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落合第四小学校の学童集団疎開。

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 このサイトでは、目白通り沿いClick!をはじめ、新宿(淀橋区)各地で行われた建物疎開Click!のテーマは何度か記事にしてきた。また、住民の自主的な地方疎開についても、ときおり別のテーマから取り上げてきている。でも、小学校で行われた大規模な学童の集団疎開については、これまであまり取り上げてきていない。先日、酒井正義様Click!より落合第四小学校Click!の学童疎開を主題にしたDVDをいただいたので、改めてこのテーマを取り上げてみたい。
 小学校の学童疎開と聞いて、わたしがまず思い浮かべるのは、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!だ。このとき、地方に学校単位で集団疎開していた子どもたちが、卒業式が近づいたので高学年を中心にたまたま東京へともどってきていた。そこへ同日の夜半、B29による絨毯爆撃がはじまったのだ。東京大空襲で子どもたちの犠牲者、あるいは空襲を実際に目撃した子どもたちが多いのは、せっかく地方へ疎開していたにもかかわらず、卒業時期あるいは学年の進級時期で東京にもどったていた子どもたちが大勢いたからだ。
 親たちは東京大空襲の話になると、必ず「なぜ、危険な東京へもどしたのか?」と学童疎開の大失策を、あとあとまで残念がっていた。おそらく、日本橋の千代田小学校Click!で学童疎開をした子どもたちが、実家の近所だった知り合いの家にもどってきているのを、実際に目撃していたのかもしれない。隅田川は大橋(両国橋)Click!の向こう側、本所や深川ほどのジェノサイド状況ではないにせよ、千代田小学校の子どもたちの多くが空襲に巻きこまれて生命を落としているのだろう。同夜、関東大震災Click!の教訓から、復興計画の一環で耐火建築校舎のはしりとなった千代田小学校(現・日本橋中学校Click!)は、コンクリートとタイルの外側だけを残して全焼している。
 近年、学童集団疎開は子どもたちを都市から地方へ移動させたことで、多くの生命を救ったのだ・・・というようなトンチンカンな論説(さっそく、当時の学童たちを引率した多くの教育者たちから反論を受けている)を見かけるが、少なくとも東京の(城)下町Click!に関する限り、米軍による大規模な空襲が予測されていながら(米軍機より予告チラシさえ撒かれている)、大勢の疎開学童を東京へともどしたのは取り返しのつかない大失策であり、「多くの生命を救った」のとは正反対に、リスクをまったく無視して多くの児童を犠牲にしたのだ。
 
 さて、酒井様からいただいたのは『僕たちの戦争―学童集団疎開 ある少年の記憶―』(『僕たちの戦争』制作実行委員会/真鍋重命:監督・脚本)だ。2013年(平成25)3月、つまり今年の春に完成したばかりで、DVDジャケットの帯には「終戦70周年祈念作品」のショルダーがついており、後援・新宿区教育委員会となっている。1944年(昭和19)に学童集団疎開が行なわれた、落合第四小学校の子どもたちの物語だ。同DVDに添付された、ライナーノーツが引用してみよう。
  
 子どもたち 孫たち そして見知らぬ若い君たち
 おじいさんやおばあさんが子どものころ、日本はアメリカを主力とする連合軍と戦争をしました。/戦争のとき、子どもたちはどんな生活をしたのか、どんなことを考えていたのか。実際に子どもの時に体験したおおぜいの人々に話をしてもらいました。『僕』は一人ではありません。また男の子だけでもありません。戦争の体験という共通の想いが『僕』という主人公です。/70年という年月は遠い昔でしょうか。嫌なことは早く忘れたほうが良いでしょうか。いまでも地球上のどこかで戦争がおきています。毎日おおぜいの人々が傷ついたり死んでいます。/君たちなら、どうしますか。なにを考えますか。いそいで答えを見つけなくてもいいですから、ゆっくり考えてください。君たちの子どもたちのためにも。
  
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 1944年(昭和19)から翌年の春にかけ(第一次学童疎開)、落合第四小学校の多くの生徒たちが集団疎開した先は、茨城県笠間市岩間の不動院と龍泉院だった。村の人々は親切で、物心の両面から子どもたちを援助してくれたらしい。食べ物もなんとか調達できていたようで、ときにオヤツも支給され、他の地域への疎開児童と比較すると、比較的めぐまれていたほうなのだろう。DVDを見るかぎり、子どもたちがひどい飢えに苦しめられることは少なかったように思える。ただし、野草や樹木の実など、食べられるものはなんでも口にしたのは、他の学童疎開ケースと同様だ。冬の暖房には苦労したらしく、境内の落ち葉を集めては暖をとっていたようだが、それがなくなると山へ焚き木ひろいに出かけるのが生徒たちの日課となった。
 疎開先では、さまざまな出来事が起きている。予科練出身の海軍少尉が、ときどきチョコレートを土産に慰問にきてくれていたのだが、ある日、寺の上空を低空飛行で旋回して手を振ったあと、特攻へ出撃していった。また、赤紙Click!(召集令状)のとどいた若者が、村の池で自死するという事件も起きている。「御国のために捧げるべき命なのに、自殺するとは国賊だ!」と警官が脅し、葬式さえ出せなかった話。さらに、戦死した夫の遺骨を受けとった際、涙をこぼした若妻に対し、「英霊に涙をみせるとは何事だ!」と恫喝した将校の話など、1945年(昭和20)8月15日までつづいた大日本帝国の“思想性”を象徴するようなエピソードが語られる。ちなみに、夫の遺骨を手にして涙を見せた若妻について、落四小の教諭は「泣くのはあたりまえだ、祝い事じゃない」と、生徒たちを前に恫喝した将校を批判している。何度か、海軍将校のClick!で取り上げてきたけれど、日本じゅうが憲兵隊Click!特高Click!、さらには町会を基盤とする隣組Click!などの相互監視・強制組織によって自由な言論が圧殺され、あたかも今日の“北朝鮮”的な状況に置かれていた人々の中に、なんとかまともな感覚や理性が残っているところにこそ、かろうじて救いがあると思うのだ。
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松本竣介「家族宛て絵手紙」1945頃.jpg
 1945年(昭和20)の夏が近づくと、「本土決戦/一億総玉砕」が叫ばれはじめ、米軍のオリンピック作戦Click!に備えて、子どもたちは海辺の疎開地から内陸部へと移動させられている。(第二次学童疎開) 落合第四小学校の生徒たちは、今度は群馬県玉村町の法蓮寺、東栄寺、常楽寺などの寺々へ分散疎開をさせられた。夏期なので、寒さに苦しむことはなかっただろうが、食糧の調達はどんどん苦しさを増していっただろう。
 このDVDには、学習院初等科の子どもたちが、日光の金谷ホテルへ集団疎開した様子も収録されている。さすが、華族学校だけあって、疎開先が一流ホテルとはおそれ入谷のClick!・・・なのだが、日々の食べ物にもそれほど不自由はしなかったらしく、授業やスポーツ、ハイキング、東照宮参拝など東京での学園生活と大差ない毎日を送っている。金谷ホテルの広間は、古河電工の女子挺身隊員たちが寝泊まりしていたのだが、それを退去させての疎開生活だった。学習院の学童疎開における食生活は、実際に疎開生活を送った真田尚裕『日光疎開食事日記』を見ると、一般の学童疎開における食生活とは雲泥の差だった。それに対し、学校の寮があった軽井沢へ集団疎開した、日本女子大学付属小学校の生徒たちは、食べ物の調達や軽井沢の寒さに苦しめられ、かなりひもじい思いをしていたようだ。2013年(平成25)4月に増補再編集で改版された、『私たちの下落合』(「落合の昔を語る集い」編集)から、敷田千枝子様の引用してみよう。
  
 六年生のとき(昭和十九年)に集団疎開をすることになり、学校の寮がある軽井沢に行きました。とにかく冬とても寒かったことと、年中ひもじい思いをしていたことが強烈に記憶に残っています。でも、裏山に栗を拾いに行って食べたのがとてもおいしかったことなどは、むしろ楽しい思い出といえるのかもしれません。軽井沢は零下十何度にもなる寒いところで、冬の朝、板敷きのぞうきんがけをするとき、スーッと拭いて走っていったところを拭いて戻ると、今拭いたところが凍っていて、ツルンと滑ったりしたものです。風呂屋に行って髪を洗って帰ってくると、髪がバリバリに凍って、頭を振ると髪がパリンパリンと音を立てました。寒い冬の朝など、金属のドアの取っ手に手がべたっと吸いつけられるようにくっつくのに、びっくりしたこともありました。寒さで凍ったカボチャを煮たものがよく出ましたが、グチャグチャしていて、ひもじい私たちにもひどくまずかったのが忘れられません。(略) 昭和二十年には女学校に進学するため、同級生が皆いっしょに東京に戻りました。帰りの列車が赤羽まできたとき空襲に遭い、汽車が機銃掃射を受けてとても恐ろしい思いをしました。窓の木製のブラインドを下ろした暗い車室の中で、みんな床に伏せて震えていたのでした。
  
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 DVD『僕たちの戦争』は、新宿区の図書館や資料室、学校などで観ることができるのだろう。また、本作を教材として採用する小学校も増えてきているようだ。中国との戦争を含めると、15年戦争などまるでなかったかのような“すまし顔”の日常だが、「ワスレテハイケナイ物語」(野坂昭如)はほかでもない、わたしたちの足元の表層に眠っている。「戦後」は、まだ終わってはいない。

◆写真上:1944年(昭和19)秋、落合第四小学校の校庭で行われた学童集団疎開の出発式。
◆写真中上は、同じく校庭Click!での出発式の様子。下左は、心配そうに見送る親たち。下右は、「戦勝祈願」と行程の無事を祈願するため下落合氷川明神社へ参拝する生徒たち。
◆写真中下は、目白駅へと向かう落四小の生徒たち。は、1945年(昭和20)の敗戦直後に松本竣介Click!が家族へあてた絵手紙。中井駅のホームから妙正寺川ごしに焼け野原の上落合を眺めた風景で、上空にはグラマン戦闘機やB29が低空で威嚇するように飛行している。
◆写真下は、DVD『僕たちの戦争―学童集団疎開 ある少年の記憶―』(2013年)。は、焚き木を集めて暖をとる疎開先の落四小生徒たち。疎開の写真は、いずれも同DVDより。


スターリニズム下のソ連へ乗りこむ高良とみ。

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 敗戦を境に、「満州」や旧・ソ連国境に近い位置にいた多くの日本兵が、ソ連軍に連行されシベリアの強制収容所(ラーゲリ)で抑留されているが、長期抑留者の間に大きな変化が起きたのは敗戦から7年後、1952年(昭和27)5月12日になってからのことだった。日曜日で休日のはずなのに、抑留者たちは営外(屋外)作業を命じられたのだ。
 作業現場に着いてみると、脱走防止用の板塀がいつもの2倍の高さに増築され、収容所外の道路がまったく見えなくなっていた。ハバロフスクに設営された第21分所に起きた異変を、1989年(昭和64)に出版された辺見じゅん『収容所から来た遺書』(文藝春秋)から引用してみよう。
  
 この日は本来は作業休みの日曜日だったが、一部の営内勤務者や病人を残して全員が作業現場へかりだされた。「日曜ぐらい休ませろ」と抗議する者もいたが、監視兵に作業場へと追い立てられた。収容所のソ連人たちの雰囲気もいつもと違ってピリピリしている。作業班長から伝達されたこの日の収容所長の命令も理屈に合わぬものだった。「本日は日曜日であるが、各現場の仕事が急がねばならぬので作業にでよ。代休は後日与えることにする」/営外作業にかりだされた野本は、日曜日にまでかりだされるほどの急ぎの作業は、どう考えても思いつかなかった。
  
 実際、作業現場へ着くとどこにも急ぎの作業などなく、収容者たちが手持ち無沙汰でブラブラしていても、別に作業監督者から注意されることもなかった。この日、営外作業班が収容所から出ていくと、営内に残った日本人はすべて衛門から遠く離れた、レンガ造りのバラック2階に集められている。バラックの周囲には歩哨が立ち、ものものしい雰囲気で建物内へ監禁された。衛門から病院の入り口まで、きれいな砂利が一面に敷きつめられ、病院のカーテンや敷き布も新しいものに取り換えられ、病院内には花瓶に活けた花までが飾られている。
 当初は、モスクワから政府の要人が収容所の病院を視察に訪れるのだとウワサされたが、クルマでやってきたのが日本の参議院議員・高良とみClick!(緑風会)だと聞いて、収容者たちは驚愕することになった。このあたりの様子は、近衛文隆Click!の生涯を描いた西木正明『夢顔さんによろしく』(文藝春秋)の記事でもご紹介Click!している。このとき、ソ連への旅券を発行しない日本政府に業を煮やした高良とみは、パリで開かれていたユネスコ会議へ出席したあと強行突破でソ連へ入国し、シベリア抑留者のいる収容所をぜひ視察したいと談判している。
高良とみ1931.jpg 高良とみ(信州).jpg
高良とみ1933頃.jpg 高良とみ1935.jpg
 このとき、ソ連政府がとった対応は視察先の収容所や病院をにわかに飾りたて、視察者のためのきれいな“玄関口”を用意するという、スターリニズム下の典型的な施策だった。おそらく、高良とみもどこかで違和感を感じながらの“玄関”視察だったと思われるのだが、この1952年(昭和27)に空けた風穴を突破口に、長期抑留者の帰国が実現していくことになる。
 高良とみは、ソ連軍将校に案内されて第21分所の病院を視察するのだが、その白々しい対応がいかにもスターリニズム下のソ連の様子を伝えている。つづけて、同書から引用してみよう。
  
 あらかじめ重症患者は、数日前に市内の中央病院に移されていたので、軽症の患者だけになっていた。病院の日本人を見舞って歩いたとき、案内の将校が、/「今日はあいにくの日曜日なので、病人を除いて日本人たちはウスリー江へ魚釣りや水遊びにでかけてしまい、残念ながら会えないのです」/と説明をしていたという。高良は、患者数人に名前を訊ねたり、家族への伝言はないかと声をかけたりした。/高良が帰るとすぐに、「カーテン婆さん」と綽名されていた衛生係の女性将校が、新しいカーテンや敷布をさっさと片づけ、花や花瓶まで持ち去ってしまったという。「しかし、日本の政治家が国交もないこの国へよくこられましたね」/野本が不思議がると、山本がいった。/「うむ。その点はちょっと解せんが、なんといっても戦後初めてやってきた日本人だからね。この国が許可したということは、ぼくたちの帰国に決してマイナス材料ではないと思うよ」
  
 高良とみの視察後、ひと月ほどして第21分所にいる抑留者たちの間に急激な変化が起きている。翌6月には、抑留者と日本の家族との間でハガキ郵便による通信が許可された。おそらく、これも高良とみがモスクワで、スターリン官僚を相手に実現した成果なのだろう。
高良とみ1936頃.jpg 高良とみ(講演).jpg
高良邸下落合680.JPG 高良邸下落合1808.JPG
 「八島さんの前通り」Click!から路地を東へ入った下落合(2丁目)679番地(のち680番地:現・中落合2丁目)から、下落合(3丁目)1808番地(現・中落合1丁目)の妙正寺川に面した高良興生院Click!に住んだ高良とみは、戦時中、憲兵隊から常に目をつけられていた。良心的兵役拒否の「石賀事件」に連座していると疑われていたからだが、検束こそされなかったものの、常に生活上では嫌がらせを受けていたようだ。先日、戦前から戦後にかけ高良とみを撮影した写真を、ある方からまとめていただいたのでご紹介したい。
 家の内外で撮影された写真には、当時の緑濃い下落合風景がチラリと垣間見られる。中には、高良とみに下落合2108番地の吉屋信子Click!、そして門馬千代Click!と下落合の住民同士で信州へ出かけたときの写真も残されている。また、戦後になって撮られたものだが、当時は参議院議長だった堤康次郎Click!とともにとらえられたショットも残されている。
 高良家の写真は、西坂上にあたる下落合679(680)番地の邸に住んだ時代に撮影されたものと、白百合幼稚園の東隣り、下落合1808番地の高良興生院時代に撮影されたものとに分けられる。西坂上の邸の書斎には、額に入れた絵が飾られているが、残念ながら法隆寺金堂の壁画(勢至菩薩)だと思われ西洋画ではない。また、庭に吊るされたブランコとともに写る夫妻の背後には、樹間から隣家と思われる建物が見えている。一時期、隣家にはアトリエ建設までの仮住まいをしていたのだろう、1930年協会(のち独立美術協会)の川口軌外Click!が住んでいた。
 また、高良興生院の建物とみられる大きな西洋館を背景に、高良とみが写る写真も残っている。1945年(昭和20)4月13日の神田川と妙正寺川沿いの中小工場や、西武線をねらった第1次山手空襲Click!を受けた高良一家は、妙正寺川の川底にある砂州へと避難した。高良興生院は、病棟の一部が焼けただけで火を消し止めているが、西隣りの白百合幼稚園は全焼している。
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 高良家では、同じく下落合679番地の2軒隣りに住んでいた、1930年協会の笠原吉太郎Click!の作品を、少なからず購入して室内に飾っていた。最後に、高良とみの連れ合いである高良武久が、1973年(昭和48)の『美術ジャーナル』4月号に寄せた一文を引用しておこう。
  
 とくに笠原さんとは逢って絵を見る機会も多かった。絵筆を持つ笠原さんの顔はきびしかったが、いつも人なつこい微笑をたたえたそのお人柄も好きであり、またその絵は見るたび毎に立派に見え、戦前から今に至るまで毎日眺めていて少しも飽きないのは不思議である。/装飾的な甘さはなく、あまり華やかさはないが、暗くはない。タッチの切れ味がよく健康な男性的な息吹きを発散させる。しかし筆はよく制御されている。対象にくいこんではまた画布に迸しり出る純粋な熱気が快よく伝わってくる。/笠原さんは佐伯祐三Click!氏とも交わっておられ氏所有の佐伯氏の絵Click!を見せられた。私はそれを見て佐伯さんは病的なほど神経質な方ではなかったかと聞いたら氏はそれを肯定された。佐伯氏のと比べると笠原さんの絵は良し悪しは別として一層健康的に感じられた。
  
 この文章は、精神科医が観察した佐伯祐三作品として読むのも興味深い。また、笠原吉太郎作品は高良興生院内にも、引きつづき架けられていたのがわかる。高良とみも好きだったらしい笠原作品だが、その中に『下落合風景』Click!ははたして何点ぐらいあったのだろうか。

◆写真上:1985年(昭和60)8月に、アムール川をウスリー川方面へさかのぼる旧・ソ連のハバロフスク市フェリー。偶然にも、日本からほぼ最後のシベリア墓参団といっしょになった。
◆写真中上左上は、1931年(昭和6)に開かれた「思想しつゝ生活しつゝ祈りつゝ」の集会で講演する高良とみ。上右は、長野県へ旅行中のスナップで吉屋信子(右)と門馬千代(中)、そして高良とみ(左)。下左は、下落合679(680)番地の高良邸図書室で1933年(昭和8)ごろ撮られた高良とみと高良武久。下右は、1935年(昭和10)にブランコのある同邸の庭で撮影された高良一家。
◆写真中下上左は、1936年(昭和11)ごろ撮られた一家で後列右から3人目が高良とみで4人目が高良武久。上右は、講演する高良とみ。下左は、下落合679(680)番地の路地奥の右手にあった高良邸跡。下右は、下落合1808番地にあった高良興生院跡。
◆写真下上左は、下落合1808番地の高良興生院の敷地内で撮影された高良とみ(左端)。上右は、1940年代末に同院の高良邸前で撮られたと思われる高良とみ。下左は、国交のない旧・ソ連や中国からの帰国後、1953年(昭和28)ごろの高良とみと家族たち。下右は、1954年(昭和29)にイスラム代表バジ・オマーン(右端)に参議院議長だった堤康次郎(左端)を引きあわせる高良とみ(中央左)。高良とみは、戦後も一貫してアジア重視の思想や政治姿勢を変えなかった。

陸軍士官学校で配られた写真。(6)

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 陸軍士官学校(陸士)へ入学された方のお宅に眠っていた、写真資料をシリーズ連載でご紹介してきているが、有償配布された写真Click!には、訓練や演習、分列行進などを撮影したスナップ写真の割合いがもっとも多い。これらの写真は、演習が実施されるたびに、陸士専属の写真部カメラマンが部隊に随行するかたちで演習場を駆けまわり、シャッターを切ったものだろう。
 写真にとらえられている、雑木林や草原、あるいはやや起伏のある風景は、ちょうど落合地域の南から山手線をはさんで東にかけて拡がっていた戸山ヶ原Click!がそうであったように、おそらく座間(相武台)に移転した学校の周辺に確保された、軍事訓練や演習専用の広大な敷地だと思われる。これらの写真が保存されているのは、士官候補生である所有者自身が参加した演習だったからであり、また参加しているご本人か、あるいは同期の友人たちが画面に写っているので、演習が終わったあとの配布時に購入されているのだろう。
 写真には、中隊または小隊ごとに分かれて行われた歩兵戦の訓練から、野戦砲や重・軽機関銃を使った戦闘訓練、1937年(昭和12)に開発された九七式重戦車を投入した戦車戦の演習、所沢の陸軍航空隊と連携した空陸共同戦の演習、弾薬などを運搬する兵站(へいたん)訓練、防空機関砲や高射砲を使った防空演習など、訓練教育の内容はきわめて多岐にわたっている。写真を保存されていた陸士出身の方は、のちに陸軍航空士官学校へと進まれるので、陸軍の戦闘機や爆撃機、偵察機、練習機などの機影をとらえたものも多い。
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 そこに写されている光景は、うちのアルバムに保存された親父の軍事教練などとはまったく異なり、本格的な模擬戦闘そのものだ。親父の学生時代に行われた軍事教練は、陸軍の御殿場演習場で実施されたものだが、小銃の扱いと射撃、ほかにはせいぜい迫撃砲と軽機関銃の射撃訓練ぐらいだったのが、教練の記念写真Click!からうかがえる。だが、陸士の戦闘訓練は、当時の陸軍が保有していたさまざまな種類の兵器が登場している。
 演習の写真を、4~8枚ほどコラージュした記念絵はがきも作成され、学生たちに販売されている。これらの絵はがきには、兵器を大きくとらえた写真は用いられていないので、家族へあてた一般の郵便などに使われていたのだろう。遠景写真が多い絵はがきなのだが、あるいは兵器の微妙な箇所に修正が加えられている可能性があるかもしれない。海軍の写真では、自身が乗り組んでいる軍艦の艦影や艦隊写真が多いのだが、装備している兵器はもちろん艦体に描かれた記号類、艦影の背後に写る風景までが、あちこち修正され消されているケースが多い。風景を消すのは、おそらく母港や艦隊編成などを知られないようにするためだろう。
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 陸士の演習や訓練写真が保存されていた茶色の封筒には、士官候補生として子どもを陸士に入学させていた親の名前が記載されているものもあるので、おそらく親もとへの演習写真の頒布も行なわれたと思われる。前回ご紹介Click!した、学課や校内行事などの様子をとらえた写真などとともに、親もとへは「陸士で元気にやっています」という、学校生活の報告的な意味合いもあったのかもしれない。設定された学課の参観日や、特別に親が子どもに会いにいく機会は、一般の学校に比べればかなり少なかったのではないかと思われる。
 陸士の演習写真はスナップ風のものがほとんどだが、プリントサイズはキャビネ判あるいは手札判が多く、戦前には多かったいわゆるハーフサイズの小さなプリントは存在していない。もともと学生本人や親もとへの頒布を前提としているので、手札判以上のサイズで焼かれていたものだろう。品質のいい印画紙が使われているせいか、現在でも画像が褪せているものが少なく、きわめて鮮明なまま保存され、当時の様子や現場の雰囲気がたいへんリアルに感じられる。
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 6回にわたってご紹介してきた、戦前・戦中を通じて陸士で配布されためずらしい写真だが、このサイトに掲載できたのはおそらく全体の10分の1以下にすぎない。それほど膨大な写真類が、知り合いの方の家に敗戦で廃棄されることなく、長期間にわたって保存されてきた。これらの貴重な写真は、歴史のビジュアルな証言そのものであり、当時、戦争へ向かって突き進んでいた日本そのものの姿にほかならない。これからも、できれば永久に保存していただきたいものだ。

