Quantcast
Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
Viewing all 1249 articles
Browse latest View live

二宮尊徳の貯金箱と三岸好太郎の蝶。

$
0
0

二宮金次郎.jpg
 わたしは、子どものころから貯金をしたことがない。ここでいう貯金とは、銀行預金のことではなく貯金箱へコインをためていく“貯金”のことだ。もっとも、ちっとも増えない銀行の預金残高を横目で見ると、そもそも貯蓄自体が苦手なのかもしれない。貯金箱がキライなのは、ちょっとずつおカネを1枚1枚ためていくのが、癇性で気の短いわたしにはじれったくてしかたがないのと、なんとなくいじましさを感じるからだ。
 小学生になって小遣いをもらうようになったころ、母親から郵便ポスト型の赤い貯金箱をもらった。プラスチック製で、アタマの部分がネジ式に取れるようになっており、おカネがたまったらフタを開けて取りだすしかけになっていた。小学校低学年のころ、わたしは1日に10~20円の小遣いをもらっていたと思うのだが、それをポストに入れてチャリチャリンという音を確かめては、翌日にフタを空けて取りだすと駄菓子屋へ走ったので、貯金箱にはなんの意味もなかった。
 親がくれたポスト貯金箱は、ひょっとすると郵便局へ貯金したプレミアムとしてもらったものなのかもしれないが、少しずつ貯金をして目標額へ近づく喜びや楽しさ、ひいては一歩一歩の小さな積み重ねで日々努力を重ねれば、思いがけずに大きな目標を達成できるものだ・・・というような、教育効果をねらったものかもしれない。わたしは、おそらくそのような親の気持ちをみごとに裏切り、きょうはバナナアイスに明日はクジ引きアメと、貯金箱が重たくなることはついぞなかった。ポスト貯金箱は、小学校の高学年になるころ早くも行方不明になっている。ちなみに、銀行に小遣いを貯めて買ったのは、小学5年生のときの伐折羅大将Click!が初めてだった。
 戦前のボロボロになった親父の行李から、50銭銀貨が20~30枚、まとめて出てきたことがあった。これは、親父が「行李貯金」Click!の名人だったからではなく、小学生のときに親からもらって遣いきれなかったおカネを机の引き出しへためていたものだ。1935年(昭和10)に10歳だった親父は、親から毎日50銭の小遣いをもらっていた。これがどれだけ非常識Click!なことか、当時、日本橋のミルクホールで売っていたアンパンが、1個1~2銭だったことを考えれば(銀座の木村屋はもう少し高かったかもしれない)、すぐにおわかりいただけるだろう。いま、セブンイレブンで売っているアンパンは1個98円だが、100円だとしても50銭で30~50個は買えた時代だ。いまのおカネに換算すれば、毎日3,000~5,000円をもらっていたことになる。
 親父が家にいると、祖母Click!はご近所仲間と芝居や三越Click!お稽古Click!帝国ホテルClick!などへ遊びに出られないから、子どもに法外な小遣いをやっては「好きなことしといで」と、家から追い出していたのだ。お腹が空くと近くのカフェへ出かけ、林芙美子Click!のような勉強好きで早出の女給さんに学校の宿題をみてもらっては、オムライスやサンドイッチを食べていた。それでも20銭ほどのお釣りがくるから、宵越しの銭になっていたわけだ。いまでは考えられないことだけれど、当時は町内がみんな顔なじみの(城)下町Click!環境だからできたことだろう。そんな小学生生活を送りながら、親父は横道へ外れもグレもせず、超マジメな性格に育って公務員になったのだから不思議としかいいようがない。ご近所や町内が信用できるからこそ可能だった、祖父母の「教育」方針だったのだろう。おそらく、このような生活は乃手では考えられないにちがいない。
50銭銀貨1923.jpg 二宮金次郎貯金箱.jpg
 親父の引き出しにしまわれた大量の50銭銀貨は、日本橋の実家から「行李貯金」として諏訪町(現・高田馬場)の下宿へと運ばれ、いく度もの空襲Click!や戦争の混乱をくぐり抜け、戦後の新円切り替えのときはすっかり忘れ去られていた。祖母の50銭銀貨が、親父の学生下宿からわずか1,000mちょっとのところに住むわたしの手もとにあるのが、なんとも不思議な気がする。
 貯金箱といえば、下落合の相馬邸Click!御留山Click!を購入するために、同邸を訪れた第一徴兵保険(のち東邦生命)の社長・太田清蔵Click!は、応接室に置かれた二宮金次郎(正確には二宮金治郎)像Click!に目をとめただろう。相馬家と二宮尊徳との、深いつながりも聞いているのかもしれない。そのせいだろうか、第一徴兵保険の創立40周年を記念して、1938年(昭和13)から翌年にかけ二宮金次郎(金治郎)の貯金箱を作り、得意先や社員に配布している。すぐあとには、「♪紀元は二千六百年~」を記念してか、南北朝時代の武将・楠正成の貯金箱も配ったようだ。1978年(昭和53)に文藝春秋から出版された、向田邦子Click!の『父の詫び状』から引用してみよう。
  
 貯金箱は、私が二宮尊徳、弟が楠正成であった。/父の勤めていた保険会社の創立何十周年記念かに配った品ではなかったかと思う。まがいの青銅で、かなり大きな持ち重りのするものだった。二宮尊徳や楠正成の顔も本物そっくりで、台座の下から中のものが取り出せるようになっていた。/私と弟はこれを本箱の上に飾っていたが、ある時、学校から帰ると、母が楠正成からお金を出している。/月給日の前だったのか、前の晩押しかけた沢山の来客の、おすし屋さんの払いかなにかが足りないので借りるわよ、というのである。前にもこういうことは時々あった。(中略) 楠正成が油断のならない人物のように思えてきた。そういう目で見ると、私の二宮尊徳も、少年の癖にいやに老けたズルそうな顔に見えてくる。ソントク(損得)という名前も気に入らない。子供の頃のこういう印象は拭えないものと見えて、私は今でも銅像を見ると、あの台座の下にお金が入っているような気がして仕方がないのである。
  
相馬邸1939頃.jpg 相馬邸応接室二宮金次郎.jpg
 わたしは貯金がヘタだったが、こんな言葉があるとすれば“貯菓子”は得意だった。近くで買った駄菓子や、親がお土産に買ってきてくれた菓子類を、そっと自分の部屋へ運んでは引き出しに隠して、夜が更けると食べながら好きな本を読んでいた。もちろん、寝る前の歯磨きを終えたあとなので、菓子が見つかればずいぶんと叱られ即座に没収されただろう。
 菓子の中でも、親父が1週間に一度ぐらいのペースで買ってくる、「棒チョコ」が大好きだった。6~7cmぐらいの、細長いビスケットにチョコレートでコーティングし、それを銀紙で包んだものだ。正式には「フィンガーチョコレート」という名称なのだそうだが、わが家では棒チョコと呼んでいた。メーカーは、確か森永製菓だったと思う。細長い箱の中に、ズラリと並んだ銀色の棒チョコの行列に、たった1本だけ、金紙に包まれた棒チョコが入っている。この金色に輝く棒チョコを、食べてしまうのが惜しくて机の引き出しへ“貯菓子”していたことがあった。
 ちょうど、ドロップ缶の中ではとても稀少価値だった白いハッカ味のドロップを、いつまでも食べるのが惜しくて最後まで残しておく・・・という感覚にも似ている。でも、ハッカ味のドロップを「よし、きょうは食べてやろう!」と決心して味わうころには、缶の中がすっかり湿気ってしまって、他のドロップの溶けたものがハッカドロップにベタベタくっつき、妙な味になっていて悔しい思いをしたことがある。金色の棒チョコも、まったく同じような結末だった。
 「よし、ついに食べるぞ!」と、ウキウキしながら古いものから金紙をそっとはがして口に入れると、とうに湿気って引き出しにあった文房具の妙な移り香がし、サクサクとした食感などまるでなくマズイことこの上なかった。美味しい(美味しそうに見える)ものは、できるだけ早く食べてしまおうという、わたしのさもしい根性が形成されたのは、おそらく小学生だったこの時期のことだろう。
三岸好太郎「蛾と蝶」1934.jpg
三岸好太郎クッキー1.jpg 三岸好太郎クッキー2.jpg
 先日、山本愛子様Click!のご紹介で、東京にみえた北海道立三岸好太郎美術館Click!の学芸員でおられる苫名直子様Click!とお会いする機会があった。そのとき、美術館のお土産として三岸好太郎の“蝶”をイメージしたクッキーをいただいた。美味しそうに焼かれたクッキーの中に、まるでわたしの性格を見透かされたように、たった1羽だけ三岸作品のような美しい蝶がまぎれこんでいる。同美術館に収蔵されている、1934年(昭和9)に制作された三岸好太郎『飛ぶ蝶』には、1羽だけ虫ピンから外れてどこかへ飛び立とうとするブルーの蛾が描かれている。こういう仕掛けにとても弱いわたしは、彩色された蝶を最後の最後まで残しておいて食べたのだが、早めにいただいたせいか湿気もせず、香りもよくてとても美味しかった。ごちそうさまでした。>苫名様
 北海道立三岸好太郎美術館で開催中の「生誕110年三岸好太郎展」Click!は11月17日まで。

◆写真上:いまは全校舎が建て替え中で撤去されている、目白小学校の二宮金次郎像。
◆写真中上は、親父の古い行李から出てきた50銭銀貨で関東大震災の年に鋳造されたものだ。三岸好太郎が、吉田節子へ財布ごとClick!わたしたおカネの中にも、この銀貨が混じっていただろう。は、戦前のブロンズを模した陶製の二宮金次郎貯金箱。
◆写真中下は、4代目・太田清蔵が購入した1939年(昭和14)ごろに撮影された御留山の旧・相馬邸。は、相馬邸の応接間に置かれていた二宮金次郎像。
◆写真下は、1934年(昭和9)に制作された三岸好太郎『飛ぶ蝶』(北海道立三岸好太郎美術館蔵)。は、三岸好太郎の蝶をモチーフにした記念クッキー。


画家たちの第一歩を伝える『中央美術』。

$
0
0

三岸好太郎「檸檬持てる少女」1923.jpg
 1923年(大正12)に発行された『中央美術』6月号には、洋画界へデビューしたふたりの画家の動向が伝えられている。ひとりは、下落合661番地へアトリエClick!を建てたばかりの佐伯祐三Click!であり、もうひとりは春陽会第1回展へ応募して入選した三岸好太郎Click!だ。もっとも、三岸好太郎は前年に第3回中央美術展へも『静物』で入選しているが、周囲から大きな注目を集めるようになったのは、春陽会へ入選をするようになってからだ。
 まず、佐伯祐三は東京美術学校を卒業すると、早々に卒業仲間とともに薔薇門社を起ち上げている。メンバーは、同期の山田新一Click!深沢省三Click!江藤純平Click!たちだった。早くも5月に神田文房堂で第1回展を開催した彼らについて、同誌の「団体行動」記事から引用してみよう。
  
 薔薇門社  今年東京美術学校を卒業した七人の結社で人名は石川吉次郎、山田新一、深沢省三、江藤純平、佐伯祐三、佐藤九二男、佐々木慶太郎。その第一回の展覧会を五月九日から五日間神田文房堂で開いた。
  
 薔薇門社の活動は、この年の9月1日に起きた関東大震災Click!と、同年暮れに決行した佐伯祐三の第1次渡仏により、ほどなく自然消滅のようなかたちになってしまうが、それ以降もつづく同期の画家たちとの交流や関係は非常に重要だ。
 この時期、アカデミズムと“権威主義”に染まり沈滞してしまった帝展洋画部や、硬直化してマンネリ化しはじめていた二科会に加え、岸田劉生Click!たちの草土社Click!と合流した小杉未醒や梅原龍三郎、山本鼎らの春陽会が、新たな第三極を形成しようとしていた。このほかにも、帝展や二科に飽きたらない若い画家たちが、さまざまな独立画会を結成している。
 佐伯祐三がフランスから帰国したとき、案外すんなりと二科展で特別陳列ができたのも、また二科賞をスムーズに受賞できたのも、佐伯の技量や表現力が際立っていたせいもあるが、二科がひとりでも多くの有望新人を囲いこみ、会の沈滞ムードを打破しようとしていた思惑と無関係ではないだろう。のちに、1930年協会を起ちあげるとき、宣言文Click!に二科会へ最大限に配慮した表現が見られるのも、優遇されていた彼らの気配りだ。また、1930年協会の会員たちの多くは、同会が解散し独立美術協会を結成するまでの間、古巣の二科へと活動の場を移している。
中央美術薔薇門社.jpg 佐伯祐三「ベッドに坐る裸婦」1923.jpg
 当時の3大画会における、会員(帝展は審査員)画家の構成は以下のようなものだった。
 ◇帝展洋画部(審査員13人)
 藤島武二Click!  満谷国四郎Click!  長原孝太郎  石川寅治  白瀧幾之助
 永地秀太  小林萬吾  南薫造Click!  太田喜二郎  金山平三Click!  片多徳郎Click!
 辻永Click!  牧野虎雄Click!
 ◇二科会(会員17人)
 有島生馬Click!  石井柏亭Click!  山下新太郎  正宗得三郎  湯浅一郎  安井曾太郎Click!
 坂本繁二郎  津田靑楓  斎藤豊作  熊谷守一Click!  藤川勇造Click!  中川紀元
 横井禮一  黒田重太郎  国枝金三  小出楢重Click!  鍋井克之Click!
 ◇春陽会(会員22人)
 小杉未醒  森田恒友  梅原龍三郎  長谷川昇  倉田白羊Click!  足立源一郎
 山本鼎Click!  岸田劉生Click!  木村荘八Click!  中川一政  斎藤與里Click!
 萬鉄五郎Click! 椿貞雄  山脇信徳  石井鶴三  田中善之助  山崎省三
 小山敬三  林倭衛Click!  今関啓司  硲伊之助  小柳正
 1923年(大正12)現在、各団体へ新人たちが応募した作品数を比べてみると、当時の画壇の趨勢をうかがい知ることができる。帝展洋画部は応募数1,800点余で、二科は2,100点余、これに対して春陽会第1回展は2,466点(同誌巻末の月報取材では3,000点超)ともっとも人気が高かった。中には、技術や表現力の未熟な画家たちが、あわよくばこの際・・・というように山師的な応募もあったのだろうが、それだけ新しい団体に寄せる期待も大きかったのだろう。
 春陽会第1回展は、同年の5月に上野竹之台陳列館で開催された。そして、同展に入選したのが三岸好太郎の『檸檬(レモン)持てる少女』だった。『中央美術』6月号でも、同作の画面は展覧会場でよほど目立ったものか、写真入りで紹介されている。それがよほどうれしかったのだろう、好太郎は俣野第四郎Click!と小林喜一郎とともに札幌へ帰省すると、三人展を開いている。でも、東京へもどってみると長期欠勤がたたったのか、下谷郵便局のスタンプ係をクビになってしまった。このあと、好太郎は本郷に本部のあった家庭購買組合Click!の配送部に職を得ることになる。
中央美術192306.jpg 中央美術展評.jpg
 以降、三岸好太郎は春陽会展の入選常連となり、翌1924年(大正14)には春陽会賞を首席で受賞し、周囲から大きく注目を集めることとなった。同年、好太郎は春陽会仲間の横堀角次郎、倉田三郎、土屋義郎、斎藤清次郎、川端信一らとともに画会「麓人社」を結成している。春陽会賞を受賞した当時の様子を、1923年(大正12)3月18日の時事新報で報道された記事を、1992年(平成4)出版の匠秀夫『三岸好太郎 昭和洋画史への序章』(求龍堂)から孫引きしてみよう。
  
 米の配達しながら絵を勉強する人----二十二才の三岸氏 昨日春陽会賞の首席を占む
 入賞者のうち最高点の三岸好太郎氏は北海道札幌の生れで本年二十二才の青年である。目下はキリスト教青年会の家庭購買組合に雇はれ、米の配達をやりながら苦学をつづけてゐる奮闘の士である。去年は「オレンヂ持てる少女」(ママ)を出して入選し今年は「春の野辺」他三点を出して美事入賞したのである。同君は語る。「私は十三の時父を失って、それから上京し大野麦風さんの弟子になりましたが、間もなくそこを出て下谷郵便局員となり小林喜一郎君と一緒に働いてゐました。今は郵便局もやめましたがやはり同君と同じ宿にゐて一緒に絵をかいてゐます。
  
 岸田劉生は、三岸好太郎の作品を評して「三岸好太郎君の諸作もまた不思議なる美くしい画境である。内から美が素純に生かされてある。愛情という様なものが形の上に美しく生きてゐる」・・・と、彼としてはめずらしく最大限の評価を口にしている。
三岸好太郎1922頃.jpg 匠秀夫「三岸好太郎」1992.jpg
 佐伯祐三が薔薇門社第1回展へ出品した作品は、いまだ美校を卒業したてのアカデミックな表現だったろう。同年に制作された画面を観ると、ルノアール風の色づかいやタッチが顕著だ。それに比べ、三岸好太郎の『檸檬持てる少女』は、どこか岸田劉生のような暗い画面にルソー風の味をきかせた、その後しばらくつづく「春陽会」向けの表現を見せている。佐伯祐三は第1次渡仏と、里見勝蔵Click!の紹介でヴラマンクと出会ったことから表現を一変させているが、三岸好太郎は社会観や周囲の環境(おもに人間関係)の変化によって、表現を劇的に自己変革していった。三岸好太郎は、内部の葛藤や矛盾、さらにもっとも重きをおいて素直に従ったと思われる欲望が、量的に増えて激化することで、表現の質を大きく転換させていった・・・そんなふうに見える。
生誕110年三岸好太郎展図録.jpg
北海道立三岸好太郎美術館の学芸員・苫名直子様より、「生誕110年三岸好太郎展」Click!の図録をお送りいただいた。たいへん美しい仕上がりで、楽しく拝見している。ありがとうございました。>苫名様 「生誕110年三岸好太郎展」は11月17日まで開催中。図録の表紙は、1934年(昭和9)に制作された『雲の上を飛ぶ蝶』」(部分/東京国立近代美術館蔵)。

◆写真上:1923年(大正12)に制作され、出発したばかりの春陽会第1回展に入選した三岸好太郎『檸檬(レモン)持てる少女』(北海道立三岸好太郎美術館Click!蔵)。
◆写真中上は、1923年(大正12)発行の『中央美術』6月号に掲載された薔薇門社結成の短信。は、東京美術学校の卒業前後に制作された佐伯祐三『ベッドに坐る裸婦』。
◆写真中下は、1923年(大正12)発行の『中央美術』6月号。は、春陽会第1回展の展評である福田久道「春陽会を観る」に掲載された好太郎の『檸檬持てる少女』。
◆写真下は、1922年(大正11)ごろ雑司ヶ谷時代の三岸好太郎。芸術をこころざす若者たちの間で、当時は大流行したルバシカを着て、左斜め45度を見つめてすましている。あまたの女性を口説くときも、この左斜め45度の視線が重要だったのかもしれない。w は、1992年(平成4)に求龍堂から出版された匠秀夫『三岸好太郎 昭和洋画史への序章』。

強固な“女縁”は終生つづく。

$
0
0

三岸アトリエ旧玄関.JPG
 三岸節子Click!は、思ったことを歯に衣を着せずズバズバと発言する一本気な性格から、周囲には敵が多かった。特に同性の画家たちの間では、生涯の友である藤川栄子Click!を唯一の例外として、親しい友人はほとんどひとりもいなかったといっていいかもしれない。あるとき、女子美術大学から招かれて出かけ、女学生たちを前にに「あなたたち、こんなとこで勉強してちゃダメよ」という趣旨の講演をし、同校で教鞭をとっていた女流画家協会の森田元子を激怒させた逸話が伝わるなど、例をあげればキリがない。画家仲間にはうとまれた彼女だが、そのかわり同性の作家たちには親しい友人が何人もいた。昭和初期から鷺宮のアトリエClick!で制作していた三岸節子だが、戦後、近くには次々と親しい作家たちが集まるように転居してきている。
 藤川栄子は、三岸節子が上鷺宮へアトリエを建てて住むようになってからも、高田馬場駅から西武線に乗ってしばしば彼女のもとを訪問している。その様子を、1999年(平成11)に文藝春秋から出版された、吉武輝子『炎の画家 三岸節子』から引用してみよう。
  
 高田馬場時代から、近所づき合いをしていた藤川栄子は、節子とは気が合い、鷺宮の家にもしょっちゅう遊びに来ていた。がらがら声であけっぴろげな藤川栄子は、陽子の目には気さくなおばさんといった感が深かった。(中略) 表裏のない気質も、男に媚びぬ勝ち気さも、そして極めて短気なところもこの二人は似通っていた。だから数少ないというよりは、唯一人の同業の女友達で終生あり続けたのだろう。/すべて第一号で突っ走ってきた節子への嫉み、妬みは男性画家だけではなく、女流画家の間にも渦巻いていた。男性社会の画壇の中で、女流画家が確かな基盤を作り上げていくためには、男性画家の庇護を必要とした女性も少なくなかったのではないか。
  
 鷺宮の三岸アトリエを頻繁に訪れていた、ほとんど唯一の洋画家・藤川栄子について、実際に何度も接したことのある三岸夫妻の長女・陽子様から、じかに彼女の印象をうかがってみよう。
  
 あの人と、いちばん仲がよかったのね。あの人はね、ざっくばらんな人なのよ。よく遊びに来てました。さっぱりしてるの。子どもへも大人へも同(おんな)しようにしゃべるし、いい人でしたよ。
  
女流画家協会の藤川栄子.jpg
佐多稲子.jpg 壺井栄.jpg
 文学好きという点でも、ふたりの趣味は一致していたようで、藤川栄子が次々と紹介したのだろう、佐多稲子Click!壺井栄Click!など共通の友人たちが多かった。吉武輝子も書いているが、なにかと競争意識が芽生える同じ画家仲間よりも、三岸節子はまったく異なる仕事をする作家の中に女友だちを求めたようだ。先日、三岸アトリエ2階の資料整理をお手伝いしたとき、画集や図録、美術雑誌のほかに目についたのは、文学関連の書籍だった。特に、佐多稲子と壺井栄の作品には必ず贈呈のサインが入れられており、ふたりは本が出版されると三岸節子へ贈っていたのだろう。壺井と佐多は戦後、上落合あるいは上戸塚(高田馬場)から鷺宮へ移り住んでいるのをみても、その親しさをうかがい知ることができる。
 三岸節子は、本の装丁の仕事も数多くこなしているが、中でも佐多稲子と壺井栄の作品は多い。ほかにも、落合地域ではおなじみの檀一雄Click!林房雄Click!舟橋聖一Click!林芙美子Click!岸田国士Click!をはじめ、太宰治Click!広津和郎Click!獅子文六Click!今東光Click!大岡昇平Click!高田保Click!、武田泰淳、川端康成、福田恆存、火野葦平、円地文子、大佛次郎Click!、石川達三、井上靖、司馬遼太郎、宮尾登美子などの作家たちから、多くの場合ご指名で制作を依頼されていたようだ。だから、三岸アトリエは出版関係者の出入りも多かっただろう。旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)の目白学園で講師をしていた伊藤整が翻訳し、戦後に「チャタレイ裁判」で話題になったD.H.ロレンス『チャタレイ夫人の戀人』も三岸節子の仕事だ。
 三岸節子は、1957年(昭和32)に軽井沢の山荘にこもって仕事をするが、その周辺は女性作家が別荘を連ねるエリアだった。制作上のスランプと、菅野圭介Click!をめぐる精神的なダメージを受けての“山ごもり”だったが、周囲に別荘をもっていた親しい作家たちが気づかいを見せている。
女茶わん1963.jpg 女茶わん内扉.jpg
妻の座1949.jpg 妻の座内扉.jpg
 節子の軽井沢山荘は、あめりか屋Click!によって大正の早い時期に建てられた別荘で、当初は後藤新平が住んでいたといわれる、通称「一号館」と呼ばれたモダンな近代建築だった。軽井沢での三岸節子たちの様子を、吉武輝子の『炎の画家 三岸節子』から再び引用してみよう。
  
