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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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隣りの席だった寺崎マリ子。

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聖橋(大雪).JPG
 少し前、長崎町並木1285番地(現・長崎1丁目)の大塚彌吉邸の離れに住み、戦後は旧・下落合1丁目430番地で暮らしたエリザベス・ヴァイニングとも親しかったとみられる、外務省の寺崎英成一家Click!について記事を書いた。寺崎英成は、このあと長崎町から再び上海へともどり、そこでグエンドレン夫人は女の子を産んでマリ子と名づけられた。やがて、寺崎は米国の日本大使館勤務の一等書記官となり、一家はワシントンに住むことになる。そして、1941年(昭和16)12月8日Click!を迎えることになった。
 1942年(昭和17)8月に寺崎一家は抑留者交換船で日本にもどっているのだが、このあと敗戦の年まで転居をする先々において、特高Click!からスパイ容疑で一家は執拗にマークされつづけた。帰国後、とりあえず御茶ノ水の文化アパートに落ちついた寺崎夫妻は、娘のマリ子を四ッ谷駅前(麹町区六番町)の雙葉第一初等学校へ通わせることになる。きょうの物語は、寺崎家が1942年(昭和17)に日本へもどった直後、娘の寺崎マリ子の様子を伝えるエピソードだ。上記の記事をお読みになった方から、雙葉小学校で「まり子さんの隣りの席でした」という女性の手記をお送りいただいた。お送りくださったのは、コミュニティマガジン「牛込柳町界隈」の編集長・伊藤徹子様Click!で、手記を書かれたのは雙葉第一初等学校を卒業された荻島温子様だ。
 寺崎マリ子は母親が米国人であり、また父親が米国大使館に勤務し抑留者交換船で帰国しているので、当然、周囲から冷ややかな眼で見られていた。おそらく本人の気づかないところで、特高による学校側への嫌がらせもあっただろう。寺崎マリ子が初めて教室に入ってきたときのことを、荻島様ははっきり記憶している。今年(2014年)6月に出版されたばかりで、学習院生涯学習センターの猪狩章・編『記憶―私たち昭和と平成の自分史抄―』(蒼空社)に収められた、荻島温子「隣の席のマリコさん」から引用してみよう。
  
 昭和十七年(一九四二)、私が小学校三年の時、日米交換船で「マリコ」のヒロイン寺崎まり子さんは、外交官のお父様とアメリカ人のお母様と共に日本に帰られた。住まいは水道橋に落ち着かれ、雙葉初等学校に入られた。同じクラスになり、私の隣の席がたまたま空いていたのでその席に座られ、私なりに心配りをした。/帰ってこられて間が無い頃、海軍省にいた私の叔父(母の妹の夫)が、霞が関でお父様とばったりお会いしたとか。二人は府立一中(現・日比谷高校)で一緒で、寺崎さんの弟さんが海軍の軍医でいらしたので、よく存じあげていたらしい。お嬢さんのことを話され、心配されていたと聞く。雙葉と聞いたので、叔父は私のことをお話しすると、とても喜んでくださって、「姪ごさんによろしく」というお言伝てをいただいた。
  
雙葉学園(戦前).jpg
雙葉学園.jpg
 周囲の冷ややかな眼や、明らかに嫌がらせとわかる大人の言動、あるいは道を歩いていると子どもたちから石をぶつけられる環境の中で、寺崎マリ子は中央線での電車通学をやめていない。彼女は非常に強い性格だったらしく、どこか意地でも電車通学をつづけ、また街中では胸を張って歩くような精神力をもちあわせていたのかもしれない。父親の寺崎英成も同様で、外務省の中では「親米派」に分類されて白い眼で見られ、仕事をなかば干されるような待遇だった。つづけて、荻島様の手記を引用してみよう。
  
 初め、明るかったまり子さんが、戦争が激しくなるに従い次第に難しい立場に置かれ、見るもの、聞くもの、不快なことが多くなられたことと思う。学校の往復に他の国民学校の男の子に石を投げられたり、聞きずてならない言葉を言われたり……。/「撃ちてし止まむ」「鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ!」等々次々に国策標語Click!が出来、そのポスターが町中に貼られる風潮だった。また、町筋には出征兵士を送る歓呼の声がこだまする。/そんな中、まり子さんはご自分の殻の中に閉じ籠らざるを得ない境遇に追いやられたと思う。日本人離れした可愛い女の子に対し、周囲の眼は次第に厳しくなって来たのは否めない。追い打ちをかけるように、四年の時、彼女は跳び箱で手首を骨折、三角巾で吊って電車通学、頑張り屋さんの一面を見せた。/学年が上がり、隣の席ではなかったが、片手の作業が大変そうだったので、手を貸そうとしたら、「いいの、私、やれる」ときっぱり言われ、好意が伝わらない寂しさを私は味わった。/級の中には、ご家族の戦争に対する意見に左右され、四年生でも人それぞれの考えがあった。それだけに、まり子さんに親切にすることがはばかれる時もたまにあった。
  
 雙葉小学校の前、四ッ谷駅に近い中央線の線路土手斜面が女学生たちの手で開墾され、食糧難からカボチャやサツマイモClick!の苗が植えられはじめたころのことだ。国語の時間に、皇国史観Click!の象徴だった読本の「天孫降臨」に登場する「ニニギノミコト」がうまく発音できず、教師やクラスの生徒たちから笑われたのがよほど悔しかったのだろう、のちにマリ子は柳田邦夫に語っている。また、もともと体育が得意だったマリ子だが、跳び箱や平均台といった日本の器械体操が中心の授業には馴染めなかったらしい。
 このあと、空襲が予想される時期になると、東京から寺崎英成の兄が借りていた小田原の邸へ一家で疎開することになるのだが、そこでも寺崎家へ親切にした人々に対する、大磯警察に詰めていた特高の執拗な嫌がらせはつづくことになる。
寺崎まり子1940.jpg 寺崎まり子1942.jpg
写真週報19440614.jpg 雙葉学園1947.jpg
 さて、寺崎マリ子に石を投げた側である「国民学校の男の子」たちから、軍国主義の洗脳教育が消えていくのは、実はそれほど時間がかからなかったようだ。当時は軍国少年のひとりだった方の手記が、同書に掲載されている。田村直幸「この世から消えた山羊牧場」の、“軍国少年の呪縛”から引用してみよう。
  
 一九四四年、都立石神井中学校に入学した。生徒は国防色の制服と戦闘帽、それにゲートルを着けた。軍国少年は、軍人に近づけたことが嬉しかった。中学校では「軍事教練」の時間がある。退役軍人が教官だ。「肉を切らせて骨を切る」という教官の訓示を、軍国少年は素直に聞いていた。/その後日本は破局の道を歩く。中学二年になると、上級生は勤労動員で工場で働き、学校は二年生と一年生だけになっていた。しかし、爆弾の穴埋め、焼跡の整理、飛行機工場Click!の残骸の片づけなどに終始駆り出され、それに度重なる空襲などで、学校の授業は壊滅状態だった。それでも軍国少年は、わが神国は最後は必ず勝つと信じこんでいた。(中略) 九月に入って、大勢の米兵がジープを連ねて学校に乗り込んできた。軍事教練で使う銃剣類を接収するためである。校長が米兵にペコペコ頭を下げている情けない姿を見た時、不思議に軍国少年の呪縛が解けて行った。敗戦を自覚したのはこの日だったといってよい。
  
 この方は、少し前までおそらく「鬼畜米英、一億玉砕!」を訓示していた校長が、敗戦直後に小学校へやってきた米軍に、ペコペコ頭を下げているのを見て洗脳教育から一気に解放されている。おそらく、「こいつら、いったいなんだ? いってることとやってることが正反対じゃねえか!」と思われたのだろう。当時の新聞も手のひらを返したように、「本土決戦!」を声高に叫んでいた紙面が「新しい時代は民主主義」と、まるで戦争遂行を直接扇動していたことが他人事のように語られ、いつの間にか臆面もなく「古い時代」の出来事にされてしまっている。こういう欺瞞に、若い世代はことのほか敏感なのだ。
「記憶」201406.jpg 寺崎マリ子同窓会.jpg
軍事教練1.jpg 軍事教練2.jpg
 雙葉小学校の寺崎マリ子は、世間や社会から迫害を受けていたぶん、陰に日に教師や同級生たちから気配りや親切を受けたようで、戦後しばらくたって行われたクラス会には、わざわざ米国から来日して出席している。彼女の中で、この時代のことがどのようにとらえられ、今日的に総括されているものか、一度お話をうかがってみたいものだ。

◆写真上:帰国後に寺崎一家が落ち着いた御茶ノ水駅近くの、雪が降りしきる聖橋。グエン夫人は、冬をすごした文化アパートの寒さに震えあがったようだ。
◆写真中上は、戦災前の雙葉学園。は、四ッ谷駅から見える雙葉学園の現状。
◆写真中下は、1940年(昭和15)に撮影された寺崎マリ子()と、1942年(昭和17)に米国の抑留施設で撮影された彼女()。下左は、日本橋の昭和通りに作られた麦畑を報じる1944年(昭和19)6月14日の『写真週報』。下右は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された雙葉学園と線路土手。学園には、急ごしらえの仮校舎が見えている。
◆写真下上左は、蒼空社から出版された猪狩章・編『記憶―私たち昭和と平成の自分史抄―』。上右は、戦後の同窓会における寺崎マリ子(左)と筆者の荻島温子様(右)。は、1942年(昭和17)に陸軍の御殿場演習場で行われた府立三中(現・両国高校)の軍事教練。は、廠舎前に三八式歩兵銃や背嚢が置かれており休息中の情景だろう。は、親父(左)とキャプションによれば親友の中溝陽三(右)。この親友は、戦前から戦後にかけての映画スターである岡譲二(本名:中溝勝三)の甥だと思われる。


国家による身近な“これでもか”統制。

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落合地域上空1941.jpg
 昭和史というと、あくまで政治的な動向や社会現象(事件)の教科書的な記述が中心となり、人々の身近な生活がどう変化し、大正期とは大きく世相の異なる社会が形成されていったのかを記録する資料や書籍は、案外と数が少ない。換言すれば、少しずつ国民の生活がどうやって縛られていき、最終的には国家の破滅という日本史上では前代未聞の「亡国」状況を迎えるにいたったかの、具体的な生活感をともなう記録があまり見あたらない。有名なところでは、大林宣彦が撮影した『転校生(おれがあいつでういつがおれで)』(1982年)や『はるか、ノスタルジィ』(1993年)の原作者である、山中恒の『ボクら少国民』シリーズあたりだろうか。たいがいの昭和史は、「満州事変」や「二二六事件」、「日独伊三国軍事同盟」など政治的な出来事や事件にスポットをあてており、卑近で些末な生活の動きに触れることが少ない。
 先日、偶然に古書店で見つけた、1939年(昭和14)に下落合同志会から出版された『同志会誌』Click!を読んでいると、昭和に入ってからの生活が短期間で急変していく様子が感じられる記述が多い。ことに、1931年(昭和6)の「満州事変」以降の記述から、まるで不協和音がふくらんでいく新ウィーン楽派の作品のように、町内の自治・互助組織だったはずの同志会Click!の活動が、いつのまにか国家の出先執行機関へと変貌し、政策を地域へ浸透・強制・徹底させ監視する代行機関へと変節していく様子が記録されている。その背景には、国民の生活に直結するどのような政策ないしは社会的な動向が存在したのか、改めて昭和史から目につくものをひろってみよう。昭和史年表は、こちらでもご紹介済みの現代書館から出版された、里中哲彦『黙って働き 笑って納税』Click!(2013年)の巻末資料をベースに、わたしなりに表現を変えて引用している。
  
◎1933年(昭和8)
04月 新国定教科書が用いられ「サクラガサイタ」から「ヘイタイ ススメ」へ。
06月 大阪で「ゴー・ストップ事件」。陸軍兵士と警官が、軍車両の信号無視をめぐってケンカとなり、目撃証言者の「自殺」もからんで警察から軍隊への異議表明も困難に。
◎1934年(昭和9)
05月 出版物とレコード内容の取り締まり強化(出版法改正公布)。
06月 陸軍が「国防色」をカーキ色と指定し、被服統一運動をスタート。
08月 家庭内における「パパ、ママ」呼称を、文部大臣が日本語をつかえと非難。
10月 警視庁が、学生および未成年者のカフェ入店を禁止。
◎1935年(昭和10)
05月 憲兵隊が安藤広重Click!の浮世絵「阿波鳴門」を要塞地帯法違反で発禁処分。以降、写実的な江戸期の浮世絵風景画はすべて発禁処分の対象に。
06月 東京市が、子どもへの「有害」紙芝居の内容を統制。
◎1936年(昭和11)
04月 東京市教育局が、教員同士の職場結婚を全面禁止。
05月 内務省が、国民や団体による政府への陳情活動を禁止。
06月 内務省が、渡辺はま子の歌謡曲を「いやらしい」と発禁処分。
◎1937年(昭和12)
04月 わずか9日間で防空法成立。国民が内実をよく知らないまま、防空(空襲に備えた防衛体制)に関する国民の動員・監視・捕捉(敵機発見)の義務化が進行。
06月 勝太郎の「江戸情緒小唄」を、内務省が「不貞」として発禁処分。
07月 国民にラジオ体操を奨励(半強制)し、小学校では強制義務化。横浜市で、女性職員の化粧時のアイシャドウとアイブロウを全面禁止。
08月 映画の巻頭に「挙国一致」「銃後を守れ」など標語挿入がスタート。
10月 軍機保護法改正により、国民にも「秘密保護」Click!義務づけ。同時に政府は、全国各家庭へ「我々は何をなすべきか」、朝鮮では「皇国臣民の誓詞」のパンフを配布。
  
 1937年(昭和12)までの、これら国民へ向けた細かな強要や統制をピックアップするとキリがない。それぞれひとつひとつの現象には、その場限りの「もっともらしい」理由がつけられて、大きな反発を受けにくいよう、ジリジリとまるで真綿でクビを絞めるように、あるいは多くの国民が気づかぬうちに、事態が進行していったのが想像できる。その陰には、常に陸軍と内務省(ことに特高警察Click!)の影がつきまとっているのだが、個々の小さな出来事を1本の流れとして見ると、迫りくる「国民精神総動員」体制へ向けた異議異論を沈黙させるための仕組みづくりであり、恫喝であり、圧力であり、ひとつひとつが伏線や布石であったことがまざまざと見えてくる。
 筑紫哲也の「遺言」ではないが、「この国はまさに進行性の癌に罹っている」状況だったろう。大日本帝国の破滅と、国土を焦土と化す破局的な「亡国」の淵へ向け、まるで自ら矯正バランスを失い、滅亡への定向進化をつづける巨大生物のように、為政者は「亡国」思想の徹底へ狂奔しつづけることになる。「一億総特攻」が叫ばれるまで、あとわずか8年ほどしか残していない。
戸山ヶ原1.jpg 戸山ヶ原2.JPG
  
◎1938年(昭和13)
01月 警視庁は、パーマネントの設備のある理髪店の新設を禁止。
02月 警視庁は、繁華街にいた学生3千人以上を「学業怠業」を理由に検挙。
04月 政府は、家庭内で使用する炭火やマッチにまで灯火管制法を適用して規制。
07月 政府は国民に向け、一汁一菜の食事運動を提唱。
09月 政府は、俳優や歌手にサインを求める行為を禁止。
10月 名古屋市は、市職員の丸刈り以外の髪形を全面禁止。
◎1939年(昭和14)
04月 米が全面配給制に。映画の製作・配給が政府の許可制に。
05月 能「大原行幸」(平家物語)の上演を「不敬」だと禁止。
06月 学生の長髪、女子のパーマを全面禁止。店舗のネオンサイン禁止。
09月 政府が「結婚十訓」を発表し、子どもをつくらない夫婦を事実上非難。警視庁は、「外国劇団の招聘は面白くない」などという理由で海外劇団の上演禁止。
10月 政府は、国民の白米食の禁止と缶詰めの使用を禁止。
◎1940年(昭和15)
03月 内務省は、外国風の名前を持つ芸能人などへ改名を強制。
06月 文部省は、学校の修学旅行の制限を通達。のち、全面禁止。
08月 徳島警察は、白米を食べていた50戸の家庭を摘発。
11月 政府は、「国民が着るべき服装」を規定し男女へ強要。
12月 戦時により、65歳以上の者は足手まといになるので東京から退去するよう命令。
◎1941年(昭和16)
01月 東條英機が「戦陣訓」を通達。当初は軍人に対しての「生きて虜囚の辱めを受けず」だが、国民にも事実上強制力をもつようになり、のちに戦地で膨大な民間人が自決。
05月 「肉なし日」を設置し、月に2回は肉の不売を実施。
09月 家庭にある金属類の回収令発布。隣組や町会による相互監視のもと、鍋釜や調度品、アクセサリー類にいたるまで強制的に供出。
12月 天気予報の全面禁止。米国映画上映を全面禁止。
  
 ここにはとても書ききれないが、1941年(昭和16)12月8日の日米開戦まで、ほぼ毎月のように国民に向けたなんらかの規制・禁止令が発令されている。そして、それに従わない者や違反者は「非国民」というレッテル貼りとともに、どしどしと警察や憲兵隊によって摘発・検挙されていった。現代の眼から見れば、上記のような施策を実施しなければ戦争を維持・継続できない国家が、なぜ欧米諸国を敵にまわして「勝てる」という妄想を抱いたのか不可思議きわまりないのだが、政府による暴力を背景にした言論封殺とプロパガンダの反復徹底、「非国民」たちの収監と圧殺、「少国民」たちへの洗脳教育などにより、多くの国民が視野狭窄のもと熱病のような高揚意識とともに、幻想を抱いてしまったとしかいいようがない。それは、あたかも「無慈悲な鉄槌を下し(米国を)殲滅する」と絶叫する、今日の北朝鮮のような社会とまったく同質のものだろう。
 もちろん、「そんなバカな! なに考えてるんだい?」と思うクールな観察眼をもち、少なくとも理性的で論理性を備えた軍人や市民たちも大勢いたはずなのだが(今日の北朝鮮にも、少なからず存在するはずなのだが)、そのような国民は知らないうち、あるいは小さな“気づき”だけを重ねるうちに、自身の手足ががんじがらめにしばられているのを知り、改めて愕然としただろう。なにか異議や不満を口にしようものなら、即座に逮捕・拘禁されるという現実に、少しずつこの国がおかしくなりはじめた過去をもう一度反芻し、これから突き進んでいくであろう破滅への道に慄然として、暗澹たる想いにとらわれた人々は、残された当時の記録類を読んでも決して少なくはない。
東京駅1.jpg 東京駅2.JPG
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◎1942年(昭和17)
01月 塩や水産物が配給制に。ガスの使用制限開始。
02月 婦人標準服(モンペ)を指定。衣料品や調味料の切符制実施。
06月 米に加え、麦、パン、イモ、麺類も配給制に。
07月 寺院の鐘や銅像などの回収がスタート。
11月 東京で野菜類の登録制販売が開始。
12月 政府は、「海ゆかば」を「国民歌」としてすべての集会で歌うよう強制。
◎1943年(昭和18)
01月 内務省は、JAZZなど「敵性音楽」の演奏およびレコードを全面禁止。
02月 英語の使用を禁止。綿、帽子、傘、蚊帳などが配給制に。
06月 政府は、就業時間制限の撤廃と女性・児童の危険労働への就業を認可。
08月 政府は、長袖の和服とダブルの背広の製造を全面禁止。全国のバスの車体カラーを、政府指定による3色のいずれかへ塗り替えるよう指示。
09月 上野動物園の「猛獣」殺害処分。男は、販売員・車掌・理髪師として働くことを禁止。東京で金属非常回収工作隊を組織し、施設や家庭から無理やり金属を回収。
10月 全国の学徒出陣・動員がスタート。
12月 全国の競馬を全面禁止。
◎1944年(昭和19)
01月 農家におけるスイカとメロンの作つけを禁止。
02月 屋台の営業を全面禁止。
03月 各地の歌舞伎座が閉鎖。宝塚劇団の休演決定。警視庁により、東京の高級レストラン、バー、酒場などが次々と強制閉店。
04月 100km以上の国内移動・旅行が許可制に。
08月 軍需省が「物的国力の崩壊」を報告。家庭用の砂糖配給を停止。政府は、国民総武装を閣議決定し米軍の攻撃に備えて「竹槍訓練」スタート。
11月 全国各地で食用ドングリの採集を開始。
12月 政府は、ペットの犬と猫の強制供出を決定。毛皮は衣類、肉は食用に。
◎1945年(昭和20)
01月 イモの緊急増産を閣議決定。
03月 松根から採れる油が航空機燃料に精製できるとの虚報から、全国的な松根採集運動に多くの国民が動員されたが、当時の技術では不可能だった。
06月 本土決戦のため15歳以上の男子、17歳以上の女子は国民義勇戦闘隊に編成。
07月 政府は、ドングリの最終目標を500万石と設定。東京で、「雑草の食べ方」講習会がスタート。イモを盗んだ工員を殺害した容疑者が不起訴に。
08月 政府は、原子爆弾の備えとして白い服を着て物陰に隠れるよう指示。
  
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防空双眼鏡.jpg
 もはや、縄文時代(丸山三内遺跡など)よりも、よほど貧しい食生活になってしまった大日本帝国に、当然のことながら未来はなかった。1945年(昭和20)1月、戦況劣勢を挽回する新兵器開発について戦時議会で質問を受けた技術院総裁の八木秀次は、「まもなく新兵器の神風が吹く」と答弁している。冗談のようだが、現実に議事録にも残るふざけた妄言だ。これは、技術者としてせいいっぱいの皮肉のつもりなのか、それとも大マジメにそう考えていたのかは別にして、破滅へと突き進む「亡国」思想を象徴するようなコトバだ。

◆写真上:1941年(昭和16)に陸軍が撮影した、落合地域(上落合・下落合西部・西落合)の斜めフカン写真。以前にご紹介Click!したものとは、別角度のめずらしい写真。
◆写真中上:下落合の南側、戸山ヶ原Click!にいまだ残る陸軍施設のコンクリート廃墟。
◆写真中下は、東京駅の北ウィングにそのまま残る空襲で焼け落ちた内壁。は、戦後すぐのころに撮影された戦災で焼け落ちたままの東京駅舎。
◆写真下上左は、陸軍が指定したカーキ色の「国民服」。上右は、戦地へ送られた慰問袋。は、空襲に備えた防護団Click!監視員Click!が使用した防空双眼鏡。

ヤギ牧場と家族は1トン爆弾で消えた。

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西武新宿線.jpg
 先日、寺崎マリ子の記事Click!でご紹介した、学習院生涯学習センターの猪狩章・編『記憶―私たち昭和と平成の自分史抄―』(蒼空社)の中に、井荻駅から西武電鉄Click!に乗って下落合駅で降り、5分ほど歩いたところにある戸塚第三尋常小学校へ通われていた方の手記がある。1938年(昭和13)に入学し、そのまま1941年(昭和16)から戸塚第三国民学校となるのだが、日米開戦の直前に井荻の桃井第五小学校へと転校された田村直幸様だ。
 入学当時の西武線は、1927年(昭和2)の開通時と変わらず1輌編成で、田村様の兄も通っていた関係により、井荻から戸塚第三小学校まで“越境通学”されていたらしい。当時の様子を、同書所収の田村直幸「この世から消えた山羊牧場」から引用してみよう。
  
 当時の西武線は一輌、乗客は少なくのんびりしたものだ。車掌は、駅に近づくと、/「お降りの方は?」と乗客に尋ね、乗降客がいなければ駅を通過してしまう。扉の開閉は手動で、自分で操作しなければならない。慣れないうちは手間取った。/やがて、車掌、運転手と顔なじみになった。席が空いていても、運転席の傍に立ち運転手の操作に見入っていた。ある日、運転手が、/「中に入んなよ」と助手席の椅子を勧めてくれた。横にいる運転手の操作を見ながら電車が走る。自分で運転しているような気分だ。その後、運転席に入る機会は来なかった。/しばらく経ち、西武線の乗降客が増えるにつれて、電車は二輌編成になり、さらに自動扉を採り入れた新しい電車に変わって行く。新しい電車では、運転席と乗客との間に仕切りがあり、運転室には立ち入れなくなった。
  
 ドアは手動で、車掌がいちいち降客を確認しているのがわかる。おそらく、西武線の開設から10年が経過した当時も、開業時Click!と変わらない運行形態がとられていたのだろう。電車が2輌編成になったのは、太平洋戦争が近づいた時期であり、車輌に自動ドアが装備されたのはさらにあとだったことがわかる。ただし、筆者は日米開戦が近づいた1941年(昭和16)の秋から、戦時なので電車通学は危険だという理由により、井荻にある地元の小学校へ転校しているので、西武電車に自動ドアが導入されたのは太平洋戦争以前のことだ。引きつづき、手記を引用してみよう。
  
