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第六天(大六天)には秘密がいっぱい。(下)

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六天坂第六天2.JPG

 下落合の第六天(大六天)には、月三講社Click!富士講Click!とまったく同様に講中が存在している。おもに江戸期に発達した講だと思われるのだが、天災や病魔などの厄除け講として浸透していったのではないかと思われる。その前提には、自然神としてのカシコネやオモダルがことさら強く意識されていたのではなく、「第六天魔王波旬」すなわち仏教における「天魔」への恐怖が念頭にあったケースが多いのだろう。日本全国に第六天信仰が拡がったのは、自然神カシコネとオモダルを怖れ敬うというよりも、「天魔」を奉り鎮め、社へ封じこめるという意図のほうが強かったように思われる。
 事実、江戸期に勧請された第六天社は、病魔・疫病をもたらすといわれた湧水源や、飲料水・生活水として用いられた小流れの淵に設置されるケースが多い。また、さまざまな天変地異に起因する、災害への鎮めとして勧請されたケースもあるのだろう。明治政府が、ことさら第六天社の抹殺にこだわったのは、イザナミとイザナギ以前の神々を国民の記憶から消し去りたい、あるいは薄れさせたいという企図やねらいもあったのだろうが、神仏分離や廃仏毀釈の際に仏教と深く結びついた「天魔波旬」の面影を、すなわち仏教的な信仰心を国民から消去したかったと考えられる。
 さて、下落合あるいは長崎に残る第六天(大六天)は、いつごろこの地域へ勧請されたものだろうか? 関東地方では、もっとも有名な勧請元の第六天として、埼玉県の武蔵第六天社(さいたま市岩槻)がある。関東地方に展開する第六天社は、その多くが武蔵第六天神社(だいろくてんじんしゃ)から分社が行なわれ、各地へ社殿や祠が建立されている。疫病や天災がつづき、既存の地主神である鎮守や氏神が無力・無効だとすれば、そのつど第六天が勧請され、あるいはより大規模な社殿へとリニューアルされ、奉りなおされて信仰されたと思われる。また、疫病や天災などの種類によっては、ひょっとすると勧請元の第六天社が(その神威による効果ごとに)個々異なっていたのかもしれない。
 明治期には多くの神々が入れ替えられたが、消されてしまった元神についてまで率直に触れている、1962年(昭和37)に神社本庁調査部から出版された『神社名鑑』Click!(東邦図書出版)から、さいたま市の武蔵大六天神社の解説を引用してみよう。
  
 祭神 面足命 惶根命 経津主命 例祭 七月一五日 本殿 寄棟造 一坪六 境内 二二〇坪余 (中略)氏子 六〇戸 崇敬者 七万人 由緒沿革 天明二年の創立と云う。武蔵国第六天の一つで、その昔より江戸界隈の人達や武蔵国の諸所から崇敬者が加わり毎年三月より五月の間に奉拝者で賑わう。明治初年村社に列す。
  
 1782年(天明2)の、きわめて新しい創建だが、これは毎年つづいていた農作物の不作、すなわち飢饉と無縁ではないように思われる。翌1783年(天明3)には、浅間山の大噴火にともない田畑の農作物が壊滅し、ついに大飢饉の状況を迎えることになる。また、明治初年の早々に、第六天社を村社へ格上げしているのも、明治政府に対する当てつけのように思える。おそらく、明治政府の宗教政策を先読みしていた地域の人々が、先手を打って社格を村内の最高位へ上げてしまったものだろう。近畿地方の三丹地方と同じく、似たような例は明治初期の関東各地で見られる現象だ。
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六天坂第六天3.JPG

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 下落合に残る第六天(大六天)の各社は、やはり天明年間の浅間山噴火による飢饉、あるいは同時代に流行した伝染病を鎮めるために勧請されたものだろうか? わたしには、実は文献的な根拠はまったくないのだが、もう少し古い時代に勧請された社のように思えてならない。なぜなら、落合地域は幕府直轄のいわゆる“天領”Click!であり、また代々の徳川将軍家による鷹狩り場Click!である「御留山」Click!や、「御留川」Click!として重要な神田上水Click!を抱える地域であるため、環境の異変や災害に対して名主や村民たちはかなり敏感に反応したと思われるからだ。いわば、将軍家や幕府から委任されている重要な地域であり、だからこそ神田明神Click!を勧請して奉るという、大江戸でもめずらしい総鎮守の分社化が行われる、稀有な土地柄であったとも考えられる。
 いまから300年以上も前、第六天社がもっとも“活躍”したと思われる時代に、元禄から宝永にかけてのカタストロフがある。1703年(元禄16)の11月23日、南関東一帯を元禄大地震が襲った。推定マグニチュードは8.2で、おもに関東沿岸の津波による死者は5,000人にものぼった。つづいて、4年後の1707年(宝永4)10月4日には、推定マグニチュード8.4の宝永大地震が発生し、関東地方を中心に2万人の死者が出ている。そして、とどめは同年11月23日に富士山が火を噴いた、宝永大噴火を迎えることになる。つまり、江戸期の元禄から宝永にかけては、天変地異つづきの時代だった。
 下落合あるいは長崎の第六天(大六天)は、はたして天明年間よりもはるかに早い、元禄から宝永年間に勧請されたものではないだろうか? なぜ、江戸時代のこの時期にこだわるのかといえば、富士山麓の御留山Click!である「御殿場」に展開する第六天の配置(気配)と、下落合・長崎地域における第六天の配置(気配)が、実によく似ているからだ。もちろん、御殿場に建立されている第六天は、富士山の宝永大噴火よりも古い時代からのものも存在するのだが、その古社自体も噴火という巨大な自然災害=天魔大王への結界として設けられたものではなかったか。
 文献が存在しないので、あくまでもわたしの“気配”にもとづく記述のみで恐縮なのだが、落合地域から常に西南西に見えている富士山の山麓が爆発して火を噴いたら、当時は驚天動地の事態だったにちがいない。ちなみに、富士の宝永噴火で江戸に降り積もった火山灰は、場所によってバラつきがあるようだが、数センチとも10cm近くともいわれており、田畑への被害も決して少なくはなかっただろう。
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長崎大六天1854.jpg

 以前にも少し書いたけれど、わたしはキャンプや化石採集をするために、子どものころ箱根・金時山の北側に拡がる山北町へはよく遊びに出かけた。その際、静岡側まで足をのばして、御殿場にも何度か立ち寄っている。山北町にも、もちろん第六天社は存在するのだが、富士山麓に拡がる御殿場地域は、古くは鎌倉幕府の将軍の狩り場であり、江戸時代には徳川家康がおそらく巻狩りを想定して、地元の芹澤氏に御殿の建設を命じたのだろう、いわゆる御留山(場)としての“御殿場”だった。そこには、徳川御殿や御殿場の本村を災害から守るように、第六天が底辺の長い西を向いた二等辺三角形のかたちで展開している。下落合・長崎に配置された第六天(大六天)もまた、同じように底辺の長い二等辺三角形のかたちをして、西を向いているのだ。
 御殿場のいちばん北側、富士山麓の須走下にある芝怒田(しばんた)の第六天は、江戸期以前から建立されているようでかなり歴史も古そうだが、いずれも富士山噴火の鎮めとして設置されたように見える。ただし、御殿場の巨大な第六天三角形は正確に富士山へは向いておらず、西を向いているもののやや南寄りへ口を開けた結界として、機能しているように見える。下落合・長崎地域にある相似形の第六天三角形もまた、西の方角を向いてはいるものの、特に富士山の方角を指してはいない。真西に対して、やや北寄りの方角へ口を開けたほぼ二等辺三角形を形成している。いずれにしても、なぜ“西”の方角へ向けて次々と結界を張る必要があったのか、いまひとつ明確に説明することができない。ひとつ落合地域で気づくことといえば、その方角の中心には葛ヶ谷(現・西落合)の妙見山Click!が設定されている……ということだろうか。
 もし、下落合や長崎の第六天(大六天)が、江戸期以前のより古い時代に勧請され奉られていたとするならば、江戸時代の天変地異や疫病の流行、すなわち仏教によって広められた「第六天魔王波旬」のふるまいを鎮め、封じこめるために建立されたものではなく、もっとなにか別の理由から、ことさら古代神話で語られてきた天神7柱のうち、第六天神であるカシコネとオモダルの夫婦神が選ばれて奉られた理由を探さなければならない。
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御殿場三角形.jpg
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 もうひとつ、下落合の大六天講の講中(メンバー)と、落合・長崎地域の富士講である月三講社Click!の講中とは、少なからず重複していたのではないだろうか。彼らは富士講による富士登山のあと、山麓にある御殿場の第六天社のいずれかへ、あえて参詣しているのではないか。換言すると、もし落合・長崎地域の第六天(大六天)社が、天明期以降の新しい時代に建立されているとすれば、御殿場に展開する第六天社の配置を、すでに彼らは知悉しており、落合・長崎地域へその結界配置(気配)を写して(移して)いるのではないだろうか?……、そんな気もどこかでしている。

◆写真上:旧・下落合3丁目の、六天坂下に現存する第六天社の祠。
◆写真中上は、個人邸の一画に奉られる六天坂の第六天社だが、本来はもう少し坂上の位置に境内があったようだ。は、同社の拝殿=本殿で鳥居は省略されている。シャッターを切ったら、なぜか殿前の部分に青白い光が写ってしまった。
◆写真中下は、1925年(大正14)に作成された「出前地図」Click!にみる諏訪谷の大六天社。は、1854年(嘉永7)作成の「御府内場末往還其外遠隔図書」に描かれた長崎の第六天社。(同図書をベースとしたエーピーピーカンパニー「江戸東京重ね地図」より)
◆写真下は、手水舎上にひるがえる大六天講の手ぬぐい。下左は、富士山麓の御殿場に展開する第六天社。下右は、落合・長崎地域に展開する第六天(大六天)社。


島峰徹もビックリの地下式横穴古墳群。

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東京医科歯科大学.JPG

 1934年(昭和9)4月、第二文化村Click!の下落合1705番地に住んでいた島峰徹Click!は、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)が移転したあとに建設中の、東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)の工事現場から不可解な連絡をもらっただろう。ひょっとすると、同校の設計・建設を指揮していた大蔵省営繕管財局工務部長の大熊喜邦Click!から、じかに電話をもらったかもしれない。女子高等師範の旧校舎を解体し、学校敷地の整地作業がようやく終わり、基礎工事がスタートする矢先のことだったと思われる。
 工事現場の異様な状況を聞いた校長の島峰徹は、「そりゃあなた、江戸時代に神田明神の甘酒茶屋が掘った、地下の麹室(こうじむろ)の一種でしょうな。歯っはっは」と、気楽に考えていたかもしれない。ところが、これが御茶ノ水から湯島一帯にかけて、膨大な古墳群の確認と発掘の端緒となるエピソードだった。実は、江戸期にも湯島聖堂(のち昌平坂学問所)を建設する際、地下から多くの洞穴が出現しているのだが、江戸初期の古い「麹室」跡だろうということで片づけられていた。1690年(元禄3)に林信篤が記した『武州昌平坂大成殿上梁』に見える、「覆虆裡而填洞穴」の箇所がそれだ。しかし、考古学者の中には当時の文献を読み、古墳の羨道あるいは玄室の発見だったのではないかと疑う人々もおり、同地域における新たな発見が待たれていたのだ。
 いや、このテーマは湯島聖堂建設のさらに前の時代、江戸幕府が神田山(現・駿河台)の土砂を崩して海辺の埋め立てに用い、御茶井(おちゃのい)に平川Click!つづきの外濠(現・神田川)を掘削して、神田明神を湯島台側へ移した時点から語られるべきものだろう。神田山の北麗から湯島台一帯が、この地下式横穴古墳群で覆われていた可能性が高いのだ。それは、その後につづく各地点の発掘成果にもよるのだが、神田明神下に数多く見世開きしていた甘酒茶屋の地下麹室でさえ、もともとは横穴古墳群の洞窟をいくつか活用し、それを改良・拡張して造られていたものではないか?……とさえ疑われるようになった。
 でも、1934年(昭和9)春の当時、島峰徹はそのような事例をいまだ知らず、とっさに江戸時代の遺構がまた出現したと直感しただろう。昭和初期の当時、宅地開発や建物の建て替えにともない、東京各地で地下に埋もれた江戸期の遺構(おもに水道管や屋敷跡)が見つかっていたからだ。また、東京あるいは関東地方は蛮族たる「坂東夷」の土地柄であり、巨大な古墳Click!はおろか大規模な古墳群など存在しない……という皇国史観Click!の“神話”が、いまだ信じられていた時代だ。ところが、工事現場を視察に訪れた島峰校長は、おそらく設計・建築責任者である大熊喜邦から説明を聞いて驚愕しただろう。同時に、校舎建設の工事計画がどれほど遅れるのか、頭を抱えたかもしれない。
 大熊喜邦は、基礎工事で出現した大量の横穴を、当初より江戸期の「麹室」とは考えていなかった。それは、すべての工事をストップし、綿密な測量調査をはじめたことからもうかがわれる。そして、大熊は1934年(昭和9)の『建築』8月号に、新たに発見された古墳群の詳しい断面図や平面図など、詳細な計測図を現場レポートとともに掲載している。また、大熊喜邦は文部省の専門学務局史蹟調査室へも連絡を入れたらしく、同室のメンバーがチームをつくり膨大な古墳群を調査することになった。チームには、のちに目白3丁目3534番地で日本史蹟研究会を主催することになる、同省の上田三平も含まれていた。上田は同研究所の名義で、1943年(昭和18)に詳細な報告書『東京御茶水に於て発見せる地下式横穴の研究』を発行することになる。余談だが、目白3丁目3534番地は現在の目白幼稚園の北側あたり、山手線沿いにふられた当時の地番だ。
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 では、上田三平の同報告書から、古墳が発見された概要を引用してみよう。
  
 (前略)その工事中の四月廿六日に根伐の底部に於て偶然不思議の洞穴を掘り当て、更に引き続いて他の場所に於てもトラックの車輪の陥落等によつて略同様の洞穴の存在せることを発見した。よつて現場監督員は、直ちに各々の洞穴の内部を仔細に点検し、その形状を測定したが、此等の洞穴は何れも予め十分な意図を以て設計され、その技術に於ても共通せる点があつて全く人工的なものであることを確め得たのである。/而してその一組と認められる形態は、地表から垂直に穿たれた深さ十二三尺の方形の孔を中心とし、その底部の周囲に於て数個の通路の如き穴を穿ち、それから矢車状に配置された四室若しくは五室に連続せることを発見したのである。その後も根伐工事の進捗に伴ひ、略同様の洞穴の集団が発見され益々その数を増加したが、この不思議な事実が遂に現場から文部省の専門学務局に伝へられ、鶴岡主任は之が調査を史蹟調査室の吾々に慫慂(しょうよう)されたのである。
  