 避暑のシーズンには、中軽井沢は女流作家村といった感が深かった。戦後は女流作家も、女流画家同様、文学者としての不動の地位を築き上げた人たちが多く、かつてのプロレタリア作家たちも、避暑用の山荘を中軽井沢に建てたり借りたりすることができるようになっていた。/佐多稲子、芝木好子、野上弥生子、壺井栄、林芙美子、まだ当時新人扱いだった大原富枝などの女流作家は、一軒がご飯を炊くと、それぞれがおかずを持って集まり、なにかというと文学論に花を咲かせたり、文学界のゴシップに打ち興じたり、時には夜を徹して花札を打つこともあった。/佐多稲子は、節子のことが案じられてならなかった。いつ行ってもカンバスは真っ白。ベランダの椅子に手足を打ち捨てたように座り、飽かずに浅間山を見ていたり、雉の姿を目で追って行ったり。内に籠もろう籠もろうとする、いささかやつれの目立つ節子を時折強引に、女流作家の集まりに誘った。(中略) 「軽井沢は文学にはなるけれど、あまりにも灰色で、絵にはなりにくい」/と節子がぽつりと呟いたことがあった。/節子に限り無いやさしさを見せたのはロシア文学者の湯浅芳子だった。/おいしい煮物ができたからと届けに来たり、珍しい敷物を持ってきてくれたり、花瓶に山の花を活けて持ってきてくれたり。
  
 三岸節子の文学好きは、晩年までまったく変わらなかったようだ。長女・陽子様Click!は、大磯のアトリエClick!へ出かけるたびに、さまざまな文学作品をクルマに積んで運びつづけている。
  
 あたしが本をもってくと、ほんとうに喜んでね。それで、本をもってくと(読み終えたあとに)、このくらいの小説ならわたしにも書ける・・・とかね。えらそうなこと、いってるの。(笑) こんな簡単なの、できるよね~・・・とかね。(笑) (カッコ内は筆者註)
  
佐多稲子「私の東京地図」1959.jpg 壺井栄「どこかでなにかが」1960.jpg 檀一雄「光る道」1957.jpg
舟橋聖一「ある斜面の夏子」1960.jpg 林房雄「妻の青春」1952.jpg 岸田國士「落葉日記」1953.jpg
 このときの陽子様は、大磯の代官山にあったお母様のアトリエを夕方ごろ発つと、当時は平塚の病院へ入院していた三岸好太郎の妹で、活花の師匠だった三岸千代のもとを見舞っている。三岸好太郎の死後、「好太郎がよそに女をつくるのは、あなたがいたらないからだ」とか「好太郎が早死にをしたのは、あなたのせいだ」などと、軋轢が絶えなかった義母・三岸イシと義妹・千代を追いだした三岸節子だが、戦後に鷺宮へ訪ねてきた千代とは和解して、絵画と活花のコラボレーション展をデパートで開催したりした。早朝に鷺宮をクルマで出発して、大磯と平塚をめぐり途中のパーキングエリアでつかの間の仮眠をとったあと、夜遅くに鷺宮へと帰宅していた陽子様だが、これも昭和初期の困難な時期に築かれた“女縁”といえるのかもしれない。

◆写真上:鷺宮の三岸好太郎・節子アトリエで、南面する大きな採光窓から見た旧・玄関跡。戦前戦後を通じ、三岸節子を訪ねてさまざまな人びとがこのエントランスを歩いただろう。
◆写真中上は、1948年(昭和23)ごろに撮られた女流画家協会の審査風景で前列左から森田元子、佐伯米子Click!、島あふひ(あおい)、遠山陽子、そして手前で中腰の藤川栄子。藤川栄子は、「あんたたち、これを入選させないで、いったいどこを観てるのさ!」と、居並ぶ審査員にハッパをかけていそうだ。は、三岸節子と特に親しかった佐多稲子()と壺井栄()。
◆写真中下は、1963年(昭和38)に三月書房から出版された佐多稲子『女茶わん』()と内扉に書かれた三岸節子への贈呈サイン()。下は、1949年(昭和24)に冬芽書房から出版された壺井栄『妻の座』()と贈呈サイン()。いずれも、三岸節子の装丁デザインではない。
◆写真下:三岸節子が手がけた装丁デザインの書籍類で、1959年(昭和34)の佐多稲子『私の東京地図』(上左)、1960年(昭和35)の壺井栄『どこかでなにかが』(上中)、1957年(昭和32)の檀一雄『光る道』(上右)、1960年(昭和35)の舟橋聖一『ある斜面の夏子』(下左)、1952年(昭和27)の林房雄『妻の青春』(下中)、そして1953年(昭和28)の岸田國士『落葉日記』(下右)。三岸アトリエの資料整理でお借りしている、いずれも2006年(平成18)に開催された一宮市三岸節子記念美術館Click!の主催による「三岸節子と装丁展」図録より。

♪空をこえて~ラララ星のかなた~。

$
0
0

上高田小学校.JPG
 先日、新井薬師の近くを歩いていたら、昭和の初期、東京郊外の人口が急増したときに創立された上高田小学校にぶつかった。野方町で4番目にできた小学校なので、「野方第四尋常小学校」と呼ばれた時代もあったようなのだが、設立された時期は落合第四小学校Click!より7年も早い。上高田小学校の校庭では、子どもたちがサッカー遊びをしていたのだが、そこに小学校があることにまったく気づかなかった。近くに学校があれば、道を歩いていると必ずチャイムの音色が聞こえたはずなのだが、最近は近隣騒音になるということで、かなり音を絞っているようだ。小学校のチャイムは、いつからこんなに小さくなってしまったのだろうか?
 校庭に流す音楽のサウンドが、やたら大きくても困るClick!のだけれど、まったく聞こえないのも寂しい。以前は、落合第四小学校のチャイムがよく聞こえていたはずなのに、最近はほとんど聞こえなくなった。その音が、どれほど下落合の住宅街に響いていたか、1970年代のドラマである『さよなら・今日は』Click!の録音を聴くと、改めて確認することができる。家の中にいても、かなり大きく聞こえたチャイムは時計がわりで、生活のひとつのリズムのようになっていただろう。
 そういえば、落合第四小学校が運動会を開催する数日前になると、子どもたちが演技をする際に校庭で流す音楽を気にしてか、「何卒ご理解をいただければ・・・」というようなチラシがポストに入るようになった。きっと、学校のチャイムの音や放送、音楽などに苦情をいう住民の方がいたのだろう。家の中にいたのでは、いまやチャイムはほとんど聞こえない。
 上高田小学校にバッタリと行きあたったとき、「かみたかだしょうがっこう」と口に出してつぶやいたのだが、そのとたんになにかがひっかかった。なんだか、懐かしい気がして記憶をたどってみたのだが、とんと思いだせなかった。このところ、落合地域の西隣りである上高田地域の資料Click!をいろいろ漁って調べる機会が多いのだが、なにがひっかかったものか、昔の上高田資料を調べていてもまったく思いあたらない。こういう気持ちの悪い感触は、これが初めてではなく何度となくあるのだが、たいがい心当たりの資料を読み直してみると、ひっかかった原因がやがて明らかになる。でも、上高田小学校にはまったく心あたりがなく、漠然としたひっかかりだった。
 上高田小学校ができた当時の様子を、1982年(昭和57)に出版された細井稔・加藤忠雄・中村倭武共著による『ふる里上高田の昔語り』から引用してみよう。
  
 更に続く関東大震災後の人口の急増、住宅の増加で、(野方尋常小学校の)折角の新校舎も収容能力の限界に達した。そこで大正十四年、町会で次のように決議された。/第四小学校は、予算とし七萬四千四百二十八円、用地は東光寺の所有地、上高田の現在地に。(中略) 第四小学校は、当時の上高田三七二番で、敷地、運動場共二三二八坪〇三勺、総建坪五七九坪、この工事金七万五千円弱であった。当時、校庭植樹用に、我々土着の家がら(ママ)、多くの木々が寄贈された。校門の門かぶりの松をはじめ、桜や外の木々も、当家で寄付させてもらったのが、相当大きくなった。(カッコ内は引用者註)
  
上高田小学校(戦後).jpg
 ある日、突然、上高田小学校のなにに引っかかったのかがわかった。わたしは駅を利用するとき、地下鉄へ連絡している高田馬場駅まで歩くことが多いのだが、JR高田馬場駅Click!の発車チャイムは、もちろん『鉄腕アトム』だ。駅が近づくと、チャイムの音が徐々に大きくなる。目白駅の横断歩道を、「♪と~りゃんせと~りゃんせ」と唄いながらわたる某俳優ではないけれど、わたしもつい「♪心やさし~ラララ 科学の子~」と口ずさんでしまう。そして、「あっ!」と気がついた。『鉄腕アトム』の主題歌は、上高田少年合唱団が唄っていたのだ。いや、『鉄腕アトム』ばかりではない、『スーパージェッタ―』も『宇宙少年ソラン』も、戦後のラジオやTVから流れていた子ども向け番組の主題歌は、その多くが上高田少年合唱団だった。
 外出先では、打ち合わせそっちのけで上高田小学校のWebサイトを確認すると、1953年(昭和28)から1958年(昭和33)まで、さまざまな音楽コンクールの受賞歴が掲載されている。これらのコンクールは、すべて「合唱」部門での受賞なのだろう。同校のサイトから引用してみよう。
  
 昭和28年11月03日 全国唱歌ラジオコンクール全国大会優勝
 昭和29年11月03日 全国唱歌ラジオコンクール全国大会優勝
 昭和29年11月15日 第8回全日本学生音楽コンクール全国大会優勝
 昭和33年03月22日 日本放送主催学校音楽コンクール優勝
  
手塚治虫.jpg
ビッグX.jpg わんぱく探偵団.jpg
 上高田小学校を母体にして、上高田少年合唱団は結成されていたのだ。この学校へ1948年(昭和23)に赴任した、奥田政夫という教諭が同校の生徒を集めて合唱部をつくり、1950年(昭和25)の「全日本学生音楽コンクール」でいきなり東日本1位になっている。つづいて、1953年(昭和28)に「NHK全国唱歌ラジオコンクール」で全国1位になった。
 このころから、合唱団に目をつけた放送局が、ドラマの主題歌を上高田少年合唱団へ依頼する機会が増えていったようだ。吉永小百合も出演していた、「♪剣をとったら日本一の~」のラジオドラマ『赤胴鈴之助』をはじめ、「♪ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団~」の『怪人20面相』、『笛吹童子』、『流星王子』、TVドラマ『まぼろし探偵』、『鉄腕アトム(実写版)』・・・などなど、当時の少年向きラジオ・TVドラマの代表作は、ほとんど上高田小学校ないしは上高田少年合唱団の仕事だ。これらの番組は、わたしの一世代前のものだけれど、わたしの世代では先に挙げたアニメのほか、『ビッグX』、『レインボー戦隊ロビン』(後期)、『わんぱく探偵団』、『キャプテンスカーレット』・・・と、当時の人気番組をほとんど片っぱしから総ナメなのだ。
 上高田小学校の合唱団は、その歌声がビジネスとして成立するとともに上高田小学校児童という名前を用いるわけにはいかず、「上高田少年合唱団」として仕事をしていった。数年ののち、奥田教諭が異動で練馬区の小学校へ移ったあとも、合唱団は解散せずに転勤先の小学校生徒たちも含めて、上高田少年合唱団はその後もずっと存続し活躍をつづけていった。
手塚プロダクション.JPG 鉄腕アトム.jpg
 JR高田馬場駅では『鉄腕アトム』の発車チャイムが鳴り響き、早稲田通りのガード下には、手塚プロダクションによる手塚治虫が産んだキャラクターたちの、大きな壁画が描かれている。いまもアトムの銅像がある手塚プロダクションは、早稲田通りに面したビルから少しだけ移転し、戸山ヶ原の西側、第一次世界大戦の塹壕戦を意識したものか、筋状の塹壕Click!がいくつも掘られていた陸軍の演習場跡(1917年現在)で健在だ。当時の上高田小を卒業した生徒たちは、新井薬師駅から西武線に乗り高田馬場駅で降りるとき、いまでもどこか誇らしい気分になるのだろう。

◆写真上:新井薬師駅の近くにある、今年で創立87周年を迎えた中野区立上高田小学校。
◆写真中上:上高田小学校は戦災で全焼したが、戦後に新装なった藤田校長時代の校舎。
◆写真中下は、高田馬場駅のガード下に描かれた手塚治虫のさまざまなアニメキャラクターたち。下左は、懐かしい『ビッグX』(1964年)のクレジットにみる「上高田小学校」。同小学校と並んで、作詞が谷川俊太郎で作曲が富田勲のクレジットがにわかに信じられない。下右は、『わんぱく探偵団』(1968年)のクレジットにみる「上高田少年合唱団」。
◆写真下は、旧・上戸塚の藤川栄子アトリエClick!横井礼似アトリエClick!の裏にある現在の手塚プロダクション。は、以前は早稲田通りの歩道脇にあった鉄腕アトムの像。

貴重な外山資料と笠原作品いろいろ。

$
0
0

笠原アトリエ(昌代様).jpg
 以前、独立美術協会Click!で活躍した児島善三郎のご子孫の方からお送りいただいた写真類や、外山卯三郎Click!のご子孫の方からお送りいただいた結婚式の記帳資料、さらに外山の妻である一二三(ひふみ)夫人が絵を習いに通っていた、笠原吉太郎Click!のご子孫の方からお送りいただいた作品類などを、記事でまとめてご紹介Click!した。
 きょうは、外山卯三郎・一二三夫妻のご子孫である次作様から、引きつづきお送りいただいた戦災で焼け残った結婚式の記帳簿と、笠原吉太郎の三女・昌代様の長女である山中典子様Click!よりお送りいただいた、いまだ紹介されていない作品画像とを併せてご紹介したい。
 下落合1146番地に実家があった、外山卯三郎のご子孫にあたられる次作様からお送りいただいた記帳簿は、前回にご紹介したものの残りの部分ということだが、これでも記帳簿のすべてではないように思える。おそらく、他の部分は空襲で焼けてしまったか、あるいは水をかぶるなど、なんらかの理由で滅失してしまったものだろう。今回お送りいただいた名簿の中には、前の記事でも触れたとおり、やはり1930年協会Click!で親しかった画家たちの署名が見えている。すなわち、前田寛治Click!小島善太郎Click!の記載がはっきり確認できる。しかし、いちばん親しかったはずであり、いっしょに井荻の西武鉄道住宅地へ家を建てて、ほぼ同時期に引っ越すほどの深いつき合いのあった、里見勝蔵Click!の名前がない。
 このことからも、記帳簿には現在まで伝わっていない、ほかの部分が存在していたことをうかがわせるのだ。また、前回の記事にも書いたけれど、外山卯三郎が野口一二三と知り合うきっかけになったと思われる、下落合679番地の笠原吉太郎・美寿夫妻Click!もこの式には出席していたはずだ。笠原家の長男・義男様の連れ合いである笠原光子様の署名が残り、かんじんの笠原吉太郎・美寿夫妻の記載がないのが不自然なのだ。
 ほかの記帳者の名前を見ると、やはり外山の一方の仕事である文学関係者によるものが多いのだが、美術分野に関係のある人物としては、洋画家であり詩人でもある高村光太郎Click!が目につく。1930年協会の小島善太郎は、新宿中村屋Click!の裏にあった柳敬助のアトリエClick!へ絵を見せに出かけ、そこでたまたま作品をもって来訪中だった高村光太郎と、太平洋画会Click!の先輩である中村彝Click!に遭遇して、持参した作品を見てもらっている。また、洋画に関係のある人物としては、マージョリー西脇(二科会/西脇順三郎夫人)と中川紀元(二科会)の名前が見えている。記帳名簿を拝見していると、文学分野(特に詩領域)と美術分野(西洋画)の双方から、当時は最前線で活躍していた人物たちを披露宴に招いた・・・、そんな気が改めて強くしている。
外山卯三郎結婚式01.JPG
外山卯三郎結婚式02.JPG
外山卯三郎結婚式03.JPG 外山卯三郎結婚式04.JPG
外山卯三郎結婚式05.JPG
 さて、山中典子様からお送りいただいた作品群は、フラッシュによる画面の反射もなく、描かれたモチーフを細かく観察することができる。まず、笠原吉太郎・美寿夫妻の三女・昌代様、すなわち山中典子様のお母様がピアノを弾く、『ピアノを弾く少女』(仮/キャンバス)が印象的だ。昌代様が小学生のころ、大正末か昭和の最初期のころに描かれた、下落合679番地(のち680番地)の笠原邸内を写したものだ。(冒頭写真) 昌代様は当時、近くの落合第一小学校Click!へ通っており、同時にピアノも習っていたのだろう。いかにも、山手の家庭らしい雰囲気の作品だ。
 次に、室内を描いたと思われる『室内風景』(仮/キャンバス)には見憶えがある。前回にご紹介した作品の中で、『室内風景』と仮題した画面と同一のものだ。マガジンラックのように見えていた手前のかたちはストーブであり、フラッシュでよく見えなかった天井へとのびる煙突も、はっきり確認できる。やはり、笠原邸内の一室を描いた作品で、籐椅子に座ってなにか熱心に書いているのは、昌代様の妹である四女・妙子(多恵子)様のように見えるとのことだ。妙子様は、成人して結婚したあと、ほどなく嫁ぎ先で早逝している。
 ほかには、海を描いた作品が多い。キャンバスの裏に『房州』と書かれた作品は、浜辺に引きあげられた舟の艫(とも)をアクセントに、岩場の多い房総の海岸線を描いている。千葉県の海岸線は、大正期より多くの画家たちがスケッチしてまわった風景Click!であり、笠原吉太郎も画道具を手に各地をめぐったものだろう。もう1作の『海岸風景』(仮/板)も、岩場の多さや海岸線の雰囲気から、房総半島のどこかの地で写生した可能性がある。海の絵は、いずれも厚塗りだ。
笠原アトリエ(妙子様).jpg
房州.jpg 海岸風景.jpg
 船を描いた、印象的な作品もある。房総へとわたる連絡船上の風景だろうか、サインの下に「31」という数字が見えるので、1931年(昭和6)のスケッチ旅行で描かれた作品だろう。船尾と思われる甲板に、クレーンからロープで吊り下げられた貨物や、球体の大きな物体が描かれている。貨客船と思われる甲板に積まれた、大きな黒い球体は港へ着くと同時に海へ投げ込まれる、船の係留ブイ(浮標ブイ)だろうか? 深海の潜水艇のようにも見えるが、時代からしてそうではないだろう。背景の海面には、船のたてるウェーキーや離れていく陸地(山々)が見えているようで、この貨客船が出航した直後であるような感触をおぼえる。
 もう1枚も船の絵で、入港する貨客船を描いていると思われる。『貨客船』(仮/キャンバス)は、描いたあと一度キャンバスを木枠から外し、丸めて保管された時期があったらしく、厚塗りの画面にタテのクラックが多く生じている。フランスから送られた佐伯祐三Click!の作品群も、ほとんどがキャンバスを木枠から外され丸めて運ばれているが、日本へ到着後すぐに木枠へと張りなおされているため、それほどのダメージは受けていない。『貨客船』(仮)は長い期間、木枠から外されて保管され、絵具が完全に乾ききってから張りなおされたために、クラックが生じたように思える。タグボートに曳航され、接岸する直前の貨客船を描いているが、ひょっとすると国内作品ではなく、中国へスケッチ旅行をした際の情景なのかもしれない。
 最後の1枚は、「満州」旅行の際に街角風景を描いたものだ。『易者』(仮/板)は、中国の街中で占筮(易で用いる細い竹棒)を使って占いをする易者を描いていると思われ、一連の中国シリーズのひとつに位置づけられる作品だと思われる。右側には客がおり、易者はなにか易経の“参考書”を参照しながら、卦で吉凶を占っている最中のようだ。
 数多くの『下落合風景』Click!を含め、すでにあちこちに散逸してしまった笠原吉太郎作品だが、山中様の手もとにまとめて残るこれらの作品は、大正末から昭和初期の絵画表現を知るうえでは貴重な画面だろう。また、笠原吉太郎が出品していた1930年協会展や、朝日新聞社で開催された個展の様子を知ることができる、またとない資料でもある。
甲板風景.jpg
貨客船.jpg 易者(満洲).jpg
 ご報告をひとつ。以前こちらでもご紹介した、林芙美子Click!手縫いの「ちゃんちゃんこ」Click!だが、それを着たご本人であり所有者の炭谷太郎様Click!が、新宿区へ同品を寄贈されることになった。この11月17日から2014年1月26日まで、新宿歴史博物館Click!で開かれる「生誕110年 林芙美子展-風も吹くなり 雲も光るなり-」に出品される予定とのこと。わたしも、夫・手塚緑敏が描いた未知の「下落合風景」が展示されていないかどうか、同展を観にいきたい。
林芙美子展チラシ.jpg

◆写真上:笠原邸内を描いた、大正末か昭和初期の笠原吉太郎『ピアノを弾く少女』(仮)。
◆写真中上:外山卯三郎・美寿夫妻の結婚式披露宴で記帳された名簿で、空襲で焼けた井荻の邸跡からかろうじて回収された。ただし、他の1930年協会の画家たちや、一二三夫人が師事していた笠原吉太郎や美寿夫人の名前がなく、滅失した記帳簿があるように思われる。
◆写真中下は、昭和初期に制作されたとみられる笠原吉太郎『室内風景』(仮)で、描かれている少女は四女・妙子様と思われる。下左は、房総半島の海岸線を描いた笠原吉太郎『房州』。下右は、やはり雰囲気の似た海岸線を描いた笠原吉太郎『海岸風景』(仮)。
◆写真下は、航行中の貨客船の船尾甲板を描いたとみられ、1931年(昭和6)に制作されたと思われる笠原吉太郎『甲板風景』(仮)。下左は、入稿寸前の船を描いた笠原吉太郎『貨客船』(仮)。下右は、中国シリーズの1作で街角の占い師を描いた笠原吉太郎『易者』(仮)。

目白駅周辺で目撃された中国兵。

$
0
0

下落合四丁目バス停前.JPG
 目白通りClick!は、郊外演習を終えた陸軍の中隊あるいは小隊が、行進をしながら帰営するのによくつかわれたルートのようだ。おそらく、第一師団Click!あるいは近衛師団Click!の士官と兵士たちなのだろう。ときどき、騎馬の兵や士官たちも見られ、下落合界隈で大休止Click!や小休止をとっていたようだが、これは戸山の近衛騎兵連隊Click!の兵士たちだろう。また、戸山ヶ原Click!で演習を終えた部隊が、周辺を分列行進しながら帰営することもあったかもしれない。
 1940年(昭和15)ごろ、目白通りを進む陸軍の長い分列行進(大隊・中隊レベルの行進だろうか)を、途中からまっぷたつに横切った女性の話が、2006年(平成18)発行の『私たちの下落合』(落合の昔を語る集い・編)に収録されている。こんな大胆なことをやってのけたのは、こちらでもご紹介したことのある森山周子様だ。森山様には、七曲坂Click!に建っていた巨大な洋館の大嶌子爵邸Click!について取材させていただき、またお祖父様が建築家として所属していた服部建築土木事務所Click!による、下落合の建築作品の取材でも森山崇様ともどもお世話になっている。
 目白通りを分列行進していた陸軍は、騎馬の士官を先頭に日の丸を掲げていたというから、かなりの大部隊だったのだろう。おそらく、先頭にはラッパ手もおり進軍ラッパを吹いていたかもしれない。森山周子様が、「もう、それどころじゃないのよ!」と分列行進を横切ったのは、アイロンをちゃんと始末したかどうか気にされていたからだ。森山様は、ちょうど行軍部隊の真ん中を突っ切っているのだけれど、彼女の豪胆さもさることながら、横切られた部隊の兵士たちはさぞかし面食らっただろう。でも、その理由を聞いたらもっとビックリしたかもしれないのだが。w それでは、同冊子に収録された、森山周子様ご本人による「目白通りでのある出来事」から引用してみよう。
  
