦闘記録だ。写真は数枚がセットになり、画面解説の紙片も添えられているのだが、今日の目から見れば艦名などの解説には誤りも多い。写真は、1942年(昭和17)2月末から3月初頭に行われたスラバヤ沖海戦(ジャワ沖海戦)と、同年3月末から4月にかけて実施された第一航空艦隊(南雲機動部隊)のインド洋作戦の様子を撮影したものだ。スラバヤ沖海戦では米英蘭豪海軍のにわか寄せ集め艦隊を破り、インド洋作戦では英海軍の旧式空母や重巡洋艦を沈め、先年暮れのマレー沖海戦の2英戦艦の撃沈とともに、日本国内では「米英恐るに足らず」と浮かれていた時期と重なる。
 おそらく、陸軍のエリートである陸士内部でも海軍の戦果に瞠目し、改めて近代戦に航空戦力が不可欠であることを認識しただろう。だが、クールかつ論理的に連合軍側の国力や生産基盤、技術力の差を正確に分析し、また保有資源の圧倒的な落差や海上輸送の脆弱性などを危惧する視点は、「勝利」の酔いと「愛国」の感情、「勝った勝った」の提灯行列の波で急速に薄れ、かき消されてしまったのだろう。事実、この写真を所有している陸士卒の将校だった方は、「次はニューヨーク爆撃だ!」とはしゃいでいた大まちがいを率直に告白している。むしろ英米と開戦し、その戦争が少しでも長引けば、それだけ敗戦へのリスクClick!が急激に高まることを開戦前から認識・指摘しつづけていたのは、陸軍よりも海外事情に明るい海軍部内Click!に多い。
②英重巡エクゼター19420301.jpg 陸軍偵察機搭載カメラ.jpg
 さて、まず航空戦ではなく海上戦の写真から見ていこう。冒頭の写真は1942年(昭和17)3月1日の、艦同士による砲撃戦の模様だ。重巡洋艦(以下「重巡」)の「足柄」と「妙高」の砲撃を受け、また搭載の爆薬で15時30分に自沈する米海軍の駆逐艦「ポープ」を撮影したものだ。(写真) ジャワ海から脱出する英海軍の重巡「エクゼター」を英駆逐艦「エンカウンター」とともに護衛していたのだが、日本の重巡部隊に補足され英米の混成艦隊は全滅した。「ポープ」は、これだけの砲撃や雷撃を受けながら戦死者1名という幸運艦で、沈没後は「エンカウンター」とともに乗組員の多くが、駆逐艦「雷(いかづち)」と「電(いなづま)」に救助されている。
 写真は、米駆逐艦「ポープ」の沈没に先立つ2時間前、同日の13時30分に駆逐艦「雷」の雷撃と重巡「足柄」「妙高」の砲撃で、右舷から転覆・沈没する英重巡「エクゼター」を偵察機からとらえたものだ。この写真は、少しあとの南雲機動部隊による英空母「ハーミズ」の撃沈写真とともに新聞や雑誌などでも広く報道され、当時を知る方には見憶えのある画面ではないだろうか。
 写真③④は、1942年(昭和17)4月5日の午後、、第一航空艦隊(南雲機動部隊)がインド洋作戦を展開中に撮影されたもので、日本の機動部隊の艦爆機に攻撃されて沈没する英重巡「ドーセットシャー」をとらえた連続写真だ。セイロン沖海戦と呼ばれる戦闘では、改装工事中の「ドーセットシャー」に随航していた英重巡「コーンウォール」も、同時に撃沈されている。(写真⑤⑥)
③英重巡ドーセットシャー1_19420405.jpg ④英重巡ドーセットシャー2_19420405.jpg
⑤英重巡コーンウォール1_19420405.jpg ⑥英重巡コーンウォール2_19420405.jpg
 この2艦の沈没により、連合軍側の東洋艦隊はほぼ無力化し、4月9日に南雲機動部隊はセイロン島(現・スリランカ) トリンコマリーにある港湾の英軍基地や飛行場を爆撃している。その爆撃の最中に、偵察機から空母艦隊発見の報が南雲機動部隊にもたらされた。セイロン島から避難する英空母「ハーミズ」と、護衛するオーストラリア駆逐艦「ヴァンパイア」の2艦だった。
 その一報が入電したとき、ミッドウェー海戦で見られる逡巡に似た状況が南雲艦隊に生じている。空母発見の報で、空母「飛龍」の山口多聞は旗艦の空母「赤城」にいる艦隊司令官・南雲忠一あてに、「タダチニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」と信号を送るがほどなく却下された。艦載機が、セイロンの英軍基地への第2次攻撃用として陸上攻撃用の兵装をしていたからで、艦船攻撃用の兵装へ転換してから英空母「ハーミズ」への攻撃に向かわせることになった。
 その兵装転換の最中に、南雲機動部隊は英軍基地から飛来したウェリントン爆撃機による奇襲を受け、危うく攻撃を回避している。この英爆撃隊の接近を、南雲艦隊はまったく気づいていなかった。同じような状況が2ヶ月後のミッドウェー海戦で起き、南雲機動部隊は致命的なダメージを受けることになるのだが、このときはまだ誰も想像だにしえなかっただろう。同日、英空母「ハーミズ」(写真⑦⑧)と豪駆逐艦「ヴァンパイア」は撃沈された。「ハーミズ」は修理中のため艦載機を1機も搭載しておらず、まったく反撃ができなかった。「ハーミズ」が沈没する写真も、海軍報道部から新聞社や雑誌社などへ広く配布されたので、ご記憶の方も多いのではないかと思われる。
⑦英空母ハーミズ1_19420409.jpg ⑧英空母ハーミズ2_19420409.jpg
インド洋作戦(第一航空艦隊).jpg
 陸軍航空士官学校で配布された写真は、緒戦において航空機の優位性を如実にしめした海軍偵察機撮影によるものが多い。このほか、さまざまな演習や飛行訓練写真、記念写真、スナップ写真などが配布されているのだが、機会があればまたご紹介してみたい。ただ、このような記事がつづくと、あたかも軍事マニアのようなサイトになってしまうので、少しためらわれるのだが…。

◆写真上:1942年(昭和17)3月1日に、ジャワ島の沖で砲撃を受ける米駆逐艦「ポープ」()。陸士配布のキャプションでは、米駆逐艦「ジョン・ジョーンズ」と誤認されている。
◆写真中上は、「ポープ」と同日に撃沈された英重巡「エクゼター」()。は、陸軍航空士官学校で撮影されたと思われる陸軍偵察機に搭載された記録撮影用機載カメラ。
◆写真中下は、1942年(昭和17)4月5日に南雲機動部隊の攻撃で沈む英重巡「ドーセットシャー」(③④)。は、同日に「ドーセットシャー」に随航して撃沈された英重巡「コーンウォール」(⑤⑥)。沈没の渦に巻きこまれないよう、必死で泳ぐ乗組員たちの姿がとらえられている。
◆写真下は、1942年(昭和17)4月9日に南雲機動部隊の攻撃で沈没する英空母「ハーミズ」(⑦⑧)。は、陸軍航空士官学校で配布された写真ではなく、当時は非公開のインド洋作戦で撮影された第一航空艦隊(南雲機動部隊)。旗艦の「赤城」から後続する単縦陣の空母艦隊を撮影しており、「赤城」の右舷には空母「加賀」が並航していると思われる。単縦陣に写る艦は、前から空母「蒼龍」「飛龍」、高速戦艦の金剛型4隻(おそらく戦艦「比叡」「霧島」「榛名」「金剛」の順)、空母「瑞鶴」「翔鶴」だろうか。おそらく、軍艦マニアなら見飽きない1枚だろう。

江戸時代から96年間の1月22日。

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 先日、江戸時代から1958年(昭和33)までの1月22日に起きた出来事を整理した、データカードの束をいただいた。友人が父親の遺品を整理していたら、仕事で使われたのだろうか膨大な歴史記録カードが出てきて、1月22日の項目に整理されていたカードをくださったのだ。おそらく、大量のデータカードを管理する、小引き出しのついた図書目録カード仕訳器のようなものに保存されていたのだろう。1月22日は、わたしの誕生日だ。
 そのカードを見ていたら、いろいろと昔の情報整理のしかたを思い出してしまった。手軽なRDBMS(リレーショナル・データベース管理システム)など存在しなかった時代の、思いっきりアナログなカード整理の方法だ。わたしの親父も、盛んにカード整理をしていた。仕事で使っていたらしいが、家庭で趣味や遊びのほうにも活用していた。小さなカードに、テーマ別のインデックスを貼付し、菓子などの空き箱で作ったカード整理箱へ並べていくのだ。
 親父が作っていた整理カードは、東京の街々にある史跡や記念物の情報をはじめ、都道府県別に旅行した旅先の情報、読んだ本で気になった箇所の忘備録、寺社に安置されている美術品および開帳日・祭事の情報、芝居や能(謡曲)の作品情報、これから読みたい本…などなど、テーマ別に分かれたさまざまなカードだったように思う。箱に並べられているカードは、すでに整理されたもので検索ができるように仕分けがなされていたが、未整理のカードはこれまたテーマ別に分けられたベージュの大判図面袋に入れられ、本棚にたくさん並んでいた。おそらく、勤めていた役所Click!でも同じように図面整理や情報整理をしていたものだろう。
 もうひとつ、整理カードでは思い出すことがある。わたしが最初に勤務した職場では、研究員が盛んにハドソン・パンチカード・システム(ないしはケルン大学パンチカード・システム)を使って、統計的な処理を行っていた。日本で初めて、NECから日本語ROMを搭載した16ビットPCClick!(PC-9801無印)が発売されたころで、すでに簡単なカード型DBないしは表組型DBのアプリケーションが発売されていたはずだ。でも、その研究員は統計分析に、手馴れたパンチカードを使っていた。当時のPCは、記憶装置やプリンタまで一式そろえるとなると、高級コンポーネントオーディオが買えるほどの値段だったので、なかなか導入してもらえなかったのかもしれない。
 わたしは、かなり年上だったその研究員と話したり、カード検索の様子を見ているのが好きだった。分厚いカードの穴に、いくつかの横串(金属棒)を挿して空中でゆすると、パラパラと検索から外れたカードが落ちるという、まことに原始的なしくみだった。それを何度か繰り返し、最後まで金属棒にひっかかるカードが、最終的に選ばれた情報あるいは選ばれた対象物ということになる。研究員の周囲には、そんなカードを詰めた箱がいくつか積み上げられており、「どうやら、有意の差はなさそうだな」…というのが彼の口ぐせだった。でも、ちょっと考えてみるとおわかりのように、金属棒を繰り返し何度も挿しては使用するので、パンチカードの穴が破れ、落ちてはいけないカードまでが落下してしまったり、ふるいにかけるとき落ちるべきカードがそのまま棒にひっかかって落ちなかったりと、いまから見ればアナログならではの大雑把さが微笑ましい「システム」だった。
ハドソンソートパンチカード.jpg ケルンパンチカードシステム.jpg
 もうひとつ、カードが大量になると金属棒も比例して長くなり、重くてふるいにかける作業もたいへんだ。ひとりで、全身を使って踊りながら検索作業をしていたりすると、「〇〇さん(研究員の名前)、とうとういっちまったかな?」などといわれかねないので、「ちょっと、キミ手伝ってくれないか?」ということになる。カードの重量が増せば、それだけ1枚のカードにかかる圧力も増すわけで、ちょっとやそっと揺すっただけでは、なかなか落下しない。それに、パラパラと落下したカードを集めて元どおりにそろえるのも、けっこう手間のかかる作業だった。
 こうして、この種の整理カードや検索カードは、図書館の目録カードなどを除いては絶滅危惧種になってしまったけれど、久しぶりに目にした整理カードからいろいろな思い出がよみがえってきた。その昔、野毛にあった「ちぐさ」の吉田衛おじいちゃんClick!をまね、英文タイプを使って所有するLPレコードのディスコグラフィーを作っていたが、カードではなく2穴のバインダー形式のものだった。枚数が1,000枚を超えたころから、急に面倒になりやめてしまった。すでにPCのDBアプリが発売されていたが、また同じタイピング作業をしなければならないかと思うとうんざりで、二度と再びディスコグラフィーを作ろうなどとは思わなかった。親父を見ていても感じたのだが、おそらくこの手の整理術に、わたしはどこか性格が向いてないのだろう。
 書籍類は別にして、図書館や公文書館、資料室などでコピーした落合地域に関する膨大な資料やデータ類は、できるだけ画像化してPCあるいはクラウド上で管理するようにしているけれど、紙資料のままのものもたくさんあるのでファイリングすることになる。テーマ別や時代別に整理するのが当然なのだろうが、なかなか忙しくてそこまで手がまわらない。しかたがないので、ここでの記事に使用した“時系列”でクリアファイルに分別してまとめ、ファイルボックスに収容することにしている。つまり、記事の日付を見れば、その資料が入ったファイルボックスをおおよそ特定することができる…という、非常にいい加減なしくみだ。
 すでに、分厚いファイルボックスは12箱を超えているが、袋に入れただけの資料やバインダーに閉じただけのもの、段ボール箱に平積みの資料などもあちこちに散在している。むしろ、未整理の資料のほうが圧倒的に多くなっているのだ。こういう状況を見ると、ほんとうに樹木やパルプ資源がもったいないと感じるので、どのような書籍や資料でもいったん紙に出力せず、電子データのみで一気通貫的に完結し、利用できるしくみの時代が早く来ないだろうか。
パンチカードソーター1949.jpg 超アナログファイリングシステム.JPG
 最後に、いただいた歴史記録カードから、いくつか1月22日の出来事をピックアップしてみよう。
・1862年(文久元)1月22日(旧暦12月23日)
 福沢諭吉、箕作秋坪、寺島宗則(以上翻訳方)、福地桜痴(通弁)ら、遣欧使節に随行して品川を出帆。仏・英・蘭・普・露・萄を回り、文久2.12.10品川帰着
・1887年(明治20)1月22日
 東京電燈会社、移動式石油発電機を使い、鹿鳴館で白熱電灯を点灯(電燈営業の初め)
・1893年(明治26)1月22日
 歌舞伎狂言作者 河竹黙阿弥忌、浅草の鳥越座(旧中村座)焼失
・1905年(明治38)1月22日
 外相小村寿太郎、駐米公使高平小五郎に対し、講和問題に関する日本政府の意見を米大統領に伝えるよう訓令
・1916年(大正5)1月22日
 陸軍飛行船雄飛号、所沢・豊橋・大阪間飛行に成功、
・1921年(大正10)1月22日
 静岡県清水で、県水産試験場と漁船間に、初めて漁業用無線通信開始
・1922年(大正11)1月22日
 モスクワで開催の極東民族会議に片山潜、高瀬清、徳田球一ら出席
・1929年(昭和4)1月22日
 ナップ成立に伴い、日本プロレタリア美術家同盟[AR]結成
・1946年(昭和21)1月22日
 元板橋造兵廠で、大量の隠匿物資発見、人民管理で市民に自主配給、問題化
・1947年(昭和22)1月22日
 ヤミ取締のため、東海道線に武装警官警乗
・1958年(昭和33)1月22日
 日本初出席の国連安保理事会で松平代表は拒否権乱用を慎めと初演説
データカード2.jpg データカード3.jpg
 手書き、または記事の貼りつけでていねいに作られたカードだが、実際に維持・管理をされるのはスペースの問題も含めてたいへんだったろう。この種のデータは、画像も含めDB管理が容易になったけれど、世の中のスピードもそれに合わせあらゆる面でケタ違いに加速しているので、「データ管理の効率化=生じた余裕は他業務に専念」とはいかないのが、この世界のならいなのだ。