◆写真上:座間(相武台)の丘陵地帯で、行軍演習する陸士の士官候補生たち。
◆写真中上:いずれも、中隊あるいは小隊ごとに分かれた行軍・戦闘演習の様子。
◆写真中下中左は、所沢の陸軍航空隊に所属する戦闘機ないしは攻撃機も参加した演習の様子。中右は、サーチライトで夜空を照らした対空砲火の夜間演習。は、演習に参加したとみられる防空機甲部隊でトラックのうしろにあるのは高射機関砲とみられる。
◆写真下:いずれも、九七式重戦車の機甲部隊による戦車戦の演習。砲塔のうしろに立ちながら搭乗する人物は、戦車の操縦や部隊の陣形などを指示する教官と思われる。

下落合の犀ヶ淵にひそむUMAの謎。

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 ずいぶん以前に、田島橋(但馬橋)Click!をめぐり、神田上水にひそむ“怪獣”の話が登場したことがあった。コメント欄で益田様にご教示いただいたのだが、田島橋の近くに犀ヶ淵と鳥居ヶ淵という小名が、『江戸名所図会』にも採取されている。鳥居ヶ淵は、おそらく藤稲荷社か下落合氷川社の鳥居が川辺から眺められたので、そのような名称がふられたように思うのだが、犀ヶ淵のほうからは神田上水にひそむUMA(未確認生物)の怪獣「サイ」(?)が出現している。
 これまで神田上水や妙正寺川の風情について、江戸期に落合地域で盛んだった夏のホタル狩りClick!は何度か書いてきたし、秋の月見も大田南畝(蜀山人)Click!落合散歩Click!や山手線の月見電車Click!などにからめてご紹介してきた。でも、犀ヶ淵の怪獣譚は取り上げそこなっていた。このサイトでは、学習院に出現した怪獣(実はプロテ星人Click!)や、湘南海岸に上陸した怪獣(マリンコングClick!)など、いろいろな怪獣をご紹介しているので、やはり下落合に出現した怪獣を紹介しないわけにはいかない。さっそく、江戸期に記録された怪獣サイについて調べてみよう。
 河川沿いに犀ヶ淵という地名が残り、そこから怪獣サイが上陸して人々を襲った・・・という伝承は、江戸東京では荒川流域にもあるようだが、およそ全国的に展開する怪獣譚のようだ。下落合では人は襲われておらず、どうやら怪獣に睨まれただけですんだようなのだが・・・。では、以前のコメント欄で益田様も引用されている、江戸期に書かれた釈敬順『十方庵遊歴雑記』(江戸叢書刊行会版)の巻之中、第64「拾遺高田の拾景」から少し長いが引用してみよう。
  
 一、 犀が淵の月光といふは、田島橋の下にして、此淵に悪魚住て今も猶もの凄し、左はいへ逆流に目明の胗腫(しんしゅ)たる風色又一品たり、去し文化十一年申戌の夏楽山翁は家族六七輩を同道し、此川筋に釣せんとして不図爰(ここ)に来り、川端に彳(てき)して逆流の一際すさまじく渦まくよと見へしが忽然として水中より怪獣あらはれたり、その容體(ようてい)年経し古猫に似て大さ犬に等しく、惣身白毛の中に赤き処ありて、斑に両眼大きく尤丸し、口大きなる事耳と思ふあたりまで裂、口をひらき紅の舌を出し、両手を頭上へかざし、怒気顔面にあらはれ、人々に向ひて白眼(にらみ)し様なり、水中と岡と隔といへどもその間僅(わずか)三間余、頭上毛髪永く垂下りて目を覆ひ、腹と覚しきあたり迄半身を水上へ出し、しばらく彼人々々を見詰にらみしかば思ひもふけず恐怖せし事いふべからず、耳はありやなしや毛髪垂覆ひし故見へ定ざりしが、頓て水中へ身を隠し失たりしと、若此時楽山翁のみならば、件の妖怪飛かゝりやせんと彌驚怖し宿所へ帰りて件の怪物を見しまゝ書きとゞめ、文を作り詩を賦して筥に収めたり、蓋彼怪獣の容軆を書きし様は獺(かわうそ)の功を経しものか、又世に伝ふ川童(かっぱ)なといふものにや、画にて見るさへ身の毛彌立(よだつ)ばかりぞかし、况(いわん)や思はず真の怪物にあひたる人をや、珍説といふべし、然るに岡田多膳老人は如是と称して佛学を好めり、性として斯かる怪談を好るが物好にも心づよく、彼怪獣を見届んと両度まで独行し、彼処の川端に躊躇せしかど、出遇ざりしと咄されき、是によつて土人悪魚栖りと巷談す、しかれども月光の晴明にして雅景なるは一品なるものおや、
  
 目撃談をそのまま信じれば、ちょっと見は年を取ったネコのようだが大きさはイヌほどで、全身が白い毛でおおわれており、ところどころに赤い斑がついている哺乳動物らしい。両目は大きくてまん丸で、口が耳までクワッと裂けて赤い舌をチョロチョロさせ、両手を頭の上にあげながら釣り人たちを威嚇している。頭からは目が隠れ、耳が隠れるほどの長い毛がたれ下がっていて、しばらくすると人々を襲わずに水中へそのまま姿を消してしまった。
 長髪で目が隠れていたのに、なぜ睨んでいたとわかるの?・・・とか、耳が見えないのに口が耳あたりまで裂けていたとどうしていえるの?・・・とか、あまりうるさいことは追及せず、素直に神田上水の怪獣サイを再現してみると下の拙図のようになる。(爆!) ・・・神田川のゆるキャラか?
十方庵遊歴雑記.jpg 下落合犀.jpg
上戸塚村絵図(江戸後期).jpg 下落合村絵図(江戸後期).jpg
 頭上の特徴的な皿や、背中の甲羅が見えないので、当時の人たちがイメージしやすかったカッパClick!ではなさそうだ。両手を頭の上にかざしている仕草から、ニホンカワウソの動作とも思えない。そもそも、ニホンカワウソの体色は白に赤い斑点など入っていない。身体を水面に浮かせて両手を上にあげる、突然変異をした白いラッコが、江戸期の神田上水にいたとも思えないので、なにか別のものにちがいない。そもそも、ほんとうに生き物だったのだろうか?
 この紀行文では、犀ヶ淵が田島橋の「下(しも)」=下流域ということになっている。田島橋に新宿区が設置してる、田島橋や一枚岩の由来を記したプレートには、犀ヶ淵や鳥居ヶ淵は田島橋の上流ということになっているようだが、『江戸名所図会』の記述から解釈したものだろう。同誌の記述をそのまま記載している、1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡誌』から引用してみよう。
  
 一枚岩 下落合の神田上水白堀通りにあり、夏時水量減ずるの日は一堆の巨巌水面に現はれ濫水巌頭にふれて飛灑(ひさい)す、此流に鳥居ヶ淵、犀ヶ淵等その余小名多し、此辺秋夜幽趣あり、古は夏は蛍、秋は月の名所として著はれ居たりといふ。
  
 鳥居ヶ淵や犀ヶ淵が、田島橋の上流にあるとされている一枚岩あたり・・・とは、どこにも書かれていない。文章は明らかに区切られ、「此流に」(この流域に)は鳥居ヶ淵と犀ヶ淵などの小名が多く存在している・・・とされている。したがって、同じ江戸期に記録された『十方庵遊歴雑記』を踏襲するなら、少なくとも犀ヶ淵は田島橋の下流域に存在したことになる。位置的には、田島橋から下流へ神田上水が大きく北へとカーブを描く、どこかの“淵”ということになるのだろう。
 川の流れが急激なカーブを描くと、水流が岸辺に突き当たって乱れ、場所によっては渦を巻く危険な流れができることは知られている。江戸期の田島橋の位置をみると、まるでバイオリズムの波形のように湾曲を繰り返す神田上水(旧・平川Click!:ピラ川=崖川)の、ちょうど波底のような位置にあった。現在の田島橋は、昭和初期にスタートした旧・神田上水の整流化工事により、上流・下流ともに直線状になっているが、江戸期には大きく蛇行を繰り返す上水道専用の河川だった。
落合村1911.jpg 北斎漫画「水犀」.jpg
下落合事情明細図1926.jpg
 田島橋の少し上流には水車小屋があり、この水車は昭和初期まで製粉工場として機能していた。この水車をすぎるあたりから、神田上水は大きく南へと湾曲し、田島橋のある波形の“波底”へと激突する。そして、今度は北へと急激に蛇行し、旧・高田馬場仮駅Click!のあった西側あたりで再びカーブを描いて、清水川方面へと南下している。つまり、田島橋は蛇行する神田川の大きなふたつの波形の“波底”に位置していることになる。そう考えると、流れに危険な渦巻きができるのは、田島橋をすぎて次のカーブへとさしかかるあたり、昔の地番でいえば田島橋のすぐ下流の下落合67番地、あるいは下落合36番地あたりの流域ということになるだろうか。
 犀ヶ淵は、「サイ」という怪獣が住むから怖いところだ・・・という伝承は、この流域は流れが複雑で危険な場所だから近寄るな・・・という、江戸期以前からの教訓から生まれたフォークロアであり、代々の地名ではなかったか。「サイ」(サイェ:saye)は、原日本語(アイヌ語に継承)で「巻・渦」の意味そのものだ。つまり、流れが渦巻く「サイ」の場所だから気をつけろという教訓が、後世に伝説の霊獣「犀」と結びついて付会伝説が生まれた・・・そんな気が強くするのだ。
 しかし、それではバンザイする化けネコClick!のような生物は、はたしてなんだったのだろう? 枝つきの腐った流木が、渦に巻きこまれて直立し怪獣サイに見えたのだろうか。それとも、田島橋から誤って落ちた大きな白ネコが身体を岩にぶつけて出血し、それが「助けてニャ!」と前脚をあげて水中でもがいていた・・・とでもいうのだろうか? それにしては、耳が見えずに長髪だったのが解せないのだが・・・。楽山翁が描いたという怪獣サイの絵は、いまどこにあるのだろう。
神田上水02.JPG 神田上水03.JPG
神田上水04.JPG 神田上水05.JPG
 このエピソードは、リアルタイムではなく文化年間の昔話として語られている。当然ながら、同時代で報告された記事なら、即刻、楽山翁と「家族六七輩」は水番所にしょっぴかれて厳しい詮議を受けただろう。神田上水は御留山Click!と同様、江戸市民の水道水Click!御留川Click!であり、そこで水浴したり野菜を洗うことはおろか、川魚を捕ることさえ幕府から禁じられていたからだ。

◆写真上:田島橋の下流で、大きく北に湾曲した神田上水の跡は、現在もほぼそのままの形状で道路として残る。犀ヶ淵があったあたりと思われる、旧・下落合67番地の界隈。
◆写真中上上左は、釈敬順『十方庵遊歴雑記』(江戸叢書刊行会版)の内扉。上右は、同誌の記述から怪獣サイを再現してみると、およそわけのわからないこんな生き物になる。は、江戸後期に作成された上戸塚村絵図()と下落合村絵図()にみる田島橋。
◆写真中下上左は、1911年(明治44)に作成された「豊多摩郡落合村」地図。上右は、葛飾北斎『北斎漫画』に描かれた「水犀」。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる犀ヶ淵があったと思われる田島橋下流の界隈と撮影ポイント。
◆写真下上左は、田島橋から下流域を眺めた現在の様子。神田上水の流れは、画面左手から大きく北へと湾曲していた。上右は、下流の清水川橋から上流の田島橋方向を眺めたところ。下左は、道路になった旧流跡の終端は緑地になっていて現在は神田川へと抜けていない。下右は、田島橋から上流域を向いて夕暮れの神田川を眺めたところ。

佐多稲子と昭和初期の戸塚・落合生活。

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窪川稲子邸跡界隈.JPG
 窪川稲子(佐多稲子Click!)は、下落合のすぐ南の上戸塚に住んでいたせいで、落合地域の作家や画家たちとの交流が深い。1958年(昭和33)から出版がはじまった『佐多稲子作品集』(筑摩書房)の第15巻には、「戸塚から落合へ」と題する随筆が収録されている。本書は、三岸アトリエClick!の2階にあった資料の山を整理していたときに見つけたもので、そのままお借りして読んでいる。佐多稲子が三岸節子Click!へ直接贈ったもので、本書の内扉には佐多稲子のサインが入っている。おそらく三岸節子も、かつて本書を読んだのだろう。きょうは少し長い記事だが、当時の落合地域とその周辺を的確に描写している作品なので、ていねいにご紹介したい。
 「戸塚から落合へ」は、佐多稲子がいまだ窪川鶴次郎と結婚をしていて窪川稲子を名のっていた時代、戸塚町上戸塚593番地に住んでいたころに書かれたものだ。佐多稲子は、淀橋区(現・新宿区西側の一部)が気に入っていたらしく、生涯の多くを新宿界隈ですごしている。早稲田通りが見える、当時借りていた2階建ての住まいの様子を、「戸塚から落合へ」より引用してみよう。
  
 戸塚の端れに住みついてあしかけ七年ばかりになる。家の前は、露路を出ればすぐアスファルトの大通りで、これは左は高田馬場から早稲田へ通じ、右は小滝橋を経て落合中野へ出る路である。小滝橋を渡らずに左へ折れれば新宿方面へ向う。このアスファルトの大通りをへだててやや高く戸山ヶ原Click!があり、兵隊さんの演習をする銃声Click!など聞えてくる。家の裏側は、うちのもの干し場からのぞむと近所の屋根を越して遠く下落合の丘Click!が緑に茂つて見えている。その間を高田馬場から川越方面へ出る西武線Click!がとおり、郊外電車らしいピイポウという警笛を伝わらせてくる。神田川という古い川が線路の手前に流れていて、これは江戸川から水道橋の方へ落ちてゆく。/表の大通りにはこの一年ばかり前から市バスが通じ、絶え間なく円タクも走っていて、ガソリン臭い風を吹き寄せてくるし、夜中には自動車の疾走する音の数で時間が分った。深夜の流し円タクが禁止されてこの音と時間の関係が少し変わってきたのもはっきり分る。
  
 早稲田通りには、佐多稲子お気に入りの花屋と銭湯があったようで、花屋のほうは当時は上落合2丁目740番地から目白町3丁目3570番地の武蔵野鉄道・上屋敷駅Click!近くに引っ越した中條百合子Click!(宮本百合子Click!)や、早稲田通りの斜向かいにあたる上戸塚866番地に住んでいた藤川栄子Click!と連れ立って出かけているようだ。銭湯は、佐多稲子の家から早稲田通りをはさんで向かい側、戸塚町上戸塚763番地で営業していた黒塗りの板塀が目立つ「中乃湯」のことで、花屋のほうは佐多稲子の家がある側、上戸塚591番地に開店していた銅張り商店建築の「増田屋」のことだろう。稲子の家から花屋までは、わずか20~30mほどしか離れていない。
  
 大通りには私の近所自慢にしている花屋と銭湯がある。大きな銭湯で、明るいしきれいだし、それもいいのだが自慢しているのは、ここへくる浴客に美しい人の多いことなのだ。(中略) 私はこの銭湯のしまい風呂へよく馳け込んでゆく。花屋の方は、いつも新しい花があつて安い。これは私の喜びでさえある。目白にいる中条百合子さんは私の家へ来ると、どうせ帰り時間は夜の十二時を過ぎたりするにちがいないから、まず先きに花を買っておいて、それから話すという具合だ。それでも台所のバケツにつけておいた花は帰るときにはつい忘れられたりするのだが。/この花屋の善さは私と中条さんだけが認めているのではない。近所にいられる藤川栄子さんも御ひいきである。藤川さんのお宅は大通りの向い側で、バスの停留所をひとつだけへだてている。
  
中乃湯.jpg 増田屋.jpg
 特に、藤川栄子と佐多稲子は近いのでしょっちゅう行き来していたらしく、文学や美術をめぐって話は尽きなかったようだ。藤川栄子は、二科の彫刻家・藤川勇造Click!と結婚する以前、いまだ坪井栄(えい)の時代に早稲田大学文学部へ3年間も通った聴講生であり、もともとは文学を志して東京へとやってきている。だから、近所の佐多稲子や上落合549番地に住んでいた壺井栄Click!と、すぐに親しくなれたのだろう。彼女たちは、仕事の合い間にお互いを訪ねあいタバコ(ゴールデンバット)をくゆらせながら、情報交換や芸術論に花を咲かせていた。このあたり、女性ネットワークとは強固なものであり、一度しっかりと基盤ができてしまうと生涯にわたりつづいていくようだ。少しあとに、この“女縁”には藤川栄子を通じてだろう、三岸節子Click!が加わることになる。
  
 「窪川さん、いらっしゃいます」/ちよつと関西なまりがアクセントにあつて、二階にいても私はすぐあゝ藤川さんだ、と気づく。降りてゆくと、大きな新聞紙に包んだものを抱えている藤川さんは、黒地に、青と黄とえんじの大きな縞のある着物をきて、朝の化粧がすんだ、という美しい顔で笑つている。歯がきれいだ。/「これ、筍、どう、食べます」/重いのが私の手に移される。「花を買いに来たから、ちよつと寄つてみた」/それから、二人はバットを吹かしながらいろんなことをしやべりまくる。絵のこと、文学のこと、映画のこと、子供のこと、着物のこと、知人友人の誰かれの噂。そして自分たちの気持ちのこと。/「もう、いやになつて寝てばかりいるわ」/「あんまり言わないで頂戴。私もその組なんだから」/と、私が言う。藤川さんはすぐ肯定して、/「そうね、窪川さんもよく寝ているらしいね」/藤川さんの曜子さんとうちの達枝もお友達で、ときどき訪問し合う。私も藤川さんのアトリエで、画集など見せて貰つたりする。
  
 佐多稲子は、あまり知人宅を訪れないといっているが、その人物が困難な事態に陥っているとき、あるいは孤独で精神的に追い詰められ、誰かと話したがっている切実な状況を迎えているとき、つまり“肝心なとき”にまるで相手の心情を見透かしたように、なぜかフッと姿を現わして相談相手になっている。彼女の周囲にいた人々の著作をみると、なにか困った状況へ追いつめられたときに佐多稲子が姿を見せる・・・というシチュエーションが、少なからずみられるのだ。これは、彼女がしじゅう周囲への気配りや配慮を欠かさなかった証左であり、年上の女性からでさえ佐多稲子が「姐御」と頼られ、慕われた大きな要因なのだろう。
 本人にはそのつもりがないのに、なにかの集まりや組織、集会などでは佐多稲子が常に中核の位置へおかれてしまうのは、彼女のそのような性格によるものだと思われる。それは、さまざまな困難に立ち向かってきた“苦労人”としての人格形成と、それによって培われた人に対する独特の“やさしさ”からくるもののようだ。文芸評論家の山本健吉が、「佐多稲子さんの印象」と題するエッセイを、同全集第15巻の月報13号(1959年8月)に寄せているので引用しておこう。
佐多稲子作品集第15巻1959.jpg 佐多稲子サイン1.jpg
佐多稲子プロフィール.jpg 上戸塚593番地.jpg
  
 私がまだ大学生時代のころ、すでにナップClick!の新進詩人として名をなしていた伊藤信吉君は、いろいろナップの文学者についての印象を私に語ってくれたが、彼によれば、宮本百合子は「可愛い女」であり、佐多さんは「美しい姐御」であった。女丈夫宮本百合子がどうして「可愛い女」であるのか、これは主としてあの丸まっちい童顔から来ている印象だろう。だが、宮本よりずっと若いはずの佐多さんが姐御であるのは、ずいぶん苦労を重ねてきた経験がおのずから発散する、人への思いやりがあるからだろう。
  
 「戸塚から落合へ」では、ほかにも落合地域に住んでいたさまざまな人々が姿を見せる。村山籌子Click!が、内職でシェパードのブリーダーをしていた様子も記録されている。生まれたシェパードの子犬を、下落合2108番地の当時は流行作家だった吉屋信子Click!の家へ、無理やり「押し売り」に出かけた経緯は、村山亜土の想い出とともにこちらでもご紹介Click!している。村山籌子なりに考えた、資金調達のための「リャク」Click!のオリジナル形態なのだろう。
 上落合の古川ロッパ邸Click!や、吉武東里邸Click!の近くに住んでいた神近市子については、残されている資料が少ないので、少し長いが稲子の同随筆からできるだけ引用してみよう。
  
 小滝橋を渡らずに左手をちよつと右の奥へ入つたところについ先頃まで中野重治さんと新協の女優さんの原泉子Click!さん御夫婦がいて、ここは古い友達なので、まるで毎日のように往来していたが、泉子さんが身体を悪くしたので世田ヶ谷の閑静なところへ越していつたから淋しくなつた。泉子さんお得意のお萩も貰えなくなつた。/この先きに高田せい子さんの舞踏研究所がある。(中略) 小滝橋を渡ると、村山知義Click!さんの家、神近市子Click!さんの家がある。以前の村山さんのお宅へは私もよつたことがある。知義さんのお留守の頃で、奥さんは、立派なセパードと同じ部屋にいられたが、昔この家が建つたときは新聞にも出た珍らしいClick!で、ドイツの表現派の舞台を見るような感じだつた。(中略) 神近さんも畑をつくつていらつしやると聞いたが、この頃暫くお目にかからない。西武電車の線路にむかつた静かないい場所だ。/線路の向うには、林芙美子さんのお住いもある。いつか林さんの出版記念の時、方面が同じなので、酔つている林さんを送つてゆくように私が言いつけられ、門口まで送つた。門を入ると小さいだらだら坂と、傾斜のある前庭などのある、別荘風の洋館Click!である。中へ入つたことはない。(中略) 私はあまり他所のお宅へうかがわない性質で、この前友人録で書いた壺井栄さんと繁治さんのお宅も落合で、近いのだがそこへさえめつたにゆかない。/目白の中条さんへときどきゆく許り。ここは高田馬場から一駅で、隣り近所のうちに入るだろう。実は今夜も中条さんの家で十二時まで話し込んで帰つてきたところである。
  
 近所をあまり訪問しないと書く稲子だが、戦争の足音が高まるにつれ、彼女は友人知人宅をよく訪れては情報交換やおしゃべりをするようになり、それは戦後もずっと変わることはなかった。
吉屋信子邸1929.jpg
 その後、戦争が激化する中で“女縁”の結束はますます固くなったようだ。特高Click!による検束と釈放を繰り返しながら、彼女たちは情報交換や芸術観の“おしゃべり”を決してやめようとはしなかった。誘い合って落合地域を自由に闊歩する彼女たちの姿は、特高にはきわめて目ざわりだったにちがいない。でも、戦後すぐに病死した村山籌子を除き、彼女たちが本格的に表舞台で活躍をはじめるのは、1945年(昭和20)8月15日以降の時代を待たなければならなかった。

◆写真上:戸塚町4丁目593番地(上戸塚593番地)の、窪川稲子(佐多稲子)邸跡の現状。
◆写真中上は、稲子の家から早稲田通りをはさみ上戸塚763番地で営業していた「中乃湯」。は、稲子の家から歩いて1分余で着いたと思われる上戸塚591番地の花屋「増田屋」。早稲田通りの商店街イラストは、いずれも浜田煕「昔の町並み」より。
◆写真中下上左は、佐多稲子から三岸節子に贈られた『佐多稲子作品集』第15巻。上右は、同書の内扉に書かれた佐多稲子の贈呈サイン。下左は、大正末と思われる佐多稲子のプロフィール。下右は、1929年(昭和4)に作成された「戸塚町全図」にみる上戸塚593番地。
◆写真下:1929年(昭和4)に、下落合2108番地の吉屋信子・門馬千代邸で撮影された作家たち。右から左へ窪川稲子(佐多稲子)、吉屋信子、宇野千代Click!林芙美子Click!

