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松下春雄と村岡花子の『お山の雪』。

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お山の雪カバー.JPG
 数年前から、わたしは1928年(昭和3)に青蘭社書房から出版された村岡花子の童話『お山の雪』を探し歩いてきた。古書店ではまったく見あたらず、図書館でも収蔵しているところは数が少ない。なぜ、これほど『お山の雪』にこだわっていたかといえば、同書の装丁および挿画を担当しているのが、松下春雄Click!だったからだ。
 青蘭社書房の同書を、どうしても手にしてみたいので時間を見つけては古書店をのぞいていたのだが、この2年余の間、ただの一度も見かけたことがなかった。思いあまって、「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」Click!へご連絡を差し上げたところ、村岡花子のご子孫である村岡美枝様と村岡恵理様より、さっそく保存されていた同書の写真をお送りいただいた。(冒頭写真) しかし、『お山の雪』の装丁は、わたしが想定していたデザインとはまったく異なっていた。『お山の雪』の装丁デザインには、どうやらもうひとつ別のバリエーションが存在するようなのだ。
 わたしが、西落合の旧・松下春雄アトリエClick!跡の邸にお住まいの、山本和男様・彩子様夫妻Click!をお訪ねしたとき、「こんなものが出てきました」と見せていただいたのは、『お山の雪』のために描かれたとみられる原画の一部だった。ブルーに塗られた紙の地に、雪をいただいた山々が白く描かれ、その上に「お山の雪」というタイトルが、やはりホワイトの絵の具で右から左へ描かれていたように記憶している。青色はそれほど濃くはなく、やや灰をまじえたようなパステル調の上品なブルーだ。原画のサイズはそれほど大きなものではなく、A4サイズぐらいではなかっただろうか。わたしは当然、そのイラストが同書の表紙に使われた原画だと想定していた。
 ところが、村岡様に送っていただいた画像を見ると、わたしが山本夫妻の邸で拝見した絵柄とは、まったく異なる装丁であることがわかった。では、わたしが拝見した原画は、本を開いた中扉に用いられた絵なのだろうか? どうしても気になったわたしは、古本市場に同書が出るのを待ちきれず、国会図書館に収蔵されている『お山の雪』を参照してみた。でも、山本様が保存されている『お山の雪』の原画は、どこにも使用されてはいなかったのだ。つまり、松下春雄のご子孫である山本夫妻が保存している作品は、『お山の雪』原画のバリエーション作品ということになる。
お山の雪表紙.jpg お山の雪裏表紙.jpg
お山の雪内扉.jpg お山の雪装丁松下春雄.jpg
 松下春雄は、村岡花子の夫であり青蘭社書房の代表だった村岡儆三とどこかで知己をえていたか、または村岡花子となにかの機縁で知りあっていたのか、あるいは誰かの紹介による装丁デザインおよび挿画の仕事だったのかは不明だが、大森新井宿西沼613番地にあった青蘭社書房からの仕事を引き受けている。当時の松下春雄は、帝展に毎年入選を繰り返す有望な若手画家として周囲から見られていたと思われるのだが、ひょっとすると帝展を観賞しにでかけた村岡夫妻が松下作品に目をとめ、彼のもとへ制作をじかに依頼している可能性もあるだろう。
 松下春雄は、村岡花子の作品を読んだあと表紙や内扉のデザインを何案か制作し、今日的ないい方をすればカラーカンプを携えて、村岡夫妻へプレゼンテーションしているにちがいない。実際に採用されたのが、もっともお奨めの「A案」だったのか、それとも山本様のもとに残るシンプルな表現のほうが「A案」だったのかは定かではないが、村岡夫妻は山々を背景に前面へ家族たちがシルエットになった、西洋風の家をスケルトン状に描いた案のほうを採用している。そして、本作のほうが印刷所へ反射原稿として入稿され、松下アトリエにはプレゼンで採用されなかったデザイン案、すなわちバリエーション案のほうが残った……、そのような経緯ではなかったかと推測できる。
 『お山の雪』には、36話にわたる村岡花子のオリジナル童話が収録されている。松下春雄は、それらの童話の合い間にも5枚の挿画を制作した。彼は、児童書の挿画の仕事が好きだったらしく、1928年(昭和3)の『お山の雪』の出版からわずか5年後に白血病で急逝Click!するまで、何度か児童書の挿画を担当している。昭和初期に刊行がつづけられた、『小学生全集』第35巻(文藝春秋社)にも松下は何度か作品を寄せている。これは、自身も子育ての真っ最中で、子どもたちがかわいかったからにちがいない。松下春雄アルバムClick!を見ていると、彼の子煩悩さが伝わってくる写真が多い。
お山の雪01.jpg お山の雪02.jpg
お山の雪03.jpg お山の雪04.jpg
お山の雪05.jpg お山の雪奥付.jpg
 『お山の雪』が出版された1928年(昭和3)、松下春雄が表紙画や挿画を描いたのは下落合1385番地Click!、すなわち目白文化村Click!は第一文化村の北側にあったアトリエ時代Click!ということになる。帝展の水彩画家から油彩画家へと、ちょうど従来の作品表現からの脱却を試みていた時期であり、いろいろな意味で新しい表現や方法に挑戦していた時代だと思われる。このころから晩年にかけ、松下はモチーフを風景中心から人物中心へと徐々にシフトしていく。そんな制作の転回点における、松下春雄による『お山の雪』のデザイン表現だった。
 1928年(昭和3)9月の第9回帝展で、松下春雄は5回めの入選をはたしている。しかも、この年の入選作は100号の油彩画だった。「本年は水彩画をやめて油画を出品いたし、御陰にて百号の大作の撰いたしました。今年にて五回連続の撰いたしました」と、率直な喜びを熊沢一衛あての手紙(10月17日付け)に書いている。おそらく、この大作を仕上げている最中に、『お山の雪』の仕事も並行してつづけていたのだろう。松下春雄のきわめて真面目な性格から、どちらの仕事も全力投球だったにちがいない。
村岡花子.jpg 松下春雄.jpg
西落合松下春雄アトリエ.jpg
 現在、「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」は残念ながら休館中だが、同館に展示されているさまざまな資料が巡回展覧会「モンゴメリと花子の赤毛のアン展~カナダと日本をつないだ運命の一冊~」へ出品されている。東京では、日本橋三越で今年(2014年)の5月21日から6月3日まで開催されるので、興味がおありの方はぜひお出かけを。

◆写真上:村岡様よりお送りいただいた、村岡花子『お山の雪』(1928年)の装丁。
◆写真中上は、国立国会図書館に収蔵されている『お山の雪』の表紙()と裏表紙()。は、中扉()と松下春雄の装丁・挿画クレジット()。
◆写真中下:松下春雄が描いた挿画5点と、『お山の雪』の奥付(下右)。
◆写真下は、村岡花子()と松下春雄()。は、西落合のアトリエで撮影された彩子様(左)と苓子様(右)で、背後には巨大なキャンバスと画布のロールが見えている。


マリ子ハ御宅ヘ遊ビニ来ヌ。

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ヴァイニング夫人邸跡.JPG
 1931年(昭和6)12月、米国人の妻をともないサンフランシスコから太平洋航路で帰国した外務省の参事秘書官・寺崎英成は、しばらく帝国ホテルClick!に滞在したあと、椎名町駅の近く長崎町並木1285番地にあった地元の自治組織「協和会」会長の大塚彌吉邸に建つ離れ家に落ち着いた。大塚家は、英成の兄・寺崎太郎の妻・(大塚)須賀子の実家であり、たまたま離れ家が空いていたので入居することになった。英成の妻はグエンドレンといい、米国での結婚以来、日本での生活は初めての経験だった。
 米国から日本へ急遽呼び返された寺崎英成は、関東軍が起こした「満州事変」の実情調査で日本を訪れる、リットン調査団の受け入れ準備室に配属された。英成は関連資料の作成に深夜まで追われたが、彼は陸軍の尻ぬぐいをさせられるような仕事を苦々しく思っていたにちがいない。妻のグエンは、母国での生活とあまりにかけ離れた日本の生活にとまどったが、親切な大塚家のはからいでなんとか生活できるようになった。
 ここで、長崎町並木1285番地の大塚彌吉について、1929年(昭和4)に国民自治会から出版された塩田忠敬『長崎町誌』に掲載の、「長崎町名士録」から引用してみよう。ちなみに、大塚家はもともと日本橋が地場であり、日本橋区議会議員を長くつとめていた。
  
 
 協和会々長 大塚彌吉氏 並木一二八五番地/電話大塚九三番
 日本橋区議会議員として既に十二ヶ年、帝都中央の自治の為め貢献しつゝある氏は、明治六年十月十七日の出生、新潟県古志郡石津村の旧家、彌一郎氏の長男に生る。幼にして明敏、村童に秀でゝ其の前途を嘱目され、青年の頃志を立てゝ上京し、精励刻苦業務に勉励し遂に今日の大を為す、実業家としての氏は公共方面にも進んで範を垂れ日本橋亀島町会長、衛生組合長、区画整理委員議長、警察署協賛会副会長、第一第二国勢調査委員、日本赤十字社有功社員、日本橋在郷軍人分会名誉会員等、氏の関係公職枚挙に遑なく其の功績偉大にして名声赫々なり。(中略) 本町にては協和会々長及児童保護会顧問等にして町有数の名士である。はな夫人は書家高林五峯氏の門人にして雅名松洲と号し女流書家として令名あり。夫人との間に三男二女を儲く。
  
 『長崎町誌』(1929年)については、いろいろと書きたいこともあるのだが、それはまた別の機会に……。大塚邸の離れは居間に応接室、寝室、台所、女中部屋、湯殿という間取りだったが、米国での生活に比べてあまりにも狭い住空間だった。特に、火鉢が中心の日本家屋は冬の寒さが耐えがたく、“どてら”を着てコタツにもぐりこむような生活だった。
大塚彌吉1929.jpg 大塚彌吉邸1926.jpg
大塚邸跡.jpg 大塚邸194504.jpg
 このあと翌1932年(昭和7年)7月に、寺崎夫妻は上海へ赴任することになるのだが、妻のグエンは初めての子どもを妊娠していた。上海で生まれたのは女の子で、夫妻は「マリ子」と名づけた。寺崎夫妻はマリ子を連れ、上海に次いでハバナや北京へと転任するのだが、1941年(昭和16)1月に再び米国へともどり、寺崎英成は一等書記官としてワシントンの日本大使館へ勤務することになる。娘の「マリ子」という名前が、米国との外交関係で重要な意味をもつことになるのは、このころのことだった。
 寺崎英成がワシントンの日本大使館へ赴任した当時、陸軍の軍事行動をめぐって日米関係は最悪の状態にあり、欧米を相手に日本が太平洋戦争へと突入する直前のことだ。米国が提示した条件や最後の「ハル・ノート」(同年11月26日)をめぐり、破局へ向けた最後の交渉が行われている最中で、日本大使館では国際電話で本国とのやり取りを迅速に行う際、盗聴を意識して暗号による会話が必要となった。そのとき、米国政府の反応を意味する暗号に寺崎夫妻の娘の名前「マリ子」が使われたのだ。
 第3次近衛文麿Click!内閣の、豊田貞次郎外相のもとで進められた対米交渉の仕事は、寺崎英成にとって我慢のならないものだったろう。軍部が次々とつくる既成事実に、それを止められない近衛内閣と外務省は振りまわされつづけ、政府は常に追認を求められて対米交渉に有効な外交カードを奪われていく……という状態だった。政府が制御できない陸軍の動きを、英成は歯ぎしりして悔しがったにちがいない。「ハル・ノート」が出るころには、日本外交は窮地に立たされており、日米開戦が不可避な状況にまで追いこまれていた。
 米国大使に任命された野村吉三郎は、米内光政Click!に会って赴任を相談したときに、「そうやって君を登らせて置いて、後から梯子を外しかねないのが近頃の連中だ」と米内から忠告されたのを、身にしみて感じていたのかもしれない。寺崎英成が親しい仲間内で、米国と戦争になれば「日本は絶対に負ける!」と嘆息したのも、このころのことだ。
外務省暗号電39384号.jpg
グエンとマリ子.jpg 寺崎一家.jpg
 「マリ子」の暗号指示書は、国立公文書館の外務省文書「日米外交関係雑纂」に保存されている。マイクロフィルムREEL No.A-0289に収められており、豊田外相から米国の野村吉三郎大使にあてに1941年(昭和16)10月13日の午前11時40分に発信されたものだ。電送第39384号「暗号・緊急662号(館長符号)」から、全文を引用してみよう。
  
 日本時間十四日正午ニ通話ノ為メ寺崎アメリカ局長ヨリ/若杉公使ニ電話申込ミ済ミ其ノ際合言葉左ノ通リ
 駐兵問題ニ関スル米側態度(マリ子) リーズナブル(御宅ニ遊ビニ来ルヤ) アンリーズナブル(遊ビニ来ヌ)/交渉ノ一般的見透(ママ)(其ノ後ノ公使ノ健康) 四原則(七福神ノ懸物)/飽クマデ突張ルカ(気ニ入リマシタカ) 何トカ色ヲツケルカ(気ニ入リマセンカ)
  
 ここに書かれている「寺崎アメリカ局長」とは、英成の兄で外務省北米局長の寺崎太郎のことだ。また、「駐兵問題」とは中国を侵略・占領している日本軍の即時撤退の課題であり、「四原則」とは、ハルが近衛首相とルーズベルト大統領による首脳会談の拒否とともに野村大使へ提示した、「すべての国家の領土と主権の尊重」「内政不干渉」「通商平等」「現状維持」の4テーマについての確認を、日本政府へ要求する覚書のことだった。
 だが、この暗号電文でさえ米国はすでに解読しており、「マリ子」が駐兵問題に対する米国政府の反応を意味することは筒抜けだった。日本大使館が本国政府と電話でやり取りする内容は、米情報機関によって逐一盗聴されており、この10月14日正午(日本時間)に行われた国際電話の内容も、具体的な盗聴記録として残されている。1980年(昭和55)に新潮社から出版された、柳田邦夫『マリコ』から内容を少し編集して引用してみよう。
  
 寺崎「マリ子さんはいかがですか?」
 若杉「こちらが気に入らなければ、マリ子さんは御宅に遊びに来るかもしれません。しかし、七福神の懸物は大変気に入っています。その後の私の健康ですか? どうもよくありません」……
 <意味>
 寺崎「駐兵問題に対する米側態度はどうですか?」
 若杉「日本が何とか色をつければ(譲歩すれば)、米側態度はリーズナブルなものになるかもしれません。しかし、アメリカ側はこれまでの四原則をあくまで突張るでしょう。交渉の一般的見通しはよくありません」

  
 日米開戦ののち、自分の名前が暗号(符号)に使われたことなど知るよしもない寺崎マリ子は、1942年(昭和17)に捕虜交換船で両親とともに日本へもどっている。戦争が激しさを増す中、米国人であるグエンや娘のマリ子は周囲からスパイを疑われ敵意のこもった眼差しにさらされた。寺崎英成は自身の静養や、予想される米軍の空襲からの疎開もかねて、住まいを東京の自宅から小田原の知り合いの別荘へと移した。しかし、特高警察Click!は一家の監視を執拗につづけ、寺崎家に対して親切にした人々を大磯Click!警察署へ召喚し、嫌がらせの取り調べを行っている。
ヴァイニング夫人邸1947.jpg
寺崎マリ子.jpg 柳田邦夫「マリコ」.jpg
 戦後、寺崎英成は堪能な語学力をかわれて宮内庁御用掛となり、天皇とマッカーサー(あるいはGHQ)の通訳係の仕事をしている。国際政治の舞台を知悉していた英成は、日本政府のみならずGHQに対しても、しばしば意見具申をして採用されている。当時の学習院長だった山梨勝之進とともに、皇太子の家庭教師にエリザベス・ヴァイニングを推薦したのも英成だった。1946年(昭和21)にヴァイニング夫人Click!は来日し、林泉園に面した中村彝アトリエClick!の東並び、下落合1丁目430番地(現・下落合3丁目)に住むことになる。おそらく、寺崎英成も家族をともない、下落合のヴァイニング夫人邸を訪問しているにちがいない。

◆写真上:旧・下落合1丁目430番地の、エリザベス・ヴァイニング邸跡の現状。
◆写真中上上左は、長崎町並木1285番地の大塚彌吉。上右は、1926年(大正15)作成の「長崎住宅明細図」にみる大塚邸。下左は、椎名町駅から徒歩3~4分の大塚邸跡の現状。下右は、1945年(昭和20)4月2日撮影の空中写真にみる大塚邸と離れ家。
◆写真中下は、公文書館に保存された外務省文書「日米外交関係雑纂」の1941年(昭和16)10月13日午前11時40分に発信された電送第39384号。下左は、グエンとマリ子(右)。下右は、家族の記念写真で右から寺崎英成、グエン、マリ子。
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみるヴァイニング邸。下左は、学生時代に米国で撮影された寺崎マリ子。下右は、柳田邦夫『マリコ』(新潮文庫版)。

海の匂いがする笠原吉太郎『房州』。

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 先日、笠原吉太郎Click!が描いた油彩画『房州』(キャンバス6号F/318×409mm)を、三女・昌代様の長女である山中典子様Click!よりお預かりしている。わたしは潮風Click!で育ち海辺が大好きなので、とてもうれしい。描かれた作品のタッチや表現から、大正末ぐらいに房総半島Click!へ写生に出かけ、描いた作品ではないかと思われる。拡がる海は、もちろん太平洋だ。大正時代には、画家たちが房総の海岸線をたどるように写生へ出かけており、こちらでも中村彝Click!曾宮一念Click!佐伯祐三Click!安井曾太郎Click!などの房州旅行をご紹介している。
 笠原吉太郎『房州』も、そのような画家たちのムーブメントに惹かれて、房総半島を訪れた際の作品だと思われる。浜辺には、地曳き網Click!に使用すると思われる、引き揚げられた舟の艫(とも)らしいかたちが描かれており、そのすぐ右手には網や浮きを収納する漁師小屋と思われる、小さな屋根の家があるようだ。おそらく、舟の傍らには材木の“コロ”が何本も置かれており、波打ち際まで舟を運ぶときに下に敷いては滑らせるのだろう。この光景は、その昔、わたしが子どものころ湘南海岸でいつも見ていた情景とまったく同じだ。
 手前には小さな川が流れており、それがちょうど海へと注ぐ河口のようだ。川の流れと、海からの波が衝突するところが白く波立っている様子で描かれている。また、浜辺の近くにはたくさんの岩礁が見えており、それらにぶつかってくだけた波頭をとらえるのに、ホワイトの絵具を鉛管から直接絞りだしては盛りあげる技法で表現されている。
 わたしがちょっと不思議に思うのは、通常、このような岩礁や岩場のある浜辺で地曳き網は行われない。漁網が岩礁の鋭い先へひっかかり破れてしまうのと、当時の網に結び付けられた浮きは、中に空気を閉じこめた木樽や大きなガラス球が多く用いられていたと思われるので、岩礁にぶつかればすぐに破損してしまうからだ。舟の左手に、岩礁のない滑らかな砂浜がつづいていると考えればつじつまが合うのだけれど、ひょっとすると笠原吉太郎が海辺を写生して歩いたスケッチブックによる、意図的な“構成”画面なのかもしれない。すなわち、舟や漁師小屋を写生した場所と、小流れが終わる河口から岩礁がある海の写生場所とは、異なっている可能性が残る。
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 大正期に笠原吉太郎が表現していた画面の技法について、外山卯三郎Click!が書いている。1973年(昭和43)発行の『美術ジャーナル』、「画家・笠原吉太郎氏を偲ぶ」から引用してみよう。
  
 笠原吉太郎氏の作品の根底は、自然写生であったといえるのです。大正末期から初(ママ)まる一連の写生を見ますと、まだ画筆による描写が多くて、ユトリロ風のナイーブな自然主義的な描写が多かったのですが、ヴラマンク的な自然主義に接近するにつれて、だんだんとペインティング・ナイフを多く使用するようになり、昭和時代に入ると、その殆んど悉くの描画がペインティング・ナイフによって、直截にまた簡明に処理されるようになってきたのです。そのために、一見すると、その作画が非常にスピードをもった一筆描きのように強く、ナイフで両断されているのであったのです。このスピードのあるナイフの一筆描きの手法によりますと、かって絵筆によって一筆一筆と、太陽光線を分解しながら、眼に見えるままを描写していた印象派の画家たちの手法は、一度にかきけされてしまう新表現になったと思われたのです。
  
 笠原吉太郎は、昭和期に入るとフォーブの影響を色濃く受け、ペインティングナイフを多用して厚塗りの画面を「暴れさせる」作品が急増する。もちろん、近所に住み1926年(大正15)春に帰国した佐伯祐三の影響が、ことのほか大きかったと思われる。絵筆による表現が主体の『房州』は、後年の作品に比べれば比較的おとなしく、大正末期の制作であることを想起させる。もっとも、1928年(昭和3)9月13日の東京朝日新聞には、第3回笠原吉太郎展の展評記事が掲載されている。その中に、気になる作品のタイトルが見えている。以下、外山の文章から記事を孫引きしよう。
  
 笠原氏の個展、長らく図案にかくれて居た笠原吉太郎氏は、両三年前から再び洋画に立帰り、十二日から十六日まで、本社画廊で、その第三回展を開いている。点数五十七、中で風景多数を占め、「丘の家」、「雪のあした」、「船のとも」、「波止場の夕」、「犬吠岬灯台」、などとりどりによい。氏の特色とするところは、暗い色と力のある筆致で、見る者に重々しい気持ちを与えずには置かぬ。構図の扱方も堂に入っている。
  
