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下落合を描いた画家たち・笠原吉太郎。(3)

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笠原吉太郎「下落合風景」カラーチャート.JPG
 一昨日、このブログをご訪問いただいた方が、のべ800万人を超えました。連動している扉サイトのオルタネイト記事のカウントを含めますと、1,100万人ほどになります。いつも拙記事をお読みいただき、ありがとうございます。今後とも「落合道人」ブログを、よろしくお願いいたします。
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 先日、笠原吉太郎Click!の三女・昌代様の長女・山中典子様Click!とお会いし、1930年協会展へ参加していた笠原吉太郎の、貴重な『下落合風景』Click!作品をお預かりした。山中様は、新宿区への寄贈を希望されており、さっそく翌日に新宿歴史博物館へご連絡を入れて、新宿区での受け入れを検討していただくことになった。当該の『下落合風景』は、八島さんの前通りClick!沿いの下落合679番地(のち下落合2丁目667番地)に建っていた、笠原吉太郎邸Click!(アトリエ含む)を描いたものだ。以前にご紹介した、同じ通り沿いの小川邸Click!を描いた作品とともに、現存が確認できた2点めの『下落合風景』ということになる。
 笠原吉太郎邸(+アトリエ)は、下落合でもかなり早い時期、1918年(大正7)の少し前に建設されている西洋館だ。下見板張りの外壁で2階建ての、当時としては典型的な「大正風西洋館」の姿をしている。笠原邸が建設されたのは、目白文化村Click!近衛町Click!が分譲をはじめるかなり前で、周辺には西坂の徳川邸Click!の巨大な西洋館(旧邸)Click!会津八一Click!霞坂秋艸堂Click!などが散見され、いまだ建物があまりなかった郊外の別荘地然とした風情の時代だった。目白駅寄りに中村彝アトリエClick!はすでに存在したが、佐伯祐三Click!曾宮一念Click!もいまだ下落合へはアトリエを建設していない。当時の様子を、1973年(昭和43)刊行の『美術ジャーナル』に掲載された、外山卯三郎「画家・笠原吉太郎氏を偲ぶ」から引用してみよう。
  
 大正七年の春、今の下落合はまだ東京の郊外の田舎で、細い道を歩いて丘陵を越えたり、渓谷を渡るといった状況だったのです。当時まだ北多摩郡(ママ:豊多摩郡の誤記)落合村字下落合といった時代で、草ぶき屋根の落合村役場の隣に、落合村の尋常小学校があり、その隣に火見の楼があった頃のことなのです。この村役場のうらの方の徳川家の牡丹園のはずれのところに、スレイト葺の入母屋の洋館が建っていたのです。これが笠原吉太郎氏の家で、いわゆる大正タイプの洋館だったのです。(中略) 私の父親は、その笠原氏の住居が気に入って、数回にわたって見学にゆき、笠原氏と交友が始まり、大正七年の秋に明治式入母屋スレイト葺の洋館であるわが家が落成したのです。当時、早稲田大学にいた実兄も水彩画を描いていたので、笠原家をおとずれることもあったのです。(カッコ内は引用者註)
  
 下落合1146番地の外山秋作邸Click!(外山卯三郎の実家)が、笠原邸を参考にしながら建設されたスレート葺きの西洋館だったことがわかる。
 お預かりした『下落合風景(笠原吉太郎邸)』(仮)は、330(W)×240mm(H)のほぼ4号Fサイズを想定した、スギと思われる板材に描かれた作品で、近年にクリーニングと額装がほどこされ往年の色彩や美しさを取りもどしている。画面は、絵筆による描画(ないしは絵筆の背による線描き)とペインティングナイフによるスクラッチなど、さまざまな技法を使って描かれており、おそらく大正末から昭和初期にかけての笠原邸を描いたものだ。板に下塗りは見られず、じかに油絵具を載せて描かれているらしい。最初に、絵具の薄塗りで全体の構図を決め、すぐに下描きなしで制作しはじめている印象を受ける。なお、このスギ材は美寿夫人の部屋を増築(画面右手の1階建築)する際に出た、天井板などの余材に描かれている可能性もある。
笠原吉太郎「下落合風景」全体.jpg
笠原吉太郎「下落合風景」01.JPG 笠原吉太郎「下落合風景」02.JPG
 笠原アトリエには、先の外山卯三郎Click!をはじめ、ときに前田寛治Click!里見勝蔵Click!、佐伯祐三など1930年協会Click!のメンバーたちが集合して、芸術談義に花を咲かせていた。特に佐伯祐三とは家族ぐるみの付きあいで、お互いが作品を交換しあうほど親しかったようだ。佐伯が描いた『K氏の肖像(笠原吉太郎像)』Click!は有名だが、ふたりは同一の地点にイーゼルClick!を立てて『下落合風景』を描くこともあったらしく、『下落合風景を描く佐伯祐三』Click!(行方不明)などが画像で残されている。そのころの様子を、先述の外山卯三郎の文章から引用してみよう。
  
 原稿の用件で、中央美術社をたずね、横川毅一郎氏に会い、田口省吾のアトリエで雑談をしていると、前田寛治と里見勝蔵が来訪して、ここで両氏を知り、下落合の住人であるところから交友が初(ママ)まったのです。当時戸塚四丁目に住んでいた彫刻家の藤川勇造夫妻Click!を中心として、毎日曜日に西武線の沿線の田舎をさがして、ピクニックを続けたものだったのです。中山巍Click!が帰朝し、中野和高がかえり、だんだんと、そのサークルがふくれ上っていったのです。さまざまな飲物や菓子や、弁当や果物をもちより、ポータブルのプレイヤーをもって、タンゴをおどるのが常であったのです。(カッコ内は引用者註)
  
 ひょっとすると、安井曾太郎Click!に師事していた藤川栄子Click!も、頻繁に佐伯アトリエを訪れているClick!ところから、彼女もまた笠原アトリエへ遊びにきているのかもしれない。
 描かれた笠原邸は、邸敷地の南東隅の庭にイーゼルを据え、西北西を向くように描かれている。笠原邸の向こう側には、八島さんの前通り(星野通りClick!)が通じており、左手が南で建物の南側面を描いていることになる。笠原作品にしては、それほど厚塗りではなく、かなり手早い仕事だったように見える。面白いのは、画面左などに描かれた樹木の表現が、選ぶグリーンの絵具からタッチまで、どこか佐伯の『下落合風景』シリーズClick!に似ていることだ。特に、下の絵具が乾かないうちにすばやく別の色を上塗りし、下の絵具との混ざり具合を効果的に活かして、木々のリアリティを出していく手法は、佐伯の『下落合風景』でも多用されている。建物の影や輪郭は、濃いブルーで描かれているようで、ブラックは右隅のサイン以外ほとんど使われていない。
笠原吉太郎「下落合風景」03.JPG 笠原吉太郎「下落合風景」04.JPG
笠原吉太郎「下落合風景」05.JPG 笠原吉太郎「下落合風景」06.JPG
笠原吉太郎「下落合風景」07.JPG 笠原吉太郎「下落合風景」08.JPG
 青空は薄塗りで、ところどころに下の板目が顔をのぞかせているが、雲は相対的に厚めの塗りで、太い絵筆を反復して動かし、筆先の筋目が残るよう質感をうまく表現している。オレンジないしは黄色を混ぜて、雲に当たる射光をリアルに見せるのも、佐伯の「テニス」Click!に描く雲などに見られる表現法と同じだ。佐伯作品と大きく異なるのは、笠原が描く『下落合風景』には大胆なデフォルマシオンがほどこされている点だろう。佐伯の『下落合風景』は、モチーフとなる風景をかなり正確かつ几帳面にとらえて描いている。おそらく、モチーフとなった下落合風景を、当時の実景写真と重ねあわせても、それほどの狂いはないだろう。モチーフの形象やそれぞれの距離感、パースペクティブなどのとらえ方が驚くほど正確で、その卓越したデッサンの技術力とともに、当時の実景を目にしているような錯覚Click!をおぼえるほどだ。
 それに対して、笠原吉太郎が描く『下落合風景』は、残されている数少ない画像Click!を参照する限り、かなり自由なデフォルメがほどこされており、実景というよりは笠原自身が内部で消化した、下落合の心象風景のような画面をしている。どこか、物語のひとコマのような情景や、ユーモラスであたたかい風情を感じさせる仕上がりのように思える。それは、モチーフを見たまま生真面目に写生して描くのではなく、自己の内部で一度咀嚼して再構成しなおし、当時の展覧会では多々見られていた、どこかプリミティーフな表現へと笠原自身が惹かれていたものだろうか。あるいは、既存の印象派の表現に引きずられぬよう、画面を「暴れさせる」フォーブの表現を、ことさら意識していたものだろうか。いずれにしても、描かれた笠原邸はまるで魚眼レンズでとらえられたように大きく歪み、屋根の縁や建物の角は野太い線で無造作に型どられている。
 山中典子様によれば、親戚の方々と建物の構造について検討した結果、正面左手にある扉は台所の勝手口ドアで、建物の角を折れた右側に見えているのが、風呂場の扉とのことだ。勝手口の左側に見えている窓は、1階にあった洋間の窓であり、笠原吉太郎の画室はその向こう側、建物の北西角側にあった。また、2階手前(東側)の窓が4畳の、西側の窓が8畳の和室のものだという。さらに、右手に見える増築された建物は美寿夫人Click!の部屋で、おそらくこの部屋で家庭用フランスパン焼き器や笠原手織機など、夫人のさまざまな発明が生まれたのだろう。
 笠原吉太郎が、この作品を描くためにイーゼルを建てている背後は、急激に5~6mは落ちこむバッケ(崖地)の地形となっており、第2の洗い場Click!のある西ノ谷(不動谷)Click!が口を開けていた。この谷戸の突き当たりが青柳邸Click!であり、その北隣りが佐伯アトリエということになる。
笠原吉太郎「下落合風景」09.JPG 笠原吉太郎「下落合風景」10.JPG
笠原邸間取り.jpg
笠原邸1947.jpg 笠原邸跡.JPG
 画面のていねいな洗浄により、およそ90年も前に描かれた作品とは思えないほど、笠原吉太郎の『下落合風景(笠原吉太郎邸)』(仮)は、鮮やかでみずみずしい画面をしている。現在、同作は新宿歴博へお預けしているが、90年前の下落合風景をとらえた画面であり、また1930年協会のメンバーが集った記念すべき笠原邸作品なので、ぜひ永久保存していただきたいものだ。

◆写真上:山中様よりお預かりした、笠原吉太郎『下落合風景(笠原吉太郎邸)』(仮)。
◆写真中上:全体画面と、各部分のクローズアップ。笠原邸を囲む樹木が、いまだ大きく育っていない様子から大正末か昭和の最初期に描かれた『下落合風景』作品と思われる。
◆写真中下:同じく、『下落合風景(笠原吉太郎邸)』(仮)画面の部分クローズアップ。
◆写真下は、画面の角度から見た笠原邸の間取り。下左は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同作の描画ポイント。すでに庭の樹木が大きく成長し、1階部分の屋根を覆っているのがわかる。下右は、八島さんの前通りに面した笠原邸跡の現状(道路の右手)。


神田川(外濠)を下って大川(隅田川)へ。

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神田川聖橋01.jpg
 1993年(平成5)3月23日から翌年の5月にかけ、1年以上の連載がつづいた朝日新聞の特集「神田川」には、水道橋の下でアユの捕獲された記事が紹介されている。記事は、見つかったアユが生き残れるか・・・というようなニュアンスで書かれている。それから20年、神田川の水質Click!は落合地域では水遊びができるまでに改善され、劇的な変化をとげた。アユの棲息はあちこちで確認され、現在は高田馬場駅近くの高戸橋Click!までの遡上が確認されている。
 この連載がつづいていたとき、読者からたくさんの投書が寄せられた。投書の内容は、みな昔日の神田川の風情であり、川に清廉さがもどることを願うものばかりだった。このとき、投書をした方々は明治・大正生まれの方が多く、現在の神田川を見ずに物故された人も少なくないだろう。その数多い投書のうち、いくつかを部分的に引用してみよう。まず、戸塚町字源兵衛Click!で生まれた佐々木文子氏(当時73歳)という方は、神田川風景の印象を次のように回顧している。
  
 人生最初の記憶は関東大震災。三歳六ヵ月でした。源兵衛の家は壊れませんでしたが、余震を警戒して、神田川沿いの製糸工場のさらし広場とでもいうのでしょうか、その櫓(やぐら)のような物干しに、蚊帳をつって寝ました。川向こうの空が明るくボーッとしていました。「下町が焼けてるンだよ」と教えてくれた父三十三歳、母二十四歳。後年、食糧管理局のお仕事で未利用資源の巡回指導に行き、夜、上野駅で見た空襲の空の明るさと、あの震災の夜のおののきとがダブルのです。/その製糸工場の持ち主とどういう関係であったかわかりませんが、五歳のころ、神田川に入水した女の人が、そこに引き揚げられたのです。/子供は見るものではないと言われましたが、八百屋お七のように、きれいな人で、木に寄りかかっていました。/騎兵連隊では、四月に“軍旗祭”といって、一般に門戸開放をします。桜が咲き競う中、酒保(隊内の売店)にも入ることができ、私は弟と行ったものです。そこで、三人の兵隊さんと親しくなり、その兵隊さんたちは、私の家に遊びに来るようになりました。/女学校卒業時の昭和十二年、その中のお一人から求婚されましたが、親の生活も助けたい気持ちで、お断りしました。
  
 以前、江戸安政大地震Click!関東大震災Click!の双方を体験し、その震動のちがいについて証言をしている、新井に住んでいた古老をご紹介したが、関東大震災と東京大空襲Click!の両方を体験された方も、もはや少数だろう。うちの義母は、かろうじて両方を体験できた年代だが、関東大震災のときはわずか1歳で、しかも東京にはいなかった。
 現在の落合・戸塚地域を流れる神田川は、大雨で増水してない限り入水自殺は難しいだろう。飛びこんだとたん、おぼれる前に川底に身体のどこかを強打して、打撲ないしは骨折をするのがせきの山だ。もっとも、江戸川から下流域はやや深いので溺れる可能性はある。
 いまは、ボートやカヌーで神田川を下ろうとすると、舟底をガリガリと川底ですってしまうポイントが多そうだが、大正初期に神田川を仲間と舟で下った、小学生の体験談も寄せられている。牛込柳町で育った、岡本光雄氏(当時89歳)という方の証言だ。関口水道町にあった大洗堰Click!の下、つまり江戸川がはじまる現在の椿山Click!の下あたりから、神田川の出口である柳橋まで下り、再び柳橋から必死に小舟をこぎ神田川をさかのぼって、かろうじて夕方に帰りついている。
  
 ある日仲良しの一人と「一度、大川の隅田川に行ってみないか」との話がまとまり、いつもの舟を借りました。その小舟は長さ約三メートル、竹竿を一本ずつもって江戸川(当時の、この辺りの神田川の呼び名)を下り始めました。舟は流れに乗って間もなく江戸川橋をくぐり、観世流の舞殿の屋根の見える大曲を過ぎ、揚場という所へ出ました。ここは小石川の砲兵工廠、今の後楽園の下の広々とした所です。当時は軍の用材の荷揚場でした。/余談になりますが、大正十二年九月一日の関東大震災の時、ここに大量に野積みになっていた石炭が神田方面からの火をあびて、火の山となってしまいました。それを消すことができず半月ぐらい、燃え続けておりました。(中略) そこから舟は水道橋をくぐり、お茶の水の辺りでは河岸の土手から湧水が川に流れ落ちるのも眺め、ついに隅田川の大川べりに出ることが出来ました。/広々とした大川の流れに喜んで舟を浮かべていると、突然、黒い煙突の蒸気船が白波を立てて通り過ぎて行きました。とたんに今まで静かな水面に大波がたち、自分たちの小舟を上下左右に揺り動かしました。今にも転覆するのではないかと思うほどの揺れで、舟べりにしがみついて生きた心地も無く、恐怖心からお互いに顔を見合わすばかりでした。/幸いにも小舟は岸辺の方へ寄せられたので、ようやく気を取り直し、大急ぎで岸辺の崖を頼りに、神田川の河口に戻りました。
  
神田川後楽橋.jpg 神田川水道橋.jpg
神田川御茶ノ水橋.jpg 神田川聖橋02.jpg
神田川聖橋03.JPG 神田川聖橋04.JPG
神田川丸ノ内線鉄橋.JPG 神田川万世橋.jpg
 現在の「神田川」は、落合から戸塚地域、江戸川橋、隆慶橋Click!、舩河原橋、水道橋Click!、昇平橋、万世橋Click!浅草橋Click!柳橋Click!を経て大川(隅田川)へと注いでいる。この間、関口の大堰から舩河原橋までが旧・江戸川Click!なのだが、古代から流れていた旧・平川Click!の流域は、飯田橋から日本橋川へとくだる川筋のほうになる。現在の橋名でいうと後楽橋あたりから、御茶ノ水、秋葉原(柳原土手Click!)、浅草橋(浅草見附)、そして柳橋までが、徳川幕府の拓いた外濠を兼ねた運河だ。ただし、いまでは千代田城Click!の外濠、あるいは運河という感覚はすっかり薄れて、全体を「神田川」と呼んだほうがしっくりくるだろう。
 親父の話でも聞いていたけれど、神田川や小名木川(女木川)の河口は、石川島や佃島Click!と同様に、水死人たちが寄り集まる場所でもあったらしい。水害や大火事、大地震、空襲などでたくさんの死人がでると、上流から流れてきてこれらの場所へ集まったようだ。川の河口なら、流れがあるから押しだされそうなものだが、隅田川は江戸湾(東京湾Click!)の潮の干満の影響を大きく受ける。一度、大川へ押し出された死体は、再び満ち潮で押しもどされて河口に滞留するらしい。柳橋の髪結いに奉公した、荒井良子氏(当時75歳)という方の証言を聞いてみよう。
  
 川の両側にはずうっと浅草橋のたもとまで柳が植えてありました。毎日、川の上をだるま船やらいろいろな船が行き来していました。春には花見船、夏には涼み船、お盆にはご供養の船と、その時々の船が出たものです。/お店は花柳界の芸者さんたちが主なお得意さんでしたので、お盆の十三日から十六日ごろまでは、かき入れで、客待ちの座敷もいっぱいで、川縁の柳の下を歩いてお座敷に向かう姿は、まるで絵に描いたよう。それはそれは何とも言えない風情でした。(中略) また綿引さんの二階にある仏壇に無縁仏が祭ってありました。姉弟子に聞きましたら、大正十二年の震災の時に神田川で水死した女の人が、ある夜、先生の夢枕に立って「だれも供養してくれる人がいないので、供養してくれたら、お店を繁盛させてあげます」といって消えたので先生は、その日を命日としてお線香をあげていたのだそうです。
  
 余談だけれど、川には水死人が集まりやすい場所が必ずあるようで、誰かが身投げをすると「あそこを探してみろ」というポイントが、どこの川にも存在している。身投げをしながら、水天宮のおかげて助かった「筆屋幸兵衛」Click!のような例もあるけれど、江戸期の人は別に「水練」などしているわけではないので、大川へ飛びこめばたいていは死ねると考えていたようだ。特に江戸後期には、もっともにぎやかだった大橋(両国橋)Click!からの身投げが多かったらしく、さまざまな芝居や講談、落語などにも登場している。大橋からの身投げは明治以降もやまず、自死の方法が鉄道自殺Click!にとってかわられるのは大正期に入ってからのことだ。
 神田川で死んだ女性の霊験は、残念ながら戦後わずか50年ほどしかつづかなかったようだ。髪結いを必要とする、大江戸東京で随一を誇った、イキで小股の切れあがった女性の代名詞でもある柳橋芸者は、わたしの世代でトキと同様に絶滅してしまった。
神田川和泉橋.jpg 神田川浅草橋.jpg
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 当時の朝日新聞による連載では、日本橋や柳橋を抱える中央区の矢田美英区長が、記者のインタビューに答えている。ここで語られているテーマは、20年後の今日でも古びてはおらず、現役の課題や案件としてそのまま「神田川」で生きているものばかりだ。
  
 戦後の復興期から高度成長期にかけては、自然に親しむ余裕もなく、一方では、台風被害に追われて神田川の岸辺は、すべてカミソリ護岸に変えられた。時代背景や、当時の技術からみても、ああいう姿しか仕方なかったのでしょうが、今の技術をもってすれば、一度には無理でも徐々には、あのカミソリ護岸をなんとかできるのではないか。/中央区としては、柳橋をはじめ六十八ある橋の整備に力をいれてますが、ぜひカミソリ護岸も船遊びができるような緑の岸辺に変えてもらいたい。/それと、もうひとつ大きな問題は高速道路です。下流部では、神田川にしても日本橋川にしても、川の相当部分は、高速道路で覆われている。天下の名橋とうたわれた日本橋の有名な道路元標にしても高架の下で、悲しい姿をさらしています。/東京の高速道路は、早期の建設のものは、そろそろ耐用年数がきます。建て替える時には、地下に入れるとか、いろいろ、工夫と研究をしてもらいたい。中央区には「日本橋保存会」という区民団体があって、「わが日本橋に、かつてのごとく陽光が降り注ぎ、街に生気と潤いの満ちる日を」と熱心に運動をしていますが、私としても同じ気持ちです。(談)
  
 矢田区長は、いまだ現役の中央区長であり、この願いは現在もまったく変わっていないだろう。わたしも、丸ごと同感だ。河川は東京都の管理なので、神田川沿いの区は手がつけられない。カミソリ護岸問題の解決には、神田川両側の土地買収などがからんでくると思われるので、10年や20年では簡単に解決できそうもないけれど、川を覆う高速道路の課題は現代の技術ですぐにも手がつけられる案件だ。特に江戸東京400年来のシンボルであり、全国の街道の総起点で東京のヘソでもある日本橋Click!の上からは、1日も早く高速道路の高架を撤去してもらいたい。
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 1964年(昭和39)の東京オリンピックで、来日する外国人向けの案内に細かな町名があるのは「わかりにくいし、恥ずかしい」と、この街の歴史が営々とこもる町名・地名を勝手に変えたClick!、自国の歴史を尊重せず外国人の評判ばかりを気にした、当時の為政者の言葉をそのまま拝借すれば、日本橋川や神田川、大川の上に高速道路のある風景こそが、都市の調和的な景観や風情を尊重しない無神経な“国情”を露わにしており、恥っつぁらしなことこの上ないのだ。加えて、防災都市づくりには支障をきたす、“頭上の危険”そのものであることも忘れてはならないだろう。

◆写真上:1927年(昭和2)に復興計画で完成した、神田川から見上げるお茶の水の聖橋。
◆写真中上:旧・江戸川を抜けて千代田城の外濠に入ると、小石川橋を背景に後楽橋が姿を見せる。つづいて水道橋、御茶ノ水橋、聖橋の順なのだが、御茶ノ水駅が工事中で聖橋の東側がよく見えないのが残念だ。丸ノ内線の鉄橋をくぐり、昌平橋をすぎると万世橋が見えてくる。
◆写真中下:神田川の右岸には柳原土手跡がつづき、和泉橋をすぎると、浅草見附=浅草御門の浅草橋が見えてくる。そして、わたしの故郷からもっとも近い神田川河口Click!の橋である柳橋。昔から営業している小松屋は健在だが、柳橋の料亭Click!が残らず消えてしまった。
◆写真下:神田川から大川(隅田川)へ出ると、左手に総武線鉄橋、右手には実家の2階Click!から見えたお馴染みの大橋(両国橋)がすぐそこ。ミニ永代の柳橋や両国橋を川面から見るのは、小松屋の屋形で食事をして以来だから久しぶりだ。大橋をくぐると、やがて新大橋から清洲橋、隅田川大橋、永代橋とつづくClick!。清洲橋は美しいので、つい多めにシャッターを切ってしまうが、その先の「ざまぁみやがれ」永代橋Click!から、日本橋川河口の豊海橋もきれいで見とれてしまう。大川はフェリーの往来が頻繁で、ボートは激しく上下に揺れるため舟に弱い方には無理だろう。

