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下落合の海が見たい!

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下落合横穴古墳跡1.JPG

 少し前、ブログ9周年を記念する記事Click!で、落合地域から産出する化石のことについて触れたのだが、確かに過去の記事には貝化石について触れたものはあるけれど、かんじんの化石の詳細や種類についてはなにも書いていないことに気づいたので、あわてて記録することにした。貝化石は、関東ローム層のさらに下層の、砂質粘土層に重なる黄褐色をした粘土層(幅約2mほど)から産出する。多くの場合、酸性が強い土質のせいか貝殻部分がすべて溶解し、外形ないしは内形のいわゆる“印象化石”となっているものがほとんどのようだ。
 地質学的ないしは地理学的にいえば、落合地域の地形は「武蔵野台地」の中の神田川(旧・神田上水=平川Click!)水系に面した「武蔵野段丘」、あるいは「豊島台」と呼ばれる丘陵地帯だ。標高は、薬王院Click!目白学園Click!あたりがもっとも高く約35mほどで、新宿区では標高約40mの丘が連なる「下末吉段丘」、すなわち甲州街道から四谷方面へと伸びる「淀橋台」よりも、5mほど低い地形をしている。同じ東西に連なる武蔵野段丘で見ると、学習院Click!の森は標高約30m、新江戸川公園Click!から椿山Click!あたりは標高約25mなので、いわゆる目白崖線の丘陵地帯では下落合(中落合・中井2丁目含む)がピークの位置にあたるのだろう。
 武蔵野段丘(豊島台)の下には、約5~8mほどの関東ローム層、いわゆる富士山の火山灰である赤土の層が堆積している。新宿から四谷にかけての下末吉段丘(淀橋台)は、約10mの関東ローム層が積もっているので、落合地域はそれよりもローム層が薄いということになる。これは、古代より谷間を流れる河川や、斜面から湧き出る小流れなどによる浸食で、表土層が削られつづけてきたせいかもしれない。ちなみに、わが家の下の関東ローム層は、ボーリング調査をしたところ4mちょっとの厚さだったようで、場所によっては大正期からの宅地開発のために、1~2mほどの赤土が削られている可能性もあるだろう。
 関東ローム層の下は、白色粘土層と呼ばれる30cmほどの薄い地層で、この地層から下は約5mほどの分厚い幅をもつ、「武蔵野礫層」と呼ばれる褐色の地層が形成されている。いわゆる帯水層とよばれる地層で、落合地域の豊富な地下水脈が縦横に流れている層だ。礫のサイズは、3~5cmほどで、いわゆる砂岩のチャートと呼ばれるものらしい。落合地域の美味しい湧水は、この礫層を流れて清廉な水に濾過され、崖線各地の湧水源から地表へ噴出していた。現在では、おとめ山公園の1ヶ所となってしまったのは寂しいが、大雨が降るとあちこちから地下水がせり上がってくるのは、武蔵野礫層を流れる地下水脈が肥大化し、蓄えきれなくなった水が関東ローム層の薄い場所から地表へと染み出てくるからだ。
 特に、マンション工事などで基礎を5m近くも深く掘り下げ、関東ローム層の大部分を取り去ってしまった地下室では、床下が帯水層である武蔵野砂礫層へじかに接している可能性が高い。落合地域の武蔵野段丘(豊島台)の関東ローム層は、新宿から四谷にかけての下末吉段丘(淀橋台)に比べ、厚さが半分しかない4~5mのところもめずらしくないので、そもそもビルやマンションを建てるために地面を深く掘り下げ、地下室や地下設備室を造ること自体に、地質学的な無理があるのかもしれない。(落合地域の住民のみなさん、地下室の建設にはくれぐれも要注意を)
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発掘現場19660715.jpg

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下落合横穴古墳跡2.JPG

 さて、地下水脈が縦横に流れる武蔵野礫層の下には、砂層あるいは泥層の地層が横たわっている。この地層は、粘土を多く含みきわめて強固で岩のような地層の場合が多く、いわゆる通称「東京層」と呼ばれている地質だ。この近辺にお住いの多くの方々は、この固い岩盤のような東京層を実際、頻繁に目にされていると思う。戦後の工事で深く浚渫された神田川や妙正寺川などの川底には、岩盤のような東京層の粘土層やシルトが露出しているからだ。「江戸名所図会」Click!にも描かれ、江戸期における名所のひとつだった神田上水の「一枚岩」Click!は、おそらく表土の関東ローム層や武蔵野礫層が水流の浸食ですっかりきれいに削りとられ、その下にある岩盤状の東京層が地表に露出していたのではないか?・・・と想定することができる。
 化石が発見されるのは、この東京層に含まれる粘土層からがもっとも多いようだ。下落合で発見された化石で、きちんとした調査記録が残るのは、1966年(昭和41)に下落合の横穴古墳群Click!を調べた新宿区教育委員会と国立科学博物館、早稲田大学などが発掘した化石類だ。同調査チームは、横穴古墳の調査にとどまらず、その下の地層までを念入りに調べる地質調査をも行なっている。下落合横穴古墳群が展開した丘の斜面は、いわゆる武蔵野段丘(豊島台)の一般的な地質とは異なっていることが、同調査報告書である『新宿区立図書館資料室紀要1:落合の横穴古墳』(新宿区立図書館/1967年)で報告されている。
 4~5mほどの浅い関東ローム層の下には、武蔵野礫層がまったくなく、いきなり火山灰質の薄い白色粘土層(約30cm)がかぶさり、その下には砂質粘土層=東京層が約2mほどが堆積していた。そして、そこから多数の貝化石が見つかっているのだ。見つかった化石は、ほとんどが浅海性の貝類で、落合地域の一帯が砂地による遠浅の海(ないしは湾状の入り江)だったことがうかがえる。わたしも初めて勉強したのだが、東京層から見つかる貝化石には2つの層準(地層の上下)があり、下層の化石が出る層を「王子貝層」、上層の化石層を「徳丸貝層」と呼ぶのだそうだ。1951年(昭和26)に尾崎博が発表した、『自然科学と博物館』で命名された呼称らしい。
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発掘現場19660717.jpg

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①カガミガイなど.jpg
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②ナミガイ.jpg
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③ヤツシロガイ.jpg

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④オオノガイ.jpg
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⑤ミルクイ.jpg
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⑥ブラウンイシカゲガイ.jpg

 上層の「徳丸貝層」は、現在の東京湾とあまり変わらない温度環境だったようで、ホソスジカガミガイ(マルヒナガイ)の化石などが標準化石として採取されるようだ。下落合で採取された貝化石は、ほかにヤツシロガイ、イタヤガイ、ブラウンイシカゲガイ(絶滅種)、トリガイ、ウチムラサキ(未確定)、アサリ、ミルクイ、ナミガイ、オオノガイなどが見られた。
 さて、ここで興味深い事実に気がつく。下落合の横穴古墳が発見された、下落合弁天社の上の斜面が、一般的な武蔵野段丘=豊島台の地層に比べて構成がかなり「おかしい」ことだ。比較的薄めな関東ローム層の下には、地下水を蓄える武蔵野礫層が丸ごと存在せず、いきなりその下の古い時代の化石層が姿を見せる。この一画だけが特殊な地層を形成している・・・とは、どう考えても思えないのだ。奈良期に造られたとみられる横穴古墳だが、それ以前になんらかの人為的な手が、この斜面全体に加わっているのではないか?・・・という課題を呼び起こす。そして、このテーマは下落合847番地一帯を中心とする、全長約200mほどの規模を想定できる下落合摺鉢山古墳(仮)Click!(前方後円墳)のテーマと、直結していることに気がつく。
 換言すれば、ここが古くからの死者の墓域(シイヤ山Click!摺鉢山Click!)だと、いまだに伝承が色濃く残り、それを知悉していた奈良期の落合住民たちは、だからこそ死者を葬る山として、この東側の斜面へ改めて手を加え自分たちの墓域、すなわち横穴古墳群を形成しているのではないか?・・・ということなのだ。奈良期の横穴古墳群が築かれる数百年前、すでにこの斜面一帯の表土(武蔵野礫層を含む)は多くが削りとられ、南側に接した巨大な前方後円墳Click!(下落合摺鉢山古墳:仮)の築造に利用されていたのではないか? だから、一般的な武蔵野段丘=豊島台(目白崖線全体)の地層モデルからみれば、関東ローム層の下からいきなり化石を含んだ粘土状砂層=東京層が出現するという、特殊で「おかしい」地層を構成しているのではないだろうか?
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⑦ホソスジカガミガイ.jpg
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⑧トリガイ.jpg
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⑨イタヤガイ.jpg

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⑩ウチムラサキ?.jpg
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⑪アサリ.jpg

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摺鉢山1936.jpg

 現在、下落合弁天社の西隣りが住宅の全面的な建て替えで、関東ローム層から下の地層までが露出している状態になっている。工事関係者がいないときを見はからって、その土に埴輪や土器の破片、副葬品の痕跡などが混じってないかどうか、こっそり探してみたいのだが、土日の休日でもなかなか整地作業がお休みではないらしい。わたしの所有する、出雲の碧玉でできた勾玉Click!は、この建設現場からそう遠くは離れていない地点で発見されたものを譲り受けている。

◆写真上:旧・下落合2丁目829番地付近の、宅地造成にともなう工事現場の様子。
◆写真中上は、1966年(昭和41)7月15日に「落合新聞」の竹田助雄Click!が撮影した宅地造成のための開発工事。は、下落合弁天社の境内から見た現在の工事現場。
◆写真中下は、1966年(昭和41)7月17日に調査が入った1号横穴墳前。は、古墳群が掘られたローム層下の東京層から発見された貝化石。左上からカガミガイなど、ナミガイ、ヤツシロガイ、オオノガイ、ミルクイ、ブラウンイシカゲガイの順。
◆写真下は、同様にホソスジカガミガイ、トリガイ、イタヤガイ、ウチムラサキ(未確定)、アサリの順で、『落合の横穴古墳』(新宿区立図書館/1967年)より。は、化石採集場所である下落合横穴古墳群の遺跡と下落合摺鉢山古墳(仮)との位置関係。
下落合で「海を見たい!」といえば、1974年(昭和49)2月2日(土)に放映された『さよなら・今日は』Click!の第18回「海を見たい!」の“予告編”です。登場している海は、いずれかの湘南海岸だったと思います。いつもと同様に大きめのスピーカーかヘッドホンで聴かれると、70年代の下落合サウンドがリアルに甦ります。hisaさん、たいへんお待たせしました。

Part01
Part02
Part03
Part04


下谷(上野)の「うまいもん」めぐり。

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上野摺鉢山古墳.JPG

 岡本綺堂Click!の小説に、『放し鰻』という短編がある。大橋Click!のたもとから、小さなウナギの幼体=めそっこウナギClick!を大川(隅田川)へ放流してやる話なのだが、いわゆる放生会をテーマにした小品だ。放生会とは、以前に泉鏡花Click!『日本橋』Click!でも取りあげているけれど、いつも食用や飼育している魚介類、たとえばアサリやハマグリ、ウナギ、ドジョウ、カメなどを生きて放流することで、仏教的な意味合いから供養と功徳をかねた往生思想のひとつだ。いまではすっかり廃れてしまい、ほとんど見かけない。
 その様子を、1990年(平成2)に出た光文社版の岡本綺堂『放し鰻』から引用しよう。
  
 平吉はそれにも答えないで、おやじの手から竹柄杓を引ったくるようにして、ひと息にぐっと飲んだ。そうして、自分の駈けて来た方角を狐のように幾たびか見まわしているのを、橋番のおやじは呆気に取られたようにながめていた。文政末年の秋の日ももう午に近づいて、広小路の青物市の呼び声がやがて見世物やおででこ芝居の鳴物に変ろうとする頃で、昼ながらどことなく冷たいような秋風が番小屋の軒の柳を軽くなびかせていた。
 「どうかしなすったかえ。」と、おやじは相手の顔をのぞきながら訊いた。
 平吉は何か言おうとしてまた躊躇した。かれは無言でそこらにある小桶を指さした。番小屋の店のまえに置いてある盤台風の浅い小桶には、泥鰌かと間違えられそうなめそっこ鰻が二、三十匹かさなり合ってのたくっていた。これは橋番が内職にしている放しうなぎで、後生をねがう人たちは幾らかの銭を払ってその幾匹かを買取って、眼のまえを流れる大川へ放してやるのであった。
  
 ここに描かれている広小路(防火帯の大通り)とは、大江戸(おえど)いちばんの繁華街だった大橋(両国橋)は西詰め(日本橋側)つづきの両国広小路のことで、これから書こうとしている下谷広小路(現・上野広小路)界隈のことではない。
 安藤広重『名所江戸百景』Click!のうち、第56景「深川萬年橋」Click!に描かれた萬年橋のたもとで縛られているカメは、橋番が放生会の客を待っている様子を描いたものだ。放生会の商売は、たいがい橋番(通行税を徴収する橋の番屋)が兼業で行なっており、江戸湾や市街地の河川で捕まえた魚介類(稚魚が多い)を生きたまま売っている。客はそれを買い、橋の下に放流してあげることで「功徳を積んだ」ことになるわけだが、放流されたそばからまた放生会商売のために捕まるカメもいたと思われるので、なんのことはない放しては捕まりを繰り返す、自己満足を前提としたリピート商売といえるだろうか。「深川萬年橋」のカメは、その下を流れる小名木川(女木川)へ放流されるのを待ってるのだが、萬年橋と「亀は萬年」をひっかけた広重のシャレとばしだ。
 欧米人の目から見ると、江戸期のこのような放生会や供養塚(人間が利用した動植物の冥福を祈り供養した塚)は、どうやら欺瞞に満ちた「卑怯」な考え方のように見えるらしい。江戸期の日本をテーマにする海外の研究者たちは、おおむねこの習慣に対しては拒絶反応を示すというのを、どこかで読んだ憶えがある。キリスト教圏の思想からいえば、非常に奇妙で不可解な風俗に映るのだろう。確かに、いつも「うまいもん」Click!にしてガツガツ食っている食材を、たまに気がとがめるのか放生会を催したり塚を建立したりするのは、どこか欺瞞臭がするし、あまりにも人間の身勝手な想いが前面にせり出していそうだ。
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伊豆栄うな丼.JPG
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伊豆栄うな重.JPG

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上野蓮玉庵.JPG
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上野藪蕎麦.JPG

 上野(旧・下谷)の「うまいもん」めぐりをするとき、不忍池の前を通りかかると、いつも放生会のことが頭に浮かぶ。不忍池からの流れが暗渠化されず、上野三橋が架かっていた江戸期の黒門Click!前には、おそらく放生会商売が見世を拡げていただろう。なにを扱っていたのかは知らないが、フナやコイ、ドジョウ、アユといった淡水魚の稚魚だろうか。上野山のサクラや、下谷広小路(現・上野広小路)の人出が多い日には、かなりいい商売になったのではないかと想像している。以前、中村勘三郎の当たり役だった芝居『男達ばやり(おとこだてばやり)』Click!にからめ、不忍池でも多かった身投げについて書いたことがあったが、同池の放生会について書かれた資料は思いあたらない。
 上野といえば、現在の上野駅あたりに岡場所(いわゆる上野山下のケコロ)があったせいか、精力のつく「うまいもん」を出す飲食店が江戸期から多かった。元祖・甘辛やき鳥Click!をはじめ、ウナギの蒲焼屋や柳川のドジョウ屋などが軒を並べていたらしい。まちがいなく、ももんじ屋Click!茶漬け店Click!も何軒か開店していただろう。上野は、関東大震災Click!空襲Click!でわずか20年ほどの間に二度壊滅しているけれど、現在でも江戸期からつづく「うまいもん」屋の老舗はしぶとく商売をつづけている。また、明治になってからも、今度は日本橋や銀座と並んで洋食屋が進出し、「うまいもん」屋の伝統は今日まで受けつがれてきた。
 これらの「うまいもん」屋の多くは、下谷から湯島、そして本郷へと抜ける道すがらに開店していて、明治期には東京帝大へと通う教師や学生たち、あるいは上野界隈に住む文士や画家たちを集めては繁盛していた。ウナギ好きで有名な斎藤茂吉Click!は、ほとんど1日おきに“うな丼”を食べていたようで、現存する日記の記述は1年じゅうウナギだらけだ。そう、下谷(現・上野)の町々は旗本や御家人が多く住む武家屋敷街であり、芝居茶屋にはまったく縁のない土地柄なので、メニューは“うな重”Click!ではなく“うな丼”が主流だった。斎藤茂吉が詠じたニョロニョロ作品を、いくつか引用してみよう。
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上野192309.jpg

  
 夕飯に鰻も食へどゆとりなき 一日一日は暮れゆきにけり
 五月雨の雨の晴れたる夕まぐれ うなぎを食ひに街にいで来し
 利根川を幾むらがりてのぼりくる 鰻の子をぞともに養ふ
 ひと老いて何のいのりぞ鰻すら あぶら濃過ぐと言はむとぞする
 ゆふぐれの机のまへにひとり居て 鰻を食ふは楽しかりけり

  
 上野を散歩すると、いつも和食にしようか洋食にしようか迷うことになる。洋食では明治の早い時期から、築地の外国人居留地に江戸期からあった西洋館ホテルの料理部の流れをくむ上野精養軒や、ハヤシライスをはじめとするデミグラソースの黒船亭、宮沢賢治Click!お気に入りの上野駅改札前にある須田町食堂上野店(現・聚楽Click!)と、目移りがしてしょうがない。ウナギでは、池之端町で江戸期からつづく伊豆栄や亀屋、蕎麦屋では上野藪蕎麦や蓮玉庵などが、「おいでおいで」と手まねきしている。
 迷ったときには、2軒の「うまいもん」屋をハシゴするに限るのだが、洋食屋の2軒ハシゴはちょっときつい。洋食+和食あるいは和食+和食の組み合わせで、食べ歩きをするのが穏当なのだろう。日本橋や銀座だと千疋屋Click!や資生堂があるので、たとえば洋食+和食+洋食(デザート)というコースが可能なのだが、上野に多い甘味喫茶の汁粉類は、さすがにわたしのデザートにはなりにくい。
 先日、伊豆栄の“うな丼”と“うな重”を味見したあと、蓮玉庵でサラッと蕎麦Click!を流しこんできたのだが、伊豆栄の“うな重”はいけない。うな丼とうな重では、ウナギの調理のしかたがちがうとみえて、うな丼は焼きが強く(つまり城下町Click!風)、うな重は蒸しが中心(乃手風)のようだ。でも、うな重は泥臭さが鼻にツンと立ってうまいとは感じなかった。これでは、高田馬場でコツコツとおじいちゃんがひとりでいい仕事をしている「愛川」Click!にさえ負けてるではないか。ウナギのこの臭みを感じたのは、はとバスClick!客が押しかける駒形の前川Click!以来だ。2店とも江戸期からの老舗なのだから、いくらお客がわんさか押しかけても、もう少しちゃんとマジメに仕事をしないと老舗の看板が泣くというものだ。
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上野彰義隊慰霊碑.JPG
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浅草十二階煉瓦.JPG

 洋食屋の部門では、昔から上野精養軒や須田町食堂(聚楽)へ寄ることが多いが、1902年(明治35)から開業している元黒門町の黒船亭が、食い意地の張っているわたしには気になっている。子どものころ、下町の「うまいもん」好きな親父に日本橋の泰明軒や、銀座の煉瓦亭にはずいぶん連れていってもらったけれど、わたしの味覚の基準になってはいない。わたしの洋食舌のリファレンスは、おそらく横浜の山手育ちでハイカラなおふくろの味にあるのかもしれない。定期的に食べにいきたい洋食屋に、いまだ出会えずにいる。

◆写真上:前方後円墳の墳頂を削り明治以降は公園の見晴らし台にされていた、中規模な上野摺鉢山古墳の後円部。墳丘本来の高さは、4~5階建てのビルぐらいだろうか。
◆写真中上は、伊豆栄のうな丼()とうな重()。うな重の泥臭さにはがっかりだ。は、上野ではおなじみの蕎麦の蓮玉庵()と上野藪蕎麦()。
◆写真中下:関東大震災直後の1923年(大正13)9月5日に飛行第五大隊が撮影した上野界隈。街は全滅状態だが、上野山には罹災者による無数のテントが見える。不忍通りの拡幅前だが震災後の店も含め、その位置をだいたい重ね合わせてみた。
◆写真下は、上野山へ出かけるとたいがい立ち寄る彰義隊供養塔。は、なぜか上野に展示されている関東大震災で倒壊した浅草凌雲閣(十二階)のレンガ。

もはや建設理由がない補助73号線。

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補助73号線1.jpg

 クルマの「交通量の増大」と「渋滞緩和」を理由に、1946年(昭和21)から計画されている補助73号線Click!について、その基盤となる“理由”がもはや21世紀の今日、どこにも存在していないことを改めて書いてみたい。この道路を計画している東京都の資料には見えないが、国土交通省ならびに総務省Click!には将来予測のシミュレーション資料が提供されている。
 ただし、国交省の予測データは2003年(平成15)と、いまから10年以上前の資料であり、総務省のデータは近年に発表されたものだ。国交省は、クルマの交通量が2050年までにどのように推移するのかをシミュレーションしたものであり、その根拠としては日本の全人口の推移と、労働人口の推移、そしてGDPの推移などがベースとなっている。しかし、10年以上前に作成されたベースとなるこれらの数値は、楽観論に満ちみちた想定であるにもかからわず、交通量つまりクルマの走行量(台数)は減少するとしており、増加するとした予測はひとつもない。しかも、これらの数値は10年が経過したいま、事実と照らしあわせて検証することができる。
 楽観論に満ちている、予測の基盤となったデータの中身を具体的に見てみよう。これが、そもそも大まちがいの元だと思うのだが、日本のGDPは1999年から実質マイナス成長をつづけているのにもかかわらず、国交省の経済予測はすべてプラス成長が予測の基盤となっている。経済成長を、「高位」「中位」「低位」の3つのケースに分けているのだが、1960~70年代の高度経済成長を想起させる「高位」はまったくの論外として、「低位ケース」でも2004年から2020年まで順調に平均1.5のプラス成長をつづけるという、ほとんど空想論のレベルだ。
 事実として、2004年から一昨年までは総体的にマイナス成長、ないしは下降気味の横ばい成長だったわけで、そもそも交通量シミュレーションの基盤となるGDP予測ひとつとってみても、それによって導き出された数値の信頼性・信憑性の中身が疑われるだろう。ここにも、ありえない架空の交通量の見込みと収益予測(早い話がマーケティングの虚構と分析の根本的な錯誤)により、赤字道路をごまんと建設してしまい、すべて国民の税金で尻拭いをつづけている、いい加減な姿勢が透けて見えるようだ。道路や鉄道は、建設して終わりなのではなく、そこから膨大な維持管理費がかかる。だからこそ、厳密な需要予測が求められているのだ。
 さて、日本の人口推移のほうはどうだろうか? さすがに国交省でも、これから日本の人口は増えつづけるという予測は示していない。こちらも、「高位」「中位」「低位」の3ケースに分け、それほど急激に日本の人口は減らないとする「高位」は、すでに事実とはまったく異なるので論外として、人口がかなり減るとされている「低位」ケースに沿った下降線を描いているのが現実だ。実際の人口推移は、「低位」ケースに近い深刻な減少がつづいていることは、この10年間に現象化した総務省が発表する統計データなどからも明らかになっている。すなわち、2050年には日本の人口は1億人を大きく割りこみ、9千万人台の前半あたりまで落ちこむとみられる。労働人口は、総務省の予測によれば全人口の減り方よりも、さらに急カーブを描き減少が加速するとされている。
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GDP推移予測(国交省).jpg

