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陸軍士官学校で配られた写真。(3)

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空中写真用カメラ.jpg
 陸軍士官学校(陸軍航空士官学校=以下「陸士」)で有償配布された写真Click!の中で、いまだかろうじて優勢だった海軍の戦闘記録である、「珊瑚海海戦」をとらえた貴重な画面類が残されている。珊瑚海海戦は、空母を主体とする日米の機動部隊同士が、艦隊から直接相手を視認することなく相互がかなり距離をおいたまま交戦した、世界初の海上航空戦として有名だ。
 陸士で配布された同海戦の写真類を検討すると、明らかに珊瑚海海戦ではないと思われる画像も含まれており、このころからマスメディアに公開される報道用の写真類も含め、実際に行なわれた戦闘写真ではなく、過去の優勢だったころの戦闘写真をひそかに混ぜて配布する、虚偽の発表が行われるようになったと思われるのだ。1942年(昭和17)6月のミッドウェー海戦から半年後、柱島泊地に停泊する第一航空艦隊(南雲機動部隊)Click!の旗艦「赤城」の艦体塗装を撮影したニュース映画が、日本各地の映画館で流されているが、「赤城」をはじめ同艦隊の空母4隻はとうに撃沈されてこの世に存在していない。この1942年(昭和17)5~6月ごろから、大本営陸海軍部が発表する“戦果”と、実際の戦闘の状況は大きく乖離しはじめている。
 珊瑚海海戦は、1942年5月7日から翌8日にかけ、オーストラリア北東に位置する海域で行われた日米の機動部隊同士による戦闘だ。日本からは空母「翔鶴」と「瑞鶴」に、潜水母艦を改装した軽空母「祥鳳」が参加し、米国からは大型空母「レキシントン」と「ヨークタウン」が派遣されている。翌月に行なわれるミッドウェー海戦の前哨戦のような戦闘なのだが、この海戦をピークに「向ウ処敵ナシ」だった聯合艦隊は、徐々に壊滅へ向かって急坂を転がりだすことになる。
 戦闘は5月7日に急展開を見せ、軽空母「祥鳳」が米機の攻撃により撃沈され、翌8日には空母「翔鶴」の飛行甲板に450キロ爆弾が2発命中して中破した。米軍側は、大型空母「レキシントン」が日本機の攻撃を受けて大破、のちに大爆発を起こして航行不能となり沈没している。空母「ヨークタウン」は、日本機から250キロ爆弾を1発あびているが、小破のまま戦場海域を離脱した。以上が、史上初となった空母同士による海戦の結果だが、日本海軍が米海軍と互角、あるいはやや優勢で展開しえた海戦は、この珊瑚海海戦がおよそ最後となった。
 陸士で配布された戦闘写真では、空母「レキシントン」を同型艦の「サラトガ」と一貫して誤認している。おそらく、同艦が潜水艦の攻撃で大破したことを日本海軍は把握しており、西海岸での修理を終えて前線に復帰したのだと判断したのだろう。だが、珊瑚海へやってきたのは真珠湾攻撃以来、日本の機動部隊が探し求めていた同型艦の「レキシントン」だった。のちに、大本営は珊瑚海海戦で「撃沈」した米空母を、「サラトガ」ではなく「レキシントン」だったと訂正しているが、陸士の写真は海戦から間もなく配布されたものらしく、艦名は空母「サラトガ」のままとなっている。
①珊瑚海海戦.jpg ②珊瑚海海戦.jpg
③珊瑚海海戦.jpg
④珊瑚海海戦.jpg
 陸士の写真は、軽空母「祥鳳」が撃沈された5月7日の戦闘ではなく、翌8日の米空母艦隊への攻撃写真に限定されている。日本の航空隊に補足された空母「レキシントン」が、魚雷や爆弾を避けるため“の字”運動を繰り返しながら必死で回避している写真だ。
 写真は、左上の大きく円を描くように雷撃を回避しているのが「レキシントン」で、右下の至近弾をあびているのは護衛の駆逐艦のようだ。「レキシントン」の煙は煙突からの排煙ではなく、すでに爆弾が命中して火災が発生しているのかもしれない。ウェーキーの様子から、速度も落ちているように感じられる。写真は、「レキシントン」(中央の白い航跡)のあとを並走する、護衛の米駆逐艦2隻をとらえているようだ。航跡のうしろに、白い大きな水柱が立っているが、日本の雷撃機が魚雷を投下した瞬間に海上で自爆してしまったものだろうか。当時の戦闘では、海面にぶつかった瞬間に魚雷が自爆してしまう“事故”が多発していた。
 写真は、回避運動を繰り返す「レキシントン」を撮影したもので、同艦の特長である巨大な煙突がハッキリ見えている。写真は、爆弾が命中して火災を起こす「レキシントン」だ。同艦は、この戦闘で爆弾2発に魚雷2本を受け、やがて大爆発を起こすことになる。手前の海上に、小さな水柱がふたつ立っているが、日本の雷撃機が投下した魚雷の水しぶきだろう。
⑤珊瑚海海戦.jpg ⑥珊瑚海海戦.jpg
⑦珊瑚海海戦.jpg ⑧空母翔鶴19411208.jpg
 写真は、輪形陣で進む米艦隊をとらえたものだが、陸士配布の添付解説には空母「ヨークタウン」を中心とする米艦隊と書かれている。そして、写真は日本側の攻撃を受け、大爆発を起こして沈没する「ヨークタウン」型あるいは「ワスプ」型の米空母とされている。でも、同海戦で「ヨークタウン」は250キロ爆弾の直撃を1発受けているだけで、このように大爆発を起こすような被害は出ていない。それとも、被弾直後に大きな火災が発生し、その煙が空高く噴きあがったものだろうか。ちなみに空母「ワスプ」は珊瑚海海戦に参加しておらず、1942年(昭和17)9月15日に日本の潜水艦の攻撃を受けて沈没しており、同海戦から4ヶ月以上も先のことだ。
 写真⑤⑥に写された、輪形陣の中央にいる大きな艦は、大爆発を起こした「レキシントン」ではないだろうか。艦影が識別できないほど小さいので、同海戦に参加していた「ヨークタウン」ということにしておいた・・・のではないか? 大本営発表では、珊瑚海海戦において米空母「サラトガ(レキシントン)」と「ヨークタウン」を2艦とも撃沈したことになっている。
 写真は、あまり見たことのないちょっとめずらしい写真だ。日本の攻撃機から米国の駆逐艦ないしは(軽)巡洋艦に向けて、250キロ爆弾が投下された瞬間を撮影したものだ。全速で回避運動をする下の艦では、上空にいる攻撃機の動きを十分に意識しており、機が真上にきて投弾するのと同時に、急速な転舵(面舵)を行ない回避しようとしている刹那がとらえられている。
 写真は、珊瑚海海戦で出撃する攻撃機という解説が添付されているが、この写真は前年の1941年(昭和16)12月8日に真珠湾攻撃の際、空母「翔鶴」の艦橋から撮影されたものの1枚で、写っているのは攻撃機ではなく戦闘機(零戦)だ。飛行甲板上にいる整備員の服装が、赤道近くの珊瑚海での夏服にはとても見えず、明らかに冬服なのに留意いただきたい。このように、虚偽を少しずつ混ぜて公表するうちに、大本営発表は徐々にウソの割合のほうが急増していき、戦争末期には「台湾沖航空戦で米艦隊全滅」が象徴的なように戦果誤認や希望的観測、さらに無根拠なとてつもない楽観論をベースにした、ほとんど“まぼろし”の戦果発表へと結びついていく。
⑨珊瑚海海戦.jpg
有岡一郎「南太平洋海戦」1942.jpg
 前の記事で、日本の偵察機に装備された記録用カメラをご紹介したが、この記事の冒頭写真は米軍機に備えつけられたカメラだ。第二次世界大戦では、偵察用や記録用に高精細画像を得られるカメラ技術が大きく進歩している。写真は、珊瑚海海戦で米軍機から撮影された攻撃を受ける日本の機動部隊で、至近弾を受けて回避運動をする空母「翔鶴」の姿がとらえられている。

◆写真上:米軍機に装備された、偵察用あるいは記録用の大型カメラ。
◆写真中上①②③④は、珊瑚海海戦で日本側の攻撃を受ける「レキシントン」と護衛艦隊。
◆写真中下⑤⑥は、日本の水上偵察機が撮影したと思われる米機動部隊の輪形陣。下左は、攻撃機から洋上の艦へ向け250キロ爆弾が投下された瞬間を写しためずらしい写真。下右は、珊瑚海海戦時の写真ではなく1941年(昭和16)12月8日の真珠湾攻撃の際に撮影されたとみられる、空母「翔鶴」の飛行甲板に並ぶ零式艦上戦闘機二一型。
◆写真下は、米軍機から撮影された攻撃を受ける空母「翔鶴」。は、1942年(昭和17)に制作されたとみられる有岡一郎Click!『珊瑚海海戦』。


野田半三『神田上水』は豊橋の上から。

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野田半三「神田上水」1912頃.jpg
 三岸節子の第一アトリエ写真には、ご遺族の方の著作権が絡んでいたようなので、申請許諾が取れしだい改めて掲載いたします。ということで、差し替え記事はこちら。
  
 新宿区ではさまざまな資料に掲載されている、あまりにも有名な野田半三Click!の作品『神田上水』(新宿歴史博物館蔵)なのだか、この風景が旧・神田上水のどこを写したものなのかを探ってみるのが今回のテーマだ。同作は、明治末の1912年(明治45)ごろに制作されたということになっている。東京美術学校Click!の西洋画科で学んでいた、まだ野田が画学生のころの作品だ。
 当時の野田半三は、牛込若松町114番地界隈にあった住まいClick!から東京美術学校に通っていたはずで、中村彝Click!鶴田吾郎Click!の住まいもすぐ近くにあった。野田と中村彝とは、愛日小学校時代からの同窓生だ。野田の住まいから神田上水までは、北へおよそ1,500mほどの距離を歩かなければならないが、この時期、牛込若松町の西北側一帯に拡がる戸山ヶ原Click!などの郊外風景を、画道具片手に散策しながら頻繁に写生していたと思われる。それは、近所に住んでいた中村彝や鶴田吾郎も同様だった。肋膜のため陸軍幼年学校を中退し、付近を写生して歩く小学校の同窓生だった中村彝に再会したのも、戸山ヶ原の写生地だ。
 1901年(明治34)に、ようやく淀橋浄水場Click!が新宿停車場の西側に完成し、江戸期から明治期まで水道水として利用されていた神田上水の役割りが終わって、10年ほどたったころの情景だ。上水道としての役目が終わるのと同時に、きれいな川の水を利用する染物や製薬、印刷などの工場が川沿いへ急速に進出しはじめていた。『神田上水』の画面に描かれた横長の建物や煙突も、明治末までに建設されたなんらかの生産工場の可能性が高い。
 画面の空は、夕暮れどきなのだろう赤く染まっており、光の方角から画面の左手が西側だと想定することができる。したがって、野田の視線は北から西にかけての方角を向いていると思われ、正面に描かれた連なる丘陵が神田上水の北岸にある、東西に長い目白崖線の姿であることは容易に想像がつく。目白崖線の手前が濃く描かれ、遠くにいくにしたがって淡く描かれているのを見ると、手前の近景から遠景へ目白崖線の連なりを斜めに見ているらしいこともわかる。つまり、野田は方角的に北から西の間を向いている可能性が高い。
野田半三宅跡.JPG 野田半三1923.jpg
 また、野田の描画ポイントも非常に特徴的だ。旧・神田上水の流れの中央に、イーゼルが浮き上がってすえられていることがわかる。野田が川の中へ入り、ハシゴでも立ててスケッチしているのでもない限り、彼は橋の上にイーゼルを立てて描いていると解釈するのが自然だ。急激に湾曲した神田上水に橋が架けられており、前方に工場あるいは銭湯と思われる煙突が2本見え、建物が密集して建てられている集落が存在している。そして、目白崖線がこのような角度で見えるところは、落合地域から戸塚地域にかけて、かなりポイントが絞られてくる。
 さて、まず1912年(明治45)の時点で、神田上水に架けられていた橋から考えてみよう。明治末の神田上水に架けられていた橋は、現在とは異なり数が非常に少ない。当時、目白崖線が北側に少し離れてこのように見える川筋に、橋はわずか3ヶ所しか存在していない。東から、戸塚村(下戸塚)と高田村の境界に存在する豊橋と面影橋Click!、そして山手線の西側である戸塚村(上戸塚)と落合村(下落合)の間に架かる田島橋Click!だ。豊橋の下流にあった旧・駒塚橋(現在の新・駒塚橋は少し移動している)は、芭蕉庵のある椿山Click!の崖線が目前に迫り、画面のような風景には見えない。この中で、明治末の神田上水の流れを前提に、画面に描かれているような北側へ急角度でカーブを描く流れの位置に架かっていた橋は、豊橋をおいてほかにはない。豊橋は、神田上水の流れが南から北へ、つまり戸塚村から高田村へ、まるでフタコブラクダの背中のように盛り上がったかたちをした、西側のコブの尖端に架けられていた。
 明治末の面影橋は、ほぼまっすぐな川筋に架けられており、現在もおよそ同じ位置から動いていない。また、下落合の田島橋は流れが北へと大きくカーブを描く根もとの位置に架けられていたので、画面の川筋とは南北がまったく逆の湾曲だった。田島橋は、いまでも同位置にあってまったく動いてはいない。3橋の中で、現在では南へ100mほど移動してしまっているのが、早稲田大学グラウンド(のちの安部球場)の北側に架かる豊橋だ。
地形図1909.jpg
豊橋1936.jpg 神田川の桜.jpg
 橋が架けかえられた理由は明らかで、大正期に入り、1918年(大正7)以降から1923年(大正12)までの間に実施された旧・神田上水の整流化工事(直線化工事)による。つまり、急カーブを描いて北へ極端に湾曲していた川筋だったからこそ、豊橋は南へ移動しているのだ。川筋が村境だった関係から、戸塚村と高田村のフタコブラクダ境界は川が直線化されたあとも、しばらくつづくことになる。野田が描く『神田上水』は、豊橋が南へ移動する前、古い時代の橋上から目白崖線が斜めに見える角度で、キャンバスに向かっていることになる。
 野田半三の視線は、豊橋から西北西を向いて高田村後田から、同村砂利場にあった集落方向を向いて描いているのだろう。1910年(明治43)の1万分の1地形図を参照すると、すでに工場のような細長い建物をいくつか確認することができる。この地域は、明治末から大正初期にかけ急激に宅地化が進んでいるエリアであり、落合地域に比べて開発が10年ほど先行している。それは、各種工場などの進出にもよるのだろうが、早稲田大学につづいて新たに学習院の建設や、東京市内である牛込区という行政区画の立地のせいもあるのだろう。落合地域が本格的に開発されるのは、1923年(大正12)の関東大震災Click!前後なのに対し、牛込区と高田村の旧・神田上水沿いは大正期の前半、すでに市街地化がかなり進行していた。
 描かれた建物群は、豊橋の西北西にあたる高田村後田にあった集落であり、この向こう側にはもうひとつ同村砂利場の集落が拡がっていたはずだ。この時代、集落の粗密からいえば、後田よりも砂利場のほうがかなりにぎやかだったろう。カーブした川筋の両岸には、工場か倉庫のような建物が描かれているが、1909年(明治42)の1万分の1地形図には、いまだこの位置に家屋は採取されていない。大正初期の同地図を確認すると、すでに一面が赤い斜線の住宅密集地である「市街地」表現になっているので、わずか5~6年の間に急速な宅地化の進んだことが分かる。
野田半三「イギリス風景Ⅰ」1922.jpg 野田半三「水道橋の朝Ⅰ」1937.jpg
 野田半三は、牛込若松町の住まいから画道具を手に、夏目坂を通って母校である早稲田中学の前に出た。そして、早大キャンパスを抜けるように北上し、旧・神田上水に突き当たると、流れが北へフタコブラクダの背のように突出した流れの西側に架かる、豊橋の上で立ちどまる。橋の中央やや南寄りにイーゼルを立てると、西北西に見える煙突を中心にすえてスケッチをはじめた。

◆写真上:明治末に旧・神田上水を描いた、野田半三『神田上水』。
◆写真中上は、牛込若松町の野田半三旧居跡。は、1923年(大正12)にベルギーで写生中の野田半三。野田は1922年(大正11)から、2年半にわたりヨーロッパへ留学している。
◆写真中下は、1909年(明治42)の1万分の1地形図にみる『神田上水』の描画ポイント。下左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる旧・豊橋と豊橋。下右は、神田川のサクラ並木。
◆写真下:いずれも野田半三の作品で、1922年(大正11)のイギリスで制作された『イギリス風景Ⅰ』()と、1937年(昭和12)に描かれた『水道橋の朝Ⅰ』()。

下落合を描いた画家たち・三岸好太郎。

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三岸好太郎「茶畑」1928.jpg
 下落合から旧・神田上水Click!をはさんですぐ南、戸塚町上戸塚(宮田)397番地(現・高田馬場3丁目)に三岸好太郎・節子夫妻Click!は、1924年(大正13)から1925年(大正14)にかけて住んでいる。現在の感覚でいうと、戸塚第三小学校のすぐ西側の敷地であり、下落合にある新宿区中央図書館Click!(2013年6月より移転)から徒歩1~2分ほどの近い距離だ。
 この住まいは、南にある早稲田通りをはさんだ戸塚町上戸塚(稲荷前)866番地に建っていた、藤川勇造・藤川栄子アトリエClick!へ直線距離で300mほど、また神田川をわたった北側、落合町下落合1146番地の外山卯三郎アトリエClick!(1928年に佐伯祐三が死去した際、第2次滞仏作品のほとんどが集められた画室)へは、同じく400mほどの位置にあたる。戦後、ともに女流画家協会を起ち上げる藤川栄子Click!と三岸節子は、このころから知り合って交流していたようだが、のちに三岸節子は1967年(昭和42)に出版された『日本美術』7月号の「好日好題」で、次のように語っている。1992年(平成4)に出版された匠秀夫『三岸好太郎』(求龍堂)から孫引きしてみよう。
  
 当時は高田馬場に住んでいましてお近くには藤川勇造さんと栄子さんがお住いでした。当時は目白台に続いてあの辺り一帯はまだ武蔵野の面影を、そっくりのこしておりました。目白台の西隅、当時の落合村というのがありましてそこに佐伯祐三Click!さん、米子Click!さんご夫妻とか、三上知治Click!さん、満谷国四郎Click!さん、曾宮一念Click!さんなどがお住まいで、当時から有名な方々がかたまってアトリエを構えられました。この辺りの景色は三岸の好んで描く風景でして、藁葺屋根の絵とか、茶畑に囲まれた農家とか、桐畑のある風景とか実によく描いていたものです。三岸と一緒になりまして、私、貧乏というものが分らずこの頃からの十年間というものは、お金があるというのが珍しいほどの貧乏暮しでしたけれど、いま考えますと今日の画家の生活よりも、あの頃の貧乏時代の方が、はるかに画家の理想に近い生活だったと思います。
  