1930年協会から独立美術協会へ。

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独立美術研究所.jpg
 当サイトは、落合地域で暮らしていた画家たちを中心に取りあげてきたので、従来はどうしても「目白バルビゾン」Click!などと呼ばれた、中村彝Click!などを中心とする大正初期から中期にかけての画家たち、そして大正末から昭和初期にかけての、里見勝蔵Click!前田寛治Click!小島善太郎Click!木下孝則Click!佐伯祐三Click!らが結成した1930年協会Click!に関する記事が多くなっている。だが、佐伯祐三(1928年歿)や前田寛治(1930年歿)の死後、1930年協会が1930年(昭和5)にほとんど自然消滅的に解散し、その流れを受けて同年11月に結成された独立美術協会Click!については、いままであまり触れてはこなかった。きょうは、1930年協会から独立美術協会への流れを、改めて整理する意味で記事を書いてみたい。
 独立美術協会の中心的な画家だった、児島善三郎のご子孫の方から山本愛子様Click!を通じて、同協会の貴重な写真類をお送りいただいた。1枚は、1930年(昭和5)11月1日に独立美術協会が結成された当時、会員全員による記念写真であり、もう1枚は1933年(昭和8)に第3回の独立展が開かれた東京府美術館前に勢揃いした会員写真であり、最後の1枚はめずらしい写真で、杉並町田端(現・杉並区荻窪)へ1931年(昭和6)2月に開設された、独立美術研究所で学生たちに教える、林武Click!と児島善三郎の姿をとらえたものだ。前身の画会である1930年協会も、1928年(昭和3)3月に代々木山谷160番地へ学生たちを集めては絵を教える1930年協会研究所を開設していたが、そこでの授業風景をとらえた写真は残されていない。
 1930年協会の結成は、目白の小石川区高田老松町4番地(現・文京区目白台1丁目)の二科の画家・埴原久和代邸内にあった、円鳥会Click!が成立母体となっていることはすでに記事にしている。もともと、萬鉄五郎Click!が中心になってスタートした画会だが、そのメンバーの顔ぶれを見ると、のちに1930年協会の前田寛治や木下孝則、木下義謙、小島善太郎、野口彌太郎、林武など主要な画家たちの姿がみえ、独立美術協会の児島善三郎もすでに円鳥会に参加していた。円鳥会の有志に里見勝蔵と、帰国したばかりの佐伯祐三を加え、1926年(大正15)6月の『中央美術』(第12巻6号)に前田寛治が宣言文を発表して、1930年協会はスタートしている。
 当初は前田寛治、木下孝則、小島善太郎、里見勝蔵、佐伯祐三の5名だったが、既成の美術団体である二科や帝展とは対立せず、同志の美術研究会のような趣きと姿勢で出発したせいか、公募を開始した第3回展から同協会の規模は爆発的に拡大していくことになる。その展覧会には、同時代を象徴するような代表的な画家たちが次々と入選し、昭和初期の美術界を席巻する勢力にまで育っていった。でも、佐伯祐三がフランスで死去Click!し、前田寛治が荻窪の前田写実研究所Click!で1930年(昭和5)に急死すると、同協会は求心力を急速に失うことになる。また、目標としていた5年後の1930年(昭和5)を実際に迎えたことで、一定の時代を画した終焉意識とともに、画家たちの間には“一段落感”もあったのだろう。1929年(昭和4)12月に、里見勝蔵と児島善三郎、古賀春江が退会すると、同協会は解散状態を迎えている。
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 1930年協会へ入会した画家、あるいは同協会で受賞した画家には、林重義Click!、林武、野口彌太郎Click!靉光Click!、井上長三郎、藤川栄子Click!佐伯米子Click!長谷川利行Click!中山巍Click!川口軌外Click!、鈴木亜夫、福澤一郎Click!、鈴木千久馬、伊原宇三郎、田中佐一郎などがいた。これらの顔ぶれを見ると、次に結成される独立美術協会のメンバーと、かなり重複しているのがわかる。
 さて、1930年協会にかわり、ボス的な権威主義や表現のマンネリ化、あるいは組織的な硬直化におこたっている既成の美術団体を否定し、そのどこにも属さない対立軸としての美術団体を設立しようとする動きが、1930年協会に参加していた多くの画家たちの間から出てくる。1930年(昭和5)には、里見勝蔵が既存の美術界との訣別と「独立」を標榜して二科会を脱退し、新たな画会結成へと動きはじめている。また、「独立」にはもうひとつ別の意味合いがあり、明治期にヨーロッパから輸入され模倣されてきた油彩画を、日本ならではの油絵へと脱皮させる、「ヨーロッパ絵画からの独立」という意味合いもこめられていた。
 このテーマは、大正初期から岸田劉生Click!によって提唱され、美術界には通奏低音のように流れていた古くて新しい表現課題であり、ヨーロッパ芸術の無批判で安易なコピーに対する「こんなもん描きゃがって、バッカ野郎! 殴ってしまう!」と、展覧会でステッキを振りまわして激怒Click!していた岸田劉生の芸術観が、1930年代にかたちを変え改めて登場した新たな取り組みでもあった。独立美術協会で、後者のテーマをおもに追求しつづけたのが児島善三郎だった。
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 独立美術協会の批判が二科会に向けられたのは(おそらく国が芸術を管理運営する帝展は論外だったろう)、同協会の創立に参加した画家のうち三岸好太郎Click!(春陽会Click!)と高畠達四郎(国画会)を除き、残りの全員すなわち林重義、林武、伊藤廉Click!、川口軌外、小島善太郎、児島善三郎、中山巍、里見勝蔵、清水登之、鈴木亜夫、鈴木保徳が二科の画家だったからだ。13名の会員でスタートした1930年(昭和5)11月、独立美術協会の「独立宣言」を引用してみよう。
  
 独立宣言
 茲(ここ)ニ我々ハ各々(おのおの)ノ既成団体ヨリ絶縁シ独立美術協会ヲ組織ス、以(も)ツテ新時代ノ美術ヲ確立セム事ヲ期ス (カッコ内は引用者註)
 趣 旨
 此度私達は種々の私的事情を押し切り結束して独立する事に到りましたのは、現画壇に私達の芸術を闡明(せんめい)し新しき時代を実現したい希望の他何物もないのであります。/私達は各々の所属団体の優遇に満足し感謝する時ではなく、私達の芸術及び精鋭な新人たちの活躍に依つて画壇を少なくも十年二十年の時を短縮し、飛躍させる事を信ずるのであります。/今や全画壇の大家老ひ、中堅は安逸を貪り無意味なる常連作家への擁護に依つて、新人は飛躍を阻害され、新興気運は頓に阻害され、以つて疲労と沈滞を来たしてゐる事はすでによく御承知の通りと思ひます。/茲に私達はあらゆる弊害を排して新芸術の研鑚開拓に邁進し新しき時代の実現に全力を尽す事を約束するのであります。
  
 「独立宣言」から1ヶ月余、1931年(昭和6)1月に独立美術協会の第1回展が東京府美術館で開かれ、いまだフランスにいた福澤一郎も加わり、会員は総勢14名となった。1933年(昭和8)には、渡仏していた野口彌太郎Click!が帰国して参加し、洋画界を席巻するにまで成長している。
三岸アトリエ1934.jpg 三岸アトリエ水蓮池.jpg
 さて、ご子孫の方から貴重な写真をいただいといて申しわけないのだが、三岸好太郎の死後に竣工した三岸アトリエClick!を、ある日、訪問していた児島善三郎は、好太郎がこだわってテラスに設計した水蓮の池に、酔って足をすべらせドボンしている。コンクリートの四角い池はかなり深く、どうやら全身くまなくズブ濡れになってしまったようだ。それ以来、三岸好太郎・節子夫妻の長女・陽子様Click!によれば、「お池に落ちた児島のおじちゃん」として今日まで語り継がれている。w このほか、独立美術協会には面白いエピソードがたくさんあるのだが、それはまた、別の物語。

◆写真上:1931年(昭和6)2月に杉並町田端へ開設された独立美術研究所の授業風景で、中央には学生たちに教える児島善三郎(右)と林武(左)の姿がみえる。
◆写真中上:1930年(昭和5)11月1日に結成された、独立美術協会の創立メンバー13名の記念写真。福澤一郎はパリにいて、翌1931年(昭和6)1月に参加している。
◆写真中下は、報道された独立美術協会の会員紹介。は、1933年(昭和8)に東京府美術館で開催された独立美術協会第3回展の記念写真で、福澤一郎や野口彌太郎の姿もある。
◆写真下は、1934年(昭和9)に竣工した三岸アトリエのテラス脇にあった池の位置。は、三岸好太郎のアトリエ完成予想画に描かれた水蓮の池。

ご子孫“同窓会”のようなバーチャル世界。

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笠原吉太郎「風景A」.jpg
 先日、外山卯三郎Click!のご子孫である”次作”様、および笠原吉太郎Click!のご子孫である山中典子様Click!より、相次いで貴重な資料をお送りいただいたのでご紹介したい。先年の「佐伯祐三―下落合の風景―」展の際、江崎晴城様Click!を通じて曾宮一念Click!の長女・夕見様Click!三岸好太郎・節子夫妻Click!の長女・陽子様Click!および孫の山本愛子様Click!、そして山本様を通じて児島善三郎Click!のご子孫などのみなさまから、貴重な資料や写真類を提供いただいており、さながら当サイトが落合地域をベースにした1930年協会、あるいは独立美術協会へ参加していた画家たちの、ご子孫“同窓会”のような楽しい雰囲気になっている。
 外山卯三郎のご子孫である”次作”様からは、外山卯三郎と詩人・野口米次郎の長女・野口一二三(ひふみ)との結婚式の資料をお送りいただいた。結婚前の一二三夫人は、下落合679番地の笠原アトリエへ絵を習いに通っていた笠原吉太郎の弟子のひとりであり、徳川邸Click!のある西坂のすぐ山麓、下落合1146番地に自宅および自身のアトリエClick!があった外山卯三郎とは、笠原邸で出逢っている可能性が高い。同時に、一二三夫人は1930年協会の画家たちと、笠原吉太郎や外山卯三郎を通じて知り合っていると思われる。
 のちに、1930年協会の後継画会である独立美術協会に関連する記念写真に、同協会の画家たちに混じって外山卯三郎のみならず、一二三夫人の姿が見られるのもそれをうかがわせるのだ。田上義也の設計で、外山夫妻が井荻にライト風の家を建てて新婚生活をスタートしたとき、近くには下落合630番地から転居してきた里見勝蔵Click!も、ほぼ同時に家を建てて住んでいる。
 外山卯三郎のご子孫である”次作”様によれば、井荻の杉並区神戸町114番地にあった外山邸は、戦時中、空襲で直撃弾を受けて炎上しており、全焼した焼け跡の中から発掘されたのが、外山卯三郎と一二三夫人の結婚式における記帳簿だった。結婚式は、1928年(昭和3)11月3日に帝国ホテルで、与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻の媒酌で行われている。記帳簿は、挙式あるいは披露宴に出席した人々の名前が連著されているが、これはほん一部であり列席者のすべてではいだろう。文学関係の出席者が圧倒的に多いのは、一二三夫人の父が高名な詩人だったせいであり、その中には挙式の翌月(同年12月)に1930年協会の会員となる中山巍(たかし)の名前があるが、ほかの主要画家たちが見あたらず、この記帳簿がほんの一部であることをうかがわせる。
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外山夫妻結婚式2.jpg 外山夫妻結婚式3.jpg
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 1928年(昭和3)の当時、同じ建築家に依頼し、井荻の神戸町の数軒隣りへいっしょに家を建てるほど親しかった里見勝蔵Click!の名前が見えないのは、記帳簿のほかの部分が焼失してしまっているせいだろうか。この年、佐伯祐三Click!が生きて帰国していたとすれば、米子夫人Click!とともに当然式へ出席していたはずだ。結婚式が行われた11月といえば、下落合1146番地の外山卯三郎アトリエへ、佐伯の第2次滞仏作品が船便で日本へ到着し、そのほとんどが搬入された10月から、わずか1ヶ月しか経過していない。下落合661番地の佐伯アトリエClick!は、佐伯からアトリエを借りた鈴木誠Click!が仕事に使用しており、佐伯の第2次滞仏作品を保管するスペースがないため、ほぼ全作品が下落合1146番地の外山アトリエで保存されている。外山夫妻の挙式のときも、ひょっとすると外山アトリエには佐伯の作品がいまだ山積みになっていたのかもしれない。このとき、外山アトリエを訪れた人々は、おそらく目を見はっただろう。
 さて、記帳の名前を追っていくと、笠原吉太郎に関連のあると思われる「笠原光子」の名前が見えている。さっそく山中典子様へお訊ねしたところ、笠原吉太郎の長男・義男様の妻である光子夫人であることが判明した。ひょっとすると、光子夫人と野口一二三は笠原吉太郎について絵を習っていた、お互い弟子仲間だった可能性もある。あるいは、笠原家へ通ううちに野口一二三と光子夫人は急速に親しくなったものだろうか。笠原光子とは別に、現存する記帳簿には見えないが、一二三夫人の師である笠原吉太郎と美寿夫人Click!の署名も、どこかにあったにちがいない。
笠原吉太郎「風景B」.jpg 笠原吉太郎「風景C」.jpg
笠原吉太郎「風景D」.jpg 笠原吉太郎「室内風景」.jpg
 笠原吉太郎の孫娘にあたる山中典子様からは、笠原作品の貴重なカラー画面をお送りいただいた。親族が集まってパーティを開いた際、ホテル内で行われた笠原吉太郎ミニ展覧会での陳列作品を撮影した写真とのことで、ほとんどモノクロでしか見ることができなかった笠原作品を、カラーの画面でみることができる。風景や静物、室内をモチーフにした画面だが、風景画は描かれた人々の風俗や建物の様子などから、中国旅行(「満州」)における一連の作品群のようだ。それに対して、静物画や室内風景は、下落合の笠原アトリエで描かれたもののように思える。ちなみに、笠原吉太郎は1933年(昭和8)に、「満州」でも個展を開催している。
 風景画には、モチーフに道路土手へうがたれたとみられるコンクリートのガードや、寺院ないしは廟と思われる古い伽藍、レンガ造りの住宅の隣りでなんらかの商いをする店舗、川をまたぐ鉄橋や河川敷の鉄塔などが描かれている。どこか異国情緒が感じられる画面なので、昭和初期に「満州」へ旅行したときのスケッチをタブローにしたものだろう。
 作品の中で、フラッシュが反射して見にくい画面なのだが、居間ないしは寝室のように見える洋室を描いた室内作品は、笠原邸の内部を描いたものだろうか。手前と奥には椅子が置かれ、床にはマガジンラックないしはワゴンのようなものが見えている。正面にあるドア横の壁には、コートか浴衣のような衣類が架かっている。風が室内に吹きこんでいるのだろうか、画面右端のカーテンがややふくらんでいる。射光は左手前からあたっており、左手には大きな窓があるとみられる。
笠原吉太郎「静物A」.jpg 笠原吉太郎「静物B」.jpg
笠原吉太郎「静物C」.jpg 山中典子様.jpg
 外山卯三郎・一二三夫妻は、結婚後しばらくは下落合にいたようだが、翌1929年(昭和4)に井荻の新居が完成すると、さっそく引っ越している。杉並区神戸町114番地に田上義也の設計で竣工した外山邸は、以前にこちらでもご紹介Click!しているが、どうやら敷地の場所をまちがえていたようだ。1930年(昭和5)に発行された「井荻町全図」の地番採取に、すっかり騙されてしまったらしい。外山邸は、先に特定した敷地の北側に建っていた可能性が高い。ひとつは、現存する外山邸の外観写真が、空中写真にとらえられた邸と一致しないこと。ふたつめは、外山邸が空襲で全焼したことが判明したのだが、以前に特定した邸は戦後まで焼けていないからだ。外山邸の貴重な写真類も入手しているので、このテーマについてはまた、改めて記事に書いてみたい。

◆写真上:中国北部(旧・満州)の、街角を描いたとみられる笠原吉太郎『風景A』(以下仮題)。
◆写真中上上左は、1978年(昭和53)1月25日に外山卯三郎が75歳の誕生日を迎えた際、戦災で焼けた邸跡から発見された一二三夫人との結婚式の記帳簿について記した覚え書。上右・中は、文学界のそうそうたるメンバーの署名が並ぶ記帳簿。その中には、おそらく一二三夫人と仲よしだったとみられる笠原光子の署名も見える。下左は、1930年協会のスポークスマン的な存在だったころの外山卯三郎。下右は、笠原吉太郎の画弟子だった一二三夫人。
◆写真中下上・下左は、1932年(昭和7)ごろに中国の風景を描かれたとみられる笠原吉太郎『風景B』『風景C』『風景D』。下右は、笠原邸の室内を描いた可能性がある同『室内風景』。
◆写真下上・下左は、筆を使わずペインティングナイフのみで描かれたマチエールClick!がよくわかる笠原吉太郎『静物A』『静物B』で、大量の絵具を消費する厚塗りの描写だ。下右は、いつも貴重な資料をお送りいただく笠原吉太郎・美寿夫妻の三女・昌代様の長女・山中典子様。

波乱万丈だった聖母坂のパン屋さん。

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聖母坂上.JPG
 1937年(昭和12)ごろ、下落合の聖母坂Click!を上りきったところに、「梅屋」という屋号のパン屋が開店した。経営していたのは、20年におよぶ欧米での海外生活を終えて帰国した、星野新吉とろく(緑)夫人だった。米国から帰国の直後、夫妻は下落合2丁目679番地の笠原吉太郎Click!美寿夫人Click!が暮らす、いわゆる笠原アトリエClick!に身を寄せている。
 星野新吉は、笠原(星野)美寿の弟にあたり、星野銀治・はま夫妻の子どもたちの中では異色な存在だった。また、新吉の妹である星野喜久(改名後に百合子)は、のちに南原繁Click!と結婚して笠原アトリエの南70mほどのところ、下落合(2丁目)702番地に暮らしている。星野新吉夫妻は帰国後、星野家の人々が集合して暮らしていた「群馬村」とでもいうべき、八島さんの前通りClick!(星野通り)沿いに落ち着き先を探したものだろう。
 1935年(昭和10)の5月、星野夫妻は米国の長い旅から帰国するのだが、同年7月9日に発行された東京朝日新聞にその様子が掲載されている。少し長いが、記事全文を引用してみよう。
  
 親子六人三千マイル ボロ自動車の旅/不況の風に米大陸横断
 アメリカの不景気風に吹き捲られてニユーヨークからロサンゼルスまで三千三百マイルをボロ自動車で飛ばして逃げ帰つた日本人夫婦----主人公は慶大出の星野新吉氏(五〇)と緑さん(四二)といふインテリ夫婦、伯父にあたる英国ロンドンで古くから名の知れた錦絵商故星野健氏を頼つて渡英したのが明治四十三年、今から二十六年の昔だ ◇星野氏は支配人として郊外の美しい住宅から下町の店に通ひ夢の様な新婚の日を過ごしてゐたが欧州大戦後に世界を襲つた不況の風は遂に夫妻の生活を揺り始め伯父の健氏の病歿でホシノ商会が英国人の手に渡る頃には夫婦は窮迫の底に落ち、昭和三年、遂に住みなれたロンドンを落ちのび愛児を連れて敗残の身をアメリカに渡りニユーヨークのブルツクリン橋のほとりね海軍工廠裏で廠工相手の一膳めし屋を開業した。/此の裏町で日本のオコメと魚のフライの「天どん」が評判になつたが何分一日十五ドル位の売上では高い家賃と生活費に追はれて八年の歳月も空しく志に背き本年五月、故国に錦ならぬ二十五年間の放浪の慈ひを求める事となつた ◇五月十六日朝ね店を売つた四百ドルを懐中に夫婦と四児の一行六人は八十五ドルで買入れたナツシユの古自動車で想ひ出のブルツクリン橋にサヨナラした/汽車で横断すれば家族全部で千ドル近く掛かるアメリカ大陸を食費及びガソリン費共一日十ドル以内で切り上げようといふ寂しい自動車の旅だ。テキサスの沙漠を横ぎり寒村のキヤムプに一宿一飯を重ねて十三日目の廿八日夕刻、無事にロサンゼルスに到着/自動車を百ドルで売飛ばして船賃を工面し漸く故国の土を踏み本月初旬、義兄の東京市淀橋区下落合二ノ六七九洋画家笠原吉太郎氏方に一まづ二十五年の旅塵を洗つた 夫婦は目下渡米中の岐阜の社会事業家、日本育児院長五十嵐喜廣氏の斡旋で山形県庄内に新設される孤児ホームにアメリカで辛酸を積んだ生きた社会学を生かすため奉仕の生活を意識してゐる
  