 学校生活に慣れてくると、放課後直ぐ帰宅せず、友達と遊ぶ時間を持つようになった。友達は、下落合から高田馬場にかけて、今の早稲田通りの周辺にほとんど住んでいる。通りの南側は、当時、広大な「戸山ヶ原」Click!が広がり、子供たちのいい遊び場になっていた。友達の鷲尾君の家にランドセルを置き、近くの戸山ヶ原で遊んでから帰宅することが多くなった。/三年生になってから、吉田君と仲良くなった。彼の家は、高田馬場駅に近い雑貨屋だ。ある日、「映画、見に行こうよ」と誘われた。映画館戸塚東宝がすぐ近くにある。彼のお母さんも勧めてくれた。もう一人の友達、岡君も一緒だ。三人で見た映画は、片岡千恵蔵主演の「宮本武蔵」シリーズだ。この時から千恵蔵ファンになった。(中略) 一九四一年、四年生になると、戦争拡大の恐れから電車通学は止めた方がいいということになり、二学期から地元の桃井第五小学校に転校した。
  
 ここに登場する映画館「戸塚東宝」とは、山手線の高田馬場駅から早稲田通りを西へ50mほど歩いたところにある、戸塚町3丁目155番地の映画劇場(旧・戸塚キネマ)のことで、現在の三菱東京UFJ銀行に隣接する西側の敷地にあたる。ちなみに、1995年(平成7)に発行された『戸塚第三小学校/周辺の歴史-付 昔の町並み』のイラストClick!で探してみたが、戸塚東宝の直近にある斜向かいの「田中雑貨店」は見つかったものの、「吉田雑貨店」は見あたらなかった。商店街のイラストが1938年(昭和13)現在とほんの少し早めなため、「吉田雑貨店」はいまだ開店してなかったか、あるいはイラスト作者の「田中」と「吉田」の記憶ちがいなのだろうか。
上高田西武線(昭和初期).jpg
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 太平洋戦争が進むにつれ、都市住民を中心に食糧事情が急速に悪くなっていく。井荻の田村家では、配給の食糧だけでは子どもたちが栄養不足になるため、近くのヤギ牧場に頼んで毎朝、新鮮なヤギの乳を配達してもらっていた。すでに、牛乳は市場から姿を消し、肉類も闇で流れていたものを入手する以外、口に入ることはなくなっていた。
 育ちざかりの子どもたちを抱えた家庭では、食べ物の調達がなによりも大きな課題としてのしかかり、あらゆる手段を尽くし伝手(つて)を頼って、1日じゅう食糧入手に奔走しなければならなくなった。わたしの祖父母もそうだったが、朝起きるときょう1日の食べ物の心配をまずしなければならない、「戦争なんぞやってる場合じゃねえだろ」の飢餓状況は、敗戦後までしばらくつづくことになる。むしろ毎朝、ヤギの乳が配達される東京郊外の田村家は、当時としてはめぐまれていたほうだろう。
  
 西武線井荻駅・上井草駅間の北側は、当時は田園で小川が流れていた。その北側の斜面に山羊の牧場があり、ここで山羊乳の配達をしてくれることを母は知った。子供の栄養不足を補おうという親心だろう、毎日一合瓶の配達を頼んでくれた。牛乳は全く手に入らない時代だった。/配達に来た人の話を聞いて驚いた。小学校時代に級友だった唐木君のお母さんだった。小学校時代、唐木君の家が山羊牧場だとは知らなかった。中学は別だったから唐木君とは疎遠になっていた。/山羊乳を飲むのは楽しみだった。時々は、唐木君の美人のお姉さんが配達することもある。しかし、この山羊乳とはしばらくして縁が切れることになる。/一九四四年十一月二十四日、東京西郊はB29の大編隊に初めての爆撃を受ける。飛行機工場が爆撃の対象だ。一九四五年に入って爆撃は次第に激しくなり、夜間に防空壕に入る機会が多くなる。近くに高射砲陣地ができてから、爆弾が付近に落ちることも珍しくなくなった。(中略) ある晩、空襲警報が響き、防空壕に駆け込んだ。この夜は近くに爆弾が落ちたらしい。/翌日になって、噂が飛んできた。山羊牧場を一トン爆弾が直撃し、唐木君一家が全滅したという。信じられなかった。
  
 このヤギ牧場がどこにあったのか、1941年(昭和16)に陸軍によって斜めフカンから撮影された井荻駅-上井草駅の空中写真と、戦後1948年(昭和23)に米軍によって撮影されたそれとを見比べてみると、妙正寺川の湧水源である妙正寺池Click!へとつながる井草の小川(現在は暗渠化)が、西武線を逆U字型に北へと横切っているのがわかる。この小川の北側斜面(南向き斜面)で、1941年(昭和16)には存在していた建造物が、1948年(昭和23)には消滅している場所が、1945年(昭和20)の空襲時に1トン爆弾が投下・炸裂したヤギ牧場だろうと推定してみた。当時の地名でいうと、杉並区矢頭町界隈だ。
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 すると、井荻駅を出てすぐ右手、上井草駅へ向かう線路のすぐ北側に、密集して建っていた牧舎のような建物が、敗戦後の写真にはまったくなくなり、更地のようになっているのが見てとれる。地番でいうと、杉並区矢頭町40番地あたりだ。この建物の右手(東側)には、空き地のようなスペースがあるのだが、そこがヤギたちを放し飼いにしていた牧草地ではないだろうか。1トン爆弾は、おそらくB29が三鷹(西武線では東伏見駅近く)にあった陸海軍の中島飛行機武蔵製作所Click!(戦争末期には第一軍需工廠)を爆撃するために搭載してきたものであり、ヤギ牧場の牧舎がなんらかの部品工場か高射砲陣地にでも見えたか、あるいは余剰爆弾を投下していったのだろう。250キロ爆弾ならまだしも、1トン爆弾を落とされたら、たいていのコンクリート建築でも飛散するとんでもない破壊力だ。木造の牧舎はもちろん、3~4mほど掘り下げた防空壕でさえ、ひとたまりもなかっただろう。爆撃後の斜面には、巨大なクレーターができていたのではないだろうか?
 矢頭町40番地界隈の建物が、もし手記に書かれたヤギ牧場だったとすれば、神戸町の外山卯三郎邸Click!里見勝蔵アトリエClick!から線路をはさんで、わずか400mほどしか離れていないため、両家には1トン爆弾によるヤギ牧場全滅のエピソードが残っていたはずだ。おそらく、すさまじい振動と衝撃波が伝わってきたのではないだろうか。
 軍国少年の筆者は、戦時中、田河水泡Click!の「のらくろ」の大ファンだった。ところが、建築家で反戦意識の強かったらしい父親から、「のらくろ」漫画を読むことを禁じられている。そのような家庭環境だったせいか、戦後、筆者が「軍国少年の呪縛」から案外早く解放されているのを、前回の記事でも少しご紹介している。でも、例外的に『のらくろ探検隊』だけは買ってくれたようだ。同作は、すでに「のらくろ」が軍隊を退役して一般市民にもどり、起業家として活躍するストーリーであり、どうやら戦闘シーンがなかったかららしい。軍国少年だった筆者は、戦闘で敵(豚の国=中国)をやっつけて羊の国=「満州国」を助ける筋立てがないのに、少なからず不満だったようだ。
  
 なぜか父は、「のらくろなんか読むと、のらくら者になる」と言ってのらくろ漫画を買ってくれなかった。のらくろ漫画は、友達から借りて読むよりしようがなかった。机の引き出しに借りた漫画本を開いたまま入れて、読みふける。親が部屋に入りそうな気配があると、あわてて引き出しを閉めて勉強をしているふりをした。/ある日、のらくろ漫画シリーズで新しく出版された『のらくろ探検隊』を、母が買ってきてくれた。(中略) それにしても、父は何故『のらくろ探検隊』だけ買うことを許してくれたのだろう。父に直接聞いたことがないので本当のことはわからない。建築家で平和主義者だった父が戦争に疑問を持っていたことは、子供心に感じていた。豚軍との戦闘で活躍し、大陸を侵略する「のらくろ漫画」を自分の子供が読むことは許せなかったのかもしれない。
  
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のらくろ漫画全集.jpg のらくろキャラクターと田河水泡.jpg
 余談だけれど、うちの親父もやはり家庭環境Click!からか「のらくろ」はキライだったようで、麻生豊の「ノンキナトウサン」や、1941年(昭和16)12月8日の開戦日まで日本橋の映画館で上映されていたディズニーアニメなどを、好んで観賞しながら育ったようだ。わたしが小学生のとき、海水浴で日焼けし皮がむけはじめた鼻のアタマを真っ赤にしていると、よく「おい、ノンキナトウサンみたいになってるぜ」といわれたものだ。わたしには当然、まったく意味不明だったのだが……。

◆写真上:下落合駅を出てすぐ、千代久保踏み切りにさしかかる上りの西武新宿線。
◆写真中上は、昭和初期に撮影された落合西端の妙正寺川をわたる1輌の西武電車。は、1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)の戸塚第三尋常小学校。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚第三小学校()と同校の現状()。
◆写真中下は、濱田煕「昔の街並み」にみる1938年(昭和13)現在の戸塚東宝映画劇場。は、1941年(昭和16)の空中写真にみる山羊牧場(唐木家)と思われる矢頭町40番地あたりの建物。は、1948年(昭和22)の米軍写真にみる同所。
◆写真下上左は、1924年(大正13)に制作されたマヴォClick!時代の構成主義的な高見澤路直(田河水泡)『作品』。上右は、大正期に上落合の村山知義Click!が主宰した「マヴォ」へ参加していたころの高見澤路直(田河水泡)。下左は、復刻版の『のらくろ漫画全集』(講談社)。下右は、戦前・戦中に「のらくろ」漫画が大ヒットした田河水泡は一時期、下落合の第一文化村Click!に住んでいる。

1935年の佐伯回顧展にみる『下落合風景』。

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 1935年(昭和10)の秋は、大正末から昭和初期に死去した画家たちの遺作展・回顧展が、盛んに開催されたようだ。しかも、3人全員が下落合に住んでいた画家たちだった。ひとりは、下落合661番地にアトリエをかまえ、1928年(昭和3)にフランスで客死した佐伯祐三Click!、もうひとりは牧野虎雄アトリエClick!の斜向かいにあたる下落合596番地に住み、1934年(昭和9)に自栽した片多徳郎Click!、そして下落合464番地のアトリエに住み、1924年(大正13)暮れに病死した中村彝Click!の3人だ。
 それらの遺作展・回顧展の展評が、1935年(昭和10)に発行された『アトリエ』11月号へ同時に掲載されている。それを読むと、1935年(昭和10)現在でそれぞれの画家が、すでにどのようにとらえられ、位置づけられていたのかがわかって興味深い。まず、新宿紀伊国屋の2階展示場Click!で開かれた、片多徳郎遺作展の展評を同誌から引用してみよう。片多作品は、晩年になるほど不遇で「置きざり」にされた表現ように書かれているが、おそらく片多の今日的な人気とは逆のとらえ方ではないだろうか。
  
 片多氏はその悲劇的最後によつても知られてゐるやうに、晩年は甚だ恵まれなかつた作家であるが、僕は時代に常に一歩を先んじてゐるために恵まれない芸術家と、時代を追つて遂に置きざりにされる芸術家とがあり、片多氏は恐らく後者ではあるまいかと思ふ。制作年代順に見ると、片多氏は常にその時代から一歩おくれてゐるやうに思はれる。どこか退嬰的で低徊趣味である。下図で見てもわかるが「霹靂」を描いた頃が彼の一番元気のあつた時で、而も、当時決つして進歩的な作品ではなかつた。たゞ片多氏が才能よりも粘り強い努力の作家であつたことは遺作展を見てもわかる。鉛筆の素描ではあるが「肖像」などを見ると、彼が如何に絵画の基礎的な勉強に努力したかが窺はれるのである。
  
 次に、銀座三昧堂で開かれた中村彝遺作展の様子を引用してみよう。この遺作展はセザンヌとルノアールの画面を、そのままコピーしたような作品が多かったものか、まったく評価されていない。おそらく、岸田劉生Click!が日本美術としての油絵ではなく欧米の猿マネ表現に憤慨Click!し、「こんなもん描きゃがって、バッカヤロー!」というような作品が並んでいたのではないだろうか。つづけて、同誌から引用しよう。
  
 最後に中村彝の遺作展だが、今更彝を引張り出さなくてもといふ感じもあるし、それに遺作展などと大きな顔で言へた内容でもない。殆んど彝の作品としては駄作に属するものであるし、セザンヌとルノアールの影響で作品が二分されてゐる感じで、甚だ変なものである。このやうな遺作展観は個人に対する礼儀としてもやらない方がいゝと思ふ。
  
 これらの展評に比べ、1935年(昭和10)10月3日から15日まで銀座三共画廊で開かれた、佐伯祐三回顧展の評価が高い。筆者の尾川多計は、同号の展評で二科の曾宮一念Click!を好意的な表現でオリジナルの「有閑芸術」家だとし、梅原龍三郎を「ブルジョア意識」をもつ「有閑知識階級の愛玩的価値」しかない画家だと規定しているところから、おおよそその視座を想定することができる。ちなみに同年、銀座三共画廊では下落合にも住んだ前田寛治Click!の遺作展も開催されている。
片多徳郎「初夏」1923(大分市).jpg 片多徳郎「自画像」1928(大分市).jpg
中村彝「静物」1913頃(茨城).jpg 中村彝「自画像」1909(茨城).jpg
 佐伯祐三回顧展には、88点の作品が出展されており会場写真も添えられている。『アトリエ』11月号から、佐伯展評を引用してみよう。
  
 佐伯祐三氏も片多氏と同様最後は悲劇的だつたが彼の方は激情的な芸術的闘争の最中に夭折したといふ関係からか、どこかに華かなものが感じられる。それだけではない。彼は時代の暗澹たる空気を反映し、がむしやらに性急に何かを求めてゐたといふ点はるかに進歩的である。しかし、この激しい狂気に近い追求的態度を以て彼を一代の天才のやうに考へるのはどうだらうか。彼は天才ではなくて芸術と心中した悲劇的英雄だと僕は思ふ。/今度の回顧展は八十余点の相当まとまつたものだ、(ママ) 殆んど佐伯の芸術の全貌をうかゞへるが、彼の作品をヴラマンクの追従だといふ従来の世評は正しくないことを僕は改めて感じた。佐伯の絵は飽くまで佐伯自身のものである。と同時に、彼の持つユニークな鋭いそして流動する感覚を表現する対象は日本にはなかつたと思ふのである。これは日本人である佐伯の致命傷でなければならない。
  
 記事に添えられた、回顧展会場の写真が興味深い。日本制作と思われる作品が架けられた一画が写っており、そこにはアトリエの近所に住む笠原吉太郎Click!へプレゼントしたタブロー『K氏の肖像(笠原吉太郎像)』Click!とは別に、佐伯が手もとに残した別バージョンの習作『男の顔(笠原吉太郎像)』が写っている。この作品は、山發コレクションClick!をもとに編集された『山本發次郎氏蒐蔵 佐伯祐三画集』(座右宝刊行会/1937年)に掲載されている『男の顔』(以下、山發画集No.66)とも異なる別のバージョンで、つまり佐伯は『K氏の像(笠原吉太郎像)』を描いた前後に、笠原吉太郎をモチーフにした肖像画を少なくとも3点描いていることになる。なお、同作は1980年代に海外のオークションにかけられているようで、先にご紹介した『下落合風景(散歩道)』Click!と同様、現在は海外にあるのかもしれない。
佐伯回顧展1935拡大.jpg 佐伯祐三「男の顔」1927.jpg
佐伯祐三「K氏の像」192705.jpg 佐伯祐三「男の顔」(山發)1927.jpg
佐伯祐三「下落合風景」1926頃.jpg
 山本發次郎Click!は、1935年(昭和10)の佐伯祐三回顧展で、自身のコレクションも出品しているようだが、同時に佐伯家と池田家に残され、同展に出品された両家所蔵の多くの遺作をほとんどすべて購入している。(山本發次郎年譜における記載だが、山尾薫明は88点すべては両家の所蔵品だとまったく異なる記述をしている) 会場写真では、左端に写る『ロシヤの少女(A身)』(山發画集No.33)と、ふたりの男が立ちどまっている右隣りの『工場Ⅰ』(山發画集No.22)の作品が、すでに大阪にある額縁工房の工臣長之助が制作したと思われる、特徴のあるオリジナル額に入れられている。しかし、『男の顔』を含め、一般的な額に入れられたもの、たとえば中央の女性の上に見えている『リラダンの雪景Ⅰ』(山發画集No.39)や女性の陰になっている『リラダンの雪景Ⅱ』(山發画集No.40)、右側のパーティションに見えている『壁』(山發画集No.16)などは、佐伯・池田両家から同展へ出品され、この時点で山本發次郎へ売却された作品群だろう。
 また、『男の顔』の右横に見えているのは、下落合と葛ヶ谷(現・西落合)の境界あたりの目白通りを描いた『下落合風景(目白通り)』Click!だろう。同作画面の右半分には、少し下り坂になった敷地に第三府営住宅Click!の大きめな屋敷群が描かれている。この作品は、同展で山本發次郎に買われたとすれば、山發コレクションに含まれていたはずだ。だが、1979年(昭和54)に出版された『佐伯祐三全画集』(朝日新聞社)では、モノクロ写真でしか掲載されていないし、わたしもカラーでは一度も観たことがないので、ひょっとすると先の神戸空襲で失われてしまった山發コレクションの1点なのかもしれない。
 さて、最後に遺作展ではなく、下落合623番地にアトリエをかまえた曾宮一念の個展評を引用しておこう。先述したけれど、梅原龍三郎の個展がほとんど「悪評」に近いのに対し、曾宮一念の作品は梅原と同様に「有閑芸術」と規定しながらも、そのオリジナリティをどこか好意的に評価している。
  
 曾宮一念氏は色彩感覚の鋭いオリヂナルな作家である。描く対象物は主として花であるが、彼はその対象を、自分の持つている生活感情を表現する手段としないで、絢爛たる模様として、甚だ楽しげに、なんの渋滞もなく描いてゐる。そこが彼の持味でもあり、吾々の物足りなく感ずる点でもある。彼は人間を描かない。人間は彼の美しい模様には恐らく不必要なのだらう。彼の作品に梅原氏のブルジヨア意識は毛頭感じられないが、同じ温室に咲いた有閑芸術の花であることに変りはない。
  
 同評をどこかで読んだ曾宮は、「オレぁそれほど、ヒマてえわけじゃねえんだけどな~」と、ボソッとつぶやいたかもしれない。w
佐伯祐三「リラダンの雪景Ⅰ」1925頃.jpg 佐伯祐三「リラダンの雪景Ⅱ」1925頃.jpg
佐伯祐三「ロシヤの少女(A身)1928.jpg 佐伯祐三「壁」192510.jpg
佐伯祐三「工場Ⅰ」1928.jpg 佐伯祐三「目白風景」1926頃.jpg
 山發コレクションのうち、神戸空襲時に確認されているのは104点であり、そのうち62点を焼失したことになっている。しかし、これらの作品は人臣額に入れられ、疎開を視界に優先的にリストアップされた点数(おそらく山本發次郎とともに、山尾薫明や國田彌之輔がリストを作成しているだろう)であって、単に購入したまま保管されていた作品点数は、もっと多いのではないだろうか? なぜなら、それは國田の証言からもうかがわれるし、1930年代にはすでに120点の佐伯作品を所蔵していた記述(子息の山本清雄は最終的に250点と書いている)が、山本發次郎の年譜には見えているからだ。その中には、『目白風景』(山發画集No.67)のほかにも、『下落合風景』が何点か含まれていたかと思うと残念でならない。

◆写真上:1935年(昭和10)10月に、銀座三共画廊で開かれた佐伯祐三回顧展の会場。
◆写真中上は、大分市所蔵の1923年(大正12)制作の片多徳郎『初夏』()と、1928年(昭和3)制作の片多徳郎『自画像』()。は、茨城県近代美術館所蔵の1913年ごろ描かれた中村彝『静物』()と、1909年(明治42)制作の中村彝『自画像』()。
◆写真中下上左は、佐伯祐三回顧展写真の拡大。上右は、1927年(昭和2)制作の佐伯祐三『男の顔』。中左は、1927年(昭和2)に制作し笠原吉太郎に贈られた佐伯祐三『K氏の像(笠原吉太郎像)』。中右は、『山本發次郎氏蒐蔵 佐伯祐三画集』に収録された佐伯祐三『男の顔』(No.66)。ただし、展示会場に架けられた『男の顔』も山本發次郎が購入し、当初は山發コレクションに含まれていた可能性がある。は、1926年(大正15)ごろ目白通りを描いたと思われる佐伯祐三『下落合風景』。
◆写真下は、1925年(大正14)ごろ制作の佐伯祐三『リラダンの雪景Ⅰ』(山發画集No.39/)と同『リラダンの雪景Ⅱ』(同No.40/)。は、1928年(昭和3)の佐伯祐三『ロシヤの少女(A身)』(山發画集No.33/)と、1925年(大正14)制作の同『壁』(同No.16/)。下左は、1928年(昭和3)制作の佐伯祐三『工場Ⅰ』(山發画集No.22)。下右は、神戸空襲で焼失した山發コレクションの佐伯祐三『目白風景』(山發画集No.67)。

おしゃべりな乃木希典の学習院怪談。

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 乃木希典Click!という人は、もう根っからのおしゃべり好きとしか思えない。乃木院長からの講話があるとのことで、集まった学習院の学生・生徒たちを前になにを話したかといえば、若いころに金沢の宿で経験した怪談話だったことは以前にも記事Click!にしている。それを子どもから伝え聞いた親たちから、乃木院長は相当な顰蹙(ひんしゅく)をかい、また学内に大勢いた白樺派の学生たちからは、ますます軽蔑の白い目で見られていたことも書いた。この「怪談講義」は、現在でも学習院の院長講話録に残されている。
 ところが、大勢の学生・生徒たちを前に、そのときだけ話をした内容が、たまたま怪談講義だった……というわけではなく、乃木院長はことあるごとに学生・生徒たちへ「ほんとにあった怖い話」を語って聞かせていたのだ。つまり、乃木院長の怪談話は学習院内では日常化しており、そのウワサは学外にも広く伝わっていて、それを聞きつけた新聞社の記者が、わざわざ取材をしに乃木院長を訪ねたりしている。
 乃木希典は、学生たちから「なにか、怖い話を聞かせてくださいよ~、稲川さん、いや院長センセ~」と頼まれると、「ぃやぃやぃやぃや、そうくるのを待ってたんだ。きょうは儂(わし)が子どものころの、とっておきの話を、君たちへだね……。これは、日本海に面した山口県の、そう、仮にH市とでもしときますか、そこに実家のある、仮にN君とでもしときましょうか、彼が少年時代に経験した実話なんですがねぇ……」とw、嬉々として話していた様子が伝わってくる。取材したのは東京日日新聞の記者で、「乃木大将と深山の美人」という見出しで記事を書いているようだ。
 乃木院長は、新聞記者だけに怪談を語っても気分が出ないと思ったのか、この取材にも学生や生徒たちをわざわざ集めているらしい。やはり、「ギャーッ!」とか「こわい~」とか、「ひ~~っ!」とかの合いの手と、蒼ざめた院生たちの顔を前にしないと、なかなか話のノリが悪かったものか。子どものころ、実家のある萩市で彼自身が経験した怖い話なのだが、その様子を新聞記事が収められた1924年(大正13)出版の『精神科学/人間奇話全集』(帝国教育研究会)から、ほぼ全文を引用してみよう。
  
 乃木大将と深山の美人
 学習院長伯爵乃木大将は生徒に求められて下の話をした『(ママ)自分は今でこそ余り恐ろしいものはないが、少年時代は臆病であつた、十五六の頃まだ長門の萩にゐたが、位置や俄かの用事で七八里隔つた町まで使ひを命ぜられた 否やとも云はれんから怖々夜道を辿つて玉井山まで行たのは草木も眠る丑満時、山気身に迫つて肌に粟を生じ、風は全く落ちて動くものは樹の間を洩る星の瞬と自分ばかり、心細くもトボトボと山深く入つて行くと、濃い靄が一面に降りて咫尺(しせき)も弁じなくなつた。是は困つたと思つて探り足で進んで行く内、突然自分の前一二間距(はな)れた所に、蛇の目の傘をさし白足袋をはいた女がヌツと現はれた。(カッコ内引用者註)
  