 1924年(大正13)より、豊多摩郡落合村は落合町になっていたのだが、まだまだ田畑が拡がる風景があちこちに見られていた時代だ。三岸好太郎の作品には、藁葺き農家に田畑を描いた画面がいくつか残っている。大正末から昭和初期に描かれた作品は、1929年(昭和4)に上鷺宮407番地へ第一アトリエを建設する以前、東京郊外を転々としていた時期と重なっており、その中に落合地域を描いた作品が何点か混じっていてもなんら不思議ではない。
 三岸好太郎が、1928年(昭和3)に描いた北海道立三岸好太郎美術館Click!収蔵の『茶畑』という作品がある。パースのきいた構図で、手前の茶畑というよりは生垣のような低い植えこみから、奥ののどかな茅葺き農家をとらえた画面だ。マチエールは、すでに大正期の草土社風からやや変化を見せている。当時、落合地域のあちこちには栽培ブームがあったのか茶畑が見られた。『茶畑』の制作時期は、上戸塚397番地で暮らしていた時期とは重ならないが、好太郎は頻繁に落合地域を訪ねていたのではないか。
 なぜなら、1930年協会の主要な画家たちClick!が下落合へ集合していたからであり、フランスで急死する佐伯祐三と杉並町天沼でやはり急逝する前田寛治Click!を除き、1930年(昭和5)に好太郎自身も発起人に名を連ねる独立美術協会のメンバーの多くが、期せずして落合地域にいたからだ。1930年協会のスポークスマンだった外山卯三郎を含め、先輩画家の誰かを訪ねたついでに、茶畑風景(おそらく下落合西部だと思われる)をスケッチしているのかもしれない。
上戸塚397番地1929.jpg 上戸塚397番地1936.jpg
 もっとも、1929年(昭和4)という年は、外山卯三郎Click!ひふみ夫人Click!と結婚し、里見勝蔵一家とともに西武電鉄の奥、井荻の西武住宅地Click!へ新居を建設して引っ越している。この画家たちの動向に呼応するかのように、三岸好太郎・節子夫妻は同年、同じく西武線は井荻駅のふたつ手前、鷺ノ宮駅の近くへアトリエを建設して引っ越しているのだ。好太郎が1930年協会に参画していた画家たちの動向に注目していたのは、おそらくまちがいないだろう。
 さて、三岸好太郎は東京郊外に点在する藁葺き農家の風情が、ことのほかお気に入りだったようだ。三岸夫妻が上戸塚397番地で暮らしていたころは、落合地域はもちろん戸塚町にも、いまだあちこちに藁葺き屋根の農家Click!が残っていただろう。上鷺宮407番地の第一アトリエの南側に、1934年(昭和9)5月から建設がスタートする新アトリエClick!は、南側壁面のほぼ全体に天井までとどく大きな窓が設置される予定だった。好太郎は、アトリエの南側に建っている茅葺き農家2棟がよく見えるように・・・というのを、大窓設置の理由に挙げている。
 ちなみに、下落合の藁葺き屋根は1980年代末まで見られたが、最後に残ったのは農家ではなく中井御霊社Click!の拝殿屋根だった。佐伯祐三は、発見されている『下落合風景』シリーズClick!の画面に藁葺き農家を描いてはいないが、中村彝Click!はまだ病状がそれほど悪化せず付近を散策できていた時期に、スケッチブックへ近くの藁葺き農家Click!を描きとめている。佐伯祐三が、当時は下落合のあちこちに点在していたはずの藁葺き農家を描かなかったのは、どこか示唆的で、彼が郊外風景という単純なテーマで描いているのではなく、なにかもう少し絞りこんだモチーフを選択しているように、もう少し明確なテーマ性をもって描いているように感じられるゆえんだ。
三岸好太郎「風景」不詳.jpg
 三岸夫妻が住んだ戸塚町上戸塚(宮田)397番地の敷地は、蛇行を繰り返す旧・神田上水(1960年代より神田川)の南側に形成された、河岸段丘の斜面にあたる地勢だ。戸塚町は、早稲田通りや山手線・高田馬場駅を中心に市街地化が進み、住宅街の形成も落合地域より早くから形成されている。三岸夫妻の借家から、道ひとつ隔てた西側には1915年(大正4)に開業した、乗馬クラブ「新高田馬場」があった。おそらく、落合地域の別荘へやってくる顧客をターゲットにしていた施設で、昭和初期のころまで営業をしていたようだ。三岸夫妻は、目の前の乗馬クラブで走りまわる蹄の音や、厩舎での馬のいななきを聞きながら生活していたのだろう。「新高田馬場」の様子を、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』(東京府豊多摩郡役所)から引用してみよう。
  
 新高田馬場
 江戸名所の一なる高田馬場の名残を茲に留めんとて、大正四年春の頃より、大字戸塚地内高田馬場駅の西方七町許の地に、新高田馬場と称する馬術弓術練習所を開きたるものあり、馬場は東西十間南北百二十間あり、常に乗馬六七頭を飼ひ置き客の来りて練習するに便せり、春秋の頃練習者多しといふ。
  
 三岸好太郎の作品に、「馬」ないしは「馬牧場」のような情景を描いた作品がないかどうか、札幌の北海道立三岸好太郎美術館の学芸員でおられる苫名直子様にお訊ねしたところ、さっそく素描『馬』の画像をお送りいただいた。描かれたのは、1932年(昭和7)ごろといわれる作品だが、もう少し早い時期なのかもしれない。また、1932年(昭和7)の第一アトリエ時代だとすれば、鷺ノ宮駅から下落合駅まで西武線でわずか6駅、当時の電車の速度を考慮しても20分前後で来られただろう。子どもたちと散歩に出たついでに、「新高田馬場」で馬をスケッチしている可能性も残る。
新高田馬場1917.jpg 三岸好太郎「馬」.jpg
 次回は、上戸塚397番地の三岸好太郎・節子夫妻が住んでいた旧居跡を訪ねてみたい。わたしの家から歩いても10分とかからない場所なので、夫妻がいかに下落合の近くで暮らしていたかがわかる。三岸節子が書いているように、周辺の画家たちとの交流も行なわれたにちがいない。旧居跡では、当時をほうふつとさせる風景に出あうのだが、それはまた、次の物語・・・。

◆写真上:大正期の落合地域をほうふつとさせる、1928年(昭和3)制作の三岸好太郎『茶畑』。
◆写真中上は、1929年(昭和4)に作成された「戸塚町全図」にみる戸塚町上戸塚宮田397番地。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる同地番。すでに「新高田馬場」はなくなり宅地化されているが、上戸塚397番地には三岸夫妻が借りていた家は残っているかもしれない。
◆写真中下:制作年不詳の三岸好太郎『風景』で、左側の畑はダイコン畑Click!のように見える。
◆写真下は、1916年(大正5)に陸軍士官学校Click!の学生たちが作成した演習地図にみる戸塚町上戸塚に開業していた「新高田馬場」。は、1932年(昭和7)ごろ描かれたといわれる三岸好太郎の素描『馬』(北海道立三岸好太郎美術館蔵)。

節っちゃん、下落合に行ってくるよ。

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上戸塚397番地01.JPG
 三岸好太郎・節子夫妻が住んだ戸塚町上戸塚(宮田)397番地(現・高田馬場3丁目)の借家Click!は、下落合の氷川明神前にある踏み切りをわたってすぐのところなので、さっそく旧居跡を訪ねてみる。このあたりは、1930年(昭和5)ごろからスタートした旧・神田上水(1960年代に「神田川」の名称に統一)の整流化(直線化)工事により、周辺の風情が大きく変わったエリアだ。
 三岸夫妻が住んでいた場所は、河岸段丘の北を向いた斜面の中腹あたりになる。旧・神田上水の北側(下落合側)の、目白崖線に連なる急峻な斜面とは異なり、南側の丘陵はなだらかな斜面を形成して、まるでひな壇のように早稲田通りがかよう尾根筋までつづいている。早稲田通りの手前では、急激なバッケ(崖)状の盛り上がりClick!を見せる。これは、上戸塚地域の西側に位置する、上落合地域もほぼ同じような地形だ。上戸塚397番地の借家は、旧・神田上水が北へ大きく蛇行する、なだらかな斜面の中腹にあった。当時は、川をはさんで北側の斜面にある薬王院Click!の伽藍や、西坂の大きな徳川邸Click!などがよく見えただろう。
 現在は鷺宮のアトリエClick!敷地に住まわれる、三岸夫妻の長女・陽子様は1925年(大正14)3月にここで生まれている。三岸夫妻の上戸塚時代について、吉武輝子は『炎の画家・三岸節子』(文藝春秋)の中で、「この借家は風景にも知人にも恵まれ、心が晴れ晴れとする住まい勝手のよい家だったのだろう」とし、三岸節子が好太郎との結婚生活でもっとも幸福だった時代と位置づけている。ただし、上戸塚866番地の藤川栄子Click!(藤川勇造Click!)はともかく、この時期に下落合661番地の佐伯米子Click!(佐伯祐三Click!)と知り合ったとするのは早計だろう。三岸夫妻が上戸塚に住んだ時期、佐伯夫妻は第1次渡仏中で下落合のアトリエにはいなかった。
 三岸節子は同年、子育ての合い間をぬって春陽会へ初めて作品を応募しているが、なんと『風景』『山茶花』『自画像』『机上二果』の4作品がいきなり入選している。そして、同会の木村荘八Click!をはじめ、ほかに中川一政や川路柳虹たちから激賞されている。一方、三岸好太郎も『冬の崖』『少年』『裸体』『美しき少女』『少女の像』の5点が入選したが、節子に比べて不評だった。それが好太郎には意外だったのか、好評の節子に対して不機嫌な様子を隠さなかったという。
 三岸好太郎は、家族に対して当時の男にはめずらしく、家長的にはふるまわずきわめて優しい。どちらかといえば、戊辰戦争で薩長軍と戦うため江戸から北海道へとやってきた、異父兄・子母澤寛Click!の祖父のような江戸東京の(城)下町風の男Click!だった。むしろ、三岸家では節子が「家長」であって、好太郎がそれに巻きついて生活しているような雰囲気を感じる。節子が才能を伸ばせたのも、好太郎の存在が非常に大きいのだろう。だから、そんな好太郎が不評のせいで家族の前でも不機嫌さを隠さなかったのが、彼女に強い印象を残したのではないだろうか。
 春陽会への応募作品の中で、好太郎の『冬の崖』と節子の『風景』が、上戸塚ないしは落合地域の風景を描いた画面である可能性がきわめて高い。等高線が半島のように突き出た、段丘の中腹にあたる上戸塚397番地の家は、北側に連なる目白崖線の風景を描くにはもってこいのロケーションだったからだ。また、ふり返れば早稲田通りが通う尾根筋の崖が見え、尾根上に建ち並んでいた家々Click!(商家が多い)を描くのも、また面白かっただろう。
上戸塚397番地1921.jpg 「感情と表現」三岸好太郎.jpg
 大正期の宮田橋をわたれば、徒歩1~2分で下落合側へ抜けることができる。当時の下落合には、すでに大勢の画家たちが住んでいたので、三岸好太郎は散歩がてら画家たちのアトリエを訪ね歩いているだろう。ときに、外出するときは高田馬場駅へは出ず、下落合を通って目白駅から山手線に乗ったこともあったのかもしれない。なぜなら、彼は民本主義者の吉野作造が指導していた、本郷に本部のある家庭購買組合の仕事をしており、東京府内の支部5ヶ所のうちのひとつが下落合にあったからだ。家庭購買組合のポスターやパッケージなどの、グラフィックデザインを手がけていた好太郎については、また改めて記事に書いてみたいテーマだ。
 上戸塚と下落合を結ぶ宮田橋は、旧・神田上水の直線化工事で宮前橋として架け替えられたが、いまでも下落合から上戸塚397番地へ行くには、この橋をわたるのがいちばん近い。戸塚第三小学校の敷地北側に通じる、昔の川跡沿いに敷設されたまがりくねった道を西へ向かうと、やがて南に向けてなだらかな上り坂となる。そこが、戸塚町(大字)上戸塚(字)宮田397番地の旧居跡だ。わたしは、まったく当時の面影などないだろうと思って出かけたのだが、結果はまったく逆だった。大正期に造成されたとみられる、大谷石の縁石や築垣があちこちに残り、また「新高田馬場」と呼ばれた乗馬クラブの跡地は公園と草原が拡がる風情で、三岸夫妻が住んでいた当時をなんとか想像できる風景が残っていたのだ。一戸建ての住宅やアパートが多く、ビル状のマンションがこの区画にほとんど見られないのも、当時の雰囲気を感じられる要因だろう。
上戸塚397番地02.JPG 上戸塚397番地03.JPG
新高田馬場跡01.JPG 新高田馬場跡02.JPG
 三岸夫妻の家の西側、目の前に乗馬クラブ「新高田馬場」があったので、どこかに「馬」ないしは「馬牧場」についての作品や記述がないかどうか、北海道立三岸好太郎美術館Click!の苫名直子様にうかがったところ、さっそく前回ご紹介した『馬』の素描作品とともに、好太郎の著作『感情と表現』の中にも「馬」が登場していることをご教示いただいた。1992年(平成4)に中央公論美術出版から刊行された、三岸好太郎『感情と表現』(新装版)の「冬日仰臥」から引用してみよう。
  
 今年四つの子供を抱いて野原を散歩した。遠くの柵の中で馬が勇敢にかけづり廻つてゐた。子供はその馬をとつてよこせとせがむ、あんな大きな馬をおまへとつてどうするんだと云つたら、あんな小さな可愛い馬だから玩具にするのだと云ふ。子供は錯覚を信用してゐる。
  
 この文章が書かれたのは1934年(昭和9)であり、すでに三岸夫妻は鷺宮の第一アトリエに住んでいた時代だ。でも、西武電車に乗れば下落合駅へすぐに来られる。もし、「新高田馬場」に昭和初期まで馬がいたとすれば、記述の情景からも好太郎は子どもたちにせがまれて、「新高田馬場」で飼われていた馬を見せに、下落合駅で下車しているのではないだろうか。
上落合・上戸塚1936.jpg
 三岸好太郎・節子夫妻が、このまま上戸塚397番地に住みつづけていたら、節子は上戸塚866番地の藤川栄子Click!(旧姓:坪井栄)を通じて、鷺宮の第一アトリエ時代よりももっと早くから、壺井栄Click!窪川稲子(佐多稲子)Click!と親しく交流していただろう。なぜなら、大正末から太平洋戦争がはじまる前にかけ、上落合(503番地→549番地)には壺井栄が、同じ上戸塚593番地には窪川稲子が住んでいたからだ。ひょっとすると、藤川栄子に壺井栄、窪川稲子(佐多稲子)、上落合186番地の村山籌子Click!に加え、三岸節子もいっしょに特高Click!の尾行刑事たちを背後にしたがえて、ノッシノッシと「歩きませう」運動を下落合で繰り広げていたかもしれない。

◆写真上:戸塚町上戸塚(宮田)397番地にあった、三岸夫妻が暮らした旧居跡の現状。
◆写真中上は、1930年(昭和5)に作成された1万分の1地形図にみる、上戸塚397番地の界隈。旧・神田上水が北へと大きく蛇行し、まるで半島のような地形が形成されている。は、1992年(平成4)に中央公論美術出版から刊行された三岸好太郎『感情と表現』(新装版)。
◆写真中下は、上戸塚397番地の現状で大正期に造られたとみられる縁石や築垣が残っている。は、「新高田馬場」跡の現状で北側が当時をしのばせる公園と草原になっている。
◆写真下:1936年(昭和11)の空中写真にみる三岸夫妻の旧居跡と、のちに形成された三岸節子が生涯親しく交流した“女縁”(ピンク色)を予感させる、それぞれの旧居跡の展開。ただし、村山籌子と三岸節子の接点はほとんどないが、湯浅芳子や林芙美子Click!とは親しかったようだ。

陸軍士官学校で配られた写真。(4)

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陸士観閲式01.jpg
 陸軍士官学校で有償配布された写真Click!の中には、学生たちの演習を見学したり、分列行進を観閲する人物たちがとらえられたスナップ写真が含まれている。冒頭の写真も、そんな中の1枚だ。手前で笑いながら立っているのは東條英機であり、その背後右手には陸軍参謀総長の杉山元(画面右端)が軍刀の鐺(こじり)に左手をかけて立っている。東條の左側には、白い手袋をはめようとしている海軍大将だった嶋田繁太郎の姿がとらえられている。
 嶋田繁太郎の様子からして、陸士の学生たちが整列あるいは分列行進するのを観閲し、白手袋で敬礼しようとしているのだろうか、来賓用に設営された特設テント沿いには、各国の軍隊から観閲式に参加した軍人たちの姿も見える。写真の奥にかたまっているのは、ナチスドイツやイタリアの将校たちだ。その顔ぶれからして、この写真はおそらく東條内閣が成立したあと、1941年(昭和16)10月28日以降に撮影された公算が高い。
 このとき、東條英機は首相と陸軍大臣、さらには内務大臣を兼務しており、ほとんど独裁者のようにふるまっていたという。左手にいる嶋田繁太郎は、東条内閣の海軍大臣だった。観閲者の服装からして、同年の暮れの日米開戦前後の時期ではないだろうか。東條自身も陸士を出ており、17期の卒業生だ。母校の観閲式ないしは演習の見学に、得意満面で訪れたようだ。
 東條内閣が成立する1年前の夏、近衛文麿の別邸だった荻窪の「荻外荘」Click!応接室には陸相予定の東條英機、海相予定の吉田善吾、そして外相予定の松岡洋介の3者が集まり、いわゆる「荻窪会談」Click!が開かれている。そこでは、日中戦争や「満州」の植民地化を結果論的(ご都合主義的)に正当化し、やがては資源確保のための「南進」をも射程に入れた「大東亜共栄圏」建設を目的とする、「基本国策要綱」と呼ばれる重要な決定がなされ、同時に第2次近衛文麿内閣の組閣人事も同荘で行われている。また、1941年(昭和16)3月には日米関係を決定的に悪化させる仏領南印進駐も、荻外荘の連絡会議で決められた。
 こうして、東條英機が組閣するころには、日本を“亡国”の淵へと導くことになる、明治政府以来の大日本帝国の破滅は不可避的な状況を迎えていた。写真右端に写る陸軍参謀総長の杉山元は、近衛文麿がひそかに進めていた日中の和平工作Click!を、ことごとくつぶした人物でもある。近衛は、日中和平交渉のために蒋介石あての親書を宮崎龍介Click!に託すのだが、その細かな打ち合わせが練られたのも、目立つ首相官邸ではなく荻外荘の応接室だったのかもしれない。
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 先日、天理教東京教務支庁の敷地内へ移築Click!され保存されている荻外荘の応接室Click!が、年度末の業務整理で片づけられ空き室状態になった際の貴重な写真を、K.Kuraさんよりわざわざお送りいただいた。非常に高価かつしっかりした部材で建設されているのだろう、伊東忠太の設計で1927年(昭和2)に建設された建物だが、いまだ構造もしっかりしているようで、とても築86年を経過した建築のようには見えない。天井板に描かれた円形の龍虎図は、おそらく大正期末あたりに制作された名のある日本画家の手によるものだろう。
 荻窪に残る荻外荘の母屋のほうは、杉並区が敷地ごと購入して緑地公園化が予定されているようだ。荻外荘の邸内をご案内いただき、写真を撮らせていただいた近衛通隆様が、先年(2012年)の2月に死去されたのだが、善福寺川に面した河岸段丘の緑が濃い敷地なので、さまざまな史的なエピソードを秘めた荻外荘ともども、緑地公園として保存されるのは素直にうれしい。
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 さて、観閲式のスナップ写真には、ほかにもさまざまな人物がとらえられている。愛馬の「白雪」号にまたがった昭和天皇が観閲しているのは、座間(相武台)の陸軍士官学校の練兵場に整列した士官候補生だろうか。または、士官学校の学生たちも参加して挙行された、代々木練兵場の閲兵式の可能性もありそうだ。陸士配布のスナップ写真には、天皇にかなり近寄ったピンボケ気味の画面もあるので、天皇の周囲をかなりラフにあちこち動きまわって撮影することができた、専属のカメラマンが存在していたことがわかる。しかも、観閲している士官候補生ないしは兵士のほうでなく、カメラマンに向かって敬礼するポーズもとらえられている。
 また、同じ観閲式でも、1941年(昭和16)に結核を罹患し御殿場へ療養直前とみられる、秩父宮(当時は陸軍少将)と思われる人物をとらえた写真も残っている。やや距離がある写真なので、顔立ちがはっきりしないのだが、騎乗で先頭を歩くメガネをかけた面影は、陸士を34期に卒業している秩父宮のように思われる。また、陸士の校長が学生たちの分列行進や演習を観閲するものなど、さまざまな記念行事をとらえたスナップ写真が含まれている。これらの写真は、陸士の学生たちが申請して購入する場合もあれば、学生の親もとへの頒布会も行われたようで、お貸しいただいた写真の封筒には、陸士に入学した士官候補生の親の名前が書かれているものもある。
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 子どもを陸軍士官学校へ入学させるということは、このように「大元帥」だった天皇や皇族のスナップ風の“生写真”までを、「特典」として容易に入手できるということであり、その特権意識を満足させるものだったにちがいない。写真は、周囲へもうやうやしく持ち出されては自慢されたものだろう。しかし、日本各地の街々が焦土と化した1945年(昭和20)8月15日の敗戦を境に、これらの写真類は押しいれの奥深くにしまいこまれ、めったに日の目をみることはなかったと思われる。

◆写真上:座間(相武台)か代々木での観閲式で、来賓席の人物たちをとらえたスナップ写真。
◆写真中上:K.Kuraさんよりお送りいただいた、移築された荻外荘応接室の近況写真。
◆写真中下:観閲式で、陸士の士官候補生を閲兵していると思われる昭和天皇。一部には、陸軍少将だった療養直前の秩父宮をとらえたと思われる写真も残されている(下右)。
◆写真下:荻窪にある荻外荘玄関と、邸内をご案内いただいた故・近衛通隆様と夫人の節子様。