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実際のGDP推移グラフ(世界経済のネタ帳).jpg

 それでも、これらの非常に“楽観的”な基礎データをもとに、国交省が算出した交通量の将来予測は、「高位」「中位」「低位」の各ケースすべてにおいて、2050年までに減少するとしている。わたしは、個人的には10年以上前に想定された「低位」ケースの予測を、さらに下まわるのではないかと想像している。なぜなら、現在の事故多発を背景に課題として急浮上している、高齢者がクルマを運転することに対するリスク低減のための法規制検討や、特に都市部において顕著な交通網の整備充実による若者たちのクルマ離れ、若い世代を中心として70万人にも及ぶニート(家庭内引きこもり)の存在など、“想定外”の社会的な新たな取り組み/仕組みづくりや顕著な現象が、この予測データにはまったく加味されていないからだ。特に最後のニート・ケースは、自動車教習所に通うことさえ事実上不可能だろう。しかも、補助73号線が計画されているのは、交通がきわめて至便な豊島区と新宿区の都心部だ。
 池袋から目白、下落合、戸塚(高田馬場)を南北に抜け、新宿までつづく補助73号線Click!は、もはや「交通量の増大」と「渋滞緩和」を理由に建造する意味は、どこにも存在していない。わずか30年後には、ムダで過剰投資だったと総括できそうなクルマの道路インフラへ、膨大な税金を投入する理由がどこにも見あたらないのだ。道路が未整備の地域なら別だが、池袋から新宿までの幹線道路には、すでに明治通りと山手通りの大道路が近接して南北に2本も存在している。しかも、山手通りの地下には首都高速中央環状新宿線が開通したばかりだ。また、不忍通りから目白台を抜け、早稲田から新宿まで貫通する環4の工事も、すでに用地買収がほとんど済みスタート目前のように見える。前世紀の土建的な発想から早く抜け出し、道路建設をする膨大な予算的余裕があるのであれば、もっと別の将来性のある社会インフラ、ないしは予想される大地震に備えた防災インフラ、さらには東日本大震災で明らかになった脆弱性を問われている、通信インフラの充実=冗長化へ投資すべきだろう。
 さて、将来はクルマの台数が増加し、交通量が増えることで渋滞をまねく怖れがあるので、これからも幹線道路を整備しよう・・・という流れが提唱できなくなった場合、次に建設の理由づけとして登場しそうなのが「防災」のテーマだ。行政は「防災道路」整備のため・・・などと、あたかも以前の建設理由などどこにも存在しなかったかのように、なりふりかまわずご都合主義的な新しい「理由」をいいだしかねないので、先に禁じ手として書いておきたい。“タヌキの森”の新宿区建築課、あるいは新宿区建築審査会がそうであったように、行政の土木建築分野の部局ないしは組織にはコンプライアンス感覚の欠如感とともに、わたしは本質的な不信感をもっている。
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人口推移予測表(国交省).jpg

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交通需要予測(自動車走行台キロ/国交省).jpg

 そもそも、「防災道路」ってなんなのだろうか? 震災で火災などの緊急事態が起きた場合、現場へいち早く駆けつけられるようにするのが「防災道路」だと定義すれば、それは「火薬庫にある避難場所」というぐらい矛盾に満ちたワードだろう。東京が震源地の直下型大地震が起きた場合、自動車道路はむしろ機能などしない。道路沿いの建物の倒壊はもちろん、周囲からの落下物や乗り捨てられたクルマなどにより、交通がマヒすると考えたほうが事実にもとづいている。
 関東大震災Click!のときは、クルマの台数こそ少なかったが、避難する人々で道路はごった返し、また人々が放置した大八車や荷物で道路は埋められ、人が通行するのさえ困難となった。加えて、放置した大八車の家財道具に火が点き、火災の拡がりを助長したのは誰も否定できない史的事実だ。先に発表された、内閣府の第三者委員会である中央防災会議による、「幹線道路はマヒして機能しない」という認識のほうが現実的なのだ。
 ましてや、大地震が起きたらクルマで避難するのは禁止され、徒歩で避難場所へ向かうよう行政は“指導”している。つまり、路上には乗り捨てられたクルマがそのまま放置され、もし万が一火災が迫った場合には、クルマ自体がガソリンタンクのような危険物と化するだろう。これは、家々の車庫や路上に置かれたクルマの延焼-爆発-延焼拡大という現象が指摘された、阪神・淡路大震災や先の東日本大震災における一部の広域火災事例を見るまでもない。東日本大震災では、火災原因の20%がクルマの炎上によるものだとされたのも記憶に新しい。道路を建造し、そこにクルマが走るということは、もし大震災が東京を襲った場合、路上に駐停車しているクルマが大火災の延焼拡大ルート、文字どおり導火線になりかねないということだ。
 東京の都心を走る、「防災道路」ってなんなのだろうか? 近年、これだけの経験や教訓を見聞きしているわたしには、もし補助73号線建設の理由が「防災」などという理由にすり変わるとすればだが、もはや「火薬庫にある避難場所」などという意味不明なワードにしか聞こえないだろう。
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上屋敷公園.jpg
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自由学園明日館.jpg

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補助73号線2.jpg
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補助73号線3.jpg

 下町Click!の自治体が、川沿いや掘割り沿いに次々と防災桟橋を建設している。もちろん、大震災の際には道路が機能しないことを前提に、江戸期から拓けた昔ながらの水運によって、救援物資を各町へ運搬・配送しようという計画だ。すでに、東京オリンピックClick!前後に埋められてしまった外濠や掘割りも多いのが残念きわまりないのだが、このリスク感覚(危機管理意識)こそが、大震災で甚大な被害をこうむった自治体の正鵠をえた判断だろう。繰り返すが、東京が中心の大震災では、幹線道路は延焼の“導火線”になる可能性こそあれ、「防災道路」などありえない幻想だろう。

◆写真上:西池袋の池袋警察署前で工事がストップしている補助73号線の終端。25m幅の道路が目白から下落合、戸塚を貫通したら住環境の悪化と住民離れは必至だろう。
◆図版中上は、2003年に国交省が自動車の交通需要推計モデルの根拠に使用したGDP推移予測表。は、実際のGDP推移(世界経済のネタ帳より)で大きな乖離がある。
◆写真中下は、同推計モデルの根拠となった人口推移予測。現実の人口減少率は、同グラフの「低位推計」に近いラインで下降している。は、上記の予測などをベースに描かれた交通需要(自動車走行台キロ)の推計モデル。もはや、交通量が2050年に増加するとする予測は存在しないが、現実のピークは2000~2010年だったとみられる。
◆写真下上左は、すべて補助73号線の下になると思われる上屋敷公園。上右は、その近くにある自由学園明日館の夜景。は、補助73号線終端の夜と昼の風景。

バッケが原北端の甲斐・中出アトリエ。

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上高田422.jpg

 目白文化村Click!北側の一画、下落合1385番地Click!に住んでいた二科の甲斐仁代Click!と帝展の中出三也Click!は、1928年(昭和3)の早い時期に、妙正寺川沿いの野方町上高田422番地へ転居している。下落合の画室には、アビラ村(芸術村)Click!の下落合2108番地に住んでいた吉屋信子Click!が散歩の途中で立ち寄っては、甲斐の作品を購入していた。
 きょうは、林芙美子Click!が1933年(昭和8)に書いた『落合町山川記』にも登場している、近くに豚小屋があった上高田422番地の甲斐仁代・中出三也のアトリエについて書いてみたい。ふたりが、下落合からすぐ西隣りの上高田へ引っ越したのは、中出三也が同地にあった昭和女子高等学校(現・昭和女子大学)の美術教師をつとめていたからだ。林芙美子が『落合町山川記』を書いた1933年(昭和8)当時も、ふたりは上高田422番地の8畳ほどのアトリエと3畳ほどの寝室が付属した、小さな家に住んでいたと思われる。
 当時の甲斐仁代・中出三也アトリエの様子がうかがえる貴重な資料を、北海道立三岸好太郎美術館Click!の学芸員・苫名直子様Click!からお送りいただいた。それをご紹介する前に、林芙美子が書いた『落合町山川記』の一節を、少し長くなるが引用してみたい。
  
 この落合川に添って上流へ行くと、「ばつけ」と云う大きな堰があった。この辺に住んでいる絵描きでこの堰の滝のある風景を知らないものはもぐりだろうと思われるほど、春や夏や秋には、この堰を中心にして、画架を置いている絵描きたちが沢山いた。中井の町から沼袋への境いなので、人家が途切れて広漠たる原野が続いていた。凧たこをあげている人や、模型飛行機を飛ばしている人たちがいた。うまごやしの花がいっぱいだし、ピクニックをするに恰好の場所である。この草原のつきたところに大きな豚小屋があって、その豚小屋の近くに、甲斐仁代さんと云う二科の絵描きさんが住んでいた。御主人を中出三也さんと云って、この人は帝展派だ。お二人とも酒が好きで、画壇には二人とも古い人たちである。私はこの甲斐さんの半晴半曇な絵が好きで、ばつけの堰を越しては豚小屋の奥の可愛いアトリエへ遊びに行った。/夕方など、このばつけの板橋の上から、目白商業の山を見ると、まるで六甲の山を遠くから見るように、色々に色が変って暮れて行ってしまう。目白商業と云えばこの学校の運動場を借りてはよく絵を書く人たちが野球をやった。のんびり講などと云うハッピを着た連中などの中に中出さんなんかも混っていて、オウエンの方が汗が出る始末であった。/来る人たちが、落合は遠いから大久保あたりか、いっそ本郷あたりに越して来てはどうかと云われるのだけれど、二ヶ月や三ヶ月は平気で貸してくれる店屋も出来ているので、なかなか越す気にはなれない。それに散歩の道が沢山あるし、哲学堂も近かった。春の哲学堂の中は静かで素敵だ。認識への道の下にある、心を型どった池の中にはおたま杓子がうようよいて、空缶あきかんにいっぱいすくって帰って来たものだ。
  
 この中に登場する「落合川」は、林が独自にそう呼んでいる妙正寺川(北川)Click!のことで、「ばつけ」とはもちろん東京方言でハケと同様にバッケClick!(崖地・急斜面)のことだ。「ばつけの堰」は、林の連れ合いである手塚緑敏Click!も描いているバッケ堰Click!のことで、「広漠たる原野」は戦後までなにもない原っぱのままだった、上高田のバッケが原Click!をさしている。おそらく、隣りの西落合と同様に田畑を宅地化するための整地が行われ、昭和初期には耕地整理のまっ最中だったと思われる。井上哲学堂Click!もほど近い、妙正寺川沿いのそんな一画に、甲斐仁代と中出三也のアトリエはあった。
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甲斐仁代・中出三也1932.jpg

 では、苫名様よりお送りいただいた、1932年(昭和7)9月15日の読売新聞の記事、シリーズ「美術の秋に…絵をかく夫婦」の13回から、ふたりの様子を一部引用してみよう。
  
 恋愛千浬自由形/「貧」も顔負けの打倒泥棒
 お二人とも岡田三郎助氏の門下 先生は帝展、奥さんし二科で先生の方はそんなでもないが、奥さんは廿一歳(21歳)のとき入選して以来たつた一回落ちただけ、「二科の甲斐さん」つていへば有名なもンだ。(中略) いま住んでゐる家も故虫明柏太氏の画室で新井薬師の裏の方の田園に担いで来てちよつと置いたやうな小さいやつ、「朝飯前の貧乏」には、はなはだ適当な家である。八畳ぐらゐの画室らしい部屋と三畳の寝間らしいのがあるだけで玄関はもちろん便所さへあるかなしかだ。人が来て靴を脱ぐとすぐ家の中に靴を入れて呉れる。さうしないと通行人がもつて行つてしまふからだ。
  
 読売新聞では、「絵をかく夫婦」としているが中出三也にはすでに妻がいて、ふたりは駆け落ちした画家同士の事実婚と表現したほうが適切だ。上高田の家は、おそらく二科のつながりから甲斐仁代の知人であり、1926年(大正15)11月に34歳で急逝した、同じ洋画家・虫明柏太のアトリエだったことがわかる。画室の大家は、未亡人となった虫明夫人なのだが、ふたりは貧乏なので家賃をなかなか払わなかったらしい。読売新聞は、「未亡人撃退術」まで紹介しているが、夫人のほうも戦術を練り、夫婦どちらかがひとりのときに急襲して、家賃を回収していたようだ。
 関東大震災ののち、東京郊外の宅地化が急速に進むにつれ、田畑の跡地には勤め人向けの借家が数多く建てられているが、家賃をめぐる大家と店子との“攻防”は、今日までさまざまなエピソードを残している。以前、松本竣介Click!「雑記帳」Click!に掲載された、上高田のめずらしい「親切な大家」Click!のことをご紹介している。でも、甲斐仁代と中出三也のふたりは、いつも家賃を払いしぶる、いわば確信犯的な店子だったようだ。
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読売新聞19320915.jpg

  
 奥さんの断髪が伸びると先生は早速鋏を研いで切つてやる。するとこんどは奥さんが返す剃刀で先生のお髭を、数年来お二人は髪床へ行つたことがない。大根でも味噌でも必ず先生が学校(先生は昭和高女の絵の教師)の帰りに買つて来る。月末になると大家さんである虫明氏の未亡人が家賃をとりにやつて来るがお二人この場合は特に念を入れて水も漏れない細いところをやつてみせる、未亡人すつかり面喰つて家賃もそこそこ退散、未亡人、ちかごろはどつちか一人欠けてゐるときでないと決して来なくなつた。けだし未亡人撃退術としては尤(もっとも)なるものだが、これはチト現代の道徳上欠けるものである。
  
 でも、家賃を払えないほどの小さな貧乏所帯にもかかわらず、中出三也はなぜかボクシング用のエキスパンダーを購入して、強盗が押し入ったときの撃退法を練習していたらしい。ドロボーClick!のほうも、あらかじめおカネのありそうな家を物色し、まかりまちがっても見るからに貧乏そうな画家の家はターゲットから外すと思うのだが、ふたりは大マジメで心配していたようだ。
 ちなみに、下落合の画家でドロボーにやられたのは、曾宮一念Click!の2回がもっとも多いだろうか。一度めは目白通りの北側、下落合544番地の借家Click!に住んでいたときで、家具もほとんどない部屋から盗られたものはなく、二度めは下落合623番地にに建てたアトリエで、渡仏する佐伯祐三Click!からもらった黒いニワトリ7羽Click!が、すべて佐伯が建てた鶏舎から盗まれている。
 実際、当時はドロボー事件が多かったらしく、特に華族やおカネ持ちの大邸宅、目白文化村の大きな西洋館などがターゲットにされ、頻繁に被害Click!をうけていた。
  
 ところが最近、この辺は大へん物騒でことに先生の家は田圃の一軒家だから強盗などに襲はれたときの用意に先生はエキスパンダーなんか買つて盛(さかん)に拳闘の練習をはじめた。奥さんもまたそんな場合先生だけに委せて置いては夫婦の道にはづれるとあつて毎朝お二人おそろひでラヂオ体操に調子を合はせて「オいちにオいちに」とやつてゐる。「泥棒もこれを知つてゐると見えてやつて来ませんよ」なんて威張つてゐるがおそらく泥棒と名のつくものなら決して先生のお宅へなんか眼をつける道理はない。それよりも窓からのぞく怪しき漢(おとこ)の用意にカーテンでも買つた方がためになる。
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上高田1930.jpg
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虫明柏太「風景」1919.jpg

 家で大きな物音がしたため、ドロボーないしは強盗への対応は若い奥さんや妹にまかせ、自分はさっさと庭へのドアから外へ逃げ出そうとした画家に、下落合753番地に住んでいた中村彝Click!の師匠である満谷国四郎Click!がいる。あとから宇女夫人Click!にこっぴどく叱られたようなのだが、満谷邸ほどの大きなお屋敷であれば、ドロボーが目をつけても不思議ではないのだが…。

◆写真上:妙正寺川の北原橋から眺めた、旧・野方町の上高田422番地界隈。昭和初期に行われた妙正寺川の整流化工事で、同地番の敷地はやや東へ広くなっているようだ。
◆写真中上:勤務先の上高田にあった昭和高等女学校で撮影された、中出三也(左)と甲斐仁代(右)。ふたりそろった写真は、案外資料にも少なくてめずらしい。
◆写真中下:1932年(昭和7)9月15日発行の、読売新聞に掲載された記事全文。
◆写真下は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる上高田422番地。妙正寺川の対岸には大正末まで灌漑池が存在しており、織田一麿Click!がその風景を作品を描いていると思われる。は、1919年(大正8)の第6回二科展に出品された虫明柏太『風景』。

三岸好太郎と中村伸郎と向田邦子。

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太平洋画会研究所.JPG

 わたしが、加藤嘉と同じぐらい好きな俳優に中村伸郎がいる。文学座を、杉村春子Click!らとともに起ち上げた中心人物なのだが、のちに脱退して「日本浪漫派」に近い舞台で活躍していた。わたしは晩年のひとり芝居を、残念ながら観そこなっている。どのような役柄でも、抜群のリアリティと存在感を発揮する中村の芝居は、映画やTVでひっぱりだこだったように思う。中村伸郎は、もともと俳優ではなく画家をめざしていた。
 中村伸郎は大正末、のちに人形劇団「プーク」結成の基盤となる人形劇を上演している。この劇団「プーク」の近い位置にいたのが、三岸好太郎Click!の親友だった久保守だ。三岸好太郎は、人形劇団「プーク」のメンバーたちともサロン的な交流を通じて親しかっただろう。つまり、中村伸郎と三岸好太郎は顔見知りであり、同劇団のメンバーには作曲家・吉田隆子Click!が参加していた…という経緯だ。ここで三岸と吉田は知り合い、すぐに恋愛関係になる。のちに、吉田隆子は久保守の兄・久保栄と結婚をすることになるが、中村伸郎もまた、築地小劇場で仕事をする久保栄とは親しかっただろう。
 戦後、久保栄と吉田隆子の家に入門してきた人物に、中野重治Click!の文章へ共鳴した歌人・村上一郎がいた。村上一郎も中村伸郎と同様に、なぜか「日本浪漫派」臭のする方向へと傾斜していくが、1975年(昭和50)に吉祥寺の自宅で頸動脈を切断し、吉本隆明の弔辞いわく「死ねば死にきり」(高村光太郎)の自刃をして果て「風」(墓誌銘)となった。このあたり、書きはじめると長くなりそうなので、このへんで…。
 三岸好太郎と中村伸郎の接点について、1993年(平成5)に北海道立三岸好太郎美術館Click!刊行の『線画のシンフォニー 三岸好太郎の<オーケストラ>』から引用しよう。
  
 昭和初期、東京郊外の東中野にミモザという料理店があった。月に1回ほど、その店に若い画家や音楽家らが集まり、食事や歓談に興じる会が開かれたという。当時川端画学校で絵画を学び、のちに俳優に転じた中村伸郎(略)が会の世話をしていたようであるが、誰がリーダーということもなく和気あいあいとした集まりであったらしい。おそらく東京美術学校で絵画や音楽を学ぶ者たちの交流から始まり、さらに彼らの知人を含めたものとなっていったのであろう。ここに集まった若者たちの中には、中村のほか、画家では三岸、久保守(略)、小寺丙午郎(中村の兄、久保守と東京美術学校で同級)、川崎福三郎(略)、山田正(略)、岡部文之助(略)らがおり、後に多くのモニュメント制作で知られる札幌出身の彫刻家・本郷新も姿を見せた。音楽家では声楽の奥田良三(略)、四家文子、ピアノの園田清秀(略)、チェロの小沢弘らがいた。
  
 この文章に添えられた、久保守の渡欧送別会をとらえた1930年(昭和5)2月の記念写真には、三岸好太郎とともに中村伸郎の姿が見える。東中野にあったレストラン「ミモザ」の集いへ、三岸と同郷である多くの北海道出身者が参加していたのも興味深い。ちなみに、昭和初期に作成された「大日本職業別明細図」で東中野駅の周辺を調べてみたが、上落合や角筈も含め「ミモザ」という料理屋は発見できなかった。
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久保守送別会1930.jpg
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人形劇団プーク1929頃.jpg

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線画のシンフォニー1993.jpg
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 人形劇団「プーク」の音楽部員として参加していた、吉田隆子の側から見ると、当時の様子はこのように映っている。2011年(平成23)に教育史料出版会から刊行された、辻浩美『作曲家・吉田隆子 書いて、恋して、闊歩して』から当該部分を引用しよう。
  
 アテネ・フランセで広がった交友関係は、やがて人形劇団プークへと繋がっていく。隆子の音楽家としての第一歩は、人形劇団の音楽部員から始まった。/隆子は、まず1929年(昭和4)に結成された人形劇サークル「ラ・クルーボ」に参加し、次々に新しい刺激を得ることができた。「ラ・クルーボ」は美術、文学、国際語エスペラントを含む語学、自然科学、社会科学などを学ぶ青年たちによる人形劇サークルで、隆子はここで『はだかの王様』の音楽を担当している。そのころに撮ったと思われる1枚の写真には、隆子を含めて10人のメンバーが写っているが、楽しげに肩を組みながら、誰もがみんな生き生きと輝いて見える。その中には、許嫁であった鳥山榛名や、のちに結婚生活を送ることになった高山貞章(略)の姿もある。/その後、人形劇団プークの創立メンバー18人の一人として、1936年(昭和11)まで人形劇の作曲に携わった。
  
 画家志望の中村伸郎と、当時は春陽会で活躍していた三岸好太郎の接点は、「ミモザ」会ないしは「プーク」を媒介に、ほんの一瞬(数年)の出来事だったと思われるが、ふたりはなんら影響を受けることなく、再びまったく別々の軌跡を描いて離れていったのだろう。同じく、三岸と吉田隆子との恋愛もほんのつかの間だったが、隆子は三岸好太郎の制作活動に少なからぬ影響を与えている。同性あるいは異性のちがいに関係なく、表現者同士がほんの短い間でも触れ合った場合、ときに爆発的な“化学反応”を見せることがあるけれど、三岸好太郎の場合は後者のケースだった。そのころの情景を、今度は1999年(平成11)に文藝春秋から出版された、吉武輝子『炎の画家 三岸節子』から引用しよう。
  
 好太郎が吉田隆子と出会ったのは一九三二年。当時隆子の婚約者であり、人形劇団プークの創立者(創立一九二九年)であった鳥山榛名が、開成中学の同期生の俳優の中村伸郎などと音楽、演劇、美術関係に携わる若手たちの集まる文化サークル、というよりはサロンのようなものを作っていた。久保守に連れられて、このサロンの常連の一人に好太郎もなったが、音楽家の卵であった隆子も参加するようになった。/はじめて顔を合わせた好太郎と隆子は、激しい恋に落ちたのである。
  
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中村伸郎「秋刀魚の味」1962.jpg
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中村伸郎「だいこんの花」1970.jpg

 中村伸郎というと、小津安二郎Click!『秋刀魚の味』Click!『東京暮色』Click!、あるいは山本薩夫の『白い巨塔』や『華麗なる一族』などでの演技が強烈な印象に残っている。特に小津安二郎は、文学座の俳優を好んで出演させており、杉村春子とともに中村伸郎は画面に欠くことのできないバイプレーヤーだったのだろう。
 中村伸郎は1980年(昭和55)前後、向田邦子Click!のNHKドラマ『虞美人草』への出演が決定していたにもかかわらず、向田の事故死で制作が中止になってしまったのは、なんとも惜しいことだ。もし、そのまま制作されていたとしたら、彼の代表作のひとつになっていたかもしれない。ただし、向田邦子が脚本家として参加していた『だいこんの花』(1970年)に、中村伸郎は歯科医師として一度登場している。もっとも、その回は向田邦子の作ではなく、松木ひろしが脚本を担当していたようなのだが…。
 余談だけれど、人が生きている流れの中で、たった一瞬触れ合っただけなのにもかかわらず、忘れられない大きな仕事を残すケースをたまに見る。三岸好太郎における吉田隆子もその好例だが、向田邦子と松本清張もまた、同じような仕事を残している。1960年(昭和35)に松本清張は短編『駅路』(文藝春秋)を書き、1977年(昭和52)に向田邦子はたった一度だけ清張作品の脚本を手がけ、ドラマ『最後の自画像(駅路)』(NHK)を仕上げた。同作は、向田が生存中にNHKで放映され、わたしも学生時代に観ているが、32年後の2009年(平成22)にも向田脚本でフジテレビが制作している。
 清張のプロットは尊重しているが、繰り広げられる人間ドラマは向田の手によって、原作とはまったく別モノの優れた作品に改編されている。向田は清張本人をドラマへ引っぱりだし、原作にはない認知症の進んだ「雑貨商小松屋」主人として登場させた。「小松屋」清張が怒らなかったところをみると、向田の脚本に舌を巻いたものだろうか。2009年に放映されたドラマの冒頭には、「人は人と出会う一瞬にそれぞれの人生が交差し、輝きを放つようです」というナレーションが挿入されていた。そういえば、『最後の自画像』はゴーギャンがテーマであり、くしくも絵画がらみの作品なのが面白い。
 向田邦子は、特に春陽会Click!に属していた画家たちが好みだったらしく、岸田劉生Click!の作品を欲しがったが高価でとても手が出ず、中川一政の作品を部屋へ架けていたのは有名だ。のちに向田作品の装丁を、中川本人も手がけている。彼女が、三岸好太郎について触れている文章をわたしは知らないが、目にしていたことはまちがいないだろう。
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松本清張.jpg
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 中村伸郎と向田邦子が、「虞美人草」で一瞬でも交差していたとすれば、どのような姿を見せてくれたのだろうか? 「日常生活の中にこそ、きらりと光る珠玉の人生がある」は、向田邦子の至言だけれど、もう少し生きていてくれれば、いままで見たことがないような中村伸郎の「きらり」演技が見られたかもしれないと思うと、いまでも残念だ。

◆写真上:中村伸郎が通い、佐伯祐三Click!山田新一Click!も通った小石川下富坂町の川端画学校は、戦時中に解散して現存しないが、満谷国四郎Click!吉田博Click!中村不折Click!らが設立し中村彝Click!小島善太郎Click!も通った太平洋画会研究所(現・太平洋美術会研究所)は、いまも谷中で健在だ。
◆写真中上上左は、『線画のシンフォニー 三岸好太郎の<オーケストラ>』に掲載されている1930年(昭和5)に開かれた久保守送別会の記念写真。上右は、辻浩美『作曲家・吉田隆子 書いて、恋して、闊歩して』に掲載された人形劇団「プーク」の吉田隆子と中村伸郎。下左は、1993年(平成5)刊行の『線画のシンフォニー 三岸好太郎の<オーケストラ>』(北海道立三岸好太郎美術館)。下右は、2011年(平成23)に出版された辻浩美『作曲家・吉田隆子 書いて、恋して、闊歩して』(教育史料出版会)。
◆写真中下は、小津安二郎『秋刀魚の味』(1962年)の中村伸郎。は、NET(現・テレビ朝日)のドラマ『だいこんの花』(1970年)に出演した中村伸郎。
◆写真下:松本清張()と、父親が何度も下落合を訪れてClick!いる向田邦子()。

サエキ先輩、おとどけものでーす!