 タイトルの中には、明らかに『下落合風景』とみられる作品もあるが、この中で『船のとも』がもし『房州』と同一の作品だとすれば、同じ房総の『犬吠岬灯台』とともに大正末から昭和初期にかけての笠原作品ということになる。地曳舟の艫(とも=船尾)を描いた『房州』が、第3回個展に出品した『船のとも』であるとすれば、笠原吉太郎が気に入っていた作品ということにもなるだろう。
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 画面は、おしなべて上部の空が薄塗りで、下部の陸地が相対的に厚塗りとなっている。絵筆とナイフの双方を使って描かれているが、表現によっては絵筆の“お尻”を使って、生乾きの画面をなぞっているのかもしれない。また、ホワイトの鉛管から直接絵具を絞りだした、厚塗りの波の部分には絵具のクラックや剥脱が見られる。そこからのぞいて見えるキャンバス地には、佐伯祐三のキャンバスClick!に見られるような下塗りは、まったく施されていないことがわかる。
 笠原吉太郎は、キャンバス地にほとんどそのまま絵具をのせて描いていたようだ。ただし、キャンバスの端や裏面を見ると、どこか光沢のあるエナメルのような質感がうっすらと残っているのがわかる。これが、笠原独自の“下塗り”であり、油絵具のノリをよくするために、さらには作画スピードをアップするために施したなんらかの画布加工であるとすれば、いったいなにが塗布されているのだろう? 詳細に分析してみないとわからない、“謎”のてかりだ。あるいは、キャンバスを長期間にわたって維持するために塗布した、なんらかの保存剤の可能性もある。
 キャンバスは、合成繊維の混入がないピュアな麻布であり、黒光りした木枠も佐伯作品Click!と同時期の大正期のものだろう。現在はクリーニングが行なわれ、木枠やキャンバスが補修材で覆われて、めったに見ることができない佐伯のキャンバスだが、おそらく当作品と同じような裏面の表情をしているのだろう。キャンバス裏の左上には、笠原吉太郎の筆跡で「房州」という文字が書きこまれている。また、同作は一度画面が破れており、それを笠原自身が麻布でていねいに補修した跡も残っている。特に思い出の深い、画家お気に入りの作品だったのだろう。先述したように、1928年(昭和3)に東京朝日新聞社の画廊で開催された、第3回笠原吉太郎個展で評判のよかった『船のとも』は、この作品のことなのかもしれない。
 もうひとつ、6号Fサイズの木枠に張られる際、キャンバスをほんの少し小さめにしていることが、周囲の絵具の痕跡や古い釘跡から想定できる。当初は、6号Fよりも上下に数センチほど幅広く描いていたものを、展覧会などで額に嵌める際、正確な6号Fの木枠へ貼り直したものだろう。
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 さて、この情景は千葉県につづく海岸線のどこを描いたものだろう。いつも、描画ポイントにこだわるわたしなのだが、さすがに房総半島の海辺までは範囲が広すぎてまったくわからない。青木繁や中村彝が滞在した、布良(めら)Click!の近くだろうか。それとも、銚子の街も近い外房の海岸だろうか。大正期の風景なので難しいかもしれないのだが、お心あたりの方はコメント欄まで。

◆写真上:大正末ごろに制作されたとみられる、千葉県の海岸を描いた笠原吉太郎『房州』。
◆写真中上:画面各部の拡大で、上部が薄塗りなのに対して下部が相対的に厚塗りだ。
◆写真中下:ほとんどが絵筆による表現であり、ナイフによる技法はあまり用いられていない。
◆写真下:キャンバスの様子や、裏面のタイトル、パッチ、木枠、釘跡などの状況。

空襲11日前にみる最後の目白文化村。

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 米国防総省(ペンタゴン)が情報公開し、米公文書館へ収蔵された1947年(昭和22)の空中写真を、国土地理院の日本地図センターがずいぶん以前から公開しているのは有名だ。Gooの地図システムにも、透過の焼け跡写真としてセッティングされている。だが、新たに発見された写真に1945年(昭和20)4月に撮影された空中写真のあることが判明した。これは先年ニュースにもなり、瀬戸内海の柱島泊地に停泊中の、戦艦「大和」Click!の最後の姿(最終兵装)をとらえたものとして新聞などでも話題になった。その、一連の偵察写真の一部だと思われる。
 その中で、同年4月2日に東京上空から撮影した写真の存在していることが判明した。この一連の空中写真は、それほど枚数が多くなく、東京を網羅的に撮影しているわけではないが、同年3月10日の東京大空襲Click!のあと、鉄道と駅、そして河川沿いの中小工場を目標にした、同年4月13日の第1次山手空襲における爆撃目標の確認および特定用に、B29偵察機の2機が撮影(ないしは1機による反復撮影の可能性もあるが、2機偵察が通常)したものだ。飛行コースの標定図によれば、2機の偵察機は東京の西部から侵入し、北を飛ぶ1機は石神井上空から、また南を飛ぶ1機は吉祥寺上空から空撮をスタートしている。
 北側のB29偵察機は、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)沿いの街々を撮影したあと、練馬駅上空で急に進路を北東に変え、板橋の大谷口上空へと侵入し、そのまま東南東へ進んで池袋の北側から巣鴨、千駄木、谷中と撮影し、やがては現在の台東区から江東区(すでに3月10日の大空襲で焼け野原だった)の上空を飛行して、東京湾へと抜けている。
 また、南側の偵察機は、吉祥寺から中野まで中央線沿線をくまなく撮影したあと、北側の機とシンクロするように中野駅上空から急に北東へ航路を変え、下落合西端の城北学園Click!(現・目白学園)の上空へさしかかり、そこで再び進路を変えて東南東へと偵察写真の撮影をつづけていく。やがて、神田川に沿うように飛行して、秋葉原上空から神田、東京駅、日本橋、清洲橋、深川と通過し東京湾のかなたへと去っていった。
 おそらく、地上では空襲警報が発令されただろうが、ほどなくB29が2機ないしは1機なので偵察目的と判断されただろう。よく晴れた日で、地上からは銀色に光る機体と飛行機雲がよく見えたと思われるのだが、おそらくこの時期には迎撃戦闘機Click!は飛ばず、高射砲陣地も沈黙していただろう。本格的な空襲ではなく偵察目的で高々度を飛ぶB29に、もはや迎撃機の燃料や高射砲の弾をふんだんに使えるほど余裕がなくなっていたと思われる。撮影ポイントの標定図を見るかぎり、特に飛行が混乱した様子もなく、偵察機は予定どおりのコースを飛行して東京湾へと抜けている。
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 さて、ここで重要なのが、中野駅上空から急に航路を北東に変え、なぜか下落合の真上を通過していった南側のB29偵察機だ。おそらく、中央線沿線の駅や街々を撮影したあと、妙正寺川と神田上水(現・神田川)沿いに展開していた中小の工場(その多くが染物工場や製薬会社など)と、西武電鉄(現・西武新宿線)沿いの様子を撮影する必要が、偵察任務に含まれていたと思われるのだ。そして、同年4月13日の第1次山手空襲では、まさにこれらの偵察機が撮影していった鉄道沿い、および河川沿いの地域が実際に爆撃を受けている。
 南側の偵察機は、西落合の自性院上空で一度めのシャッターを切ったあと、聖母病院のフィンデル本館の真上で二度めのシャッターを切っている。その次は学習院の真上なので、1945年(昭和20)4月2日現在の下落合を正確にとらえた空中写真は、聖母病院の上空で撮られた1枚だ。そして、この写真こそがわずか11日後に空襲で一部が焼失したらしい、目白文化村Click!の第一文化村および第二文化村の健全な姿をとらえた、最後の写真ということになる。日本の陸軍が撮影した1944年(昭和19)の写真に比べ、レンズやフィルムの解像度が格段に高いため、落合地域の子細な様子を観察することができる。
 第一文化村に接した、旧・箱根土地本社ビルClick!(のち中央生命保険倶楽部)は解体され、すでに存在していないことがわかる。これは、人が実際に住んでいない家屋や、家族全員が地方へ疎開してしまった建物は、延焼防止のために解体するという自治体や防護団の「建物疎開」Click!方針によって取り壊された可能性がある。下落合東部の近衛町では、家を購入したものの転居が済んでいなかった旧・杉卯七邸Click!が、防護団による解体の危機にさらされた。
 さて、第一文化村の元・長谷川邸(のち穂積邸に南接)のテニスコートは見えているが、当時は食糧確保のための畑にされていた可能性が高い。また、センター通り沿いにあったテニスコートは、すっかり住宅で埋められていて存在していない。第二文化村にあった益満邸のテニスコートClick!(佐伯祐三「テニス」Click!のモチーフ)やビリヤード場の建物も、それらしいスペースは見えているがすでに廃止されていただろう。この時期、家々の庭先には防空壕が掘られ、3月10日の東京大空襲Click!で現実化した絨毯爆撃の様子を伝え聞きClick!、文化村の住民たちは戦々兢々としていたにちがいない。箱根土地ではなく、かなり遅れて勝巳商店地所部が売り出した「第五文化村」Click!には、すでに家々が5割ほど建ち並んでいるのが見てとれる。
相馬邸跡.jpg
標定図19441203.jpg
 目白文化村の第一・第二文化村は4月13日夜半、妙正寺川沿いの空襲の余波を受けて被爆炎上するはずなのだが、まだ落合全域が被災するほどの爆撃ではなかった。特に下落合の東部は、いまだ全域が焦土と化すような被害を受けてはいない。これらの住宅街(おもに山手線が近い東部)が、緑が濃い島状の敷地を残して焦土と化すのは、12日後に行われた第2次山手空襲Click!によるものだ。一度めの空襲では、十分な爆撃効果が得られなかったと判断したのか、5月25日夜半の空襲はまさに(城)下町Click!と同様の徹底した絨毯爆撃だったようだ。また、同爆撃では米軍の被害も大きく、3月10日の東京大空襲におけるB29の未帰還機が13機だったのに対し、5月25日の第2次山手空襲では、29機のB29が未帰還と記録されている。
 さて、同空中写真では、下落合東部の相馬邸跡地の開発が目につく。1941年(昭和16)に黒門Click!の福岡への移築工事がスタートし、相馬邸母屋Click!もおそらく1943年(昭和18)ごろまでには解体されたとみられるが、その後の宅地開発の詳細が同写真でハッキリとわかるからだ。相馬邸の敷地跡には、十字型の三間道路が敷設され、東西道路の北側はすでに宅地の地割りが済み、およそ15の区画に分割されているのがハッキリと見てとれる。これは、東邦生命の太田清蔵Click!が1940年(昭和15)に淀橋区へ提出した、「淀橋区下落合壱丁目指定申請建築線図」Click!の12区画よりも分割数が増えていることになる。
 東西道路の南側、すなわち相馬邸を買いとり黒門を移築した4代目・太田清蔵の息子で、当時の東邦生命社長だった5代目・太田清蔵Click!の屋敷があったエリアは、淀橋区へ提出した「建築線図」のとおり、空中写真を参照するかぎり宅地開発で売り出したのは5区画だったと思われる。そして、相馬邸の南西に見えており、芝庭の南斜面や谷戸に面して建っている少し大きめな邸が、5代目・太田清蔵の自宅Click!だと思われる。この邸の姿は不明だが、ひょっとすると相馬邸の解体で出た建材の一部を、自邸の建設へ流用しているのかもしれない。
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山手線.jpg
 1945年(昭和20)4月2日に撮影された空中写真には、11日後に焼失してしまう戦前の落合地域の貴重な姿が記録されている。さまざまなテーマに活用できる1級資料なので、これからの記事へも積極的に引用していきたい。また、米軍のB29偵察機は同年5月25日夜半の第2次山手空襲の直前にも、池袋駅あるいは下戸塚(早稲田)あたりを飛行している。この2つの空中写真を突きあわせると、これまで知られていないどのような事実が浮かびあがるのか、とても楽しみだ。

◆写真上:空襲直前、1945年(昭和20)4月2日撮影の第一・第二・第四文化村。
◆写真中上は、第一文化村の箱根土地本社跡から前谷戸にかけての様子。は、第二文化村に隣接して勝巳商店が1940年(昭和15)から販売した「第五文化村」の様子。
◆写真中下は、1940年(昭和15)に東邦生命から淀橋区へ提出された「指定申請建築線図」どおりに開発が進む御留山の相馬邸跡と5代目・太田清蔵邸。は、前年の1944年(昭和19)12月3日に飛来した2機のB29偵察機による飛行撮影コース(標定図)。
◆写真下は、建物疎開(防火帯36号江戸川線)が進む神田川と妙正寺川沿い。は、目白橋付近で撮られた6両編成とみられる山手線。目白通りは一部を除き、いまだ建物疎開が行われていない(!)のがわかる。このテーマについては、改めて書いてみたい。

教育紙芝居を創作した高橋五山。

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高橋五山邸跡.JPG
 わたしが紙芝居を見たのは、おそらく幼稚園の園児だったころではないかと思う。なんらかの物語や逸話などを、紙芝居に仕立てなおした内容で先生が読んでくれたのではなかったか。その鮮やかな色彩は、いまだに目に浮かんで消えないでいる。
 いまでも憶えているのは、歯磨きをちゃんとしないと口の中にバイキンくんがたくさん増殖し、歯がバイキンくんたちの鑓で突っつかれて虫歯になるよ……というものだったり、ちゃんと食事を摂らないとお腹の中の栄養工場で働いているヲジサンたちが、ひもじい思いをして働けなくなっちゃうよ…とか、そんな教訓めいた教育紙芝居だったように思う。虫歯の紙芝居は、大きく口を開けて喉ちん〇までが見える作画がリアルで、その中を尖がり頭をした黒いバイキンくんたちが走りまわっているのが、気持ちが悪かった。紙芝居を見たあと、なんだか吐きそうになったのを憶えている。
 お腹にいる栄養工場のヲジサンたちは、紺色の菜っ葉服を着てやたらリアルに描かれており、そんな人たちがお腹の中にいるのかと思うと不気味なことこの上なかった。かなりあとまで、お腹が痛くなったりお腹を壊したりすると、青い菜っ葉服のヲジサンたちがいまにも死にそうな様子をして横たわっているイメージが目にチラつき気味が悪かったのは、まちがいなくこの紙芝居のせいだ。ヲジサンたちは、いつもうつむき加減で流れ作業のコンベア労働を地道にしており、モノを食べるととんてもない忙しさにみまわれるのだろうな……と、当時から気の毒に思っていた。
 小学校の1年生のときも、担任の先生がなにか紙芝居を読んでくれた記憶がうっすらと残っているが、それがどのようなストーリーだったのかは憶えていない。おそらく、幼稚園時代のようなどこかグロテスクでショッキングな画面ではなく、もう少しまともでおとなしい作画による童話のような展開だったのだろう。小学校へ入学すると、わたしは紙芝居よりも絵本のほうが面白く、授業がはじまる30分も前に登校しては、教室に備えつけられた絵本類を読むのが好きだった。中でも、アフリカの動物を紹介した絵本がいちばん好きで、絵本を占有したいため級友と登校競争をしたこともあった。
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 親父たちの世代では、紙芝居はもっと身近な存在だっただろう。街中で遊んでいると、必ず紙芝居屋が自転車でやってきて、空き地や公園で演じてくれていたからだ。集まった子どもたちが、アメをひとわたり買い終えると、お待ちかねの紙芝居がはじまるのだが、アメを買う子が少ないと紙芝居はいつまでも幕を開けない。アメを買わずにタダ見をする子たちがいるのも、紙芝居屋はちゃんと知っていて、その子たちがアメを買うまでなかなかはじめないのだ。中には、アメを買うおカネのない子もいて、そういう場合はおカネのある年上の子が融通してめんどうをみる、つまりおごってあげて紙芝居を見るというように、近所の遊び仲間にはいわず語らずの“お約束”があったようだ。小遣いClick!が非常識なほど豊富だった親父は、小さな子どもたちによくおごってあげたらしい。
 当時の紙芝居で人気があったのは、ただ笑っているだけのよくわからない正義の味方「黄金バット」や「少年タイガー」といった作品で、親父も夢中になっていたようだ。わたしは、街中の紙芝居というのを一度も見たことがない。すでにTVが普及し、アニメが全盛のころだったので、紙芝居屋は相次いで廃業してしまったのだろう。紙芝居屋がまわってきたという話も、近所ではまったく聞かなかった。
 親父が夢中になっていた紙芝居とはどんなものか、一度モノは試しと経験してみたかったので、実際に戦前からやっていた紙芝居屋さんを起用し、戦前の紙芝居画面をそのまま使って制作されたCDアプリケーションを、1990年代に手に入れたことがある。もちろん、いちばん有名だった「黄金バット」シリーズだ。「黄金バット」が、中立国のスイスにある目が4つの悪漢「ナゾー」の本拠地に乗りこんでやっつける筋立てなのだが、これがまったく面白くない。紙芝居屋さんの話芸が面白くないのではなく、ストーリーの展開そのものがバカバカしくてつまらないのだ。戦後のアニメで育ったわたしは、どうやら戦前の子どもたちよりも純粋さが失われており、はるかにこまっちゃくれスレているのだろう、途中でアプリをOFFにしたくなるほど退屈してしまった。
高橋五山「フシギノクニ」1937.jpg 高橋五山「なかよしのおうち」1955.jpg
高橋五山邸1926.jpg 高橋五山邸1938.jpg
 下落合735番地に、教育紙芝居の創始者である高橋五山(高橋昇太郎)が住んでいる。京都市美術学校と東京美術学校の、ふたつの美術学校を出た高橋昇太郎は子ども向けの絵本や紙芝居の世界で活躍した人物だ。自身でも金甲社という出版社を起ち上げ、幼児や児童向けの図書を編集している。特に子ども向けの紙芝居では、「教育紙芝居」という概念を打ちだし、幼稚園や学校など教育現場で演じられる紙芝居の創作・普及に尽力している。現在、幼稚園や学校などで教育に取り入れられている紙芝居は、すべて高橋昇太郎が開拓した路線上に位置しているといっても過言ではないだろう。いまでも、優秀な紙芝居に贈られる「高橋五山賞」(1962年~)としてその名が知られている。高橋五山の名前は、実はここの記事にもすでに登場している。戦前・戦中に下落合で行われた、旗行列や提灯行列Click!のルートを紹介した記事だ。
 1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には、高橋昇太郎ではなく父親の高橋五三郎が掲載されている。おそらく、ペンネームであり筆名の「五山」は、父親の「五三(郎)」からとったのではないかと思われる。また、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』には高橋昇太郎が載っており、職業は「画家」ということになっている。
 街頭紙芝居の多くが手描きなのに対し、高橋昇太郎は印刷紙芝居を創作して広範囲への普及を図った。紙芝居の絵は、絵本とともに画家たちのいいアルバイトにもなっただろう。紙芝居の作家である加太こうじが、こんなことを書き残している。加太こうじは染物屋「丁字屋」の息子だが、旧・神田上水もほど近い早稲田に住み、太平洋美術学校(旧・太平洋画研究所Click!)へと通っている。1972年(昭和47)に淡交社から出版された、加太こうじ『江戸っ子』の中から引用してみよう。
  
 叔母が学生相手の素人下宿として二階を貸すと、斎藤は終日階下の長火鉢の前にいた。そのころは、私は紙芝居の絵を描きながら私立の美術学校へ通っていた。
 「お前、油絵をやってるんだって、梅原のせがれが、そっちのほうで、洋行帰りでえらいってから紹介してやろうか」
 などと、私に調子を合わせて斎藤は梅原龍三郎のことを話した。梅原龍三郎は染物屋の息子で、その店と丁字屋は取引があったらしい。しかし、紙芝居の作画を業とする私には、日本の洋画壇を背負っているような大家梅原龍三郎は、あまりにもえらすぎた。
  
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 高橋五山は印刷紙芝居ばかりでなく、当時は斬新だった貼り絵紙芝居など、それまでになかった表現法による紙芝居も発明している。1965年(昭和40)に死去するのだが、特に戦前は出版した紙芝居がなかなか思うように売れず、その生涯は苦労の連続だったといわれている。

◆写真上:諏訪谷も近い、旧・下落合735番地にあった高橋五山邸跡(右手)の現状。
◆写真中上は、戦前の紙芝居ではヒーローだった「黄金バット」()と「丹下左膳」()。は、1964年(昭和39)の新宿で撮影された街頭紙芝居で、新宿歴史博物館が2009年に出版した写真集『新宿風景―明治・大正・昭和の記憶―』より。
◆写真中下は、高橋五山が創作した1937年(昭和14)の「フシギノクニ」()と1955年(昭和30)の「なかよしのおうち」()。下左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる高橋三五郎邸。下右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる高橋五山邸。
◆写真下:戦前戦後を通じて紙芝居を創作した、高橋五山()と加太こうじ()。