◆写真上:いただいた「1月22日」に関する、貴重なデータカードの束。
◆写真中上は、既定の項目ナンバーの穴を拡げて検索するハンドソートパンチカード。は、スイスのケルン大学が開発した似たようなケルンパンチカードシステム。
◆写真中下は、1949年(昭和24)にIBMが発売したパンチカードソーターシステム。は、電子データ化していない紙資料は超アナログファイリングシステムへ。(爆!)
◆写真下:いただいた「1月22日」カードのうち、1893年(明治26/)と1914年(大正3/)。

鎌田邸から眺めた1928年の下落合風景。

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鎌田邸跡路地.JPG
 山本和男・彩子ご夫妻Click!が保存されていた、松下春雄アルバムClick!には、大正末期から昭和初期にかけて落合地域の下宿(下落合1445番地)、あるいは借家(下落合1385番地)、そして自邸+アトリエ(落合町葛ヶ谷306番地→西落合1丁目303番地)周辺の風景を撮影した、きわめて貴重な写真類Click!が残されているのをご紹介してきた。1945年(昭和20)の空襲で、アルバムを焼失してしまったお宅が大半の中で、幸運にも戦災をくぐり抜けた稀有な例だろう。きょうは、松下アルバムに貼付されている、1928年(昭和3)5月ごろに撮影された下落合1445番地の鎌田邸と思われる、下宿の2階から見える風景について考えてみたい。
 松下春雄Click!が、下落合1445番地の鎌田家に下宿したのは、1925年(大正14)のことだった。このときから、1928年(昭和3)に下宿を引き払うまでの3年間、下落合の風景は激変Click!をつづけていただろう。あちこちで宅地造成の工事の音が響き、1922年(大正11)から販売がはじまった目白文化村Click!近衛町Click!を中心に、明治期には見られなかった現代の住宅街の姿へと直接つながる、ハイカラな大正の街並みが出現しようとしていた。目白駅や目白通りを中心に開発が進んでいた大正期から、1927年(昭和2)に西武電鉄Click!が開通すると、下落合西部や上落合西部までが郊外住宅地として、東京市街地から大きな注目を集めるようになる。
 この時期に「下落合風景」を連作していた松下春雄Click!をはじめ、佐伯祐三Click!笠原吉太郎Click!二瓶等Click!、そして宮本恒平Click!らは、そんな落ち着かない新興住宅地の中で仕事をしていたことになる。松下春雄は、下落合に残る緑ゆたかな森や草花、大きな屋敷の庭園などを画面に取り入れて描き、笠原吉太郎は、面白い画面が構成できる風景ポイントを、ややデフォルマシオンをきかしながら好んでタブローにしている。二瓶等は、その画題からいかにも下落合らしいオシャレでハイカラな街並みを写し、宮本恒平は第二文化村の界隈やその周辺域をモチーフに制作していたと思われる。ただ、佐伯祐三だけが昔から残る古い家屋や、まさにリアルタイムで開発がつづいている工事中の場所、また開発を終えたばかりでむき出しの赤土跡も生々しい新興の郊外風景が展開するポイントばかりを選んで、『下落合風景』シリーズClick!を制作していたように思える。
下落合1445鎌田邸路地.jpg 下落合1443木星社跡.jpg
下落合1445鎌田方.jpg 鎌田邸跡.JPG
 さて、松下アルバムに残る下落合の風景写真は、そんな環境の中で撮影されたものだ。下宿していた鎌田家の2階にある西側、ないしは南側の窓辺から身を乗りだし、南を向いて撮影していると思われる。1928年(昭和3)の当時、西武電鉄の下落合駅Click!は現在の聖母坂の下ではなく氷川明神の前Click!にあり、西坂Click!から落合第一小学校Click!にかけての尾根上は、いまだ明治末の名残りをとどめた華族の別荘や別邸が多く建ち並んでいただろう。それでも写真には、建てられて間もないと思われる一般の住宅らしい西洋館の姿があちこちに見えている。
 鎌田家の背後(北隣り)は、およそ400坪前後はありそうな滑川邸の敷地なのだが、その北側には箱根土地Click!が1924年(大正13)に販売をはじめた第三文化村の敷地が拡がっていた。古くから住む住民たちは、目白文化村などのハイカラな住宅街の姿に刺激を受けたのだろう、次々と洋風な住宅に建て替えはじめた時期でもある。松下春雄が写した風景は、そんな街並みの急激な変化をとらえたものだ。鎌田邸の路地を撮影した写真にも、突きあたりに滑川邸の西側母家らしい、おそらく建設されて間もない当時は新しい意匠だったと思われる洋館がとらえられている。
下落合1445番地眺望.jpg
下落合1445番地1936.jpg
 急激な変化をつづける風景の中で撮られた松下の写真だが、住みなれた旧・鎌田家の下宿2階の窓辺で独身生活を送った想い出の記念にと、画面左手は西坂のあるあたりから落合第一小学校の手前(東側)、画面右手の霞坂の通うあたりまでを画角に入れて撮影しているように思われる。鎌田邸のある敷地から、美術誌の出版社・木星社Click!が営業していた道路をはさんだ南側には、ずいぶんあとあとまで木々のまばらな林ないしは草原が拡がっていた。おそらく、地主が新たに建設された住宅群の庭へ樹木や草花を供給する、植木屋でも開業していたのではないかと想像するのだが、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」でも、また1936年(昭和11)に撮影された空中写真でも、南側の“空き地”はたいして変化がないように見える。
 ところが、周囲に建つ住宅の様子や住民名は一変していることに気づく。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を比べてみると、採取されている多くの家々や敷地で住民名が一致していない。松下春雄が撮影した下落合の風景は、東京市街地から新しい住民たちが次々と家を建てて移り住むか、地主がハイカラな借家を建てては新しい住民を誘致していた時期であり、下落合が田園風景の拡がるのどかな郊外の別荘地あるいは「文化住宅」街から、淀橋区の成立とともに東京市街地へと組みこまれる、ちょうど狭間の街並みを切りとった写真ということができるだろう。
 松下春雄は、自身の主要モチーフだったのどかな下落合の風景が、宅地開発の波で次々に損なわれていくのに失望したものか、鎌田家の次に借りた下落合1385番地の借家から、さらに西の阿佐ヶ谷の借家へ、そして落合地域へともどってはきても、当時は大正期に指定された「風致地区」の名残りが濃かった、田園風景が拡がる西落合Click!へと転居をつづけることになる。
下落合1445番地1947.jpg
 松下春雄がレンズを向けた方角には、モチーフに選んだ西坂の徳川邸Click!や落合第一小学校前の谷間Click!が、直接はとらえられてはいないものの崖線の斜面あるいは崖下に隠れていると思われる。この写真の時点では、霞坂の秋艸堂Click!には会津八一Click!が、おそらく小学校の騒音に悩まされながらも、いまだ暮らしていた時代だ。松下の作品には、場所がピンポイントで特定できない風景画が多いが、鎌田家の下宿2階から眺めた風景作品も含まれているのかもしれない。

◆写真上:大正期から昭和初期にかけ、右手に鎌田邸が建っていた下落合1445番地の路地。
◆写真中上上左は、1928年(昭和2)5月に撮影された鎌田邸路地。上右は、落合第一小学校へと抜ける道路の下落合1443番地にあった木星社跡(右手)の現状。下左は、鎌田邸敷地内の松下春雄が下宿していたと思われる建物。下右は、下落合1445番地の鎌田邸跡の現状。
◆写真中下は、1928年(昭和3)5月に下宿2階から南を向いて撮影されたと思われる風景。は、8年後の1936年(昭和11)の空中写真にみる撮影ポイントと写真画角。
◆写真下:さらに19年後の、1947年(昭和22)に撮られた空中写真にみる撮影ポイントと画角。

陸軍士官学校で配られた写真。(2)

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藤田嗣治「十二月八日の真珠湾」1942.jpg
 1941年(昭和16)12月8日の早朝、「帝国陸海軍ハ今八日未明 西太平洋ニ於テ米英軍ト戦闘状態ニ入レリ」という、ラジオの大本営陸海軍部発表による臨時ニュースで起こされた方々は、落合地域にもたくさんおられるだろう。当時、反戦を公然と唱える人間は特高Click!憲兵隊Click!により獄につながれ、「亡国」思想や「愛国」感情が席巻するなか、事実を論理的にとらえクールに直視する言論は、ことごとく統制・圧殺されていた。
 海外事情や情報に精通している人物ほど、「これはダメだ、バカなことを…」とひそかに絶句しただろう。下落合679番地(のち680番地)に住んでいた政治学者であり歌人の南原繁Click!もそのひとりだ。南原繁は12月8日の日記に、次のような3首の短歌を絶望感とともに書き残している。
  
 人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦う
 日米英に開戦すとのみ八日朝の電車のなかの沈痛感よ
 民族は運命共同体といふ学説身にしみてわれら諾はむか
  