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ミギシくん01.jpg

 「おはようございますー、中村さーん!」
 「こんな朝っぱらから、なんだ……?」
 「♪お~い、中村く~ん!」
 「…どこの、誰だろうね。…まったく」
 「中村さーんClick!、お留守ですかー!?」
 「はいはい! ど~も腹の調子が…、またカルピス飲みすぎたかなぁ。はっはっはっ」
 「ちはー、中村さーん!」
 「…その黒い僧服は、目白福音教会Click!からきたのか? キリスト教は信じないよ」
 「どうやら中村さん、なんとか21世紀まで、お元気そうですねー」
 「……ボクが元気でいちゃ、なにか都合でも悪いのかね?」
 「いえ、ちょいと意外だったもんですから」
 「かっ、勝手に殺すな! まだ当分、葬式は挙げんよ」
 「いえ、きょうはその方面の用事じゃなくて…」
 「じゃあ、また説教Click!でも聞かせるのかね? いっとくが、ボクは神道だからね」
 「この僧服は、北海道のトラピスト修道院からもらったんですよー」
 「……その、胸の飛んでるチョウチョClick!は、いったいなんのマネかね?」
 「超現実主義的で、とってもオシャレで、ボクに似合うでしょー?」
 「…まぎらわしい格好するな! また、教会から終活の勧誘だと思ったじゃないか」
 「家庭購買組合Click!からきましたー、おとどけものです」
 「…ボクは、なにも注文しちゃいないよ。なにかの、まちがいじゃないのかね?」
 「落合家庭購買組合のミギシです。よろしくね」
 「……家庭購買組合のミギシ? なんか、どっかで、聞いた名前だな」
 「はい、ボクは、これでも油絵やってるんです!」
 「ほほう、購買組合の仕事をしながら苦学してるとは、僧服は感心しないが感心だな」
 「いえ、ぜーんぜん。節っちゃんたちもいるしー、楽しいんですよ!」
 「節ちゃん? ま、いいけどね、ボクにカルピスでも配達かな? はっはっはっ」
 「ところで、サエキ先輩いらっしゃいます?」
 「……サ、サエキ? ……先輩?」
 「あのな~、誰ぞ~わしんこと、呼んだんかいな?」
 「ああ、これはサエキ先輩Click!! どーも、ミギシです」
 「お、あんたがミギシくんかいな。そやけど、購買組合は駒込やなかったんか~?」
 「はい、ここClick!にサエキ先輩やソミヤ先輩Click!、それからついでに中村さんが下宿されてるとうかがいまして、それで駒込から急いで落合へ転勤したんですよ」
 「そやったんか。あのな~、里見くんや外山くんから、よう聞いてるで。…ま、入り」
 「こらこらこら、こらーっ! 誰が下宿してるんだって!?」
 「サエキ先輩、この人、ちょっと怖いですねー」
 「ま、たまにな~、けったいなこと言わはるさかい、気ぃせんと、遠慮せず入り~な」
 「ボッ、ボクが中村“くん”や“さん”で、どうしてサエキくんが“先輩”なのかね!?」
 「あのな~、中村センセな、そない怒らはると、朝から血圧上りまっせ」
 「大きなお世話だ。それに遠慮せず入り~なってね、ここはボクの画室なんだよ!」
 「ほんまかいな、そうかいな~。あのな~、わしが二度目の巴里行きでアトリエ貸しとったClick!、同郷で鈴木のマコトちゃんClick!のな~、アトリエちゃいまんの?」
 「…いちいち、ややこしいことを。いまは元にもどって、ちがうんだよ!」
 「ところでな、ミギシくんな~、あれ、持てきてくれたんか~?」
 「はい、サエキ先輩のご注文どおり。…ところで、ソミヤ先輩にもごあいさつを」
 「あのな~、ソミヤはんはな、きのうから房総の写生Click!で、いてへんのや~」
 「そりゃ、残念だなー。お会いするの、楽しみにしてたのになー」
 「こらっ、おまえたち、人の話を聞け!」
 「えろ~うるそうて、かなわんわ~。ミギシくん、すまんな~」
 「サエキ先輩、これ、どこに置きましょうか?」
 「だっ、誰が、うるさいんだって!?」
 「とりあえず、本郷の組合本部に寄って、6つほどかき集めてきたんだけど」
 「おおきにな~。これやこれや、これやがな~」
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 「ソフトタイプで、お尻にやさしくてなかなか破れない、組合推薦の“蝶の舞”です」
 「…なっ、なんだ、カルピスかと思ったら、ただのトイレットペーパーじゃないか」
 「また今度な~、あるだけ持ってきてんか~」
 「ロールの中にも、ほら、蝶が飛翔してるんですよー」
 「えろう凝った作りやがな~、巻物キャンバスやで」
 
 「サエキくん、トイペをそんなに買い占めて、下落合は石油ショックかい」
 「あのな~、センセの木炭紙な~、固(かと)うて固うて、かなわんねんわ~」
 「…まっ、また、ボクの目を盗んで、木炭紙をくすねて、どうかしたのかね!?」
 「よくもんで使(つこ)うてもな、あそこ擦りむくねん」
 「ど、どうりで、どんどん木炭紙が減るわけだ。…ついでに、ボクの貴重でかけがえのない歴史的なデッサンも、このところ、なぜか行方不明が多いんだけどね!?」
 「あのな~、センセのデッサンは固(かと)うて、ついでにお尻が黒うなりまんねん」
 「……木炭紙や素描は、便所の落とし紙じゃ、ないんだよ!!」
 「こいでな、ソミヤはんもな、痔ィ治りまんのや。肌触りが、ごっつええがな~」
 「ソミヤまでオレの木炭紙を? …おまえら、画家の風上にも置けんヤツらだ!!」
 「中村センセな~、こちらミギシくんゆ~てな、わしらと同業やねん」
 「…もう聞いたよ!」
 「ほんでな、いまな、ルバシカ着て左斜め45度向いてな~、猛勉強しとるとこですわ」
 「中村さんのお作、中でもカルピスClick!の包み紙が、いっちばん素敵ですかねー」
 「…そ、そうか。キミは、あのコンポジションやマチエールの良さが、わかるかね?」
 「壁龕を左右に逆転した構成と、水玉パッケージとの対比表現が鮮やかで見事です」
 「…そうかね、そうだろうね。…はっはっはっ」
 「観念的なるものと唯物的なるものの対比で生まれた、美しい怪物作品です」
 「……やっぱり、そうだろうとは思ってたんだよね。はっはっはっ」
 「師匠は評価しませんが、味わい深いリリカルなサンチマンがあるように思います」
 「そりゃ、そうだろうね。キミはおかしな格好してるが、なかなか見どころがあるじゃないか。ところで、…なにかね。芸術がよくわからん、ボクの作品をあまり評価しないキミの師匠って、そんなヤボな朴念仁は、ちなみにいったいどこのどいつなんだい? はっはっはっ」
 「はい、春陽会の、キシダ劉生大センセです」
 「……劉生大センセゆーな!」
 「南長崎は洛西館Click!近くの、河野ミチセーくんClick!を訪ねるたびに、俥(じんりき)の中から中村ツネのバッカヤロー!…と、目白通りで思いっきり叫ばれながら走ってます」
 「…くっ、くっそ~~~!」
 「目白通りの子どもたちも憶えて、いっしょにバッカヤロー!…と唱和してるとか」
 「あ、あの野郎~~! …いまに、思い知らせてやる!」
 「この間など、中村さんのアトリエの周りに、下駄でグルリと大きな輪を描いてまわり、便所ったまに落っことしてやったぜ、ツネの野郎、ざまぁみやがれの髪結新三Click!だと、銀座のライオンClick!ではたいへん上機嫌でらっしゃいました」
 「ちっ、ちっくしょう! いちいち、手間のかかることを…」
 「劉生大センセは、これでツネ野郎とはエンガチョ切~ったと、とてもご満悦でした」
 「くそ、いつか劉生と荘八をまとめて便所ったまに落としてやるからな。憶えてろ!」
 「あのな~、そやけど劉生センセも、えろう面白(おもろ)いお人でんな~」
 「ふたりして、劉生劉生ゆーーな!」
 「あ、そうだ、中村さん。俊子ちゃんClick!を今度、ぜひ紹介してくれませんかねえ?」
 「…だっ、誰が紹介するか! それに俊子ちゃんなんて、なれなれしくゆーな!」
 「そっかー、残念だなー」
 「あのな~、俊子ちゃんはな~、もう101歳のお婆ちゃんやで」
 「なーんだ、そっか。…そうなんだ」
 「ふたりで、俊子俊子ゆーな!」
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 「それじゃサエキ先輩、日展…いや文展・帝展のアカデミック木炭紙が役立たずじゃ、ここにはもっともっと、アウフヘーベン用に組合推薦の“蝶の舞”が必要ですねえ」
 「ヲイ、こらっ、どさくさにまぎれて、キミまでいったいなにをいってるんだ!?」
 「そやな~、あるだけぎょうさん、持ってきてんか~」
 「昨今の官展は、芸術とは無縁なヒエラルキーの組織的かつ情実的腐敗が、目にあまりますからね。中元歳暮にカルピスなどと、現金までが飛びかってるって話です」
 「ほんまやし~。金山センセClick!がな、激怒して踊らはるのも、無理ないのんや」
 「ボクは独立して、これからは恥ずかしい官展に応募したりしません!」
 「あのな~、エエ心がけや。まあ、がんばんなはれ」
 「…ふたりとも、それは、思いっきりボクに対する、当てこすりなのかね!?」
 「統括の法則は運動を排斥し、または活動力から自由にするオーグニズムですからね。芸術上のオーグニズムは、どこまでいってもインデイペンドゥントなんです」
 「そやな~、ほんまやし」
 「…ヲイッ、キミは長谷川リコーClick!か!?」
 「人間性が人間性である場合、絵画が人間性の感情、衝動、考察そのものでなくして、それ自身活動を絵画に限定する目的を持つ限りにおいて、表現の手段をとらなければならないという事実は、あくまで一致するわけだとボクは考えてるんです」
 「あのな~、ちぃ~と外山くん入っとるけどな、エエことゆうわ~」
 「ぜっ、ぜんぜん意味不明だし!!」
 「経済的に裕福な絵画はいまや文化的に貧困化し、経済的に貧困なる絵画には、これからが建設的な希望に恵まれた時代だと、ボクは位置づけているんですよ」
 「ようゆうてくれた。あのな~、わし、ここでな、ロクに食わしてもろてへんのやで」
 「ヲイッ! 毎日、ずっと“花嫁”Click!とすき焼きとタラバガニ、食ってるし! 栄養が必要なオレより、いつもたらふく、食ってんじゃん!」
 「そやけど、どうでもええこっちゃけどな。あのな~、劉生センセと中村センセの美術界における芸術観の対立ちゅうのんは、こない低次元なことやったんかいな~」
 「うるさい! 庭を便所ったまにしてくれた、キミにだけはいわれたくないんだよ!」
 「じゃあ、ボクはこれから、『画家が見た女性美』に書いて、節ちゃんにちょっと叱られたけど、北国と東北と東京と中部と京都と大阪と南国に寄ってから帰りますんでー」
 「そやそや、節っちゃんClick!によろしゅうにな。あのな~、オンちゃんClick!栄子ちゃんClick!もな、ふたりしてよろしゅうゆうてたで」
 「はい、また近々、お訪ねしますねー。ボクのアトリエにも、遊びにきてくださいよ」
 「あのな~、確か~、上鷺宮だったかいな~?」
 「はい、ボクが設計したアトリエがあるんで、保存へ向けた活動をしてくれてます。こんな古びたデザインじゃなくて、白亜でオシャレなバウハウス風なんですよー」
 「う~るさい! ボクのアトリエは古びてなどない、竣工したばかりなんだよ!」
 「あのな~、ミギシくんな、帰る前に財布、置いてけへんの?」
 「あっ、ボクは、女性んとこ以外、財布を丸ごとあげたりしないんですよー」
 「さよか、やっぱりな。ミギシくんはな、ヴィーナスはんにはエエかっこし~やねん」
  
 …というわけで^^;;、中村センセのアトリエに、どうやら近所の上戸塚Click!に節ちゃんと住んだこともあるミギシくんが現れたようだ。w アトリエに寄宿しているサエキくんへ、お尻にやさしいソフトタイプのトイレットペーパー“蝶の舞”をとどけに来たようで、北海道のトラピスト修道院から手に入れた黒い僧服を身にまとっている。その僧服には、なぜかピンから外れた鮮やかな蝶(てふてふ)が1匹、遠く韃靼海峡(安西冬衛)ならぬ津軽海峡をわたって飛翔してきたようだ。1934年(昭和9)に制作された『素描集・蝶と貝殻』にあるように、「蝶ノ冬眠ガ始マル/而シ押エラレタピンヲハネノケテ再ビ飛ビ出ス事ハ自由ダ」を、そのままデザインしたような図柄が描かれている。
 さて、ルミニズムから印象派の中村センセ、フォーブを突っ走るサエキくん、流派には目もくれず飄々と独自路線を歩むソミヤはん、そしてルソーから草土社風、フォーブ、シュルレアリズムまでリーチの長いミギシくんと、なんだか近代洋画史を代表する画家らしき人たちの勢ぞろいだけれど、それぞれみんな勝手に物語をひとり歩きしはじめたようで、これからどんな騒動が起きるやら、わたしは責任がもてなくなってきた。(汗)
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 片や保存・復元が成功したばかりの中村彝アトリエと、いまや保存へ向けたみなさんのさまざまな取り組みが行なわれている三岸アトリエとの、絶妙なタイミングで登場したミギシくん。先ごろの大雪で、三岸アトリエのパティオにあった庇が崩れたそうで、1日でも早い保存へ向けた流れが本格化するのを願わずにはいられない。いつもごていねいに記事をお読みいただき、ありがとうございます。>人形の作者様<(__;)>

◆写真:サエキくんがいる中村センセのアトリエへ、蝶が舞うトラピスト修道院の僧服を着てトイペ“蝶の舞”をとどけにやってきた、さきがける前衛画家らしいミギシくん。
現実には、三岸好太郎と1928年(昭和3)にパリで死去した1930年協会の佐伯祐三との間には、残念ながら接点は見つかりません。また、1924年(大正13)に病没した中村彝と、三岸好太郎の間にももちろん接触はありません。あくまでもオバカなフィクションとして、ご笑覧ください。
ですので、くれぐれも「中村彝のトイレにはロール式のトイペ“蝶の舞”があったのか?」とか、「三岸好太郎が家庭購買組合駒込支部から落合支部へ転勤したのはいつ?」とか、「佐伯祐三は、彝アトリエで毎日すき焼きを食べていたの?」とか、「蝶のデザインのある僧服は残ってないのか?」とか、「三岸好太郎はエメロンシャンプーの愛用者だったの?」とか、各地の美術館や博物館におられる学芸員や研究員のみなさんが頭を抱えるようなご質問は、決してされませんようお願いいたします。(爆!)

“引っ越し魔”だった前田寛治の軌跡。

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 1925年(大正14)6月、パリ郊外のリュ・ドゥ・シャトー13番地に借りていた佐伯祐三Click!のアトリエで、米子夫人Click!の手料理による前田寛治Click!の帰国送別会が開かれた。前田は、同年8月下旬に神戸へ着くと、故郷の鳥取県東伯郡中北条村の実家へもどっている。自宅で20日間ほどすごし、地元の友人たちや世話になった人たちへの挨拶まわりをしたあと、帝展へ滞欧作を出品するために9月14日には東京へ向けて出発した。
 もちろん、東京にアトリエがわりの拠点などないので、東京美術学校の同級生だった片岡銀蔵の家に転がりこんでいる。目白通りのすぐ北側、北豊島郡長崎村1725番地だった。ちなみに、この地番から西へ200mほどのところには草土社の河野通勢Click!が住んでおり、岸田劉生Click!も何度か訪れている。この片岡宅への寄宿をふりだしに、前田寛治は長崎地域あるいは下落合を転々とする生活がはじまる。それは、1928年(昭和3)3月15日のいわゆる「3・15事件」Click!に関連し、高田警察署(現・目白警察署)に拘束され、同年7月に杉並町天沼287番地に「前田写実研究所」Click!を開設するまでつづいている。
 長崎村1725番地の片岡宅から、前田寛治は第6回帝展へ2点応募し『J.C嬢の像』が入選している。その後、前田は特選にも選ばれているが、帝展の藤島武二Click!満谷国四郎Click!など長老の画家たちが彼に目をかけていたからだ。帝展の主流である中堅画家たちは、前田の作品に対してはおしなべて冷淡だったようなのだが、長老たちが新人の前田を庇護したのには理由がある。当たりさわりのない表現で作品をそつなく出品する中堅画家たちに、長老たちが帝展のゆく末を危惧し、画家たちはもちろん美術ファンの帝展離れに危機感を抱いていたからだといわれている。
 ファンの多かった中村彝Click!は、すでに前年1924年(大正13)12月に没し、美術界における帝展の存在感はますます希薄化しつつあった。それは、二科展や春陽会展へ画家たちが作品を寄せる応募点数Click!と、帝展のそれとを比較しても歴然としていた。帝展の空洞化とジリ貧状態は、誰の目にも明らかになっていた。だから、久しぶりに現れた才能のある前田寛治に注目し、長老たちは積極的に彼を庇護した…というのが今日的な見方だ。前田は、1930年(昭和5)4月に天沼で死去するまで帝展に出品しつづけている。
 翌1926年(大正15)1月、前田寛治は二科の友人だった田口省吾Click!の口ききで片岡宅の近く、長崎村1838番地へ家を借りて転居している。また、近所には田口が住み、パリでいっしょだった下落合661番地の佐伯祐三アトリエClick!や、美校で同級生の深沢省三Click!宅にも近かった。でも、前田はこの家にわずか2ヶ月しか住んでいない。同年3月には、同借家のすぐ近くの長崎村1841番地へと引っ越した。このころから、前田は本郷区湯島4丁目20番地にあった「湯島自由画室」を訪ねるようになる。
 「湯島自由画室」は、沼沢忠雄が日本画家用に建てたアトリエだったが、すぐに洋画自由研究所へと衣替えし多くの画家たちを集めていた。前田と沼沢はパリで知り合っており、それが縁で訪ねたのだろう。同画室に出入りした画家には、伊藤廉Click!木下孝則Click!鈴木千久馬Click!野口彌太郎Click!林重義Click!林武Click!などの顔が見える。
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 長崎村1841番地の借家は、わずか1ヶ月という短さだった。同年4月、次に借りたのが落合町下落合4丁目1560番地だった。ここで少し落ち着いたのか、前田はこの家から同年5月に開催された1930年協会第1回展(5月15日~24日)へ、滞欧作を中心に40点の作品を出品している。里見勝蔵も京都から東京へ出てきて、1977年(昭和52)に出版された瀧悌三『前田寛治』(日動出版)によれば、「佐伯の家あたりに泊っていたようだ」としている。この里見の滞在先は、美校の恩師だった下落合630番地の森田亀之助邸Click!か、ないしは森田邸の隣りにあった同地番の借家、すなわち佐伯祐三の『下落合風景』Click!の1作「森たさんのトナリ」Click!だった可能性が高い。
 このころ前田寛治は、大塩千代子ともうひとりの女弟子を2人とり、下落合4丁目1560番地の家で教授している。前田の女弟子は、1930年協会第1回展の打ち上げパーティで「船頭可愛や」を唄ったという逸話が残っている。ちなみに、当時の下落合には1932年(昭和7)に淀橋区が成立するまで、公式記録には「丁目」は存在しないことになっているが、落合町が成立する1924年(大正13)から地元の地図には丁目がふられているのを確認できる。また、前田寛治も1930年協会第1回展の資料に「下落合四-一五六〇」Click!と自ら記載しているので、当時の下落合の住民が住所表記に「丁目」を用いていたのは明らかだ。大正末から昭和初期にかけての、地元の地図や資料類から下落合1丁目~4丁目までが、すでに存在していたことがわかる。
 しかし、下落合4丁目1560番地の家も4ヶ月しか住まなかった。1926年(大正15)8月になると、前田寛治は湯島4丁目20番地の「湯島自由画室」へ転居し、そこを「前田写実研究部」としてオープンしている。所有者だった沼沢忠雄には、以前から相談して話がまとまっていたらしい。そのときの様子を、前掲の瀧悌三『前田寛治』から引用しよう。
  
 そこは木造平屋。湯島五丁目市電停留所から北へ一丁半の所に在る。入口に「湯島自由画室」の縦書きの標札が下がる。押せば左右に開く扉があり、通ってすぐ傍が石膏像並べたクロッキー、デッサン室、なお真っ直ぐ行って突き当りが広い板敷きの、窓を大きく取ったアトリエ、画架を並べ、裸体のモデルを置いて彩筆を揮う油絵実技用の大部屋である。このアトリエに板戸の仕切りで接し、一段高い位置に和室八畳間がある。寛治が寝泊りしたのはその和室だ。
  
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 だが、ここに住むのも2ヶ月ときわめて短い期間だった。前田寛治は同年10月、再び下落合へともどってくる。今度は、下落合661番地すなわち佐伯祐三宅に寄宿して仕事をつづけている。この時点で、下落合661番地の佐伯祐三と前田寛治、100mほど東に寄った下落合630番地に拠点をかまえようとしていた里見勝蔵の3人が、密接に集合することになる。ちなみに、佐伯アトリエから南南西600mのところには、1930年協会のブレーンだった外山卯三郎Click!が、下落合1147番地の実家にアトリエをかまえていた。
 前田寛治が佐伯の家に寄宿していたこの間、佐伯アトリエを頻繁に訪ねていた曾宮一念Click!は、前田とも顔なじみになったと思われる。また、前田が佐伯アトリエに滞在した期間というのは、まさに佐伯が『下落合風景』シリーズをスタートさせたばかりの時期と重なっている。前田は、同年10月から12月までの約2ヶ月間を佐伯邸ですごしているので、佐伯の仕事を傍らでじっくり観察していただろう。佐伯祐三から、連作『下落合風景』に取り組む制作意図もつれづれ聞いていたにちがいなく、前田の早逝で下落合の佐伯について、多くの証言が語られずじまいだったのが残念だ。
 1926年(大正15)12月、前田寛治は佐伯邸から長崎町大和田1942番地に引っ越している。その家の表札には、「前田寛治」とともに「福本和夫」の名前が架けられているのを、同家を訪問した1930年協会の木下謙義が確認している。同じ鳥取出身の福本和夫は、日本共産党で少数のインテリゲンチャによる前衛党の確立を掲げた福本イズムの中心人物であり、前田とは留学先のパリで親しくなっていた。福本は同家に住んではいないので、連絡先またはアジトのひとつに前田宅を利用していたのだろう。この時期、共産党の内部では福本イズムが席巻した時代だった。
 前田は、再び長崎地域へともどったわけだが、12月中旬には同郷で縁つづきの杉山あい子と鳥取で結婚式を挙げている。新婚夫婦の新居ともなった長崎町大和田1942番地の家には、このあと1928年(昭和3)7月に杉並町天沼287番地へ引っ越すまで、めずらしく1年半にわたって住みつづけている。長崎から天沼への転居は、同年に共産党員が一斉検挙された「3・15事件」に関連し、高田警察署(現・目白警察署)で福本和夫のゆくえを特高警察Click!から執拗に詰問され、さんざん拷問をうけた直後のことだ。福本は「3・15事件」の直後、長崎の前田宅へ数日にわたり潜伏していたといわれている。前田は結婚してから二度、特高警察に検束されている。
 余談だけれど、前田寛治とあき子夫人が暮らした長崎町大和田1942番地の家は、翌1929年(昭和4)に丸の内の三菱赤レンガビル街にあった仲通14号-3のビルディング半地下Click!から移転し、長崎町大和田1983番地にオープンする造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所Click!)から、わずか東へ150mほどしか離れていない。前田が利用した銭湯も、同研究所に隣接した長崎町大和田1982番地の「日ノ出湯」だったにちがいない。ちなみに、前田寛治が乗降していた最寄り駅は、いずれの住居でも山手線・目白駅Click!だったと思われるが、ときに武蔵野鉄道Click!の開業したてだった椎名町駅も利用したかもしれない。西武電鉄Click!は1927年(昭和2)からの営業で、しかも下落合駅Click!は現在の位置より300m東にあり、どの住居からも利用しづらかったろう。
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 1928年(昭和3)7月、前田が杉並町天沼287番地に設立した「前田写実研究所」の建物は、湯島にあった「湯島自由画室」のアトリエ建築を移築したものであることが、瀧悌三の前掲書で指摘されている。湯島の画室写真が今日まで伝わっているとすれば、それが天沼287番地に建っていた「前田写実研究所」の姿と二重写しになるのだろう。

◆写真上:前田寛治が住んでいた、旧・下落合4丁目1560番地界隈の様子。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「長崎町東部事情明細図」にみる前田寛治の旧居跡。下左は、1925年(大正14)にフランスで制作された前田寛治『ムードンの丘』。下右は、1926年(大正15)に撮影された1930年協会結成時の前田寛治。
◆写真中下は、長崎および下落合における前田寛治の転居ルート。は、1926年(大正15)の秋から冬にかけて滞在した下落合661番地の佐伯祐三邸(解体前)。
◆写真下上左は、1926年(大正15)作成の「長崎町東部事情明細図」にみる長崎町大和田1942番地。上右は、同番地の現状(道路左手)。は、1928年(昭和3)3月19日に小島善太郎Click!から前田寛治へ宛てたハガキ。「長谷川利行君が金に困りぬいてゐる」ではじまる文面は、前田寛治から長谷川利行Click!へ25円を立て替えて送ってくれるよう依願している。(八王子美術館の2013年「前田寛治と小島善太郎」展図録より)

下落合にいちばん近い芭蕉の句は?