プロレタリア美術家たちが描く「風景」。

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 造型美術協会あるいは日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)などを母体として制作されたプロレタリア美術の多くは、思想や運動を直接的に表現する作品が主体だったけれど、中にはそれらを間接的に表現し匂わせる風景画も制作されている。労働者や農民がこぶしを振り挙げたり、仲間が特高に検挙されるのを「同志、あとは引き受けた!」というような直截的な表現に比べ、それらは相対的に「大人しく」、批評会で階級的な自覚や煮つめ方が足りない・・・などと批判されたりするのだが、中国の文革時にあまた描かれた作品や、北朝鮮のアジプロ絵画を想起させるような「そのまんま」表現に比べれば、まだ鑑賞者の想像力を大きく刺激してくれる。
 プロレタリア美術展が開かれるたびに、ヤップなどの幹部を中心に批評会が開かれ、絵画的な技巧の問題よりも思想的ないしは政治的なスタンスが優先されて批判されたり、あるいは作者自身が「自己批判」したりするのだが、そのやり取りを読んでいると、はからずも戦争画Click!を描いた画家と軍当局とのやり取りの“陰画”のように思えてきてしまう。国家や特定のイデオロギーが芸術を強力に支配・統制しようとすると、それは抑圧する側(国家権力)と抑圧される側(反体制勢力)とを問わず、はからずも同じ“表情”をみせるということだろうか。
 戦後の1961年(昭和36)に、『日本プロレタリア美術史』(造形社)の編集委員会による元・プロレタリア美術家たちに向けて行われたアンケートで、鳥居敏文は「政治的偏向が強すぎたように思います。大きい意味の政治性よりも、その時々の運動に引きまわされすぎたように思います」と回答し、須山計一は「当時のフオーヴイズムなどとの関係を製作の上ではっきりむすびつけることができなかった」と振りかえり、寺島貞志は「何よりもあのような非デモクラチックな組織によって美術は育たないし芸術家の創意が著しく阻害されていた」と書いている。
 造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所Click!)における美術教育も行われたが、イデオロギー上の“理論”や政治性に重きが置かれすぎて“実技”が相対的に軽視されたものか、プロレタリア美術の多くは基礎的なデッサン力からして稚拙なことが、当の批評会などでも何度か指摘されている。つまり、頭でっかちの美術で実力がそれにともなっていない・・・という問題だ。この課題は、毎年開かれたプロレタリア美術展の批評会を通じても、大なり小なり言及されている。
竹本賢三「石川島」1929.jpg
山上嘉吉「四・一六」1929.jpg 岡本唐貴「争議団の工場襲撃」1929.jpg
 造形美術研究所(プロレタリア美術研究所)を中心に描かれた作品の中には、近くのダット乗合自動車Click!バスガールたちClick!にモデルを依頼してたりして(おそらく人物デッサンの実技だろう)、長崎地域あるいは目白通り沿いなどの情景がかなり存在していたのではないかと思っている。でも、多くの作品が特高や憲兵隊に没収され、破却され、行方不明になっている現状では作品自体を目にすることができない。そこで、1928年(昭和3)から開催されていたプロレタリア美術展の出品目録を当たれば、どのような情景がどこで描かれていたのか、ある程度は想定できるだろう。ことさら運動のアジプロ的なタイトルではなく、たとえば平山鉄夫の『新宿駅構内』(1928年)のように、作品が描かれた場所を示唆するタイトルがあれば、おのずと特定できるわけだ。
 1928年(昭和3)の第1回プロレタリア美術展から、1932年(昭和7)の弾圧によって最後となった第5回展にいたるまでの出展リストに目を通していくと、さっそく第1回展に大筆敏夫の『長崎村の農民』(1928年)を見つけることができる。「長崎村」と表現されているが、もちろん長崎村は1926年(大正15)より町制へと移行しており、作品が描かれる2年前から長崎町になっていた。おそらく、当時の一般的な地元在住の意識から、あえてタイトルにそう付けたものだろう。落合村も1924年(大正13)から町制に移行しているにもかかわらず、多くの住民たちは昭和初期まで相変わらず「落合村」Click!と表現していたのと同じ感覚だ。
 地名の入ったタイトルは、5回の展覧会を通じて多く見かけるのだが、大半は争議が行われていた工場や職場などがある地名であり、また住友セメントや鐘淵紡績などの企業名を入れたタイトルも目立つ。地名としては、村川弥五郎『千住風景』(1928年)や平山鉄夫『新宿駅構内』(1928年)、『隅田川』(1929年)、竹本賢三『石川島』(同)、伏木清治『芝浦』(1930年)など当時の工場地域のものが多いが、単なる『風景』あるいは『工場風景』というタイトルも多数あるので、プロレタリア美術研究所の周辺にモチーフを求めた風景画も、何点か混じっているように感じられる。
矢部友衛「労働葬」1929.jpg
小野沢亘「市電従業員のデモ」1930.jpg
 ちなみに、1929年(昭和4)に開催された第2回展へ黒澤明は『建築現場に於ける集会』、『農民習作』、『帝国主義戦争反対』、『農民組合へ』、『労働組合へ』の5点を出品しているが、この中で『建築現場に於ける集会』と『農民習作』などが、いかにも造成中だった郊外の新興住宅地や、隣接する農村の姿をほうふつとさせるタイトルとなっている。以下、同年の第2回展における矢部友衛の「展覧会評」から黒澤明の作品評について引用してみよう。(『日本プロレタリア美術史』より)
  
 黒澤明 1農夫習作 2建築現場における(ママ)集会
 作者は非常にテクニシャンである。その事はかってにないであろう、あの膨大な水彩画を見ても解るようにその達者な仕上げに驚かされるであろう。/だが、そのテクニックが、まだアカデミックの形式上に立っているということが何よりの欠点である。/でも氏の最近の働きは題材を見ても解るように非常に進出的態度であるから、次回の展覧会にあっては、そのたくみなテクニックに伴なって内容にまで突き進んでかち得たものを見られるものと期待をもつものである。
  
 黒澤明は、造形美術研究所の時代から岡本唐貴に付いて絵を勉強をしているので、当初から基礎をみっちり叩きこまれたと思われる。評文は一見、褒めているようないいまわしになっているが、アカデミックなテクニックと表面(うわっ面)ばかりで内容がない・・・といっているに等しい。矢部友衛の批評はいずれも辛辣なものが多いが、黒澤作品評をオブラートに包んでいるのは岡本唐貴の教え子だと、やはりはばかったせいもあるのだろうか。
 長崎大和田や五郎窪の周辺では、ダット乗合自動車(のち東京環状乗合自動車Click!)の労働組合が結成されるなど、労働運動が比較的盛んだった地域のようだ。また、隣接する農村地帯へもオルグが入り、周辺では農民運動も芽生えはじめていたのではないだろうか。そのような環境へ、1929年(昭和4)に造形美術研究所(のちプロレタリア美術研究所)が建設されていた。
第2回プロレタリア美術展ポスター1929.jpg 黒澤明「失業保険を作れ」1929.jpg
 第2回展へ出品している黒澤明は、当然、岡本唐貴が講師をつとめる造形美術研究所へも通ってきていただろう。目白駅から、目白通りを下落合方向へ歩いて、目白(長崎)バス通りの二叉路Click!も近い造形美術研究所へと通う、当時としては180cmの大男をご記憶の方はいないだろうか? 彼の5作品に登場する、「農民」「労働組合」「農民組合」「建築現場」などは、いずれも長崎地域、あるいはその周辺の情景である可能性が高いように思われるのだが。

◆写真上:目白通りから長崎バス通りの二叉路の手前を北へ折れ、長崎町大和田1983番地にあった造形美術研究所へと向かう路地で、道の左手には日ノ出湯が開業していた。
◆写真中上:いずれも1929年(昭和4)の第2回プロレタリア美術展へ出品された作品で、竹本賢三『石川島』()、山上嘉吉『四・一六』(下左)、岡本唐貴『争議団の工場襲撃』(下右)。
◆写真中下は、1929年(昭和4)制作の矢部友衛『労働葬』。は、1930年(昭和5)に起きた東京市電争議でデモをする運転士や市電ガールを描いた小野沢亘『市電従業員のデモ』。
◆写真下は、岡本唐貴が制作した第2回プロレタリア美術展のポスター(1929年)。は、大恐慌であふれる失業者へ保険の必要性をアピールする黒澤明『失業保険を作れ』(1929年)。

三岸好太郎が描いた妙正寺川。

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三岸好太郎「鷺宮風景」1931-32頃.jpg
 三岸好太郎Click!は、上鷺宮407番地のアトリエからスケッチブックを手に、よく周辺を散策して歩いたようだ。ときに、子どもたちを連れての散歩だったのだろう。三岸夫妻の長女・陽子様の記憶によれば、鷺ノ宮駅のすぐ南、妙正寺川に架かる八幡橋あたりで、よくザリガニ捕りをして遊んだらしい。好太郎は子煩悩で、どこかへ仕事に出かけると必ず子どもたちへのお土産を忘れなかった。当時は畑が多かった道を、遠くのほうから子どもたちへ呼びかける歌を大声で唄いながら近づいてくるので、子どもたちは家から飛びだして父親を迎えた。
 札幌市にある北海道立三岸好太郎美術館Click!には、鷺ノ宮駅近くの妙正寺川を描いた作品が残されている。同館の苫名直子様より、山本愛子様Click!を介して1931~32年(昭和6~7)ごろに制作された、三岸好太郎『鷺宮風景』の貴重な画像をお送りいただいた。中央を妙正寺川、あるいは妙正寺川へと注ぐ灌漑用水のような流れが描かれ、川の両岸には武蔵野原生林とみられるこんもりした森が描かれている。画面の右手には、郊外の田園生活にあこがれて建てられた文化住宅の1軒だろうか、農家には見えない屋根がややアールがかった建物が描かれている。流れは、右へ少しカーヴしたあと正面の森に沿ってつづいていくように見える。
 光線は、左上ないしは前方左斜め上から射しているようで、その方角が南ないしは東側のように感じられる。陽子様から聞き書きをした山本愛子様によれば、この風景作品は鷺ノ宮駅のすぐ南を流れる妙正寺川を、八幡橋近くから描いたものとのことだった。子どものころ、父親とともに川遊びをして楽しい思い出がおありなのだろう。あるいは、三岸好太郎がスケッチブックを手に写生している『鷺宮風景』を、近くで実際にご覧になっていたのかもしれない。
 わたしは当初、中央に描かれた流れの水位が、周囲の地面とほぼ同じぐらいの高さであり、V字にくぼんだ妙正寺川の流れにはどうしても見えなかったので、昔の空中写真にとらえられた上空からの風景を参考にしながら、この流水を妙正寺川へと注ぐ灌漑用水の支流の1本だと考えていた。陽子様がザリガニ捕りをした、西武電鉄Click!鷺ノ宮駅の南側には、鷺宮八幡社にちなんでつけられた八幡橋が妙正寺川に架かり、その橋のたもとへ南東側の麦畑と思われる耕作地から流れこむ細い支流(灌漑用水)が1本、存在していたからだ。そして、支流の右手(西側)に、1936年(昭和11)現在の空中写真では、住宅とみられる建物が1棟とらえられている。
八幡橋(昭和最初期).jpg
 しかし、実際に現場を歩いてみるとわかるのだが、妙正寺川の南岸は緩斜面を形成しており、そこに通っていた支流(用水)だとすると、流れの周囲や前方がこれほど平坦な地形ではなかったはずだ。画面の地勢を観察すると、左手から右手にかけて徐々に地面が高くなり、緩やかな傾斜になっているのがわかる。すなわち、陽子様のご記憶どおり、東南東へ向けて流れる妙正寺川をモチーフに描いている・・・と考えたほうが、どうやら自然のように思える。そして、描かれた森は鷺宮八幡社と福蔵院の森だとのご記憶もあり、それを踏まえるならば正面から右手へと徐々に高くなっていく森が、八幡社と福蔵院の境内に密生していた樹林ということになる。
 もうひとつ、決定的な写真に気がついたので、わたしの想定は確信に変わった。それは、昭和の最初期に撮影された妙正寺川と木橋、そして両岸に拡がる畑地を前景に入れて、冠雪する富士山をとらえた写真だ。中野区教育委員会が、1981年(昭和56)に発行した『なかのの地名とその伝承』に収録された写真で、撮影場所は鷺ノ宮駅付近の妙正寺川だ。つまり、この写真に写っている橋こそが、1935年(昭和10)前後に行なわれた鷺ノ宮駅前の道路拡幅工事で架けかえられる以前、妙正寺川に架かっていた八幡橋の当初の姿であり、三岸好太郎や陽子様たちがザリガニ捕りで目にしていた、1931~1932年(昭和6~7)現在の八幡橋の姿そのものだろう。
妙正寺川01.JPG 八幡橋.JPG
妙正寺川02.JPG 鷺宮八幡社.JPG
 『なかのの地名とその伝承』収録の写真は、三岸好太郎の『鷺宮風景』で描かれた八幡橋の下流(南東側)ではなく、上流側(南西側)に向けてシャッターが切られている。鷺ノ宮駅と西武線の線路は画面の右枠外、撮影者のやや背後にあり、妙正寺川はいまだ木製の八幡橋の向こう側から、急カーブを描いて南西方面へと流れている。妙正寺川の水位を見ると、地面よりも低く流れているのが判然としているが、三岸好太郎が『鷺宮風景』を制作したとき、たまたま前日に雨が降って増水していたのかもしれない。畑地と思われる地面に、土が多く見えているので麦畑の収穫Click!後、5~6月ごろの情景だからだろうか? 近隣の農家では、次の野菜の種まきClick!をひかえて、1年のうちでもっとも忙しい時期だったのかもしれない。昭和初期の情景を、『なかのの地名とその伝承』から引用してみよう。
  
 (前略)地区連合誌にも「八幡神社と福蔵院境内に植林されたものが、戦前まで、昼なお暗き老杉が点に沖し、うっ蒼と繁り、白鷺山麓の妙正寺川の清流と対照的で、その景勝は実に景観を呈し、春の花、秋の紅葉など、近村低学年の遠足地として賞賛され、鷺宮の名と共に誇りを感じる土地柄を示した」と記されています。戦前までは、新青梅街道あたりでも高い樹木が多く、昼でもうす暗く感じられるところが各所にみられたそうです。しかし、これらの樹木の多くは、戦時中に軍部によって伐採されてしまったそうです。
  
 さて、『鷺宮風景』に描かれた情景をもう一度整理すると、妙正寺川の左岸に見えるこんもりとした木立ちは、西武線の線路際に伐られずに残っていた林だと思われ、右岸に見えている森は福蔵院や鷺宮八幡社へとつづく、北斜面に密生していた森の一部だ。もう少し画角を拡げていたら、右端には福蔵院の本堂屋根がとらえられていたかもしれない。また、右岸の森の手前に見えている建物は、住宅ではなく農家の作業小屋あるいは灌漑用水の管理小屋だった可能性もあるが、1936年(昭和11)現在の空中写真には、この位置に建物の姿はとらえられていない。
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鷺宮駅1941頃.jpg
 一宮市の三岸節子記念美術館Click!にも、『鷺宮風景』とほぼ同じ構図の三岸好太郎『風景』(1931年)が収蔵されているが、こちらの画面には右岸の建物が描かれていない。そして、妙正寺川の両岸には、麦畑を描いたと思われるようなマチエールを確認することができる。三岸好太郎は、小さな八幡橋の上から東南東を向いて、1931年(昭和6)に麦が実った麦秋(5月)のころと、刈り入れが済んで野菜の種まき(6月)がはじまろうとする、梅雨入り間近な風景を連続して写したものだろうか。

◆写真上:1931~32年(昭和6~7)ごろに制作された、下落合と同様にいまだ小川のような風情をたたえる妙正寺川を描いた三岸好太郎『鷺宮風景』(北海道立三岸好太郎美術館蔵)。
◆写真中上:昭和の最初期に撮影された、鷺ノ宮駅南側の妙正寺川と八幡橋。
◆写真中下上左は、八幡橋から妙正寺川の下流(南東)を眺めた現状。上右は、八幡橋の現状。下右は、八幡橋から上流(西)を眺めた現状。下右は、森の中にある鷺宮八幡社。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる昭和初期の撮影ポイント。は、1941年(昭和16)ごろ撮影された空中写真にみる『鷺宮風景』の想定描画ポイント。

三岸好太郎と家庭購買組合。

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 東京へやってきた三岸好太郎Click!は、大正期に絵を勉強しながらさまざまな仕事についている。その中で、もっとも長くつづけた勤めは、1923年(大正12)からはじめた家庭購買組合の仕事だった。家庭購買組合とは、吉野作造の民本思想にもとづく、今日の生協と同様のものだ。品質のいい商品を、会員が協同で大量購入することにより少しでも安く頒布する組合組織で、大正期に藤田逸男が帝大YMCAや日本女子大学、矯風会などのメンバーを勧誘して組織した同組合は、今日の日本生活協同組合連合会へと受け継がれている。有限責任・家庭購買組合は1919年(大正8)に設立され、初代理事長には吉野作造Click!が就任している。
 家庭購買組合の本部は東京帝大近くの本郷に置かれ、府内に支部5ヶ所が設置されている。そのうちのひとつが、目白駅近くの下落合にあった。下落合でも、早くから協同購買組合のような組織が結成され、質のいい商品を安く家庭に供給している。そのもっとも有名なものには、目白文化村Click!の第一文化村で結成された同志会Click!があった。このような組合は戦時中、食糧や物品の配給物資を平等かつ効率的に行う機関として機能し、配給の不平等などによる地域トラブルも少なかったといわれている。吉野作造と藤田逸男の家庭購買組合も、1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!で米の計画配給を迅速かつ効率よく実施し、組合員の高い信頼性を獲得していった。大震災を境に、組合員の数は急増をつづけることになる。
 三岸好太郎が勤務していたのは、家庭購買組合の駒込支部だった。そのときの様子を、1999年(平成11)に出版された、吉武輝子『炎の画家・三岸節子』(文藝春秋)から引用してみよう。
  
 家庭購買組合というのは、民本主義者として有名な帝大教授吉野作造が指導した日本最大のセッツルメントで、本郷追分町キリスト教青年会館地下に本部が、渋谷、大久保、目白、駒込に支部があった。好太郎は駒込界隈に新造された高級文化住宅を主たる顧客とする駒込支部に勤務し、米や食料品、日常雑貨の配達係を受け持っていた。そんな立場にあったので食料品を確保することができたのだろう。/ちょうど(関東大震災の)五日前に、札幌から母親のイシと妹の千代が上京、大森の子母澤寛の家に身を寄せていた。身内の安否を気づかって、大森に行く途中、節子の下宿先に寄ってくれたのだった。(カッコ内は引用者註)
  
 三岸好太郎は1923年(大正12)9月2日の午後、関東大震災が起きると同時に家庭購買組合にあった食料品を持てるだけ持ち、当時は女子美術学校の同窓だった島崎咲子や神保俊子といっしょに暮らしていた、白山の吉田節子(三岸節子Click!)の下宿へと駆けつけている。そして、数日滞在して家具調度が散乱した彼女たちの部屋の後片づけなどを手伝いながら、節子たちへ食料品と手持ちの財布を丸ごとわたすと、母親と妹が身を寄せる大森のいわゆる“馬込文士村”Click!に住んでいた、異父兄・子母澤寛Click!の屋敷へと向かっていった。
本郷東京YMCA追分会館.jpg 明治新聞雑誌文庫.JPG
 このときの様子を、1989年(昭和64)に講談社から出版された三岸節子へのインタビュー、林寛子『三岸節子・修羅の花』に記録された節子自身の言葉から引用してみよう。
  
 好太郎は、私たちの下宿に二日か三日いましたが、いよいよ大森の兄さんの所へ行くという時に----最初の夜から下町のほうは全部火の海でしたが、ちょっと途中まで私に一緒に来てくれと言うんです。何だろうかと思って、一緒に歩いて行きましたら、/「君が大変好きだ」/と彼が打ち明けるわけです。(中略) 好太郎は私に、自分の持っているお金を、二十円か三十円でしたか、自分のお給料ぐらいのお金を「非常の際だから、お金は持っていたほうがいい」と言って私に全部くれました。私は、いらないと断ったんですけど。/好太郎の告白を聞いても、私は周りを見ながら「何を言ってるのかなあ」と思って聞いているわけです。
 

  
 これだけ見ると、三岸好太郎は吉田節子に恋焦がれ、生命がけで大震災の混乱した街中を疾走して、不安におののいている節子のもとへといち早く駆けつけた・・・という美談になるのだけれど、のちに節子と同室だった島崎咲子へちゃっかりラブレターをわたしていた事実が、好太郎の机の引き出しから節子自身によって発見され、「節っちゃん、ごめんよ~」と大目玉をくらうことになる。もう、いかにも三岸好太郎ならではの、しかしどこか憎めないエピソードなのだ。
 駒込支部から節子のいる白山の下宿へと立ち寄ったあと、好太郎が大森へと向かったルートは不明だけれど、ひょっとすると家庭購買組合の大久保支部あるいは渋谷支部の点を線で結ぶようにして、大森までたどり着く計画だったのかもしれない。いずれかの支部までたどり着けば、顔見知りの組合職員がいただろうし、食糧はまちがいなく確保できたからだ。
同志会1932.jpg 三岸好太郎1921頃.jpg
 三岸好太郎は、家庭購買組合の駒込支部で商品の配送や仕分けなどの仕事をするかたわら、同組合のポスターや製品のパッケージなどグラフィックデザインの仕事もこなしていた。おそらく、ポスターだけでなくパンフレットやPOPなど、同組合の販促に必要なSPツール類の制作もしていたのだろう。三岸夫妻の長女・陽子様Click!によれば、1点ずつ手描きの鮮やかで見事なポスターだったようで、いまに伝わっていないのがとても残念とのことだった。これらのポスターなどは駒込支部のみならず、本郷の組合本部をはじめ府内の支部からも制作依頼があったかもしれず、目白支部にも好太郎が制作した組合ポスターが貼られていた可能性がある。
 家庭購買組合の目白支部は、昭和初期には目白中学校Click!が練馬へと移転した跡地の一画、下落合(1丁目)437番地に事務所兼店舗をかまえていた。目白駅から歩いて2分ほどの場所で、近衛文麿・秀麿邸(近衛新邸Click!)の敷地内だったところにあたる。東京土地住宅Click!が1925年(大正14)に破たんしたあと、目白駅寄りの近衛町Click!をはじめ、下落合東端部の宅地開発事業を引き継いだのはライバルだった箱根土地Click!であり、目白中学校跡地の区画割りや生活インフラを整備するなど、宅地開発Click!を手がけたのも同社なのだろう。家庭購買組合の目白支部が、おもに下落合東部の組合員宅へ商品を供給し、下落合中部では目白文化村の同志会が同じような役割をはたしていたと思われる。
 1933年(昭和8)に吉野作造が死去すると、藤田逸男が家庭購買組合の理事長に就任する。三岸好太郎が画家として高名になってからも、三岸家と藤田家との親しい交流はつづき、藤田はなにかと夫妻の生活を援助していた。藤田逸男は、組合のポスター制作を依頼するために、鷺宮の第一アトリエを家族連れでときどき訪れている。陽子様の記憶によれば、藤田家の末子・藤田六郎と陽子様とは同学年で同じ歳だったらしい。好太郎は、組合支部の天井からぶら下げる大きなポスターや、ときにデパートなどからも依頼されて大型ポスターを手がけている。
家庭購買組合目白支部1936.jpg 家庭購買組合目白支部1938.jpg
 家庭購買組合目白支部1940.jpg 第5回麗人会ポスター1929.JPG
 三岸好太郎が1934年(昭和9)7月に名古屋で急死すると、残された節子夫人と3人の子どもたちへ藤田は支援を惜しまなかった。三岸節子は当初、作品がほとんど売れず生活に困ると藤田家へ借金の申しこみに出かけたようだ。陽子様の記憶では、その金額が1,000円に及ぶこともあったらしい。今日の米価に換算すると、200万~300万円ぐらいに相当するだろうか。
その後、陽子様の長女・山本愛子様より、1桁少ない100円ではないかとのご指摘をいただいた。現在の価値に換算すると20万~30万円で、ちょうど1ヶ月分の生活費ほどになるだろうか。