 昭和十五年の頃と思いますが、たまたま現在の下落合四丁目バス停の向こう側(北側)の歩道からこちら側(南側)へ渡ろうとして足を踏み出したところ、右手方面(椎名町のほう)から軍隊が行進してきました。国旗を右手に高く持ち、馬に乗った兵士が一人先頭を進み、その後を少し離れて百人か、二百人かはっきり分かりませんが、かなりの数の兵士が隊列を作って後から後から続いてきます。/それを見送っているうちに私はふと、家を出る前にアイロンを使っていたことを思い出しました。後始末をきちんとしてきたかどうか、気になりだすと、しだいに不安になりました。しかし、長い兵士の列はまだまだ続き、不安はますます高まります。ついに心配でたまらなくなった私は、軍の行列の隙間をさっと駆け抜けました。とたんに、「バカヤローッ」と大声で怒鳴りつけられましたが、立ち止まることもなく、そのまま家に飛んで帰りました。/家に帰ってみると、アイロンは間違いなく後始末してあり、何事もなくほっとしました。しかし今度は、軍隊の行列を横切って通り抜けたことが気になってきました。/「お国」の軍隊が通っていく行列を遮ったのです。「国」とか「軍隊」といえば、ふつうの人間が、それに逆らったり、その邪魔をしたりするなんて考えられないような時代です。もし見つかったらとんでもないことになるのではないか、何か罰を受けるのではないかと心配で、心配でなりませんでした。それから十日ほどは家から一歩も出ないでおりました。/何事もなく日々が過ぎ、一か月ほどたって、やっと心がのびのびして、ふつうに外に出掛けることもできるようになりました。
  
目白通り1935頃.jpg
旧目白駅階段.jpg 旧目白橋欄干.JPG
 どうやら、警察も憲兵隊もやってこなかったところをみると、行進部隊からその行為を通報されなかったようだ。ただし、兵士の間では、目白通りを行軍すると若い女性が部隊を横切る・・・というエピソードが、帰営してからもしばらくは語り継がれたかもしれない。どなたか、そのような風聞を憶えておいでの、元陸軍関係者はいらっしゃるだろうか? 余談だけれど、うろ憶えで恐縮だが向田邦子Click!のエッセイにも、陸軍の行進を横切った話がどこかに登場していたかと思う。
 さて、その陸軍の作戦中枢である市ヶ谷の参謀本部に勤務していて、その“神がかり”的な精神論と非論理性や組織的な腐敗から、陸軍という存在自体を「いつさい無価値」であり、「責任を問うべき醜悪」な集団であると断罪する日記を書いていた、当時は東京帝大生の中井英夫Click!は戦後、作家として旧・下落合の西部へ住みつくことになる。
 陸軍が武装解除され解散したあと、目白通りには中国軍の兵士の姿が目につく時期があったようだ。特に、目白駅周辺ではよく目撃されている。戦後しばらくして、旧・下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)に住み、代表作のひとつである『虚無への供物』Click!を執筆した中井英夫は、戦後もつづけていた日記Click!へ、当時の目白駅界隈の様子を記録している。『続・黒鳥館戦後日記-西荻窪の青春-』(立風書房)から、1947年(昭和22)10月6日の記述を引用してみよう。
  
 十月六日 ゆふべより雨
 (中略) 昨夜、目白駅、妖艶なる支那美人ふたり、化猫のごとき支那兵とあり。/目白風なインテリ、といふものがあるらしい。みな、横顔端麗なり。/発見ひとつ、高田の馬場はタカダノババとよむらしい。/高橋義孝先生宅。べつだんの御話なし。千枚の「生命」なる原稿あり。
  
中華民国公使館官舎1926.jpg 中華民国公使館官舎1938.jpg
 中井英夫もまた、高田馬場駅Click!を徳川幕府の練兵場である「たかたのばば」と同じ発音で呼んでいたものが、それとは無縁の「たかだのばば」であることを、このとき初めて認識している。それはともかく、ここに記録された「支那兵」とは、日本を占領するために進駐してきた連合軍の一員である、中華民国軍の兵士たちだろう。なぜ、中国軍兵士の姿が目白駅とその周辺で見られたのだろうか? おそらく、近くに連合軍が接収した施設があったと思われるのだが、もうひとつ、下落合には戦前から気になる施設が存在している。
 旧・下落合326番地(現・下落合2丁目)には、おそらく大正時代の早い時期に、中華民国公使館官舎の大きな建物が建設されている。中国人学生の留学先である目白通りの東京同文書院Click!目白中学校Click!や、上屋敷の宮崎滔天邸Click!、その南にあたる下落合538番地の川島邸(別邸?)から、池袋駅西口の豊島師範付属豊島小学校へ通っていた「東洋のマタ・ハリ」こと川島芳子Click!(愛新覚羅顕紓)など、なにかと革命前後の中国とのつながりが濃い下落合とその周辺なのだが、その関係が機縁となって中国軍が進駐していたものだろうか? この公使館官舎は、1944年(昭和19)に撮影された空中写真には見えているので、1945年(昭和24)5月25夜半の山手空襲Click!で焼失していると思われる。
 七曲坂の庚申塚Click!に隣接する、この中華民国公使館官舎について地元の方々へうかがっても、はっきりしたご記憶をお持ちの方はおられない。昭和初期に落合第四小学校Click!へ通われており、権兵衛山(大倉山)Click!の近くを通過され、取材でお世話になっている堀尾慶治様Click!斎藤昭様Click!杉森一雄様Click!などのご記憶もはっきりしない。これはわたしの想像だが、1931年(昭和6)の「満州事変」以来、下落合の同公使館官舎は機能しておらず、日中戦争の激化とともに廃屋同然になっていたのではないだろうか。空中写真で見ても、その屋根の規模からして大きな建物だったことがわかるのだが、地付きの方にうかがっても同館の印象はきわめて薄い。
中華民国公使館官舎1936.jpg 中華民国公使館官舎1944.jpg
 本国で弾圧されていた、民主主義者Click!社会主義者Click!など革命の亡命者たちも含め、なにかと中国とのつながりが濃い落合地域とその周辺域(新宿地域)なのだが、目白駅周辺で進駐してきた中国兵の姿が見られたのも、なにか戦前からの深い機縁やつながりを強く感じるのだ。

◆写真上:森山様が陸軍の分列行進を突っ切った、下落合四丁目バス停あたりの目白通り。
◆写真中上は、ときどき陸軍が行進していた1935年前後の目白通りで小川薫様Click!のアルバムより。は、旧・目白駅のコンクリート階段()と駅前に保存された目白橋の欄干()。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に描かれた中華民国公使館官舎。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同官舎。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる中華民国公使館官舎。は、1944年(昭和19)の空襲直前に撮影された同官舎。現在は、宅地と落合中学校のグラウンドになっている。

85歳の小島善太郎へ檄を飛ばす里見勝蔵。

$
0
0

里見勝蔵「女」1930.jpg
 1930年協会のメンバーClick!の中で、小島善太郎Click!は91歳(1984年没)、里見勝蔵Click!は85歳(1981年没)と、ともに長命だった。ふたりは、死去するまで交流をつづけている。1978年(昭和53)に読売新聞社から出版された『里見勝蔵作品集』には、85歳の小島善太郎が82歳の里見勝蔵に向け、「人間としての里見勝蔵君」という文章を寄せている。
 その中で、お互いずいぶん仕事をして歳もとったのだから、もうそろそろ世間を相手にするのはやめたらどうだ?・・・という小島に対し、里見勝蔵が激昂するシーンが記録されている。もともと、物語を綴るのが好きClick!だったらしい小島善太郎は情景描写が細やかなので、そのときの表情までが目に浮かぶようだ。同画集に寄せられた、「人間としての里見勝蔵君」から引用してみよう。
  
 よく私は里見君に言うのだ。/「君は、もうこれだけの仕事をしてきたのだ。この道は何処までも孤独だ。だからもっと静かに自分を掘り下げて、世間相手から手を引いたらどうだ」/すると、私の言葉も終わらないうちに叫ぶのだ。/「おい小島!! 日本の今の抽象派に我慢が出来るか。生活のリアルがどこにある。人間のほとばしるような情熱があるのか。近ごろの絵には我慢が出来ないのだ。君も来てくれ。もう一度、この写実を徹底しようではないか」/と私に何回も呼びかける里見君なのだ。/君も私も、お互いに八十歳を越して晩年を迎えた。
  
 里見の言葉からは、ヨーロッパの協和音を壊しはじめた音楽家たちへ向けられた既成音楽家たちの怒声を、またモードやフリーイディオム、ビートや楽器の異なるエレクトリックサウンドに対して向けられた、バップこそJAZZだと固執しカテゴライズしたがりな偏狭者の罵声と同質の、保守的な臭いを感じてしまうのは否めないのだけれど、歳をとってもいまだ表現欲がギラギラしていた里見勝蔵の様子を垣間見ることができる。大正末から昭和初期にかけ、里見勝蔵は女性の裸体像(「赤い女」シリーズ)を連作していた。小島善太郎は、里見の仕事や性格をこう表現している。
  
 「俺は女が好きだ」と、里見君の挑戦が始まったのだ。(中略) このころ描いた絵は、これに類する傑作が多い。里見君特有の芸術だ。ここにはヴラマンクもいなければ、ルオーもない、そしてマチスのフォーヴィズムもない。虚礼を捨てて裸になり、純化された本能的人間性を追求し、描きこんできた。この意味で、日本のフォーヴは里見君が代表していると言ってよいと思う。君独りが生んだ世界なのだ。/一方、里見君の性格には、我儘で、一刻で、時には人を踏みにじってでも突進する激しさがある。そのエゴイズム、その強引さには、仲間もついていけない時がある。しかし、それが、君の芸術を創り出す原動力でもあるのだろう。
  
里見勝蔵「下落合風景」1920.jpg 小島善太郎「戸山ヶ原」1927.jpg
 里見勝蔵については、親切で世話好きな、育ちのよい京都のボンボンのようなイメージを持っていたのだが、非常に我が強くて激しい一面を近しい友人たちには見せている。自分の思いどおりにならないことや、自身のいうことを受け入れない相手に対しては、容赦のない一面があったことを小島は書きとめている。小島自身も、「ヴラマンクに会え!」という里見の奨めを、「私には私の考えがあった」ので断ると、里見は腹を立てて一時は絶交状態のようにもなったらしい。とても親切で世話好きの反面、自分の思いどおりにならないとすぐに激高してしまうのは、わがままに育ったボンボン(関東では「ぼうや」ないし「ボクちゃん」)の特長なのだが、いい意味でも悪い意味でも里見勝蔵は生涯、そのような性格のままでいたように思われる。
 池袋の里見アトリエに集って、さまざまな楽器を演奏していた「池袋シンフォニー」Click!については、以前に佐伯祐三Click!の美術マップでもチラリと触れたが、里見はパリでも同様の音楽会を開いていた。山田新一Click!が証言するように、このときも里見が第1ヴァイオリンで佐伯が第2を担当していたのだろうか。佐伯の音楽好きは、兄・祐正と里見の影響が大きかったと思われる。
  
 佐伯祐三の仕事も、この里見君の友情、感化が大きかったと特記しなければならないと思う。もし里見君がいなかったら、佐伯の仕事はどうなっていたか。だから里見君にいわせれば、俺の後輩で、その意味では優越を許さない面があるのだと。/我々のパリ留学は、いつものしかつめらしい画論ばかりではなかった。/里見君がヴァイオリンを弾く。集まった連中が唄をうたい、踊りをおどったりで、楽しく遊んで一夜が更けていく日もよくあった。里見君は音楽家になろうか、画家になろうかということもあって、時には、エルマン・イザヤのヴァイオリン、あるいはオーケストラ、グノーとベルリオーズの、ゲーテの「ファウストの地獄落ち」のオペラなどに誘ってくれたのも里見君だった。/また佐伯と里見君が写真Click!に凝って、絵も描かずに没頭した一時期があった。今日、数少ない佐伯の当時の写真が残っているのも、そんな時のものであったわけである。
  
小島善太郎1924.jpg 里見勝蔵1924.jpg
 このような証言に接すると、第1次渡仏における佐伯の行動が、里見勝蔵とウリふたつなのに改めて気づく。この時期、佐伯の芸術的な表現や行動の規範、あるいは生活における活動の指針として、常に里見の存在があったのではないか。里見と佐伯が肩を並べているのではなく、里見が中心にいて、佐伯がそのまわりを周回している衛星のように思えてくるのだ。のちに、その「俺の後輩」が圧倒的な仕事をして逝き、なかば伝説化された存在となり、戦後になると佐伯の名前が急速に高まるにつれ、里見勝蔵はどのような想いでいたものだろうか?
 小島善太郎は、ヴァルモンドア近くのネル・ラ・ヴァレで仕事をする佐伯の姿も書きとめている。
  
 里見君が案内役で、佐伯夫妻と私と四人、丘に富んだ、貧しいフランス特有の農村であったが、小川あり、牧場ありで、心ゆくまでその景色にひたったものだった。里見君の代表作の一つになった「ホテル・デ・ザルチスト」も、ここで制作したものであった。写生が終わって帰途、それぞれのポケットをりんごで一杯にして部屋に戻ると、それを米子さんが砂糖煮してくれ、みなで食べたことなども想い出されてくる。/そんな旅行の中で、夕方になっても佐伯が帰ってこない。みなが心配そうに顔を曇らしていると、キャンヴァスを抱えて、遅くなって宿にたどり着いた。彼はそこから二里もある隣村の、さびれたカトリック教会を見つけて描いていたというのだ。佐伯は歩くことには向こう見ずで、多数の作品は、そうした健脚にものをいわせて貪欲に描いたものが多い。こんな時に僕は、佐伯の詩人的一面を知ったりした。
  
 『下落合風景』Click!を観ていても感じるのだが、かなり健脚だったらしい佐伯は目白崖線を東へ西へ、しかも1日に何度か往復している様子さえうかがわれる。広い旧・下落合(中落合・中井2丁目含む)を、おそらく1日に4~5km前後歩いている日もめずらしくはなさそうだ。しかも、ネル・ラ・ヴァレと同様に坂道がやたら多い下落合の地形だ。このへんでは見馴れない風景(画)を観るにつけ(たとえば『堂(絵馬堂)』など)、きょうはどこまで歩いていったのやら?・・・と思うことがある。
里見勝蔵アトリエ(パリ).jpg 里見勝蔵「少女」1928.jpg
 先ごろ、チケットをいただいたので板橋区立美術館へ、「ようこそ、アトリエ村へ! 池袋モンパルナス展」を観に出かけた。里見勝蔵が「我慢が出来ない」らしい、シュールで抽象的な作品のオンパレードなのだが、ようやく着いた美術館の入り口には、前回の「不便でゴメン(>_<)」改め、「来て見てニッコリ(^_^)」の幟がはためいていたのには笑ってしまった。板橋区立美術館には、とてもオチャメな学芸員の方がおられるようだ。

◆写真上:独立美術協会が結成された、1930年(昭和5)制作の里見勝蔵『女』。
◆写真中上は、1920年(大正9)に描かれた里見勝蔵のめずらしい『下落合風景』。わたしには大正初期から七曲坂の上、下落合323番地に住んでいた東京美術学校の恩師・森田亀之助邸のような気がしている。後年、里見は下落合630番地の「森たさんのトナリ」に転居してくることになる。は、実家と墓が下落合にあった小島善太郎が1927年(昭和2)に描いた『戸山ヶ原』。
◆写真中下:ともに、1924年(大正13)ごろにパリで撮影された連続写真。手前中央が小島善太郎で左側が林龍作Click!、後列が里見勝蔵(左)と前田寛治(右)。
◆写真下は、パリのアトリエでの里見勝蔵。は、1928年(昭和3)制作の里見勝蔵『少女』。

ルンバもサンバもボサノバもある珈琲。

$
0
0

コーヒータイム.JPG
 わたしがコーヒーを飲みはじめたのは、ハッキリと記憶しているわけではないけれど、中学生になってからのことだったと思う。当初は、もちろんインスタントコーヒーで広く普及していた「ネスカフェ」だったのではないか。ちがいがわかる男の・・・というキャッチで、フリーズドライ製法により販売された高級インタントコーヒーなど、親は買ってくれなかったと思う。
 わたしの家ではコーヒーがあまり好まれず、煎茶と紅茶が多かった。だから、どこかコーヒーにあこがれていた時期が子どものころにはあった。「コーヒーを飲むと、胃腸によくないし眠れなくなるから」というような理由で、小さいころにはコーヒーを止められていた憶えがある。でも、いまでは煎茶や紅茶のほうが(いれ方にもよるが)カフェインが強いことが判明しているから、わが家ではコーヒーを禁止した憶えはないのだけれど、子どもたちはあまり口にしない。
 インスタントコーヒーのピンと張った封の端を開けたときの、あのなんともいえない香りとコーヒーブラウンの粉色に、大人びた世界を感じたものだ。インスタントと名のつくものは、たいてい日本で発明された製品が多いけれど、インスタントコーヒーもまた日本人の創作らしい。米国在住の化学者・加藤サトリという人物が、1899年(明治32)に緑茶の「可溶性茶」製法を応用して、コーヒー抽出液を真空乾燥させて発明し、1901年(明治34)のパンアメリカン博覧会に出品。これが、インスタントコーヒーのはじまりとされている。その後、彼は加藤珈琲会社を設立しているが、当初は製法に問題があり大量生産は不可能だったらしい。のちに、米軍がインスタントコーヒーを採用して、日米戦争の前線へ大量に供給していたのは、どこか皮肉なエピソードだ。
 わたしは、休日というと外出するので喫茶店Click!を利用することが多いが、いわゆるチェーン店の「カフェ」は、なにもない街でよほど休憩場所に困るか、タクラマカン砂漠のヘディンのように喉がカラカラに乾いていない限りは利用しない。理由は単純で、うまいコーヒーに出あったためしがないからだ。1970~80年代にかけ、世界でコーヒーの美味しい3大国として、オーストリアやイタリアとともに日本の名が挙がっていた。別に日本国内で自家焙煎、いや手前味噌としていわれていたわけではなく、世界のコーヒー愛好家がリストアップした、最上位の3ヶ国だった。
 これは、まちがいなく層が分厚かった日本の「喫茶店」文化が支えていたものだろう。どんな小さな店でも、喫茶店を名乗るからにはその店ならではのコーヒーの風味には気をつかう・・・というのは、おそらく世界でもまれな現象だったにちがいない。そんな喫茶店が、街角から次々と姿を消している現状では、日本のコーヒー・ランクはどこまで落ちてしまったものだろうか。「美味しいコーヒー」の基準を知らない若い子たちは、チェーン店のカフェやハンバーガーのコーヒーの風味を、デファクトスタンダードとして鼻や舌にのせて基準化しているのだろうか?
インスタントコーヒー.JPG 喫茶店鎌倉.JPG
 親からの独立資金稼ぎのため、学生時代にアルバイトをした喫茶店Click!では、バイトという立場なのにもかかわらずコーヒーの知識やノウハウを、店主や先輩からたたきこまれた。1970年代後半のコーヒー事情なので、いまでは古びてしまった知識やノウハウもあるのだろうが、そのときの経験はいまでも香りや舌の記憶として残っている。世界で生産されるコーヒー豆は、およそ200種類ほどあるのだが(植物学的には約4,000種類ほどにもなる)、アルバイト先ではその中から選んだストレート、および組み合わせであるブレンドを40種類ほど出していた。
 名前を憶えるのもたいへんだけれど、それぞれのコーヒー豆の特徴を理解して、挽き方やいれ方にも注意を払わなければならなかった。なぜか、アルバイトのわたしには関係のない、各種コーヒーの生豆を最適に煎った場合、それぞれの銘柄でどのぐらい目方が軽くなるのか・・・といった煎豆製法(豆ごとの1.3強~1,7弱%の最適焙煎)の工程まで教えてくれた。残り少なくなったコーヒーを注文すると、こちらが指定したレベルの焙煎で豆がとどくので関係のない知識なのだが、コーヒーに関することはなんでも教えてくれた。厳密には8段階の焙煎レベルがあるのだが、日本の主要コーヒー豆メーカーでは3~5段階が主流だとか、海岸べりで育ったコーヒーの生豆は「女の匂いがする」などは、先輩のボソッとしたつぶやきだ。
 喫茶店としてはめずらしく、フレンチロースト(おもにウィンナーコーヒー用途だがストレートで注文するお客さんもいた)や、イタリアンロースト(おもにエスプレッソ用途だが同じく好きな方はストレートでの注文がきた)、ジャーマンローストもメニューに加えており、しばらくしてカウンターをまかされたわたしは、世界中のコーヒーを煎りたての豆で味わうことができた。要するに、仕事がヒマなときは品質チェックと称して、こっそり盗み飲みしていたわけだが、酸っぱいモカやハワイ・コナ、メキシコは総じてあまり好きではなく、甘みのあるコロンビアやハイチ、ブルー・マウンテン(もちろん低地の安価な豆だろう)はいまいちシャキッとせず、苦いブラジルやジャワ・ロブスター、マンデリン、コスタリカなどが好みだった。でも、これは当時のことで、最近は味覚にも遅ればせながら幅ができたのか、酸味が強くタンニン分の多いものや、アロマ臭が強い甘めのコーヒーも、それなりに楽しむことができる。ローストの強い苦みが口いっぱいに拡がるコーヒーは、いまよりもよほど炒り方が深かった戦前の珈琲の風味を、懐かしんでいる年代のお客さんが多かったように感じた。現代では、ロースト系のコーヒーをそのままストレートで頼むお客は少ないだろう。ちなみに、アルバイトをしていた店では、コーヒーはすべてサイフォンでいれていた。
 日本ではその昔、コーヒーはインテリの飲み物で、その次は「喫茶店」文化からだろうか、恋人たちの語らいの飲み物として小説や詩など、さまざまな芸術のテーマに取りあげられている。親たちの世代では、戦前の「♪一杯の珈琲から~夢の花咲くこともある~」が想い浮かぶだろうが、わたしが子どものころは「♪夜明けのコーヒー~二人で飲もうと~」が印象的だった。
喫茶店早稲田.JPG
喫茶店大久保.JPG 喫茶店新宿.JPG
 日本に喫茶店ができたのは、1888年(明治21)に下谷の黒門町(現・上野)に開店した「可否茶館」が嚆矢だとされているけれど、当然、それ以前の鹿鳴館にも喫茶室はあっただろうし、江戸末期の築地にあった外国人居留地の「西洋館(精養軒)ホテル」(のち上野精養軒Click!神田精養軒Click!)にも、コーヒーを飲ませる喫茶室はあったと思われる。「可否茶館」につづいて、浅草の「ダイヤモンド珈琲店」と日本橋の「メイゾン鴻ノ巣」、銀座の「台湾喫茶店」とつづくのだが、銀座に「カフェ・プランタン」と「カフェ・パウリスタ」が開店したころから、コーヒーブームに火が点いたのだろう。わたしは銀座を歩くと、いまでも開店している「カフェ・パウリスタ」にはときどき寄る。典型的なブラジル豆のやや深煎りで、こくと苦みがいのちのコーヒーだ。
 戦前、コーヒー豆の輸入量は増えつづけ、1937年(昭和12)にはついに8,570トンに達して、コーヒーブームのピークを迎えている。でも、日米戦争がはじまると輸入がまったく途絶え、日本の“コーヒー文化”は軍国主義一色のなかで一度死滅している。「敵国の飲み物」などという、わけのわからないタワゴトが叫ばれたのもこのころだ。中国から輸入され、移植された茶(それでいれた緑茶および紅茶)も「敵国の飲み物」だが、ご都合主義者たちは口をぬぐったまま都合の悪い史実には目を向けない。戦時中も敗戦直後も、親の世代では大豆やゴボウ、タンポポの根を干して煎じたものなど「代用珈琲」が用いられていた。戦争が終わっても、食糧確保にせいいっぱいな日本にコーヒーは輸入されず(親父がバイトしていた米軍のPXなどにはふんだんにあったのだが)、ようやく輸入が正式に再開されたのは1950年(昭和25)になってからのことだ。そのときの輸入量は163トンと、1937年(昭和12)の50分の1にも満たなかった。
 戦後のピークは2006年(平成18)で、輸入量は45万8,507トンと膨大な量になっている。世界の市場でみると、1位の米国と2位のドイツに次いで、日本は3位のコーヒー輸入(消費)国だ。輸入元はブラジルがダントツで、2位にベトナム、3位にインドネシアがランキングされている。
 「カフェ杏奴」Click!の後継店として、4月から下落合にオープンした「エリア8カフェ」Click!だが、杏奴時代と変わらない「杏奴ブレンド」や「杏奴カレー」を置いている。わたしは休日や下落合の取材帰りに、端末をもって原稿書きに出かけるたび、アイス/ホットともに「杏奴ブレンド」を注文していたのだけれど、先日、ランチセットで初めてエリア8のアイスブレンドを味わった。杏奴のアイスブレンドとは対照的な風味で、ミルクやガムシロップがいらないほど“甘く”てやわらかい。杏奴ブレンドのアイス/ホットは、苦み走ったキレとコクがいのちで尖がっていたのだが、エリア8のアイスブレンドは丸みがあってまろやかだ。また、エリア8のホットブレンドは酸味が舌の上で強くふんばり、ランチメニューなどの料理によく合うだろう。
 食事も美味しく、「玄米おにぎりプレート」の惣菜の品数が多いのにはビックリしてしまった。わたしのお気に入りは、鶏の胸肉と刻んだラッキョウをマヨネーズ風ドレッシングであえたトーストサンドだが、これがエリア8の酸味がキリリときいたブレンドとよく合う。なぜ、このトーストサンドが気に入ったのか、あれこれ考えてみたのだけれど、余計なものを付け足さず妙に飾らない素直な美味しさが、どこかわたしの味覚に合う“下町”風Click!だからなのかもしれない。
喫茶店銀座.JPG
鶏肉とラッキョウのトーストサンド.JPG エリア8ブレンド.JPG
 余談だけれど、先日、目白駅の改札を出た駅前広場で杏奴の元・ママさんとバッタリ鉢合わせをし、思わず両手で握手し180度ターンしてしまった。ちょうど、わたしとは入れちがいに目白駅から実家へもどられるところだったのだが、いつもと変わらずとても元気な様子だった。