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 明治維新のあと、神田上水Click!淀橋浄水場Click!の本格稼働ののち、そのまま1901年(明治34)まで東京市の水道(すいど)Click!として機能しつづけられたのは、町年寄によるこまめな改修(メンテナンス)によるところが大きい。特に、上水の分岐点である目白下大堰(大洗堰)Click!の手前から、開渠のまま小日向を通って水戸徳川家の上屋敷内を抜け、外濠の大渡樋Click!(水道橋)から千代田城内へと入るまでの区間は、取水口から城内までの重要ルートだったので、改修工事が積極的に行われた。
 1672年(寛文12)からはじまる補修工事は大がかりなもので、江戸期から椿の名所として知られた椿山(つばきやま)の南、目白下(関口)の大堰大改修にはじまり、1680年(延宝8)の金杉村(現・春日1~2丁目界隈)における水道岸の石垣護岸工事、および下水道の設置工事で終了している。水道の改修工事が行われると、水銀(水道料金)が加算されるので町方にはイヤがられたのだが、毎日の飲み水のことなので文句のもっていき場がなかった。この8年間には、改修工事に関する町年寄による6件の「町触(まちぶれ)」が出されている。たとえば、1678年(延宝6)4月3日に出された「町触」は、小日向村の先の金杉村を流れる神田上水の改修を告知するものだ。「神田川芭蕉の会」から出版された、大松騏一『神田上水工事と松尾芭蕉』(2003年)掲載の「東京市史稿」から孫引用してみよう。
  
 明後五日に神田上水の水上、石垣の丁場相渡し候間、その町々の名主月行事衆、かけやくい木もたせ、早天より水上金杉村まで遣わさるべく候。ただし、杭木は北山三寸角□心地にいたし、持参申さるべく候。もっとも印判持参申さるべく候。もし雨降り候わば、次々の日罷りでるべく候。油断有る間敷く候。 以上
  
 町年寄から工事関係者へ、かなり詳細な指示書が出されていたのがわかる。これらの水道工事は、幕府が直接実施するものではなく、また水道支配である町奉行所が監督するものでもなく、水道を月番で委託管理していた3名の町年寄たちが合議のうえで進めていた自治事業だ。すなわち、日本橋の常磐橋御門に近い奈良屋市右衛門、日本橋駿河町に近い樽屋藤右衛門、そして日本橋小田原町に近い喜多村彦右衛門の3人だった。
 なぜ、改修工事が頻繁に必要だったかといえば、設備の保全や老朽化対策というよりも、むしろ江戸の(城)下町Click!における水道需要の増大、つまり人口の増加にともなう水道供給量の大容量化が、江戸期を通じて大きな課題となっていたからだ。江戸期に作られた万年石樋や船大工の技法を用いた水道木樋は、明治以降に敷設された金属の水道管よりも堅牢で、漏水率(水道管の傷みで地中に逃げる水量率)が少なく耐用年数もかなり長い。
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 寛文から延宝期にかけ、足かけ8年間にわたる補修工事だったが、この期間中の4年間にわたり、武家を事実上やめて伊賀から江戸へとやってきた松尾甚七郎は、いずれかの工事に関わっていたという記録が数多く残っている。松尾甚七郎が日本橋小田原町に住み着いたのは、1672年(寛文12)のこと。のちの松尾桃青、さらに深川の松尾芭蕉だ。当時の甚七郎は1662年(寛文2)、つまり江戸へくる10年も前に伊賀藤堂家を辞して、武家をやめ俳諧の道へ進もうとしていたので、江戸にきたときは「浪人」ではなく、「町人」(風流人)に近いスタンスだったろう。
 ところが、俳諧のみでは生活ができず、なんらかの仕事をして生活(たつき)の糧を稼がなければならなかったと思われる。そこで、神田上水の改修工事のことを聞きおよび、直接町年寄を訪ねたか、あるいは誰か口入屋の紹介があったのかは不明だが、上水改修の現場差配(プロジェクトの現場ディレクターのような仕事)のひとりを引き受けたのではないか…というのが、芭蕉が参加した上水改修の今日的な解釈のようだ。
 さて、甚七郎は現場差配なので日本橋小田原町へ住むわけにはいかず、当然、工事現場の近くで起居しなければならなかった。そこで滞在したのが、椿山の目白不動Click!や目白下大洗堰も近い安楽寺(のち一部が龍隠庵=芭蕉庵)ではなかったかというのが、前掲書の推理だ。安楽寺(洞雲寺持ち)は、延宝年間にはすでに衰退していたとみられ、工事関係者の宿泊施設としては空き家同前、もってこいの場所だったのだろう。境内は広く、椿山の一部から関口芭蕉庵、そして現在の水神社(すいじんしゃ)までが含まれていた。
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 目白下(関口)の大洗堰から、元吉祥寺町(現・水道橋)の外濠にかかる大渡樋まで、一連の改修工事がすべて終了したのは1680年(延宝8)7月のことだった。7月24日付けの「町触」が残っているので、前掲書の「東京市史稿」から孫引きしてみよう。
  
 元吉祥寺前の上水樋普請、入目割付罷りなり候間、神田上水を取り候町々の間数、名主屋敷とも、同諸役仕らず候拝領屋敷の間数も委細に書き付け、名主月行事の印判いたすべし。今日より二三日中、勝手次第に樽屋所へ持参申すべく候。 以上
  
 これは、改修工事がすべて結了したあと、普請にかかった費用を水道使用者が個々分担する際に出された「町触」だ。また、水銀(水道料金)の改訂にともなう最新の間口調査も兼ねていたと思われる。当時の水道代は、水の使用量ではなく(使用量など測定できないので)、間口の広さに応じて料金が決められていた。ただし、間口による換算は町人の場合で、武家の場合は禄高を基準に水道料金が決められている。
 そして、1680年(延宝8)の7月、まさに松尾甚七郎は目白下の庵を離れ、深川に転居して宗匠立机(そうしょうりっき/俳諧の宗匠になること)をしている。この経緯からすると、甚七郎は8年間の改修工事のうちの後半、すなわち1677年(延宝5)あたりから1680年(延宝8)までの4年間を、目白下の安楽寺で起居しながら工事の差配をしていたのだろう。
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 芭蕉の句に、ちょうど神田上水の普請が終わった年、早々に詠じられた句がある。この作は、蕉風確立のさきがけとなったと位置づけられることの多い、有名な句だ。
  枯枝に烏のとまりたるや秋の暮
 上水改修が結了した7月下旬は、新暦では8月末から9月初頭にかけての時候だ。もちろん、枯れ枝には早い時節だが、芭蕉は深川で立机する際、日々椿山を見上げながら目白下で目にした光景をどこかでイメージしつつ、句に詠じたとしてもなんら不思議ではない。

◆写真上:神田川沿いから、塀沿いにのぞく関口芭蕉庵(龍隠庵跡)の風情。
◆写真中上:敷地内の斜面にある芭蕉庵と、バッケからの湧水でできた池のある庭。
◆写真中下は、明治中期の椿山(山県有朋別荘)で護国寺参道をはさんだ東側の音羽バッケから撮影されたと思われる。(学習院蔵) は、芭蕉庵とその全景で手前には神田上水(現・神田川)が流れる。
◆写真下上左は、水神社で松尾甚七郎(芭蕉)も工事の無事を願ったと思われる。上右は、上総から奉納された庚申塚。椿山(現・椿山荘)から大洗堰、芭蕉庵、水神社にかけては江戸名所だったので各地から遊山客が訪れていた。は、黒田小学校Click!跡から出土した神田上水の開渠遺構Click!。芭蕉も、このあたりの護岸改修に関わたのかもしれない。


泣いてたまるかの八島太郎(岩松淳)。

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 鹿児島の八島太郎展実行委員長の山田みほ子様より、八島太郎(岩松淳)Click!の貴重な資料類をお送りいただいたので、その一部をご紹介しながら、彼の遺した作品類を改めてご紹介したい。現在、八島太郎の作品群は、鹿児島での保存あるいは記念館設立へ向けた活動を展開する中で、何点かが山田様の手もとに保管されている。ただし、山田様が身体を壊されて加療中のため、活動がなかなか進捗していないのが現状のようだ。
 上戸塚593番地(のち戸塚町4丁目593番地)にあった佐多稲子Click!宅の近くに住み、下落合を縦断して長崎町大和田1983番地にあった造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所Click!)へと通っていた、おそらく日本初のマンガ講師・八島太郎(岩松淳)は、日本プロレタリア美術家同盟へと参加する以前、あるいは米国へと実質的に亡命したあとには、どのような作品を残しているのだろうか。
 1925年(大正14)の中学生のとき、八島は鹿児島で谷口午二が主宰していた画塾「金羊会」に通っている。東京美術学校を受験するにあたり、谷口から紹介されたのは美校で教えていた同郷の藤島武二Click!だ。明治から大正期にかけ東京美術学校は、明治政府の息がかかった薩摩閥が主流になっており、黒田清輝をはじめ藤島武二、和田英作などいずれも鹿児島出身者が指導していた時代だ。八島太郎は1927年(昭和2)、美校の西洋学科へ入学している。鹿児島の谷口午二はもちろん、当時の美校の教師たちもいわゆるアカデミックなフランス印象派の表現を踏襲していた。このころの八島作品は、印象派の流れをくむオーソドックスな画面が多かった。
 八島太郎は、そんな美校のアカデミズムに沈滞感を嗅ぎとったのだろう、実技以外の授業にはあまり出席せず、校庭でよくサッカーをしている姿を目撃されている。変化が起きるきっかけは、八島が美校へ入学したのと同年、1927年(昭和2)に開かれた「新ロシア美術展」を観にいってからだ。造形美術家協会の矢部友衛が中心となり、東京朝日新聞社の展示フロアで開催にこぎつけたもので、八島は「新リアリズム運動」を目の当たりにする。彼が、造形美術家協会の研究所を訪問したのは間もなくのことだった。
 造形美術研究所からプロレタリア美術研究所の時代、八島の作品は『広場へ』(1930年)に象徴的なように、新リアリズム運動のいわゆる「社会主義リアリズム」Click!に支配された、美術が思想に隷属する(当時の常套表現でいえば「芸術は民衆に属す」)ような、面白くない作品を描いている。もともとユーモアのセンスが抜群で、マンガを描かせたらピカイチだった八島の性格では、共産主義に思想的には共鳴できたとしても、おそらく自身には合わない表現法ではなかっただろうか。また、彼は思想宣伝よりも反戦をテーマにした作品を多く残しており、「戦争」に対する憎悪が彼の画因の多くを占めていたのかもしれない。
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田舎の風景1926.jpg
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広場へ1930.jpg

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蟹工船1934.jpg
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石切場1936.jpg

 八島は特高警察Click!に10回検挙され、すさまじい拷問を受けた。この間、特高に虐殺された小林多喜二Click!デスマスクClick!も写生したりしている。特に、妊娠中の妻・新井光子と同時に逮捕され、1933年(昭和8)6月から翌年の2月まで、8ヶ月間拘留された最後の逮捕拘留は骨身にこたえただろう。勾留で妻が流産しないかを気づかったため、夫妻は特高からよけい執拗な拷問を受けている。1939年(昭和14)3月、ふたりは無事に生まれた息子の岩松信(のちのマコ岩松)を実家に残したまま、横浜から米国へ向けて出発している。外務次官だった澤田美喜Click!の夫・澤田廉三がビザを発行したためか、あるいは東京美術学校の関係者がなんらかの手をまわしたせいか、特高はふたりの渡米を直接的には妨害していない。
 渡米してから以降、八島太郎の活躍はめざましい。その活動は、反戦を強くアピールした日米戦争中の『あたらしい太陽』(1943年)からスタートしている。タブローも多く残しているが、特に絵本の分野では世界的に知られ、各国語に翻訳されて広く普及した。現在でも、全米各地の美術館、図書館、公共施設には彼の作品が収蔵されている。マンガや絵本を得意とした八島太郎らしく、タブローはどこか物語のワンシーンを切り取ったような画面が多い。鑑賞者が、その前後の物語を自由に想像して組み立てられるような、表現やモチーフを好んで選んでいるように見える。画面に静物を描いても、どこか静的ではなく時間軸を感じさせる、動的な画面に仕上げているのが面白い。
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真珠湾の夜1941.jpg
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 少し横道へそれるが、八島が渡米してから数年後、おそらく1941年(昭和16)12月に日本軍がハワイの真珠湾Click!を攻撃した直後に描かれたとみられる『Pearl Harbor Nights(真珠湾の夜)』という作品があるが、ほぼ同時期に『Naite tamaruka(泣いてたまるか)』という素描が残されている。八島自身が、旅行用の小型バッグをかたわらに置いて、目をつぶりながら腕組みをしている画面だ。これは、自身が日本を出発するときか、あるいは貨客船で米国に到着したときの情景なのかもしれない。
 かわいい盛りの息子・岩松信(マコ岩松)を、妻の実家があった神戸に残したまま、日本を離れざるをえなかった悔しさを表現したものか、あるいは勝ち目のない無謀な戦争へ突入してしまった、故国が破滅へ向けて突き進むのが米国からよく見えたせいなのか、その表現経緯が明らかではないが、「泣いてたまるか」という語彙は戦後、日本のTVドラマに登場している。同ドラマを撮影中と思われる渥美清と、スタジオでいっしょのマコ岩松の写真が残されており、1967年(昭和42)に同ドラマへマコ岩松自身も出演している。また、1995年(平成7)に開催された「八島太郎展」に、同ドラマを手がけた山田洋次や橋田壽賀子が賛辞を寄せているところをみると、ドラマ『泣いてたまるか』というタイトルには、どこか八島太郎と深くつながる物語が眠っていそうだ。
 1963年(昭和38)、日本でもようやく「八島太郎画会」が鹿児島を中心に発足している。賛助会員には、知事や市長、官僚、会社社長、銀行家、弁護士、医師などそうそうたるメンバーが並んでいるのだが、その中に検察庁や自衛隊の幹部の名前までが並んでいる。八島太郎はそれを見て、ようやく大日本帝国は滅亡し「あたらしい太陽」が昇った日本を実感しただろうか? それとも、眼鏡の奥に光る目を細め、口の端をゆがめて皮肉な笑いを浮かべていたのだろうか?
 1970年(昭和45)に小田急で開かれた「八島太郎展」の際、八島太郎・マコ岩松親子を中心に「八島親子を励ます会」のメンバーとともに撮影された記念写真には、映画関係者が数多く写っているのがめずらしい。東宝の藤本真澄や川喜田かしこ、篠田正浩、岩下志麻らの顔が見え、映画関係者と深いつながりがあったことを感じさせる。プロレタリア美術研究所では、黒澤明Click!とも顔見知りだったと思われるが、黒澤は同会に姿を見せていない。
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八島太郎展図録1995.jpg
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八島親子を励ます会1970.jpg

 マコ岩松は、2006年(平成18)に米国で死去しているが、山田みほ子様は彼といっしょに上戸塚の旧居跡から下落合を抜け、プロレタリア美術研究所があった長崎町大和田を歩いてみたかったと惜しまれている。同年、わたしはすでにこのサイトを起ち上げて2年が経過しており、もっと早くに八島太郎の軌跡を調べていれば…と、やはり残念でならない。ちなみに、マコ岩松が晩年に出演した1作が『パールハーバー』(2001年)の山本五十六Click!役だったのには、なんとも皮肉なめぐりあわせを感じてしまうのだ。
 ところで、八島太郎(岩松淳)は1935年(昭和10)に、紀伊国屋書店の2階展示室Click!で個展を開いているのだけれど、そのときの住居が上落合であることが判明した。やはり、落合地域にいたわけなのだが、それはまた、別の物語…。

◆写真上:「八島親子を励ます会」で、柴笛を吹く八島太郎(岩松淳)。右側に座っているのがマコ岩松(岩松信)で、左手で歌っているのが山田みほ子様。
◆写真中上上左は、1926年(大正15)制作の岩松淳(八島太郎)『田舎の風景』。上右は、1930年(昭和5)の岩松淳『広場へ』。下左は、1934年(昭和9)に描かれた岩松淳『蟹工船』。下右は、1936年(昭和11)に制作された岩松淳『石切場』。
◆写真中下上左は、1941年(昭和16)の岩松淳『真珠湾の夜』。上右は、1940年(昭和15)ごろ制作の岩松淳『泣いてたまるか』。下左は、1960年代の後半とみられる撮影所のマコ岩松(左)と渥美清。下右は、1960年(昭和35)ごろ制作の八島太郎(岩松淳)『冬』。
◆写真下上左は、1995年(平成7)に開催された「八島太郎展」(遺作展)の図録。上右は、米国のサイン会で子どもたちに囲まれる八島太郎。は、1970年(昭和45)に開かれた「八島親子を励ます会」記念写真の中央が八島太郎でがマコ岩松。マコ岩松から、右へ4人目が山田みほ子様。八島太郎から、左へ4人目に岩下志麻が見える。また、岩下志麻の左斜め前のサングラスをかけた男は、若き日の吉本隆明だと思われる。右端の着物姿で立っている女性は、松竹代表の倍賞千恵子だろうか?

落合分水はバッケを流れ落ちた。

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 大江戸(おえど)に敷設された三大上水道のうち、神田上水Click!玉川上水Click!に対して比較的地味なのが千川上水だ。巣鴨や小石川、白山、湯島、上野、浅草方面へ配水するには、神田上水や玉川上水の分水では地形的に無理なので、三大上水のうちでは時代的にやや新しいせいもあるのだろうが、千川上水が江戸の市街地ではなく山手北部や外周域への給水を目的としていたせいで、口の端にのぼる機会が少なかったのかもしれない。また、分水が灌漑用水として多用されていたのも、市街地にはなじみの薄い理由だろう。
 落合地域は、神田上水の本流および支流(妙正寺川)と、千川上水の分水(灌漑用支流)の双方が流れる、大江戸でもめずらしい上水にめぐまれた土地だ。でも、1940年代まで飲料水に水道Click!を用いている家庭は多くなく、武蔵野礫層Click!の清廉で美味しい井戸水を使用するのがふつうで、落合地域の上水は江戸期から飲み水として使われることはなく、その余水は田畑の灌漑用として利用されていた。江戸の市街地から眺めるなら、あちこちから湧き出る清廉な水にはこと欠かない、なんとも贅沢な土地柄ということになる。
 江戸市街地の料亭や料理屋の中には、料理や茶に用いる美味しい水を“売り”にしていた店も存在したが、おそらく市内に張りめぐらされた水道(すいど)管の水ではなく、神田上水の上流域である戸塚や落合の水を運ばせていた店もあったかもしれない。江戸も後期になると、目白下(現・椿山~目白台)や戸塚、落合界隈はホタル狩りClick!の遊山客でにぎわうのだが、美味しい水でいれる茶が目的の風流人もいただろう。戸塚から落合にかけては、そんな遊山客相手の茶店や料理屋があちこちに開業していた。
 1940年(昭和15)に、武蔵高等学校Click!(現・武蔵大学)の民族文化部門に属していた学生たちが、荒廃や下水化が進む千川上水の流域を、たんねんに歩いて記録している。本流の上流域から下流域まではもちろん、各分水の終端にいたるまで実際に歩いては記録していったのだろう。撮影した写真点数も豊富で、当時としてはかなり上質のカメラやフィルムを用いているのがわかる。戦前の武蔵高等学校は、おカネ持ちの子弟が通う学校なので、このような調査の資材や資金には不自由しなかったのだろう。この記録は、今日でいうゼミの担当教授が指導するフィールドワークのような研究成果で、翌1941年(昭和16)4月に小冊子『千川上水』(武蔵高等学校報国団民族文化部門・編)として出版されている。
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落合分水(西落合1丁目).jpg

 千川上水には、おもな分水が7本造成されているが、もっとも規模が大きく長大なのが椎名町や長崎地域を流れる谷端川Click!だ。粟島弁天社Click!の湧水も合流するが、千川上水側からの名称は「長崎村分水」と呼ばれ、南流して武蔵野鉄道Click!を越え「U」の字を描くように再び武蔵野鉄道を越えて北流し、板橋駅前から再び南下して小石川から後楽園をかすめて神田川に注ぐという、全長11kmにおよぶ最長の千川分水だった。1940年(昭和15)現在では、川の規模も縮小され生活用水を排出する、下水と変わらない使われ方をしていた。また、当時から住宅地や道路工事が進み、多くの地点において暗渠化(下水道化)が行われていたのが記録されている。
 さて、千川上水の落合分水だが、以前に牧場の宅地開発としてご紹介していた籾山牧場Click!(旧・椎名町8丁目)の北西部で、千川上水がほぼ直角にまがる箇所がある。千川地蔵が奉られた、その直角の部分から南東へのびているのが落合分水だ。流れは、現在の目白通りに沿って南下するが、角状に突きでた旧・西落合1丁目の途中から真南に向かい、旧・西落合2丁目を南下してやや南西に流れを変えると、やがて城北学園(現・目白学園)のキャンパス沿いに下落合(現・中井2丁目)へと抜け、妙正寺川に合流している。
 この流筋は1935年(昭和10)前後から、すなわち妙正寺川の整流化工事がスタートしてからのちのことで、それ以前は城北学園のバッケ下Click!で妙正寺川に合流せず、そのまま妙正寺川に沿って南下し、西武電鉄の線路をくぐり抜けて、下落合5丁目(現・中井1丁目)にあった稲葉水車Click!あたりで合流していた。
 落合分水について、武蔵高等学校の学生がまとめた『千川上水』から引用してみよう。
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新井地形図1930.jpg
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淀橋区詳細図1935.jpg

  
 落合分水。
 椎名町八丁目の屈曲点から出てゐた分水で、西落合一丁目、二丁目を経て西武線を横切り、同五丁目に於て妙正寺川に入つてゐた。全長二粁三分(2.3km)に及ぶもので、二三年前まで流れてゐたが、落合方面から武蔵高等学校裏に抜け練馬の方に行く新十三間道路(現・目白通り)の工事の結果閉鎖され、屈曲点から約五十米(メートル)道路に沿ふ部分は埋められ、街路樹が植ゑられて美化された(略)。これから約五十米新道路との間は今だ(ママ)に明かにその跡が残つてゐる。その先の新道路に沿ふ五十米の部分は跡形もなく、その先百米程の部分は埋められてゐるが橋が残つてをり、並木も笹も残つて明かにその跡を留めてゐる(略)。その先は東長崎方面からの下水に連結され、下水として使用されてをり、目下盛んに改修工事が営まれ、旧時の俤(おもかげ)は殆ど没し去つて昔からの下水かと思はせる。現在は西落合一丁目の昔の妙正寺川への排水口から四百米上流で妙正寺川に入つてゐる。周囲は人家稠密な住宅地である。途中に猫地蔵(自性院)などもある。(カッコ内引用者註)
  