空襲で全焼した井荻の外山邸。

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外山邸跡.JPG
 以前、下落合から西武新宿線の井荻駅近くの西武鉄道による宅地開発地へと転居Click!した、外山卯三郎Click!里見勝蔵Click!について書いたことがあった。その記事の中で、両邸の位置がまちがっていたので訂正したい。これは、1930年(昭和5)に作成された「豊多摩郡井荻町全図」の地番表記にも、誤りがありそうな課題を内包しているのだが・・・。
 外山卯三郎は、野口一二三(ひふみ)Click!との結婚とほぼ同時に、下落合1147番地の実家(外山秋作邸Click!)から井荻町下井草1100番地へ転居。また、里見勝蔵は外山と相談して、同時に自宅を建設していたのだろう、外山と同じタイミングで下落合630番地から井荻町下井草1091番地へ引っ越している。外山邸と里見邸は、ともにF.L.ライトClick!の弟子である田上義也に設計を依頼しており、竣工もほぼ同時期だったにちがいない。のち、1932年(昭和7)に杉並区が成立すると、外山邸と里見邸はそれぞれ杉並区神戸町114番地と同神戸町116番地となっている。
 さて、この井荻町下井草時代の地番がクセものなのだ。1930年(昭和5)に作成された、「井荻町全図」で下井草1100番地と同1091番地を確認すると、同地番には新たに判明した外山邸と里見邸の敷地は含まれていないことになる。これは、そもそも伝えられている両邸の地番がまちがっているか、地図に誤りがあるかのどちらかだが、郵便類や美術年鑑に登録された住所を尊重するなら、「井荻町全図」のほうが誤っている可能性が高いのかもしれない。
 松下春雄アトリエClick!が建つ西落合(落合町葛ヶ谷)のように、区画整理で地番が変更(葛ヶ谷306番地→303番地)された可能性も考慮したのだが、それにしては作成された「井荻町全図」が、ふたりが引っ越してから翌年の1930年(昭和5)に作成されている点を考えると、そもそも地図に地番を採取する当初からまちがっていた・・・と考えたほうがどうやら自然なのだ。同地図の表記をそのまま踏襲するなら、外山邸は井荻町下井草1100番地ではなく1095番地、里見邸は下井草1091番地ではなく1089番地になってしまう。
 さらに、1929年(昭和4)初夏に外山邸と里見邸が完成し、同年6月には転居しているにもかかわらず、1930年(昭和5)に作成された参謀本部陸地測量部の1/10,000地形図には建物が記載されていない・・・という、もうひとつの記載もれもある。わたしは、邸が建設された翌年の1930年(昭和5)制作の「井荻町全図」で地番を特定し、同じく翌年の1/10,000地形図で、そのとき採取されていた建物から邸を特定したつもりだったのだが、これがそもそも誤りのもとだった。判明するきっかけとなったのは、外山卯三郎のご子孫である次作様から、井荻の外山邸が焼夷弾の直撃を受けて、全焼しているとうかがったからだ。
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外山邸1947.jpg 井荻町全図1930.jpg
 さっそく、1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真を見ると、わたしが規定した「外山邸」は無キズで建っていることがすぐにわかった。杉並区神戸町114番地で、焼けて更地になっている家はたった1軒しか存在していない。ほぼ同時期に、北海道立三岸好太郎美術館Click!苫名直子様Click!よりお送りいただいた外山邸の外観写真と、1941年(昭和16)に撮影された空中写真に写る焼けた家の姿とを比較すると、まさに外山邸であることが判明したのだ。苫名様より送りいただいた外山邸の写真は、邸の竣工から2年後の1931年(昭和6)に建設社から出版された、外山卯三郎・編著による『田上義也建築画集』へ掲載するために撮影されたものだ。
 では、『田上義也建築画集』から、いかにも外山卯三郎らしい紹介文を全文引用してみよう。
  
 一九二九年作品 東京郊外 住宅
 〇広いテレスに囲れたるコムパクトなる住宅。/〇門に立ちて右は奥庭の境界線に沿ふて広い石の階段は柱列の軸線を規定し、テレスに囲れたるリヴイングルームは、エントランスホール、食堂、更に台所、バス、トアレツト等と有機的関連に配置さる。書斎は単独に東に派生(ママ)し、静かなる環境を凝らす。/〇階上はベツドルームとなし、南のバルコンは平屋と階上の標準を与へフードの垂平なる秩序を賦与する。/〇東南端はテレスの上層にしかれられたるパゴラ、テレスより伸び出したるプールとの相交渉に依つて光線を清澄に、柔く導き入れる。/〇此処に於ては雪と風とに対する武装の強引を解き、併も尚、全一なる有機的構成により、泰山の如き安定と、力学的平衡をあくまで造型し、武蔵野の大自然に流動する大気に呼応せしむ。(外山氏の家)
  
 ちなみに、外山邸の書斎は西庭に向けて張りだしているので、「西へ派生」の誤記だろう。
外山邸外観.jpg
外山邸リビングルーム.jpg
外山邸平面図.jpg
 外山邸は、井荻町下井草1100番地(井荻町全図では下井草1095番地=神戸町114番地)の西側に敷設された、二間道路に接して建てられていた。誤って規定した「外山邸」の、2軒北隣りの敷地(昭和初期現在)にあたる。庭の南側には小さなプールが付属し、南向きのテラスには大きく張り出した屋根(庇)が特徴的な、独特の意匠をしている。いかにも、ライトの弟子だった田上義也らしいデザインだ。外山邸は、周囲の邸と比較してもそれほど大きくはなく、昭和初期には樹間に建つかわいい西洋館の風情だっただろう。
 さて、残るのは里見邸の位置だが、これはある方が戦後の「事情明細図」を調べてくださったので判明した。里見邸は空襲の被害を受けておらず、里見勝蔵は戦後もそのまま住みつづけていたのだろう。外山邸から、東北東へ40mほどの敷地に建っており、邸の北側を三間道路が、邸の東側を二間道路が通う角地の位置だ。里見勝蔵がこの敷地を選んだのは、アトリエの北側に設置した採光窓の外側に隣家が建ち、光を遮られないように考慮したものだろう。わたしが誤って規定した「里見邸」から、北へ3軒隣りの敷地(昭和初期現在)ということになる。
 改めて、現地を歩いて写真を撮りなおしてきたのだが、両邸の間は徒歩30秒ほどの距離で近接しており、すぐにも往来できる距離だ。里見邸のほうは、すでに現代的な住宅が建てられて当時の面影はなかったが、外山邸のほうは西武鉄道が開発した当初の、大谷石による塀や縁石の一部がそのまま保存されていて、緑が濃かった当時の外山邸の様子をしのぶことができた。
外山邸書斎.jpg
外山邸ダイニングキッチン.jpg 里見邸跡.JPG
 余談だが、外山邸はいかにも新婚家庭用のコンパクトな造りで、子どもが生まれたらすぐにも手狭になりそうな間取りをしている。あちこちの壁には、里見勝蔵の作品をはじめ絵や美術品が飾られているので、子どもたちは“加筆”したりオモチャにしたい誘惑にかられたのではなかろうか。

◆写真上:杉並区神戸町114番地の外山卯三郎邸跡で、大谷石の塀や縁石がいまも残る。
◆写真中上は、1941年(昭和16)に撮影された斜めフカンの空中写真にみる両邸。下左は、1947年(昭和22)の外山邸跡と里見邸。下右は、1930年(昭和5)作成の「井荻町全図」にみる両邸。外山邸は下井草1095番地に、里見邸は同1089番地になってしまうのだが・・・。
◆写真中下:1931年(昭和6)出版の外山卯三郎・編著『田上義也建築画集』(建設社)に掲載された、外山邸の外観()とリビングルーム()。暖炉の上に架けられた絵は、里見勝蔵の作品と思われる。は、1929年(昭和4)現在の外山邸平面図。
◆写真下は、外山邸の西庭へ張りだした書斎。下左は、リビングルームから眺めたダイニングキッチン。下右は、杉並区神戸町116番地の角地にあたる里見勝蔵邸跡。

陸軍航空士官学校長の徳川好敏。

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徳川好敏邸跡.JPG
 旧・下落合2丁目490番地(現・下落合3丁目)に住んでいた徳川好敏Click!について、ちょっと興味深いのでもう少し書いてみたい。中村彝Click!は、中村清二や寺田寅彦Click!などから依頼され、1916年(大正5年)に田中館愛橘Click!『田中館博士の肖像』Click!を描いているが、田中館は徳川好敏と濃いつながりがあった。ふたりは、同時期に政府からヨーロッパへ派遣され、田中館は脚気治療や航空技術など最新医科学技術の視察、徳川は日野熊蔵Click!とともに航空機の購入と操縦技術の習得を目的に渡欧し、ふたりは同時期に帰国している。
 陸軍の航空機に対する関心は、1909年(明治42)に設立された臨時軍事用気球研究会に端を発している。気球は、日露戦争で初めて実戦に投入されているが、その目的は敵情の偵察目的がメインだった。同研究会では、気球と飛行船の研究も進められたが、もっとも力が注がれたのは当時の最先端技術だった航空機の研究だ。研究会は、当時の陸軍軍務局長だった長岡外史を会長に、陸軍から10名、海軍から6名、東京帝大から3名、東京中央気象台から1名の計20名で構成されていた。のちに陸軍を退役した長岡外史は、民間航空の発展に注力することになる。
 東京帝大から参加したのは、先の理学博士・田中館愛橘に加え、同じく理学博士・中村精男と工学博士・井口在屋の3人だった。国立公文書館の資料を参照すると、1909年(明治42)12月20日付けで、帝大の3名に関する給与額の承認書類が残されている。3人の中で、もっとも給与が高かったのは田中館愛橘なので、実質、彼が帝大チームの代表だったのだろう。
 研究会には専用の施設がなく、当初は陸軍省工兵課が会議室や作業室などを提供し、航空機の設計や工作などの実務は中野の気球隊で実施していた。ところが、最新技術を研究する施設としてはあまりにもみすぼらしく貧弱だということで、陸軍は翌1910年(明治43)に所沢へ23万坪の土地を購入している。翌1911年(明治44)4月に、ようやく飛行場や研究施設などが完成し、臨時軍事用気球委員会は所沢へ移転している。これが、日本初の本格的な飛行場建設となった。その間、臨時軍事用気球研究会では飛行機の設計・製作を行ない、また発動機(エンジン)の製造も試みているが、実際に飛行できた機体はなかった。
 公文書館の資料を参照すると、1910年(明治43)4月9日に徳川好敏と日野熊蔵の欧州派遣が承認されているので、田中館も同時に欧州へと渡っているのだろう。このとき、陸軍のふたりはシベリア鉄道に乗ってヨーロッパへ向かっているが、田中館も同じルートで渡欧しているとみられる。そして、同年11月25日に外務省教育総監部へ田中館、徳川、日野ほかがそろって旅券(パスポート)を返納している記録が残っている。つまり、彼らの欧州滞在はほんの4~5ヶ月の短期滞在だったのがわかるのだ。その間、日野熊蔵はドイツで、徳川好敏はフランスで操縦技術の習得と航空機の購入に奔走し、田中館愛橘は各地の視察や取材、資料集めをしていたのだろう。
帝大3教授給与承認.jpg 陸軍航空士官学校1996.jpg
建設中の所沢飛行場1911.jpg
 次に、この3人がそろって記録に登場するのは、1910年(明治43)12月19日に代々木練兵場で行われた、国内初の航空機による飛行実験においてだった。田中館愛橘は、飛行を認定する立会人のような立場で、当日、代々木練兵場の現場にいた。その飛行実験の様子を、1996年(平成8)に出版された『陸軍航空士官学校』(陸軍航空士官学校史刊行会)から引用してみよう。
  
 研究会は、両大尉の帰還を待ちわびていた。購入機は、四十三年十一月、横浜港に到着し、中野の気球隊で組み立てられた。飛行機の取り扱いを経験している者は、日野・徳川両大尉だけであり、すべての作業はその指導下に行なわれた。幸いにも試運転の成績は良好であり、十二月中旬、代々木練兵場で初飛行を行うことになった。/滑走地区の整備、故障の修理等多くの困難を克服して、十二月十九日、ようやく飛行に成功した。〇七五〇(7時50分)、徳川大尉はアンリー・フェルマン機で約三分間、高度七〇米で代々木練兵場の外周を一周し、約三〇〇〇米の距離を飛んだ。これこそ、日本における飛行機の初飛行であった。徳川大尉は、一躍、日本の航空英雄と称えられるようになった。この人が、後に陸軍航空士官学校最後の校長となる。/日野大尉も、この日の午後グラーデ式機で、強風の中での初飛行に成功した。(カッコ内は引用者註)
  
 ただし、同年12月19日に先立つ12月14日の午後4時すぎ、代々木練兵場で地上滑走訓練を行なっていた日野熊蔵のグラーデ機(ドイツ製)が、地上2mの高度で100mほどを飛行しているので、こちらを日本初の航空機飛行とする記録もある。でも、田中館愛橘らの“立会人”がいない訓練中に起きた「予定外」の出来事なので、公的なレコードとなったのは12月19日午前7時50分にフェルマン機(フランス製)で飛行した徳川好敏となったようだ。
 文中にある陸軍航空士官学校Click!の校長に、徳川好敏中将が引っぱりだされて就任したのは、1944年(昭和19)3月のことだった。1939年(昭和14)に引退し、とうに予備役に編入されていたのだが、戦争の激化とともに陸軍部内では人材が払底していて見つからず、無理に引き受けさせられたようだ。当時、徳川好敏はすでに60歳になっていた。
 徳川好敏が校長に着任早々、突然、東條英機Click!(首相兼陸相)が学校を抜き打ち視察している。東條は、兵科が存在しない航空士官学校のアカデミックな教育方針に以前から反感を抱いていたと思われ、嫌がらせのように早朝の臨時視察を行なったらしい。おそらく、「理」を優先する徳川校長も気に入らなかったのだろう。校内をあちこち歩きまわり、いたるところで「雷を落として回」った。その様子を、前掲書に掲載されている教官・職員など代表的な証言を引用してみよう。
徳川好敏欧州派遣1910.jpg
徳川好敏フェルマン機.jpg
日野熊蔵(グラーデ単葉機).jpg
  
 当直者だけの学校では、陸軍大臣の抜き打ちの来校と、その奔放な視察振りに当惑するばかりであったが、やがて非常呼集に応じて学校幹部が続々と登校して、落ち着きを取りもどした。/午後、東條大将は職員・生徒を格納庫に集めて訓示を行い、本校教育に失望したことに触れ、「決死敢闘の気魄の昂揚、教育は万事精神主義であるべきである」と強調して引き揚げた。(中略) 視察後、徳川校長は、生徒に対し「大将のご指摘は校長の責任であり、生徒は落胆することなく本務に邁進せよ」と訓示し、学校職員には「東條大将の指摘は一応もっともであるが、本校には本校の行き方があるので、校長の方針に従い職務に勉励せよ」と述べた。(中略) 生徒たちの多くは、東條大将の精神主義に対する生徒隊長の科学的精神を追加した訓示に同感した。
  
 一日中、校内を視察された大臣は、最後に全員を集めて訓示された。その際、某生徒に、敵機は何で墜とすかと試問された。指名された生徒は、機関砲で撃墜するのだと答えたところが、大臣は、「違う。敵機は精神で落とすのである。したがって機関砲でも墜ちない場合は、体当たり攻撃を敢行してでも撃墜するのである。すなわち精神力が体当たりという形になって現れるのである」と言われた。それから、あれこれ訓示があったが中身は忘れてしまった。要するに、航士校の教育は大臣には満足すべきものではなかったらしい。/大臣が帰られた後、徳川校長が職員に対し、「ただいま、大臣閣下の訓示があったが、一応もっともな話ではある。しかし、本校には本校の行き方があるので、諸官は私の方針に従って、おのおの職務に勉励してもらいたい」と訓示された。それは何となく好感が持てたし、さすがは校長だと頼もしかった。(59期区隊長)
  
 敵機を「精神で落とす」ことができれば、日米戦ではとうに神がかり的な勝利をおさめてまったく世話はないのだが、のちに「東條旋風」と名づけられた首相兼陸相の視察は抜き打ちに行われた。これに対し、教官や生徒たちが、訓示の中身をほとんど憶えていないのが非常に象徴的なのだ。結果的に、東条英機による同校への「指導」は完全に無視されている。抽象的でわけのわからない精神論を繰り返すだけで、非論理的かつ非科学的で無意味なことしかいわないこの国の指導者層に、生徒や教官たちは大きな危機感を抱いただろう。海外視察などで視野が広い、航空畑の徳川校長や教官たちは、「東條旋風」が去ったのち、欧米との戦争はもはやダメかもしれないという危惧Click!を、ハッキリと意識の俎上に乗せたのではないだろうか。
徳川好敏(フェルマン複葉機).jpg
牛込市谷大久保絵図1857.JPG 三島山(甘泉園).jpg
 徳川好敏は、下落合の東隣りの三島山Click!に建っていた、水戸徳川家(清水徳川家)の屋敷で生まれている。徳川幕府の練兵場だった高田馬場Click!の北側に隣接する、現在の甘泉園公園がある早稲田の丘上だ。家政は火のクルマで、「華族の体面が保てない」という理由から、父親の徳川篤守は伯爵の爵位を返上し、屋敷を相馬永胤Click!に売却して転居している。ところが、徳川好敏は航空機分野での功績から、1928年(昭和3)に改めて男爵の爵位を授けられている。陸軍航空士官学校の校長として敗戦を迎えた徳川好敏は、1963年(昭和38)に横須賀の療養先で死去した。当時、元将兵や部下の出席者が少なかった陸軍の将軍クラスの葬儀だったが、徳川好敏の葬儀には、大勢の元・教官や元・生徒たちが参列したという記録が残っている。

◆写真上:目白通りから少し入った、旧・下落合2丁目490番地の徳川好敏邸跡の現状。
◆写真中上上左は、臨時軍事用気球研究会に参加した帝大教授・田中館愛橘ら3名の陸軍省による給与承認書。田中館愛橘が300円なのに対し、中村精男と井口在屋の2博士は半額の150円となっている。上右は、1996年(平成8)に出版された『陸軍航空士官学校』の函表。は、1911年(明治44)に撮影された建設中の陸軍所沢飛行場。
◆写真中下は、1910年(明治43)4月8日作成の徳川・日野両大尉を派遣する際の陸軍省から外務省あて移牒案。は、徳川好敏が初飛行で用いたフランスのアンリー・フェルマン機。は、代々木練兵場における日野熊蔵とグラーデ単葉機。日野大尉は、12月19日に先立つ12月14日に地上2m、10m、60mの高度による試験飛行に成功している。
◆写真下は、徳川好敏とフェルマン機。は、1856年(安政4)の尾張屋清七版「牛込市谷大久保絵図」にみる三島山(甘泉園)の清水屋敷。は、清水屋敷跡の甘泉園公園。

マンガ講義に通う八島太郎の下落合ルート。

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プロレタリア美術研究所跡.JPG
 1932年(昭和7)の秋、八島太郎Click!(岩松惇)は下落合の南側、戸塚町上戸塚に引っ越してきている。地番までは不明だが、戸塚町上戸塚593番地(のち戸塚町4丁目593番地)に住んでいた佐多稲子Click!宅のごく近くにいたらしい。彼はマンガ講師として、この家から下落合を抜け、長崎町大和田1983番地にあったプロレタリア美術研究所Click!(旧・造形美術研究所Click!)へ通勤していたのだろう。この年の12月、プロレタリア美術研究所は東京プロレタリア美術学校と改称し、美術の教育機関であることをハッキリと打ち出している。
 八島夫妻(岩松惇と同じく夫人は洋画家・新井光子)は、この家を拠点にして創作活動をつづけていたが、光子夫人は子育ての真っ最中で思うように絵が描けなかったようだ。八島は九州(鹿児島)出身であり、家事育児は女の役目で男は仕事に邁進し、妻はそれをサポートするのが当然・・・というような感覚を、本人が意識するしないにかかわらず成長過程で身につけていたようだ。このあたり、北海道(札幌)出身で女性には呆れるほどだらしないが(夫人から叩かれ、ときどき顔に痣をつくっていた)、家事育児を進んでこなしていたらしい上戸塚397番地で暮らした三岸好太郎Click!三岸節子Click!夫妻とは、かなり異なる画家夫婦だった。
 八島太郎(岩松惇)の感覚は、まったく時代が異なるけれど、戦後の「愛すとはついに言わねば炊き出しの 飯ぎこちなく吾は受けるを」と福嶋泰樹が詠じた全共闘運動で、「コンクリートに布団を敷けばすでにもう 獄舎のような教室である」バリスト決行中の大学構内でも垣間見える。握り飯をつくり、当然のように口を開けて待っている男子学生へ配布していたのは、ここでも「愛すとはついに」告白できなかった“サポート”女子学生なのだ。光子夫人は、常に夫のサポート(夫を支えるさまざまな雑事)をしなければならず、自身の創作活動が思うようにできない矛盾とDVに悩みつづけ、ついにふたりの結婚生活は米国で破たんしている。
 光子夫人が子どもを背負い、八島太郎(岩松惇)がキャンバスに向かって大作を仕上げている様子を、佐多稲子(当時は窪川稲子)は鮮明に憶えている。それほど、八島夫妻は佐多稲子の近くに住んでいたのだろう。当時の様子を、1981年(昭和56)に晶文社から出版された宇佐美承『さよなら日本―絵本作家・八島太郎と光子の亡命―』から、佐多の証言とともに引用してみよう。
  
 光が子どもをおぶって走りまわり、太郎が大作に専念していたすがたを、ちかくにいた佐多稲子はよくおぼえている。光(子)はおしめをあらう手をとめ、わたしもあんなに自由に絵がかきたいと佐多にもらした。/「淳(岩松惇は当時“淳”のネームをつかっていた)は強引に仕事をすすめる人。そんな淳に光は惚れていました。夫に思う存分、絵をかかせたい。だけど同じ絵かきだから競争心もある。夫が五十号を描けば自分も五十号を描きたい。女には女の仕事が重くおぶさっている時代でしたから、複雑な気もちだったでしょうね。『婦人戦旗』『働く婦人』の表紙やカットを描いてましたね。一生けんめいでしたよ。いい絵でしたよ」 (カッコ内は引用者註)
  