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 記事に書かれた話し言葉が、どれだけ乃木の口調に忠実かどうかは不明だが、もし新聞記者がほぼそのとおりの表現で文章を再現しているとすれば、もはや生徒に語って聞かせる院長センセというよりも、まるで気持ちよさそうに読み物や読本を聞かせる、講談師のような語り口になっているのがわかる。また、出現する物の怪は金沢の鄙びた宿と同様、ここでも「女」であり、乃木希典はよほど女の幽霊あるいは妖怪と出会うことが多かったらしい。彼はもともと、幼年時代から女性に対してなんらかのコンプレックスを抱きながら、成長したものだろうか?
 ちなみに、文中に登場している萩の「玉井山」だが、古くは「玉井」と呼ばれていた現在の玉江地区にある、玉江神社裏あたりに拡がるいずれかの山だろうか。現在でも、山陰本線の南側に展開する当時とあまり変わらない山深いエリアで、天狗山や後山など、いわくや伝承が数多く眠っていそうな山名が見られる一帯だ。また、古くは海岸べりに志津木(赤鼻)銅山が拓かれた地域でもあり、いろいろなフォークロアが残りやすい環境をしているように思える。
 乃木希典は、怪談語りでは「咫尺(しせき)も弁ぜず」という言葉が特に好きだったらしく、話をする途中で二度ほど用いている。「視界がきかなくなって、近くのものがよく見えない」という中国の慣用句なのだが、いまでは用いる方もほとんど稀で、もはや死語に近いだろう。つづけて、乃木院長の話に耳を傾けてみよう。
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 咫尺も弁ぜずといふ濃い靄の中で、其の傘と白足袋だけがハツキリと見えるのだから、是は心の迷ひか、狐狸の悪戯か、何にしても真実の人間ではあるまいと、身構へして右の方に避けて通らうとする、其の女は傘で上半身を隠したまゝ、行き違つてフツと消えてしまつた。不思議なこともあるものと恐ろしくなつて道を急いだが、少時(しばらく)すると復(また)其女が自分の前へ現はれ、今度も前の通り行き違ふやフツと消えた。今になつてもアレはどういふものか、或ひはどうして見えたか判らないで、実に不思議だと思つてゐる。(カッコ内引用者註)
  
 幽霊というよりも、出現のしかたが金沢で泊まった宿のケースとは異なり、どこか妖怪か物の怪じみた怪談なのだが、乃木少年は蛇の目をさして白足袋も鮮やかな女性に対し、従来からなんらかの強迫観念か、被害妄想でももっていたものだろうか? 深い山道で不安や恐怖にとらわれた際、往々にしてありえる幻覚や幻聴のたぐいだと片づけてしまうのは容易だが、ここは少年の心理状態にも強い興味がわいてくる。
 それにしても、乃木院長は蛇の目で上半身を意識的に隠して通る「女」の様子を語り、どのような容貌をしていたのかはついに最後まで話していないにもかかわらず、「ヲイッ、Youはど~して美人だとわかるんだよ?」……という裏拳のツッコミは、やはり東京日日新聞の編集部へ入れておきたい。
乃木希典.jpg 人間奇話全集1924.jpg
 乃木希典は学習院ばかりでなく、求められればあちこちで怪談話を披露していたらしく、房州の宿で出会った失恋から自殺した女の幽霊話なども、大手の新聞紙上に掲載されている。死後、「軍神」に祀り上げられてしまった乃木だが、ふだんの飾らないエピソードを調べるにつけ、相当におしゃべり好きな人物のイメージが浮かび上がってくる。現代に生まれていれば、ほんとうに怪談講演会をこなし「儂が出合った怖い話」BD全集でも出せそうな、いつでも異なる怪談ネタを語れるほど豊富な物語を記憶していたらしい。

◆写真上:学習院のバッケClick!から眺めた、学習院総寮部(乃木館)の建物。
◆写真中上は、乃木館のドアノブ。は、乃木館を囲む学習院の森。
◆写真中下:学習院へ到着した、乃木希典院長を乗せた馬車。「ぃやぃやぃやぃや、ど~もど~も、ど~も、お疲れさまです」といって、降りてきたかは定かでない。
◆写真下は、構えない表情の乃木希典。は、1924年(大正13)に帝国教育研究会から出版された「乃木怪談」所収の『精神科学/人間奇話全集』の表紙と背表紙。

宮崎モデル紹介所の物語。(上)

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 1992年(平成4)に求龍堂から出版された匠秀夫『三岸好太郎―昭和洋画史への序章―』Click!には、西洋館が建ち並び居留地の街並みが残る、エキゾチックな風情だった築地の友人宅で、裸婦像の制作をめぐる三岸好太郎Click!の次のようなエピソードがある。
  
 三岸は築地に住んだ桑山と交友を深めており、前出節子夫人宛書簡にも記されているように、大正一二年春頃には、桑山宅に泊り込んで盛んに築地界隈を描いた。桑山書簡によれば、時には桑山がモデル代を出して、下谷の宮崎(註、モデル斡旋屋)からモデルを雇い、光線の具合のあまりよくない桑山宅の二階で三岸と岡田七蔵と三人で裸婦を描いたこともあり、また久米正雄の紹介状を貰って、当時鳴らした帝劇女優森律子の築地の家を訪ねて、律子の河岸沿いの家を描いた画を売ろうとして断られたこともあったという。
  
 この中に登場する「宮崎」が、きょうから2回にわたり連載する記事のテーマだ。明治期から大正にかけ、画家たちは気に入ったモデルを探すのに四苦八苦していた。そもそも、人前で1日じゅう動かずに同じポーズをつづけたり、衣服を脱いでヌードになったりすることなど考えられない時代だ。東京美術学校でも、モデル探しは切実な課題だった。
 明治期、モデルになってくれる女性は画家たちの間でも引っぱりだこであり、東京美術学校でもモデル不足は、実技の授業を行ううえで深刻な支障をきたしていた。画学生たちは街中へ散り、足を棒のようにして1日じゅうスカウトを繰り返し描きたいモデルを探しまわるのだが、当然、引き受けてくれる女性などほとんどいなかった。今日でさえ、街中で「モデルをやりませんか?」などと声をかけられたら、まずは「ナンパかサギか?」と怪しまれるのが普通であり、ましてや明治期の東京では「人買いか拐(かどわ)かし?」のように思われただろう。美校のモデルだと説明しても、いかがわしく得体のしれない職業の筆頭のように思われ、スカウトに応じる女性はほとんど皆無だった。
 以前、こちらでも彫刻家の荻原守衛Click!をはじめ、日本画家の松岡映丘や竹内栖鳳のモデルをつとめた岡田みどりClick!についてご紹介している。東京美術学校に出入りしていた、岡田みどりより世代が少し上のモデルたちには、宮崎菊や飯田ハル、滝口フミなどがいる。また、少し遅れて東京美術学校に通ったモデルには、おシマやおタカ、おカネ、おタイと名前や愛称で呼ばれる女性たちがいた。当時のモデルたちは、なかなか本名では仕事をせず仮名や愛称で呼ばれている。今日とは異なり、画家や画学生とはいえ人前で裸になる職業は、まるで売春婦と同様に見られていた時代だ。のちに登場するモデル紹介所の監督を、吉原Click!と同様に警察の風紀係や風俗営業係が担当していたことでも、当時の美術モデルに対する世の中の眼差しをうかがい知ることができる。
 当時、来日していたフランス人は銭湯や長屋での行水、あるいは川遊びなどで異性の目をほとんど気にせず、平然と裸になって楽しんでいる日本女性が、なぜ美術モデルというと急に羞恥心をあらわにし、まるで身を持ち崩したような職業としてとらえるのか、まったく理解できない……と記している。明治期に活躍した黒田清輝Click!は、これらの偏見と真っ向から対決Click!するのが東京美術学校における仕事のようなものだった。洋画壇の権威であり、表現においては保守的なボスといわれたメエトル黒田が、実は世間における当時の常識や偏見をことごとく否定・破壊していく「革新者」であり、「革命的」な画家だったという側面へスポットをあてた好著に、1986年(昭和61)に日本経済新聞社から出版された勅使河原純『裸体画の黎明-黒田清輝と明治のヌード-』がある。裸体画は、明治期の美術界においては官憲と正面から対峙する、一種の“踏み絵”でもあった。
勅使河原純「裸体画の黎明」.jpg 中村彝「女」1921.jpg
中村彝・新島シマ1921.jpg
 上記の美校モデルのおシマとおタカは、本名を新島シマと新島タカといい、ふたりは姉妹だった。姉の新島シマは、12歳のころから美校でモデルをやっていたといわれ、肌がとても美しかったらしい。ストーブで温められると肌の血色がバラ色になり、印象派の表現をめざす画家たちには格好のモデルだった。中村彝Click!は、下落合のアトリエへ新島シマClick!を好んで呼び寄せ、多くの作品を残している。また、おカネの本名は兼代といったが、親の職業から「納豆屋おカネ」とも呼ばれ、竹久夢二Click!の専属モデルとなり、やがては愛人となって「お葉」と呼ばれるようになる。
 さて、東京美術学校でモデルをつとめた第1世代の女性たちの中に、ことさらビジネス感覚に優れた人物がいた。幕末から、浮世絵などのモデルもつとめていた宮崎菊だ。彼女は、東京美術学校で絶対的に不足しているモデルを養成し、美校や画家たちのニーズに応じて派遣するモデル紹介業のビジネスを思いつく。ちなみに、フランスをはじめヨーロッパ諸国における美術学校や画家のモデルは、希望者に対して学校や画家が個々にオーディションを行ない、それぞれ個別に決定して雇用するかたちだが、この方式はついに日本では根づかなかった。学校や画家とモデルとの間には、仲介業者(モデル事務所)が介在して派遣する形式が現在までつづいている。
 それは、モデルを雇用する学校・画家側から見れば、苦労をしてモデルを探し歩く手間を省く効率的なシステムなのだが、先の日本における社会的な偏見や「卑賤」な職業観とも無関係ではないだろう。宮崎菊は、東京美術学校に新設された西洋画科の黒田清輝との邂逅を通じて、モデルの必要性と洋画・日本画を問わずマーケットの大きな可能性に気づいていく。以降、黒田清輝ひいては東京美術学校と宮崎菊の“二人三脚”ともいうべき、「美術標本(モデル)」をめぐる協力体制が築かれていくことになる。
 東京美術学校に西洋画科が設置された1896年(明治29)、宮崎菊は東京の街中へ出てモデルに向きそうな女性に声をかけ、やはりスカウトするところからビジネスをはじめている。美校の男子学生による勧誘とは異なり、モデル経験もある宮崎菊のアプローチには説得力があったのだろう。彼女のもとには、少しずつモデル志望者が集まりだしている。当初は、谷中2丁目の掛茶屋を営業拠点にしていたが、モデルの人数が増えてくると、下谷区谷中坂町の丘上、領玄寺にある近宝庵の斜向いに事務所を開設した。
東京美術学校実技風景1923.jpg 太平洋画会講習会風景1928.jpg
 そして、事業が軌道に乗り東京美術学校をはじめ、白馬会や太平洋画会、各画家たちからモデルの依頼が多くなると、手狭になった近宝庵向かいの事務所から、20mほど北側にある行き止まりの路地を入った突き当たり、領玄寺の参道沿い西側の谷中坂町95番地(のち台東区谷中4丁目4152番地)に、オーディション部屋を備えた本格的なモデル事務所を新築している。その様子を、前述の勅使河原純『裸体画の黎明』から引用してみよう。
  
 お菊が晩年まで過ごしたその「宮崎モデル紹介所」の家は、最初からモデルの選定場として設計された、狭いながら瓦屋根のしっかりした建物である。はじめの頃は、日曜日の午前中に主に研究所と一般作家向けのモデル選定会(作家の間ではモデル市といいならわされていた)がここで開かれ、月曜日の朝には美術学校用の選定会が開かれた。美術学校の方はじきに美校内の建物に会場を移したが、日曜日の「市」はその後断続的に昭和十六、七年頃まで続けられていたようだ。
  
 東京市電の走る不忍通りから、谷中坂町95番地の宮崎モデル紹介所へと通う三浦坂のことを、いつしか「モデル坂」といい慣わすようになったのは、画家たちがそう呼んでいたせいもあるが、モデルの若い女性たちがゾロゾロと寺々の墓地に沿った坂道を上っていくのを見ていた、近隣の住民たちの通称でもあったのだろう。
 以前、佐伯祐三Click!『下落合風景』Click!に関連し、東京美術学校門前にある沸雲堂Click!浅尾丁策Click!と、彼の著作である『谷中人物叢話・金四郎三代記』(芸術新聞社)をご紹介した。浅尾丁策の手もとには、大正期から昭和初期にかけて記された宮崎モデル紹介所の古簿冊が残されている。下谷谷中警察署の検閲角印が押された同簿には、モデルを雇用した高名な画家や彫刻家たち、美術学校、美術研究所の名前と住所、日付などが列記され、美術標本(モデル)料と用途が記入されている。また、宮崎モデル紹介所へ新規に登録したモデルたちの名前や住所、学歴、経歴なども記録されている。
領玄寺近宝庵.JPG 宮崎菊初期事務所跡.JPG
 下落合の中村彝は、病状が進み谷中坂町の選定場へ出かけられなくなると、宮崎モデル紹介所からアトリエへモデルをまとめて派遣してもらい、その中から好みのモデルを選んでは制作していた。のちに上落合に住んだ辻潤Click!の妻になる小島キヨClick!も、そのうちのひとりだった。また、上落合に住んだ中野重治の連れ合いである女優の原泉Click!や、埴谷雄高Click!夫人の伊藤静子、水の江滝子Click!、淡谷のり子なども本業だけでは食べてはいけず、宮崎モデル紹介所に所属して一時期はモデルで生計を立てていた。

◆写真上:通称「モデル坂」と呼ばれた、谷中坂町へ向かう三浦坂。
◆写真中上上左は、勅使河原純『裸体画の黎明-黒田清輝と明治のヌード-』(日本経済新聞社)。上右は、1921年(大正10)制作の新島シマを描いた中村彝『女』(パーフェクトリバティー教団蔵)。は、1921年(大正10)に下落合のアトリエで制作中の中村彝とモデルの新島シマ。
◆写真中下:いずれも前掲『裸体画の黎明』所収のモデル授業の様子で、1923年(大正12)の東京美術学校における彫刻実技風景()と太平洋画会講習会の風景()。
◆写真下は、領玄寺境内の「近宝庵」で同寺の境内全体は縄文期の貝塚遺跡だ。は、宮崎菊が最初に事務所を設置した版宝庵の斜向かいあたりの現状。

宮崎モデル紹介所の物語。(下)

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宮崎モデル紹介所跡1.JPG
 
 下落合2096番地にアトリエをかまえた松本竣介Click!の文章にも、宮崎モデル紹介所は登場している。1940年(昭和15)に発行された『石田新一追悼集』の松本竣介「思出の石田君」から引用してみよう。
  
 (昭和)六年の春から(太平洋美術学校)午前選科人体部のモデルのポーズは大抵石田君と僕とできめるやうになつてゐて、良いモデルを探すために二人で毎日曜モデル屋宮崎へ行くのだつた。その頃の石田君は何でも一度僕の意見をたゝいた上、耳の不自由な僕をあちこち引廻してくれた。僕が自由にいろんなことのやれたのは石田君がついてゐてくれたからだった。(カッコ内引用者註)
  
 下落合667番地の第三文化村Click!アトリエClick!を建てて住んだ、太平洋画会の吉田博Click!は、1909年(明治42)に大作『精華』を仕上げるために、モデル探しでさんざん苦労をしている。上品さを求める顔の部分は、富山新聞の記者が紹介してくれた料理屋の女中「お玉」をスケッチするために、わざわざ北陸まで旅行して制作している。また、身体はモデルたちをとっかえひっかえスケッチしたが、気に入った「美術標本」になかなか出会えず、完成までに9人ものモデルを雇用している。宮崎モデル紹介所は、このような画家の窮状を解消し、モデル探しを効率化する願ってもない存在になっていった。
 では、浅尾丁策が見た宮崎モデル紹介所についての証言を聞いてみよう。ちなみに、東京美術学校の門前にある浅尾の沸雲堂から、宮崎モデル紹介所へは丘上の道つづきでモデル坂(三浦坂)は通らない。また、浅尾が見た情景は昭和初期のものであり、宮崎菊はとうに死去して息子の宮崎幾太郎があとを継いでいた時代であり、同モデル紹介所は菊の時代にも増して事業が繁盛していたころだ。1983年(昭和58)に芸術新聞社から発行された、美術誌『アートトップ』4月号から浅尾の証言を引用してみよう。
  
 谷中大通りの一乗寺の先の床屋の細い道をウネウネと一丁程行った突当りの左側に、薄汚れた平家の素人家で看板も出ていない。平素はほとんど人通りのない小路だが、日曜日のモデル市(毎週日曜日の午前中、仕事の欲しいモデルさんが参集していて、モデルさんを雇いたい画家達は自分の好みに合ったモデル嬢を宮崎を仲介として契約する仕組み、従ってウィークデイに行くとモデルさんを見ることが出来ない)の日は、美しく着飾った若い娘さん達が、淋しい小路に花を咲かせる。そして看板なしでも宮崎の家はすぐわかる。開け放しの玄関入口の一坪程の土間は、綺麗な靴や下駄、きたない履物が乱雑にぬぎ捨てられている。/土間を上った十五、六畳敷の和室は、モデルさんをよく見えるようにと、硝子張りのトップライトを設けてあるが、あまり明るくない。室のまわりに宴会でもするように座布団を敷いてモデルさんが二十人程座っている。契約のすんだ者は、お客さんと一緒に帰ってゆく。多分どこかでお茶でも飲んで行くのだろう。こうして昼過ぎまでは、入替り立替り(ママ)賑やかだ。そして午後はまた淋しいもとの小路にかえる。
  
 モデルの需要は、画家たちが風景画を描きにくい冬場や、さまざまな美術展が集中する夏から秋にかけてがピークだったようだ。当時のモデル料を見てみると、大正時代に限ればヌードが半日で45銭、着衣が半日で25銭であり、宮崎モデル紹介所には1週間ごとに仲介料として10銭を納入する決まりだった。
 つまり、画家のもとへ5日間通ってヌードモデルが手にする金額は2円25銭であり、そのうちの5%弱(4.44%)である10銭を手数料で支払うという契約だ。また、昭和初期にはヌードが半日で1円20銭、着衣で1円、子どものモデルで80銭ほどだったようで、たとえばヌードモデルが1週間仕事をすると6円を稼ぐことになり、その5%弱ということで30銭ほどが宮崎モデル事務所へ支払われたことになる。
吉田博「精華」1909.jpg
 大正期の宮崎モデル紹介所は、常に100人を超えるモデルを抱えており、ひとりのモデルが支払う仲介料はわずかでも、トータルではかなりの金額を売り上げていたことになる。宮崎菊の収入は、高級官吏並みだったという証言もあるようだ。彼女は、息子の幾太郎へ事業をまかせるようになると、同業者を束ねるモデル協会づくりに奔走している。また、モデルの質を向上させるため、さまざまな技術の習得や教育に力を入れた。彼女が呼びかけて結成したモデル協会は、東京美術学校をはじめ画家たちの間では大きな信用を得て、モデルという職業と「モデル事務所」がいかがわしい商売ではなく、美術の創作には欠かせない存在であり仕事であることを、死ぬまで訴えつづけている。
 宮崎モデル紹介所の隆盛を目のあたりにした美術界には、その後、次々とモデル事務所が登場してくることになる。前掲の勅使河原純『裸体画の黎明』から引用してみよう。
  
 宮崎のほか、黒田清輝の「昔語り」に登場する仲居のお栄などは、自らモデルを発掘していた早い例である。だがその後の斡旋者については、必ずしもよく分かっていないようだ。牛込で「仏蘭西ナヲイ」を開店した直井是子、田園調布に「南郊モデル紹介所」を作った小林源太郎、「目白モデル紹介所」から独立した北村久、「Pour Vousモデル紹介所」主人の浅尾丁策等の名前がわずかに思い起こされるに過ぎない。
  
 先の浅尾丁策自身も、一時期はモデル紹介業に進出していたことがわかる。また、落合地域に大勢の画家たちが住んでいた関係から、目白にもモデル紹介所が存在していた。目白モデル紹介所は、おそらく戦後からの開業ではないだろうか。
 1915年(大正4)7月に、宮崎菊が72歳で死去すると、宮崎モデル紹介所の経営は息子・幾太郎の代に移った。事業はますます繁盛をつづけたが、1941年(昭和16)に幾太郎が死去して、元モデルの妻である宮崎吉能が引き継ぐと急に経営が思わしくなくなった。日本が対米戦争へと向かう暗い世相から、モデルを雇って裸体を描く悠長な画家が激減したことも、その経営に大きく響いているのだろう。宮崎モデル紹介所が凋落する様子を、1987年(昭和62)に筑摩書房から出版された種村季弘・編『東京百話―人の巻―』から、勅使河原純の文章を引用しよう。
明治期の女性モデル.jpg 和田三造とモデルたち1907.jpg
  
 後に残された吉能に大勢の娘達をとりしきる力はない。いつしか彼女は、ベレー帽を被り髭を生やした絵描きを家へ引き入れ、同棲し始めていた。この佐渡出身の米田という画家は、ちゃっかりと幾太郎の着物を着て、真っ昼間から飲んだくれているような、ふしだらな男であった。事業はほとんど顧みず、家も犬猫が荒らすにまかせ、金目のものは片っ端から持ち出しては酒代にかえた。稼ぎ手のモデルも一人二人と減り、開店休業のような状態に追い込まれてからやっと吉能は男と手を切った。しかしもはや店の立て直しはならず、彼女は人目を憚るように土地屋敷を売り払って、どこともなく引っ越していった。
  
 黒田清輝をはじめ岡田三郎助Click!藤島武二Click!、小林万吾、長原孝太郎など、明治から大正にかけて洋画壇を代表する画家たちのご用達だった宮崎モデル紹介所は、こうして親子2代にわたる45年の歴史に幕を閉じた。
 宮崎モデル紹介所の存在は、美術界のビジネスへ刺激を与えたばかりではない。昭和に入ると、モデル派遣や仲介業には美術界とはまったく別の新たな市場が拓けてくる。デパートなどで開催される催事へ出演する、いわゆるファッションショーのマネキンガールを皮切りに、ガソリンスタンドでニコッと笑いながら給油をするガソリンガール、デパートの売り場やエレベーター乗務へ派遣されるデパートガールなど、さまざまな分野で見目麗しいモデルたちが求められるようになった。
 中でも、次々と東京に建設された百貨店(デパート)のマネキンガール(いわゆるファッションモデル)の需要は高く、日本で最初のファッションショーは1927年(昭和2)9月に日本橋三越Click!で開催されている。このとき、ファッションモデルをつとめたのは新派女優の水谷八重子Click!で、いまだ専業のファッションモデルなど存在しなかった。日本初の本格的なファッションモデル事務所は1929年(昭和4)3月、米国から前年に帰国していた山野千枝子が丸の内の丸ビルに創設した「日本マネキン倶楽部」だ。山野千枝子は、おそらく米国方式を見習ってコミッション(15~20%?)を設定したのだろう、その高すぎる歩合をめぐって同マネキン倶楽部のモデルたちは、ほどなくストライキに突入している。
領玄寺と路地.JPG 宮崎モデル紹介所古帳簿.jpg
宮崎モデル紹介所跡2.JPG 宮崎モデル紹介所跡3.JPG
 1926年(大正15)に出版された『婦人職業うらおもて』という本には、当時の美術モデルの様子が詳しく書かれているようなのだが、古書店では一度も見かけたことがない。大正末の出版なので、おそらくマネキンガールは「婦人職業」にいまだ登場してはいないだろう。美術モデルは、おカネに困窮している女性や、別の仕事をもちながらそれだけでは生活できない女性たちが主流だったのに対し、マネキンガールは夫が帝大出身の裕福な家庭の既婚者がほとんどを占めていたと伝えられている。

◆写真上:宮崎モデル紹介所があった、谷中坂町95番地にある行き止まりの路地。同モデル紹介所は、路地の突当り左手にあったと思われる。
◆写真中上:モデル探しにさんざん苦労をし、顔+ボディで計10人のモデルを使用した1909年(明治42)制作の吉田博『精華』(東京国立博物館蔵)。
◆写真中下:1930年(昭和5)発行の『美術新論』より、明治期の女性モデル()と1907年(明治40)に『南風』を制作中の和田三造(中央)と男性モデルたち()。
◆写真下上左は、領玄寺と宮崎モデル紹介所があった路地(右側)。上右は、沸雲堂の浅尾丁策の手もとにあった宮崎モデル紹介所の古帳簿。(同著『谷中人物叢話・金四郎三代記』より) 下左は、路地の突当たりの現状。下右は、日曜日になるとモデルたちが参集して列をなした路地を北側から眺めた様子。

目白界隈における大震災発生時の記録。

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厩橋から.JPG
 1923年(大正12)9月1日(土)の昼どき、自宅にいた目白中学校Click!の生徒が関東大震災Click!が起きた瞬間の様子を克明に記録している。翌9月2日は日曜日で、目白中学は3日の月曜日から新学期がはじまる予定だった。
 この加藤一男という、当時は中学2年生だった生徒がどこに住んでいたのか、ハッキリとは規定できない。ただし、「染工場」や田畑のある情景の記述から、旧・神田上水(現・神田川)ないしは妙正寺川の沿岸部である可能性が高い。旧・下落合(現・中落合/中井含む)か上落合、上戸塚(現・高田馬場界隈)、下戸塚(現・早稲田界隈)、高田(現・目白/目白台界隈)の川沿いのどこかだろう。いずれにしても、自宅から下落合にある目白中学校まで徒歩で通える距離に住んでいた感触がある。中学生が体験した大震災の記録は、妙な粉飾や誇張、のちに判明したあと追いの情報や知識などを混じえず、震災直後の状況やありのままの事実を表現している点でとても貴重だ。
 加藤家では、地震が起きた午前11時58分現在、昼食の準備をしていたのだろう。幸いにも、山手なので(城)下町Click!に比べて揺れが相対的に小さかったものか、自宅の倒壊はまぬがれている。家々の様子から加藤家は農家ではなく、明治末から大正初期にかけて造成された住宅地の風情をしており、ところどころに農家が残り田畑を耕しているような東京郊外の住環境だった。では、1924年(大正13)4月に発行された目白中学校の校友誌『桂蔭』第10巻Click!に掲載の、加藤一男「大震動」から引用してみよう。
  