 また、大熊喜邦の主導で計測された実測図面が、工事の現場事務所に次々と貼られていった様子も記録されている。大熊喜邦Click!は、もともと麹町の旗本家の出身であり、出現した遺構が江戸期のものでないことは直感的に理解していたかもしれない。その後、遺体を地面へじかに安置すると、富士山の火山灰である関東ローム層では酸性が強く、遺骨や副葬品が残りにくいという条件下で、かすかな遺骨の断片や副葬品が見つかるにおよび、ようやく大規模な古墳群であると確認されることになる。
 古墳の形状は、12~13尺(約3.6~4.0m)ほどのタテ穴を掘った底部から、四方へ4~5室の羨道と玄室を、まるで矢車か車輪のように掘っためずらしい形態をしており、古墳時代末期からナラ時代の最初期に多くみられる埋葬形態だと規定された。また、従来の東京女子高等師範学校のころより、急に地面にできた窪みに馬が足をとられたり、大雨が降ると敷地のあちこちに凹地ができていたことから、古墳は東京女子高等師範学校のキャンバス全体におよんでいると考えられた。
  
 而してその各々の横穴玄室の大きさは多少異る処はあるが何れも相似形を呈し、所謂羽子状を為せる点は殆ど同一といつてもよい。即ち羨門の内壁に沿ふて測定せる幅約七尺乃至九尺、奥壁の幅約十尺乃至十五尺、奥行約十五尺あり、室内の高さは側壁に於て約三尺乃至三尺五寸中央に於ける高さ約四尺余である。即ち室内の高さの比較的低い点も注意せねばならぬ。入口の幅は二尺に充たず高さ約二尺五寸とは甚だ狭隘なものである。然かも玄室に於ても高さ四尺位に過ぎず、加ふるにその室内の形状は略等しい点は、此等の土室は何の用に供せられたものであるかを暗示してゐるのである。
  
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 古墳時代の前・中期に発達した、大規模な前方後円墳Click!や円墳、帆立貝式古墳Click!などの時代から、人々の生活観や死生観に合理性が生まれ、葬儀形式や墳墓形態が大きく変化していった経緯を感じとれる古墳最末期の築造とみられる。羨門部はくびれ、幅が遺体を引きこめる程度のわずか60cm余で高さが約80cm弱しかなく、玄室は奥ゆきと奥壁が約4.5m前後、高さが約1.2m余で、明らかに埋葬施設の様相を呈しているのがわかる。同じ1934年(昭和9)の10月になると、今度は大塚古墳Click!近くの小日向台町1丁目に建っていた杉浦家の庭からも同様の横穴が発見され、副葬品として鉄鏃や鉄片、土器などが出土し、改めてこの奇妙な形態の地下式横穴群が古墳であることが確認された。
 地下式横穴古墳群は、東京高等歯科医学校の校舎ひとつぶんの工事現場から、なんと40基もの羨道と玄室が発見されている。さらに、その周辺域にも拡がりを見せており、聖橋筋の道路をはさんだ湯島聖堂側の江戸期に行われた普請で見つかった地下洞穴も、同様の古墳群だったことが推定された。また、当時はすでに多様な建築や住宅の下に埋もれてしまった、同学校の西側や北側、そして掘削されて現存しない南側の神田川、すなわち神田山の北斜面にも同様に展開していただろうと推測されている。
 現在では、同じような地下式横穴古墳群は全国各地で発見されており、見つかると同時に古墳認定がなされているけれど、当時はいまだ発掘事例も少なく、江戸期の麹室だとする学者との論争に、文部省の調査・発掘チームは忙殺されることになった。しかし、福井県敦賀郡の沓見地域で、当時は「丸山古墳」と呼ばれていた墳丘の斜面から、地下式横穴古墳がまとめて発見(現在では30基を超えているようだ)されるにおよび、改めて発見場所である東京高等歯科医学校の敷地を中心に、大規模な古墳群の存在が認知されている。
 しかし、同横穴古墳群の報告書が発行されたのは、1943年(昭和18)という太平洋戦争のまっ最中であって、しかも軍国主義による「神国ニッポン」=皇国史観の徹底化がなされているさなかでもあり、明治政府以来の朝鮮半島ひいては中国から拝借した非科学的な「東夷蛮族」史観が活きていたせいか、関東地方で続々と発見される大規模な古墳群は黙殺され、名称さえ付加されていない。「坂東夷」などと祖先が呼ばれてしまっているわたしは、江戸東京地方はおろか、広大な関東平野に拡がる古墳時代全期を通じての膨大な大小古墳群は、おそらく近畿地方を量的にも規模でも同等か、あるいはそれを凌駕していると想定しているので、ぜひ上田三平が調査した同古墳群にも名前を付けたいのだが(名称を付加して規定しないとカウントされない)、代々地付きである大熊喜邦の洞察力と、上田三平の優れた研究成果や業績をそのまま踏まえ、「御茶ノ水地下式横穴古墳群」ではいかがだろうか?
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 余談だけれど、昨年まで群馬県(上毛野勢力圏)において発見された古墳数がついに1万基を超えたらしく、このまま進めば古墳数4位の福岡県や5位の京都府を抜き去る勢いだ。おそらく、空中考古学によるレーザー照射技術や地下探査技術などの発達にともない、今後は2位の千葉県(南武蔵勢力圏)や3位の鳥取県(出雲圏)に迫る日も近いのではないかと思われる。でも、ほとんどが早くから寺社や住宅街の下になってしまった江戸東京地方(南武蔵勢力圏)では、新たに発見される機会はこれまで以上に少なくなる一方だろうか?

◆写真上:御茶ノ水地下式横穴古墳群が発見された、現在の東京医科歯科大学の全景で、右手が湯島聖堂(昌平坂学問所)で手前が聖橋と御茶ノ水駅。江戸最初期には、手前から東京医科歯科大学あたりまでが、海浜埋め立てで崩された神田山の北斜面にあたる。
◆写真中上は、当時の東京高等歯科医学校の敷地図面で、斜線の校舎建設予定地から古墳群の一部40基が発見された。は、発掘現場を視察する調査団で立っている人物の左からふたりめが大熊喜邦。は、古墳1基の平断面図()と全体の平面図()。
◆写真中下:発掘中の羨道や玄室で、人物の大きさからそのサイズが想定できる。
◆写真下:同じく、発掘調査中の御茶ノ水地下式横穴古墳群の様子。は、人骨が発見された玄室。下右は、1943年(昭和18)に日本史蹟研究会から発行された上田三平の報告書『東京御茶水に於て発見せる地下式横穴の研究』の表紙。

和宮の身代りと目白の新倉家。(上)

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 1862年(文久2)に、14代将軍・徳川家茂のもとへ嫁入りした皇女和宮が実は替え玉だったという説は、これまで幾度となく歴史本やドキュメンタリーなどで取り上げられてきているが、肝心の替え玉だったことについて有吉佐和子のもとへ直接、家伝を披露しに訪れた証言者(とその証言内容)の信憑性について、詳しく研究・分析した資料をわたしは知らない。かんじんの“仮説”を形成する基盤の証言部分について、掘り下げられていないのはなぜだろう? 案外、「名主の子孫の証言」という大前提のみで、証言した人物の存在の可否や内容の信憑性が、ほとんど顧みられていないのが実に不思議だ。「夏休みの自由研究」テーマだった第2弾は、この和宮にまつわる証言について考察してみたい。
 なぜ、いまさらこのサイトで場ちがいな和宮などを取り上げるのか? それは、この証言者が下落合の西に隣接した「高田村」(現・目白)の出身であり、彼女はそこの「豪農名主」だった新倉家の末裔だと名のっているからだ。さっそく、1978年(昭和53)に講談社から出版された、有吉佐和子『和宮様御留』の巻末「あとがき」から引用してみよう。
  ▼
 幕末、高田村の名主であったという豪農新倉家の一婦人が、私のところへ訪ねておいでになったのは、もう何年前のことになるだろうか。
 「和宮様は私の家の蔵で縊死なすったのです。御身代りに立ったのは私の大伯母でした。増上寺のお墓に納っているのは和宮様ではありません。このことは、戦前は決して他家の人の耳に洩らしてはならないと戒められてきましたが、時代も変ったことですし、何より、私の家で亡くなったお方の御供養がしたいと思ってお話しました。板橋本陣で入れかわったのです。新倉家には、薩摩の藩士がよく出入りしていたようですが。宮様が死なれて以来、家運が傾いて、屋敷跡が現在は目白の学習院になっています」
  
 おそらく、1960年代後半から70年代の初めあたりだろうか、「高田村」の「豪農新倉家」の子孫が訪ねてきて語ったこの証言が、有吉佐和子の空想による小説つづきのフィクションでないとすれば、その証言内容には時代的な齟齬や誤りがみられる。
 まず、証言した女性は「高田村」の「名主」であった「新倉家」と名乗っているが、和宮がのべ15,000人ともいわれる嫁入り行列を従えて中山道を通り、大江戸(おえど)Click!へとやってきた幕末期の高田村に、「新倉」という姓の名主はいない。新倉家は代々、高田村の北隣り雑司ヶ谷村の名主であって、江戸時代末期の高田村には存在しなかった。幕末から明治初年にかけ、雑司ヶ谷村および高田村の名主・年寄・組頭の村方書上げを収録した、1951年(昭和26)に豊島区役所刊行の『豊島区史』から引用してみよう。
  
 雑司ヶ谷村
 名主 柳下三郎右衛門、戸張平次左衛門、新倉四郎右衛門
 年寄兼組頭 柳下安兵衛、長島文左衛門、後藤七郎右衛門、新倉勝五郎、大野甚兵衛、渡邊善五郎、今井小右衛門、秋本六郎右衛門
 高田村
 名主 島田半兵衛、大澤吉右衛門、醍醐惣左衛門
 年寄兼組頭 醍醐平右衛門、醍醐利兵衛
  
 これでも明らかなように、名主の新倉家は雑司ヶ谷村の出自であって高田村(下高田村)ではない。また、雑司ヶ谷村の筆頭名主も柳下家であって新倉家ではなかった。有吉佐和子の『和宮様御留』に登場した、娘を顔なじみだった幕臣の嫁(実は和宮の身代り)に急遽提供することになる名主「新倉覚左衛門」が、実在した人物である新倉四郎右衛門の小説上の仮名だったとすれば、「高田村の新倉覚左衛門」ではなく、「雑司ヶ谷村の新倉覚左衛門」としなければ誤りだ。
 たとえば、ここで有吉佐和子が小説を執筆するにあたり、周囲への影響を考慮して雑司ヶ谷村をあえて「高田村」に置き換えたか、あるいは高田村の名主である島田家、大澤家、さらに醍醐家のいずれか、つまり有吉佐和子のもとを訪れた証言者の素性に配慮して、名主の姓だけ隣り村の「新倉」姓を借用してきた可能性は、あえて否定できない。では、証言者の話はまるでデタラメなのだろうか? 実は、そうとは断言できない事実が、明治期になってから急浮上してくることになる。
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 時代が明治に移ると、雑司ヶ谷村の新倉家は急速に羽ぶりがよくなり家運の隆盛をみて、雑司ヶ谷村や高田村一帯の戸長に就任している。1878年(明治11)7月の太政官布告第17号(郡区町村編制法発布)をうけ、新倉四郎右衛門の子である新倉徳三郎は、一帯の戸長(のち村長)に任命されている。同時に、新倉家では雑司ヶ谷村ばかりでなく、隣りの高田村の土地(高田村高田)まで手に入れており、当時の土地台帳によれば現在の学習院キャンパス内の何ヶ所かにも、新倉家は土地を所有するにまでなっていた。つまり新倉家は明治期になると、雑司ヶ谷と高田の両村一帯にまたがる大地主に成長していたことになる。新倉徳三郎について、1919年(大正8)に高田村誌編纂所から出版された『高田村誌』Click!から引用してみよう。
  
 新倉徳三郎(戸長役場時代より勤続二十七ヶ年に及び)――明治三十八年六月柳下三郎右衛門氏就職勤務現今に至る。(中略) 又町村制施行以来二十幾ヶ年間村長の職に在りし新倉徳三郎氏に対する郡教育会の表彰ありたり。
  
 1889年(明治22)4月、東京府下で町村制が実施されると、高田村と雑司ヶ谷村、その他小石川西部などの周辺エリアが合併して新生「高田村」(現代からみれば、もっとも意識されやすい高田村のイメージ)が誕生する。5月に初代村長に就いたのは、戸長時代からそのままスライドした新倉徳三郎だった。つまり、幕末の旧・高田村の「名主」ではなく、新・高田村の有力者としての村長・新倉家が登場してくることになる。このとき、高田村役場の建設が村制移行に間にあわず、高田村高田若葉1443番地の新倉家屋敷内の1室が、とりあえず村役場のオフィスとして使われている。のちに建設される村役場も、新倉家の東側に近接している。では、新倉徳三郎について、今度は1933年(昭和8)に高田町教育会から出版された、『高田町史』Click!の「歴代の町村長」から引用してみよう。
  
 第一代 新倉徳三郎氏
 氏の家は、始祖四郎右衛門以来、系統の継続したる旧家で、江戸時代には、世々この地の名主を勤めた。徳三郎氏は、父祖の家を嗣ぎ、名主の任に当り、明治六年、区戸長制度の実施の際、高田雑司谷他四ヶ村の戸長に就任し、爾後十六年其の職に努めた。次で明治二十二年五月一日、村政施行の際、高田村々長の任に就き、自家の一室を村役場に提供して事務を執り、後ち役場庁舎及小学校々舎を新築して、範を近村に示した。斯く戸長時代より三十二年間、自治行政の任に当り、励精恪勤、克く其職責を尽くし、同三十八年五月退任した。其後は高田農商銀行を創立し、其の頭取に挙げられ、当町農商工業に貢献する所鮮からず。為人は温良誠実にして謙譲の徳ありし人、大正十二年五月八日病歿、年六十八。金乗院の瑩域に葬る、遺子は男三人、女三人あり、三男義雄家を嗣ぐ。
  