 この中で、西武線を横切って「(西落合)五丁目」において妙正寺川へ入っている…という記述は、西落合2丁目を南下したあと下落合4丁目(現・中井2丁目)を抜けて西武線をくぐり、下落合5丁目(現・中井1丁目)へと抜け妙正寺川へ合流していた…の誤りだ。西落合にいまも昔も、「5丁目」は存在していない。また、城北学園(現・目白学園)西側に沿った落合分水は、1930年(昭和5)ごろより旧・下落合4丁目の境界内に含まれている。
 『千川上水』(武蔵高等学校報国団民族文化部門・編)がとても貴重なのは、資料や文献に依存せず、きちんと現場へ出かけ実際に目で見て検証するフィールドワークが徹底している点にあるが、もうひとつ掲載されている写真が鮮明で質がよく、また掲載点数も多数にのぼることだろう。1940年(昭和15)現在の街中に展開する、千川上水沿いの風景や街の風情をふんだんに観察することができる。現在の練馬地域はもちろん、分水が流れる長崎(椎名町)地域、落合地域の戦前の様子がとらえられており貴重だ。
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長崎村分水(要町3丁目).jpg

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千川上水(要町3丁目).jpg

 落合分水が城北学園(現・目白学園)の西側にさしかかったとき、目白崖線のバッケ(崖地・急斜面)を流れくだる様子は壮観だったろう。かなりの落差があるので、分水路がバッケを斜めに横切っているとはいえ、相当な急流だったにちがいない。現在の落合分水は、すべてが暗渠化されて実際に目にすることはできないけれど、暗渠の上へ新たに敷設されたコンクリートの道筋に、どこか昔日の清廉な流れの面影を残している。

◆写真上:目白学園の西側を妙正寺川へと流れくだる、暗渠化された落合分水道路。
◆写真中上上左は、旧・椎名町8丁目の籾山牧場跡を流れていた落合分水跡の道路。上右は、旧・西落合1丁目を流れ下っていた落合分水跡の道路。は、1940年(昭和15)に撮影された十三間道路(現・目白通り)の工事が進む西落合あたりの落合分水跡。は、同年に撮影された旧・西落合1丁目の落合分水跡の様子。
◆写真中下は、1935年(昭和10)ごろ城北学園下に設置された落合分水の妙正寺川出口。(戦後の撮影) 画面上に見えている森が、目白学園(旧・城北学園)の丘。中左は、現在の武蔵高等学校。中右は、1940年(昭和15)の同校正門前で千川上水が右手に流れている。写っているバスはダット乗合自動車Click!の後継である東京環状乗合自動車Click!で、目白駅前から桜台の練馬車庫あるいは豊島園まで運行していた。下左は、江古田町の武蔵高等橋あたりを流れる千川上水。下右は、旧・椎名町8丁目にある落合分水への分岐だった千川停留所付近。いずれも、1940年(昭和15)撮影。
◆地図:10,000分の1地形図()と、淀橋区詳細図()にみる落合分水。
◆写真下は、旧・要町3丁目を流れる長崎村分水の分岐路。中左は、旧・長崎6丁目を流れる千川上水。中右は、旧・長崎5丁目を流れる千川上水。このあたりの情景は、戦前の「上原としアルバム」Click!でも戦後の春日部たすく『千川落日』のモチーフでもとらえられている。下左は、旧・千早町4丁目を流れる千川上水で手前の橋は庚申橋。下右は、旧・要町3丁目の釣り堀があった千川上水。いずれも、1940年(昭和15)の撮影。

絵が売れたさかいぎょうさん食うたるで。

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出前リスト192706.jpg

 昨年末、八王子市の夢美術館で開催されていた「前田寛治と小島善太郎―1930年協会の作家たち―」展を観にいった。前田寛治Click!は下落合に住み、また小島善太郎Click!は実家や先祖の墓(のちに落合近隣の寺墓地に改葬)が下落合にあった関係から、未知の「下落合風景」作品がないかどうか気になったのだ。展示されていたのは画集や図録などでおなじみの作品が多く、残念ながらそのような風景画は発見できなかった。でも、そのかわりとびきり面白い、このサイトにはピッタリな資料に出あうことができた。
 1927年(昭和2)6月17日(金)から30日(木)まで2週間にわたり、上野公園の日本美術協会展示場(現・上野の森美術館)で開催された1930年協会Click!第2回展Click!における、展覧会場への“出前リスト”が展示されていたのだ。これは、同展の事務方をつとめた小島善太郎が保存しつづけてきたものだ。小島善太郎は、当時の細かな資料類をのちのちまでたいせつに保存しており、1930年協会や独立美術協会Click!の細かな軌跡を知るにはまたとない貴重な情報源となっている。新宿歴史博物館で開かれた「佐伯祐三―下落合の風景―」展Click!でも、小島家から同協会の資料Click!や、佐伯祐三Click!「化け猫原稿」Click!などを同館でお借りしている。
 さて、この“出前リスト”が面白い。第2回展の会場にきていた1930年協会の全メンバー、すなわち前田寛治Click!木下義謙Click!木下孝則Click!野口彌太郎Click!、小島善太郎、佐伯祐三、里見勝蔵Click!、そして林武Click!が、上野公園周辺の蕎麦屋、洋食屋、うなぎ屋、あるいは仕出し屋へ毎日なにを注文して出前を頼んでいたのかが、2週間分の一覧表になっている…というものだ。こういう資料に迷いなく飛びつくのは、このサイトぐらいのものだろう。なんとなく、八王子夢美術館の学芸員の方から、「なんか書いてよ」と水を向けられたような気もしてくる。
 はい、昭和初期の下谷(上野)周辺ならなんとか、すぐにも調べがつくと思います…ということで、まずはリストの出前先の店舗から分類してみることにした。このリストは展示場に備えつけのものか、あるいは日本美術協会の事務局から借りるかした出前メニューだと思うのだが、小島善太郎は6月17日から30日までの線(縦軸)を引き、上部に画家たちの名前を記載したマス目(横軸)をこしらえ、表の左端に「十二(半)時までに之にかゝぬと注文せぬ 夕は四時まで」と書き添えた。美術展の会場へ出前メニューを預けるぐらいだから、そこそこキャパシティのある飲食店であり、しかも電話を導入できる規模の店でなければならない。
 下谷(現・上野)は江戸中期から、現在の上野駅あたりに岡場所(私娼窟)があり、周辺には蒲焼(うなぎ)や鶏料理(やき鳥屋)などが店を並べていた。江戸期には、同じ甘辛だれを使用するので、うなぎと鶏(かしわ)は同じ料理屋で扱われることが多く、現在でもその名残りをあちこちで見ることができる。リストに見える「うな重(丼)」と「そぼろ丼(重)」とは、当時もいまも老舗が多い下谷区(現・台東区の一部)で営業していた、同一のうなぎ屋の可能性が高い。ちなみに、出前をする場合は丼ではなく、岡もちの重量を減らすために重箱だった可能性のほうが高いのだが、とりあえず東京では丼が多いので「そぼろ丼」としてみた。
 「カレー」と「ハヤシ」は、もちろん洋食屋のメニューだ。上野公園といえば、すぐにも洋食の上野精養軒が思い浮かぶが、1927年(昭和2)の当時、上野精養軒は高級フランス料理店であり「へい、お待ち!」などと、気軽に出前をするような店ではなかった。また、「蕎麦」と「親子丼」は、当時もいまも蕎麦屋のメニューであり、そっけなく書かれたただの「弁当」は、今日の「〇〇弁当」とか「〇〇亭」などと同様、街角にある仕出しが専門の弁当屋だったのかもしれない。東京中央気象台による当日の天候記録も調べ、見やすいように改めて一覧にしたのが下記の表組だ。
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 さて、うなぎ屋Click!からまず探してみよう。展示場に近く、下谷(上野)といえばこの店というような老舗の有名店なら、東京のみなさんはよくご承知の、池之端仲町の川村写真館の並びにあった江戸中期創業の伊豆栄しかないだろう。しかも、伊豆栄は「う」とは関係のない通常の弁当も手がけていて、うなぎ料理はもちろん、弁当は今日でも出前してくれる。したがって、「弁当」が街角の仕出し弁当でなければ、「うなぎ」「そぼろ」「弁当」はいずれも伊豆栄の可能性が高い。明治期より、本郷へと抜ける道沿いにあった同店は、文士たちが途中で立ち寄る昼飯処でもあり、1930年協会の画家たちもそのエピソードは知っていただろう。今日の伊豆栄は、池之端に本店と不忍亭の2店舗が開店しているが、当時から営業していたのはもちろん展示場に近い本店のほうだ。
 次に、洋食屋を考えてみよう。日本美術協会の展示場にいちばん近い、料理が冷めない距離の洋食屋、しかも、そこそこの規模の店をかまえる昭和初期の洋食屋といえば、2店舗ほどが思いつく。下谷町2丁目の上野駅の改札出口前で営業していた、東京へとやってきた宮沢賢治Click!もファンだったらしい大正末創業の須田町食堂上野店(聚楽)と、少し不忍池寄りの日活館の南隣り、元黒門町で開業していた1902年(明治35)創業の黒船亭だ。昭和初期も今日でも営業している両店だが、展示場へ近いのは須田町食堂のほうだ。黒船亭はデミグラソース料理やハヤシライスで有名だが、カレーも出していたようだ。でも、高級志向の黒船亭に比べ、須田町食堂上野店(聚楽)のほうが大衆的で価格もリーズナブルだったろう。上野駅前にあり展示場へも150mと近いことから、画家たちに洋食をとどけていたのは現・聚楽のほうではないだろうか。
 さて、難しいのが蕎麦屋なのだが、上野で有名な老舗の蕎麦屋といえば、数寄屋町5番地に開店していた1850年(安政6)創業の蓮玉庵がある。ちょうど、池之端にある伊豆栄の真裏にあたるのが数寄屋町だ。でも、江戸東京は昔から蕎麦屋Click!だらけなので、画家たちが蓮玉庵へ注文していたかどうかは不明だ。いまでこそ、蓮玉庵は上野界隈の“定番”といわれているが、1927年(昭和2)当時には、昔ながらの蕎麦屋が何軒も震災で廃業せずに残っていただろう。香ばしい蕎麦料理は、のびてしまえば価値がなく台無しなので、展示場に直近の蕎麦屋へ出前を頼んでいた可能性がある。しかも、蕎麦の味にはうるさかったと思われる東京の木下兄弟や野口彌太郎、蕎麦どころ山陰(鳥取)の前田寛治が注文しているのだから、そのあたりの感覚はよくわかっていただろう。また、不在がちな小島善太郎は別にして、近畿地方でうどん文化圏の佐伯祐三と里見勝蔵が、蕎麦屋の出汁の風味になじめないのか、一度も注文していないのが面白い。
 小島善太郎は、開催期間を通じて会場から出前をあまり注文していない。これは、事務方をつとめているため雑事や交渉ごとが多く、いろいろと多忙だったせいもあるのだろうが、高価な出前をとるのをできるだけ避け、弁当か握り飯を持参していた可能性もある。8人の画家たちの中で、おそらくおカネにもっとも不自由していたのが小島善太郎と林武で、ほかの画家たちのように実家が比較的裕福な家庭環境とは、生まれも育ちも異なっていた。それでも6月19日(日)に、1930年協会のメンバーが会場へ集合した日には、全員が出前を注文し、しかもうな重を中心に奮発した昼食をとっている。この日は、ちょっと贅沢をして伊豆栄の出前で統一したものだろうか。
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 蕎麦に「1.5」と書いてあるのは、ざるの「大盛り」だと思われるが、それでも足りないのかカレーライスやハヤシライスを同時に注文している画家がいる。また、カレーライスと弁当の同時注文も多い。料理屋では出前をするぶん、配達コストと重量の軽減を考えて盛りをやや少なめにしていたのかもしれない。あるいは、昼と夕との注文ちがいだろうか。画家の中には、たとえば6月27日(月)の木下孝則と佐伯祐三のように、出前を3人前注文している日がある。これは、この日が特に空腹だったせいではなく、前日26日(日)に雨がやみ、上野公園への人出が多く来場者がたくさんいて、会場の絵が何点か売れたのだ。翌日、「あのな~、うな重に弁当にカレーを頼んどいてや~、ウハウハ食うで~」と、木下孝則とともに喜ぶ佐伯の顔が目に浮かぶようだ。
 その佐伯祐三は6月22日(水)、梅雨空が久しぶりに晴れた日の午前中、一度カレーと弁当を注文したにもかかわらず、あとでそれを取り消している。おそらく、久しぶりの晴れ間で外出した米子夫人Click!が、会場へ姿を見せたのではないか。「オンちゃんが来たさかい、わし、きょうは外でメシ食うわ」と、一度書いたメニューを塗りつぶしたのかもしれない。また、メニューが記載されていない日に、画家たちは会場にいなかった…とは限らない。上野公園の周囲は飲食店だらけであり、画家たちは連れ立って食事をしに外出している可能性のほうが高い。東京美術学校出身の画家たちにとって、上野は学生時代の“庭”みたいなものだったろう。
 2週間の会期を通じ、展覧会場に貼りついて来場者を接待し、比較的ちゃんと番をしていた画家は、少なくとも10日間通いつづけた前田寛治と木下孝則・義謙兄弟、9日間も会場にいた野口彌太郎の4人だ。ほかの画家たちは、会場を出たり入ったりしていたのか、あるいは会場へそもそも出てこないで、梅雨の晴れ間にどこかへいってしまったのだろう。会期も終盤に近い6月29日(水)などは、「ほな、林くん、あと頼んだで~」と、林武を除いて全員がどこかへ出てしまったのだろうか。あるいは、翌日が“千秋楽”なので、早くも近くで打ち上げでもやっているのだろうか。「ボ、ボクだけ、なんでお留守番…?」という、気が弱い林武のぼやきが聞こえてきそうだ。翌30日(木)の最終日は、おそらく全員が慰労会をかねた食事会に出ているのだろう。
 その林武が6月24日(金)に、めずらしく蕎麦屋へ親子丼を2つも注文している。きっと前日に絵が売れて、少し気が大きくなったのだろう。この出前リストは、当時の画家たちの“ふところ具合”まで透けて見えるようで、いつまで見ていても飽きない。おそらく、昼食にいちばんおカネをつかったのは、うな重を蒲焼屋へ5つも注文して食べた、前田寛治と木下孝則のふたりなのだろう。
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 余談だが、上戸塚(現・高田馬場4丁目)にも伊豆栄が開店している。1924年(大正13)の創業と、夏目漱石が通った1877年(明治10)創業の早稲田・すず金ほどではないが、新乃手では老舗の部類に属する店だ。おそらく、下谷の伊豆栄から大正期に暖簾分けしているのだろう。

◆写真上:1927年(昭和2)6月17日~30日に、上野公園の日本美術協会展示場で開かれた1930年協会第2回展で、画家たちが注文した料理の出前リスト。
◆写真中上は、同リストに曜日や天候を加え改めて清書したもの。は、日本美術協会展示場跡の現状(現・上野の森美術館)。下左は、戦前に撮影された黒猫亭。下右は、建て替えられる前の伊豆栄の旧館だが、空襲で焼けているため戦後に建てられた店舗。
◆写真中下は、池之端仲町にある伊豆栄本店()とうな丼()。は、元黒門町にある黒船亭()と下谷町の聚楽()。は、数寄屋町にある蓮玉庵()とざる蕎麦()。乃手らしく蕎麦の量は少なめで、「1.5」はおろか最低でも3枚は食べないと空腹はおさまらないだろう。
◆写真下:1930年協会の画家たちが目にしていた、当時の下谷に建っていた建築群。上左から下右へかけて順番に、東京科学博物館別館(現在の新館は1930年竣工)と松坂屋、下谷郵便局と古澤ビルディング、宮崎ビルディングと東京市設下谷市場など。

加藤道夫と中島丈博の『襤褸と宝石』。

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 かなり前に、佐伯祐三Click!米子夫人Click!を主人公にしたNHKドラマ、中島丈博脚本の『襤褸と宝石』Click!(1980年9月8日放送)をご紹介した。現時点から見れば、佐伯祐三をめぐる物語の設定や展開にやや古さを感じさせるシナリオなのだが、作者がなぜ『襤褸と宝石』というタイトルをつけたのかが、いまだ釈然としない。襤褸(らんろう)=ボロの意味だが、いつもボロボロで汚らしい格好をしていた佐伯が、いざタブローを手がけると宝石のように美しい作品を産みだした…という意味合いなのだろうか。
 『襤褸と宝石』といえば、加藤道夫がシナリオを書き千田是也Click!が演出した、おそらく俳優座の舞台のほうが演劇界では広く知られているだろう。1952年(昭和27)の同作は、主人公の片桐民夫役を高橋昌也が初演した舞台としても有名で、ヒロインの澤本百合子役は知らないが御舟京子(滝浪治子)だったものだろうか。物語は、大川(隅田川)沿いのキャバレーやストリップ小屋、ダンスホール、小劇場が軒を並べる歓楽街と、川を挟んだ対岸にある「バタ屋部落」が舞台として描かれている。歓楽街の経営者が、対岸の「バタ屋部落」の土地を利用して、さらに大きな歓楽街を建設しようともくろむことから、部落に棲みついた人々との間で対立が先鋭化していく…という筋立てだ。
 「バタ屋」といっても、いまの若い子にはピンとこないかもしれないが、街中のゴミやクズを拾い集めては転売してわずかなカネを稼いだり、飲食店から出る残飯を集めては飢えをしのいでいた人々のことで、戦争で焼け野原になった1952年(昭和27)の東京には、生活再建のめどが立たない人たちが、戦後7年たったとはいえいまだ大勢いた。片桐民夫(高橋昌也)は、歓楽街の拡張による強制立ち退きに反対している、そんな「バタ屋部落」に棲みついた少し学のある部落代表であり、歓楽街でキャバレーの踊り子をしている空襲で記憶喪失の澤本百合子は、片桐民夫が忘れられない昔の恋人だった…という設定だ。
 戦争の惨禍を色濃くひきずったストーリーなのだが、「バタ屋部落」の住人である片桐民夫と、パトロンの会社社長から宝石を贈られて着飾ったダンサーの澤本百合子との対比が、そのまま『襤褸と宝石』というタイトルへストレートに反映しているのは容易に理解できる。片桐の出現で、百合子は記憶を取りもどしかけるのだが、最後には社長が雇った暴力団員に片桐が刺殺されてしまい、百合子は混乱の中で再び記憶を喪っていく…という悲劇的な終幕を迎える。戦後の混乱期、カネがすべての退嬰的で刹那的、即物的なモノの考え方が幅をきかせ、忘れてはならない人間にとっての普遍的な価値や思想、感覚などが殺されていく…ともとれる、加藤道夫のメタファーなのだろう。
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 ちなみに、『襤褸と宝石』というタイトルは、1936年(昭和11)に米国で製作された映画の邦題でもあるのだが、加藤道夫はおそらく同作を映画館で観て記憶に残っていたのだろう。この映画も、富豪の娘と浮浪者の男が織りなす物語であり、こちらは悲劇ではなくパロディ的な喜劇だ。題名と、展開するストーリーにも乖離感はない。
 さて、佐伯夫妻を描いた中島丈博の『襤褸と宝石』だが、シナリオを何度か読み返してみても、また1980年(昭和55)に発行された『ドラマ』10月号(映人社)に掲載された、中島本人の文章を読みなおしてみても、ついにタイトルの意味を理解することができなかった。考えられるとすれば、『襤褸と宝石』という題名の響きや表現自体を中島が忘れがたく気に入っており、いつか自身の作品へ使ってやろう…と考えていたのではないかということだ。あるいは、若くして死んだ加藤道夫に対する、中島のオマージュタイトルなのかもしれない。中島が意識していたのは、戦前の米国映画につけられた邦題ではなく、もちろん同じ脚本家である加藤道夫が書いたシナリオ『襤褸と宝石』のほうだろう。
 加藤道夫一家が、世田谷区若林町の北原白秋Click!がいた西洋館に転居して住んでいたのは知られているが、慶應大学に進むころから演劇に興味をもち、芥川比呂志や岸田国士Click!、中村眞一郎、堀田善衛、西脇順三郎らと知り合っている。1944年(昭和19)に代表作『なよたけ』(かぐや姫)を脱稿した直後に、フィリピンから東部ニューギニアへと陸軍省通訳官として徴用され、マラリアと栄養失調で死に直面することになる。戦後は、しばらく連合軍の通訳を現地でつとめたあと、1946年(昭和21)の夏に復員している。
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 帰国後の活躍はめざましく、シナリオ作品や演劇論文、演劇評、戯曲翻訳などを次々と発表している。『襤褸と宝石』は、1952年(昭和27)10月に文部省芸術祭委嘱作品として創作され、同年に俳優座の高橋昌也らにより三越劇場で初演された。また、加藤道夫は帰国早々に、林達夫が主宰する鵠沼アカデミー(湘南アカデミー)へと参加し、芥川比呂志や御舟京子(滝浪治子)らとともにチェーホフの『熊』Click!を上演している。御舟京子とは戦前から知り合っていたらしく、加藤はこのあと彼女と結婚している。
 御舟京子(結婚してから加藤治子)は、そのときの様子を1992年(平成4)に出版された久世光彦聞き書きの『ひとりのおんな』(福武書店)で、次のように語っている。
  
 私達はこうしてまた会えた。ほら、手をのばせばそこに本当にいる。戦争は終わった。これから私達は芝居をやって生きてゆける。そう思うと嬉しくて嬉しくて誰にお礼を言っていいかわからなくて、私、月の光の中を、波打ち際を何か叫びながらどこまでも走りました。もうそうするしかなかったんです。
  
 だが、『襤褸と宝石』と同様に悲劇は突然やってきた。1953年(昭和28)12月22日、加藤治子が文学座の観劇から夜10時すぎに帰宅すると、自宅には電気が点いていたが呼んでも返事はなかった。ドアは中からカギがかけられており、髪からピンどめを外して鍵穴に挿し入れると、キーが部屋の内側へ落ちる音がした。窓からのぞくと、加藤道夫が本箱に寄りかかって座っているのが見えたので、「なんだ、いるんじゃない」と大声で呼んだが返事がない。このとき、加藤道夫は本箱の上に寝巻のひもを結んで縊死していたのだ。遺書は、治子夫人と芥川比呂志に残されていたが、彼女は怖しくて遺書を読んではいない。
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 加藤治子は5年後、1958年(昭和33)に『襤褸と宝石』で主役・片桐民夫を演じて演劇デビューをした高橋昌也と再婚している。はたして、中島丈博は加藤道夫の『襤褸と宝石』というシナリオそのものではなく加藤道夫・治子夫妻の、さらには加藤治子のその後の人生を重ね合わせて、佐伯祐三そして米子夫人をイメージしていったものだろうか。

◆写真上:1980年(昭和55)9月8日にNHK総合で放送された、中島丈博『襤褸と宝石』のワンシーン。佐伯祐三役は根津甚八で、米子役は三田佳子だった。わたしの知りえた佐伯夫妻の感触の限りだが、根津甚八の佐伯は明らかにイメージがちがいすぎるミスキャストであり、三田佳子もかなり実像とは印象が異なるのではないか。
◆写真中上は、1952年(昭和27)に俳優座によって初演された加藤道夫『襤褸と宝石』(三越劇場)。下左は、1951年(昭和26)に尾上菊五郎劇団による加藤道夫『なよたけ』(新橋演舞場)、下右は、加藤道夫のポートレートとサイン。
◆写真中下は、自死する半年前の1953年(昭和28)6月に河出書房から出版された新文学全集『加藤道夫集』。は、1980年(昭和55)に発行された「ドラマ」10月号で中島丈博『襤褸と宝石』が収録され制作趣意が掲載されている。
◆写真下は、加藤道夫と御舟京子(滝浪治子)。は、現在の加藤治子。