◆写真上:家ではペーパードリップ方式によるコーヒーで、豆はブラジルを主体としたブレンド。
◆写真中上は、子どものころにあこがれた「ちがいがわかる」かどうかは微妙なフリーズドライ製法のインスタントコーヒー。は、鎌倉駅舎を眺めながら山歩きの疲れをコーヒーで癒す。
◆写真中下:懐かしい喫茶店で、早稲田()と大久保(下左)、そして新宿(下右)。
◆写真下は、天井のシャンデリアに壁面には東郷青児の女性像が架かる、いかにも昔ながらのありがちな銀座の喫茶店。下左は、下落合はエリア8カフェの「鶏の胸肉とラッキョウのトースト」で、わたしがお気に入りメニューのひとつ。下右は、同店のコーヒーカップ。


街の風情という「景観法」の視座から。

$
0
0

日暮里富士見坂01.JPG
 江戸東京で「富士見」と名づけられた坂道や町名は多いが、今年の夏、実際に都内で富士山が眺められる唯一の坂道になっていた荒川区の日暮里富士見坂から、その眺望が消えてしまった。世界遺産委員会のイコモス(同委員会諮問機関)から、アロウズ委員長名で「眺望遺産」決議の書類が荒川区へととどけられた直後のことだ。また、同富士見坂は2004年(平成16)に国土交通省から「関東の富士見100景」のひとつにも選ばれていた。眺望が失われた理由は、文京区千駄木3丁目の不忍通りにできた高層マンションの建設によるものだ。
 日暮里富士見坂は、谷中散歩のコースにも必ず入れられる名所であり、江戸期には飛鳥山の花見や王子稲荷Click!の参詣へと向かう、江戸市民の重要な幹線道に接した歴史的にも多くの物語が眠るポイントだ。尾根筋からは、西に富士山、東に筑波山が眺められた眺望のきく有数の地域であり、ここからの眺めをモチーフに制作された絵画作品も多いだろう。ちなみに、日暮里富士見坂は下落合へアトリエを建てる直前の中村彝Click!中原悌二郎Click!などの下宿Click!、あるいは下落合の近衛町Click!に住んだ岡田虎二郎Click!静坐会Click!をもよおし、新宿中村屋Click!相馬黒光Click!らが通った本行寺の、ちょうど裏手にあたる坂道だ。
 「日暮里富士見坂を守る会」Click!の池本達雄様から、「下落合みどりトラスト基金」Click!が進める“タヌキの森”の緑地公園化を求めるたくさんの署名とともに、同会の資料をお送りいただいたのは10月の初めのことだった。日暮里富士見坂のことは、ニュースや新聞で見聴きして知ってはいたけれど、実際にマンションが起工されてから同富士見坂を訪れていなかったわたしは、さっそく出かけてみた。富士見坂に立ってみると、すでにマンションは竣工に近い状態で、富士山はまったく隠れて見えなくなっていた。しかも、同マンションの外壁色がダークグレイないしは黒色で、周囲の景観や風情とはまったく調和せず、異様な感じをうける。
 日暮里富士見坂の眺望を守るために、荒川区では自治体や建設業者へ向けたアピールの意味もこめたパンフレットを作成している。西川太一郎区長の呼びかけを、全文引用してみよう。
  
 古来から富士山は、我が国を象徴する山として誰からも愛されてきました。現在、都心部には16箇所の富士見坂と呼ばれる坂があり、この中で唯一名前の通り富士山を眺望できる場所は、日暮里富士見坂だけです。/日暮里富士見坂は、平成16年に国土交通省より「関東富士見100景」に選ばれ、「東京富士見坂」として選定されるなど、荒川区のみならず、東京都の貴重な歴史的風景遺産として、将来に引き継いでいくことが大変重要なことであると認識しております。また、平成24年5月には、イコモス(国際記念物遺跡会議)から、荒川区をはじめ、新宿区、台東区、文京区、豊島区及び東京都に対し、日暮里富士見坂からの眺望の保全に関する要請書が送付されました。荒川区としては、このイコモスの決議を重く受け止めているところであります。/こうした中、日暮里の富士見坂から富士山を望むビスタライン上の関係者の皆様には、この趣旨を御理解のうえ、建築計画にあたっては、是非とも、御協力をお願い申し上げます。
  
 政府は、2004年(平成16)に「景観法」を制定しているが、この法律を実際に活かした取り組みをしようとする自治体や地域、団体はまだまだ数が少ない。良好な景観を整備・保全するという基本理念のもと、行政や住民、事業者がともに景観や住環境の保全を考えるケーススタディなど、皆無に近い。1964年(昭和39)の東京オリンピックで、日本橋の上に架けられた高速道路に象徴される、地域の安全性無視(防災インフラの食いつぶしClick!)やコミュニティ破壊(町殺しClick!)がなされたままの(城)下町Click!の惨状を見れば、都内ではほとんど絶望的とすら思えてくる。
日暮里富士見坂を守る会パンフ.jpg 荒川区景観法パンフ.jpg
 下落合の“タヌキの森”事例のように、多くの場合は行政(違法認定・裁定を繰り返した新宿区建築課や新宿区建築審査会)と建設業者が「結託」して、地域住民と対立する構図が多いのだが、日暮里富士見坂のケースは地域住民と行政が一体となって、景観を破壊しようとする建設業者と対峙しているところが、これまであまり例を見ない新しい取り組みだ。
 今年(2013年)に入り、「日暮里富士見坂を守る会」や荒川区は、千駄木の高層マンションが解体される50年後を見こし、富士山の眺望が担保されるよう未来へ向けた取り組みを早くもスタートしている。そして、眺望ライン(ビスタライン)に関係する西隣りの文京区をはじめ、台東区や豊島区、新宿区へ向けた高層ビルの建設に関する要望や働きかけを行っている。以下、新宿区の中山弘子区長あてに出された、大久保3丁目に建設中のビルに関する要望書を引用してみよう。
  
 新宿区長 中山弘子様
 日頃より景観への深いご理解に心より感謝申し上げます。貴区大久保3丁目の住友不動産による超高層ビル建設計画に対し、日暮里富士見坂からの富士山の眺望への配慮を通告していただきましたことは、力強いお取り組みと感謝いたしております。/この度、イコモスより富士山を世界文化遺産に登録するよう勧告が出されたことは喜ばしい限りですが、昨年来、東京都荒川区にあります日暮里富士見坂からの富士山の眺望につきましては、胸の痛くなる日々が続いております。日暮里富士見坂を守る会は、日暮里富士見坂からの富士山の眺望を文化遺産と位置づけ、都心に唯一残された地面に立って富士山を望める富士 見坂の眺望の保全に向け、力を尽くしております。歴史的景観である日暮里富士見坂からの富士山の眺望の保全のためのご指導と、広域景観形成へのさらなるお取り組みを改めてお願いしたく、要望書をお送りいたします。
 【日暮里富士見坂からの眺望保全への要望書】
 1.貴区大久保3丁目の住友不動産による超高層ビル建設工事が再開しておりますが、引き続き日暮里富士見坂からの富士山の眺望保全への配慮および計画変更を含めた善処を建築主に対しご指導いただけますようお願いいたします。
 2.貴区におかれましては歴史的眺望の保全のためのご活動と、行政界を超えた広域景観形成へのさらなるお取り組みをお願いいたします。
  
日暮里富士見坂02.JPG
日暮里富士見坂03.JPG 日暮里富士見坂1990.jpg
 さて、下落合の“タヌキの森”のケースは、1地域の案件としてとらえるなら、誰が見ても非常に荒っぽくかつお粗末な建築基準法違反の顛末にすぎないのだが、視界をもう少し拡げるならば、新宿区が提唱する「七つの都市の森」構想Click!に直結する案件であることに気づく。中山区長をはじめとする新宿区(建築課は知らないが)は同構想において、目白崖線沿いの落合地域につづくグリーンベルトを全的に保全、ないしは復活させる計画を推進中だ。
 そして、「日暮里富士見坂を守る会」や荒川区による景観あるいは環境保全の視座から、改めて“タヌキの森”さらには新宿区による「七つの都市の森」構想を眺めるなら、目白崖線に連なるグリーンベルトの課題は新宿区のみにとどまらず、西隣りの中野区に位置する和田山Click!(井上哲学堂Click!)はもちろん、東隣りの豊島区にある学習院Click!の森、さらに文京区の目白台Click!から椿山(旧藤田邸)Click!へとつづくテーマであることに、期せずして気がつくことになる。
 わたしとしては、行政が率先して落合地域の緑を増やす計画には賛成なのだが、それにはこれ以上グリーンベルトを寸断する大型開発や、補助73号線計画Click!に象徴的な大道路を建設せず、目白崖線沿いの景観や環境をさらに悪化させない・・・という前提条件がともなう。そして、日本橋を中心とする下町の行政には、関東大震災Click!で担保された防災インフラをできるだけ多く復活させて次の震災に備え、安全性のみならず景観や環境を意識した街づくりを進めてほしい。下町は名所旧跡だらけなのに、震災や空襲Click!の被害に遭っているとはいえ、わずかに残った面影や景観を顧みずに壊しつづけた、「なにもない」殺風景な街づくりには、もうウンザリなのだ。
日暮里富士見坂ダイヤモンド富士.jpg 下落合タヌキの森ダイヤモンド富士.jpg
新宿区「七つの都市の森」構想.jpg
 日暮里富士見坂は、冬場の“ダイヤモンド富士”が見られる美しい坂道としても人気があった。下落合の丘上や坂道からは、いまでもきれいに見ることができるけれど、ダイヤモンド富士とは富士山頂に沈む、黄金色に輝く夕陽のことだ。東京では11月中旬と1月下旬に見られるのだが、同富士見坂からダイヤモンド富士が再び眺められるのは、推定あと50年は待たなければならない。それとも、その前に大震災が再び東京を襲い、高層ビルの住民たちは自宅が倒壊していないにもかかわらず、エレベーターシャフトが歪んですぐには修復できずに、毎日の食料や水を上層階まで階段で運び上げざるをえず、ようやく自分たちが「震災難民」化していることに気づいて、高層ビルから離れるのだろうか。そして、焼け残り廃墟化した高層マンション群は、解体されるか、少なくともハシゴ車がとどいて消火が可能な階まで減階化される日が、50年より前にくるのだろうか。

◆写真上:富士山の眺望が、黒いビルに遮られて見えなくなってしまった日暮里富士見坂。
◆写真中上は、「日暮里富士見坂を守る会」が発行した景観保全のパンフレット。は、荒川区が作成した日暮里富士見坂の眺望保全と景観を訴えるパンフレット。
◆写真中下は、現在の日暮里富士見坂の様子。下左は、富士山型の透かしで親しまれている谷中散歩ではおなじみの街灯。下右は、1990年(平成2)に撮影された富士見坂からの眺望。(「日暮里富士見坂を守る会」パンフレットより/撮影:石川正様)
◆写真下上左は、日暮里富士見坂から眺めた富士山頂に沈むダイヤモンド富士の夕陽(荒川区パンフレットより)。上右は、下落合の“タヌキの森”から眺めた1月下旬のダイヤモンド富士(撮影:武田英紀様)。は、新宿区が推進する「七つの都市の森」のうち落合地域の崖線全域で計画・推進されているグリーンベルトの保全・復活。
いつもどおりわが家から録音した、今回はヒヨドリがかまびすしい下落合の晩秋サウンド。

下落合の同志会と目白文化村の同志会。

$
0
0

同志会解散記念193904.jpg
 以前、目白文化村Click!の第一文化村を中心に1932年(昭和7)に結成された、生活協同組合「同志会」Click!についてご紹介したことがあった。「同志会」は、下落合の東部にあった家庭購買組合Click!と同様、住民たちが出資し協同で購入した食料品や日用品などを、市価よりも1割ほど安く販売していた。同志会の事務所には会員が常駐しており、夜間に調味料や酒を切らしても、会員なら同会販売所へ行けばすぐに購入することができた。
 ところが、「同志会」という下落合の地域団体は、目白文化村で生協組合としての同会が成立するはるか以前、東京府が目白通り沿いにプロジェクトを起ち上げていた落合府営住宅Click!のうち、第一府営住宅の建設計画が動きだしていた1911年(明治44)12月に結成準備の集会が開かれ、翌1912年(明治45)1月に総会を開催して発足している。しかも、同会の会則(1922年現在)にあるように当初は「落合村仲町」、つまり旧・下落合2丁目エリア(現・下落合3~4丁目/中落合の一部)の住民たちが中心になって設立した親睦組織だったのだ。
 同会の詳細は、たまたま古書店で見つけて手に入れた、1939年(昭和14)出版の『同志会誌』(下落合同志会・編)を参照して初めて知りえたことだ。同書は、新宿区の図書館にも新宿歴史博物館にも収蔵されていない、きわめて貴重な資料だ。つまり、明治期から存在する下落合2丁目界隈を中心とした「同志会」と、1932年(昭和7)より下落合の目白文化村で誕生した「同志会」とは、同名異団体ということになる。これが、下落合の取材過程で、さまざまなややこしい“証言”につながっていたこともわかった。しかも、ふたつの団体は1932年(昭和7)より、下落合東部~中部(下落合の同志会)と下落合中部(文化村の同志会)とでエリアが一部重なっており、目白文化村では双方の「同志会」に加入していた住民がいたかもしれない。
 今日的な課題でいうなら、旧・下落合のおもに東部から中部で語られる「同志会」は、関東大震災Click!を境に町会が成立するはるか以前から、自治組織として活動していた明治末期に由来する親睦・互助団体であり、下落合の中部、特に目白文化村を中心に語られる「同志会」は、生活協同組合として昭和初期に誕生した無教会派クリスチャンがベースの互助団体で、重なった地域の住民が「同志会」と証言する場合、はたしてどちらの組織のことなのかを一歩踏みこんで確認しないと、不十分な取材とともにおかしな記事を書いてしまうことになる。特に第三文化村では、双方の「同志会」加入者がいそうなので要注意だ。
 エリアが重なり、会員も重複しそうな互助団体で同じ名前を採用する際に、なんらかの問題は起きなかったのだろうか? 特に、明治末期に由来する下落合の同志会は、1932年(昭和7)に目白文化村で同志会が発足したとき、「同じ名前だと、まぎらわしいからダメじゃん! やめてちょ~だい」というような申し入れをしなかったのだろうか。あるいは、東京市内のあちこちには「同志会」を名のる地域団体が数多くあり、ほとんど互助団体の一般名称化していた時代だったので、ことさら問題視されなかったものだろうか。ちなみに、下落合の同志会は毎月会費を徴収したけれど、目白文化村の同志会は入会金のみで会費は徴収していない。
 下落合の同志会は、最終的に町会へと併合された1939年(昭和14)の解散当時、同会本部の所在地が「淀橋区下落合2丁目563番地」、つまり地域の金融機関だった落合信用組合Click!のビル内にあり、同信用組合の金融事業もまた同志会が起業したものだ。落合信用組合は、現在の目白病院の西並び、出光ガソリンスタンドの敷地に建っていた、落合地域で暮らす住民向けの金融機関で、同志会が解散したときの役員記念写真は、同信用組合のエントランスで撮影されている。(冒頭写真) つまり、旧・下落合全体からいえば、同志会はおもに現在の山手通りあたりから東側のエリアで暮らす住民たちを中心に結成された、明治末の親睦・互助団体だったのだ。
「同志会誌」装丁.jpg 「同志会誌」奥付.jpg
 結成時の同志会は、住民の「互助親睦」と「福利厚生」を目的に、会員79名からスタートしている。でも、会費(1銭/月)を徴収するこのような団体は地域に馴染まず、大正中期までに会員数は漸減していった。ところが、落合府営住宅が目白通り沿いに建設されつづけ、箱根土地Click!による第一文化村の造成がスタートする1921年(大正10)ごろから、同志会の会員数は急増していくことになる。箱根土地の役員・社員たちや、文化村在住の住民名も名簿には見えている。1911年(明治44)12月の発足準備の段階で制定された、当初の会則(案)は次のようなものだった。
  
第一条 本会ハ会員互助ノ懇和親睦ヲ保チ其福利ヲ増進スルコトヲ主トシ併セテ公共事業
     ノ整備発達ヲ計ルヲ以テ目的トス
第二条 本会ハ落合村住民ノ有志者ヲ以テ組織シ同志会ト称ス
第三条 本会ノ事務所ハ当分ノ内会長ノ宅ニ置ク
第四条 本会ノ事業ハ大略左ノ如シ
-第一項 会員及其家族ニ於テ慶典凶事アリタル場合ニハ其通知ニ依リ慶弔ノ意ヲ表スルコト
-第二項 会員及其家族ニ於テ兵役ニ服スルモノアル場合ニハ其通知ニヨリ相当ノ取扱
       ヲナスコト
-第三項 存立小学校ノ生徒ニシテ毎年三月卒業優等生ニハ奨励ノ為メ会員ノ子弟ニ限リ本会
       ヨリ賞状ヲ与フルコト 但校長ノ指名ニ依ル
-第四項 会員相互ノ便利ヲ計リ且ツ若シ紛議ヲ生シタル場合ニハ成ルヘク調停セシムルコト
-第五項 村内公共ノ事項ニ就テハ成ルヘク同一ノ方針ヲ取ルコト
第五条 本会ノ事業ハ総会ニ於テ議定ス会議ハ議事規則ニ依ルモノトス 但シ緊急ノ場合ニハ
     評議員会ヲ開キ決定シ追テ総会ノ時承認ヲ経ルモノトス
第六条~第八条 (総会および役員選挙の規定のため略)
第九条 第一条ノ趣旨ヲ(ママ)賛同シテ新ニ加入ヲ望ムモノハ官吏名誉職公吏ノ別ナク会員ノ
     紹介ヲ以テ之ヲ諾ス 又事情アリテ退会ヲ申出ルモノニハ之ヲ許スト雖モ在会中ノ会費
     ハ返戻セサルモノトス
第十条 本会会費ハ当分ノ内毎月金一銭ト定メ最寄幹事ヘ毎月十五日ニ納ムルヘシ 前条
     確定ノ上ハ堅ク遵守スヘキモノナリ
                               明治四十四年十二月     同志会
  
同志会1938.jpg 同志会本部跡.jpg
同志会20周年記念豊島園193204.jpg
 会則は、会員数の急増や住環境の大きな変化にともない、1922年(大正11)、1924年(大正13)、1925年(大正14)、1930年(昭和5)、1931年(昭和6)、1932年(昭和7)の都合6回にわたって改正されている。この中で、注目すべき会則改正は、1925年(大正14)に行われた町制移行にともなう大改正だ。最初期の会則第二条の会員規定は、「本会ハ落合村住民ノ有志者ヲ以テ」とされていたものが、1922年(大正11)には「本会ハ落合村仲町住民ノ有志者ヲ以テ」に変更され、1925年(大正14)では「本会ハ落合町二丁目住民ノ有志者ヲ以テ」に変わっている。
 つまり、1924年(大正13)の落合町成立とともに、早くも丁目表記Click!が採用されていたのを、ここでも見てとることができる。(御霊下の下落合五丁目規定はいまだハッキリしないが) 従来の「公式記録」では、丁目の住所表示の採用は1932年(昭和7)の郡制廃止と東京市内への編入、すなわち淀橋区が成立すると同時に規定された住所表記のはずだった。ところが、地元の1925年(大正14)の「出前地図」Click!でも、翌1926年(大正15)の「下落合事情明細図」Click!でも、1927年(昭和2)の「1/8,000の落合町市街図」Click!でも、さらに地元の自治団体である同志会の本資料でも、下落合に丁目が存在した事実を確認できる。下落合の丁目表記を、淀橋区の成立とセットにしたがった政治的ないしは事業的な意図をもつ誰か、あるいは行政側の都合が、どこかにあったのではないかと想定できるのだ。わたしには、不動谷Click!の西への「移動」Click!におぼえる気配や“匂い”と、同質のものが感じられる。
 さて、『同志会誌』を見ていて、ハッキリした画家の描画ポイントがある。それは、松下春雄Click!が1926年(大正15)に制作した水彩画『愉しき初夏の一隅』Click!だ。広い庭園のような風情の中、芝庭と思われる広場に独特な洋風の四阿(あずまや)のような建築を描いた作品だ。『同志会誌』の巻頭には、1932年(昭和7)に開催された創立20周年の記念写真が掲載されている。同志会の役員メンバーの背後には、松下春雄が描く洋風四阿がはっきりと写っていた。創立20周年の総会は、同年4月10日の午後1時から5時まで豊島園で開催されている。つまり、わたしが第四府営住宅に近接した公園か?・・・と、疑問符のまま宿題にしていた松下春雄の『愉しき初夏の一隅』は、下落合風景ではなく、松下が描く一連の豊島園シリーズに位置づけられる作品だったことがわかる。この洋風四阿は、豊島園の野外劇場に隣接して建てられた野外音楽堂だった。
松下春雄「愉しき初夏の一隅」1926.jpg
豊島園音楽堂.jpg
 下落合の同志会は会員数が増え、会の規模が大きくなるにつれて、活動や事業の規模も拡大していった。会員名簿には、下落合に住むふつうの市民から華族までが名前を連ねている。本資料が貴重なのは、年を追って同会に加入していた会員名簿が付属し、住民の推移や慶弔の時期をピンポイントで特定できるからだ。フルネームを記載することさえ「畏れ多」く、「やんごと」なき華族の会員は「〇〇某」などという記述があるのも面白い。下落合753番地の「九条某」Click!をはじめ、このブログではお馴染みの名前が数多く登場してくるのだが、それはまた、別の物語・・・。