◆写真上:昭和初期に下落合(1丁目)437番地にあった、家庭購買組合目白支部跡の現状。
◆写真中上は、地下に家庭購買組合の本部があった本郷の東京YMCA追分会館で、関東大震災後の修復された姿。は、東京大学大学院法学政治学研究科の地下にある宮武外骨Click!の明治新聞雑誌文庫の廊下で、吉野作造文庫は左手背後に設置されている。
◆写真中下は、目白文化村の第一文化村にあった協同購買組合「同志会」の入り口。は、1921年(大正10)ごろに撮影された三岸好太郎(右)と俣野第四郎(左)。
◆写真下上左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合1丁目437番地の家庭購買組合目白支部。上右は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同支部の位置。下左は、1940年(昭和15)の「淀橋区詳細図」にみる同支部。下右は、1929年(昭和4)5月11日~17日に新宿紀伊国屋の2階展示室Click!で行われた第5回麗人社展のポスター(新宿歴史博物館蔵)。


陸軍士官学校で配られた写真。(5)

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 陸軍士官学校で有償配布された写真類Click!には、おそらく学生たちの親もとへとどける学校生活を撮影した写真類が混じっている。そこでは、武道で身体を鍛える様子や、学生たちが演習へ参加する様子、さらに修学旅行先で撮られたと思われる写真などがある。
 写真をお貸しいただいた、陸士出身である将校のご子息によれば、親たちが陸士を訪問すると、その日はいつもの学業や日課は免除になり、親を学校の敷地内あちこちへ案内してまわれたそうだ。おそらく、ふだん親しくしている同期の友人たちにも紹介ができたのだろう。ただし、日米戦が激しくなってくると、国内の移動さえままならなくなるので、おそらく陸士を訪問する親たちは激減しているのではないかとみられる。
 陸士に入学すると、まず入校式が行なわれる。支給された陸軍の軍服を着て、同期の新入生たちと校庭に並び、校長や教官たちから入校の訓示や学校生活の心得などを聞かされる。(写真) つづいて、校長や副校長らの騎乗査閲(写真)が行なわれ、それが終了すると入寮とともに班あるいは級ごと寮室(兵舎)が割り当てられ、陸軍兵士としての装備一式が支給されて学校生活がはじまる。(写真) 陸軍の士官をめざす学校なので、当然のことながら学課と同等の比重で、きびしい軍事訓練にも重点がおかれるカリキュラムだった。
 起床は早く、朝礼ではおそらく軍人勅諭の奉読とともに、東方遥拝が行なわれたと思われる。修学旅行先の宿舎においてだろうか、カーキ色の軍服ではなく白い寝巻のような装いで、東方遥拝(おそらく万歳三唱)をしているめずらしい写真が残されている。(写真) その旅行先だろうか、海辺の桟橋で釣りをしたり(写真)、浜辺にテントを張って海水浴をしている記念写真(写真)もある。また旅行先か演習中だろうか、班ないしは級ごとに集まって飯盒炊爨(はんごうすいさん)をする光景もとらえられている。(写真) これらの写真は、おそらく悲惨な戦争の記憶とはまったく切り離された、楽しい思い出の数々として士官候補生たちの中に残っていたのではなかろうか。
①陸士生活.jpg ②陸士生活.jpg
③陸士生活.jpg
 校内写真では、おそらくこの写真を保存されていた士官候補生も参加されている、武道場における剣道大会の競技場を撮影したもの(写真)や、父兄(ふけい=戦前は戸主である父親と嫡子である長男が「家」を代表する人間という意味から、「父母」とは呼ばれず「父兄」と表現された。中国や朝鮮半島における儒教思想を、そのまま踏襲した明治政府教部省→文部省による男尊女卑教育の非「原日本」的で象徴的な用語)の授業参観日に撮影されたとみられる、陸士の学科授業がとらえられていて興味深い。(冒頭写真) 黒板の上には、「忠君愛国」の扁額がかかげられ、教壇の教官に向かって学生のひとりがなにかを朗読している様子が写っている。
 机の配置や人々の姿勢、中央に置かれた箱のようなものなどの様子から、なにかの模擬訓練(試験)のようなのだが、おそらく陸士出身の方がこの写真を見れば、すぐにピンとくる光景だろう。手前に座る人々は、士官候補生の親たちだと思われ、みんな紋付袴や背広で正装して参観していた様子がうかがえる。この親たちの中には、1941年(昭和20)12月8日の太平洋戦争の開始とともに、子どもを陸士に入れたのを後悔した人も少なからずいたにちがいない。
④陸士生活.jpg ⑤陸士生活.jpg
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⑦陸士生活.jpg
 陸士の予科か本科は不明だが、卒業式と思われる写真類(写真⑨⑩⑪)も残されている。この写真類を保存されていた元・陸軍士官の方は、専攻が航空士官なので兵科は課されず、原隊を決められただけでそのまま陸軍航空士官学校へと進まれているのだろう。航空士官は、習得する知識や技術が他の専門科よりもかなり多いため、上等兵から伍長へと昇進する半年間の兵科が全面的に免除されていた。あるいは、卒業写真とみられる光景は、本科の航空士官学校を修業したあと、座間の陸士で行われた卒業式なのかもしれない。
 陸士を卒業すると、原隊(士官や兵士が退役まで所属する地域の師団各部隊)へ入隊する。その入隊式をとらえた写真(写真⑫⑬)も、数葉残されている。代々木練兵場(現・代々木公園など)のように見える場所で、入隊式は行われていたようだ。ただし、写真を保存されていた方は航空士官なので勤務は東京市街地ではなく、飛行場のある部隊へ即座に配属されたのだろう。
⑧陸士生活.jpg ⑨陸士生活.jpg
⑩陸士生活.jpg ⑪陸士生活.jpg
⑫陸士生活.jpg ⑬陸士生活.jpg
 陸士の写真類には、学科の授業風景はきわめて少なく、ことに実戦さながらに行なわれた各種演習の様子を撮影したものが多い。次回は、陸士があった座間(相武台)の原野や雑木林で行われたとみられる、士官候補生たちの戦闘訓練の様子をご紹介したい。

◆写真上:父母たちによる参観日に撮影されたとみられる、教室における学科の授業風景。
◆写真中上①②は、陸士入校式の様子。は、兵舎と変らない寮室の様子。
◆写真中下上左は、修学旅行先とみられる朝の東方遥拝(万歳三唱)。上右は、同じく旅行先での自由時間に撮られたとみられる岸壁釣り。は、わたしもボーイスカウトでさんざんやらされた飯盒炊爨。は、海岸で撮影された水練の記念写真。
◆写真下上左は、剣道大会の様子。上右⑩⑪は、陸士の卒業式を撮影したとみられる写真。⑫⑬は、代々木練兵場らしい場所で行われた入隊式の様子。

佐伯アトリエへ配達した近所の魚屋。

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佐伯祐三「鯖」1926(部分).JPG
 今年、新宿歴史博物館Click!に1926年(大正15)に制作されたとみられる、佐伯祐三Click!の静物画『鯖』が収蔵された。佐伯夫妻が、第1次渡仏からもどったばかりのころだ。新宿歴博には同時に、佐伯祐三の素描『林檎』も収蔵されたが、こちらは若描きのデッサンのようで学生時代、あるいはもっと以前の作品なのかもしれない。
 佐伯の静物画には、カニやカモ、蔬菜Click!などを描いたものがあるが、サバは判明しているだけで2点現存しており、佐伯の好きなモチーフだったのだろう。サバの微妙な体色や模様、青魚ならではの独特な“てかり”が気に入ったのだろうか。歴博のサバ作品とは別に、1925年(大正14)ごろに制作されたとされる『鯖』もあるが、時期からして佐伯夫妻はいまだパリに滞在中で、もうひとつの『鯖』作品も帰国してから、1926年(大正15)にアトリエで描いたのではないだろうか。
 佐伯家が魚を注文していたのは、どこの魚屋なのか?・・・というのがきょうのテーマだ。佐伯アトリエの近くには、目白通りに面して魚屋が2軒、店開きをしている。ひとつは、聖母坂(補助45号線)が開通する以前、木村横丁という商店街の路地があった西側の、下落合642番地に開店していた「魚石」だ。この魚屋は、1925年(大正14)の「出前地図」Click!には採取されていないので、同年の後半かあるいは1926年(大正15)に開店したばかりの店だったのかもしれない。
 もうひとつが、第三文化村Click!第一府営住宅Click!の北側、下落合1486番地で営業していた「魚友」だ。いまでは、山手通りと目白通りの交差点になってしまっている位置だが、この店は前年の「出前地図」にも採取されているので、府営住宅が建設されはじめた大正初期のころから営業をつづけているのかもしれない。2店舗とも、佐伯アトリエからは直線距離で150mほどのところにあり、当然、御用聞きが注文をとってまわるテリトリーだったろう。
 当時の御用聞きには、おそらく競業する店同士ができるだけトラブルにならないよう、商店仲間などを通じておおよその“縄張り”が決められていたと思うのだが、佐伯アトリエを受け持っていた魚屋は、はたしてどちらの店だったのだろう。下落合642番地の「魚石」のほうが、佐伯家Click!まで距離的にやや有利で、もし開店したばかりだったとすると積極的に営業攻勢をかけていたのかもしれない。一方、佐伯夫妻がアトリエを建てた当初から、出入りしていたかもしれない「魚友」は、いち早く佐伯一家がフランスから帰国したのをキャッチすると、無事帰国の祝いに尾頭つきかなにかをとどけている可能性がある。御用聞きを通じ、町内に張りめぐらされたご近所情報ネットワークは、今日、わたしたちが想像する以上に鋭敏だったろう。
魚屋1926.jpg
 新宿歴博へ新たに収蔵された『鯖』をみると、すぐに調理しやすいよう、硬い胸びれや背びれがすべて落とされているのがわかる。したがって、誰か知り合いが釣果として佐伯家に持ちこんだものではなく、魚屋が仕事をしてから配達したのが判然としている。
 もし、佐伯一家が帰国したばかりのころであれば、親戚の手伝いも女中もいなかったため、台所仕事はおもに米子夫人Click!がこなさなければならず、足の悪い彼女には力を入れた包丁さばきは非常に面倒だっただろう。とどけた魚屋が、「あそこの奥方ぁさ、足が悪いからね」と気をきかしたがどうかまでは不明だけれど、できるだけ主婦の負担を減らす気配りも、当時の店ではたいせつな販促サービスのひとつだったにちがいない。佐伯祐三は、三岸好太郎Click!のように料理が好きで“作品”も美味しい・・・というエピソードは存在しないので、もっぱら米子夫人Click!が調理していたものだろう。
 商店が注文した家庭の家族構成はもちろん、年齢層や職業、生活の様子、出身地、家族の好みや嗜好、趣味などを知ることは、ちょっとした気づかい=販促活動につながる重要な情報だった。別に魚屋に限らず、出前や配達をする商店では、御用聞きをする小僧や丁稚によく情報を把握するように言ってきかせていただろう。競合する他店と、少しでも差別化して注文を多く確実なものとするためには、+αのこのような付加価値サービスが不可欠だった。
 『鯖』を観ると、佐伯にしては薄塗りの画面でキャンバスのサイズからしても、おそらく30分ほどの仕事だったのではないだろうか。キャンバスの横で、米子夫人が包丁を持ってイライラしながら、「サバは足が速いのよ、速く描いてくださいませんこと」と、せかしていたのかもしれない。
佐伯祐三「鯖」1926.jpg 佐伯祐三「鯖」1925?.jpg
 「あのな~、オンちゃんな~、いま、魚とどいたで」
 「やっぱり、日本橋の魚河岸じゃなきゃダメね。巴里の魚は、イキが悪かったこと」
 「ほんまやな~、目の色からして、ちごうとるわ」
 「また、すき焼きじゃなくて、わたくしホッとしてよ。・・・で、あなた、魚屋さんになに頼んだの?」
 「ほんま、めっちゃイキがいいで~!」
 「わたくし、サバは蕁麻疹が出るからダメだけれど、サバ以外だったら美味しくいただけてよ」
 「・・・あのな~」
 「日本のお料理が、ほんとに巴里では恋しかったこと。ねえ、おなた」
 「・・・あのな~、それがな~、・・・オンちゃん、サバやねん」
 「サ、サバ!?」
 「Oui, ca va bien merci, et On-chan?」
 「・・・いつまで、あなた、巴里ボケしてるのかしら。じゃあ、わたくし、お刺身でいいわ」
 「そやさかい、サバはな~、わしが酢〆で食うたるさかいな、オンちゃんは刺身にし~や」
 「わたくし、下魚のマグロ以外なら、たいがいお刺身はいただけてよ」
 「・・・・・・あ、あのな~」
 「・・・ねえ、あなた、ひょっとして、白身のお魚じゃなくて、マグロを頼んじゃったの?」
 「あのな~、オンちゃんな~、・・・・・・それがな~、マグロでんね」
 「ま、いいわ。尾張町の昔から、銀座では脂身は食べないけれど赤身なら隠れていただくわ」
 「・・・・・・Un, deux, トロは、食うたる~~!」
 「・・・ねえねえ、祐三さん、あなたいつから、大ボケかましになっちゃったのかしら?」
佐伯祐三「蟹」1926頃.jpg Ca va?.jpg
 米子夫人が、サバ・アレルギーかどうかは知らないけれど、佐伯が繰り返しサバを描いているところをみると、やはりサバ好きは佐伯自身だったのだろう。もう1作の『鯖』は、残念ながら実画面を観たことはないけれど、カラー写真で見るかぎり厚塗りのようだ。冷蔵庫などない当時、サバが傷まないうちに、ちゃんと画面を仕上げられたのだろうか。それとも、「あのな~、腹がな~、えろう痛いねん。オンちゃん、医者呼んでんか~」と、大当たりしているのかもしれない。制作メモClick!に残る記述、1926年(大正15)10月3日~6日の4日間、そして同年10月16日~20日の5日間と二度にわたる「病気」は、サバに当たって発熱し、ひきもきらないトイレ通いで連作『下落合風景』シリーズClick!の写生に出られなかった・・・とでもいうのだろうか?w

◆写真上:1926年(大正15)に制作された、佐伯祐三の『鯖』(部分)。
◆写真中上:1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる、佐伯アトリエ直近の魚屋2店。
◆写真中下は、新宿歴博に収蔵された1926年(大正15)制作の佐伯祐三『鯖』(全画面)。は、1925年?(大正14?)に描かれたとされる制作年の規定が怪しい佐伯祐三『鯖』。
◆写真下は、1926年(大正15)ごろ制作の佐伯祐三『蟹』。は、第1次渡仏時の佐伯夫妻。

大正時代に流行った興信所の仕事。

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御留山・弁天池渓流.JPG
 公文書館や国会図書館を調べていると、ときどき興信所のレポートに出あうことがある。別に誰かの素行調査の報告書ではなく、多くの場合、企業や株に対する信用調査や、農産物の相場に関する予測情報、土地などへの投資情報だったりする。特に東京近郊の住宅地に関する、投機を目的とした値上がり予測の調査報告書は、大正期を境に激増していくことになる。
 これらの報告書は、依頼主があって地価推移の予測調査を開始するのではなく、興信所が独自に調査して報告書をまとめ、それを企業や不在地主へ販売するという形式をとっていたようだ。だから、調査は定期的に行われたとみられ、興信所の重要な収入源のひとつになっていたのだろう。公文書館には、1921年(大正10)3月に落合村全域を調査した、東京興信所による「豊多摩郡落合村土地概評価」報告書(1922年発行)が残されている。東京興信所は、日本橋区阪本町43番地に開業し、中所真という人物が経営していた。かなり詳細に調べた報告書となっているので、おそらく所員の数も多い、当時としては規模が大きな興信所ではないだろうか。
 同報告書の面白いところは、住民への直接取材によるものか、あるいは1916年(大正5)版の1万分の1地形図を参照しているものか、不動谷Click!をどうやら諏訪谷Click!の反対側にある本来と思われる位置の谷間(通称・西ノ谷Click!)、すなわちいまの国際聖母病院Click!の西側の谷戸だと認識している点だ。この報告書が作成されたのとほぼ同時に、箱根土地Click!による目白文化村Click!の第一文化村が造成され、堤康次郎Click!が政界へ進出するころから、官製地図では不動谷の位置が西の前谷戸Click!寄りへとずれていくことになる。報告書の前文から引用してみよう。
  
 神田上水以北、不動谷以東の高台。此の区域は当村の東部三分の一を占め西郊より目白台を経て東京市と通ずる要路筋に当り 目白(東端より約一丁)高田馬場(大島邸付近即ち俗称七曲りより約四丁)の両駅の便あり 最も古くより而して最も発展せる地域にして 高台の南部は幾多の窪地を挟みて突出し 何れも南面して見晴しを有し(場所によりては西及び東の眺望を兼有す)優れたる邸宅地となり 此処に相馬邸、近衛邸(字丸山) 大島邸、徳川邸(字本村) 谷邸、川村邸(字不動谷)等あり。北部にも字新田の舟橋邸、中原の浅川邸等あり
  
 この記述で留意したいのは、近衛邸Click!の敷地が東京土地住宅による近衛町Click!の成立以前から宅地整備され、どうやら三間道路も造成されて、部分的に販売が行なわれていることだろう。記述では、下落合435番地の舟橋邸Click!がすでに存在すること(もちろん下落合404番地の岡田虎二郎邸Click!もすでに存在していただろう)、また佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!のひとつとして描いた「浅川ヘイ」、すなわち曾宮一念アトリエClick!の東隣りにあたる下落合604番地の浅川邸Click!が、1921年(大正10)には字中原の目立つ邸として採取されていることだ。
豊多摩郡落合村土地概評価1921.jpg 大字下落合1921.jpg
 同報告書では、おしなべて落合村は土地投機のエリアとして将来有望であり、また神田上水や妙正寺川の沿岸は工場立地にはもってこいの地勢だと分析している。ただし、西武電鉄Click!の敷設についてはまったく触れられておらず、同報告書が発行された翌年あたりから目白停車場を起点とする西武鉄道の計画案が急浮上したものだろう。目白駅を始発駅とする西武鉄道の「敷設免許申請書」Click!が、起点を高田馬場駅に変更するのは1924年(大正13)9月25日の「修正追申」になってからのことだ。おそらく、同線の計画が興信所の耳に入っていれば、上落合や下落合西部(現・中落合や中井)は、まったくちがた評価になっていたと思われる。
 報告書は、あくまで開発を前提とする宅地や工場敷地への投機を主眼においているので、田畑の拡がるのどかで緑が多い田園風景は、「未だ見る可きものなし」としてつれない表現をしている。つまり、手もとの資金で東京郊外に土地を購入し、値上がりを待ってディベロッパーや不動産業者へと転売し、のちに「健康的で文化的な田園都市生活」が送れる最適地などと宣伝して売り出される場合とは、まったく正反対の価値基準で記述されているのが、どこかおかしいのだ。調査時に採集された落合村各地の実勢地価も、実際の土地取り引きにおける例外的な価格の調査まで含め、字別に詳しく調査されているので一覧表にして引用してみよう。
落合実勢地価1921.jpg
 この中で、飛び抜けて高い地価が記録されたのは、現在の目白通りと山手通りがクロスする交差点あたりで、江戸期より「椎名町」と呼ばれていた下落合と長崎村にまたがる区画だ。1921年(大正10)の当時、目白通り沿いには次々と落合府営住宅Click!が建設され、新住民たちを顧客に賑やかな商店街が形成されようとしていた。また、下落合の西部や上落合の地価が安いのは、いまだ西武電鉄の敷設が表面化していなかったからだ。この時期に土地を安く購入し、西武線が開通した昭和初期に土地を売りぬけた不在地主がいるとすれば、おそらくボロ儲けをしただろう。
字中原界隈1932.jpg
 東京興信所が作成した「豊多摩郡落合村土地概評価」のようなレポートは、関東大震災Click!を境に市街地から郊外へ転居する人々の激増とともに、投機目的の不在地主の間ではニーズが急速に高まったのだろう。だが、昭和初期に起きた金融恐慌や大恐慌の影響で地価が急落し、売るに売れず土地を空き地のまま“塩漬け”にする不在地主が、落合地域でも続出することになる。