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学習院正門.JPG

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学習院空撮1933.jpg

 新倉家では、江戸期から父祖代々の名前が四郎右衛門であり、家督を継ぐと同名を名乗るようになっていたようだが、新倉徳三郎は新時代には合わない古臭い名前だと感じたものか、襲名はしなかったようだ。ここでは、新倉家を雑司ヶ谷村の名主と規定せず、「この地の名主」と抽象化しボカした表現にしている。ちなみに、「高田農商銀行を創立し、其の頭取」と書かれているが、同銀行の創立には参画したかもしれないが、取締役頭取に就任するのは村長退職後の、もう少しあとの時代だ。
 また、子どもが6人おり、1970年(昭和45)前後に有吉佐和子を訪ねてきた女性が実在するとすれば、この6人のうちのいずれかの娘、すなわち江戸期に雑司ヶ谷村の名主だった新倉四郎右衛門の曽孫にあたる女性だったと想定できる。それは、板橋宿で和宮の身代りになった四郎右衛門の娘を、祖父であったとみられる新倉徳三郎の姉、すなわち「大伯母」と表現していることからも明らかだ。
 ここで、最初の証言内容にもどってみよう。新倉家の出身である証言者の女性は、江戸期の雑司ヶ谷村における名主時代の新倉家と、明治期の隆盛をきわめた新・高田村における戸長から村長時代の新倉家とを、前後ごっちゃにして証言しているとすれば、どうやら話の辻褄が合ってくるのだ。また、新倉家の本家は雑司ヶ谷鬼子母神(きしもじん)の参道沿い、高田若葉1443番地にあったのだが、証言者の生まれた分家がのちの学習院キャンパス内、すなわち旧・高田村時代に買収していた、新倉家の土地(高田村高田)に屋敷をかまえて住んでいたとすれば、「家運が傾いて、屋敷跡が現在は目白の学習院になっています」といういい方も、あながちウソとはいい切れない。
 さらに、明治維新前後と思われる時期に、「薩摩の藩士がよく出入りしていた」というのも、この地域では非常にリアリティのある表現なのだ。なぜなら、高田村や雑司ヶ谷村は上落合村や下落合村と同様に徳川幕府の“天領”Click!が多く、幕末から明治にかけては村の湧水流沿い、あるいは河川沿いの水車小屋で、火薬の製造を委託されていたと思われるからだ。以前、幕末に起きた淀橋水車小屋の爆発事故Click!について記事に書いたけれど、明治維新の直後は薩長軍に必要な戊辰戦争用の、あるいは火薬工廠(東京砲兵工廠)が1871年(明治4)に竣工するまでの間、火薬の製造・調達で薩摩の(旧)藩士がこの界隈の名主屋敷に出入りしても、決して不自然ではない状況だったからだ。
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新倉家1926.jpg
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選挙人名簿1919.jpg

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高田村(町)役場跡.JPG

 事実、高田村の南東にあたる神田上水(現・神田川)沿い牛込矢来下にあった水車小屋で、幕末に火薬製造による爆発事故が起きている。有吉佐和子は、新倉家を「花火師」の家系として、火薬とのつながりをぼんやりと描いているが、もし名主の家に薩摩の(旧)藩士たちが出入りしていたとすれば、軍備には直結しない花火Click!用の火薬などではなく、幕末から徳川幕府の肝入りにより付近の水車小屋でつづけられていた、黒色火薬の製造・調達についての相談だとみるのが、当時の時代背景や状況からみて自然なのだ。
                                  <つづく>

◆写真上:鬼子母神の参道に近い、旧・高田村高田若葉1443番地の新倉家跡(左手)。
◆写真中上上左は、1978年(昭和53)出版の有吉佐和子『和宮様御留』(講談社)。上右は、新倉徳三郎が登場する1919年(大正8)に刊行された『高田村誌』の「行政一般」。は、1985年(昭和60)出版の鈴木尚『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』(東京大学出版会)に収録された芝増上寺の徳川家茂・和宮(静寛院)夫妻の墓。右が徳川家茂で左が和宮(静寛院)の墓所であり、背後には建設中の東京タワーが見えている。
◆写真中下は、明治期には新倉家の所有地が各所にあったとみられる学習院キャンパスの現状。は、1933年(昭和8)に撮影された学習院の空撮。目白通りを隔てた向かいには、旧・宮内省帝室林野局が買収した土地に目白警察署や高田町役場が見える。
◆写真下上左は、1926年(大正15)作成の「高田町住宅明細図」にみる高田若葉1443番地(地図では番地1445番地表記)の新倉本家。新倉徳三郎の三男である、新倉義雄の名前が採取されている。上右は、『高田村誌』(1919年)に掲載された選挙人名簿の新倉一族で×印は地主表記。は、鬼子母神参道沿いにあった高田村(町)役場跡の現状。

和宮の身代りと目白の新倉家。(下)

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豊坂稲荷1.JPG

 学習院が1908年(明治41)9月、四谷区尾張町から高田村高田(現・目白)へ移転を終えて開校したとき、同院のキャンパス南東部には、いまだ江戸期からつづく旧・高田村の稲荷社(八兵衛稲荷)の境内跡がクッキリと残っていただろう。稲荷社は学習院が開校する直前、1907年(明治40)にようやく高田村金久保沢Click!バッケ坂Click!=豊坂沿い、急坂の中途に遷座している。ただし、東京府知事による奉遷許可が下りたのは早く、学習院の高田村移転が表面化して早々の、1900年(明治33)のことだった。
 奉遷ののち、豊坂稲荷社と呼ばれるようになった同社の境内には、1907年(明治40)の遷座から間もない、1910年(明治43)7月と9月の年紀が刻まれた寄進の鳥居や石碑を、いまでも見ることができる。ちなみに、当時の豊坂稲荷社は目白停車場Click!の改札前に位置していて、目白駅が高田大通り(現・目白通り)に面する橋上駅化をしなければ、にぎやかな駅前の稲荷社になっていたかもしれない。
 余談だけれど、知人の話によれば宮崎燁子(宮崎白蓮)Click!の手記には、1924年(大正13)に初めて宮崎家を訪れた際、目白橋の下にあたる金久保沢の改札へ降りてから高田大通り(目白通り)へと上がる表現が見られるそうなので、目白駅が「1919年(大正8)に橋上駅化された」という旧・国鉄(現・JR)の公式記録は、やはりなにかのまちがいだろう。下落合で暮らした多くの人々の、1921年(大正10)以降の証言とともに、目白駅の橋上駅化は少なくとも関東大震災Click!以降のことではないか?
 また、地元の古老や有力者たち、あるいは敷地を譲りうけた旧・戸田家Click!の人々からでも聞いたのだろう、徳川義親Click!の証言によれば、1885年(明治18)に日本鉄道(私営)の目白停車場が設置されてからしばらくの間、駅周辺ではあえて「高田停車場」と呼ばれていたらしい。やはり、椿山も近い実際の目白地域(関口台)の地名(現・目白台の東側一帯)からは、駅があまりにも西へ離れすぎていたClick!ため、地元本来の地名をとって高田駅と呼ぶほうが自然だったのだ。
 さて、豊坂稲荷社には旧・高田村の名主だった島田家や大澤家、そして醍醐家、さらに旧・雑司ヶ谷村の名主だった新倉家などの末裔たちが、1961年(昭和36)7月に玉垣を建立した際の寄進名を見ることができる。学習院が高田村で開校する12年前、1896年(明治29)9月に当時の院長だった近衛篤麿Click!が、宮内省へ高田村への移転を上申し高田村の土地52,500坪の買収指令を出したときから、旧・高田村あるいは旧・雑司ヶ谷村の新倉家の不幸ははじまっていたのだろう。実際には、宮内省帝室林野局の所有地になった敷地を除いても、学習院の敷地は最終的に72,615坪にまでふくれあがった。
 これらの土地の多くは、江戸期からつづく高田村の名主の土地(農地)が多く含まれており、また明治期に旧・高田村の土地を精力的に買収していた新倉家の所有地もまた含まれていた。彼らは、宮内省の学習院あるいは帝室林野局からの要請であれば、イヤでも土地を手放さざるをえなかっただろう。地主の中には、最後まで土地を売りたがらず、宮内省による土地収用の強制執行を受けたケースもあったといわれている。
 1905年(明治38)に村長を退任した新倉徳三郎は、おそらく学習院へ多くの土地を売って得た資金をもとに、先の『高田町史』にも登場していた(株)高田農商銀行へ出資し大株主になったのだろう、1919年(大正8)現在では同銀行の取締役頭取に就任している。しかし、同銀行はほどなく買収の嵐にさらされて、高田地域を中心とする地元優先の経営をつづけられなくなっていった。高田農商銀行を乗っ取って経営権を握ったのは、またしても下落合575番地Click!堤康次郎Click!なのだ。1920年(大正9)に経営権を奪取した堤康次郎は、下落合に建設を予定していた目白文化村Click!事業や、武蔵野鉄道Click!の融資銀行として同銀行を活用しはじめている。そして、同銀行を堤グループの機関銀行へと徐々に営業内容を変更していった。
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豊坂稲荷2.JPG
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 さて、有吉佐和子のもとを訪れた新倉家の末裔を名乗る女性の、最初の証言へともどってみよう。これまでの記事を読まれた方は、ひょっとすると彼女は江戸期と明治期における新倉家のスタンス、あるいは明治以降の新倉家をめぐるさまざまなエピソードが、アタマの中でゴッチャになっていたのではないか?……ということに気づかれるだろう。和宮の時代の雑司ヶ谷村名主だった新倉家と、明治以降に高田村の戸長・村長だった全盛時代の新倉家の置かれた位置や環境が錯綜し、「和宮」に死なれたのと、「家運」が傾いたのと、屋敷の敷地が学習院に買収されたのとでは、時代的な齟齬が生じて因果関係がバラバラであることがおわかりいただけるかと思う。しかし、だからこそというべきだろうか、先祖や家系、家の歴史を語るときの伝承や記憶に、ままありがちな齟齬や脚色、勘ちがいであるがゆえに、証言者である女性の存在が有吉佐和子の創作ではなく、彼女の実在とともにその語る証言の信憑性が、逆に高いように感じてしまうのだ。
 有吉佐和子の『和宮様御留』は、和宮が京を出発したときからすでに替え玉であり、途中で身代わりの女性“フキ”が精神的な緊張から「発狂」してしまうため、やむをえず板橋宿でもう一度、別の替え玉の女性“宇田絵”とすり替える……というめまぐるしい展開だ。板橋宿で替え玉となるのが、小説中では「新倉覚左衛門」の左手首を失って嫁入りが困難な娘という設定になっている。この筋立てが、どこまでが事実でどこからが虚構かはとりあえず別にしても、千代田城へやって来た「和宮」が実は別人の替え玉ではないかという説は、有吉佐和子の小説以前からすでに薄々存在していた課題だ。
 それは、1958~60年(昭和33~35)にわたって東京大学が実施した、芝増上寺における徳川将軍墓の発掘調査・遺体検視がきっかけだった。将軍家墓所から発掘された和宮(静寛院)の遺体には、左手の手首から先がなかったのだ。京の橋本家にいたころの和宮は、幼いころに足の関節炎を患ったせいか歩行がやや不自由だったとされているが、両手はちゃんとそろっていたはずだ。同時に、発掘調査・遺体検視では足の骨格に病変を感じさせるような異常はなく、きわめて正常な両足だった。身長は143.4cmと非常に小柄で、32歳で死去したせいか棺には漆黒の毛髪がそのまま残っていた。
 また、夫であり21歳の若さで急死した徳川家茂の内棺からは、妻の和宮のものとされる髪(和宮の剃髪時)が発見されている。しかし、漆色の黒髪ではなく茶色がかった髪をしており、ふたつの髪束はまったく別人のものではないかという指摘がなされている。発掘調査に参加した東京大学理学部教授(人類学)の鈴木尚も、「果たして彼女の頭髪であろうか」と疑問形のまま記述を終えている。なぜ、和宮の剃髪時の髪と納棺されたときの髪が異なるのだろうか? もし、現代に行なわれた調査であれば、DNA鑑定や和宮の左手断面の解析などにより、さらに広い範囲の詳細な情報が判明していたと思うと残念だ。ちなみに、『和宮様御留』の「あとがき」では、和宮の棺から出た髪が茶髪で、家茂の棺から発見された髪束が黒と逆の記述になっている。
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 和宮が嫁した当時、大奥はどのような環境だったのだろうか? どこまでも「御所風」の風俗やしきたりを貫くという和宮側の要望は、大奥の女たちにことごとく無視されて退けられ、和宮に付随して京からやってきた宰相典侍の庭田嗣子が記録したように、すべてが「大奥風」で仕切られ営まれていた。特に和宮には姑にあたる、天璋院との確執は深刻なものだったろう。当時の状況を、有吉佐和子の『和宮様御留』から引用してみよう。
  
 当時の千代田城大奥には、公方様お附きの女中が百七十人、先代将軍家定の生母本寿院お附き女中が五十三人、当代家茂の生母実成院に二十三人、そして先代公方の御台所であった天璋院には八十人の御附女中がいたところへ、宮様は宰相典侍以下七十七名を率いて乗りこまれたのだから、全部で四百名を越す女の集団が、朝から夜の夜中まで、京方と江戸の御風違いで末は女嬬やお端下まで、揉めごとに明け暮れるという騒ぎであった。
  
 千代田城Click!で暮らす和宮(静寛院)を描いた肖像や、江戸で撮影されたとみられる彼女の写真には、左手首がとらえられていない。いずれも、左手が着衣の中へ隠れて見えなくなっている。だが、明治維新後の1869年(明治2)に京へともどり、1874年(明治7)に再度東京(とうけい)へ出てきて麻布で暮らすようになった和宮(静寛院)には、はたして左手首があったのだろうか? 明治以降に撮影された、洋装の和宮(静寛院)とされる写真が残っているが、あくまでも「伝」であって確実に本人かどうかは不明のままだ。
 新倉家の末裔を名乗る女性が有吉佐和子を訪ねたのは、すでに増上寺の徳川将軍墓が発掘調査されたあとだとみられるので、話題になった和宮(静寛院)の左手首欠損について、なんらかの伝承に言及しているのかもしれない。だが、当時の有吉佐和子は和宮というテーマそのものにあまり興味がなく、そのまま聞き流している可能性もありそうだ。
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 『和宮様御留』の中で、有吉佐和子は京で身代りになった娘“フキ”の体内に、「コンコンチキチン、コンチキチン」と祇園囃子のリズムを刻ませている。これは、和宮に化けさせられた哀れな“フキ”を際立たせる、また背後の京ギツネ(公家たち)をことさら象徴させている音色であり、リズム表現なのだろう。もし、仮に板橋宿で再び和宮が“新倉宇田絵”に入れ替わったとすれば、大奥で暮らす彼女の体内にはまちがいなく「ピーヒャラピーヒャラテケツクテンテン、ピーヒャラピーヒャラドンドコドン」と、大江戸の威勢のいい馬鹿囃子(ばかっぱやし)が、身体のどこかで絶え間なく鳴り響いていたかもしれない。

◆写真上:1961年(昭和36)に建立された豊坂稲荷(八兵衛稲荷)の玉垣に刻まれて並ぶ、旧・高田村と旧・雑司ヶ谷村の名主だった寄進者の姓。
◆写真中上は、遷座から間もない時期に建立された1910年(明治43)の年紀が刻まれた鳥居。は、玉垣の支柱にみる旧・名主たち(新・高田村の有力者たち)の姓。
◆写真中下は、1716年(正徳6)に下高田村(のち高田村)の名主・宇右衛門(姓不明)が幕府の巡検使に提出した「下高田村絵図」。下左は、千登世橋から眺めた学習院の森で稲荷は右手の丘上に建っていた。下右は、稲荷があったあたりを崖下から眺める。
◆写真下上左は、江戸で撮影されたとみられる和宮。扇を持っている右手は確認できるが、左手は袖中で見えない。上右は、同じく江戸で描かれた書き物をする和宮だが、やはり左手が見えない。は、1967年(昭和42)に出版された『増上寺 徳川将軍墓とその遺品遺体』(東京大学出版会)掲載の発掘された和宮の左手首の様子で、他の整然とした骨格に比べ明らかに納棺時から欠損していたらしいことがうかがえる。