 また、八島夫妻が暮らしていた近くには、佐多稲子の家と頻繁に往来していた洋画家・藤川栄子Click!がいた。佐多邸の近所には当時、教師になって左翼運動に身を投じていた藤川栄子の姉・坪井操の家Click!もあったはずだ。おそらく、藤川栄子も八島夫妻と顔見知りだっただろう。さらに、佐多稲子の家には宮本百合子Click!がよく遊びにきており、八島太郎と宮本百合子はここで親しくなったのかもしれない。八島はいつも、議論では宮本百合子にやりこめられていたようなのだが、ふたりの交流は八島の創作基盤が米国へ移ったあと、戦後までつづくことになる。
上戸塚南北道1.JPG 岩松惇(八島太郎).jpg
 八島太郎が、上戸塚の佐多稲子邸の近くから、長崎町大和田1983番地のプロレタリア美術研究所へ講師として通勤したルートは、おおよそ想定することができる。当時の八島夫妻の窮状を考えれば、省線・高田馬場駅に出て池袋駅まで行き、そこから武蔵野鉄道Click!の椎名町駅で降りて同研究所まで通勤したとは考えにくい。以前、上戸塚866番地の藤川栄子アトリエから、下落合630番地の里見勝蔵邸Click!を訪ねる長谷川利行Click!の下落合コースを想定したことがあったけれど、八島太郎の研究所通勤コースはもう少し西側のルートだ。
 しかも、八島が上戸塚で暮らした時代は、青柳ヶ原Click!が消滅し国際聖母病院Click!が竣工しており、聖母坂(補助45号線Click!)が開通していたので、西へ移転したばかりの下落合駅Click!あたりから一気に目白通りへと出て、長崎町へ向かうにはかなり便利になっていたはずだ。上戸塚593番地の佐多稲子邸を起点にすれば、長崎町大和田1983番地のプロレタリア美術研究所までは1,500mほど、下落合の上り坂を想定しても歩いて15~20分ほどの距離だ。まず、早稲田通りに近い佐多稲子邸のある上戸塚593番地東側の道を、まっすぐ下落合駅方面へ北上する。下落合駅の移転とともに、神田川と妙正寺川の落ち合う地点で整流化工事が行なわれていた当時、八島は新堀橋の仮橋をわたり、つづいて千代久保橋Click!をわたると、極東ランプ工場の先のT字路を左へ折れて、聖母坂(補助45号線)の真下に出る。
 聖母坂を北上し、ほどなく目白通りへ突きあたると左折して椎名町方面へと歩いていく。300mほど歩いたところで、右手(北側)にダット乗合自動車Click!の営業所と椎名町派出所が見えてくるが、八島はできるだけ交番に近づきたくなかっただろうから、その2本手前の路地を北へ右折したかもしれない。その道を北上すると、3つめの十字路の角には「プロレタリア美術研究所」への道案内看板Click!が建っていたはずだ。その手前、ふたつめの十字路を左折して西へ歩くと、すぐに目印となる日ノ出湯の煙突が右手に見えてくる。八島太郎が通勤していた研究所は、その煙突の西側にあった。もちろん、八島の背後には特高Click!の刑事が常に張りついていただろう。
上戸塚1935.jpg
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 八島太郎(岩松惇)が、初めてプロレタリア美術研究所の前身である造型美術研究所へ姿を見せたのは、1927年(昭和2)7月のことだった。当時、造形美術研究所は丸の内の三菱赤レンガビル街の真ん中、仲通14号の3の半地下にあった。当時もいまも丸の内オフィス街の中心地で、造形美術研究所に当時、三菱となんらかの関連があるパトロンがいたことを感じさせる逸話だ。その半地下の研究所に、八島がやってきたときの様子を前掲書から引用してみよう。
  
 三間四方のうすぐらいその部屋に「絵をみてください」といってあらわれた美少年・岩松惇のことを当時二十五歳だった岡本唐貴は、いまもよくおぼえている。「未熟なアカデミックな絵だったな」とかれはいう。「アカデミック」とは官制画風ということである。/胸のうちをぶちまける太郎に岡本は「ぼくたちはいまや君の考えているより先へいってるんだよ。ロマンティスムからネオ・レアリスム、さらにプロレタリア・レアリスムへとすすんでいるんだ」とおしえた。その話をきき、ところせましとならんだ矢部友衛の絵や浅野孟府の彫刻をみて太郎は感動する。
  
 それからわずか5年、八島太郎は東京美術学校を退学したあと、長崎町へ移転してほどなく造形美術研究所改め、プロレタリア美術研究所で講師をつとめるほど急速に作画技術が進捗したようだ。新井光子とは造形美術研究所時代に知り合い、1930年(昭和5)に結婚している。
 1933年(昭和8)の夏、八島は特高に検挙され、光子夫人ともども3ヶ月を超える拘留をうける。「転向」手記を書いてようやく出獄すると、光子夫人の実家がある神戸で療養し、1939年(昭和14)にサンフランシスコへ向け島谷汽船の君川丸で旅立っていった。当時の朝日新聞阪神版は、画名が知られはじめていた八島(岩松)夫妻の渡米を次のように報じるが、実質的な亡命だった。
  
 異国へ絵筆巡礼/岩松敦(ママ)画伯夫妻
 “真の芸術道を体験するためには臥薪嘗胆の荊道を歩まねばならぬ”と遠く太平洋のかなたまで貨物船に便乗し、知己もない異国の空で描き自ら売りその糧を稼ぎつつ桂の枝をたおらんという燃ゆるが如き芸術慾を迸らせて憧れの欧米へ彩管巡礼を志す若き画家夫妻がある(後略)
  
上戸塚南北道2.JPG 上戸塚南北道3.JPG
岩松惇(丸の内時代).jpg 新井光子(第4回プロ美展).jpg
 ちなみに、特高から要監視人物として見られていたであろう八島太郎(岩松惇)・新井光子夫妻へ、パスポートをスムーズに発行したのは、光子夫人の姉の婚家に縁のある外務次官・澤田廉三だった。のちに、やすやすと「海外逃亡」を許したと特高警察を悔しがらせた澤田外務次官とは、このサイトでは何度も登場している、戦後に大磯Click!駅前に建っていた岩崎別邸で、エリザベスサンダースホームClick!を創設した「女弥太郎」こと、豪快な澤田美喜Click!(岩崎美喜)の夫だ。

◆写真上:長崎町大和田1983番地にあった、プロレタリア美術研究所(造形美術研究所)跡。
◆写真中上は、上戸塚から下落合方面へ抜ける南北道の現状。突きあたりが早稲田通りで、手前の上戸塚593番地には佐多稲子の旧居跡がある。は、若き日の八島太郎(岩松惇)。
◆写真中下は、1935年(昭和10)作成の「落合町全図」にみる、佐多稲子邸の近所にあった八島(岩松)邸から下落合を通り長崎町大和田のプロレタリア美術研究所へと向かう想定ルート。は、八島太郎が上戸塚に住んでいたのと同時期、『落合町誌』(落合町誌刊行会)出版のために1932年(昭和7)に撮影された開通したばかりの補助45号線(現・聖母坂)。手前右下に見えている坂を右折すると、諏訪谷の谷戸から南へ移動した“洗い場”(プール)Click!がある。
◆写真下上左は、上戸塚593番地の佐多邸跡から早稲田通りへと抜けるあたり。上右は、下落合へと抜ける途中の右手に拡がる「新高田馬場」跡Click!の草原。草原の突きあたりに見えてる家々の左手が、上戸塚397番地の三岸好太郎・節子夫妻が住んでいた旧居跡あたり。は、丸の内三菱レンガビル街・仲通14号にあった造形美術研究所時代の八島太郎(岩松惇)。は、1931年(昭和6)に開かれた第4回プロレタリア美術展記念写真の新井光子。(中央)

ネコだらけの下落合にいるネコ。

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 以前、下落合753番地に建っていた九条武子Click!の邸をご紹介Click!したとき、彼女に抱かれているネコや庭先にいるネコが、いまの下落合をウロついているネコたちにそっくりだったのに驚いた記憶がある。おそらく、九条武子は邸内にネコを飼っていたわけでなく、庭先で付近のネコにエサをあげていた、いわゆる“外ネコ”たちが写っているのだろう。
 なんだか、現代の下落合にいる野良ネコたちに混じって九条武子が存在しているようで、不思議な感覚をおぼえたものだ。写真に撮られたネコの中には、九条邸のバッケ下にある野鳥の森公園で、親にはぐれてピーピー鳴いているところをひろった、いまわたしの家でふんぞり返っているメスネコにそっくりなやつまでいる。このネコは、おおよそ三毛ネコと虎ネコと黒ネコと白ネコの合いの子、つまり得体の知れない超雑種の日本ネコだと思うのだけれど、九条武子とともに写るネコたちも、みな得体の知れない下落合の雑種ネコたちだ。
 江戸期の下落合村から落合村へと変わった明治期も、九条武子がオバケ坂Click!の道筋に転がっている石を「子供が転ぶと怪我をするから」と、その名も“ネコ”を購入して整備していた大正期も、また周囲の夜空が真っ赤になった山手空襲Click!の昭和期も、下落合のネコたちはどこかへみんな集まって、あるいはどこかへ身を潜めては、日々営々とすごしてきたのだろう。これはネコばかりでなく、縁の下のタヌキClick!たちも同様だったにちがいない。
 九条武子が抱っこするネコが、いまもそのまま下落合で生きつづけているわけはないのだが、ネコという動物はどこか、そんな不滅感のある不思議な魔性を感じさせる動物だ。そういえば、この微妙な感覚をうまく表現した文章があった。1996年(平成9)に白水社から出版された、わたしの得意ではないショーペンハウワー『意志と表象としての世界』(有田潤・訳)から引用しよう。
  
 ----もしわたしがだれかに、この中庭でたわむれている猫は三百年前そこで同じように跳びはね、ずるく立ちまわった猫と同一のものだ、と真顔で断言しようものなら、その人はわたしを気違いとおもうであろう。わたしはそれを知らぬではない。がしかしまた、今日の猫が三百年前の猫と徹頭徹尾別物であるとおもうのはこれ以上に狂気の沙汰であることをも知っている。
  
 いま、この文章を書いていると、そばのクッションに寝ころんでいるネコが、ヒゲを前に向けてジッとこちらを見ている。なんだか悪口を書いているそばから、宝石のようなその眼で見透かされているように感じるのだが、このような人を突き放してクールに見すえる眼差しをもつところもまた、ほかのペットにはない、ネコならではの野性味であり面白さなのだろう。
九条武子ネコ1.jpg 九条武子ネコ2.jpg
 ネコは、なにかに怒ったり集中したりするとヒゲが前に出てきて、まるでレーダーのように対象物へと向けられるのだが、そのだいじな白いヒゲが床にボトンと落ちていることがある。手に取るとごわごわしていて、まるでバネか針金のような剛毛なのだが、どうやら季節に関係なく用済みになったら抜け落ちるものらしい。いくら抜け落ちても、ヒゲの数が減らないところをみると、何度でも繰り返しごわごわ生えてくるものなのだろう。
 メスのくせにヒゲがあるのもおかしいけれど、見ているとネコにとっては生活そのものを左右するとてもだいじな器官のようだ。『不思議の国のアリス』に登場する「チェシャ猫」は、身体が徐々に消えていくのに、最後まで口もと、つまりヒゲのある口まわりが消えずに残っているのも象徴的だ。このヒゲは非常に強靭だそうで、材料工学の世界では「ひげ結晶」と呼ばれているとか。ある条件のもとで実験をすると、鋼よりもはるかに強い耐性を記録するらしい。1984年(昭和59)に毎日新聞社から出版された、わたしの好きな楠田枝里子『気分はサイエンス』から引用してみよう。
  
 古典となっているジョン・テニエルの挿絵では、殆んど顔だけになったチェシャ猫に、立派なひげと大きに口が、ことさらに強調して描かれていました。それじゃ、にやにや笑いだけが残ったとは違うんじゃない? 追及は、なおも急で、お母さま方はあわてて話をそらします。/「ひげには三種類あってね、髭はくちひげ、鬚はあごひげ、髯はほおひげのことなのよ。猫のひげはどれかな」/でも、女性時代の習いなのか、このところ、ひげはとんと人気がありませんね。/そんななかで、昨今注目を集めているのが、ウィスカーという「ひげ結晶」です。別名、猫のひげ、とも呼ばれる、これは、極く細い線状結晶で、強さに特徴があります。 (後略)
  
 余談だけれど、ひょんなきっかけから楠田枝里子氏とは、四谷の喫茶店「オレンジ」(とうに閉店しただろう)で待ち合わせをして、1時間ほどお話をしたことがある。当時は、まだ日テレのアナウンサーをしており、石坂浩二とともに「おしゃれ」という番組を担当されていたように思う。
 わたしは、理工系の女子(年上なのでこういう言い方は失礼なのだが)とはほとんど話をしたことがないので、そのお話がかなり新鮮で面白かったのをよく憶えている。残念ながらネコにまつわる話は出なかったけれど、信州へコホーテク彗星を観測に出かけた話や、大学へ導入された機動隊に下の駐車場へ蹴落とされた話など、面白いエピソードをずいぶんうかがった。画家ではパウル・クレーがお好きなようで、特に美術や絵画のお話も強く印象に残っている。
春信「風流五色墨素丸」1766-68.jpg 豊国「当世やつし女三宮」1789-1801.jpg
 ネコが好きな人とキライな人とがいっしょになると、どうやら悲劇がどんどん拡大していくようだ。下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)に、1941年(昭和16)から和館Click!を建てて住んでいた林芙美子Click!あてに、1975年(昭和50)に新潮社から出版された『三島由紀夫全集』第25巻所収の、わたしの好きでない三島由紀夫Click!が出した手紙から引用してみよう。
  
 林さんはどちらかというと、猫よりも犬の方がお好きのように拝察しますが、只今飼っておいでになりますか? 「美しい私の猫よ・・・・・・金と瑠璃の入りまじったおまえの美しい眼の光りに・・・」という詩句のためではないが並外れて猫好きの私が、このごろは猫運がわるくて、立て続けに二匹亡くしまして、近ごろの仕事部屋は寂しくてたまりません。あの憂鬱な獣が好きでしようがないのです。芸をおぼえないのだって、おぼえられないのではなく、そんなことはばからしいと思っているので、あの小ざかしいそうな顔つき、きれいな歯並、冷めたい媚び、何ともいえず私は好きです。
  
 大のネコ好きだったらしい三島由紀夫と、むしずが走るほどネコが大きらいだった瑤子夫人、それに、だいじな息子から飼いネコを預かって、たいせつにかわいがっていた三島の母親も加わり、家の中は修羅だった様子がいまに伝えられている。
 ネコ好きが「トンデモナイ!」と思う歌に、『山寺の和尚さん』という作品がある。山寺の坊主が、毬を蹴りたくなったので、「♪猫を紙袋(かんぶくろ)に押し込んで~ ポンとけりゃニャンと鳴く~」というあれだ。ちなみに、この歌は童謡ではなく戦前につくられた「ジャズ」なのだが、音符が並ぶ楽譜が存在し、そのとおりに演奏しそのまま唄うのは、1940年代に起きたビ・バップ革命からモダンJAZZ以降の今日的な音楽概念からいえば、JAZZではなく歌謡曲ないしはポップスなので、当時の言葉でいえば流行歌と呼ぶのが正しいだろう。
 この『山寺の和尚さん』を、歌人たちがその性格とともに表現するとしたら、どのような文体になるのかをパロディで書いたのは、下落合4丁目2123番地に住み、あらゆる文学に精通していた作家・中井英夫Click!だ。思わず噴きだしてしまう一節を、1975年(昭和50)に潮出版から刊行された、わたしの好きな中井英夫Click!の『増補新版・黒衣の短歌史』から引用してみよう。
  
 声色にならって、Λ山寺の、と参りましょう。ハイ、ヤマデラノ・・・・・・
 斎藤茂吉 山寺の和尚は毬が蹴りたいのである。しかるに毬は見当らぬ。即ち毬は蹴りたいけれども毬はないといふことゝなつた。余としても不本意に堪へぬのであるが、今の状態では諦むるより仕様がない。さうではあるまいか。
 窪田空穂 山寺の和尚は毬が蹴りたかつた。これは恐らく非常なものであつたと思はれる。毬を蹴りたいと思ひながら毬を求むることが出来ない。これは我々にも経験のあることで、私自身についていへば、さびしい、いやな、味気ない思ひのするものである。
 斎藤史 和尚は毬が蹴りたかつたのでございます。山寺では無理もなかろうつて? ごじょうだん。山寺と申すところは、それほど味気なくはございません。猫もをります。紙袋もあります。猫を紙袋につめれば、そのまま毬の代り----とんでもございません。猫は生きて、をります。生命の火を燃やしてをります。ぽんと蹴ればにやんと鳴くのでございます。
 阿部静枝 山寺の和尚はまりを蹴りたく、まりがないので猫を見つけた。紙袋につめてポンと蹴り、蹴ってニャンという。こうして遊ぶ姿は自然にかなっているが、これでは猫が可哀想ではないか。(中略)
 宮柊二 和尚は山寺で孤独であつた。朝のお斎をいただいてしまふと、和尚には一日が切なく、やりきれなかつた。和尚の坐つてゐる縁側にも淡い日あしがのびて、それは疲れた人の呟きの様に弱々しかつた。和尚はその時はじめて鞠を蹴らうと思ひついたのである。
  
 中井英夫のパロディは、引用するとキリがないのでこのへんで・・・。
国芳「艶姿十六女仙豊干禅師」1848-54.jpg 広重「浅草田圃酉の町詣」1857.jpg
 下落合の南、大久保百人町Click!に住んだ寺田寅彦Click!は、「私は猫に対して感ずるような純粋な温かい愛情を人間に対して懐く事の出来ないのを残念に思う」と『子猫』(『寺田寅彦全集・第2巻』岩波書店)に書いた。ネコ好きの人は、ときに人に対しては冷たく、あまり優しくないのもまた事実なのだが、人間のごく近くにいながら、どこかいちばん遠いところにいる存在のようなネコだからこそ、人は気がおけず気が向いたときに気疲れせず、安心してかわいがれるのかもしれない。

◆写真上:ときどき舌をしまい忘れていることがある、うちのわがままなメスネコ。
◆写真中上:九条武子とともに記念写真へ収まる、下落合の“外ネコ”たち。
◆写真中下は、1766~68年(明和年間)に制作された鈴木春信『風流五色墨』のうち「素丸」。は、1789~1801年(寛政年間)に刷られた歌川豊国『当世やつし女三宮』。
◆写真下は、1848~54年(嘉永年間)の歌川国芳『艶姿十六女仙』のうち「豊干禅師」。は、1857年(安政4)制作の安藤広重Click!『名所江戸百景』のうち「浅草田圃酉の町詣」。

下落合の旗行列と提灯行列コース。

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洗い場2008.JPG
 1939年(昭和14)に出版された、下落合2丁目を中心とする『同志会誌』Click!(下落合同志会・編)を読んでいると、結成当初の同志会Click!は地域の互助と親睦とを目的とする、純粋な自治組織としてスタートしており、大正期から昭和初期を通じて地域の互助や福利厚生に力を入れていたものが、日中戦争が本格化するころから自治組織というよりも、政府いいなりの出先機関ないしは末端組織としての役割りが濃厚になっていく。
 ナチス・ドイツは、その政策や思想を末端にまで浸透させるため、各地域へ党の出先機関であるさまざまな「地区委員会」を新設し、ファシズム的な政治的ないしは社会的な基盤を新たに形成しなければならなかったが、日本では各地の自治団体をそのまま「利用」するだけで、組織化がきわめて「円滑」かつ「迅速」に進んだことがわかる。昭和10年代になると、各地の自治団体は次々に解散して町会へと併合されるが、国民精神総動員体制さらには国家総動員体制のもと自由な言論や表現、行動が急速に圧殺され、防空・防諜の防護団や連帯責任と相互監視の「隣組」Click!の形成が容易だったのも、このような自治団体が率先して行政当局へ組みこまれていったことに起因している。今日のように、区や市と地元の町会とが地域への施策をめぐり、ときに対立するような図式は、当時はありえない姿だった。自治団体を名のりながら、徐々に軍国主義体制の出先機関へとなり果てていく同志会を見るのはつらい。
 1931年(昭和6)の「満州事変」以降、町内へ召集令状(赤紙Click!)がとどいて入営する住民が徐々に増えていくが、盧溝橋事件が起きた1937年(昭和12)を境に日中戦争が本格化すると、同志会による入営歓送会は急増する。「満州事変」ののち、初めて下落合住民の戦死者が記録されるのは、1935年(昭和10)2月19日のことだ。このときは、戦死者を小滝橋まで出迎えている。
  
 二月十九日 名誉の戦死者故高橋三大二氏が無言の凱旋をされたので役員外会員多数小瀧橋まで迎へた。/二月二十六日 故高橋三大二氏の区民葬が第一小学校に於て執行せられ本会からも会長外多数参列した。
  
 この記述を皮切りに、町内の戦死・戦傷者は激増していくことになる。同時に、同志会ではその出迎え行事が頻繁になり、会長以下の現役役員たちがそのつど全員出席することが困難になったものだろうか、各地区の幹事や元役員たちが戦死者の「無言凱旋」や、葬儀出席を代行するようなケースも見られるようになる。1937年(昭和12)度の同志会記録から、少し引用してみよう。
  
 十一月十九日 宇田川三郎君の遺骨無言凱旋をなし役員及会員多数出迎ふ。/十二月三日 宇田川四郎君無言の凱旋せられたので役員多数出迎へた。/十二月六日 九一六地久会員(ママ)加藤利一君の無言凱旋を役員多数出迎へた。戦傷者、西田定次郎氏を同志会役員、及国防婦人会員は夜中東京駅へ迎へた。/十二月十一日 第一小学校に於て故藤井少尉他三上等兵の聯合区民葬挙行せらる、本会より会長以下役員及び会員多数参列す。/一月十日 潗日出夫氏の無言凱旋を迎ふ同志会より会長外十六名参列す。/一月二十六日 故歩兵伍長田村新樹氏の無言の凱旋を迎ふ。/二月一日 小泉寿太郎氏令息無言の凱旋を役員多数出迎ふ。/二月二十七日 名誉の戦死者故渡邊二郎氏無言凱旋を出迎ふ。/三月二十二日 下落合四丁目無言凱旋勇士太田倉吉氏 及羽場精一氏の英霊を出迎ふ。/三月二十六日 野萩会長、木村、和田両副会長は出征軍人家族二十七軒を見舞ふ。
  
 下落合2丁目の界隈だけで、毎月、数名の戦死者を迎える凄まじい状況だが、その事務的で淡々とした記述のせいだろうか、よけいに無惨さや残酷さ、虚しさが伝わってくるようだ。もちろん、太平洋戦争の開始とともに、こんな死傷者の数では済まなくなっていくのだが・・・。たとえば、同年に下落合2丁目界隈から出征・応召した住民数(もちろん若い男子)は実に36名、翌1938年(昭和13)は31名にものぼっている。街から、若い男たちがどんどん消えていく時代だった。
旗行列ルート.jpg
提灯行列ルート.jpg
 さて、政治的な祝いごとや中国戦線で日本軍の勝利が伝えられると、「旗行列」や「提灯行列」が下落合の自治団体によって都度企画された。旧・下落合2丁目界隈で、初めて同志会による旗行列および提灯行列が行なわれたのは、1932年(昭和7)10月1日のことと思われる。このときは「市郡併合記念会」、つまり豊多摩郡が廃止され新たに淀橋区が成立して、落合町が東京市内へ編入された記念の祝賀だった。ちなみに、この祝賀行列が計画されたのは同年9月10日の評議員会であり、このとき落合町議会も淀橋区議会Click!へと移行するために解散している。
  
 一、旗行列
 午後一時菊池邸裏空地に青少年集合し、落合長崎郵便局前、氷川神社、四十五号線、浅川邸を経て最初の集合地に帰つた。菓子を配與して散会
 二、提灯行列
 午後六時前、落合長崎郵便局前に集合一丁目相馬邸から氷川神社に至り、更に徳川邸、福室邸、落合長崎郵便局、星邸、高橋五山邸を経て解散、尚当夜氷川神社境内に於て野萩健吉、石原彌五郎、川村東陽前町会議員へ感謝状を贈呈した。/野萩町会議員より百円也木村土木委員より弐拾円也を町会基本金に寄贈があつた
  