◆写真上:1939年(昭和14)4月に、下落合2丁目563番地の同志会本部(落合信用組合)前で撮影された同志会解散の記念写真。背後の信用組合入口には、同会の会旗が見える。
◆写真中上:1939年(昭和14)に出版された、『同志会誌』の表紙()と奥付()。
◆写真中下上左は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる落合信用組合(同志会)。上右は、同志会跡の現状。は、1932年(昭和7)に豊島園の音楽堂で撮影された20周年記念写真。
◆写真下は、1926年(大正15)に制作された松下春雄『愉しき初夏の一隅』。は、おそらく大正末に撮影された豊島園の音楽堂で同園観光絵ハガキに残る1枚。まるで松下春雄のモチーフのように、バラ園で遊ぶ少女たちの姿がとらえられている。

宝珠と狐塚と稲荷社の関係。

$
0
0

尾山台狐塚古墳1.JPG
 下戸塚地域(現・早稲田界隈)にあった古墳を、江戸期に耕地拡張のために崩した際、出土した副葬品(当時はめずらしかったおもに宝玉・宝石類)を近くの寺社へ奉納した伝承は、以前からこちらでもご紹介Click!している。しかし、それらの奉納品はほとんどが関東大震災Click!の混乱や空襲による戦災Click!で焼失あるいは散逸してしまい、現在では所在不明のものが多い。そんな中で、奉納品の様子がしっかり記録に残っているものもある。きょうは、下落合の薬王院Click!とも直結する、寺社に奉納された古墳の副葬品について考えてみたい。
 由来がハッキリしているのは、戸塚(富塚=十塚)地域の現在は早稲田大学キャンパスの下になってしまった富塚古墳Click!(江戸後期は高田富士Click!)から出土したといわれている「宝珠」だ。富塚古墳が玄室まで含めて破壊されるのは、早大の9号館が建設される戦後の1963年(昭和38)のことなので、江戸期の出土状況からみると「宝珠」は富塚古墳の主墳ではなく、近接していた陪墳の玄室が壊された際に出土している可能性もありそうだ。また、主墳の玄室が盗掘されていたとしても、培墳の副葬品が無事なケースはままある。「宝珠」は近くの農民が発見し、おそらく自身の檀家寺だったのだろう、牛込原町の報恩寺へと奉納している。
 明治の末、寺町だった同じ牛込区原町3丁目25番地の願正寺境内に住んでいた、中村彝Click!の下宿先にもほど近い場所なのだが、実は、報恩寺は1869年(明治2)に廃寺となっていて明治初期から存在していない。廃寺とされるにあたり、その“合併”先に選ばれたのが下落合の薬王院だった。では、薬王院に報恩寺の奉納物である「宝珠」が残っているかというと、行方不明のままなのだ。かろうじて、江戸期に書きとめられた記録が現存するのみとなっている。
 古墳から出た「宝珠」は、「龍の玉」および「雷の玉」と名づけられて寺宝とされていたらしい。富塚古墳付近から、1796年(寛政8)に出土したのは「雷の玉」のほうで、杢目のような模様がみられたというから、おそらく縞瑪瑙でできた大きな宝玉だろうか。出所が不明な「龍の玉」も含め、瑪瑙や碧玉Click!、水晶、翡翠、ときにガラスなどで制作された古墳期の副葬品(宝飾類)だと思われるが、現物がないので詳細は不明だ。いまに伝えられていれば、富塚古墳(とその陪墳群)について、かなりのことが判明したと思うと残念でならない。このような特別の宝飾品が副葬されたところをみると、出土した古墳(陪墳?)の被葬者は女性の可能性が高い。
 江戸期の記録に「宝珠」と書かれることが多いのは、このような宝玉はキツネがくわえてもたらすという、当時の稲荷信仰Click!と密接に結びついているからだ。したがって、「宝珠」が出土した富塚古墳のことを、「高田富士」と呼ばれる以前は「狐塚」Click!と呼んでいたことが記録に残されている。そして、富塚古墳に建立されていた水稲荷Click!と並び、「宝珠」がもたらされた狐塚へ小さな稲荷の祠が改めて奉られている。おそらく、全国の狐塚Click!と名づけられた地名あるいは古墳、稲荷社にも、江戸後期に耕地拡張を進める過程で出土した、「宝珠」伝承(副葬品の出土記録)がありそうだ。もし、宝玉が稲荷信仰が大流行する江戸期以前の時代に発見されていたら、おそらく「宝珠」ではなく、別の名称がつけられていたかもしれない。
 廃寺となってしまった報恩寺へ、江戸期に奉納されていたふたつの「宝珠」について、1973年(昭和48)に三交社から出版された芳賀善次郎『新宿の散歩道』から引用してみよう。
竜の玉雷の玉.jpg
  
 牛込柳町交差点から榎町に向う。すぐ左斜めに喜久井町に抜ける一方通行標識の道を進むと右手に天祖神社がある。その西側のマンションのあるところに昔報恩寺があった。(中略) この寺は明治二年ごろ下落合四丁目の薬王院に合併して廃寺になった。(中略) この寺に、江戸時代「竜の玉」と「雷の玉」という珍宝があった。竜の玉は、死んだ竜の卵で、直径約十五センチメートルあるが、雨の降る前には湿気を帯びて大きくなるという。雷の玉は直径約九センチメートルで、乳白色だが少しうす藍色、ねずみ色、うす茶色などの木目のような模様があり、光沢があったという。/雷の玉は戸塚で拾ったものというから、それは富塚古墳(頁略)に落雷した時に、副葬品の飾り玉が、崩れた玄室から飛び出したものだろうといわれている。/この二つの玉は、報恩寺が廃寺になったので行くえが分らない。
  
 キツネがもたらした「宝珠」の記録は、狐塚や稲荷社の存在とともに、落合地域の西側、中野地域でも随所で見ることができる。農家へ代々伝わっていた、シイヤ(シンヤ)の山から出土した「宝珠」の逸話や、原っぱを歩いているときに発見した「宝珠玉(ほうしだま)」を保存していたエピソードなどだ。これらは、もちろん墳墓の副葬品とはとらえられておらず、神がかり的なキツネの仕業と考えられ、多くの場合は出土場所に稲荷社が建立されている。その中の代表的な伝承を、中野地区と新井地区からピックアップしてみよう。引用は、1987年(昭和62)に発行された『中野の文化財No.11/口承文芸調査報告書・中野の昔話・伝説・世間話』(中野区教育委員会)による。
  
 うちにね、宝珠の玉があったんですって。色は白です。それでね、いま、その前の家がマンションになってるけど、以前は山だったんですよ。シイヤの山ってね。シンヤだかわかんないんだけどね。それでね、うちのおやじさんが、どこから入ったのかわからないけど、拾ったんですって、宝珠の玉を。/でねぇ、うちの父親が言うには、白狐が、千年経つとね、額にのっけて歩くんですってね。それでねぇ、その白狐の宝珠の玉を拾ったので、うちも相当困っておったんだけど、それを拾ってから、工面というか、たいへん経営が良くなって。(後略) (中野 男 明治42年生)
  
高田富士山頂.JPG 芳賀善次郎「新宿の散歩道」1973.jpg
水稲荷社.JPG 甘泉園高木社(第六天).JPG
 証言の中で、話者自身は認識していないと思われるが、「シイヤ」あるいは「シンヤ」の山は「屍家」ないしは「死屋」、すなわち江戸期にはその由来の意味さえ不明になり、単なる地名の音(おん)として伝承されてきた大きな墓域、すなわち古墳の巨大な墳丘である可能性が高い。また、ここに「千年」単位の伝説が語られている点にも留意したい。白ギツネの比喩で語られている伝説は、「千年」以上も昔にまでさかのぼるエピソードとして伝承されている。江戸期から「千年」以上も昔といえば、古墳時代までたどれるタイムスパンだ。
 もうひとつの伝承は、「真っ白な宝珠玉」といわれているので、白瑪瑙あるいは他の材質の宝飾品だったのだろうか? 新井地域の、おそらく原っぱになった田畑跡の地中から出現しており、ここでも出土跡に稲荷社を建てて奉っている。引きつづき、同書の証言から引用してみよう。
  
 狐の宝飾玉かい。それは、そこの、あの人いなくなっちゃったねえ。ほんとに話があったのね。/あのう、昔、ここが原っぱだったでしょう。ねっ。それで何軒かの家しかなかって、そこの家の人が毎日毎日、朝、勤めへ通っていたら、宝珠玉がね、このぐらいの高さでね、ヒョンヒョンヒョンヒョン宝珠玉がね、歩いていたんですって。それで、その玉を拾って、狐のね、このくらいの狐の、上へ毛がくっついてるわね。それで、その人は、もう死んじゃったわねえ。/で、お稲荷様をそこへ建って、お祀りしてたのね。真っ白な白狐だったって。それでね、お宮建って、お祀りしたのよね。(後略) (新井 女 明治31年生)
  
 この伝承の起源は、明治期に入ってからのものらしく、少なからず江戸後期の「ケサラバサラ(ケサランパサラン)」の流行話と習合している匂いが濃厚だが、「宝珠玉」という表現がひっかかるのでピックアップしてみた。このような「宝珠」伝説は、おそらく全国各地にあるのではないか。
尾山台狐塚古墳2.JPG 尾山台狐塚古墳3.JPG
等々力御嶽山古墳.JPG 上屋敷狐塚.JPG
 こうしてみると、地中から「宝珠」(古墳副葬品にみられるなんらかの宝飾品)の出現、それによる「狐塚」の命名、そして出土場所へ稲荷社の建立、さらに大きめの塚が残っていれば富士信仰による「富士」構築と、浅間社の勧請・・・という、江戸後期にみられた農耕地におけるひとつの事蹟の流れが透けて見えてくる。「狐塚」の字(あざな)が残る土地、あるいは「塚」地名が残る土地の稲荷社の由来を洗い直してみると、まったく異なる時代の別の風景が見えてきそうだ。

◆写真上:世田谷区の尾山台にある、狐塚古墳の墳丘斜面に建てられた石標。
◆写真中上:江戸期の寛政年間ごろから報恩寺に伝わっていた、龍の玉(左)と雷の玉(右)。
◆写真中下上左は、富塚古墳(前方後円墳)の墳丘に築かれていた高田富士の山頂。上右は、芳賀善次郎『新宿の散歩道』(三交社)。下左は、1963年(昭和38)に甘泉園の西へ移転した水稲荷社。下右は、三島山(甘泉園)の高木社(第六天)。
◆写真下上左は、世田谷区の尾山台にある狐塚古墳の後円部。上右は、墳丘から見下ろした風景。すぐ近くまで住宅が迫り、前方部の墳丘は宅地造成で失われていると思われる。下左は、狐塚古墳に近い等々力御嶽山古墳で前方部は手前の道路建設で削られた。この周辺(約500m四方ほど)では、現在までに50基を超える古墳が宅地造成や道路建設により破壊されている。この古墳密度を、東京の大・中型古墳が残る市街地まで敷衍すると、ものすごい数の古墳数が想定できる。ちなみに、芝丸山古墳では約300m四方に少なくとも14基の古墳が確認されている。下右は、豊島区の上屋敷近くにある狐塚で、現在は低層マンションの建設現場となっている。

『同志会誌』でわかる下落合の細かな出来事。

$
0
0

洗い場階段.JPG
 1939年(昭和14)に出版された『同志会誌』Click!は、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』Click!ではうかがい知れない、大正時代から昭和初期にかけての下落合における細かな出来事や事件を記録した、かけがえのない生活誌のような趣きがある。
 同会は、1911年(明治44)12月に高田兼吉をはじめ有志16名が集まり、「時勢の進運に伴ひ、本村の発展を図り、相互の福利を増進せんとする目的」で会則案が詰められ、翌1912年(明治45)1月に発会式を開いて発足している。そのときの模様を、『同志会誌』から引用してみよう。
  
 明治四十五年一月三日 記念すべき本会発会式が、創立委員高田兼吉宅に於て挙行せられた。会員の参集数十名、来賓として村長川村辰三郎氏村会議員高田鐵五郎氏同高田彌一郎氏同高田五郎右衛門、宇田川徳右衛門、福室米蔵の諸氏落合小学校長、駐在所警官等多数列席の下に正午開会、先づ劈頭会則第七条に依つて役員選挙を行なつたが、高田兼吉氏が会長に岩田與四郎氏が副会長に当選した。両氏は実に本会最初の会長、副会長である。
  
 同志会の目的としては、東京市街から郊外へ住宅を建てる、いわば新入の住民同士の交流を深める「会員の親睦」をはじめ、善行者や長寿者、精勤者などの「表彰」、ひとり暮らしの病人や火事の罹災者など「不遇者の援助」、兵役へ赴く会員の「入隊除隊祝い」、会員や家族の「弔慰」、下落合地域の防犯や防火などの設備を充実させる「警備」、道路や側溝、街灯などの公共設備を管理する「交通」、伝染病や食中毒の発生を防止する「衛生」、よその地域に災害が起きた場合の「義捐」などが、同会のおもな事業の支柱だった。
 この中で、昭和初期に起きた全国各地の災害で、甚大な被害を受けた被災地へ向けての義捐活動も記録されている。町内に義捐金を募った、大がかりな活動には次のような災害があった。
  
 昭和五年八月 九州南鮮地方風水害義捐金二十円を贈る。
 昭和五年十二月 豆相地方震災義捐金を募集して二十七円を得、会より三円を
            加へて三十円を贈る。
 昭和六年十二月 北海道、東北地方凶作地へ二十円を贈る。
 昭和八年三月 三陸地方災害見舞三十円を贈る。
 昭和九年四月 函館大火、義捐金百五十二円五十五銭を募集して贈る。
 昭和九年九月 関西風水害に対し、会より二十円を贈る。
 昭和九年十二月 東北六県へ義捐金二十円を贈る。
 昭和十年四月 台湾の震災へ会より二十円を贈る。
  
 この中で、1930年(昭和5)の「豆相地方震災」とは、静岡県東部から伊豆半島の北側全体、そして神奈川県の西部を襲ったマグニチュード7.3の活断層による直下型地震で、三島では震度6の烈震を記録している。現在では「北伊豆地震」と呼ばれる震災で、死者・行方不明者は300人弱におよんだ。また、1933年(昭和8)の「三陸地方災害」とは、マグニチュード8.1~8.4の強震が東北地方を襲い、本震ののち30分ほどで最大約29mの津波が三陸海岸を襲った「昭和三陸地震」のことだ。このときの死者・行方不明者は、3,000人を超えている。この震災の翌年、東北地方は未曽有の凶作にみまわれ、同志会では再び義捐金を募って送金しているのがわかる。
同志会25周年記念1937.jpg
 同志会は、設立の翌年から会員を減らしはじめ、1917年(大正6)まで漸減しつづけている。それが上向きに転じるのは、繰り越しによる「収入」増ではなく、会費収入が微増しはじめる1918年(大正7)からだ。同志会の収支決算は、1921年(大正10)までが『同志会誌』に記されているが、以降の記録が見られない。おそらく、人口の急増とともに膨大な収入になっていったことは、総会が豊島園で開かれたり、その準備のために豊島園へ役員たちがわざわざ「下見」に出かけたりしていることからもうかがい知れる。以下、1921年(大正10)までの収支決算を見てみよう。
同志会収支表.jpg
 さて、同志会の事業に「衛生」の領域が加わったのは、落合村の町制移行が行なわれた1924年(大正13)に、落合地域(というか東京地方)で伝染病チフスの大流行があったからだ。町役場と警察により、下落合の全戸で井戸水検査が実施され、不合格となった家には井戸浚(さら)いが勧告されている。そして、同志会でも「衛生係」が設置されるようになった。
名簿1.jpg
名簿2.jpg 「同志会誌」函.jpg
 このくだりを読んでいて、思わず噴き出してしまう記述があった。同志会の「衛生係」に、当時は落合町議会議員だった下落合622番地の川村東陽Click!が就任しているからだ。東京美術学校の日本画科出身の川村は、なぜか隣り(下落合623番地)に住んだ洋画家の曾宮一念Click!が気に入らず、自宅の家庭菜園からおそらく美校の書生にやらせていたのだろう、意図的に“うんこ水”をたれ流す嫌がらせをして、曾宮アトリエClick!前の道路を汚物だらけにしていた張本人だからだ。(爆!) いったい、なんの「衛生係」を同志会でしていたものだろう?
 さて、川村“うんこ水”の被害者である曾宮一念Click!も同志会には加入している。曾宮アトリエの東隣りであり、佐伯祐三の制作メモClick!に登場する『下落合風景』の1作「浅川ヘイ」Click!(行方不明)の浅川秀次や、曾宮邸の北側に住んでいた森田亀之助Click!、ミツワ石鹸の三輪善太郎Click!も会員だ。ほかに、満谷国四郎Click!二瓶等Click!、「笠原某」(笠原吉太郎Click!)などの洋画家たちの名前が確認できる。また、華族たちにも声をかけていたようで、「九條某」(九条武子Click!)や「谷某」(谷千城・儀一Click!)、そして1910年(明治43)に代々木練兵場で日本初の軍用機飛行に成功し、これまた日本初の空中写真の撮影を行い、1945年(昭和20)の敗戦時まで陸軍航空士官学校Click!の校長をつとめていた、徳川好敏などが名を連ねている。やはり、水戸徳川家(清水徳川家)の末裔も下落合を意識Click!してかここで暮らしている。
 「消防」事業では、下落合にピストル型消火器や防火用水の設置が興味深い。特に防火用水は、1925年(大正14)に諏訪谷の“洗い場”Click!が防火貯水池として整備されているのがわかる。曾宮一念が同年に描いた『冬日』Click!の洗い場は、まるで四角いプールのような形状をしているが、これは同志会による防火貯水池としての整備がなされたあとの姿である可能性が高い。また、もうひとつの防火貯水池は地下に建設され、本田宗一郎邸Click!(現・下落合公園)の向かいにあった下落合570番地の歯科医、幡野医院Click!(歯科落合医院)の敷地に設置されている。
洗い場(防火貯水池).jpg 幡野医院(落合医院).jpg
 1923年(大正12)に起きた関東大震災の際、下落合では2棟の家屋が倒壊したと伝えられているが、そのうちの1棟が判明した。松尾恒八という人が所有していた納屋が、震災で全壊している。また、下落合482番地にあった佐藤化学研究所から、おそらく薬品類の化学反応によるのだろう、震災で出火しているが幸い小火で済んだ。佐藤化学研究所は、堤康次郎Click!が住んでいた邸の向かいにあり、「下落合事情明細図」(1926年)現在では、堤に関連した駿豆鉄道の取締役・長坂長Click!の名前が採取されている。そして、長坂長もまた同志会の会員に名を連ねていた。

◆写真上:聖母坂沿いに移動したあと、プールとしても使われた洗い場階段の跡。
◆写真中上:1937年(昭和12)の創立25周年に開かれた、同志会総会の記念写真。
◆写真中下上・下左は、同志会に加入していた当ブログでもお馴染みの人たち。下右は、同志会のロゴマークが入った1939年(昭和14)出版の『同志会誌』の函。
◆写真下は、1925年(大正14)に制作された曾宮一念『冬日』(部分)。同志会が諏訪谷の洗い場を、防火貯水池として整備した直後の情景だと思われる。は、もうひとつの防火貯水池が設置されていた下落合570番地の幡野医院(歯科落合医院)。

鬼頭鍋三郎と柳瀬正夢はアトリエ隣人。

$
0
0

鬼頭鍋三郎アトリエ跡.JPG
 先年、旧・西落合1丁目293番地(以下すべて旧地番表記)の鬼頭鍋三郎邸跡Click!を探し訪ねたとき、たまたま道でお会いした鬼頭邸の北隣りに住んでいた福島様が、「懐かしいわねえ。イサオちゃん、元気でいるかしらねえ・・・」と話されていた、その「イサオちゃん」こと鬼頭伊佐郎様よりご連絡をいただいた。鬼頭鍋三郎Click!の長男である伊佐郎様は、わたしの記事をお読みで福島様と田原様が両隣りにいまもお住まいなのに驚いて、お手紙をくださったのだ。さっそく、当記事をプリントアウトして、福島様と鬼頭様、山本様(松下様)にお送りしたい。また、鬼頭鍋三郎に関するきわめて貴重な情報も、併せてご教示いただいたのでご紹介したい。
 まず、1932年(昭和7)4月に、松下春雄が阿佐ヶ谷Click!から落合町葛ヶ谷306番地(のち西落合1丁目306番地→303番地)へ自邸+アトリエClick!を建て、再び落合地域へと転居してくる際、松下邸敷地の母屋西側へ、鬼頭鍋三郎はアトリエClick!を同時に建設している。鬼頭鍋三郎は、西落合1丁目293番地に自邸を建てると、そこから松下邸の西隣りにあるアトリエに通って仕事をしていた。そして、1933年(昭和8)12月に松下春雄が死去Click!すると、淑子夫人Click!をはじめ家族たちは池袋の実家・渡辺医院Click!へともどり、松下邸+アトリエは1934年(昭和9)の早春より、岩波書店の小林勇の紹介で柳瀬正夢Click!と家族が借り受けて住んでいる。
 このとき、わたしは松下邸の敷地にある建物(鬼頭アトリエ含む)すべてを、柳瀬正夢が借りて仕事をしていたと思っていた。それは、このときお母様の淑子夫人とともに池袋へと転居して西落合には不在だった、松下春雄の長女・彩子様(山本和男夫妻Click!)へのインタビューが力不足で不十分だったせいもあるのだが、松下春雄の死去とともに西落合1丁目293番地の自邸内へ、鬼頭鍋三郎は改めてアトリエを増築したという、わたしの勝手な想定も含まれている。それは、鬼頭鍋三郎のモデルになったことがあるという、隣家の福島様の証言も意識してのことだった。ところが、鬼頭伊佐郎様によれば、鬼頭鍋三郎の自邸にはアトリエがなく、1945年(昭和20)まで松下邸に隣接するアトリエを仕事場にしていたことが判明したのだ。
 つまり、1934年(昭和9)の春先から数年の間、鬼頭鍋三郎Click!と柳瀬正夢は隣接するアトリエで仕事をしていたことになる。そればかりでなく、数年ののちに柳瀬正夢が中国へと旅立ち、再びアトリエ付きの松下邸が空き家になったとき、今度は洋画家・糸園和三郎が家族とともに住んでいたことも判明した。これは、名古屋画廊で糸園和三郎展が開催されたとき、会場で鬼頭伊佐郎様が糸園夫人から「鬼頭さんの画室の隣りに住んでいました」とじかに聞かれた証言だ。松下邸に糸園和三郎一家が住んでいたのは、おそらく1942年(昭和17)ぐらいまでだろうか。
 さっそく山本夫妻へお訊ねしたところ、洋画家・糸園和三郎の裏づけをとることができた。ただし、名前は失念されてしまったようだが、柳瀬家が出て糸園家が住むまでの間だろうか、ある彫刻家とその弟子たちが少しの期間、松下邸を借りうけて暮らし、仕事をしていたようだ。
鬼頭伊佐郎様地図.jpg
西落合1丁目火保図1938.jpg
 太平洋戦争がはじまると、1942~43年(昭和17~18)ごろに松下一家は再び西落合の同邸へともどって暮らしはじめている。その後、淑子夫人の実家・渡辺医院は、山手線の池袋駅や武蔵野鉄道の上屋敷駅に近く空襲の怖れがあるのと、医院が建物疎開Click!の計画ルートにひっかかったため実家も移転している。この間、西隣りのアトリエではサンサシオンClick!や帝展で松下春雄の盟友だった、鬼頭鍋三郎がいまだ仕事をしていたことになる。淑子夫人や子どもたちにとっては、たいへん心強い存在だったにちがいない。松下春雄の死後、同邸で暮らしていたのは柳瀬正夢と家族→(某彫刻家と弟子たち)→糸園和三郎と家族、そして淑子夫人と子どもたちがもどった・・・というような経緯なのだろう。ちなみに、伊佐郎様たち家族は空襲が予想されるようになった1944年(昭和19)5月、鬼頭鍋三郎を残して名古屋へともどっている。
 鬼頭伊佐郎様からは、当時の鬼頭邸やその周辺の様子を描いた、たいへん貴重な西落合の地図もお送りいただいた。西落合1丁目293番地の鬼頭邸の地主は、「八島という八百屋さん」(またしても八島さんClick!だ)や「サンケイ雑貨店」(いまでも三敬酒店として営業をつづけている)の南にあった、「村上さんという大家さん」であることも判明した。村上家では、大正末からスタートした葛ヶ谷(西落合)の耕地整理のあと、昭和初期に293番地界隈へ和洋折衷住宅を何戸か建設し、そこを借りていたのが鬼頭家をはじめ田原家、里見家、ドイツ人のシュルツ家だったらしい。
西落合1丁目1947.jpg
松下邸19320415.jpg
 また、わたしは西落合1丁目281番地に建っていた大きな屋敷を松平邸としたのだが、松平邸は短い期間だったようで、鬼頭伊佐郎様が落合第三小学校へ通われていたころは、工藤祐寿邸だったようだ。つまり、工藤邸→松平邸→本田宗一郎邸という経緯になるのだろう。ちなみに、工藤祐寿はドイツのレイボルト商会と提携して、日本初の針金綴機械を開発・販売した工藤鉄工所の二代目社長・工藤祐寿だと思われる。鬼頭伊佐郎様がご記憶のドイツ人・シュルツ邸は、同鉄工所に勤務していたレオボルト商会のドイツ人技術顧問ではないだろうか。また、本田宗一郎邸は戦後になって、旧・下落合2丁目594番地にあった旧邸Click!(現・下落合公園)から、西落合1丁目281番地の同敷地へと移転しているのだろう。
 松下邸や鬼頭アトリエの前、三間道路をはさんだ南側には石井邸のテニスコートと桃畑があった。1938年(昭和13)に作成された「火保図」では、テニスコートとしか収録されていないが、コートの西側に隣接して桃畑のあったことが、鬼頭伊佐郎様の地図でわかる。このあたりの情景は、松下アルバムの中で1932年(昭和7)4月15日に撮影された、おままごとをする松下春雄の長女・彩子様と次女・苓子様の背後に見えており、三間道路沿いに植えられた並木の苗木らしい低樹の向こう側に、ぽっかりとした空地のような風情が拡がっているのがわかる。
鬼頭鍋三郎邸跡.jpg 工藤祐寿邸跡.JPG
三敬酒店.jpg 田村一男アトリエ跡.JPG
 松下春雄邸+アトリエや鬼頭鍋三郎アトリエの周辺には、松下や鬼頭とはサンサシオンの仲間であり光風会に所属していた大澤海蔵Click!をはじめ、中野区江古田1丁目237番地の同じく光風会の洋画家・田村一男、同じく新道繁などがアトリエを構えていたことも、鬼頭様から改めてご教示いただいた。さらに、松下邸や鬼頭邸の南側にも、洋画家たちが数多くアトリエをかまえて暮らしていたようで、このサイトでは版画家の平塚運一Click!や、日本画家の丸井金猊Click!ぐらいしかいまだ登場していない。詳細が判明したら、改めてご紹介したい西落合の芸術テーマだ。とても貴重な情報をいろいろとご教示くださり、ありがとうございました。>鬼頭様
 それにしても、1930年協会や独立美術協会につづき、今度はここがサンサシオン(光風会や帝展の画家たち)のご子孫同窓会Click!のようになってきたことが、とても楽しい。
 