清水先生と金田一先生の雑司ヶ谷散歩。

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 目白通り沿いの近衛新邸Click!の敷地内、下落合437~456番地に創立された目白中学校Click!(東京同文書院Click!)は、1915年(大正4)の春より校内誌『桂蔭』(非売品)の発行をはじめている。編集長は、同中学校次長(のち校長)だった柏原文太郎Click!であり、誌面に原稿を寄せたのは同校の生徒監(教員)や卒業生、あるいは現役の生徒たちだった。
 寄稿者の作文は、それぞれ専門分野の論文や随筆、紀行、詩歌などさまざまだが、同誌には目白中学校で行われていた遠足やクラブ活動などの報告も掲載されている。『桂蔭』は、単なる校内文集という性格だけでなく同窓会のメディアとして、あるいは地方出身で東京へと勉強しにやってきた生徒の親たちへ、学内活動の報告メディアとしての役割りも果たしていたらしい。同誌の発行は毎年1回、新年度がスタートする3月ないしは4月に印刷され配布されたようで、奥付には3月末ないしは4月の発効日が見られる。基本的にはインナーツールだった『桂蔭』だが、めずらしく古書店で数冊手に入ったので、その内容をつれづれご紹介したい。
 1922年(大正11)3月末に発行された『桂蔭』第8号には、同行の出身県別の生徒数が記録されている。創立当初は、おそらく東京市内からの通学者ばかりだったと思われるのだが、このころになると大学並みの教師陣と中学野球大会における数度の優勝によって評判を呼び、全国的にも知名度が高まっていただろう。東京市内では公立なら一中Click!、私立なら目白中学という選択肢が語られていたころだ。生徒たちの県人別をみると、ほぼ全国の道府県はもちろん当時は日本の植民地だった朝鮮や台湾、さらに中華民国からも生徒が留学していたことがわかる。もっとも多いのは東京府の385名で、もっとも少ないのが徳島県の1名となっていた。以下、出身県別の生徒数を一覧表にしてみよう。
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 上位を関東各府県の出身者が占める中、新潟県出身の生徒が相対的に多いのが目立っている。次いで、関東以外では昔から教育県といわれていた長野県が多い。また1922年(大正11)現在、校長・細川護立Click!や次長・柏原文太郎、教頭・門脇三徳、名誉学監・十時彌は別にして、生徒たちの授業を担当する教師は29名が勤務していた。
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 生徒たちは放課後、いずれかのクラブに属して活動をしても、また下校して好きなことをしてもよかったようで、それらの課外活動は『桂蔭』の巻末に報告が載せられている。当時のクラブ活動は、学芸部門が弁論部・文芸部・図書部の3部、運動部門が運動会・遠足会・剣道部・柔道部・相撲部・庭球部・野球部・徒歩部の8部が設置されていた。これらのクラブ活動の成果は、『桂蔭』の巻末に紹介されており、特に運動部の場合は他校との交流試合などの結果が詳細に記録されている。そのほか、同好会のような部活もあったようで、美術教師の清水七太郎Click!が創立した美術団体「目白社」も、学校が運営するクラブ活動というよりは、OBや交友も自由に参加できる同好会的なスタンスだったようだ。
 目白社は、目白中学の校舎内で毎年秋に展覧会を開催しており、展示会場には同校の教室や廊下などの空いたスペースが使用された。当初は洋画が主体だったが、1921年(大正10)の秋より写真作品の募集もはじめている。つまり、目白社は同年から、美術部と写真部とを合わせたような同好会として再スタートをきっている。同年の展覧会には洋画が63点、新たに募集がスタートした写真が24点も展示された。当時、カメラはかなり高価だったと思われるが、開始早々の写真部門に7人の生徒たちが参加しているところをみると、かなり裕福な家庭の子どもたちが多かったようだ。
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 これらの絵画や写真のタイトルには、明らかに落合地域やその周辺を描いた、または撮影したと思われるものが含まれている。たとえば、洋画では顧問教師の清水七太郎による『風景』『郊外の冬』『校内風景』『テニスコート』をはじめ、生徒または交友の熊代勇吉『冬枯れの丘』『晩秋風景』『風景(射的場)』、長瀬得三『郊外の冬』、成田實『静かなる小路』、寺尾龍助『午後の秋』、小川薫『風景』、宇井恒『秋』、湯川尚文『落日(江戸川にて)』などだ。また、写真部門では加藤總一郎『池畔』、横溝光『雪の戸山ヶ原』、金子喜一『水車のある風景』『夏の川辺』『風景』、宇田川秋次郎『秋の戸山ヶ原』『晩秋の神田川』など、明らかに目白中学校のある下落合やその周辺域を想起させるタイトルが並んでいる。
 美術教師の清水七太郎は、雑司ヶ谷墓地も近い高田町雑司ヶ谷水久保245番地に住んでおり、英語教師の金田一京助Click!とはかなり親しかったようだ。金田一はこの時期、本郷区森川町1番地に住んでいたが、清水七太郎の家へ生まれたばかりの子どもの顔を見にわざわざ出かけている。その途中、清水といっしょに雑司ヶ谷墓地を散策したらしく、『桂蔭』第8号には「きんたいち京すけ」のペンネームで詩稿を寄せている。
  
 雑司ヶ谷の墓地-清水君に-  きんたいち京すけ
 君のとこのあかんぼを見に/君に附いて/ゆくりなく過ぎる雑司ヶ谷の墓地
 がらんとした墓場のしづけさ/そのなかで/どこかに鶯の声がする
 どこかの新しい墓の中で/幼な児の泣いてゐるのではないか/墓地のうぐひす
 しんとして魂までもひびき/さびしくも又うつくしい/墓地のうぐひす
 墓地の片隅に/暖く日を浴びて/真昼に咲いてゐたあの一本の白梅
 ひつそりしあたの墓場を背景に/満開に咲いてゐた梅の面影が/忘れともない
 霜融けの遅い墓地の小みちを/われらは語りながら過ぎた/それは君と二人だつた
  
雑司ヶ谷水久保245.jpg 桂蔭会規則.jpg
 運動部の中で、「遠足会」と「徒歩部」というのが聞きなれないが、今日の表現を当てはめてみると前者は東京近郊まで列車で出かけていく「ハイキング部」であり、後者は近くの名所旧跡をめぐる「街歩き部」というような位置づけだろうか。1924年(大正13)春の『桂蔭』第10号には、「遠足会」による湘南プチ旅行のレポートが掲載されており、当時は東京人あこがれの別荘地・大磯Click!の千畳敷山(湘南平Click!)や鴫立庵Click!照ヶ崎Click!などへ立ち寄った紀行文が記載されているのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:目白通りに面した、下落合437~456番地の目白中学校跡の現状。
◆写真中上は、目白通りから眺めた目白中学校。下左は、1922年(大正11)3月に発行された『桂蔭』第8号の表紙。下右は、同誌の奥付。
◆写真中下は、教職員の記念写真で円内は校長・細川護立(右)と次長・柏原文太郎(左)。後列右から3人目が金田一京助(英語)、後列左端が清水七太郎(美術)だと思われる。は、同じく教職員の集合写真で前列左から3人めが次長・柏原文太郎(実質は校長)、後列左から2人めが清水七太郎、後列左から6人めが金田一京助だと思われる。
◆写真下は、雑司ヶ谷墓地もほど近い清水七太郎の自宅があった高田町雑司ヶ谷水久保245番地。は、「桂蔭」会への参加規則。

墓参りで散策する小日向第六天町。

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 目白崖線の東つづきである小日向(こびなた)崖線については、うちの山手側の墓Click!がある関係から、これまで何度か記事に取りあげてきた。墓の西側には、東京で個人名をつけた特異なふたつの小学校のうちの1校、小日向水道端(すいどうばし)の黒田小学校Click!についてご紹介している。また、その黒田小学校跡からつい先年、文京区の発掘調査により出土した水戸徳川家の上屋敷Click!へとつづく、神田上水の開渠遺跡Click!も取りあげた。きょうは、うちの墓のすぐ東側にあった大きな屋敷について書いてみたい。いまでは、その痕跡は邸内に残る樹木の一部(大イチョウ)と、西側に延々とつづく石垣にしか面影をとどめていないが、ここは小日向崖線下を流れていた神田上水の北岸、昔は小日向第六天町(現・春日2丁目)といわれた一画だ。
 わたしは墓参りをすると、現在は道路となっている神田上水の開渠あとを散歩することが多い。西へ歩けば、とても昭和初期の建築とは思えない、戦後建築に見えたモダンな黒田小学校の校舎がつい最近まで建っていて、その裏の丘上には小日向氷川明神社(八幡社合祀)がある。そのまま西へ向かえば、江戸川橋から神田川の遊歩道沿いに椿山Click!関口芭蕉庵Click!細川邸庭園跡Click!(現・新江戸川公園)、高田氷川社Click!学習院馬場Click!そして佐伯祐三Click!山手線ガードClick!をくぐって下落合まで4kmほどを散歩できる。この旧・上水沿いの散歩が心地よいので、深川の墓には年に一度ぐらいしかお参りしないが、乃手の墓は出かける機会が多い。
 さて、墓から西側へ歩くと、ほんの1~2分で国際仏教学大学院大学という、一度では憶えられないむずかしい名前の学校がある。このキャンパスが、小日向第六天町の大屋敷の跡であり、住んでいたのは徳川幕府最後の15代将軍だった徳川慶喜(けいき)だ。大学の中へ入ってみる気になったのは、三岸アトリエClick!の保存に関連してお会いした、十川造形工房の十川百合子様Click!が徳川慶喜邸のジオラマを制作して展示しているとうかがったからだ。さっそく展示を拝見すると、なるほど聞きしに勝る広大な屋敷だったのがわかる。3,600坪にわたる広い敷地の北寄りに、まるで千代田城Click!の本丸御殿をミニチュアにしたような、甍の波が連なる邸が建設されていた様子がひと目でわかる。
 ただし、わたしが想像していたような豪華でオシャレな屋敷とは、だいぶ様子がちがっていた。下落合の徳川邸Click!(大垣)や目白町の徳川邸Click!(尾張)は、巨大で見あげるような豪華な西洋館を建設し、下戸塚三島山(現・早稲田甘泉園公園)の清水徳川邸Click!は大きな回遊式庭園を築造しているけれど、徳川慶喜邸はふつうの屋敷をそのままタテヨコへ拡張していったような、邸自体は大きいのだが建てつけはきわめて普通の家屋のように見える。江戸期から明治以降、神田上水沿いに建てられた徳川邸の中では、むしろ地味で質素な印象を受けるのだ。もっとも、建材にはかなりのおカネをかけていたのかもしれないのだが……。
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 徳川慶喜は、現在の後楽園にあった水戸徳川家の上屋敷で生まれ、明治以降、その北西800mほどの小日向第六天町に邸をかまえて、そこで1913年(大正2)に死去している。徳川慶喜邸は、二度にわたる山手空襲Click!でも炎上することなく、戦後までそのまま建っていた。徳川慶喜の孫娘である徳川喜佐子(のち榊原喜佐子)が書いた『徳川慶喜家の子ども部屋』には、徳川慶喜邸での生活や内部の様子が詳しく記録されている。1996年(平成8)に草思社から出版された同書より引用してみよう。
  
 邸の庭の西側は高い崖になっており、長く垣根が連なる崖沿いは私たちの散歩道だった。垣根の外側には、毎年春になると土筆があちこちに茶色い顔をのぞかせ、夏になると大株のススキが茂りに茂った。その茂みから、一間ぐらいもある大きな青大将が何匹も見つかったこともある。台風が来るとこのススキの群れは、竹垣ぎわの何本もの大木といっしょにざわざわごうごうと騒いでいた。晴れた日の夕方には、西の丘の会津様の森の上に富士山や秩父連山が望め、その後ろに赤い夕日が沈むのが見えた。/崖下は細い路だった。路は崖下の方から土止めの高い石垣に沿って南北に、江戸川の方から茗荷谷の方にと伸びていた。路の脇から小さな家々が軒を連ね、会津様とわが家の高台とのはざまを埋めていた。この細い路からは荷車が通る音が聞こえ、家々からは生活の音が響いてきた。まだ私が床にいる寒い冬の朝など、納豆売りの少年の声が聞こえてきた。夏の夕方などには二階家の窓から小学生と思える男の子が声を出して読本を読んでいるのが見えたりした。
  
 敷地の西側につづく、崖の土どめとして築かれた擁壁は、いまもそのままの姿で残っている。この道をまっすぐ北へとたどれば、茗荷谷駅も近い地上を走る丸の内線の線路と、東京メトロの地下鉄操車場へと抜けられる。文中の「会津様」とは、うちの墓地に隣接する旧・会津藩の松平容保邸跡のことだ。
 同書には、興味深い記述も見える。1936年(昭和11)2月28日のいわゆる二二六事件Click!の際、青山の女子学習院Click!に通っていた徳川喜佐子は、やはりいつもどおりに通学している。彼女は運転手つきの自動車で通学していたが、電車で通っていた級友たちも登校していたことがわかる。また、その日の授業が中止になり帰宅すると、徳川邸では家内じゅうのラジオがつけっぱなしになっていた様子が記録されている。つまり、かなりの積雪があった当日、電車は遅れが出ていたかもしれないが通常どおり運行Click!しており、ラジオも“沈黙”Click!せずに放送していた様子が記録されているのだ。これは、わが家の情景Click!ともからんでくるテーマだが、二二六事件の当日、市内の電車は運行を停止しラジオは放送を中止していた……という記述は、なにを根拠にそう規定しているのだろうか?
徳川慶喜邸平面図.JPG
徳川慶喜邸ジオラマ.JPG
  
 同級生の中では、赤坂表町にお住いの高橋さん(高橋是清蔵相の令嬢)は来ておられなかった。白根さん(官房長官白根竹介氏の令嬢)は、官舎を出てから兵隊に銃剣を背中に突きつけられて歩いてきたと言われた。信濃町にお住いだった犬養さんは、学校に来る途中の道で顎紐姿の兵に阻止され家に引き返したと、のちに伺った。/やがて、今日は休校、皆急ぎ帰るようにと先生のお話があるころには、斎藤実内大臣、高橋蔵相はじめ相当数の大臣が襲われ、亡くなった方々もあると伝わってきて、皆で、「高橋さんはどうしていらっしゃるのかしら」とお案じしつつ帰宅したのだった。/家に帰れば、家でも皆が事件の話で持ちきりだった。表、奥のラジオは一日中つけられ、これはただならぬ事件だということが、私たちにも分かってきたのである。
  
 特に徳川喜佐子が登校直後、すでに犠牲者の情報をかなり正確に把握している点に留意したい。この情報源は、女子学習院の職員室で聞かれていた朝のラジオではなかっただろうか。また、徳川邸の「表」と「奥」という表現が見えるが、これは千代田城の本丸と大奥との関係に近く、「表」には応接間、食堂、納戸、図書室、事務室、お次(女中)部屋、化粧室、使者の間などが展開し、「奥」には客間や家族たちの個室が設置されていた。
 同日の午後に、東京市内へは警備兵が展開するが(どこの連隊か、すでに午前中から展開していた警備兵の目撃例もある)、彼らは北関東の兵営から東京市内へ急遽、出動を命じられた連隊の兵士たちだった。市内に駐屯していた近衛師団の各連隊や、第1師団の第1・第3連隊は二二六事件を起こした当事者たちClick!の連隊であり、事件に関与せず兵営に残っている部隊とはいえ、陸軍は彼らを市内へそのまま展開することに危惧をおぼえただろう。
 大六天町の徳川邸には、宇都宮からやってきた李王の率いる歩兵第59連隊が駐屯している。屋敷内はもちろん、南側の庭などの空いたスペースに、士官や兵士たちはテントを張って駐留したようなのだが、少なくとも連隊なので兵士の数はゆうに1,000名を超えていただろう。そんな大人数を収容できるほど、徳川慶喜邸の敷地は広かったことになる。
  
 お客座敷の一の間が聯隊長、李王様のお部屋となった。李王様は床の間を背にしてあぐらをかいて座られ、大きな紫檀の卓で事務をとられていた。次の二の間は空き室にして、三の間に聯隊旗が入り、そこには旗手の若い少尉殿がずっと詰めていた。お次の人たちはこの少尉殿を「かわいい」とか「素敵だ」とか、さかんに騒いでいたが、私たちは子どもだったのか、特別関心を持たず、三の間をのぞいたこともなかった。/ご滞在中の李王様の夕食のお給仕や、お話し相手に伺うのが、私たちの役目だった。
  
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榊原喜佐子「徳川慶喜家の子ども部屋」1996.jpg 徳川喜佐子.jpg
 戦後まで焼け残っていた徳川慶喜邸を、一度でいいから見てみたかった。もっとも、下落合の徳川さんちClick!のように、お訪ねすると気軽に邸内の説明をしてくれるというような、さばけた雰囲気ではなかったようにも思えるが……。徳川邸には戦前、警官はもちろん警視庁の刑事や医者、コックまでが、北側の庭先に家を建てて住んでいた。

◆写真上:第六天町にあった、徳川慶喜邸の敷地西側につづく崖地の擁壁。
◆写真中上は、同じく敷地西側の延々とつづく擁壁。下左は、現在の国際仏教学大学院大学の正門付近から北を向いて撮影した様子。下右は、徳川邸の応接間(お折衷の間)跡あたりから南の芝庭跡や「下のお長屋」跡の方向を向いた様子。
◆写真中下は、邸の間取り図。は、十川造形工房が制作した徳川邸ジオラマ。徳川慶喜が隠居所を増築した、1911年(明治44)ごろを想定して再現されたそうだ。
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる徳川慶喜邸。は、榊原喜佐子『徳川慶喜家の子ども部屋』(草思社/)と、著者の榊原喜佐子(徳川喜佐子/)。

上落合の八島太郎(岩松淳)。

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上落合1丁目510番地.jpg
 1935年(昭和10)の9月、八島太郎(岩松淳)Click!は新宿通りに面した紀伊国屋書店の2階展示室Click!で、「油絵・漫画・素描個人展覧会」を開いている。このとき、同展のコンパクトな図版が制作されており、「印刷発行責任者」である八島太郎の居住地は、淀橋区上落合1丁目510番地になっていた。
 この展覧会を訪れ、また図録を目にした特高警察Click!の刑事は、2年前の1933年(昭和8)の夏に逮捕・拘留し、3ヶ月にわたって苛烈な拷問の末にようやく「転向手記」を書かせたはずなのに、八島太郎はおろか妻の新井光子(岩松光子)もぜんぜん「転向」などしてないじゃないか……と感じただろう。しかも、図録には旧・プロレタリア美術研究所Click!岡本唐貴Click!や、窪川鶴次郎Click!までが賛辞を寄せていた。
 図録に掲載された同展覧会の作品群を見ると、小林多喜二Click!の作品タイトルそのままの『蟹工船』をはじめ、『貧農青年』、『農村青年』、『錬鉄場』、『船渠野天工事場』、『旋盤工』、『職場の鋳物工』、『旱害の山田』、『樟脳製造所』、『貧農』、『農村処女身売防止会』、『作家・窪川いね子(肖像)』……etc.、労働現場や労働者、肖像などを描いてはいるが、タイトルさえ変えればそのまま「プロレタリア美術」になってしまいそうなモチーフや表現ばかりだった。また、同展に賛助出品している妻の光子も、『貧しき親子』に『仕上工Aさんの像』と、これもタイトルを変えれば、すでに特高や憲兵隊に弾圧されて存在しないプロレタリア美術展に出品できそうな画面だった。
 図録に掲載された、岡本唐貴の八島太郎宛て手紙の文章から引用してみよう。
  
 こゝに新らしいリアリストの誇りがある     岡本唐貴
 岩松君が、「貧農青年」から「鋳物工」へと、現代日本の青年の一つの典型的な事情と個性を追跡してゐることについて、何人も大きな興味を有つ必要があると僕は思ふ。レンブラント的遺産の新らしい展開とも云へる。/青年の個性の歴史を描き出したこと、同情と理解をもつて彼の人生をモデルにしたこと、モデルの人生を人生と芸術との正しい結合の関係で愛してゐるといふことに、新らしい芸術家----リアリストの道への誇りを見出すことが出来る。/「貧農青年」以来のこれらの一連のポートレートは、個人主義的ブルジョア美術の最良の方法の伝統の継承の大道に入り込んでゐる。(私信より)
  
 モノはいいようで、「個人主義的ブルジョア美術の最良の方法の伝統の継承の大道に入り込んでゐる」という非常にまわりくどい表現は、裏返せば「プチブル的な視点に隠れつつプロレタリア美術の社会主義リアリズムをギリギリのところで継承し、なんとか検挙されずに済む狭隘な道を手さぐりで歩もうと模索している(岩松君)」と、岡本はいわず語らず書きたかったのだろう。この文章は、私信として岡本から八島太郎のもとへとどけられたものだが、当然、途中で特高に開封されて検閲を受けることを意識した文面だ。
岩松淳個人展覧会図録1935.jpg 漫画家自像193412.jpg
岩松淳個人展覧会図録出品リスト.jpg
 1935年(昭和10)9月発行の、「文学評論」10月号に掲載された窪川鶴次郎の文章も、読む人が読めば腹芸のように真意が伝わるような、含みの多い文章となっている。
  
 これがリアリズムの本道     窪川鶴次郎
 すぐれた理論的な高さ、鋭さ、正当さが、対象の把へ方、解釈の深さの中によく現はれてゐる。直感や色彩感の快さなどに甘んじてゐない。人物において著しいやうに、作者は対象のすべてに亘つてよく考へ、その意義を追究してゐる。恐らく美術においても、これがリアリズムの本道であろう。
  
 さて、1935年(昭和10)の八島太郎は、1981年(昭和56)出版の宇佐美承『さよなら日本―絵本作家・八島太郎と光子の亡命―』(晶文社)によれば、妻・光子の実家である神戸で暮らしているはずだった。でも、1935年(昭和10)9月には、少なくとも上落合に居住していたことになる。これは、岩松夫妻が神戸から東京へともどり、上落合の借家に住んでいたということではなく、岩松淳(八島太郎)が個展の準備や開催に備え、それほど長期間ではなく“単身赴任”し東京の拠点として、また仕事場として利用していたのだろう。
鋳物工像193504.jpg 旋盤工像193504.jpg
貧しき親子193507.jpg 煉鉄場193501.jpg
 上落合1丁目510番地の借家は、上落合1丁目470番地の吉武東里邸Click!(同邸が建設されたころは上落合469番地)から、同1丁目472番地の野々宮邸をはさんでさらに南側、二二六事件Click!で蹶起した青年将校のひとり、同1丁目512番地の竹嶌継夫中尉Click!の実家のごく近くだ。この区画には陸海軍の軍人が多く住み、おそらく一帯の地主は上落合1丁目528番地の加藤喜崇だと思われる。
 近所には、壺井譲治・壺井栄夫妻宅Click!(上落合2丁目549番地)や村山知義・村山籌子アトリエClick!(上落合1丁目186番地)、窪川鶴次郎・窪川稲子(佐多稲子)宅Click!(上戸塚4丁目593番地)、近所から「アカの家」と呼ばれていた上落合1丁目469番地の神近市子宅Click!、それに弾圧でつぶされたとはいえ全日本無産者芸術連盟=ナップ本部Click!(上落合1丁目460番地)が置かれていた地域だ。特高警察の眉が吊り上ったのは、想像に難くない。しかし、八島太郎は「個人主義的ブルジョア美術」の枠からはみ出ず、なかなかシッポを出さないので、特高は紀伊国屋書店の個展では再拘束できなかった。
 少し余談めくが、戦前・戦中を通じて上落合1丁目472番地の広大な野々宮金吾邸の敷地内には、憲兵隊の駐屯所が置かれていて常に憲兵が出入りしていたことを、先日、同地域に古くからお住まいの方にうかがった。上落合地域には、「元」プロレタリア芸術家がそのまま数多く住んでいたので、監視と威嚇の目的で駐屯していたものだろう。
 八島太郎が滞在した東隣り、上落合1丁目511番地には陸軍の近衛歩兵第一連隊少佐の川上明が住み、また八島宅の道路を隔てた西隣り、上落合1丁目509番地には海軍の航空本部勤務の中佐・大西瀧治郎が住んでいた。大西瀧治郎は、太平洋戦争の末期には海軍中将のポジションにあり、生還の望みがゼロのもはや作戦とさえ呼べない「神風特別攻撃隊」を指揮した“産みの親”だ。敗戦間際で兵器さえ存在しないのに、「二千万人の男子を特攻隊にすれば必ず戦局挽回できる」との妄言は“有名”だ。1945年(昭和20)8月16日、渋谷の焼け残った臨時海軍官舎で「作戦」の責任をとって自決している。
岩松淳・光子夫妻1930.jpg 岩松淳個人展覧会図録奥付.jpg
上落合1-510火保図.jpg
 さて、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、上落合1丁目510番地には芹沢邸を除けば4軒の家が確認できる。この中の1軒が、1935年(昭和10)に八島太郎が東京の拠点にしていた借家なのだろう。同じ地番の芹沢邸だが、この人物については『落合町誌』(1932年)に記載がない。八島太郎は、なんらかのつながりや伝手を頼って同地番の家に滞在していたと思うのだが、そこまでの資料はいまだ発見できないでいる。