 何だか膝がぐらつく様な気がする。見ると電燈の笠が微(かすか)に動く様だ。オヤツと思ふ間もなく、ギシギシと家が鳴り出した。「地震だツ。」 ドキンと何かで胸をドヤされた様な気がした。ハツと腰を浮した拍子に、グラグラと更に猛烈な上下動が襲来した。ガラガラ何か壊れる音が鋭く耳朶を打つた。と同時に無我夢中で窓から、生垣を突き退けて、前の畠へ飛び下りた。飛び下りて横倒しに倒れた事は覚えてゐるが、後は何も知らない。家がどうならうが……母がどうならうが……兄や弟がどうならうが……頭の中から過去の記憶や、現在の種々の妄想など、全部何処かへフツ飛んで了つた。唯無意識に波の様な地面を畠の中へ走つたばかり……。/ホツと我に返つた時は、自分は泥だらけになつて人参畠に匍ひつくばつて居た。母と弟は芋畑を転々としてゐる。見ると、屋根瓦が流される様に落ちて来る。壁が落ちる。大揺れの家の窓から、玄関から、濛々と埃が吹き出す……。と、轟然と前の一棟が押し潰される様に崩れた。ヒラヒラと木ツ端が、バツと立つ黄褐色の埃と一緒に舞ひ上つた。僕は茫然として眺めた。
  
 関東大震災の初期震動が、強い上下動からはじまり、つづいて大きな横揺れに移行している様子がわかる。この最初期の大きな上下動によって、家の中の家具調度がいっせいに倒れ(というより室内へ四方から瞬時に飛び出し)、その下敷きになった多くの人々は戸外へ避難することができずに、つづいて倒壊した家屋の下で圧死した。その数は、5,000人とも6,000人ともいわれている。
 首都圏では、その後に起きた火災により判明しているだけでも92,000人が死亡しているのだが、地震の最初期に戸外へ逃げ出せずに圧死した犠牲者も決して少なくはなかった。現・新宿区のエリアでは、四谷地域(旧・四谷区)の被害がもっとも大きく、当時の四谷警察署の管内記録によれば168人が死亡し、642戸の住宅が全焼している。下町に比べれば被害は少ないように見えるが、現在の建物稠密度や高層化、さらに当時はまったく存在しなかったさまざまなリスクを考慮すれば、比較的地盤が強固な山手だからといっても、決して楽観視できない数値だろう。
牛込より見た市街地大火災.jpg 淀橋より見た市街地大火災.jpg
 引きつづき、加藤一男「大震動」から引用してみよう。
  
 其の内に震動もどうやら止んだ様だ。と「三上さんが下敷になつたぞう」と誰か怒鳴る声がする。アツ死んだかな!? 瓦が少しも落ちなかつたから其の重みで……と思つた。近所の男達がパラパラと馳せ寄つた。兄もすぐ飛んで行つた。僕も走つて行つた。崩れた瓦の下の方から「早く坊やを助けて!」と幽かな震へ声が聞えて来る。/「今直ぐだぞッ」「しつかりしつかり」と口々に呼びながら声のするあたりの瓦をめくり始めた。僕も、何時の間にか瓦の端に手が掛つて居た……瓦を何枚めくつたらう……お祖母さんも、小母さんも、三つになる子供も微傷一つだに負はず、頭から埃だらけになつて助け出された。嗚呼天佑!! 皆さんのお蔭で命拾ひしました、とお祖母さんは、嬉し泣きに泣いてゐた。/「水をお呑みなさい、水を呑むとおちつきますよ。」と、平井のお爺さんが、手桶に水を持つて来て呉れた。僕も筵に腰を下したまゝ、一口呑んだ。気のせいか、幾分かおちついた。だが未だ足がフラフラして力が入らない。グルリと見廻すと、女子供達は皆真蒼になつて居る。常々病身の母はぐつたりとなつて、荒い息使ひ(ママ)をして居る。
  
 ここで留意したいのは、屋根上へ強固に組まれとめられた頑丈な瓦が、震災の震動ですべり落ちなかった住宅が潰れている点だろう。瓦がすべり落ち、屋根が軽くなって重心が低くなった家々が倒壊をまぬがれている。震災後、屋根からすべり落ちた瓦にあたって負傷する危険性が指摘され、行政によりトタンやスレートの軽量屋根が推奨されるのだが、もうひとつの重要な課題として、大きな震動で瓦がすべり落ちないよう、いくら釘どめ瓦で頑丈に屋根を葺いたとしても、屋根自体の重量を軽減しなければ大震災における家屋倒壊の危険性は低減できない……ということだ。
雑司ヶ谷界隈から見た市街地大火災.jpg
小石川界隈から見た市街地大火災.jpg
 文中に登場する落ち着いた「平井のお爺さん」は、ひょっとすると幕末の1855年(安政2)に起きた安政江戸大地震の、さらには1894年(明治27)の明治東京大地震Click!の経験者かもしれない。以前にも、江戸東京地方へ大きな被害をもたらした安政江戸大地震と関東大震災の双方を経験し、そのちがいを比較して語っていた老人の言葉をご紹介Click!しているが、このような地付きの方の証言はきわめて貴重で、次の大震災への備えを考慮するうえでも、かけがえのない重要な情報を提供してくれている。
  
 「あゝ、恐かつた」「随分大きかつたね」「もう大丈夫かしら?」と胸をなで下すと間もなく、又、大地がムクムクと動き出した。「ホラ又!!」 子供達は、わあわあ泣き出す。「泣くんぢやない、大丈夫々々々」「大丈夫々々々おちついておちついて」と平井のお爺さんが励ます。/筧の溜り水が溢れ出る、家が大きく揺れる、突!!(ママ)物凄い音響と共に無惨にも、一番後ろの茂木さんの家が倒潰した。屋根の半(なかば)は畠の中へ投げ出された。/振り返ると、染工場も田の向ふの家も何時の間にか潰れて、砂埃が一面に漲つてゐる。/泣いたり、叫んだり、破壊と墜落、其等の騒然たるる中に、かすかにゴーゴーと引込まれる様な地鳴りの音が聞える。
  
 ここに登場している加藤家や「染工場」をはじめ、近隣の住宅である「三上さん」や「平井さん」、「茂木さん」などの名前を手がかりに、1925年(大正14)の落合地域の「出前地図」Click!をはじめ、大正末に発行された各種「事情明細図」や「住宅明細図」、昭和初期に編纂された川沿いに展開する各町誌や町会資料などを調べてみても、これらの姓が並んだ街角をどうしても見つけることができなかった。
 同年の『桂蔭』4月号には、「大震火災」と題する1年生の山上正芳が書いた原稿も掲載されている。山上家の住所も不明だが、避難先に「酒井伯」が登場するので牛込矢来町の酒井忠良伯爵邸の近く、赤城下町から中里町あたりではないかと想定できる。
東京駅前の避難者.jpg
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 現代の東京は、「耐震設計」の建物がかなり増加している。しかし、この「耐震設計」の「耐震」は、あくまでも科学的な解析や規定がある程度まで可能な、おもに関東大震災の“揺れ”をモデルに、さまざまな基準が決められているにすぎない。つまり、プレート型地震の大規模な“ヨコ揺れ”による「耐震」は想定されているが、直下型の活断層地震と推定される安政江戸大地震のような大きな“タテ揺れ”に関しては、データが存在しないためほとんど想定されていない……ということだ。東海地震の可能性が高まっている現在、次に想定されるのは、少なくとも大正期にエネルギーが解放されている相模湾沖が震源のプレート型地震ではなく、東海から九州まで連続して起きたプレート型巨大地震に刺激された、江戸東京直下型の活断層地震Click!のように思えるのだが……。
 

◆写真上:大火災による火事竜巻や大火流が発生して壊滅した隅田川両岸で、教訓から造られた防災インフラは東京オリンピック(1964年)前後にほぼ消滅している。
◆写真中上は、旧・牛込区の市谷あたりから見た市街地の大火災雲。は、新宿駅西側あたりの淀橋町から見た市街地の大火災雲。
◆写真中下:いずれも東京市街地の大火災で発生した積雲状の煙の様子で、山手の雑司ヶ谷界隈()と小石川界隈()から眺めた市街地方面の光景。
◆写真下は、震災直後の東京駅の丸の内口。は、同様に震災直後の日本橋付近で背後に見えるドームが日本橋白木屋(現・COREDO日本橋)。「中ニ数十人居マス助ケテ下サイ」と書かれた木札が見えるが、おそらく火の手は近くまで迫っている。このあと、日本橋から京橋、八重洲、銀座、有楽町界隈は大火流により全滅した。


美術研究所に架けられた黒澤明の300号。

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 八島太郎展実行委員長の山田みほ子様Click!より、再び貴重な資料類をお送りいただいた。その中には、2010年にテレビ東京で放映されたドキュメンタリー『世界を変える100人の日本人』の八島太郎Click!編も含まれている。また、戦後の絵本関係の資料や作品画像、貴重な書簡類のコピー、八島太郎(岩松淳Click!)について書かれた椋鳩十による自筆の複写原稿もある。これらの資料については、またいつか改めて記事を書いてみたい。
 また、もし貴重な資料類の保存が地元の鹿児島で困難なようであれば、東京ではすでに絵本『あまがさ』の一部原画が保存されている上井草の「ちひろ美術館」Click!(練馬区)か、反戦の拠点として特高Click!と憲兵隊につぶされた長崎町大和田のプロレタリア美術研究所Click!があった豊島区での保存が妥当だろうか。あるいは、八島太郎(岩松淳)も含めて同美術研究所へ通った画家たちが多く住み、また新宿紀伊国屋Click!の2階展示場で開かれた同研究所の卒業制作展をしばしば訪れていた、林芙美子Click!や平林たい子など落合地域の作家たちが大勢住む新宿区のほうだろうか。いずれにしても、山田様の保存へ向けたご懸念が、1日も早く解決されることを望みたい。
 さて、長崎町大和田1983番地にあった、プロレタリア美術研究所(元・造形美術研究所Click!のち東京プロレタリア美術学校Click!)の建物内部の間取りや授業の様子が、さまざまな資料から明らかになってきた。入り口に面した大教室(画室)には、黒澤明制作の水彩300号が展示されていたことも判明している。広い教室(画室)は2部屋あり、また泊りこみの事務局員用に小さな畳部屋が付属していた。所長の矢部友衛から依頼され、その畳部屋に住みこんで研究所の事務をこなしていた美術家・小野沢亘の証言を、1994年(平成6)出版の『1930年代-青春の画家たち』(創風社)に収録された「プロレタリア美術運動と私」から引用してみよう。
  
 プロレタリア美術研究所は、東京市外長崎町にあった。現在の東京都豊島区長崎町である。私は悲壮な覚悟を胸に秘めて研究所を訪れた。少し大げさと思う人がいるかもしれないが、この私の悲壮感は嘘ではなかった。プロレタリア美術運動をやるからには、警察に捕まって拷問されることは覚悟しなければならない。それに、私は肋膜炎をやったことがある。下手に拷問されたら生命にかかわると思ってそれが非常に不安だったからである。/しかし研究所について、事務所から事務の乃木さんという人が出てきたときにはホッとした。たくましいというより、おとなしそうな、やさ男といった感じの人だった。/その時には乃木さん以外には誰もいなかった。大きな板の間の部屋が二つ、小さな畳部屋が一つあった。私は入所してから一年もたたないうちに乃木君にかわって、この部屋に住むことになるのであった。入口に面して大きな部屋には、黒沢明(映画監督)の三百号位の大きな水彩画が掛けてあった。
  
 この情景は、小野沢が川端画学校を出てから初めてプロレタリア美術研究所を訪れた、1929年(昭和4)秋のことだ。広い画室のひとつに架けられた300号の黒澤作品とは、いったいどのような画面だったのだろうか。前年(1928年)の暮れ、上野の東京府美術館で開催された第1回プロレタリア美術展に黒澤明は出品していない。小野沢が事務局へ勤務しはじめた直後、1929年(昭和4)12月に第2回プロレタリア美術展が上野の同美術館で開催されるが、同展に黒澤は水彩による『建築場に於ける集会』を出品している。ひょっとすると小野沢が目にした300号サイズの画面は、出品直前の同作だったのかもしれない。
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 小野沢亘は、同研究所の事務所に住みこんで多様な雑事をこなすかたわら、川端画学校時代の実力をかわれてデッサンの講師もしていた。また、学生たちのデッサンにモデルを雇うときは、谷中にあった宮崎モデル紹介所Click!に出かけ、モデルの選定もしている。以前、こちらでご紹介したダット乗合自動車Click!バスガールClick!に頼みこんで人物モデルClick!を依頼したのも、また小野沢亘の仕事ではなかっただろうか。小川薫様Click!のお母様・上原とし様Click!は、モデルを雇う資金がなくなったとき、ときどきモデルの依頼に乗務員組合を訪れる小野沢亘の顔を、よく知っていた可能性が高い。小野沢が書いた「研究所の留守番役」から、研究所での仕事の様子を引用してみよう。
  
 住み込みの事務員としての私の仕事は、ときどき研究費を集めたり、モデルを雇えるだけの金がある時には、上野にあったモデル紹介所に出向いてモデルを頼んできたりするぐらいであった。その外のことは、私が講習生だった時と同じように、講習生たちでつくっていた自治会が、なんでもやってくれていたのでこれというほどの仕事はなかった。/私の毎日の仕事は、美術家同盟員になってから与えられた実技指導者としての仕事だけだった。/金がなく、絵具などもろくに買えず、デッサンばかりやっていたので、デッサンは比較的上手だった。そこを見込まれたというわけである。/私は川端画学校時代に、モデルさんに、「黒いキューピー」とあだ名をつけられたりするような童顔で、年よりは三つくらいも若く見えたから、新しく入所してきた講習生などは、これが実技指導者かと怪げんな顔をする人もいた。/研究所に住み込んでの、わずらわしいことといえば、週に一、二回、所轄の特高がやってくることだった。特高は、美術家同盟が出しているプリント刷りの内部資料や、講習生が出している自治会ニュースを、来るたびごとに要求した。
  
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 同証言には、特高と憲兵隊とが仕事(思想・信条弾圧)の「成果」を競い合っていた様子も記録されている。登場する特高は、高田警察署Click!(現・目白警察署)勤務していた刑事たちだ。プロレタリア美術研究所には、特高のほかにときどき憲兵たちも姿を見せていた。憲兵も内部資料を要求したようだが、特高の刑事から「憲兵に内部資料をわたす義務はない」との“助言”を受け、小野沢亘はうるさい憲兵たちを追い払いつづけた。
 その後、小野沢は1930年(昭和5)に『市電従業員のデモ』Click!を描いたあと特高に検挙されたのを皮切りに、都合6回逮捕され拷問を受けている。プロレタリア美術研究所では講師仲間だった八島太郎(岩松淳)からは、「特高はしょせんサラリーマンなのだから、逃げようと思えば逃げられる」とアドバイスを受けている。だが、同研究所(当時は東京プロレタリア美術学校)を物理的に破壊しに襲ってきたのは、特高ではなく陸軍憲兵隊だった。
 では、当時の同研究所へ通っていた学生側からの証言を、1987年(昭和62)発行の『美術運動』第117号に掲載された、松尾隆夫「プロレタリア美術研究所と共同制作の頃」から引用してみよう。
  
 私は一九三一年五月長崎町大和田にあったプロレタリア美術研究所(後にプロレタリア美術学校といった)にいた。その研究所は進歩的な同じ考えを持った若さに輝き熱気溢れる集りであった。農村漁村からの出身者、金属労働者、又は男子学生、女子学生達の面々であった。自治会を持って自主的に運営されて指導はプロレタリア美術家同盟の人で毎晩一人か二人きて指導を受けた。毎週土曜日には作品の合評会があり活発な討論があった。学課は唯物史観、プロレタリア美術論、唯物弁証法的創作方法其の他がなされた。そこには外部の在来の美術学校や、営利主義のブルジョア美術研究所とは全く違った新鮮さがあった。私が初めて入所して出席した夜は自治会の一ヶ月毎の総会で委員長の奥田武君の報告に多少質問と異見をのべた事から次の委員長に選出され後二~三回やった様に思う。やがて五期生の卒業制作展は新宿の紀国屋(ママ)の階上でした。その時の入場者の中に作家の林芙美子と平林たい子の二人が揃って熱心に見て行った。
  
 ちなみに、五期生だった松尾隆夫の同窓には、戦後に砂川裁判の伊達判決で注目された裁判官夫人の伊達孝子や、山代巴、松尾ミネ子などの女性画家たちがいる。
黒澤明「建築現場に於ける集会」1929.jpg 松尾隆夫「版画家飯野農夫也氏像」1960.jpg
小野沢亘.jpg 松尾隆夫.jpg
 1932年(昭和7)12月に、プロレタリア美術研究所は東京プロレタリア美術学校と改称しているが、男子学生ばかりでなく八島太郎(岩松淳)夫人となる新井光子をはじめ、女子学生たちも次々と入学してくるようになる。その多くは、女子美術学校Click!在学中か卒業したての画家の卵たちなのだが、それはまた、別の物語……。

先日、飯野農夫也Click!のご子息である飯野道郎様Click!よりご連絡をいただき、岡本唐貴が1927年(昭和2)に制作した森の絵が、黒澤明の『蜘蛛巣城』(1957年)のシーンに酷似していることをご教示いただいた。おそらく、撮影用の黒澤絵コンテもよく似ていたのではないかと想定できる。

◆写真上:造形美術研究所→プロレタリア美術研究所→東京プロレタリア美術学校の跡地へ向かう途中に残る、長崎町大和田時代からのいまや希少な住宅。
◆写真中上:米国のフィリップス・コレクションとしてワシントンのPhillips Memorial Art Galleryに収蔵されている1940年(昭和15)制作の八島太郎『SUMMER ROAD(夏の道)』。同館では、過去に『SUMMER ROAD』を記念絵はがきにしている。
◆写真中下は、1936年(昭和11)制作の小野沢亘マンガ『詩人』の冒頭。は、小川薫様のアルバムより上原宅2階から見える昭和初期の富士ノ湯(のち鶴の湯)と日ノ出湯の煙突。日ノ出湯のほぼ真下、西隣りにプロレタリア美術研究所があった。
◆写真下上左は、プロレタリア美術研究所の壁に展示されていた可能性が高い1929年(昭和4)制作の黒澤明『建築現場に於ける集会』(水彩)。上右は、1960年(昭和35)制作の松尾隆夫『版画家飯野農夫也氏像』。下は、小野沢亘()と松尾隆夫()。

「百八塚」の面影を多摩川段丘に見る。

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 ちょっと緊急ニュース的に……。
  先ほど(5日午後9時すぎ)、落合中央公園(せせらぎの里公園)において蚊に刺された方のデング熱発症が、確認されたという緊急ニュースが情報網でまわってきた。TVでは、いまだ新宿中央公園のみを伝えているが、落合地域でも子どもを公園で遊ばせるときは注意が必要だ。
  
 現在の早稲田から高田馬場界隈、すなわち戸塚(十塚あるいは富塚とも=下戸塚・上戸塚)から落合の全域、さらに百人町(現・大久保)から柏木(現・北新宿)地域の神田川沿いにかけて残る「百八塚」Click!の伝承について、これまでさまざまな角度から検証し眺めてきた。室町期に、下戸塚の宝泉寺にゆかりのある昌蓮という人物が、神田川(旧・平川Click!)沿岸の斜面に残る無数の塚に祠を祀って以来、「百八塚」と呼称されるようになったという伝承が残っているのだが、すでに室町期以前から存在していたと思われるこれらの塚とは、もちろん古墳のことだろうと推定してきた。
 事実、「百八塚」の名残りと呼ばれる古墳が、昭和期に入ってから道路工事あるいは宅地開発によって破壊され、改めて古墳期の前方後円墳あるいは円墳だと規定されている事例が、戸塚Click!をはじめ落合Click!百人町Click!の各地域でいくつかみられる。また、昌蓮の地元である下戸塚(現・早稲田地域)では、田畑開墾で破壊された古墳より出土した副葬品が、寺社に奉納された事例Click!が江戸期の記録にも見えている。「百八」とは、鎌倉の「百八やぐら」Click!と同様に、「無数の」「数え切れない」という意味で用いられる数値概念だが、江戸期から戦前にかけて壊されつづけ、現在ではほとんどが住宅街の下になってしまっている古墳の密集地が、はたして都内の他の地域にも存在し、確認されているのだろうか?……というのが今回のテーマだ。
 実は、この課題は多摩川沿いの野毛から尾山台にかけて、野毛大塚古墳を中心にいわゆる「野毛古墳群」の記事として、すでにご紹介していた。群馬県太田市Click!の女体山古墳とともに、日本最大クラスの帆立貝式古墳(略式の前方後円墳)である野毛大塚古墳の周辺は、地元の教育委員会資料によれば大正期から昭和期にかけて、50基前後の古墳が宅地開発によって、ほとんど調査もなされずに破壊されている。また、野毛・等々力・尾山台地域のすぐ東隣りには、「荏原台古墳群」と呼ばれる数多くの古墳が築造されたエリアが拡がっている。この地域の宅地開発をしたのは、渋沢秀雄が支配人をつとめる田園都市株式会社Click!であり、もちろん下落合の目白文化村Click!を横目で見つつ、英国のレッチワースにならって建設を進めていた郊外の文化住宅街「田園調布」だ。
 この田園調布とその周辺域の開発では、やはり50基前後の古墳が破壊されている。資料の中には、昭和初期に行なわれた調査記録から具体的に52基の古墳が存在し、そのほとんどが破壊されたと規定するものも見える。今日の田園調布の宅地内では、観音の祠が祀られていたために発掘調査が行われた、個人邸に保存されている前方後円墳の玄室痕跡(観音塚古墳)と、八幡社と浅間社が奉られていたために、個人邸の庭先に保存されている玄室(浅間様・穴八幡古墳Click!)の、2例を残すのみとなっている。すなわち、わずか4kmほどの多摩川沿岸に、すでに破壊され現存しない古墳が、大正以降の記録に残されているものだけでも100基以上、おもに戦後になって発掘調査が行われ保存されている古墳約20基、計120基を超える古墳が築造されていたことになる。もちろん、江戸期の開墾で破壊されたものも含めれば、実数はもっと増えるのかもしれない。
 戸塚から落合、百人町、柏木にかけて、およそ4~5kmほどの平川(現・神田川)沿岸あるいは、東は奥東京湾の名残りである白鳥池Click!あたりまで展開していたかもしれない「百八塚」の実態とは、おそらくこのような景観だったのではないだろうか。多摩川沿いの野毛古墳群および荏原台古墳群は、3世紀末から6世紀にかけてつづく古墳時代の全期を通じて墳丘が築造された地域だが、おそらく「百八塚」古墳群もまた古墳全期を通じての墳丘密集地帯ではなかったか。そして、多摩川沿いの古墳群が等々力渓谷の新しい横穴古墳群へと収斂していくように、落合地域でもまた下落合横穴古墳群という、新しい時代の墳墓形態へと進化していったように思えるのだ。
浅間神社古墳2.JPG 浅間神社古墳3.JPG
亀甲山古墳1.JPG
亀甲山古墳2.JPG 亀甲山古墳3.JPG
 さて、前回の記事では野毛古墳群をご紹介しているので、今回はその東側に展開している荏原台古墳群の姿をご紹介したい。戦後に米軍によって撮影された、焼け跡が拡がる落合地域とその周辺域をとらえた空中写真を眺めていると、神田川の河岸段丘に沿っていくつもの不可解なサークル痕Click!に気づくのだが、そのサークル痕が本来の姿そのままに現代まで保存されてきたのが、荏原台古墳群だとわたしには思われる。
 まず、墳丘全体が政子さんClick!ゆかりの浅間社にされてしまい、前方部を東急東横線に大きく削られてしまった浅間神社古墳からみてみよう。浅間社が古墳だと規定されたのは、社殿改築と1990年代の東横線拡幅工事の際の発掘調査であり、江戸東京にある寺社の多くが前方後円墳の上に築かれていることを証明する典型的な事例Click!だ。現存する墳長は60mにすぎないが、先述のように前方部を東横線によって大きくえぐられているので、実態は100m前後の前方後円墳なのかもしれない。
 そのすぐ西隣りに接して築造されているのが、全長約108mの亀甲山古墳だ。この前方後円墳もまた、前方部の一部が工事で削られている。亀甲山古墳は、いまだかつて発掘された記録がない、まったく手つかずのめずらしい古墳だ。これだけの規模の前方後円墳が、これまで一度も発掘調査がなされていないのは、関東には巨大で重要な古墳は存在しない……という、戦前の皇国史観Click!による建て前的な影響もあるのだろうが、できるだけ早めの発掘調査を地元の教育委員会には望みたい。
1号墳.JPG 4号墳.JPG
5号墳.JPG
6号墳.JPG 7号墳.JPG
 亀甲山古墳の西側は、もう「古墳銀座」といってもいいほどの、前方後円墳あるいは円墳のオンパレードだ。20~40mほどの古墳が、ほとんど肩を寄せ合うように8基連続して築造されている。(多摩川台古墳群1号墳~8号墳) 冬枯れの空中写真で見ると、それこそ大小のサークルが連続している様子が観察できる。おそらく、神田川流域にもこのような情景が各地で見られたのではないか。いちばん西に位置する8号墳のさらに西側には、前方部が三味線のバチ型をしている最初期型の前方後円墳である、巨大な宝莱山古墳が築造されている。1995年の発掘調査では、全長が100m弱とされているが、残念ながら周囲を住宅街に囲まれているので、周濠を含めた全体規模はもっと大きいのではないだろうか。
 下落合や上落合の焼け跡写真を観察していると、直径が100mを超えるサークル痕あるいは円弧状の盛り上がりClick!もめずらしくない。これらが後円部墳丘の痕跡だとすれば、全長が200mクラスの前方後円墳あるいは帆立貝式古墳を想定することができる。つまり、墳丘の規模においては、多摩川沿岸の古墳群をはるかにしのぐ古墳群が存在していたことになるのだが、丸山や摺鉢山Click!、大塚と古墳地名が連なる落合地域へ、そのような古代の姿を想像しても、あながちピント外れではないように思われるのだ。
 多摩川沿岸の古墳群には、大きな特徴がある。古墳群の近くに、同時代の大規模な集落遺跡がいまだ発見されていないのだ。これだけの規模の古墳群を3世紀にもわたり築造しつづけるには、それなりの経済基盤と大量のマンパワーが必要となるのはいうまでもない。しかし、それをうかがわせる古墳期の集落跡あるいは都市跡が、周辺域には見あたらないのだ。それが、神田川流域の「百八塚」古墳群との大きな相違点だろうか。神田川流域では、戸塚や落合、百人町、柏木を問わず古墳時代の遺跡Click!があちこちで見つかっている。野毛古墳群や荏原台古墳群では住宅街の下に埋もれ、たまたま未発見の状態がつづいているのかもしれないのだが、ひょっとすると地域性による葬送概念や死生観のちがいがあるのかもしれない。
 すなわち、多摩川沿いの旧・荏原郡に展開している大規模な古墳群は、いわゆる人里離れた「屍家・屍屋・屍山(しいや)」と位置づけられたエリアであり、死者を忌み、怖れ、不吉で祟りがあるという概念から、集落エリアよりかなり離れた“忌場”として運用された、専用墓域(死者のクニ)ではなかったか。
宝莱山古墳1.JPG 宝莱山古墳2.JPG
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観音塚古墳跡.JPG 田園調布.JPG
 それに対し、神田川流域に展開した「百八塚」古墳群は、多摩川ほど広大にひらけた原野的な沿岸部ではなく、谷間や深い谷戸地形の多い狭隘な環境という土地柄から、墳墓群と集落とが同居する考え方、すなわち死者を近くの見晴らしのよい丘上や斜面へ手厚く葬ることによって、そこから集落や人々の暮らしを見守り、災害や病魔から住民を守護するという役割を担わされた古墳群ではなかっただろうか? 両者を比較していると、どことなく地域性のちがい、死生観の相違を暗示しているように思えてくるのだ。