佐伯の「下落合風景」を分類してみる。

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 少し前の記事で、私家版『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』(非売品)の第6版Click!について触れたが、もう少し同画集にからめ佐伯が描いた「下落合風景」シリーズClick!について整理しておきたい。それは、佐伯祐三Click!が当時の落合地域のあちこちに拡がる風景一般を切り取って描いたのではなく、明らかに風景モチーフの選び方に偏った特徴が顕著に見られるからだ。
 いま現在、戦災をくぐり抜けて実物を目にすることができる作品、あるいは残された画面写真で確認できる作品を合わせると、「下落合風景」シリーズはちょうど50点を確認することができる。また、落合地域に近接した地域を描いたもの1点(1926年ごろの山手線『踏切』Click!)、描画ポイントは不明ながら「下落合風景」につながる画面と思われる作品が1点(同時期の『堂(絵馬堂)』Click!)の2点を含め、私家版『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』には全52点の作品画面を掲載している。
 もちろん、その多くの作品には描画ポイントとともに現状の風景写真を添え、さらに当時の写真をできるだけ収録するようにしている。また、「下落合風景」全50点の中には、ある美術評論家の資料に含まれていた個人蔵の『下落合風景』作品Click!(未発表)のものや、1930年協会展Click!あるいは遺作展Click!、新宿紀伊国屋2階における個展Click!などの会場写真に偶然とらえられ、明らかに未知の「下落合風景」と思われる作品画像も含まれている。これらの連作「下落合風景」を、描かれたモチーフや取り上げられた風景別に分類すると、どのような傾向が見えてくるかが、きょうの記事のテーマだ。
 たとえば、以下のような項目で分類すると、面白い傾向が見えてくることがわかる。ちなみに、以下に設定した項目ごとにきっちりと作品が分類できるわけではないので、項目に該当する作品は重複してカウントしていることを、あらかじめお断りしておきたい。
(1) 雑木林や庭園を描いた風景…2点
 アトリエを建てた1921年(大正10)から間もない作品で、印象派の影響が色濃い。
(2) 工事中または工事後まもない現場を描いたもの…27点
 郊外住宅地の宅地や道路がまさに造成中の箇所、あるいは工事が終了してから間もない場所など、赤土がむき出しで工事関係者が姿を消したばかりのような情景。
(3) 目白文化村の住宅街あるいは施設…6点
 大正末の当時、もっともモダンな住宅街化が進んでいた第一・第二文化村Click!の情景はわずか4点にすぎず、しかも特徴的な洋風建築を画面へ積極的に取り入れていない。
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(4) 佐伯邸の直近である八島邸前の三間道路と八島邸…9点
 第三文化村に接する三間道路(当時は補助45号線Click!予定道路)と、佐伯邸から2軒西隣りの八島さんちClick!を描いた、もっとも制作点数の多い風景モチーフ。
(5) 大正末に敷設されたばかりの道路や拡幅された道路…25点
 佐伯はパースペクティブがきかせられる画面が好きで、下落合に通う道路を実に多く描いている。敷設工事中または工事直後の道路を、頻繁に描いている。
(6) 諏訪谷の谷戸あるいは曾宮一念邸の前…5点
 諏訪谷に面した曾宮一念アトリエClick!と、諏訪谷へ建設中の住宅群を頻繁に描いている。また、住宅群が完成したのち、わざわざ降雪日を選んで制作している。
(7) 原っぱないしは整地済みの住宅建設予定地…10点
 宅地開発の予定地である原っぱや、耕地整理が済んだばかりの原など。
(8) 目白文化村や近衛町の開発よりも古いと思われる家屋…10点
 1922年からスタートする、目白文化村(箱根土地)や近衛町(東京土地住宅)に建ち並ぶモダンな家々よりも、さらに以前からあったと思われる古い家屋。
(9) 下落合に残っていた近郊農家…2点
 下落合の西端に残っていた農家を、1926年の秋と降雪日に写生。
(10) 山手線の線路沿い風景…3点
(11) コンクリート塀のある風景…3点
(12) 墓地または墓地跡のある坂道…2点
(13) 拡幅前の旧・鎌倉街道沿いにある鄙びた商店街…1点
(14) 佐伯祐三自身の家…1点

 現存する作品、あるいは作品画像にみる佐伯が好んだ風景モチーフは、明らかに大正から昭和にかけての最先端をいくモダン住宅街「下落合」ではなく、古くから華族やおカネ持ちの別荘地として拓けた大屋敷の建ち並ぶ「下落合」でもなく、また目白通り沿いに建ちはじめた近代的なコンクリート建築の商店街でもない。佐伯の眼差しは、おもに下落合の西部に展開していた工事中の幹線道路や、宅地造成で敷設されたばかりの二間・三間道路、擁壁や縁石が設置され整地されて間もない家屋が建つ以前の宅地や原っぱ、そしてそれらのモダンな住宅街とは対照的な、古めの日本家屋や軒の低い近郊農家などを描いている。換言すれば、大正末から昭和初期にかけ「下落合」というワードから同時代人がイメージする情景とは、まるで正反対の風景ばかりを描いていたことになるのだ。
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 この感覚を、現代に当てはめて下落合をご存じない方にもわかりやすくいえば、たとえば「東京風景」を連作する画家がいて、東京湾の埋立地に拡がる原っぱ、郊外に残る野菜畑や長屋門の庄屋屋敷、空襲で焼けなかった古いアーケード商店街、煙を上げるめずらしい銭湯の煙突、公園に展示された蒸気機関車や都電などを描いたとすると、確かに東京風景にはちがいないのだけれど、これを21世紀初頭の東京風景に敷衍化できるかというと、「ちょっと、ちがうんじゃない?」という感覚を抱くだろう。佐伯の「下落合風景」シリーズに感じるのは、これに近い違和感なのだ。
 同じような感覚を、パリの街角を巡回する警官も抱いていたのか、街中で写生する佐伯にしばしば声をかけ、モチーフの公衆便所や倉庫、町工場、汚らしい壁を描くよりは、もっとパリらしい風景の描画場所があることを「アドバイス」している。余談だけれど、佐伯の連作「下落合風景」には、自宅の便所の前を描いた作品のあることが判明した。これについては、詳細がわかりしだい、改めて記事にしてみたい。
 佐伯の「下落合風景」シリーズは、当時の東京人が抱いていた「下落合らしさ」をほとんどしりぞけ、東京郊外の殺風景でどこか物悲しく、またいつもどこかで槌音が鳴り響く落ち着かない開発途上のエリア、すなわち別にそれが「下落合」という地域でなくても、当時の東京郊外なら大なり小なりどこでもあちこちで見られた、ホコリっぽくて赤土がむき出しの新興地の風情を写しとっていることになる。佐伯は、たまたま自宅+アトリエを建設した地域、下落合の中・西部にそのような風景が拡がっていたので、同地域の東部はほとんど描かず、おもに西部の風景を好んで写した…ということになる。
 どこか鄙びて物悲しく、夜になるといまだ満足に街灯の光もとどかない、電柱さえまばらで殺風景な場所を好んで数多く描いた下落合の佐伯祐三と、パリの裏街でことさら汚らしい雑然としたものに惹かれて描いた佐伯祐三との間には、同じような雰囲気のモノや風景に執着し、そこにあえて“美”を見いだし創造する共通視点をほのかに漠然と感じることができるのだけれど、「下落合風景」の場合にはもう少し強めのテーマ性、たとえば工事現場や開発地のむき出しになった赤土の“茶”に象徴される、まさに「連作」と表現できる経糸のような眼差しを感じとることができるのだ。
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 さて、現存する「下落合風景」の作品や画像には当該作が見あたらず、佐伯の「制作メモ」Click!にのみ記載された未知のタイトル、あるいはメモから想定できる画面はあるもののキャンバスの号数が一致しない作品が、少なくとも10点前後は存在している。「浅川ヘイ」(曾宮一念邸の東隣りの浅川秀次邸Click!)や、「小学生」(前後の制作日付からおそらく落合第一小学校生徒)、「松の木のある風景」などは現存している画面に見あたらない。現存あるいは画面写真が残る作品に、これら未知の作品をプラスすると、最低でも60点を超える「下落合風景」を想定することができる。さらに、画家仲間や周辺にいた人物たちが証言している、発見されていない作品(たとえば先の自宅便所風景や、曾宮一念が証言する40号の諏訪谷風景Click!)を加えれば、「下落合風景」の点数はもっと増えるだろう。

◆写真上:先月完成した、私家版『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』(非売品)の最新版(Ver.6)。表紙は、佐伯邸の西隣りに建っていた八島邸と門。
◆写真中上上左は、「かしの木のある家」Click!と思われる作品。上右は、第二文化村西側の三間道路を描いた「アビラ村の道」Click!の作品。下左は、城北学園(現・目白学園)北側の三間道路Click!を描いたとみられる作品。下右は、西武電鉄の開業前に中井駅前の道路工事現場Click!を描いた、遠景に草津温泉(現・ゆ~ザ中井)の煙突が見える作品。
◆写真中下上左は、第二文化村西側の「原」Click!を描いたとみられる作品。上右は、降雪後の諏訪谷Click!を描いた作品。下左は、第三文化村の空き地から八島邸Click!を描いた作品。下右は、「上落合の橋の付近」Click!と思われる作品。
◆写真下上左は、「森たさんのトナリ」=下落合630番地Click!を描いたとみられる作品。上右は、下落合の最西端にあたる中井御霊社の南にあった古い農家を描いたとみられる風景。下左は、遺作展に展示された諏訪谷の別バージョン。下右は、上掲の城北学園北側の三間道路を描いたとみられる別バージョンの作品。

文化村絵はがきセットは存在したか?

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 先日、古書店で「目白文化村絵はがき」Click!の別バージョンを見つけたので購入した。おそらく、1923年(大正12)に制作しDMに活用された、前谷戸Click!をはさみ第一文化村Click!の家並みを北西側から撮影した、もっとも知られているデザインの絵はがきClick!よりも、古い時期に撮影されたものだ。
 第一文化村の家並みを撮影し、人着(人工着色)をほどこした既知の有名な絵はがきは、前谷戸の東半分を埋め立てる少し前に撮影されたと思われ、いまだ前谷戸の谷間が文化村倶楽部の前まで口を開けているのが見てとれる。新宿歴史博物館に残る同絵はがきの消印を見ると、1923年(大正12)4月10日に郵送されたものであり、翌1924年(大正13)6月には前谷戸の埋め立てを完了Click!し、大谷石の石板(共同溝の蓋板か縁石用だろう)を搬入して、新たな敷地の造成工事に入っているのは写真からも明らかだ。
 さて、新たに見つかった絵はがきは、写真の説明に「目白文化村の一部」というキャプションが入れられている。写っているのは、こちらのサイトをお読みの方ならすぐにおわかりかと思うが、1922年(大正11)の秋ごろに竣工した第一文化村の神谷卓男邸だ。面積が300坪と、第一文化村ではもっとも広い敷地の上に、当時流行していたF.L.ライト風Click!の大きな邸を建設したものだ。しかも、この絵はがきは当時の新聞記事にも流用されており、1923年(大正12)7月15日発行の読売新聞が連載していた「市を取巻く町と村(14)」Click!へ、目白文化村の風景として掲載されている。
 これにより、ふたつのことが新たに判明した。ひとつは、当時の読売新聞はカメラマンを目白文化村へ実際に派遣し、文化村の最新風景をリアルタイムで撮影しているのではなく、箱根土地Click!が撮影済みだったスチール写真、またはすでに制作していた既存の絵はがき「目白文化村の一部」を借用し、それを新聞記事に転載しているということ、したがって先の記事に付随した写真は、1923年(大正12)7月現在の文化村風景ではないということだ。もうひとつ判明したのは、神谷邸の前にあっためずらしい電信柱(電話ケーブル用の支柱)の設置時期だ。目白文化村では、上下水道と電燈線は地下の共同溝に埋設されているので、当初、街中には基本的に電柱が存在していない。のちに村内へ建てられた電柱は、大正末から急速に普及した白木の電信柱だ。
 新たに発見した絵はがき「目白文化村の一部」には、神谷邸の前に電話ケーブル用の電柱がいまだ設置されていない。ところが、いままで知られていた新宿歴博にも収蔵されている目白文化村絵はがきには、神谷邸の東並びにすでに白木の電信柱が建っているのが見てとれる。神谷邸の2階屋根に隠れて見えないが、おそらく同邸の東ウィングの前にも、すでに電信柱が設置されているのだろう。したがって、第一文化村に電話線が引かれ電信柱が建てられたのは、神谷邸が竣工した1922年(大正11)の秋ではなく、同年暮れから翌1923年(大正12)の早春までの間、つまり1923年(大正12)4月には印刷済みだった、目白文化村絵はがきの撮影時期までの間……ということになる。
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 わたしは、絵はがき「目白文化村の一部」に使われている写真は、1922年(大正11)の秋から初冬ごろ、神谷邸とその東隣りの箱根土地モデルハウスが完成した直後の姿をとらえたものだと考えている。神谷邸の庭に見える生垣や樹木は、まさに植えられたばかりの風情であり、箱根土地のモデルハウスもできたてのように見える。窓がすべて開け放たれているのは、竣工後に室内を乾燥させているのだろう。そして、なによりも神谷邸の南ウィングが、いまだ建設されていない点に留意したい。右手に写るモデルハウスは、1924年(大正13)7月以降に解体され、おそらく第二文化村の帝展画家・宮本恒平邸Click!のある区画の南端、のちに農商務省技師だった横屋潤邸が建つ敷地へ移築されているのかもしれない。
 ただし、絵はがき「目白文化村の一部」自体が印刷されたのは、神谷邸が竣工した1923年(大正11)のうちではなく、裏面のコピー表現(「昨夏」とある)から推測すれば、翌1923年(大正12)の早い時期ではないかと思われる。ひょっとすると、新宿歴博収蔵の目白文化村絵はがきと、同時期に印刷されている可能性もあるだろう。
 第一文化村の箱根土地建築部によるモデルハウスがあった位置は、一家でテニス好きな安食勇邸Click!(のち会津八一の文化村秋艸堂Click!)と海軍少佐の桑原虎雄邸、さらに「自由学院」(ママ:箱根土地の誤記で自由学園Click!)教授の熊本謙三郎邸の、3つの敷地にまたがって建てられていた。したがって、その解体(および移築?)は大正末にいずれかの敷地へ、土地の所有者による住宅の建設計画がもち上がったことによるのだろう。わたしは、1925年(大正14)の夏にはすでに建設されていたのを写真で確認Click!できることから、安食邸の建築計画がこの時期、具体化してきたのではないかと思う。
 さて、絵はがき「目白文化村の一部」にもどろう。神谷邸の南隣り、すなわち画面左側の空き地は、のちに箱根遊船株式会社の社長・川島奥右衛門邸が建つ予定の敷地であり、二間道路をはさんだ向かい、画面右側の空き地は遠藤豊子邸の建設予定地だ。しかし、遠藤邸の敷地はなかなか住宅が建設されず、空き地の状態がしばらくつづいていたようだ。ひょっとすると、1923年(大正11)の夏に第一文化村が売り出された際、土地だけ購入して値上がりを待つ不在地主Click!なのかもしれない。二間道路脇に見えている、大谷石製の石板でフタをした側溝は下水ではなく、電源ケーブルに上下水道管を埋設した共同溝だ。
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第一文化村1938.jpg

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第一文化村192508.jpg
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安食邸(会津邸).jpg

 絵はがき「目白文化村の一部」の裏面コピーも、既存の目白文化村絵はがきの文章とはまったく異なっている。以下、より販促色が濃い全文を引用してみよう。
  
 新緑の風薫る目白文化村は昨夏本社が趣味と健康とを基調として建設致候ものにて直に分譲済と相成申候、今回これが隣地約壱万五千坪を拡張し更に水道電熱装置(台所用及暖房用)倶楽部テニスコート相撲柔道々場等を新設し分譲致候 御散策労経営地御覧下され度く御希望の方は至急御申込相成度候
 要 項
 位置 山手線目白駅ヨリ府道ヲ西ヘ約十丁目白駅ヨリ文化村迄乗合自動車アリ市内電車予定線停留所ヨリ南ヘ約二丁
 環境 山ノ手ノ高台、西ニ富士ヲ眺メ展望開豁(かいかつ)学校ハ新築落合小学校約二丁、目白中学学習院成蹊学園等十四五丁内外、周囲ニ百五十戸ノ府営住宅アリ日用品ノ購入至便
 設備 水道、瓦斯、電熱装置下水、道路(幹線三間枝線二間)倶楽部、テニスコート、相撲柔道ノ道場
 価格 壱坪五拾円ヨリ六拾五円マデ、五拾坪ヨリ数百坪ニ分譲ス
  
 既知の目白文化村絵はがきのコピーが、どこか文学的で散文調だったのに対し、絵はがき「目白文化村の一部」のコピーは文語調でかたく、第二文化村の売地価格までが記載されるなど、全体的に事務的な広告文に徹した印象をうける。この中で、あらかじめ台所や暖房の電熱装置を箱根土地がサービスしているのは、設備に「瓦斯」と書いてあるにもかかわらず、ガス管の敷設が大幅に遅れていたからだ。
 同絵はがきのあて先は、「府下大井町五六二」のS・U殿となっており、消印はかすれて読みとれないが「早」の字と「5.22」の数字が見えている。おそらく、既知の目白文化村絵はがき(大正12年4月20日の消印)と同様に早稲田局でスタンプが押され、翌月の5月22日に投函されているのではないかと思われる。箱根土地の顧客DMを扱う専門業者が、早稲田界隈に開業していたことをうかがわせる。
 また、この絵はがきを印刷したのが、裏面のキャプションから合資会社・日本美術写真印刷所であることもわかる。同社は大正期から昭和期にかけ、さまざまな絵はがきや図録類を制作していたことで広く知られていた。当時の美術展覧会で販売された絵はがき類や図録も、「日本美術写真印刷所印行」と挿入されたものを数多く見かける。
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目白文化村絵はがき裏19230522.jpg

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文化村倶楽部.jpg
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箱根土地本社社屋.jpg

 さて、目白文化村の絵はがきは、この2種類だけだったのだろうか? これらの絵はがきが1923年(大正12)の春に作成され、見込み顧客あてに郵送されているとすれば、少なくとも当時の第一文化村にはかなりの家々が建ち並んでいたはずであり、またレンガ造りで竣工したばかりの箱根土地本社社屋Click!や、神谷邸と同じようなライト風のシャレた文化村倶楽部も、撮影モチーフとしては最適だったのではないかと思われる。日本美術写真印刷が、絵はがきセットの制作を得意としていたことを考えあわせると、目白文化村の絵はがきセットが存在していてもなんら不思議ではない。この2種のほかにも、目白文化村の絵はがきを見かけた方がおられれば、ご一報いただければと思う。

◆写真上:1923年(大正12)5月22日に、早稲田郵便局で投函された箱根土地の絵はがき「目白文化村の一部」。印刷は同年春とみられるが、神谷邸の撮影は前年と思われる。
◆写真中上は、既知の文化村絵はがきで1923年(大正12)4月20日に早稲田郵便局へ投函されたもの。(新宿歴史博物館蔵) 中央に箱根土地のモデルハウスが写り、その向こう側に白木の電信柱、モデルハウスの右手には神谷邸がとらえられている。下左は、神谷邸のライト風の門をとらえた写真。おそらく1922年(大正11)中の撮影で、神谷邸の南ウィングがいまだ建設されていない。下右は、大正末ごろに撮影された神谷邸で東ウィングの前に電信柱が設置されている。
◆写真中下は、1924年7月撮影の第一文化村。前谷戸東側の埋め立てが完了し、まさに造成工事がスタートしている。画面右端には、いまだ箱根土地のモデルハウスが見える。中左は、大正末の撮影とみられる神谷邸。中右は、1938年(昭和13)の火保図にみる絵はがき「目白文化村の一部」の撮影位置。下左は、1925年(大正14)8月撮影の第一文化村。突き当りが神谷邸だが、すでに手前には建設された安食邸の屋根が見える。下右は、1925年(大正14)に完成した安食邸(のち会津八一の文化村秋艸堂)。
◆写真下は、絵はがき「目白文化村の一部」の裏面コピー。下左は、不動園(箱根土地本社庭園)に面して建っていた文化村倶楽部。下右は、レンガ造りの箱根土地本社。

参考情報(2014年3月撮影)
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第一文化村2014_1.JPG
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第一文化村2014_2.JPG

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第二文化村2014_1.JPG
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第二文化村2014_2.JPG

◆追加写真上左は、解体されてしまった神谷邸のライト風の門。右手が旧・安食邸(会津邸=文化村秋艸堂)。上右は、第一文化村の現状。中左は、前谷戸の谷底から北側を眺めたところ。右側の擁壁の高さで、谷の深さを推定することができる。中右は、家の建て替えで久しぶりに姿を見せた前谷戸の埋め立て土面で、左手の奥が箱根土地の本社跡。下左は、第二文化村で健在の石橋邸。下右は、すっかり解体されてしまった嶺田邸跡で6戸の住宅が建設予定となっている。

おまけ情報
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石橋邸門.jpg
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蕗谷虹児アトリエ.jpg

昨年(2013年)に放送されたドラマ『ガリレオ』(フジテレビ)では、下落合のあちこちで殺人事件が起きていて、東京でいちばん危ない街になっていたようだ。は、第二文化村にある石橋湛山邸の殺人現場。は、蕗谷虹児アトリエ跡の殺人現場。ww

西武線にみる鉄道連隊の痕跡。

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上井草駅1.JPG

 以前、1926年(大正15・昭和元)の暮れに、西武電鉄(現・西武新宿線)Click!の敷設を数週間で結了したと思われる、千葉鉄道第一連隊と津田沼鉄道第二連隊の工事をご紹介Click!した。国立公文書館には、翌1927年(昭和2)1月13日に工事期間中に用いられた「軌条敷設器」の導入効果を、近衛師団から陸軍省へ上申する報告書「鉄道敷設器材審査採用ノ件」Click!が残されている。西武線が開業する同年4月16日まで、陸軍は同線の一大物流拠点である東村山駅から、軍用物資(建築資材)Click!をおそらく戸山ヶ原Click!へ頻繁に運びこんでいることも書いた。
 さて、きょうは井荻駅-下落合駅(氷川明神前の旧駅Click!)間を鉄道連隊が敷設した現在の西武新宿線で、約90年後の今日、その痕跡をたどるのがテーマだ。実は、この課題はsuzuran6さんClick!がすでに記事Click!にされており、わたしはその内容からご教示をうけたものだ。上井草駅には、当時の鉄道連隊が演習敷設に用いたと思われる軌条(レール)が、そのままホーム屋根の支柱用に加工されて現存している。鉄道連隊マークの入れられたレールは、1914年(大正3)製のものが多く、製造番号から八幡製鉄所で同年に製造されたものだ。
 1901年(明治34)に開業した官営八幡製鉄所は、13年後には製鋼から圧延工程をへて、それほど複雑ではない形鋼生産をしていた様子がうかがえる。これらのレールは、千葉ないしは習志野の鉄道連隊敷地内に設置された倉庫にストックされていた資材だと考えられ、生産から13年後の1926年(大正15)に、西武線工事の軌条(レール)敷設へ投入されていると思われる。つまり、井荻-下落合間の鉄道連隊による線路工事は、あらかじめ西武鉄道が調達・用意した軌条(レール)などの資材を用いて敷設されたのではなく、鉄道連隊がそのストック資材を持ちこんで工事を進めている気配が濃厚だということだ。
 換言すれば、千葉あるいは習志野の倉庫から工事現場である東京郊外へ、線路敷設資材をスピーディかつ円滑に輸送・搬入するのも、当時の重要な鉄道連隊演習の一環だったのだろう。軌条敷設の工事のみに関していえば、陸軍省が西武線の井荻-下落合間の敷設を資材ごと丸抱えした可能性が高い。これは、大正初期から多摩湖を建設Click!するために東村山駅へ大量に蓄積された、セメントや砂利などの建築資材を戸山ヶ原Click!へ直接ピストン輸送するための、陸軍省から西武鉄道へ提案した“交換ビジネス”であり、バズワードぎみで少し時代遅れの表現をするなら“アライアンス事業”ではなかったか?
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上井草駅2.JPG
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上井草駅3.JPG