 この中で、旗行列の「菊地邸」とあるのは、下落合2丁目476番地のオリエンタル写真工業Click!社長兼技師長だった菊池学治(東陽)邸のことだろう。また、「四十五号線」とあるのは補助45号線=聖母坂のことで、「浅川邸」は佐伯祐三Click!の制作メモ「浅川ヘイ」Click!にある、諏訪谷に面した下落合2丁目604番地の浅川秀次邸のことだ。
 また、提灯行列の「徳川邸」は、目白町の徳川邸ではなく西坂の徳川義恕邸Click!であり、福室邸は徳川邸から八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)をまっすぐ北上した、目白通り沿いにある福室醤油製造所の大きな工場兼自宅のことだろう。そして、提灯行列は再び下落合2丁目507番地の落合長崎郵便局へ立ち寄ったあと、七曲坂Click!筋を南へ入り満谷国四郎アトリエClick!の東隣りである「星邸」、すなわち下落合2丁目753番地の三井生命の支店長だった星孝治邸前を通過している。そして、最終的には「高橋五山」邸、つまり下落合2丁目735番地の高橋五三郎邸まで歩いて、おそらくその先の諏訪谷Click!あたりで解散していると思われる。
落合第一小学校.JPG 落合第四小学校.JPG
 時代をへるにしたがって、だんだん戦時色が強まっていく記録の中で、面白い記載も見かける。下落合に増えつづける住宅や、整備が進む道路などを意識してのことだろう、1931年(昭和6)にフランスのメートル法を浸透させる運動が町内で起きている。同志会では同年2月3日に、「メートル法宣伝パンフレツト」400冊を会費で購入して、町内の希望者に配布している。最新の建築学を修めた建築家がメートル法で設計図をつくると、肝心の施工をする大工がまったく理解できないというエピソードは、こちらでも何度かご紹介Click!している。
 同志会でも、・・・「落四小の50m西ぐらいにある森に、タヌキが出たてえ話だよ」、「50mてえのは、いったい何間ぐらいだい?」、「そうさな、26、7間ぐらいかね」、「んじゃ、権兵衛山か七曲坂あたりかい」、「いや、もうちっと先さね、60mぐらいかな」、「んじゃ、60mてえのは何間だい?」・・・というような不便さを解消するために導入したものだろう。
 ほかの自治団体から、同志会への加入を希望する家庭もあったようだ。1931年(昭和6)6月には、下落合1丁目の「一睦会」から21名(21戸)の会員がまとめて脱会し、同志会への加入を希望している。おそらく、一睦会の中でなにかが気に入らなかったか、なんらかの紛争があったのだろう、21戸が示し合わせての集団脱会だったと思われるのだが、同志会では一睦会との関係から対応に苦慮している様子が記述から伝わってくる。結局、「和協親睦の趣旨に背く」ことがないようにと念押しして、21名の加入を認めている。
 同志会は、「〇〇デー」と名づけた催事も行なっている。「はへ取デー」は、町民があちこちでハエを捕る日で、ハエ捕り紙やハエたたきで殺したハエを交番に持ちより、同志会衛生係と警官とで何匹捕れたかを勘定する「蠅調べ」が行なわれた。「視力保存デー」は、近眼防止のキャンペーンで眼科医による目の無料検診が落合第二小学校Click!で実施されている。また、1934年(昭和9)の夏から、小学校の校庭でラジオ体操がはじまっているようだ。同年7月21日の項目に、「第一及第四小学校に於て毎朝ラヂオ体操の会を実施してゐることを掲示」と記録されている。
戦前のラヂオ.jpg 罹災証明書19450417.jpg
 だが、同志会などの自治団体が催す行事は、「非常時」となるにつれ強制の傾向がきわめて濃くなっていく。これらの行事に意識的に参加したくない住民はもちろん、消極的な家庭や人物たちは「アカ」や「危険思想」、「主義者」を疑われ、やがては「非国民」呼ばわりをされるようになっていく。三岸節子Click!は、服装が派手だとモンペ姿の国防婦人会に駅頭で捕まり、彼女たちから「非国民」と公衆の面前でののしられている。三岸節子は戦後、さっそく怒りを爆発させた文章を発表しているが、おそらく「非国民」呼ばわりした女たちを探しだし、日本を破滅の淵へと追いこんだ「亡国思想」の走狗である彼女たちを、その加担責任とともにきっちり追及したかっただろう。わたしの親父は、日本橋の交番勤務だった巡査Click!を実際に探しだして謝罪させている。

◆写真上:洗い場防火貯水池があった、諏訪谷あたりの現状。(工事中の2008年撮影)
◆写真中上:同志会による、1932年(昭和7)現在の「旗行列」()と「提灯行列」()のルート。
◆写真中下:1934年(昭和9)7月の夏休みより、同志会も協賛して校庭で「ラヂオ体操」が行なわれていた落合第一小学校()と落合第四小学校()の校門。
◆写真下は、昭和に入り急速に普及した茶の間のラジオ。は、下落合の空襲被害者に出された衣料品(衣料切符)の優先配給のための罹災証明書。(ともに新宿歴史博物館蔵)

旧乃手で見かける町火消しの事蹟。

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 明けまして、おめでとうございます。本年も引きつづき拙「落合道人」ブログを、どうぞよろしくお願い申し上げます。さて、お正月といえば、鮮やかな纏(まとい)さばきにイキな気遣り歌が、町内の羽根つき音にまじってどこからともなく響いてくる、出初式は町火消しのお話から・・・。
  
 最近、旧山手を歩いていると、江戸の町火消しClick!の事蹟にぶつかることが多い。(城)下町Click!町火消しClick!は、これまで何度か記事Click!に取りあげてきたけれど、旧山手(おもに山手線の内側)に隣接した、あるいは乃手の中に建立された寺社などの門前町で組織された町火消しについては、その名称(47組→48組の呼称)とともに、わたしにはめずらしい存在だ。
 まず、白山界隈で活躍した火消しに「そ」組がある。白山権現社(白山富士)の境内には、おそらく亀をかたどった台座の上に、“そ組”と刻んだ石碑が残っている。「そ」組の基盤や仕事が、末永く安全で盤石(万石)なように・・・というシャレのめしなのだろう。(冒頭写真) 最初、文字のくずし具合から「そ」だとわからず、「万」組ないしは「ろ」組ではないかと思ったのだが、「万」組は一番組で「ろ」組は二番組と、両組とも千代田城に直近の城下町火消しであり、旧山手のエリアではない。帰って纏印(まといじるし)ともども調べてみたら、九番組の「そ」組であることがわかった。「そ」組は、幕末には乃手24町を担当しており火消し人数は142人と、比較的規模の小さな町火消しだった。纏印は、鼓(つづみ)か臼(うす)の断面のような、独特な形状をしている。
 もうひとつ、めずらしかったのは大名や大旗本、豪商などの寮(別荘)が林立していた、江戸期は瀟洒で静謐だったウグイスの里Click!、日暮里から駒込界隈の町火消し、同じく九番組の「れ」組だ。「れ」組が建立した狛犬を見つけたのは、西日暮里の崖線上にある諏方(諏訪)明神社の境内だった。「れ」組の刻み文字は、狛犬の台座に残されている。また、「れ」組の仕事は受け持ち区域内でとても活発だったらしく、旧乃手のあちこちでその事蹟を見ることができる。
れ組(諏方明神社).JPG れ組(富士浅間社).JPG
そ組纏印.jpg れ組纏印.jpg
 文京区の発掘調査により、境内が前方後円墳(現存は約60~70m)であることが確認された駒込の富士浅間社の境内にも、駒込富士Click!を記念する富士講Click!の石碑に混じって、「れ」組の記念碑が建立されている。「れ」組は、谷中から千駄木、根津、池ノ端にまでおよぶ広範な28町を受けもち、火消し人数は219人を数えている。きっと、江戸後期にはあちこちに出張(でば)って、「れれれのれ~」と活躍したのだろう。町火消しが改組された、1720年(享保5)現在の纏印は丸に「大」と、まるでデパートのようなデザインをしていた。
 さて、1719年(享保4)6月に制定された町火消し制度Click!だが、翌年の大改正によって町火消しの担当区域はもちろん、組織の数や規模、それぞれの纏印や名称までが変更されている。さらに、幕末に近い天保年間にも改正(組織や纏印など)が行われており、今日に伝わる江戸町火消しの姿は、ほとんどが幕末から明治初期にかけての姿だ。
 したがって、幕末には「へ」「ら」「ひ」各組が存在しなかったため「なかった」ことにされているが、もちろん享保年間には存在している。また、のちに「へ」「ら」「ひ」各組がなくなり、代わりに「百」「千」「万」各組に改称されたとする流行りの「江戸本」や資料も多いが、これもまったくの誤りだ。「へ」組は芝高輪界隈が担当だったが、「百」組は茅場町界隈が担当、「ら」組は四谷箪笥町や伊賀町界隈が担当区域だったが、「千」組は大川端の霊岸島地域の担当、「ひ」組は山手の青山界隈が担当区域だが、「万」組は飯田町(現在の飯田橋・水道橋界隈)が受け持ちと、それぞれ地域的かつ組織的に縁もゆかりもない、まったくの場ちがいかつ筋ちがいな火消し同士だ。
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 先日、久しぶりに柳原土手(現・神田須田町界隈)の柳森稲荷(柳森富士)のタヌキ殿Click!にお参りをしたら、同社の境内にはたくさんの火消し名が記念に刻まれていた。さすが、神田明神Click!も近い神田川Click!沿いの社のせいか、玉垣には“いの一番組”の「い」組にはじまり、「ろ」「は」「せ」「よ」「も」「す」「に」「百」「千」各組と、大規模な下町火消しのそろい踏みだ。これらの町火消しは、員数が300~500人を数えた組も多い。薩長Click!が上野山の伽藍に放火Click!したとき、これら各組の火消したちは半鐘の音とともにさっそく駆けつけているだろう。大名火消しや幕府の定火消しが、すでに解散して存在しなかった当時、大江戸じゅうから駆けつけて薩長軍と対峙し、にらみ合った町火消しは数千人にもふくれあがり、一触即発の事態だったと伝えられている。
 さて、柳森稲荷社の玉垣で「い」組の次に登場する「ろ」組だが、江戸期のくずし文字である「ろ」と「そ」の区別が曖昧だ。町火消しの担当区域からいって、柳森稲荷の刻字は日本橋の「ろ」組にまちがいないと思うのだが、ちょっと見には「そ」組の字体と見分けがつかない。このあたり、できるだけ文字を丸くして町内の円満・安全を願う、火消したちの想いがこもっているのだろう。
へ組纏印.jpg ら組纏印.jpg ひ組纏印.jpg
百組纏印.jpg 千組纏印.jpg 万組纏印.jpg
いろは組町火消持場所一覧.jpg
 明治になって東陽堂が出版した『風俗画報』には、大江戸の各町を担当した町火消しのマップ「いろは組町火消持場所一覧」が掲載されている。1720年(享保5)に大改正が行われたあとの姿だが、天保年間にも小改正が行われているので、いずれの時代における配置図かは、明治期も含め150年以上もつづいた大江戸の町火消しなので、正確に規定することがむずかしい。

◆写真上:白山権現社(白山富士)の境内に残る、めずらしい「そ組」の記念碑。
◆写真中上は、日暮里の諏方明神社にある「れ組」の狛犬台座()と、駒込の富士浅間社(駒込富士)に残る「れ組」と「そ組」の記念碑()。は、1898年(明治31)12月25日発行の『風俗画報』臨時増刊号に掲載された、「そ」組と「れ」組の纏印および持場所(担当区域)。
◆写真中下:いずれも、柳原土手に建立された柳森稲荷社(柳森富士)の玉垣に刻まれた町火消しの組名と、神田川の水面から眺めた柳森社。柳原土手は、千代田城のある神田の片側のみに築かれ、秋葉ヶ原側は洪水時に水を逃がす氾濫遊水域として設定されていた。
◆写真下は、1719年(享保4)現在の「へ組」「ら組」「ひ組」の纏印および持場所。は、1720年(享保5)以降の「百組」「千組」「万組」の纏印および持場所。は、江戸後期の町火消し配置を記した「いろは組町火消持場所一覧」。いずれも、上記の『風俗画報』臨時増刊号より。


江戸東京の匂いがせえへんのや。

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 たとえば、わたしが大阪で40年暮らし、ひたすら大阪の歴史や文化、言語、風俗習慣を学習して、地域のテーマ本を書いたとする。かなり微にいり細にいり、突きつめて取材し研究し、小さなところまでこだわって調べ表現したとする。でも、「よう勉強してはりまんな。そやけど、どっかちゃうねん。どこがどうゆうわけやないけどな、なんや知らん、ちゃうねんな。大阪の匂いがせえへんのや。大阪やないねん、どっかよその街みたいやで。・・・さよか、あんた日本橋(にっぽんばし)やのうて東京のほうでっかいな」と突き放していわれてしまうだろう。いや、これは別に大阪に限らず、全国のどのような街や地域でも同じことだろう。わたしにとって、江戸東京をテーマにした多くの書籍は、実はこんな感じのものが多い。江戸東京の匂いがしないのだ。
 そんな本が、ちまたやネットの書店にあふれている中で、久しぶりに「あっ、ちゃんと地場の感覚で書いてるな」・・・という本に出会った。といっても、江戸東京ブームにのった流行りの地域本ではなく、人文科学ないしは社会科学的な側面から、江戸とヨーロッパとの「市民社会」について比較・考察しようと試みている、文化人類学者による学術書ということになるのだろうか。2011年に岩波書店から出版された、川田順造『江戸=東京の下町から-生きられた記憶への旅-』がそれだ。久しぶりに、江戸東京の「地に足がついた」本を手にしたような感触だ。
 明治維新により、街の環境や風情が激変したのは山手の武家社会であり、実はいわゆる旧市街地、東京の(城)下町Click!には、400年以上にわたる人や街の歴史が、連綿と現在にいたるまでつづいている。また、幕末の混乱や明治維新で激変した乃手でさえも、明治から大正期へとしばらく時代がすぎると、もともと住んでいた旧幕臣たちが続々ともどりはじめ、成功した人物は先祖の屋敷があった乃手の敷地を、わざわざ買いもどして住んでいたりする。こちらでも、上落合の吉武東里Click!らとともに国会議事堂Click!を設計した、やはり上落合在住で祖父が旗本だった大熊喜邦Click!が、ふるさとの番町の屋敷跡へもどっている事例をご紹介した。
 著者の川田順造は、わたしのふるさととは反対の大川(隅田川)をはさんで辰巳の方角、深川の小名木川(女木川)に架かる高橋(たかばし)のたもとで、代々暮らしてきた家に育っている。わたしの祖父母以前の人々が眠る深川の墓とは、わずか500mほどしか離れておらず、古い町名でいうなら深川海辺大工町という街だ。ちなみに、うちの墓は深川閻魔Click!も近い旧・深川万年町にある。深川の浅瀬が埋め立てられ、寺社がいっせいに引(し)っ越してきて寺町を形成した江戸初期に、おそらく先祖は墓を移転させるか建てるかしているのだろう。著者は、小名木川(女木川)を行き交う川舟(おもに房州の物資を運ぶ小型船)を見ながら、幼少時代をすごしている。
 本書の冒頭は、徹底した地域の人たちへの長年にわたる取材(インタビュー)で構成されている。その対象者は、やはり若い子から年寄りまで女性が圧倒的に多い。別に、長生きしてるのは女性が多いからではない。わたしは、ときどき城下町の生活を中国や朝鮮半島から輸入され、新モンゴロイド系北方民族によって形成された儒教思想に象徴的な生活観の影響をほとんど受けていない、街には政治(まつりごと)の巫女と生活(たつき)の巫女とがつい戦前まで生きていた、古モンゴロイド系ポリネシア民族の生活文化が色濃い原日本の匂い、すなわち、あたかも琉球弧のような「女性に巻きついて」暮らす感覚・・・という表現をしてきたが、著者の身体にはまさしく、その地霊(ゲニウス・ロキ)が染みわたっている。
 これは、別に江戸東京のみならず、北関東や東北地方の各地域についても当てはまることだろう。ちょうど、少し前にご紹介した「九州男児」である薩摩の八島太郎Click!とは、正反対の社会規範であり生活観Click!だと思われる。ちなみに、邪馬壱国の卑弥呼(日巫女)やナグサトベClick!ヌナカワClick!など古代日本の各地に展開した女王国(原日本)の時代以来、聖域や社(やしろ)の主は巫女=女性が大勢であり、それが制度的に神主=男のみへと強制的に限定され、巫女の地位が“助手”へと転落させられたのは、中国や朝鮮半島の思想・信条規範に忠実な明治政府による、たかだかこの100年ほどのことだ。横道にそれるが、江戸東京の代表的な社のひとつである愛宕権現社Click!に女性神主が誕生したのは素直によろこばしい。以下、同書から引用しよう。
深川萬年橋.jpg 江戸=東京の下町から2011.jpg
  
 「下町」という言葉から何を連想するか。私など真っ先に「女」という言葉を思い浮かべてしまう。意気地、侠(きゃん)、伝法(でんぽう)、なさけ、いさみ・・・これらの言葉は、ウーマンリブなどということを人が口にするようになるより遥か前から、私たちの江戸=東京にはあった。いや、下町女によって生きられていた。めっぽう気が強いくせに涙もろい。人に頼まれるといやといえない。意気=心のおしゃれを大切にする。そして何よりも行動派だ。「下町女」という言葉は、何と坐りがいいのだろう。そして初夏の川風のようにさわやかだ。
  
 第3章の冒頭を読んで、「この本はホンモノだぜ。信用して読むことができる」と、わたしはすぐさま感じとることができた。膨大な江戸東京ブーム本には、細かな生活の感覚や暮らしの機微、きちんとした地場の歴史や記憶の地層、実生活の気配や心情に裏打ちされた「思想」(というとオーバーだが)、男女関係や近所づきあい、人間関係の妙味などのリアルな記述が、ほとんど存在していないことに、江戸東京ファンの方々はとっくに気づかれているだろう。「よう勉強してはるけどな、大阪の匂いがせえへんのや」の感覚、地域の“キモ”の部分だ。
 また、日本橋と深川とで家庭内における「教育」や環境も、非常に似通っていることに気づく。著者の母親とうちの祖母Click!とは、同一人物なのではないかと思うくらいだ。「小雨にけぶる神宮外苑・・・」の学徒出陣Click!が行なわれた、親父が学生時代の1943年(昭和18)ごろ、開戦の直前まで米国映画を日本橋で楽しんでいた(おそらく祖母もだが)親父が、「(日本が)アメリカに勝てるわけがねえや」と口にしたのを誰かに密告され、交番に引っぱられておそらく巡査に殴られている。このエピソードは記事Click!にも書いたけれど、このような言葉は当時の政治や社会的風潮からは距離を置いて「斜」に眺め、冷静かつクールな観察眼を育むような家庭環境でないと、なかなか出てきはしないだろう。太平洋戦争中に語られた、著者の母親の言葉を引用してみよう。
深川1.JPG
本所深川絵図.JPG 日本橋北内神田両国浜町明細絵図.JPG
  
 (前略) 太平洋戦争末期にラジオで毎日のように聞かされ、私も「国民学校」で歌わされていた「勝ち抜く僕ら少国民/天皇陛下の御為に/死ねと教えた父母の/赤い血潮を受け継いで/心に決死の白襷/掛けて勇んで突撃だ」という歌を、うっかり家で歌って、気性の激しい母親から「うちじゃ、そんなこと教えていないよ」と厳しく叱られたことがある。
 すでに繰り返し書いたように、現世享楽型の下町娘として育った母は、戦争には初めから反対。昭和十五年(一九四〇)に内務省布告によって制度化された隣組が騒々しく動員され、実際の役に立たないバケツ・リレーなどをやらされる「防空演習」も、心から軽蔑していた。高等女学校を出ただけで特に教育もなかったし、「反戦の思想」があったわけではない。ただ芝居にも行かれなくなり、食べる物も不自由になる国家の戦争が嫌いという、当時のお上の言葉でいえば“非国民”だったに過ぎない。その厭戦振りは徹底したもので、ハワイ奇襲攻撃やイギリス東洋艦隊殲滅の戦果がはなばなしく報じられたり、香港やマニラやシンガポール陥落の祝賀ムードで、提灯行列が催されたりした状況でも、母の厭戦は変わらず、「はじめの勝ちは、嘘っ勝ちだ」、「本当にアメリカやイギリスに勝てるわけがない」と言っていた。
  
 まさに、親父の言葉とは二重写しであり、二二六事件で警備兵に向かって「邪魔するんじゃないよ、どきな!」と怒鳴った祖母の面影Click!とのダブルイメージだ。ひょっとすると、「アメリカに勝てるわけがないじゃないのさ」と家の中でいっていたのは、祖母自身だったのかもしれない。そして事実、そのとおりになってしまい、「亡国」思想の権化であった大日本帝国は破滅した。下町では、家庭内における「教育」や、家族単位としての暮らしの「思想」、“家”としての姿勢や構えは、女性がヘゲモニーを掌握してリードするのが自然であたりまえの環境であり、それが連綿とつづいてきたこの城下町・江戸東京を形成する伝統や生活習慣の基盤でもある。
 数百年も前から、世界で最大クラスの都市だったこの街、わたしの江戸東京の「市民社会」が、グローバルな史的視野からみてどのような意味や位置づけ、学術的な普遍性をもつものかどうか、著者はこれからも継続して深く追究していくとして本書の文章を結んでいる。
  
 だがいうまでもなく、江戸=東京下町文化の、歴史研究の視野におけるモデルとしての意味を問うためには、この説の初めに述べた、「ソシアビリテ論」が原初に、現代の歴史研究のあり方に対して提起した問題意識を参照すべきだ。その時まず問われるのは、江戸=東京下町文化が、日本の歴史変動において果たした役割であろう。本書のこれまでの叙述では、明治維新という国民国家の形成とそれに伴う国家レベルでの変動と断絶に対して、江戸=東京下町の地域文化の連続性を私は強調してきた。そのような視点からは、変動に注目する歴史研究において、変動に対してはむしろ否定的に働いた力、否定的であったことによって「変動」においてそれなりの意味をもったモデルとして、捉えられるべきであるかも知れない。
  
深川2.jpg 深川3.JPG
両国回向院元柳橋.jpg 両国花火.jpg
 隅田川や深川の掘割りを、レヴィ=ストロース夫妻と小舟を浮かべてたどりながら、著者は深川に住んでもいいという、東京下町がお気に入りだった夫妻の言葉に耳を傾ける。薩長の明治維新でも、「亡国」思想による破滅的な戦災でも断絶していない(城)下町の、今度はどんな風景や姿を見せてくれるのか、あるいはマクロ的な視野から江戸東京の城下町(市民社会)とは世界的にどのような位置にあり、どのような意味づけが展開しえるものなのか、川田順造の今後の仕事が楽しみだ。そういえば、川田家で大切に保存されていた大量の浮世絵が、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!ですべて灰になったのも、うちの経緯Click!とそっくりなことに気づくのだ。

◆写真上:深川の代表的な堀割りのひとつ、海辺橋から眺めた仙台堀。
◆写真中上は、高橋のひとつ下で隅田川も間近な万年橋を描いた安藤広重『名所江戸百景』のうち第56景「深川萬年橋」。は、2011年に岩波書店から出版された川田順造『江戸=東京の下町から-生きられた記憶への旅-』の表紙。
◆写真中下は、深川のとある商店街。下左は、尾張屋清七版の切絵図「本所深川絵図」にみる高橋と海辺大工町界隈。下右は、同切絵図「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」にみる両国橋西詰めのわたしの実家界隈で、日本橋米沢町や薬研堀の記載が見える。
◆写真下は、深川の街並みと雪吊りが行われている清澄庭園。下左は、安藤広重『名所江戸百景』のうち第5景「両ごく回向院元柳橋」。本所回向院側から隅田川をはさみ、現在の東日本橋界隈を眺めた風景で、中央やや右手に描かれている元柳橋が現在の日本橋中学校Click!のあたり。下右は、同じく第98景「両国花火」で遠方には深川が見え両国橋西詰めは画面右手。