◆写真上:東京興信所に「未だ見る可きものなし」と評価されそうな、下落合の御留山に復活した弁天池からの渓流。1960年代末以来の復活で、林泉園からつづいた流れでもある。
◆写真中:1921年(大正10)3月に調査が行われ、翌1922年(大正11)に発行された東京興信所による「豊多摩郡落合村土地概評価」の表紙()と、大字下落合ページの中面()。
◆図版:1921年(大正11)3月現在の、落合村における字別実勢地価一覧。
◆写真下:東京興信所の調査で、もっとも高い地価を記録した目白通り沿いの字中原界隈の商店街で、『落合町誌』への収録のため1932年(昭和7)に撮影されたもの。

三岸節子の狐塚下宿跡を訪ねる。

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狐塚①.JPG
 「狐塚」と聞いても、いまや目白・落合地域にお住まいの方は、ピンとこないかもしれない。1929年(昭和4)に、武蔵野鉄道Click!の池袋駅からひとつめの駅として上屋敷駅Click!が設置されてから、一帯は江戸期からの通称である「上屋敷(あがりやしき)」Click!と呼ばれることが多くなったからだ。また、1932年(昭和7)に豊島区が成立すると雑司ヶ谷6丁目となり、この住所表記に馴染み深い方々がまだ大勢おられるだろう。いまでも古い邸の表札などには、この表示のままのお宅Click!も多い。字狐塚は、現在の豊島区西池袋2丁目18・32~33番地界隈に相当する区画だ。
 江戸期には、もう少し広い範囲が狐塚と呼ばれていたようなので、その流れを整理してみよう
 ◎小石川村字狐塚→高田村(町)大字小石川字狐塚→雑司ヶ谷6丁目→西池袋2丁目
 ◎小石川村字狐塚→高田村(町)大字小石川字狐塚→同町大字雑司ヶ谷字西谷戸大門原→雑司ヶ谷6丁目→西池袋2丁目
 ◎小石川村字狐塚→高田村(町)大字小石川字狐塚→同町大字巣鴨字代地→目白町3丁目→西池袋2丁目

 こうしてみると、狐塚という字の範囲は時代とともに少しずつ狭くなり、1920年(大正9)に高田町が成立してからほどなく、1926年(大正15)制作の「高田町北部住宅明細図」にみられる狐塚、すなわち現在の西池袋2丁目18・32~33番地界隈に絞られたものと思われる。
 狐塚について、1932年(昭和7)に西巣鴨町が出版した『西巣鴨町誌』から引用してみよう。ちなみに、狐塚の南半分が巣鴨村(古くは小石川村)の飛び地だったせいか、1919年(大正8)出版の『高田村誌』Click!にも、また1933年(昭和8)出版の『高田町史』Click!にも掲載されていない。
  
 狐 塚  大字池袋一,四一一番地先
 寛政十年、榎下舎眞德撰著若葉の梢に、『昔、岡本某の屋敷の奥に、古塚ありて白狐住めける故、狐塚と云へり』。(ママ)とある。
  
 狐塚には、なんらかの古塚が存在していたのは明らかで、この塚は1936年(昭和11)の空中写真でも、その残滓を確認することができる。おそらく、なんらかの聖域あるいは忌避的なフォークロアが昭和期まで伝承され、農地化や宅地化がためらわれていたのだろう。円墳ないしは前方後円墳の墳丘へ、江戸期に稲荷社が奉られたのではないだろうか。同じ事例が全国の「狐塚」にも見られ、各地の発掘調査により「地名+狐塚古墳」と命名されている。東京でもっとも有名な「狐塚」は、世田谷区にある尾山台狐塚古墳(帆立貝式古墳?)だろうか。
 字(あざな)としての「狐塚」は、実際に狐塚の丘が存在していた地点よりも、東へ1区画ずれている。これは、明治から大正期の住所規定の変遷にともなう便宜的な字づけで、東京のあちこちに見られる現象と同様、本来の地名位置と字規定とで微妙な齟齬が生じてしまったものだろう。いま風に「狐塚」を表現すると、塚自体が存在したのは上屋敷公園から北の区画であり、住所表示としての字狐塚のエリアは上屋敷公園の東側一帯のエリアということになる。墳丘に設置されていたと思われる稲荷社は、現在、上屋敷公園の西端に遷座している。
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 1924年(大正13)の3月、女子美術学校を首席で卒業した吉田節子(のち三岸節子Click!)は、同窓生とともに住んでいた白山の下宿Click!を引き払い、本格的に画業へ専念して画家をめざすため、狐塚に建っていた住宅の離れを借りて、ようやくひとり暮らしをはじめた。当時の様子を、1989年(昭和64)に講談社から出版された、林寛子『三岸節子・修羅の花』から引用してみよう。
  
 しかし、あの頃の若い連中というのは、何ていうのか非常に----中出三也さんが裸婦を一緒に描こうと言って、卒業してから私が一人で住むようになった目白の狐塚の部屋に通っていました。しかも、雑司ヶ谷で同棲していた甲斐仁代さんが出身地の青島(中国)へ帰っている間にです。それも一つの求愛の表現だったと思うのです。みんな恋愛に自由でした。みんなだらしがないんですよ、あの頃の若者たちは。(中略) 結局、中出さんが私の所で裸婦を描いたということが、好太郎と私を近づけた原因だろうと思います。彼は、非常にやきもちを焼いたんです。自分は昼間働いて、来るわけにいかないから。/----何しろね、私は、適齢期の女の子を学校へ入れて田舎から東京へ出すということに大反対。皆そういうムシが付く。身の回りに、いっぱいそういう例を見ています。/私の結婚も、ホント、悪いムシでした。
  
 三岸好太郎は、ここでは「悪いムシ」にされているけれどw、節子はもう一度結婚するとしたら誰を選ぶかという問いかけに、やっぱり三岸好太郎を選ぶだろうと答えている。
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 吉田節子が狐塚に住んだ期間は長くなく、1924年(大正13)の4月から8月ぐらいまでの5か月間ほどとみられている。節子の家には、当時は家庭購買組合の駒込支部につとめていた三岸好太郎Click!をはじめ、三岸と同郷で親友の俣野第四郎Click!中出三也Click!など、画家たち(男たち)が頻繁に訪れていたらしく、ひとりになってじっくり絵に取り組みたい節子は、まったく落ち着かなかったようだ。節子にしてみれば、女子美を卒業したばかりのこの時期、画業に専念し仕事を飛躍させるための正念場だととらえていただろう。でも、結果的には三岸好太郎と結ばれ、翌1925年(大正14)1月に長女・陽子様が生まれることになる。(戸籍上は同年3月の記載で、現在でも誕生日のお祝いは3月にやられているとうかがった) それでも、三岸節子は画業をあきらめることなく、家事・育児をつづけながら作品を発表していった。
 ちなみに、吉田節子(三岸節子)が狐塚で暮らしていたとき、家からわずか50mほど南西に歩いたところ、高田町雑司ヶ谷西谷戸大門原362番地には宮崎滔天Click!宮崎龍介Click!の親子、そして龍介と結婚したばかりの柳原白蓮Click!(宮崎燁子)が住んでいた。また、吉田節子の家から西へ150mほどいったところ、巣鴨町池袋大原1382番地の横井方へ、節子も出品している名古屋の画会「サンサシオン」Click!の主軸メンバーだった松下春雄Click!が、節子の転居とまるで入れちがいのように、1924年(大正13)8月に引っ越してきている。
 三岸好太郎は、1923年(大正12)に『狐塚風景』と題したタブローを制作している。また、親友の俣野第四郎も同年に『陽春池袋付近』という同じような作品を残している。画面の構成や表現からみて、ふたりは連れ立って同時に狐塚の風情を写したものだろう。でも、これらの作品は節子が白山から狐塚へと引っ越す前年に描かれたもので、節子のもとを訪ねたついでに写生したものではない。画面は、麦畑と思われる中に新しく建てられた近郊の文化住宅とみられる建物を中心に、周辺に展開していた畑地ないしは空き地をとらえている。
 吉田節子が狐塚に引っ越してくる以前から、三岸や俣野はなんらかの目的、あるいは事情で狐塚を訪れていたと思われるのだが、それがなんのつながりだったのかは不明だ。たまたまふたりで散歩していて、モチーフにしたくなる風景を見つけたのか、それとも誰かの家を訪問したついでに、近くの狐塚風景に魅せられたのかどうか、詳細はわからない。ただひとついえることは、狐塚の東側50mほどのところに竣工したばかりの、F.L.ライトClick!が設計した特異な自由学園Click!の姿に、ふたりは画因としての興味を惹かれなかった・・・ということだ。
 現在の狐塚界隈を歩いてみると、大正末に建てられたとみられる邸をいまだに見ることができる。おそらく、節子や好太郎も目にしていた、当時の典型的な仕様の郊外文化住宅だろう。字(あざ)狐塚の西隣りが、上屋敷公園(こちらが狐塚のあった本来の区画)が設置されているおかけで、その緑とふたりの作品画面とから、かろうじて当時の面影を想像することができる。このあと、三岸好太郎と節子は結婚し、駒込の染井墓地に近い下宿の2階で新生活をスタートさせている。
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 いま、上屋敷公園の北側、すなわち本来の狐塚の墳丘が存在した区画に、三井不動産の「パークホームズ目白」と名づけられた5階建ての大型低層マンションが建設されている。入居する人たちは、ここに大きな塚があったことなど知るよしもないだろうが、ひとつハッキリしたことがある。少なくとも60年ほど解体できない、大型のコンクリート建築がこの場所に建てられたということは、補助73号線Click!の通るルートが上屋敷公園を全的につぶすことを前提に計画されているということだ。今年の6月、ルートの延長線にある新宿中央図書館Click!が戸山へと移転した。目白通りから、下落合へと入る位置に建つ目白聖書神学校もセットバックを終え、補助73号線の片側幅は確保された。わたしの“危機感覚”からすると、準備は着々と進捗しているように見える。

◆写真上:上屋敷公園から東を向いて、旧・高田町の字狐塚方面を撮影した現状。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の狐塚界隈。字のもととなった狐塚の丘が、昭和10年代まで残っていたことがわかる。は、同時期の空中写真を下落合上空から斜めフカンで眺めたところ。は、1922年(大正11)の5千分の1地形図にみる狐塚界隈と撮影ポイント。
◆写真中下は、1923年(大正12)に制作された三岸好太郎『狐塚風景』(豊橋市美術博物館Click!蔵)。下左は、1926年(大正15)作成の「高田町北部自由宅明細図」に掲載された狐塚界隈。下右は、現在の上屋敷公園から狐塚の丘があった北側の現状。
◆写真下は、1923年(大正12)に制作された俣野第四郎『陽春池袋付近』(北海道立近代美術館Click!蔵)。中・下は、現在の狐塚界隈で、大正末と思われる邸宅がいまでも残っている。
記事の作品画像は、各館の学芸員のみなさまにお世話になりました。三岸好太郎『狐塚風景』は豊橋市美術博物館の細田様、俣野第四郎『陽春池袋付近』は北海道立近代美術館の齋藤千鶴子様、そして北海道立三岸好太郎美術館の苫名直子様、ありがとうございました。

サンサシオンへ出品の吉田節子(三岸節子)。

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 サンサシオンの中心メンバーだった松下春雄Click!の長女・彩子様が、吉田節子(三岸節子Click!)の名前を記憶されていた。おそらく、東京の池袋時代Click!ないしは下落合時代Click!かは不明だが、同じく同会の中軸である鬼頭鍋三郎Click!中野安治郎Click!大澤海蔵Click!らが松下の家へ頻繁に立ち寄っていた時期、吉田節子は彼らと交流しているのではないだろうか。
 もちろん、1928年(昭和3)生まれの彩子様は、実際に吉田節子と会った記憶がおありなのではなく、淑子夫人Click!から聞かされていた、父親と交流があった画家のひとりとしての記憶だろう。吉田節子は、1925年(大正14)4月3日から5日にかけ名古屋で開催されたサンサシオン第3回展に、『きんせん花』『椿』『支那服来たる少女』『静物』の4作品を出品している。でも、これは吉田節子が同展へ応募したものではなく、サンサシオンの側から後援・推薦作品として、同じ愛知県が地元の吉田節子へ第3回展への出品を求めたものだ。
 このとき、下落合のすぐ南にあたる上戸塚(宮田)397番地Click!で、すでに三岸好太郎Click!と暮らしはじめていた吉田節子(三岸節子)は、下落合の北側にあたる池袋大原1382番地の横井方へ下宿していた松下春雄から、サンサシオン展への出品を依頼する訪問を受けているのではないか? 松下が暮らしていた池袋大原の下宿は、前年まで節子が暮らしていた狐塚Click!の家から西へ150mほどしか離れていない場所だった。そして、松下春雄が渡辺淑子と結婚したあとも、吉田節子とは下落合時代Click!あるいは西落合時代Click!かは不明だが、どこかで往来ないしは手紙のやり取りなどがあり、淑子夫人の記憶に強く残ったのではないだろうか。
 1925年(大正14)4月の、サンサシオン第3回展へ出品した吉田節子(三岸節子)について、1925年(大正14)3月31日に発行された名古屋新聞の「サンサシオン展前記」(署名:駿生)から引用してみよう。ちなみに、三岸好太郎と節子はすでに結婚してはいたが、このころ展覧会への出品用の筆名は三岸節子ではなく、いまだ吉田節子のままだった。
  
 ◇昨年冬から正月にかけて公園前の文化茶屋で、一人一週間づつの個展が開かれた。これを下準備として今度の展覧会が催されることになつたのである。同人出品はあの時の作品以後のものが多く、加藤喜一郎氏は未定、松下春雄氏は光風会出品の自画像、水彩画会出品のもの等十余点、中野安次郎氏は光風会出品の静物外数点、鬼頭鍋三郎氏は騎兵調練図(帝展出品)外中央美術、光風会への出品画数点を出す。推薦者出品は吉田節子氏(円鳥会出品外数点) 一ノ木慶治氏(光風会出品画外三点) 遠山清氏(槐樹社、光風会出品画、悉多太子東門出遊図を含む外三点) 石田岩雄氏(中央美術、光風会、太平洋画会等出品画十点)  ◇推薦のうち吉田節子氏は先日の本紙に紹介された愛知淑徳高女出身の唯一人の女流画家で生れは県下中島郡起町、年は二十一である、今年の春陽会に入選した作は山茶花、肖像、風景、机上二景で、いづれも評判が高かつた、小杉未醒氏などが彼女の天稟を認めて力瘤を入れて推称してゐる。
  
松下春雄旧居跡.JPG 三岸宅旧居跡.JPG
 この記事によれば、吉田節子は目白の円鳥会Click!の展覧会にも出品していることがわかる。当時、春陽会で唯一の女性画家だった吉田節子は、あちこちの画会から注目されひっぱりだこだったことがうかがわれる。そして、円鳥会への出品はそのまま1930年協会Click!へ、さらにのちの独立美術協会Click!の流れへと直接結びついていくことになる。
 吉田節子がサンサシオン展へ出した作品は、多忙な家事や、生まれたばかりの長女・陽子様の育児に追われながら、少しずつ制作されたものだろう。毎日、一歩いっぽ積み重ねるように画面を仕上げていくという彼女の制作スタイルは、生涯変わることはなかった。したがって、複数の作品へパラレルに取り組むことがほとんどで、節子のアトリエには制作途上のキャンバスが大量に置かれることになる。速乾剤を混ぜた下の絵の具さえ乾く間もなく、短時間で一気呵成に描き切ってしまう佐伯祐三Click!などの手法とは、まさに対極的な仕事のしかただ。
 第3回展にはもうひとり、女性の画家で山内静江が参加している。同展からのち、サンサシオン展には女性画家たちが続々と出品してきている。特に第5回展からは浅野喜代子、大橋蓮子、村井静子、金子芳江、 成瀬田鶴子、八代幸子、湯川朗子、青木八子、生野くみ子、佐野芳子、広瀬仁子、間瀬艶子、村上かほる、柏木治子、古田豊子、吉田弘子らが登場している。
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松下春雄「自画像」1925.jpg 山内静江「無柳」1925.jpg
 さて、サンサシオン第3回展で松下春雄は東京郊外の風景を写した、『うらゝかな風景』『郊外小景』『郊外風景』など8点を出品している。この中には、池袋大原の下宿から第3回展と同年、1925年(大正14)に転居(下落合1445番地 鎌田方)することになる、下落合の風景も混じっているのかもしれない。また、同展の加藤松三郎は『池袋風景』『長崎村風景』などを出品しているが、これは池袋大原の松下下宿をベースにして、付近の写生へ繰りだしたものだろうか。松下と加藤は、連れ立って仕事をしている可能性が高い。
 少しのちのことになるが、1932年(昭和7)に開催されたサンサシオン第9回展では、死去した会員である加藤松三郎の遺作展示が行なわれている。その中には、画題として『文化村(下落合)』『ギルの家(下落合)』『道(下落合)』『下落合風景』『並木の道(下落合)』『森(下落合)』と、多数の連作「下落合風景」が展示されている。画面を観るまでもなく、タイトルを見ただけで下落合のどこの風景を描いたものか、特定することができる作品もある。『ギルの家(下落合)』は六天坂が通う丘上、黄色いモッコウバラClick!の生垣に囲まれた下落合1752番地の敷地に建つ、ドイツ人のギル夫妻邸Click!を描いたものだ。その隣りには、西坂の徳川邸Click!とも姻戚関係になる旧・津軽藩の津軽邸の屋敷や、スパニッシュ風のステキな西洋館である中谷邸Click!も建っていた。
名古屋画廊「SENSATION」.jpg 松下春雄1923.jpg
 関東大震災を境に、サンサシオンのメンバーは東京を離れ、名古屋へと一時帰郷していたが、1925年(大正14)になると次々に東京へもどってくる。また、さまざまな画会や団体も活動を再開し、各地で展覧会を開催している。東京の美術界の復興ムードが高まる中、名古屋のサンサシオン展も年々拡大をつづけ、1929年(昭和4)5月の第6回展(光風会合同展)からは、愛知県商品陳列所から広い鶴舞公園美術館へ会場を移し、より大規模な美術展覧会となっていった。吉田節子が出品した第3回展あたりが、サンサシオン展拡大の大きなステップとなっているように見える。

◆写真上松下春雄アルバムClick!より、1929年(昭和4)のサンサシオン第6回展(光風会合同展)で撮影されたメンバーたち。バックの鶴舞公園美術館には光風会の垂れ幕が見え、手前でサンサシオンのペナントを持つ松下春雄(左)と鬼頭鍋三郎(右)で、右端は中野安治郎。
◆写真中上は、1925年(大正14)に池袋大原1382番地から引っ越して住んでいた下落合1445番地の現状。は、三岸好太郎と結婚して吉田節子(三岸節子)住んでいた上戸塚397番地の現状。1925年(大正14)現在、松下宅と三岸宅はわずか600mほどの距離だ。
◆写真中下は、1925年(大正15)4月に開催されたサンサシオン第3回展の記念写真。前列の右から松下春雄、遠山清、鬼頭鍋三郎、中野安治郎の順で、後列の右からおそらく山内静江、加藤松三郎、ふたりおいて大澤海蔵。下左は、サンサシオン第3回展に出品された松下春雄『自画像』。下右は、記念写真にも写る同展に出品された山内静江『無柳』(1925年)。
◆写真下は、2004年(平成16)に名古屋画廊から出版された『サンサシオン1923~33―名古屋画壇の青春時代―』展図録。は、1923年(大正12)ごろの松下春雄。