◆写真上:松下春雄邸の西側に隣接していた、鬼頭鍋三郎のアトリエ(1932~1945年)跡。
◆写真中上は、鬼頭伊佐郎様よりお送りいただいた、1944年(昭和19)ごろの鬼頭邸および鬼頭アトリエとその周辺地図。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同地域。
◆写真中下は、1947年(昭和22)の米軍空中写真にみる同地域。は、1932年(昭和7)4月15日に松下春雄が庭で撮影した、おままごとをする彩子様(左)と苓子様(右)。ふたりの背後には三間道路をはさみ、石井邸のテニスコートや桃畑が拡がる敷地が少し見えている。また、ふたりの右横には松下邸の母屋があり、その右奥には鬼頭鍋三郎のアトリエが建っている。
◆写真下上左は、西落合1丁目293番地の鬼頭鍋三郎邸跡。上右は、西落合1丁目281番地の工藤祐寿邸跡(現・本田邸)。下左は、鬼頭伊佐郎様の地図にも登場する右手のサンケイ雑貨店跡(現・三敬酒店)。下右は、鬼頭邸からは徒歩10分ほどしか離れていない中野区江古田1丁目237番地の、荒玉水道野方水道塔Click!井上哲学堂Click!も近い田村一男アトリエ跡。
下は敗戦前年の、1944年(昭和19)に撮影された西落合の空中写真で、十三間道路(現・目白通り)の工事がかなり進捗しているのがわかる。
西落合1944.jpg

深夜に聴く小学生のあこがれサウンド。

$
0
0

椎名林檎長谷川きよし2007.jpg
 このところ、お隣りで好物のギョウザや鶏肉をもらって食べているタヌキたちが、ときどき縄張りのネコを牽制して脅かしているのか、なんともいえないすさまじい声をあげて鳴くことがある。暗くなると、3~4匹のタヌキが家のまわりをウロウロして、晩秋の“食いだめ”をしているようだ。
  
 わたしはませた子どもだったので、小学生のころからラジオの深夜放送をよく聴いていた。当時はめずらしかった、秒針がなめらかに動く目ざまし電気時計に付属していた粗末なラジオで、音質はひどく、最悪だった。イヤホンを耳に、それを親に隠れて寝床の中で聴いていたのだ。「パック・イン・ミュージック」(TBSラジオ)とか、「オール・ナイト・ニッポン」(ニッポン放送)をよく聴いただろうか。「セイ・ヤング」(文化放送)は、少し遅れてスタートしたように記憶している。真っ暗な中、布団の中で聴くわけだから、ときに眠ってしまうこともめずらしくなかった。もう少し音質のいい、ナショナルの「ワールドボーイ」を買ってもらったのは、中学に入学してからのことだ。
 時計ラジオが置かれた横には、小学館版『少年少女世界の名作文学』(全50巻)が並んでいたけれど、親が買ってくれたこの全集は半分も読まなかったのではないか。むしろ、親父の書棚からこっそり『戦艦大和ノ最期』Click!とか、『風立ちぬ』、『古寺巡礼』、『硝子戸の中』、『芝居台詞集』、『浮世絵全集』などを抜き出しては、勉強をしているフリをして読んでいた。親に気づかれるとまずいので、たいがい夕食前には元へもどしておいたのだが、翌日になると再び抜き出してはつづきを読んでいた。親にあてがわれた本を、わたしは熱心に読んだ記憶がない。
 中でも、漱石の『硝子戸の中』はどこがどう面白かったものか、小遣いを片手に生まれて初めて書店で買った本は、つい最近まで手もとにあった旺文社文庫版の『吾輩は猫である』だ。わたしはさっそく親父をマネて、この薄緑色でしゃれた装丁の内扉に、蔵書印ならぬ郵便小包の受けとり用“みとめ印”を押している。こういう、どうでもいいこと、あるいはどうしようもないことにこだわるわたしの妙な性癖は、今日にいたるまでそのまま治らずにつづいている。
 さて、その当時聴いていた深夜放送からは、さまざまな歌声が流れてきた。1964年(昭和39)の東京オリンピックが終わって、数年たってからのことで、印象的だったのは浅川マキや長谷川きよし、加藤登紀子、新谷のり子、カルメン・マキなどの歌だろうか。どこか、大人の世界がプンプン匂うような、そんな歌声に強く惹かれたのを憶えている。これらの曲を楽しんだ翌朝、学校の教室で意識朦朧としていたわたしは、教師に指されたのも気づかないことがあった。
 1960年代後半の深夜は、外からいろいろな物音が聞こえてきた。通奏低音のように響く相模湾の潮騒や、ときおりユーホー道路Click!(湘南道路=国道134号線)を走るクルマの音にまじって、フクロウだかミミズクが鳴くのを聞いたのもこのころのことだ。でも、この鳴き声は西湘バイパスが完成してユーホー道路の交通量が急増し、防風・防砂用のクロマツ林にヘリコプターによるDDTの空中散布Click!がはじまったころから、まったく聞こえなくなった。
浅川マキ.jpg
小学館版「少年少女世界の名作文学」.jpg 陸軍喇叭.jpg
 遠くで、ラッパが鳴っていたのも憶えている。トランペットのようなキラキラした音ではなく、豆腐屋が吹くラッパのような物寂しく枯れた音色でもない。最初は、誰かが海岸に出て、深夜の浜辺でトランペットの練習をしているのかと思った。でも、たった一度だけ鳴ってすぐに消えてしまうラッパの音は、明らかに練習音ではなかった。この音色がなんだったのか、気がついたのはもう少し成長してからのことだ。「新兵さんはか~わいそ~だね~、また寝て泣くのかね~」と、陸軍の消灯ラッパだったのだ。おそらく、旧・陸軍の元ラッパ手が近くに住んでいて、ときどき深夜に懐かしんで鳴らしていたものか、それとも死んだ戦友たちを悼んで吹いていたのか、いまならすぐにもこのラッパ手を探し出して、お話を聞いてみたいところだ。
 当時は、お祭りへ出かけると、手足を爆弾や砲弾で吹き飛ばされた傷痍軍人たちが、陸軍病院を模した白い寝間着姿でアコーディオンやハーモニカを演奏しながら、通行人たちに土下座をして施しを受けている光景によく出くわした。「御国」を守るために身体を張った傷痍軍人が、なぜ平和に暮らし祭りで遊ぶ人たちに土下座をしなければならないのか、小学生だったわたしにも理不尽に感じた姿だ。わたしの義父は、退役軍人なので軍人恩給を毎月もらっていたが、補充兵や動員兵として戦争末期に臨時徴兵された人の中には、きわめて短期間のために恩給対象から外れたり、戦後の混乱から記録が不十分で見つからず、恩給の認定から漏れた方々もいたものだろうか。ただ、これには後日譚があって、「戦争中はどう見たって小中学生じゃねえか、オレより若いだろ」と、親父が疑念をもちながら五体満足な「傷痍軍人」たちを眺めはじめたころ、組織的に集金するこの種の「詐欺団」が摘発されている。
 深夜放送でひときわ耳をそば立てたのは、新宿のライブハウスに忽然と姿を現わした浅川マキだった。この人が、寺山修司とのコラボ時代のことだろうか、ちょっとくずしたアンニュイかつ蓮っ葉な声で「♪夜が明けたら~、いちばん早い汽車に乗るから~・・・」と唄うのを聴いて、小学生のわたしはひとりで歩いたことさえない新宿駅から、いまだ経験のないひとり旅に出るワクワクと楽しい想像をしていた。汽車を乗り継いで出かける先は、毎日眺め暮らしながら育った、穏やかでやや食傷気味の太平洋ではなく、波が荒々しく紺色が濃いといわれるわたしにはあこがれの日本海だった。なぜか旅というと、そのころは日本海側の海岸線が多くイメージされていたように思う。
浅川マキの世界1970.jpg 長谷川きよし加藤登紀子LIVE1978.jpg
 当時の浅川マキに匹敵するインパクトや、オリジナリティ、圧倒的な存在感のある歌手は、いまの音楽界を眺めまわしても椎名林檎Click!ぐらいしか見あたらないな・・・などと、何年か前、高校生だった下のオスガキと話していたら、クラスには林檎ファンがたくさんいるという。いまや、音楽をめざす子や音楽好きな子にとって、椎名林檎はカリスマであり“神様”であり、もはや“伝説”なのだそうだ。うちには、ほとんどのアルバムやDVDがそろっているからと教えたら、さっそく家でDVDコンサートをやることになってしまった。下の子がいそいそと連れてきたのは、なんと全員が女子だったのだ。どうやら、椎名林檎は男子よりも圧倒的に女子のファンが多いらしい。
 アルバムやDVDを片手に、キャーキャー「これ聞きた~い!」などといっている彼女たちは、わたしが浅川マキの曲を聴いては、深夜あれこれ“大人の世界”をわくわく想像していたのと同様に、どんな夢を見ていたのだろう? 「〇〇パパ(〇〇は子供の愛称)、インプロヴィゼーションってなんですかぁ?」、「メロディラインのコード進行ないしはモードにのせて奏でる、アドリビトュムの演奏やヴォーカルのことだよ」・・・などと、女子高生たちにまじってウキウキはしゃぎながら、調子にのって“解説”していたわたしは、すぐに深く、深く反省している。男子ばかりで、やたら男くさい家の中にさんざん飽きていた、小学生のころから“お調子者”のわたしは、久しぶりに大勢の女子の匂いに囲まれて舞いあがってしまったのだ。
 深夜放送では、浅川マキばかりでなく長谷川きよしや加藤登紀子の曲も流れていた。少しあとの時代になるけれど、このふたりが歌った『灰色の瞳』は、いまでも諳んじている。その長谷川きよしと、椎名林檎がデュオで歌う『灰色の瞳』や『りんごのうた』、『化粧直し』、『別れのサンバ』などを聴いて、めずらしく全身がゾワゾワと総毛立ってしまった。歌や曲を聴いただけでそんな気分になるのは、実に何年ぶりのことだろうか。どこかで、40年以上も前の感性や感情が目をさまし、すり減った精神にちょいとイタズラをしたのかもしれない。そういえば、小学生のわたしは寝床の中でわけもわからないまま、ラジオから流れる大人たちの歌に涙を流したこともあったっけ。
椎名林檎「第一回林檎班大会の模様」2007.jpg 椎名林檎with長谷川きよし.jpg
 ラジオではなく、加藤登紀子が長谷川きよしをエスコートしてステージに登場するシーン(長谷川きよしは目が見えない)を、いつかTVで見たことがある。そのときは、なんら違和感をおぼえなかったのだが、ほとんど当時と変わらないサングラスでギターを抱えた長谷川きよしを、椎名林檎がエスコートするのを見て、思わず「あれ?」と思ってしまった。長谷川きよしが、やたら小さいのだ。「なぜ、1969年のボクの曲を林檎さんが知っているのか、非常に不思議ですが・・・」とMCで楽しそうに話す、ギターの腕も歌唱も衰えない長谷川きよしなのだが、“21世紀女子”の椎名林檎と並ぶと、いやでも40年以上の歳月を思い知らされる。
 久しぶりに、ラジオをこっそり寝床へ持ちこみ、イヤホンで深夜放送でも聴きながらゆっくり寝てみようか。でも、深夜の暗闇にいくら耳をすましても、「新兵さんはか~わいそ~だね~、また寝て泣くのかね~」の消灯ラッパは、もはやどこからも聞こえてきはしないだろう。

◆写真上:代官山UNITで開催された、椎名林檎と長谷川きよしのライブコンサート。椎名林檎『第一回林檎班大会の模様』のアルバムジャケットより。
◆写真中上は、2010年に亡くなった浅川マキ。下左は、その大半を読まなかった小学館版『少年少女世界の名作文学』(全50巻)の第1巻。下右は、真夜中に聞こえた旧・陸軍のラッパ。
◆写真中下は、1970年(昭和45)にリリースされたアルバム『浅川マキの世界』。は、1978年(昭和53)にリリースされたLPで加藤登紀子・長谷川きよし『LIVE』。
◆写真下は、2007年にリリースされ長谷川きよしとのデュオを収録した椎名林檎『第一回林檎班大会の模様』。は、ステージで長谷川きよしをエスコートする椎名林檎。

ブログ9年・過ぎし日々のセレナーデ。

$
0
0

下落合01.JPG
 2004年にスタートしたブログ書きClick!が、この11月24日より10年目に入った。あれだけ流行った誰でも情報が発信できる「ブログ時代」のブームはとうにすぎて、いまやSNSのfacebookのほうが盛んだろうか? でも、ひとつの記事に2,900文字余の字数制限があるfbでは、ここ数年の記事がときに3,000文字を超えてるわたしにとっては、残念ながら使いものにならない。ましてや、fbにはおせっかいな機能や表示、知らぬ間に気持ちの悪い設定変更や勝手な規定、さらにわずらわしい誘導メールなどなど、「好きにさせて、放っといてくれ!」と、癇性のわたしには向かないようだ。相変わらずfbには、ブログのURLを貼りつけるだけでお茶をにごしている。
 少し前、長崎町大和田1983番地(現・豊島区南長崎)あった造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所Click!)で、漫画講師をしていた八島太郎Click!をご紹介したが、八島の資料をいろいろ読みこんでいるうち、面白いことに気づいた。わたしが、ブログの記事を書くときにやっている方法と、八島太郎が絵本を創作するときにやっている方法論とが、似ていることに気づいたのだ。もちろん、八島の絵本はフィクションであり、わたしの記事はたまに突拍子もないオバカなオチャラケものもあるけれど、基本的には事実や史実にもとづいて書いているドキュメントだ。
 至光社が発行する季刊『ひろば』に、1964年(昭和39)から「児童絵本とは何か」を連載していた八島太郎だが、絵本づくりの方法論について触れている箇所をちょっと引用してみよう。
  
 物語の醸成をまって、壁の大封筒は四つの封筒にとってかわる。今までのすべての材料を、起・承・転・結の四つに分類するのである。/材料が起承転結のいずれに属するか不明のこともあるので、なお思索検討をふかめつつ、あれこれと入れかえて作業をつづける。感動の高さをつくる転の封筒が材料不足となれば、材料のよびだしにかえらねばならない。また、起の封筒には材料がありすぎるとなれば、他との調和をはからねばならない。/物語とは、ある環境のなかでの諸事情をつうじて諸性格をうごかす筋である。だから四つの封筒の材料は、何処で----いかにはじまり、いかに展開し、いかに昂まり、いかにむすばれてゆくかの構成をつくるものなのである。あるところまでゆけば、その均整工合はかんたんな図にすることができる。/わたしの場合は、構成=環境、事件、性格を肉づけるのに架空ということはなく、みな現実の材料によるという方法である。
  
 “物語”でもフィクションとドキュメントのちがいはあるにせよ、取材を含めて記事を制作する方法論が、わたしとほぼ同じだということに気づく。壁に大封筒を貼りつける代わりに、わたしはPCのデータフォルダやクリアファイルで密接に関連しそうな、あるいはいつか結びつきそうなテーマを適当に分類し、そこへ入手したデジタルデータや紙資料を放りこんでおく。フォルダは、八島太郎のように必ずしも「起・承・転・結」という展開軸ではなく、出来事や事件が起きた時代軸(時間軸)だったり、あるテーマの周辺にみられる類似テーマだったり、ときにはピンポイント的な“場所”だったりするのだが、しばらくすると、記事を起こすのに適した1本の筋書きが見えてくることが多い。
八島太郎.jpg 雨傘1958.jpg
下落合02.JPG
 わたしの場合、あるテーマをひとつの出来事や切り口のみで記事にすることはあまりなく、タテ軸の時間軸(時代・世相など)Click!を重ねあわせ、またヨコ軸の水平軸(地域・地点など)を錯綜させて書くことが多い。これは、できるだけ同一の地点で起きた出来事を3D的に表現し、また同時にその出来事が単独で起きているのではなく、ときを同じくして別の場所ではなにが起き、誰がなにをしていたかという、同時代性ないしは社会性を際立たせたい気持ちがあるからだ。
 それは、物語にふくらみとリアリティをもたせたいというのが一義的な理由なのだけれど、「歴史」ないしは「日本史」、ときに「地域史」として整理され、小さくまとまってしまった出来事や、ご都合主義的に解釈されている史実や事件、さまざまな人々の生活や死が、どこか特別な異次元空間に存在していたものではなく、ましてや本や資料の活字上で起きているわけでもなく、わたしたちが生きている現代の地点(現場)へと直結する、「ついこの間」の延長線上に存在していたもの・・・というような感触を、できるだけ大切にしたいからだと思う。
 さて、9年間の記事を見わたしてみれば、落合地域とその周辺域で過去に生きた、あるいは現代に生きている、多彩な人たちの生と死の軌跡が見えてくる。時代状況的に表現するなら、北海道や東北地方からせっせと目白崖線まで、石器の材料となる岩石を運んでいた“物流”面での旧石器時代人から、ロジスティクスやトレーサビリティシステムを張りめぐらせた、めまぐるしい21世紀の今日に生きる現代人まで。また、職業・仕事的な切り口からは、真夏に棒打ち歌を唄いながら麦を収穫する二毛作の農民から、落合地域に巨大な西洋館群を建てた華族たち、芸術分野では画家や文学者、音楽家たち、大正期の東京郊外に文化住宅街を形成した“中流”市民から、データセンターでサーバの仮想化によるリソースプールづくりと、「ユーザ振り出し」の仕組みづくりで片方の肩の荷を下ろしただけでなく、そろそろSDNで両肩の荷を下ろしたがっているw、運用管理のPMやSEにいたるまで、ありとあらゆる職業や仕事を手がける人たちが登場している。
下落合03.JPG
小野田製油所.JPG 下落合04.JPG
 その昔、戦後すぐのころ「全体小説」(野間宏は「総合小説」)という表現法が、文学界で盛んに論じられたことがあった。海外の作品では、トルストイの『戦争と平和』やプルーストの『失われた時を求めて』、サルトルの『自由への道』などが、その概念の作品にあたるとされている。日本では、大西巨人や野間宏、五味川純平、埴谷雄高Click!などの作品が有名だ。わたしも、いまだ体力も集中力もあった学生時代、これらの作品を一気に読んだものだ。たとえば、野間宏の『青年の環』は、全5巻6,000枚におよぶ大作で、わたしは夏休みを利用し1週間かけて読んだ記憶がある。
 日中戦争を背景として、昭和10年代の大阪を舞台に富豪家に生まれ、挫折して性病に罹患したデカダン気味のボンボンと、市役所の官吏をつとめる思想に誠実でマジメな男、そして被差別部落出身の策謀家などが主人公で、人間関係や社会関係を重層的かつ総体的にとらえた、長い長い作品だ。夏場のむせかえるような暑いシーンが多く、読後は友人がいったとおり、よく冷えたビールが美味かったのを憶えている。
 この「全体小説」という文学用語のひそみにならえば、当初の“(城)下町ブログ”Click!などはどこへやら、まことに結果論的かついい加減な総括で汗顔のいたりなのだが、拙サイトは落合地域を旧石器時代から現代まで(新生代=武蔵野礫層の貝化石Click!もご紹介しているので、実はもっと前からなのだが)、また、あらゆる階層や職業の人々が入れ代わり立ち代わり登場する、落合地域の「全体ドキュメント」あるいは「全体地誌」とでも表現できるかもしれない。換言すれば、フランスの画家アンリ・リヴィエールの甥であり、人類・技術・芸術・民俗博物館のコンセプトを1940年代に世界で初めて起ち上げたジョルジュ=アンリ・リヴィエールの、自然を含めた地域全体を表現する“エコ・ミュゼ(Ecomuseum)”の概念につながるものなのかもしれない。
 別に“有名人”だろうが、尋常小学校しか出ていない美味しい落合野菜をつくりつづけたおじいちゃんだろうが、御用聞きと勝手口で立ち話をする主婦だろうが、相馬邸は太素神社の神楽殿下に住みついた浮浪者だろうが、目白文化村Click!の邸を物色してまわるドロボーだろうが、あらゆる人々の軌跡や生活に眼を向け、そして可能な限りこちらでご紹介していきたいと思っている。
月三惣講社石碑.jpg 神田川.jpg
下落合05.JPG
 余談だけれど、山手ではあちこちで「どちらのご出身?」と訊かれるのに、ちょっと閉口している。下町では、「出身は?」と訊かれたら町名ないしは地域名(土地名)を答えるのが普通なのだが、乃手では最終学歴(おもに大学名)を意味する場合がほとんどなのだ。学校や学歴で人格や人間性、人情、アイデンティティが形成されるとは、さらには地霊(ちだま=いわゆる民族学あるいは文化人類学でいうゲニウス・ロキ)が宿るとは、わたしは考えていない。いままで、「出身は?」と訊かれて答えたら、ツーッてばカーで即座にお話が通じたのは、第二文化村の安東様Click!の「あら、あたしは人形町なのよ」のおばあちゃんと、画家の子息でおられる「オレは、神田だよ~」の斎藤昭様Click!など、とても少数なのが、ちょっとさびしい。