 陸軍士官学校(陸軍航空士官学校=以下「陸士」)では、12月8日から間をおかずに真珠湾攻撃の模様を撮影した、海軍報道部の写真が配布(有償)されている。少し前に記事Click!を書いた、1942年(昭和17)前半における戦闘写真の、3~4ヶ月前にさかのぼる写真で順序が逆になるが、報道のメディアを通じて流布された印刷画像とは異なり、ネガから焼かれた精細な写真なのでご紹介しておきたい。これらの画像は、当時の新聞や雑誌に掲載されたものが多く、また現在でも歴史本や教科書に載っている有名な写真ばかりだ。
 写真は、海軍航空隊による雷爆撃を受けつつある、真珠湾に停泊していた米太平洋艦隊の主力艦群だ。おそらく、当時の新聞やグラフ誌を読んでいた方は、それぞれの艦名をすべてそらんじておられるのではないだろうか。画面左から、戦艦「ネバダ」、戦艦「アリゾナ」(内側)と工作艦「ヴェスタル」(外側)、戦艦「テネシー」(内側)と同「ウェストバージニア」(外側)、戦艦「メリーランド」(内側)と戦艦「オクラホマ」(外側)、そして画面右端に艦尾が見えているのが給油艦「ネオショー」だ。これらの主力艦は、ほとんどが沈没(沈座)や大破の損害を受けている。
 写真は、フォード島の北側に停泊していた艦船で、左から軽巡洋艦「デトロイト」と同「ローリー」、すでに転覆しているのは標的艦「ユタ」、右端が水上機母艦「タンジール」だと思われる。左端の「デトロイト」は、機銃掃射のほかに雷爆の被害を受けてはおらず、また機関の火を落としていなかったため、攻撃とともに出航準備をはじめている排煙の様子までがとらえられている。
①真珠湾米太平洋艦隊.jpg
②真珠湾米太平洋艦隊.jpg
③真珠湾米太平洋艦隊.jpg
 写真は、おそらく九七式艦上攻撃機による水平爆撃の様子を撮影したもので、二連装の250キロ爆弾が並んで投下されている様子がとらえられている。爆弾の先には、この水平爆撃で大爆発を起こして沈没する、激しく炎上中の戦艦「アリゾナ」の姿が見える。左端にいる戦艦「ネバダ」も機関を停止しておらず、港外へ脱出するために大急ぎで出航準備をしているのだろう、煙突からの排煙と思われる影がとらえられている。
 写真④⑤は、海軍航空隊が攻撃をはじめた直後に撮影された、もっとも有名な写真だ。写真は、写真の主力艦群を斜めフカンから撮影したもので、手前より戦艦「ネバダ」、戦艦「アリゾナ」(内側)と工作艦「ヴェスタル」(外側)、戦艦「テネシー」(内側)と同「ウェストバージニア」(外側)、戦艦「メリーランド」(内側)と戦艦「オクラホマ」(外側)、接岸中の給油艦「ネオショー」、そして右端には戦艦「カリフォルニア」がとらえられている。遠景で炎上しているのは、日本軍の爆撃を受けるヒッカム空軍基地だ。写真は、画家の藤田嗣治Click!が1942年(昭和17)に制作した『十二月八日の真珠湾』のベースとなった、戦艦「オクラホマ」に魚雷が命中した刹那のもの。
 写真⑥⑦⑧は1941年(昭和16)12月10日に撮影された、あまりにも有名なマレー沖海戦の写真だ。陸士ことに航空士官学校では、陸軍の九六式陸上攻撃機も参加した作戦だったため、大々的に喧伝された写真ではないただろうか。写真は、社会科の教科書にも載っていた、爆撃下の英東洋艦隊(Z部隊)の戦艦「プリンスオブウェールズ」(上)と巡洋戦艦「レパルス」(下)で、写真⑦⑧は各艦の拡大写真だ。現役で作戦行動中の戦艦が、初めて航空機のみの攻撃で撃沈された戦闘であり、航空機の軍事的な優位性を決定づける海戦でもあった。画家の中村研一Click!が1942年(昭和17)に制作した『マレー沖海戦』では、画面に描かれていたのが海軍の一式陸上攻撃機のみだったため、航空士官をめざす陸士の学生たちは悔しがったのではないかと思われる。
④真珠湾米太平洋艦隊.jpg
⑤真珠湾米太平洋艦隊.jpg
 街では「勝った勝った、また勝った!」と浮かれ、あちこちで提灯行列が行なわれているさなか、刹那的な感情に押し流されず、懐疑的な視座を失わなかった人々は、どのような生活を送っていたのだろうか。「偏奇館」の永井荷風が書いた、『断腸亭日乗』(岩波書店)から引用してみよう。
  
 十二月八日
 褥中小説『浮沈』第一回起草.哺下土州橋に至る。日米開戦の号外出ず。帰途銀座食堂にて食事中燈火管制となる。街頭商店の灯は追々消え行きしが電車自動車は灯を消さず。省線は如何にや。余が乗りたる電車乗客雑踏せるが中に黄いろい声を張上げて演舌をなすものあり。
 十二月九日
 くもりて午後より雨。開戦の号外出でてより、近鄰物静になり来訪者もなければ半日心やすく午睡することを得たり。夜小説執筆。雨声瀟々たり。
 十二月十日
 雨歇み午後に至って空霽る。
 十二月十一日
 晴。後に陰。日米開戦以来世の中火の消えたるやうに物静なり。浅草辺の様子いかがならむと午後徃きて見る。六区の人出平日と変りなくオペラ館芸人踊子の雑談また平日のごとく、不平もなく感激もなく無事平安なり。余が如き不平家の眼より見れば浅草の人たちは堯舜の民の如し。仲見世にて食料品をあがなひ昏暮に帰る。
  
⑥マレー沖海戦.jpg⑦英戦艦プリンスオブウェールズ.jpg
⑧英戦艦レパルス.jpg 中村研一「マレー沖海戦」1942.jpg
 わたしが子どものころ、近所の友だちから「軍艦じゃんけん」を教えてもらったのを憶えている。「軍艦、沈没、ハワイ」と、じゃんけんのグー・チョキ・パーを使った他愛ない遊びなのだが、このバリエーションは日本海軍による真珠湾攻撃の直後に生まれたのだと、まもなく気がついた。おそらくその友だちも、1941年(昭和16)には小中学生だった親から教えてもらったものだろう。

◆写真上:1942年(昭和17)に制作された、藤田嗣治の『十二月八日の真珠湾』。
◆写真中上中下:陸軍航空士官学校で配布(有償)された、1941年(昭和16)12月8日の真珠湾攻撃の記録写真。八つ切りの印画紙に焼かれ、画面は驚くほど鮮明だ。
◆写真下上左は、同じく陸士で配布された陸軍航空隊も参加しているマレー沖海戦の記録写真。陸海軍の航空隊による空爆下の、戦艦「プリンスオブウェールズ」(上右)と巡洋戦艦「レパルス」(下左)。下右は、1942年(昭和17)に制作された中村研一『マレー沖海戦』。

故郷にはもどらなかった小島善太郎。

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「武蔵野の丘」1928.jpg
 明治末から大正初期にかけて戸山、大久保、四谷、そして落合などの風景画を残している小島善太郎Click!は、生粋の“新宿”生まれだ。小島は1891年(明治24)11月、豊多摩郡淀橋町柏木に生まれているが、一時期の浅草区七軒町へ丁稚奉公へ出ていた時期などを除き、父母が住んでいた下落合や書生時代の大久保など、今日の新宿区内を転々としている。
 やがて、絵の才能を認めてくれた大久保の陸軍大将・中村覚Click!の家から渡仏することになるのだが、それまでの生活は彼にとって思い出したくもない出来事の連続だったろう。裕福な家に育った画家が多い中で、小島善太郎Click!はリアルに餓死を心配しなければならない困窮をきわめる家庭環境だった。父母は病死し、兄は家から出奔したまま行方不明、妹は浅草で殺害されるなど、20歳すぎまでの彼は想像を絶する辛酸をなめている。
 小島善太郎が残した著作にも、この時代のことを刻銘に記した文章はほとんどない。生い立ちに触れた著作でも、どこか抽象的な表現でぼんやりとその概要や経緯に触れている程度に感じる。原稿を書くことが好きだったClick!と思われる小島だが、やはりこの時代のことを思い出して著すのが苦しかったのだろう。でも、親友だった竹岡勝也の手もとには、少なくとも小島がフランスから帰国するまで、彼の「膨大な自叙伝」が残されていた。小島が中村家の援助で渡仏する際、万が一のことを考えて克明な自叙伝を竹岡に託していったのだ。
 1933年(昭和8)11月に出版された、『独立美術』第10号小島善太郎特集において、竹岡勝也はその事実を「あの頃の小島君」で明らかにしている。小島と竹岡は、よくロシア文学の話をしていたようで、ときに絵画や音楽にも話題がおよんだ。もっとも親しかったその竹岡に、小島は渡仏するにあたり書きためた詳細な自叙伝を預けていった。竹岡は、小島善太郎が風景画家をめざしたいきさつを、次のように分析している。同誌に掲載された、「あの頃の小島君」から引用してみよう。
  
 教会にも通つて見たが人生は依然として暗い渦巻を続けて居た。小島君は遂にその暗い深淵に飛び込まうとした。二度ばかり自殺を計(ママ)つて見(ママ)たのであつたが、その度に不思議な力が内から込み上げて来る事を覚えて、剃刀を握つた手を弛めなければならなかつた。そしてよくその冷厳な人生から逃れては草原の上に寝転んで居た。其処には木立を洩れて来る和かな春の日射しがあつた。自然は暖く平和であつた。全くその頃の小島君に取(ママ)つて、自然は母の愛にも代るものであつた。傷付いた胸を抱き取つて呉れるものは自然より他に求める事が出来なかつた。自然を描く事に依つて自然の胸に抱かれる。其処に小島君の新なる生活があり、また唯一つの慰安があつた。かくして小島君は風景画家としての第一歩を踏み始めたのであつた。
  
独立美術10_1933.jpg 1930年協会5回展1930.jpg
 20歳ぐらいまでの人生を詳細に綴った、小島の「膨大な自叙伝」が現存しているかどうかは不明だが、この原稿を下書きとして1968年(昭和43)に出版された小島善太郎『若き日の自画像』Click!(雪華社)が書かれているのだろう。ただし、竹岡が預かった「自叙伝」のほうが、より赤裸々かつ詳細に記されていたようだ。竹岡が回顧している細かなディテールには、『若き日の自画像』には見られない生々しい情景も含まれている。
 小島善太郎はフランスやイタリアからもどると、馴染みがあり土地勘もある大久保地域や落合のエリアにはもどらなかった。多大な援助をしてくれた大久保の中村覚が、すでに病死してこの世にいなかったせいもあるのだろうが、彼は帰国直後の1924年(大正13)、結婚すると同時に荏原郡駒沢町下馬555番地(現・世田谷区下馬)へ新居をかまえている。翌1925年(大正14)に里見勝蔵Click!前田寛治Click!、木下孝則たちと1930年協会Click!を結成することになるのだが、多くの画家たちが落合地域とその周辺域へ集合しはじめていたにもかかわらず、小島善太郎は駒沢町から動こうとはしなかった。画家への道を援助してくれた、中村家のある大久保地域はともかく、忌まわしい思い出がよみがえる下落合へは、二度と足を踏み入れたくなかったのではなかろうか。
 1930年(昭和5)に1930年協会が解散し、里見勝蔵らとともに独立美術協会Click!を創立すると、翌々年の1932年(昭和7)、小島はさらに東京の市街地から離れた南多摩郡加住村中丹木(現・八王子市丹木町)のアトリエに移住している。小島は、加住村にアトリエが完成した直後の想いを、同誌へ書き残している。『独立美術』第10号掲載の「自省回顧」から引用してみよう。
「静物(くだもの)」1922.jpg 文房堂コピー.jpg
  
 この田舎の家に漸く画室が出来、ホツとした。そしてボツボツ仕事を初(ママ)め出した。仕事を初めると気になる。次から次へと感心が走しる。休んでゐられなくなる。こんな時用事ができるのは本当に辛い。セザンヌが親が死んでも理由つけて葬式にも出なかつた程作慾の方を重んじた気持が懐かしめる。考へると帰朝以来雑用で多くの時を無駄に過したことが惜まれてならない。/これからは充分仕事に親めるだらう。訪問してくれる人の少いのも淋しいものだが、仕事をする人には孤独の方がよい。孤独はより精神的になれ得る。/或る意味には隠遁の様な気もする。しかし自分の仕事の為めに適地に入るのだから、必ずしもそうとは思はない。只時代と離れる様な気がする。しかしそれも都会的なものだけからかも知らぬ。現実味の上では却つて質朴な、生活と闘つてゐる農夫の間にゐた方がいいかも知れない。偽瞞(ママ)の都会生活よりは単純で真当(ママ)なものがある様にも見える。/そうは思ふもののうつかりするとノンキになる。都会の激しさから較べると刺激は少いし勝手な時が過ぎる。それではここに来た理由もなくなる。
  