◆写真上:岩松淳(八島太郎)の拠点だった、旧・上落合1丁目510番地(左手)の現状。
◆写真中上上左は、1935年(昭和10)9月に紀伊国屋書店の2階で開かれた岩松淳の個展図録。上右は、1934年(昭和9)12月制作の岩松淳『漫画家自像』。は、同展に出品された作品目録。妻の新井光子も、作品2点を賛助出品している。
◆写真中下は、1935年(昭和10)4月制作の岩松淳『鋳物工像』()と『旋盤工像』()。下左は、同年7月の岩松淳『貧しき親子』。下右は、同年1月の岩松淳『煉鉄場』。
◆写真下上左は、1930年(昭和5)に結婚した岩松淳と新井光子。上右は、個展の図録奥付。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合1丁目510番地。


全方位マーケティングの日本橋三越。

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 先日、全日本無産者芸術連盟(ナップ)が発行した、1928年(昭和3)の「戦旗」12月号Click!を手に入れたのだが、ひととおり目を通していて疲れてしまった。当時の左翼運動の熱気は伝わってくるのだけれど、全編にわたってマルクスだの革命だの、レーニンがどうしたのこうしたのを読んでいるといい加減ウンザリしてくる。同誌は、戦前の共産党における文化部門の機関誌なので、基本的に一般の広告は掲載されておらず、たまに掲載されていても左翼関連の本を発行している出版社のみなので、誌面に変化もなくつまらないのだ。
 たとえば、それらの出版社には『マルクス学教科書』を扱う小日向台町のマルクス書房(まんまじゃん/爆!)や、『労農日記』を出版していた早稲田鶴巻町の希望閣、『マルクス主義への道』を出していた神田の上野書店、『無産者グラフ』発行の芝にあった無産者新聞、『階級戦の先頭を往く』を出版した東五軒町の前衛書房、『帝国主義叢書』シリーズを発行していた神楽坂の叢文閣……と、作品や記事の間に登場するのはこんな広告ばかりなので、よけいに疲れてしまうのだ。でも、同誌を巻末近くまで読み進んだとき、いきなり噴き出して爆笑してしまった。
 東五軒町の前衛書房が、「統一戦線の声は全無産階級の戦野を圧してゐる……」ではじまる、力強い手描きのスミベタ白ヌキ文字で『階級戦の先頭を往く』を宣伝している前ページに、「御歳暮大売出し」のキャッチフレーズとともに、「何方(どなた)様もお喜びの三越の品」とボディにうたう日本橋三越の広告が掲載されていたからだ。ww
 一般企業の媒体広告では、ただひとつ日本橋三越Click!が出稿している。もう、華族様だろうがブルジョアジー様だろうが、プロレタリアート様だろうが、三越を訪れる人はすべて「お客様大明神」であり、三越がキライでケチをつけるお客様も店の勉強になるたいせつなお客様だ……と、往年の日比翁助Click!の徹底した経営思想が、昭和初期まで生きていたとしか思えない。
 しかも、1928年(昭和3)は「三・一五事件」Click!の大弾圧があった年であり、それでも日本橋三越は「戦旗」への出稿をやめてはいない。共産党=プロレタリアートと日本橋三越、このニッチなマーケティングを是認し、広告を出稿していた宣伝部にはどのような人物がいたのだろか?
  
 御歳暮大売出し ―十二月一日より全店一斉に開催―
 御歳暮の御贈答には何方(どなた)様もお喜びの三越の品をお用(つか)い遊ばすに限ります。三越では「御歳暮御贈答用品大売出し」を催して、お恰好品を各種豊富に取揃へます。何卒御用命の程偏(ひとえ)に御願ひ申上げます。
 品券:三越の商品券は御贈答用として、最も理想的で贈るに御便利、受けて御重宝で御座います。
                            東京市日本橋 三 越
  
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 だが、このコピーでは「戦旗」を定期購読して目を通すような、プロレタリアートのお客様には響いたとは到底思えない。コピーの文面が、ブルジョアジーあるいはプチブルのお客様向けの表現のままになっているからだ。「戦旗」の読者層をきちんと意識した、ターゲティングがまったくなされていない。今日的な広告宣伝の視点からすれば、媒体広告は制作過程で各媒体の読者層を意識した(セグメント化した)ビジュアルおよびコピー表現によって、正確かつ明確な表現の差別化を行なわなければ、アピール性や訴求力が低下し出稿する意味(投資効果)がない…ということになる。そこで、「戦旗」向けにはどのようなキャッチやコピーが有効なのだろう?
 まず、お客様と同じ課題を三越も共有しているという、読者層との間に共感を醸成する表現が必要不可欠だ。それには、読者の琴線に触れるリーチの長い語彙や、少し先の生活を考慮したリアルな表現、購買欲をくすぐるちょっとしたキャンペーンをフックにするのが有効だと思われる。
  
 年越し戦の御勝利は三越の御贈答品でお祝ひ ―十二月一日より全店一斉に開催―
 御世話になつた御指導のあの御方へ、御闘争勝利にはお喜びの三越の品をお用い遊ばすに限ります。三越では赤い腕章の売子を売場へ多数配置し、御声掛け頂ければお恰好品を各種豊富に取揃へます。また御希望の方には、赤い熨斗紙も御用意して御配送致します。何卒御用命の程偏に御願ひ申上ます。
 商品券:三越の商品券は御贈答用として、最も理想的で贈るに御便利、頻繁に御引越しされ地下へ御潜行される御方にも御重宝で御座います。
  
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 また、お客様専用に期間限定の特別商品を開発し、それを宣伝の大きな目玉にすえて集客するという手法も考えられる。贈答品一般ではなく、読者層の生活環境へ密着し、特化した商品の品ぞろえをアピールする手法だ。特に歳末は、1月早々にスタートするベア闘争への準備、そしてベアのあとにつづくメーデーを意識した時期でもあり、鏡びらきならぬ「旗びらき」のときに必要な用品をたくさん想定することができるだろう。
 この大量需要が見こめる、春の商機を逃す手はない。下落合の田島橋北詰めに、専用の大きな染色工場Click!をもっていた、三越ならではのサービスが展開できるだろう。そして、「戦旗」の読者であるプロレタリアートのお客様に寄り添い、おしなべて同層には冷淡な他のデパートとの差別化を強く意識したプロモーションが不可欠だ。三・一五事件を経験している多くの「戦旗」読者やプロレタリアートのお客様には、大江戸(おえど)からの大店(おおだな)・三井越後屋の支援は力強く響くだろう。
  
 上質な赤旗染の御贈答は三越へ ―十二月一日より全店一斉に開催―
 XXの故郷仏国より直輸入いたし高級布地に、下落合の三越専用染物工場で露国の紅染料を用ひて仕上た、雨でも嵐でも色落せず翻つゞける赤旗の御贈答御用命は三越へ遊ばすに限ります。XXXの御勝利とXXXXを御XXの際には、「XXXX大売出し」を催して、お恰好品を各種豊富に取揃へます。何卒御用命の程偏に御願ひ申上げます。
 商品:三越の商品券は御贈答用に、町中での御連絡や地下御生活にも御重宝で御座います。商品券御贈答お申込みにつき、御XXに最適な赤ひ鉢巻二本御進呈申上ます。
             尚、伏字は警察の御客様より御指導御鞭撻に依ります。
  
 三越と伊勢丹が経営統合してしばらくたつが、日本橋の三井越後屋と神田の伊勢丹波屋(のちに新宿へ移転Click!)は、江戸期から呉服店の老舗であり、もともと日本橋と神田とで気のあういいコンビなのかもしれない。両店は、明治以降にやってきた新参の呉服店(デパート)とは、東京では一線を画する存在だ。ひょっとすると三越の意思決定層に、明治期から「戦旗」が出版された昭和初期まで、薩長基盤の政治体制がことごとく気に入らない江戸東京人がいたのかもしれない。だから、三越ならではの「お客様大明神」思想とあいまって、「戦旗」に肩入れしたくなったものだろうか。
日本橋三越2.JPG 日本橋三越3.JPG
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 わたしの義母は、日本橋三越に履物を脱ぎ、室内履きに履きかえて上がった幼児期の記憶があるという。来店する顧客は、三越ギライだろうが物見遊山のひやかしだろうが、「ブルジョアジー」だろうが「プロレタリアート」だろうが差別しない経営思想は、現在までつづいているのだろうか。もっとも、高級品が多い今日の三越では、「戦旗」の読者はずいぶんと入りづらいにちがいない。

◆写真上:日本橋川から見あげた日本橋三越で、神田の伊勢丹波屋と並ぶ江戸の老舗だ。
◆写真中上:こんな広告がならぶ「戦旗」誌面に、いきなり三越の広告は登場する。
◆写真中下:1928年(昭和3)の「戦旗」12月号に掲載された、日本橋三越の媒体広告。
◆写真下は、変わらず日本橋北詰めにある三越本店の現状。は、江戸期に描かれた日本橋駿河町の三井越後屋。安藤広重Click!による『名所江戸百景』Click!第8景の「する賀てふ(駿河町)」(部分)で、三井越後屋は「現銀掛値なし」の庶民の味方で他店とは異なり安売り店として繁盛した。

目白文化村の造成を見ていた目白中学生。

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 ちょうど1921年(大正10)に、品川から下落合の落合府営住宅Click!へと引っ越し、翌1922年(大正11)からスタートする目白文化村Click!の宅地造成を目撃していた人物の手記が残っている。自宅の窓から、目前で展開する文化村の造成を目撃しているので、彼が住んでいたのは落合第二府営住宅であり、しかも弁天池のあった前谷戸Click!も近い南側の敷地だ。
 手記が掲載されているのは、1924年(大正13)4月に発行された目白中学校Click!の「桂蔭会」会誌『桂蔭』第10号だ。同誌には当時、目白中学の4年生だった松原公平という生徒が、「郊外の発展」というエッセイを寄せている。第二府営住宅で松原邸を探すと、第一文化村のすぐ北側、北辺の二間道路に沿った前谷戸の永井外吉邸Click!にもほど近い、下落合1524番地(第二府営住宅24号)に発見できる。松原公平は、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』によれば、日本青年館主事であり大日本青年団の主事も兼ねていた松原一彦の子息だと思われる。では、文化村が造成される以前、引っ越してきたばかりのころの下落合の様子を、『桂蔭』第10号の同エッセイから引用してみよう。
  
 我が一家が、狭苦しい品川を逃れて、空気清き郊外の落合に移転して来たのは、一昨年の春であつた。其の時、目白駅で降りて、現在の家に至るまでの通りを、始(ママ)めて通つた時の印象は、只田舎らしい町と云ふ一語に尽きて居た。/町並の多くは藁葺きの、もう何代住むだらうと思はれる、古びた家ばかりで、而も疎に点々と道の両側を飾つ(て)居る位で実に寂しいものだつた。がそれも束の間で、我が一家の住む府営住宅の建つて以来と云ふものは、この町は急速な発展振を示した。我も我もと改築新築が流行つて、ペンペン草繁り青苔生えた藁屋根はかび臭い臭ひを立たせながら取払はれて行つた。後に残る黒く燻つた棟も、槌の音高く取外され、残つた土台の上には新木の香の快い材木が、それも漸く出来たばかりの材木屋から、どんどん運び出され、切組まれて行つて、後には瓦新しく格子の目の細い二階家が立派に建てられた。この様にして警察署願済の札が懸けられ、板囲が何度となく作られたり取毀されたりして、二年経つた今日では押すに押されぬ新開地となつて、古臭い田舎染みた駄菓子屋、乾物屋、めし屋、八百屋、それらは皆百姓相手の店ばかりであつたのが、それの代りに靴屋、洋品店、書籍店、牛肉店等が幾軒も幾軒も出来て来た。西洋料理店、時計店、料理屋等が素晴しく幅を利かせ始めた。見上げる様な銀行も落成すれば、好景気にホクホクものゝ活動常設館も出来た(。)新しい看板屋は応じ切れぬ注文に転手古舞し、建具屋は造るそばから持つて行かれる忙しさに、身体の休む時もないやうだ。(カッコ内引用者註)
  
 なお、年度ごとに毎年1回発行される『桂蔭』なので、文中の「一昨年の春」という表現は文章が書かれた1923年(大正12)当時から起算したものであり、1921年(大正10)の春に転居してきたという意味だろう。また、好景気で客入りが多かった「活動常設館」とは松原邸のほど近く、目白通りの反対側にあった長崎バス通りClick!沿いにオープンしている洛西館Click!のことだと思われる。
 江戸期からつづく旧・椎名町Click!界隈(現在の目白通りと山手通りの交差点あたり)を中心に、大正初期から建ちはじめた落合府営住宅の建設を契機として、目白通り沿いの風情が激変していく様子が記録されている。だが、このような激変は商店街ばかりでなく、住宅街においてはさらに顕著だった。下落合の東部は、近衛町Click!が開発される以前から山手線の目白駅に近いため、家々や施設が相対的に数多く建っていた。また、華族たちが明治期から本邸や別邸を建てて住んでいたのも、おもに下落合の東部だった。目白中学校(東京同文書院Click!)もまた、下落合東部の目白通り沿いに位置している。
松原邸1万分の1地形図1921.jpg
松原一彦邸跡.jpg 前谷戸弁天池跡.JPG
 しかし、下落合の中・西部(現・中落合/中井地域)は、大正期の後半になってから宅地化が急速に進んでいる。これは、田園地域における健康的で文化的な「郊外生活」の流行Click!や、関東大震災Click!によって危険な人口密集地である市街地から郊外への急速な人口流入によるものだ。佐伯祐三Click!による『下落合風景』シリーズClick!は、その多くが下落合の中・西部に展開する宅地造成や道路整備の工事現場Click!ばかりを選んで制作しているが、まさにこの文章に書かれた様子と軌を一にしており、変貌をとげる下落合中・西部のその瞬間を切り取っていることになる。
 では、目白文化村の造成がスタートする以前、堤康次郎Click!による遊園地「不動園」Click!が企画されていたころの、前谷戸の様子はどのようなものだったのだろう? 松原家の窓を通して見えていた風景を、同エッセイから引用してみよう。
  
 我が一家の来た当時、硝子窓を通して見えるものは、只青々と繁つた森、見渡す限り広々と開けた緑の畑ばかりで、朝な夕なの景色は、物に譬へやうもなかつた。併しそれも長くは続かなかつた。すぐ附近にある某富豪の大庭園、それは始(ママ)めて見た我々の眼を如何に驚かせ喜ばせたか云ふ迄もない。広い芝生、鯉浮ぶ池、夏尚寒き木立等におこがれて、夏の夕、薄暗き中を涼し気な浴衣姿もチラホラ見えて、昼間は青々とした芝生に戯れ遊ぶ小児の群、池畔に鯉と遊ぶ幼児も、実に楽し気に見えて、古へのエデンの園もかくやと迄思はれた(以下略) (カッコ内引用者註)
  
 「某富豪の大庭園」とは土堤で囲まれた、のちに第一文化村から第二文化村にかけての住宅敷地へと変貌する、広大な箱根土地による「不動園」のことだと思われる。また、「鯉浮ぶ池」は前谷戸の浅い谷底にあった弁天池のことだろう。府営住宅の敷地の多くは、堤康次郎が東京府へ寄付したものであり、やがてはその南側に位置する「不動園」敷地に大規模な文化村住宅地の建設が計画されていることなど、府営住宅の住民はおそらく知るよしもなかったにちがいない。
 東京府が推進する府営住宅事業へ協力することで、新たな住民を下落合へ大量に誘致し(しかも遊園地「不動園」に隣接する風光明媚な環境であることが、最大限に宣伝されただろう)、それによって形成される目白通り沿いの新しい商店街や施設群、交通・電気・通信などの各インフラ整備を前提に、満を持して本来の目的である目白文化村を造成し販売するという、堤康次郎の事業戦略は図に当たった。目白文化村は、大正期を代表する最先端の街並みとして、メディアを問わず広く喧伝されることになる。
松原邸事情明細図1926.jpg
第一文化村.JPG
 つづいて、造成工事がスタートした目白文化村の状況を見てみよう。
  
 (前略)間もなく汚い掘立小屋が建ち、頑強相な朝鮮人土工達の数百人も入り込んで来て、地球も真二つと打込む鍬の先に、それらの楽しみは皆終のを告げた(。)広い芝生は何時の間にか醜い赤土の原と化した。そして無情な土工達の手は容赦なく園外の畠まで延(ママ)びた。漸く育つた許りの麦の芽が涙も情もない土方の手に掛つて無惨に掘り起され、トロツコに放り上げられた。トロツコの音が、麦の芽の漸く伸び始めた頃から、桐の葉色濃かな頃まで毎日毎日続いた。さうしてその音の止んだ時、そこには何万坪かの見渡す限りの赤土原が開かれた。竹垣は結ひ廻された。間もなくそこには黄色の壁、赤い瓦の洋風建築が大工の鑿の音につれてドンドン出来て来た。我々の住む府営住宅に、東京の町を田舎に移して来た様だと驚いた村人も、更にこの文化村に驚異の眼を見張つて以来は見向きもしなかつた。/文化村の出来つゝある頃、已(すで)に方々には赤屋根の家が多く見受けられる様になつて居た。緑濃い大樹の下、コンモリ繁つた山の端等に、コントラストの取れた赤い家は、宛然(えんぜん)一幅の油画をなして居た。(カッコ内引用者註)
  
 前谷戸周辺へ一気に造成される、第一文化村の様子が記録されている。箱根土地は、造成工事に日当の高い日本人労働者ではなく、労賃が安価な朝鮮人労働者を大量に動員していたことがわかる。また、宅地造成を終えてから住宅を建設したのではなく、造成工事と並行して販売を終えた敷地から、次々と住宅が建設されていった様子もわかる。おそらく、販売が終了するかしないかのうちにほぼ竣工していた、神谷邸Click!のような例がほかにもあるのだろう。それらの多くは、箱根土地建築部Click!による仕事だったにちがいない。
「桂蔭」第10号表紙.jpg 「桂蔭」第10号表4.jpg
 このあと、松原邸から見える風景は激変をつづけ、わずか1~2年ほどの間にオシャレでハイカラな「一幅の油画」だった風景が、目白文化村の周辺に増えつづける住宅のために台なしとなり、ついには松原邸の前にも2階家ができて風景が遮断されてしまう。「窓から見えるものは只屋根許りになつてしまつた」。松原邸は、すっかり家々の屋根や第一文化村の西外れにできた萩ノ湯Click!(→伊乃湯→人生浴場)の煙突に囲まれてしまったのだ。

◆写真上:第二府営住宅の跡で、松原邸のすぐ南側を通る三間道路の現状。
◆写真中上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる目白文化村建設予定地。前谷戸には土堤の囲みがあり、遊園地「不動園」だったのがわかる。下左は、下落合1524番地の松原一彦邸跡。下右は、前谷戸の弁天池跡。
◆写真中下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる第二府営住宅24号と記載された松原邸。は、第一文化村の現状。
◆写真下:1924年(大正13)4月に発行された目白中学校『桂蔭』第10号の、表紙()と表4()。当時は、5年生だった岩谷信之介という生徒が所持していたようだ。