『武蔵野』と『武蔵野夫人』のリアリティ。

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 「武蔵野」というワードは、昔から国木田独歩の『武蔵野』(1898年)がまずイメージされるようだけれど、わたしはこの作品にまったくピンとこない。短い作品なのですぐに読めるのだが、読んでは忘れ読んでは忘れを繰り返している。それほど、印象に残らない作品なのだ。もっとも、国木田がロシア貴族のイワン・ツルゲーネフばりの自然描写を模倣して、どこか「武蔵野臭」ではなく「ロシア臭」がするせいなのかもしれない。実際の武蔵野の趣きからは、乖離しているように感じてしまう。
 国木田独歩が生きていた時代、「武蔵野」というといまだ埼玉(北武蔵)や神奈川(南武蔵)を含めた、広い範囲が意識されていただろうか? 古代から、武蔵野の概念や範囲がどんどん小さくなり、ついには武蔵国=江戸東京と本来の何分の1かに“縮小”されるのは、あたかも中国地方全体あるいは四国地方にまで拡がりをみせ、広大だったと思われる「出雲」の概念が、出雲国(島根県の一部)にちぢめられて“集約”されてしまうのに似ている。
 『武蔵野』には、人物がほとんど登場しないところもまた、印象を薄めている要因だろうか。唯一、生きた人間が登場して会話をするのは、著者が武蔵境を訪れて掛茶屋の老婆と会話をするシーンだ。その点描の箇所以外、人間らしい人間がいっさい現れないのは、まるでロシアの原野を逍遥する、「余計者」で「無力」な貴族ツルゲーネフのようだ。
  
 今より三年前の夏のことであった。自分はある友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。/自分は友と顔見あわせて笑って、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑って、それもばかにしたような笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだね」といった。そこで自分は夏の郊外の散歩のどんなにおもしろいかを婆さんの耳にも解るように話してみたがむだであった。東京の人はのんきだという一語で消されてしまった。自分らは汗をふきふき、婆さんが剥いてくれる甜瓜を喰い、茶屋の横を流れる幅一尺ばかりの小さな溝で顔を洗いなどして、そこを立ち出でた。
  
 三崎町の停車場(飯田町駅)から武蔵境まで出かけ、桜橋へと歩き川沿いを上流の小金井方面へと抜けていく散策コースは、わたしが子どものころ親父に連れられて歩いたコースのまさにひとつなので、おそらく親父もまた国木田の『武蔵野』を意識していたのだろう。このほか、『武蔵野』には渋谷村や目黒村、大久保村、高田村(旧・雑司ヶ谷村:国木田は「早稲田の鬼子母神」と誤記している)などが登場するのだけれど、いずれも印象が薄い。武蔵野を古来より多くの人々が生き、暮らしてきた“そこにある”現実の土地としてではなく、著者の愛着や深いこだわりは感じるものの、どこか突き放した高みの眼差しから「武蔵野」を眺めては、高踏的に描写しているように思えてしまう。
 これに対し、大岡昇平が描く「武蔵野」Click!の印象はとても鮮烈だ。それは、『武蔵野夫人』(1950年)に登場する人物たちが織りなし綾なす、「戦争」や「殺人事件」、「恋愛」、「遺産横領」、「姦通」といった、きわめて人間臭さが横溢した展開の中へ、微動だにせずに横たわる小金井や国分寺、多摩湖Click!あたりの美しい自然描写が、ときに第三者(大岡)の目を通して、あるいは「勉」や「道子」の想いを借り、その眼差しに寄り添うかたちで描写されるせいだからだろうか。
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国木田独歩「武蔵野」1898.jpg
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 つまり、武蔵野の姿がさまざまな想いを抱えた人間の目に映じる姿(少なくとも小説上では)として、ある意味では“多面的・多角的”にとらえられている点が、国木田独歩の『武蔵野』とは本質的に異なる点だろう。著者の史的かつ地理学・地質学的な観察眼をはじめ、登場人物たちのめまぐるしく転移する立場や、クルクルと揺れ動く人々の想いの背景画=書割として、武蔵野の美しい自然が次々と効果的に描かれてゆく。特に、「勉」と「道子」が地名を聞いて立ちすくむ、恋ヶ窪の描写は秀逸だ。1950年(昭和25)に大日本雄弁会講談社から出版された、大岡正平『武蔵野夫人』から少し長いが引用してみよう。
  
 川はしかし自然に細くなつて、漸く底の泥を見せ始め、往還を一つ越えると、流域は細い水田となり、川は斜面の雑木林に密着して流れ、一條の小道がそれに沿つてゐた。/線路の土手へ登ると向う側には意外に広い窪地が横はり、水田が発達してゐた。右側を一つの支線の土手に限られた下は萱や葦の密生した湿地で、水が大きな池を湛へて溢れ、吸ひ込まれるやうに土管に向つて動いてゐた。これが水源であつた。/土手を斜めに切つた小径を降りて二人は池の傍に立つた。水田で稲の苗床をいぢつてゐた一人の中年の百姓は、明らかな疑惑と反感を見せて二人を見た。/「こゝはなんてところですか」と勉は訊いた。/「恋が窪さ」と相手はぶつきら棒に答へた。/道子の膝は力を失つた。その名は前に勉から聞いたことがある。「恋」とは宛字らしかつたが、伝説によればこゝは昔有名な鎌倉武士と傾城の伝説のあるところであり、傾城は西国に戦ひに行つた男を慕つてこの池に身を投げてゐる。(中略) 彼女はおびえたやうにあたりを見廻した。分れる二つの鉄路の土手によつて視野は囲はれてゐた。彼女は自分がこゝに、つまり恋に捉へられたと思つた。/見すぼらしい二両連結の電車が、支線の鉄路を傾いて曲つて行つた。その音は彼女を戦慄させた。
  
 わたしは、『武蔵野夫人』を高校時代に読んだのだが、大岡昇平は巻頭でレーモン・ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』(1924年)の一節を引用して、同作がフランスの伝統的な心理小説的手法で書かれていることをあらかじめ宣言している。そういう意味では、国木田はロシア文学から、大岡はフランス文学から影響を受けて作品を産みだしているわけだが、『武蔵野夫人』からは海外文学の臭みをまったく感じない。
 余談だけれど、わたしは当時、しばらくして東京創元社から出版された真紅の表紙で手ざわりもよく、パラフィン紙に包まれた美しい『ラディゲ全集』(全1巻)を入手しているが、「ドルジェル伯爵夫人」の時代設定があまりに現実ばなれして古風すぎ、また日本の環境からはかけ離れた情景だったのが災いしてか、ほとんど面白いとは感じなかったのを憶えている。でも、心理小説という文学史的な側面から見るなら、20歳で死んだラディゲの『ドルジェル伯』は20世紀に産まれた、「時代おくれ」ながら重要な作品のひとつなのだろう。
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 1992年(平成4)に刊行された『鉄道ピクトリアル』5月号には、『武蔵野夫人』に登場する情景を鉄道ファンの眼差しから分析・解説する、中川浩一「『武蔵野夫人』と西武鉄道」が掲載されている。それによれば、先の恋ヶ窪のシーンでは当時の西武鉄道が運営していた国分寺線と、多摩湖線とを混同していると指摘している。以下、同記事から引用してみよう。
  
 この支線は西武鉄道国分寺線であるのだが、池のほとりに広がる水田で苗代の作業をしていた中年の農民は、道子と勉を見とがめるそぶりの中で、質問に答えて、この土地の名は恋ヶ窪と告げたとき、道子は夫の眼をかすめて、従弟とつれだって歩く自分の行動が、実は恋なのだと悟って思わず身をふるわせる。/そのおりに、“見すぼらしい二両連結の電車が、支線の鉄路を傾いて曲って行った。その音は彼女を戦慄させた”と書かれるけれど、このあたりの描写は、国分寺線と多摩湖線を混同している。多摩湖線は、野川の流れとは無関係である。みすぼらしい2両連結であったのはその通りで、京王電気軌道23形ボギー車が原型のモハ101形に駿豆鉄道から購入したブリル・ラジアル式単台車装備のモハ21形を固定編成にしたゲテモノが走っていた。
  
 わたしには、野川の湧水源のひとつである恋ヶ窪の美しい情景や、主人公たちの急激な心の移ろいに気をとられ、あまり関心を惹かない記述箇所なのだけれど、鉄道ファンにとっては決して見すごせない鉄路の誤謬なのだろう。
 でも、文学を“文学的”な位置づけや表現でとらえるのではなく、まったく別の視点から作品を分析するのも、非常に面白い切り口だと思う。別に鉄道というテーマに限らず、地理学・地質学・民俗学・植物学などの側面から読みなおしてみるのも面白いだろう。それは、佐伯祐三Click!をはじめとする画家たちの作品を“美術的”な観点からのみとらえるのではなく、落合地域とその周辺で暮らしていた人々の記録Click!という切り口から眺めてみる、いつもわたしがここで試みているのとまったく同一の作業だからだ。
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 国木田独歩の『武蔵野』と大岡昇平の『武蔵野夫人』との間には、50年余にわたる時代の流れが横たわっている。わたしが子どものころ、実際に目にした『武蔵野夫人』の舞台は、大岡の時代からすでに20年前後の月日が経過していたが、国分寺崖線の下を東西に貫く「ハケの道」には、当時の面影を残す情景が随所に拡がっていた。しかし、国木田が目にしていた渋谷村や大久保村を、わたしはほとんど身近な情景としてイメージすることができない。そのような時代感覚から、国木田が描く『武蔵野』をどこまでも抽象的にしかとらえられず、ことさら読後の印象が薄まっているのかもしれない。

◆写真上:国分寺崖線の下の道、ハケ沿いにある瀟洒な門。
◆写真中上上左は、1898年(明治31)に東京民友社から出版された国木田独歩『武蔵野』。上右は、1909年(明治42)に諏訪社の裏から撮影された戸塚村諏訪の風景で、現在の山手線・高田馬場駅の東側である高田馬場1丁目あたりの様子。下左は、1950年(昭和25)に大日本雄弁会講談社が出版した大岡昇平『武蔵野夫人』(初版)。下右は、1976年(昭和51)に東京創元社から出版された『レーモン・ラディゲ全集』(全1巻)。
◆写真中下は、親父が撮影した1950年代と思われるハケ沿いにあったケヤキ林の農家。は、ともに1974年(昭和49)に高校生のわたしが撮影したハケの道沿いの風景。
◆写真下:1949年(昭和24)12月に国分寺駅で撮影された、西武鉄道の「モハ101」()と「モハ22」()。中川浩一「『武蔵野夫人』と西武鉄道」より。

佐伯米子をめぐる物語いろいろ。

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大谷作邸跡.JPG

 佐伯米子Click!は、その生涯をほとんど和装ですごしているが、それは佐伯祐三Click!との二度にわたる滞仏生活でも頑固に変わらなかった。そのため、当時のフランスでは見馴れない着物姿の佐伯米子は、さまざまな嫌がらせを受けたようだ。特に、パリの街中を走りまわるワルガキたちは、手を変え品を変えて和装の彼女をからかったり、イタズラをしたらしい。
 さて、きょうは佐伯米子の着ていた着物がテーマだ。いまや、「キモノ」は世界じゅうで知られるようになり、和装で世界の街角を歩いていても注目されはするだろうが、からかわれたりイタズラをされたりすることはほとんどないだろう。特に欧米では、それが非常に高価な衣装であることが知られているので、かえって周囲が気をつかい、汚れがつかないよう注意してくれるのかもしれない。だが、佐伯夫妻が渡欧した当時は、まったく事情がちがっていた。
 1980年(昭和55)9月7日に発行された読売新聞に、翌9月8日に放映されるNHKドラマ『襤褸と宝石』Click!(中島丈博Click!・脚本)で佐伯米子を演じる、三田佳子のインタビュー記事が掲載されている。その中で、佐伯米子が滞仏中に着ていた着物についてふれた箇所がある。同記事のインタビューから、三田の言葉を引用してみよう。
  
 パリのロケでは、ゴッホが住んだ宿、祐三が暮らしたモンマルトルのアパートと、いろいろ回りました。アパートはまだ残ってまして、人が住んでいるのを一時借り、壁紙なんか張り替えて佐伯夫妻の家として使ったんです。木造の四階、屋根裏部屋のようなところで、窓の外には屋根が並んでいてね。米子さんが着た着物を遺族の方が貸して下さったので、そのまま私が着ました。遺族の方に似ていると言われると、私なりに自信が持てて(中略) 米子さんという人は大変に新しい女性だったと思うの。祐三と一緒にパリに渡ったのが大正十二年。あの当時に、私は日本の女だ、と自信を持って着物しか着なかった。それでいて、頭にはヒモのハチ巻きをしたりするおしゃれな人だった。
  
 『襤褸と宝石』を観ると、1980年の当時、解体前の佐伯邸母屋Click!アトリエClick!の中で撮影が行われているのが、わたしとしてはかけがえのない貴重な情景であり資料だと感じるのだが、フランスのロケでも実際に佐伯夫妻のいた“現場”が、そのまま使われているのがわかる。余談だけれど、『襤褸と宝石』で撮影されたアトリエ内部にはいくつかの陳列ケースが置かれ、佐伯家の表札や佐伯のライフマスクClick!が展示されていたのがわかる。これらの展示品は現在、新宿歴史博物館に収蔵されている。
 さて、おそらく米子夫人の実家で保存され、三田佳子が『襤褸と宝石』の中で着ていた着物は、どの時代のものだろうか?……と、残された佐伯米子の写真類から探してみることにした。ドラマの中で、渡仏してからの三田佳子が多く着ていたのは、“やたら縞”とも“かつお縞”ともれる、鮮やかな縞柄の着物だ。ただ、着物好きな米子夫人のことだから、別に佐伯祐三とともに渡仏した時期に限らず、戦前戦後を通じてたくさんの着物を購入し、所有していただろう。だから、ちょうど渡仏した時期に確認できる着物の柄とは限らないが、和服は早々に棄てられないことを考えれば、ひょっとして……という期待感もあった。
 そして、着物姿の米子夫人の写真をあれこれ調べてみると、フランスロケで米子夫人役の三田佳子が着ている縞柄の着物は、米子夫人が1924年(大正13)9月にモレーを散策した際、独特なヘアバンド姿とともに着ていた着物とよく似ていることがわかる。“やたら縞”とも“かつお縞”ともつかない独特の縞柄で、おそらくのちに若干の仕立て直しが行われているのだろう、大正期の米子写真と三田佳子が着用している写真とでは、襟元に見える縞柄の位置がいくらか異なっている。米子夫人は縞柄が好みだったらしく、フランス各地で撮影された写真には、何種かの道行きとともに多彩な縞柄の着物がとらえられている。
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米子役・三田佳子1.jpg