◆写真上:浅間神社古墳の墳丘から、多摩川をわたる東横線を眺める。
◆写真中上上左は、後円部の墳頂に築かれた浅間社の拝殿と本殿。上右は、巨大な後円部の斜面に造られた参道階段。は、亀甲山古墳の前方部から後円部を眺めたところだが、巨大すぎて画面には入りきれない。下左は、前方部の一部。下右は、後円部の一部。
◆写真中下:いずれも多摩川台古墳群の墳丘で、前方後円墳の1号墳(全長約40m/上左)、円墳の4号墳(直径約20m/上右)、同5号墳(直径約20m/)、同6号墳(直径約20m/下左)、同7号墳(直径約20m/下右)。
◆写真下は、最初期型の前方後円墳である宝莱山古墳。周囲に住宅街が迫り、また大きすぎて全体を撮影できない。は、1947年(昭和22)に撮影された東横線玉川駅近くに展開する前方後円墳の浅間神社古墳と亀甲山古墳。下左は、田園調布の宅地化で壊されてしまった前方後円墳の観音塚古墳跡(全長約50m)。下右は、敷地の下には数多くの古墳が眠っている田園調布の街並み。

前田寛治が残した「制作メモ」。

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ご報告
 以前、山中典子様Click!よりお預かりし、こちらの記事でご紹介していた笠原吉太郎の『下落合風景(笠原吉太郎邸)』Click!が、正式に新宿歴史博物館で収蔵されることに決定した。大正期から昭和初期にかけての、「下落合風景」作品が少しでも地元に保存されてとてもうれしい。
  
 1926年(大正15)秋にスタートする、佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!は、作品を仕上げていく過程で、どこを描いたのかを記録する「制作メモ」Click!が作成されている。佐伯は作品1点につき、描画ポイントやモチーフのタイトルを個別に記録したのではなく、おそらく複数枚のキャンバスを描画ポイントまで運び、そこで描いた複数の作品はナマ乾きの表面を合わせ専用金具でキャンバスをとめて持ち帰り、その覚え書きとして「制作メモ」を書いていた公算が高い。それは、フランスで描かれた風景作品ばかりでなく、『下落合風景』作品においても同一モチーフや同じ描画ポイントの作品が、やや視点を変えて複数枚存在していることからもうかがい知れる。
 佐伯祐三は、もともと「ズボ」というあだ名がしめすように、それほど几帳面な性格ではなく、日々に描いた作品をいちいち記録していくような、そんな面倒で手間のかかることをするような人物には思えない。画家には多く見られる、日記などもいっさいつけていない。にもかかわらず、1926年(大正15)の秋に限って、なぜか律儀に制作した作品の記録を、描画ポイント(モチーフ)や日付け、キャンバス号数などとともに残している。そこには、「制作メモ」を克明に記録するのが好きだった、前田寛治Click!の大きな影響があるのではないか?……というのが、きょうのテーマだ。
 1926年(大正15)の秋、前田寛治は湯島の沼沢忠雄が運営していた湯島自由画室の畳部屋から、下落合661番地へと転居している。つまり、同地番に建ってた佐伯アトリエへと居どころを移して、いわば“同居”しているのだ。実際に寝泊まりしたのか、それとも単なる連絡先かは不明だが、少なくとも前田寛治が佐伯アトリエClick!へ頻繁に姿を見せたことはまちがいないだろう。曾宮一念が、前田の姿を頻繁に目撃しているのも同時期のことだと思われる。おそらく、佐伯と前田は作品あるいは画論をめぐって、毎日いろいろな会話をしていたかもしれない。また、制作のあい間にヒマを見つけては、藤川勇造Click!藤川栄子Click!外山卯三郎Click!などと連れ立って、郊外ハイキングへ出かけてもいる。その過程で、佐伯祐三は前田寛治が常に持ち歩いているノートを見せられ、そこに記録された鳥取時代からの制作メモを見ているのではないか?
 前田寛治は、鳥取の実家で絵を描きはじめた最初期から、作品のタイトル、号数、寄贈先あるいは販売先を克明に記録している。その一部は、1949年(昭和24)に建設社から出版された外山卯三郎『前田寛治研究』にも、前田の性格を裏づけるひとつの素材として収録されている。これは、前田が日記がわりにつけていた創作ノートにまとめられ、前田の死後は遺族のもとで保存されていた。おそらく前田は、これら日々書きつづけていた創作ノートを、佐伯アトリエにいるときも離さず身辺に置いていただろう。前田寛治にとっては、日記というよりはもう少しラフな覚え書き、なにか気になったことを書きつけておくメモ、あるいは簡単なスケッチ帳のような役割りを果たしていた。
 おそらく、佐伯は前田がときどき取り出しては、なにか書きつけているノートに興味をもったにちがいない。前田はこのとき、すでに二科への入選と帝展特選、さらに平和博覧会への出品では褒状を受けており、佐伯にとってはもっとも見習いたい“先輩”であり、目標とすべき洋画家像を体現していたように思える。鳥取時代からのつけられていた前田の制作メモについて、外山卯三郎『前田寛治研究』から引用してみよう。
前田寛治手帳.jpg 前田寛治192605.jpg
クラマール1924.jpg
  
 彼はそのノートの一ヶ所に、一九二二年一月三十日と日付を入れて、「絵の行先」といふリストを作つてゐる。その次に「画きたる絵の記憶」といふリストを加へてゐる。われわれは彼のフランス留学以前に、すでに彼がこれだけの絵を描いてゐたことを知るための参考に、このリストをここに記して見よう。(中略) この二つのリストはその日付から見て、彼の平和博出品以前の作品であることがわかる。従つて一九二一年の倉吉中学校での個展の前後における学校時代とその後の、作品数とその画題と大きさを知ることができる。だからこの当時すでに二〇〇点位の絵を描いてゐたし、また渡欧画会のための絵も五〇点位は描いてゐる。恐らく彼がフランスに行くまでの作品は、ざつと三〇〇点と見ていい。
  
 好奇心の強い佐伯は、おそらく前田のノートに記載されたさまざまな日記風の所感や制作メモ、スケッチなどを見せてもらったにちがいない。そして、自分もひとつ制作記録をつけてみよう……と、1926年(大正15)9月10日の前日あたり、田端駅へ写生に出かける前の日に決心したのだ。でも、佐伯は前田とちがって几帳面でも持続力があるわけでもなく、興味をおぼえたことは集中・連続して実行するが、1~2ヶ月もすぎて飽きるとふいに止めてしまう、前田とはほぼ正反対の性格だった。制作メモも、線を引いたマス目はなんとか全部埋めるつもりだったものが、ついに10月23日に挫折して飽きてしまったのだ。43日間つづいた制作メモだが、すき焼きClick!“はなよめ”Click!大工仕事Click!への執着よりは少し短かすぎただろうか?
 前田寛治は、佐伯よりひと足早く1925年(大正14)8月に帰国している。鳥取へ帰り、帰国の挨拶まわりをしたあと、同年秋には東京へもどり湯島の自由画室を拠点にして活動している。このあと、前田は落合地域とその周辺域へやってくるのだが、その軌跡は前田の年譜などでかなり詳細に判明している。しかし、1949年(昭和24)に出版された外山卯三郎『前田寛治研究』(建設社)によれば、一時期「下落合二丁目」の「目白の画室」を借りていた様子が登場している。その部分を、全文引用してみよう。
  
 前田はその内に目白に画室を借りて仕事をするやうになつた。彼は目白の画室といつてゐたが、場所は下落合二丁目の火の見の下のところであつた。当時佐伯祐三がすぐ近くのアトリエに帰朝してゐたし、田口省吾の画室も目白通りの反対側にあつた。そののち上京してきた里見勝蔵も、近くに家を借りて住むやうになつた。前田はここから湯島に通つて「自由画室」の指導をしてゐた。
  
 これは、前田が1930年協会の資料に自ら記載した下落合(4丁目)1560番地とは、まったく別の住所だ。前田が、下落合2丁目の火の見櫓の下に画室を借りていたとすれば、それはいつごろのことだろう。前田の長崎地域あるいは下落合地域の住居は、郵便物などから時系列的にかなり綿密にたどられているので、下落合2丁目の火の見櫓の下にあったとされる画室の入りこむ余地はないように思える。
 だが、所在がやや曖昧な時期というのが湯島自由画室に2ヶ月間滞在していたころ(1926年夏)と、下落合661番地つまり佐伯アトリエに“同居”していた時期(同年秋~冬)だ。前田は、同住所を郵便物の連絡先に使用し、実際は下落合2丁目の画室で仕事をしていたのではないか?……という可能性が浮上してくる。ちなみに、長崎側にいた中央美術社の田口省吾は、東京美術学校では前田寛治のクラスメートであり、笠原吉太郎Click!を1930年協会設立直後の前田や里見に紹介したのも彼だった。また、里見勝蔵は同時期、京都から森田亀之助邸Click!の隣り=下落合630番地Click!へと転居してくる。
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 大正末の下落合2丁目には、火の見櫓が2ヶ所設置されていた。ひとつは、目白通りもほど近い子安地蔵の斜向かいにあたる下落合569番地あたり、もうひとつが下落合氷川社の南側で旧・神田上水沿いの下落合895番地あたりだ。外山卯三郎の記述から、おそらく「目白の画室」があったとすれば前者の所在地だと思われる。この想定でいけば、前田はこの画室を引き払って結婚をするために、1926年(大正15)12月に一度鳥取へ帰郷し、愛子夫人をともなって同年12月に再び東京へとやってきたことになる。そして、新婚夫婦が落ち着いたのは、のちに造形美術研究所Click!が建設されるすぐ近くの、長崎町大和田1942番地だった。
 前田寛治の作品というと、どうしても人物画を連想してしまうが、東京の風景画も多く描いている。残念ながら、下落合の風景作品は見あたらないが、池袋風景や駒込風景、巣鴨風景などが何点か制作メモに残されている。また、杉並町天沼287番地に設立した「前田写実研究所」+アトリエでは、周辺の荻窪風景の作品をよく描いているようだ。その風景画の総決算とでもいうべきものが、晩年の「海」をテーマとする作品だった。引きつづき、外山の文章から引用してみよう。
  
 彼は自分の住んでゐる荻窪風景を描いた。山も写生した。彼の理論によると、山が空に糊付けになつたり、山の向ふ側が感じられなかつたりしては駄目なのである。山の前腹に呼応した空間が、山の向ふに感じられなければいけなかつた。彼はこんなこともいつた。「川を描いても、岸や砕ける小波やその説明や面白味だけを捕へただけではだめだ。水そのものが感じられ、水底から満ち満ちてゐる水の深さが感じられなくてはならない」と。
  
 残念ながら個人蔵が多いのか、わたしは前田寛治の池袋風景や荻窪風景の画面を、まだ一度も観たことがないが、独特の「空間」感のふくらみがある画面なのだろう。
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前田寛治「白い服の少女」1928.jpg 前田寛治「海」1930.jpg
 前田寛治の制作メモをみると、同じようなモチーフを選んでタイトルの差別化に苦心している様子がうかがえる。『天平女』『椅子裸女』『椅子女』『紫の女』『丸き女』『コウモリ傘女』……、これらは渡仏前の古い作品群なので、どのような画面かはわからない。同様に、佐伯祐三の『下落合風景』についてもいえることだが、風景の少しでも特徴的なポイントを探しては差別化し、制作メモに記録している。でも、佐伯は前田のように、そういう面倒なことをつづける忍耐力も持続力もなく、自分で作ったマス目を埋める前に、「もうエエわ、あかんがな~」になってしまったのだ。

◆写真上:火の見櫓が建っていた、下落合(2丁目)569番地あたりの現状。
◆写真中上上左は、前田寛治の手帳メモで八王子市夢美術館の「前田寛治と小島善太郎」展へ展示されたもの。上右は、1926年(大正15)5月に撮影された前田寛治。は、1924年(大正13)にクラマールで撮影された左手前から前田寛治、佐伯米子、佐伯祐三の3ショット。
◆写真中下:外山卯三郎『前田寛治研究』に収録された、前田寛治の制作メモ。
◆写真下は、下落合の前田寛治(おそらく1926年秋)、里見勝蔵、佐伯祐三のアトリエ位置。は、1928年(昭和3)制作の前田寛治『白い服の少女』()と1930年(昭和5)の急死する前に制作された前田寛治『海』()で、ともに鳥取県立博物館蔵。

九条武子邸跡はとびきり高価だろうか?

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 下落合753番地の九条武子邸Click!跡に建っていた住宅が解体され、空き地のまま売りに出されている。かなりまとまった敷地の広さなので、それなりの価格はするのだろう。ついこの春先まで、赤土がむき出しの更地だったのだが、この夏に雑草が一面に生えて、武蔵野の典型的な原っぱになっている。「あな、いとしや、おなつかしや武子さま」の濃い武子ファンには、願ってもないチャンスだ。あこがれの九条武子Click!邸の上に、自宅を建設できるのだから。
 もっとも、周囲には九条邸の時代Click!と変わりなく、野良ネコClick!タヌキClick!、ハクビシン、ヘビClick!がウロウロしているので、そういう動物たちがキライな方には、下落合の住まいは向かない。さらに、九条邸跡の南側には、薬王院の森と野鳥の森公園や池があり、虫たちの天国と化しているので、虫ギライの方にも辛い住まいになるだろう。市街地・本郷出身の新しい娘は、おしなべて野生動物は大丈夫なのだが、夏になるとよく虫たちに悲鳴をあげている。窓からセミでも飛びこんでこようものなら、卒倒しかねない環境のようだ。九条武子の『無憂華』より……。
  つる草にましろき花もうらがなし 秋くとつぐるとんぼのゆきき
  かたことと戸のそとにきて裏山の すすきにはしる夜のあき風

 さて、武蔵野の原生林に囲まれた下落合の九条邸へ、雑誌や新聞、出版社の記者たちは頻繁に訪れて記事を書いていたが、同じくマスコミに追いかけまわされていた人物で、彼女と同業だった親友のひとりも、やはり九条邸を訪れているだろう。あるいは、九条武子は散歩がてら、または俥(じんりき)かクルマをやといながら、その友人のもとを訪問したことがあったかもしれない。九条邸から、北東へ直線距離で800mほどのところ、高田町上屋敷(あがりやしき)3621番地に住んでいたのは、同じ歌人仲間の宮崎燁子Click!(あきこ=宮崎白蓮)だ。
 当時の上屋敷もまた、住宅や田畑が散在するだけの武蔵野の面影が色濃い地域だった。ちょうどそのころ、1923年(大正12)の上屋敷界隈の風情を、三岸好太郎Click!と俣野第四郎がほぼ同時に画面Click!へ写しとっている。翌年、上屋敷の狐塚には、女子美術学校を卒業したばかりの吉田節子(三岸節子Click!)が転居してくることになる。
 先日、自由学園明日館Click!でコンサートがあった帰り道、久しぶりに狐塚から宮崎龍介Click!・燁子邸の前を歩いてみた。TVドラマの影響からか、宮崎邸の前はすごい混雑していると豊島区の方からうかがっていたのだが、夕方が近かったせいもあるのか、宮崎邸はいつもと変わらないひっそりとしたたたずまいを見せていた。宮崎邸から九条邸まで、わたしの足でふつうに歩いて10分ちょっとの距離だから、着物を着た女性の足でも、おそらく20分ほどでたどり着けるだろう。
九条武子邸跡2.JPG 上屋敷駅跡.JPG
九条武子邸1926.jpg 宮崎燁子邸1926.jpg
 『女人藝術』Click!を通じて、長谷川時雨Click!とも親しかった宮崎白蓮だが、彼女が身重で隠れ家生活をしているとき、九条武子がなにかと世話していたのを、のちに長谷川時雨は1935年(昭和10)のエッセイ(翌年にクレス出版から刊行された『近代美人伝』収録)で証言している。近所に住むようになってから、ふたりの間でどれほどの往来があったのかはあまり知られていないが、ひょっとすると九条武子は震災後、意識的に宮崎邸からほど近い下落合を選んで転居しているのかもしれない。長谷川時雨のもとに寄稿した、宮崎白蓮の歌から……。
  子らはまだ起きて待つやと生垣の 間よりのぞく我家のあかり
  ああけふも嬉しやかくて生の身の わがふみたつ大地はめぐる

 さて、下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)で『雑記帳』Click!を編集していた、松本竣介Click!禎子Click!夫妻は1937年(昭和12)の秋、上屋敷の宮崎燁子へ原稿を依頼している。それに対して彼女は、「何も御奉公といふことば」と題するエッセイを寄せた。「何も御奉公」という言葉は、おそらく宮崎燁子が子どものころ、柳原家あるいは北小路家の女中が屋敷内でつかっていた口グセの言葉で、「私もそろそろ年をとつて来たせいか、この言葉がもつ味がやつとわかつて来た様な気がしてうれしいのです」と結んでいる。では、1937年(昭和12)に総合工房から発行された『雑記帳』11月号所収の、宮崎燁子「何も御奉公といふことば」から引用してみよう。
  
 それはもう、ずつと古いことでした。私がまだ小さい時、徳川の代のほとぼりが、全くさめ切つてゐないと云つた風な人達が、多分に私の周囲に生きてゐた頃のことでした。若い日を昔のお芝居そのまゝの御殿奉公をつとめ上げて、引きつゞきその時もなほ老女として、一生を邸方向で終るといふ人が、私の側にゐて、「何も御奉公」といふことを、よく口ぐせにするのでした。それは自分自身に云つてゐることもあるし、多くは若い後輩の女中達に云ひきかしてゐる言葉でした。それがこの頃になつて、ともすれば何かにつけて不思議に私の胸に生々しくよみがへつてくるのです。
  
宮崎邸.JPG
九条武子.JPG 宮崎燁子.jpg
 「何も御奉公」という言葉は、別に華族邸や武家屋敷に特有の言葉ではなく、町人の間でも特に商家や職家ではよくつかわれた言葉だ。小僧や見習、丁稚(でっち)の奉公にはじまり、丁稚頭から手代へ、手代頭から番頭へ……と長年辛抱してつづけていくうちに、「何も御奉公」することによって商売がまわり、ひいては家が栄え、必然的に奉公人の暮らしも楽になり、少しずつ生活にゆとりが生まれて、やがては独立(暖簾分け)していくような仕組みになっていた。
  
 今更のやうに思ひ出し考へ出して見ると、この「何も御奉公」といふ言葉位、含蓄のあることばはありません。その頃それがどういふ場合に用ゐられたかといふと、たとへば若い女中などが、人目にたゝぬつまらぬ仕事、しかもそれはおろそかにすべきものではないといふ様な、或はさうした用事をいやいやしてゐる場合、この老女は、「何も御奉公でありますぞ!」と、おごそかにたしなめるのでした。その昔は、大名の奥や千代田の大奥などで、盛んに用ゐならされた言葉ではなかつたかと思ひます。
  
 いかにも、たくさんの本を読んで勉強していそうな、女性らしいリズミカルでやさしい文体なのが宮崎燁子らしい。おそらく宮崎家に入ったことで、「おろそかにすべきものではないといふ様な」生活上の地味で「つまらぬ仕事」を、日々、さんざんこなしてきている彼女ならではの感慨であり、改めて年齢を重ねたうえでの想いなのにちがいない。このあと、「何も御奉公」を国家や社会へと短絡的に結びつけ敷衍化するところは、帝大新人会Click!の出身である社会運動家Click!の妻らしくないのだけれど、当然、1937年(昭和12)現在の夫の微妙な立場や、特高Click!による検閲の眼に対し、妻として少なからず配慮したものだろう。
 この文章の中で、宮崎燁子もまた江戸の中心に築かれた城のことを「千代田(城)」Click!と呼称していることに留意したい。以前にも記事に書いたけれど、繰り返しになるが(城)下町Click!(市街地)に住む江戸東京人にとって、街のまん中にある城は昔から「千代田城」であって「江戸城」ではない。「江戸城」は、江戸の外周域(郊外)、あるいは江戸東京地方を離れたよその地方(藩)からの呼び名だ。少なくとも代々、江戸東京に住んでいる方、あるいは千代田城の旧・城下町に住んでいる方は、そろそろ日本最大の天守再建も視野に入ってきたことだし、「江戸城」などというよそよそしい呼称ではなく、親しみをこめて「千代田城」と呼んでほしいものだ。
雑記帳193711.jpg 九条武子と宮崎燁子.jpg
 ちなみに、わたしはこのブログで、太田道灌が三方を海に囲まれた岬へ築城した館を「江戸城」Click!、徳川家康が築城したものを「千代田城」と使い分けている。また、江戸(エト゜=岬・鼻)も千代田(チェオタ=海辺の食事処)も、明治政府が命名した東京(トンキン)Click!などという、ベトナムでは独立闘争の過程でとうに揚棄された中国の植民地風な街名などとは異なり、柴崎古墳Click!が造営される以前からつづいていると思われる、古代からの「日本語」地名へのちに漢字の“音”が当てはめられたものだと考えている。

◆写真上:売地になって夏草が生い繁る、下落合753番地の九条武子邸跡。
◆写真中上上左は、整地直後の九条武子邸跡。上右は、旧・高田町にあった武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の上屋敷駅跡。下左は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる九条武子邸。下右は、1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」にみる宮崎邸。
◆写真中下は、戦災を受けていない宮崎龍介・燁子邸。下左は、東京大学法学部「明治新聞雑誌文庫」Click!に保存された宮武外骨Click!の写真集『美人』に収録の九条武子ブロマイド。「武子」とサインが見えるが、おそらく外骨自身の書きこみだろう。ちなみに、宮崎白蓮はアルバムに見あたらなかった。下右は、宮崎燁子(白蓮)。
◆写真下は、1937年(昭和12)に発行された宮崎燁子「何も御奉公といふことば」掲載の『雑記帳』11月号。は、九条武子(左)と宮崎燁子(右)。