目白松竹館における戦時上映の作品。

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 第二府営住宅24号(下落合1524番地)に住む、1924年(大正13)当時は目白中学校Click!4年生だった松原公平Click!『桂蔭』Click!に書いた、「好景気にホクホクものゝ活動常設館」こと、目白通りから少し入った長崎バス通り沿いの映画館「洛西館」Click!(長崎町4101番地)は、1935年(昭和10)すぎに「目白松竹」と館名を変更している。
 目白松竹は、1942年(昭和17)2月に実施された映画産業の戦時統制で、「白系」の映画館に分類されている。「白系」とは、東宝、松竹、大映、日映の主要映画会社4社と政府が出資し、同年に設立された映画配給社による上映館の分類系統だ。全国に2,000館を超える上映館を「紅系」と「白系」の2系統に分け、映画配給および上映の国家統制を徹底させたものだ。「白系」の第1回配給は、松竹の小津安二郎Click!監督による『父ありき』であり、目白松竹でも封切り上映され近くにお住いの方は観ているだろう。ちなみに、「紅系」の第1回配給作品は、東宝の島津保次郎監督による『緑の大地』だった。
 さて、先日ある方から1942年(昭和17)12月27日に発行された、目白松竹の上映パンフレットをお譲りいただいた。「目白松竹にゆうす」第31号と題されたパンフレットは、粗末なわら半紙状の紙に刷られており、すでに物資の統制が浸透して娯楽の分野へはロクな用紙が配給されていなかったのがわかる。この当時、目白松竹(旧・洛西館)の所在地表記は、豊島区椎名町4丁目4101番地になっていた。貴重な配給紙を使って印刷されたパンフレットには、正月上映の新春映画特別興業が予告されており、目白松竹は1943年(昭和18)1月3日から新年開館する予定になっている。
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洛西館1935.jpg 目白松竹館1941.jpg
 このパンフレットが発行された時期、つまり1942年(昭和17)の暮れに上映されていたのは、松竹の「文藝大作」で吉村公三郎監督による『続・南の風』(原作・獅子文六Click!)であり、佐分利信Click!笠智衆Click!、高峰三枝子、水戸光子などが出演している。同作を観た方が、「全体として良くない。」という手書きのメモが残るパンフなのだが、掲載された梗概を読むと「西郷隆盛が開祖である仏印の新興宗教に、砂金の河と隆盛のご落胤来日の悪夢」……と、わたしも悪夢でアタマが痛くなりそうな筋立ての作品だったようだ。おそらく、『続・南の風』は12月31日大晦日までの上映だったのだろう。
 さて、新春1月3日から7日までは、嵐寛寿郎Click!主演による『横浜に現れた鞍馬天狗』であり、「夜霧に濡れた異人町」を背景に「妙神剣」を振るうのは、横浜在住の外国人を含めた悪漢たちなのだが、ここに登場している外国人たち(つまり外国人役の俳優たち)はもちろん敵国人たる欧米人ではなく、みなロシア人だったらしいのが名前からうかがい知れる。つづく1月8日から13日までは、大映の木村恵吾監督による『歌ふ狸御殿』で、高山廣子や宮城千賀子、雲井八重子、草笛美子などが出演している。「美しき夢が空想が浪漫の旋律にのつて花ひらく金色の物語! 大東亜十億の民族に敢て贈る唄と踊りの万華鏡! これぞ大映が放つ映画新体制初の健全娯楽映画! 万人待望裡に今や撮影最高潮!」と、「!」マークだらけのコピーが挿入されている。「狸御殿」と「大東亜十億の民族」がどこでどう関連するのか、まったく意味不明なのだが、少しでも軍部に戦争協力の姿勢を見せておいたほうが、なにかと上映に有利で便利だったのだろう。
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目白松竹19450402.jpg 目白松竹1947.jpg
 娯楽施設である目白松竹も、常に当局からの冷ややかな眼差しにさらされていたものか、営業にあたっては4つのスローガンをかかげている。すなわち、「一、年末年始の犯罪防止/一、銃後の守は火の用心と犯罪を防げ/一、さあ二年目も勝ち抜くぞ/一、親切と感謝で大東亜建設の使命を完ういたしませう」の4箇条だ。これにより、戦時という「非常時」でも閉館に追いこまれず、少しでも長く営業をつづけて生き残れれば……と考えていたにちがいない。でも、同館はなんとか建物疎開Click!からはがまぬがれたようなのだが、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で炎上するまで、あと2年と5ヶ月の時間しか残されていなかった。
 さて、上映のつづきを見てみよう。1943年(昭和18)1月14日からは、東宝の萩原遼監督による『おもかげの街』が予定されており、長谷川一夫や入江たか子Click!が出演していた。「目白松竹にゆうす」は、上映中作品についての解説と同時に、3週間先までの上映予定を告知する役割りを果たしていたようだが、これはもちろん戦時による異例のパンフレットづくりだったのだろう。本来なら、各作品ごとに作品シーンのスチールが入った詳しいパンフがつくられていたはずであり、紙ももっと上質なものが使われていたのだろう。それが、B5判ふたつ折り(B6判4ページ)の粗末なものに変わったのは、物資統制が本格化しはじめた1940年(昭和15)ごろからだろうか。
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 「目白松竹にゆうす」の奥付によれば、開館は平日なら午後1時から、日曜祭日は午前10時から上映していたようで、午後7時30分をすぎると入館料の割引きがあった。どことなく、銭湯の営業形態にも似ているが、午後7時30分からの割引きは映画の途中入場になるからだろう。目白松竹の電話番号は落合長崎局の2693番、上映中の館内は禁煙で、タバコを吸う場合は専用の喫煙室が設けられていた。

◆写真上:「目白松竹にゆうす」第31号の表紙はアラカンの『横浜に現れた鞍馬天狗』(松竹)で、1943年(昭和18)1月3日(日)から1月7日(木)まで上映された。
◆写真中上上左は、目白松竹館(洛西館)跡の現状。上右は、1925年(大正14)4月発行の「出前地図」Click!にみる洛西館。は、1935年(昭和10)の「落合町市街図」にみる洛西館()と、1941年(昭和16)の同図にみる目白松竹館()。
◆写真中下は、「目白松竹にゆうす」第31号発行時の1942年(昭和17)暮れに上映中だった『続・南の風』(松竹)。下左は、1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機から撮影された目白松竹館。下右は、1947年(昭和22)7月撮影の屋根が焼け落ちた同館。
◆写真下上左は、1943年(昭和18)1月8日(金)から1月13日(水)まで上映された『歌ふ狸御殿』(大映)。上右は、同年1月14日(木)から公開された『おもかげの街』(東宝)。中左は、「目白松竹にゆうす」第31号の奥付。中右は、奥付にある「日本ニュース」133号のタイトルバック。同ニュースはNHKアーカイブClick!で公開されており、133号は陸軍士官学校の卒業式Click!などが報じられている。は、「目白松竹にゆうす」第31号に掲載された広告類。近くにお住まいだった方は、店名に見憶えがあるかもしれない。

幕末・明治の落合地域はキツネだらけ?

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 5月に入ってから、イギリスのBBC(英国放送協会)とNHKの共同撮影チームが、下落合で都会に棲息するタヌキをテーマにロケーションを行なっている。BBCが制作している、『WILD JAPAN(ワイルド・ジャパン)』Click!という日本の自然をテーマにしたドキュメンタリー番組で、来年(2015年)以降にイギリスや日本をはじめ世界各地で放映される予定らしい。下落合のタヌキも、どうやら国際的になってきた。わたしの家の周囲でも、夕方から夜中にかけて道端でカメラをかまえるクルーたちを何人も見かけた。最近は日々、わたしの家の前をまっ昼間(ぴるま)から、つがいのタヌキがゆったりと散歩してカメラにポーズをとってくれる。(娘が撮影)
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 でも、きょうのテーマはタヌキではなく、昔は下落合にもいたキツネの物語だ。
  
 落合地域には、幕末から明治にかけてキツネもいくらか棲息していたようだ。それは、直接の目撃例もそうなのだが、落合のキツネに化かされたフォークロアがたくさん残っている。以前、人間がキツネに化けて詐欺を働いたエピソードをご紹介Click!したので、今回はキツネが人間を化かした伝承をご紹介したい。でも、落合地域にはこのような伝説をまとめて収録した資料が存在しないので、お隣りの上高田から落合地域へやってきて化かされた事例だ。
 ただし、ある村の人間がよその村へやってきて、まんまと「キツネ」や「タヌキ」に化かされるというエピソードは、江戸期からつづく“ムラ”という共同体の排他的な意識も含まれていることを考慮しなければならない。自分の村から外へ出ると、どんな目に遭うかわからない……という、一種の排外意識をともなう戒め的な要素だ。「よその村では、どんな化けもんに出遭うか知れたもんじゃない」というような、排他意識があからさまに感じられるエピソードは除外するとして、明らかに素朴で不思議かつ怪しい伝承にしぼってご紹介したい。
 まず、上高田から上落合の神田上水(現・神田川)あたりへ釣りにきた人物の伝承だ。この明治期と思われる伝承に登場する「山」は、おそらく小滝台(華州園Click!)の小高い丘であり、村人が釣り糸をたれた場所は小滝橋Click!が架かる近辺だと思われる。村人は、落合火葬場Click!を左手に見ながら、旧街道(現・早稲田通り)沿いを上落合方面へとやってきている。その様子を、1987年(昭和62)に発行された『中野の昔話・伝説・世間話』(中野区教育委員会)から引用してみよう。
  
 たらねぇ、この向こうの火葬場の向こうの方の山なんですね。あっちの下に川があってね、その川で釣りをしてたわけ。そいでこっち帰ってくるとねぇ、あの山んとこをねぇ、来るとねぇ、急にねぇ、すごい土手ができちゃったんだって。それ狐なんだってね。狐が化かすんだってね。自分の目に見えちまうんだって、土手に。/すごい土手に見えてねえ、あれおかしいなあ、ここんとこ土手があるわけねえんだがと思ってね、そいから、そこへ足ぃ踏み込んでね、来たらねぇ、足ぃ何だか傷こせられちゃったなんてねぇ、あの何だ、刃物か何かをねぇ、あったらしいんだねぇ。そこ踏んづけてねぇ、何だか足ぃ傷ができちゃったんだってね。/そいでね、そしたらそれが消えたなんてね。そしたら土手が消えたんです。土手にできててね。そいで、狐にいたずらされちゃったなんてね。そんな話聞いたよ。 (上高田 男 明治38年生)
  
 急に「土手」が出現し、てっきりキツネに化かされたことになっているけれど、小滝台の東側は道を1本まちがえると行き止まりになり、断崖絶壁状になったバッケClick!(崖地)に突き当たるので、なんとなく道に迷って帰りが遅くなった、家族へのいいわけのようにも聞こえるのだが……。なお、近郊で話されていた男言葉だが、「そいで(それで)」「たらね(そうしたらね)」「ここんとこ(ここのところ)」など、市街地と同様の江戸東京方言Click!がつかわれていたのがわかる。
小滝台バッケ階段.JPG 小滝台擁壁.JPG
下落合丘上1.JPG 下落合丘上2.JPG
 次は、下落合の丘上でキツネに化かされた話だ。「稲葉の水車」Click!へ、穀物を製粉しにきた村人の伝承だが、物語に登場する「大山」は下落合の小字で「大上」のことらしく、現在の目白学園あたりの丘だろう。また、現在は「お寺」ができたというのは、大日本獅子吼会Click!のある字「小上」あたりのことで、金山平三アトリエClick!が建っていた界隈だ。「公園」になっているところは落合公園Click!のことで、稲葉の水車場があった。この出来事は、旧・下落合の四ノ坂Click!から七ノ坂Click!あたりにかけての坂上で起きていることになる。穀物を製粉している間、眺めのよい下落合の丘上にのぼって、持参した弁当を食べようとした村人の話だ。同書から引用してみよう。
  
 昔は、農家してたんだからな。精米所もあるわけじゃないし、水車でね、米ついてたんだ。今、公園になっている、五中の向こっかたの、そこに水車があったんです。妙正寺川の水を取って水車ってもの、作っていたんだからな。そこへお弁当だなんか持っていくと、大山っていうところがあってな、大山って言ったいな、あの山は。今な、お寺になったり、マンションが出来ちゃってるけど。そこに弁当持っていくと、みーんな狐にだまされちゃう。やっぱり弁当持っていくのがよくなかった。それで、タバコのんだり一服すると、逃げちまうらしいんだがねぇ。それで、頭がすーっとしてね。/で、まあ、弁当持っていかれたって話だいな。そんじゃないと、あっちこっち、あっちこっち、連れて連れて連れまくられちまうらしいんだな、狐に。ぐるぐるぐるぐる。そんな話をよく、人から聞いたからよぉ、おばあちゃんからもねぇ。うんと子どものころだよ。あたしがまだ、弁当持ってかれない時分の話だよ。 (上高田 男 明治37年生)
  
 わたしは、アビラ村Click!の丘上でぐるぐるぐるぐる道に迷ったことも、また弁当を取られた経験もないので、もはやタヌキClick!はいてもキツネは棲息していないのだろう。この説話は、稲葉の水車が製粉所として現役だった幕末から明治にかけてのものと思われる。また、タバコを吸うとキツネが化かすのをやめて逃げていく……という逸話は、この地域や関東ばかりでなく、全国各地に見られる共通伝承だ。不可解な事件や怪異現象に遭遇すると、まず落ち着くために一服(煙管Click!の場合が多い)するというのは、キツネを追い払うという意味もこめられていたことがわかる。
三囲稲荷.JPG 松庵稲荷.JPG
 以前、上落合から目白崖線に連なる、「狐火」あるいは「狐の嫁入り」の伝承をご紹介Click!したことがあった。その現場は、下落合氷川明神から七曲坂Click!、さらに薬王院の森Click!にかけての丘陵だと思われるのだが、西側の目白崖線に連なった「狐火」の目撃伝承も残っている。現場は、上高田村から見て東光寺Click!の「山」、すなわちこれまた中井御霊社や目白学園のある目白崖線のことだ。下落合のバッケが連なる急斜面は、「狐火」の出現によほど適していたらしい。
  
 狐の嫁入りっていってね、提灯ぞろぞろぞろぞろね、提灯がまあ、何百ってこう、ただもう二百も三百も数わかんないようにね、こう、ぞろぞろぞろぞろ提灯つけてね、「狐の嫁入りだぁ、狐の嫁入りだぁ」ってね、こっちで感じてるから、遠くの方で、それが見(め)えるらしいんだなあ。(中略) 出たってとこは、東光寺の山ですね。あっちで、ぞろぞろぞろぞろ出てくるんですとさ。見えるんだってさ、明かりが。提灯でね。/そんなこと聞きましたね、だけど、そんときにゃもう化かされてるんでしょ。そんときには、もうおかしいんだろうと思うよ、わたしなりに想像するのには。だって、そんでなきゃそんなの見(め)えるわけないんだからね。見えるってことは、もう、少し、錯覚起こしてんだね。見えちまうってことがよぉ。/子どものとき聞いた話だからよ。 (上高田 男 明治37年生)
  
 以前にも書いたけれど、江戸東京の市街地では「狐火」と「狐の嫁入り」は別のもので、後者は晴れているのに雨が降る「お天気雨」のことをさす呼称だ。
 ほかにも、キツネがきれいなお姐さんに化けた話が多く採集されている。きれいな女に、「送ってくださる?」と頼まれ、ふたつ返事でいっしょにいくと道に迷って夜が明けるというような類の話だ。これは、田畑に出て農作業Click!をしていても、きれいな姐さんがそばに寄ってきて、「ねえ、ちょいと」と声をかけられ、そのまま家へも帰らず付近をうろうろと彷徨ってしまう。「キツネにつままれた」話として伝えられているけれど、これもみんなキツネのせいにしている“裏”のありそうな話だ。
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 たまの息抜きで、内藤新宿Click!のよからぬ場所へ上がりこみ、白粉を塗って紅をさした雌ギツネに、有りガネをぜんぶむしりとられたあと、なかば夢見ごこちでボーッと帰路を歩きつつ、家族へのいいわけを一所懸命考えながら朝帰りをしている、化かされた男の話ではないだろうか。

◆写真上:七ノ坂から見おろした落合公園で、稲葉の水車は同公園の敷地内にあった。
◆写真中上:華洲園のあった、小滝台のバッケ階段(上左)と崖地の擁壁(上右)。は、中井御霊社へと向かう下落合の尾根道()と、目白学園へ向かう丘上の道()。中井御霊社へ向かう道の左手には、昭和初期までの地図に稲荷社のあったことが記録されている。
◆写真中下:稲荷の狛狐で、向島の三圍(みめぐり)稲荷Click!()と杉並の松庵稲荷()。
◆写真下:芝居のキツネといえば、『義経千本桜』の「狐忠信」。戦後すぐの歌舞伎ブロマイドより、「吉野山道行」の7代目・尾上梅幸(静)と2代目・尾上松緑(狐忠信)。

「文化生活」の丸ごと提唱雑誌『住宅』。

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 住宅改良会の主催者であり、またあめりか屋Click!の創業者でもある橋口信助Click!と、同社の技師長だった山本拙郎Click!は1916年(大正5)から昭和期にかけ、住宅建設の専門誌『住宅』を毎月発行しつづけた。表向きは住宅改良会による住まいに関する雑誌という体裁なのだが、実質は、あめりか屋が提供する洋風住宅の販促・普及をめざす、企業広報誌のような性格が色濃い。
 誌面は、西洋館あるいは和様折衷住宅などの建築ケーススタディ記事が多く、住まいをテーマにした最新情報やエッセイなどが掲載されている。広告も、その多くが洋風住宅を建てるための新建材や輸入建材の案内であったり、洋風生活を演出するための調度や家具、小物類のものが多い。また、出版社の広告では、ほとんどが洋風住宅の建設に関するものであり、具体的な間取り図や設計図、完成した建築事例やモデルハウスの写真集などが紹介されている。当サイトでご紹介してきた、目白文化村Click!近衛町Click!などに建っていた具体的な洋風住宅Click!の写真は、この同誌掲載の“作品”のものも少なくない。
 住宅改良会の活動開始にあわせ、『住宅』は1916年(大正5)8月に創刊されている。刊行をつづけるうちに、装丁やデザインがくるくる変わるのは、大正期を通じて洋風住宅への関心が高まり、内容が徐々に充実していったからだろう。当初は1色印刷だったものが、数年で表紙と本文で2色、ときに巻頭の口絵にはカラーグラビアを挿入するまでになっている。おそらく発行部数も伸びていったのだろう、大正中期になると広告の掲載数も急激に増えている。そして、当初は住宅建設に関する国内外の情報や記事、エッセイなどで占められていた誌面が、大正中期になると住宅建設には直接関係のない、洋風庭園の造り方や洋風ランチの作り方などまでが、記事として掲載されることになる。
 たとえば、1922年(大正11)4月に発行された『住宅』(第二文化村号)では、「お弁当代りの献立」とか「公道を歩む時の礼法」といった、文化住宅街における新しい生活様式を意識した記事までが登場している。「献立」記事では、パンやバター、牛乳、スープ、シチュー、サラダ、フルーツ、デザート(菓子類)などの洋食が主体であり、すでに和食は姿を消している。現代の目から見れば、こんな食生活をつづけていたら身体を壊すぜ……というような、欧米の食文化へ偏ったメニューだ。また、「礼法」では女性と街中へ外出するときのエスコートのしかたとか、社交会場での礼儀や作法、電車や自動車に乗ったときのエチケットなど、こちらも欧米の生活習慣をそのまま輸入したような内容となっている。当時は、生活の欧米化=「文化生活」化ととらえられていたのだろうから、そして事実、江戸期からつづく住宅の仕様や生活習慣には非効率的な側面が多かっただろうから、それを合理的な住環境の創造とともに一度、全否定する必要があったと思われる。
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 そして、同号には「想苑」というページが設けられ、小説や詩、短歌、童話、民謡、そして音楽(楽譜)までが掲載されている。小説は、坂本由郎が訳した連続長編小説のオルコット『愛の花』(現在の『若草物語』)だが、短歌や詩は小野勝也『惜春賦』に福田夕咲『銀の魚』と非常に日本的な味わいの強い作品が掲載され、どこかチグハグな印象を受ける。『住宅』は、日本の新しい住環境を創造し広めるという目的ばかりでなく、そこで暮らす人々の食事や習慣、鑑賞する芸術にまで足を踏みこんで新生活を提案している。このころになると、『住宅』の誌面は「住宅改良」ではなく「生活改良」の性格が強くなっているようだ。たとえば、同号掲載の濵名東一郎による「民謡」を引用してみよう。
  
  別れた妻
 妻にわかれて/別れた妻に
 せめて/眉なと似た人を――。
 町に求めば/心がみだれ
 野べは、龍膽(りんどう)が/邪魔になる。
  
 奥さんと別れたあとの未練なのか、オシャレでハイカラな文化住宅や文化生活を紹介する雑誌に、この「別れた妻」や「人買船-N子の歌-」などの「民謡」がふさわしいのかどうかは疑問だが、およそ住宅建設とは関係のない文芸作品が、誌面の4分の1を占めるまでになっていた。
 しかし、『住宅』は昭和に入ると、ショルダーを「住宅・庭園・家具・装飾・美術・工芸の雑誌」と銘うってはいるが、文芸作品などはいっさい載せなくなり、再び住宅建築に関する専門誌へと回帰しているようだ。本文は横文字に組まれ、表紙も右開きへと仕様が変わり紙質や製版、印刷の品質も格段に向上している。関東大震災を経ているので、広告もコンクリートやブロック、石膏材、耐久ボードなど難燃性の建材や、軽量瓦、石綿製屋根材といった製品が目につく。余談だが、佐伯祐三Click!アトリエClick!に一時期用いられていた、曾宮一念Click!が記憶するところの「布瓦」Click!だが、菱形に張りつける石綿製の軽量瓦だったと思われる。屋根に張ると、独特な菱形の模様を形成する「石綿瓦」は、佐伯米子Click!実家Click!近くにあった浅野スレート(銀座6丁目)製の可能性が高い。
白壁192204.jpg あめりか屋広告.jpg
川崎工場広告192204.jpg 浅野スレート広告193010.jpg
 再び余談で恐縮だが、古書店で1922年(大正11)4月発行の『住宅』(第二文化村号)を手に入れたとき、東京朝日新聞の切り抜きがページにはさまっていた。同年4月21日(金)の朝刊に掲載された記事で、とある住宅で暮らすといつも「15日」に人が死ぬ、なんと「渋谷怪談」なのだ。かなり長い記事だが、その冒頭部分を引用してみよう。
  
 渋谷の高台に家の不思議
 階上の窓には島津邸の森が迫り遥かに都会の姿が一畔の中に集まつて居る市外渋谷町字下渋谷一一七吉和田秀雄氏の家は此高台の立派な住宅である、主人の吉和田氏は去る十五日脳膜炎で死に一昨日麻布笄町の大安寺に法要が営まれたが、この高台の家を中心として奇怪な風評がパツと起つた 大正五年から今年迄此家に住む程の人は殆ど死霊に取憑かれたやうに眠つてしまふ、而もその死ぬ日は月こそ違え皆十五日である、
 住む者は死ぬ
 忌日も同じ謎の十五日/馬にまつはる因縁話・うまく逃れた筑紫将軍

 呪はれた家の最初の犠牲者は歩兵大佐中川幸助氏で、参謀本部に勤務し少将に昇進し豊橋旅団長を拝命の辞令を得た歓びの五月十五日に倒れるやうに永眠した。昨年六月十五日に死んだ会社員武藤武全氏が引越して来る前にも二人目の犠牲者があつた。この界隈では当時既に迷信的な噂が起つて居たが武藤氏は頗る強健な人で『噂や迷信を担いで居ては都会生活は出来ない』実際武藤氏は住宅難の渦中へ飛込んで苦しんだ揚句担ぎやの夫人を励まして風評の中へ飛込んだ 偉大な体格で而も強健な武藤氏の家庭はこだわりのない生活が続いたが、或る日勤めの帰途広尾橋の電車停留所で下車する時電車に跳ねられてひどい打撲傷を負った、手術によつて家族も全快の時を楽しんだが其期待は裏切られて遂に敗血症といふ病名の下に死んだ、(以下略)
  