 小島善太郎は、生粋の新宿生まれの画家にもかかわらず、地元ではあまり目立たない存在となっている。特に落合地域では、先祖代々の墓Click!が下落合(のち近くの寺へ改葬)にあったにもかかわらず、ほとんど話題にのぼることがない。小島の青春時代は、19歳のときに大久保の中村家へ書生として入り、またフランス(つづいてイタリア)への絵画留学からスタートしているのであり、それ以前の生活は、できれば記憶から消去してしまいたいほどの苦痛に満ちたものだったろう。
「女の子」1933.jpg 『風景」1933.jpg
 小島が帰国後、故郷から離れて世田谷へ、そして仕事がまわりはじめたころ八王子へと、徐々に新宿から遠ざかっていくところに、そして「田舎に入つたことを喜んでゐる。画家は作画にふけつてゐる時程強味はないから。そして幸福だ」と書くその裏側に、多感な時代を考えられる限りの不幸のどん底ですごさなければならなかった経緯を、ことさら読む側に強く想起させるのだ。

◆写真上:駒沢町で制作されたと思われる、1928年(昭和3)の小島善太郎『武蔵野の丘』。
◆写真中上は、1933年(昭和8)11月に発行された『独立美術』第10号小島善太郎特集の表紙。は、1930年(昭和5)の東京府美術館で開かれた1930年協会展での小島善太郎。記念写真に川口軌外が写っているので、おそらく1930年(昭和5)の第5回展だと思われる。
◆写真中下は、1922年(大正11)制作の小島善太郎『静物(くだもの)』。は、文房堂による国産の油絵具発売を記念して小島善太郎が画家カタログに寄せたコピー。
◆写真下:いずれも『独立美術』第10号様に制作された素描で、『女の子』()と『風景』()。

「東京詩学協会」=外山卯三郎の仕事。

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 先日、ネットオークションに下落合1146番地の「東京詩学協会」が1927年(昭和2)6月に出版した、『詩集・ジアニインの歌章』(外山卯三郎・訳)の特製限定50部版が出ていて、めずらしいので入手した。(安価だった) 「東京詩学協会」Click!とは、もちろん外山卯三郎の自宅Click!のことだ。佐々木久二邸Click!の東隣り、現在ではフジオ・プロClick!がある一帯の敷地だ。
 『詩集・ジアニインの歌章』は、特製限定版が50部、限定版が300部、そしてほかにも普及版があったと思われるが、特製限定版50部は当時の定価で5円ととても高かった。装丁にもたいへん凝っていて、布張りに観音開き仕様の豪華な函に入っており、扉を閉じているのは象牙製あるいは鹿角製と思われるクサビ状の綴じ具。詩集の本体は和綴じ本で、劣化や変色がしにくい厚手の用紙に、印刷品質も当時の上質な活字が用いられている。
 原書に挿入されていた挿し絵13点は写真製版で印刷され、表紙の真っ赤なラメ入りの和紙には、ギリシャ神話のハーピーのような“鳥女”を描いた版画が、1枚1枚手作業で貼付されている。版画には、「u.t/1927」のサインが入っているので、おそらく外山卯三郎自身が制作して50冊全部に貼っているのだろう。1927年(昭和2)の当時、外山卯三郎は1930年協会Click!とともに活動していた時期であり、事実上、同協会のスポークスマン的な役割りをはたしていた。
 当時の外山卯三郎は、笠原吉太郎アトリエClick!へ西洋画を習いに通っていた、ひふみ夫人Click!と結婚する2年ほど前であり、大学を出たばかりのころだろう。結婚と同時に、里見勝蔵Click!とともに井荻の西武住宅地Click!へ新居を建て下落合の実家を出ているので、その時点で東京詩学協会もまた、下落合から井荻へ移転しているものと思われる。本の内扉の次に、「此の拙なき訳詩集を/南江二郎氏に捧ぐ」という献辞ページが挿入されているが、南江二郎は詩や文学、演劇などの和訳を手がけていた同時代の翻訳家で、外山もいろいろと和訳上のアドバイスを受けていたと思われる。おそらく、外山の大学の先輩にあたる人物でもあるのだろう。
 『詩集・ジアニインの歌章』は、Jeanne Alain(ジャンヌ・アラン)というパリ在住の女性が1924年(大正13)に書いたものだが、この“詩人”については外山自身もどのような女性なのかまったく知らず、また現在でもフランスの詩人にジャンヌ・アランという女性は見あたらない。外山は、同詩集の原書を読んで感動し、急に翻訳を思い立ったようだ。出版からわずか1年余で、フランスの新刊詩集が日本へ輸入されている点に留意したい。外山の序文を、短いので全文引用してみよう。
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 「ジアニインの歌章」は如何に私の心をひいたことでせう! 私は限りなくこの詩を愛するのです。此の私のこゝろが拙ない訳をさせてしまつたのです。然し私はどうしても此の詩を忘れることが出来ないのです。それは失へる恋ひ人のまぼろしの様です。/「ジアニインの歌章」は如何に私の心をひいたことでせう! 私は心からこの詩が好きなのです。私はジアンヌ・アーランを知らないのです。然し私はパリイのソシエテ・ミユチユエユ・デデイシヨンから出た此の詩集を愛するのです。此の美しい詩が、限りなく私を魅するのです。それは恰かも彼女の唇の様です。/Lado Goudiachviliの挿絵の如何に鋭いことでせう! ピアズリイの絵の白銀の様に冷たいのに反して、ラドウの絵のいかに悩ましく又感覚的な鋭敏さをもつことでせう! ジアンヌは文字によつてそのこゝろを歌ひ、ラドウは線によつて其の心を描うとするのです。私はジアンヌの詩を愛すると同じく、又ラドウの線を愛するのです。/私は唯だ一九二四年の十二月二十日にうすらさむいパリイのかたすみのルウ・サンーモオル街百十番地の「アンデパンダン」で印刷された、此の不思議な詩集を愛し、今東京のかたすみからほがらかな太陽を慕ひつゝ此の訳詩集を人々の前に送るのです。
       一九二七年六月一日     下落合にて   外山卯三郎識す
  
 詩集の内容はといえば、上流階級のサロンへ出入りしていたと思われる著者のジャンヌ・アラン(筆名?)という女性が、自分から離れていこうとする恋人との想い出や、その恋い焦がれる気持ちを感情的かつ刹那的なワードを散りばめて綴った、まるで砂糖菓子のような甘ったるい恋愛詩で、わたしなどは「なんだかな~…」の感想しか持てない作品なのだが、これを読んで感動した外山卯三郎は、まさにひふみ夫人との恋愛の真っただ中にいたのかもしれない。おそらく外山が後年、この序文を読みなおす機会があったとすれば、ひそかに赤面していたのかもしれない。
挿画1.jpg 挿画2.jpg
「ロシュテファン王とアワタンディの狩猟」不詳.jpg 「Brouiquel風景」1923.jpg
 ジャンヌ・アランは相当なおカネ持ちだったらしく、パリ郊外の別荘へ出かけたり、自由に遠出や旅行ができたりする女性のようで、ひょっとすると既婚で子どもさえいたのかもしれない。サロンの華だった時代が忘れられず、当時の取り巻きのひとりだった若いツバメが忘れられず、追いかけつづけた有閑マダムの恋愛詩集…という匂いさえ、そこはかとなく感じとれる。外山が手にした原書は、ひょっとすると彼女自身が制作費と印刷費を全部負担し、自費出版したものなのかもしれない。自分から離れていく男にも、1冊贈っていたりするのだろうか?
 同詩集に挿画を提供しているLado Goudiachvili(ラドー・ゴウディアチビリー)は、1920年代にパリのモンマルトルやモンパルナスあたりに在住したロシア人画家で、いわゆるエコール・ド・パリの一員だった。歴史的な逸話や情景を描くのが得意だったらしく、また本の挿画も数多く手がけており、現在でも世界じゅうのギャラリーで作品を観ることができる。『詩集・ジアニインの歌章』のジァンヌ・アランと知りあったのも、おそらくパリのサロンでなのだろう。この裕福な女性詩人は、ひょっとするとエコール・ド・パリにいた若い画家たちの庇護者のひとりだったのかもしれず、当時ほかにも詩集を出版していて、挿画を若い画家たちに担当させていたのかもしれない。
 外山卯三郎が訳した、特製限定50部の装丁は非常に豪華なものだが、パリで出版された原書の装丁もまた、とても凝った意匠をしていたのではないだろうか? ひょっとすると、このジャンヌ・アランの詩集は当時のパリ社交界で評判となり、本書をめぐりさまざまなエピソードやゴシップを残しているのかもしれない。だからこそ、流行詩集ということで日本に輸入された可能性が高い。
「カフェ・モンパルナス」1925.jpg 「タイトル不詳」.jpg
ラドー・ゴウディアチビリー1925.jpg 象形文字蔵書印.jpg
 入手した特製限定50部『詩集・ジアニインの歌章』の表2対向ページに、大きくて立派な蔵書印が押されている。古代中国の、いまだ漢字へと進化していない象形文字を2文字あしらったようなデザインなのだが、右側に象形文字で「〇山」、左側に篆書体で「蔵書」と刻まれている。古代芸術にも造詣が深かった外山卯三郎なのだが、もし「〇山」が「中山」ではなく、「外山」を表わす象形文字だったとすれば、わたしは外山卯三郎が保存していた蔵書を手に入れてしまったことになる。「中(内)」の反対は「外」なので、「外」の象形が気に入らなかった外山が、「中」の文字から「外」側へとなびく“フラグ”のような形象をデザインして、「外山」と読ませているのかもしれない。

◆写真上:下落合1146番地の東京詩学協会=外山卯三郎が1927年(昭和2)に翻訳して出版した、凝った装丁のジャンヌ・アラン『詩集・ジアニインの歌章』(特製限定50部版)の外函。
◆写真中上は、同書の表紙()と奥付()。は、中面見開きページ。表紙の版画には「u.t./1927」のサインがみえるので、おそらく外山卯三郎自身の作品だろう。
◆写真中下は、ラドー・ゴウディアチビリーによる『詩集・ジアニインの歌章』の挿画13点のうちの2点。下左は、ラドー・ゴウディアチビリー『ロシュテファン王とアワタンディの狩猟』(制作年不詳)。下右は、1923年(大正12)に描かれたラドー・ゴウディアチビリー『Brouiquel風景』。
◆写真下上左は、1925年(大正14)制作のラドー・ゴウディアチビリー『カフェ・モンパルナス』。上右は、制作年およびタイトル不詳の挿画らしいラドー・ゴウディアチビリー作品。下左は、1925年(大正14)に撮影されたラドー・ゴウディアチビリー(左端)。下右は、表2対向ページの蔵書印。


三岸好太郎・三岸節子アトリエを拝見。(上)

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 先日、中野たてもの応援団の十川百合子様よりご連絡をいただき、中野区の鷺宮に1934年(昭和9)11月1日竣工の三岸好太郎・三岸節子アトリエが現存していることを知った。三岸好太郎は大正末から昭和初期にかけて、フォーブからシュルレアリズムへと突き進む洋画界の“鬼才”といわれる画家であり、三岸節子は戦前・戦後を通じて日本を代表する女流画家として高名だが、落合地域との直接のつながりはほとんどない。ところが、過去にこちらでも何度か記事に取りあげているけれど、間接的には落合地域とのつながりがきわめて濃厚な画家たちなのだ。
 まず、下落合に住んだ里見勝蔵Click!前田寛治Click!林武Click!あるいは実家があった小島善太郎Click!外山卯三郎Click!、そして佐伯祐三Click!たちが結成した1930年協会Click!の発展的な解散後、独立美術協会が改めて結成されるが、三岸好太郎はその発起メンバーのひとりだった。落合地域には、独立美術協会へ作品を出品した林重義Click!川口軌外Click!などの画家たちが数多く住み、曾宮一念Click!もそのひとりだった。
 上落合にあった牧舎風のアパート「靜修園」Click!や、下落合の目白文化村Click!の敷地内に建っていたモダンなアパート「目白会館」Click!には、独立美術協会へ出品をめざす画家たちが住みついて部屋をアトリエがわりに使用しては制作をつづけていた。特に佐伯祐三アトリエClick!の西130mほどのところ、第三文化村の敷地内にあった「目白会館」には、独立美術協会の本多京や、近くにアトリエClick!があるにもかかわらず曾宮一念も、一時期暮らしている。
 三岸好太郎は1921年(大正10)3月、東京美術学校(建築科)に合格した親友の洋画家・俣野第四郎とともに札幌から東京へやってくると、一時的に目白台や雑司ヶ谷、上戸塚(現・高田馬場)、巣鴨などの下宿を転々としている。そして働きながら、休日になると下落合や池袋などの郊外風景を写生して歩いていた。当時の画風は、岸田劉生Click!を中心とした草土社Click!風のものが多かった。その様子を、1969年(昭和44)に出版された田中穣『三岸好太郎』(日動出版)から引用してみよう。
  