下落合と西片町(本郷)を結ぶ生霊物語。

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 太陽の光が淡くなり、そろそろ残暑も終わりかけの時候だが、今年はもうひとつ怪談を……。大正時代の、おそらく前期ごろと思われるエピソードに、本郷の西片町から落合村へとやってきた生霊(いきりょう)の話が、当時の『主婦之友』に掲載されている。エピソードを語っているのは、葉山緑子という女性で、次兄が「修行」のために落合村の借家へ引っ越してきたので、彼の身のまわりの世話をするためなのだろう、いっしょにくっついて転居してきたらしい。
 西片町は、以前にもこちらでご紹介Click!したように、福山藩主の阿部家が明治期に開発した住宅街で、元家臣の方々が多く住む独特な街並みを形成している。葉山家も、おそらく江戸期から福山藩に関係した武家の家系ではないかと思われ、西片の本宅に加え郊外別荘地Click!だった落合へ別宅を借りられるほど、内証は豊かだったようだ。その落合の家へ、彼女は結核になってしまった長兄の妻、嫂(あによめ=義姉)のひとり娘をあずかり、次兄とともに3人で暮らしていた。
 当初は、義姉自身に転地療養を勧めたのだが、「家で皆の傍に居る方が宣いと申して聞き入れ」ないので、ひとり娘の5歳になる千枝子への感染を怖れた家族が、叔父叔母にあたる次兄と葉山緑子が住む落合へ、娘だけ転居させたという経緯だ。長い記事なので、1924年(大正13)に帝国教育研究会から出版された『精神科学/人間奇話全集』より、落合での様子から引用してみよう。
  
 当時私は、修行中の次兄と二人で府下落合村に家を借りて住つてをりましたので、周囲は極閑静で、殊に相当の方ばかりのお住居でしたので悪るい遊や下品の言葉などを覚えることもなく、素直におつとりと育つて行きますので私も兄も自分の子のやうに愛して居りました。初は毎月三度宛父母に逢ひに連れて行きましたが、嫂の病気の進むにつれて、伝染されては申訳がないと存じまして、一月に一度しか連れて行かぬやうになりましたが、しまひには子供も私どもに馴れて『(ママ)西片町のお家は白い小母様が(看護婦の事)居るから嫌と迄申すやうになりました。亡くなります二週間程前から、嫂は脳を犯されまして二三日は家人の顔さへ見別けがなくなつた程でしたので、一週間ばかり子供を連れて行つて看護して帰りました。
  
 ここで、「相当の方ばかりのお住居(すまい)」と書いているのは、落合村の東部に建ち並んだ華族屋敷群のことを指していると思われ、葉山緑子たちの家は目白駅か高田馬場駅からそれほど離れていない、旧・下落合(中落合・中井含む)の東部にあったらしいことがわかる。また、次兄が「修行中」と書かれているので、近くの寺社あるいは宗教施設に通って、なんらかの修学ないしは鍛錬をしていたと思われる。ちなみに、下落合の藤稲荷社Click!には修行用として垢離場の滝が設置されていたが、1916年(大正5)現在では水が流れていない。落合村鎮守である氷川明神社Click!、あるいは薬王院Click!でなんらかの修行をしていたものだろうか?
御留山2.JPG 御留山3.JPG
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 このあと、数日して義姉の容体が回復し、意識も明瞭になったので落合の3人は再び看護に出かけている。義姉が死ぬ前日には、「もうだめと思つて居たけど何だか又癒りさうな気がして来てよ こんなに清々とした気持ちになつたことなぞ、今迄になかつたわ」と緑子たちに語っている。この日、夕方になって娘の千枝子とともに落合へもどった3人だが、娘を寝かしつけたあと、緑子と次兄とはなかなか寝つかれなかった。ふたりは、夜中の0時近くまで机に向かって読書をしていたが、寝床に入ってからも眠ることができず、緑子は蒲団の上に座って雑誌を読み、次兄も自室の床の中で読書をつづけていた。時計の針が午前2時を指そうとするとき、突然、娘の千枝子が叫びだしたのだ。つづけて引用してみよう。
  
 恰度(ちょうど)午前二時に少し前の頃でした。私と同じ部屋にスヤスヤと眠つてをりました子供が突然『叔母様ママが来たでしよ、ママは何処叔母様!』とキヨロキヨロして居るのです。夜中でママも来る筈のないことをどんなに聞かせましても、『さつきママが来てよ。千枝子千枝子つて呼んだの。ママ、ママ』と大声で泣き叫んでやみませんので、隣室の兄も入つて来て色々となだめましたが『ママちやん。ママちやん。』と叫んでは、ひた泣きに泣くのです。
  
 このあと、緑子と次兄とは不吉な予感にかられたのだが、なんとか千枝子を泣きやませると、今度は「西片町のお家へ帰る」といい張ってきかなくなった。なだめようとしたのだが、そのとき電報がとどき「キトク、チエコドウドウタノム」と実家から知らせてきた。3人は千枝子を毛布にくるみ、落合の「貸自動車」(いまだ円タクとは呼ばれなかった時代)を頼んで、未明の本郷へ駆けつけた。
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三代豊国「道中膝栗毛の内二川宿旅店」1854.jpg
 ところが、義姉はすがすがしい顔をして3人を迎え、娘が「ママちやん」といって母親にすがりつくと、「また来て呉れたの? 先刻会つた許(ばか)りで。」と妙なことを口にした。緑子と次兄とは、不可解な顔をしてお互いに顔を見合わせたようだ。その日、1日じゅう近親者に見守られながら、夜の11時20分に義姉はついに力つきた。
  
 後で看護の人々の話によりますと、逝きました前夜は午前一時頃から容態が少し変になつて来て、夢中で譫言(うわごと)など申す様になりましたので、在京の親戚たちへ通知を出さうと相談してゐますとき、フト夢からでも覚めたやうに眼を開いた嫂は、枕辺にゐた兄を見て『千枝子が大きくなつて』と独言のやうに申すので『千枝子に逢ひたいの』と兄が訊ねましたら『今落合のお家へ行つて会つて来たばかのなの』とはつきり申すので、又脳症を起したのだらうと思つて居たのださうです。それで其夜千枝子が『ママ』と叫んで起きた話をしたら、気の強い人だつたから口にこそ出しては云はなかつたが心の中では如何に子供を恋しく思つてゐたらうと、皆々涙を流したのでございます。思ひ出すと今でも涙ぐまれてなりません。
  
 ……と、記事は終わっている。体験者が5歳の幼い子どもなので、妙なトリックやウソが入りこむ余地はなさそうだ。また、周囲が口裏を合わせ、そろってウソをついているとも思えない。ただ、次兄が「修行中」というのが多少ひっかかるのだが、特に宗教じみた記述もなければ、体験談にそのような教条主義的な雰囲気も感じられない。ただ、淡々と事実を語っているように思えるのだ。
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三代国輝「本所七不思議之内無燈蕎麦」1886.jpg 三代国輝「本所七不思議之内狸囃子」1886.jpg
 おそらく、井上円了Click!あたりにいわせれば、ふたりは同じ夢を偶然にも同時に見たのだということになりそうだ。でも、同じ夢をお互いが同時に見ることは、確率論的にみても非常に低いと思われるので、その部分は不可解で説明のつかない「真怪」に分類される現象なのかもしれない。井上円了の分類でいくと、やたら「真怪」の部分がふくらんでいきそうな気がするのだが……。

◆写真上:垢離場の滝があったかもしれない、藤稲荷社の裏手にあるバッケClick!(崖地)。
◆写真中上は、藤稲荷の裏手に拡がる御留山Click!の森。下左は、富士稲荷とも呼ばれることがある藤稲荷社。下右は、鎌倉期に創建の瑠璃山薬王院。
◆写真中下は、おっかながり屋はニャンでも怖い1847年(弘化4)制作の芳藤『五拾三次之内 猫之怪』()と、1855年(安政2)制作の国芳『道外膝栗毛 木下川の返り』()。は、1854年(嘉永7)に制作された三代豊国『道中膝栗毛の内二川宿旅店』。
◆写真下:生霊といえば、五郎の枕辺に現れる十郎の生霊が有名で、曾我兄弟の仇討芝居『矢の根』あるいは『夜討曾我狩場曙(ようちそが・かりばのあけぼの)』だ。は、『夜討曾我狩場曙』で3代目・市川左団次の十郎(左)と2代目・尾上松緑の五郎(右)。は、やはりニャンでもタヌキでもおっかながる、1886年(明治19)制作の三代国輝『本所七不思議之内 無燈蕎麦』()と同『本所七不思議之内 狸囃子』()。

落合地域を転々とする片岡鉄兵。

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 片岡鉄兵Click!の大正末から昭和初期に書かれた作品には、ときどき東京郊外の風景が描写されている。昭和期に入ってからの郊外風景は、落合地域をモデルにしている可能性が高い。たとえば、1928年(昭和3)の夏に朝日新聞へ連載され、翌年に入江たか子Click!主演で映画化されて大ヒットした『生ける人形』にも、何ヶ所かの郊外風景が登場する。1929年(昭和4)に平凡社から出版された、『新進傑作小説全集5巻/片岡鉄兵集』から引用してみよう。
  
 然し、いくら怒つて見ても、腹の底からさびしくなつて、どうにもならなかつた。彼はひとりおでん屋に入つて酒を飲んだりしたが、酔がまはらない。では――矢張り梨枝子の所へ帰るより他に仕方がない。計画は、一まづ家に落ちついてから、だ。/さぞ怒つてるだらうと思ひながら、夜おそく、郊外の家の戸をかるく遠慮ぶかくたゝいた。/「もし、もし……」/「どなた?」と、家の中から、梨枝子の鋭い声がした。/「僕」/「僕では分りません」/「瀬木だ!」/弱味を見せてはならないから、思ひ切つて怒鳴つた。
  
 片岡が落合地域へとやってくる以前、たとえば1923年(大正12)の『口笛吹いて』にも、東京近郊の風景が登場している。同全集から『口笛吹いて』を引用しよう。
  
 郊外の家である。一坪半ばかりの庭――庭と名ばかりの空地がある。/手水鉢のわきの、縁側に腰掛けながら、三木は日向ぼつこして居た。お時さんはと言ふと、彼女は、板塀のきはの大きな庭石の上に腰を据ゑて、編物をして居る。/さうした狭い庭の、さうした位置で、おそい春の日光をたのしんで居る二人である。二人の間は六尺と離れて居なかつた。だが、手水鉢をおほふ南天と椿の木の繁みにさへぎられて、お互ひの姿は、お互ひから隠れて見えなかつた。(以下略)
 肉付の好い、白い顔に、真紅なへらへらとした唇のついた女、一口に言へば、まんじゆしやげの花のやうな感じの女で、お時さんの美しさが、此の郊外の家の学生ばかりの朝夕を、どんなに美しく賑かにしたか。それに春の、新学期のはじめでもあつたので、彼らはめつたに学校にも出なかつた。(中略) お時さんが来て間もない或る日のこと、見田と三木とは、岡田とお時さんとを家に残して、銭湯に行つた。二人は湯に浸つても落ち着かなかつた。そして、言ひ合せたやうに、あわてゝ風呂から上つて、走るやうな足どりで家に帰つて来た。
  
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 この「学生下宿」の情景は、牛込区神楽町(現・新宿区神楽坂)あたりの風情のように思える。当時の感覚でいえば、牛込区神楽町あたりも繁華な東京市街地からは「郊外」のように見えていただろう。神楽坂が花街として賑わいだすのは、関東大震災Click!以降のことだ。片岡鉄兵が神楽町2丁目のアパート「神楽館」を引き払い、落合町葛ヶ谷15番地へ引っ越してくるのは、1926~1927年(大正15~昭和2)ごろだ。この地番は、道路を1本隔てた南側には目白文化村Click!の第二文化村が拡がっている敷地で、彼の家から北へは目白通りへと抜ける、傾斜のゆるいなだらかな右曲がり、すなわち東曲がりの上り坂が通っていた。
 もし、片岡鉄兵が1926年(大正15)の秋ごろに引っ越しているとすれば、彼は家の前にイーゼルを据え、目白通りへと向かうダラダラ坂を熱心に描く、汚らしい身なりの画家を目にしていただろう。『下落合風景』シリーズの「道」Click!と、「富永醫院」Click!の立体看板のある三間道路を描いていた佐伯祐三Click!だ。特に佐伯の「道」は、片岡鉄兵が住んでいた葛ヶ谷15番地の家の真ん前が描画ポイントになる。また、「富永醫院」と書かれた立体看板のある画面には、このとき片岡宅だった、あるいはあと少しで片岡宅となる生垣と敷地が描きこまれている。片岡は、この家に1930年(昭和5)ごろまで住んでいた。
 次に、落合地域で確認できる片岡鉄兵の住居は、第二文化村の中にあたる下落合4丁目1712番地(現・中落合4丁目)だ。1923年(大正12)に第二文化村が販売された当初から、1938年(昭和13)の「火保図」まで、同地番には片岡邸を確認することができる。ただし、第二文化村の宮本恒平アトリエClick!の西隣りに住んでいたのは、日本毛織株式会社(現・ニッケ)の元・日毛印南工場長(兵庫県加古川市)だった片岡元彌だ。片岡元彌は、関東大震災をきっかけに業績がふるわなくなった東京の工場を建て直すため、ちょうど第二文化村が売り出された直後に兵庫県から東京へと赴任していた。片岡元彌の出身地を勘案すれば、片岡鉄兵と彼とはなんらかの姻戚関係ではないかと思われる。
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 そして、第二文化村の片岡邸を南に走る三間道路の、少し北寄りにイーゼルをすえて西洋館が立ち並ぶ文化村とは反対側の、ふつうの日本家屋を描いていたのが、またしても「文化村前通り」Click!を制作した佐伯祐三だ。さらに、片岡邸から南西に30mほど歩き、益満邸のテニスコートの見える位置が、隣家の青柳辰代Click!にプレゼントした50号「テニス」Click!の描画ポイントでもある。第二文化村の同地番に、片岡鉄兵は1934年(昭和9)ごろまで住んでいた。おそらく、片岡元彌邸の1室に寄宿していたのではないかと思われる。特高Click!に検挙され、何度か拷問のすえに「転向」したあと、おそらく片岡元彌が身元引き受け人になって釈放されたのではなかろうか。
 つづいて、片岡鉄兵の住まいを確認できるのは、下落合を離れた西落合(旧・葛ヶ谷)エリアだ。1935年(昭和10)ごろには、西落合1丁目115番地に住んでいる。この住所は新青梅街道をはさんだ北側、少し前にご紹介した妙見山Click!の南東側山麓にあたる界隈だ。片岡宅は、北へと切れ込んだ谷戸の渓谷沿いにあり、谷底を流れていた落合分水Click!のすぐ近くだ。片岡は、いわゆる大衆小説に分類される作品の数々を、第二文化村の片岡邸と西落合のこの家で執筆していたものだろう。
 片岡鉄兵は、以前にも書いたけれど、いかにも「プロレタリア文学」というような、思想性むき出しの作品をあまり書いてはいない。ときに、特高に追われながら「コント」と題する小編の数々も執筆している。警官たちに追われ、菓子工場の天井裏にようやく隠れた活動家が、急にオシッコに行きたくなり、子ども向けの菓子の生産ライン上でもらすわけにもいかずオロオロする話とか、家賃不払いで下宿の親父から追いかけられている労働者が、バーの色鮮やかな美味いカクテルを飲みすぎてオエ~ッとなり、店内の床を七色に染めるオバカ話とか、思わずニヤニヤしてしまうシュールでおかしな短編も数多い。
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 当時の「プロレタリア文学」界から見れば、いつまでも「新感覚派」的な表現を引きずり、その作品には「プチブル意識」が抜けない、表現や思想性の限界を抱えたままの片岡鉄兵……というような論評が多かったのではないかと想像するのだが(事実、「風の中を漂う羽だ」などと揶揄されている)、今日の眼から見れば、直接的で思想臭くてつまらないプロレタリア文学があふれる中で、小説として少しは「まとも」に面白い作品を生みだしている片岡鉄兵は、むしろ新鮮な存在に思えてしまうのだ。

◆写真上:旧・下落合4丁目1712番地に建っていた、片岡元彌邸跡の現状。
◆写真中上上左は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる葛ヶ谷15番地。上右は、同住所の現状。は、1926年(大正15)ごろ制作の佐伯祐三『下落合風景』で「道」()と「富永醫院」()。いずれも、葛ヶ谷15番地の片岡宅前にイーゼルを据えている。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の葛ヶ谷15番地()と下落合4丁目1712番地()界隈の空中写真。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同地番。下左は、1941年(昭和16)作成の「淀橋区詳細図」にみる西落合1丁目115番地あたり。下右は、同地番の現状。
◆写真下は、第二文化村の宮本邸と片岡邸の敷地境界に残る当時の大谷石塀。下左は、1938年(昭和13)出版の片岡鉄兵『風の女王』(新潮社)。下右は、1943年(昭和18)の死去前年に「週刊毎日」に連載していた片岡鉄兵『清流』で、同誌4月25日号の最終回。

佐伯祐三をめぐる物語いろいろ。

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 少し前の記事で、佐伯祐三Click!の左1番の前歯が欠損していることについて記事Click!にした。この前歯の欠損は、北野中学の野球部時代Click!に起きている可能性がきわめて高いことがわかる。おそらく、佐伯の前歯左1番は中学時代に練習で痛め、金歯が入れられていた箇所と同一だと思われるのだ。
 そう証言しているのは、中学時代の1年後輩である永見七郎という方で、同じ野球部に所属しており、佐伯が練習する様子を間近で観察していた人物だ。永見によれば、佐伯は走塁のとき、しばしば足からではなく頭からベースにスライディングするため、歯にダメージを受けていた様子が伝えられている。1946年(昭和21)の『座右寶』9月号に掲載された、永見七郎「中学時代の佐伯祐三」から引用してみよう。
  
 守備もよく、眼が鋭く、判断が正確なのでスタートが早く、大抵の難球は凡球にして楽につかんだ。無口で、黙々とプレーしたが、時々、思ひ出したやうに金歯を見せてニヤリと笑つた。人のいゝ微笑だつた。/しかし、彼はその頃から内に火をもつてゐた。塁に出ると、痛快な盗塁を敢行した。彼は手からすべり込む癖があつて、一二度歯をいためたが、それでも止めなかつた。先輩が心配して/『危いから足からすべれ。』/と言つても/『手の方がやり易い。』/と言つてきかなかつた。
  
 笑うと金歯が見えた位置と、のちに東京美術学校時代に欠損していた前歯の位置とは、おそらく同一の箇所だろう。前歯を傷めたのは、ベースへ頭から突っこむことで、守備の選手のスパイクかなにかが当たったのではないか。
 東京美術学校へ入学後、笑うとのぞく佐伯の金歯についての記述は見かけない。おそらく、中学を卒業したあと、東京の川端学校時代か美校に入学したてのころ、金で補強した前歯左1番が抜けてしまったと思われるのだ。佐伯はその後、前歯を治療することなく欠損したまま、1928年(昭和3)8月16日に死去していると思われる。
 1957年(昭和32)2月に発行された『みづゑ』619号Click!は、全編にわたり「特集・佐伯祐三」の図版および記事で構成されている。数多くの作品画面とともに、岡本謙次郎や佐伯米子Click!小島善太郎Click!山尾薫明Click!などが佐伯の想い出や作品について寄稿している。また、アトリエに残る佐伯自筆のおもに『下落合風景』シリーズClick!に関する「制作メモ」Click!が初めて公開されたも、同誌上においてだった。
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 さて、『みづゑ』619号が発行されたとき、美術評論家の富山秀男は佐伯の文献や年譜の整理を、改めて詳しく行なっているとみられる。おそらく、佐伯の直接の肉親や友人たち、関連する施設や資料などを新たに取材し、できるだけ裏づけをとりながら、佐伯の生涯を改めてたどりなおしているのだろう。富山が作成した年譜は、のちに1980年代以降に朝日晃がまとめた年譜とは、いまだ結婚前後の年代に丸1年前後のズレが生じているのだが、当時としては正確にまとめられた年譜として通用したのではないか。佐伯祐三よりも自身が年下であるといい張るせいでw、年代を1~2年ずらして証言している佐伯米子が存命中であり、また間違いだらけの佐伯祐正Click!の証言が、いまだ流布されていた時代にもかかわらず、富山はかなり絞りこんだ書き方をしているからだ。
 富山秀男がまとめた年譜によれば、下落合661番地の佐伯アトリエ竣工は、1922年(大正11)7月と規定されている。これは、同号にも原稿を寄せている米子夫人に改めて取材し、竣工の「月」を規定したものか、あるいは周囲の友人たちに確認してまわったものかは不明だが、「7月」というタイムスタンプは非常にリアルな時期だ。実は、アトリエが完成したのは前年の1921年(大正10)7月だったのではないだろうか。
 1920年(大正9)秋に父親・佐伯祐哲を喪った佐伯が、その少なからぬ遺産を手に同年暮れになって山田新一へあてたハガキClick!の内容とも、また、翌1921年(大正10)4月にアトリエのカラーリングについて、曾宮一念Click!のアトリエを訪ねてきた佐伯夫妻のエピソードとも、さらに同年の暮れに大工が竣工祝いとして、中元ではなく歳暮にカンナClick!をとどけにきたという山田新一の証言とも、矛盾することなくピタリと一致する。富山秀男は年譜を作成するうえで、いまだ1年のズレ(米子夫人による恣意的なサバ読み)は否定していないものの、なんらかの確証を得て「7月」と規定している公算がきわめて高い。
 ちなみに、同号の佐伯米子の原稿「佐伯祐三のこと」でも、彼女は“1922年(大正11)”を強調しつつ、築地本願寺で結婚式を挙げたあと、つづいて下落合に「小さいアトリエ」を建てたと書いている。つまり、建設年や結婚時期の問題はともかく、同年(実は前年の1921年)のうちに、アトリエが完成したことを示唆している。もし、7月にアトリエが完成しているとすれば、1920年(大正9)の暮れに山田新一へハガキを出した直後、1921年(大正10)の早い時期から着工していたはずであり、ふたりはすでに下落合の借家Click!でいっしょに暮らし、ときどき工事の進捗を確認しながら、4月にそろって曾宮アトリエClick!のカラーリングを、建築中であるアトリエの参考にと室内まで見学している経緯とも矛盾しない。
佐伯アトリエ2.jpg 佐伯アトリエ3.jpg
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 これら一連のエピソードが、米子夫人の語る“1922年(大正11)”ではなく、前年の1921年(大正10)の出来事だったことが判明するのは、さまざまな研究者のフィールドワークや、資料類による“ウラ取り”が厳密化してからのことだ。ただし、曾宮一念は自身のアトリエが佐伯アトリエと同じ年に完成しているため、当初から「大正10年」の誤りだと規定しているし、また、山田新一も手もとに残された佐伯の書簡類から、佐伯アトリエの竣工は1921年(大正10)のうちだと早くから気づいていたにちがいない。年譜の「年」の誤記が修正されはじめるのは、1972年(昭和47)に米子夫人が死去したのち、だいぶたってからのことだ。
 さて、1980年(昭和55)にNHK特集で放送された、中島丈博Click!・脚本『襤褸と宝石』Click!は、実際の佐伯邸母屋やアトリエ内でロケーションが行なわれているため、映像資料としてもたいへん貴重なものだが、同ドラマで米子夫人を演じた三田佳子が着ているのは、すべて米子夫人が実際に着用していた着物らしい。柄は縞柄のものが目立ち、色のコントラストが比較的はっきりした模様が多かったように記憶しているので、落合地域でつくられた江戸小紋や江戸友禅染めClick!のような、しぶい作品ではなさそうだ。米子夫人は、はたしてどこの着物を好んだものだろうか? このテーマはちょっと面白いので、また機会があれば書いてみたい。
 そんな着物のひとつを着ていたのだろう、佐伯の死後、そろそろ画家として生きようと考えはじめていたと思われる佐伯米子Click!は、1929年(昭和4)1月15日から30日まで、1930年協会の里見勝蔵Click!川口軌外Click!とともに、病床の前田寛治Click!を見舞っている。ちなみに、同年の1930年協会第4回展では、米子夫人による「もうこれでおしまひでございます」の案内状Click!で知られる、佐伯の遺作展が開催されていた。
 前田寛治は、死去する前年1929年(昭和4)8月10日までノートに日記をつけているが、同年7月14日の日記を外山卯三郎『前田寛治研究』(建設社)Click!から引用してみよう。
  
 七月十四日 晴、暑
 大きな部屋に移つて絵を眺める。午後とうとう中央の直線的の波を遠方にやり、白浪を少くす。効果大いによし。/病気は入院中で最もよし。然しトラバイユは大いにつゝしんで過さぬやうにやらう。/真白き夜の薔薇、散らんとする極みまで/愛と智慧とをわが心に結ぶ、あはれこの花/夜、里見、米子さん、川口君、……話、やゝ疲労。
  
前田寛治.jpg 前田寛治「海」1929.jpg
 前田寛治と佐伯祐三をめぐる物語は、滞仏時代を除いてあまり記録されていないが、ふたりがともに相次いで夭折したからだろう。ふたりの間で交わされた会話は、今日的な視点からすれば美術論的にも美術史的にも、きわめて重要な意味をもってくると思われるのだが……。一時期、1926年(大正15)の秋から冬にかけ、つまり連作『下落合風景』の「制作メモ」と重なる時期に、前田は佐伯アトリエに寄宿していた時期があったようなので、傍らにいた米子夫人はふたりの議論ややり取りを聞いていたはずだ。しかし、彼女はその様子について、ほとんど証言を残してはいない。近くに住む曾宮一念が、かろうじて中村彝Click!が描いた『エロシェンコ氏の像』Click!の写真を見せながら、佐伯祐三へ語りかける前田寛治の姿をとらえている。