下戸塚の字バッケ下を歩く。

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 いままで何度もご紹介してきた、「バッケ(崖地)」Click!という地形を表す地域表現がそのまま地名(住所)として採用された、戸塚町(大字)源兵衛(字)バッケ下Click!について、一度も詳細な記事を書いていなかったことに気づき、改めて同所を撮影しに出かけた。このあたりは、学生時代からいまにいたるまでの歩きなれた散策コースであり、わたしには馴染み深い道筋でもある。
 現在の目標物で位置を表現すると、甘泉園公園や水稲荷社Click!のすぐ西側に亮朝院(赤門寺)という寺がある。江戸初期に高台へ建立された寺院なのだが、この敷地から西側一帯の谷間が、字「バッケ下」と呼ばれた区画だ。その範囲は、都電の面影橋駅のすぐ南に位置する谷の開口部から、徳川幕府の練兵場だった高田馬場(たかたのばば)の西端あたりまで、南北にタテ長のかたちを形成している。端的にいうなら、亮朝院が建つ敷地を東尾根として、神田上水が流れる北側から南へと切れこむ浅い谷戸のひとつが形成されており、その谷戸の斜面や谷底に形成された集落域ないしは田畑を、バッケ下と呼んだのがはじまりなのだろう。
 ただし、本来の「バッケ下」がこのように南北に長く、これほど範囲が広かったかどうかは疑問だ。なぜなら、同字(あざな)が記載された地図を、新しいものから古いものへたどっていくと、字バッケ下の位置は少しずつ北へ、すなわち旧・神田上水に近い谷の開口部のほうへ移動しているのがわかる。換言すれば、地名表記(地籍簿)や住所としての字(あざな)が必要となる新たな時代を迎えるとともに、神田上水沿いにあった字が少しずつ南へ拡張された・・・という感触が濃厚だ。
 字バッケ下について、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』から引用してみよう。
  
 大字源兵衛 小字バツケ下(自一番 至五三番) (中略) 小字バツケ下は諏訪明神の処を里俗アケバツケと称するより起れる名なるよし、大字下戸塚三島の西に連り天祖神社のある処なり、同向原は小字秣川の西に当り馬場下道附近より神田上水に倚れるの地なり、諏訪の畑を南に見放して腹の如くなれば此の名ありとぞ、同秣川はバツケ下の西にあり。
  
 「アケバッケ」という、独特な地元の呼びかたが興味深い。広めの谷間が口を開けたところがバッケ(崖)状に切り立っていたので、アケバッケと呼称されていたのだろう。そして、崖の下に拡がる平地あるいは谷の斜面をバッケ下と呼称していたのは、落合地域とまったく同様だ。
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 もっとも傾斜が急峻だった崖地は、面影橋の南側に形成されていたとみられ、安藤広重Click!はその急斜面に腰をすえて『江戸名所百景』Click!の第116景「高田姿見のはし俤の橋砂利場」Click!を描いていると思われ、姿見橋や川沿いの家の屋根を見下ろしながら、斜めフカンの位置で矢立ての筆をとることができたのだ。現在でも、面影橋の南側には崖地特有のバッケ坂Click!やバッケ階段を見ることができる。東京各地の崖線によっては、これらの名称は意味の通りやすいオバケ坂Click!オバケ階段Click!、あるいは幽霊坂Click!へと転訛していると思われる。
 このバッケ下(崖下)から南側の尾根筋、戸塚第一小学校や高田馬場跡のある丘上へ向け窪んだ谷戸Click!地形の一帯が、1932年(昭和7)ごろまで字バッケ下と地名がふられていたなだらかな谷間だ。面影橋あたりから南へ入ると、谷の入り口近くには天祖社が奉られており、左手(東側)に亮朝院の境内を見上げながら、高田馬場跡の西端あたりへと上ることができる。大正期には、天祖社の西側には湧水源があったのだろう、小さな池が形成されていた。天祖社の属社には、もともとが湧水源らしく弁天社も奉られている。ちなみに、昭和初期に作成された豊多摩郡戸塚町大字源兵衛地籍図を参照すると、谷の突きあたりから北の神田上水へと流れる小川をはじめ、東西にはさまれた崖地から水が湧いていたのが確認できる。
 おそらく、昭和初期の宅地開発で、傾斜のきつい斜面は次々とひな壇状に造成されたものだろう、現在では亮朝院のある東側の尾根筋と、字バッケ下の谷底の高低差は、それほど大きなものとは感じられなくなっている。また、南北に刻まれた谷間も傾斜が緩やかなせいか、あまり坂道の負荷を感じないで早稲田通りへと抜けることができる。上記の南から北へと流れる谷底の渓流は、現在では暗渠化されて、流れの形状がそのまま道路となっている。
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 字バッケ下が、住宅地として開発される以前の風情は、現在の水稲荷社の境内あたりや、江戸期には亮朝院のある尾根筋との連なりで「三島山」と呼ばれた、甘泉園公園の丘陵地帯で見ることができる。斜面には雑木林が拡がり、谷間のあちこちから泉が湧き出ているような風情だったにちがいない。その細長い谷間は、早くから水田ないしは畑地化されていたと思われ、戸塚町が作成した大字源兵衛全図を確認すると、ほぼ全域が田畑と林になっている。
 明治期の、字バッケ下あたりの様子を語った記録が残っている。仲野富美子という方の想い出だが、1976年(昭和51)出版の『我が町の詩・下戸塚』(下戸塚研究会)から引用してみよう。
  
 子供のころは天祖神社や、牛屋の原でよく遊びました。牛屋の原は現在の小学校(戸塚第一小学校)のところが一段高くなっていて、そこは崖になっていました。この段違いの牛屋の原には長い雑草が一面生い茂り、牛が飼われていました。原っぱの東側は相馬家の高い木の屏で、中は全く見えませんが樹木がうっ蒼と繁っていました。赤門寺(亮朝院)の前の坂は今よりももっと急だったので馬がよく倒れたのです。荷を積んだ馬力は坂を登ることが出来ないので、皆んなで後押しして手伝いました。赤門寺の裏の崖の上<現在の早大バレーコート辺まで>はうっ蒼とした森林で、樹木にからまったつたが沢山垂れていたのを憶えています。(カッコ内は引用者註)
  
 この証言に何度か出てくる「牛屋の原」というのは、明治の初めにできた東京牧場Click!のひとつで、現在でも早稲田大学の南門前に、洋食レストランの名称として残る「高田牧舎」のことだ。
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 都電の面影橋停留所から北へと上がる現在の「バッケ下」は、昔ながらの学生アパートもあれば、アーティストたちのおしゃれなアトリエやスタジオなども点在する、落ち着いた街並みを形成している。あちこちに崖地からの湧水流の跡らしい、行き止まりの路地があるのも迷路のようで歩いていると楽しい。街角に残る巨木は、昔日の緑濃い谷間を連想させてくれるよすがだ。

◆写真上:字バッケ下を南北に走り、早稲田通りへと抜ける傾斜が緩やかな坂道。
◆写真中上上左は、字バッケ下への谷間口にある天祖社。上右は、地元では赤門寺の別名で親しまれる亮朝院の山門。下左は、亮朝院の西側に落ちこんだひな壇1段目の現状。下右は、同じく戸塚第一小学校(旧・牛屋の原=高田牧舎)からバッケ下へ落ちこむ崖線擁壁。
◆写真中下は、昭和初期に作成された「豊多摩郡戸塚町大字源兵衛字バッケ下地籍図」。旧神田上水は、戸塚地域では当時「高田川」と呼ばれていた。下左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる字バッケ下で森と畑地が拡がっている。下右は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同所。昭和10年代の短期間のうちに、宅地化が一気に進んだ様子が見てとれる。
◆写真下上左は、亮朝院のある東側崖線のひな壇2段目。上右は、西側の尾根上からバッケ下方面へと下る坂道。は、バッケ下の谷間から西側の丘陵を眺める。下左は、谷間で見つけた画塾兼アトリエ。下右は、西の丘上から十三間通り(新目白通り)へと一気に下るバッケ階段。

化けネコは温泉旅行に出かけるか。

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 先日、ご先祖が日本橋浜町にお住まいだったTigerkidsさんClick!より、発情期のネコがうるさいといって、空気銃で撃ち殺したお祖父様のエピソードをうかがった。そうしたら、わたしにも子どものころに銃の記憶があるのを思いだした。おそらく、幼稚園に通っていたころの出来事だろうか、祖父が庭で空気銃をかまえてスズメを撃ち落としたのだ。
 おそらく戦時中あるいは敗戦直後の、食糧難の時代が話題になっていたのだと思う。おふくろが、祖父の家(つまり実家)の生垣だったマサキの芽を、「つませてください」といって訪ねてきた母子の話を、「かわいそうだったわね」としていたのを憶えている。そして、スズメがご馳走の時代だった・・・というような話題になっていったのだ。「スズメって美味しいの?」と、わたしが訊ねたのだろう。「ああ、美味いよ。ちょっと待ってなさい」といって、祖父は床の間近くに置いてあった刀箪笥の最下段から、いきなりライフル銃(子どもにはそう見えた)を取りだしたのだ。
 西部劇でしか見たことがないようなライフル銃(実は空気銃なのだが)を、布の袋からスッと取りだすと、祖父は盆栽が50鉢以上は並べられた、それほど広くはない庭へと下りていった。わたしも庭へ出たのだが、祖父は鉄砲をかまえたまま空のあちこちに銃口を向けるだけで、なかなか発射しようとはしなかった。子ども心にも、まさか、こんな街中の住宅街で撃ちゃしないだろうと、どこかでタカをくくっていたのだが、5分ほどしてパーンと乾いた音とともに、スズメが屋根から軒下へ転がり落ちてきた。祖父はそれをひろうと、わたしの手に持たせてくれた。手のひらが、生温かい感触とともに血だらけになったのを憶えている。
 空気銃といっても、今日のBB弾が飛びだすエアーガンとはまったく異なり、充分に殺傷力のあるものだ。当時から銃刀法の規制対象になっていて、ときどき警官が立ち寄っては銃や刀剣の保管を確認していく巡回が行なわれていた。刀剣は、現在のように地域の教育委員会・文化財担当の管轄ではなく、いまだ所轄の警察署が管理する時代だった。祖父の家によくやってきた初老の巡査は、職務にことさら忠実だったわけではなく、自身も刀剣が趣味なので上がりこんでは、祖父と1時間ほど話しこむこともめずらしくなかったらしい。
 さて、スズメの羽をむしって料理してくれたのは伯母なのだが、戦争中にやむをえず調理のしかたをおぼえたのだろう、手馴れた様子だった。伯母は、スズメの唐揚げを作ってくれたのだが、これがビックリするほど美味かった。しつこい脂がなく、フライドチキンよりも数段美味だ。丸ごと焼いて、フルーツソースを添えても美味いだろう。いまでは飲み屋で、骨ごと香ばしく食べられるスズメの唐揚げは、それほどめずらしいメニューではないけれど、確かに戦中戦後の食糧難時代を考えれば、スズメはたいそうなご馳走だったにちがいない。その後、「こんな住宅街のまん中で、鉄砲を撃たないでちょうだい!」と、祖父が近隣から抗議を受けたかどうかはさだかでない。
松谷みよ子「異界からのサイン」2004.jpg 安藤広重「にゃん喰渡り」1842.jpg
 さて、ちょっとこじつけめいているのだけれど、日本橋浜町で撃ち殺されたネコは、その後、化けて出やしなかっただろうか。もっとも、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で、東日本橋Click!(薬研堀界隈Click!)ともども焦土と化してしまった一帯なので、人々の恨みや口惜しさの念のほうがひしめいて、ネコのお化けも戦後は出にくかっただろう。
 化けネコというと、すぐに四世南北の芝居『独道中五十三駅(ひとりたび・ごじゅうさんつぎ)』(岡崎の猫)や、『花野嵯峨猫魔稿(はなのさが・ねこまたぞうし)』(鍋島化け猫騒動Click!)などが有名だが、ネコが化けるのは、なにも江戸期に限らない。全国の民話を蒐集してまわっている、松谷みよ子の『現代民話考』(全12巻/筑摩書房)にも、たくさんの「化け猫」に関するフォークロアが採取されている。夏なので、今日まで語られつづけている化け猫の怪について、取り上げてみたい。21世紀の現代、実は日本全国のあちこちで、いまだ化け猫は口承されているのだ。2004年(平成16)に筑摩書房から出版された、松谷みよ子『異界からのサイン』より引用してみよう。
  
 渡辺さんは猫が大好きで、五、六匹はいつもいたが、みんなよく人のいうことを聞き分ける利口な猫だったという。/ある日、その中のタマという雌猫が前足に怪我をして戻ってきたが、次の日には姿を消し、何日か経っても帰らない。/死ぬときは姿を隠すというから、どこぞで死んでいるのではと案じていると、ひょっこり戻ってきた。足の怪我も治って元気になっている。/「どこへ行っていたのタマは。すっかり元気になってよかったね」/渡辺さんはタマを抱きあげて言ったが、タマはニャアというだけだった。/ところが追いかけるように、月岡温泉から、「宿泊料請求書」が届いた。/宛名は「渡辺タマコ様」で、不審に思って宿に問い合わせると、渡辺タマコ様は色白のとてもきれいな女の人で、いつもからだごとお湯には入らず、手だけひたしていました。ということだった。/この話は昭和二、三(一九二七、二八)年ごろのことだという。久美子さんのお母さんは、小学生のころ、祖母のハナさんからこの話を聞かされていたそうである。/猫が人間に化けて湯治に行った、などという話は、この一つだけだろうと思っていたら、なんとまだあった。
  
三代豊国「東駅いろは日記」1861.jpg
歌川国輝「東海道岡部宿猫石由来之図」.jpg
 上記の怪談は、生きているネコが人に化けた例だけれど、死んだネコがやってきて「いま、死んだみたいだニャー」と、エサをくれた家に知らせにくる律儀なネコ霊の話もある。化けて出たというよりは、霊になってさまよい歩いたということだろうか。やはり雌ネコなので、どうやら化け力や霊力は、雄ネコよりも雌ネコのほうが高いらしい。再び、同書より引用してみよう。
  
 小平次という猫がいた。交通事故で下半身をやられ、からだは曲り、片目で、それでも生き抜いた。その姿が何度殺されても生き返る怪談の「小幡小平次」のように思われて、小平次と名をつけた。しかし、年とともに垂れ流しのあわれな姿になって、ベランダの外へくる。エサをやるとなかに入りたがる。「ダメ」というとじっとガラス戸の外で我慢している。いわゆる外猫だった。/しばらく姿を見せなかった。大家の娘さんがからだをふいてやったりしていたので、そこで暮らしている安心して忘れるともなく忘れていたが、ある日の明け方、優子さんの夫、明彦さんは、すさまじい叫び声にとびおきた。/「小平次がきた、小平次がきた」/と、優子さんが叫んでいる。それもぎゃーっという叫び声をともなっていたから、電気をつけたが猫などいるはずもない。戸はぴっちり閉まっている。/大家の娘さんにきくと、/「小平次は死にました」/といった。優子さんが叫び声をあげたその時刻だった。白と茶の、雌猫だったという。
  
 ネコは、人間のもっとも身近にいる動物にもかかわらず、日本では十二支などなんらかの役割りを背負った動物としては規定されず、位置づけられてはこなかった。だからだろうか、ネコはあらゆる役目から自由であり、気ままであり、ニャンともやりたい放題なイメージが古くから形成されてきている。同様に、人間のごく近隣で棲息しながら、気ままで自由な生活をしてきたキツネやタヌキもまた、よく化けては人を驚かせてくれるのだ。でも、人間から強い役割りを背負わされた動物たち、イヌや馬、牛、ときに猿などは、あまり化けた話を聞かない。人の近くで暮らしていながら、人のことなどおかまいなしに生活できるところに、きっと“化け力”が育まれる秘密があるのだろう。
フェニックス小島1924.jpg 小島善太郎「猫の話」.jpg
 現代の落合地域は、ネコにタヌキと化け動物がたくさん棲んでいるけれど、いまだ化けネコも化けダヌキの話も聞かない。なんらかの切羽つまった状況、あるいは危機的な事態に直面しないと彼らは化けないとすれば、とりあえずは満足な暮らしをしている・・・ということだろうか。下落合では、佐伯祐三Click!一家がフランスで化けネコに遭遇し、小島善太郎Click!が経緯を記録している。

◆写真上:「ニャンか用なのかニャ?」とでかい態度の、うちにいる雑種の下落合ネコ。
◆写真中上は、2004年(平成16)に出版された松谷みよ子『異界からのサイン』(筑摩書房)。は、1842年(天保13)に制作された安藤広重の版画『にゃん喰渡り』。江戸期に大橋界隈の見世物小屋で流行った「乱杭渡り」をもじったもので、ネコが杭ならぬ鰹節をわたっている。
◆写真中下は、1861年(文久元)に歌川国貞(三代豊国)が制作した役者絵『東駅いろは日記』。は、嘉永年間に歌川国輝が描いた芝居絵『東海道岡部宿猫石由来之図』。
◆写真下は、1924年(大正13)にフランスの社交界で上演された舞台で“フェニックス”に変化(へんげ)した小島善太郎。は、フランスから帰国後に小島善太郎が記録した『猫の夢』の生原稿。佐伯祐三は、「化け猫」ではなく「猫のおばけ」Click!と表現していたのがわかる。


未知の『下落合風景』1927年4月。

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未知の下落合風景.jpg
 1927年(昭和2)の4月16日から24日まで、佐伯祐三Click!は二科の石井柏亭Click!の推薦により、新宿駅東口にある紀伊国屋書店の2階ギャラリーで初の個展Click!を開いている。その様子を取材した写真が残されているが、その個展会場にはいまだ発見されていない『下落合風景』と思われる、未知の風景作品Click!が写りこんでいた。きょうは、写真に偶然とらえられた『下落合風景』を再現し、それがどのような画面だったのかを想像してみるのがテーマだ。
 写真の画面を拡大し、改めて詳細に観察してみると、佐伯にしてはほんとうにめずらしく、上部に空を広く取り入れて描いてはいない。佐伯の風景画は、画角的に広めの視野(広角)でとらえたものが多く、画面の上半分がすべて空という作品も決してめずらしくない。パリ作品にも見られるが、特に『下落合風景』シリーズClick!にはその傾向が顕著だ。中には、画面の3分の2が空という作品もまれではない。この画面では、どうやら空は上部にほんの少ししか見えておらず、ほとんどが家々と道路の構成で占められているように見える。
 手前には、斜めに道路が描かれており、道路の端には電燈線か電力線の柱が描かれているようだ。電柱の様子から、柱の細い電信線(電話線)をわたした電柱(いわゆる電信柱)ではなく、東京電燈Click!が設置した電柱だろう。当時の電信柱は、電燈柱あるいは電力柱と区別するために、白木のままか、電柱が建てこんでいるところでは色を白く塗られているケースが多いが、描かれている電柱は太く、また白っぽい色には見えない。電柱の背後に連なっているのは、住宅の敷地に植えられた背の高いマサキのような生垣で、道路沿いに奥までつづいているように見える。ただし、奥まったところには、手前の生垣とは異なった質感表現が感じられるので、生垣ではなく大谷石ないしはコンクリートによる塀がつづいているのかもしれない。
 生垣の中には、家が2棟ないしは3棟ほど建っているように見える。明らかに、尖がり屋根の西洋館のような風情をしているが、手前の家の屋根には暖炉の煙突が描かれているようだ。奥にも、同様に尖がり屋根の西洋館らしい屋根が見えているが、手前の家屋が1階建てなのに対し、奥に描かれた家は屋根の高さから、どうやら屋根裏部屋のある2階建てのようだ。その中間にはもう1棟、家があるようにも見えるが、どちらかの家の庭木が見えているのかもしれない。
佐伯祐三192704.jpg 未知の下落合風景192704.jpg
 家々の屋根は、陽光を強く反射しているのかほとんど白っぽく描かれている。関東大震災ののち、東京府が一時期だが条例で重たい瓦屋根を禁止していた期間があり、その間にスレート葺きやトタン葺き、あるいは「布瓦」葺きClick!の軽量な屋根が普及している。佐伯の『下落合風景』では、そんなスレートやトタンに光が反射しているのを表現したものか、雪でもないのに屋根の色をほとんど白っぽくとばして描かれている作品Click!を見かける。だが、写真の画面はスレートやトタンの“てかり”にしては、あまりに反射しすぎているように、あまりに白すぎるように感じるのだ。
 構図では、手前から奥へとつづいているように描かれた道路を見てみると、佐伯の画面では焦げ茶ないしは黒っぽい色で表現される路面の濃い土色ではなく、やはり白っぽく描かれている。しかも、道端にはなにやら白っぽいものが積み上げられているように見えるので、この画面は雪景色の住宅街を描いたものだ・・・と考えたほうが自然だろう。道路には雪が残り、土はぬかるんでいるにちがいない。また、家々の屋根にも降り積もった雪が溶けずに残っており、いまだ真冬の気温なのだろう、手前の洋館の屋根に設置された煙突からは、暖炉の煙が勢いよく吐き出されている。その煙のたなびき方から、風がやや出てきたようだ。
 例によって、とても拙くて恥ずかしいのだが、写真にとらえられた画面の構図を想定して再現してみたのが、冒頭のみすぼらしい拙画だ。写真の中央やや右側には、生垣の中に白い大きめな“点”が見えているが、タバコを吸う佐伯の横顔を撮影するときに焚いたフラッシュの残光だろうか。その光の点の下には、雪道を自転車で出かけた人物が、生垣の切れ目にある小さな通用門から、自転車を押して家の敷地内に入ろうとする姿が描かれている・・・と、わたしには見えている。あるいは、注文を訊きにきたか、小品を配達にきた近くの商店の御用聞きClick!かもしれない。
第一文化村(戦前).jpg 佐伯祐三「雪景色」1927頃.jpg
 このような生垣に囲まれた、尖がり屋根の西洋館が軒を連ねている街角は、大正末から昭和初期の下落合ではあちこちに見られるため、この作品の描画ポイントを特定することはむずかしい。目白文化村Click!のスキー場界隈か、あるいはアビラ村Click!まで足をのばしてモチーフを探したものか、または曾宮一念アトリエClick!があり、谷間の雪景色の作品群が現存している諏訪谷Click!を描いたものだろうか。佐伯は、1926年(大正15)から翌年にかけ、雪が降ると下落合と上高田の境界あたり、つまり下落合の最西端(佐伯アトリエからは1,500m以上離れている)まで出かけて『下落合風景』Click!を仕上げているので、アトリエの近所とは限らないのだ。
 ただし、1927年(昭和2)4月の個展に出品されている同作は、描かれてから間もない作品と想定することはできる。すると、3月に降った大雪の日の翌日、または翌々日あたりに制作されている公算がかなり高い。1927年(昭和2)の1月から3月まで、東京中央気象台の記録を参照すると、3月に画面のような積雪風景を想定できる雪の日が、都合3回あることがわかる。むしろ、1月と2月は積雪が少ない年だった。以下、降水量と降雪量に換算した数値とを併記してみよう。
 ・3月4日…1.4mm(降雪量7.0~14.0mm)
 ・3月5日…4.0mm(降雪量20.0~40.0mm)
 ・3月6日…快晴
 ・3月13日…35.2mm(降雪量176~352mm)
 ・3月14日…曇り
 ・3月20日…46.1mm(降雪量230.5~461mm)
 ・3月21日…晴れ
佐伯祐三「雪景色」1927.jpg 佐伯祐三「パリ雪景」1925頃.jpg
 上記の中で、もっとも雪が降ったのは3月20日で、吹きだまりでは膝まで雪に埋まっただろう。13日の雪は、翌日が曇りで翌々日が雨のため、ほどなく溶けていると思われる。5日の雪は、前日からの積雪を含めてもせいぜい5cmほどだ。したがって、佐伯がこの風景画を仕上げたのは、3月20日の翌日である可能性がかなり高そうだ。おそらく佐伯は、その日のうちに画面を仕上げてしまい、4月に予定されている個展へのストック作品として、アトリエに置いておいたのだろう。