 日曜や泊まりあけの日というと、板橋、池袋、高田馬場、下落合あたりの写生に出かけた。昔をいまに呼びおこす名残りさえいまの東京にはなくなったが、当時のその辺の風景は点在する藁屋根と茶畑の連なりであった。札幌出のかれには桐の木なども珍らしく、好んでスケッチしたものだといわれるが、朝からの写生のあとは決まって神田に行った。
  
 三岸好太郎が制作した『オーケストラ』あるいは『新交響楽団』シリーズのモチーフは、下落合の目白中学校Click!の東隣り、近衛新邸Click!に兄・文麿とともに住んでいた近衛秀麿Click!が率いる新交響楽団(新響)Click!であり、三岸好太郎も目白の愛人とともに聴いたであろう日比谷公会堂の演奏会は、上落合の村山知義Click!の妻・村山籌子Click!が自由学園を介してひそかにチケットをとどけたらしい小林多喜二Click!も聴いている。また、三岸好太郎と三岸節子の共通の友人として、アビラ村(芸術村)Click!に住んだ吉屋信子Click!が、第一文化村の北側にあったアトリエへ足しげく通った、下落合の中出三也Click!甲斐仁代Click!がいる。さらに、こちらでも林重義や佐伯祐三関連で記事を書いた伊藤廉Click!も独立美術に参加しており、またわたしの東京弁がらみでご紹介した子母澤寛Click!は、三岸好太郎の異父兄にあたる。すなわち、三岸好太郎の生涯を追いかけていると、どこかで落合地域の画家や人物たち、あるいは当サイトの記事と色濃くつながってくるのが面白い。
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三岸アトリエ初期1.jpg 三岸アトリエ初期2.jpg
 また、三岸節子も落合地域や隣りの上戸塚地域とのつながりが濃い。まず、松下春雄Click!鬼頭鍋三郎Click!らが名古屋で結成した画会「サンサシオン」Click!へ、愛知県起町出身の三岸節子は作品を出展している。「サンサシオン」の主要メンバーたちは、大正期後半から昭和初期に落合地域へ次々と集合しはじめるが、三岸節子はどこかで彼らとの接点をもっていただろう。
 さらに、落合地域の南にあたる上戸塚には、戦後に女流画家協会をいっしょに起ちあげた藤川栄子Click!のアトリエがあった。三岸節子が「可愛い人」Click!と表現する藤川栄子との友情は、1983年(昭和58)に藤川栄子が死去するまで変わらなかった。同年の夏、ふたりはほぼ同時にそろって入院しており、お互い電話をかけて励まし合っていたが、藤川栄子は不帰となり三岸節子は回復している。藤川栄子は、1930年協会展にも作品を出展しており、佐伯祐三アトリエを頻繁に訪れては、佐伯や妻の米子とともにイーゼルを並べて制作Click!している。戦後、女流画家協会の発起人に佐伯米子Click!が加わっているのは、藤川栄子のつながりだろう。
 まだまだ細かなところで、三岸夫妻と落合地域とのつながりは色濃いのだけれど、わたしの個人的なつながりとしては、湘南の大磯Click!というテーマもある。1964年(昭和39)から、三岸節子は大磯町の通称「代官山」と呼ばれる丘陵にアトリエをかまえていたので、わたしは子どものころハイキングで近くを何度となく歩いている。「有名な画家のアトリエがある山」として地元では知られており、高麗山Click!から湘南平Click!(千畳敷山)、さらに高田保公園Click!へと抜けるコースのついでに、代官山まで足をのばすことがあった。つまり、小学生から中学時代のわたしは、期せずして三岸節子と静寂で光まばゆい大磯風景を共有していたことになる。彼女の大磯に対するイメージを、1977年(昭和52)に求龍堂から出版された、三岸節子『花より花らしく』から引用してみよう。
  
 私は大磯に移り住んで太陽画家となった。風景画への開眼はここで初めて可能となり、静物に、花に、太陽が必ず登場する。/太陽こそ生命。エネルギーの源泉。活力源。/樹木が太陽に向って手をさしのべるように、視界いっぱいの蒼穹、両手をさしのべて太陽賛歌に欣喜雀躍する。/ここで私は、とびきり明るく、快活で、自由で、奔放になる。
  
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 さて、前置きがたいへん長くなってしまったが、鷺宮に現存する三岸アトリエのテーマにもどろう。三岸好太郎は、1929年(昭和4)に田畑が拡がり茅葺き屋根の農家が点在する、西武電鉄Click!沿線の旧・野方村上鷺宮407番地にアトリエをかまえている。これが、第一アトリエと呼ばれる初期アトリエで、現存する1934年(昭和9)築のアトリエの北側に建っていたものだ。
 つづいて敷地の南側に、よりモダンで最先端のアトリエを建設しようと、ドイツの美術・建築の総合教育機関であるバウハウスの留学から帰国した、建築家・山脇巌に設計を依頼している。山脇巌は、三岸好太郎と打ち合わせをするたびに、アトリエのデザインが次々と変更になるので設計にはかなり苦労したらしく、都合3回も図面を描きなおしている。その様子を、1942年(昭和17)にアトリエ社から出版された山脇巌『欅』所収の、「三岸好太郎氏の画室」から引用してみよう。
  
 話しのはじまつたのは今年(1934年)の三月頃だつたらうか、決定までに三回ほど図面を引き直して見せた。旅行から還るとその度毎に三岸氏らしい新しい夢を持つて帰つて来る、話しを聞くと面白い、必然性がないだけに理屈でむげに退けられない。この考へを入れてもう一案と、つい自分にも慾が出る。最後の決定案が出来たのは名古屋へ立つ前の晩だつた。施工を請負ふN氏も、その晩は一緒に話しを聞いて貰つた。限られた多くない予算で、相当豪奢な気持の三岸氏の要求にそふ為予算の割当てに三四日を要した。/四月号の雑誌「アトリエ」に氏の話として『----こんどのアトリエは北に壁をつけて他の三面は全部ガラスにしてしまふ----ガラスの建築をやらうと思つて居る----』 三岸氏一流の考へも、木骨構造には困難を伴ふが曲りなりにも少しは希望を入れる事が出来た。/画室の中にはスパイラルの階段を必ずつけて貰ひたいと、ずつと以前から云つてゐた。この螺旋階段には少なからず魅力を感じて居たらしい。階段の途中から仕事を見下すのはいゝもんだよ、このあたりには氏の持つ芝居気が見える。(カッコ内は引用者註)
  
 三岸好太郎は、自身でアトリエの完成予想イラストを描きながら、細かな要望を山脇に伝えていたようだ。一見するとコンクリート建築のように見え、当時の美術誌などでは「コンクリート」と書かれている記事もあるが、昭和初期としては超モダンな木造モダニズム建築であり、下落合に多く建っていた尖がり屋根のアトリエ建築とは本質的に異なっている。
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 しかも、メインの採光窓が北側ではなく南側にあり、アトリエ建築としてはきわめて異色なデザインをしている。では、アトリエ内部を拝見してみよう。三岸好太郎・三岸節子アトリエに到着すると、さっそく玄関でお迎えくださったのは、三岸夫妻の長女である陽子様の長女・山本愛子様だ。
                                                 <つづく>

◆写真上:旧・上鷺宮407番地に現存する、モダニズム建築の最先端を体現した三岸アトリエ。
◆写真中上上左は、北海道札幌にある道立三岸好太郎美術館Click!に収蔵されている三岸好太郎『自画像』(1921年)。好太郎の主要作品の多くは三岸節子が買いもどして保管し、のちに寄贈を受けた同美術館に収蔵されている。上右は、愛知県一宮市にある三岸節子記念美術館Click!の三岸節子『自画像』(1925年)。観るものに切々と訴えるような気迫が感じられ、のちに同作を観た吉武輝子や澤地久枝が節子をテーマとした評伝を出版している。は、建築当初に撮影された三岸アトリエを南側から見た外観で、南面する巨大な窓()と池があった東側テラス()。
◆写真中下上左は、現在はアルミサッシに取り替えられている南面の窓を下から。上右は、三岸好太郎がこだわった建築当初のままの螺旋階段。階段上の中2階は書斎兼書庫で、その真下には応接スペースがあった。は、竣工直後の外観()とアトリエ内部()の様子。壁面には、好太郎の晩年作である1934年(昭和9)制作の『海と射光』と『雲の上を飛ぶ蝶』が見える。
◆写真下は、1934年(昭和9)のアトリエ着工前後に描かれた三岸好太郎の素描『アトリエ』。は、現在のアトリエにある玄関()と、手づくりのドアノブがめずらしい玄関ドア()。

三岸好太郎・三岸節子アトリエを拝見。(中)

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 三岸好太郎・節子夫妻のアトリエ記事をスタートしたところで、当サイトの読者がのべ700万人を超えた。いつも記事をお読みいただき、ほんとうにありがとうございます。最近、ビジターの目立つ記事は、やはり中村彝アトリエ記念館をめぐる関連テーマで、PVがとびぬけて集中している。三岸夫妻の記事も人気が高く、アトリエ拝見(上)をアップしてからのビジターがたいへん多い。
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 田畑が多く、茅葺き屋根の点在する東京郊外の風景に、三岸好太郎が設計した超モダンなアトリエClick!が出現したとき、周囲の衝撃は想像以上だったろう。それは、同じく田畑だらけで茅葺き屋根の農家が点在する大正期の上落合に、ポツンと村山知義Click!の異様な三角アトリエClick!が出現した以上の驚きだったのではないだろうか。光あふれる明るい画室にしたかったようなのだが、山本愛子様によればアトリエの南側に建っていた茅葺き屋根の農家2軒がよく見えるように…というのが、天井まである南側の巨大な採光窓の設置理由だったらしい。
 南に採光窓のあるアトリエは、夜間に多くの仕事をする画家には往々にしてあるそうなのだが、当時としては異色の設計だったろう。三岸好太郎は伝記を読む限り、徹夜で仕事をこなす画家だったようだ。彼は、アトリエの骨組みがようやくできた1934年(昭和9)7月に、名古屋の旅先でわずか31歳で急死してしまうため、この新しいアトリエの完成を見ることができなかった。同年11月にアトリエを竣工させたのは、好太郎の意志を継いだ三岸節子だった。
 その後、新アトリエで仕事をするのは三岸節子なのだが、彼女が制作している写真を見ると、北側にうがたれた細長い窓のすぐ下にイーゼルをすえて、できるだけ安定した光のもとで描いているのが面白い。アトリエをめぐる三岸節子の文章を、『花より花らしく』から再び引用してみよう。
  
 私が名古屋で最後に別れた時、十日もたてば殆んど建築の予算の目当てもつき、帰京できると、しばしの別れと思ったのにこれが永別となってしまった。今でも廊下に消えてゆく、あの重々しい後ろ姿が目に沁みる。/さて取り残された幼い者と四人、この索漠とした空虚のなかに、この住居の前面、巨大な骨格の骨組みがおおいかぶさって、朝夕を暮さねばならないということは、なんとしても落ち着きのない不安な生活である。(中略) アトリエの姿が次第に形を整える。/壁は純白に塗られ、池は水を湛え、三岸の執着したラセン階段は銀白に塗ってとりつけられ、すべて白と黒と銀灰色に限られた色面、太陽は室内の九分通りまで光が浸してさんさんと陽光を浴びる。/池に面したテラスで鋼鉄の椅子や卓を置き、ビーチパラソルを芝生に立て、黒ガラスのファイヤプレスにガラスの卓、ガラスのお茶のセット、すべてが近代の感触ガラスずくめの夢、夢。三岸の脳裏に描いた抽象絵画の住宅化、他人ごとのようにうつけて聞いたその幻を、いま現実の姿におきかえて、私は数日茫然とできあがりゆくアトリエを眺めまわして暮れている。
  