 記事は面白半分で、ずいぶん失礼な書き方をしているのだが、ブルックリンに開店していたおそらく小さな食堂のことを、江戸期のような「一膳めし屋」と表現して揶揄するなど、どこか記事にはハナから星野夫妻を蔑んだ視線がみえる。むしろ当時、クルマでニューヨークからロサンゼルスまで、北米大陸を家族づれで横断した日本人がいたとしたら、そちらのテーマのほうがよほど取材しがいのあるニュース性の高い出来事だったろう。ちなみに、星野健のことを記事では「伯父」と書いているが、星野銀治・はま夫妻の弟にあたるので「叔父」が正しい。
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 東京の(城)下町Click!に生まれた深川娘の川島ろく(緑)と、慶應大学理財科を出て間もない星野新吉が結婚したのは、1913年(大正2)10月だった。英国のロンドン大学スクール・オブ・エコノミーに留学していた新吉が一時帰国した際、ふたりは結婚している。なかなか子どもができなかった夫妻は、その気楽さから外遊に出るのだが、それが波乱に富んだ長い長い欧米生活のスタートだとは、当時のふたりは予想だにしなかっただろう。
 当初、ロンドンのハイホルボン街にあった星野商会は、日本のオモチャを輸入・販売して順調な経営をつづけていた。この間、キリスト教徒だった星野新吉は、英国が発祥地だったボーイスカウト運動に力を入れ、屋敷へスカウトたちを招いて宿泊させたりしている。でも、1923年(大正12)9月に関東大震災Click!が起きると日本の工場が壊滅し、オモチャの輸入がストップしてしまう。経営が立ちいかなくなった星野商会は人手にわたり、一家は米国へわたることになる。ろく夫人と結婚後、15年たってロンドンで長男が生まれ、米国では双子の姉妹と次男が誕生している。米国では、雑貨商や日米時報社へ勤務したり、先の「一膳めし屋」と書かれた小さなレストランを経営していたようだ。でも、米国人相手に天丼では、思ったほどに売り上げが伸びなかったらしい。
聖母坂1936.jpg 聖母病院北1938.jpg
 星野新吉の豪胆ぶりを伝える、ブルックリンでのエピソードが残っている。「一膳めし屋」を開いていたとき、無銭飲食をして逃げた男を追いかけ殴り合いになった事件があった。新吉は相手を打ち伏せたのだが、あとで男は近隣では有名なボクシングの選手だったことが判明している。大陸横断中では、居眠り運転でクルマが土手に落ちこんでしまい、通りがかりのトラックに引き上げてもらうのだが、ドライバーへの謝礼金がないため、以降、トラック会社の看板をクルマのうしろにつけて大陸横断をつづけることでカンベンしてもらったらしい。また、銀紙でキラキラ光る折り紙の「鶴」をこしらえて、米国人に高く売りつけるなど、新吉の行状にろく夫人は端で見ていてハラハラさせられどおしだったようだ。
 星野夫妻は帰国して2年後、できたばかりの国際聖母病院Click!のある聖母坂上へ、「梅屋」というパン屋を開店した。でも、思ったほど売り上げが伸びず、ほどなく閉店している。余談だけれど、1990年代の初めぐらいまで、聖母坂の上には小さなパン・ケーキ屋が開店していた。神田精養軒Click!の美味しい食パンを扱っており、わが家ではときどき買いに出かけたのだが、聖母坂沿いのビル化が進むと同時に閉店してしまったのが残念だ。
 最後に、1994年(平成6)に出版された星野達雄『からし種一粒から』(ドメス出版)から、星野新吉・ろく夫妻の想い出を語る記述(夫妻の娘に取材したものか?)を引用してみよう。
  
 新吉の生き方は決して世の中に順応したものではなく、それに対する評価と批判はかなり落差の激しいものだったろうと思います。受け入れるものと、はじき出す人とは極端に分かれたでしょう。/ろくはそのような新吉の意志と意見に終生逆らうことはなかったと思われます。新吉のその日その日、一歩一歩を助ける一生だったのかも知れません。/普通の日本人なら到底考えられないようなニューヨークの場末でも店に出ていたし、山形の孤児院でも自分の子どもよりも施設の子たちの面倒をみていたほどだったと、娘はその幼い頃の記憶をのべています。/米国時代の知人はとても仲の良い夫婦だったと言っているそうですが、新吉は、妻と家族に対する愛情と責任は決して放棄することはなかった。遅い子持ちと時代の波(もっといえば敬愛する父親銀治の死)が一家を順境に置かなかったのです。
  
星野新吉・ろく夫妻.jpg 「からし種一粒から」1996.jpg
 星野新吉は、戦争が終わった3年後に勤務先で倒れ62歳の生涯を閉じた。また、ろく夫人は夫が死去してから14年後の1962年(昭和37)に68歳で病没している。笠原美寿Click!は、ろく夫人をときどき訪問していたようで、夫人の晩年は落ち着いた幸福な暮らしだったようだ。

◆写真上:聖母坂の上、星野新吉・ろく夫妻のパン屋「梅屋」があったあたりの現状。
◆写真中上:1935年(昭和10)7月9日の東京朝日新聞に掲載された、星野夫妻の帰国記事。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる聖母病院北側の様子。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同所で採取された建物のいずれかが「梅屋」だろう。
◆写真下は、ロンドン時代に撮影されたと思われる星野新吉・ろく夫妻。は、1994年(平成6)に出版された星野達雄『からし種一粒から―星野るいとその一族―』(ドメス出版)。


虫だらけの下落合このごろ。

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 今年は、例年にも増して昆虫類Click!がたくさん見られる。特に目につくのがアゲハやカナブンの類で、さまざまな種類の虫が花に群がっている。晩年の三岸好太郎Click!が見たら喜ぶだろうけれど、うちの女性たちが眺めたら卒倒しそうな光景だ。トンボの数も多く、久しぶりにおとめ山公園Click!の草原でウスバキトンボの大群を見た。
 セミの多さはケタ外れで、9月になってもまったくセミ時雨が衰えない。例年だったら、8月の後半になるとツクツクボウシの声が主流になり、ミンミンゼミやアブラゼミの声は少なくなるはずなのだが、まるで8月初旬並みの賑やかさのままだ。そして、もうひとつの特徴は、御留山Click!ヒグラシClick!の大合唱がもどってきたことだろう。いままでの下落合では、ヒグラシの声はそれほど多くはなく、朝夕たまに鳴いているのが聞こえるぐらいだった。ところが、拡大されつつある今年のおとめ山公園は、夕暮れとともにヒグラシの合唱がかまびすしい。
 また、セミの棲息には面白い特徴がみられた。下落合(現在の下落合のことで、このサイトの表現で多用する中落合や中井を含めた旧・下落合全域のことではない)の東部でも西部でも、夏にはヒグラシの声が響いていたのだが、今夏は下落合の西部でほとんど声を聞かなかった。つまり、ヒグラシは下落合東部の御留山Click!に集中して鳴いていた・・・ということなのだ。
 「落合秘境」と呼ばれた昔から、御留山Click!はヒグラシが群生するエリアとして知られていた。その数が目に見えて(耳に聞こえて)減ってきたのは、大気汚染や河川汚濁などの公害が話題になった1970年代ごろからだろう。1982年(昭和57)に出版された、竹田助雄Click!『御禁止山-私の落合山川記-』(創樹社)から、公園化する以前の夏を迎えた御留山の様子を引用してみよう。
  
 それよりも私には最前から森の奥から聞こえてくる蜩(ひぐらし)の群唱が気になって仕方がない、ところどころで一匹や二匹鳴く蜩なら珍しくはないが、戦後この方こんなにたくさんの蜩が一斉に鳴いている風情なんて初聞きであった。ここは何も彼もが昔のままなのだ、まことに閑静な雰囲気である。(中略) 真夏の林は一層昏い。陽は木の間を漉して斑かに落ちる。葉は熱を遮り、土は音を吸収する。その閑静な林に蜩が一入らぎやかなのである。私は樹々を見やった。根方で鳴いているのもおればすぐ側から不意に飛び立つのもいる。その一匹なんぞは慌てて飛び立って笹薮の中にとび込み、出られなくなって地べたでぱたついている。手を差し延べて捕え、軽く握ると蜩は、透明な翅を敏捷に振るわせて必死に逃げ出そうとする。私はそれを抓んで群唱の中に立っていた。林は厳然とその存在価値を主張し、こんな手近なところに、これほど生きている自然が横たわっていることを私は改めて知る。
  
 この御留山の情景は、竹田助雄が『落合新聞』Click!の発行しはじめた東京オリンピックClick!が開催される前々年、1962年(昭和37)ごろのものだ。おそらく、当時の「群唱」に比べたら、まだまだヒグラシの個体数は少ないのかもしれないが、御留山が「落合秘境」と呼ばれた1950年代の環境に、少しずつもどりはじめている風情を実感として味わえた、今年の暑い夏だった。
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 セミの声が少なくなった1970年代から、およそ40年前後の月日が流れ、下落合には虫や動物が増えはじめているようだ。神田川Click!には、ヤゴなど昆虫の幼虫が棲みつき、それをねらってアユなどの川魚Click!が遡上してきている。川の上空で捕虫する、黄昏どきのギンヤンマを見かけるのは何年ぶりだろう。わたしの家でも、ミンミンゼミが窓から部屋へ飛びこんできたのは初めてのことだ。また、ベランダの網戸にアブラゼミがたかって鳴くのも、これまでにないことだ。
 このように、例年に比べ虫たちが急激に増えるという現象は、大正時代にも落合地域とその周辺域で起きている。1905年(明治38)生まれの女性が、いまだ結婚する前のことだというから、おそらく大正中期ごろの出来事だろう。その年に急増した虫は、セミでもトンボでもなくガの幼虫、つまり大きな毛虫だった。並木道を歩いていると、毛虫たちが葉を食べるサーサーという音が、頭の上から響いてくるほどの大量発生だったらしい。
 女性にとっては悪夢のような、身の毛もよだつ体験を語る当時の証言を、1989年(平成元)に中野区教育委員会から発行された『続 中野の昔話・伝説・世間話』Click!から引用してみよう。ちなみに、同書は証言者がしゃべったままの口語体で記録されており、当時の東京郊外で話されていた東京弁Click!(今回は地付き女性)を知るには、またとない貴重な資料となっている。
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 (船で)荷物に付いて来ちゃったんですってね、蛾が。それで、日本に来てひろがっちゃってね。そうしてね、クヌギの林がね、夏は葉が茂って真っ青になるわけでしょ。それをね、葉っぱをみんな食べてってね、丸坊主なんですよ。そのねぇ、木の葉を食べる音がね、その下を通るとね、サーサと音がしてるの。虫が木の葉っぱを食べる音が。で、雨が降っているように、サーサと音がしてるの。それでね、葉っぱ一つなしに食べちゃってね、みんな空(から)坊主にしちゃってね。(中略) もう、道なんか歩けないの。虫が這って歩いて、気持ち悪くて。そいでね、ちょっとでも触ったら、黒い毛がついちゃうんですよ。それが、とげみたいに刺さっちゃう。痛いんですよ、刺されるとね。もう本当に、いやだったね、あれ。何年か、二、三年そんなの。初めには、たまにきゃ見なかったけど、その次の年には、いっぱいそこら中、もう道なんか、大きくなって巣を作ろうとしてね、そいでね、這って歩いてるんですよね。踏んじゃうでしょ。気持ち悪くってね。もうお勝手から寝床にまで入ってくるんですよ。それでね、今度あのぅ、役場でそれを退治しなくっちゃしょうがないってんでね、薬を掛けて歩いてね、そいで退治しちゃったら、そいでいなくなったけどねぇ、ほんとに恐ろしいもんだね。
  
 毛虫たちの食欲で、森林の繁みが丸ごと消滅してしまうほどの、すさまじい状況だった様子がうかがえる。おそらく、この毛虫は戦後の1970年代に各地で発生したアメリカシロヒトリの昆虫禍と同様、輸入された貨物のどこかに卵が付着していて、それが天敵のいない日本の環境で繁殖し、やがては大量発生に結びついたのだろう。
 当時の新聞をたどると、1917年(大正6)に各地で虫の大量発生が報じられているので、上記の出来事も同年だった可能性が高い。新聞報道では、演習中の陸軍兵士が次々と虫に刺され熱を出して入院したり、毛虫の大量発生により住民が被害を受けた記事があちこちに散見される。
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 今年は、玄関や庭先でヘビやヤモリを見かけない。例年なら、玄関先にはシマヘビが必ずチョロチョロ顔を出し、ときにはアオダイショウの幼体Click!やヤモリが家内へ侵入してくるのだけれど、今夏は一度も周囲で悲鳴を聞かなかった。これは裏返せば、危険をおかして人間が生活するテリトリーへあえて侵入しなくても、森や草原にエサが十分豊富にあったせいなのだろう。虫が増加すると、それを食べる小動物も増え、さらに小動物を捕食する肉食獣の個体も増えていく・・・という食物連鎖がうまく機能している環境、それが今年の夏だったのでしないか。ちなみに、このところタヌキを見ないが、「暑い夏は寝てすごすポン」と、もっぱら深夜に活動しているのかもしれない。

◆写真上:夏はミンミンゼミとアブラゼミが多い、野鳥の森公園の木洩れ陽。
◆写真中上:ウスバキトンボの群生がもどってきた、おとめ山公園の原っぱ。
◆写真中下は、家に飛びこんできたミンミンゼミの死骸。は、御留山に棲む主の1匹。
◆写真下上左は、おとめ山公園の弁天池。上右は、急斜面に建つ藤稲荷の本殿を裏から。下左は、御留山の山頂付近。下右は、セミの群唱がひときわ高い現・下落合西部の薬王院。
最後に、9月に入ってからわが家で録音した下落合サウンドをどうぞ。ミンミンゼミとアブラゼミの「群唱」に混じって、秋の訪れを告げるツクツクボウシの声が聞こえる。

日本初のマンガ講座講師は八島太郎。

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プロレタリア美術研究所跡.JPG 造形美術研究所(プロレタリア美術研究所).jpg
 先年、長崎町大和田1983番地(現・豊島区南長崎)にあった造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所Click!)のことをご紹介したが、そこに集った画家たちの風景作品をご紹介した記事Click!に、先年開催された八島太郎展実行委員会の山田みほ子様よりコメントをいただいた。それがきっかけで、八島太郎(岩松惇)について追いかけて調べていたところ、同研究所でマンガ講座Click!を担当していた講師こそが、八島太郎であることが判明した。
 八島太郎は、東京美術学校で体育の授業をサボッたことを非難した職員を殴って退学処分(宇佐美承Click!の証言による)になったあと、反戦活動などを通じておもにプロレタリア美術展で活躍し、同じく洋画家で妻の新井光子(八島光)とともに特高に検束されて長期拘留されたのち、1939年(昭和14)に夫婦で米国へ実質的に“亡命”した画家として高名だ。また、今日では絵本作家としてのほうが知られているだろうか。
 『烏太郎(からすたろう)』をはじめ、『あたらしい光』、『モモの仔猫』、『水平線は拓く』、『村の樹』、『あまがさ』、『海浜物語(浦島太郎)』、『道草いっぱい』・・・など、八島が描くいずれかの作品に接した方も多いにちがいない。戦後は、おもに絵本作家としても活躍し、その受賞歴から国際的に知られた数少ない日本の洋画家のひとりだ。米国の子どもたちが、八島太郎の絵本を読んで育った様子も、インタビューなどを通じ晶文社の出版物などでレポートされている。現在でも八島の作品群は、米国の児童図書館などに数多く収蔵されているそうだ。
 八島は戦前戦中を通じ、一貫して愚かで“亡国”的な侵略戦争に反対しつづけ、特に日米戦争中は日本人を野蛮視して「ジャップ」と蔑む米国人に対し、絵本を通じて軍国主義に染まってはいない大勢の日本人が存在していることをアピールし、多くの「まとも」な感覚や理性をもった人々が、恫喝や暴力、組織的な圧力によって沈黙させられ、また獄につながれていることを訴えつづけた。ちょうど、今日の北朝鮮内の状況を語る「脱北者」、あるいは中国内の抑圧を証言する「人権作家」のような役割を、米国でになっていたのが八島太郎の存在だろうか。
 当時、米国のマスコミは連日、メガネをかけた出っ歯の先天的「好戦民族」である「ジャップ」が、日本刀を振りまわして蛮行を繰り返すマンガを掲載していたが、八島はそれに対峙する表現活動をさっそく米国でスタートしている。そのときの自身の想いを、1978年(昭和53)に晶文社から出版された『あたらしい太陽』(初出は1943年)の、「日本版によせて」から引用してみよう。
  
 (日本人が野蛮で好戦民族であるという)そういう雰囲気をもりあげるかのように、連日の新聞は、ロイド眼鏡馬歯の「ジャップ」を主人公とする漫画をかかげ、ハースト系タブロイド紙の第一面にはアメリカ飛行士の頭上に日本刀をふりかざした日本将校の写真が大きくかかげられていた。/わたしは絵画修業のために日本からきてまもなかったが、軍国主義擡頭の現実のなかで成人したのであり、それを阻止せんとする良心的智識人のひとりとなってもいた。したがって、日本の民衆が天性好戦的であるはずがないという主題をうちたてたい衝動を全身に感じていた。『あたらしい太陽』の構想は、ただちにはじめられていたのであった。(カッコ内引用者註)
  
 これらの状況は開戦直後、1942年(昭和17)の米国における八島太郎の創作活動だった。
八島太郎(岩松惇).jpg 八島太郎「あたらしい太陽」.jpg
 ちょうど、八島太郎が長崎町大和田のプロレタリア美術研究所で、マンガ講座の講師を受けもっていたころの記録が、1943年(昭和18)に書かれ1978年(昭和53)になってようやく日本語化された『あたらしい太陽』の中に登場している。美術展から、作品が次々と特高警察Click!によって没収、持ち去られる様子につづき、長崎のプロレタリア美術研究所が特高や憲兵隊Click!によって包囲され、破壊される様子が描かれている。当時の八島が、長崎や落合地域のナップClick!などで活動していた様子を、同書の巻末に収められた藤本祐子「八島太郎のこと」から引用してみよう。
  
 かれは運動の中で、さまざまな仕事にエネルギッシュにとりくんだ。展覧会には油絵、素描、漫画を出品し、美術研究所の講師をつとめ、『ナップ』『戦旗』などの表紙デザインや挿絵を担当した。かれはまた『プロ美術』と『美術新聞』の編集長でもあった。それらの雑誌に盛んに漫画を描き、漫画評論を載せている。こうした多忙な生活のなかで、文化学院油絵科卒業の同盟員、新井光子(本名・笹子智江)と結婚した。二十三歳であった。
  
 八島太郎(岩松惇)と新井光子(笹子智江)が出逢ったのは、1930年(昭和5)に長崎町大和田の造形美術研究所(同年6月よりプロレタリア美術研究所)へ光子が通っていたころだ。そのころの新井光子の様子を、千葉大学大学院社会文化科学研究科の吉良智子論文『プロレタリア美術運動における女性美術家に関する試論』から、その一部を引用してみよう。
  
 (新井光子は文化学院美術部で石井柏亭に油絵を学び) 卒業後、女子聖学院付属中里幼稚園で教師をしながら、プロレタリア美術研究所に入所し、絵画と運動を続ける。まもなく所業が分かり、職を追われる。1930年、光子は研究所で知り合った画家岩松惇<八島太郎>と結婚した。岩松は1908年、現在の鹿児島県肝属群根占町郷士の家に生まれた。絵画を志し、東京美術学校に入学するものの中途退学、やがてプロレタリア美術運動にひかれてプロレタリア美術研究所に入所後、漫画の講師を務めていた。(カッコ内引用者註)
  
岩松惇「勲章で買えるものと勲章で喰えぬもの」1929.jpg 岩松惇「侮辱的失業救済」1931.jpg
岩松惇マンガ1943.jpg
 同時に、決まりきってステレオタイプ化された、官憲の弾圧や抑圧に対する「嵐に抗して」「同志よあとは引き受けた」というような、「プロレタリア的」で運動のアリバイづくり的な抵抗・反対表現についても、およそ八島太郎は疑問を感じはじめている。このあたりの感覚は、戦後に書かれた岡本唐貴・松山文雄編著『日本プロレタリア美術史』(造形社)でも、表現を超えてイデオロギーがなによりも優先される、ないしは一定の思想に表現が隷属する美術とはなにか?・・・という、本質的なテーマで論じられていたりもするのだが、八島はそれが当局が推進する「戦争画」の“陰画”であることを、すでに感じはじめていたのかもしれない。ちなみに、同研究所の中心的な所員であり、のちに映画監督になる黒澤明Click!の師である岡本唐貴の子息が、マンガ家の白土三平だ。長崎地域は戦前戦後を通じ、マンガとのつながりが非常に濃厚な街だ。
 では、戦後にマンガ家たちが参集するトキワ荘Click!からわずか150mほど西に位置し、八島太郎が講師をつとめていた日本初(いや、師匠であるマンガ家への弟子入りや企業への就職を前提としない、純粋な履修・研究目的のカリキュラムを備えたマンガ講座としては、世界初かもしれない)のマンガ講座があったプロレタリア美術研究所が、特高や憲兵隊に襲われ破壊される様子を、『あたらしい太陽』から文章と挿画で引用してみよう。ちなみに、八島は同研究所のことを造形美術研究所ないしはプロレタリア美術研究所とは書かず、「新興美術研究所」と表現している。1943年(昭和18)の当時、米国内における「プロレタリア」という言葉に対する検閲・発禁ないしは拒絶反応を考慮し、あえて名称を変えて表現したものだろう。
  
 私たちの美術研究所の屋根の文字は、/誇らかに叫んでいた----/きたれ、学べ、新興美術研究所!
 満洲を襲った嵐は、しだいに国内にも吹きつのるようになった。展覧会では/部分訂正、画題変更が強要され、/たくさんの作品が撤回されるようになった。
 すべての会合は、/ものものしい官憲の垣根で囲まれ、/戦争という言葉を使っただけで、/検束された。 (カッコ内引用者註)
  
 作品には、プロレタリア美術研究所が警官隊に包囲され、所員が連行される様子が描かれている。この直後、憲兵隊により同研究所は破壊された。八島太郎(岩松惇)も、特高に10回逮捕されている。お腹に子どものいる新井光子も同時に逮捕・拘留されているが、妻が妊娠中の身体であるため八島が特高へ配慮を頼むと、そのぶん光子はよけいに担当刑事から殴られている。余談だけれど、このとき新井光子のお腹にいたのが、のちに俳優となる岩松信(マコ岩松)だ。スティーブ・マックイーンと共演した『砲艦サンパブロ』をはじめ、数多くの日米映画作品に出演している。
あたらしい太陽01.jpg あたらしい太陽02.jpg
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 1943年(昭和18)に、米国のヘンリー・ホルト社から出版された『あたらしい太陽』の反響は大きく、ニューヨーク・タイムズ紙が書評で取り上げたのを皮切りに、ニューズ・ウィーク誌は同書の一部をそのまま転載して紹介した。また、NBCは『あたらしい太陽』をラジオドラマ化して放送している。以来、米国では同作の原画展覧会や講演会の依頼が、八島太郎のもとへ相次ぐことになる。

◆写真上:現在はマンションの1階駐車場などになっている、長崎町大和田1983番地(豊島区南長崎)のプロレタリア美術研究所跡()と、破壊される前の同研究所()。
◆写真中上は、米国で活躍していた八島太郎(岩松惇)。は、1943年(昭和18)に米国で出版された『あたらしい太陽』で、写真は1978年(昭和53)に和訳された晶文社版。
◆写真中下は、いずれも岩松惇(八島太郎)の作品で1929年(昭和4)制作の『勲章で買えるものと勲章で喰えぬもの』()と、1931年(昭和6)に描かれた『侮辱的失業救済』()。は、1943年(昭和18)に『あたらしい太陽』に挿入された八島太郎のマンガ。
◆写真下:いずれも、特高による思想弾圧を描いた『あたらしい太陽』の挿画。「反戦」はおろか、しまいには「戦争」と口にしただけで社会主義者・自由主義者として検束された。