いざ生きめやもの宮柊二。

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上高田82宮柊二旧居跡.jpg
 下落合の西隣り、豊多摩郡野方町上高田82番地(現・中野区上高田1丁目)の岡田儀平方へ、1932年(昭和7)6月1日に歌人の宮柊二(しゅうじ)Click!が引っ越してきた。この家で、宮柊二の日記であり短歌録でもある「歌帳」が書きはじめられている。20歳を目前にした、10代最後の年だった。上高田82番地の岡田宅は、佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!の1作「洗濯物のある風景」Click!の描画位置から、南西へわずか600mほどの距離だ。
 当時の上高田は、農村から新興住宅地へと変貌しつつある時期で、田畑をつぶして宅地造成が盛んな時期だった。1927年(昭和2)に西武電鉄Click!が開通し、新井薬師駅が設置されてから宅地開発には拍車がかかった。岡田儀平という人は、大正期から昭和初期にかけての資料を調べても、また当時の寺社の寄進者名をたどってみても、上高田村(町)には登場してこないので、昭和初期に東京市街地から郊外へと引っ越してきた転入組なのかもしれない。
 宮柊二は上高田で、ひとりの女性からの連絡をじっと待っていた。宮の実家は、新潟の長岡で書店「丸末」を経営しており、東京の本郷にも支店のある裕福で比較的めぐまれた環境だった。だが、1923年(大正12)の関東大震災Click!で本郷の東京支店が壊滅し、徐々に長岡の家業はふるわなくなっていく。宮柊二は東京へ出てくる前年、6歳年上の女性に恋をし、彼女の兄が住んでいる北海道の江別へ、ふたりで“恋の逃避行”を試みている。宮が18歳、彼女が24歳のときだ。でも、6歳年上の恋人は宮柊二を頼りなく感じたものか、その後、長岡から東京へと出てしまう。宮はそれを追いかけるように、上高田へとやってきた。ちなみに、6歳年上の彼女の甥にあたる人物が、矢田津世子Click!めあてに下落合をウロウロしていた坂口安吾だ。
 だが、宮柊二がいくら上高田で待っていても、女からの連絡はついになかった。風の便りに、彼女が歯科医師と結婚したことを知る。宮は新聞配達をしながら、この悲恋を歌に詠んだ。
  
 目瞑りてひたぶるにありきほひつつ憑みし汝(なれ)はすでに人の妻
 故郷の楉原(しもとはら)ゆき根哭きつつ誓ひしことも空しかりけり
 頸低(うなだ)れてわれは聴き居りわれを叱る寒く鋭き声ありて徹る
 わが指(をよび)汝れが指にあはせつつ童のごとき一日(ひとひ)さへありし
 地にきこゆ斑鳩(やまばと)のこゑにうち混りわが殺(と)りしものの声がするなり
  
 宮柊二は1933年(昭和8)4月、北多摩郡砧村大蔵西山野1869番地(現・世田谷区砧6丁目)に住んでいた北原白秋Click!を訪ねている。そして、北原白秋が主宰する『多磨』の同人として、また白秋の秘書として本格的な歌人の活動をはじめた。毎年の歌会は、日比谷公園内の松本楼で開かれている。宮柊二は、その歌会でスラリと背が高い歌人・馬込栄津子を知った。
上高田路地.JPG 宮柊二.jpg
 1936年(昭和11)から、ふたりの間に同人誌『多磨』を介しての、歌のやり取りがスタートする。最初は、宮柊二が詠んだ歌に対して、栄津子の情熱的な返歌からはじまった。
  
 挑みくる青葉/紙帳(宮柊二)
 みそかごと犯せし眼にはいろ燃えて五月かなしき青葉のひかり
 われのみか悲しき虫等森にゐて営み生きぬ土に這いつつ
 昼間みし合歓(かうか)のあかき花のいろをあこがれの如くよる憶ひをり
 血潮美し(馬込栄津子)
 血を吐きたりとおもふときたまきはるいのち一途に君を恋ひにき
 この見るはうつそ身われが血潮なりから紅の血潮うつくし
 柔き夕靄やはらかき夕靄かくも思ひつつ公園に昨夜は君と語りき
  
 歌でもわかるように、馬込栄津子は当時の病名でいうと「肺尖浸潤」=肺結核に罹患していた。その後、栄津子の症状が悪化して、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所へ入所し、東京の宮柊二のもとから去ってしまう。それでも、ふたりは誌上で相聞詠をつづけた。
新井薬師地蔵堂.JPG 宮柊二(従軍期).jpg
 ちょうどそのころ、富士見高原療養所を舞台に生と死とにまっこうから向き合いながら、少しずつ小説を書きためていた作家がいた、1934年(昭和9)12月に、同療養所で婚約者・矢野綾子を喪った堀辰夫だ。宮柊二と馬込栄津子の相聞歌は、高原の清楚で静謐な空気感や、美しい風景とともに木漏れ日の中を吹きぬける風の音が混じり、いやがおうでも『風立ちぬ』の世界と重なる。
  
 (宮柊二)
 接吻をかなしく了へしものづかれ八つ手団花(たまばな)に息吐きにけり
 高貴にて悲しみもてる黒き瞳(め)の涙湛へて死ななと言ひき
 白き霧木々に流れぬかの胸に柔稚乳(やはわかちち)も眠りたらむか
 美しき楽が舗道に流れゐてやさしく言ひし人の恋(こほ)しも
 いづこかに後ずさりつつ涙ぐみ涙ぐみゆく足音するも
 (馬込栄津子)
 病やや怠るらしき朝は見る葡萄の棚の霜の色ふかし
 忘れ果ててあらむとおもふきびしさを青き蘚(こけ)には青き花さけよ
 秋・ふたたびうつしみのわが血をはくといたくしづけきかなしみはあり
 つきかげに読みなづみにしみ便りは朝まだあはき木もれ日にまた
 朝の日のひかりうけつつ流れ雲ながるるかたにいますとおもへ
  
 1939年(昭和14)6月から、馬込栄津子は悪化した結核の療養に専念するため短歌を断つ。8月には宮柊二のもとへ赤紙Click!がとどき、独立混成第3旅団混成歩兵第10大隊に加わり、あわただしく中国山西省へと出征していった。宮はまたしても、恋を成就することができなかった。
上高田地図1927.jpg
上高田通り(昭和10年代).jpg 上高田1927.jpg
 富士見高原療養所で、矢野綾子は堀辰夫に見まもられながら力つきたが、馬込栄津子はかろうじて奇跡的に生還している。戦後もしばらくたった1948年(昭和28)2月、白秋亡きあとの『多磨』へ栄津子は歌人として復活し、久々に作品を寄せている。宮柊二は1944年(昭和19)2月、飯田橋の東京大神宮ですでに滝口英子と挙式していた。でも、戦後のことは、また、別の物語。

◆写真上:路地の右手が、豊多摩郡野方町上高田82番地の宮柊二旧居跡。
◆写真中上は、いまも上高田に残る昔ながらの路地。は、出征前の宮柊二。
◆写真中下は、宮柊二が勤めていた東京朝日新聞の新井薬師販売店近くにある新井薬師の地蔵堂。は、中国で撮影された軍隊生活を送る宮柊二。
◆写真下は、1927年(昭和2)に作成された「上高田地図」。下左は、1935年(昭和10)前後に撮影された上高田の通り。下右は、1927年(昭和2)の上高田風景。

大掃除で測る自宅の放射線量。

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測定値ベランダ.JPG
 暮れの大掃除で、東日本大震災の2011年Click!と翌2012年Click!につづき、昨年もベランダや庭先の放射線測定を行なってみた。おしなべて線量は漸減しているのだが、少し特徴的な傾向が見えているので記録しておきたい。この特徴は、落合地域全体Click!にもみられる現象かもしれない。また、これはケヤキやクヌギ、コナラ、ミズナなど根が垂直に深くのびる樹木が多い、武蔵野原生林に特徴的な現象なのかもしれないのだが・・・。
 毎年、落ち葉が大量に積もる裏庭から測定しはじめてみたところ、堆積した落ち葉上は0.14~0.16µSV/hと思ったほど高くはない。昨年に比べ、0.02~0.04µSV/hほど下がっていて、いまのところケヤキの葉に明らかな濃縮現象はみられない。これは、武蔵野原生林を構成する広葉樹(落葉樹)の多くが、地表近くの浅い地中に根を拡げるのではなく、地中深く垂直方向へ根をのばす性格が強いことから、地表近くに堆積している放射性物質を吸収していない・・・という傾向からなのかもしれない。たとえば、スギなど比較的浅い地中に根を張る針葉樹が落葉したケースでは、まったく異なる数値をしめす可能性がありそうだ。
 ところが、いつもどおりケヤキの落ち葉をかき集めて4.5リットルのビニール袋に入れ、念のためにそれぞれの袋を測定したところ、測定値がいきなり0.25~0.28µSV/hにハネ上がった。堆積した落ち葉の上では昨年より低くなっているのに、それを掃き集めて袋に入れたとたんに放射線量が上昇するというのは、考えられる可能性はひとつしかない。落ち葉掃きは、当然のことながら地表の落ち葉だけを正確にすくい取って掃除するわけではなく、地表の塵や土も同時に掃き集めて、落ち葉といっしょに棄てることになる。つまり、落ち葉の下にあった地表の土や塵に、比較的高い放射性物質を含んだモノが存在した・・・ということだ。
 これらの微細な土や塵が事故当時と同一のものか、あるいはその後に堆積したものなのかは不明だが、少なくとも台風や大雨をへているにもかかわらず、裏庭の表土(ないしは塵)はこの3年間でもっとも高い放射線の数値を記録したことになる。裏庭(北側)なので、四方を家々や塀、大きな樹木などに囲まれて風雨が吹きこみにくく、表土や塵埃が飛ばされにくい環境であることを考慮すれば、さらに、新たに漏れた放射性物質が北風にのって事故以来、福島第一原発から飛来していないと仮定すれば、この高めの数値は事故当時あるいは一昨年の落ち葉(高線量)の残りが朽ちてて塵埃状になり、土の表面に薄っすらと堆積していた・・・と考えるのが妥当だろう。
裏の森.JPG
 この傾向は、南に面したベランダでも見られた。ベランダの排水溝にたまった落ち葉の上を測定してみたところ、0.17~0.18µSV/hと昨年より下がっているので安心していたのだが、落ち葉をすべて取り除いて念入りに水洗いし、念のために溝の排水口を測定してみてちょっとビックリした。この3年間、大掃除のたびにタワシでごしごし入念に水洗いをし、その都度、放射線の測定値をできるだけ0.15µSV/h前後へ下げていたにもかかわらず、今回も0.30µSV/hに近い数値が計測された。(ちなみにピーク時は測定器が警告音を鳴らす0.40µSV/h) 放射性物質は、驚くほどしつこいのがわかる。ベランダのケースも、落ち葉に含まれる放射性物質は昨年より低減しているにもかかわらず、一昨年より前の枯れ葉が朽ち果ててできたと思われる微細な塵埃には、いまだ高い線量が含まれているということなのだろう。ベランダはコンクリート製であり、その微小な目地に詰まった塵は、なかなかタワシで水洗い程度では除去できないと思われる。
 事故直後に高い数値をしめした、庭(南側)のクロモチやキンモクセイの樹の下も、大掃除ついでに測定してみる。これらの土面は、事故があった2011年にはピーク時で0.23µSV/hを記録したのだが、今年の測定では双方の樹下ともに0.18µSV/hに低減している。おそらく、雨水によって地表の放射性物質が地中に浸みこんだからだろう。土を少し掘り起こして測定すれば、おそらく高い数値の層があるはずだ。地表の線量が減っているのは嬉しいのだけれど、2階以上のベランダや屋根、庇、雨どいなどに降り積もっていると思われる、枯れ葉の塵埃が事故当時の数値からほとんど変化していないのが気になるところだ。塵埃は風に飛ばされ、どんな場所にでも吹きこむし、また呼吸によって体内に取りこむ可能性が事故直後よりもはるかに高いといえるだろう。
測定値クロモチ.jpg 測定値コケ.jpg
 余談だけれど、東都生協でとどく各地のコメを、事故直後からできるだけ測定するようにしている。東都生協は、高レベルの線量を記録した千葉県産のホウレンソウ(本来ならば出荷停止)を見逃して出荷してしまい、謝罪のパンフを各家庭に配った経緯がある。いまでは、より厳密な検査体制ができているようなので不安はそれほどでもないのだが、厳密に測定しているのであろう閾値以下の各地のコメが、どのような傾向をしめすものなのかを知っておきたかったからだ。
 わたしの家では、主食であるコメを東京よりも北の地域から取り寄せることが多い。これは、原発事故の前後にかかわらず、わが家の味覚に合うコメは東北各県や新潟、長野、そしてたまに気分を変えてあっさり系の北海道とすべて北国産なので、購入する産地はまったく変えていない。事故直後から昨年にかけては、0.12µSV/h前後をしめすコメがほとんどで、それ以下のコメは存在しなかった。しかし、昨年の秋からようやく0.08~0.09µSV/hのコシヒカリやアキタコマチ、ササニシキが流通するようになってきている。つまり、本来の自然に近い数値のコメだ。
 ただし、コメの内部に含まれている放射線量ではなく、あくまで米から出ている表面の放射線値であることに留意する必要があるだろう。測定は、放射線測定器をラップで入念にくるみ、袋詰めのコメの中へ沈めるという方法なので、厳密にコメの中に含まれた放射性物質の分析・特定とは次元が異なるものだ。あくまでも、表面だけの測定にすぎないのだが、それでもコメから放射している線量はそれなりに測ることができる。
 3年つづけて測定した結果をみると、同県産や同地域産のコメであっても、また同じアキタコマチやコシヒカリといった銘柄であっても、測定値がバラバラで一定していない。同地域の同じ町内で収穫され、数値の低かったコメを連続して注文しても、ときに0.11µSV/hだったり0.15µSV/hだったりとまちまちだ。これは、収穫期によって放射線の濃度が上下するのではなく、同じ町内の土地でも放射性物質が多く降りそそいだ田圃と、そうでもない田圃がまだらに存在していることが想定できる現象だ。あるいは、灌漑に用いている水系の差にも原因があるのかもしれない。
測定値白米.jpg 測定値玄米.jpg
 今年に入り、某県産のコシヒカリが事故直後と同様の0.16µSV/hと、通常線値の倍もある数値を記録した。わが家で想定できるように、周囲の山々(森林)から風に運ばれてきた腐葉土あるいは塵埃が田圃に降りそそいでいるものか、あるいは山の湧水源から流れてくる水系に課題があるのかは不明だが、東京湾岸の河口に堆積したきわめて高い放射線濃度を知るにつけ、これからさまざまな問題が起きてくるのではないかと、いまだ測定器を手放せないのが憂鬱でもどかしい。

◆写真上:相変わらず南側ベランダの排水溝は、高い数値を記録しつづけている。
◆写真中上:毎年、膨大な枯れ葉を散らす裏の樹木群。台風で大ケヤキの枝の半分が幹から折れたClick!にもかかわらず、落ち葉の量はそれほど変わらないのが不思議だ。
◆写真中下:昨年よりも線量が下がっている、南のクロモチ樹下()と南東側のコケ上()。
◆写真下:今年に入って、線量が0.10μSV/hを超えた比較的高めな某県産のコシヒカリ()と、同じ地域だが精米されていない玄米のままのコシヒカリ()。同一地域の生産米にもかかわらず玄米のほうが線量が低いのは、田圃の土壌汚染がまだら状であることをうかがわせる。

女子学生が少ない学習院の政治学科。

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 先日、中村彝Click!アトリエの北側、目白福音教会Click!の近くに住まわれている、伊沢節子様とお話をする機会があった。大正中期には、一吉元結工場Click!の干し場があった敷地に大きな邸を建設されている。すなわち、中村彝が目白福音教会のメーヤー館Click!を描いた一連の作品群Click!の、描画ポイント上にお住まいなのだ。目白平和幼稚園を卒園され、戦前は宣教師館に住んでいたメーヤー夫妻Click!とも親しく、その子どもたちともよく遊んでいたらしい。もう絵に描いたような、典型的な下落合地付きの“お嬢様”だ。
 堀尾慶治様Click!のご紹介で伊沢様にお会いしたのだが、それは佐伯祐三Click!が1926年(大正15)10月11日制作の『下落合風景』シリーズClick!の1作「テニス」(50号)Click!に描かれた、2階建ての日本家屋が戦前の伊沢邸にそっくりなので、同作はわが家を描いたのではないか?・・・とうかがったからだ。同邸の前、路地をへだてた東向かいは空地であり、そこでは子どもたちが野球などをして遊んでいたらしい。さっそく、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を参照すると、確かに伊沢邸の東側は空地になっているが、3~4本の樹木が生えているのがわかる。また、伊沢邸を上空から観察すると、「テニス」に描かれた邸とは、ややかたちが異なるようにも見える。伊沢邸は戦災に焼け残り、1947年(昭和22)の空中写真でも詳細を確認することができる。当時、テニスに描かれたような意匠の屋敷は、下落合のあちこちで見られたのではないだろうか。
 佐伯祐三の「制作メモ」Click!によれば、「テニス」は第二文化村に沿って描かれた一連のスケッチコース沿いの風景、すなわち10月11日の「テニス」(第二文化村の益満邸テニスコート)、10月12日「小学生」(おそらく落合第一小学校周辺)、10月13日「風のある日」Click!(第一文化村と第二文化村の間にあった宇田川邸敷地)、10月14日の「タンク」Click!(第二文化村の水道タンク)、10月15日の「アビラ村の道」Click!(第二文化村外れのアビラ村Click!で陸路邸の手前)と、落合第一小学校ないしは第一文化村の水道タンクClick!(現在の山手通りと新目白通りの交差点北側)から、アビラ村へと抜ける道沿いを集中的に描いている時期なので、突然、中村彝アトリエの直近で旧・下落合の東側に位置する風景を、ポツンと離れて制作したとは考えにくい。また、伊沢邸東側の空き地に、テニスコートの設備(ネット用ポール)があったかどうかが不明だ。
 そしてなによりも、「テニス」は落合第一小学校の教師であり、佐伯アトリエの隣人だった青柳辰代Click!へのプレゼント用として、『下落合風景』シリーズでは異例の50号という大画面で描かれている点にも留意しなければならない。「テニス」は、戦前戦後を通じて目白文化村Click!に隣接する落合第一小学校の校長室Click!壁面に架けられていたのであり、旧・下落合の東側の風景を描いたとは、よけいに考えにくいのだ。青柳辰代の勤務先を意識し、連作『下落合風景』の1点をプレゼントするとすれば、落合第一小学校の近辺を描いた作品であるのが自然だろう。
佐伯祐三「テニス」19261011.jpg
 旧・下落合の東側は、佐伯の画因を刺激する風景が見あたらず、創作欲が湧かなかったせいか現存する作品からは、山手線の線路沿いを下落合3番地にある雑司ヶ谷道(新井薬師道)の山手線ガードClick!から、雑司谷西谷戸大門原1126番地の武蔵野鉄道ガードをくぐった先の山手線踏み切りClick!まで、線路沿いを南北にたどる写生ルートしか発見できていない。
 おそらく、旧・下落合の東側は、山手線の目白駅や高田馬場駅に近く、西側よりも街としての景観が相対的に整い、風情も落ち着きを見せはじめていたのか、佐伯が『下落合風景』シリーズで好んで取りあげるモチーフ、すなわち赤土がむき出しの造成地や工事現場など、当時の典型的な「開発途上の郊外風景」があまり見られなかったからではないか。でも、「制作メモ」や残された画像から、現時点で確認ないしは想定できる『下落合風景』は50点ほどにすぎず、フランスから帰国後にアトリエで画布600枚Click!を製造しているにしては、あまりにも数が少ない。
 行方不明になったり戦災で焼けてしまった中には、ひょっとすると旧・下落合の東側に展開する街並みを描いている作品があるのかもしれないのだが、現時点で描画ポイントが確認できる旧・下落合の東端は、山手線線路沿いの風景作品3点を別にすれば、1926年(大正15)9月20日の「曾宮さんの前」Click!(曾宮一念アトリエに面した諏訪谷へ建設途上の住宅群)、9月22日の「墓のある風景」Click!(薬王院の旧墓地西側のコンクリート塀)、10月10日の「森たさんのトナリ」Click!(曾宮アトリエ北側の森田亀之助邸の隣り=里見勝蔵邸)、10月23日の「浅川ヘイ」Click!(曾宮アトリエの東隣り浅川秀次邸)と「セメントの坪(ヘイ)」Click!(曾宮アトリエ前のコンクリート塀)、そして制作日は不明だが薬王院旧墓地の先にある崖から池田邸Click!の赤い屋根を見下ろした作品と、ほぼ諏訪谷から薬王院の旧墓地へとつづく南北ラインが東側の終端となっている。
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 伊沢邸は、目白通りの南側で幅20mにわたって行われた1944年(昭和19)暮れの建物疎開Click!(防火帯33号線Click!の建設)からまぬがれ、また幸運なことに1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!からもまぬがれて戦後を迎えている。伊沢節子様は、戦争末期に宇都宮へ疎開し女学校へ通っているが、まだ戦争が終わらず疎開生活のさなかに東京へともどる途中、荒川鉄橋手前で列車が米戦闘機による機銃掃射を受けて被弾し、そのまま運行を停止してしまった。伊沢様は、そのとき荒川鉄橋を歩いてわたって東京へもどったのだが、鉄橋の線路から足下の川や河原までかなりの高さがあり、相当怖い思いをしたらしい。
 戦後は、学習院大学の政経学部政治学科へと進み、英語と社会の教員免許を取得。卒業後は語学力を生かして、大使館などへ勤務している。英語力は抜群だったようで、ネイティブチェック・レベルの英文校正ができ、よく彼女のもとに学者から執筆した英語論文などが持ちこまれた。のべ100ヶ国近くを旅行し、現在はNPO法人「銀の鈴交流ネット」の監事として活躍されている。
東北本線荒川鉄橋1947.jpg
学習院大学旧校舎.JPG
 学習院大学の政経学部には、戦後間もないために女子の数がきわめて少なく、伊沢様は相当に周囲の男子学生からもてにもてたようだ。(本人も否定されない。w) 同時期の政経学部には、現・天皇(政治学科)や徳川義宣Click!(経済学科/在学中に堀田姓から徳川姓に改名)が在学中で、いわゆる「ご学友」ということになるのだろうか。伊沢様が階段を駆けおりているとき、当時の皇太子と正面衝突しそうになったエピソードもうかがった。東京の“お嬢様”は、乃手と下町を問わずひっそりと控えめなどでは決してなく、どこか「おきゃん」で「いさみ」な気の強い性格をしているのが魅力なのだ。このときも、先に謝罪したのは伊沢様ではなく皇太子のほうだったようだ。

◆写真上:大正中期まで一吉元結工場の敷地だった、中村彝アトリエ北側に通う道。
◆写真中上:1926年(大正15)10月11日のメモが残る、異例の50号に描かれた佐伯祐三『下落合風景』の1作「テニス」(部分)で、第二文化村の益満邸テニスコートがモチーフとみられる。
◆写真中下は、1947年(昭和22)に撮影された目白福音教会とその周辺の様子。は、1926年(大正15)10月11日~15日にかけた佐伯祐三の『下落合風景』制作の足どりコース。
◆写真下は、1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる東北本線の荒川鉄橋(左が北)。は、学習院大学キャンパスの戦前に建てられた旧校舎。