◆写真上:下落合の東端、日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮Click!)の敷地にある竹林。
◆写真中上上左は、1970年代の八島太郎。上右は、1958年(昭和33)に米国で出版された『雨傘』(日本では福音館書店)。は、秋の陽射しがまぶしいオバケ坂Click!
◆写真中下は、公園の拡張工事がつづく御留山・相馬邸跡Click!下左は、小野田製油所Click!に残る江戸期の製法からつづく搾油用の石製粉砕器。下右は、野鳥の森公園の小流れ。
◆写真下上左は、薬王院に残る富士講「月三惣講社」Click!の記念碑。上右は、昔もいまも下落合を流れる神田川(旧・神田上水=平川)。は、大雪が降った日の下落合の森。


下落合界隈に集合する徳川さんち。

$
0
0

徳川好敏邸跡.jpg
 下落合とその周辺域には明治以降、なぜ徳川家が多いのか、あるいは下落合界隈をなぜ徳川幕府が御留川Click!(神田上水=神田川)とともに、「御留山Click!」(御留場Click!)として立入禁止にしたのかは、江戸期以前から用いられていた方位や地勢、結界張り、望気、八卦、占術、卜、風水、気配・・・と名称はどうでもいいのだが、いろいろな巫術の側面から観察してみた記事Click!を書いたことがある。また、江戸東京の総鎮守である神田明神の分社Click!が、下落合に存在していたこと自体が、同社の社史からいえば異例だ。
 さて、下落合の徳川家といえば、西坂にある大垣徳川家Click!の大屋敷が想い浮かぶ。明治期に建てられた徳川邸Click!は、当初は別邸として機能していたが、大正末あたりから本邸となっていたようだ。邸内には、東京のボタン名所として多くの観光客を集めた静観園Click!があり、吉田博Click!による「東京拾二題」のひとつ『落合徳川ぼたん園』Click!(1928年)が描かれている。徳川様Click!によれば、新邸建て替えの際に東の斜面へ移動した静観園の丘上にはバラ園も設けられており、松下春雄Click!が同邸をモチーフにいくつかの作品を残している。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』から、西坂の徳川義恕の項目を引用してみよう。
  
 徳川義恕  下落合不動谷
 当家は侯爵尾州家の分家にて男は故従一位徳川慶勝氏の十一男にして明治十一年十一月を以て出生 同二十一年分家を創立し、特旨を以て華族に列せられ男爵を授けらる、先是同三十五年学習院中等科を卒業し軍務に服し陸軍歩兵少尉に任官、日露役に従軍す、曩(さき)に侍従宮内省内匠寮御用掛を仰付らる。本邸は牛込区市ヶ谷河田町に在り別邸は明治四十一年に設けられ今日に至る。夫人寛子は津軽伯爵家の出である。
  
 目白通りをわたり、旧・下落合1丁目(現・下落合3丁目)の北側に接した雑司ヶ谷旭出(現・目白3丁目)には、尾張徳川家Click!(徳川さんちClick!)が1934年(昭和9)に引っ越してきている。それまで、明治期からここに屋敷をかまえていたのは、徳川家の姻戚である戸田家Click!(松平家)だった。1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」には、現在の「徳川ドーミトリー」エリアも含めた巨大な戸田邸Click!が描かれている。戸田家が目白町から移転した少しあと、尾張徳川家が目白町へ転入するちょうど境目にあたる、1933年(昭和8)4月に出版された『高田町史』(高田町教育会)から、戸田康保と徳川義親Click!について引用してみよう。ちなみに、下落合の相馬家Click!とも姻戚関係で親しかったと思われる戸田家は、雑司ヶ谷旭出(目白町)から隣りの下落合へ転居しているはずなのだが、下落合では戸田邸の解体された一部の建築部材を使って建設された邸は発見Click!しているものの、戸田康保の転居先はいまだ不明のままだ。
徳川義恕邸.jpg
徳川義忠邸.jpg 徳川好敏邸.jpg
  
 ◇戸田康保
 旧信州松本藩主子爵戸田康保は、明治三十六年頃から、雑司ヶ谷旭出に住み、昭和五年下落合に移転した、子爵は多年、高田町教育会の会長の任に在つた。
 ◇徳川義親
 旧名古屋藩主侯爵徳川義親は、戸田子爵邸を譲り受けて移り住み、邸内に理化学研究所を置き、専心学理研究に没頭して居る。
  
 また、徳川家の末裔は旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)に通う、蘭塔坂Click!(二ノ坂Click!)上にも住んでいる。西坂の大垣徳川家、徳川義恕の子息である徳川義忠だ。ちょうど、一ノ坂と二ノ坂とをつなぐ尾根筋の道沿いに邸を建てている。この丘上は、旧・下落合3丁目(現・中落合1丁目)の丘上にあったギル邸Click!に隣接し、姻戚関係にあたる津軽藩津軽家とは谷間(現在は谷に沿って切り拓かれた山手通り)をはさんで、ちょうど向かい合うような位置にあたる。
徳川好敏191008.jpg 陸軍初飛行19101219.jpg
 さて、水戸徳川家あるいは清水徳川家の末裔も下落合に住んでいた。こちらでも、知人の家に保管されていた陸士の頒布写真Click!でご紹介しているが、陸軍航空士官学校Click!の校長をつとめていた徳川好敏だ。徳川好敏は、同学校長としての存在よりも、1910年(明治43)12月19日に代々木練兵場で日野熊蔵大尉とともに、日本で初めて航空機による飛行を行なった人物としてのほうがはるかに有名だろう。このサイトでも落合地域の南側に位置する戸山ヶ原Click!で、自作の航空機で飛行実験を繰り返していた日野熊蔵Click!のことは、すでにご紹介ずみだ。
 徳川好敏は、七曲坂筋にあたる目白通りの手前、現在は大イチョウClick!が残る路地の角敷地に家を建てて住んでいた。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』から、引用してみよう。
  
 徳川好敏  下落合四九〇
 当家は清水家と称し徳川三卿の一である、男(爵)は先代篤守氏の長男にして徳川圀順公の従兄に当られ、昭和三年十一月特に華族に列せられ男爵を授けらる、夙に陸軍に志し東京地方幼年学校、中央幼年学校、陸軍士官学校を卒業し、明治三十七年陸軍工兵少尉に任じ日露戦役に従軍す、凱旋後気球隊に転じ同四十三年仏国に派遣され飛行術を習得帰朝し、昭和六年陸軍少将に累進す其間大正三四年戦役出征航空隊付同中隊長、航空部検査官、陸軍航空学校教官兼大学校兵学教官飛行第二大隊長、所沢飛行研究部主事兼教官、飛行第一連隊長所沢飛行学校教育部長兼同校研究部々員等に歴補し、現時明野陸軍飛行学校長たり。家庭夫人千枝子は子爵松平忠諒氏の令姉である。(カッコ内は引用者註)
  
徳川好敏(代々木練兵場).jpg
万朝報19110429.jpg
 徳川好敏は、1911年(明治43)4月28日に空中写真の撮影にも成功している。ここでも多用している空中写真だが、大正前期に上空から撮影されたとみられる下戸塚の早稲田大学キャンパスClick!を例外として、ほとんどの空中写真が1923年(大正12)以降Click!のものだ。1911年(明治43)における空中写真の試みは代々木練兵場で行われており、付近を周回飛行しながら撮影実験が繰り返されている。ひょっとすると、陸軍の施設があった戸山ヶ原方面にも飛来しているのかもしれないが、そのとき落合地域をとらえた写真がどこかに残されていないものだろうか。

◆写真上:路地をはさみ、大イチョウの反対側が徳川好敏が住んでいた邸跡。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合2丁目700~714番地の徳川義恕邸。「火保図」は、またしても「義実」と誤採取している。下左は、下落合4丁目1981番地の蘭塔坂(二ノ坂)上にあった徳川義忠邸。下右は、下落合2丁目490番地の徳川好敏邸。
◆写真中下は、1910年(明治43)8月にフランスのアンリー・ファルマン飛行学校で撮影された操縦席の徳川好敏大尉。は、同年12月19日に代々木練兵場で航空機による日本初の飛行が成功した徳川・日野機。機体は、徳川好敏操縦のアンリー・ファルマン機。
◆写真下は、代々木練兵場の滑走路における徳川好敏(右)と日野熊蔵(左)。は、1911年(明治44)4月29日の万朝報で初の空中写真の撮影成功を報じた記事。

葛ヶ谷・長崎地域の伝承は平安末から。

$
0
0

自性院2.JPG
 暮れにある方から、1932年(昭和7)7月に出版された大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』(非売品)をいただいた。先にご紹介した『同志会誌』Click!(1939年)ともども、なかなか手に入らないたいへん貴重な落合地域の資料だ。これは、落合地域をとらえるのに、下落合や上落合ばかりでなく西落合(葛ヶ谷)も忘れずによろしく・・・ということなのかもしれない。w
 本書を執筆し編集・発行したのは、昭和初期に住職だった大澤永潤で、当時の住所表記でいえば落合町葛ヶ谷41番地の自性院内に在住していた。また、本書出版の資金を提供したのは、落合町下落合2349番地に「金田印刷所」を経営していた金田次郎という人だ。この地番は、落合地域が東京市街へと編入され淀橋区が成立するとともに、下落合の飛び地から旧・西落合2丁目へと編入された、自性院の西隣りに南北に細長く存在している区画だ。自性院の境内は、かつて下落合字大原(東側)と下落合字大上(西側)とにはさまれた位置にあった。
 大澤永潤と金田次郎は、両者とも『自性院縁起と葵陰夜話』の発行と同年、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』には登場していないが、同町誌の自性院の項目から引用してみよう。
  
 自性院  葛ヶ谷四十一番地
 西光山無量寺と号す、本尊阿弥陀如来を安置す。開山は賴誉、天文3年(1534年)四月十三日の起工と云ふ、旧御霊社別当寺である。境内七百九十二坪敢て広しと云ふにあらず、伽藍殿堂も決して立派とはいへぬが、何処やら古寺らしい面影がある、西に観音堂あり正観音を安ず、又子育猫地蔵尊を置く、旧来招き猫地蔵と称されて功徳著しいと云ふので尊信するものが少くない。寺内に和讃講及び光明少年少女会が創設されてゐる、現住職大澤永潤師が民衆済度の主旨を奉じて霊的発展に学徳を傾くるところである。(カッコ内は引用者註)
  
 いまではニャンコ寺、いや、秘仏・猫地蔵Click!を安置する寺として有名な自性院Click!で、新青梅街道には招きネコの像がシンボルとして置かれており、落合地域にお住まいなら一度は目にした方も多いだろう。わたしも、取材や散歩の途中にときどき立ち寄っており、佐伯祐三Click!の作品『堂(絵馬堂)』Click!探しでは、現・住職の方に親切にしていただきお世話になっている。『自性院縁起と葵陰夜話』は、同寺の縁起物語が記述されているのだが、それとは別にもうひとつ貴重なのは、戦前まで寺に代々伝わってきた記録や、葛ヶ谷周辺の伝承を採集している点だ。
 寺の記録には、葛ヶ谷一帯が藤原時代(平安期)末ごろから拓かれており、和田山Click!(現・哲学堂公園界隈)には和田義盛の一族郎党が館をかまえていたという伝承が生きていた。和田義盛は、平安末期から活躍した典型的な坂東武者であり、鎌倉幕府の成立では支柱のひとりとして参画し、初代の侍所(さむらいどころ)別当に任命された人物だ。和田氏の軌跡は神奈川県の鎌倉や三浦のほうに色濃く残るが、落合地域を含むこの一帯にも強い史的印象を残している。
自性院1.JPG 自性院3.JPG
自性院1936.jpg
 中野区側の字(あざな)である「和田」地名や、豊島区側は長崎側の「大和田」地名を鎌倉初期からつづく地名として想定できるとの記事Click!を書いたばかりだが、ひょっとすると自性院が採取していた伝承からすれば、鎌倉期以前より和田家とつながる館がここに存在しており、より古い時代から葛ヶ谷・長崎界隈は開拓されていたことになる。確かに、目白崖線下の下落合を横断する鎌倉街道Click!は、頼朝の奥州戦と同時期の鎌倉初期に建設されているという伝承が残り、また七曲坂Click!には頼朝自身による由来話がいまに伝えられている。したがって、和田氏が鎌倉幕府の創設に参加する以前から、一族がこの地一帯を支配する時期があったとすると、これらの伝承・伝説記録は史的にも文脈的にもツジツマがよく合ってくるのだ。
 そして「和田山」はもちろん、「和田」や「大和田」といった後世への根強い地名伝承とともに、平安末期から鎌倉時代の最初期にかけての、野方・落合・長崎地域の姿が透けて見えてきそうだ。ちなみに、周辺遺跡の具体的な発掘調査の側面からいえば、和田山に近い下落合西端の目白学園遺跡Click!(=落合遺跡:旧石器時代から現代までつづく重層遺跡)からは平安期の遺構が、中野区と新宿区が協同で設置している、哲学堂公園の南に接した西落合の妙正寺川公園からは、鎌倉期の遺構(妙正寺川No.1遺跡)がすでに発見されている。したがって、『長崎町誌』(1929年)に見られる鎌倉幕府の執権・北条氏の御家人だったと思われ、「長崎」地名の由来になったとされる長崎氏の登場(鎌倉末期と伝わっている)は、もっとずっとあとの時代のことだ。考古学的な調査がほとんど行なわれず、また野方町側や落合町側に残る伝承・伝説との突き合わせが不十分だった時代に作成された、『長崎町誌』の“限界”だろう。
 余談だけれど、『長崎町誌』は周囲の町村(高田町・戸塚町・戸塚村・下戸塚村・落合町など)の各町村誌(町村史)に比べ、明らかに長崎町の町長・町会議員・町役場職員・地域ボス・有力者たちの宣伝顕彰パンフレット(=町誌の私物化と自己顕示メディア化)のような、貧弱で情けない内容となっており、かんじんの長崎町の史跡や伝承、住民の暮らしなど街の具体的な姿があまり見えてこない。ここでは意図的にオミットしているのだが、機会があれば一度ご紹介したい。
自性院縁起と葵陰夜話1932.jpg 自性院縁起と葵陰夜話(奥付).jpg
自性院1932.jpg
 そしてもうひとつ、古くは葛ヶ谷村(西落合)の鎮守だった葛ヶ谷御霊社にまつわる伝説が、とびきり面白い。ここには、出雲のスサノオ(牛頭天王)と北斗七星(妙見菩薩)の伝説が残っていたのだ。わたしは以前、下落合の相馬邸Click!にまつわる妙見信仰Click!の記事を書く際、落合地域と周辺域には妙見神(ないしは妙見菩薩)を象徴するような事蹟は見あたらないと考えていた。でも、思わぬところに出雲神スサノオとセットになって、妙見神と習合した妙見菩薩が姿を現したのだ。しかも、葛ヶ谷村の谷戸には「妙見山」までが存在していた。この伝承は平安時代の末期、寛治年間の事跡として記録されている。同書の、「葛ヶ谷の起りと鎮守の事」から引用してみよう。
  
 尚古へから鎮守境内に牛頭天王と村内の谷戸といふ地に妙見山といふことに就いて伝説があります、牛頭天王には或る書にこの神は具には和魂の神、牛頭大神と申しまして、往古より悉く大地を宰り、人々の貧富病快を任じて諸の疫病神の主であると申されてゐます、この神を信ずるものは疫病を除き、禍を転じて福をお授け下さる神様として信仰されてゐます、又妙見山は妙見菩薩即ち「北斗七星又一説にはこの北斗の一星とありますが、又或書には妙見の功徳を説いて七星とし、総じて北極星をいふとあります」 この菩薩を祀りし地といひ伝へられます、経に「この菩薩を信仰するものは眼精清浄なることを得て善く物を見給ふと故に妙見と称す」とあります、
  
 現・西落合(葛ヶ谷村)の「谷戸」が、はたしてどの谷間を意味し、「妙見山」がどの丘のことをさしているのかはもはや不明だが、明らかに古い時代のこの地域に根づいていた宗教思想がうかがえる貴重な伝説だ。出雲神と妙見神との結びつきは、なにも明治期に将門相馬家が意識し神田明神Click!などを利用した、“結界”づくりだけではなかった。また、下落合の相馬家Click!にちなんだものかどうかは不明だが、『自性院縁起と葵陰夜話』には「相馬音頭」までが収録されている。
  
 相馬音頭
 竹に雀は仙台さんの御紋 相馬六万石九曜の星
 夜遊び帰りに東を見れば ほんに凄コツちやとりの声
 なんだ太郎七豆腐の豆よ 天保二枚で百六十
  
西落合1.JPG 西落合2.JPG
西落合3.JPG 野方.JPG
 最後に、葛ヶ谷地域に代々伝わった「歓喜舞踊」を引用しておこう。おそらく江戸期につくられたと思われる、いわゆる「念仏踊り」とか「極楽踊り」と呼ばれる農民たちの舞踊で唄われた歌謡だ。多くの場合、鎮守社の豊年祭や盆踊りの際に、営々と歌い継がれてきているものの一種だ。
  
 今年世がうて、穂に穂がさいて、殿も百姓も嬉しかろ。
 ことしや豊年穂に穂が咲いて、道の小草に金がなる、
 揃つた揃つた踊子が揃つた、稲の出穂より尚よく揃つた。
 盆踊り舞らば品よく踊れ、品のよいのを嫁にとる。
 盆が来てうれし、かはい殿さと肩ならべ、
 肩ならべても、末に添ふやら添はぬやら。
 踊りをどつて、嫁の口なけりや、
 一生後家でも、私しやかまはぬ。
  
 落合西部の葛ヶ谷(西落合)で唄われた歌謡が、下落合や上落合では唄われなかったとは思えない。おそらく、江戸~明治期にはこの近隣一帯で唄われ、踊られた地付き歌謡なのだろう。

◆写真上:新青梅街道の通り沿いにある、自性院の目印=招きネコ。
◆写真中上は、自性院境内から撮影した山門()と本堂()。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる自性院界隈で、下落合2349番地の「金田印刷所」の屋根も写っているだろう。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に出版された大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』(非売品)。は、同年に撮影されたとみられる本書巻頭に掲載された自性院境内。自性院の「あさひさしゆうひかがやくかつらがや みたのじやうどやぢぞうかんのん」というご詠歌が添えられている。
◆写真下:現在の西落合界隈で、多くの家々が空襲をまぬがれているせいか昭和初期の建築があちこちで見られる。下右は、西落合の西側に隣接する旧・野方町の緑濃い風情。

たそがれの都会はブルーな湖。

$
0
0

下落合眺望01.jpg
 1973年(昭和48)に万里村ゆき子が詩を書き、まるでロシアのヒクメットによる現代バレエのような『愛の伝説』Click!とタイトルされた同作には、坂田晃一が曲をつけている。『愛の伝説』を唄ったのは、いまやグループそのものが“伝説化”してしまった「まがじん」という5人組だ。
 夕暮れどきに、目白崖線に拡がった下落合の丘上や斜面の坂道に立っていると、南に見える新宿全体がこの歌詞のとおり、まるで湖の底に沈んだ街のように見えることがある。新宿の街がオレンジ色に包まれ、やがてはブルーの薄闇に沈んでいく瞬間だ。ちょうど、横尾忠則がデザインしたアルバムジャケットClick!のような趣きなのだが、横尾はニューヨークのビル街を“アガルタ”の首都シャンバラに見立てたのに対し、万理村ゆき子は新宿の街々を湖底に沈めてみせた。
   
  たそがれの都会はブルーな湖
  青ざめた車が泳いでいくよ
  帰る空なくした悲しげな鳩が
  公園の片隅震えて鳴くよ

   
 1973年(昭和48)当時は、東京の空や空気、河川などがもっとも汚れていた時代Click!で、万理村ゆき子には公園や広場などにいるドバトたちの群れが、気持ちよく飛べるような本来の空には見えなかったのだろう。やや窪地になった新宿の牛込柳町交差点では、連日のように光化学スモッグ注意報が出て、午前10時だというのにまるで午後3時ぐらいの弱々しい陽射しだったのを憶えている。「帰る空」をなくしているのは、ハトばかりでなく人も同様で、とても人間の住むところじゃねえや・・・などという言葉Click!が、東京市街地のあちこちから聞こえてきた時代だった。ちなみに、下落合にはドバトの数は少なく、「デデーポッポー」のキジバト(ヤマバト)を多く見かける。
下落合眺望02.JPG
下落合眺望03.JPG
下落合眺望04.JPG
 また、この歌詞には、夢や希望を抱いて東京へとやってきた、当時の若い子たちの心情もこめられているように感じる。70年代の前半は、フーテンやヒッピーに象徴されるように、自分がなぜ存在しここにいるのか、いまなにをやっているのか?・・・の意味に迷い、多くの若い子たちが歩みをゆるめ、しばらく立ちどまって考えた時代のように思える。それは、さまざまな社会的な矛盾や悲惨な破綻を目の前にし、理想と現実との乖離感にひるんだ瞬間でもあったのだろう。万理村ゆき子がどこの出身かは知らないけれど、おめおめとこのまま故郷へともどることはできないが、東京にも自身のアイデンティティの根を下ろせる場所がどこにも見つからない・・・という哀しみだ。
   
  こがらしの都会はつめたい湖
  灰色の三日月映しているよ
  微笑を忘れた魚たちの群れが
  地下鉄の入り口流れていくよ

   
 わたしは、東京が冷たいなどとはまったく思わないし、むしろよその街よりもよっぽどおせっかいで人情にあつい側面があると思うのだが(地域にもよるのかもしれないが)、それは東京に「あこがれて」やってきた若い子たちにはわからない感覚だろう。これは東京地方だけでなく、おそらくどこの街にも共通するもので、わたしがたとえば名古屋や大阪に住み、いくら馴染んで溶けこもうと努力をしたところで、言語Click!や風俗習慣、食べものの味など生活文化ひとつとってみても、どこかで、いつまでも疎外感をおぼえつづけるであろう感覚にも通じることではないだろうか。
下落合眺望05.JPG
下落合眺望06.JPG
 その昔、わたしがまだ大学3年生なのにもかかわらず、気が早くておせっかいで面倒みがよくてはしゃぎすぎな、小津映画Click!によく登場する杉村春子Click!役のような親戚が、「お嫁さんにどうかしら?」などと写真とともに縁談をもってくる、どこかおっちょこちょいでざっかけなく、はしっこくて憎めない土地、それが江戸東京の街だと思っている。
 「都会は灰色」とは、70年代によくいわれたフレーズなのだが、確かにビルや道路の多くは当時もいまも灰色をしているのだけれどw、この土地の人間にしてみれば、多くの場合「東京は灰色だ」とも「砂漠だ」とも思わない。なぜなら、その土地に営々と築かれて眠る物語が、先祖たちが残した軌跡の数々が、たとえいまは灰色のビルに遮られていたとしても、どこからか透けて垣間見ることができるからだ。それは、東京へとやってきた若い子たちの多くが、自身の先祖たちが静かに眠り、父母が暮らす生まれ育った故郷を、灰色で砂漠だなどとは、およそ思わないのと同じた。
下落合眺望07.JPG
下落合眺望08.JPG
下落合眺望09.JPG
 『愛の伝説』は、1973年(昭和48)から翌年にかけて放映された、ドラマ『さよなら・今日は』Click!(NTV開局20周年記念作品)の主題歌に採用されたが、このドラマの中で下落合の斜面にある家のベランダから、富士女子短期大学(当時)の時計塔Click!を前景に、高層ビルが見える新宿の空を見上げながら、「あなたは東京の空の悪口ばかりいうけど、わたしの故郷の空よ。わたしが生まれ育った空だわ」、あるいは同様に「都会が冷たいなんていうけど、それはウソよ」と、乃手育ちの夏子(浅丘ルリ子)に託していわせる脚本家の想いは、どこか万理村ゆき子がつくった主題歌の詩へ向けた、東京人側からの強情なリプライのような気がしてならないのだ。

◆写真:下落合からの新宿方面の眺望で、歌詞のとおり「ブルーな湖」に調整してみた。
昔、実家近くに住んでいて親父も好きだった、準レギュラーの加東大介が出てくる1973年12月1日の第9回「父と娘」です。牛乳瓶の底のようなメガネをかけた不動産屋役の梅津栄は、京の公家言葉を研究し現代の舞台や映画に「おじゃる」言葉を復活させた、有名な俳優で書家です。また、アトリエに朝倉理恵がコーヒーを飲みにきて、挿入歌を唄うシーンもこの回。近くのアパートへ、引っ越しの荷物を運ぶリアカーが、藤村俊二とともにすべり落ちていく坂道は、相馬坂よりも傾斜が急な久七坂だったでしょうか。少し大きめのスピーカーか低音が再生できるヘッドホンで聴くと、街の低周波ノイズまでが豊かに響いて、40年前のリアルな下落合サウンドが楽しめます。

Part01
Part02
Part03
Part04
Part05
Part06
Part07
Part08
Part09
Part10
Part11

中村センセの木炭紙、貸してんか~?