 “呪いの館”で「武藤氏」が死んだのも、また5月15日だった。このあと入居した人たちが次々と「15日」に死亡し、同館の死者は都合6名になった…という記事だ。
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 面白いのは、東京朝日新聞の記事自体ではない。1922年(大正11)4月現在、最先端の生活誌だった『住宅』を購読し、オシャレでハイカラな文化生活を送ろうとしている読者が、“呪いの館”の記事を気にしてわざわざ切り抜き、同誌のページへスクラップしておいた……という行為が実に面白いのだ。先進技術を活用した住環境で、どれほど合理的に生活をしようが、どれだけ欧米の効率的な生活習慣を取り入れてマネしようが、早々に人の思念や心の中までは理路整然というわけにはいかない。『住宅』にはさまれた“呪いの館”記事は、大正期のそんなアンビバレントな生活人を象徴しているように感じるのだ。

◆写真上:あめりか屋が、1922年(大正10)に渋谷の高台へ建設したT邸。
◆写真中上は、1916年(大正5)8月発行の『住宅』創刊号()と、1921年(大正10)1月発行の『住宅』(趣味住宅号/)。は、1922年(大正11)4月発行の『住宅』(第二文化村号/)と、1930年(昭和5)10月発行の『住宅』()。
◆写真中下は、1922年(大正11)の『住宅』4月号に掲載された音楽「白壁」の楽譜()と、小倉支店を閉じたあとのあめりか屋広告()。は、同号に掲載された川崎工場による「鉄鋼混凝土(コンクリート)」広告()と、1930年(昭和5)の『住宅』10月号表4に掲載された浅野スレートによる「浅野石綿瓦」広告()。
◆写真下:1922年(大正11) 4月21日の東京朝日新聞に掲載された「渋谷怪談」。

落合地域も得意先だった浅尾沸雲堂。

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 画材店の竹見屋から独立した3代目・浅尾金四郎(丁策)Click!は、上野桜木町の東京美術学校の門前に浅尾沸雲堂を設立している。父親は、絵筆をつくる専門職人だったが、浅尾丁策(ていさく)の代で本格的な総合画材店を開業することになった。1923年(大正12)9月の関東大震災Click!直後のことで、沸雲堂はいまも健在で営業をつづけている。
 沸雲堂は、本業の絵筆はもちろん絵具や溶き油、額縁、額用ネームプレート、キャンバス、木枠、用紙、パレット、イーゼルなどほぼすべての画道具を扱っていたほか、一時期はモデルの紹介所もかねていたようだ。東京美術学校の藤島武二Click!岡田三郎助Click!をはじめ、近くにあった太平洋画研究所Click!満谷国四郎Click!など、数多くの画家たちが立ち寄る店であり、また注文した画材を画家のアトリエまでとどける、東京市内の主要画材店のひとつになった。やがて、大正期の画材店として有名だった神田の文房堂と竹見屋、丸善神田店の3店と並ぶ店までに成長していく。もともと、上野から谷中Click!にかけては、明治期より画家たちが数多く住んでいたので、当時の主だった多くの画家たちが同店の顧客になっている。また、当時は絵を描く文学者も多く、川端康成やサトウハチローも同店の常連だった。
 昭和初期に沸雲堂の目印として、看板代わりに幅60cm×長さ370cmの赤い布を2階の窓から下げた。風のある日は、吹き流しのように翻り遠くからでも視認することができた。ところが、さっそく近くの警察署から刑事がやってきて、「赤旗はいかん、すぐ外せ」とその場で取り外しを命じられた。このあと、浅尾丁策は再び朱塗りの馬蹄磁石型の看板をつくって下げたが、これも警察から嫌がらせのクレームをつけられ外させられている。
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 取り扱っていた絵具は、イギリスのニュートン社やフランスのルフラン社、ドルアン社などの製品はもちろん、のちに文房堂の廉価な国産絵具も扱うようになった。当時の絵具の価格を見ると、1930年協会の里見勝蔵Click!佐伯祐三Click!が好きだったバーミリオン3種が、セルリアンブルーとともに飛びぬけて高価だったことがわかる。これらの画材は、近くにアトリエをかまえる画家なら店へ買いに立ち寄れるが、遠くに住む画家には画材の配送もしていた。浅尾丁策は、受注した画材を郵送するのではなく、できるだけ自身で画家のアトリエまでとどけるようにしていた。それは画家への“営業”の意味合いもあるのだろうが、訪問するとたいがいアトリエに招じ入れられるので、その仕事ぶりを見るのが好きだったようだ。そして、画家との会話から新しい製品を開発するヒントや、美術市場のニーズを吸収・把握していたらしい。
 上野や谷中界隈に住んだ画家たちが、大正期から次々と山手線の反対側である落合地域へアトリエをかまえはじめ、1930年(昭和5)をすぎるころから池袋の西側、長崎地域にアトリエ村を形成するようになると、配達も東京西部へ出かける機会が多くなる。昭和初期に西落合1丁目293番地(現・西落合3丁目)へアトリエをかまえた、松下春雄Click!鬼頭鍋三郎Click!も、沸雲堂へ画材を注文する得意先だった。当初は、松下春雄が同店に注文していたが、のちに松下の紹介で同じ地番にアトリエをかまえた鬼頭鍋三郎も顧客になっている。当時の様子を、1986年(昭和61)に芸術新聞社から出版された、浅尾丁策『谷中人物叢話・金四郎三代記』から引用してみよう。
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 東長崎駅前の細い道を真直ぐ小川のある通りへ出る向側の小児牛乳の横をしばらく行くと右手に水道タンクが見える手前に松下春雄さんのアトリエがあった。松下さんは太田三郎先生の御紹介で画材や額縁のことでずいぶん御愛顧を頂いた。いいお仕事をしておられたが惜しいことに白血病にて夭折された。遺作展の際記念に一点求めた。それは房州風景で0号二枚つづきの海景であった。友人が家を新築したが飾る絵がないので何か貸してくれないかと云われ、この作品をお貸ししたが、そのまま判らなくなってしまった。戦後、古美術店で松下さんの五号油絵風景画を見付け買い求め大切に保管してある。/松下さんと同じ名古屋の鬼頭鍋三郎さんが松下さんの隣りへアトリエを建てお仕事をするようになり、紹介して頂いてからズッと御贔屓にして頂いた。(此の家には現在、村岡平蔵さんが住んで居られる)
  
 文中の「小川」とは、十三間道路(現・目白通り)の路端を流れていた千川上水の落合分水Click!であり、「水道タンク」とは和田山Click!(井上哲学堂Click!)の北側にある野方水道タンクClick!のことだ。早逝した松下春雄とは死去するまで、鬼頭鍋三郎とはその後もずっと親しいつき合いをつづけたようで、戦後、鬼頭は傷んだ作品の修繕も浅尾沸雲堂へ依頼している。
  
 今から十数年前の事、先生(鬼頭鍋三郎)からの御依頼で作品――名古屋公会堂にある『手をかざす女』<第十五回帝展特選>――が大分いたんで居るから修理してくれとの事、久し振りにてなつかしい作品に御目にかかった。/埃をはらって見ると枠の裏に薄くなってはいたが、K・F・ASAOのゴム印がハッキリと認められ一層なつかしかった。キャンバスはブランシェ十一番であった。(カッコ内引用者註)
  
松下春雄と鬼頭鍋三郎19320921.jpg 松下アトリエと鬼頭アトリエ.jpg
浅尾丁策「金四郎三代記」1986.jpg 浅尾丁策.jpg
 東京美術学校(現・東京藝術大学)へ出かけた際、さっそく上野桜木町の沸雲堂を訪ねてみた。浅尾丁策のもうひとつの著作『昭和の若き芸術家たち―続金四郎三代記〈戦後篇〉』が欲しかったからなのだが、店頭で訊くと隣接する工房を教えてくれた。工房のドアを開けると、手を黒漆で真っ黒にした浅尾丁策によく似たおじいちゃんが、入念な手つきで額づくりに集中している最中だった。あえて訊ねはしなかったが、おそらく4代目・浅尾金四郎だろう。来意を告げると、おじいちゃんはみるみる破顔して奥から先代の本を出してきてくれ、ついでに値段を負けてくれた。わざわざ沸雲堂を訪ねて、先代の本を買いにきてくれた若造が、仕事の集中を邪魔されたとはいえかなり嬉しかったようだ。

◆写真上:東京美術学校(現・東京藝大)前で、変わらずに営業をつづける浅尾沸雲堂。
◆写真中上は、昭和初期の仏ルフラン社製の油絵具カタログ。1円以下の絵具が多い中で、セルリアンブルーとバーミリオン3種が飛びぬけて高価だ。は、沸雲堂が制作したオリジナルの額縁用ネームプレートで「靉光」のもの。
◆写真中下上左は、沸雲堂が開店した当時の東京美術学校。上右は、現在も残るレンガ造りの校舎で1970年代後半は体育場としても使われていたようだ。
◆写真下上左は、西落合の松下邸で庭の手入れをする1932年(昭和7)9月21日に撮影された松下春雄(左)と鬼頭鍋三郎(右)。上右は、旧・西落合1丁目293番地の松下春雄アトリエ(左)と鬼頭鍋三郎アトリエ(右)。下左は、1986年(昭和61)出版の浅尾丁策『谷中人物叢話・金四郎三代記』(芸術新聞社)。下右は、著者の浅尾丁策。

目白文化村の二度にわたる空襲。

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空襲被害19450517目白駅.jpg
 以前から、目白文化村Click!の第一文化村と第二文化村は、1945年(昭和20)4月13日(金)夜半に来襲したB29による第1次山手空襲で焼失Click!したと記述してきた。その根拠は、こちらでもご紹介している第二文化村に住んでいた星野剛男による戦時中の克明な「星野日記」Click!と、1991年(平成3)に日本経済評論社から出版された野田正穂Click!/中島明子・編『目白文化村』に書かれた記述からだ。しかし、4月13日夜半の空襲で星野邸が焼けたのは事実だが、少なくとも第一文化村の家々は焼けてはいない。
 この事実が判明したのは、米国防総省が公開したB29偵察機による戦時中の空中写真が、日本でも精細なデータで入手できるようになったからだ。米軍は、4月13日夜半の第1次山手空襲Click!を実施するにあたり、4月2日(月)に爆撃予定域へ2機のB29を飛ばして事前に偵察飛行Click!を行なっている。落合地域の上空に限ると、空撮の標定図によれば西落合の自性院Click!上空で1枚めのシャッターを切り、つづいて“敵性外国人”が強制収容されていた下落合の聖母病院Click!上空で2枚めのシャッターを切っている。
 4月13日夜半の空襲後、その爆撃効果の測定と5月25日(金)夜半の第2次山手空襲への準備として、5月17日(木)に二度目の偵察飛行を実施している。5月17日の偵察飛行は、落合地域からだいぶ外れていて、板橋区の板橋第五小学校の上空で1枚めのシャッターを切り、つづいて目白台の日本女子大学の上空あたりで2枚めのシャッターを切っている。4月2日とは異なり、落合地域を真上から撮影したものではないが、1枚めでは下落合が画面の下部に、2枚めでは下落合が画面の左下にとらえられている。この2回にわたる偵察写真を比較すれば、4月13日夜半の第1次山手空襲で焼失した部分と、延焼をまぬがれた部分とが一目瞭然で判明する。
 さらに、1945年(昭和20)5月17日に撮影された空中写真と、戦後の1947年(昭和22)7月9日(水)に米軍が爆撃効果測定用として、低空で詳細に撮影している空中写真とを比較すれば、5月25日夜半の第2次山手空襲で焼失した部分と、敗戦までなんとか焼け残っていた部分もほぼ規定することができる。つまり、従来は曖昧だった空襲による被害を、米軍の二度にわたる爆撃準備のための偵察写真によって、明確に規定できるというわけだ。
 では、目白文化村への空襲について、前掲書『目白文化村』から引用してみよう。
  
 目白文化村一帯の空襲は一九四五年四月一三日夜から一四日明け方にかけてであった。この時の様子を第二文化村に住んでいた安部能成は「始めは火災を防ぎ、そのかひなきを見て、我々夫妻と共に御霊神社下の洞穴に避難した」と書いている。また、會津八一は、枕元の鞄をとっさにつかみ、洋傘を杖として、養女の手をとって逃げたという。そしてこの時のことを「ひともとの かさ つゑつきて あかき ひ に もえ たつ やど を のがれける かも」という歌を残している。(中略:空襲の証言引用)/焼夷弾が落ちた第一文化村では、五十何軒かのうち焼け残ったのはたった四軒であった。そのうちの一軒の家は焼夷弾が落ちたものの、不発弾で助かったという。/こうして文化村では半数以上の家屋が焼失し、大勢の人が焼け出されることになった。自分の育った家、生活の場であった家、家財や思い出の品が跡形もなく消えてしまった人びとの胸中はどのようであっただろう。
  
 この記述は、おそらく4月13日夜半の第1次山手空襲と、5月25日夜半の第2次山手空襲の証言とが混同されていると思われる。確かに、第二文化村にあった安倍能成邸Click!や星野邸は、4月13日夜半の空襲で焼失しているのだろう。しかし、第一文化村の会津八一邸Click!(文化村秋艸堂)が焼失したのは5月25日夜半の空襲だったのではないか。なぜなら、5月17日にB29偵察機が写した空中写真には、第一文化村の前谷戸Click!周辺の家々が焼けずに残っているのを確認することができるからだ。第一文化村は、4月13日夜半の空襲で焦土になってはいない。会津八一は、4月13日夜の空襲時にも当然避難していると思われるが、5月25日夜の空襲で文化村秋艸堂が罹災し、焼け出されていると思われる。
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 また、空襲後は目白文化村から目白駅のほうまで、一面が焼け野原で見わたせたという証言も、4月13日の空襲後のことではないだろう。4月13日の空襲は、鉄道駅や河川沿い、幹線道路沿いなどを爆撃したもので、3月10日の東京大空襲Click!のように、住宅街全体を無差別に絨毯爆撃したものではない。無差別の絨毯爆撃により、下落合や北側の目白町、長崎地域が焼け野原になるのは5月25日夜半の第2次山手空襲だ。
 つまり、山手線に近い旧・下落合東部の住宅街は、4月13日の空襲では目白駅付近(金久保沢Click!近衛町Click!の北部)を除いては被害らしい被害を受けてはおらず、目白文化村から目白駅方面まで見わたすことは不可能だったろう。目白文化村から目白駅方面までが見とおせるほど、下落合東部の街並みが大きなダメージを受けるのは5月25日の第2次山手空襲だ。そして、同空襲により焼け残った第一文化村の家々も、「四軒」を残して炎上しているものと思われる。
 目白文化村に限らず、1945年(昭和20)5月17日の空中写真から、4月13日夜半の第1次山手空襲の被害を見てみよう。まず、山手線の高田馬場駅Click!や目白駅、池袋駅といった鉄道沿いが爆撃目標になっているのは明らかだ。下落合を例にとれば、目白駅周辺に爆撃が集中しており、金久保沢から近衛町の住宅街北部のほぼ3分の1を焼失している。また、目白通りをはさんだ北側の目白町3丁目も線路沿いが罹災している。そして、旧・神田上水沿いの家並みも爆撃された様子が確認できる。偵察写真では、画面の枠外に切れていて見えないが、妙正寺川沿いの中小工場と第二文化村も罹災していると思われる。
 目白通り沿いでは、江戸期より街並みが形成されていた旧・椎名町Click!(目白通りと山手通りの交差点界隈)が、集中して爆撃を受けている様子がわかる。おそらく、米軍は既存の地図類を参照して情報を得ており、この界隈が住宅密集地であり繁華街であったのを知っていたのだろう。爆撃は、目白福音教会Click!の西側から、小野田製油所Click!の手前にかけて行われており(焼失しており)、これにより第三文化村の北部、第一・第二府営住宅が罹災している。第三文化村に近接した佐伯アトリエClick!が、延焼の脅威にさらされたのは4月13日夜半の空襲時だ。
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 だが、第二府営住宅の南側にある第一文化村と、第二府営住宅の西側にある第三府営住宅は、爆撃の被害をほとんど受けてはいない。目白文化村に限ってみると、第一文化村に切れこんだ谷戸である前谷戸の北側、すなわち第二府営住宅とは二間道路を隔てて接しており、延焼の舌先が二間道路にまで達している北端の永井邸や伊藤邸、穂積邸などは、建物は焼失していないものの被害を受けているのかもしれないが、谷戸の南側にあたる石田邸や藤崎邸、名井邸、古部邸などは罹災していない。また、三間道路をへだてたさらに南側の神谷邸や高島邸、笠松邸などの家々も健在だ。高島邸の南隣りにある会津八一邸(文化村秋艸堂)もまた、焼失しているとは思えない。つまり、『目白文化村』に掲載されている証言のうち、焼け跡の地面から収集品の破片を探している会津八一の目撃談は、5月25日夜の第2次山手空襲直後のことだろう。
 同年3月10日の東京大空襲では、その翌日あるいは翌々日に爆撃効果を測定する偵察飛行が行われている。大川沿いの下町Click!はいまだ炎上中であり、偵察写真が撮られたあとも焼失した街角が少なからずあっただろう。だが、第1次山手空襲後の偵察写真は、4月13日から1ヶ月以上も経過した5月17日に撮影されている。したがって、撮影後の延焼で第一文化村が焼けたとは考えられない。つまり、第一文化村の家々は5月17日の時点でも焼失することなく建っており、以前こちらでもご紹介している会津邸の斜向かいに建っていた中村邸Click!に保存されている、中村様が空襲直後に撮影した第一文化村が一面焼け野原の写真Click!もまた、5月25日の第2次山手空襲の直後に撮影していると思われるのだ。また、目白文化村より西側のアビラ村(芸術村)Click!地域は、戦後の1947年(昭和22)7月に撮影された空中写真を見ても明らかだが、二度にわたる山手空襲の被害をほとんど受けてはいない。
 目白通りをはさんだ長崎町側の被害は、建設中の改正道路(山手通り)に沿って爆撃が行われている。当時の住所表記でいえば、椎名町2丁目から3丁目の山手通り沿いの家々が狙われている。ただし、椎名町3丁目側は目白通りと山手通りの交差点から、武蔵野鉄道の椎名町駅の南側までの被害で止まっているが、目白町寄りの椎名町2丁目は武蔵野鉄道を越えてさらに北側まで延焼しているのがわかる。
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空襲被害19450517高田馬場駅.jpg
 さて、1945年(昭和20)5月17日の偵察写真では、ようやく目白通り沿い南側の幅20mにわたって実施された、建物疎開Click!の様子を子細に観察することができるのだが、その実施時期が同年4月2日から5月17日までの間だったことが判明している。この45日間、いずれかの時期に行われた建物疎開のテーマについては、またもうひとつ、次の物語……。

◆写真上:これらの写真は、B29偵察機の搭乗員が眼下に見た光景そのままであり、70年後に目にするのは不思議な感覚にとらわれる。1945年(昭和20)5月17日に撮影された、爆撃目標で破壊された目白駅と金久保沢から下落合は近衛町北部にかけての被害。
◆写真中上は、第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された下落合。は、第2次山手空襲直前の同年5月17日に撮影された下落合の東・中部。は、同日に撮影された別角度の写真で神田川沿いはもともと建物疎開(防火帯36号線)で工場や住宅は取払われていたが、さらに爆撃で落合、戸塚、高田地区は破壊しつくされている。
◆写真中下は、5月17日撮影の焦土になった第二府営住宅だが、第一文化村の家々は焼けていないのが見える。は、戦後の1947年(昭和22)7月9日に撮影された下落合。
◆写真下は、爆撃で被災した聖母病院の周辺。第三文化村の北側エリアには、いまだ罹災していない住宅がいくつかありそうだ。また、佐伯アトリエが焼けずに残っているのがとらえられている。は、徹底的に破壊された高田馬場駅と諏訪町・戸塚地域。