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 さて、上井草駅に降りてみると、ホーム上のあちこちに鉄道連隊の軌条(レール)を発見することができる。suzuran6さんも書かれているように、支柱に流用されたレールは腐食防止のために分厚いペンキで重ね塗りされており、鉄道連隊のマークや製造年・製造番号が非常に判読しにくくなっている。中には、おそらく連隊マークが刻印されていたものの、ペンキの重ね塗りで単なる盛り上がりにしか見えない箇所もある。特に、風雨にさらされている支柱部分は腐食も進み、マークや番号がほとんど読み取れなくなっていた。
 西武新宿線では、上井草駅とともに下落合寄りでもう1ヶ所、鉄道連隊の軌条(レール)を使用したと思われる駅がある。上高田小学校Click!も近い、新井薬師駅だ。上井草駅と同様に、厚いペンキが重ね塗りされているが、新井薬師駅のほうが腐食が激しいのか鉄道連隊のマークはおろか、数字も読みとるのがかなり困難なほど風化しているものが多い。ただし、屋根近くの数字は比較的クッキリ残っていて、1925年(大正14)製の軌条(レール)を確認することができる。これらの軌条は、実際に西武線の井荻-下落合間で使用されたあと、摩耗したものから交換されて西武鉄道が保管し、ホームの屋根を増設する際に加工・流用したものだろう。とうに過ぎ去った、90年前の歴史上の出来事のはずなのだが、いまだ思わぬところで当時の無言の“証言”を、じかに目にすることができる。
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 わたしが学生だった頃、山手線の新大久保駅舎には二度にわたる山手空襲で被爆し、火災の高熱でアメのようにねじ曲がった天井の鉄骨が、そのままむき出しの状態で残されていた。おそらく、1980年以降に行われた駅舎の改装工事により、戦災の“証言”は取り除かれるか、新たな建築材で覆われるかしたのだろう。それとは逆の事例に、親父から上の世代には馴染み深い、当初の姿をようやく取りもどした東京駅には、以前は目につかないようたくみに内装で覆われていた駅舎の内壁、すなわち1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で炎上した、黒く焦げたレンガや炭になった芯材など戦争の“証言”が、誰でも見ることができるよう保存処理をほどこされて展示されている。
 時代はどんどん移ろい、あたかも歴史教科書のページをめくるかのように流れていくのだけれど、立ちどまってよく周囲を眺めまわしてみると、ページをめくりきれなかった時代の痕跡や、新しいページであるにもかかわらず、その部分だけが糊づけでもされたかように、いつまでもめくり切れないで破れつづける箇所があるのに気づく。スムーズにページをめくれない箇所には、それなりに重くて忘れられない歴史の“証言”や、さらりと通りすぎてはいけない物語が眠っていることが多いのに、改めて気がつくのだ。
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上野駅.JPG

 先日、神田川Click!をボートでたどったときに、日本橋川の新常磐橋と鎌倉橋との間に架かるJR外濠鉄橋に、鉄道省のシンボルマークが残されているのを見た。1918年(大正7)に鉄橋が建設される際、同省によって埋めこまれた青銅のレリーフだ。鉄道連隊のマークが軌条と斧なのに対し、鉄道省のマークは動輪をモチーフにリースの装飾が施されている。

◆写真上:上井草駅のホームに残る、鉄道連隊のマークが入った軌条(レール)。
◆写真中上:いずれも上井草駅のホームと屋根の支柱に使われたレールの刻印。
◆写真中下は、1914年(大正2)の刻印が残る上井草駅のレール支柱。は、1925年(大正14)の刻印が入れられた新井薬師駅のレール支柱。
◆写真下は、舟からでしか見ることができないJR外濠鉄橋の鉄道省レリーフ。は、東京駅の内壁に残る空襲による焼け跡。は、上野駅に残る古いレール支柱。


『文化村を襲撃する子供』の短絡な階級観。

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上落合689ナップ出版部.JPG

 全日本無産者芸術連盟(ナップClick!)が出していた機関誌、1928年(昭和3)の機関誌「戦旗」12月号がめずらしく古本屋で売っていたので、つい購入してしまった。この号は小林多喜二Click!『一九二八年三月一五日』をはじめ、柳瀬正夢Click!の作品を題材に『プロレタリアポスターの作り方』、さらに蔵原惟人Click!訳のマーツァ『プロレタリア文学への道』が掲載されている“古雑誌マニア”垂涎の号だ。でも、わたしの興味はそこではない。槇本楠郎が書いた、『文化村を襲った子供』が掲載されているからだ。
 前々から読みたいと思っていた『文化村を襲った子供』なのだが、プロレタリア文学全集にも、またプロレタリア児童文学集にも収録されていなかった。槇原楠郎の作品を集めた本にも収録されてはいない。『日本児童文学大系』(ほるぷ出版)には採取されているが、同書はなかなか出あえる機会がなかった。それが、運よく“原典”にめぐりあえたわけだ。小林多喜二が虐殺される4年3ヶ月前の『戦旗』で、この時期のナップ本部は淀橋町角筈86番地にあり、まだ上落合460番地Click!へ引っ越してきてはいない。ただし、ナップの出版部は中井駅から徒歩1分、寺斉橋をわたってすぐ東側にあたる上落合689番地に置かれており、『戦旗』12月号はそこで編集されていた。
 さて、『文化村を襲った子供』を読んでみたのだが、出来がいいとは思えなかった。ふだんは、鉄道線路沿いの広大な原っぱで戦争ごっこをして遊んでいる、職人や職工など「プロレタリアート」の子どもたちなのだが、ある日、線路をたどりながら文化村の丘下にある駅までたどり着く。そこから坂道をのぼって文化村へ侵入し、庭で飼われているイヌに吠えられてみんなで石をぶつけたり、文化村の三間道路と思われる道を騒いでデモンストレーションを繰り返しながら、静寂さを乱して「襲撃」を繰り返す…という内容だ。家々の窓からは、驚いた文化村住民たちが顔を出して子どもたちを見送る。
 この文化村とは、どこのことだろう? 当時、『戦旗』に執筆する作家や挿画を描く画家の多くが上落合に住んでいたこと、また上落合689番地の出版部の編集者たちが常に見上げていたのが下落合の丘陵であることを考えあわせると、当然、丘上の文化村とは目白文化村Click!のイメージに直接結びつく。同作から、文化村の記述を引用してみよう。
  
 白い駅が見え出しました。黄色い幟を立て並べたやうにポプラの木がスクスクと立つてゐます。陽がキンキラと照つてゐます。/その右手になだらかな丘があります。丘の上までキレイな町になつてゐます。キラキラと輝いてゐます。文化村です。/子供たちは思はず立ち止まつて眺めました。/丘の上の町は、色さまざまの小切布を吊したやうな樹木にとり囲まれて、丘全体が吹き寄せられたメリンスの小切物の山か丘のやうです。あつちこつちに赤・青・黄・水色・草葉色・栗色などの色瓦で葺かれた、奇妙な寄木細工のやうな家がキラキラと陽にかがやいてゐます。中には女の洋傘(パラソル)を開いたやうな丸みがかつた赤い屋根、青い屋根、または紙てんまりのやうなだんだら屋根の家もあります。かと思ふとまた黒い男の洋傘を窄めて突つ立てたやうな尖つた屋根、越後獅子の顎のはづれたやうなもの下駄箱の蓋をはね上げたやうに庇の深い屋根もあります。そして町全体がパツとオレンヂ色の秋陽を浴びて浮び上つたやうに輝いてゐるのです。/子供たちは思はず一度にバンザイをとなへました。そして一層先を急いで、われ勝ちにと進んで行きました。どこからかピアノの音が響いて来ました。
  
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 目白文化村に直近の駅は、旧・下落合の丘下にある中井駅だが、駅はベージュ色の外壁にオレンジの屋根で「白い駅」ではない。また、目白文化村の周辺にはニセアカシアの並木はあったけれど、ポプラ並木は聞いたことがない。このあたり、槇本の創作のようにも思えるのだが、子どもたちが戦争ごっこをする丘下の広大な原っぱは、上落合から上高田にかけての「バッケが原」Click!のイメージそのままだ。駅の近くに丘が迫り、中井駅から見て右手の坂道をしばらく上っていくと、丘上には「文化村」が拡がっている(山手通りはいまだ建設されていない)…というシチュエーションは、中井駅や下落合駅を問わず、目白崖線が横切る落合地域のイメージそのものなのだ。
 オシャレな西洋館や大きめの家に住んでいるのは、「カネ持ち」であり「ブルジョア」なのだから、子どもは直感的にそれを認識して「階級敵」の臭いをかぎつけ、「襲撃」して石をぶつけたり騒ぎまわって示威行動をする…という視点(槇本楠郎の単純にカテゴライズされた階級観)は、共産主義者はおろか、自由主義的あるいは民主主義的な思想を口にしただけで「アカ」や「非国民」と規定され拘留された戦前・戦中の軍国主義的な、そして怖ろしいほどシンプルかつ浅薄でステレオタイプ化された特高Click!の思想観の“裏焼き”にすぎない。その先にくるのは、「反革命」や「反動」、ときに「トロツキスト」のレッテルを貼りつけてラーゲリへと送りこむスターリニズムの世界だ。
 ちなみに、ピアノの音色をブルジョア趣味に象徴させているけれど、ピアノは乃手Click!の習いごとや趣味一般であり、下町に流れる三味Click!(しゃみ)の音色と同様の位置づけであることを、どうやら槇本は知らない。ましてや高級な、あるいは名うての三味一式なら、今日のアントニオ・ストラディバリと同様に、当時の家庭用ピアノよりもはるかに値段が高いことも知らないのだろう。高価な楽器=「ブルジョア趣味」と短絡的に規定するなら、当時の神田や日本橋、尾張町(のち銀座)など下町のほうが、よほど「ブルジョア」になってしまうではないか。
 目白文化村あるいはその周辺には、いわゆる子どもたちが(槇本が)規定する本来の意味での「ブルジョアジー=資本家」の住民は案外少なく、学者や文化人、芸術家、官吏、管理職クラスのサラリーマンが数多く住んでいた。また、目白文化村を囲むように建てられた大きめな屋敷である府営住宅Click!は、ほとんどが給料をコツコツためては東京府が運営していた住宅貯金制度を利用し、勤続数十年でようやく一戸建てを手に入れた一般の勤め人だ。眺めのいい丘上に、大きめな屋敷街が拡がっているから「ブルジョア」、または「インテリ」は資本主義やその上に起立した政治体制の走狗なのだから「階級敵」という、単細胞的かつ大雑把なカテゴライズの先にくるのは、中国「文化大革命」の感情や衝動に突き動かされた「紅衛兵」の稚拙な階級観や、権力闘争の果てに荒廃したご都合主義的な権力者の世界観であり、極端化すれば「農村が都市を包囲する」(毛沢東)を、そのまま物理的かつ呵責なく「実践」した、ポル・ポトによるカンボジアの都市住民や高学歴者のジェノサイド(大量虐殺)だろう。そこでは、数多くの都市に住んでいた「プロレタリアート」でさえ生き残れなかった。
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戦旗「文化村を襲った子供」.jpg
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槇本楠郎.jpg

 余談だが、中国の文革はほぼ全否定されたけれど、その中の推進テーマのひとつだった「洋法と土法の合体(西洋の科学技術と東洋の伝統技術の融合)」のみは、唯一、例外的に成果をあげて根づいた分野だろうか。特に、医学や薬学の分野では日本にも大きな影響を与え、西洋医学と東洋医学の合体、すなわち膨大な経験則の蓄積による治療法をとり入れた「中医学」的な考え方で、一般の病院が化学薬品のみならず漢方薬を扱ったり、リハビリテーションに針やマッサージを治療法に取り入れたりする、現在ではまったくめずらしくなくなった現象は、1960年代に「洋法と土法の合体」を推進した文革による影響だ。また、農業などにおいてもすべてを化学薬品(農薬)に頼らず、家禽を用いて害虫や雑草を駆除する融合手法なども、古くからアジア各地で行われていた手法へ、改めてスポットを当てた文革の効用なのだろう。
 さて、あまり出来がいいとは思えない『文化村を襲う子供』なのだが、そのせいか収録される機会も少なくなり、目に触れる機会がなかったのかもしれない。
  
 第一、杉林の向ふにこんな広い原つぱのある事は夢にも思はぬ事でした。(中略) けれど、もつとおどろいた事は、その広い原つぱの芒(すすき)の中で十五六人の男の子が駈けづり廻つてゐることでした。/よく見ると、それは戦争ごつこです。/吉は唾をのみこんで、突つ立つたまゝぢつと見下しました。/芒の穂は風になびいてゐます。子供たちはその間を見へ隠れして駈けて行きます。みんな棒を一本づつ持つてゐます。
  
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目白文化村1941.jpg

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小林多喜二「一九二八年三月十五日」.jpg

 昭和初期、耕地整理が進む「バッケが原」には、秋になると一面にススキの穂が波打っていただろう。そんな中で子どもたちはふた手に分かれ、棒切れをもちながらチャンバラごっこや戦争ごっこをしていたにちがいない。でも、まかりまちがっても「プロレタリアばんざい!」とか「異議なあし!」とか、さらに「弱虫はブルジョアだぞ!」などとは叫ばなかったにちがいない。同時に収録された、小林多喜二の作品における文章表現や描写力に比べても、本作のリアリティは格段に希薄で文学的な質や思想性の奥行きが、イマイチに感じられてしまうのだ。そして、それが今日では本作をあまり目にする機会がなくなってしまったゆえんなのだろう。

◆写真上:上落合689番地にあった、全日本無産者芸術連盟(ナップ)出版部跡の現状。
◆写真中上:1928年(昭和3)11月に発行された、全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関誌「戦旗」12月号の赤い表紙()と目次()。
◆写真中下は、同誌の奥付でナップ本部は淀橋町角筈86番地、出版部は落合町上落合689番地、また印刷は高田町高田357番地と記載されている。下左は、槇本楠郎『文化村を襲った子供』の扉ページ。下右は、作者の槇本楠郎。
◆写真下は、目白文化村だと想定した場合の子どもたちの文化村襲撃ルート。バッケが原から線路沿いに中井駅へ歩き、駅前右手の振り子坂Click!から文化村へと「突入」した。は、同号掲載の小林多喜二『一九二八年三月十五日』で伏せ字と削除だらけだ。

アビラ村の仲良しトリオになるはずだった。

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金山平三とらく夫人.jpg

 下落合2080番地(アビラ24号)の丘上に、1925年(大正14)にアトリエを建てた金山平三Click!は、東隣りに満谷国四郎Click!、西隣りに南薫造Click!が引っ越してくるのを楽しみにしていただろう。当時、満谷国四郎は1918年(大正7)8月末に下落合753番地Click!へ竣工した築7年のアトリエClick!に住んでおり、南薫造は戸山ヶ原Click!をはさんだ下落合の南側、大久保百人町で1916年(大正5)に完成した築9年のアトリエに住んでいた。
 当時の住宅に対する考え方は、今日のものとは大きく異なり、一戸建て住宅を建てること=終の棲家を手に入れること……とは限らなかった。多くの場合、上物の家屋は個人の所有でも、住宅敷地が借地のケースが普通だったからだ。したがって、新たに好きな地域を見つければ、建築年数の少ない住宅でも気軽に手放し、また気に入ったデザインの住宅が開発されれば、せっかく建てた家を短期間で壊して新しい住まいを新築したりしている。わたしが知る限り、もっとも短い期間で壊されたのは「近衛町」Click!の下落合414番地に建っていた小林盈一邸Click!で、築後わずか7~8年で解体されている。
 さて、下落合2080番地に金山平三がアトリエを建設しはじめた1924年(大正13)、満谷国四郎と南薫造は転居の準備をさっそくはじめていたかもしれない。ふたりとも、すでに文展・帝展の重鎮だったので、建設資金あるいは転居資金にはあまり困らなかったろう。満谷国四郎は、金山アトリエの東隣り(おそらくアビラ23号)へ、南薫造は西隣り(おそらくアビラ25号)へ、何度か下見に出かけていると思われる。
 当時の様子を、再び日本画家の中野風眞子Click!の証言から引用してみよう。
  
 アヴィラ村に通う今日の二の坂は、その頃乱塔坂(ママ:蘭塔坂Click!)と呼ばれ、蛇行する坂の両側に高低参差たる無数の墓石が乱立していて、夜は梟がほっほほっほと哀調の声を奏でていた。/一方丘の上は一面の麦畑で、空気も澄み、遠く西空には富士の秀嶺が雲上手に取り得る如く聳えて見えた。西武電車は未だ通らず、一々徒歩で省線東中野駅まで歩かねばならなかったが、それだけ静寂清澄な好住宅地であった。
  
 大久保百人町の南薫造アトリエは、夭折した建築家・後藤慶二の設計なので手放すのを惜しみ、アビラ村(芸術村)Click!への転居では新築ではなく、あえて移築を考えたかもしれない。当時の住宅は借地が多かったせいか、引っ越しに際しては上物を“持っていく”ことも多かった。下落合に残る近代建築にも、さまざまな移築例を見ることができる。
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 移築の敷地が近くであれば、家全体を持ち上げて下にコロをあてがい、住宅をゴロゴロ転がして新しい敷地まで運んだ例もめずらしくない。特に、昭和初期に実施された神田川や妙正寺川の整流化工事では、沿岸の家々が南北にゴロゴロ移築をした例も多い。南薫造のケースは、さすがに大久保百人町から戸山ヶ原をはさみ、下落合の丘上までゴロゴロ転がしてくるわけにはいかないので、もちろん解体・移築を考えただろう。
 1925年(大正14)に中村鎮Click!が編集し、後藤芳香が出版した私家版『後藤慶二氏遺稿』(非売品)には、後藤慶二が設計した南薫造アトリエの設計図およびアトリエ内写真が掲載されている。三角の尖がり屋根をもち、下見板張りの外壁をした大正初期のモダンな西洋館で、どこか中村彝アトリエClick!に近似しているのが興味深い。
 アトリエの広さもちょうど彝アトリエぐらいで、隣接して小さな居間兼応接室のようなスペースが付属するのもそっくりだ。ただし、当時のアトリエ仕様は、みな似ているのも確かなのだが。異なるのは、300号以上の大型作品の制作に備え、アトリエ内にキャンバス全体を眺められるよう小さな中2階(バルコニー)が設置されている点だ。満谷国四郎を師にもち、南薫造とも顔見知りだったと思われる中村彝Click!が、アトリエの設計を誰に依頼したのか?……というのは面白いテーマだが、中村彝と後藤慶二を直接結ぶ資料は見あたらない。そういえば、彝アトリエとよく似ている曾宮一念アトリエClick!も、誰が設計しているのかが不明のままだ。
 建築家の後藤慶二は、1919年(大正8)に大流行したスペイン風邪(インフルエンザ)に罹患し、わずか36歳の若さで急死している。1915年(大正4)に豊多摩監獄(中野刑務所)の設計をしたことで有名だが、画家のアトリエを好んで設計したことでも知られている。南薫造アトリエの設計と同年、1916年(大正5)には同じ文展の洋画家・大野隆則のアトリエも手がけている。大野アトリエの外観は、同年竣工の彝アトリエによく似ている。
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 一方、満谷国四郎は、年若い宇女夫人と再婚したばかりだったので、どうせ転居するなら新築を……と考えていたかもしれない。九条武子邸Click!の北隣りにあたる満谷邸は、当時からかなり大きめな建物だったと思われるのだが、転居先であるアビラ村の敷地(金山アトリエの東隣り)も相当広かったので、やろうと思えば建物の移築は可能だったと思われる。でも、いまだ再婚して数年の新婚生活を送っていた満谷は、若い奥さんのために新邸を考えたとしても不思議ではない。また、満谷の重要なパトロンのひとりだった島津源吉邸Click!も、三ノ坂と四ノ坂にまたがって建っていたので、この転居にはかなり乗り気だったのではないかと思われる。
 さて、金山アトリエが竣工し、満谷国四郎と南薫造が転居の準備にかかろうとした矢先、事態が急変した。アビラ村(芸術村)を開発していた東京土地住宅が、大きな負債を抱えて経営破たんClick!してしまったのだ。これは、アビラ村の新規開発のみならず、同じく東京土地住宅が手がけていた近衛町など既存の開発にも少なからぬ影響をおよぼすことになった。東京土地住宅が進めていた事業の多くは、下落合では目白文化村Click!を開発した箱根土地が引き継いでいるケースを、新聞の宅地販売広告などで多く見ることができるが、東京土地住宅の破たんでミソがついてしまったアビラ村(芸術村)に、満谷国四郎と南薫造は二の足を踏んだのだろう、転居を中止してしまったと思われる。
 このとき、アビラ村へ実際に土地を購入していたにもかかわらず、東京土地住宅の消滅で転居をやめてしまった芸術家には、満谷国四郎と南薫造のほか、大久保に住んでいた三宅克巳Click!がいる。また、土地を購入して実際にアトリエを建てた人々には、金山平三をはじめ金子保、永地秀太、新海竹太郎(彫刻家)などがいた。
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 アビラ村の丘上に、文展・帝展の仲良しトリオが顔をそろえていたら、周辺はどのような風情になっていたろう。3人連れで周辺をスケッチする姿も見られ、「下落合風景」作品も多く生まれていたのかもしれない。でも、昭和初期に帝展内部で問題化した情実鑑査や派閥人事、贈答腐敗などに対し、帝展改革の旗色を鮮明にした金山平三は、ふたりとは距離感を保ちつつ微妙な関係になっていたのではないだろうか。隣りあう画家同士が気まずいというのも、また困った事態だと想像できるのだが…。

◆写真上:金山アトリエで絵を整理する、らく夫人Click!(左)と金山平三(右)。作品をなかなか売らないせいかアトリエには絵がたまり、まるで画廊の倉庫のようだ。
◆写真中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる満谷国四郎敷地(アビラ23号)・金山清三アトリエ(アビラ24号)・南薫造邸敷地(アビラ25号)。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同敷地。は、金山アトリエが解体される前の同敷地。
◆写真中下は、満谷国四郎()・金山平三()・南薫造()。下左は、2013年10月現在の金山アトリエ周辺の風情。下右は、後藤慶二が設計した豊多摩監獄(中野刑務所)。
◆写真下は、大久保百人町にあった南薫造のアトリエ内部。は、後藤慶二による1916年(大正5)の「南氏邸設計図」。は、同設計図の外観図。

佐伯祐三は笑わない。

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 佐伯祐三Click!は、よくケタケタ笑っていたという証言が、東京美術学校時代の知人や親しい友人たちの間に残っている。しかし、ひとたびカメラのレンズを向けられると、マジメな顔になって口もとを一文字に結び、深刻かつ憂鬱そうな芸術家らしい顔つきに変貌する。なぜ、佐伯は写真で笑顔を見せないのか? それは、いちばん目立つ上顎左1番の前歯が、丸ごと1本欠損していたからだ。
 前歯の欠損は、少なくとも1920年(大正9)9月の東京美術学校の学生時代から、1928年(昭和3)8月16日にフランスで精神を病み死去するまでつづいていると思われる。いちばん最初に、前歯の欠損に気づいて触れているのは、のちに佐伯祐三の兄・祐正Click!の妻となる小久保千代子だ。小久保千代子が、本郷区向ヶ丘弥生町3番地(町境改正前は本郷区元富士町1番地の可能性がある)の大谷家で、初めて美校生の佐伯祐三に出会ったときの証言だ。この大谷家というのは、佐伯の実家である大阪の光徳寺Click!の檀家で、同家が東京へ転居してからも光徳寺や佐伯家とはつながりがあった。
 大谷家で初めて佐伯に出会った千代子は、前歯のない笑顔を見せる彼に好印象を抱いている。1980年(昭和55)に平凡社から刊行された「太陽」3月号の、佐伯千代子「若き日の義弟、祐三」から引用してみよう。なお、佐伯との出会いはこの原稿ばかりでなく、1978年(昭和53)の京都国立近代美術館ニュース「視る」6月号にも記録がある。
  
 その当時池の向う側の池端七軒町という名の電停で降り、なだらかな坂を上がると右に浅野家の大きなお屋敷が上品な灰色の塀に囲まれてあり、右に廻ると左側が本郷弥生町三番地で、親類の大谷の家がありました。閑静な住宅地で私は大正九年九月に、その六年後義弟になる人とは露知らず、そこで佐伯祐三と出会ったのです。彼は二十三歳(満22歳)で彫りの深い日本人離れのした、特に目がくぼんで鋭くこわそうな顔なのに歯が一本欠けていたせいか笑顔が無邪気でそのくせ無口な人でした。けれど「あのなー」に始まり、「そやねん」で終る大阪弁は間延びして大らかで私には初めての言葉でしたので面白く彼の顔を見ながら暖か味を感じました。(カッコ内引用者註)
  