街歩きで、ぜひお願したいこと。

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 今年の5月から7月初旬ぐらいにかけて、下落合は街歩きがたいへん盛んだったようだ。平日・休日を問わず、あちこちで10~30人ほどで歩く団体を見かけた。数人で歩く人たちを加えたら、その数は膨大な人数となるだろう。落合地域が注目されていてうれしい反面、ルートの大半は一般の静かな住宅街なので、そこには守ってほしいマナーがあると思うのだ。
 街歩きの人たちは、なぜか郊外ハイキングClick!に出かけるような服装をしていて、地図や資料を手にしているのですぐにわかるのだが、都心の新宿区を歩くのだからふつうの服装でもいいじゃないか・・・という感想はともかく、総じておしゃべりがすぎるのだ。w 大人数だから、数人同士がおしゃべりをしても、閑静な住宅街では意外に大きく響く。ましてや、リーダーが列のうしろに向かって、「時間が押してますから、早めに歩いてくださーい!」などと大声をあげるのは、明らかにマナー違反だと思う。家の中にいる人は、言葉を明確に聞きとれるわけではないから、外で怒鳴り声のような音を聞いたら、不安になって窓から顔を出すだろう。
 わたしの家の近くも、いろいろな街歩きのコースになっているのか、たくさんの人たちが通過する。近くに残る下落合の畑Click!を見て、「ねえ、ちょっとちょっと、ナスやキュウリがなってるわよ~!」と黄色い声をあげるのは、新宿で畑を見つけること自体が異様な光景なので、まあ許せるとしても、畑の中に入ろうとするのは明らかにまずい。毎朝、S様がていねいに畝を耕し、草むしりや水やりを欠かさないたいせつな耕地へ、「土足」で踏みこむのはなんともいただけないのだ。白状するが、わたしも一度この畑裏の井戸が残る林へ足を踏み入れたことがあるけれど、それは逃げ出したネコを探しながら、もしかして古井戸へ落ちたのではないかと確認しに足を踏み入れたときだけだ。そのときも、畑のあるエリアへは近づかなかった。
 にぎやかにおしゃべりをしたいのなら、近くに人家の少ない公園や森の中、喫茶店などで存分にしてほしいのだが、寺社の境内や墓地で騒ぐ人たちがいるのも困ったものだ。近くの薬王院では、ボタンが開花すると毎年大勢の人たちがやってくるが、下の駐車場と参道階段の丘上とで「会話」しているのを聞いて、唖然としてしまった。「そこに、〇〇いる!?」「いないよ~!」「どこにいったんだ~?」「知らな~い!」と、当然、怒鳴り合いの「会話」になるのだが、それがとても異常なことだとは感じていないようなのだ。これらのマナー違反は、若い子たちのグループに多いかというと、実はそうではない。いい歳をした、分別ざかりの中高年の方々に多くみられる現象だ。
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 先日、杉並区の資料館へ立ち寄ったときに、杉並区教育委員会が作成した街歩きマップをいただいてきた。杉並区の街々を、テーマ別に歩くことができる便利な地図なのだが、そこに「文化財を散策される皆さんへ」と題した注意書きが掲載されている。その文面は、別に杉並区に限らず、どこの街角でも通用する“お約束”なので、ここにその全文を引用掲載してみよう。
  
 許可なく個人の敷地内に入ることは絶対にしないでください。
 文化財の所有者の迷惑とならないよう、十分に配慮してください。
 寺社の境内・墓地は、信仰の対象であり祖先祭祀の場です。特に墓碑の見学は、
  お寺や所有者の方々にご迷惑にならないようお願いいたします。
 文化財を破損するような行為は慎んでください。
 文化財のある場所やその付近では、火気の取扱いに、喫煙などは絶対にやめてください。
 一部の見学場所において地図上に注意事項を標記しましたのでお読みください。
  (事前の見学許可や敷地内立入り許可申請、住宅街なので静粛に等)
 団体で見学する場合は、前もって連絡をするようにしてください。
 掲載している文化財のうち、ご覧になれないものもあります。
 ルート上には交通量の多い場所もありますのでご注意ください。
  
 なんだか、遠足や修学旅行の注意プリントのような項目が並んでいるのが、なんとも情けないことこの上ない。これらの事項をわきまえない、いい歳をした大人たちが大勢いるのだろう。
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佐伯祐三アトリエ記念館.jpg 中村彝アトリエ記念館.jpg
 杉並区の教育委員会が作成した街歩きマップもよくできているが、最近お気に入りのマップを見つけたのでご紹介したい。それは、新宿にある東京都公園協会が制作したもので、江戸東京博物館運営委員会の専門委員である北大の越澤明教授が監修しているものだ。散策マップによく見られるコート系の用紙ではなく、シワや指紋、ヨゴレが目立ちにくいマット系の用紙を用いているのも、使用者に配慮した優れた仕様だと思う。サイズはA全の4色カラー印刷(八ツ折り)で、発色もコート紙よりも落ち着いており、手ざわりもしっとりとして使いやすい。
 千代田城Click!を中心に、日本橋や神田をはじめ東京の(城)下町Click!=旧市街地を全的に紹介しており、名所旧跡からいまに残る近代建築までが網羅されている。この地図さえあれば、下町の散策を効率よく楽しめるだろう。また、同地図が優れているのは、1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!と1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で、壊滅した街々を明示している点だ。どのように延焼が拡がり、多くの犠牲者を巻きこんで焼失していったのかを、視覚的かつ直感的に把握できるようになっている。わずか68年前、あるいは90年ほど前にそこで「なにが起きたのか?」Click!、散歩する足下にはなにが眠っているのかを知るよすがになるだろう。
 余談だけれど、この夏も「心霊スポット」とか「事故物件」などという言葉をよく耳にした。室町末期の古戦場跡に出る亡霊のたたりとか、仕置き場跡に残る処刑者の呪いとかいう類の、ありがちな怪談話なのだが(わたしもそのテの怪談話は、決してキライではないのだけれど)、死者の阿鼻叫喚からそれほど時間のたっていない、東京という街全体が「心霊スポット」であり、市街地が丸ごと「事故物件」であることを、決して忘れないでほしいと思うのだ。
みどりと歴史のお散歩マップ01.jpg みどりと歴史のお散歩マップ02.jpg
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 下落合の街歩きClick!は、わたしも三度ほどお引き受けしたことがあるのだが、みなさん住宅街や寺社を歩かれるときは静かに会話されていた。公園に着くと、少しにぎやかになって記念写真などを撮られていたけれど、それが街歩きの常識的な感覚だと思うのだ。いつから、小学生たちの遠足のように、あたりかまわず声高に騒ぐ街歩きのグループが登場したものだろうか?

◆写真上:四季を通じて、さまざまな野菜が実る下落合の畑地。
◆写真中上:下落合のいろいろな街角風景。
◆写真中下は、薬王院の森。は、佐伯祐三アトリエ()と中村彝アトリエ()。佐伯アトリエのカラーコピー画面が、ようやく中村彝アトリエと同様の「複製画」レベルに変更された。
◆写真下:東京都公園協会が、2012年(平成24)に発行した「みどりと歴史のお散歩マップ」。

画家と子どもたちのコラボレーション。

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 三岸好太郎Click!の長女・陽子様は、父親といっしょに絵を制作した想い出がある。現在でも、その絵はたいせつに保存され、訪問したときにお見せいただいた。作品は、画面に釘などによるスクラッチ(ひっかき)技法が見られるので、好太郎が近衛秀麿Click!新交響楽団Click!をモチーフにした、一連の『オーケストラ』シリーズを制作していた時期と重なっていると思われる。おそらく、1932年(昭和7)ごろだろうか。陽子様へのインタビューから、その証言を聞いてみよう。
  
 父が(アトリエで)仕事をしてるとき、子どもたちが近くで遊んでても、出ていけとはいわれなかった。(中略) わたしたちが“ひっかき”をやりはじめて、父もそれをマネしてやってたの。それから、『オーケストラ』ができたの。自分も好きでやってるのよ、もっとこう描け・・・とかね。だから、とても子どもはかわいがってくれました。怒ったりしたことない。(中略) ♪ヨーコにキョーコにパーコ~と、そこの角から、大きな声で唄いながら帰ってきたの。お酒は一滴も飲めなかったんですよ。
  
 連作の『オーケストラ』が制作される少し前、三岸好太郎はのちに作曲家であり、おそらく日本初の女性指揮者となる吉田隆子と恋愛関係にあった。吉田隆子は、激怒した三岸節子Click!に手をひっぱられ、三岸家の窮乏する暮らしを見せるために、鷺宮の第一アトリエへ連れてこられている。この好太郎の恋愛が終わると同時に、彼の表現は大きな変化を見せた。吉田節子(三岸節子)とよく似た育ちをしている、吉田隆子についてはまた改めて書いてみたい。
 吉田隆子のもとから、鷺宮アトリエへともどった三岸好太郎は、子どもたち相手にいろいろな遊びを考案している。いまでも陽子様の印象に残る人形劇もそうだが、その中にはキャンバスへ何色かの絵の具を重ね塗りし、それを釘でひっかいて線画を描くという遊びがあった。地層のようになった油絵の具の表面を、釘など先がとがったものでひっかくと、下塗りした絵の具の色が顔をのぞかせて面白かったのだろう。子どもたちは、夢中になってキャンバスをひっかいている。そのときの様子を、1969年(昭和44)に出版された田中穣『三岸好太郎』(日動出版)から引用してみよう
  
 カンバスに黒の下塗りをし、さらに白を重ねて、そのうえを釘やペン先でひっかく“ひっかき遊び”に、平和な一日を過ごすこともあった。子供たちは、まるい頭に細い胴体を直結させ、そこから横と下にのばした二本ずつの短い棒線で、人間を描きだす。その単純な線描の美しさに、好太郎も目をみはらずにはいられなかったらしい。/それからのヒントであった。好太郎はひとつの写真を子供たちに見せた。すでに遠くなったあの日、吉田隆子といっしょに聞きにいった音楽会のカタログで、見ひらき二ページに舞台上のオーケストラ楽団が撮されていた。スポットに浮かぶその演奏風景写真を見せながら、好太郎はとくいな口上を披露する。/「さあ、さ、ごらんよ。とっくりとごらんよ。お代はいらない。」/といった工合にだ。/「椅子に坐った兄ちゃん方が、なかよく楽器をひいてるね。これがバイオリン。うしろの兄ちゃんの背ぐらいあるでっかいのが、チェロ。おつぎがフリュートに、太鼓。舞台のいちばん前で、長くとがったお尻を向けて、棒を振っているおじちゃんがいるね。この魔法使いのおじちゃんの魔法の棒につられて、みんながいっしょに演奏をはじめると、さあて、どうなる? ピイ、ピイ、ヒョロ、ピイヒョロ、ドン。トドン、ドン。」/まず、そうやって、子供たちの視線を写真のうえに集めてから、カタログを閉じ、そこで子供たちをカンバスに向かわせる。
  
 三岸好太郎と陽子様たちのコラボ作品は、同じような方法で下塗りを終えたキャンバスが用意され、そこへ陽子様が好きな絵を描く。現存しているのは、おそらく第一アトリエの画室でキャンバスに向かう、父の三岸好太郎の姿を描いたものだ。
 中央にはキャンバスの載るイーゼルが描かれ、左手にブルーのルバシカ(?)を着た好太郎が筆をもって立っている。イーゼルの右手には赤い洋服の陽子様か、あるいは三岸節子がそれを見ているという構図だ。背景には、画室の北向き採光窓も描かれている。表面があるていど乾いたところで、父と子どもたちは画面をガリガリひっかいている。三岸好太郎もひっかきに参加しながら、1933年(昭和8)の独立美術協会第3回展へ向けた作品の構想を練っていたものだろうか。
三岸好太郎・陽子合作2.jpg 三岸好太郎・陽子合作3.jpg
 子どもがせっかく描いた絵に、画家がササッと手を入れて「完成」させたコラボ作品例もある。旧・下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)にアトリエをかまえた、刑部人Click!とその甥である炭谷太郎様Click!のケースがそれだ。炭谷様は、キャンバスにバラの静物を描いて、さっそく伯父の刑部人のもとへ見せにいった。ところが、せっかく完成したと思って見せた画面に、伯父はさっそく手を加えはじめたようだ。「できたので見せにいったら、ここはこう描くんだと、筆でどんどん手を入れられちゃってね。せっかく描いたのに・・・」と、いまでもちょっと口惜しい様子だ。
 キャンバスの画面を観ると、プルッシャンブルーへやや赤みが混じる背景に、ガラスの花瓶に生けたられた大輪のバラの花束が、ペインティングナイフも用いられたかなり厚塗りの手法で描かれている。刑部人は、「薔薇の刑部」といわれるほど、バラの花をモチーフにした静物画が多い。だから、バラが描かれた画面を見ると、つい自分の表現で「修正」したくなってしまったものだろうか。刑部人とバラについて、「刑部人のアトリエClick!サイトから引用してみよう。
  
 林緑敏氏の薔薇園から届く硬くたくましい棘のついた花は、茎の長い店売りの薔薇と違って、そのまま花瓶に挿すだけで絵になった。「林さんのばら、美しさいわん方なし」と手帳にまで記すほど、刑部は毎年この薔薇を心待ちにし、届くとすぐに妻・鈴子に生けさせ、アトリエへ籠もって描いた。
  
 刑部アトリエの隣家だった、旧・下落合4丁目2073番地の林緑敏(手塚緑敏Click!林芙美子Click!)邸=現・林芙美子記念館からとどくバラを、毎年楽しみにしていた様子がうかがえる。ちなみに、炭谷様がモチーフにしたバラの花束も、林家からとどけられたものだった。
刑部人「ばら(マジョルカの壺)」.jpg 炭谷太郎・刑部人合作.jpg
 子どもが描く絵に直接インスパイアされ、その技法やフォルムを自身の作品へ直接取りこんでタブローに仕上げてしまう・・・というコラボレーションは、別に三岸好太郎に限らない。旧・下落合4丁目2091番地のアトリエに住んだ松本竣介Click!にも、同じようなエピソードが残っている。子どもが描いた動物、たとえばゾウやウシ、セミなどの絵を正確にトレースしてタブローに仕上げている。その様子を、1977年(昭和52)に出版された朝日晃『松本竣介』(日動出版)から引用してみよう。
  
 こうした一連の“人物像”と、別に興味をひく一連の作品、しかも、サムホールの小品の一群が発表されていた。この一群の作品こそ、“人物像”以上に愛児の莞と密着している。この三人展に発表された『電気機関車』『牛』(略)『木炭自動車』『象』(略)は、タイトルからも連想されるように、小学校一年生の莞が父宛てに在り合わせの紙に鉛筆で絵を描き、送り届けたものから、竣介は完全になぞってカンヴァスに複写し、白い下塗りの上に子供の無心の線を再現して完成した。その線は、竣介の考案した絵具で、その筆線を引く材料も、やはり彼の考案したものが使用されている。この実験は、前年(1945年)の十二月四日付の手紙においても、「莞よりうまい絵が描きたい」などと書いていることから、すでに前年あたりから莞の絵入りの手紙を心待ちして試行を始めていたのであろう。その後疎開から帰宅した莞は、自分の送った乗物や動物の絵が、父のアトリエに父のデッサンと共に大切に保管されているのを見るが、同時にその線画の上には別の硬質の材料でていねいになぞった跡を見るし、その数点は現在でも残っている。(カッコ内は引用者註)
  
松本竣介『せみ』1948.jpg 松本莞『せみ』.jpg
松本竣介『牛』1943-46.jpg 松本竣介『象』1943-46.jpg
 松本竣介のケースは、厳密にいえばまったく同一のキャンバス面で行われたコラボレーションではなく、竣介が感動した息子の絵を「抽出」し、キャンバスへ改めて描きなおしているのだが、作品を見くらべる限り、モチーフのフォルムや線はそのままそっくり流用されている。あらかじめ固定化された、よぶんな知識や先入観、ステレオタイプ化された表現や思いこみから“解放”された、子どもたちが描く無我無心のフォルムや線に、画家たちは強く惹かれるものだろうか。

◆写真上:父親と陽子様たちが合作した、第一アトリエの画室で仕事をする三岸好太郎。
◆写真中上:画面の拡大で、人物から家具調度まであちこちに“ひっかき”が入れられている。
◆写真中下は、1970年代に制作されたと思われる刑部人『ばら(マジョルカの壺)』。は、炭谷太郎様と刑部人のコラボレーション作品『ばら』。
◆写真下上左は、1948年(昭和23)に制作された松本竣介『せみ』。上右は、その元となった松本莞『せみ』。は、ともに1943~46年(昭和18~21)制作の松本竣介『牛』()と『象』()。

目白の怖い夜。

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 三岸節子Click!に連れられ、鷺宮の第一アトリエClick!から西武電鉄Click!高田馬場駅Click!へと出て、駅前から市電に乗り換え江戸川橋で下りると、暗闇の新目白坂を母子4人で上っていった長女・陽子様の、1931年(昭和6)12月の大晦日も近い夜の証言から、まず聞いてみよう。
  
 (三岸好太郎と吉田隆子が)ふたりで、死のうとしたの。それでお母さん(三岸節子)が、取り返すのに子どもを3人連れて(新目白坂を)歩いていったの。「そんなことして、この子どもたちをどうするんだ!」っていって、がんばったわけ。それで止めたの。あのとき、(母の)歩き方がねえ・・・。みんな、やっぱり(子どもたちは)怖いのね、夜だし。それを引きずってさ、あのときはお母さんも凄かった。でも、初めて音楽を聴いたのが、あの人(吉田隆子を通じて)が初めてなんだから。それで、(吉田隆子に)連れてってもらったオーケストラを見て、あの『オーケストラ』の絵を描いたの。もう、音楽に心を入れちゃったわけ。 (カッコ内は筆者補註)
  
 1930年(昭和5)1月、三岸好太郎Click!は同じ札幌出身で後輩の洋画家・久保守の渡欧送別会に出かけて、音楽家をめざす吉田隆子と出会っている。隆子は、高輪(のち大久保百人町)の裕福な陸軍中将の家に生まれ、なに不自由なく育ったいわゆる乃手Click!の“お嬢様”だった。当時、花嫁修業に必要な習い事をすべて拒否し、ピアニストか音楽家になりたくて家族じゅうの反対を押しきり家を出ている。このあたり、同じく裕福な資産家の家に生まれ、洋画家になりたくて両親の猛烈な反対をふりきり、東京へやってきた吉田節子Click!(三岸節子)とそっくりだ。それぞれの伝記を読むと、吉田節子と吉田隆子は性格までが似ているような気さえしてくる。
 三岸好太郎と吉田隆子は、連れ立ってコンサートを聴きにいくうちに、ほどなく恋愛関係になった。好太郎の作品にも、1930年(昭和5)の『黄服少女』をはじめ、明らかに隆子を描いたと思われる人物画が登場してくる。のちに、おそらく日本で初めてオーケストラを指揮した女性となる吉田隆子は、好太郎を近衛秀麿Click!が率いる新交響楽団Click!の定期コンサートへ頻繁に誘ったようだ。余談だけれど、当時のオーケストラ編成は新響の写真を見ても、また三岸好太郎の『オーケストラ』(1933年)を見ても明らかなように、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンとが左右に分かれる、いま風な表現をするなら、いわゆる「マーラー演奏」型の構成だった。
 三岸節子は、吉田隆子が小石川区関口町にアパートを借りる前、まだ目白台の叔父の家で暮らしていたとき会いにいき、彼女を引っぱって鷺宮の第一アトリエへと連れてきている。病気がちな義母と結核の義妹、手術を終えたばかりの長女・陽子様が寝こみ、幼いふたりの子どもがいる三岸家の窮状をじかに隆子へ見せ、夫と別れてくれと頼みこんだ。でも、ふたりは別れなかった。吉田隆子が、鷺宮の第一アトリエを訪れたときの様子を、1989年(昭和64)に講談社から出版された林寛子『三岸節子 修羅の花』から引用してみよう。「Y」と表現されているのが吉田隆子だ。
  
 Yが私の家の暮らしぶりを見てびっくりするだろうと思いましたけれども、彼女はニヤニヤしているだけなんです。あの当時の、最も新しいタイプの女でした。/帰ると言って、帰って行きました。/好太郎はその日、独立美術の生徒を見てあげるために留守でしたが、結局、夜になっても帰りませんでした。鷺宮の駅でYが待っていて、連れて行ってしまったんです。
  
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 そのうち、三岸好太郎は1週間だけ吉田隆子といっしょに暮らしたい・・・などといって家を出たが、7日がすぎてももどってはこなかった。ふたりの危うい様子を察した節子は、当時、帰国してやはり目白にいた久保守へ、ふたりの様子に注意するよう依頼している。三岸家では、年末の集金人がひきもきらずに押しかけ、三岸節子はまったく途方に暮れていた。正月に作る、雑煮用の餅も買えないありさまだった。長女・陽子様が記憶される「目白の夜」を、1969年(昭和44)に出版された田中穣『三岸好太郎』(日動出版)に記録された、今度は三岸節子の証言から聞いてみよう。
  
 その日は大晦日でしたか、それとも、その一日前のことでしたか? 地図をたよりに江戸川橋から目白台をあがってゆきました。いまは椿山荘のある坂の右手の、佐藤春夫先生のお宅の近くだったように記憶していますね。三岸がかいていった通りの二軒長屋があって、まちがわぬようにことさら三岸が図に指定しておいた側の玄関に声をかけたのです。/が、返事はないんです。/手をかけると、スルスルとあいて、そこには霜どけのよごれが厚くこびりついた三岸の靴と、女ものの靴が片すみにぬぎ捨てられたままです。その冷えきったしずけさに、奇妙に背筋が寒くなってきて、と、なにか大変なことが起きているように、私には感じられてきて。/これも、直感なんでしょうね。/私は、あがりこんだあと土足に気がついたくらい、あわてて、ふすまをあけ、室のなかを覗きこみました。/頭からすっぽりとかぶったふとんのなかに、二つのからだが、しっかりと抱きあっていました。(中略) 手遅れだった!/ふとんをめくりあげてみますと、ひたいとひたいとを触れあったふたりの顔は、すでに蒼白に、硬直しているかのように見えたのは錯覚でした。よく見ると、ふたりはまだたしかに呼吸しているようなのです。/そのときでした。/うすく目をひらいた彼女が、私を見あげて、私とはっきりわかったのでしょう、笑いだしたのです。
  
 正確にいうなら、三岸節子がいう椿山Click!の藤田邸(現・椿山荘)へとのぼる坂道は新目白坂であり、このとき椿山につけられていた地名は「目白台」ではなく「関口台町」、佐藤春夫Click!が住んでいたところは小石川区関口町にあたる。佐藤邸の周囲は、奇跡的に戦災からまぬがれており、現在でも大正末から昭和初期の住宅を見ることができ、当時の風情を感じとれる。(冒頭写真)
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 ひとりでは立てないほどフラフラだった三岸好太郎は、円タクClick!で鷺宮へ連れもどされた。医者の往診による手当てを受け、発熱から正月の3日間を寝床の中で朦朧とすごした好太郎は、1932年(昭和7)1月4日に正気をとりもどしている。目の前に、吉田隆子ではなく妻の顔を認めると、「なあんだ、節っちゃんかい、どうした、こんなところに?」といってから、急に事情を思いだしたらしく、「ごめんよ、ごめんよ」と泣きだしている。
 吉田隆子は、好太郎との恋愛について自筆メモを残しているが、非常につれない。隆子のそっけないメモからは、好太郎がまるで「道化」のように思えてしまう。2011年(平成23)に教育史料出版会から出版された辻浩美『作曲家・吉田隆子 書いて、恋して、闊歩して』から引用しよう。
  