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米子モレー192409.jpg

 着物姿の佐伯米子はふだん、おそらく尾張町(現・銀座)の大店(おおだな)あたりでつかわれていた、江戸期の商人言葉をベースにした、上品な(城)下町言葉Click!を話していたと思うのだが、知人ではなく初対面の人物と話すときには、どうやら別の言葉をつかっていたらしい。おそらく、身がまえて緊張しながら話すときには、何人かの証言にもあるように独特な“つくり声”で、意識的に下町言葉を消していたのではないかと思われるのだ。そのあたりの様子を、第2次渡仏で常に佐伯夫妻といっしょだった荻須高徳の証言を聞いてみたい。1988年(昭和63)に発行された『美術の窓』3月号に掲載の、荻須高徳「佐伯さんの思い出」から引用してみよう。
  
 さきにいったとおり、ゴッホの描いた農民と労働者の生活が大好きで、佐伯さん自身もラシャの労働者服を身につけていました。それは最近のマオ(毛)服に似ていて、首えりはごわごわするけれども、暖かいですからぼくらもならって労働者服を買いました。佐伯さんは政治や思想の話はしなかったけれども、シン底からの左翼びいき、労働者生活の好きな人でした。(中略) 佐伯さんの絵はそのころ日本でもすでにかなり売れていたし、第一、奥さんの米子夫人はブルジョワ娘のいく虎の門女学院(東京女学館)の出身で、お里は象牙を取引する大きい貿易商です。気だてのよい、大変な美人で、ぼくも好きな人でした。ところが佐伯という人はブルジョワ趣味が絶対にきらいで、米子さんが見知らぬ人と話すとき、ついお上品な言葉づかいがでてしまうと「オンちゃん、それはきざだよ」と苦情をいうのです。(中略) 日本人好みの、いわゆるフランス風のおしゃれと気どり、そんなものに対しては(佐伯は)それは毛ぎらいをしていました。(カッコ内引用者註)
  
 「お上品な言葉づかい」とは、どのようなしゃべり言葉だったのだろう? 佐伯は大阪、荻須は愛知なので、江戸東京方言を微妙に聞き分けられたとは思えないのだが、彼らが違和感をおぼえるほどの「お上品な言葉づかい」とは、文中にある東京女学館の女学校言葉、あるいは下落合に住むようになってから郷に入っては……と急いでマスターし、彼女が意識的につかうようにしていた新旧・乃手Click!あたりのしゃべり言葉だったものだろうか。このあたりの違和感は、やはり尾張町(銀座)出身の岸田劉生Click!が、乃手から彼がデザインした帯や作品を次々に買いにくる奥様方Click!に感じていた、「きざ」っぽさに通じるような感触をおぼえるのだ。劉生は気にさわると、乃手の客へ「雲虎」柄の帯をデザインしてはウサ晴らしをしていたらしい。
 わたしは出自のせいからか、(城)下町の商人言葉をベースとしたしゃべり言葉のほうが、品がよくて優しいと感じるのだが、乃手人からみれば優しいのではなく礼節が足りない……と映るのかもしれない。換言すれば、下町言葉がやわらかいのに対し、乃手言葉はかたくて無骨、ときにていねいを通りこして「きざ」と感じられる側面もありそうだ。下町言葉を話す武家は、山手や下町を問わず旗本や御家人を中心にごまんと存在したが、乃手弁を話す町人はほとんど皆無だったろう。おそらく、本来の佐伯米子のしゃべり言葉は、尾張町界隈で話されていた下町言葉が“母語”だったと思うのだが、「お上品な言葉づかい」はどうやらそれとは異なるように思える。
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 さて、下落合の散歩の途中で夫婦喧嘩をしたものの、そこいらの駄菓子屋で売っているアメ玉ですぐに機嫌がなおる、佐伯祐三のめずらしい姿をとらえた記録が残っている。証言しているのは、佐伯米子の姪にあたる銀座の実家にいた池田伸という人で、佐伯がフランスで死去したのち、下落合661番地で米子夫人が死去するまで生涯をいっしょに暮していたという人物だ。1988年(昭和63)発行の『美術の窓』3月号所収の、池田伸「妹と姪が語る“素顔”の米子」から引用してみよう。
  
 大正10年、まだ佐伯さんとの間に子供が生れていない頃、私は秀丸おじさん(佐伯の幼名)に可愛がられて、よく下落合のアトリエに遊びに行きました。/当時印象に残っていることは、秀丸おじさんと米子叔母と私とで、夕暮れに茜色に染まる田園風景の中で散歩をしている時、ふとした瞬間に秀丸おじさんは不機嫌になり、叔母との間の雰囲気がちょっと気まずくなったことがあるのです。/何も言わずに先を歩く秀丸おじさんに、叔母はとても気を使っていました。しばらくして、秀丸おじさんは駄菓子屋で黒飴を買うと、私にも袋に入った黒飴をくれて、歩きながら飴をなめているうちに機嫌が直りました。
  
 1921年(大正10)現在の下落合地域で、黒アメを売っていた佐伯の散歩コースにある駄菓子屋は、いったいどこにあったのか?……なんてことを調べはじめると、また何ヶ月も何年もかかかってしまいそうなので、よほど時間に余裕があってうんとヒマなときの、それはまた、別の物語……。
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 佐伯米子が下落合で死去するのは、1972年(昭和47)11月なのだが、わたしはそのわずか1年5ヶ月後に、初めて下落合へ足を踏み入れている。もちろん、下落合を徘徊する途中で母屋つきの佐伯アトリエも目にしているのだが、当然、中には入れなかった。米子夫人には、訊きたいことがゴマンとたまっているのだが(とりあえず駄菓子屋と贔屓の魚屋Click!の場所w)、おそらく初対面のときは「お上品な言葉づかい」で拒絶されるかもしれないけれど、日枝権現(銀座)と神田明神(日本橋)とで氏神は異なるが、ご近所同士の下町言葉を織りこんで、何度かインタビューをつづけるうちに、朝日晃とはまたちがった感触でいろいろと教えてくれたのかもしれない。それを思うと、ちょっと残念な気がする。ちなみに、『襤褸と宝石』では美術評論家・朝日晃の役を角野卓造が演じていた。

◆写真上:佐伯祐三と池田米子が初めて出逢ったと思われる、本郷区向ヶ丘弥生町3番地(区画整理前に一部は旧・本郷元富士町)の「ほ-8号」に建っていた大谷作邸跡の現状。
◆写真中上上左は、1980年(昭和55)9月7日の読売新聞。上右下左は、ドラマ『襤褸と宝石』のフランスロケで三田佳子が着ていた佐伯米子の着物。下右は、1924年(大正13)9月にモレーを散策した際に撮影された佐伯米子で縞柄がよく似ている。
◆写真中下は、1924年(大正13)5月にクラマール()で、1925年(大正14)7月にアルル()で撮られた米子夫人。いずれも異なる縞柄の着物を着ておりフランスには縞柄ばかりを持参したものか。は、晩年に下落合のアトリエで撮影された制作中の佐伯米子。
◆写真下は、1963年(昭和38)に制作された佐伯米子『野の花』。は、1967年(昭和42)制作の同『かのこゆり』。いずれも、二紀会の17回展と22回展に出品された。

外山兄弟と芙美子に節子の物語。

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三岸アトリエ.JPG

 1928年(昭和3)11月に外山卯三郎Click!一二三夫人Click!と結婚し、翌年に井荻の新居Click!へ引っ越したあと、下落合1146番地の外山邸内に建っていた外山卯三郎アトリエClick!は、弟の画家・外山五郎が使うことになった。1923年(大正12)現在、外山五郎は青山学院中学校の4年生だから、1929年(昭和4)現在は22歳前後になっていただろう。
 外山兄弟の祖父、外山寅太(のち外山脩造)は新潟・長岡の出身であり、昌平坂学問所に学び幕末の藩政改革に従事して近代化に取り組んだ長岡藩士だった。だが、戊辰戦争のときは黒田清隆率いる薩摩軍と戦い、明治維新後は福沢諭吉の慶應義塾に入って開成学校(のち東京帝大)へと進んでいる。その後、大蔵省銀行課から金融畑を歩みつづけ、晩年には日本銀行大阪支店長に就任した。おそらく、その子息である外山秋作が、下落合1146番地へ2階建ての西洋館を建てて住むようになったのは、大正初期ではないかと思われる。
 外山卯三郎が成長すると、母屋の南東側にあたる妙正寺川寄りの敷地へ、離れのようなアトリエを建設している。外山五郎は、兄が井荻へ転居したあと、そのまま兄のアトリエを使っていたのだろう。中学時代から外山五郎は、ボヘミアン生活にあこがれアナーキズムに傾倒していたようだ。友人の大岡昇平Click!に、スチルナー『唯一者とその所有』(辻潤Click!・訳)を奨めたらしいが、大岡は同書を最後まで読みとおすことができなかった。その後、外山五郎は立教大学へ進むがコカイン中毒にかかり、風景画を描きながらフルートを演奏するという、気ままで奔放な生活をつづけたらしい。
 1931年(昭和6)に、学生生活を終えた外山五郎はパリへ遊学している。絵画の勉強を本格的にはじめようとしたのか、コカイン中毒から立ち直り生活を一新しようと決意したのか、あるいは興味をおぼえはじめていたキリスト教を学んでみたかったものか、どのような理由から渡仏したのかがハッキリしない。あるいは、その全部が渡欧理由だったのかもしれない。とにかく、自身が身をおいていた従来の環境をいっさいチャラにし、ゼロから出発したかったらしいことはほぼまちがいない。その“従来の環境”には、もちろん放埓な女性問題も含まれていただろう。
 外山五郎は学生時代、早稲田大学で開かれていたロシア語講習会に参加している。この講習会では、すでに同棲して連れ合いのいる“人妻”と知り合い、親しく付き合うようになっていったようだ。彼は、その関係性を解消するのも理由のひとつとして、渡仏を計画していたフシが見える。外山五郎は、親しかった洋画家の別府貫一郎などとともにパリとその近郊に住んだが、別府には自分の住所を決して“人妻”に教えないよう厳命している。だが、この“人妻”はシベリア鉄道経由で、外山を執拗にパリまで追いかけてきた。まるで、『娘道成寺』の安珍清姫のようだが、“人妻”はパリへ着くと別府貫一郎を激しく問い詰め、とうとう彼の住所を白状させている。そして、“人妻”はさっそく外山五郎のもとへ逢いにいくのだが、ストーブにかかっていたヤカンをいきなりぶっつけられて、1931年(昭和6)12月18日の日記に「不快此上なかつた」と記し、幻滅している。
 この“人妻”とは当時、上落合三輪850番地の尾崎翠Click!が住んでいた借家で、手塚緑敏Click!とともに暮らしていた林芙美子Click!のことだ。どこまで妄想がふくらんで、シベリア鉄道に飛び乗ったのかは不明だけれど、自尊心を傷つけられた林芙美子は以降、外山五郎との関係を断ち切って別の恋愛をはじめている(ということになっている)。このパリ行きの目的が、外山五郎に逢うためだということを、手塚緑敏は知っていたらしい。1974年(昭和49)に学習研究社から出版された足立巻一『現代日本文学アルバム』13巻の「林芙美子」には、次のように指摘されている。
  
 緑敏(まさはる)は、このことを知っていた。五郎は、セロなどをひく、ドンファンで、芙美子は棄てられるに決っていると思ったから、極力引きとめたが、緑敏の言葉に耳を貸そうともしなかった。
  
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外山邸跡(井荻).JPG
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 余談だけれど、林芙美子の日記によれば、下関からシベリア鉄道経由でパリに着くまでの交通費は、しめて313円29銭だったことが記録されている。佐伯祐三Click!が、再渡仏するために関西で兄の祐正らを中心に画会(頒布会)Click!を組織してもらい、600円あればシベリア経由でパリに行けると話していた内容を裏づける数字だ。600円にいくばくかの貯金を加え、米子夫人Click!と娘の彌智子Click!の一家で旅立つのに必要な額が、600円というひとつのめやすになっていたのだろう。
 外山五郎は、1932年(昭和7)に帰国し(下北沢にある友人だった大岡昇平の自宅を、帰国のあいさつがてら訪問している)、同年から麹町区富士見にあった日本神学校で学び、牧師になる決意をかためていったようだ。
 弟の外山五郎がパリから帰国し神学に取り組んでいたころ、兄の外山卯三郎は、急死してしまった独立美術協会Click!の支柱のひとりだった、三岸好太郎Click!の妻・三岸節子Click!を支援するために画会を組織しようとしていた。外山卯三郎にとっては、1930年協会の旗手だった前田寛治Click!を1930年(昭和5)春に失い、ここでまた独立美術協会の若手であり、特に注目していた三岸好太郎Click!を1934年(昭和9)の夏に失ったことは、彼の美術観的にも、また家族ぐるみで往来していた関係から精神的にも、大きな痛手だったと思われる。
 昨年、三岸アトリエに保存されていた資料類を整理させていただいたとき、偶然、1936年(昭和11)に作成されたとみられる「三岸節子画会申込規約」を発見した。以下、三岸節子について画会規約に書かれた、外山卯三郎「三岸節子女子(ママ)の芸術」を、短いので全文引用してみよう。
  
 三岸節子女子の芸術
 日本の油絵が台頭して以来、もう相当の年月を持つてゐます。この間に、すでに幾人かの閨秀作家が現れてゐるでせう。然しそれ等の婦人たちは、ただ婦人にして油絵を描くと言ふこと、その珍らしさだけで名を知られたものが多いのです。また現在の日本には、数へきれないほど夥しい閨秀作家がゐます。然しそれ等の人たちの多くは、厳密な意味が、お嬢さん芸、言はばお稽古としての画境を出てゐる人は、殆どゐないと言つて良いでせう。/素直に言ふならば、厳密な意味で、芸術家として許される閨秀油絵画家は、先づ三岸節子女史をもつて初めとしなければならないでせう。それほど三岸女史は優れた技巧と、豊かな天分と感覚を持つてゐます。その作品は何等の割引きなしに、堂堂と男子の芸術に挑戦出来るだけの質と感覚と特異さを持つてゐると言ふことが出来るでせう。/三岸女史はまさしく、日本に於けるマリイ・ローランサン的存在です。女子の芸術を擁護し、奨励し生長させることは、日本女流芸術の水準をたかめる上にも、また日本の油絵界を華かにする上にも、極めて大切なことであると言はねばなりますまい。/現在、女史は三人の遺児を抱いて、純粋な芸術道に、文字通のいばらの道を歩いてゐます。私達はこの日本のもつマリイ・ローランサンの芸術を守る上からも、またそのけはしい生活を援助する上からも、ぜひ皆様の暖かい同情を念じねばならないのです。敢へてこの一文を草して、皆様の暖い救ひの手をお願ひする次第であります。  外山卯三郎
  