◆写真上:1927年(昭和2)4月の佐伯祐三展写真から、風景画を想定してみた拙画。
◆写真中上は、1927年(昭和2)4月に紀伊国屋の2階ギャラリーで撮影された佐伯祐三。は、その写真にとらえられた『下落合風景』とみられる作品の拡大。
◆写真中下は、戦前に撮影された尖がり屋根の西洋館が並ぶ第一文化村の街並み。は、1927年(昭和2)ごろに制作された佐伯祐三『雪景色』。
◆写真下は、1927年(昭和2)に描かれた佐伯祐三『雪景色』。は、1925年(大正14)ごろに制作されたとみられる第1次滞仏作品の佐伯祐三『パリ雪景』。

三岸好太郎・三岸節子の第一アトリエ拝見。

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新アトリエから第一アトリエ跡.jpg
 先日、掲載しかけた(上)(下)の記事を1本にまとめたので、少し長めです。ご容赦をください。
  
 1929年(昭和4)5月、三岸好太郎と三岸節子Click!は田畑が拡がる旧・野方村上鷺宮407番地に最初のアトリエ兼自邸を建設している。ちょうど上野の東京府美術館で春陽会第7回展が開催中で、また麗人社素描展Click!が新宿の紀伊国屋書店Click!の2階で開かれていた時期に、第一アトリエは竣工している。三岸好太郎は、春陽会展に『風景』『港の風景』『面の男』『少年道化』の4点を出品し、三岸節子は好太郎と出かけた札幌の『時計台』を出品している。
 三岸節子の入選は1925年(大正14)からで、草土社から合流した岸田劉生Click!木村荘八Click!などが参加する、非常に男っぽい春陽会(当時の画壇はすべてが男中心の世界だった)で、彼女の存在はきわめて異色だったろう。女性の画家は、各種の画会において入選や参加は可能だが正式な「会員」にはなれず、せいぜい優遇されて「会友」どまりの時代だった。これは、ほぼ同時代に二科会で初の女流画家となった、甲斐仁代Click!についてもいえる。そのせいからか、三岸節子と甲斐仁代は親しく交流していたようだ。また、この年の春陽会展には、三岸好太郎の「道化」が上海からの帰国後に初めて登場している。『少年道化』や『面の男』は、それ以降、好太郎が描きつづける「道化」シリーズのさきがけとなった作品だ。
 三岸好太郎と節子の存在は、洋画界に広く知られはじめてはいたが、まだまだ作品がコンスタントに売れて生活が安定するという状況からはほど遠かった。ふたりは、好太郎の故郷・札幌などで、作品を販売する展覧会を何度か開いているが、食費にもこと欠く貧乏生活からは抜けられなかった。そんな中での、アトリエ兼自邸の建設だった。建設資金は、三岸節子の故郷である愛知県起町で紡績工場を営んでいた、兄・吉田章義が出してくれた。
 もともと、節子の実家は地元の旧家で裕福だったが、第一次世界大戦後に起きた不況の波をまともにかぶって傾き、工場経営は不振にあえいでいた。また、節子は両親の反対を押しきって洋画家になったため、特に母親との間がうまくいってなかったようだ。三岸節子の著作には、母親との激しい確執が何度か登場している。三岸夫妻がアトリエを建設する昭和初期には、兄が経営する工場は業績悪化のため、破綻寸前の状態だった。
 アトリエ兼住宅を設計したのは、知り合いに紹介された近くの野方町に住む建築家だったようなのだが、設計料が高くまた普請もヘタだったようで、三岸夫妻を失望させたらしい。第一アトリエは、通常のアトリエ建築を踏襲して北側に天井までとどく採光窓が設けられたが、この画室を使用するのは好太郎で、節子は家事と子育てに追いまくられた。
 このとき、三岸好太郎は母の三岸イシと妹・千代を引きとっていっしょに暮らしており、芝生が植えられた台所つづきの南側には、ふたりが住む小さな家が建てられていた。好太郎の母親と妹が住んだ6帖ひと間の小住宅も、三岸節子の兄・章義からの出資で建てられていた。節子は、夫と子供3人、さらに義母と義妹の食事を作らなければならず、とても落ち着いて創作活動に取り組めるような環境ではなかった。それでも、夜になってようやく自分の時間ができると、部屋のすみでキャンバスに向かって仕事をしていたらしい。第一アトリエでの暮らしの様子を、2005年(平成17)に出版された澤地久枝『好太郎と節子 宿縁のふたり』(NHK出版)から引用してみよう。
  
 これで死んでもいいと好太郎が喜んだ鷺宮の新居は、彼が設計した。小さなアトリエ、廊下をへだてて床の間つきの四畳半と六畳間、長四畳のお勝手。そしてテラスがある。/外出がちの好太郎は別として、おとなの女三人、子供三人の暮し。そこで家事をこなしつつ絵を捨てない節子の苦労は、現在わたしたちが考える苦労をはるかに上まわっていたと思われる。
  
三岸アトリエ1941.jpg 三岸アトリエ1947.jpg
陽子様間取り図.jpg
 今日のように便利な家電Click!は、大正末よりすでに多く輸入され、また国産品も開発されて電器店で販売されはじめてはいたけれど、ほとんどがおカネ持ち用の製品ばかりだった。貧乏な家庭ばかりでなく、一般の家庭においても、炊事や洗濯・掃除をはじめ、冷蔵庫がないので日々の買い物や、毎日の風呂焚き(内風呂がある家庭は、それだけで裕福のあかしだった)まで、家事すべてが主婦の毎日の手作業で成立していた。三岸節子は、それらの家事に加え、義母のイシの世話や肋膜を患っていた義妹・千代の看護に追われていた。
 当時、三岸好太郎の第一アトリエを訪問した記者が、「美術の秋に(連載第十四回)・・・絵をかく夫婦」というタイトルで記事を書いている。記事は、1969年(昭和44)に出版された田中穣『三岸好太郎』(日動出版)に収録されているのだが、1932年(昭和7)9月現在の記事であることは判明しているものの、掲載紙が不明だ。第一アトリエの様子を記事から引用してみよう。
  
 先生のお宅は西武電鉄沿線の上鷺宮にある。コンクリート造りで豆腐を半丁に切ったような恰好をしている。壁をたたくとガラガラという音がするから、鉄筋ではなさそうだ。貧乏だ貧乏だといいながら、二十六歳のとき二千五百円でこれを建てたので、友人達はビックリして夢かと思ったそうだ。/それもその筈、先生は中学時代から苦学をして、美術学校はもちろん研究所へだってロクに通ったことはなし、新聞配達、夜啼きそば屋、郵便局員というように、苦学生のやる大概のことはやってきて、十九歳のとき早くも春陽会の展覧会に入選する一方、女子美術へはいったばかりの十七歳の「節ちゃん」----いまの奥さんと恋をはじめて、二年目にはもう長女の陽子(八つ)ちゃんを作りあげ、つづいて女、男の二人、都合三人を瞬間に作ったうえ、家まで建てたんだから、「夢かと思った」友人の驚愕も道理である。
  
 1929年(昭和4)の第一アトリエ建設から、3年後に書かれた取材記事だ。ちなみに、三岸好太郎は「二千五百円」で第一アトリエを建設したと記者に吹聴しているけれど、三岸節子は「実際の建設費は千円前後」と、のちに訂正している。その建設費の半分は、三岸節子の兄・吉田章義が出しているのは既述のとおりだ。この記事では、三岸好太郎は36歳ということになっているが、実際は29歳だった。三岸好太郎は、年齢もサバ読んで記者に答えたものだろうか?
 長女・陽子様の想い出では、第一アトリエから大森の馬込文士村Click!に住んでいた好太郎の異父兄・梅谷松太郎(子母澤寛Click!)のもとへ、祖母(三岸イシ)や叔母(三岸千代)に連れられて出かけた記憶が鮮烈のようだ。陽子様へのインタビューから、当時の様子をうかがってみよう。
  
 イシさんがひと月に一度ぐらい、わたしをオシャレさせて(梅谷家へ)連れていくのね。そこは、もう森の山上の豪邸で、そのころは見たこともないような銀紙でくるんだチョコレートを食べさせてくれたの。そこから厚いグリム童話を、おそらく(祖母が)大森からもらってきて毎晩読んでくれたの。(中略) 梅谷家の末の子とわたしは同い年で、1週間ぐらい泊ってきたこともあったわね。
  
 当時、子母澤寛は新聞社をやめて流行作家となっており、現在の大森第三中学校の敷地あたりに豪邸をかまえていた。遊びに行くと、家では食べられなかったケーキやチョコレートが出たので、少女の陽子様にことさら強い印象を残しているのだろう。
上鷺宮第一アトリエ1947.jpg 上鷺宮第一アトリエ1963.jpg
 三岸好太郎が1934年(昭和9)に急死すると、第一アトリエの前には好太郎がデザインし山脇巌が設計した、超モダンな新アトリエの基礎と骨組みが残された。三岸節子は、同年11月にこれを完成させると一家で現存する新アトリエへと移り、螺旋階段上Click!の2階で寝起きしていた。その間、第一アトリエは四国からやってきた画家志望の一家に貸している。
 戦後、第一アトリエは大幅にリフォームされ、外観がずいぶん変化している。特に大きく変わったのは、アトリエの西側にコンクリート製で2階建ての収蔵庫が増築されている点だ。1階はクルマのガレージに使用し、2階は散逸してしまった三岸好太郎の作品を蒐集し、安全に保管しておくための専用収蔵庫だった。三岸節子は、家族を養うために夫の作品を次々と手放さざるをえなかったので、戦後はそれらの作品を探し求めて買いもどしたり、彼女自身の作品と好太郎作品との交換に多大な労力を費やしている。
 三岸節子は、戦後に作品が売れはじめて少し余裕ができると、好太郎作品の持ち主を探しだしては少しずつ買いもどしはじめた。多くは所有者の言い値で買い取っているようだが、節子の作品の評価が高まると、好太郎の絵と節子の作品とを交換してほしいという所有者もいたらしい。三岸好太郎の代表作の多くは、この上鷺宮の第一アトリエで仕上げられ、展覧会場へと運ばれた。1977年(昭和52)出版の、三岸節子『花より花らしく』(求龍堂)から引用してみよう。
  
 戦後、私の作品がようやく売れ始めたころ、これに呼応するかのように好太郎の遺作の初期から中期の作品が手元に戻り始めた。駄作売り絵の類まで、生前彼の生活を支えた代償を、感謝をこめていただき、また希望する方には私の作品と交換していただいた。/春陽会初期の代表作すべてと、中期の「少年道化」の力作二枚。最後の「蝶と貝殻」シリーズの中の優作、「のんびり貝」。その他おもな作品がちょうど窪地に水が集まるように手元へ帰った。/生前、没後を通じて三岸遺作はわずかひと握りの人々の理解を得ただけで、酷評に次ぐ酷評を受け、正当な評価を受けるに至らなかったのは、毎年画風が変貌するためであった。/これこそ大正、昭和の初めに相次いで出た先駆者たちが、絵画の新しい真実を求めて、命をかけてもろくも力及ばず、生命を焼き切った、いたましい歴史であった。
  
三岸好太郎「のんびり貝」1934.jpg
 こうして、三岸節子のもとへ集まった好太郎作品220点は、のち1967年(昭和42)に北海道へすべてが寄贈され、1977年(昭和52)には北海道立三岸好太郎美術館Click!が誕生している。

◆写真上:1934年(昭和9)竣工の新アトリエ側から見た、旧・第一アトリエ跡の現状。
◆写真中上は、1941年(昭和16/)と、1947年(昭和22/)の空中写真にみる三岸アトリエ。は、三岸好太郎・節子夫妻の長女・陽子様が描いた第一アトリエ完成時の間取図。
◆写真中下は、1947年(昭和22)作成の1/10,000地形図だが第一アトリエのみで新アトリエが記載漏れとなっている。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる第一アトリエで西側に収蔵庫と思われる四角い建屋が見えている。
◆写真下:第一アトリエで描かれた代表作のひとつで、死去する1934年(昭和9)制作の三岸好太郎『のんびり貝』(北海道立三岸好太郎美術館蔵)。

大磯の三岸節子アトリエを訪ねる。

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大磯の相模湾.JPG
 このサイトでは、大磯Click!に縁のある画家を訪ねるのは、これで三度目になる。最初は1927年(昭和2)の夏、第2次渡仏を目前にひかえた佐伯祐三・米子夫妻Click!が避暑に訪れた、大磯町山王町418番地の借家跡Click!を訪ねた。つづいて、大磯町西小磯728番地に避寒の別荘をもっていた、中村彝Click!の友人である亀岡崇Click!について書いている。三度目は、わたしと同時代に制作していた三岸節子Click!のアトリエ=「太陽の家」を訪ねる大磯行きとなった。
 「大磯行き」と書いたけれど、わたしは親父の仕事の関係で、物心つくころから中学生の終わりまで、花水川は花水橋(当時は木造だった)をわたってすぐ隣り街の虹ヶ浜に住んでおり、また両親の友人・知人の何人かが大磯に住んでいたので、しょっちゅう歩いていた街でもある。湘南・大磯は、わたしの日本橋に次ぐ第2の故郷のようなものだ。だから、大磯へ出かけるのではなく「帰る」という感覚のほうがとても強い。三岸節子のアトリエがある代官山も、子どものころから虫網をもってセミやオニヤンマを捕りに入りこんでいた。
 大磯は、明治の初期から東京人あこがれの別荘地Click!であり、日本で最初に海水浴場が開かれた土地でもある。夏は、東京よりも気温が3~4℃ほど低くて涼しく、冬は逆に3~4℃ほども気温が高い。西隣りの二宮町は、江戸期まで自然栽培による冬みかんの最北限地であり、二宮みかんは明治から大正期にかけて東京では有名なブランドだった。子どものころ、横浜や大船、鎌倉あたりまでは雪が降っていても、大磯までくると雨に変わるという経験を何度かした。
 夏は東京に比べて涼しく、冬は北側に丘陵を背負っているので暖かい大磯へ、三岸節子が「太陽の家」と名づけた小さな山荘を建てたのは、東京オリンピックが開かれた1964年(昭和39)3月のことだった。海辺の老舗旅館・大内館に滞在し、不動産屋に案内され地元で通称「代官山」と呼ばれる、大磯町東小磯611番地の南斜面を見た節子は、いっぺんで気に入ってしまったようだ。そのとき、長男の黄太郎様に「ここで私は死ぬよ」と囁いたらしい。当時の代官山の様子を、1999年(平成11)に出版された、吉武輝子『炎の画家・三岸節子』(文藝春秋)から引用しよう。
  
 二年後(1964年)に節子は小さな家を建てた。アトリエ付きの家を建てるまでにさらに二年の月日を必要とした。丘陵地は五百坪の森林、千坪の農地から成り立っていたが、当時の知事は革新の長洲一二。農業を手厚く保護する方針が打ち出されていたため千坪の農地を宅地に変えるためには、あらゆる手立てを講じなければならなかった。/それだけではない。この丘陵地は戦時中は砲台がつくられていただけあって、眺望は最高だったが、建築地としてはあまりにも難が多すぎた。まず岩盤であるため水が出ない。建築家は、岩盤をプール状にくり抜き、桶の水を貯めて濾過する設備を作った。しかし雨が降らないと途端にトイレの水洗が止まってしまうので、あらかじめそのことを予想して作った外部にある原始的なトイレを使わなければならなかった。/電気は電信柱を三本立ててようやく送電が可能になった。代官山のてっぺんに建てられた山荘は地形の関係上四段に分かれていた。大変な思いで建て、暮らすには不便なことが多かったが、自然の恵みがそれらのすべてを凌駕していた。(カッコ内は引用者註)
  
代官山1.JPG 代官山2.JPG
 この中で、三岸節子が農地を宅地に変えるのに苦労をした・・・というのは、長洲知事の時代ではなく、津田文吾が神奈川県知事をつとめていた時代であり、農業の保護策は急激なドーナツ化現象と宅地化が進んでいた神奈川県Click!では、長洲知事が登場する以前から実施されていた政策だ。長洲が知事になるのは、1975年(昭和50)以降のずっとあとの時代であり、吉武輝子が取材の過程で時系列をまちがえたか、三岸節子の記憶ちがいではなかろうか。津田知事には実際に会ったことがあり、笑っていても目が笑わない不気味なおじさんとして、わたしの印象に残っている。わたしの子ども時代と、神奈川県の津田知事時代はシンクロしている。
 また、代官山の山頂近くにも砲台があったことがわかる。この砲台は、湘南平(千畳敷山)Click!の山頂へB29の迎撃用に設置されたのと同じ12.7cmの高射砲Click!ではないかと思われるが、同様に25mm機銃のコンクリート台座も、代官山のあちこちに残っていたのではないか。隣り街の平塚に、海軍の火薬工廠があった関係から、高射砲陣地は湘南海岸のあちこちに展開していた。でも、大磯に来襲したのは高高度でやってくるB29ではなく、硫黄島から飛来したP51や空母から飛び立ったグラマンであり、大磯の山々よりも低く飛んだため、高射砲や機銃を下の街に向けて撃つわけにもいかず、「1発も撃てなかったんだわ」という古老の話を聞いている。
 さて、大磯にアトリエをかまえた三岸節子は、それまでの作品に見られた色彩感とは打って変わり、開放的で華やかな色合いの風景画や静物画を次々と生みだしていく。湘南・大磯という土地の気候や風土から、いままでにない解放感や安らぎを味わったのだろう。いつも「太陽」や「海」を意識した生活の中で、「色彩画家」と呼ばれる彼女の新しい美の世界が花開いていくことになった。
代官山山麓01.JPG 代官山山麓02.JPG
 先日、久しぶりにその代官山へと出かけてみた。子どものころは、湘南平から高田保Click!公園へと抜けたあと、それほど疲れていなければ、そのまま西側の代官山の山麓まで虫捕りにまわることがたびたびあった。いまは、宅地造成で暗渠化されたところが多いが、代官山の麓は鴫立庵Click!へと流れ下る鴫立沢の源流が流れ、オニヤンマを捕るには格好のエリアだったのだ。昔は、田畑ばかりの山麓でありヘビも多い斜面だったが、出かけてみて驚いた。代官山の中腹あたりまで住宅街が形成され、昔の面影はほとんどなくなっていた。
 しかも、すそ野の家々には「代官山マンション建設反対」の幟や横断幕がひるがえり、緑の多い昔の文化村のような住宅街の雰囲気とともに、東京近郊を散歩しているような錯覚をおぼえる。どうやら、代官山の南東にあたるすそ野の森を伐採して、大きなマンションを建てる計画が進行中のようだ。山頂までクルマで上がれるのだろう、きれいに舗装された道路を上りジグザグになった元・山道を歩いていくと、南斜面に面した陽当たりのいい場所に、1964年(昭和39)に建てられた木造アトリエと、1985年(昭和60)に建てられたコンクリートのアトリエがある。
 でも、わたしは最初、それが三岸節子のアトリエだとは確信がもてなかった。子どものころとは、あまりに周辺の風情が異なりすぎ、また大きく育った樹木の間に埋もれるようにしてたたずむアトリエは、人が住まなくなってから久しいのだろう、道路側からは廃屋のように見えた。また、山頂の近くには、当時はまったく存在しなかった住宅や、保養施設などが建っていて、すっかりわたしの記憶や印象を狂わせてしまったのだ。いちおう、古い木造家屋とコンクリート家屋をカメラに収めて帰り、しばらくして愛知県の一宮市立三岸節子美術館Click!の学芸員でおられる堤祐子様にご確認いただいたところ、まさに三岸節子の代官山アトリエの2棟であることが判明した。
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 三岸節子は、大磯での制作活動を「カイコが糸をつむぐように絵を描こうと希っている」と書いている。1977年(昭和52)に出版された、三岸節子『花より花らしく』(求龍堂)から引用してみよう。
  