 1934年(昭和9)11月1日に完成した現存するアトリエは、当初、1階は吹きぬけの画室と応接スペース、2階には書斎兼書庫が設置されていた。また、アトリエのテラスにはハスの花を浮かべる四角い池があったそうだが、現在は1階の画室と応接室の間が壁で仕切られ、また戦後、三岸節子がフランスから帰国したあと、応接室の東隣り(テラスと池があったところ)に南欧風な暖炉のある部屋が増築されている。また、画室には2階の書斎へとのぼる螺旋階段が設置されているが、この階段は好太郎が非常にこだわったデザインで、当初のままの姿を伝えている。
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 山本愛子様には、多彩なエピソードとともにアトリエ内をご案内いただいたのだが、アトリエの一隅には残されたいろいろな昔の資料類が、未整理のまま置かれていた。そのうちのひとつを手にしたとたん、ビックリしてしまった。三岸夫妻にはさまれて、佐伯祐三Click!の姪である「タヌキ嬢」Click!(久生十蘭)ことハーピストの杉邨ていClick!が写っている写真が出てきたのだ。しかも、その隣りにいるのは佐伯作品を蒐集しつづけた山本發次郎Click!に協力し、のちに『佐伯祐三画集』Click!(1937年)を編纂している國田彌之輔だ。そういえば山本發次郎も、いわゆる山發コレクションの中に三岸好太郎の作品を加えようとしていたのを思い出した。
 さて、建築当初の玄関は、テラスの前を左折し、アトリエの大きな窓ガラスの前を横切るようにして建物の西側にあった。訪問客は、まずスイレンが浮かぶ四角い池のあるテラスの前に立ち、晴れていれば陽光が池の水面に反射して、テラスの軒下にゆらめく光の影を見ながら、塀と大きな窓にはさまれたエントランスを玄関口へ向かうことになる。
 でも、このエントランスの仕様が、三岸好太郎の死後、実際にアトリエを使用することになった三岸節子には気に入らなかったようだ。なぜなら、訪問客はアトリエの南面するオープンな窓の前を横切ることになり(すなわちアトリエの中を直接のぞき見することができるので)、画室で仕事に集中する画家にとってみれば落ち着かなかったからだ。現在の玄関は、「暖炉の部屋」と呼ばれる戦後に増築された東側、元テラスや池があったところに設置されている。
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 まず、山本様が説明されたのは東日本大震災による被害だった。1934年(昭和9)に竣工した、木造建築によるモダニズム・アトリエは一部の壁が剥落し、画室内の壁には大きなクラックが生じている。元・玄関の西側の外壁と天井部も被害を受け、応急の修理がなされていた。現在の東京には、このような特異なモダニズム建築はきわめて稀少であり、しかも三岸好太郎が設計・デザインし、三岸節子がアトリエとして長く利用していたかけがえのない建物なので、ぜひ保存してほしいものだ。現在、中野たてもの応援団の方々が保存活動へ取り組まれているけれど、公的な機関や自治体が保存へ向けたなんらかの施策を率先して展開すべきだと思う。個人の力だけでは、これまでの下落合のさまざまな事例を見ても、おのずと保存・維持管理には限界があるからだ。
 さて、東側の玄関を入ると、そこは三岸節子が増築した南欧風の心地よい暖炉の部屋だ。この部屋のドアに用いられている金具は、いまや入手が困難な手造りの貴重なものらしく、建築の専門家がみえると必ずカメラに収めていくとうかがった。暖炉の部屋からは、現・作業室(元・応室スペース)と花々やレンガが美しい中庭へと抜けることができる。作業室は、もともと画室つながりの応接間として設けられた空間で、壁の仕切りがなかったスペースだ。ここにも、美しい黒色の高価な石組みを用いた暖炉が設置されている。現在の画室は20帖ほどの広さだが、壁で仕切られる前の作業部屋(応接スペース)を含めると、ゆうに30帖ほどの広大な画室だったろう。
 作業室から西面のドアを開けると、いまでも十分に広いアトリエだ。まず目につくのが、三岸好太郎が設計段階から強くこだわりつづけた螺旋(らせん)階段が、南面の大きな窓に近接してすぐ左手にある。階段の重量をできるだけ減らすためだろう、中が空洞の水道用パイプを螺旋状に少しずつカーブさせて手すりにしたそうだ。螺旋階段の中央へ、タテに通された太い鉄パイプは、建物を支える支柱にはなっておらず、木造の構造上できるだけ軽量にする必要があったようだ。
三岸アトリエ12.jpg 三岸アトリエ13.jpg
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 三岸好太郎が、螺旋階段にこだわった理由はなんだったのだろうか? 大正期には、草土社風で岸田劉生Click!ばりの作品を残している好太郎だが、やがてフォーブ、キューブ、さらにはシュルレアリズムと次々と作風を変えていった裏側で、彼は螺旋状の「進化」や「発展」を夢みていたのではないだろうか。次回は、好太郎が“らせん”にこだわった理由について書いてみたい。
                                                  <つづく>

◆写真上:鷺宮のアトリエでキャンバスに向かう三岸節子で、背後は北側の窓と思われる。
◆写真中上上左は、アトリエの西側に設置された東向きの元・玄関。上右は、土台がコンクリートの三岸アトリエで東日本大震災でも支柱はゆらいでいないようだ。下左は、三岸節子が増築した「暖炉の部屋」の暖炉。下右は、三岸節子が静物画のモチーフに使用した花瓶類。
◆写真中下上左は、アトリエ内の三岸好太郎がこだわった螺旋階段。上右は、白色に塗られた壁面と天井。下左は、螺旋階段の上から北側の窓を見たところ。下右は、射光が比較的安定した北側の窓下にイーゼルをすえて仕事をしていると思われる三岸節子。
◆写真下は、南側の巨大な窓()と北側の細長い窓()。は、アトリエ内の随所に置かれた三岸節子のポートレート。は、三岸好太郎が名古屋で急死する数週間前に撮影された記念写真の三岸夫妻。左より三岸好太郎、佐伯祐三の姪でハーピストの杉邨てい、山本發次郎に協力し『佐伯祐三画集』(1937年)を編纂・刊行した國田彌之輔、そして右端が三岸節子だ。1961年(昭和36)5月に発行された『華麗』第2号に掲載されたものだが、どのような物語が眠っているのか。

三岸好太郎・三岸節子アトリエを拝見。(下)

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 三岸好太郎は、1933年(昭和8)の『独立美術クロニック』に「転換」と題した文章を書いている。
  
 人間の感受性は常にきわめて順応的である。新しい社会環境から新しい美的価値は生まれる。新しい環境の中に新しい感激の対象を積極的に求めようとする自分の精神、現在までの自分の認識し得た本能意欲以外に、目標として組織的なるもの、快速的なるもの、鋭截的なるもの、明朗性のあるものを求める。/ 太陽光線の分析にまで到達したほど科学性を持ったところの印象派はフォーブを生み、フォーブを否定したキューブの運動はダダによって否定されたではないか。反動、反動、反動である。/ 自分の転換を変化と見るか発展と見るかは各自の自由である。/ しかし部分的な、一面的(批判は結局一面なる結果になる事は事実だ)な認識も一定の限度内においては、それ相応に役立つ。如何なる曲線もその小部分を切り取って見れば常に一つの直線である。
  
 本人も文中で触れているが、これは明らかに「ヘ翁」Click!(当時の若者用語でヘーゲルのこと。ほぼ同時期にドストエフスキーのことは「ド翁」と呼ばれた)を意識したもののとらえ方であり、考え方だ。すべての事象は、止揚(アウフヘーベン)を繰り返しながら肯定(テーゼ)と否定(アンチテーゼ)間を反復することによって、スパイラル状に前進(上昇)し発展していくという弁証法哲学的、ないしは弁証法史観的な思考を拝借したものだ。好太郎の作風が頻繁に急変することについて、周囲から寄せられた必然性を問う批判に対する、この文章は弁明として執筆されている。
 好太郎の文章が書かれる3年前の1930年(昭和5)、日本では白揚社から『ヘーゲル著作集』第1巻が翻訳出版されている。また、執筆の前年1932年(昭和7)には岩波書店から『ヘーゲル全集』が出ており、いずれにも「一切の事物は自己の否定を齎(もたら)すべき要素を、それ自身のうちに包含している」という、有名なベルリン大学の講義内容を収めた『歴史哲学緒論』が収録されていた。好太郎がこれらの全集を読んだかどうかは不明だが、ヘーゲルのスパイラル(螺旋)状に進化し“上昇(発展)”していく事象や歴史のとらえ方に、惹かれたのはまちがいないだろう。
 そして、自身の生き方や表現、作風などにピッタリと当てはまる(ように見える)「ヘーゲルの螺旋」に強く惹かれ、結果論的に自己の変遷を説明しようと試みているようにも思える。つまり、螺旋状の生き方は好太郎そのものであり、自身のトレードマークのような感覚にさえなっていたのではないだろうか。そういえば、彼が収集した巻貝の背にも、象徴的な螺旋模様が見てとれる。佐伯祐三Click!とほぼ同様に、わずか31年の生涯を疾走した三岸好太郎だが、画家仲間からは“らせん”の直径が短ければ短いほど、流行に流される安易で日和見主義的な作風や表現と見なされ、必然性を問われつづけることになった。
 彼の螺旋状の生き方(生活観・社会観)や考え方(芸術観)は、作品表現の急速な変遷のみならず人間関係(特に女性関係?)にも持ちこまれたものか、どこかで開きなおり正当化されているようにも見えてくる。でも、それは同時に節子夫人を悩ませつづけた、とんでもない“らせん”思想であったのかもしれない。
 さて、アトリエ見学Click!をつづけよう。南側の窓は、現在はアルミサッシに入れ替えられているが、当初はすべて木製の窓枠で造られていた。これだけ広い面積のガラスを、比較的脆弱な木枠だけで支えるのは、建築力学上かなりむずかしい設計課題だったのではないだろうか。また、現在でも大きなアルミサッシの窓は、建物南側の重さをかなり過重にしているようにも思える。戦時中、空襲で近くに250キロ爆弾が落下し、南面のガラス窓が爆風で割れたそうだ。三岸アトリエのある界隈は、戦前戦後を通じて閑静な住宅街であり、アトリエの北側は戦後も田畑が拡がる一帯だった。米軍機は、なにを目標に250キロ爆弾を投下したのか不明だが、山本愛子様によれば三岸節子は割れた窓ガラスにキャンバスを当てて、風雨が入らないよう応急修理をしていたそうだ。
 画室は、南面しているせいで非常に明るい。冬期には、陽光が画室の奥まで射しこむように設計されているのだろう、わたしがこれまで拝見したことのあるどのアトリエよりも、飛びぬけて明るい室内だ。むしろ、窓にカーテンかブラインドを下げていないとまぶしすぎるぐらいだ。だから、アトリエClick!にいるというよりは、大きなサンルームにいるような感覚にとらわれてくる。画家のアトリエというよりは、オシャレな西洋館の南面に設置された日光浴のテラスルームのようだ。
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 作業室と画室の間に設けられた壁を考慮せず、初期アトリエの姿を想定するとかなり広い空間だ。2階建ての天井までが吹きぬけになっており、三岸好太郎は螺旋階段のてっぺんにのぼって、大きなキャンバス画面を見下ろす姿を、ひそかに想像していたものだろうか。下落合のアトリエにたとえれば、吉武東里Click!設計の島津一郎アトリエClick!よりは狭いものの、佐伯祐三アトリエClick!中村彝アトリエClick!よりも面積ははるかに広大だ。
 ひとつ気になったのは、200~300号の作品を仕上げた際、あるいはそれに額装をほどこした際に必要となる、大きなキャンバス専用の出し入れ口が存在しないことだ。画室の広さからすると、サイズの大きな作品に取り組むことを想定していた造りとなっているのだけれど、現状ではそれを搬出するためのドアがない。ひょっとすると三岸節子が改築する際に、それほど大きなキャンパスを制作する必要性を感じなかったせいなのだろうか、あえてなくしてしまった可能性もありそうだ。現状の画室を観察すると、北面の窓がもともと大きなサイズのキャンバスを出し入れできる、開閉式のものではなかったかと想像することができる。北面の2階へ通じる階段や収納庫は、増改築前の写真と仔細に比較すると、あとから設置された公算が高いとのお話だった。
 螺旋階段をのぼり、当初は中2階のように造られた書斎兼書庫からは、アトリエ北側におそらく増築されたと思われる踊り場や階段へ出られる。階段上のバルコニーを伝って、西側の2階奥には三岸節子がキャンバスなどの画材置き場にしていた収納部屋がある。この小さな部屋には、画室に面してドアが設けられており、アトリエ内を一望することができる。ここから、三岸節子はキャンバスの木枠や額などのかさばる画材を、1階の画室内へ直接下していたのだろう。
 アトリエ北面が垣間見える、バラ園の中庭にもご案内いただいた。中庭の北側は、三岸夫妻が初めて野方村上鷺宮にやってきたときに建てた、第一アトリエが存在していた敷地だ。現在は、夫妻の長女である陽子様や山本愛子様が住まわれている。満開の薔薇の香りがただよう中、アトリエの北面を拝見してみるが、あとで増改築された部分を差し引いて想定しても、北側にうがたれた窓はかなり小さい。既成のアトリエ建築にこだわらなかった、三岸好太郎ならではの特異な設計なのだが、三岸節子は少なくとも画室内を常に移動する光線に、悩まされたのではないだろうか。
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 最後に、三岸節子へ綿密な取材を繰り返し、日動出版から『三岸好太郎』(1969年)を刊行した田中穣の文章から、新しいアトリエを建てるときの夫妻の「想定会話」を引用してみよう。
  