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 なんだか、「閨秀作家」という用語をはじめ、「三人の遺児を抱いて」、「同情を念じ」、「救ひの手」と、かよわい女性を助ける「騎士」のような文面だけれど、当時の女性画家が置かれた環境は、おしなべてこのような認識でとらえられていたのだろう。だが、外山卯三郎の眼に狂いはなかった。三岸好太郎の属した、独立美術協会の画家たちからは、おしなべて彼女は冷ややかに扱われながらも、たくましい三岸節子は画家としてグングン頭角を現わすようになっていく。
 「三岸節子画会申込規約」には、外山卯三郎のほか11名の後援者たちの名前が列記されているが、当時の会費、つまり作品価格も記載されている。それによれば、10号=100円、12号=120円、15号=150円と、彼女の作品が1号あたり10円だったことがわかる。
 林芙美子が外山五郎を見かぎり、新しい恋人の考古学者・森本六爾、つづけて建築家・白井晟一の面影を抱いて1932年(昭和7)に帰国したあと、装丁か挿画がらみの仕事で2歳年上だった林芙美子に会いに、三岸節子は下落合の家を訪ねている。そのとき、手塚緑敏へ聞こえよがしにパリでの「恋物語」を話すので、三岸節子はハラハラのしどおしだったようだ。「三岸さんに言えば、ちゃんと知っているような建築家。京都の人なの」と、三岸節子に話した相手は、ときどき林芙美子を連れ出しに下落合へとやってきた白井晟一のことだろう。後年、手塚緑敏から三岸節子はグチを聞かされている。1999年(平成11)に出版された、吉武輝子『炎の画家 三岸節子』(文藝春秋社)から引用してみよう。
  
 あるとき、着替えのために奥に入った芙美子を見送りながら、/「家のことも、畑のことも、子ども(四三年、生後四ヵ月の泰を養子にする)のことも何もかも自分任せで、仕事ばかり。家のことは縦のものも横にしない」/と緑敏が節子に嘆くように言ったことがある。/この言葉を小耳にはさんだ芙美子が、/「三岸さんになにを悪口言っているの! ちゃんと食べさせてあげているのに、何が不満なのよ」/と奥の部屋から怒鳴り上げるように言った。節子は緑敏が気の毒で目のやり場に困った。
  
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林芙美子1936.jpg
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白井晟一「精神と空間」2010.jpg

 先日、新聞を見ていたら亡くなった森光子Click!に代わり、舞台『放浪記』の林芙美子役を仲間由紀恵が演じると書かれていた。イメージ的にもキャスティング的にも、どこかが思いっきりまちがってると感じるのだけれど、ご冗談じゃなくて、マジですか?Click! ……あの~、ぜんぜんちがうでしょ。

◆写真上:三岸アトリエ2階の廊下隅にまとめられていた、整理前の三岸夫妻資料類。
◆写真中上上左は、1941年(昭和16)に斜めフカンで撮影された下落合1146番地の外山邸。上右は、1947年(昭和22)に米軍が撮影した外山邸。下左は、井荻の旧・神戸町114番地に残る外山邸のものとみられる大谷石。下右は、外山卯三郎の子孫にあたる次作様Click!よりお送りいただいた、井荻の自邸で撮られた外山卯三郎(右)と一二三夫人(左)。
◆写真中下:いずれも、三岸アトリエ2階の資料整理で見つけ、三岸好太郎・節子夫妻の孫にあたる山本愛子様Click!より提供いただいた「三岸節子画会申込規約」。
◆写真下は、1931年(昭和6)11月にパリへ向かう列車の中の林芙美子。は、2010年(平成22)に青幻舎から出版された『白井晟一 精神と空間』。

大の芝居好きな刑部人と金山平三。

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 少し前、個性が強く性格が鮮烈で頑固な金山平三Click!は、なぜ刑部人Click!とは例外的に気が合ったのか?……という文章Click!を書いた。その反りが合うClick!要因として、刑部人のピュアな性格ともうひとつ、ふたりとも広義の意味での「文芸」=物語性に強く惹かれていたことを共通のポイントとして挙げた。すなわち、金山の「芝居」と刑部の「文学」だが、さっそく刑部人の孫にあたる中島香菜様よりご連絡をいただき、刑部人が無類の芝居好きだったことをご教示いただいた。この事実は、刑部人の伝記や図録の解説などにもほとんど触れられていない“新事実”なので、ぜひこちらでご紹介したい。
 金山平三は、幼いころから神戸の芝居小屋に出入りし、歌舞伎の舞台に馴れ親しんで育ったといわれている。ときに、大阪の道頓堀(五座)まで出かけて観賞しただろうか。1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』から引用してみよう。
  
 明治十六年に神戸・元町通で生まれ、家業の関係から花隅町の花柳界で幼少期を暮した金山平三は、その頃から芝居に親しみ、私など名すら知らなかった花隅の播半座をはじめ、大黒座、八千代座、相生座などの昔の小屋の田舎芝居へよく通ったという。/<<先生と芝居との接触は、小学校時代からである。そのころ神戸の実家近くの広場によく小屋がけ芝居が立ったらしい。毎日のように見に行っては母親を手こづらせ、時には母親の財布から五銭玉を“くすね”て学校をエスケープ、みつかってはお目玉をくったこともあったとか、首を縮めて語る先生には忘れられない懐しい思い出なのであろう。芝居は先生の少年時代へのノスタルジアではないだろうか。……>>(「幻の舞台」竹間吾勝『金山平三全芝居絵展図録』昭和四十六年 朝日新聞社)
  
 金山はどちらかといえば、“義太夫狂言”あるいは“浄瑠璃芝居”と表現されるような上方芝居、すなわち歌舞伎でいうなら和事中心の「時代物」と呼ばれるジャンルの出し物に親しんで育ったと思われるのだが、刑部人はいわゆる芝居(しばや)として上演される江戸歌舞伎、すなわち七五調のセリフも粋な「世話物」と呼ばれる、荒事中心の芝居に親しみを感じていたようだ。
 刑部人の子息であり、解体前の刑部アトリエClick!の詳細な記録写真を撮影された刑部佑三様Click!によれば、金山平三とまったく同様に、刑部人は実家のあった栃木県都賀郡家中村で暮らしていた子どものころから、父親の影響を受けて芝居に馴染んでいたらしい。それは、刑部邸には明治・大正・昭和を通じての『演芸画報』(演芸画報社)が大量に保存されており、雑誌の裏表紙に「家中 刑部」と鉛筆で記されたものもあったようだ。これらの『演芸画報』は、ときおり金山平三も借りにきていたという。『演芸画報』は、わたしの家にもあったのだが、明治期の古い号はのちの括り綴じではなく、江戸期と同様の和綴じの仕様だった。親父が戦後に改めて古書店で買い集めたものだったが、もともと家に所蔵されていた同誌は、関東大震災Click!東京大空襲Click!で灰になっている。
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 刑部人は、結婚した当初から鈴子夫人を連れ、毎月のように歌舞伎座へ出かけていたようで、ときには息抜きのために女中たちを連れての観劇もあったらしい。だが、鈴子夫人は母親の影響から能のほうが好きだったらしく、娘時代から観世流の謡(うたい)を習っていたという。下落合にあった目白中学校Click!(近衛新邸Click!)の西側、下落合515番地には観世流の能舞台Click!が1930年(昭和5)まであったので、ひょっとすると鈴子夫人は母親ともども、ここで謡を習い、ときに発表会を開いていたものだろうか。
 このほか、芝居のセリフが書かれた東京美術学校時代のノートや、当時の上演された舞台のプログラムなども、刑部邸には保存されていた。また、刑部人は芝居の書割(背景画)を描くアルバイトをしており、戦後に語った言葉として「最近の書割は、下手だ」というのを、刑部佑三様は記憶されている。戦前の書割は、日本画風に筆をつかった現代のものよりもかなり繊細な仕上がりだったらしく、細かなところまで手を抜いたり省略したりせず描きこんでいたのかもしれない。ちなみに、刑部人は初代・中村吉右衛門(播磨屋=大播磨)が贔屓だったようで、「二代目はヘタで野暮で、弱っちゃったね」という親父の観察と共通した感想をお持ちだったかもしれない。(鬼平ファンのみなさん、ごめんなさい)
 ときに、子どもたちの前で飛び六方(勧進帳)をしてみせたり、河竹黙阿弥Click!『青砥稿花紅彩画(あおとぞうし・はなのにしきえ)』Click!または『弁天娘女男白浪(べんてんむすめ・めおのしらなみ)』に登場する有名な「浜松屋の場」Click!をマネて、子どもがなにか質問すると「知らざぁ言って聞かせやしょう」と、弁天小僧菊之助の渡りゼリフで答えるという、いかにも「世話物」好きらしいユーモアたっぷりな七五調が返ってくることもあったという。
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刑部人19361227島村三七雄帰朝歓迎クラス会.jpg

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刑部人1938福井謙三追悼会.jpg

 横道へそれるけれど、わたしが芝居のセリフを初めて暗記したのも、この「浜松屋の場」と「滑川土橋の場」が最初だった。中学の勉強を暗記しないで、こんなことばかりしてたのだが、親父の書棚には『河竹黙阿弥集』や『日本戯曲全集』、『芝居名せりふ集』などが天井近くに数段にわたってギッシリ詰まっており、それを片っ端から盗み読みしていったのを憶えている。弁天小僧がリズミカルに語る、江ノ島での「美人局(つつもたせ)」や「枕さがし」も興味深かったがw、なによりも自分が住んでいる地域が語られる、次に控(ひけ)えた南郷力丸の湘南ゼリフに強く惹かれたからだ。1954年(昭和29)に第一書店から出版された、『芝居せりふ集』から引用してみよう。
  
 その相ずりの尻押(しりおし)は、富士見の間から向うに見る、大磯小磯Click!小田原にかけ、生れが漁夫(りょうし)の浪の上、沖にかゝつた元船(もとぶね)へ、その船玉(ふなだま)の毒賽(どくさい)を、ぽんと打込む捨碇(すていかり)、船丁半の側中(かわじゅう)を引さらつてくる利得(かすり)とり、板子(いたご)一枚その下は地獄と名に呼ぶ暗黒(くらやみ)も、明るくなつて度胸がすわり、櫓を押しがりやぶつたくり、船足重き凶状に、昨日は東今日は西、居所定めぬ南郷力丸、面(つら)ア見知つて貰いやせう。(カッコ内引用者註)
  
 金山平三は、虫垂炎をこじらせて手術後の療養をしていた1929年(昭和4)ごろから、いわゆる連作「芝居絵」を描きはじめている。金山は、アトリエでひとり芝居を演じながら、それを連続写真Click!に収めるほどの芝居好きだった。その演目は、やはり子どものころから観なれ、目に焼きついた舞台が多かったのだろう。
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芝居せりふ集1954.jpg

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梶原平三誉石切.jpg

 刑部人と金山平三が、ことさら気の合った大きな要因として、また旅先の炉辺で語り合った多くの話題の中に芝居が登場していたのは、まずまちがいないだろう。ときに、ふたりで芝居を観に歌舞伎座へ出かけたり、セリフの掛け合いをしていたかもしれない。初代・中村吉右衛門の当たり役(新助)、『八幡祭小望月賑(はちまんまつり・よみやのにぎわい)』では、大播磨ファンの刑部人が新助役だったとすれば、はたして金山平三は女形(おやま)の美代吉になり、「きれいに別れて表向、お前の女房になりましょうわいな~」となってしまうのだが。……ちょっと想像しただけで、金山じいちゃんが不気味だ。ww

◆写真上:黙阿弥の『八幡祭小望月賑』=通称「縮屋新助(ちぢみやしんすけ)」のブロマイドで、初代・中村吉右衛門の新助(左)と6代目・中村歌右衛門の美代吉(右)。
◆写真中上は、1955年(昭和30)10月におそらく十和田で撮影された写生姿の金山平三。傘とイーゼルを手ぬぐいで無造作に縛って持ち歩いていたようでw、途中で合流している刑部人撮影の可能性が高い。(「刑部人資料」より) は、『演芸画報』の表紙で1914年(大正3)1月号()と1939年(昭和14)4月号()。
◆写真中下は、1936年(昭和11)12月27日に開かれた島村三七雄帰朝歓迎クラス会の刑部人。は、1938年(昭和13)8月の福井謙三追悼会に出席した刑部人。いずれも、中島香菜様から提供の「刑部人資料」より。
◆写真下は、観劇しながらセリフをたどれる1954年(昭和29)に第一書店が出版したハンディな『芝居せりふ集』。は、『梶原平三誉石切(かじわらへいぞう・ほまれのいしきり)』=通称「石切梶原」のブロマイドより、大播磨(初代・中村吉右衛門)の梶原景時(右)と6代目・中村歌右衛門の梢(左)、8代目・市川団蔵の六郎大夫(中)。


相馬邸はなぜ下落合に建てられたのか。

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七星礎石1.JPG

 以前、相馬邸Click!がなぜ下落合という立地を選び、赤坂氷川明神Click!前(元・中屋敷)から転居してきているのかを、おもに巫術あるいは望気術的な側面から連載形式で記事Click!にしたことがある。そこには、さまざまな“レイライン”や結界と思われる、出雲神をベースとした多彩な社(やしろ)の連なりや、幾何学的な図形が浮びあがってきた。
 その記事を書いてから4年が経過した現在、新たなことが次々と判明しているので、相馬邸の下落合移転についてもう一度まとめ、改めて整理してみたい。なぜ、相馬家Click!は広い江戸東京の中から新たな屋敷の移転先として、あえて下落合を選択しているのか? それが、「閑静な南斜面で、陽あたりもよく暮らしやすそうだから」……というような、今日的な不動産選びではないことは、すでに記したとおりだ。
 鎌倉期のはるか以前から、関東に根を張っていた同家(わたしは鎌倉幕府Click!の基盤を支えた、古墳期からの南武蔵勢力の末裔だと想定している)が、そのような卑近で近代合理主義的な志向から、一族が根をおろす土地を選定するとは思えない。そこには、同家の北斗七星信仰Click!(妙見信仰Click!)とともに、落合地域を選ぶ必然的な理由が存在していたと考える。その選定理由と思われる事蹟が、この4年間でいくつか判明している。
 まず第一に、下落合には神田明神の分社Click!が建立されていたということだ。神田明神社は、もともと江戸(エト゜Click!)岬の付け根にあった柴崎村(現・大手町)の、柴崎古墳Click!(将門首塚Click!)の上に設置されていたものが、のちに神田山山頂へと遷座し、さらに神田山(現・駿河台)の土砂採取による掘削によって山の北麓、現在の湯島聖堂の北側へと再遷座している。主柱は、当初は出雲神のオオクニヌシ1柱だったと思われるが、平安期以降は平将門も奉られ江戸期までは2柱の社となっていた。
 北関東(現・群馬県太田市世良田)出自の世良田氏(のちの松平氏・徳川氏)が、同社を氏神として信仰したのは、世良田氏と鎌倉幕府の執権・北条氏が対立した鎌倉末期のことであり、徳川家康の5代前である世良田親氏(ちかうじ)Click!の時代からだ。世良田親氏は北条一族との争いに敗れて出家し、徳阿弥と名のって同社へ参詣した折、還俗して武家にもどれという神託と、徳阿弥の1字をとって「徳川」の姓を授けられている。したがって、徳川家が関東へともどり幕府が神田明神を江戸総鎮守としたこと、さらに徳川将軍家が途中から世良田姓を復活させて名のることは、世良田親氏=徳阿弥が神田明神の氏子になった、鎌倉末期からの“お約束”であり必然でもあった。
 ちなみに、鎌倉幕府は古墳時代からの地元勢力である、南武蔵勢力(海岸線や河口に近いエリアに沿った南関東勢力=現在の東京・神奈川・千葉地方)の末裔たちが基盤を形成した政治体制のように思われるが、室町幕府と江戸幕府を担った足利氏と世良田氏は、ともに古墳期では南武蔵勢力との親和性が高かったらしい、北関東の上毛野(かみつけぬ)勢力(現在の栃木・群馬地方)からの流れであり、その末裔ではないかと想定している。〇〇時代という名称で教科書的に政治体制を区切ると、まるで既存の人々が突然どこかへ姿を消して一線が引かれ、まったく新しい人々が登場してきたように感じてしまうのだが、実は歴史には脈々とした人々の流れや連携、係累があることを忘れてはならないだろう。
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「新編武蔵風土記稿」巻十二・豊嶋郡之四(文化文政).jpg
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相馬順胤・碩子夫妻.jpg