 さて、隆子は好太郎をどう思っていたのだろうか。「自筆メモ」には、「音楽に行き詰まり、M(好太郎)と退廃的関係」、「Mと遊ぶ」とある。好太郎の死についてもいっさい触れていない。別れ際の潔さやその後の鮮やかな転身ぶりを見ると、隆子の方が恋愛上手だったのかもしれない。
  
 また、1992年(平成4)に音楽の世界社から出版された『吉田隆子』(クリティーク80・編著)には、三岸好太郎に関連して、次のような吉田隆子の「自筆メモ」が収録されている。
  
 ようやく一人で音楽の勉強をする事を許され、田中家に下宿する(大久保の家解散す)。一方Mとのたいはい的交渉。しかしピアノの勉強熱中的也。作曲は全く五里霧中になる。/小石川、田中家にすみ、ピアノ、作曲を勉強するも目標を失い、一方Mとデカダンスの生活に沈む。
  
 吉田隆子は、好太郎がようやく“正気”を取りもどし、独立美術協会第2回展への出品を準備していた1932年(昭和7)の早春、中野重治Click!の妹・中野鈴子が書いた詩『鋤』へアルト独唱(男声合唱付き)の曲をつけ、作曲家として本格的なデビューをはたしている。そして、同年10月には人形劇団「プーク」でいっしょだった高山貞章と結婚した。(のち離婚) 翌1933年(昭和8)には、小林多喜二Click!が築地署で虐殺されると同時、『小林多喜二追悼の歌』を作曲している。
吉田隆子1.jpg 辻浩美「作曲家・吉田隆子」.jpg
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 その後、プロレタリア芸術運動に身を投じて、日本プロレタリア音楽家連盟(PM)の東京支部書記長に就任。特高Click!に何度か拘束され、戦時中は身体を壊して病臥することになるが戦後に復活、オペラ『君死にたもうことなかれ』など多彩な作品を残している。そして、吉田隆子の生涯の伴侶となったのが、好太郎の親友だった久保守の兄であり、劇作家で演出家の久保栄だった。

◆写真上:いまも旧・関口町に残る、大正末か昭和初期ごろに建設されたと思われる和館。
◆写真中上は、いたるところに湧水池がある椿山の現状。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる新目白坂界隈。この中に、三岸好太郎と吉田隆子がいたアパートがあるはずだ。
◆写真中下上左は、1930年(昭和5)に描かれた吉田隆子がモデルの三岸好太郎『黄服少女』(北海道立三岸好太郎美術館Click!蔵)。上右は、1923年(大正12)7月に札幌の「三人展」で撮影された三岸好太郎(左)と久保守(右)。は、1933年(昭和8)に制作され独立美術協会第3回展に出品された三岸好太郎『オーケストラ』(北海道立三岸好太郎美術館蔵)。
◆写真下上左は、1930年(昭和5)ごろに撮影された吉田隆子。上右は、吉田隆子の音楽CDも付属して彼女の全貌を知るには最適な辻浩美『作曲家・吉田隆子 書いて、恋して、闊歩して』(教育史料出版会)。は、1930年(昭和5)10月5日に日本青年館でオーケストラを指揮する吉田隆子。自作の『貝殻墓地』を演奏中で、ソリストは歌手の四家文子。

音楽好きな“タッタ叔父ちゃん”の最期。

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 わたしは音楽が好きなのだが、それを聞くためのオーディオ装置にも興味をもってきた。大きなエンクロージャに、ジーメンスのコアキシャルユニット(同軸2ウェイ)をぶちこんで自作したこともあるのだけれど、30代後半からは、クラシックはタンノイにJAZZはJBLへと収斂してきた。アンプは、上杉研究所のプリとATMのパワーとで、やわらかい管球式のものを愛用してきた。もっとも、アンプもスピーカーも家族に邪魔扱いされて、現在は音の嗜好もかなり変化してきている。サウンドに関する影響は、やはりJAZZとクラシックの双方を聴く『音の素描』の著書でも有名な、オーディオ評論家の菅野沖彦から影響を受けたものだ。もっとも、わたしは音楽のコンテンツが好きなのであって、決して機械好きではないのだが・・・。
 菅野沖彦は、マッキントッシュ(McIntosh)党として有名なのだが、わたしはとびきり高価な同社の製品には手がとどかない。だから、影響を受けたのは機器としてのオーディオではなく、音のとらえ方あるいはサウンドの味わい方・・・とでもいうべきだろうか。ちなみに、オーディオ好きな人が「マッキントッシュ」と聞けば、PCClick!ではなくアンプやスピーカーを一義的にイメージするだろう。わたしもアップル社から同機が発売されたとき、「なんで米国の老舗オーディオブランド?」と不可解に感じたのを憶えている。菅野沖彦は、どちらかといえばレンジの広大な伸びのある明るいサウンド(JBLやMcIntosh)でJAZZやクラシックを聴き、たまにまとまりのある同軸かワンホーンのスピーカーで、ヴォーカルや小編成ないしはソロのクラシックを楽しむのがお好きなようだ。
 そのパイプをくゆらすお馴染みの菅野沖彦が、三岸節子Click!と独立美術協会へともに参加し、戦後に「別居結婚」をしていた洋画家・菅野圭介の甥であることを、三岸好太郎Click!・節子夫妻の孫にあたる山本愛子様からうかがって、わたしはわが耳を疑った。しかも、鷺宮にある三岸アトリエClick!の螺旋階段で、三岸節子と菅野圭介の親族たちとともに、いまだ白髪ではなく若々しい菅野沖彦が写っている写真にも、改めて気がついた。この写真は、これまで何度も繰り返し別々の書籍や資料で見ていたのだが、おもに三岸節子と菅野圭介を注視していたため、まったく気づかなかったのだ。人と人は、いったいどこでどうつながってくるかわからない。
 菅野沖彦は、叔父の菅野圭介から大きな影響を受けたとみられる。音楽の趣味はもちろん、絵画を通じての芸術観や、ブライヤーパイプの趣味までそっくりだ。その様子を、わたしの本棚から1980年代末の愛読書だった、菅野沖彦『音の素描』(音楽之友社)から引用してみよう。
  
 私は小さい時から音楽が大好きだった。また大好きだった人の一人に“タッタ叔父ちゃん”と呼んでいた叔父がいたが、この人は絵画きであった。京都大学の仏文をあと数ヵ月というところで退学して、フランスへ行き、ブラックやフランドランに指導を受けて画家になった。独立美術協会の会員であった。/大変な音楽好きの叔父で、自分が絵を画く時には必ずといってよいほどレコードをかけていたようだ。ゆりかごに入っていた頃の私は、母が姑の仕事を手伝っていたため、いつも、この叔父にミルクと一緒に預けられていたらしく、家で仕事をする叔父が子守役を引き受けてくれたのだという。この叔父がレコードをかけると、きまって私は“タッター、タッター”と音楽に合わせて口ずさみ、ゆりかごをゆらせながら、遊んでいたところから、いつとはなしに“タッタ叔父ちゃん”と呼ぶようになったのである。/どう考えても、私の音楽への興味はこの頃の叔父の影響によるものらしく、音楽の想い出と、この叔父とは私の頭の中で結びついて離れない。「フランダースの古城」、「ノルマンディの秋」、「パイプと大きなコンポチェ」、「蔵王」、「安良里の海」などと題された叔父の作品も、この想い出とは切っても切れない。この叔父には、私の幼年期、少年期、青年期を通じていつも大きな影響を与えられ続けたのである。 (同書「道は遥かなり」より)
  
McIntosh_MC2102.jpg McIntosh_XRT22s.jpg
 菅野沖彦から、サウンドの味わい方について大きな影響を受けていると思われるわたしは、間接的に菅野圭介の趣味の影響を受けていることになるのだけれど、わたしは残念ながらこの画家が好きではない。作品は別にして、三岸節子と戦前の独立美術協会時代、あるいは戦後の「別居結婚」時代に彼女や子どもたちを殴ったり、長女・陽子様がこしらえた料理を気に食わずにちゃぶ台ごとひっくり返したりと、自立できていないメメしい男の代表選手のような行為を繰り返しているからだ。自身ではなにもしないで他者に寄りかかるが、人が作ったものや他者の行為・行動には不満や文句をいい、他人事ないしは傍観者的なヒョ~ロンをたれたりカンシャクを起こしたりするというのは、没主体的でヒキョーかつ情けない男に象徴的な行状だからだ。メシが食いたけりゃ、自分で好きなものを作ればいいだけの話だろう。
 ただし、わたしは菅野圭介の作品はキライではない。愛知の一宮市三岸節子記念美術館Click!の堤直子様より、同美術館で開催された貴重な『菅野圭介展』図録をお送りいただいた。さっそく拝見すると、彼の風景画には強く惹きつけられる。美術界では「マンネリ化した」といわれて冷遇され、画商たちにも見放された後半生の手馴れた表現のものがいいと思う。特に、茨城の鹿島灘の砂丘へ住みついていたとき、あるいは晩年に神奈川の葉山海岸にアトリエを建てて暮らし海を眺めながら描いた作品は、妙な技巧や衒気、“色気”などなくて素直でストレートに美しく、見とれてしまう。菅野沖彦は、好きな叔父のもとへ遊びにいくと、何度か繰り返し聞かされている。
  
 「芸術の勉強はアカデミックなものではない。音楽学校へ行くとか行かないとかいうことと、音楽家になるということは無関係だ。この叔父ちゃんを見ろ、絵の勉強に学校などへ行ったことはない。なる奴はなる。なれる奴はなれる」
 「同じことだ、絵も音楽も。しっかりした技術の裏づけがない芸術は人を感動させることはできないぞ。俺の絵だって、いきなり、あんなデフォルメされたものを描いているのではない。俺にもデッサンを猛勉強した時代もある。似顔だって画けるぞ。学校へ行くよりも一人で勉強することは厳しい。強制されずに自分を自分で訓練することはな。しかし、学校へ行ったって先生まかせで勉強できるものではないぞ。結局は同じことだ。音楽学校卒業、美術学校卒業なんていうのは、あんまの免状じゃないんで、音楽家や画家になることとは無関係のものなんだ」 (同上)
  
菅野圭介.jpg 菅野沖彦1988.jpg
 1968年(昭和33)3月に、菅野圭介は末期の食道癌のため何度めかの入院をする。病床で彼は、好きな音楽を聴きたいといいだした。つきっきりで看病していた、叔母(独立美術協会の洋画家・須藤美玲子で、のちに圭介のあとを追って2ヶ月たらずのうちに自裁)から、「タッタが音楽を聴きたがっているから、なんとか病室でレコードをかけられないだろうか」・・・という相談を受け、菅野沖彦はさっそく手持ちのレコードと小型のプレーヤーをもって、3月2日に駆けつけている。
  
 早速、私は小型の再生装置とタッタの好きなレコード、ショパンのバラードやマズルカ、そしてノクターンの数々、モーツァルトのピアノ・ソナタやピアノ協奏曲のいくつか、そしてベートーヴェンのピアノ・ソナタのアルバムを車に積んでかけつけたのであった。病室でのタッタは、まさに骨と皮という表現しかできないほど小さくなり、痛々しい有様だった。食べものは、すべて喉の途中からつながれた管で外へ出され胃にはなにも入らないという。 (同上)
  
 菅野圭介は、天井に白い紙を貼りつけて、病院のベッドに仰臥しながら空想のイメージで絵を描いていた。病院の天井も白くて四角だったのだが、改めて四角い有限の画面を設定しないと絵がイメージできない画家に、菅野沖彦は少なからずショックを受けている。
 菅野沖彦が持ちこんだレコードの中から、ベートーヴェンのピアノソナタ『月光』と、ピアノソナタ第32番(作品111 ハ短調)の第2楽章を繰り返し聴いては、白紙のキャンバスにイメージで絵を描きつづけていた。きっと、菅野沖彦のことだから気をきかせて、叔父の時代にはもっともポピュラーだったワルター・ギーゼキング盤(ベートーヴェン)やクララ・ハスキル盤(ショパン)など、叔父の耳馴れたレコードを持参したものだろう。菅野圭介は、菅野沖彦が音楽とともに見舞った2日後の3月4日に、天井のキャンバスへ心で絵を描きつづけながら死去している。まだ53歳だった。
「菅野圭介展」図録2010-2011.jpg 菅野沖彦「音の素描」1988.jpg
 わたしは学生時代、ヘタクソなJAZZピアノをいたずらしていたことがあった。メロディラインまではなんとか弾けるものの、いざインプロヴィゼーションになるととたんに支離滅裂で破たんし、メチャクチャになるという、とんでもない「フリーJAZZピアノ」だったのだが、その練習に使っていたのが菅野沖彦の弟である、JAZZピアニストの菅野邦彦が監修した教本だった。おそらく、菅野邦彦もまた、叔父・菅野圭介から多大な影響を受けていたと思うのだが、それはまた、別の物語。

◆写真上:冬になると、管球式のプリアンプやパワーアンプとネコの相性は抜群にいいようだ。
◆写真中上:マッキントッシュ社の代表的な製品で、パワーアンプのMC2102()とスピーカーシステムXRT22s()。ともに萱野沖彦好みのノビノビとした明るいサウンドで、ことにアンプのインジケータのカラーは「マッキンブルー」と呼ばれオーディオ好きの憧れだった。
◆写真中下は、戦後間もないころの撮影とみられる鷺宮・三岸アトリエの螺旋階段にすわる菅野圭介。は、1988年(昭和53)に自宅オーディオルームで撮影された萱野沖彦。
◆写真下は、2010~2011年(平成22~23)に横須賀美術館や一宮市三岸節子記念美術館などで開催された「菅野圭介展 色彩は夢を見よ」図録。は、1988年(昭和53)に音楽之友社から出版された菅野沖彦『音の素描』で、発売と同時に手に入れた憶えがある。

上落合の巨大なサークル跡を歩く。

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野毛大塚古墳1.JPG
 2009年(平成21)12月、4年ほど前の大晦日近くに上落合に残る巨大なサークルに気がつき、大急ぎで記事Click!を書いてアップしたことがあった。改めて計測すると、直径130m超はありそうな、明らかに人工物と思われるサークルが、現在の光徳寺境内にある墓地のあたりを円心として、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にハッキリとらえられている。それが、ずっとひっかかり気になっていたので、改めてサークルとその周辺を歩いてみた。
 上落合には、戦前まで「大塚」と呼ばれる字(あざな)が残っていたが、それが早稲田通りと山手通りの交差点付近にあった、直径30mほどの小塚(浅間塚古墳Click!)あたりにふられていた。これは、同古墳(円墳とみられているが、前方部を整地して浅間社を設置した前方後円墳かは未調査で破壊されているので不明)を表現した小字だと考えられてきた。でも、大塚と呼ぶにはあまりに小規模な、まるで陪墳(主墳に寄り添う家臣の墓)レベルの墳丘なのだ。都内に残る大塚という地名に由来し、そこに残る古墳ケースを挙げてみれば、自ずと違和感が生じてくる。
 たとえば、世田谷区野毛の小字「大塚」のもととなった野毛大塚古墳は、後円部が直径70m前後の帆立貝式古墳(簡略型の前方後円墳Click!)であり、墳丘の頂上は5階建てビルの最上階に匹敵する高さだ。発掘された周濠域まで含めれば、後円部だけでもゆうに100mを超える規模になる。このクラスであれば、大塚と呼ばれても違和感をおぼえないのだが、上落合の浅間塚は墳丘に富士山の熔岩が積まれて江戸期にかさ上げされ、富士講の信者たちから「落合富士」Click!と呼ばれていたにもかかわらず、大塚にはほど遠い規模のように感じられる。このケースは、「江古田富士」Click!の浅間社とまったく同じ経緯だ。
 さて、1936年(昭和11)の空中写真にとらえられたサークルは、なにがこのような黒っぽい写り方をしているのだろう。画面を拡大してみると、別になにかの影が写っているわけではなく、おそらく草原ないしは樹林のような緑地が、濃いグレーの帯としてとらえられているように見える。なぜ、このようにきれいな正円を形成しているのか? ひとつは、ここが湧水池ないしは湧水流の跡で、他の地表に比べ湿潤でぬかるんでおり、草木が繁茂しやすく宅地には適さなかった・・・という想定だ。では、どうして正円形の湧水池ないしは湧水流が必要だったかといえば、それは農耕用水に利用されたからではなく、なんらかの濠と考えたほうが自然だろう。事実、湧水源に近い位置に築造され、その流れを活用した古墳の周濠域にはときどき見られる現象だ。ただし、上落合の現場では、このサークル位置に濠を感じさせる凹地を記録した資料は残っていない。
 ふたつめの理由として考えられるのは、この円形のグリーンベルトが土手状に盛り上がっており、農地にも宅地にも適さず、そのまま草木が茂る急段差として残されていた・・・という想定だ。このサークルがあるのは、妙正寺川が流れる谷間へ向け北向きの段丘斜面上であり、その上にさらに盛り土をして正円形の人工構造物をこしらえた・・・ということになる。上落合は、下落合側に比べて宅地開発がやや遅れており、昭和初期までいまだ田畑があちこちに残っていた。ただし、田畑を開拓するには住宅街の造成とは異なり、一面の土地をすべてを規則的に整地して平地・均一化する必要はなく、平地化しやすいところのみを選んで開墾し、自然の段差はそのまま残されるケースが多い。したがって、草木の茂った落差(傾斜)の激しい土手状の段差には手をつけず、江戸期より開墾しやすいところをならして田畑にしていた・・・と考えるほうが自然だろう。
野毛大塚古墳2.JPG 尾山台狐塚古墳.JPG
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上落合サークル(前方後円).jpg 上落合サークル(帆立貝).jpg
 上落合のサークル跡を、実際に歩いて観察すると上記の想定のうち、おそらく後者の可能性が高いことがわかる。現在でも、この急傾斜の土手らしい段差をいくつかの地点で確認することができるのだ。もちろん、現在の地形は戦後のより規模の大きな宅地開発や道路整備を経ているので、空中写真にとらえられた段差と思われるサークルは、多くの場合ブルドーザーで整形され、ならされて跡形もない。だが、北向き斜面のところどころに、残りはわずかながら急に盛り上がる土手状の段差を、いまでも確認することができる。
 もうひとつ、面白い考古学的な調査報告書がある。この大きなサークルの北端部分において、1995(平成7)にマンションが道路をはさんで2棟建設されることになり、早稲田大学と新宿区教育委員会の調査団による発掘調査が行なわれている。のちに、「上落合二丁目遺跡」Click!と名づけられるこの遺跡調査で、古墳時代の住居跡が1棟(第15号住居跡)、ナラ時代の土坑(焼き物窯)が5坑(第2~第6土坑)、ナラ時代の住居跡14棟(第1号~第14号住居跡)が発掘されている。その出土位置をみると非常に興味深いのだ。まず、古墳時代の住居跡は、大きなサークルの外側(北西側)に位置している。つまり、このサークルが大規模な墳丘だとすれば、その山の北麓に住居が1棟あったことになる。住居跡は、上落合二丁目遺跡のA地区(上落合2丁目)と呼ばれた発掘エリアの西端にあり、そのさらに西側や南側にも集落がつづいているかもしれないのだが、現在は住宅街の下なので発掘して確認することができない。
 つづいて、ナラ時代の遺構がとても興味深い。まず、B地区(上落合1丁目)と呼ばれた発掘エリアの北寄りに2棟の住居跡があり、その周辺には土坑(窯)跡が4つも見つかっている。つまり、ナラ期に入って墳丘と思われる山の北麓(サークル外)に住宅が建てられ、周辺の墳丘斜面に焼き物を焼成する窯がいくつか設置されていた・・・ように見える。ひょっとすると、この2棟の住民は焼き物を専門に生産する土器師(かわらけし)だったかもしれない。土器師と同時期か、あるいはもう少しあとの時代かは不明だが、墳丘の一部を崩して整地し、そのひな壇上に12棟の住宅が建設されている。つまり、ナラ時代には南側にサークル(墳丘)を背負うかたちで、集落(ピンポイント的な発掘なので大規模か小規模かは不明)が形成されていた。
上落合二丁目遺跡A地区.jpg 上落合二丁目遺跡B地区.jpg
第15号住居跡.jpg 第15号住居跡出土物.jpg
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 あるいは、この時期に墳丘がすべて崩され、田畑や住居敷地に整形されてしまった可能性もある。上落合二丁目遺跡B地区の南側、すなわちサークル(墳丘)の中心部一帯は、これまで一度も詳細な発掘調査が行われたことはなく、集落が南へ向けて、すなわち斜面の上部へ向けて拡がっているかどうかは不明のままだ。ただし、この地域には戦前のエピソードとして、田畑を耕しているとさまざまな埴輪片や土器片が大量に出土し、それらを取り除くにはたいへんな労力が必要なため、そのまま畝の中へ鋤きこんで埋めてしまった・・・という伝承が残っている。いずれにしても、落合地域の高台や斜面は旧石器時代から現代までつづく、いずれかの時代あるいは通史的な埋蔵文化財包蔵地Click!である可能性がきわめて高い。
 また、江戸期に作成された「上落合絵図」には、気になる通俗地名(というか畑地名)が採取されている。光徳寺から少し南下した位置に、「窪畑」と呼ばれた畑地があった。ちょうど、サークルのすぐ南側一帯に接するエリアで、「くぼ」Click!と呼ばれているからには湧水源のある、文字どおり少し窪んだ畑地だったのだろう。では、段丘の北向き斜面であるにもかかわらず、なぜこの部分だけが窪地状にへこんでいたのだろうか? 窪畑は、江戸期までかろうじて残存していたサークル南側の、周濠の痕跡を示唆する地形を表わした名称のように思えてならない。
 上落合のサークルは、明らかにリングの東側が切れているので、前方後円墳ないしは帆立貝式古墳だと考えるのが自然だろう。帆立貝式なら200m弱、前方後円式ならゆうに200数十メートルの規模になる。東京では、円墳と伝承されている古墳が、戦後(おもに1980年代以降)の発掘調査で改めて周濠域が確認され、前方後円墳ないしは帆立貝式古墳とされるケースが続出している。その昔、「関東には円墳が多い」といわれていたのは、前方部が破壊された後円部だけを外から観察して「円墳」だと規定されつづけた、結果論的な解釈が多いことも指摘されている。先の野毛大塚古墳もそうだが、近接する御岳山古墳も長い間「円墳」だと規定されてきた。しかし、道路の拡幅工事で改めて周濠域が発掘され、前方後円墳に規定しなおされている。
 上落合のサークルが大規模な墳丘だったとして、それが崩された時期はいつだろうか? それを示唆する現象が、実は下落合側の鎌倉街道(雑司ヶ谷道Click!)沿いに観察できる。現在の下落合駅前にあった摺鉢山Click!だが、この墳丘と思われる山を迂回するために、鎌倉街道は南へ幾何学的な半円状のカーブを描いて敷設されている。同様に、中井駅の北東側を通過する鎌倉街道(中ノ道Click!)は、上落合のサークルとほぼ同規模の巨大なサークルを避けるように、北側へ少しはみだした円弧状のカーブを描いている。交通の効率や利便性を考えるのであれば、いまも昔もムダなく直線状に敷かれて当然の街道筋が、あえて幾何学的な円弧を描かざるをえなかったのは、そこに幾何学状の邪魔な“なにか”が存在していたと考えたほうが、むしろ自然だろう。
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 すなわち、鎌倉時代にはそこに巨大な墳丘が存在していたが、明治期を迎えるころにはすでに跡形もなく消えていた・・・という経緯になる。下落合に残る大規模な墳丘跡とみられるサークルは、おそらく室町期に崩されて農地あるいは住居地にされているのだろう。上落合のサークル痕として残る巨大な後円部の墳丘もまた、江戸期を迎える以前に破壊され、南武蔵勢力の「大王」Click!の存在を示唆する、芝丸山古墳なみの第1級の遺構が消えてしまった・・・と想像できるのだ。さて、大量の房州石Click!が、上落合のどこかに残ってやしないだろうか?