$
0
0

中村センセ01.JPG
 少し前の9周年記念日、ちょっとオマジメでしおらしい記事を書きながら、その舌の根も乾かないうちに、こんなオバカでくだらない記事が登場するので、このサイトはまったく信用ならない。
  
「しかし、金山さんと人くんは、杏奴Click!から目白文化村Click!に引っ越せてよかったぜ」
「あのな~、ソミヤはんClick!、ほんまでっせ」
「なにしろ、刑部さんちだてんだから、ひと安心だしな」
「あのな~、金山センセClick!ゆうたら、また文化村で、踊ってはんのとちゃうやろか?」
「それに比べりゃ、サエキくん、オレたちゃ宿無しで行くとこなしだぜ」
「なんや知らん、わしら放浪の画家ちゅうてな、長谷川リコーClick!みたいんなっとんのや」
「正月が近いてえのに、困っちまった。情けないったらありゃしねえぜ・・・ったく」
「こん前な~、ちぃとわしのアトリエClick!顔出したらな~、オンちゃんがな、責めよるねん」
「そりゃ、なにかい、サエキくん。サバClick!の一件かい?」
「あのな~、杉邨はんのカニ食べた~、ひとりで全部カニ食べた~ゆうてな、責めよるねん」
「・・・食いもんの恨みが、サエキ家じゃ、87年間も祟ってるてえわけかい?」
「そやかて、ぎょうさんのカニな~うまいさかい、やめられまへんがな。カニ道楽や~」
「しゃあがねえなぁ、サエキくん。・・・いっしょに、米子さんClick!に詫び入れてやろうか?」
「あのな~、ソミヤはん、もうええねん」
「もういいってことあるかい。このままじゃ、『下落合風景』Click!のタブロー描けないじゃんか」
「あのな~、オンちゃんは栄子ちゃんClick!に誘われてな、女流画家協会ちゅうの入っとんねん」
「そりゃ、オレも聞いてるさ」
「ほいでな~、いつの間にかな、わしのアトリエがオンちゃんのアトリエんなっとんのや」
「・・・すっかり、アトリエごと占領されたてえわけかい、サエキくん」
「そやさかい、わし、外でな~、仕事するしかないねん」
「そりゃ、お気の毒だわな。同情しちゃうよ」
「あのな~、こん前、台風ん中で描いとったらな、キャンバスがどっかへ飛んでってもうた」
「そいえば、大阪でも風に飛ばされて、泥だらけになった画布の話があったっけな」
「あちこち探しとったらな、顔と制服がバーミリオンの警官歩いとったさかい、知らん顔したわ」
「・・・・・・じゃあ、しかたねえからさ、ツネさんのアトリエにでも厄介んなるかな」
「ソミヤはん、そこいこそこ。・・・画道具がえろう重たいさかい、早よいきまひょ」
「でも、二科のオレたちが文展・帝展のツネさんちに押しかけてさ、厄介んなるってど~よ?」
「かまへんかまへん」
「官展のアカデミズムてえやつだけど、いいのかい?」
「かましまへんがな。あのな~、ミギシくんの弁証法Click!ちゅうのんは、たいしたもんやで」
「へ翁のアンチテーゼの、そのまたアンチテーゼで、螺旋に上昇するてえやつかい?」
「ウンチテーゼでもなんでもええさかい、早よいきまひょ」
「・・・ウンチじゃなくて、オレはアンチだと思うよ、サエキくん」
「これからな~、どんどん寒うなるさかい、ど~でもええがな」
「なんだかさ、サエキくん。性格がだんだん、いい加減になってるみたいな気がすんだけどな」
サエキくん01.JPG ソミヤはん01.JPG
中村センセ02.JPG ソミヤはん02.JPG
「はっはっはっ、はっはっはっ・・・」
中村センセClick!な~、アトリエの前で、もう笑ってはるがな~」
「うん、どうやら高笑いで上機嫌だし、こりゃ泊めてくれそうだぜ、サエキくん」
「やあ、キミたち。やっぱり、ボクのアトリエを訪ねてきたね。はっはっはっ」
「ツネさん、そういうわけでさ、少し厄介んなるけど、いいかい?」
「ああ、いいとも。ソミヤくんに、え~とキミは誰だっけ・・・確か、サエキくん、だったかな?」
「ツネさん、アトリエきれいに復元できたじゃねえの。ちゃんと、元どおりの仕上がりさね」
「うん、ソミヤくん、ありがとう。これも、優秀な復元PJTのおかげさ。はっはっはっ」
「あのな~、庭にな、大島帰りの傷心ツバキまで、ちゃんと植わっとんのや~」
「傷心ゆーな!」
「シーーッ、厄介になるんだから、あんまし余計なこたぁいうなよ、サエキくん」
「門で立ち話もなんだから、まっ、入りたまえ、キミたち。はっはっはっ」
「これ、えろう重たいがな~。中村センセ、あんじょう頼んますわ」
「あ、ツネさん、オレの画道具もお願いするよ」
「なんでボクが、キミたちの引っ越し荷物を、持たなきゃならないんだ?」
「まあ、ええがな。天下の中村センセが、細かいこと気ィせんと」
「・・・ボクは、旅館の番頭でも、アート引越センターでもないんだよ!」
「あのな~、林泉園のサクラんとこにな、イーゼルも置いてあるさかい」
「・・・ボッ、ボクは、ザキヤマじゃないんだよ!」
「ほう、ツネさんの代表作が、ちゃんと管理棟に並んでるじゃないの」
「やあ、気がついたかい、ソミヤくん」
「こりゃ、立派なもんさね」
「誰かのアトリエとちがって、ボクの作品は最初からカラーコピーじゃないのさ。はっはっはっ」
「額も高そうだぜ、ツネさん。こいつぁ、おそれ入谷の鬼子母神(きしもじん)だ」
「ボクの作品はとっても貴重だからさ、並んでいるのはホンモノじゃなくて特注印刷のレプリカなのが、非常に残念なんだけどね。はっはっはっ」
「おい、サエキくん、観てみろ。第8回文展の『少女』Click!があるぜ」
「ほんまや、俊子ちゃんやし」
「シーッ、これ、ツネさん27歳の作だけど、俊子ちゃんはまだ16歳になったばっかだぜ」
「わし~、中村センセの少女趣味、ぜんぜんわからへんのや~」
「うん、オレもさっぱりわからんが、いま風にいえば“萌え~~”てえやつかね」
「あのな~、ヴィーナスはんにも見えへんし、どこがええんやろな?」
「そうそう、まだ子どもじゃねえの。ツネさんは、どっかヘンな趣味してんだよな」
「ほんまやし。15、6の小娘な~、追っかけても面白(おもろ)ないで」
「それがさ、2尺足らずの長脇指(ドス)を腰にぶちこんで、中村屋に斬りこんだてんだからさ」
「ほんま、ストーカーやがな。早よ警察に連絡せな、あきまへんがな」
「うんうん、たまげた雑司ヶ谷の鬼子母神さね」
「シ~ッ、ほんまはな~、デッサンの王者Click!やのうて、危ないヲッサンの王者、ちゃうやろか?」
「うんうん、エロシェンコClick!がさ、“エロさん”てえんじゃねえやな」
「ほんま、中村センセがな~、けったいなエロはんちゃいまんの?」
「・・・ソミヤくんに、え~とキミは、サエキくんかな、そこでなにをコソコソ世間話してるのかね?」
「あのな~、中村センセな、LAOXの紙袋とか好きでっか~?」
「そうそう、ツネさん。萌え~~のAKBとか、乃木坂じゃ誰が好きなの?」
「・・・あのね、新宿中村屋はね、メイド喫茶じゃないんだよ!」
「ちゃんと聞こえてはるがな、ソミヤはん」
「胸は悪かったけど、昔から耳は地獄耳でいいんだよ、ツネさんは」
「さっさと、入りたまえ。キミたちを泊める部屋は、アトリエをずーーっと通りこして、台所の隣りにあるキイおばさんの三畳間だからね。ボクのアトリエには絶対、入らないでくれたまえ」
「・・・三畳間ってさ、ここでふたりとも寝起きして、仕事するのかい?」
「あのな~、殺生やで。イーゼルひとつ置いたら、いっぱいやがな~」
「くれぐれも畳に絵具をつけたり、汚したりしないようにな。・・・キミたち、文句があるなら、別にソミヤくんの駐車場でも、サエキくんの大好きな山手線のガード下Click!でもいいんだよ」
鶴田くんClick!みたいにさ、ちょいとアトリエの隅を貸してくれたっていいじゃん、ツネさん」
「そやそや、わしのアトリエよりな~、ぎょうさん面積あるやん」
「ダメだね。ここは、90年ぶりに復活した、ボクひとりのアトリエ空間さ。はっはっはっ」
「・・・ソミヤはん、中村センセしょうもない、しぶちんやで~」
「ほんとだよな、サエキくん。ツネさん長生きしたらさ、ちょいと性格が悪くなった気がするぜ」
中村センセ03.JPG 3人組01.JPG
3人組02.JPG
「ツネさん、おはよう! ・・・どこだい、はばかりかな?」
(ああ、ソミヤくん、夕べはよく眠れたかい?)
「・・・おかげで、サエキくんとひとつ布団で、べらぼーに気味(きび)悪く、ぬくぬくできたさ」
(そりゃよかった、なによりだな、ソミヤくん。はっはっはっ)
「夜中にさ、ネコや~ネコが出たClick!んや~って叫ぶから、思わず石を探しちまったぜ」
(寝言のネコに、Click!はぶっつけられないね。はっはっはっ)
「ところで、ツネさん、オレもはばかり、使いたいんだけどな」
(まあ、少し待ってくれたまえ。夕べカルピス飲みすぎて、やや下り気味なんだ。はっはっはっ)
「オレも、ちょいと、我慢の、限界なんだ、ツネさん。はばかりは、ひとつだけなのかい?」
(10時から管理棟の便所が開くよ、ソミヤくん。ところで、さっきからこの臭いはなんだい?)
「ああ、サエキくんが、朝っぱらから、すき焼きを食いたいてえことんなってな」
(・・・すき焼き?)
「うん、畳に七輪持ちこんで、カンテキすき焼きは久しぶりや~・・・とかなんとかいってたよ」
(おいおい、火事になったら、どうするんだい?)
「大丈夫、危ないからカンテキ・・・じゃない七輪は、もう台所に持ってかせたよ」
(ねえ、ソミヤくん、サエキくんの監視をくれぐれもお願いするよ。あいつ、復活したボクの美しいアトリエでなにをやらかすか、知れたもんじゃないからね。よく、見張っててくれたまえ)
「わかったからさ、それより、ツネさん、早く、出てくれないかな」
(もう、そろそろだよ、ソミヤくん。はっはっはっ)
「オレのあとには、サエキくんも順番待って、つかえてるんだからさ」
(・・・サエキくんも?)
「うん。でもツネさんがなかなか出ないんで、シビレ切らしてさ」
(・・・・・・)
「いま、外が気持ちええがな~って」
「・・・ケモチええ?」
「ああ、庭を散歩してるよ」
「・・・・・・待て待て待て待て、ちょっと待てー!」
「どうしたんだい、ツネさん? ズボンも上げずに、血相変えてさ・・・」
「確か、サエキくんとかいったよな! あいつ、どこいったー!?」
中村センセ04.JPG サエキくん02.JPG
3人組03.JPG
サエキくん03.JPG 中村センセ05.JPG
「・・・シィこいこい、ババこいこい、富士山も、芝生も、ツバキも、屋根もきれいやな~」
「こらこらこらこら、こらーーっ! サエキー!!
「中村センセ、おはようさん。きょうも、ええ天気ですがな」
「ええ天気ですがな~じゃない! 人んちのテラスで用を足すなー!!」
「あのな~、秋空見あげてな、バーミリオンの屋根が芸術の無限感や~」
「野グソ庭グソ禁止! ついでに、ボクのアトリエは、ぜ~ったいに描かないでくれたまえ!」
「・・・なんでですのん? 八島はんちClick!みたいで、わしの下落合風景にピッタリやで~」
「ボクのアトリエは竣工したばかりで、鄙びて古くてボロくてバッチくはないんだからね!」
「ここのな、ボロいドアや、ボロい外壁や、ボロい窓の部材そのままが、ごっつええがな~」
「ボロいボロいゆ~な!」
「あ、しもうた。・・・あのな~、わし、紙忘れてもうた」
「だから、どうした!?」
「センセの木炭紙でええさかい、よくもんで貸してんか~?」
バッバッカヤロー! 誰が貸すかー!!」
「・・・なんや知らん、劉生センセみたいやで」
「劉生ゆーな!」
「ほな、この葉っぱでええわ」
「ボッ、ボクの大切なアオギリを・・・こ、こらっ、むしるんじゃない!!」
  
 ということで^^;;;、結局、サエキくんとソミヤはんは、復元されたばかりの中村センセのアトリエへ、とりあえず寄宿することになったようだ。でも、翌日からとんでもない事件が起きてしまったようで、中村センセは気が気ではなさそう。踊り好きな金山センセと人くんは、目白文化村の刑部昭一様Click!のもとへ落ち着き、これで下落合を宿無しでウロウロする画家は、新宿・旭町のアンパクないしはボクチンから繰りだす長谷川リコーClick!ぐらいになっただろうか。サエキくんとソミヤはんの会話にも出ていた、このころのミギシくんがなにをしていたのかは、さだかでない。

◆写真:中村センセのアトリエに押しかけた、サエキくんにソミヤはん。
この物語はフィクションであり、実在する人物や施設とはなんら関係ない…かもしれません。
杏奴のママさんからお便りをいただき、足利市で「カフェ杏奴」を再開するそうです。詳細がわかりしだい、こちらで改めてご紹介します。

御嶽の行者はアトリエで九字を切る。

$
0
0

下石神井御嶽社1.JPG
 中村彝Click!の結核を治療するため、福田久道Click!が連れてきた修験者のような男は、天狗のような下駄をはき、異様な風体でアトリエClick!を訪れた。正座をする彝の前で、曾宮一念Click!によれば「ギャアー!」とか「ギョッ!」という奇声を発して、体内の結核菌を「殺す」施術をしている。福田が紹介したこの行者が、いったいどこからやってきたのかがきょうのテーマだ。
 実は、大正期の落合地域では木曽の御嶽信仰を思わせる、このような行者の姿はめずらしくない。彝アトリエにおける行者や、巫女の邪気祓いについては以前にも記事Click!にしている。少しでも病状がよくなって制作をつづけたい彝の、ワラにもすがる思いが感じられる逸話なのだが、結核が不治の病とされた当時としては、それほどめずらしくない光景だ。その様子を、今度は1989年(昭和63)出版の鈴木秀枝・著(曾宮一念・跋)『中村彝』(木耳社)から引用してみよう。
  
 下落合に移ってまもない頃、福田久道の紹介で気合術の施療師がしばらく彝の家を訪れた。豪傑的な風貌をもったその男は、合掌して座る彝の前で「ヤァーッ」というかけ声をかけ身体を細かく震わせた。/また一時、「巣鴨の神様」と称せられた「至誠殿」を頼った。老女の巫女が落合にまで出張し、端座した彝の前に御神体と称するガラス玉を置き、なにやら大声で呪文を唱えた。そしてそれに倣って彝は恭々しくその霊玉に拝礼をくり返した。後年その「至誠殿」は警察の手が入り、その御神体の霊玉は東大地質学教室の鑑定の結果、ラムネの玉が地中に埋まって変色したものと判り、教祖は獄者に繋がれた。/さらにある時は守宮(やもり)のように壁に貼付くことができる術者が来たり、成蹊実務学校長中村春二の紹介で、その夫人が悪阻で苦しんだ時、効果があった悪阻専門の医者が小石川から来たりした。
  
 成蹊学園の校長・中村春二でさえ、透視術に凝っていた大正時代だ。中村彝が、「ひょっとしたら」とさまざまな民間施術にのめりこんだとしても、誰も笑えないだろう。
 さて、このような重篤な病気や様子のおかしい人物が現れ、西洋医学がまったく無力だと判明した場合、この地域の村々では盛んに江戸期からつづく加持祈祷が行なわれている。まず、患者が出た付近の寺社から、僧侶や宮司が出張してきて読経や魔祓いが行なわれる。精神的なものであれば、当時の人たちはこれだけでずいぶん落ち着いたようなのだが、それでもダメだとわかると、より「霊験あらたか」な専門家の登場となる。
 精神的に不安定になった人物、たとえば鬱病やノイローゼ、被害妄想などの患者が出ると、当時は真っ先に“狐憑き”が疑われた。人間にとり憑いたキツネを追い払う、いわゆる“狐落とし”が専門の家系が、この地域にもいくつか存在している。“狐落とし”の専門家が出張して、加持祈祷を行なう場合が多いが、この地域ではやや事情が異なる。“狐憑き”が出ると、床の間に掛けておくだけでキツネが嫌がって逃げだす、“狐落とし”の軸画が伝わる家があった。軸画が伝わっていた、“狐落とし”が専門の家の証言を、1987年(昭和62)に発行された『中野の文化財No.11/口承文芸調査報告書・中野の昔話・伝説・世間話』(中野区教育委員会)から引用してみよう。
彝アトリエ1.JPG 彝アトリエ2.JPG
  
 うちの狐落としの掛け軸を持って、狐憑きの家ぃ行くと、「わー、こわいものが来たぁー」と言って、飛び出してくる。狐憑きが。それほど威力のあった、ありがたいお掛け軸が・・・。/私はね、えー、その、落とすところは、自分では見ません。おばあさんが、それは話して、そういうお掛け軸なんだよって。だから、狐が憑いたらば、金子さんのところの、お掛け軸を借りてくると治るよというようなことを言われて、狐落としの掛け軸であったということは伝わってるんです。/それで、大正十五年に使いました、いよいよ。これは、私の代で使った。私が中野の氷川神社に、大正十四年から勤めていたときに、十五年の年にですね、実は、世田谷の方で、狐憑きができちゃったんです。/で、その狐が言ったんだそうです。中野の氷川神社へ行けばねぇ、落ちるって言ったんだって。ええ。中野の氷川神社へ行けば、狐が落ちるって言ったんだそうです。(後略)
  
 そこで、この人物は家に伝わる掛け軸を、中野氷川社の宮司に持たせ、世田谷の“狐憑き”の家までとどけるのだが、それで狐はパニックになって逃げだし「病気」はあっさりと平癒したらしい。ちなみに、この掛け軸に描かれた絵柄がどのようなものだったのかは不明だ。
英泉「木曾街道薮原鳥居峠硯清水」(保栄堂).jpg
 このような、ある筋の専門家でも手に負えない「重病」患者ということになると、最後の切り札として登場するのが、当時は最強の「エクソシスト」だった、彝アトリエにも出入りしたらしい御嶽信仰の修験者だった。この周辺域で、もっとも強力な施術を行なう修験者は、御嶽講(木曽系)が発達した石神井村(現・練馬区)におり、下石神井の御嶽社がその信仰の中心だったようだ。仏教とも神道ともとれる、独特な山岳宗教をベースにしている御嶽大神への信仰は、江戸後期に郊外の農村地帯へと浸透している。行者は、まさに天狗のようないでたちで闊歩し、医者でも神主でも坊主でも治らない不治の病人のもとへ呼ばれてやってきた。でも、こんな突飛ないでたちでやってくる行者を見ただけで、あるいはその奇妙な叫び声(気合い)を聞いただけで、精神的なものならビックリして“正気”にもどってしまいそうなのだが・・・。
 その悪霊退散の祈祷は、おそらく病人を寝かせるか正座させるかして、九字切りをくり返し気合いを入れる所作だったのではないかと想定している。この場合の九字切りとは、密教の僧がくり出す真言ではなく、陰陽道をベースとした神道の「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(じん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)」だったろう。九字を唱える場合、最初の「臨」と最後の「前」に力をこめ、気合いとともに祓う動作を反復する祈祷術だ。彝アトリエへやってきた行者も、同様の祈祷をしていたものと思われる。再び、中野区の資料から引用してみよう。
  
 狐がおなかん中入ってね、狐祓いしたなんていう話は聞いてます。/生米食べてしょうがないってね、袂の中へ米を入れてね、生米をバリバリバリバリ食べるんですって、娘が。(中略) この辺では、お御嶽さんの行者ってのがいましてね、土地の人がほとんどそれやって、石神井の御嶽さんていう、木曽の御嶽さんの分社でやってたんですけどね。
  
 ちなみに、練馬地域における民俗宗教の展開では、1987年(昭和62)に出版された『練馬区小史―練馬区独立四〇周年記念―』によれば、地域の代参講として代表的な富士講や大山講のほかにふたつの講、すなわち御嶽講(木曽)と御嶽講(青梅)が記録されている。下石神井の御嶽社は、練馬というよりは杉並に近い位置にあり、現在の最寄駅は西武新宿線の上井草駅だ。
下石神井御嶽社2.JPG 下石神井御嶽社3.JPG
下石神井御嶽社4.JPG 下石神井御嶽社5.JPG
 1919年(大正8)の夏、中村彝が平磯へ静養に出かけ、下落合の彝アトリエの留守番をしていた福田久道は、近所でこの行者のことを耳にはさんで興味をもったのではないだろうか。そして、自身が石神井村の御嶽社へ出かけたか、あるいは人を介して紹介してもらったのかは不明だが、天狗のような格好をした御嶽の行者を、中村彝のもとへ連れてきているのではなかろうか。

◆写真上:下石神井にある御嶽社の境内には、まるで天狗のような行者の石像が建立されている。彝アトリエにやってきた行者も、このようないでたちをしていたのだろう。
◆写真中上:福田久道の招きで、御嶽の山岳行者らしい格好をした人物が訪れ、気合いとともに加持祈祷を行なった中村彝アトリエ()と、岡崎キイが暮らした三畳間和室()。
◆写真中下:保栄堂の英泉『木曾街道/薮原/鳥居峠硯清水』で、鳥居峠で一服して風景を楽しむ旅人を描いたもの。右手に見えるのが、江戸期に山岳信仰が盛んだった木曽御嶽山。
◆写真下:下石神井御嶽社の様子で、あちこちに御嶽講や御嶽大神の石碑が並ぶ。

Viewing all 1249 articles
Browse latest View live