 東京弁の千代子には、「あのな~……そやねん」と間のびして話しながら笑う佐伯が、のんびりしていて面白く新鮮に映ったのだろう。なお、佐伯の前歯がないことについては、親友の山田新一もどこかに書いていたかと思う。あまり指摘するのもはばかられる歯欠けについて触れられるのは、ごく親しい関係の人たちだけだろう。
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 佐伯の前歯は、なぜ欠けてしまったのだろうか? わたしは、フランスから輸入された鉛管か溶き油のフタがなかなか開かず、前歯を使って無理に開けようとしたらボキッと折れてしまった……などと、いい加減で適当な想像をしていた。佐伯がまだ大阪の赤松麟作Click!の画塾にいたころか、あるいは東京へやってきて川端画学校時代あるいは東京美術学校へ入りたてのころのエピソードを想定したのだ。わたしは子どものころ、しばらく使わずに放っておいて、すっかり乾いてしまった絵の具のフタを、前歯で開けようとしてひどく痛めた憶えがあるからなのだが、東京藝大の美術科を出た友人に訊いたらクールにひとこと、「あのー、ありえません」といわれてしまった。きっと、そんなオバカをして歯を痛めるのは、わたしぐらいのものなのだろう。w
 さて、では前歯の欠損で考えられる理由は、ほかになにがあるだろうか? 子どものころから、甘いものの食べすぎで虫歯になって抜いた……という経緯は、あまりにも考えにくい。虫歯になるのは奥歯からが普通であり、また佐伯が虫歯に悩まされていたという話もあまり聞かない。中学時代に、好きな野球Click!をしていてバットかボールが当たり、「あのな~、折れてもうた」になってしまったのか? あるいは、東京市電が不忍通りの八重垣町電停あたりにさしかかったとき、ヴァイオリンをもったまま市電から飛び降りて、工事中の側溝へ転落した際に前歯を折ったのだろうか? しかし、そうだとすれば転落した様子をじかに見知っていた友人が、「そのとき、佐伯の前歯が折れた」と証言を残しているはずだ。
 さらに、食い意地の張った佐伯のことだから、なにか固いものを無理に食べようとして前歯を折ったのだろうか? 美校時代の佐伯には、菓子を無理やり大量に食べさせられたエピソードが残っている。上野桜木町にあった山田新一Click!の広めの下宿で、おそらく谷中坂町95番地の宮崎モデル紹介所から派遣され、画学生たちのモデルを1週間つとめた“おみきちゃん”に、慰労会の菓子1円分を買いにいかせるくだりだ。1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された、山田新一『素顔の佐伯祐三』から引用してみよう。
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 一円をおみきちゃんに持たせて、好きな菓子でも買ってきてくれ、と頼んだ。しかし、この娘さんは大変無邪気な人だったので、その“一円”で、饅頭一つ混えない、煎餅とか今でいうクッキーのような駄菓子ばかりを買って帰ってきた。テーブルの上に山のようにもりあげて、それを見ただけで、どうしたら食べきれるか、皆が顔を見合せてしまった。それを知ってか、知らずか、おみきちゃんはこれから食べ始めるご馳走をあどけない顔でながめている。/ただ、佐伯一人は、もうその頃から一生を通じて変わらないフェミニスト振りを発揮し、女性に迷惑をかけ、いやな思いをさせるのができない性分なので、大いに義侠心を出して、/「みんなでジャンケンして、負けた者がその都度、食べることにして、これを残さないことにしようや」/うむを言わせぬ提案を出して、そのついでに、傍らのヤカンを取上げ、/「もう、茶も飲まんのやで」/と言うなり、物干台にヤカンを隠してしまった。ジャンケンが始まり、さあどういうわけか幾遍やっても絶対佐伯が負けるのである。/最初は自分から言いだしたことなので、ガリガリとお菓子を食べていたが、そのうちさすがに困りはて、/「茶だけ飲ませーや」/と言って、隠したヤカンを引きよせる。しかし、勝負のつきはあくまでも佐伯のみに悪く襲いかかる。困りながらも、自ら言いだした提案なので、律気にも食べ続け、ほとんど彼一人で“一円”を平らげてしまった。
  
 このあと、佐伯は街中の菓子屋を見ると吐き気が止まらなくなり、体調を崩して美校を数日間休んでしまうのだが、固い煎餅や駄菓子を立てつづけにガリガリと食べて、なにかの拍子に前歯を傷めやしなかっただろうか?
 後年、娘の彌智子Click!が3歳前後のころの、佐伯がめずらしく満面の笑みを浮かべた写真が残されている。愛娘を抱っこした佐伯は、いつもレンズの前で見せるすまし顔ではいられなかったのだろう。この写真は、おそらく第1次渡仏から帰国する前後、1925~26年(大正14~15)ごろに撮影されたものと思われる。もし、佐伯が下落合の歯科医で治療(挿し歯ないしは入れ歯)をしていないとすれば、彼の前歯はヴィル・エヴラール精神病院で死去するまで欠損したままだったのだろう。
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 佐伯祐三は、「いつも深刻で憂鬱そうな表情を浮かべて笑わない」……、それは残された写真から後世に類推され、どこか“悲劇の画家・佐伯祐三”をことさら強調しすぎたイメージなのではないだろうか? 佐伯はカメラを向けられると、とたんに口を一文字に結んで前歯を隠す。だが、実際の佐伯祐三はよく冗談をいい、よく笑っていた。そして、口を開けて笑うと、とたんに前歯が欠けているのが見えるので、周囲の人々へ急に親しみの感情を抱かせている。「あのな~、わし、ほんまは歯欠けでんね。……そやねん。なんででっしゃろな? ほな、みんなで推理してみてや~。おもろい回答、期待してまっせ」。

◆写真上:彌智子を抱いて笑う、前歯の上左1番が欠けた佐伯祐三の口もと。
◆写真中上:先年、佐伯祐三アトリエ記念館で展示された彌智子を抱き、めずらしく破顔する佐伯祐三。(新宿歴史博物館蔵)
◆写真中下:1925年(大正14)7月に南仏アルルを旅行中、ゴッホの吊り橋上で撮影された佐伯一家()。口が半開きの佐伯を拡大()すると、前歯の欠けているのが見えそうだ。
◆写真下は、1985年(昭和60)の解体寸前に撮影された佐伯邸。佐伯米子Click!が増築した茶の間裏から、母屋を眺めたところ。は、めずらしい佐伯の名刺。

佐伯祐三のアトリエ「便所風景」。

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 佐伯祐三が制作した『下落合風景』シリーズClick!の1作に、佐伯邸のトイレを描いた「便所風景」のあることが判明した。証言しているのは東京美術学校の門前、上野桜木町で画材店「沸雲堂」を経営していた浅尾丁策(3代目・浅尾金四郎)だ。また、昭和に入ってからは、池袋の豊島師範学校Click!の近くにも出店を設置していたようで、長崎アトリエ村Click!の画家たちへ筆や絵の具、キャンバス、額縁などの注文に応じていた。
 佐伯祐三Click!の「便所風景」は、アトリエに隣接した便所の壁を外から描いたものではないと思われるのだが、当時の佐伯アトリエの構造が明確ではないので断定はできない。画面は、便所の手水鉢(ちょうずばち)や下げられた手ぬぐいが風にひるがえる様子をとらえており、残された平面図から類推すれば、アトリエと佐伯が自身で増築した洋間との間にある廊下から、奥の便所を向いて写生されたものである可能性が高いだろう。手水鉢が置いてあったのだから、おそらく手ぬぐいの横には手水器も下げられていたにちがいない。いまの若い子に、手水器といってもわからないかもしれないが、中に水を入れた容器を手ぬぐいの横にぶら下げ、下の細い蛇口のような部分を手のひらで押すと、中の水が少しずつ出てきて手をぬぐえる仕組みのものだ。手水鉢は手水器の下に置かれ、こぼれた水を受けるカランのような役割りをしていた。
 さて、佐伯祐三の「便所風景」作品は、池袋の豊島師範学校(現・東京芸術劇場)の近くで開店していた古道具屋で無造作に売られていた。1986年(昭和61)に芸術新聞社から出版された、浅尾丁策『谷中人物叢話・金四郎三代記』から引用してみよう。
  
 豊島師範の塀の中程の右側に私の兄がささやかな画材店を開いていた。こんな淋しい所だが、奥のパルテノンClick!在住の少壮画家の方々の御蔭でけっこう商売はつづけられた。/兄からの連絡で近所の道具屋に古い絵が沢山出ているからとの事、さっそく教えられた店へ行って見た。六、七点程買った中に、中沢弘光先生の水彩画や、Y・SAEKI、とサインのある作品があった。この絵は佐伯さんの下落合の家の裏口を描いた二十号の油絵であった。便所の手水鉢の上に下げられた手拭が風に煽られているところがよく出来ていたが、江戸橋画廊の小高氏が調べてやるからと云ったので、渡したらそのまま返って来なくなってしまった。何でも作品を置いてあった所が空襲直撃弾でやられてしまったと云訳をして来たが、真偽の程はわからない。
  
 浅尾丁策は、東京美術学校で絵を教える教授陣の画家たち、あるいは絵を習う画家の卵たちとは大正初期ごろから親密なつき合いがあり、絵を見る眼には非常に肥えていた人物だ。同様に、江戸橋画廊の「小高氏」も商売がらそうだったろう。したがって、「Y・SAEKI」とサインのある絵を観て誰の作かを特定するのは、そして画面を観察しながら真偽を見きわめる力は、相当高かったにちがいない。すなわち、佐伯祐三の『下落合風景』の1作「便所風景」は、ホンモノであった可能性が限りなく高いのだ。
 そしてなによりも、落合地域にあまた去来した数多くの画家たちの中で、どう考えても自宅の便所をモチーフにして20号ものタブローを仕上げるのは、パリでも下落合でも佐伯祐三ぐらいしか存在しないだろう。贋作であれば、もっとモチーフ選びに気をつかい、“売れそうな絵”として画面を仕上げるからだ。明らかに和式とわかる20号の「便所風景」を、誰も居間や食堂、玄関に飾りたいとは思わないだろう。
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 さて、佐伯の「便所風景」だが、もちろん1930年協会展Click!へは出品されていない。架けられたとすれば、1927年(昭和2)の4月に新宿紀伊国屋の2階展示場で開かれた個展Click!だが、いわゆる“売り絵”として販売するにはちょっと困ったモチーフだ。パリの公衆便所の画面を、それとは知らずに「巴里風景」として買う人はいても、日本の「便所風景」を購入して鑑賞する人はまずいないだろう。とすれば、同作は他ならない佐伯の自宅に架けられていたものだろうか。
 浅尾丁策は、佐伯家の便所の位置を「裏口」と的確に表現しているが、浅尾自身も佐伯アトリエへキャンバス用の布地や木枠、絵の具、筆などをとどけやしなかっただろうか? 当時の沸雲堂は、神田の文房堂や竹見屋とともに、画家たちが画材道具を注文する主要店にまで成長していた。本店は上野桜木町の美校門前にあったので、東京美術学校と関連の深い画家たちには、なにかと便利な画材店だったろう。このテーマについては、また改めて記事を書いてみたい。「裏口」すなわち洋間北側の壁には、玄関とは別にもうひとつの裏庭へと出られるドアがあった。佐伯家の便所は、そのドアから向かって左手、画室へ付属するように設置されていた。
 いま残されている佐伯家の平面図(戦後)と昭和初期の様子とでは、部屋の内装を含め多少のちがいがありそうだが、便所の位置は変わっていないだろう。採光窓のあるアトリエ北面よりも、やや出っぱった区画に大便所があり、その手前(南側)にはドアを隔てて小便器が設置されていた。当時の便器は、のちに普及した白い陶磁器製のものではなく、緑色の釉薬(ゆうやく)が塗られて焼かれた大量生産の織部や信楽、常滑などの焼き物だったろう。そして、小便器のあるところのドアを開けると、アトリエの横を通って母屋へと抜けられる南北の廊下があった。
 手水器と手水鉢、そして下げられた手ぬぐいは小便所、すなわち廊下へのドアと隔てられた小便器の横のスペースに設置されていたと思われる。実際、戦後に採取された佐伯邸の平面図でも、そこが手洗い場としてのちに設置されたカランが採取されている。小便器の上には西を向いた小窓があり、そこから吹きこんだ風に煽られて、手ぬぐいが大きく揺れる様子を描いた画面ではないだろうか。
 窓からの風によって手ぬぐいが翻るのは、小便所の中であって外ではない。また、窓の外へ手ぬぐいを吊るせば、佐伯はなんとか手がとどいたのかもしれないが、足の悪い米子夫人にはとどかなかっただろう。ましてや、外壁にはほとんど庇がないので、窓の外に吊るせば雨で手ぬぐいが濡れてしまう。つまり、佐伯は小便所のドアを開け放しにしたまま、廊下側から便所を写生したのではないかと思われるのだ。もちろん、当時は水洗ではなかったので、ずいぶんと臭い写生になっただろう。
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手水器.jpg
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信楽焼き小便器.jpg

 佐伯祐三のタブローは、西池袋の古道具店を訪れた浅尾丁策のみならず、同じ大阪出身の鈴木誠Click!も目白通りに開店していた古道具屋で見かけている。鈴木誠は1926年(大正15)ごろ、佐伯祐三と連れ立って長崎地域へ写生に出かけているので、佐伯が描いた『長崎風景』に見憶えがあったのだ。1967年(昭和42)の『みづゑ』1月号に掲載された、鈴木誠「手製のカンバス―佐伯祐三のこと―」から引用してみよう。
  
 戦乱中だったか、戦後だったか目白通りの古道具屋で、片多徳郎Click!氏や同じく落合に画室のあった気の狂った柏原敬弘の外数点の作品に混って額縁にも入っていない彼(佐伯祐三)の画を見つけた。サインもないので道具屋から誰の作品か知らないまま、ただのように譲ってもらって今も大切に持っている。初めてのパリから帰国して描いた長崎村の風景で、私も一緒に描きに行ったような気のするなつかしい作品である。大阪の安治川で描き続けた船の画とともに珍しいモノと思っている。(カッコ内引用者註)
  
 また、曾宮一念Click!は、下落合の曾宮アトリエ前を描いた40号の作品Click!を記憶している。曾宮は、佐伯が曾宮邸+アトリエを入れて描かれたせいか、この作品を非常に不出来だとしているが、戦後も常葉美術館の展覧会に一時同作が架けられていたことを知っている。もちろん、佐伯が曾宮アトリエ前を描いた「諏訪谷」のシリーズ作品に、今日知られている40号の大画面は見あたらない。おそらく、個人宅で秘蔵されているか、佐伯作とはわからずにどこかを彷徨っているのかもしれない。1992年(平成4)に刊行された、「新宿歴史博物館」創刊号の奥原哲志「曽宮一念氏インタビュー」から引用してみよう。
  
 落合で描いた絵の中で、僕の家のほとんど前から、私の家の屋根も入ってて、やはり私の家にあった、戦災で焼けた桐の木まで描いてある、大きな40号の佐伯の絵があるんですがね。これはねえ、悪く言っちゃ悪いんだけども、これはよくない絵でしてねえ。佐伯なんとかして、ひとついい絵をまとめたい気でやったんでしょうねえ……大失敗作ですね。まあ、佐伯は名声を得ましたから、誰かが買ったんでしょうが、しかし、よくないんでまた売りとばす。それでまた売りとばす。いまだに方々へ…(後略)
  
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佐伯アトリエ便所間取り図.JPG

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 新宿歴史博物館には、1984年(昭和59)8月の母屋解体寸前に建設業者が撮影した、「佐伯祐三画伯旧居跡現場写真集」が保存されている。現在、大正期から戦前にかけての同邸の様子をうかがい知るにはかけがえのない資料なのだが、便所の中までの写真があったかどうかは、わたしの記憶にない。今度、もう一度ゆっくり拝見したいと思っている。

◆写真上:佐伯邸の洋間を北側から撮影したもので、左手に見えるのが便所の外壁と小窓。わたしも、『下落合風景』作品のモチーフに関連して、まさか便所の写真を使うことになるとは思っていなかったので、古い佐伯アトリエの便所は撮影し損なっている。
◆写真中上は、アトリエ西側に接した廊下から見た小便所の扉。この扉を開け、もうひとつの扉の向こうに大便所があった。は、「便所風景」を想像して描いた拙画。
◆写真中下:古い手水器()と、信楽焼きの緑色をした現代の小便器()。
◆写真下は、新宿歴博の「佐伯祐三画伯旧居跡現場写真集」添付の間取り図。は、外から見た便所の窓()と、アトリエ屋根の手前に見える廊下から便所への屋根()。

「なめくぢ横丁」の名づけ親は誰か?

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なめくぢ横丁.JPG

 1933年(昭和8)に諏訪町(現・高田馬場1丁目)の諏訪社境内に住んでいた尾崎一雄は、戸塚通り(早稲田通り)の安食堂で朝っぱらから酒を飲んでいた。いっしょにいたのは、檀一雄Click!と古谷綱武だ。檀と古谷は、前日に萩原稲子Click!が経営する下落合の「ワゴン」で飲んでいて、そのまま尾崎の借家がある高田馬場へ流れてきたものだ。
 このとき、尾崎一雄は住んでいる借家があまりにボロでみすぼらしく、新しい家を探している最中だった。ただし、現状よりも高い家賃を出すわけにはいかず、どこかに小ぎれいで安い物件がないかどうかふたりに相談した。つまり、今日的ないい方をすれば幽霊の出るいわくつきの「事故物件」でもいいから、格安で都合のいい家がないかどうか訊ねたのだ。「ありますよ、それが」と答えた檀一雄のひとことで、上落合の小説『なめくぢ横丁』に描かれた世界が展開することになる。この横丁は、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)の細い路地を入ったところに建つ長屋状の借家だった。1950年(昭和25)に中央公論社から出版された、尾崎一雄『なめくぢ横丁』から引用してみよう。
  
 ――上落合二丁目の、とある横丁に、一棟二戸という、真新らしい家がある。二階六畳、階下六畳に三畳の同じ造りで、これが壁一重でつながっているわけだが、その、とっつきの方が目下空いている。新築と同時にそこへ入ったのが、ある小商人の妾という若い女で、これが小女一人を相手に暮らしていた。壁一重隣りの方には、中年の勤め人夫婦がいたが、これが二階に、某私立大学の学生を下宿させていた。その妾と、学生とがいつか人目を忍ぶ仲になった。両方とも、二階の南側に縁があり、それがやはり壁一重でくぎられているわけだから、欄干をちょっと越えれば、恋の通路、何のさまたげもない。しばらく無事につづいたが、やがて妾の檀那という男に嗅ぎつけられた。/「気の小さい二人で、二階の鴨居に、女のしごきか何かでぶら下がりました。心中です」/「ははァ」
  
 この心中事件のあった長屋が格安物件だったわけなのだが、檀一雄が大家へ話をとおす前に尾崎一家がさっさと引っ越してきたため、大家からすぐさま無断入居とねじこまれてしまった。尾崎一家はしかたなく、隣りの檀の家(中年の勤め人夫婦が出ていった家)へと移るのだが、ルームシェアならぬ借家シェアで、1階には尾崎一家が暮らし2階には檀一雄が住む……という上落合生活がスタートする。この家には文学仲間が数多く参集し、檀や尾崎のもとには古谷綱武をはじめ丹羽文雄Click!、浅見淵、中谷孝雄、中島直人、立原道造Click!、森敦、太宰治Click!、山岸外史らが姿を見せた。
 また、ときに尾崎一雄へ原稿を依頼することもあった、プロレタリア文学雑誌の編集者・上野壮夫が向かいの借家へ転居してくると、「なめくぢ横丁」には上野夫妻を訪ねて小熊秀雄Click!や本庄睦男、亀井勝一郎、加藤悦郎、吉原義彦Click!神近市子Click!矢田津世子Click!若林つや子Click!、平林英子などが出入りするようになった。いわゆる「芸術派」と「プロレタリア派」が入りまじり、当時の混沌とした文学界を凝縮したかのようなありさまを現出していたのが、上落合の「なめくぢ横丁」だった。檀一雄と古谷綱武は、そんな呉越同舟のような文学環境で文芸誌『鷭』を創刊している。
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 このときの様子を、1984年(昭和59)に双文社出版から刊行された、目白学園女子短期大学国語国文科研究室による『落合文士村』から引用してみよう。
  
 こうした光景を思いやると、プロレタリア派と芸術派とは、実に和気藹藹に見える。/はたしてそうだったのだろうか? 筆者にはわからない。ただ、「なめくぢ横丁」で、後年の文学史的な流派や思想や作風をはるかに超えた、人間同士の交友があったことは確かだろう。/――読者の皆さんは、翌九年(1934年)四月、「なめくぢ横丁」に関連して、三冊の文芸誌が同時に創刊されたことをご存じだろうか?/二階の檀に関しては『鷭』、階下の尾崎に関して『世紀』、そして向かいの上野に関して『現実』。これらはいずれも、それぞれの特色をもって、横丁の交友のなかから誕生した。横丁の結晶ともいえる。 (カッコ内引用者註)
  
 さて、尾崎一雄の小説名にもなった「なめくぢ横丁」なのだが、これは尾崎が命名したものか檀一雄が名づけたものか、あるいはふたりが住む以前からの通称だったのかが曖昧だ。台所に「なめくぢ」がたくさん出現するから……という説明が本作の冒頭でなされるのだが、尾崎自身が命名したのではない印象が強い。冒頭部分を引用してみよう。
  
 今年十八になる長女が、二つか三つにかけてのころだから、十五六年前ということになる。当時淀橋区上落合二丁目何番地かの、人称(よ)んでなめくぢ横丁、さして陽当りは悪くもないのに、どうしたわけか台所方面にこの気色のよくない動物が盛んに出没するという小家揃いの一角に、一年ばかり住みついたことがある。
  
 横丁の名前については、それまでは「首つり長屋」と呼ばれていたらしい長屋名ないしは横丁名が、急に「なめくぢ横丁」という呼び名へと変わり、それが存外早く浸透しているようにも思える。確かに「首つり長屋」では世間体をはばかるから、大家も住民も「なめくぢ横丁」のほうがまだマシだ……と考えたとしても、不自然ではない。
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 わたしは、「なめくぢ横丁」(ときに「なめくぢ長屋」)という呼称が、当時は案外広く知られていた名称であり、落語家の流行り噺(ばなし)の影響で市内へ拡がったネーミングではないかと想像している。寄席やラジオの番組で、噺のマクラとして「なめくぢ横丁」あるいは「なめくじ長屋」のことを、自身の生活とともに自虐もまじえ、酒臭い息づかいで面白おかしく語っていたのは、当時から人気の高かった5代目・古今亭志ん生(当時は古今亭志ん馬)だ。
 当時の志ん生は、本所の業平橋にあった「なめくじ横丁」ないしは「なめくじ長屋」と呼んだ借家で暮らしていた。このエピソードは、昭和初期にはかなり有名で、落語好きならたいていの人は「なめくぢ長屋(横丁)」の噺を知っていただろう。おそらく、作家たちの多くも知っていたにちがいない。いまだ志ん馬時代だった、5代目・志ん生の「なめくぢ長屋(横丁)」について、1981年(昭和56)に出版された『芸能らくがき帖』所収の、吉川義雄「旗本くずれの噺家・古今亭志ん生」から引用してみよう。
  
 志ん生ほど噺家になって名前を変えた人も少ない。住む家も葛飾北斎ほどではないが転々と変えた。大正の末に本郷の動坂から、山の手線の内ッ側(かわ)は家賃が高くって住めないから巣鴨、新宿の外れの笹塚へと引(し)っ越し、遂には夜逃げ同様に、川向うの本所業平橋の長屋へ移る。ナメクジを見つけては食ったという、嘘にしろ有名になった、“なめくじ長屋”である。志ん生にうっかり物を貸すと、みンな質(ひち)に入れられてしまうという時代だった。「寝てェたら死んだ夢を見た。こりゃァ冥土だナ、悲しくもなんともない。何ンにも欲しいものなンか、無(ね)えンだから」(カッコ内引用者註)
  
 このとき、古今亭志ん生は40代の盛りだが、上落合で暮らした数多くの文学者たちと同様に貧乏のどん底にいた。このあと、すぐに7代目・金原亭馬生を襲名している。
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 尾崎一雄は、1933年(昭和8)秋に「なめくぢ横丁」へ引っ越し、そこで1年ほど暮らしたあと、翌1934年(昭和9)9月には下落合2丁目2069番地(現・中井1丁目)へ転居している。西武電鉄Click!中井駅Click!も近い、のちの林芙美子邸の斜向かいにあたる借家だ。上落合と下落合の住所は、妙正寺川Click!をはさみ300mほどしか離れていない。

◆写真上:旧・上落合2丁目829番地にあった、「なめくぢ横丁」の現状。現在は、商店街も近い便利な住宅地となってしまい、当時の面影はまったくない。
◆写真中上上左は、1950年(昭和25)に中央公論社から出版された『なめくぢ横丁』。上右は、1937年(昭和12)に撮影された尾崎一雄。下左は、1967年(昭和42)撮影の尾崎一雄、下右は、出世作となった1937年(昭和12)出版の『暢気眼鏡』(砂子屋書房)。
◆写真中下:上落合の住民たちで、檀一雄()と古谷綱武()。
◆写真下は、旧・下落合4丁目2069番地の尾崎一雄宅跡で林芙美子記念館の斜向かいにあたる。は、いまでもファンが多い5代目・古今亭志ん生。

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