 さて、『新編武蔵風土記稿』(昌平坂学問所地誌調所・編)によれば、薬王院の境内ないしはその周辺にあったとみられる神田明神の分社だが、この存在が強烈なシンボルとして相馬家の移転に作用したのはいうまでもないだろう。少なくとも『新編武蔵風土記稿』が編纂された江戸期の文化・文政年間まで存在が確認できる神田明神だが、下落合のどこに奉られていたかを確認するために、相馬家では人を派遣して調べさせたかもしれない。しかも、神田明神の本社と下落合の分社とは、御留川(神田上水)によって水脈が通っており、あるいは出雲神の社によって気脈も通じていることを考えあわせれば、転居先の絶好地として下落合が意識されただろう。
 以下、前回は途中で村内施設のリストを省略してしまったので、今回は『新編武蔵風土記稿』巻十二・豊嶋郡之四における下落合村の記述を全文そのまま引用してみよう。
  
 神田上水 村ノ南ヲ流ル幅五間余 土橋ヲ架ス長サ六間田嶋橋ト号ス 〇井草川 南ノ方ヲ流レ中程ニテ上水堀合ス幅四間余 土橋ヲ架ス比丘尼橋ト号ス長五間余
 酒井采女下屋敷 広サ一万九千三百七十坪ノ内一村(ママ)万六千八百七十坪ハ抱地ナリ
 氷川社 村ノ鎮守也 〇諏訪社二 〇大神宮 以上四社薬王院持 〇稲荷社三 一ハ藤稲荷ト云 山上ニ社アリ喬木生茂レリ近キ頃鳥居ノ傍ニ瀧ガ設テ垢離場トス薬王院持 二ハ上落合村最勝寺持 〇御霊社 祭神ハ神功皇后ナリ例祭九月ナリ是ヲビシヤ祭ト號ス 又安産ノ腹帯ヲ出ス 最勝寺持 末社稲荷 〇第六天社二 一ハ薬王院持 一ハ最勝寺持
 薬王院 新義真言宗大塚護持院末瑠璃山閑<ママ>王寺ト號ス本尊薬師行基ノ作坐像長九寸許外ニ観音ノ立像アリ長一尺餘運慶ノ作 開山ハ願行上人ナリト云其後兵火ニ逢テ荒廃セシカ延宝年中實壽ト云僧中興シ元文年中再ヒ火災ニ罹リ記録ヲ失ヒテ詳ナルコトヲ伝ヘス 神田明神社 八幡社 稲荷社 三峯社 釈迦堂 本尊は毗首羯摩ノ作立像長三尺二寸 堂中ニ愛染ノ像ヲ置此堂モトハ境外ニアリシト云 今モ除地残レリ
 鐘楼 寛政二年鋳造ノ鐘チカク 〇金蔵院 〇妙楽寺 以上二ケ寺ハ薬王院門徒ニテ慶安以後廃寺トナリ除地ハ本山ニテ預レリ
  
 おそらく相馬家では、江戸期に編まれた『新編武蔵風土記稿』は参照しているだろう。さらに江戸期ばかりでなく、平安期あるいは鎌倉期における落合地域の事蹟まで綿密に調べあげているかどうかは不明だが、下落合の西側に位置する葛ヶ谷(現・西落合)には、期せずして妙見山Click!が存在していることも、もし調べあげて認知していたとするなら、同家の転居に揺るぎない大きな動機づけを与えたにちがいない。江戸東京地方(朱引・墨引内)において、相馬家にゆかりの深い神田明神の分社と妙見山がセットになって存在する地域など、おそらく落合地域をおいてほかには存在しなかったと思われるからだ。
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黒門(懸魚・木鼻).jpg

 このふたつのシンボルを相馬家が知っていたとすれば、千葉の七天王塚Click!と神田明神を通じたライン形成や、出雲神の社と将門社(しょうもんしゃ)を拠点として結んだ、落合地域への多彩な「気」脈のラインや結界は、むしろ好適地への転居にまつわる巫術師あるいは望気術者の、“念押し”的な作業になったのではないだろうか。
 いや、あえて表現を変えるなら、なぜ徳川幕府が下落合を「御留山」Click!として立入禁止にし、神田明神の分社化を許可したのか、そして明治以降に多くの徳川家がこの地域に転居してきているのかを、あらかじめ相馬家が巫術的な側面から知っていたとするなら、そこに神田明神に加えて妙見山を見いだしたことは、改めて転居先として「ここしかない!」という意志を固めることへ、強烈に作用したのだ……ともいえるかもしれない。
 さらに、この地域の諏訪谷と六天坂でたいせつに奉られている、ふたつの第六天社(大六天社)Click!の存在も、相馬家にとっては好もしく思えたかもしれない。北斗七星を象徴する、日本古来からの七天神神話の6番目、イザナギとイザナミの前代であるオモダルとカシコネの第六天は、日本古代の七星信仰をいまに伝えるひとつのシンボルとして、相馬家には重要な「地霊」が宿る地域だと映っただろうか。
 明治の終わり近く、相馬順胤は近衛家から御留山の広大な土地を譲り受け、新邸の建設に着手した。赤坂の屋敷を解体し、運ばれた建築や部材も少なからず使われたかもしれない。多くの支柱下には、北斗七星を意識した7つの礎石を組み合わせて埋設し、屋根もまた上空から見ると北斗七星を模した配置に建設して、万全な結界を構築している。
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 相馬家一族が、なぜ下落合の土地を望み、ことさら強く執着しているのか、その理由を近衛家(藤原家)が御留山の土地を手放す際に、もし改めて同家から聞かされていたとすれば、近衛家では少なからずこの地域がもつ意味や「地霊」に慄然としたかもしれない。
 だが、すでに近衛篤麿Click!は死去し、後継の近衛文麿Click!は京都帝大で河上肇について学び、「マルクス主義」を標榜する近代的合理主義者となっていたので、相馬家の迷信を一笑にふしただろうか。ただし、人間はメンタルな「気」のもちようによって、生き方さえ大きく左右されるのもまた確かなのだが……。こうして、相馬邸は大正の初めに竣工し、1915年(大正4)に相馬家は下落合への転居を終えている。

◆写真上:6年の拡張工事を終え再オープンClick!した「おとめ山公園」で、相馬邸の事蹟にちなみ日本庭園を模した一画の飛び石には、無事に保存された七星礎石が並ぶ。
◆写真中上は、江戸期の文化文政年間に編纂された『新編武蔵風土記稿』巻十二・豊嶋郡之四。は、下落合の御留山を選んで新邸を建設した相馬順胤・碩子夫妻。
◆写真中下は、南東側の芝庭から眺めた相馬邸の居間。相馬彰様Click!からいただいた、1913年(大正2)作成の『相馬家邸宅写真帖』より。は、福岡市教育委員会に保存された相馬邸黒門Click!の木鼻(きばな)と破風軒下の懸魚(げぎょ)で、同じく相馬彰様より。
◆写真下は、財務省官舎の解体前に相馬邸の七星礎石が保存されていた配列の一部。は、残されたすべての七星礎石が保存されたようで、わたしも率直にうれしい。また、旧・相馬邸の内庭に配置されていた庭石などもそのまま保存されている。

幻の最高峰だったアムネマチン。

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 きょうは、落合地域にも江戸東京にもまったく関係のない、わたしが子どものころ、特に印象に残った“山”がテーマの記事だ。わたしは基本的に山よりも海のほうが好きなのだが、Click!にもテントや食料、飯盒などを背負ってけっこうキャンプに出かけていた。この記事は、幼い時代の覚え書きということで……。
  
 子どものころ、少年少女世界のノンフィクションというようなシリーズ本で、標高9,040mもある“謎”につつまれた世界最高峰の山が中国に存在する……という記述があったのを、なぜか急に思い出した。それが、どのような本だったのか探しまわってみたら、金の星社が1967年(昭和42)に出版した「少年少女・世界のノン・フィクション」シリーズの第2巻、『世界を驚かした10の不思議』(日本児童文芸家協会)に所収の白木茂「世界一高いまぼろしの山」であることがわかった。おそらく小学生のときに、図書室か児童図書館で読んだものだろう。
 ヒマラヤのチョモランマ(英名エベレスト)の 8,848m(ネパール政府認定値)をはるかに凌ぐ、未踏の崑崙(コンロン)山脈にそびえ立つ幻の最高峰「アムネマチン」の記憶は、当時、ほとんど鎖国状態で神秘のベールに包まれていた革命後の中国国内の様子とともに、地球上に残された“世紀の謎”として、子ども心にことさら強い印象をとどめたものだろう。本書が出版された1960年代半ばには、すでに中国の登山隊が登頂に成功しており、正確な標高は判明していたと思われるのだが、中国政府はそれをいまだ公式に発表してなかったものだろうか……。
 世界最高峰の山を“発見”した経緯は、米軍のパイロットの証言にもとづいている。1944年(昭和19)3月の第2次世界大戦が末期に近いころ、インドの米空軍基地から中国国民党政府の拠点である重慶へ向け、支援物資を輸送中の米空軍4発輸送機が飛行コースをまちがえたことに端を発している。タクラマカン砂漠をかすめ、輸送機は東南東の重慶へ向けて飛行していたはずが、航路がやや北側にずれていることにパイロットが気づいた。当日は曇天で、いつも目標にしている天山(テンシャン)山脈もタリム川もまったく見えなかった。やがて、右手に崑崙(コンロン)山脈の峰々が近づいてくるのが見えたので、パイロットは安全のために飛行高度を8,500mまで上昇している。崑崙(コンロン)山脈には、ヒマラヤ山脈にある8,000m級の山は存在しないはずなので、8,500mの高度を保てばたいがいの峰は超えられると判断したのだ。
 ところが、危機は目前に迫っていた。雲間から突然、目の前に雪をいただいた巨大な三角の峰が迫ってきたのに気づいたからだ。輸送機は衝突を避けるために、高度10,000mにまで急上昇した。それでも、その峰を超えるときにはすぐ足下に頂上が見えた。パイロットは、衝突の危機をなんとか回避できたことに安堵すると同時に、まず搭載されている高度計の故障を疑った。しかし、何度テストを繰り返しても高度計は故障していなかった。こうして、重慶の飛行場に着陸したパイロットから、さっそく標高10,000mに迫る山の存在が報告書に記載された。でも、パイロットの報告はほとんど誰からも信用されず、そのまま黙殺された。唯一、中国に詳しい米国人が、「それは、たぶん、アムネマチン山にちがいない」という話を聞いた。
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世界を驚かした10の不思議1967.jpg
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世界一高い幻の山1967.jpg

 当時、幻の山といわれていたアムネマチン山は、かつて誰も正確な標高を測ったことがない山だった。地元の民族からは、神が宿る神聖や山としてあがめられ、容易に登山家や探検家を近づけなかった。欧米人が初めてアムネマチン山を目にしたのは、1932年(昭和7)にイギリス陸軍のペレイラ将軍が実施した青海省の探検だった。彼は、「7,000m級の他の山々が、まるで巨人につかえる家来に見えた」と、突出したアムネマチン山の様子を報告書に書いた。翌1933年(昭和8)、ペレイラは探検隊を編成して再びアムネマチン山をめざすが、途中で彼は病死してしまう。
 つづいて、アムネマチン山をめざしたのはフランス人のランが編成した探検隊だが、同山へ登ろうとするフランス隊と“聖なる山”を蹂躙されると考えた現地のゴロク族との間で戦闘となり、同隊は全滅した。また、同じ時期にドイツからやってきたフィシュネル率いる探検隊と、イギリス人のミゴットが編成した探検隊とがアムネマチンをめざしたが、やはりゴロク族との対立で犠牲になっている。1948年(昭和23)3月、ボールペンの販売で財をなした米国レイノルズ社のレイノルズは、航空機からアムネマチン山を観察・測量しようと、米国と中国の学者たちを連れて上海空港を離陸しようとした。ところが、自家用機C87が滑走中にスリップしてそのまま土手に突っこむ事故を起こし、飛行機は大破して使いものにならなくなってしまった。このころから、ゴロク族との対立による犠牲者の続出とともに、聖山を犯す「アムネマチンの呪い」のウワサが囁かれはじめた。
 1949年(昭和24)4月、米国の探検家レオナード・クラークが率いる探検隊が、改めてアムネマチン山をめざして青海省の西寧(シーニン)市を出発した。青海省は護衛のために、同探検隊へ20名を超える兵士を同行させている。途中、旧・日本軍の三八式歩兵銃で武装したゴロク族と銃撃戦を交えながら、ようやく万年雪が残るアムネマチンが見える尾根に取りついた。同年5月6日、天候がようやく回復すると午前8時35分、クラーク探検隊は山脈の上にひときわ突出した巨大な三角形のアムネマチンを目にした。一行は、よりアムネマチンに近づこうと尾根伝いを歩きつづけ、もっとも見晴らしのいい場所に設営して、天候が変わらないうちにさっそく測量をはじめた。
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レオナード・クラーク.jpg
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クラーク探検隊.jpg