 「節っちゃんよ、なあ、アトリエをもうひとつ建て増そうじゃないか?」
 ある午前、どこまでも好太郎はさりげなかった。
 「そうすればなあ、きみも自由に仕事ができるし、ぼくも大変やりやすくなる」
 「アトリエですって?」
 すませてからまだ一時間にもならない朝の食卓で、生命線が切れているからながくは生きられないといった話をしていた男が、こんどはよりいい仕事をするためのアトリエを増築しようという。
 まるで、子供よりたあいのない好太郎の意識の流れには、まともにつきあっていられない腹だたしさをおぼえてくる。
 「庭の空地に、北側を壁にして、ほかの三面全部がガラスの、いってみればガラスの城を作るわけですよ」
 「大きな金魚鉢みたいな?」
 「まさしく、ご名答。その中にいる限り、からだはふわりと空気中に浮かび、夢は無限を飛びまわれる」
 「まるで人間さまを廃業して、金魚になりたがってるみたい」
 「画室の中央にはラセン状の階段をつける。このラセン階段の上から作品を見おろせるだろう。画室のまえには池を作って、水面を屈折した太陽の反射光線が、白い画室の天井で踊りながら、光の縞を描きだしてくれる…どうだろう、節っちゃん、いい返事をしておくれよ」
 「夢のようなお話ね」と夫人はいった。
 「夢の実現さ。建築は元来がそういうものだし、絵だって、本質的には同じさ」
 「おかねは、どうなさる?」
 「それにはね、いい計画がある。津島のまのや(旅館)のてさあね。作品の頒布会をひらく。アトリエ増築のための資金募集とかいった名目で。手彩色のシックな素描の画集がいい。限定百部で、一部二円として二百円、いや、三円にするかな…。それに、独立展の『のんびり貝』を、クラブ歯磨の中山さん(中山太陽堂社長)が、ひどくお気にいりらしいんで、売れそうな話もある」
 「それでも、到底、足りそうもない感じね」
 「なんとでもするさ、思いたったら、なんとでもなるものさね」
 「ほんとうに、あなた、そんな奇妙なアトリエを建てるつもりなの?」
 「もちろん、真剣ですよ。まじめな話ですよ」
  
 ちなみに戦後、銀座・日動画廊で行われた展覧会の記念すべき第1回が三岸節子だった。
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 アトリエをお訪ねする前にお会いしたとき、「もうあちこち傷んでボロボロなんです」と話されていた山本愛子様なのだが、わたしの感覚では予想よりきれいで、よく維持されてきていると感じた。それは、下落合に残っていたアトリエ群がもっと傷んでいるのを、わたしが目のあたりにしているからで、あくまでも相対的にそう感じたのだろう。ただし、東日本大震災によるダメージは、今日の住宅とは比較にならないほど大きいと感じた。いまに残る、昭和初期の特異なモダニズム建築であり、また中野区にとってもかけがえのない街の文化資産だと思われる、三岸好太郎が設計デザインし三岸節子が仕事場にした貴重なアトリエなので、ぜひ後世へと伝えてほしいものだ。
                                                   <了>

◆写真上:2階西側の画材収納室から見下した、三岸アトリエの1階フロア部。
◆写真中上:三岸好太郎がこだわった、建築当初のままの螺旋階段。
◆写真中下上左は、もともと応接スペースだった現・作業部屋で、奥には黒い艶のある石製タイルを貼った非常に凝った暖炉がある。上右は、作業部屋の真上にある螺旋階段からのぼる旧・書斎兼書庫。中左は、やはり黒い石のタイルが敷かれた旧・玄関で東日本大震災の被害がもっとも大きかったスペース。中右は、三岸節子のプロフィールが架かる北の窓辺。ちょうど写真の手前あたりに、三岸節子はイーゼルをすえていた。は、東日本大震災の揺れで入ったクラック。
◆写真下は、三岸アトリエの現在における1階平面図。は、建築当初から改築されているとみられる北側の外壁。は、暖炉の部屋の北側にある各種のバラが美しい南欧風の中庭。中庭からアトリエを見あげると、無数のクラックが走っており早急な修復・保存施策が必要だろう。

我孫子へ出かける洋画家たち。

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三岸好太郎「我孫子風景」1925頃.jpg
 1923年(大正12)12月31日の大晦日、三岸好太郎と吉田節子(のち三岸節子)のふたりClick!に、好太郎の札幌第一中学校時代の同窓で親友だった画家・俣野第四郎は、関東大震災の余燼がくすぶる東京をあとにして、千葉県の我孫子へと出かけている。我孫子には、画会「春陽会」のメンバーが住みついており、彼らの友人である甲斐仁代Click!中出山也Click!もいた。下落合でも頻繁に見かけるふたりだが、落合地域とのつながりはこれだけではない。
 我孫子の手賀沼周辺は、あちこちに河岸段丘状の崖線が連なり、大正期には別荘地として拓けている。崖線下に通う道のことを昔から「ハケの道」と呼び、目白崖線の「バッケの道」Click!や国分寺崖線の「ハケの道」Click!に酷似した風情をしている。そして、手賀沼をはさみ段丘に沿って、大小多数の古墳が築造されている。また、別荘地として知られるようになった明治末から大正初期には、「白樺派」の武者小路実篤Click!志賀直哉Click!、柳宗悦、バーナード・リーチClick!などが暮らしていた。武者小路が下落合1731番地へ引っ越してくる、およそ10年余も前のことだ。もちろん、岸田劉生Click!も手賀沼へときどき顔を見せている。
 手賀沼沿いに点在する別荘に、しばらくこもって画会の制作をするのが、大正後期に登場した若手画家たちの間では、一種のブームになっていた。このブームは、赤土がむき出しの険しい崖線や、茅葺き農家があちこちに残る風景とともに、昭和初期までつづいたような感触がある。おそらく、1918年(大正7)の二科展で硲伊之助が描いた『我孫子風景』が、二科賞を受賞したことから我孫子人気に火が点いたのだろう。2005年(平成17)に出版された、澤地久枝『好太郎と節子』(NHK出版)から引用してみよう。
  
 一九二三年という年、好太郎は崖っぷちに立って訴えている。女出入りの多かったという人生でおそらくただ一度、好太郎は真剣になった。/十二月三十一日、節子は好太郎に誘われて中出を訪ねる。我孫子の手賀沼のそばに志賀直哉の別荘があり、春陽会の人が借りていて、その裏の書斎に中出三也と甲斐仁代が住んでいた。肺結核の病勢が進む俣野第四郎は甲斐仁代を愛し、一人で苦悶しつつ、我孫子の写生にはたびたび参加して傷を深くしていた。
 <我孫子の駅で汽車を降り、湖(手賀沼)のそばまで歩いていきましたら、そこで好太郎は立ち止まって「結婚したい」と言ったんです。私、何と答えたか、ちっとも覚えてないんです。きっとその時は、そう好きじゃなかったんですね>(『三岸節子 修羅の花』)
  
 志賀直哉が建てた手賀沼別荘の、我孫子に現存している志賀の書斎を借りて、中出三也と甲斐仁代が暮らしていた様子がわかる。甲斐仁代はこの年、二科展に出品した『ロシヤの婦人像』(1923年)が入選し、二科会初の女流画家としてスタートしている。
俣野第四郎「甲斐仁代像」1922.jpg 片多徳郎「N-中出氏の肖像」1934.jpg
川瀬巴水「手賀沼風景」1930.jpg
 このあと、一時的な雑司ヶ谷暮らしを経て、中出三也と甲斐仁代は松下春雄Click!と画友たちも暮らした下落合1385番地、第一文化村Click!の北へと引っ越してくる。そのアトリエを、同じ町内の吉屋信子Click!が頻繁に訪れていたことは、すでに記事へ書いたとおりだ。下落合からバッケ堰Click!の上流、上高田422番地へ転居したふたりの様子は、林芙美子Click!が記録している。
 さて、我孫子風景を描いた三岸好太郎や俣野第四郎の画面は、岸田劉生(草土社→春陽会)のように赤土の崖線や路面に樹木や草が繁っている、いわゆる草土社Click!風の表現だった。吉田節子(三岸節子)も、ふたりに影響されたものか赤茶色が強く目を惹く画面になっている。このハケ(バッケ)の道が通う我孫子風景は、現在でも当時の面影が色濃く残り、90年前の下落合風景、あるいは40年前の小金井風景Click!をほうふつとさせる。
 大正末から昭和初期にかけ、三岸好太郎や節子、俣野第四郎たちが実際に目にした我孫子駅や手賀沼の様子は、松下春雄アルバムClick!で確認することができる。おそらく、松下春雄も画家仲間といっしょに、我孫子へ知り合いを訪ねたか、風景モチーフを探しに出かけたのだろう、我孫子駅のプラットホームで、1928年(昭和3)5月に撮影された写真が残っている。友人とカメラを交互に持ち替えながら、お互いを撮影しあったものだ。いっしょに写る駅頭でカンカン帽をかぶった男は、画会「サンサシオン」仲間の中野安次郎Click!あるいは大澤海蔵Click!だろうか。松下は当時、サンサシオン展や帝展に毎年出品するかたわら、光風会にも所属して作品を発表していた。
志賀直哉書斎.jpg 我孫子ハケの道.jpg
三岸節子「我孫子風景」1925頃.jpg 俣野第四郎「我孫子の風景」1924.jpg
我孫子風景192805_1.jpg 我孫子風景192805_2.jpg
 松下アルバムには、全部で8枚の我孫子風景がとらえられている。5月5日端午の節句のころに出かけているので、茅葺き農家の庭先には鯉のぼりがあがっているのが見える。茅葺き農家の背後に見える丘上には、おそらくおカネ持ちの別荘のひとつなのだろう、大きな西洋館が陽光に輝いているのが見てとれる。どこかの広い草原か水田で、地元の子どもたちといっしょにカンカン帽の友人が写る画面。おそらく、手賀沼の渡し舟と思われる湖面の写真。近くの丘上まで上ったのだろう、手賀沼の全景写真などが撮影されている。
 また、駅から北側へ歩いて利根川まで出たのか、常磐線の鉄橋と思われる写真も残されている。河原には、松下春雄とカンカン帽の男が写り、友人の写真のほうはどうやら常磐線の列車が通過中のようだ。ふたりの服装をよく観察すると、松下春雄はスーツに明るい色をしたネクタイ、カンカン帽の男はスーツにハイカラーのシャツで、蝶ネクタイを結んでいるらしい。装いからして、とても手賀沼ハイキングに来たようには見えないので、ひょっとすると我孫子に住む画家(おそらく先輩)のアトリエを訪ねたあと、あちこちを散策しているのではないだろうか。
我孫子風景192805_3.jpg 我孫子風景192805_4.jpg
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 三岸好太郎や吉田節子、俣野第四郎とは異なり、松下春雄の作品には我孫子風景をモチーフにした作品は残されていない。松下アルバムに写るふたりは、写真を見るかぎり画道具を抱えてはおらず手ぶらのようなので、我孫子の知人ないしは画家のもとを訪ねたように思えるのだが。