◆写真上:佐伯祐三アトリエ(解体前)を南側から。
◆写真中上下左は、歯を傷めない安全な走塁。w 1916年(大正5)の第2回中等学校野球大会全国大会の写真で、慶應義塾普通部vs豊橋中学校の決勝戦。この年の大阪地区予選に、佐伯は北野中学野球部の主将Click!として2回戦まで進み、宿命のライバルだった市岡中学に1対6で敗れている。下左は、めずらしい笑顔の佐伯祐三。
◆写真中下は、母屋の解体直前に撮影された佐伯邸のアトリエ+洋間。下左は、木下勝治郎アルバムよりフランスを旅行中の佐伯米子と彌智子Click!だが、疲れてグッタリしている右の男は佐伯だろうか。下右は、同アルバムから池で遊ぶ佐伯一家。
◆写真下は、外山卯三郎『前田寛治研究』(建設社)掲載の前田寛治。は、佐伯米子が病室を訪ねた1929年(昭和4)の夏に描いていた前田寛治『海』(鳥取県立博物館蔵)。同作は第10回帝展へ出品され、帝国美術院賞を受賞している。


先端マネキンガールたちのストライキ。

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 落合地域とはあまり関係ないけれど、先に美術モデルを派遣していた宮崎モデル紹介所Click!をご紹介したので、sigさんClick!からのご要望もありデパートへいわゆる“ファッションモデル”を派遣していた、マネキンガール紹介所の物語も書きとめておきたい。
 マネキンガールのビジネスは、1929年(昭和4)3月4日に丸の内の丸ビル内へ、米国帰りの山野千枝子によって設立された「日本マネキン倶楽部」が嚆矢とされる。その前年、彼女は上野公園で開かれた国産振興東京博覧会で、高島屋呉服店のプロデュースを担当しており、そこで初めて和装のマネキンガールを起用していた。その経験から、おそらく将来性のあるビジネスとして、翌年に日本マネキン倶楽部を創設したのだろう。
 ちなみに、同時期の三越Click!はファッションモデル兼イメージキャラクターとして、新派Click!女優の水谷八重子Click!たちを起用しており、いまだ専門職としてのマネキンガールは登場していない。本格的なファッションショーは、1927年(昭和2)9月21日に水谷八重子をモデルに開催された日本橋三越のものが日本初とされるが、この「三越染織逸品会」へ出品された作品の多くは、下落合の田島橋Click!北詰めにあった三越染物工場Click!で制作されたものだろう。
 日本マネキン倶楽部の結成から、その分裂さらに業務上の不手際による再分裂に関しては、その内部の様子や動向とともに1936年(昭和11)に人民社から出版された、高見順の私小説『故旧忘れ得べき』が詳しいけれど、体裁が小説なので人物たちの名前が少しずつ仮名になっている。ダダイズムとともに村山知義Click!なども紹介される本作は、登場人物のほとんどが東京帝大の出身者であり、日本マネキン倶楽部のマネキンガールたちの多くが、その夫人たちだった。ここは、まず当のマネキンガールだった女性自身の証言から聞いてみたい。1984年(昭和54)に時事通信社から出版された、丸山三四子『マネキン・ガール-詩人の妻の昭和史-』から引用してみよう。
  
 このマネキン・システムは、山野千枝子(略)がアメリカで得た知識を日本にもち帰ったものでした。銀座のそこここにネオンが輝きだしたのも、この昭和三年のことです。/そして四年三月四日、山野千枝子さんは「日本マネキン倶楽部」を創設されたのです。モデルと宣伝員を兼ねた女性の職業の誕生です。事務所は丸ビルでした。/この日本マネキン倶楽部で働くようになったのが、先に申しました駒井玲子さんです。(丸山)薫と同じ三高で過ごしたご主人の浅沼喜実さんは左翼活動をされており、そのため生活を支えなくてはならない立場だったのです。/たちまち駒井玲子さんは、マネキン・ガールの売れっ子として、新聞やグラフ雑誌にも働く姿が掲載されるようになったと聞いております。/ですが、日本マネキン倶楽部では、マネキン・ガールの収入を、マネージメント費として差し引いたために、ついにストライキをおこなうことになったのでした。(カッコ内引用者註)
  
 丸山三四子は詩人である丸山薫の連れ合いだが、彼女が所属したのは山野千枝子の日本マネキン倶楽部ではなく、分裂後に駒井玲子たちが設立した「東京マネキン倶楽部」のほうだ。山野千枝子が設定した「営業経費」が、米国のビジネスモデルをまねて相当に高かったと思われるのだが、ストライキを決行しても待遇は改善されず、結局、駒井玲子を中心にモデルの大半が独立して、ついに別のモデル事務所「東京マネキン倶楽部」を設立することになった。
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 丸山三四子がマネキンとして参加するのは、東京マネキン倶楽部の時代からだが、日本マネキン倶楽部が山野千枝子のワンマン経営だったのに対し、東京マネキン倶楽部は一種のユニオン形式を導入し、事業は所属モデルたちの経営委員会による合議制で進められた。当時の様子を、高見順『故旧忘れ得べき』(小学館版)から引用してみよう。ただし、体裁はいちおう小説なので駒井玲子は「駒沢麗子」、東京マネキン倶楽部は「Nマネキン・クラブ」とされている。
  
 マネキンがまだ珍しいものとされていた時分、マネキン倶楽部は日本にひとつしか無かったが、美容術を本職としていたその経営者があんまりあたまをはねすぎるというんで、マネキンがストライキをやった。当時新聞紙上に、物言わぬマネキン嬢が断然ものを言った云々(当時のマネキンはその名の示す如く、人間が人形のかわりをやるに過ぎないもので、口はきかず、ただしなしなと身体を動かすだけであった。)と好奇的に喧伝された事件は、読者の記憶に残っている事であろう。思えば思想的昂揚の頂上にあった当時だったからして、彼女等はその事務所の壁に、搾取反対等々のスローガンを肉太の字で墨くろぐろと書いた大きなビラを張りめぐらし、さながら工場労働者の争議そのままの風景を新聞紙上の写真に映し出していたことを読者は覚えているだろう。Nマネキン・クラブはとりもなおさず、この争議の結果、搾取者の手を離れ、自主的なクラブを作ろうというんで彼女らが創めたもので、争議委員長駒沢麗子がその儘クラブの経営委員長になった。
  
 このストライキが衆目を集めたため、日本じゅうでマネキン倶楽部ブームが起き、同様の商売があちこちで起業しているが、そんな過当競争の時代に入っても、東京マネキン倶楽部は駒井玲子たちのがんばりで存続しつづけた。それは、やたらに所属会員(マネキン)を増やさず、質のいいマネキンの少数精鋭で事業をつづけたからだろう。同倶楽部は、経営委員会で正会員20名および準会員20名と決められており、大きな催しでも最大40名の派遣を限度としていた。ただし、それ以上のマネキンがどうしても必要なイベントの場合は、舞台が素人の女性ではなく、新劇の女優たちに声をかけている。
 彼女たちの日給は10円(競争が激しくなると8円)なので、月給にするとゆうに200円を超えている。当時の百貨店は定休日がないため、丸々30日を働こうと思えば可能だった。日給10円のうち、2割の2円を事務所経費として倶楽部に納めるので手取りは8円なのだが、それでも25日以上働けば200円を超える。彼女たちは、当時の大卒初任給のゆうに3倍、一般の企業では管理職なみの給料を稼いでいたことになる。事務所へ納める2円は、銀座の部屋代や事務員の給与などの必要経費のほか、東京マネキン倶楽部の事業貯金として銀行に積み立てられた。
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 昭和初期、マネキンガールになるには、とり立てて資格など必要なかったが、その条件として当時のアサヒグラフは「マネキンになるには」という記事を載せている。前掲の丸山三四子『マネキン・ガール-詩人の妻の昭和史-』から、再び引用してみよう。
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 それ(アサヒグラフ)によりますと、マネキン・ガールの条件としては「先ずスラリとして丈け低からず、目鼻立ちの整ったと云えば、非常に六ツ敷く考えられますが、いわば容姿が美しければ美しい程いい訳です。言葉に地方訛があってはいけません。舞踊だとか茶の湯などの心得があれば尚申分ない訳です」とありますが、何よりも仕事熱心なのが第一なのは当然のことでした。/東京マネキン倶楽部は、とりたてて入会規則などありませんでした。それも当然でして、帝大出身のご主人をもつ既婚者が大半で、いわば仲間が寄り集まったというものだったからです。(カッコ内引用者註)
  
 ここで「地方訛」がいけないとあるのは、当初のマネキンたちは身体を動かしてポーズを決めるだけでよかったのだが、ほどなく広告文をしゃべることを要求されるようになったからだ。さらに時代が下ると、本来はモデルであるはずのマネキンが、販売部員を兼ねるような売り場環境になっていき、その売り上げの高低がマネキンガールの優劣を決める重要なファクターになっていく。高見順の前掲書から引用してみよう。
  
 マネキンは最初、もの言わぬ人形であったと先に書いたが、間もなくそれはペラペラと商品の広告をまくし立てねばならぬよう要求せられ、やがては宣伝だけでなく同時にその商品を売り捌く仕事も追加せられた。眉目形好いのは言うまでもなく、それに弁舌も爽やかでなくてはならぬが、それにもまして一層売上高の多いものほど、すぐれたマネキンと言われるようになった。この移り行きに関し、若しや諸君にして、ながくマネキンをやっている女に、この頃はどう? とでも尋ねる機会を持つならば、諸君はきっと次のような答えを得るに違いない。マネキンも随分堕落したもんねエ!
  
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 事業を順調にのばしていった東京マネキン倶楽部だが、駒井玲子がマネキンたちの積立て金に手をつけ横領したのがバレて、彼女は同倶楽部を除名になり追放された。それでもめげずに、駒井玲子は女性専用の人材派遣会社を設立し、銀座資生堂の美容部員の養成を手がけるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:戦前まで三越の大きな染物工場があった、田嶋橋の三越高田馬場マンション。
◆写真中上関東大震災Click!のあと、大正末から昭和初期にかけ続々と百貨店のリニューアルあるいは新設が進んだ。写真は銀座三越(上左)、神田伊勢丹(上右)、上野松坂屋(下左)。下右は、丸の内の丸ビル内に日本マネキン倶楽部を創設した山野千枝子。
◆写真中下:竣工したばかりの、新宿三越()と新宿伊勢丹()。
◆写真下上左は、丸山三四子『マネキン・ガール-詩人の妻の昭和史-』(時事通信社)。上右は、東京マネキン倶楽部を創設した駒井玲子。下左は、『故旧忘れ得べき』を書いた高見順。下右は、鎌倉の東慶寺にある高見順の墓。相変わらず線香のかわりにタバコが供えられていて、出かけたときには3人の女性が墓前で一服していた。

エスカルゴは夜明けの海を何度見たか。

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 長崎のアトリエ村Click!のひとつ、さくらヶ丘パルテノンClick!で暮らした画家に桐野江節雄(さだお)がいる。桐野江は大阪市の木野町出身で、佐伯祐三Click!と同じく赤松麟作Click!の画塾へ通って絵の勉強をしていた。佐伯とは27歳の年の差があり、東京美術学校へは一浪して1943年(昭和18)に入学している。佐伯たちとは、ちょうど3世代ほどあとの時代の画家だ。美術学校へ入学はしたものの、そろそろ戦況は「転進」や「玉砕」が目立ちはじめたころであり、桐野江も1945年(昭和20)1月に学徒出陣で陸軍の輜重兵学校へ配属され、同年8月15日の敗戦を迎えている。
 桐野江節雄は、1983年(昭和58)5月に豊島区教育委員会のインタビューをうけ、1987年(昭和62)に刊行された『長崎アトリエ村史料』に、戦時中のさくらヶ丘パルテノンの様子を伝える、貴重な証言を残している。当時の様子を、同史料から引用してみよう。
  
 空襲警報が出ると、(耳の聴こえない隣人夫婦に)B二九の時は両手を広げて見せ、戦闘機の時は両手をパタパタ動かして教えた。最初の頃の家賃は一五円であった。家からの仕送りは五〇円だった。アトリエは約一五畳と決まっていたが、部屋や押し入れの大きさなどは様ざまであった。/美術学校は予科一年、本科四年の五年間であった。桐野江さんが入居当時、長崎アトリエ村に美術学校生としては、四年生の石井精三さん、三年生の八幡健二、野田健郎、宮沢義郎、草野叡三、赤松克己、松下恵治さんたち、二年生の中村健一郎さん、予科生の桐野江、桜山春樹さんたちがいた。所帯を持っていたのは、菅沼五郎、峰孝、榑松正利、鈴木新夫さんたちと丸木位里・俊夫妻ぐらいであった。/差配の小林さんは大工で何処かで家を建てては、その余りの材料を持ってきて、次つぎと、アトリエを建てていった。初見さんに依頼されてそうしていたのだが、「こんないいかげんな家を建てて……」などと思っていたのに、まさかそのアトリエ村の差配をやらされるとは思いもよらないことだといっていた。(カッコ内引用者註)
  
 さくらヶ丘パルテノンのアトリエ住宅が、家を建設して余った材料で建てられていたのが面白い。戦前は新たな建材はもちろん、解体した家屋の部材や調度もたいせつに使われていた時代であり、素材さえよければめったに廃棄されることはなかった。ただし、あり合わせの建材にはちがいはないので、かなり無理な普請もあったのだろう。アトリエの規格は決まっていたものの、その他の部屋は、そのときに入手できた建材によってバラバラな設計だったようだ。それでも、さまざまな画家たちが長崎へ参集してきた。
 戦中戦後を通じて、もっとも苦労をしたのはやはり食べ物だったらしい。アルバイトをやめ作品の制作に集中すると、おカネが尽きて水だけですごす日々もあったようだ。
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 アトリエ村の連中はとにかく汚い格好をしていた。学徒動員の時世だったので、物のない時は交替で体に日の丸の旗を巻いて、帽子をかぶり飲ませる店に行った。当時は配給で物のない時期で、金を払っても、普通ではなかなか飲み食いができなかったが、そうすると無理して酒などを飲ませてくれた。(中略) アトリエ村には絵描き・学生たちが兵隊に取られて出ていった後に、焼け出された一般人が入っていて、ほとんどふさがっていた。しかし出入りがあって、おいおい絵描きが集まってきた。/同級生で、戦後アトリエ村に入居した小山宇司さんと二、三年ペンキ屋をした。主に煙突に字を書くことが作業であった。煙突一本で二人が一か月食えた。しかし仕事を捜すのが一苦労であった。また一年の内半年ぐらい北海道に絵を行って描いて炭坑で買ってもらったりした。当時炭坑は景気が非常に良かった。/質屋には一二年間通い詰めだった。アトリエ村近くにあった「かもした」に行った。そこは現在駐車場になっている。しまいには品物を持っていかないで金を借りた。また質草を友人に借りたりもした。稼いでは品物を取り戻し、困っては品物を入れることを一二年繰り返した。しかし決して品物を流さなかった。
  
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 桐野江節雄は、敗戦から10数年がすぎたころ、さくらヶ丘パルテノンのアトリエ付き住宅をそのまま購入し、以降、終の棲家となる江古田駅近くの練馬区小竹町にアトリエを構えて転居するまで、長崎アトリエ村に住みつづけている。
 今月、目白美術館Click!で開催された「桐野江節雄展」へ出かけてきた。花の静物画や肖像画、風景画とある中で、やはり子どものころから馴染みのあるせいか、海の夜明けを描いたシリーズ画に強く惹かれた。いずれも戦後に各地の海岸を描いた作品で、水平線に朝日が昇ってくるほんの1時間ほどが、制作の勝負を決める一瞬の間合いだ。
 のちにアトリエで筆を加えるにせよ、空と水と、昇る赤い太陽とその光の刹那を、すばやく瞬間的にとらえた画面は素直に美しい。この刹那の美は、晩年の菅野圭介Click!が筆や刷毛を横に走らせて手早く描いた、空と海、水平線と海岸線とにみるシンプルな、それでいて観賞者に光の複雑な「まぶしさ」や鮮やかな照映を感じさせる画面と、どこかで通底しているような感触をおぼえる。菅野圭介がそうだったように、桐野江節雄もまた海と光を“あびるほど”眺めつづけた時期があったのだろう。
 桐野江節雄は、日本初のキャンピングカーを製造し、オートキャンプを実践した人物としても有名だ。1,500ccの2トン積みオート三輪を改造し、荷台に2人分が寝泊まりできる「家」を造りつけ、1958年(昭和33)11月にクルマごと横浜港を出港している。エスカルゴ号と名づけられた車体の横には、日本語と英語、フランス語、ドイツ語の4か国語で「かたつむり絵筆をかついで旅に出る」と書かれていた。以降、1963年(昭和38)3月に帰国するまで、桐野江と助手の神保五生を乗せたエスカルゴ号は米国をはじめ、メキシコ、ヨーロッパ各国を放浪しつづけ、走行距離は約10万kmにもおよんだ。
 帰国後の1965年(昭和40)、そのオートキャンプによる旅の様子や経験をまとめた、『世界は俺の庭だ』が大門出版から刊行されている。ちょうど同じころ、河出書房新社から出版された小田実『何でも見てやろう』(1961年)とともに、当時の若者たちが胸をふくらませた、海外旅行のバイブル的な存在になった。
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 このあと、桐野江節雄は日本初のキャンピングクラブを設立し、理事長(のち会長へ変更)に就任している。2009年(平成21)9月15日に(社)日本オートキャンプ協会から発行された「オートキャンプ」の記事、「JAC40周年を支えた人々」から引用してみよう。
  
 海外旅行から3年後の1967年、桐野江氏は欧米でのキャンプ体験から日本にも今後自動車を利用したオートキャンプ旅行の普及を予測。放置しておいてはキャンプ場とマナー不足から混乱は必至と考えね快適なキャンプ場整備の促進と正しいキャンプマナーの普及・ルールの確立に取り組むことを決意した。/このため海外でのキャンプ体験やキャンプのノウハウを持つ長谷川純三・岡本昌光・萩原一郎・山崎英一の各氏らに呼びかけてキャンパー同士の親睦・交流・情報交換とオートキャンプの正しいマナー・ルールの確立等を目指し67年4月29日、日本オートキャンピングクラブ(NACC)を設立し、理事長(後に会長に変更)に就任した。わが国初のキャンピングクラブの誕生である。
  
 桐野江には、「見て描き屋の桐野江」というショルダーが画家の間にはあったようだ。それは、いろいろなところへ出かけ、未知の旅をつづけながら絵を描くという憧憬に似た制作姿勢が、油彩画家をめざした当初からあったからだという。精力的に各地を移動しながら描くというスタイルは、晩年まで変わらなかった。
 桐野江節雄は、画家にしてはめずらしく激しいスポーツが好きだった。東京美術学校へ入学したあとは、好んでラグビーの試合に参加している。よく教授たちから咎められなかったと思うのだが、戦争の末期でもあり、学内の状況もかなり混乱していたせいだろうか? 美術家も音楽家、工芸家も、指先が“いのち”であり“すべて”なので激しいスポーツはご法度だ。少しでも指先を自由に動かせなくなれば、それを境に創作・演奏生命を断たれる場合も少なくない。東京藝大の体育で行われる、身体を柔らかく動かすだけの「ブラブラ体操」が象徴的なように、手足に負荷をかけず危険をともなわない運動が主体だ。しかし、桐野江の動きまわりたい衝動は、それでは満足できなかったのだろう。
オランダのエスカルゴ号.jpg 桐野江節雄「世界は俺の庭だ」1965.jpg
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 戦後のエスカルゴ号による地球的な規模の冒険も、おそらく彼のあちこち動きまわりたい衝動に起因しているように思われる。エスカルゴ号がアメリカ大陸の、あるいはヨーロッパの海岸線を走っているとき、桐野江節雄はいくたび水平線に昇る朝日を見たのだろうか。彼の日の出を描いた画面は、その場限りの、1時間ほどの刹那的な夜明けではなく、世界各地で見た暁(あかつき)が重なり合った、過去の眼差しを含んだ重層的な夜明けなのかもしれない。

◆写真上:椎名町駅の北側、長崎2丁目界隈に残るさくらヶ丘パルテノンの面影。
◆写真中上は、目白美術館の「桐野江節雄展」案内状で、同館収蔵の東京湾を描いた桐野江節雄『港の朝』。は、1951年(昭和26)制作の桐野江節雄『自画像』。
◆写真中下は、夜明けシリーズの典型作で桐野江節雄『九十九里浜の朝』。は、めずらしく夕暮れを描いた『入り江の日の入り』。(いずれも同館収蔵)
◆写真下上左は、2009年9月15日発行の「オートキャンプ」に掲載されたオランダのエスカルゴ号。上右は、1965年(昭和40)に出版された桐野江節雄・神保五生共著『世界は俺の庭だ』(大門出版)。下左は、桐野江節雄『川奈の朝』(同館収蔵)。下右は、1986年(昭和61)12月1日発行の「美の散策」掲載された小竹町アトリエの桐野江節雄。

「ハチキレさうに肥えた子供」は健康的か?