◆写真上:世田谷区に残る帆立貝式古墳(前方後円墳)の野毛大塚古墳を、前方部の周濠底から後円部墳丘を眺めた現状。都内では、めずらしく原形のまま保存・復元された古墳だ。
◆写真中上上左は、後円部頂上から前方部を眺めたところで高さは5階建てビルほど。上右は、周囲を住宅街に削り取られて「円墳」化したと思われる尾山台狐塚古墳の墳頂。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合の巨大なサークル痕で、円弧の中心には光徳寺がある。は、サークルから想定した前方後円墳()と帆立貝式古墳()の規模。
◆写真中下は、上落合二丁目遺跡のA地区()とB地区()の発掘状況。は、古墳期の第15号住居跡()と出土した素焼きの土器()。同住居跡からは、ガラスを溶融してこしらえたネックレスなどのビーズも出土している。は、遺跡とサークルの位置関係および撮影ポイント。
◆写真下:サークル跡の現状で③④には急傾斜が、には明らかに土手状の段差が残っている。下右は、ちょうど玄室があったとみられる位置が光徳寺の墓地。同寺の住職は戦後であり、戦前の無人寺を管轄していた最勝寺Click!は戦災で焼けているので記録は残っていない。


五郎久保稲荷が御霊社であってみれば。

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 以前、このサイトで民俗学的なアプローチから、東日本における「御霊(ごりょう)」と「五郎(ごろう)」Click!との関連性について書いたことがある。それは、鎌倉期の落合地域に隣接する和田山(現・哲学堂公園Click!)に、和田氏の館が存在したこととからめ、鎌倉に散在する御霊社(五郎社)Click!と、落合地域の御霊社との相似について書いた記事だ。
 鎌倉の御霊社は、もともとは鎌倉幕府Click!以前から延々と存在してきた、この地域に勢力を張っていた古くからの5つの勢力(すなわち鎌倉氏、梶原氏、長尾氏、村岡氏、大庭氏の5家)の祖霊を奉ったのが起源といわれている。これらの勢力は、江戸東京地方の江戸氏や豊嶋氏Click!、房総地方の千葉氏や相馬氏Click!、あるいは埼玉(さきたま)地方の出雲氏Click!や岩井(磐井)氏、栃木・群馬=上毛野地域の足利氏や世良田氏(のち松平・徳川氏)などと同様に、古墳期からつづく武蔵勢力(原日本の大王家Click!国造Click!とその一族郎党)の末裔だと思われるのだが、これらの祖先を奉った聖域を当時は「五郎社」と称していたようだ。この場合の「郎」は、おもに平安期から用いられている「郎党(郎等)」の意味であり、今日の表現からすると「5家系」「5族」ぐらいの意味になるだろうか。鎌倉の長谷にある御霊社は、地元で伝承されている社名は権五郎社であり、古来の名称をほぼそのまま現代まで継承している社として名高い。権五郎社の冠につく「権」は、のちに仏教思想による「権現」が習合したものだろう。
 この「五郎」という名称が、おそらく平安期ないしは鎌倉期に形成された「五郎」伝説、いわゆる「鉄人」伝説と結びついて別の信仰を集めた時期があったと思われる。この場合の「五郎」とは、全身が鋼鉄でおおわれた不死身の英雄のことであり、どのような戦場(いくさば)へ出ても勝利を得られるスーパーマンのような存在だった。ただし、「五郎」には全身の中でたった1ヶ所だけ弱点があり、それが顔の眉間だったり膝下の脛だったりする。「五郎」の化身といわれた平将門は、鼻上の眉間に弱点があり、無敵だった武蔵坊弁慶は脛に“泣きどころ”があった・・・という、のちの「五郎」伝説と結びついたフォークロアがいまに伝えられている。
 これらの五郎社は、時代が下り江戸期あたりから明治にかけ、特に関東において多様な“化け方”をしていると思われるのだ。もともと五郎社と呼ばれていた社は、名称の音(おん)が近いことから近畿圏の「御霊」信仰と習合して「御霊社」と呼ばれるようになったり、あるいはまったく別の社に衣がえされたりしているケースが多いと思われるのは、先の鎌倉のケースを見ても想定できる。特に西日本の「御霊」は、執念深い怨霊のたたりを鎮めるための社であり、近畿圏から見た「将門の怨霊」(関西人の視点であり、関東では怨霊ではなく出雲のオオクニヌシとともに江戸東京を守護する地主神Click!だ)と結びつきやすい土壌が、明治以降さらに形成されただろう。
 今日、関東にある多くの五郎社(御霊社)の主神が、まったく場違いな「神々」になっているのは、以前、こちらでも南方熊楠の記事でご紹介した、幕末の「国学」にもとづく「国粋」主義的な思想、あるいは日本古来の神々(多くの場合は古代からの地主神)を抹殺する、明治政府の神社合祀令Click!=“日本の神殺し”に端を発しているのは多言を要さないだろう。
中井御霊社.JPG 葛ヶ谷御霊社.jpg
五郎久保稲荷社.JPG 五郎久保稲荷神輿蔵.JPG
 さて、現在でも周辺域には「和田」(中野区)ないしは「大和田」(豊島区)の字(あざな)が伝わる、和田氏が勢力を張っていた鎌倉期の落合地域とその周辺を見わたすと、御霊社がふたつ存在していることは以前にも書いた。すなわち、中井御霊社(旧・下落合)Click!葛ヶ谷御霊社(現・西落合)Click!だ。これらは今日、なんらかの怨霊を鎮めるために建立されたという説明がなされがちだが、実はそうではないのではないか?・・・というのがこの記事のテーマだ。南武蔵に勢力を張っていた、5氏の祖霊を奉った社へ、後世に「御霊」信仰が習合したのではないだろうか。
 そして、もうひとつ気になっている社が落合地域の北側に、地名とともに現存している。長崎地域の五郎窪(五郎久保)に建立されている、五郎久保稲荷社だ。同社は、創立年代が不明なほど古くからある社だが、江戸期に五穀豊穣の神として大流行した稲荷信仰と習合し、現在の姿にいたっているのではないか? もともとは、和田氏の館が存在した鎌倉期には、南武蔵の祖先神を奉る五郎社として建立されているのではないか。でも、江戸期に付近の農民が稲荷を勧請したため、古くからある社は稲荷社としての性格が強くなり、本来の五郎社がいつしか忘れ去られてしまい、地名としてのみ語り継がれてきているのではないだろうか。すなわち、中井御霊社や葛ヶ谷御霊社と同様に、明治以降まで五郎社としての性格が伝わっていたとすれば、長崎御霊社と呼ばれていた聖域ではなかったか・・・というのがわたしの想定だ。
 これにより、落合地域とその周辺域には、鎌倉の市街地や“隠れ里”を含めた地域とまったく同様に、五郎社(御霊社)が3つ存在していたことになる。いつごろに創建されたかは不明だけれど、和田山の和田氏が鎌倉から勧請した・・・と考えるのも、ひとつの可能性だろう。ただし、五郎社の由来はさらに古いと考えられるため、それが3社も存在している好地へ、和田氏があえて「縁起かつぎ」から館を建てている・・・という想定も成立する。どちらが先かは不明だけれど、古墳時代以降の落合地域とその周辺を考えるうえでは、大きなヒントを内包しているように思えるのだ。
大六天(諏訪谷)2.JPG 第六天(六天坂).JPG
第六天(椎名町).JPG 第六天(明治期).jpg
 余談だけれど、本来は五郎社だったと想定できる五郎久保稲荷を含め、中井御霊社と葛ヶ谷御霊社を直線で結ぶと、東へ口を開けた大きな三角形が形成される。もうひとつ、おそらく北関東の足利幕府時代ないしは徳川幕府時代に勧請されたとみられ、落合地域にふたつ存在している大六天(第六天)社と、現在の椎名町駅の南側に少なくとも戦前まで存在していた第六天とを直線で結ぶと、御霊社とは正反対に、西向きに開口した大きな三角形が形成される。
 なぜ、このような配置をしているのか、以前から不可解に感じていたのだけれど、御霊社が「怨霊のたたり」の鎮めと解釈されはじめていた、少なくとも江戸期以降に大六天(第六天)が勧請されていると解釈するならば、その“結界”の中には江戸期よりもっとも発展した街であり、当時の繁華街を形成し江戸郊外ではめずらしく町名で呼ばれていた、「椎名町」(現在の目白通りと山手通りの交差点付近)が位置することになる。
 大六天(第六天)は、おもに病魔除け(病気もなにかのたたりとして解釈された時期があった)として、湧水源近くへ建立されるケースが多かった。これは、「久保」「窪」「玖保」の地名考Click!とも直結してくるテーマだ。下落合の諏訪谷にある大六天Click!は、同谷にあった“洗い場”Click!の湧水源に設置されている。また、六天坂の第六天Click!も、前谷戸Click!から流れ出た渓流に近い斜面にあり、おそらく湧水源のひとつだったのだろう。長崎村大和田2015番地(大正期現在)にあった第六天も、谷端川へ向いた斜面上に設置されているので、泉が湧いていたと思われるのだ。
 さて、御霊社(五郎社)の巨大な三角形と、大六天(第六天)の三角形がかたちづくる六角形の真ん中に、江戸期の繁華街だった「椎名町」が位置しているわけではない。江戸期の椎名町は、この“結界”のかなり北寄りにあるのだ。やや不定形な六角形の角から、それぞれ対角へ向けて直線を引くと、その交点が1点に集中する、まん真ん中のポイントがある。旧・下落合4丁目1644番地(現・中落合3丁目)、すなわち第一文化村Click!の西外れ、第二文化村の北外れにあたる区画だ。現在では、同区画の南側は十三間通り(新目白通り)にやや削られていると思われる。
長崎村1909.jpg
御霊五郎地図1921.jpg
 不思議なことに、この区画は戦前戦後を通じて空地のままであり、郊外住宅ブームだった昭和初期はおろか、戦争が終わり住宅建設ラッシュを迎えた時代でさえ、1軒の家も建っていない。人気が高い目白文化村に隣接した、格好の住宅地だったと思われるのだが不思議な現象だ。ちなみに、佐伯祐三Click!はこのポイントのやや北側にイーゼルをすえ、『下落合風景』シリーズClick!の1作「原」Click!を描いている。この原っぱに家が建てられはじめ、空地も少なくなるのは1960年代も後半になってからのことだ。なんらかのいわれや由来があるとすれば、五郎社が怨霊鎮めの「御霊社」として解釈され、大六天(第六天)社が勧請された江戸時代のことだと思うのだが、ちょっと不可思議な符合であり現象なので、継続して追いかけてみたいテーマとなった。

◆写真上:諏訪谷の湧水源上に奉られた大六天は、敷地が狭く三角形に近い境内になってしまった。佐伯祐三は、曾宮一念アトリエClick!をほんの少し入れて同社も作品Click!に描いている。
◆写真中上上左は、旧・下落合4丁目の中井御霊社。上右は、西落合にある葛ヶ谷御霊社。は、旧・長崎町五郎窪にある五郎久保稲荷社の拝殿()と神輿蔵()。もし、江戸期に稲荷が勧請されなければ、同社は長崎五郎社(御霊社)と呼ばれていた可能性がある。
◆写真中下上左は、諏訪谷大六天。上右は、六天坂の第六天。下左は、椎名町の第六天があった長崎村大和田2015番地(大正期)あたり。下右は、明治末の地図にみる椎名町第六天。
◆写真下は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる、江戸期からつづく下落合と長崎地域にまたがった「椎名町」とその周辺。は、1921年(大正10)作成の同じく1/10,000地形図にみる、この付近の御霊社(五郎社)と大六天(第六天)の配置と形成ライン。

下落合にあった神田明神社。

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神田明神社.JPG
 以前、下落合の御留山Click!にからめて、さまざまな結界やレイラインが形成されている記事Click!を書いたことがある。巫術や呪術、八卦、方位、風水、卜・・・と名称はどうでもいいのだが、おもに江戸期以前に用いられていた「望気術」に照らし合わせ、落合地域がどのような「気」味であり「地」味であり、「気」配であるのかを改めてとらえ直してみた内容だ。
 そのとき、わたしは星の数ほどある東京の街々の中で、なぜ日本橋以外の下落合に強く惹きつけられたのかを改めて顧みて、故郷の東日本橋とは大川(隅田川)へと流れくだる、柳橋Click!をはさんだ神田川の水流でつながり、先祖代々の氏神である神田明神とは、出雲神を介した社(やしろ)の気流ラインで直結している地域だからであり、とても気味(地味)がいい場所なので、わたしと家族たちが住むにはもってこいの地域だ・・・などと、書きたい放題を書いた。
 そして、将門相馬家あるいは徳川諸家が明治以降、なぜあえて落合地域ないしは周辺域を選んで暮らしてきているのか?、また、江戸幕府が落合地域の丘陵を、そもそもなぜ御留場(幕府直轄の立入禁止のエリア)に設定したのだろうか?・・・という本質的なテーマも含め、いろいろと想像し考察してきた。だが、江戸期に編纂された『新編武蔵風土記稿』(昌平坂学問所地誌調所・編)を読み直してみて、改めて自身のウカツさに気がついた。
 徳川幕府が、さまざまな「気」流が集中する下落合を御留場(山)に設定し、そのまま「鷹狩場」Click!という名目だけで機能させていたなんてことはありえないのではないか?・・・と、なぜ早く気がつかなかったのだろう。江戸東京総鎮守の神田明神社(かんだみょうじんしゃ)をはじめ、氷川社あるいは諏訪社、将門社(しょうもんしゃ)などを介してつづく、膨大なラインの交差点にあたる落合地域には、それなりの象徴的なトーテムがあってしかるべきなのだ。将門相馬家Click!は、さまざまな気脈を通じさせるトーテムとして、妙見神への信仰から屋敷の屋根や床下の礎石へ、北斗七星Click!を強く意識したフォルムを形成し、同時に太素社(妙見社)Click!を敷地内に遷座して奉っている。房総の将門ゆかりの故地(七星塚)とは、神田明神(オオクニヌシ・将門)や高田氷川社(スサノオ)、江古田氷川社(スサノオ)、豊玉氷川社(スサノオ)などを介して一直線に結ばれていた。ちなみに、御留山や薬王院の南側にある下落合氷川社(クシナダヒメ)は、この神田明神ラインからやや南にずれていると思われ、別の出雲ラインとの交点になっている。
神田明神ライン.jpg
相馬邸黒門鬼瓦.jpg 御留山相馬邸礎石.JPG
 では、徳川幕府は御留場の下落合になにをトーテムとして奉ったのか? 国会図書館に保存されている、江戸期の『新編武蔵風土記稿』を内務省地理局がそのまま活字翻刻化した「巻十二・豊嶋郡之四」を参照して、わたしは愕然とした。下落合に設置されていたトーテムは、ほかでもないわが家の氏神であり、氏子であるわたしの神田明神社(オオクニヌシ・将門)だったのだ。この下落合神田明神社に、下落合氷川明神社(クシナダヒメ)、そして2社も建立されていた諏訪明神社(タケミナカタ)も含めれば、江戸期の下落合は出雲神だらけの土地だったことがわかる。では、『新編武蔵風土記稿』の巻十二・豊嶋郡之四から、下落合村の該当箇所を引用してみよう。引用文のカッコの中は、それぞれの寺社に関する改題文であり、原文カタカナのままとする。
  
 氷川社(村ノ鎮守也) ○諏訪社二 ○大神宮(以上四社薬王院持) ○稲荷社三(一ハ藤稲荷ト云 山上ニ社アリ喬木生茂レリ近キ頃鳥居ノ傍ニ瀧ガ設テ垢離場トス薬王院持 二ハ上落合村最勝寺持) ○御霊社(祭神ハ神功皇后ナリ例祭九月ナリ是ヲビシヤ祭ト號ス 又安産ノ腹帯ヲ出ス 最勝寺持) ○末社稲荷 ○第六天社二(一ハ薬王院持 一ハ最勝寺持)
 薬王院(新義真言宗大塚護持院末瑠璃山閑<ママ>王寺ト號ス本尊薬師行基ノ作坐像長九寸許外ニ観音ノ立像アリ長一尺餘運慶ノ作 開山ハ願行上人ナリト云其後兵火ニ逢テ荒廃セシカ延宝年中實壽ト云僧中興シ元文年中再ヒ火災ニ罹リ記録ヲ失ヒテ詳ナルコトヲ伝ヘス) 神田明神社 八幡社 (後略) (赤文字は引用者)
  
 ここに登場している諏訪明神社×2社は、現在の聖母坂をはさんで敷地が存在していた諏訪社の社領、すなわち、のちの諏訪谷Click!から青柳ヶ原Click!にかけてのどこかに奉られていた社(やしろ)、ないしは祠のふたつだ。おそらく、湧水源や洗い場に近い、現在の大六天付近だったように思われる。大神宮Click!は、現在の落合第一小学校の前あたり、のちの落合村役場や消防落合出張所の火の見櫓が設置されるあたりにあった祠で、明治期に入って廃社となっている。稲荷社とは藤稲荷Click!のことであり、3社も存在するのは境内に社の建物が3つ存在していたのだろう。
新編武蔵風土記稿巻之十二豊島郡ノ四.jpg
 明治以降の徳川家や将門相馬家は、さまざまな気流が注ぎこむレイラインの交点や、神田上水(1960年代より神田川)の水流などを意識する以前に、下落合に神田明神が存在していたという、ただこれ1点のみの事蹟だけで、おそらく落合地域をことさら強く意識していただろう。さらに、もうひとつ別のテーマとして、江戸東京地方の中で幕府から「御留場(山)」と指定されていた地域に、神田明神の事蹟がほかにもあるのではないか?・・・ということ。そして、神田明神の本社と分社とを結ぶライン上には、なにが見えてくるのか?・・・という課題だ。
 『新編武蔵風土記稿』は、1810年(弘化7)ごろから昌平坂学問所の大学頭・林述斎によって幕府に建議され、およそ18年間の廻村(現地取材)ののち1828年(文政11)に脱稿し、2年間の編纂作業をへて1830年(文政13)に完成している。つまり、幕府の正式な地誌本として地域調査が繰り返され、少なくとも文政年間までは、下落合に神田明神社が存在していたことがわかる。なぜ、神田明神社が下落合に設置されたのかは、「気」流や「気」脈が縦横に交差する、徳川幕府による直轄地としての御留山の設定経緯とともに、もはや多言を要さないだろう。ついでに、文政年間に廻村=取材したとみられる、当時の下落合村の様子を引用しておこう。
  
 下落合村ハ日本橋ヨリ行程二里 家数六十七 四境東ハ下高田村 西ハ多摩郡上高田村 南ハ上落合上戸塚ノ二村 北ハ長崎村ナリ 東西二十丁南北五町餘 正保年中ハ御料ノ外 太田新左衛門采地ナリ 後御料ノ地ヲ小石川祥雲寺領ニ賜ヒ今新左衛門カ子孫太田内蔵五郎カ知行及祥雲寺領交レリ 用水ハ前村(上落合村)ニ同シ (カッコ内引用者註)
  
 では、下落合の神田明神社はどこにあったのか? 幕末に制作された「下落合村絵図」には、残念ながら同社は採取されていない。同絵図の当時、いまだ社が存在していたとしても、徳川幕府の衰退とともにずいぶん影が薄くなっていたのだろうか。あるいは、村の総鎮守として氷川社の存在感が、ことさら大きくなっていたものだろうか。『新編武蔵風土記稿』の記述を見ると、神田明神は薬王院の次に記述されており、前節のように社と社を区別するために挿入された「○」印が記載されていない。そこから推定できるのは、薬王院の境内ないしはその周辺の寺領に設置されていた可能性が高そうだ。幕末まで、かろうじて残っていたかもしれない江戸東京総鎮守・神田明神の分社は、明治期の廃仏毀釈で最終的に解体・撤去された・・・そんな「気」配が強くしている。
下落合氷川明神社.JPG 高田氷川明神社.JPG
 わたしがなぜ、下落合に強く惹かれたのか?・・・、これはもう科学や論理などで割り切れる領域ではなく、ましてや不動産をめぐる環境や利便性などの理屈でもなく、どこか親しみが湧き、わたしにとって暮らしやすい「気」流や「気」配、「気」脈を感じたからとしかいいようのない土地だからなのだろう。わたしとその家族にとっては、なんとも「気」味のいい、暮らしやすい土地柄なのだ。

◆写真上柴崎古墳Click!(大手町・将門塚)から神田山山頂(現・駿河台あたりにあった山)、神田山から同山北麓と二度遷座している江戸東京総鎮守の神田明神拝殿。
◆写真中上は、Googleの空中写真で神田明神ラインを引く。下左は、下落合御留山の相馬邸正門(黒門Click!)に用いられ福岡市教育委員会で保存されている鬼瓦。下右は、集められた相馬邸の七星礎石で新宿区により保存されることが決まっている。
◆写真中下:下落合村が記録されている、『新編武蔵風土記稿』の巻十二・豊嶋郡之四。
◆写真下:神田上水(旧・平川)沿い建立された、下落合氷川社()と高田氷川社()。

キツネに化けた下落合の詐欺事件。

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稲荷社1.JPG
 キツネが人間に化ける民話は数多いが、人間がキツネに化けて詐欺を働くというのはめずらしいケースだ。以前にも、そんな茶番Click!のひとつをこちらでご紹介しているが、今回は下落合で実際に起きた江戸期の悪質な詐欺事件をご紹介したい。当時の下落合は、幕府直轄の御留山Click!(将軍鷹狩場Click!)であり、あちこちに狐火Click!がともる森林だらけのさびしい風情だった。事件は、ひとり娘の病気回復を祈願するために、上落合の百姓・伝右衛門が雑司ヶ谷鬼子母神Click!へとお参りに出かけたところからはじまる。
 