◆写真上:1925年(大正14)ごろに制作された、三岸好太郎『我孫子風景』。
◆写真中上上左は、一方的に恋愛感情を抱いていた俣野第四郎が1922年(大正11)に描いた『甲斐仁代像』。上右は、1934年(昭和9)に下落合の片多アトリエで制作された片多徳郎『N-中出氏の肖像』。は、1930年(昭和5)制作の川瀬巴水『手賀沼風景』。
◆写真中下上左は、甲斐仁代と中出三也が暮らしていた現存する志賀直哉の書斎。上右は、手賀沼周辺の「ハケの道」。中左は、1925年(大正14)ごろ描かれた三岸節子(吉田節子)『我孫子風景』。中右は、1924年(大正13)制作の俣野第四郎『我孫子の風景』。は、松下アルバムより1928年(昭和3)に撮影された我孫子駅ホームの松下春雄()と友人()。
◆写真下:いずれも松下アルバムから、我孫子の散策を撮影したもの。画面左下の同一箇所が白くとんでいるのは、カメラにフィルムをセットする際に失敗して感光してしまったものだろう。は、常磐線の利根川鉄橋と思われる利根川の河原で撮影された松下春雄()と友人()。

第一文化村に立つ松下春雄と彩子様。

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 下落合1445番地の鎌田家下宿Click!から、渡辺淑子Click!と結婚した松下春雄Click!は、1928年(昭和3)3月に下落合1385番地の借家Click!へと引っ越し、その1室をアトリエにしている。下落合1385番地の一画は、明治末から大正初期に計画された府営住宅Click!の、東側にある落合第二府営住宅の敷地と西側にある落合第三府営住宅にはさまれた、ちょうど中間に位置する三角に近いかたちの区画だ。そして、南側は目白文化村Click!の第一文化村にあった、弁天池Click!前谷戸Click!沿いに通じる二間道路に接している。
 箱根土地Click!堤康次郎Click!は、妻の姻戚関係をフルに活用して下落合の土地買収を急ピッチで進め、前谷戸から伊勢原一帯の広い土地を安く手に入れている。そして、目白通り沿いの土地を東京府へと寄贈し、目白文化村の造成がはじまる前の「不動園」Click!時代に、府営住宅の誘致活動を行なっている。東京府でも箱根土地の要請をうけ、目白通り沿いの下落合側へ昭和初期までに第一から第四までの府営住宅を建設している。
 府営住宅といっても、今日の都営住宅や区営住宅のような概念ではなく、それぞれの住宅および土地は個人所有のものであり、かなり大きな邸宅群を形成していた。ここでいう「府営」とは、東京府が「中流」の勤め人向けに住宅建設資金の積み立て機構を設立し、その貯金をつかって自邸の建設を奨励するというシステムのことで、公営の賃貸住宅のことではない。だから、府営住宅は敷地の広さも住宅のデザインもさまざまで、統一した規格はなかったようだ
 堤康次郎は、目白通り沿いに住宅を増やすことでダット乗合自動車(バス)の路線を誘引し、さらに住民向けの商店街が形成されるのを見越してから、目白文化村の造成にかかっている。でも、ここでご紹介した宇田川様Click!もそのおひとりだが、箱根土地による強引であくどい土地買収に反発して応じない地主もたくさんおり、そのような一画は府営住宅にも、また目白文化村のエリアにも含まれなかった。松下春雄が引っ越した先の下落合1385番地も、府営住宅と目白文化村に三方からはさまれた、そんな一画だったのかもしれない。
 下落合1385番地には、どうやら洋画家たちが集合していたようで、松下春雄が転居してくる以前には、中出三也Click!甲斐仁代Click!がいっしょに暮していた。ふたりのアトリエには、甲斐仁代の作品を求めに下落合2108番地の吉屋信子Click!がイヌを連れ、文化村を散歩がてらときどき立ち寄っていたのだけれど、ほんとうの目的Click!は中出三也に逢いたかったからだ。
 松下春雄が住んだ同時代には、同じ名古屋の画会「サンサシオン」Click!の仲間である大澤海蔵Click!も同じエリアに住み、近所の下落合1542番地にある第三府営住宅には帝展でいっしょの長野新一Click!が、少し離れた下落合800番地には西坂の徳川邸Click!をいっしょに写生したと思われる同じく帝展仲間の有岡一郎Click!がアトリエをかまえていた。このような環境で、松下春雄は近所の風景を描いた作品を次々に制作している。
 山本和男・彩子様ご夫妻Click!の手もとに保存された松下春雄アルバムClick!には、第一文化村に接した下落合1385番地の周辺をとらえた写真が何枚か残されている。おそらく、地主が借家を建てて貸し出していた宅地らしく、和洋折衷らしい住宅が並んでいる様子がとらえられている。1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、下落合1385番地沿いの敷地に府営住宅からのびた二間道路と、敷地内には“「”型に横切る道路(おそらく私道)が記録されているが、松下邸はいずれかの二間道路沿いにあったとみられる。では、アルバムの写真を詳しく検討してみよう。
①松下春雄19281203.jpg ②松下淑子19281203.jpg
③お風呂19290213.jpg ④彩子様19290524.jpg
 写真①②は、下落合1385番地で借りていた家の軒下や縁側で撮影した写真だ。1928年(昭和3)12月3日の撮影で、この家には南側に小庭があったようだ。陽当たりのいい縁側に座る淑子夫人(写真)は、10日後の12月13日に長女・彩子様を出産している。写真は、翌1929年(昭和4)2月13日にタライ湯をつかう淑子夫人と生まれたばかりの彩子様。写真は、同年5月24日に南の中庭で撮影されたものだろう。
 さて、家の周囲を撮影した写真を詳しく見てみよう。写真は、下落合1385番地内の道路を撮影したと思われるが、建物の影などから右手が南側だと想定することができる。そして、近くの子どもを入れ、同じ道路を撮影しているのが写真。この道は、おそらく東西にのびた道路であり、突きあたりの別の道路とT字路でぶつかっている様子だ。洗濯物の向こう側、道の入り口には少し大きめな邸が向かい合って立っており、正面の突きあたりには府営住宅の1軒と思われる門構えの大きな邸宅が見えている。下落合1385番地を東西に走り、東側がT字路状になっている道路は1本しか存在していない。この道路は、西側が行き止まりの袋小路となっているのだが、淑子夫人に抱かれた彩子様が写る写真には、まさに道路西側の行き止まりが見えている。建物の影から明らかなように、写真では画面左手が南になる。
 そして、行き止まりの道路側にできた日陰に、彩子様を寝かせた乳母車をとめているのが写真だが、そこに南へと下る路地が写されている。この路地を南へ30mほど歩けば、第一文化村北辺の二間道路へと出て、西側には弁天池のある前谷戸の谷間が、いまだ樹木や草原とともに拡がっていた。この写真が撮影される3年前、その二間道路沿いの永井邸敷地前にイーゼルをすえて佐伯祐三Click!『下落合風景』Click!シリーズの1作を完成させている。すなわち、松下春雄・淑子夫妻が借りて住んでいた家は、下落合1385番地を東西に横切る道路と、T字状に南へ下る路地とが交わる位置の西側に建っていた家・・・と想定することができるのだ。
⑤下落合1985番地1_19290531.jpg ⑥近所の子ども19290531.jpg
⑦下落合1985番地2_19290531.jpg ⑧下落合1985番地3_19290531.jpg
下落合1385番地1938.jpg
下落合1385番地1936.jpg
 もう一度、整理してみよう。写真⑤⑥に写る洗濯物のあるあたりが、現在の「やよい児童遊園」の南辺、東西の道路入り口北側に建っているのが下落合1386番地の邸、T字にぶつかったところに見えている門と洋風な屋敷が下落合1391番地の大越邸だと思われる。そして、淑子夫人と彩子様の写真は、左手に見えている家の壁面が松下邸であり、突きあたりに見えている建物と緑が、下落合1384番地に建っていた「明清寮」とその南庭ということになる。写真では、乳母車をとめた日陰をつくる家が松下邸で、上部が第一文化村のある南へと抜ける路地だ。以上の写真⑤⑥⑦⑧は阿佐ヶ谷へと引っ越す直前、1929年(昭和4)5月31日に撮影されている。
 さて写真は、とんでもなくめずらしい風景をとらえた1929年(昭和4)5月の1葉。松下春雄が、彩子様を抱っこして近くの草原で散歩をしている様子がとらえられている。草原といっても、背後には左から右へ土手が走り、その土手の高さから推察すると左から右にいくにしたがって土手が低くなる、つまり窪地と思われる手前の草が繁った谷間が浅くなっていく・・・というような地形を想定できる。下落合1385番地の周辺で、このような風情のポイントはたった1ヶ所しか存在していない。第一文化村が展開した前谷戸の、弁天池があった谷戸の谷底だ。
 この土手は、目白文化村絵はがきClick!にもとらえられている。でも、絵はがきに写っているのは1923年(大正12)に埋め立てられ、新たな宅地が造成された谷戸の東側だが、松下春雄が立っているのは湧水源に近い西側の谷戸だ。西側は、弁天池が形成され湧水源に近いこともあって、1936年(昭和11)の空中写真を見てもおわかりのように、なかなか家が建たなかったエリアだ。松下春雄が写る画面は、太陽光の具合から正面が南西側だと思われ、松下一家は下落合1385番地の家から南へ抜ける路地を通り、二間道路へと出て階段から谷底へ下りている。
 しかも、わたしは写真を拡大したとたん飛びあがってしまった。(冒頭写真) 正面の土手上には、ハレーション気味だが第一文化村の巨大な西洋館が1棟とらえられている。そして、その独特な切妻の様子やフォルムから、すぐに佐伯祐三が描いた『下落合風景』の1作Click!を思い出した。写真の邸は、第一文化村は前谷戸の西、三間道路沿いの南側に建っていた立花邸を、北東側の谷戸からとらえたものだろう。右側の樹間にも、邸が1棟見え隠れしているようなのだが、おそらく西隣りの小松邸だと思われる。1929年(昭和4)現在、立花邸の道路をはさんだ北側は空地のようで、住宅がなかったらしい。7年後に撮影された1936年(昭和11)の空中写真では、土手がひな壇状に整地しなおされたのだろう、住宅が2~3軒建っているのが見える。
⑨第一文化村前谷戸192905.jpg 目白文化村絵はがき.jpg
前谷戸1936.jpg
佐伯祐三「下落合風景」1927頃.jpg 下落合1385番地.jpg
 松下春雄は、1929年(昭和4)6月に杉並町阿佐ヶ谷520番地へと引っ越す直前、同年5月末に住みなれた下落合1385番地界隈の風景を、淑子夫人と彩子様を入れて撮影している。第一文化村の写真は、おそらく淑子夫人がカメラを手にシャッターを切っているのだろう。先にご紹介した、松下の写生ポイントである第四文化村と落合第一小学校の写真Click!も、同年5月24日に撮られたものだ。松下春雄は前年、水彩画をやめて油彩画家になる決心をかためていた。

◆写真上:第一文化村の谷戸から、南西を向いて撮影されたと思われる写真の拡大。
◆写真中上①②は、1928年(昭和3)12月3日に撮影された下落合1385番地の松下春雄・淑子夫妻。下左は、翌1929年(昭和4)2月13日に撮影された生後63日めの長女・彩子様。下右は、同年5月24日に撮影された南側の小庭で遊ぶ一画の淑子夫人と彩子様。
◆写真中下⑤⑥⑦⑧は、1924年(昭和9)5月31日に下落合1385番地の東西道路で撮影された風景。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる袋小路の東西道路と撮影ポイント。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合1385番地界隈。
◆写真下上左は、第一文化村の谷戸から南西方面を向いて撮影されたとみられる松下春雄と彩子様。上右は、目白文化村絵はがきにみる第一文化村の谷戸東側の土手。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる撮影ポイントと立花邸の位置関係。下左は、1926年(大正15)ごろに描かれた佐伯祐三『下落合風景』(部分)の立花邸。下右は、下落合1385番地の現状で松下邸跡は路地奥の左側に見えているベージュに塗られた外壁の家のあたり。

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