 南になだらかな斜面が海へ向って下り、左手の山のはずれの海から太陽が上る。毎朝太陽を見るために早く目が覚める。薄明のうちに窓を開けはなち、うすもやに煙る木立や家々の屋根、小鳥たちはさえずり始め、やがてバラ色の空になる。真紅の太陽が少しずつ現れる。/もっとも壮大なながめである。/やがて糸のような夕月が空にかかり、弓のように張った白い月が、そして山の端に満月となって現れる。/歳月は朝日と夕日をたび重ねて過ぎ去ってゆく。/この楽園では太陽と月との対話に終始した孤独の世界である。それでももうここへ移り住んで四年の歳月を経過した。/これだけの時をついやして漸く私の作品の中に太陽も月も定着しはじめたようである。
  
 だが、大磯にアトリエを建ててからわずか4年後、三岸節子は急に南フランスのカーニュへ向けて旅立っている。その後、フランスやイタリアでの制作期間は20年間におよび、三岸節子が再び大磯へともどってくるのは、84歳を迎える1989年(昭和64)になってからのことだった。

◆写真上:大磯の照ヶ崎から相模湾を眺めた風景で、沖に見える島影は伊豆大島。
◆写真中上は、代官山に通う山道。は、代官山の中腹から眺めたこゆるぎの浜方面。
◆写真中下:代官山の山麓に展開する、落ち着いた住宅街の風情。
◆写真下三岸節子が愛した大磯の海で、関東大震災Click!で海底から浮上した岩礁のひとつが見える。東を三浦半島に西を伊豆半島にはさまれた、湘南の真んまん中に位置する大磯は、江戸期の歌人・宗雪が「湘南」と名づけてめでたように、風光明媚な景勝地として有名だ。

少女は西武線の電車に飛びこんだ。

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 事件・事故は時代を映す鏡だといわれるが、このサイトでも下落合で起きたさまざまな事件Click!をご紹介してきた。きょうは、西武電鉄Click!が開業してから、おそらくもっともセンセーショナルな事件を取り上げてみたい。この事件は、高田馬場仮駅Click!時代に線路の無理なカーブで、電車が脱線事故を起こしていたとしても、それ以来の大きな事件だったろう。事件は、西武電鉄の開業まもない、1927年(昭和2)9月13日の夜に起きた。
 東京中央気象台の記録によれば、この日は小雨となっているが、昼間は晴れていたものの午後から天候が急変して豪雨になる日がつづいていた。ひょっとすると、熱帯低気圧が接近していたと思われるのだが、当時の台風の詳細な記録は残っていない。午後7時14分ごろ、氷川明神前の下落合駅Click!を出て加速をはじめた川越行きの下り電車が、神田川に架かる下落合971番地付近の千代久保橋踏み切りへさしかかったところ、右手からいきなり少女が飛びだして電車に飛びこんだのだ。
 千代久保橋は、1935年(昭和10)前後に行われた神田川と妙正寺川の整流化工事にともない、現在では妙正寺川に架かっており、現・下落合駅前に架かる西ノ橋のひとつ東側の橋だ。そして、いまでも新・下落合駅ホームの延長で位置は少しずれているが、千代久保橋踏み切りは存在しており、久七坂を下りて戸塚第三小学校などのある下戸塚側へと抜けられる、便利な橋のひとつとなっている。では、1927年(昭和2)9月14日の読売新聞から引用してみよう。
  
 重傷を見棄て電車逃走す/少女はつひに絶命 乱暴極まる西武線
 十二日(ママ)午後七時十四分折柄の豪雨中西武鉄道村山線川越行電車が落合町下落合八七五先千代久保橋踏切付近を進行中十五、六歳の娘が電車に触れ虫の息となるや運転手登口一雄(二〇)車掌村山専太郎(二一)の両名はその娘の體を線路外に投げだしたまゝ進行を続けたのを乗客が気づき非常に憤慨してその乱暴を難詰したため始めて戸塚署に届出で、同署で検視したがちゞみの単衣にメリンスの帯を締め年齢一五、六歳位とだけで身許が判明しない、同時に間もなく絶命したので自殺か過失かも判明せず警察署では本人の身許を調査してい 一方運転手、車掌に対しては余りにその処置が乱暴だといふので依然警察に拘留して取調べを進めてゐる
  
 西武線に飛びこんだ少女を、運転士と車掌が線路脇へ投げ出して運行をつづけようとしたので、乗客たちが怒りだし警察を呼んだ様子が伝えられている。いまでは考えられないような処置だけれど、大正期から山手線や中央線の随所でつづく飛びこみ自殺Click!に、西武線の乗務員たちの感覚もマヒしていたのかもしれない。ふたりは、その場で警察に拘留されている。
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西武電鉄1927_1.jpg 西武電鉄1927_2.jpg
 当初は、身元不明の自殺者ということだったが、ほどなく身元が判明した。下落合731番地に住んでいた、東京高等師範の数学教授だった佐藤良一郎宅へ寄宿していた、親戚の19歳になる少女だった。翌9月15日に発行された、読売新聞の続報記事から引用してみよう。
  
 轢死した少女自殺と判明す/何故か全く判らぬ 高師教授の従妹の死
 既報十三日夜 西武鉄道村山線下落合七三五千代久保橋踏切で轢死を遂げた少女の身許は 市外下落合七三一東京高師教授佐藤良一郎氏(三七)方に同居中の 同氏の従妹伊藤かづよ(一九)が自殺したものと判明した かづよは郷里和歌山県東牟婁郡下里村八尺鏡野から結婚前生花その他修養のため上京、佐藤氏方に寄ぐうしてゐたもので、両親に早く死別し男兄弟のみで平常さびしがりやではあつたが 死因は男女関係や家庭上又教育方針等からとは考へられず 同日はくず屋に自分のはかま二枚を売らうとするのを佐藤氏の妻女に止められ それ以来ふさぎ込んで居たが夕方新しいはき物をはき、何気なく外出したもので同家でも何故死んだか不思議がつてゐると
  
 下落合731番地は、ちょうど諏訪谷Click!に面した曾宮一念アトリエClick!の、2軒西隣りにあたる地番だ。記憶力のいい曾宮一念Click!も、当然このニュースは憶えていただろう。
下落合731番地.jpg 下落合971番地.jpg
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 親族たちは、なぜ伊藤かづよが自死したのかわからず「不思議」だとしている。彼女は、9月13日の夕方、おそらく大雨の中を佐藤邸からひとりで外出し、東側の曾宮アトリエの前を通って大六天Click!のある久七坂Click!筋を右折した。いまだ、聖母坂Click!(補助45号線)が存在しない時代だ。何度かくねくねとカーブを描く尾根筋の道を歩き、久七坂を下りきると高田邸および伊藤邸、そして大澤邸にはさまれた十字路をそのまままっすぐ南へたどり、加藤邸へ突きあたると東へ左折した。そして、豊菱製氷工場のところから南へ右折し千代久保橋をわたれば、千代久保橋踏み切りは目の前だ。伊藤かづよは、上り電車が中井駅を、あるいは下り電車が氷川社前の旧・下落合駅を発車するのを、暗闇の豪雨の中で待ちつづけたのだろう。
 やがて、左手(東側)の旧・下落合駅方面から下り電車が近づく気配を感じた。ライトをつけた電車が踏み切りへさしかかる直前、彼女は迷わず線路の中へ飛びこんだ。その後、伊藤かづよの自殺原因は判明したのだろうか? これ以上の続報がないようなので、おそらく遺書もなく、そのまま原因不明で処理されてしまったような気がする。
 わたしは、彼女が読書好きなロマンチストであり、文学少女ではなかったかと想像している。伯父の家へ下宿し、将来の結婚へ向けた行儀見習いの生活をするうちに友人たちもでき、さまざまな情報交換や本の貸し借りなどもあっただろう。あるいは、東京高等師範学校の教授宅なので、いろいろな分野の書籍が本棚にそろっていたのかもしれない。彼女は、もともと感受性が強く頭のいい女性だったため、それらの文学作品にのめりこんでいったのではないか。そして、人生に絶望し生活を悲観するなんらかの作品にめぐりあった。ひょっとすると、同年の1月に帝国ホテルClick!で秘書と心中未遂事件を起こしていた、芥川龍之介の作品も熟読していたのかもしれない。
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佐伯祐三「セメントの坪(ヘイ)」1926.jpg 佐藤良一郎「数理統計学」1943.jpg
 なぜ、伊藤かづよが文学少女だったなどと想定できるのか? それは、彼女が西武線に飛びこむ前々日、1927年(昭和2)9月11日は芥川龍之介が自殺してから七七日(49日)目にあたり、なんらかの関連性を強く感じるからだ。大正が終わり世相が徐々に暗さを増す中、金融恐慌から世界大恐慌へと崩壊をつづける経済状況を背景に、「漠然たる不安」を感じた若者が次々と自死する、1932年(昭和7)ごろにはじまる“自殺ブーム”は、伊藤かづよの死から5年後のことだった。

◆写真上:旧・下落合971番地付近に現存する、雨の千代久保橋踏み切り(馬9Click!)。
◆写真中上は、1927年(昭和2)9月14日の読売新聞に掲載された事件記事。は、1927年(昭和2)の開業直後に撮影された西武鉄道村山線で下落合の西隣り上高田あたり。
◆写真中下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる千代久保橋と千代久保橋踏み切り()と、下落合731番地にあった東京高等師範学校教授の佐藤良一郎邸()。下左は、いまは妙正寺川に架かる千代久保橋。下右は、下落合731番地の旧・佐藤邸跡。
◆写真下は、1926年(大正15)に制作された佐伯祐三『下落合風景』(諏訪谷/曾宮さんの前Click!)。福ノ湯の煙突の左手前に、佐藤良一郎邸と思われる大きめの2階家がとらえられている。下左は、同年に描かれた佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』Click!。佐藤邸は右手背後にあり、まさに伊藤かづよが雨の中を歩いて久七坂筋へ出ようとしたとき目にしていた光景だ。下右は、1943年(昭和18)に培風館から出版された佐藤良一郎『数理統計学』。

薬王院の境内は房州石だらけだ。

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薬王院01.JPG
 以前、古墳時代の前方後円墳や円墳の上に建立された、東京における氷川明神(出雲神)などの展開についてご紹介Click!した。氷川明神の境内が墳丘を崩した、あるいは整形した古墳跡である重要な物的証拠のひとつとして、考古学的な発掘調査による羨道や玄室を構築するのに用いられ、人手によって加工がほどこされた「房州石」の存在がある。
 房州石は、房総半島の南端、鋸山のある周辺で産出する独特な石材で、貝の生痕跡(化石)が白く点々と残る黒っぽい凝灰質砂岩のことだが、古墳期には同所に大規模な石切り場と加工工場が存在し、関東各地の古墳造営に大小の石材を供給していたことが判明している。関東南部への輸送は、おそらく船で江戸湾を横断し河川を遡上して運ばれたものだろう。首都圏で発掘されるほとんどの古墳からは、房州石を使用した玄室や羨道、石棺などが見つかっている。ただし、少し内陸の国分寺や府中の古墳の中には房州石ではなく、近くで産出したやわらかくて加工しやすい凝灰質砂岩が用いられているケースもあるようだ。
 さて、神田川(旧・平川)流域には「百八塚」Click!の伝承にからみ、大小さまざまな古墳があったと思われるのだが、落合地域にもそのうちのいくつかが存在したと考えている。ただし、現在まで伝えられている古墳は、上落合の浅間塚古墳Click!(おそらく円墳で山手通り工事のために消滅)のみで、他はすべて早い時期(おそらく江戸期かそれ以前)に崩されて農地化されてしまったようだ。しかし、戦前に土器片や埴輪片を畑へすきこんでしまった話や、全国的な古墳独特の地名(小字)である丸山Click!摺鉢山Click!大塚Click!などの存在から、下落合摺鉢山古墳Click!下落合丸山古墳Click!の存在を想定しても、あながちピント外れではないだろう。
 さて、問題は古墳の存在を裏づける“物証”なのだが、玄室や埴輪片などが出現したとしても、当時は考古学者あるいは歴史学者を呼んで調査する・・・などという習慣はまったくなく、また多くの自治体にもそのような部署は存在していなかった。だから、そのまま放置され破壊されたと思われ、いまでは埴輪片がたくさん出たといわれる元・畑地だったエリアも、住宅街の下になっていて掘り返して調べるわけにはいかない。また、江戸期の下戸塚(早稲田)界隈のように、耕地拡張により古墳から出土した副葬品(主に装飾品に用いられた宝玉など)が寺社に奉納されたケースもあるが、戦災により現在はほとんどが行方不明となっている。
 さらに、なによりも戦前は、関東地方に大規模な古墳が存在するはずがない・・・などという、非科学的かつ自国の古代史を矮小化しておとめる「自虐的」な皇国史観Click!の呪縛により、満足な調査や発掘がなされず次々と大小の古墳が破壊されていった時代だ。東京をはじめ、関東地方が大規模な古墳の密集地域であり、日本最大の円墳や最古・最大の上円下方墳が関東にあることなどが改めて規定されたのは、1945年(昭和20)の敗戦から現在まで、ここ数十年のことだ。
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 古墳の存在を証明するのは、埴輪片や副葬品による“物証”に次いで、玄室や石棺の材料に用いられた房州石などの存在が挙げられる。下落合でも、房州石がまとめてどこかに存在しないかどうか、近くの寺社に立ち寄るたびに観察してみることにした。その手はじめとして、とりあえず最寄りの薬王院からスタートしてみたのだが、すぐに江戸期の代表石材である根府川石Click!ではない、独特な石材が大量に“保存”されているのに気がついた。
 それは、参道でも墓地でも、本堂や方丈のある境内の主なエリアでもなく、斜面やバッケ(崖地)の土止めとして擁壁に用いられている石材だ。これらの石材がどこから運ばれたのか、その由来を取材しようとしたのだけれど、過去に何度か同院の史的な経緯についてお訊ねしても、「わかりません」というお答えしかいただいたことがないので、ましてや古墳由来かもしれない大量の石材の経緯をお訊ねしてもおそらく不明だろうとあきらめて、写真撮影だけさせていただくことにした。そして、材質比較のために、もうひとつ別の場所へと向かう。1963年(昭和38)に、下戸塚の甘泉園公園Click!(三島山)の隣りに移設された水稲荷Click!だ。
 もともと、水稲荷は穴八幡宮Click!の北、毘沙門山(比沙門山:この丘や墓地自体も古墳の可能性がある)をはさみ北側の早稲田大学キャンパスに隣接した、富塚古墳(前方後円墳=高田富士)に奉られていた。しかし、早大がキャンパスを拡張して9号館などを建設する際、水稲荷に代替地となる甘泉園西側の敷地を早大が提供し、富塚古墳(高田富士)は破壊されている。その際、発掘調査が行われ、出土した羨道や玄室の石材などを、丸ごと水稲荷の本殿裏へ移して安置した。つまり、採掘・加工して玄室に用いられてから、おそらく1600年以上は経過し経年変化をしている房州石を観察するには、またとない標本が水稲荷の本殿裏に保存されていることになる。
 薬王院の石材と、富塚古墳の玄室に用いられていた石材とを比較してみると、両者はそっくりなことがわかった。房州石特有の貝の生痕が、表面のところどころに見られ、色あいは切り出して間もない房州石と比較すると、おしなべて両者とも黒ずんで変色している。やわらかい石質からか、風雨にさらされた部分は表面が滑らかになっているが、それ以外の石面にはノミのような道具を用いたのか、生々しい加工痕がそのまま残っている。羨門や羨道、玄門、玄室などを構築する際、石材の一面を平面にする必要があったのだろう、いずれもきれいにカットされた面が見られる。しかも、薬王院の擁壁に使われている石材には、四角くくりぬいた加工痕が残るものまでが見られ、富塚古墳の玄室と仔細に比較・観察すると否が応でも想像力がかき立てられるのだ。
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 古墳をなんらかの聖域化(やしろ化)するのは、おそらく古墳時代からすでにはじまっていただろう。それは、古墳の周囲に祭祀場や斎場が設置されたり、前方後円墳や帆立貝式古墳(略式の前方後円墳)の場合は、造り出し(造出)と呼ばれる、祭祀や祈祷を行なったとみられる特別な場所が、後方部の両脇へまるで耳のように取りつけられているのを見ても明らかだ。そこへ、社(やしろ)の思想が習合ないしは進化して、後世に明神や鋳成・稲荷(山)をはじめ、八幡(山)、天神(山)、弁天(山)などと結果的には名づけられる、各種の「神々」が奉られるようになるのも、古墳時代の末ごろにはスタートしていたかもしれない。ナラ期以降には、寺社の境内として古墳が活用されるケースが急増しただろう。なぜなら、もともと平野部に築造された古墳の形状は、寺社の参道や拝殿・本殿、本堂・塔・僧坊などを設置するには、あらかじめ格好の地形を提供してくれているからだ。
 先の富塚古墳についていえば、後円部の墳丘を平らに削って本殿・拝殿を設置する代わりに、前方部に本殿・拝殿を安置し、墳丘下に鳥居を設置している。つまり、後円部の墳丘そのものを鋳成山(稲荷山)に見立て、麓にある拝殿から信仰・参拝する・・・という形式を採用している。実際に、富塚古墳の付近には湧水源があり、川砂鉄が大量に堆積していたのかもしれず、古代にはタタラ(目白=鋼を精製する製鋼作業)が盛んだったのかもしれない。これが江戸期になると、今度は富士信仰を唱える富士講Click!の宗派と結びつき、後円部の山頂に富士山から信者が背負って運んできた熔岩を積み上げ、「高田富士」に衣がえされている。
 また、先にご紹介した伊興氷川神社古墳のように、大きな円墳を四角く削って境内にしたり、舎人氷川明神古墳のように墳丘の原型を残さないまでに、境内を整形されてしまった社(=古墳)も存在している。下落合氷川明神を見ると、十三間通り(新目白通り)の工事で境内の大半が破壊される以前、かろうじて釣鐘型の形状をしているのを確認できるのだが、上記の例でいうと舎人氷川明神古墳ケースに近似するものだろうか。聖母坂下の「摺鉢山」とともに、小字に残る「丸山」と思われる墳丘が消滅したのは、かなり早くからのことかもしれない。
 寺院の場合は、増上寺の芝丸山古墳Click!(前方後円墳)がそうであるように、後円部の山頂を平らに削り、五重塔や僧坊などの伽藍が設置されているケースが多い。同様の寺院例としては、関東大震災Click!の焼け跡を調査している鳥居龍蔵Click!が規定した、待乳山(真土山)の聖天(前方後円墳)が挙げられる。やはり、前方部と後円部の双方を削り境内としている。また、浅草寺の南に隣接した、弁財天を奉った堂が建つ弁天山(弁天塚古墳Click!)は、後円部の墳丘をほぼ跡形もなく平らに削ってしまった例だ。また、上野公園内に唯一残された上野摺鉢山古墳(前方後円墳または帆立貝式古墳)は、明治期に後円部の山頂が削られて公園の見晴らし台にされていた。
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 薬王院に“保存”されている、貝化石が混じった古い房州石は、はたして下落合氷川明神古墳(仮)のものか、より巨大な下落合摺鉢山古墳(仮)のものかはまったく不明だけれど、少なくとも玄室の構築に用いられたと思われる房州石が、1600年以上もの時間を超えて下落合に現存している事実は確認できた。すなわち、房州石を大量に用いる大がかりな古墳の築造工事が、小字として残る摺鉢山や丸山の周辺で行われていた可能性を、強く示唆する物証のひとつだ。

◆写真上:崖地の土止め擁壁に利用された、薬王院に残る古い房州石群。
◆写真中上:甘泉園公園(三島山)の西に隣接する水稲荷社の本堂裏に安置された、富塚古墳の玄室などに使われた房州石。前方後円墳の規模から、これがすべてではなく玄室部分のみの石材を移したものと思われる。また、洞稲荷として奉られている、現在の玄室に見立てた横穴状の石組みは規模が小さく、これも本来の玄室構造とは異なっていると思われる。
◆写真中下:薬王院に残る古い房州石群で、駐車場以外にも境内の随所で確認できる。中には、四角くくり抜いた加工痕が残る石材もあるが、房州石とは石質が異なるので後世のものか。
◆写真下上左は、甘泉園(三島山)西の水稲荷本殿裏にある玄室石材を活用した祠稲荷。上右は、古代からの採石場だった南房総の鋸山断崖。は、前方後円墳を社の境内へと整形した一例の拙図。沼袋氷川社Click!中野氷川社Click!などの境内が、この形状に近似している。

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