松下春雄の『庭先』と大澤海蔵の『初秋』。

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松下春雄「庭先」不詳.jpg
 1928年(昭和3)現在、松下春雄Click!は下落合1445番地にあった鎌田邸Click!の下宿から、結婚して下落合1385番地の借家Click!へ、淑子夫人Click!とともに転居している。松下はこれらの住まいを起点に、周辺に拡がるさまざまな下落合の風景をスケッチしているのだが、それらの作品の中には知人の画家と連れ立って写生している様子がうかがえる。
 たとえば、西坂にある徳川邸Click!のバラ園を写生した作品に、1926年(大正15)制作の『下落合徳川男爵別邸』と『徳川別邸内』がある。ほぼ同時期に、徳川邸の南にあった芝庭付近から旧邸を描いたと思われる『赤い屋根の家』という作品もあるが、これは松下と同じ帝展画家で1926年(大正15)に制作された、有岡一郎Click!『初秋郊外』と同一モチーフを描いていると思われる。すなわち、この当時は下落合800番地に住んでいた有岡一郎と松下春雄は、連れ立って西坂の徳川邸を訪れ、近接してイーゼルを立てて仕事をしている可能性が高い。
 当時の下落合は、数多くの画家たちがアトリエを建設して流入しており、ときには親しい仲間と誘いあって郊外風景をスケッチしに出かけるという光景は、それほどめずらしくはなかっただろう。山本和男様・(松下)彩子様夫妻Click!が保存されている貴重な松下春雄のアルバムClick!には、松下が下落合の雑木林の原っぱで、1928年(昭和3年)9月13日に『草原』を制作をするスナップ写真Click!が残されている。そこには、松下とともに淑子夫人も写っており、カメラをかまえる第三者の眼、すなわちいっしょに写生へ出かけた親しい画家の存在を感じるのだ。
 そのような情景を意識しながら、松下春雄が親しかった画家たちの作品を観ていくと、おそらくイーゼルを近くに並べて制作した、あるいは時期を変えて同一の描画ポイントから描いていると思われる画面を発見することができる。つまり、松下春雄のサンサシオンClick!仲間が描いた東京郊外の風景作品群だ。名古屋から東京へやってきたサンサシオンの画家たちClick!は、すでに東京で暮らしはじめていた親しい友人の下宿に転がりこむか、友人の住む近所に下宿や借家を探して暮らすことが多かったらしい。そんな仲間のひとりに、大澤海蔵がいた。
 松下春雄とは、名古屋のサンサシオンでいっしょだった大澤は、1929年(昭和4)の秋口に『初秋』と題した油彩画を仕上げ、翌1930年(昭和5)に開催された第11回帝展へ出品している。
大澤海蔵「初秋」1929.jpg
松下家19300204.jpg 松下家19300204_2.jpg
 2004年(平成16)に名古屋画廊で開催された、「サンサシオン1923~33―名古屋画壇の青春時代―」展図録に掲載された大澤海蔵『初秋』を観ると、これとそっくりな松下作品が存在することに思いあたる。すなわち、制作年が不詳とされている『庭先』だ。(冒頭写真) この作品は、おそらく1929年(昭和4)6月に下落合1385番地からの引っ越し先、松下夫妻が新たに借りた杉並町阿佐ヶ谷520番地の松下邸の庭先を描いていると思われる。隣家との境界が、白ペンキで塗られた垣根で仕切られ、手前の家はブルーのスレート葺きのような質感の屋根をしている。外壁は下見板張りのようで、クレオソートClick!が塗布されているのかこげ茶色に塗られている。窓やエントランスの軒下は、垣根と同様に白く縁どられてオシャレな雰囲気が感じられる。
 おそらく、右手に大きく描かれている家は隣家であり、松下邸は手前のイスが置かれた庭の右手、キャンバス右側の画面枠外に建っているものと想定できる。同じような家作の住宅がもう1棟、奥につづいて建てられているところをみると、ここの地主が似たような意匠の住宅を2棟並べて建設し、借家にしていたのではないかと思われる。松下邸の意匠が、はたして描かれている洋風住宅と同じものであったかどうかは不明だが、松下アルバムに残された阿佐ヶ谷の写真Click!を見る限り、やや異なる和洋折衷のデザインのように見える。
 さて、大澤海蔵の『初秋』の画面を観てみよう。画面右手には、松下作品とまったく同じ意匠の青い屋根をした住宅が描かれている。おそらく、同一の建物を描いたものだろう。敷地の境界に設置された垣根も、同じ仕様だ。画面奥に描かれた、他の家々とは切妻の角度がやや異なる、少し斜めに建てられているらしい赤い屋根の住宅も、『庭先』の風景とよく一致している。
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 大澤海蔵の『初秋』が異なるのは、松下春雄の『庭先』に比べ描画角度がやや鋭角で、2棟並んだ住宅の奥の1棟が手前の家に遮られて、また樹木の枝葉に隠れてよく見えないことだ。そして大澤作品はタイトルどおり、いまだ木々が青々と繁る初秋に描かれたと思われるが、松下の『庭先』は樹木の葉がすべて落ちてしまった真冬に描かれている。
 大澤作品と松下作品には、もうひとつ大きなちがいがある。それは、松下の『庭先』が文字どおり、自邸と思われる庭先にイーゼルを据えて描いているのに対し、大澤の『初秋』は松下邸と思われる庭を手前に、敷地の外から垣根ごしに風景をとらえている点だ。松下の『庭先』画面の左手にある冬枯れの木々が、大澤の『初秋』ではこんもりと繁り、遠景に描かれた家々の庭木や草花も青々と繁って、遠景の見通しを悪くさせている。あるいは、大澤は意識的に奥に並んだもう1棟の住宅を、省略して描いているのかもしれない。
 大澤海蔵の『初秋』は、1929年(昭和4)の秋口に制作されたことが特定できているが、松下春雄の『庭先』(油彩)が同年の冬なのか、翌1930年(昭和5)冬の作なのかは規定できない。少なくとも、いまだ下落合1385番地に住んでいた1928年(昭和3)の冬でないことは確実だ。制作に時間差があるところをみると、大澤海蔵の『初秋』を観た松下春雄が、その画面から強くインスパイアされ、ほぼ同一の描画ポイントから『庭先』を冬に描いたとみるのが自然のように思える。
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松下邸跡1947.jpg 松下邸跡.JPG
 1947年(昭和22)の空中写真を見ると、杉並町阿佐ヶ谷520番地は空襲をまぬがれ、戦前からの家々がそのまま建っているのが見てとれる。昭和最初期の家作からすでに建て替えられ、また増改築されているかもしれないが、それらしい住宅の並びを520番地の南側に確認できる。松下春雄や大澤海蔵が作品を仕上げた当時とは、だいぶ様子が異なっているのかもしれないが、いまだオシャレな洋風住宅が建ち並ぶ東京近郊の風情を、戦後もしばらくは残していただろう。

◆写真上:1988年(昭和63)に藝林から出版された『幻の画家 松下春雄1903-1933』に掲載の、制作年が不詳な松下春雄『庭先』。おそらく、1929~30年(昭和4~5)の冬季に、杉並町阿佐ヶ谷520番地にあった松下邸の庭先を描いたものと思われる。
◆写真中上は、1929年(昭和4)の秋口に制作された大澤海蔵『初秋』。は、阿佐ヶ谷の松下邸の庭先で1930年(昭和5)2月4日に長女・彩子様を撮影したもの。背後には、画面に描かれたのと同じ垣根の向こう側に、洋風の意匠をしたモチーフの隣家がとらえられている。
◆写真中下は、1930年(昭和5)初夏に松下邸の庭先を写したもので人物は左から淑子夫人、生後まもない二女・苓子様、長女・彩子様。は、同じ庭先から松下邸を撮影したもので、隣家とはやや異なる意匠だったのがわかる。人物は左から彩子様、淑子夫人、苓子様。写真はいずれも、松下春雄自身のカメラによる撮影だと思われる。
◆写真下は、1931年10月25日()と翌26日()に庭先で撮影された子供たちのスナップ。下左は、1947年(昭和22)の空中写真にみる阿佐ヶ谷520番地の様子で、南側の建物の並びがそれらしい。下右は、同番地のちょうど松下邸が建っていたと思われるあたりの現状。

「ぶつた斬つて見ろ」と潮五郎はいった。

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陸士演習1940頃.jpg
 1941年(昭和16)10月、近衛文麿Click!が首相を辞任し東條英機Click!が跡を継ぐと、この国は日本史上でもかつてない犠牲の惨禍と、「亡国」の危機をともなう破局の結末へ向け、まっしぐらに突き進んでいくことになる。それを警告した人々の声は「主義者」や「アカ」「非国民」「国賊」、そして治安維持法違反と国家反逆罪などの名目で、ほとんどすべて圧殺された。
 日米開戦の直前、1941年(昭和16)11月に「反軍思想」をもつとされた作家や文学関係者たちを標的に陸軍宣伝班が結成され、いわゆる民主主義者や自由主義者、元左翼シンパ、元社会民主主義者、リベラリスト、「進歩」主義者の別なく、戦争を取材するための「宣伝部隊」として最前線に送りこまれている。軍の徴用令書を拒否すると、一般の裁判とは異なる軍事裁判によって苛烈な刑罰が科せられたので、作家たちは拒むことができなかった。この時期にかかわらず、なかば見せしめのように集められた作家には、高見順をはじめ武田鱗太郎、井伏鱒二、秋永芳郎、海音寺潮五郎、伊地知進、大宅壮一、石坂洋次郎、清水幾太郎、中島健蔵、小栗虫太郎、中村地平、阿部知二、今日出海、小田嶽夫らの顔があった。少しでも、国家総動員体制に異を唱えるような表現をした書き手は、容赦なく前線へ送られるしくみが確立していた。
 2012年に出版された桐野夏生『ナニカアル』(新潮社)には、戦地に送られた林芙美子Click!佐多稲子Click!の姿が描かれているが、彼女たちは常に憲兵隊から送りこまれた“マネージャー兼スパイ”のような男たちから監視されている。特に、林を監視したひょうきんさを装う憲兵の描写は秀逸で、桐野作品に登場する人物の中でも強烈な存在感を放っている。監視者は、彼女たちが厭戦的な言質や自由主義的な言葉を口にする、つまり本音としての“ボロ”を出すのを待ちかまえ、気がゆるんだところを「反軍思想」で収監し恫喝しようとするのだが、それを熟知している彼女たちはなかなかシッポを出さない。男の作家たちは、ソフィスティケートされた女性作家の監視環境とは異なり、むき出しの恫喝を繰り返す軍人が班長として監視役に就いていた。
 宣伝班丁班に属していた井伏鱒二らは、1941年(昭和16)11月21日に東京から汽車で大阪に向かい、翌日の朝には大阪城内にあった中部軍司令部に出頭している。丁班の班長は、栗田朝一郎という中佐だった。作家たちは、さっそく兵舎に入れられ栗田からの恫喝を受けている。そのときの様子を、2011年に出版された川西政明『新・日本文壇史』第6巻から引用してみよう。
  
 兵舎に入れられ、点呼を受けると、栗田班長は「儂(わし)は、お前たちの指揮官である。今からお前たちの生命は、儂が預かつた。ぐづぐづ云ふ者は、ぶつた斬るぞ」と言った。この喚き声を聞いて、みんなの間に、動揺の気配がおこった。その時、海音寺が「ぶつた斬つて見ろ」と言った。この一瞬の気合は海音寺の勝ちであった。/栗田班長は「お前たちのなかには、反軍思想の者が、うようよ居る。怖ろしくて手もつけられん。儂は輸送船のなかでは、必要以外のときは絶対に甲板に出んやうにする。うつかりすると、海に突き落とされるかもしれん」と言って話をおえた。
  
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 この栗田の言葉には、実際に輸送船の上から行方不明になった軍人が過去に存在していること、自身の意志に反して無理やり徴用された者たちと、それを統率し命令を強いる軍人との間には、別に「反軍思想」をもった作家たちとの関係に限らず、きわめてシリアスな命がけの緊張関係が常に存在していたことを示唆している。実際に、栗田は輸送船が目的地に入港するまで、「東方遥拝」の時間を除いては甲板上には姿を見せなかった。この栗田の姿を、のちに井伏鱒二は『遥拝隊長』の狂った岡崎悠一の姿に重ね合わせて描いている。
 井伏鱒二も、当の軍人たちの言葉を『徴用中のこと』として記録に残している。この言葉は、1942年(昭和17)の1月にペナン島を訪問した際、第25軍参謀長の鈴木宗作中将の訓示を記録したものだ。これは、栗田班長より鈴木参謀長へ反抗的な作家たちの様子が、密告書「大阪結集以来、徴員に関する行状」として、微にいり細にいり逐一報告されていたからだ。2005年に中央公論社から出版された、井伏鱒二『徴用中のこと』(中公文庫版)から抜粋引用してみよう。
  
 お前らの中には、反軍思想の者が居る。反軍思想の者は内地へ追い返さなければならん。国賊は、軍に御奉公させて置くわけにはいかん。(中略) 反軍思想の者は、今に自己の身に不幸が訪れることを、覚悟して置かなくてはならん。このような者は、早く自己の非を悟って、改悛の道に入るようにしなくてはならん。お前らの中に、反軍思想の者が居ることはわかって居る。改悛の道に入るのは今だ。
  
 密告書には、「ぶつた斬つて見ろ」と栗田に反抗した海音寺の言葉や、甲板で海に向かって「大自然はこんなに美しいのに、どうして人間は馬鹿な戦争をするんだ」と叫んだ中村地平など、作家たちの言動がこと細かに報告されていた。また、鈴木参謀長は自身の言質に、主体設定の錯誤があることさえ気づいていない。作家たちは、友人も混じり凶作農家など貧困家庭の子弟が多い人間集団=徴兵軍に対しての反「軍」なのではなく、統治者であり政策決定の主体である政府そのものに対しての、反「戦」であることにさえ気づかない思考レベルなのだ。
 「国」や「日本」という言葉でくくられる、流動的で刹那的でさえあるその時代の政府(政治)と、そこに住む国民あるいは個々別々の人間(の想いや思想)とを安易に一体化し、ひとつの「主体」として怠惰に設定するところに、政策に組しない人々を徹底して排除・圧殺しようとするファシズム的全体主義が芽生えることを、作家たちの冷静なまなざしは熟知している。だが、「亡国」思想の権化となり果てた大日本帝国による暴力装置(昨今、このワードを現役の政治学ないし社会学用語だと知らない政治屋さえいる)によって、その場は沈黙する以外になかった。
 軍当局と徴用された作家との緊張関係は、軍に関する「秘密漏えい」のテーマでも常に軋轢を生んでいる。兵士たちの言動を忠実に描こうとする作家と、戦場での事実をできるだけ隠そうとする軍当局との相剋だ。火野葦平は、『麦と兵隊』などの作品群で膨大な記述に関する検閲・削除を経験し、陸軍が秘密として「制限」する表現をほぼ7つのテーマに大別した。つまり、軍当局が示した秘密の内実、裏返せばウソや粉飾がどのように形成されるのかを考察している。軍当局が、ひいては国家が秘密にしたがった7つの課題を、川西政明の前掲書から引用してみよう。
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(1) 日本軍が負けているところは書いてはいけない。理由は、皇軍は忠勇義烈、勇敢無比であって、けっして負けたり退却はしないからである。
(2) 戦争の暗黒面は書いてはいけない。理由は、戦争は殺人を基調におこなわれる人間最大の罪悪であり、悲劇であるから、これには強盗、強姦、掠奪、放火、傷害その他あらゆる犯罪がつきまとう。それをありのまま書けば、皇軍の実態が暴露される。
(3) 戦っている敵は憎々しくいやらしく書かねばならない。理由は、味方はすべて立派で、敵はすべて鬼畜でなければならなかったからである。
(4) 作戦の全貌を書くことは許されない。理由は、機密に属するからである。
(5) 部隊の編成と部隊名は書かせない。たとえば第七連隊第三大隊第二中隊は、〇〇連隊××大隊△△中隊という具合に表記しなければならない。
(6) 軍人の人間としての表現を許さない。分隊長以下の兵隊はいくらか性格描写ができるが、小隊長以上は、全部、人格高潔、沈着勇敢に書かねばならない。戦場における人間描写には制約があった。
(7) 女のことは書かせない。戦争と性欲、兵隊と現地人との接触はかなり深いものがあったが、それに触れることはタブーだった。
  
 1938年(昭和13)1月に上海と南京を取材した石川達三は、戦場の事実をそのまま『生きている兵隊』に描いて発禁処分を受け、「虚構の事実を恰も事実の如くに空想して執筆したのは安寧秩序を紊(みだ)すもの」として、東京刑事地方裁判所検事局に検挙され、新聞紙法違反容疑で起訴された。同年8月に開かれた第1回公判の法廷で、石川達三は次のように陳述している。史的にも、今日的にも非常に重要な陳述だと思われるので、その主要部分を全文引用してみよう。
  
 新聞テサヘモ都合ノ良イ事件ハ書キ真実ヲ報道シテ居ナイノテ国民カ暢気ナ気分テ居ル事カ自分ハ不満タ。/国民ハ出征兵ヲ神様ノ様ニ思ヒ我軍カ占領シタ土地ニハ忽チニシテ楽土カ建設サレ支那民衆モ之ニ協力シテ居ルカ如ク考ヘテ居ルカ戦争トハ左様ナ長閑ナモノテハ無ク戦争ト謂フモノノ真実ヲ国民ニ知ラセル事カ真ニ非常時ヲ認識セシメル此ノ時局ニ対シテ確乎タル態度ヲ採ラシムル為ニ本当ニ必要タト信シテ居リマス (1938年8月31日)
  
 これに対し、裁判所は「皇軍兵士ノ非戦闘員ノ殺戮、掠奪、軍規弛緩ノ状況ヲ記述シタル安寧秩序ヲ紊乱スル事項ヲ編輯掲載シ」たとして、禁固4か月(執行猶予3年)の有罪判決を下している。明らかに言論封殺の判決だが、石川達三の作品を検事局の起訴状どおり「事実の如くに空想して執筆」した、すなわち書かれていることは絵空事の内容とはせず、事実であるのを前提に「軍規弛緩ノ状況」としたところが、裁判官の軍に対するぎりぎりの抵抗だったのかもしれない。
火野葦平.jpg 石川達三.jpg
 まったく戦場の状況や事実を知らされないまま、石川達三の陳述どおり、国民は軍隊にひきずりまわされるように「皇軍の勝利」に酔いしれ、理性的かつ論理的な眼差しで状況を見きわめることができなくなり、あるいは危険だと警告を発する者たちの圧殺を繰り返しながら、大日本帝国は破滅と「亡国」へ向けて歩みを速めていった。「真実ヲ国民ニ知ラセル事カ真ニ非常時ヲ認識セシメル此ノ時局ニ対シテ確乎タル態度ヲ採ラシムル為ニ本当ニ必要タト信シテ居リマス」。
 余談だけれど、作家たちと同時期に東南アジアへ徴用された画家には藤田嗣治Click!鶴田吾郎Click!川端龍子Click!中村研一Click!、福田豊四郎、清水登之Click!、松添健の7名がいた。

◆写真上:1940年(昭和15)ごろの陸士演習Click!で、九二式重機関銃を運ぶ兵士たち。
◆写真中上は、リベラルで「進歩的」な言論から徴用で前線に送られた高見順()と海音寺潮五郎()。は、大阪城内にある旧・中部軍司令部の建物。
◆写真中下上左は、1942年(昭和17)に米潜水艦から撮影された日本郵船の捕虜交換船「龍田丸」。下落合の目白福音教会Click!宣教師だったメーヤー夫妻Click!が、聖母病院Click!での監禁生活のあと帰国したのも同船だった。上右は、1943年(昭和18)に米潜水艦から写された撃沈直前の大阪商船「畿内丸」。は、陸軍宣伝班“丁班”の派遣先のひとつでペナン島の夕暮れ。
◆写真下:ともに中国戦線の戦場を描いた、火野葦平()と石川達三()。前者は軍当局から徹底した検閲削除を受け、後者は出版直前に全文削除=発禁処分を受けている。

気になる松下春雄の赤い屋根シリーズ。

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赤い屋根の見える風景Ⅱ1929頃.jpg
 下落合1445番地の鎌田方Click!に下宿していた松下春雄Click!は、1926年(大正15)ごろ西坂の徳川邸Click!を描いたとみられる『赤い屋根の家』Click!を制作している。これは当時、下落合800番地に住んでいた同じ帝展仲間の有岡一郎Click!と、お互いに連れ立って徳川邸を訪問していると想像でき、有岡も1926年(大正15)にほぼ同じ構図で『初秋郊外』を描いている。
 松下春雄は、『赤い屋根の家』を制作する以前から徳川邸を訪問していると思われ、邸の南にあった広い庭園の東寄りに造られたバラ園も、『下落合徳川男爵別邸』Click!や『徳川別邸内』の画面に描いている。絵のタイトルからもわかるとおり、当時の赤い屋根をした徳川旧邸は郊外別荘として建てられたものであり、相対的に小規模な(といっても十分に大きな西洋館なのだが)建物だった。昭和に入って同邸が本邸となり、新たに旧邸のすぐ南側へ建設された新邸は、別邸として建てられた洋館のゆうに倍もある巨大な西洋館だった。松下春雄と有岡一郎が描いた徳川邸は、新邸が建設される以前のいまだ別邸時代の建物だ。
 さて、きょうの記事は、松下春雄が西坂の急峻なバッケ(崖地)上に建っていた、赤い屋根の徳川邸の旧邸敷地内を描いたのは、上記のわずか3点のみで他には存在しなかったのだろうか?・・・というのがテーマだ。なぜなら、わたしはモノクロ写真でしか画面を確認できていないのだが、松下は「赤い屋根」の邸宅をシリーズをその後もつづけて描いているからだ。すなわち、1929年ごろに制作されたとみられている、油彩画の『赤い屋根の見える風景Ⅰ』と『赤い屋根の見える風景Ⅱ』の連作が残されている。松下春雄はもともと水彩画家であり、帝展へも水彩画部門へ出品していたのだが、大正末からは油彩画も手がけはじめている。もっとも早い時期に描かれた油彩作品としては、1924年(大正13)の『婦人座像』や、下落合の目白崖線の丘上から描いたとみられる1927年(昭和2)の『風景』などが印象深いだろうか。
 「赤い屋根」シリーズの制作年が、1929年(昭和4)ごろであるとされているのは、キャンバス裏に年号記載があるものだろうか? あるいは同年に、どこかへ出品された記録が残っているものだろうか? 同年の松下春雄は、すでに結婚していて下落合1385番地の借家Click!淑子夫人Click!とともに暮らしており、6月には杉並町阿佐ヶ谷520番地の借家Click!へと転居している。だから、1929年(昭和4)の後半期に制作された画面であれば、下落合風景である可能性が低くなり杉並風景となるのだが、前半期であれば西坂の崖上に聳えていた徳川邸の遠景である可能性が高い。それは、『赤い屋根の見える風景Ⅱ』の西洋館が、中央に大きな切妻をもつ徳川別邸(旧邸)の意匠にそっくりだからだ。しかも、南側の芝庭が主体だった広い庭園とみられる位置から、庭木を手前にはさみ北向きでイーゼルを立てている風情が濃厚なのだ。
 この位置は、西坂のバッケ上ぎりぎりの南面する崖っぷちであり、松下の背後には高さ10mほどの断崖が迫っていただろう。そして、その崖地のすぐ下には、斜面から自然に噴出した湧水で形成された、徳川邸の敷地南端に位置する北東から南西へと細長い池が見下ろせたはずだ。池の向こう側には、円弧状にカーブを描いた雑司ヶ谷道Click!(鎌倉街道)が見えており、1929年(昭和4)現在、いまだ聖母坂(補助45号線)Click!は敷設されていない。諏訪谷Click!西ノ谷(不動谷)Click!から湧き出た小流れがひとつになり、妙正寺川へと注ぐ光景が見られただろう。松下春雄は、北北西に向いてイーゼルを立てており、この位置からだと『赤い屋根の見える風景Ⅱ』に描かれた西洋館のとおり、徳川邸(旧邸)のやや右側面(東側面)が薄く見えることになる。
赤い屋根の家1926頃.jpg 赤い屋根の見える風景Ⅱ洋館.jpg
 同作品が、連作『赤い屋根の見える風景』として制作されていることを考えれば、Ⅱよりも前に描かれたと思われる『赤い屋根の見える風景Ⅰ』もまた、徳川別邸を描いている可能性がきわめて高い。だが、同作の画面は徳川邸の敷地内から描かれたものではない。手前にある下見板張りの建物の陰から、屋根が陽射しを受けて光る遠景の大きな西洋館とみられる建築をとらえている。太陽の射光を考えれば、画面の右手ないしは手前の方角が南ということになるだろうか。右端に見えている、下見板張りの建物の外壁が日陰になっており、前面に配された樹木の陰などを併せて考えれば、太陽は画面右手にありそうだ。
 右手が南側だとして、徳川義恕邸(旧邸)がこのように見える位置は、西坂を上りきり二又に分かれた道を左折して西北方面へとたどる尾根道、すなわち霞坂Click!上から落合第一小学校Click!前を通過し、やがては目白文化村Click!の第四文化村から第一文化村へと抜けることができる三間道路沿いの、どこかのポイントということになる。ちなみに、西坂上の二叉路を右へ進めば八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)であり、松下春雄がかつて下宿していた下落合1445番地の鎌田邸へほどなくたどり着くことができる。一方、二叉路を左へとたどれば、第一文化村水道タンクが見える『五月野茨を摘む』Click!(1925年)の描画ポイントや、『文化村入口』Click!(1925年)の箱根土地本社Click!を通り抜け、第一文化村の北辺二間道路を突っ切って、1929年(昭和4)の5月末まで住んでいた、下落合1335番地の松下邸へと一直線に抜けられるのだ。
赤い屋根の見える風景Ⅰ1929頃.jpg
婦人座像1924.jpg 風景1927.jpg
 さて、松下のこのような下落合での軌跡を前提に、『赤い屋根の見える風景Ⅰ』の描画ポイントを推定すると、下落合1429番地の樹木がまばらに生えていた草原あたり、ちょうど笠原吉太郎Click!が描いた『下落合風景(小川邸)』Click!の西側あたりのどこか・・・ということになる。
 徳川邸から尾根道をはさんだ北西側は、大正末にはほとんど家がなく、昭和10年代でさえ樹木がまばらに生えた雑木林のような風情をしており、1936年(昭和11)に撮影された空中写真でも住宅がまだあまり建てられていないのがわかる。かなりあとまで畑地が残っていたか、あるいは松下春雄が下宿していた下落合1445番地の鎌田家の南側がそうだったように、下落合の新築家屋の庭をまかなう植木園だったのかもしれない。
 松下は、徳川邸の西北西にあたる草原の一画、おそらく洋風と思われる住宅の陰にイーゼルを据え、東南東の丘上にのぞいている徳川別邸(旧邸)の大きな赤い屋根を描いている・・・と、『赤い屋根の見える風景Ⅱ』の画面も含めて考慮すれば、そのように想定することができるだろうか。
 1929年(昭和4)の5月、松下春雄は翌6月に迫った阿佐ヶ谷への引っ越しを控えて、カメラ片手に下落合のあちこちの風景を撮影してまわっていることは、以前にこちらの記事でもご紹介Click!している。その中には、『五月野茨を摘む』の描画ポイントClick!や、『下落合文化村』Click!(1927年)のモチーフである竣工したばかりの落合第一小学校をとらえた写真もあった。はたして、カメラばかりでなく油彩の画道具を携え、あちこちを描いてはまわらなかった・・・とはいい切れない。
落合町全図1929.jpg
西坂徳川邸1936.jpg
 1929年(昭和4)春、松下は阿佐ヶ谷への転居を前に、徳川邸をモチーフに再び制作しているのではないか。そして久しぶりに同邸を訪れ、1926年(大正15)に描いた『赤い屋根の家』と同様、南の庭園へと入れてもらい『赤い屋根の見える風景Ⅱ』を描いているのではないだろうか。