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 以前より、住宅改良会Click!による住まいの雑誌『住宅』Click!をご紹介してきた。大正期の後半から昭和初期にかけての同誌は、西洋館を中心とした単なる住宅紹介にとどまらず、洋風のライフスタイル全般を推奨する、文字どおりスタイル誌としての性格が強くなる。室内の装飾や家具調度、美術、工芸などはもちろん誌面には理想的な食生活や礼法といった、建築とはあまり関係のない領域にまでテーマがおよんでいる。
 洋風生活を送るうえで、明治以前の一般的な日本人の生活には見られなかった新しい暮らしのスタイルや生活習慣を、同誌は「ハウス・キーピング」(ないしは「ハウス・キーピーング」)と名づけて毎号記事を掲載している。その概念を、1922年(大正11)に発行された『住宅』4月号(第二文化村号)から引用してみよう。
  
 ハウスキーピーング
 このハウス・キーピングの一欄では、洋風の室内装飾、礼儀作法、料理献立、育児衛生等一般の家事家政に関する実際記事を掲載致します。之れは唯だに洋行する人や欧米人と接触する機会の多い交際界の人々や又は洋風生活にとつて必要な丈でなく、彼の長を採り我が短を補ふて生活を改善せんとする一般の家庭にも愛読さる可き性質を持つてゐます。そして、記事が悉く机上の空論や理想でなく、実際に之れを施して大変に実益のある性質のものばかりで、而も本誌全体がさうである如く永久に生命のある事ばかりです。
  
 洋風住宅の普及や西洋風に暮らす生活の浸透が、当時の生活改善運動Click!と密接に結びついていたことをうかがわせる。もともと、便利な東京市街地をあえて離れ、郊外の田園地帯Click!に文化住宅を建てて生活するというスタイルそのものが、明治末からスタートする生活改善運動の影響を大きく受けたものだ。市街地の汚れた空気を避け、郊外の清廉な空気や環境のもとで健康を増進し、体力の向上と病気への耐性を向上させようというのが、当時の切実な社会テーマのひとつだったのだろう。
 『住宅』の同号には、高田豊子が書いた「お弁当代りの献立」という記事が掲載されており、子どもの食生活には徹底して洋食が推奨されている。「小学校に通ふ位の年若い少年少女が、お弁当を持つて学校へ行くことは、あまり体の発育上、感心すべきことではございません」ではじまる同記事は、21世紀の今日とはかなり異なる食生活観をしていたのがわかる。和食よりも洋食が推奨されるのは、おそらく同量でも効率的に高いカロリーが摂取できる点にあるのだろうが、それは「肥った子供」が理想的だとされる点でも、現代からみれば違和感をおぼえる内容となっている。同記事から引用してみよう。
  
 日本に長く住んでゐる或る西洋の婦人と、或る日電車で私が乗り合せました時に、丁度私共の前に、それは肥つた、私の眼からは、あまり肥り過ぎてゐはせぬかと思ふ位肥つた五六才の子供が〇(欠字)つて居りました。これを見た彼の西洋婦人が、そつと私に私語いて、「失礼だけれど、私は日本の子供で、充分に養はれて、充分に発育した子供を今日初めて見た。」と申して居りました。日本の家庭で三度の食卓に備えられる子供の食物が組織的でないのか、或は母親の無思慮のためか不注意のためか存じませんが、実際、町に遊んでゐる小供(ママ)の群の中にも、立派に装ふた母人につれられてゐる電車内の子供にも、ハチキレさうに肥えた充分な発育をしてゐるのは、少ないやうでございます。
  
 現在の目から見れば、やたら「肥った子供」はかえって不健康に思われ、食生活における親の管理が行き届いていない……という感触をおぼえるのだが、当時の高田豊子にいわせればまったくの正反対ということになる。これには、当時の日本人の食生活が、おしなべて偏った栄養の摂り方をしており、特に子どもの場合は発育に適した食生活ではなく、栄養バランスが悪い低カロリーの食事をしていたという事情にもよるのだろう。
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 その背景には、日本人の食生活に起因していると思われる疾病の蔓延という課題もあった。大正時代の中期から昭和初期にかけての1920年代、日本における結核Click!の発症率と死亡率は史上最悪Click!を記録している。死亡率でみると、男性は10万人あたり年間死亡者が約563人、女性の場合は10万人あたり年間死亡者が約376人という、惨憺たるありさまだった。ちなみに、当時の日本人口は大正末でちょうど6,000万人(男女ほぼ同数)だから、上記の死亡率統計を敷衍すると、年間に結核で死亡する男性は約17万人弱で女性は11万人強の、合計約28万人/年という膨大な人数になる。
 都市部と農村の差はあるだろうが、この人数はひとつの街が丸ごと消滅するに等しい数値だ。しかも、これは死亡者のみの数字であり、症状がそれほど深刻ではない軽度の結核患者は、その数倍の人数にのぼっただろう。結核の発症率Click!を少しでも低下させるためには、住環境の改善と食生活の根本的な変革が不可欠だと、真剣に検討されたにちがいない。そのような時代背景を前提に、高田豊子のレシピは考案されていると思われる。したがって、和食よりは洋食、ご飯よりはパンとバター、おみおつけよりは牛乳かスープを推奨しており、彼女が考案した「小学生のホームランチ」は、和食を目の敵にしたような構成なのだが、今日のわたしの目からすれば食物アレルギーの予備軍を大量に生みそうな食卓、あるいはハンバーガーを子どもに与えつづけるとどうなるか?……というような心配と、どこかでつながりそうな懸念をおぼえるレシピとなっている。
 しかも大正期の日本人は、乳製品を摂取しはじめてからわずか50年(2~3世代)ほどしかたっておらず、それらが消化器官へ与えるダメージや、長年にわたって形成されてきた消化酵素の課題、遺伝子の側面からの研究などがなされていなかった時代のことで、日本の調味料はおろか、ご飯や魚がほとんど存在しないレシピには異様な感じさえおぼえる。また、先述のようなアレルギー症状への配慮も、まったくなかった時代の献立だ。では、高田豊子が推奨する小学生の日々の食事を、以下にいくつかご紹介してみよう。
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 毎日、こんな食事を出されたら、わたしなら1週間で身体の調子がおかしくなり、皮膚にポツポツとアレルギー症状も表れて、パンや乳製品を見ただけで気持ちが悪くなるだろう。いや、3日ぐらいで膳ごと(テーブルごと)ひっくり返すかもしれない。(もっとも後片づけと作り直しは、わたしがやるのだけれどw) 高田豊子のレシピはそれ以前に、わたしの舌に合いそうな地域性を意識した、きちんとした料理がただのひとつも存在しない……という、初歩的な課題もありそうなのだが。
 今日から見れば伝統的な、あるいは地域性のある食材をもとにした和食をバランスよく摂れば、結核はまず発症しないということになるのだが、当時は日本の食生活(和食)全体が疾病を発症しやすいアンバランスなものばかりであり、カロリー摂取が絶対的に不足している……と認識されていたのだろう。結核菌はいまでも全国あちこちに存在するし、どこにでもいる代表的な病原菌のひとつで、多くの人々が保菌者のはずなのだが、戦後の食生活の改善で発症者が激減している。また、BCGワクチンの接種による免疫力の向上もあるのだろう。
 余談だけれど、わたしはツベルクリン反応が常に陰性で、ただの一度も陽性になったことがない。したがって、小中学生時代は毎年BCGを受けていたにもかかわらず、いまでも陰性で体内に結核菌が存在せず免疫が形成されていない。それでも結核を発症しないのは、体内に常駐していない菌が外部から取りこまれると、すぐに結核の免疫機能ではない別の方法で「皆殺し」にする体質によるもののようだ。このような、免疫が非存在にもかかわらず発症しにくい人は、食糧事情が改善された戦後からずっと増えつづけているようで、うちの子どもたちも同じような体質をしている。ただし、“異物”に対して徹底的に攻撃を加えるぶん、アレルギーを発症しやすいという相反するデメリットもあるようだ。
 つまり、わたしの場合はツベルクリン反応が常に陰性だからといって、毎年痛い思いをしながら気持ちの悪いBCGなど受ける必要はなかった……ということになる。しかも、激しい運動をしてはいけないとか、海やプールで泳いではいけないなどと、学校からうるさいことを言われていたが、そんな必要はまったくなかったということだ。もちろん、そのようなアドバイスはいっさい無視して、海や山で遊んでいたのだが……。
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 高田豊子と電車に乗った西洋婦人は、「充分に発育した子供を今日初めて見た」などといっているが、自身が一般の「西洋婦人」よりもかなり肥満していたのではなかろうか? だから、よけい日本の街中を歩くと目立つ存在であり、日ごろから日本人は栄養不足だというような観念を抱いており、そこへ電車の中でようやく出会った肥満児に“同類感”をおぼえて、ついそんなことを口走ってしまった……そんな気もするのだが。

◆写真上:大正期に建てられた洋風住宅にみる、典型的な食堂の様子。
◆写真中上は、1922年(大正11)にあめりか屋が建設した、大崎にある平澤家住宅の外観。下左は、同家住宅の応接室。下右は、大正期の洋風住宅の間取り見本。すでに居間と食堂が、現代住宅のように同一の空間になっている。
◆写真中下は、1922年(大正11)発行の『住宅』4月号(第二文化村号)に掲載された高田豊子「お弁当代りの献立」。は、グラビアに掲載された米国式住宅。
◆写真下:毎日こんな食事ばかりしていたら、ほどなく身体を壊しそうなメニュー。

金山平三と刑部人に響きあうもの。

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 刑部人Click!が、金山平三Click!による風景モチーフ選びの呪縛から“解放”されたのは、金山が死去した1964年(昭和39)以降のことだ。金山は、多くの人々が「美しい」と感じる名勝地や史的な旧蹟風景を描かなかった。それは、曾宮一念Click!が日々富士山を見あげる裾野に住みながら、富士をほとんど描かなかったのにも似ている。曾宮は、富士を描くことはことさら“売り絵”を制作するようで、自身の「商売」上「卑怯だ」と感じていたようだ。
 同じような感覚が金山平三にもあったらしく、いわゆる「名所絵」をほとんど描いてはいない。「名所絵」は、観光地の土産品と同様に注目され、あらかじめモチーフが備えた一般うけしそうな既存の規定“美”へ全面的に依存し、居間や書斎の装飾品として黙っていても売れるため、美への追究心が堕落する、あるいは美意識が怠惰に陥る、さらにはハナから“美”への探求勝負から逃げている……とでも感じていたものだろうか。ただし、金山は佐伯祐三Click!のように便所Click!の情景にまで美を見いだし、20号タブローのモチーフにしてしまうほど野放図ではなかった。
 刑部人は、金山平三の死後、堰を切ったように京都や奈良などの名所を描きはじめる。その様子を、1979年(昭和54)10月から11月にかけ栃木県立美術館で開催された、「刑部人展」の図録に掲載の、刑部人「私の絵のことなど」から引用してみよう。
  
 金山先生は「京都は描く所がないなあ、奈良はもっとないよ。」といって居た。そのせいか私は妻の実家が京都であり度々行くことはあったのだが殆ど写生の為には行ったことがなかったのである。が、妻のいとこの島津洋二氏に関西一円を度々同氏の運転する自動車で案内されることがあり、自分の目で見た奈良、京都のよさを写生することが多くなった。今は少なくなったが斑鳩の法起寺の塔が見えて前景に桃の花、菜の花畑のある風景や三輪山の続きの岡の桃畑に登ると畝傍、耳成、天香久山の大和三山が遠く見えるなど、万葉の歌を思わす風景が随所に見られこれは又これで私を感動させた。
  
 金山平三は根っからの画家であり、その“美”を追求する姿勢には非常にシビアで、決して妥協しない厳しいものがあった。刑部人は、金山とともに制作していた時期、その強烈な個性や制作姿勢とともに、少なからず影響を受けたのだろう。むしろ、その影響が強烈であるがゆえに、その時期は画面さえ金山の表現に近似しているとも指摘されている。しかし、刑部人には画家としての眼ざしと、もうひとつ物語や詩歌を愛でる文学の眼ざし、換言すればいわゆる“詩情”や“歌情”が制作意欲と同等にあふれ出ていたのではないか。
 刑部人の文学好きは、中学時代にまでさかのぼる。絵は小学3年生のとき、川端龍子の通信描画教室「スケッチ倶楽部」を受けはじめたころから好きだったのだろうが、府立一中Click!時代には4人の仲間たちと文芸サークルのような集まりを持ち、廻覧小説を書くなどして文学の魅力に触れている。この時代に、刑部人はさまざまな小説や詩歌を吸収し、文学的な素養を身につけたのだろう。仲間4人のひとりには、のちに小説家になる高見順Click!がいた。そのときの様子を、高見順『混濁の浪―わが一高時代』(構想社版)から引用してみよう。なお、文中の美術学校へ進学する「草壁」とは、刑部人のことだ。
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 依然四人は強烈な芸術的昂奮に酔い痴れながら同じように歩いていった。やがて私達は小説めいたものを書き出した。その頃から「芸術家になる」ということが私達の胸が轟く程の誇りとして感ぜられるようになってきた。/「あゝ、いかに輝かしい生活だ、幸福な生き方だ、芸術家!」/中学四年が終って四人は思い思いの学校に入ることになった。四人のうちの一人の古藤は突然K大学の医科に、坂元はS大学に這入った。私は少なからず驚いた。/欺かれた! そんな気もした。芸術をすてて彼等は走った。/裏切られた! 私は少なからず私の血を煮え立たした。/しかし、そういた小さな憤懣も、私の受けた高校の不合格という手ひどい打撃で脆くも打ち消されてしまって、私は中学五年生となった。そしてのこった一人の友、草壁が美術学校へ行くことにきめたときいた時の私の歓喜はどのようなものだったろう。私は草壁の肩をおさえながら鼻をつまらしてどもりどもり言った。「草壁! 君の決心を聞いてこんなうれしいことはない」
  
 刑部人はある風景美にとらえられると、その基層に眠る物語が気になり、想像し、夢想しないではいられなかったのではないか。あるいは、散文にしろ詩歌にしろ、物語が重層的に眠る史的な(あるいは詩的な)風景を、自身の絵画と文学の両面を備えた眼ざしですくいとり、ことさら表現してみたかったのではないだろうか。それが画面の“美”に対して、あまりにストイックな金山平三の亡きあと、その桎梏から解き放たれたように、奈良や京のいわゆる史的物語が横溢した「名所」へと、刑部人を向かわせたモチベーションではなかったか。
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 もうひとつ、めったに画家仲間を制作現場へ寄せつけなかった戦後の金山平三が、なぜ刑部人にだけは気を許し、積極的に制作旅行へ誘っているのか?……というテーマもある。刑部人は和田英作門であり、金山平三と当時の文部省と結託した和田英作は、当然ながら帝展改組Click!をめぐり犬猿の仲だったはずだ。お互いのアトリエClick!が、下落合の近所同士Click!だったし、島津家Click!を通じて顔見知りだったから……といってしまえばそれまでだが、金山が刑部人にことさら惹かれたのは、その性格が自身とは正反対だったからではないだろうか。金山にはない性格を、刑部人は多く備えていたのかもしれない。
 金山平三は、強烈な“我”やクセのある個性をもち、気に入らない知り合いと同席すれば背中を見せてメシを食うほど好悪がハッキリした強い性格だが、刑部人は金山とは異なり、周囲の状況に対しては柔軟性のある対応や幅の広い考え方ができる性格だった。刑部人の性格について、先ごろ亡くなった美術史家の大島清次が的確な表現をしていると思われるので、1976年(昭和51)に日動出版から刊行された『刑部人画集』掲載の、「刑部人論」から引用してみよう。
  
 やむを得ないというよりも、刑部は本来どちらかというと状況に逆らわない流儀の持主で、その逆らわない流儀の中から自然に生れてくる自分の個性を大事にする術をすでに身につけていた。状況の中に素直に身をおきながら、もし個体としての自分の存在に生命が宿るものなら、その生命は当然その状況のなかであらたな根を張り芽を出して、その状況にふさわしい創造の花を咲かせる、そんな風に彼が悟っているようにも見受けられる。私はとくにそれを、彼の礼節正しい温厚篤実な日常の立居振舞のうちにつよく感じている。柔和な、ほとんど争うことを知らぬげな応対のうちに、いつとは知らず周囲の雰囲気が彼の存在を同化し、同化しつつまた雰囲気そのものが彼の存在を鮮やかに浮彫りにしていく。きわめて東洋的な倫理の世界であり、と同時に美学(エステティーティック)の世界でもある。あるいは、一種の東洋的な自然主義とそれはいいかえても差支えない。
  
 刑部人の率直で飾らないピュアな性格が、金山のまるでアンキロサウルスのような頑固で強靭で鮮烈な存在へ、沁みこむように馴染んでいった……そんな気が強くするのだ。
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 また、お互いが共鳴し響きあうような“なにか”がなければ、長期にわたり金山は晩年を刑部人とともにすごしたりはしなかっただろう。その共鳴しあった部分を、画業以外に想像してみるのも面白い。金山平三は、少年時代からとびきりの芝居好きだったが、刑部人Click!は中学時代からクラスメイトを通じて文学の世界に惹かれていた。芝居と文学とでは世界が異なるが、紡がれる物語が人間性を描く点は共通している。はたして、ふたりはともに絵を描きながら、旅先の夕べにどのような物語を語りあったものだろうか。

◆写真上:1955年(昭和30)10月に、おそらく旅先で撮影された制作中の刑部人。孫にあたる中島香菜様Click!から提供いただいた、「刑部人資料」の中の1ショット。
◆写真中上は、1929年(昭和4)に撮影された写生旅行中とみられる和田英作門の画家たち。和田英作の左隣りのが刑部人、列車の窓に立つ右から2番目が岡本太郎で、1972年(昭和47)に芸術新聞社から発行された「アートトップ」8号より。は、1936年(昭和11)7月に開かれた東京美術学校同窓会の刑部人。(「刑部人資料」より)
◆写真中下は、冒頭写真と同じく1955年(昭和30)10月に撮影された風景画を制作中の刑部人。は、1949年(昭和24)8月に軽井沢の岡本知一郎別荘で撮影された刑部人。ともに「刑部人資料」からで、真夏の背広姿が真面目な刑部人らしい。
◆写真下は、1928年(昭和3)に制作された刑部人『少女』。は、下落合のアトリエ縁側で撮られたとみられる1955年(昭和30)ごろの金山平三。(「刑部人資料」より)

第六天(大六天)には秘密がいっぱい。(上)

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 きょうの記事は、今年の「夏休みの宿題」なのだけれど、実際の夏休みがまったく取れなかったので記事にするのが遅れてしまった。実は、もうひとつ「夏休みの自由研究」があるのだが、こちらは原稿化さえできていないので、アップにはもう少しかかりそうだ。
  
 第六天(大六天)には、スリリングな秘密がいっぱいだ。本来は、縄文時代からつづくポリネシア系の古モンゴロイド由来と思われる、日本における天地創造の「七天神」神話なのだが、古代日本に伝承されてきた地主神のヤマト朝廷による政治的な利用と、朝鮮半島からの思想(仏教思想など)を普及するための便宜上の道具化(天魔など恐怖神への転化)、そして明治政府による徹底した仏教の排斥と、古来からつづく“日本の神殺し”Click!政策により、現代では第六天の存在は限りなく希薄になっている。
 西日本(特に近畿地方)では、徹底した日本神話の“神殺し”で第六天神は、ほとんど全滅に近いありさまなのだが、中部地方の東部から、関東地方、東北地方にはいまだ健在な社(やしろ)が多い。江戸東京にも社は多いが、下落合には諏訪谷(もともと出雲神タケミナカタの高田諏訪社領だと思われるが江戸期には薬王院持)の大六天と、六天坂Click!の第六天の2社、隣りの長崎地域を含めると椎名町の第六天Click!の3社が確認できる。また、上落合の月見岡八幡社境内にも江戸中期まで、末社として第六天の記述があるが、同社がもともと独立して上落合のどこかに奉られていたものか、あるいはは下落合の第六天を再勧請したものかは不明だ。だが、本来の創造神である女神カシコネ(惶根/<阿夜>訶志古泥)と男神オモダル(面足/淤母陀琉)が、2柱そろっていない社も多い。
 ときに明治以降、どちらか片方の神が外され、あたりさわりのないサルタヒコやタカミムスビ、オオクニヌシなどが代わりに奉られていたりする。また、カシコネとオモダルは健在だが、社名が変更されているところもある。これは、明治政府や天皇家に都合のいい「皇祖神」、あるいは8世紀に成立した新しい伊勢神道=「国家神道」(戦後用語)以外の、古来から伝わる日本神を抹殺する政治的な圧力や、信条弾圧をかわすために奉られた便宜的な“仮神”、ないしは表面上の“建前神”のケースも多い。
 明治政府による“神”の押しつけや抹殺に対し、どのような抵抗が行なわれたのか具体的に見ていこう。中部以東は、各地において明治政府に対する抵抗や拒否だらけなので、ここは「都」に近いナラや京の北側=丹波のケーススタディを引いてみたい。2007年(平成19)に小学館から出版された、小松崎文夫『沈黙する神』から引用してみよう。
  
 もう一つ、丹波の伊都伎神社(略)は、管見するに、維新時にあえて第六天二神に祭神を替えているのである。この新政府の宗教政策に逆らった祭神変更は注目される。/まさに、鬼の棲む里、大江山の丹波ならではの所業といえなくもない。/細見末雄著『丹波史を探る』(神戸新聞総合出版センター)の冒頭「大和政権への対抗と服属」にも、「おそろしい丹波」として、“鬼退治”に潜むその歴史的位置が記されているが、但馬・丹波・丹後の三丹地方は畿内に隣接した地でありながら、上代から大和朝廷に対抗した独自王国といわれる地である。古鏡・前期古墳文化、さらに『但馬国司文書』なるものにも記される「元伊勢神社」など、古来、反体制の風が吹いている。その風と、この伊都伎神社の第六天への祭神変更の記録は無関係とはいえまい。
  
諏訪谷大六天1.JPG 六天坂第六天1.JPG
 ナラや京の“膝元”にして、「鬼」や「土蜘蛛」などと規定されてしまった既存の「日本人」たち、すなわち古代日本のクニグニの人々をして、明治期においてさえこの徹底した抵抗ぶりなのだから、先住「日本人」が多く住み出雲と同様の、多彩なクニグニを形成していた原日本の一大勢力拠点である、東日本においてをや……なのだ。ちなみに、但馬・丹波・丹後の3地域は東側の女王ヌナカワのクニ、あるいは西側の出雲との連携下にあり、ヤマトに鋭く対抗していたと想定できる。
 記紀で描かれた天孫神話の世界を、そのままおさらい的になぞるならば、九州に“上陸”して瀬戸内海を海路東へ侵入し、浪速(ナミハヤ)で「日本」のクニグニに迎撃され大敗を喫して兄の「五瀬」を喪い、やむをえず迂回して女王ナグサトベが治める紀国を侵略、熊野からナラの地へと侵入した「神武」(千子二運あるいはもっと?遡上させた北九州「生まれ」とされる「応神」とのダブルイメージ説が有名だが)に象徴される外来のヤマト朝廷(とその前身)。その彼らから、「坂東夷」だの「蝦夷」などと一貫して蔑みのレッテルを貼られ、また、「日本」側からの本格的な反撃の第1フェーズである「武蔵国造の乱」Click!(関西史的な呼称)をはじめ、より強烈な事蹟である第2フェーズの「平将門」Click!を、出雲神オオクニヌシとともに奉った神田明神Click!から当の主柱を外し、およびでない“神”に入れ替えるという、江戸東京の「虎の尾」Click!を踏んでしまった明治政府に対して、もはや聞く耳を持たないClick!のは当然だろう。
 
 
 ちょっと余談だけれど、関東とその周辺では出雲神とされる諏訪社のタケミナカタ(建御名方)だが、紀国の女王ナグサトベ指揮のもとで「神武」を迎撃したとみられるミナカタ(南方)氏と、タケミナカタ(猛南方)との関連がとても気になる。また、ヤマト以前からの出雲国(根国)と紀国とのつながりも非常に興味を惹かれるテーマだ。
 関東史の視座からいえば、反撃の第3フェーズ以降、鎌倉幕府(南関東=旧・南武蔵勢力の末裔たち)・足利幕府(北関東=旧・上毛野勢力の末裔たち)・世良田=徳川幕府(北関東=同)と、日本列島に展開したクニグニの末裔たち=蔑称「坂東夷」が、一貫して侵入勢力から政治的ヘゲモニー奪還の胎動を繰り返す、まったく異なる日本史の様相が見えてくる。そして、そこには無理やり「国譲り」をさせられ、タケミナカタに象徴されるような、古代に多くの亡命者を生じたと思われる出雲の影Click!や軌跡が、いまだ関東各地には色濃く残っている。
 さて、このカシコネとオモダルとはなんなのだろうか? 日本神話は、国産み神であるイザナギとイザナミから紹介される場合が多いが、これも明治政府によるおもに義務教育課程上での選別、あるいは昭和期においては「日本史」の歪曲(関西史化)にともなう、日本神話の恣意的な操作にほかならない。イザナギとイザナミは第七天神であり、日本神話では天神の最後に位置する夫婦神だ。
 それ以前には、絶対的な第一天神であり両性具有と思われるクニノトコタチ(宇宙におけるビッグバンあるいはすべてのものが産まれる卵のような存在)、同じく第二天神のクニノサツチと第三天神のトヨクムヌ(ともに混沌とした複雑な物質世界を形成する神)、第四天神の女神スヒヂニとウヒヂニ(大地の素である砂と泥の創造神)、第五天神の女神オホトマペとオオトノヂ(海陸を形成する創造神)、そして第六天神の女神カシコネとオモダル(海陸に生き物や自然を形成する重要な自然神)へとつづく。
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 このあとに、ようやく第七天神の女神イザナミとイザナギが登場して、日本列島を形成することになるのだが、第六天神以前の神々を明治政府は日本人の信条記憶から、意図的に消し去り忘れさせようと試みている。第七天神だけ残したのは、列島生成の国産み神であるのと、アマテラスやスサノオに親神がいないと、新たな国教的神話の形成あるいは皇国史観Click!上は不都合だ……と考えたからだろう。
 もうひとつ、古来の日本神話には天神が7柱ある点にも深く留意したい。これは、縄文時代の日本から連綿とつづく星辰信仰Click!=北斗七星・北極星信仰の名残りだと思われ、のちに妙見神信仰Click!へと直結する流れであるとみられるからだ。また、後世に子ノ神(北の神)として奉られることになった、江戸東京の総鎮守である神田明神社Click!のオオクニヌシ(出雲神)との北斗習合も、非常に興味深い歴史的事象だ。
 さて、下落合に残る第六天社を見ていこう。六天坂の第六天は、主柱の記録がなく不明なのだが、カシコネあるいはオモダルの双方、あるいはどちらかが奉られていると思われる。諏訪谷の大六天は、オモダルとサルタヒコが奉られている。もちろん、サルタヒコは明治政府が1870年(明治3)に発布した大宣教令=神仏分離・廃仏毀釈、さらに1906(明治39)の神社合祀令の信条弾圧が加えられた際のいずれかに、大六天の社自体を破却されずに後世へ残すために便宜上の妥協策として、女神カシコネを外し“建て前神”のサルタヒコを勧請したものだろう。椎名町の第六天も、現代の奉神は不明ながらカシコネまたはオモダルの、どちらか1柱が残っている可能性が高い。
 第六天信仰は、朝鮮半島からの仏教思想を浸透させる政策が本格化してくると、日本における天地創造のきわめて重要な自然神にもかかわらず、天災や病魔をもたらす「第六天魔王」に貶(おとし)められ、ひたすら「祟りのある怖い神」とされてしまう。日本古来の自然神カシコネやオモダルには非常に迷惑な話だが、とある外来宗教を「未開の地」へ拡げ浸透させるには、いつの時代も既存の信仰や地主神に対しては徹底して容赦がない。
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 その蔑視思想は、「東夷」である「倭人」の女王フィミカ(ヒミコ)に「卑弥呼」などと、ことさら卑賤な文字をあてはめる視座と同質のものだ。「蛮族」である日本の神々や信仰心は、中華思想から、朝鮮の仏教思想から、さらにナラの朝廷からにしろ忌避するか早々に滅ぼしてリセット、あるいは「魔」へと転化すべき対象としてしか映らない。
                               <つづく>

◆写真上:諏訪谷の湧水源に面した、曾宮一念アトリエClick!跡前の大六天社。
◆写真中上は、坂名の由来となった六天坂の第六天社。は、諏訪谷の大六天社。
◆写真中下は、諏訪谷から大六天社のある谷戸の突き当りを見る。は、諏訪谷の宅地化にともない大正末から昭和初期に整備された大谷石による大六天社の擁壁。
◆写真下は、鳥居の貫にクサビがある鹿島鳥居を採用した諏訪谷の大六天社。

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