目白通り建物疎開は1945年(昭和20)春。

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目白福音教会19450402.jpg
 目白通り沿いの南側で、幅20mにわたって建物疎開Click!が行なわれた時期がはっきりした。下落合の地元の方たちの証言、あるいは目白通り北側の方々の証言では、建物疎開が行なわれたのは早い時期では1943年(昭和18)、あるいはサイパン島が陥落した1944年(昭和19)の秋以降、さらに1945年(昭和20)に入ってから……と、さまざまな記憶が錯綜していた。この中で1943年(昭和18)説は、1944年(昭和19)10月22日に陸軍の航空隊が撮影した落合地域の空中写真Click!から、いまだ建物疎開は行なわれていないのが明らかなので除外することができた。また、1944年(昭和19)に作成されたとみられる、「秘」印の押された「淀橋区建物疎開地区図」Click!をある方からいただいたことにより、1943年(昭和18)には防火帯33号の計画が、まだ存在しなかったことも明らかになった。
 わたしは、いろいろな方の証言や資料から、建物疎開の実施は1944年(昭和19)の晩秋から暮れにかけてあたりだと想定していた。その根拠は、先の1944年(昭和19)に陸軍によって撮影された空中写真に、神田川沿いの建物疎開(防火帯36号江戸川線)の工事がかなり進捗しており、また山手線沿いの池袋駅から目白駅まで南北にのびる防火帯33号も解体工事が相当進んでいたからだ。また、目白通りつづきの防火帯33号として建物疎開が予定されていた目白バス通りClick!(長崎バス通り)では、1944年(昭和19)に通りの西側へ空き地ができており、そこへ防空壕Click!がすでに造られていたことが、小川薫様Click!のお母様「上原としアルバム」Click!で明らかになっていたからだ。つまり、防空壕が造られた1944年(昭和19)の冬には、目白通り沿いの建物疎開(防火帯33号建設)はすでに行われていた……と考えた。
 しかし、実際に本格的な建物疎開が行なわれたのは、敗戦の年、1945年(昭和20)に入ってからのことだ。しかも、第1次山手空襲Click!による爆撃が行なわれた1945年(昭和20)4月13日の夜半現在、いまだ建物疎開は一部を除いてほとんど行われていなかったと思われる。目白通り沿いの防火帯33号の建設計画は、遅れに遅れていたのだ。それが明らかになったのは、第1次山手空襲を予定していた米軍が事前に撮影した、同年4月2日の偵察写真が公開されたことによる。この偵察写真で目白通り沿いを観察すると、ほとんどの商店や住宅が解体されずにそのまま建っていたことがわかる。
 一部、櫛の歯が抜けるように建物が解体されているが、おそらくそれは住民が疎開して人が住まなくなった建物か、あるいはもともと空き家で早い時期に解体された建物だ。1944年(昭和19)から、地元の防護団Click!や警察は無人あるいは家族全員が疎開を予定している住宅に対して、空襲による延焼防止のために解体することを家主に対して通告している。近衛町Click!に建っていた旧・杉邸Click!は、その後S家の所有に移っていたが、下町からの引っ越しがまだだったために解体を迫られ、大急ぎで下落合へ転居してきている。
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 もうひとつ、ひっかかっていた証言がある。1944年(昭和19)のうちに建物疎開が行われたとすれば、目白福音教会Click!の目白通り沿いに建っていた建築は当然解体されていたはずで、空襲により炎上することは考えにくい……ということだ。キリスト教が“敵性宗教”Click!などといわれた戦時、それらの施設をあえて残して建物疎開が実施されたとは考えにくいからだ。ところが、同教会の宣教師館Click!(メーヤー館Click!)の北側に建っていた旧・英語学校Click!(のち宣教師宿泊施設)が、空襲で炎上したという証言が残されている。2006年(平成18)発行の落合の昔を語る集い・編『私たちの下落合』に収録された、目白教会の篠原信牧師による「桜並木が火を噴く」から引用してみよう。
  
 ポール君一家が住んでいた宣教師舘(ママ)は西側から迫ってきた戦災の火の熱により発火点に達し、突然二階の窓から炎を吹き出して見る見るうちに炎上してしまった。メーヤー宣教師の住んでいた宣教師舘の羽目板は手で触れられないほど熱く、父とともに必死で火がつかないよう努めた。幸い類焼はまぬがれた。先に(昭和十六年)火事によって礼拝堂を失っていた目白教会は、その後、この宣教師館(ママ)で礼拝をしていた。さらに、この宣教師館は日本聖書学校の発祥の地ともなった。庭のヒマラヤ杉はメーヤー師夫妻がお子さんの誕生を記念して植樹されたもの。終戦間近に目白英語学校と目白平和幼稚園の建物は爆撃の目標になるとの理由で強制的に取り壊された。
  
 この文章の中で、「ポール君一家」が住んでいた目白通りに近いもうひとつの宣教師館が、前年1944年(昭和19)の暮れ、幅20mにわたる建物疎開がすでに行われていたとすれば、当然ひっかかっていたはずの建物であり、“敵性宗教”の施設として優先的に解体されていたはずだ。もちろん、1941年(昭和16)12月の日米開戦後は、「ポール君一家」すなわちハーヴェー・シード宣教師夫妻は住んでおらず、1945年(昭和20)の第1次山手空襲で延焼しているとすれば、なにか教会の建物をあえて残しておく別の理由が存在していたのではないか?……と、わたしは想像していた。
 たとえば、“敵性外国人”である欧米人の強制収容所Click!として使用された関口教会や聖母病院Click!などを警備する、憲兵隊ないしは警備兵の駐屯所のような用途だ。しかし、そもそも建物疎開が1945年(昭和20)4月の第1次山手空襲時まで間に合わず、実施されていなければ「ポール君一家」の宣教師館がそのまま残っているのは当然のことだった。1945年(昭和20)4月2日に撮影された米軍の偵察写真には、目白通り沿いの同宣教師館はもちろん、文中に登場している目白英語学校や目白平和幼稚園の建物も、そのまま建っているのが確認できる。
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 そして、次にB29偵察機が撮影した同年5月17日の空中写真には、4月13日夜半の空襲で延焼した「ポール君一家」の宣教師館(の残骸)と、建物疎開ですでに存在していない目白英語学校および目白平和幼稚園の建物跡を確認することができる。すなわち、米軍による2種の偵察写真を比較することにより、目白通りの南側で幅20mにわたり行われた建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日まで45日間のどこかで実施されていると規定することができる。さらに、同年4月13日夜半の第1次山手空襲の際に、「ポール君一家」の宣教師館が解体されずに残っていたことを考慮すれば、一部の建物疎開は進捗していたのかもしれないが、すべての作業を終了していたとは考えられず、防火帯33号と名づけられた目白通り沿いの建物疎開が完了するのは、4月14日から5月17日までの33日間のどこか……と、より期間を絞って想定することができる。
 おそらく、4月13日の空襲で被災した建物の残骸はもちろん、焼け残った目白通り沿いの建物も、大急ぎで解体されたと思われる。建物を引き倒す解体作業に戦車が動員されたのも、防火帯33号の建設リードタイムを短縮し効率化するためであり、次の空襲に備えた不休の作業がつづいたのだろう。しかし、次いで5月25日夜半に行われた第2次山手空襲では、この防火帯33号はほとんど役に立たなかった。470機のB29による同日の空襲は、山手地域の一帯をほとんどくまなく絨毯爆撃しており、にわか造りの防火帯などでは火災を防ぐことができなかった。ナパーム焼夷弾による延焼を防いだのは、むしろ山手のあちこちに残る森林や、樹木が濃い屋敷林Click!の存在だった。
 さて、目白バス通り(長崎バス通り)では、目白松竹館Click!(旧・洛西館Click!)が建物疎開からまぬがれているのを以前に書いた。4月2日撮影の偵察写真では、やはり櫛の歯が抜けるように建物がわずかに解体され、町内運動場Click!などの空き地には防火用水の設置されているのが見てとれる。だが、5月17日の偵察写真を参照すると、商店や住宅はその多くが解体され、通りの西側は小川薫様Click!のお母様の証言どおり、かなり広い原っぱと化していた様子がわかる。目白バス通り沿いは、4月13日の空襲では大きな被害を受けておらず、商店街や住宅街は空襲前と変わらずに建っている。この通り沿い(おもに西側)が戦禍にみまわれるのは、5月25日夜半の第2次山手空襲のときだ。
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 以前、御留山Click!相馬孟胤邸Click!は空襲で焼失したという証言を、当の相馬邸を買収した東邦生命の5代目・太田清蔵による証言(花田衛『五代太田清蔵伝』Click!)から、あるいは地元にお住まいの方の証言でも耳にしていた。しかし、相馬邸はすでに跡形もなく解体され宅地開発の進んでいる様子が、1944年(昭和19)秋の陸軍撮影による空中写真でも、また翌1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲直前に撮影された米軍の偵察写真でも判然Click!としている。戦時中の混乱した状況では、さまざまな記憶の齟齬や勘ちがい、時系列の錯覚や思いちがいが生じやすいものであることを、改めて痛感している。

◆写真上:1945年(昭和20)4月13日夜半に行われた第1次山手空襲の直前、11日前の4月2日にB29偵察機によって撮影された目白福音教会。
◆写真中上は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された目白駅寄りの目白通り偵察写真。は、5月17日の第2次山手空襲直前に撮影された同所の偵察写真。
◆写真中下は、1945年(昭和20)4月2日撮影の目白通りと山手通りの交差点界隈。は、5月17日に撮影された同所の偵察写真。
◆写真下は、5月17日の偵察写真にみる目白福音教会で「ポール君一家」がいた宣教師館の残骸が見える。は、5月17日の偵察写真にみる長崎バス通り界隈。雲の陰でわかりにくいが建物疎開が進んでいる様子と、4月13日夜半の空襲では下落合側とは異なりほとんど被害を受けていない様子が確認できる。

稲垣米太郎の肖像画をめぐる物語。

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刑部人「稲垣米太郎海軍少佐の肖像」1944.jpg
 先日、旧・下落合4丁目にある船山馨邸Click!の近隣にお住まいの髙島秀之様より、今年(2014年)3月に出版された著作『聖エルモの火』(中央公論事業出版)をいただいた。同書の巻頭には、1944年(昭和19)11月に制作された刑部人Click!『稲垣米太郎海軍少佐の肖像』(部分)が掲載されている。(冒頭写真) 同書は、サブタイトルに「稲垣米太郎海軍少佐と稲垣孝二海軍中尉の記録」とあるように、高島様の叔父の妻にあたる方の弟たち、すなわち稲垣兄弟をめぐる物語だ。
 上掲の『稲垣米太郎海軍少佐の肖像』は、稲垣米太郎が第二水雷戦隊の駆逐艦「巻波」の水雷長として勤務し、1943年(昭和18)2月のブカ島沖夜戦(米軍名はセント・ジョージ岬沖海戦)で戦死したあと、その1周忌を記念して遺族が肖像画を刑部人へ依頼したものらしい。刑部人は、稲垣米太郎の生前の写真を見ながらキャンバスに向かっている。水雷長とは、駆逐艦や巡洋艦で魚雷戦を統括する指揮官のことで、戦死時の稲垣米太郎は海軍大尉だが戦死後に“特進”して少佐となり、刑部人は少佐の襟章で同肖像画を描いている。
 また、弟の稲垣孝二中尉は、東北帝大Click!在学中に学徒出陣Click!で召集され海軍航空隊に所属したが、1945年(昭和20)4月に航空機はおろか満足な武器もないなか、フィリピンのルソン島クラーク基地をめぐる戦闘で戦死した。戦死時は少尉だったが、同様に死後中尉に昇級している。クラーク基地周辺での戦闘は、近代的な兵装と重機や工作機械により、たちどころに基地を構築・増強してしまう圧倒的に優勢な米軍に対し、日本軍は兵員にいきわたる銃火器すら不足する状況下でジャングルにひそみ、栄養失調による餓死者とマラリアや赤痢による病死者が続出していった。ちょうど同じころ、レイテ島のジャングルを彷徨っていた大岡昇平が、「近代国家」を名のる日本が精神論や“神話”に振りまわされ、論理的な思考や合理的な思想を軽視する「日本の歴史自身と戦っていたのである」と、のちに『レイテ戦記』で総括したような状況だったのだろう。
 髙島秀之様は、残された刑部人『稲垣米太郎海軍少佐の肖像』を頼りに、遠い親戚筋にあたる若い稲垣兄弟の軌跡と、ふたりが参戦して散っていった戦闘とを追跡しつづけるのだが、その綿密な調査の過程をたどる物語が本書の骨子となっている。詳細は、ぜひ同書を手にして読んでいただきたい。わたしは読み終えたあと、どこかドキュメンタリーを観たあとのような感触をおぼえたのだが、著者の髙島様は長年NHKでドュメンタリー番組を手がけてこられたディレクターであり、またプロデューサーでもある。
 NHK特集『海ゆかば ソロモン沖水底の墓碑銘』(1978年12月8日放映)は、ソロモン海で撃沈された艦船を水中撮影していくドキュメンタリー番組だが、高島様がディレクター時代に制作したものだ。このときは、近海に眠る駆逐艦「巻波」の水雷長・稲垣米太郎のことを、いまだご存じではなかった。また、米軍に待ち伏せ攻撃されブーゲンビル島のジャングルに墜落した山本五十六Click!一式陸攻Click!を、初めて映像にとらえたのも高島様の仕事だ。1978年(昭和53)の日米開戦記念日にあたるこの日、学生だったわたしは同ドキュメンタリー番組を、おそらく親父とともに観ている。
 ちょっと横道にそれるけれど、NHKで当初の編集構成のまま放映が許されず、同局のディレクターを退めた龍村仁のドキュメンタリー『CAROL(キャロル)』(1973年)を、5年後の同じ年に、学生だったわたしはどこかの映画館で観た記憶がある。今日、矢沢永吉がCMで首相を演じることなど、想像すらできなかった時代だ。
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 さて、高島様がわざわざ『聖エルモの火』をお贈りくださったのは、旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)にアトリエClick!を建てて住んだ刑部人Click!をめぐる物語と、高島邸のある丘上ですごされた少年時代を回顧する文章が、同書に掲載されているからだ。その一節を、引用してみよう。
  
 少年時代、私は刑部人のアトリエに通った。戦後しばらくしてからである。どうして出入りするようになったかは覚えていない。絵を描くことが好きで画帳を持って遊びに行った。/アトリエの入口には洒落たクリーム色のファサードがあった。設計が国会議事堂を手掛けた建築家吉武東里Click!であることは後で知った。/アトリエには制作中の画がイーゼルに掛かり、傍らにはキャンバスが多数収納されていた。画布は、それぞれ100号程もあったろうか、子どもには信じられないぐらいの大きさであった。油絵のテレピン油かリンシードオイルの匂いが充満したアトリエの片隅で、私は小さなスケッチブックを開いて絵を描いていた。画家は時おり覗き込むが何も云わなかった。私は紅茶とケーキが楽しみで、ティータイムが終わると家へ飛んで帰った。
  
 このような画塾、あるいは画塾までいかない子どもたちの“アトリエ通い”は、下落合のあちこちで行われていたようだ。吉田博Click!のご子孫である吉田隆志様は、七曲坂筋の海洲正太郎Click!アトリエへ通われているし、二科の甲斐仁代Click!も生徒たちを集めては画塾のようなものを開いている。別に経済的に困窮している画家ではなく、比較的裕福な画家も子どもたちをアトリエに入れているので、画家のアトリエが多かった落合地域ならではの“地域ブーム”であり、芸術(家)に直接触れる“習いごと”だったのかもしれない。引きつづき、四ノ坂から五ノ坂あたりの子どもたちの遊びを引用しよう。
  
 私の住んだ路地の奥には、政治家・永井柳太郎の広壮な邸宅があった。その庭の一角には樹齢200年を超すような楠があって、路地の少年たちはその樹の股10メートルの高さに「トム・ソーヤの小屋」のようなツリーハウスを掛けて溜まり場としていた。/何と良い香りと風の通った小屋であったことか。楠を食草とするアオスジアゲハが群れて飛び、榎も近くにあってオオムラサキやゴマダラチョウも多く、樹々の蜜を吸いにきた。(中略)庭の一角の楠の大木を子どもたちが占領しても、母屋からは遠く視界には入っていなかった。いや、多分見逃してくれていたのだろう。食糧事情も悪く、碌なものは食べていなかったが、遊びには事欠かなかった。/休みには永井柳太郎の次男の永井道雄(社会教育学者・文部大臣 附属49回)とも庭で出会ったことがある。
  
 高島様は、のちに朝日新聞の論説委員時代の永井道雄と偶然、飛行機で隣り合わせの席になったエピソードも紹介している。文中の永井道雄の項に「附属」とあるのは、東京高等師範学校附属中学校(のち東京教育大学附属中学校・高等学校)の略称だ。今日では、「附属」というと「どこの附属?」となってしまうが、戦前から戦後にかけて「附属」といえば東京高等師範学校附属中学校を意味し、東京では一中Click!と並ぶエリート進学校として広く知られていた。稲垣米太郎も、また著者の高橋秀之様も「附属」の出身だ。ちなみに、稲垣米太郎は「附属」の47回生だが、同期には俳優の芥川比呂志Click!がいた。
髙島秀之「聖エルモの火」2014.jpg 刑部人アトリエ.jpg
  
 その永井の家の畑の隣に林芙美子Click!の家があった。(林芙美子邸は、今では新宿区の記念館となっている) その頃の落合は畠と森の連続であった。/その芙美子の家の隣が、石段の小径を挟んで刑部人のアトリエだった。芙美子の夫は薔薇づくりを趣味としていて、その薔薇を刑部に届けていたという。刑部の画に薔薇Click!が多いのはその故である。/林家から刑部家へと続く裏山は鬱蒼とした森で、子どもたちの格好の遊び場であった。ある日、みんなで満開の桜の木に登って、枝をちょん切って遊んでいると、恐ろしい形相をした芙美子が下に立っていたことがある。森光子扮する芙美子とは似ても似つかぬ風貌であった。(中略)/永井の家の前には小さな円形の広場があった。今思えば突き当りの路地なのでターンのための車寄せだったのだろう。子どもたちには格好のゴロベースの場であった。その広場に面して作家の吉屋信子Click!の家があった。彼女が鎌倉に移る前である。時おり彼女を見掛けたが、女流作家とは「ブルドッグのような貌をしているナ」と子ども心に思ったものだ。吉屋の家Click!には大きなシュロの樹が4本あり、これにもよく登った。(中略)/隣に作家の船山馨が越してきたのは戦後のことである。それまでは家の北側は畑が続いて、その先に画家の松本竣介Click!のアトリエが見えていた。
  
 先日、TVで『放浪記』の林芙美子Click!と似ても似つかない森光子の伝記ドラマをやっていたが、こちらも森光子と似ても似つかない仲間由紀恵が演じていたのには驚いた。
 島津家Click!が設置した四ノ坂の石段は、高島様が子どものころはかなりすり減っていたようで、30段ほどの階段を自転車で駆け下りる遊びが流行っていたらしい。おそらく、途中で転倒してあちこち擦りむいた子どももいただろう。また、雪が降ると五ノ坂はとたんにゲレンデへ早変わりをしたようだ。今年(2014年)の大雪が降った日、クルマがほとんど通らなくなった下落合の坂道では、あちこちからソリやスノボで遊ぶ子どもたちの歓声が響いていた。下落合の坂道やバッケClick!状の斜面は、佐伯祐三Click!第四文化村Click!近くの急斜面を描いた『雪景色』Click!から現在まで、時代を超えて子どもたちのゲレンデには最適な風情をしているようだ。
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 もうひとつ余談だが、1943年(昭和18)現在における稲垣家の住所は、豊島区池袋3丁目1279番地となっている。この住所は、ちょうど豊島師範学校Click!(現・東京芸術劇場)と立教大学の中間点にあたり、昭和初期まで岩崎撚糸場が操業していた敷地だ。工場の郊外移転にともない、住宅地として新たに開発されたエリアなのだろう。以前、三岸節子(吉田節子)Click!狐塚アトリエClick!でご紹介した上屋敷公園から、北へわずか300mほどのところに位置している。

◆写真上:1944年(昭和19)制作の、刑部人『稲垣米太郎海軍少佐の肖像』(部分)。
◆写真中上は、国立公文書館の「第二水雷戦隊行動記録」に残る1942年(昭和17)10月の駆逐艦「巻波」の行動表。は、米国の画家が描いた戦争画『セント・ジョージ岬沖海戦』。右端に描かれているのは炎上中の駆逐艦「夕霧」だと思われるが、艦隊同士がこれほど近接して砲雷戦をしたとは考えにくく、あくまでも画家のイメージだろう。
◆写真中下は、2014年に中央公論事業出版から刊行された髙島秀之『聖エルモの火』の表紙。は、解体される前に撮影された刑部人アトリエClick!
◆写真下は、1947年(昭和22)に撮影された四ノ坂から五ノ坂にかけての旧・下落合4丁目界隈。は、1960年(昭和35)発行の「東京都全住宅案内」(住宅協会)より。

大家にめぐまれれた中野重治。

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 中野重治Click!は、原泉Click!と結婚して上落合48番地、さらには上落合481番地へと転居してくる以前、独身時代に雑司ヶ谷の鬼子母神Click!(きしもじん)近くへ下宿していた時期があった。もちろん、中野は特高警察Click!に追われる左翼活動中で下宿も変名で借りていたのだが、彼の言葉によれば「見ず知らずの人間を見ず知らずのままそっとしておいてくれる」、非常に自由な風の吹く居心地のいい下宿だったようだ。
 以前にも、松本竣介夫妻Click!が編纂していた『雑記帳』の記事で、古澤元の「因業大家」Click!をご紹介したが、借家を建てて部屋を賃貸している不在地主ではなく、もともと地元の住民が下宿屋をやっているケースは、おしなべて気のきいた親切な下宿が多かったようだ。先の記事では、目白や上高田にあった下宿の親切な大家が紹介されていたが、中野重治もそんな親切で気のきいた下宿にめぐりあったようだ。
 雑司ヶ谷鬼子母神近くの下宿は、主人が植木屋を商売にしているようだったが、家を切り盛りして実質「家長」の役をはたしているのは主人ではなく、またその連れ合いであるおかみさんでもなく、19歳とも25、6歳とも見える小柄で利発な長女だった。彼女は、中野重治が訪ねて間借りの依頼と賃料8円への値下げ交渉をすると、その場は「母親に聞いてみます」といって即答を避けたが、翌日、賃料は8円50銭のまま負けることはできないが、いますぐにでも引っ越してきてかまわないと答えた。
 これは、のちの状況から長女が即答を避けるために、母親を理由にして彼女自身がひと晩じっくり考えた結果ではないかと思われる。そのときの状況を、1977年(昭和52)に筑摩書房から出版された、『中野重治全集』第26巻から引用してみよう。
  
 植木屋か何かで、おやじさんにおふくろに子供が四、五人の家族だった。おやじさんとはろくに顔を合わせず、たとえばあるときおやじさんに部屋代を出すと、おやじさんは自分でそれを受けとらずに娘に渡してくれという具合であり、――部屋を見に行ったとき出てきた女の人が姉むすめだった。――おふくろは病気で寝ていて多分一ぺんも顔を合わせず、十七、八の男の子が二人いてこれは屋根屋か何かをやり、その下に九つくらいの女の子と足の悪い男の子とがいた。家のことはいっさい銭勘定の問題から子供たち衣食のことまで残らずこの姉むすめがやっていた。そしてこの姉むすめという人が全く珍しい人だった。 (「鬼子母神そばの家の人」より)
  