◆写真上:1929年(昭和4)ごろに描かれた、松下春雄の『赤い屋根の見える風景Ⅱ』(油彩)。
◆写真中上は、1926年(昭和2)ごろ(おそらく同年9月)に制作された松下春雄『赤い屋根の家』。は、冒頭の『赤い屋根の見える風景Ⅱ』に描かれた洋館のクローズアップ。
◆写真中下は、1929年(昭和4)ごろに制作された松下春雄の『赤い屋根の見える風景Ⅰ』(油彩)。は、1924年(大正13)に描かれた松下春雄『婦人座像』()と1927年(昭和2)ごろに制作された松下春雄『風景』()で、ともに水彩ではなく油彩作品。
◆写真下は、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる徳川邸周辺の様子。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる連作『赤い屋根の見える風景』の想定描画位置。すでにⅠの描画ポイントには住宅が建ち並びはじめ、Ⅱの描画位置の東には聖母坂が造成されている。


標語「アメリカ人をぶち殺せ!」の1944年。

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一億一心.jpg
 戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。
 当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのものズバリ「寄生虫」や「屑(クズ)」と表現している標語さえ存在している。のちにナラと名づけられた地域へ侵入してきたヤマト朝廷が、自身の出自とは異なる原日本の民族やまつろわぬ者たち、すなわち日本列島の先住者(記紀ではおもに近畿地域における先住「日本人」)たちを、「国巣(クズ)」(あるいは「土蜘蛛(つちぐも)」)と蔑称した、弥生末ないしは古墳時代をほうふつとさせる表現だ。
 当時の“洗脳”されていない、少しはまともな眼差しをもった人々が激怒したのも無理はないだろう。(その多くの人々は、別に「主義者」でなくても特高警察Click!憲兵隊Click!に引っぱられ恫喝や暴力を受けている) むしろ、腹を立てなかった人々の意識こそが大日本帝国を破滅させ、この国を「亡国」寸前の淵へと導いた元凶となる政治観であり社会観だったといえるだろう。この認識(全的な止揚)から出発しなければ、いまだ戦後を引きずる日本に明るい未来は存在しない。
 戦時の標語やスローガンというと、「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」などが有名だが、これらの「作品」は比較的まだ出来がいいほうだといえる。そのせいか、新聞や雑誌にも多く取り上げられ、ちまたでも広く知られるようになった「作品」だ。ところが、戦争の敗色が徐々に濃くなり、表現の工夫や語呂あわせなどしている余裕がなくなってくると、なにも考えずにただひたすら絶叫を繰り返すだけの、思考さえ停止したような「作品」が急増していく。これらの「作品」に共通しているのは、国家と個々の国民(人民)とを安易に一体化し、同一主体として(怠惰なことに)やすやすと語られるところが、今日の北朝鮮のスローガンと酷似しているということだ。
  
 黙って働き 笑って納税 1937年
 護る軍機は 妻子も他人 1938年
 日の丸持つ手に 金を持つな 1939年
 小さいお手々が 亜細亜を握る 1939年
 国のためなら 愛児も金も 1939年
 金は政府へ 身は大君(おおきみ)へ 1939年
 支那の子供も 日本の言葉 1939年
 笑顔で受取る 召集令 1939年
 飾る体に 汚れる心 1939年
 聖戦へ 贅沢抜きの 衣食住 1940年
 家庭は 小さな翼賛会 1940年
 男の操(みさお)だ 変るな職場 1940年
 美食装飾 銃後の恥辱 1940年
 りつぱな戦死とゑがほ(笑顔)の老母 1940年
 屑(くず)も俺等も七生報国 1940年
 翼賛は 戸毎に下る 動員令 1941年
 強く育てよ 召される子ども 1941年
 働いて 耐えて笑つて 御奉公 1941年
  
 つまり、それにくくられない人間は「非国民」であり、刑務所や留置場、ゲットーへ送られて当然というスターリニズム下のソ連やナチス・ドイツなどとほぼ同一の、独裁的政治形態上ないしは国家主義的思想の軌跡上に存立している視座だ。これは、別に戦前のみの視座とは限らず、戦後も多くの人々が意識的ないしは無意識にかかわらず、持ちつづけている無神経かつ危うい眼差しだろう。
陸軍参謀本部前.jpg 黙つて働き笑つて納税.jpg
 「1億3千万のニッポン人の熱い願い」(世界選手権でのスポーツ解説者某)、「全都民の願い」(オリンピック招致における元知事某)、「国民の知らぬ間に電力の原発依存が3割」(スペイン講演での小説家某)・・・と枚挙にいとまがない。わたしは、某解説者が中継していた世界選手権大会にほとんど興味はなかったので、1億2千999万9千999人の「ニッポン人」が応援していたかもしれないのが少なくとも事実だし、1964年(昭和39)の東京オリンピックで破壊された、関東大震災Click!の教訓で造られた(城)下町Click!の防災インフラを、ちゃんと人口ぶんにみあう防災施設の復元とともに担保するのが先だと考えているわたしは、なんの疑問もなく5,000万円の札束を受けとる某知事にいわせれば、どうやら東京「都民」ではないらしい。
 ましてや、スリーマイル島原発事故のあと、1982年に(昭和57)に泊原発の新設と、電力の原発依存3割をめざす政府へ異議を唱えるため、著名人たちが新聞の全15D広告を出す際に某小説家にも声をかけており、少なくとも彼は「3割依存」を大江健三郎や筑紫哲也などの呼びかけを通じて、30年以上も前から知っていたはずだし、わたしでさえ知っていた。つづけて、チェルノブイリ原発事故直後の1987年(昭和62)にも、某小説家に対しては同様の呼びかけを行なっていたはずだ。「国民が知らない間に」とは、内部でどのような主体設定がなされているのだろう?
 それを知りつつ、警告の意見広告を出した作家や文化人、ジャーナリストたちは、そしてなによりも80年代の二度にわたる活動を通じて集まった数百万の署名者たちは、丸ごと「国民」ではないのか? ちなみに、某小説家は当時の反核・反原発の呼びかけに対し、一貫してシカトしつづけていた。少なくとも個を尊重する文学者であれば、知っていたはずなのに知らないと称するウソや欺瞞には目をつぶるにしても、「国民が知らぬ間に」ではなく、「“私”が知らぬ間に」の誤りだろう。
 個々の主体がもつ価値意識や思想性、社会観、生活観、愛情、感覚、趣味嗜好、欲求などを、きわめて大雑把かつ無神経にすりつぶし、多様性や多角的なモノの見方を不用意かつ安易に踏みつぶしていくところに、やすやすと国家主義的な、ひいては全体主義的な思想を萌芽させる大きな“スキ”があることにこそ、改めて大きな注意を向けたい。
  
 屠れ米英 われらの敵だ 1941年
 節米は 毎日できる 御奉公 1941年
 飾らぬわたし 飲まないあなた 1941年
 戦場より危ない酒場 1941年
 酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫 1941年
 子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 1941年
 遊山ではないぞ 練磨のハイキング 1941年
 まだまだ足りない 辛抱努力 1941年
 国策に 理屈は抜きだ 実践だ 1941年
 国が第一 私は第二 1941年
 任務は重く 命は軽く 1941年
 一億が みな砲台と なる覚悟 1942年
 無職はお国の寄生虫 1942年
 科学戦にも 神を出せ 1942年
 デマはつきもの みな聞きながせ 1942年
 縁起担いで 国担げるか 1942年
 余暇も捧げて 銃後の務(つとめ)  1942年
 迷信は 一等国の 恥曝(さら)し 1942年
 米英を消して 明るい世界地図 1942年
 買溜(かいだめ)に 行くな行かすな 隣組 1942年
  
迷信は一等国の恥曝し.jpg 儲けることより奉仕の心.jpg
 かたや「科学戦」や「物量戦」を標榜し、増産増産をスローガンでわめき散らしつつ、縁起かつぎや迷信を「恥曝(さら)し」とバカにしておきながら、その舌の根も乾かぬうちに「神」への依存に傾斜していく愚劣さ、「理屈は抜き」でどうやって「科学戦」を勝ち抜くのか意味不明の不可解さ、英語は敵性言語だから日本語をつかえと規定しておきながら、「ハイキング」は日本語であり英語だとはつゆほども思わないおかしさに、当時の政府当局の愚昧ぶりがあらわになっている。
 もはや、政府の一貫したスローガンなど存在せず、その場限りの刹那的かつご都合主義的で無意味なコトバの羅列にすぎなくなっていくのが明らかだ。「デマはつきもの、みな聞きながせ」などは、真っ先に大本営発表へ適用されるべき標語だし、「米英を消して明るい世界地図」にいたっては、消えてしまったのは大日本帝国のほうだ。戦争末期になると国民の不満が鬱積し、「分ける配給、不平をいふな」と、よほどの「忠君愛国」主義者でない限り、特に都市部における政府への反感が噴き出しはじめたのがわかる。「初湯から御楯と願う国の母」にいたっては、祖母や川田順造の母親Click!から、すぐにも「うちじゃ、そんなこと教えてないよ!」と叱責が飛んできそうだ。
  
 二人して 五人育てて 一人前 1942年
 産んで殖やして 育てて皇楯(みたて)  1942年
 日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク)  1942年
 米英を 消して明るい 世界地図 1942年
 飾る心が すでに敵 1942年
 買溜めは 米英の手先 1943年
 分ける配給 不平を言ふな 1943年
 初湯から 御楯と願う 国の母 1943年
 看板から 米英色を抹殺しよう 1943年
 嬉しいな 僕の貯金が 弾になる 1943年
 百年の うらみを晴らせ 日本刀 1943年
 理屈ぬき 贅沢抜きで 勝抜かう 1943年
 アメリカ人をぶち殺せ! 1944年
 米鬼を一匹も生かすな! 1945年
  
 わたしは子どもをふたりしか育てていないので、当時の「非常時」には「御国(みくに)」へ兵士供給の「御奉仕」が足りない、半人前になるのだろう。あげくのはてに、子どものわずかな貯金さえ戦費に巻き上げようとする政府など、もはや末期症状で先が見えている。ロンドンやニューヨークではなく、日本の大都市が連合軍の旗で埋められるまで、あと2年と少ししかない。このころになると、大日本帝国の「亡国」思想は、ひねりも装いも飾りもなく、膨大な数の犠牲者を生みながら、ヒステリックかつムキだしの様相を呈するようになる。
 「理屈ぬき」で「科学戦」に勝ち抜こうなどという標語は、戦後も生きのびていた東條英機Click!か、畳の上で死んだインパール作戦の責任者・牟田口廉也がつくったのではないかとさえ思えてくる。1944~45年(昭和19~20)につくられた「作品」は、もはや標語の匂いや体裁さえなしてはいない。ただただ「殺せ!」を絶叫し繰り返すだけの、殺人狂のような標語になり果てていった。
強く育てよ召される子ども.jpg 無職はお国の寄生虫.jpg
 余談だが、同書の挿画を担当しているのは清重伸之と依田秀稔のふたりで、皮肉や揶揄に満ちた出来のいいイラストが多いのだけれど、わたしとしては現代書館の書籍類では学生時代からなじみ深い、故・貝原浩Click!に描いてほしかった。あと10年ほど長生きしてくれたら、『黙つて働き笑つて納税』のような本の挿画は、彼の独壇場だっただろう。

◆写真上:1944年(昭和19)1月31日、淀橋区内の小学校における授業風景。(新宿歴史博物館蔵) 右手に、「一億一心」と「これからだ/出せ一億の底力」の標語が見える。
◆写真中上は、市ヶ谷の陸軍参謀本部前の焼け野原。参謀本部に勤務していた中井英夫Click!は、当時の日記で陸軍の存在を「いつさい無価値」であると規定していた。は、里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』(現代書館)。
◆写真中下:「迷信は一等国の恥曝し」()と「儲けることより奉仕の心」()。
◆写真下:「強く育てよ召される子ども」()と「無職はお国の寄生虫」()の挿画。

古墳だらけの谷端川・小石川流域。

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 文京区の教育委員会は、区内の社(やしろ)がなんらかの整備・改修工事に入ると、すかさず発掘調査に乗りだす積極的な姿勢をしているようだ。先日、小石川の指ヶ谷御殿町(現・白山)界隈を散歩しながら、大塚町まで足をのばしてみた。以前に、東京弁の「やぼ」と「きやぼ」とのちがいについて、八百屋お七の墓Click!などにからんでこのあたりのことをご紹介している。大塚町には、地名の由来となった大塚古墳と大塚稲荷社のあったところなのだけれど、ここでも山手線の「大塚駅」は、実際の大塚町から1,300mも北へ遠く離れており、しかも旧・小石川区内ではなく、その外れに当たる豊多摩郡(1886年現在)に設置されていたことがわかる。
 ついでに、指ヶ谷交差点(現・白山下交差点)から傾斜が緩慢な坂をのぼっていった、小石川区(白山)御殿町110番地の吉田節子(三岸節子)Click!の女子美下宿跡も訪ねてきた。1923年(大正12)9月の関東大震災Click!のとき、家庭購買組合Click!の食糧などを持てるだけ背負いながら、本郷台地を駈け下りて小石川台地のおそらく逸見坂(へんみざか)あたりを駈け上り、吉田節子の下宿先へと救援にやってきた、三岸好太郎Click!の軌跡を追いかけてみたくなったからだ。
 このあたりは、徹底的な空襲で軒並み焼け野原となっており、ほとんど昔の面影を残してはいない地域なのだが、拡幅された幹線道路が縦横に走ってはいても、土地の起伏までは変わっていない。また逆に、戦後の焼け跡写真を観察すると、興味深い幾何学的なフォルムをあちこちで発見できる、古くからの武蔵野台地の一角だ。白山神社のある旧・小石川原町と、吉田節子の女子美下宿跡がある旧・白山御殿町とは、谷間をはさんで南北に向かい合っており、その谷底を流れていたのが豊島区の要町にある弁天社(池)Click!を湧水源とする谷端川Click!だ。余談だけれど、この旧・小石川原町を流れる谷端川沿いが、徳永直が1929年(昭和4)に小説を『戦旗』Click!へ連載し、村山知義Click!が舞台化した『太陽のない街』の現場だ。
 白山(しらやま)権現社(=白山神社:主神はククリヒメ、イザナミ、イザナギ)が、古墳だと認定されたのは戦後のようだが、今日では本殿の北東に隣接する「円墳」(?)がそれだとされている。でも、この小山は江戸期に築造された“白山富士”の山頂の残滓(玄室や玄門、羨道、羨門などの石材や富士山から富士講の信者が運んできた熔岩)ではないのだろうか? 以前の記事Click!でも書いたけれど、「円墳」とされていた古墳が1980年代以降の発掘調査では、軒並み前方後円墳(ないしは帆立貝式古墳)と訂正されている現状をみると、戦前の「円墳」規定あるいは「円墳」状に改造されてしまった凸状地形は疑わしい。しかも、この「円墳」はあまりに小さく陪墳レベルのサイズなのだ。
御殿町110番地1.JPG 御殿町110番地2.JPG
御殿町110(大正期).jpg
 都内にあまたある寺社の境内が、古墳上に築かれていると思われるのは、鳥居龍蔵Click!により大正期の関東大震災による焼け跡において、各地で観察され指摘Click!されている事実Click!だが、白山権現社も例外ではないのではないか?・・・との感触を強く抱いている。それは、白山社から真北へ800mほどのところにある、駒込富士神社(駒込富士)の本殿とその周辺が、同じく文京区教育委員会の発掘調査で丸ごと前方後円墳であることが確認されているからだ。
 崖線沿いの眺めのいい丘陵斜面、あるいは台地上に古墳時代の大規模な墳墓Click!が発見されるのは、関東地方ではめずらしくない現象だ。しかも白山社は、古来からこの地にあるわけではなく、江戸の明暦年間に中巣鴨原からここへ遷座してきている。(元の中巣鴨原の境内跡も気になるが) つまり、社殿の造営からそれほど膨大な歳月をへてはおらず、初期の地勢が大きく失われてはいないのではないか?・・・との想いを強く感じさせてくれる場所でもある。
 さっそく、1947年(昭和22)に米軍が撮影した焼け跡の空中写真を観察すると、「ほほぉ~」となってしまった。古墳と認定された白山権現社は、ここだけにポツンと存在するわけではなく、北に200mほど離れた駒込曙町古墳(現在は住宅街と寺の墓地になっている)と、南へ400mほどのところに位置する御殿町古墳(住宅街)にはさまれている地勢だ。しかも、古墳だと認定されたポイントは上記3点のみであり、ほかには存在しなかった・・・とはとても考えにくい。この地域には寺社が多いが、その下に敷かれている境内にはどのような事蹟が眠っているかは不明のままだ。
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 白山権現社の社殿は、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲により焼失しているが、その焼け跡を空中写真で観察すると、先の古墳の遺物が見つかった白山富士の遺構である「円墳」(浅間社)とは別に、境内全体がみごとな「鍵穴」型をしているのが見てとれる。全長は南北100mを超えるだろうか、前方後円墳と思われる“くびれ”には造出し(つくりだし=被葬者の祭祇場)と思われる跡や、古墳を取り囲む周濠跡の形状(地形からいって水が張られていなかった空濠の可能性が高い)までを想定することができる。周濠域までを含めると、南側は崖線となっているのであくまでも想定にすぎないが、150m規模の前方後円墳ということになるだろうか。
 すなわち、文京区が出土物から古墳に認定した浅間社のある白山富士の遺構は、江戸期に存在した大きな墳丘の名残りであり、現在の白山社はその墳丘跡に建設されているのではないか?・・・ということだ。まさに、同社の拝殿と本殿は、玄室が出現したであろう前方後円墳の羨門から玄室にかけての位置に築造されていることになるのだ。
 さて、大塚地名の由来となったかんじんの大塚古墳(鶏声塚)だが、昭和初期に残った墳丘(の残滓?)がすべて崩されて、住宅や学校の下になってしまった。その崩される前の写真と、学校建設や宅地造成で破壊されている最中の写真(昭和初期)が現存しているけれど、「大塚」地名の由来となった古墳の規模がよくわからない。大塚稲荷の背後に写る山状のものが墳丘だとすれば、直径30~40mほどの後円部(?)になるだろうか。ただし、これも江戸期に崩されてしまった本来の大塚古墳の残滓なのかもしれない。墳丘の破壊と開発が、土地の造成技術の発達した昭和期に入ってから行われており、徹底した整地が行なわれたものか、1947年(昭和22)の焼け跡を撮影した空中写真を細かく観察しても、墳丘の痕跡を見いだすのは困難だ。現在の発掘技術からすれば、周濠跡まで含めた古墳の全体像を正確に記録することができるのに残念でならない。
曙町古墳.JPG 御殿町古墳.JPG
大塚古墳.jpg
大塚古墳(残滓).jpg 大塚古墳跡.JPG
 文京区の指ヶ谷や小石川界隈(旧・小石川区)は、池袋方面から谷端川(やがて小石川)が流れ下る崖線沿いの地形であり、古来から人々が住みつき、旧石器時代や縄文・弥生の遺跡をはじめ、古墳に認定された寺社の境内など遺構が多い地域としても有名だ。今回は取りあげなかったけれど、前方後円墳の富士浅間社や、氷川明神(簸川社)と「丸山」「大塚」地名など、下落合との地名相似Click!が顕著な地域でもある。また機会があれば、下落合の風情とどこか酷似しており、崖線沿いに拡がる古墳密集地域としての旧・小石川区について、改めて取りあげてみたい。

◆写真上:白山社が前方後円墳なら、羨道から玄室にかけ建築された拝殿・本殿。
◆写真中上上左は、「白山御殿町百十番地」の表札が残る戦前からの邸。上右は、三岸好太郎が上ったかもしれない御殿町110番地の逸見坂。は、大正期の御殿町界隈。
◆写真中下上左は、白山社の本殿を裏から眺めたところで左の小山が富士塚の残滓。拝殿から本殿は、ちょうど羨門-羨道-玄門-玄室の南北ラインにあたる。上右は、白山神社古墳として認定された白山富士。中左は、富士の麓にある浅間社の鳥居。中右は、前方部にあたると思われる南側崖地の先端。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる焼け跡の白山権現社。
◆写真下上左は、白山神社古墳の北200mほどのところにある曙町古墳跡。現在でも、一部が龍光寺の墓域となっている。上右は、白山社の南400mほどのところにある御殿町古墳跡。は、昭和初期に撮影された大塚古墳。大塚稲荷の背後が、樹木の繁った墳丘だと思われる。下左は、破壊されたあとの大塚古墳の残土。下右は、大塚古墳跡で現在は貞静学園となっている。