 
 しょっぱなから余談で恐縮だが、豊島区が2010年より制作している「新版・豊島区史跡めぐり」(豊島区教育委員会教育総務部)の街歩きマップで、「雑司ヶ谷鬼子母神」(厳密には鬼のアタマにつく点がない)の呼称が、ようやくルビに「きしもじん」とふられて元にもどった。入谷鬼子母神Click!と同じで、江戸東京ならではの呼称はこうでなくては・・・。都バスのバス停アナウンスのように、まちがっても「きしぼじん」などと訛って呼ばないでほしい。
 伝右衛門は、たいせつな跡とり娘なので、雑司ヶ谷鬼子母神へ7日間かよいつづける病気全快の願掛けをしていた。成願する最後の7日目、本堂で祈願の順番を待っていると、先に経をあげ終えた若い女が話しかけてきた。以下、1982年(昭和57)に新宿区教育委員会から出版された『新宿区の文化財(6) 伝説・伝承』から、再現された伝右衛門と女のやりとりを引用してみよう。
  
 「あなたのお参りは今日が満願ではございませんか」
 「あ、そうですが、どうしてそれを」
 「ええ、私はご近所の者ですが、わけがあってお娘さんのご病気を知っておりますし、そのために願をおかけになっていることも存じております」
 伝右衛門が、おかしな女だなと思っていたら
 「あなたさまにたってのお願いがございます。何とかお聞き届け下さいますまいか。お聞き戴けるのでしたら、娘さんの病気はすぐにでも直(ママ)してさしあげましょう」
 「それほどまでにおっしゃるなら、私も娘の病気が直るように願かけているのですし、ありがたく承りましょう。ところでお話しとは一体何なのですか、私にできましょうか」
 「申し上げても信じて戴けないかも知れません、実は、私の母がいま殺されようとしているのです。何とかお助け下さい。お願いします」
 と切実なまなこでじっとみつめる。やがて女が
 「下落合に、源右衛門という者がおります。そこへ訪ねて下されば何もかも事情がわかります。何とかよろしくお助け下さい」
  
 できれば、この土地のちゃんとした大江戸郊外の方言Click!で再現してほしい会話なのだが、伝右衛門は、若い女の鋭い目つきとただならぬ雰囲気に、どうやらキツネが若い女に化けているらしいことに気がついた。母親が殺されそうだというのは、下落合で母ギツネが捕まって殺されようとしているのであり、子であるこの雌ギツネが助けようとしているのだろう・・・と想像した。
稲荷社2.JPG 稲荷社3.JPG
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 翌朝、さっそく伝右衛門は上落合の家から下落合へと出かけ、若い娘がいっていた源右衛門宅を探しあてた。伝右衛門はさっそく、「最近、このあたりでキツネを捕まえなかったか?」と訊ねたが、源右衛門はなにを訊かれても「知らない」と答えた。しらばっくれる源右衛門の様子を怪しんだ伝右衛門は、農家の庭先を観察すると、むしろで覆った竹籠の中になにか動く動物の気配がする。伝右衛門は、さっそく竹籠を指さして追及した。
 源右衛門はすぐに狼狽し、実は親子ギツネを見つけて捕まえようとしたのだが、親だけ捕まえて子ギツネには逃げられてしまったことを打ち明けた。このあたりは将軍家のお鷹狩場なので、動物を捕まえればどんなお咎めがあるかも知れないので、やむをえず嘘をついてしまった・・・と弁明し謝った。事実、下落合は御留山(立入禁止の山)であり、そこに棲息している獣や鳥を勝手に獲ってはいけないお触れが、江戸全期を通じて幕府から出ていたのだ。
 伝右衛門は、源右衛門の釈明にいちおう納得し、キツネを買い取るから譲ってくれないかと頼んだ。でも、源右衛門はある医師に頼まれてキツネを捕獲したもので、生き胆を抜いて医者に売る約束になっていると、伝右衛門の申し出を受けつけなかった。伝右衛門は、5両で買い取ろうといったが、源右衛門は医者に20両で売る約束ができていると断った。「では明日の朝、20両をもってくるから、キツネを殺さないでくれ」とよくよく頼んで、伝右衛門は上落合へもどった。
稲荷社6.jpg 稲荷社7.JPG
義経千本桜.jpg
 それから、伝右衛門は村じゅうを金策に走りまわったが、夜までに集まった金額は15両で、20両まではいまだ5両も足りなかった。翌朝、下落合の源右衛門宅を再び訪ね、「15両しか集まらなかったので、これで勘弁してくれ。キツネを譲ってくれ」と、病気の娘のことも話して懇願した。ついに源右衛門も、事情を了解して15両でキツネを売ってくれた。伝右衛門は、さっそくキツネを近くの山へ逃がしてやり、ホッと胸をなでおろした。
 ところが、たいせつなひとり娘の病状が、3日たっても5日たってもよくならない。むしろ、日増しに衰弱して病状は悪化する一方だった。そして、ついに娘は回復するどころかそのまま死んでしまった。伝右衛門の悲しみは深く、また怒りは激しかった。キツネにだまされたばかりでなく、15両というとんでもない借金を背負いこむことになってしまったからだ。伝右衛門は、落合地域でキツネを見かけしだい、片っぱしから殺してやろうと怒り狂った。
 しばらくして、キツネにだまされた話を伝え聞いた知り合いが、伝右衛門に「源右衛門の家には若い女がひとりいるが、一度見にいったほうがいい」と勧めた。伝右衛門は、久しぶりに下落合の源右衛門宅を訪ねると、彼の姿を見るや若い女がサッと身を隠すのが見えた。そして、伝右衛門はすべてを了解した。雑司ヶ谷鬼子母神で、子ギツネが化けたようなふりをして話しかけてきたのがその女であり、源右衛門と若い女は最初からグルだったのだ。江戸時代、キツネが化けて人をだます話は数多いが、人がキツネに化けた話はめずらしいので、今日まで伝わったのだろう。
広重「王子装束ゑの木大晦日の狐火」.jpg 新宿区の文化財6.jpg
 その後、伝右衛門がどのような報復をしたか、後日譚は伝わっていない。番所へ訴えても、伝右衛門が村じゅうからカネを借りた借用証文の事実があるだけで、どこにも詐欺を立証できる物的証拠がない。でも、人の弱みにつけこんだ悪質さから、伝右衛門が怒りを押し殺して泣き寝入りをした・・・とは思えない。ある月のない闇夜、家伝のやや黒錆の浮いた2尺2寸の刀を腰にぶちこんで狩猟用の火縄を手に、鉢巻をして龕灯(がんどう)を下げた彼は、「いま流行りの、百倍返してえやつだべ~!」と、下落合村の坂道を駆け上らなかっただろうか。・・・これ以上つづけると、下落合が「祟りじゃ~、明神様がお怒りじゃ~!」の八つ墓村になってしまうので、このへんで。

◆写真上・写真中上:東京の街中に残る、あっちこっちの横丁のお稲荷さん。
◆写真中下は、あちこちのお稲荷さん。は、二代目・竹田出雲・他による歌舞伎『大物船矢倉吉野花矢倉(だいもつのふなやぐら・よしののはなやぐら)』(義経千本桜)の「鳥居前の場」で、狐忠信の八代目・坂東三津五郎(左)と静御前の四代目・中村時蔵(右)。
◆写真下は、安政年間に描かれた安藤広重『江戸名所百景』のうち118景「王子装束ゑの木大晦日の狐火」。は、新宿区教育委員会刊行の『新宿区の文化財(6) 伝説・伝承』。

ハツタケと赤ワインは合うだろうか。

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クロマツ防砂防風林.JPG
 ずいぶん前になるが、下落合の御留山に生える、さまざまなキノコの写真Click!(撮影・松尾德三様)をご紹介したことがあった。昔から武蔵野の森に生える、典型的なキノコ類なのだろう。子どものころ、この季節になるとよくキノコ採りをして遊んだ記憶がある。キノコといえば、すぐにアカマツの根に生えることが多いマツタケが想い浮かぶけれど、わたしがよく集めてまわったのはクロマツ林の根に顔をだすハツタケだった。
 ベニダケ科のハツタケは食べられはするが、それほど美味なキノコではない。ただ、キノコ好きにはたまらないのがハツタケで、マツタケよりも美味いという人もいるから、味覚は人それぞれだ。ひと口でいえば、ハツタケはいかにも“キノコ臭い”のだ。菌類独特の香りというのか、どのように料理しても強いキノコ臭がする。天ぷらにしても吸い物にしても、おみおつけやすき焼きの中へ入れても、その強い香りが消えないのはマツタケと同様だが、いかにもキノコを口にしているという風味でくどいことこの上ない。食後も、キノコの匂いが口の中からしばらく消えないほど、強い香味がある。そこが、キノコ好きにはたまらないゆえんなのだろう。
 ハツタケを採取したのは、湘南の海岸線に植えられた防砂(風)のためのクロマツ林だ。毎年、9月から10月にかけ、ハツタケが面白いほどたくさん採れた。母親から借りた買い物かごだけでは足りず、大きな木箱を持って採取しにいくのだが、すぐ山盛りになるほどだった。よく、うちへ遊びにきては2~3週間は泊まっていった、母方の売れない書家であり日本画家でもあった祖父Click!もハツタケが好きで、当時は海岸線のあちこちで行われていた地曳網を手伝ってから、ついでに海岸沿いの松林を散策しながら、ハツタケも採ってくるのが秋の楽しみだったようだ。
 もちろん、朝から獲れたての魚とハツタケをつまみに、葡萄酒(ワインとは呼ばない)を一杯やるためで、この朝酒が終わるとわたしを連れてあちこちへ散歩に出るのが、祖父の「湘南生活」における日課だった。当時、地曳網を手伝うと報酬としてもらえる魚は、大きなサバなら1尾、ムロアジなら1~2尾、マアジなら3尾ほどで、大量に獲れるイワシやシラスは“報酬”外だったようだ。いまでこそ、「湘南のシラス丼」などと呼ばれて名物になっているけれど、シラスはいつでも大量に網へかかったので、ほとんど無価値に近い存在だった。当時の地曳きは、すでに小型モーターが使われていて、すべてが人力によるものではなかったけれど、モーターの馬力が弱いためか、いまだたくさんの漁師たちが球体の浮きがついた地曳網のロープを曳いていた。
ハツタケ.jpg クロマツ林の西洋館.jpg
 魚やキノコを肴に葡萄酒を楽しむのだから、当然“白”だと思うのだが、祖父はなぜか“赤”ばかりを好んだ。母の話では、ウソかまことか芸者を15人も引き連れて(祖父ならやりかねないだろう)、春の土手で花見の宴をひらいたときも、日本酒ではなく葡萄酒の“赤”を飲んでいたのではないかと思う。わたしが中学2年生のとき、この道楽好きで葡萄酒好きな「芸術家」の祖父は急死するのだけれど、死ぬ直前に飲んだのも赤玉ポートワインだ。朝、起きぬけに寝床で小さなグラスのポートワインを一杯ひっかけ、「お獅子がくるから、門と玄関の鍵を開けとけよ」といって再び横になると、そのままこと切れた。80歳を迎えた、1月2日の朝だった。
 一度、クロマツ林へハツタケを採りに入り、マツの小枝で目を突いたことがあった。ちょうど、瞳の真ん中に枝の先が刺さり、一瞬で右目の視野が白くにごってしまった。まるで、あたりが深い霧につつまれたように、すべての風景がかすんで見える。母親に連れられ、急いで眼科医へいき手当てをしてもらったのだが、右目の眼帯は1週間ほどとれなかった。眼医者の待合室で順番がくるのを待ちながら、高い棚の上に置かれたテレビを、母親とともに見あげていた記憶が妙に鮮明だ。よく見える無傷のほうの眼で、横眼づかいにチラチラ見上げていたのが、写りのよくない“ナショナル”のアンテナ付き、真っ赤なコンパクトテレビだったこともはっきり憶えている。
江ノ島_潮流観測所.jpg
 小学生の高学年になったころ、湘南海岸沿いの松林へヘリコプターによるDDTの空中散布がはじまった。クロマツに寄生する、大きな蛾(おもに三角形のスズメガだろう)の幼虫、すなわち6~7cmはありそうな大量の毛虫を退治するのが目的だったのだが、それ以来、マツ林でのキノコ採りは母親によって厳重に禁止されてしまった。空中散布の当日、洗濯物や布団が干せないのはもちろん、2階の鎧戸まで締め切っていたように思う。散布が終わったあと、クロマツの枝々はまるで粉砂糖をまぶしたように白くなっていた。いまでは、危険なDDTの空中散布など行われていないだろうから、再びハツタケを採りにクロマツ林へ入る人がいるのかもしれない。
 眼をマツの小枝で突いたとき、眼科医の待合室でかかっていたテレビは、東京オリンピックの開会式の生中継だった。関東大震災Click!の教訓で(城)下町Click!のあちこちに造られた広場や防火帯(広小路)、避難公園、堀割りなどの防災インフラが次々と道路や高速道路の橋脚敷地にされ、「バチ当たり」Click!あるいは「町殺し」Click!と呼ばれる惨状を呈するようになったのは、東京オリンピックのあと、下町をくまなく歩いた親父からいつも聞かされていた。建築・土木が専門の親父Click!は、おそらく仕事の眼で下町のひどいありさまをクールに観察していたのだろう。住民に満足のいくなんの相談も説明会もなく、事実上、行政が好き勝手に「開発」を進められた時代だ。
片瀬海岸地曳網.jpg 鵠沼海岸地曳網.jpg
 下町に住む数百万人(昼間は500万人を超えるだろうか)の人々は、関東大震災以前と同様に生命の危険にさらされたまま、人口に見合う満足な避難場所もないまま、今日にいたっている。東京オリンピックと聞くと、横眼づかいにチラチラとウサン臭げに見てしまうのは、親父からさんざん聞かされた人命無視のメチャクチャな「オリンピック工事」によるのだろうが、眼科医の待合室で母親と見上げていた、視界の半分が白く濁った、開会式の生中継の印象によるのかもしれない。

◆写真上:湘南海岸に沿い、戦前から植林されているクロマツの防砂・防風林。
◆写真中上は、クロマツの根方に生えるハツタケ。は、クロマツ林の大きな西洋館(大磯)。
◆写真中下:海岸から眺めた、平塚沖の旧・科学技術庁潮流観測塔(現・東海大学総合実験タワー)と江ノ島。科学技術庁の防災科学技術研究所は、虹ヶ浜のわたしの家から100mほどの元・塩工場跡に建っていたが、現在は東海大学の総合海洋実験場になっている。
◆写真下:戦前の記念絵葉書より、片瀬海岸()と鵠沼海岸()の地曳網で背景は江ノ島。

秋めく季節の怪談・奇譚。

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薬王院旧墓地.JPG
 今年の夏は、落合地域とその周辺域で語り継がれている怪談話Click!をあまり記事にできなかったので(「怪獣サイ」Click!ぐらいだろうか)、季節はずれではあるけれどいくつかご紹介してみたい。いずれも、西隣りの上高田村(町)に伝わった怪談なのだが、そこに登場する寺社や墓地は、落合地域ともいくぶん重なってくるので、書きとめる意味は高いと思う。
 だいぶ前に、目白崖線に出る「狐火」Click!のことを書いたが、これも当の“現場”である下落合では、なかなか気づかれにくい現象だった。今回、ご紹介するのは狐狸妖怪譚ではなく、直接的な幽霊話Click!が主体だ。旧・下落合の西はずれ、目白学園のバッケ下に東光寺がある。ここには、昔から誰かが死に瀕すると、寺を訪れて葬式があることを知らせにくる・・・という幽霊譚Click!が伝わっている。1987年(昭和62)に中野区教育委員会より出版された、『中野の文化財No.11 口承文芸調査報告書/中野の昔話・伝説・世間話』から、当の東光寺さんの話を聞いてみよう。
  
 今もあるんでしょうけどね、世の中が煩雑になったから聞こえないのかもしれませんけど、昔はね、ほんとにね、それこそ、ご本堂の鉦(かね)がガーンと鳴ったこともあるし、それから、裏口の戸がガラガラガラーッと開いたけれど、行ってみれば開いてないんですよね。そうすると、わたしたち、うち(東光寺)ではね、「ああ、また仏さんかな」と、こう言う。そうすると、たいがい一日二日ぐらいの間にね。/昔はね、トタンをよく使ったんですよ、簡単に使えるから。うちなんかでは、納屋なんかにね。あれにぶっつく人が多かったですね。「だれだろう、あんなに大きな音させて」なんてね。何ていうんでしょうね、ただ、物がぶっついたっていう音じゃないんですよ。なんとなく、なにかこう、人がいじったっていうかねぇ。音が違うんですよ。なんとなく。/まあね、気がつかないこともあったでしょうし、「まあっ」ていうような知らせもあった。何か人が来たみたいに言葉かけてね、「ごめんください」とかなんか、声がして。声がしたけれども、だれもいないので、「いやだねぇ、また仏様かしら、気味が悪い仏様だ」なんて言ってね。(上高田 女 明治34年生)
  
 このような「死者(虫)の知らせ」Click!は、当時の新聞の三面記事でもあちこちで目にすることができる。かくいうわが家にも、祖父がかわいがってもらっていた叔母が、長患いのすえに病死したとき、風呂に入っていた祖父が何度も風呂場の窓ガラスをコツコツたたく音を聞いている。誰かのイタズラかと思い急いで窓を開けると、そこには誰もいないのだが、再び窓を閉めるとほどなく窓をコツコツたたく音が聞こえたという。昭和初期の出来事で、風の音を聞きまちがえたのではないかとも思うのだが、わたしにも何度か話して聞かせてくれたエピソードなので、少なからず不可解さを感じたのだろう。その出来事から数時間後、祖父は叔母死去の電報を受けとっている。
下落合バッケ.JPG 中野地域の森.JPG
中野妙正寺川1.JPG 中野妙正寺川2.JPG
 さて、病気で重体になったとき、とうに死んでいる幼なじみの友人から、「早くおいでよ」と呼ばれた経験譚も残っている。その話に付随して、夜、墓場の近くを歩いていると、墓場からガヤガヤと話し声が聞こえる怪談も収録されている。このような「墓場からの呼び声」、あるいは「墓場の話し声」は(城)下町Click!の寺々にも数多く残っていて、親たちから聞かされた幽霊譚のひとつだ。
  
 わたしはね、大病をしたんですよ。もう、だめになるかと思うぐらいだったらしいんです。そのときはね、十九かしら。/なにしろね、たいへん悪くなって、うちでは、もうお医者さんを呼んで、大騒ぎしているらしいんですよね。わたしは、こんこんと眠っていたらしいんです。/その眠ってるなかでね、そのお墓の中にね、早く亡くなったお友だちがいましてね、その人が、わたしを呼ぶのがよーく聞こえるの。おかしなもんですねえ。わたしのこと「まさちゃーん」って言うんです。わたしは、その人てっちゃんて言うんです。「てっちゃーん」ってね、呼んでるつもりなんです、自分は。「早くおいでよ、早くおいでよ」って。「いま行くよ、いま行くよ」って。「いま行くよ」って言うのは、そばの人にわかったそうです。どこぃ行くんだか、それこそ死んでしまうんだか、「いま行くよぉ」って、言ってるんですってね。もう、バンと跳べばね、すぐそこへ行かれるように見えてました。よーく見えて。/そこは、きれいでもない。当たり前のような気がしましたね。きれえだなあとも思いませんけれど。大勢こう、人がいる中に、友だちがちゃんとわかるの。てっちゃんが、よーくわかるんですよ。「早く来いよぉ、早く来いよぉ」って呼ぶんですよ。そいで、よーく聞こえてねえ。/「いま行くよぉ、いま行くよぉ」って、四度ぐらい言ったそうです。そいで、みんなして、からだ揺すったり何かして、先生も注射をしてするだけのことはしたんでしょう。そしたら、何かの拍子に、ふっとわたし気がついたんですね。それで、目をあいたんですって。意識が戻ったんですね。(上高田 女 明治34年生)
  
 この経験譚の場合、死者が呼んでいる場所がなんの変哲もない墓地であり、よくありがちな「お花畑」や「川の向こう岸」でないところに、独特な怖さとリアリティを感じる。晴れあがった空が拡がる花畑や、三途の川を連想させる情景が登場すると、それが事実として認知された光景ではなく、あらかじめ後天的に獲得され、仏教的なイメージとして脳内に刷りこまれた「天国」や「黄泉の国」の夢想ではないか?・・・という疑問を抱かせるからだ。
江古田氷川明神.JPG 中野近代住宅建築.JPG
 これだけ寺社が多い地域だと、当然ながら呪詛の伝説も残っている。もちろん、丑の刻参りのエピソードで、明治から大正にかけ付近の寺社や森には、五寸釘を打たれた氏名入りの藁人形があちこちで見られたらしい。明治生まれの女性ふたりが、対話形式で話しているのを記録したものだが、話中に出てくる「東福寺の山」とは、江古田氷川明神がある妙正寺川の段丘上のことだ。
  
 お宮に、なんかお祈りするっていうの、聞いたことあります。やっぱし、そうに祈願すると、夜の時刻でなくっちゃいけないのね。丑の刻って、ね。その間に神様のところへ行くんだか、どこ行くんだか、その生きてる木でなくちゃいけないのよ。生きてる木に、その人の名前で書くんでしょうね。
 藁人形を釘で打ちつけるんだよ。五寸釘でな。よく東福寺の山で。背伸びして、こうやって、こう、たたくぐらい高くなったところに。
 昔はよくあった。東福寺の山ってね、あすこの山に、よくそういうのがあった。藁人形が。
  (…上高田 女 明治37年生/…上高田 女 明治39年生)
  
 さすがに、わたしは下落合の寺社で呪いの藁人形を見たことはないけれど、最近、深夜の寺社に出かけるのがおっかない人は、ネットの「丑の刻参り」サイトで代用しているものだろうか。ネットの社(やしろ)参拝や、代理の墓参りが流行る出不精なこのごろ、Webで藁人形に五寸釘を打っている人がどこかにいないとも限らない。でも、そのほうがよっぽど怖いと感じてしまうのだが・・・。
鳥山石燕『画図百鬼夜行』1779.jpg 国芳『大石眼龍斎吉弘』1853頃.jpg
 お隣りの上高田村は、たたりと呪いと狐狸妖怪と幽霊譚の宝庫なのだが、すぐ東隣りの下落合村にはなにもなかった・・・などということはありえない。無数のフォークロアが眠っていたはずなのだが、新宿区教育委員会の学芸員に民俗学好き=「怪談好き」の方がいなかったのが残念だ。もし、江戸期から伝わったと思われる伝承を、当時のしゃべり言葉のままていねいに採取しつづけていれば、もっと物語ゆたかな落合地域の姿が、連綿と今日まで伝わっていただろう。

◆写真上:薬王院の旧墓地に眠る、江戸時代以前からの死者たち。
◆写真中上上左は、上高田の「バッケが原」Click!に面した下落合のバッケ(崖)。上右は、中野区側にある森の木蔭。は、中野地域を流れる落合つづきの妙正寺川。
◆写真中下:江古田氷川明神()と、近くに残る昭和初期のモダンな住宅()。
◆写真下は、1779年(安永8)に出版された鳥山石燕『画図百鬼夜行』の中の「丑時参(うしのこくまいり)」より。五寸釘を打つ女性の傍らに、牛のねそべっているのがおかしい。は、1853年(嘉永6)ごろ描かれた芳国の浮世絵『大石眼龍斎吉弘』。

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