 中野はその場で、長女のいうとおり8円50銭をすぐに支払い、周旋屋に引っ越し荷物を運ばせるが、自分は用事があってこれから4~5日帰省するのでここには帰らないといった。もちろん、中野は地下活動のために4~5日間、地方まわりをする予定なのだが、長女はそれを聞いても「眼をまんまるく」するだけで、特に深くは訊ねなかった。
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 雑司ヶ谷の前、中野は本郷区の追分に部屋を借りていたが、彼の留守中に引っ越し屋が机や家具を勝手に運んできたようだ。娘は、それを受けとると中野の部屋へきっちり収納し、彼の帰りを待っていた。ところが、中野は4~5日で帰るはずが、都合で10日以上も空けてしまい、雑司ヶ谷へ帰ったのはかなりあとのことだった。しかし、中野は気が引けつつ「ただいま帰りました」と玄関に立つと、娘は「どうなすったのかと思っていたのですよ」と答えたきりで、遅れた理由など詳しいことはいっさい訊かなかった。
  
 (娘は)じつに麗朗とした顔をしていて、どんなことがあっても泣き顔も見せなければ笑いころげるということもなかった。生れて一ぺんも病気をしたことがないような小柄な健康なからだで、髪をいつもひっつめ(?)に結い(その上に時おり手ぬぐいをかぶっていた)、木綿の紺がすりか何かに前垂がけでせっせと働いていた。/その一家では、この顔のはればれとした姉むすめが事実上の家長だった。家全体がこの姉むすめをたよりにしており、この娘さんは親兄弟の側から出る一種崇敬の念ともいうべきものに包まれていた。一番下の子でも、ねえさんというかわりに友達か何かのように何とかちゃんといって名で呼ぶのだが、それがその愛情のある崇敬の念をよく表していた。
  
 この娘は、おそらく下宿人がなにを「仕事」にしているのか、薄々気がついていたのだろう。ときに、中野の変名を書いた「〇〇様気付中野様」という手紙がとどくので、下宿人の本名が「中野」であることにも気づいていたのかもしれない。でも、この娘はなにも訊かずに「気付中野様」あての手紙を彼にわたしていた。
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 また、中野の友人が彼の留守中に「中野という男はいますか?」といって、下宿を訪ねてきた。ところが、「中野」という名前には頻繁にとどく郵便物などから、確かに心あたりがあるにもかかわらず、娘は「いません」といってけんもほろろに断っている。また、そのような訪問者があったことさえ、中野には伝えずにそのまま黙っていた。
 訪問者のことを伝えれば、彼がなんらかの弁解や説明をしなければならなくなるのを(つまり、娘に対してなんらかのウソをつかなければならないのを)、よくわきまえて知っていたからであり、そのことから娘と彼との間に“しこり”のようなものが残るのを、そして中野が家に居づらくなるのを見とおしていたからだろう。家全体を切り盛りしていた姉娘は、非常に頭のよい女性だったと思われる。
 自分がひとたび、その人物の性格や気性、姿勢、品位などを見きわめ、信用して間借りや下宿を許した相手、つまり家の敷居をまたがせた人間に対しては、たとえそれがどんな仕事をしている人物であろうが、とことん庇護して面倒をみるという、江戸東京で暮らす女性の意気地を体現しているような、鮮やかな娘が雑司ヶ谷の鬼子母神近くにもいた。
  
 そのころ僕は何とかいう名まえだった。ところが何か出版物があってそれのゲラ刷がその何とか様気付中野様あてでひとしきり速達でやって来た。それについてしかし家の人はいっさい触れなかった。/ある日、僕の留守に誰か友人が「中野という男がいますか。」といって訪ねてきた。するとその女の人が、「そういう人は私のところにはおりません。」といって突っ放した。その男はしまったと思ったが、おかげで「そうですか……」とうまく引きさがることができた。その男はそのときの突っ放し方のうまさをひどく感心しながら私に話した。そしてそこの家の人はそういう訪問者のあったことさえ僕には知らせなかった。
  
  
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 中野重治は、この娘の心づかいを「稀に得られる種類の親切」という表現で書きとめた。あるいは、「親切」という言葉では表せないとも記している。中野はこのあと、特高に何度も逮捕されるのだが、拘留中に拷問を繰り返しうけながら「僕にひらいて見せた優秀なその庶民の魂にたいして深い感謝の思い」を送りつづけている。

◆写真上:中野重治の詩が、もっとも尖がっていたころの『雨の降る品川駅』の品川駅。
◆写真中上:雑司ヶ谷の小さな谷戸()と、戦災から焼け残った西洋館()。
◆写真中下:雑司ヶ谷鬼子母神の参道()と本堂()。
◆写真下は、1930年(昭和5)に滝野川の自宅で撮影された中野重治と中野政野(原泉子)。は、1961年(昭和36)に撮影された中野重治と松本清張(右)。

関東大震災と目白中学校の被害。

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 1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災Click!のあと、下落合の目白中学校Click!は9月18日から授業を再開している。18日からの授業再開は、新聞の広告欄に掲載されたが、震災の混乱で新聞の発行や配達自体が遅延しており、再開した授業を知らなかった生徒もずいぶんいたようだ。大震災による落合地域の揺れは、市街地に比べて相対的に軽く、目白中学校も倒壊をまぬがれている。校舎の被害は、壁の一部が剥脱したのと屋根瓦が部分的に落下しただけで、とりあえず授業に差し障るような大きなダメージは受けていない。
 関東大震災のあと、1924年(大正13)の春に編集された目白中学校の校友誌『桂蔭』第10巻には、大震災の記述は意外なほど少ない。冒頭の短歌と、生徒たちの手記や体験談が2篇、そして同誌編集委員による「震災雑記―報告に代へて―」が1篇と、同誌に掲載された原稿の5%にも満たない。河岸段丘による強固な地盤のせいか、落合地域は大震災による被害が比較的少なく、古くからの家屋が2棟倒壊Click!したという伝承のみにとどまっている。また出火による焼失も、淀橋警察署(戸塚分署)の記録によれば、早稲田大学理科学研究所で薬品類の落下による発火が原因で、研究所の1棟が全焼したのみの被害だった。
 ただし、現在の新宿区の南部にわたる一帯は、揺れが激しかったせいか大きな被害が出ている。四谷警察署管内の記録では、家屋の全壊が52戸で半壊が159戸、しかも数ヶ所から出火して大火災となっている。また、神楽坂警察署管内では陸軍士官学校理科室の薬品棚から発火して半焼、早稲田警察署管内では全壊262戸で半壊328戸を記録し、若松町と山吹町の2ヶ所で出火したが消防活動ですぐに鎮火している。中でも四谷地区の被害は大きく、死者168名で全焼家屋は642戸にものぼった。これに対して、落合地域では死者も火災も発生しておらず、目白中学校が震災日から半月ほどで授業が再開できたゆえんだ。おそらく、授業は震災の数日後から再開できたと思われるのだが、戒厳令が布告されたあとの目白中学校には、軍隊が駐屯していて教室を使用することができなかった。
 さて、『桂蔭』第10巻の編集委員による「震災雑記―報告に代へて―」には、震災時の目白中学校の姿が記録されている。同原稿を執筆した編集委員の“天邪鬼”は、大震災により被害を受けた地域で流される言説に激怒している。いわゆる、「物質文明」や「科学」に毒された人間を、「神」が覚醒させるために「天譴」を下し「試練」を課したのだ……とする流言だ。同誌から、怒れる“天邪鬼”の編集後記ともいうべき文章を引用してみよう。
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 天譴(てんけん)である、神の人間に下した試練であると臆面もなく――いや反つて得意顔に云ふものがある。私はこの語を聞く度に堪へがたち憤怒に駆られる。その者が長上であれ、貴人であれ、容赦なく横面(よこっつら)を張り飛ばしてその高慢顔に啖をはきかけてやりたい衝動を感じる(。)さういふ事を云ふ者は、所謂知識階級、似而非(えせ)道徳家に多かつた。彼等は得意になつて新聞雑誌に力説した(。)さも自分は清浄潔白なるが故に天譴を免れたと云わぬ許りに筆を走らせた。そして原稿料をかせいだのである。おゝ聖人顔した、心の敗絮(はいじょ)の輩の多いことであるよ(。)あまりに贅沢の限りを尽したが故に天はいましめたのだといふ。だが理屈は何とでもつけられる。結果をたねに、自分だけがいゝものになつてつまらぬことをほざく者に呪あれ。(中略) 天譴説は換言すれば彼の死者がより多くの―生き残りより-罪を有して居たが故にその当然受くべき罰をうけたのだといふに当りはしまいか。自分は聖道を歩んだが故に無事助かつたといふのに当りに(ママ)しまいか。然りとすれば死骸に鞭打つのである。死者を侮辱するものである。死者がみな驕堕に耽つて居たか。おゝ天譴説は人に反抗を起さしむるに過ぎぬ邪説逆説である。(カッコ内引用者註)
  
 本来、目白中学校の校友誌『桂蔭』は、乃手Click!の学校らしく穏やかで落ち着いた誌面のはずだった。ところが、マスコミでさかんに喧伝された「天譴説」に対し、大学並みの教授陣をそろえ学問を追究する、大正期は一中と並び称された学府「私立中学ノ雄」として、ついにキレた、いや怒りを爆発させたようだ。「横面を張り飛ばして」とか「啖をはきかけて」、「つまらぬことをほざく」、「呪あれ」などの語彙は、それまでの『桂蔭』誌面には決して見られなかった表現だ。
 さて、目白中学校の被害はどうだったのだろうか? 校舎の瓦が落ちた教室では、雨漏りがしていたようだ。同誌の「震災雑記―報告に代へて―」から引用してみよう。
  
 〇山の手、而も地盤堅固といふのか知らぬが学校は幸にも――本当に幸にも倒潰せずに済んだ。瓦と壁が落ちただけだつた。でも瓦は授業が始まつても仲々繕はれなかたので(ママ)、雨の日は教室へ雨漏がして早く授業をしまつた組があつたらしかつた。外に忙しいこともあつたらうけれど、もう少し瓦を早く繕つて呉れたらよかつたと思つた。
 〇(九月)二日から十七日迄授業はなかつた。それまで兵隊さんに占領されてゐたのと、交通機関の不通の為とであつた。
  
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 目白中学校の2学期は、9月18日(火)からスタートしているが、授業の再開は新聞広告によって告知されている。ところが、震災直後の新聞広告欄は、企業の消息を掲載したり行方不明者を探したりする尋ね人情報があふれ、授業スタートを告知する目白中学校の広告は目立たなかったらしい。また、17日の夕刊あるいは18日の朝刊に掲載依頼をしたものが、編集作業の遅れで18日の夕刊に掲載された新聞もあった。したがって、新学期の開始を知らない生徒が、かなり存在していたようだ。また、当時の新聞は流通経路がズタズタに寸断されていたため、配達の遅れることも多かった。したがって、9月18日に登校した生徒はまだ少なかったらしい。
 家が倒壊したり、焼失したりした生徒の罹災者はかなりいたようなのだが、生徒の犠牲者はひとりもいなかった。文中にもあるとおり、他校に比べると目白中学の被害は非常に軽微で済んでいる。つづけて、「震災雑記―報告に代へて―」から引用しよう。
  
 〇授業開始の新聞広告の中、日々(東京日日新聞)のは十八日の夕刊か何か(或ひはそれ以後だつたか)に出たので、日々のみを見て居た人は一日乃至二日は知り得なくて欠席の止むなきに至つた。元来日々は広告の輻輳する新聞である。下手にすると遅れるのだ。この点を、も少し考へて呉れたらよかつたと思ふ。
 〇先生の罹災された方は、井上(勇)先生及剣道の檜山(義質)先生である。井上先生は旅行中であつたとか。多年苦心になる博物の標本及研究資料全部焼失せられたといふ。誠にお気の毒で、生(徒:ママ)等にも、学会の為にも惜しいことである。生徒罹災者は可成あつたが他校に比較すると少ない方であつた。死者は全然ない。喜ばしいことであつた。罹災種数は別表の通りである。(罹災者表は掲載漏れ)
 〇九月廿日附で九州小倉中学の生徒諸君から各学年別に深切(ママ)な見舞状を送られた。ほんたうに有難いことであつた。我々はあの厚意に対して深く感謝せねばならない。
 〇中央工学校に震災以来校舎を貸した。焼けた学校の人は本当に気の毒である。
  
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 市街地で焼け出された学校の学生たちに、目白中学校が校舎を提供していた様子がわかる。目白中学には、大正期にも東京同文書院Click!事務所Click!が残存していたようだが、校舎の一部を池袋にある豊島師範学校Click!事務局Click!に貸していた記録が残っている。『桂蔭』第10巻の「震災雑記」は、1923年(大正12)の大震災以降も、同校の校舎を他校へ貸していた様子がわかるめずらしい記録だ。

◆写真上:新宿区域では被害が大きかった、市谷本村町の状況。(『牛込区史』より)
◆写真中上は、同区域の外濠に面した揚場町の被害。下左は、江戸川(左手・神田川)に沿った東五軒町の地割れ。下右は、市谷の外濠通りの地割れ。(同上)
◆写真中下上左は、1924年(大正13)現在の校長室における柏原文太郎。上右は、1923年(大正12)現在の1/10,000地形図にみる目白中学校。は、職員室の様子。
◆写真下:文藝部の部活動の様子で、中央は顧問教師であり部長の秋山正平。

『蝶と貝殻』の面白さと美しさ。

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 先ごろ、上鷺宮の三岸アトリエClick!が文化庁の登録有形文化財に指定された。同アトリエの保存へ向けた取り組みにとっては、とても大きな一歩だと思う。わたしはさっそく、「ミギシくん」Click!を連れてお祝いに出かけたのだが、もうひとつ、山本愛子様Click!のお手もとにある三岸好太郎『蝶と貝殻』No.52(1934年)を拝見したかったからだ。
 三岸好太郎Click!は、1934年(昭和9)3月に外山卯三郎Click!の協力をえて、筆彩素描集『蝶と貝殻』をわずか100部限定で出版している。同年7月1日に名古屋で急死する、4ヶ月ほど前のことだ。第0001番から第0100番の通しナンバーがふられた同画集は、三岸好太郎自身により1冊1冊へおもにグアッシュ(不透明水彩)で彩色がなされている。つまり、同じものがふたつとない、100冊すべてが異なる色彩やタッチで表現されているというめずらしい作品だ。
 全国各地の美術館には、それぞれ異なるナンバーの『蝶と貝殻』が収蔵されていて、たとえば北海道立三岸好太郎美術館には『蝶と貝殻』No.65が、茨城県近代美術館には同No.78が、京都国立近代美術館には同No.16、(財)大川美術館には同No.51、宇都宮美術館には同No.97、そして三岸アトリエにはNo.52が残っている。真っ赤な表紙には、「LE PAPILLON ET LA COQUILLE PAR K.MIGUICI」と蝶や蛾、貝殻の線画とともにフランス語で印刷され、同様の中表紙は一転して銀色の用紙が使われている。もともと表紙は、紙ではなく金属板の装丁を予定していたらしいのだが、経費の問題でそれがかなわず、かわりに銀色の中表紙を挿入したらしい。
 1934年(昭和9)の春、筆彩素描集『蝶と貝殻』が制作される前後の様子を、1992年(平成4)に求龍堂から出版された、匠秀夫『三岸好太郎』から引用してみよう。
  
 蝶や貝殻はシュールレアリストの作品の小道具としてしばしば見られるものであり、デ・キリコやイーヴ・タンギーからのヒントもあったと思われる。前年秋頃から、旅中よく貝殻を持参して眺めたり、博物図鑑の蝶の絵を見ることが多かったという。三月号「美術」のアンケート「展覧会予報」に、「三岸好太郎氏-今年はなるべく小品でかひがらとてふてふばかりを主題としてリアリステックな絵のやうで御座居ます。裸婦とかひがら、裸婦とてふてふ、雲の上のてふてふ、こんなやうなモティーフのやうで御座居ます」、とあり、この号は二月二〇日に印刷製本、三月一日の発行であるから、二月には構想ができていたものであろう。
  
 各美術館に収蔵されている『蝶と貝殻』を比較してみると、同じモチーフであるにもかかわらず、まったく色合いや筆のタッチが異なっているのがわかる。つまり、それぞれが同じ画集なのに、受ける印象がまったく別々の味わいなのだ。100冊すべてが今日まで、無事に残存しているのかどうかは知らないが、そこには100通りの表現や色彩があり、100通りの詩もしくは物語があり、観るものに100通りの印象あるいはイメージを与える、とても手のこんだ仕掛けになっている。
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 北海道三岸好太郎美術館で2003年(平成15)に開催された、「生誕100年記念 三岸好太郎展」の図録には、各地の美術館に収蔵されている『蝶と貝殻』5種が比較掲載されている。それを観ると、ピンクとブルーを基調色としたもの(No.65)、オレンジとブルーを基調にしたもの(No.16、No.78、No.97)、レッドまたはパープルとブルーを基調にしたもの(No.51)と、実に多様多彩だ。ナンバーが下がるにしたがって、筆運びも手馴れていったものだろうか、宇都宮美術館のNo.97の表現は流麗で、迷いのないある種のスピード感というか、安定した“ドライブ感”のようなものさえ感じる。
 山本様の手もとにあるNo.52は、残念ながら画集の本体ページ部分が散逸してほとんど残されてはいないが、表紙や中扉、外山卯三郎の巻頭文、表4などが、三岸好太郎の長女・陽子様Click!の手で額装され、たいせつに保存されている。
 同画集の巻頭に記された、外山卯三郎「『蝶と貝殻』に就いて」を引用してみよう。
  
 「蝶と貝殻」――それは決して標本室の棚に、塵埃をあびて置き忘れられてゐる昆虫箱でもなければ、また海岸に打ち上げられたそれでもない。/いま三岸君はその海辺の夢をまどろむ貝殻を捕へて、その中から豪華な蝶の貴婦人を飛ばせ、またうららかな花を慕ふ蝶を捕へては、ロマンテイクな貝殻の卵を生ませようとする。/この芸術的な魔術こそ、私のここに紹介する「蝶と貝殻」であるにかわらない。/三岸君の絵に見る素描力と、瀟洒な特色は恐らく多くの人を喜ばせるものだらう。/私達はさうしたことの外に、彼三岸好太郎の芸術家としての態度、つまり「蝶と貝殻」をどう云ふ絵画的な角度から把握するかと云ふことである。/恐らく彼の恵まれた芸術的な才能は、標本箱に秘められた貝殻に、莎茫と拡る青海原を夢み、波頭を砕ひて遊ぶドルフインを偲ぶことだらう。/また粛然と砂丘に睡る廃墟のやうな角貝の中に、麗人を思はせる蝶を休ませ、妖女豊(ママ:妖艶)な舞姫の姿態を持ち蛾を飛び出させる腕を持つてゐることだらう。/この芸術的な角度こそは、私達が画家三岸好太郎に期待してやまないものである。/言はゞ本集は、さうした三岸君の一つの夢の詩集であるかも知れない。/ただかれはそのポエジイを文字で語らないで、ただ素描に力によつて描き出した。ポエジイ・プラスライクであるに外ならない。/私の「蝶と貝殻」に題する言葉もまた。(ママ)この三岸君の芸術を標本針にさし止めないことを願つて置く。
  
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 当時、外山卯三郎は頻繁に三岸アトリエを訪れ、また三岸好太郎も家族連れで外山邸Click!里見勝蔵Click!アトリエを訪ねていたようだ。外山は、三岸の『蝶と貝殻』を“絵画詩”と位置づけて高く評価をしているが、「絵画的な角度」あるいは「芸術的な角度」と「角度」というワードを用いて、同作を目にする人々の美術的な視線を気づかっているようにもみえる。それは同画集が出た月、つまり1934年(昭和9)3月20日から4月12日まで、東京府美術館において第4回独立美術協会展が開催される予定であり、外山は同展へ出品される三岸作品の様子を、同画集も含めておよそ把握していたからだろう。
 毎年、展覧会のたびに制作表現がクルクルと変わる三岸作品に、多くの画家仲間からは表現が変貌する「必然性」が感じられないと、さんざんな酷評があびせられていた。展評で別府貫一郎が、「これでは三岸君の真面目を疑ひたくなるではないか」と書いたとおり、同展に出品された『のんびり貝』Click!や『海洋を渡る蝶』、『海と射光』などは、前年(1933年)の第3回独立美術協会展の出品作である『オーケストラ』や『新交響楽団』、『乳首』などとは、似ても似つかない作品だった。外山は、三岸の表現をリリカルな「ポエジイ(詩情)」というワードでくくり、過去に制作された作品を意識しつつ、表現の急激な変化に1本の経糸を通そうとしたものだろうか。実際、同年の「アトリエ」5月号に、三岸好太郎は『蝶ト貝殻(視覚詩)』という詩篇を寄せている。
 でも、三岸好太郎自身は、そんなことになどまったく頓着せず、ただ毎年気に入ったモチーフで描きたいものを描いているだけ、描いて美しいと思える制作手法を採用しているだけ、さらに、それが短い人生の中で螺旋状(弁証法的)に創作が進化をつづけていくことなのだ……と、平然と考えていただけなのかもしれないのだが。
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 さて、三岸好太郎の死後、1934年(昭和9)10月に三岸節子Click!の手で竣工した、山脇巌設計によるバウハウス風の三岸アトリエなのだが、同行したミギシくんはさっそく螺旋階段を上ったり下りたりしてご満悦の様子だった。「美しいものを創作してなにが悪い。それがオレの仕事であり、時代に眼を見開いた美術家としての必然性にちがいないのだ」と、そんな声がどこからか聞こえてきそうだ。確かに、『蝶と貝殻』はさまざまな詩情や物語を発散して、いつまでも観あきずに美しい。

◆写真上:三岸アトリエに保存されている、三岸好太郎『蝶と貝殻』の第0052番。
◆写真中上上左は、額装された『蝶と貝殻』の表紙・中表紙。上右は、外山卯三郎の序文。は、同画集の裏表紙()と外山の「『蝶と貝殻』に就いて」()。
◆写真中下は、『蝶と貝殻』の中扉()と三岸好太郎のサイン()。は、1932年(昭和7)に撮影された西武線の鷺ノ宮駅。
◆写真下:お気に入りの螺旋階段を上り下りして、疲れちゃったのかアトリエのソファに座ってくつろぐミギシくん。三岸好太郎が夢をこめた待望のアトリエだが、その死から3ヶ月後に竣工しているので、実際に彼が螺旋階段を上下することはかなわなかった。

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