交叉する松下春雄と甲斐仁代の軌跡。

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 関東大震災Click!の余燼がくすぶる1924年(大正13)8月、松下春雄Click!は再び名古屋から東京へとやってきて、巣鴨町池袋大原1382番地の横井方へ下宿している。のちに夫人となる、近くの渡辺医院の長女・渡辺淑子Click!と知り合ったのも、この街での出来事だろう。そして、水彩画家の松下が同年に描いた、めずらしい油彩画に『婦人座像』が残されている。
 『婦人座像』は、壁に三角のペナントが貼られ、机に置かれた本の上にコーヒーカップが載っている、どこかの部屋の片隅で描かれている。女性はイスに座り、着物の上から大きな縞柄の独特なショールを羽織って、膝には和装用の小さなバッグか袱紗のようなものを手にしているようだ。この装いを素直に解釈すれば、どこからかこの部屋を訪問した外出着の女性を、松下春雄がイスに座らせて写生している・・・ということになる。ちなみにイスに座る女性は、近くの渡辺医院で見染め、のちに結婚することになる渡辺淑子ではない。
 実は、わたしはこの人物にそっくりな女性を何度も目撃している。このサイトでも、繰り返しご紹介してきた女性画家だ。その画家は、我孫子の志賀直哉の書斎で洋画家・中出三也Click!といっしょに暮したあと、雑司ヶ谷時代をへて、ふたりで下落合1385番地の借家へ転居してきている。この住所は、のちに松下春雄・淑子夫妻が住んだ家と、まったく同一の地番だ。女性画家が住んでいたころ、このアトリエには目白文化村Click!を散歩がてら、アビラ村(芸術村)Click!に住んでいた吉屋信子Click!が頻繁に訪れ、オレンジの色彩が気に入ったといっては作品を買っていった。その画家とは、二科で女性初の入選を果たした甲斐仁代Click!だ。
 さて、松下春雄と甲斐仁代には、いつ、どのような接点があるのだろうか? 松下は、1921年(大正10)に初めて東京へやってくると、本郷洋画研究所の岡田三郎助Click!に師事している。画家は男の仕事だという規範が、厳然と存在していた当時にしてはめずらしく、岡田三郎助は女子美術学校で教えるかたわら、趣味の手習いではなく本格的に画家をめざす女弟子をたくさん受け入れていた。その中のひとりに、甲斐仁代がいた。松下春雄と甲斐とは、この時期に本郷洋画研究所で知り合った可能性がある。そして、甲斐仁代の後輩には、松下と同じく愛知から東京へとやってきた吉田節子(三岸節子)Click!がおり、甲斐仁代と吉田節子は顔見知りだったと思われる。
甲斐仁代「自画像」1923.jpg 甲斐仁代「浅間の秋」1958.jpg
 吉田節子は1924年(大正13)の春、女子美を卒業すると小石川区白山御殿町110番地にあった同校学生寮Click!から、高田町小石川狐塚(現・西池袋で自由学園明日館の西隣り区画)に建っていた住宅の離れClick!に引っ越してきている。この家には、吉田節子めあてに中出三也や三岸好太郎Click!、俣野第四郎など男たちもやってきたろうが、もちろん甲斐仁代も来訪していると思われる。特に俣野第四郎は、中出三也と同棲する甲斐仁代に惹かれていたので、おそらく逢える機会は逃さなかったにちがいない。吉田節子が借りた狐塚の家から、西へ150mほど歩いた池袋大原1382番地の横井方へ、松下春雄が部屋を借りて下宿するのは同年8月のことだ。のちに、吉田節子が名古屋のサンサシオン展Click!へ出品していることを考えあわせると、松下春雄は、この時期に吉田節子とも知り合っていたかもしれない。
 すなわち、甲斐仁代は狐塚の吉田節子をひとりで、あるいは中出三也を同伴して訪ねたあと、岡田三郎助の弟子仲間である松下春雄を訪ねていやしないだろうか? あるいは、吉田節子が三岸好太郎と結婚して、狐塚から染井墓地も近い駒込の新居へと転居したあとも、松下は翌1925年(大正14)まで池袋大原1385番地に住んでいたので、甲斐仁代(と中出三也)は彼の下宿を訪ねているのではないか。当時、甲斐仁代と中出三也は我孫子にあった志賀直哉の別荘から東京へもどり、松下春雄の下宿も近い雑司ヶ谷に住んでいた。そして、ふたりはこのあと下落合1385番地、つまり目白文化村は第一文化村の北側に建っていた借家へと転居している。
甲斐仁代・藤川栄子.jpg
甲斐仁代25歳.jpg 松下春雄1929.jpg
 「偶然」にしては、あまりに符合しすぎる松下春雄と甲斐仁代(と中出三也)とのつながりは、その後もつづいていく。松下春雄は、1925年(大正14)に池袋大原の下宿を引き払い、下落合1445番地の鎌田方Click!に部屋を借り、さらに渡辺淑子との結婚がようやく決まると、ふたりの生活のために1928年(昭和3)3月、第一文化村北側の下落合1385番地に新居Click!を借りている。ほどなく長女・彩子様Click!が産まれるのだが、このとき甲斐仁代と中出三也は同地番の家を出て、林芙美子Click!が『落合町山川記』(1933年)の中で記録したように、妙正寺川のバッケ堰のさらに上流、近くに大きな豚小屋のある野方町上高田422番地へと転居している。
 下落合1385番地にあった松下春雄・淑子夫妻の新居は、少し前に甲斐仁代・中出三也が住んでいた家そのものではないだろうか。松下は、下落合で淑子夫人と住む家を探しているとき、たまたま甲斐と中出が転居したがっているのを、おそらく本人たちから聞いた。そして大家に交渉し、そのまま間をおかずに松下夫妻が同家を引きつづき借りている・・・、そんな気配が濃厚なのだ。さらに、松下春雄は下落合1385番地へ新居をかまえた2か月後の1928年(昭和3)5月、なぜか友人と我孫子旅行Click!に出かけている。これは、甲斐と中出から画家たちのアトリエが集まる我孫子の様子を聞き、急に思い立って行ってみたくなったか、あるいは甲斐と中出に紹介状を書いてもらうかし、当時、我孫子にアトリエをかまえていた画家の誰かを訪ねていやしないだろうか。
上高田1927.jpg 上高田422番地1936.jpg
上高田422番地現状.jpg 甲斐仁代.jpg
 これだけ「偶然」が重なれば、そこには1本の経糸が見えてくる。すなわち、松下春雄と甲斐仁代とは、かなり以前から知り合っていた。本郷洋画研究所で顔を合せて間もないころ、松下の巣鴨町池袋大原1382番地横井方の下宿を訪ねてきた甲斐仁代は、松下からモデルになってくれるよう依頼された。画家同士が、お互いをモデルに描くのは別にめずらしいことではなかったし、いつも中出三也のモデルをつとめていた甲斐仁代は気軽に引き受けたのだが、独身の男性画家がひとりで住む部屋でのモデルは、やはり落ち着かない。少し不安げな表情を浮かべる彼女に、松下は「珈琲をもう一杯いかがですか?」と声をかけた、そんな物語が思い浮かぶのだが・・・。

◆写真上:1924年(大正13)に制作された、松下春雄『婦人座像』(油彩)。
◆写真中上:左は、大震災の年の1923年(大正12)に描かれた甲斐仁代『自画像』(東京国立近代美術館蔵)。右は、1928年(昭和33)制作の『浅間の秋』(女子美術大学蔵)。
◆写真中下は、大柄縞の着物姿で立つ女性(右側)が甲斐仁代。『婦人座像』の女性も、縞模様の着物を着ている。甲斐仁代の手前、右端に座るのは藤川栄子Click!下左は、1927年(昭和2)に風景画を制作中の甲斐仁代。下落合1385番地に住んでいたころの撮影と思われ、周辺の雑木林は下落合の西部だろうか。下右は、1929年(昭和4)に撮影された松下春雄と彩子様。
◆写真下上左は、1927年(昭和2)の上高田地図にみる422番地。上右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上高田422番地。下左は、同番地区画の現状。下右は、晩年の甲斐仁代。

頻繁に登場する富士見高原療養所。

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 大正が終わり昭和に入ったころ、下落合から曾宮一念Click!の影が薄くなる時期がある。1927年(昭和2)の夏、翌1928年(昭和3)の夏、そして翌1929年(昭和4)の夏に入りかけのころだ。ちょうど、5月から7月ぐらいにかけ、梅雨時あるいはその少し前に下落合から姿を消している。どこに出かけたのかといえば、八ヶ岳山麓にある開所したばかりの富士見高原療養所だった。
 少し前にも、同療養所へ入所した歌人・馬込栄津子を、宮柊二Click!の記事とからめて書いたばかりだ。当時のさまざまな資料を参照していると、頻繁にあちこちで富士見高原療養所の名称を目にする。その多くの場合、当時は不治の病として怖れられていた肺結核の治療施設=サナトリウムとして登場するのだが、同療養所は結核の療養患者ばかりの入院施設ではなかった。体調不良や虚弱体質、病後の保養、リハビリなどを目的とした患者も受け入れている。中には、療養所を夏だけ別荘がわりに利用していた「不良」患者もいたようだ。きょうは、昭和初期のさまざまな資料に登場する八ヶ岳の富士見高原療養所について書いてみたい。
 曾宮一念は、別に重篤な肺結核患者ではない。梅雨が近く、季節が夏に移ろうとする時期に、毎年体調を崩して制作の仕事ができなくなったため、涼しい高原で安静に療養生活を送るために入所している。1927年(昭和2)は6月13日から7月2日まで、1928年(昭和3)は5月26日から6月4日まで、1929年(昭和4)は5月3日から6月6日まで入退所をくり返していたようだ。たいていは、盛夏を迎える前に東京へともどっているので、初夏から梅雨どきへと向かう移ろいやすい気候が、曾宮一念の身体には合わなかったのかもしれない。
 上記の入退所記録は、当の富士見高原療養所の資料室に残るものだが、この中で1928年(昭和3)の記録がおかしい。曾宮はこの年の初秋、療養所で配られた新聞で佐伯祐三Click!がパリで客死したあとの遺作展Click!の記事を目にしており(もっとも、そのときは佐伯の死去に気づかず作品写真を目にしただけで、第2次渡仏による新作展覧会だと誤解した)、同年の秋にも療養所にいた可能性が高い。佐伯の死を知るのは、9月中旬に東京へもどってからだ。また、本人は1年近くも療養所にいたことがあるという経験を複数証言しており、おそらく医局による病状平癒のカルテ「退所」記録と、そのまま療養所への「滞在」記録とは扱いが異なるのかもしれない。
 以下、1967年(昭和42)に創文社から出版された、曾宮一念の美しい『東京回顧』から引用してみよう。
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 (前略) 私の長い(今も続いているともいえる)療養生活は殆ど信濃との縁を深くしてしまった。高原療養所開所の夏、私は入院したのだが、奥地の温泉に体工合が悪くて居たたまれず、入院の途中長野駅で買った新聞に芥川(竜之介)の自殺が紙面を埋めていたのに驚いた。私の病気は軽かったけれども旅で病み宿が定まらない感傷と重なったので今もこの日を忘れられない。そのころ患者は長いのは十年もいた。私は医師の眼では遊び半分の患者で毎夏世話になり、一ヵ年いたこともある。先生方や諸嬢のお世話になったのは勿論だが、体を養うとともに山が私の心と眼を養ってくれた。病室の窓は八ヶ岳と南アルプスを南北に額縁で仕切ってくれた。山の素描をここで初めてした。同じ山では雲は絶えず窓枠の中にはいるので、床の中で山と雲の素描の勉強ができた。/病院以後は旅館と自宅と一年を半々にいるほど信濃に通った。 (「信濃と私」より)
  
 富士見高原療養所がオープンしたのは、1926年(大正15)12月であり、曾宮も書いているとおり半年後、彼は初めて迎える夏の患者のひとりとして入所している。当初、株式会社として出発した富士見高原療養所だが、1928年(昭和3)に経営不振のため会社を解散し、医学博士・正木俊二の個人経営である富士見高原日光療養所として再出発している。同療養所が財団法人になるのは、さらに8年後の1936年(昭和11)になってからだ。
 よほどの重篤な患者でなければ、付近を散歩したりテラスで日光浴をしたりと、新鮮な空気と規則正しい生活とともに、都会の病院における入院とはまったく異なる療養生活を送れるのが魅力だった。また、仕事や趣味にかかわらず、文章の執筆や絵画の制作なども許されており、療養所内では文学好きの仲間たちが集まって同人誌さえ発行されている。そもそも、所長の正木俊二自身が文学好きであり、俳句や小説を書いては出版し、療養所の経営資金の足しにしていたぐらいだ。
 堀辰雄が描写する同療養所の様子は、婚約者の矢野綾子を喪ったせいか、どこまでも暗くて陰鬱だ。彼の代表作である、『風立ちぬ』(1977年/筑摩書房版全集・第1巻)から引用してみよう。
富士見高原療養所1.jpg 富士見高原療養所2.jpg
富士見高原療養所病室.jpg 富士見高原療養所ジオラマ.jpg
  
 サナトリウムに着くと、私達は、その一番奥の方の、裏がすぐ雑木林になっている、病棟の二階の第一号室に入れられた。簡単な診察後、節子はすぐベッドに寝ているように命じられた。リノリウムで床を張った病室には、すべて真っ白に塗られたベッドと卓と椅子と、――それからその他には、いましがた小使が届けてくれたばかりの数箇のトランクがあるきりだった。二人きりになると、私はしばらく落着かずに、附添人のために宛てられた狭苦しい側室にはいろうともしないで、そんなむき出しな感じのする室内をぼんやりと見廻したり、又、何度も窓に近づいては、空模様ばかり気にしていた。風が真っ黒な雲を重たそうに引きずっていた。そしてときおり裏の雑木林から鋭い音を捥いだりした。私は一度寒そうな恰好かっこうをしてバルコンに出て行った。バルコンは何んの仕切もなしにずっと向うの病室まで続いていた。(中略)  八ヶ岳の大きなのびのびとした代赭色たいしゃいろの裾野が漸くその勾配を弛ゆるめようとするところに、サナトリウムは、いくつかの側翼を並行に拡げながら、南を向いて立っていた。その裾野の傾斜は更に延びて行って、二三の小さな山村を村全体傾かせながら、最後に無数の黒い松にすっかり包まれながら、見えない谿間たにまのなかに尽きていた。
  
 ちょうど、堀辰雄と矢野綾子が富士見高原療養所へ入所する少し前、ここを舞台に映画のロケーション撮影が行われていた。その主演女優へのインタビュー記事は、ずいぶん以前にこちらでもご紹介している。入江プロダクション制作の『月よりの死者』を撮っていたのは、大久保作次郎アトリエClick!のある下落合540番地の三間道路をはさんだ斜向かい、雑司ヶ谷旭出43番地(のち目白町4丁目43番地)に住んでいた看護婦・野々口道子役の入江たか子Click!だ。
 1934年(昭和9)から翌年にかけ、日本じゅうで大ヒットを記録した『月よりの死者』(無声映画)は、美しい看護婦に想いを寄せる入所患者が、絶望のすえに自殺してしまうという悲恋物語だが、この映画のヒットによる素地があったからこそ、1936年(昭和11)から連載がスタートする堀辰雄の『風立ちぬ』が、ことさら世間の注目を集めた感があるのは否めない。また、この流れは翌1937年(昭和7)から連載がはじまる「看護婦もの」小説のきわめつけ、川口松太郎の『愛染かつら』の大ヒットへとつながっていく。
月よりの使者スチール.jpg 入江たか子邸跡.jpg
 富士見高原療養所は、いまも富士見高原医療福祉センター「富士見高原病院」として存続しているが、住宅街も迫るほぼすべての診療科目がそろった総合病院であり、もはやサナトリウムの面影はほとんど見られない。戦後、食生活の大幅な改善と、抗生物質の普及や予防接種の実施による肺結核の激減で、同療養所はその役目を終えた。現在の運営は、長野県の農業協同組合連合会(JA)が行なっている。所在地は長野県諏訪郡富士見町落合11100番地で、字(あざな)が偶然に「落合」なのも面白いが、1万番台の地番がふられている住所もいまやめずらしい。

◆写真上:戦後すぐのころに撮影されたと思われる、八ヶ岳高原の曾宮一念。
◆写真中上:1947年(昭和22)に制作された曾宮一念『裾野と愛鷹』。冒頭写真とともに、いずれも1948年(昭和23)に出版された曾宮一念『裾野』(四季書房)より。
◆写真中下は、竣工まもない富士見高原療養所。下左は、再現された病室。下右は、戦前の病棟を再現したジオラマ。いずれも、旧富士見高原療養所資料館の展示より。
◆写真下は、『月よりの使者』の広報用映画スチール。は、同作で富士見高原療養所をロケ地に選んだ雑司ヶ谷旭出43番地(現・豊島区目白4丁目)の入江たか子邸跡あたり。

松下春雄の「下落合風景」画集Ver.1。

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 2007年(平成19)に制作した、私家版の『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』Click!(非売品)は、現在、新たな作品や当時の写真、史的資料などを加えてVer.6まで版を重ねている。地元の方をはじめ、関係者の方や「佐伯祐三―下落合の風景―」展Click!でお世話になった方々、ご協力いただいた画廊などに差し上げているのだが、次々と見つかる作品や資料、新たに判明した事実などを加えているので、おそらく今後も版を重ねていくだろう。
 同じように、『下落合風景画集―下落合を巡る松下春雄―』(非売品)を制作してみた。松下春雄Click!が描いた「下落合風景」の描画ポイントが、松下春雄アルバムClick!などの資料の裏づけによって、かなり判明してきているからだ。従来は、下落合を描いた風景なのか、それとも阿佐ヶ谷Click!のものなのかが判然としなかった作品も、アルバムに残る貴重な写真類から描画場所を正確に特定することができた。また、同様に下落合を描いた風景なのか、豊島園へ写生に出かけた際の作品Click!なのかも、当時の写真類の蒐集により見分けることができるようになった。
 表紙/表4を入れなければ、同画集は30ページと佐伯祐三Click!の画集に比べれば、作品点数のちがいからボリュームはかなり少ない。それでも、松下春雄が描いた現時点で判明している「下落合風景」の全貌を、なんとかうかがい知ることができる。しかも、実際に松下春雄が下落合の野外で仕事をしている写真や、まさに松下が作品を仕上げた目白文化村Click!など描画ポイントの貴重な当時の写真類も、松下アルバムから加えて編集することができた。ただし、いまだ判明していない、あるいは行方不明の「下落合風景」作品も少なからずありそうなので、佐伯画集と同様におそらく今後も版を重ねていくのだろう。1月中旬に仕上がったので、さっそくご遺族である山本和男・彩子夫妻Click!へ画集をお送りした。
 佐伯祐三が描いた『下落合風景』シリーズは、「制作メモ」Click!に残るタイトルやキャンバス号数、あるいは佐伯の近くにいた画家の証言(たとえば曾宮一念証言Click!)などから想定できる、未知の画面(行方不明作品)まで含めると、現時点では全部で50点をゆうに超えている。一方、松下春雄の「下落合風景」シリーズでは、画集に掲載した作品数はいまのところ30点だ。ただし、タブローにするための習作や素描も含めた、同一モチーフ(風景)の重複した作品類も少なからずあるので、純粋に描画風景のみの点数を数えると、25点ということになるだろうか。
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 作品30点のうち、描画ポイントが正確に把握できている作品、あるいはほぼ描画位置を特定できる作品は、わずか12点にすぎない。それは、松下春雄が「下落合風景」を描いた当時は、いまだ水彩画がメインであり、森や樹木、草原などの緑を好んでモチーフに取りあげていたからだ。佐伯祐三のように、描画ポイントの目印となるような特徴のある建物や道筋、擁壁、構造物などを積極的に画面へは取り入れておらず、当時は下落合のあちこちに拡がっていただろう草原や樹木のみでは、さすがに描画位置を絞りこむことは不可能だ。
 また、家屋などを描いた作品でも、道筋の有無とともに曖昧な表現や構成のものが多く、イーゼルを据えた位置を特定するのが困難だ。大正末から昭和初期にかけ、松下春雄は油絵表現の研究をスタートさせているが、いまだ過渡的な試みにすぎず、油彩による「下落合風景」作品は数が少ない。掲載の30点中、油絵はわずか5点にすぎない。したがって、水彩画の持ち味である茫洋としたものの輪郭や、やわらかな描線、淡い陰影や色彩などにより、よけいに実景の場所を特定するのがむずかしい。たとえば、大正期の目白文化村の三間道路沿いに設置されたと思われる、独特な球体をした白色の街灯を中心に描いていても、周囲の情景が水彩表現ではハッキリせず、背後にとらえられている家屋も和館なのか洋館なのかさえ曖昧だ。
 もうひとつ、作品がカラー画像ではなく、モノクロ画像しか入手できていないものが多いことだ。画面の描写や、より具体的なマチエールを確かめることができず、どこを描いているのかの特定を困難にしている要因だ。今後、もしカラー画像を入手できる機会があれば、より深い観察や検証、確認などができ、下落合における松下作品の軌跡をさらに明らかにできるかもしれない。
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 松下春雄のいくつかの作品では、関連のありそうな同時代を生きた画家の作品、ほぼ同一場所を描いている他の画家の参考作品、あるいは似たような構図の同時代作品などを、当該の松下作品の隣りに並べて掲載している。すなわち、松下の『赤い屋根の家』(1926年ごろ)に対しては、下落合800番地に住んでいた有岡一郎の『初秋郊外』Click!(1926年)、松下の『文化村入口』(1925年)に対しては、上落合725番地から近くの長崎4095番地へと移り住んだ林武の『文化村風景』Click!(1926年)、また松下の『風景』(1926年ごろ)に対しては、まさに街角で画道具を手にお互いがすれちがっていたと思われる、下落合661番地にアトリエをかまえた佐伯祐三のスケッチ『洋館の屋根と電柱』Click!(制作年不詳/おそらく1926~27年)を寄り添わせ掲載した。
 これらの作品のうち、新宿歴史博物館に収蔵されているのは、1925年(大正14)に制作された『文化村入口』のわずか1点にすぎないけれど、山本様が保存されている「下落合風景」作品をはじめ、先に寄贈された板橋区立美術館Click!の同作、名古屋画廊で何度か開催されている松下春雄展で所在が明らかな作品類を含めれば、おそらく佐伯祐三と同様に「松下春雄―下落合の風景―」展の開催が実現可能だろう。しかも、画家本人が撮影した描画ポイントの実景や、まさに野外で画家が「下落合風景」の1作を仕上げている制作現場の写真さえ含む、松下春雄アルバムの精細画像は先年、同博物館へ収蔵していただいたばかりだ。絵画作品と、当時の下落合や西落合の実景写真とを並べて展示すれば、これまでにない展覧会のコンセプトのもと、オリジナルかつリアルな美術写真展が実現できるのではないかと思う。
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 そうだ、『下落合風景画集―下落合を巡る松下春雄―』を、新宿歴史博物館Click!へもお送りしておこう。松下春雄の「下落合風景」作品と、画家本人が撮影した昭和初期の落合地域の風景写真とで構成された美術展は、新宿区の落合地域(下落合/西落合)にみる街の史的な画像記録としての側面をも包括しつつ、美術界でもほとんど類例のない稀少な展覧会となるだろう。

◆写真上:函を外した『下落合風景画集―下落合を巡る松下春雄―』(非売品)の表紙。
◆写真中上:同画集の一部のページで、描画位置が特定できるものは地番表記とともに現状写真を挿入している。また、ほぼ同じ時期に同様の位置から描かれたほかの画家たちの作品も、参考資料として画像を掲載した。
◆写真中下:同上。
◆写真下上・中は、ページの一部。下左は、1932年(昭和7)10月17日に西落合のアトリエで撮影された松下一家の記念写真。ほぼ1年後に、松下春雄は急死する。は、同じく私家版『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』の最新版(Ver.6/2014年2月版)。

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