 クラークは測量器を組み立てると、山頂から300mほど下に照準を合わせてみた。彼は測量のベテランで、雪山では太陽光の屈折のせいで実際の高度よりも山が高く見えることを知悉していた。つづいて、アムネマチンの山頂に照準を合わせて測量してみた。測量値をもとに計算してみると、アムネマチンの標高は9,040mとの結果が出た。チョモランマ(エベレスト)よりも、192mも高い最高峰ということになる。山の測量は、同時に3回繰り返し行わなければ公式の記録とはならない。3回測量して、その平均値が公式記録として認定される。しかし、1回めの測量直後から山頂に雲がかかりはじめ、アムネマチンの姿をアッという間に隠してしまった。
 クラークはあきらめきれず、悪天候の中3日間もキャンプにとどまっていたが、嵐が近づいていたのでついに測量を断念して下山してしまった。彼は、たった一度しか測量できなかったので、米国へもどってからもその結果を公表せず、あえて沈黙を守りつづけた。でも、おそらく同行した隊員たちの間から、「9,040m」という測量結果が漏れたのだろう、世界でもっとも高い山は崑崙山脈にある……というウワサが広まっていった。さて、今日の水準測量技術でアムネマチンを計測すると、クラークが測定した値に近い「9,041m」ということになる。つまり、クラークの測定は“正確”でまちがってはいなかったのだ。「じゃあ、最高峰はチョモランマじゃなくてアムネマチンでしょ!」ということになるのだが、中国政府が発表している同山の数値は標高6,282mだ。
 この数値の齟齬には、地球の重力に関わるトリックがある。重力は、常に地球の中心に向けて働いている……とは限らない。地域によっては地面の真下を指向せず、微妙にズレている地点があるらしい。つまり、水平面から直角に真下へ伸びた線が、地球の中心へと向いていない地域があるそうだ。そのような場所で、水準測量を行うと誤差が大きく、実際の高さよりも高い(あるいは低い)数値が記録されてしまうことになる。重力基準の水準測量で山の高さを測れば、いまでもアムネマチンは世界最高峰であり、2位がK2(チョゴリ)で、チョモランマ(エベレスト)は第3位へと転落してしまうらしい。
 重力を測量基準には用いず、レーザーやGPSなどを用いた最新の測量技術で測れば、アムネマチンは中国の測量隊が規定したように6,282m前後になる……というわけだ。もちろん、もっとも高い山はチョモランマ(エベレスト)であることに変わりはないようだ。そのチョモランマ(エベレスト)だが、ネパール政府が公式に認定している標高8,848mもまた、重力基準の水準測量数値に依存している。だから、ヒマラヤ地域の重力誤差が考慮されておらず、最新技術で測量すると同山はもう少し高くなるらしい。
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 さて、子どものころからずっと記憶にひっかかり、気になっていた幻の世界最高峰アムネマチンなのだが、この文章を書くことでようやくスッキリした。いまでは、Googleマップの空中写真を崑崙山脈に合わせ、マウスでクローズアップさせるだけで、いつでもアムネマチンの姿を目にすることができる。どこかの国の登山隊が撮影した写真も、いくつか登録されているのでアムネマチンが“身近”になったぶん、子ども心をワクワクさせた「世紀の謎」や「まぼろしの山」が消えてしまったのは、ちょっとさびしい。

◆写真上:水準測量では、いまでも「最高峰」のアムネマチン山。(Googleマップより)
◆写真中上は、1967年(昭和42)に出版された『世界を驚かした10の不思議』(日本児童文芸家協会)。は、同書に収録された白木茂「世界一高いまぼろしの山」の扉。
◆写真中下は、米国の探検家レオナード・クラーク。は、晴れた日に近くの尾根からアムネマチン山を眺めながら測量を行なうクラーク隊一行。
◆写真下:Googleマップにみる、上空からとらえられた巨大なアムネマチン山。現在でも、山頂近くを飛行する航空機の古い高度計は、9,000m超を記録するという。

夢二が、信子が下落合に暮らすまで。

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 1915年(大正4)に、竹久夢二Click!がいまの落合中学校の北にあたる下落合370番地、相馬邸Click!黒門Click!前を通る道つづきの西側の一画に引っ越してきたのは、前年の10月から日本橋呉服町に開店していた「港屋絵草子店」Click!で、たまき元夫人と当時の愛人だった笠井彦乃とのゴタゴタ騒ぎから逃げ出すためだった。夢二の日本橋からの引っ越しと、相馬順胤Click!一家の赤坂からの引っ越しは、相前後して同年に行われている。
 当時の「港屋」では、少女向けに竹久夢二がデザインしたカードや版画、封筒、絵本、詩集、千代紙、人形、半襟などを売っており、女学生たちが連日押しかけるほどの盛況だった。笠井彦乃も、そんな女学生のひとりだった。「港屋」は、協議離婚した元妻・たまきの名義になっており、店の2階に住んでいた夢二は、たまきとの間で暴力沙汰が絶えず、そんな生活に嫌気がさしての下落合への逃避だったのだろう。当時の夢二は、「港屋」にたむろする画学生の東郷青児に色目をつかったといっては、たまきへ殴る蹴るの暴力をふるっていた。
 夢二から吉屋信子にあてた、1915年(大正4)6月13日付けの手紙に、「とにかく私にとつてかなりたいへんな事だつたのです。それになにもかにもひとりのことをひとりでせねばならないので引越しをしてやうやう忙しいけれど今はやゝ静かになれました」と書いた中身は、たまきとの間で暴力をともなう痴話ゲンカと、笠井彦乃を愛人にするための下落合への転居だった。当時の様子を、1982年(昭和57)に文藝春秋から出版された、吉武輝子『女人吉屋信子』から引用してみよう。
  
 ようやく店も軌道にのりはじめたところに登場したのが、画学生笠井彦乃である。当時、夢二三十一歳、彦乃十九歳。十一歳年下のこの娘は、日本橋本銀町の紙問屋の秘蔵娘だった。父親の宗重は、(中略) 夢二との仲を知ると半狂乱となり、彦乃を家に監禁したり、短刀をつきつけておどしつけたりした。こうした父親の妨害が、かえって彦乃の情熱に油をそそぐ結果になったのだろう。夢二の年譜を見ると、大正四年六月、下落合の仮ずまいの家で、彦乃は夢二と結ばれている。
  
 だが、「港屋」はたまき名義であったものの、店のマネジメントをすべて元妻ひとりに任せておくのは不安であり、また、たまきが男をつくって2階に住まわせ、売り上げを貢いだり横領したりするのも心配だったのだろう、当時はいまだ栃木県Click!に住んでいた駆けだしの投稿作家・吉屋信子Click!を、「港屋」の売り子兼監視役として、店の2階へ下宿させようとしている。
 夢二がデザインした匂いたつような和紙の便箋に、流れるような毛筆で書かれた甘やかな、まるで女性が恋人にあてたような文面で吉屋信子にとどけられた手紙は、ちょうど下落合で笠井彦乃Click!と結ばれたあたりに書かれたものだ。吉屋信子は、人なみ外れてカンが鋭い女性だから、東京で夢二に会ってすぐにその本性を見ぬいたのだろう、ほどなく彼女は夢二との交流を絶っている。
 吉屋信子は、1921年(大正10)7月から12月にかけ、東京と大阪の朝日新聞に連載された『海の極みまで』が大ヒットしたことから、一躍、文壇の注目を集める存在となった。『海の極みまで』は翌年、瀬戸英一の脚本で新派Click!の舞台にかけられ、伊井蓉峯、喜多村緑郎Click!、河合武郎の配役で、全国興行を打つまでの大ヒットを記録している。また、『海の極みまで』の挿画を担当したのは蕗谷虹児Click!であり、のちに蕗谷も下落合622番地へアトリエをかまえることになる。
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 吉屋信子門馬千代Click!と生活をするために、新しい家を建てようと思いはじめたのは、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!直後のことだった。当時は、信子が本郷で千代が実家のある大森と離れて暮らしていたが、大震災でお互いが消息不明のまま大きな不安を抱えてすごしたことが、信子にふたりが住む家の建設を思い立たせたのだろう。震災から3日めに、門馬千代は大森から本郷へ駆けつけている。同年9月4日に書かれた、吉屋信子の日記から引用してみよう。
  
 ◎日記より
 千代子さんと焼跡を見に行く。途中、兵隊に荒々しくも足止めらる。後々までもかうした状態がつづくやうなことがなければと、千代子さんと話し合ふ。前途に一抹の不安。千代子さんと別れし後、近い将来、二人のために小さき家たてんと決意する。
  
 戒厳令下の街で、予感や先読みに鋭敏な吉屋信子が感じた「かうした状態」に対する危機意識は、その後、次々と現実のものになっていく。門馬千代は、大震災直後に敏感な信子が口にした言葉を、のちのちまでハッキリと記憶している。
  
 千代子さん、もしもこれを機に軍隊が国を動かすようになったら、もう今までどおりの小説が書けなくなる。東京の潰滅は、ひょっとしたら小説のせかいの壊滅になるのではないかと思うと、背すじに冷めたいものが走る。(吉武輝子『女人吉屋信子』より)
  
 20年余ののち、吉屋信子の予感は的中し、「小説が書けなくなる」どころではなく、無謀な戦争による膨大な犠牲者を生みつつ国家(大日本帝国)が破滅し、日本は文字どおり「亡国」の危機を迎えることになる。
 つづいて、新居建設についての記述が登場するのは、下関で教師をしていたため離れて暮らす門馬千代にあてた、1924年(大正13)10月10日付けの信子の手紙だ。
  
 ◎書簡より
 今 家へいくら送つてゐるの 教へて頂戴ね 着物でもなんでも私買つてあげるからね 早く帰つて来て頂だいね/仏蘭西へも一寸の旅なら行つて来られるの 来年の秋でも さ来年の三月から夏までの間ならね 家も今 すてきにやすいから建てませう
  
 このころの吉屋信子は、もはや押しも押されもしない流行作家の仲間入りをはたしていた。翌1925年(大正14)2月に投函された下関にいる門馬千代あての手紙には、家の新築計画がかなり具体化してきている様子がうかがえる。
  
 ◎書簡より
 わたしは決心した 二人のために小つちやい家を建てようと 大森なら水道も瓦斯もひけるから ここの地に百坪ほどさがすことにした 今の家の近くにする 今の家の間どりはすこぶるいい こんな風に建てる 十五坪の建坪ぐらゐでね 家が出来たら私は分家し 戸籍を作つて全く独立して戸主となり千代ちやんを形式上養女の形(中略)で入籍し 二人の戸籍と家を持つことにする さうきめた
  
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 だが、大森には気に入った敷地がなかったものか、吉屋信子は1926年(大正15)に、画家や作家たちがそろそろ集まりはじめていた下落合のアビラ村(芸術村)Click!のまん中あたり、現在でいうなら四ノ坂Click!五ノ坂Click!の中間にあたる下落合2108番地の敷地に、19坪で居間兼サンポーチ、応接間、書斎×2室、寝室、女中部屋の6間に加え、台所、湯殿、テラス付きのかわいい下見板張りの西洋館を建て、門馬千代とともに新居へ引っ越してくる。前掲の、吉武輝子『女人吉屋信子』から引用してみよう。
  
 信子と千代が本格的に共同生活をスタートさせたのは大正十五年、信子はその年、下落合に、念願かなって小さな家を建てている。千代の表現を借りれば、開いた大きな本を背表紙を上にして立てたような可愛らしい家だった。信子は、この家を建てるために、『婦人之友』の主宰者であり、かつ自由学園の創立者でもある羽仁吉一、もと子夫妻に、最初で最後の稿料の前借りを依頼している。
  
 引っ越しのあと、家へ最初に招待したのは自由学園の羽仁夫妻だった。当時の周辺環境は、目白文化村Click!のさらに西側でいまだ田畑が多く、家の東側には大きな島津源吉邸Click!金山平三アトリエClick!、西側には古屋芳雄邸Click!などの西洋館が建てられてはいたが、西武電鉄Click!の開通前なのでそれほど家々は密集してはおらず、典型的な東京郊外の風情Click!だったろう。おそらく、1926年(大正15)5月11日に吉屋信子の家を訪問したとみられる菊池寛は、信子あての手紙の中でその様子を次のように書きとめている。
  
 今度「文藝春秋」に新進作家の連作長編小説をのせるについて、色どりに貴女を一枚加へたいと思ひます。内内、御承知下さい。実は昨日、犬養氏を訪問したついでに、畠の中のあなたの家を訪ねたのですが、御不在でした。僕が行つたしるしに左の門柱の上へ胃の薬を二つ粒のせて来ました。昨夜の雨で形が無くなつたとしても重曹の味位は残つてゐるでせう。古屋芳雄の近所になんかゐるのは賛成しませんね。
  
 菊池寛は、岸田劉生Click!のモデルにもなった医学者・古屋芳雄Click!のことについて触れているけれど、詩人エミール・ベルハーレン著の『レムブラント』(岩波書店/1921年)の翻訳などで知られる古屋と菊池とは、欧米小説や洋書類の翻訳・出版を通じて以前から深いつながりがあったのだろう。
 吉屋信子と門馬千代は、下落合での生活を1935年(昭和10)までつづけている。10年間も住み馴れた下落合だが、途中で同居人が増えて手ぜまとなり、同年12月25日に牛込砂土原町の鍋島家跡分譲地に、吉田五十八設計の大きな西洋館を建てて転居している。
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 下落合の家は、1933年(昭和8)から医学生の浦田トメが、家事手伝いの書生として女中部屋で同居するようになってから手ぜまとなり、吉屋信子は近くのアパートか借家を借りて仕事場に使っていた。このアパートとは、矢田津世子Click!が一時期暮しており、多くの作家たちが集散した第三文化村の下落合1470番地に建っていた目白会館文化アパートのことか、あるいは「吉屋信子が住んでいた」という伝承が残る、オバケ坂Click!の上あたり、九条武子邸Click!の近くにあった借家ないしはアパートのことなのかは、さだかでない。

◆写真上:下落合2108番地(現・中井2丁目)にあった、吉屋信子邸跡あたりの現状。
◆写真中上は、下落合370番地(現・下落合2丁目)にあった竹久夢二の下落合宅で左手奥の角地あたりが370番地。は、竹久夢二()と元妻・岸たまき()。
◆写真中下は、1926年(大正15)に下落合2108番地へ竣工した吉屋信子邸で、菊池寛が胃薬を乗せて帰ったのは左側の門柱。は、同邸の居間のイラストで、奥に見えているカーテンで仕切られた部屋は門馬千代の書斎。下左は、1922年(大正11)に撮影された最先端の洋装をしている吉屋信子。下右は、下落合で撮影されたとみられる吉屋信子。
◆写真下は、主婦之友社が門の内側から撮影した吉屋信子邸。は、吉屋信子の書斎イラストでこの椅子に座る彼女を撮影した写真Click!も残る。下左は、五ノ坂上に残る古屋芳雄邸。下右は、第三文化村にあった目白会館文化アパートの跡。

おまけ:下落合の晩秋サウンド
 森から聞こえてくるリコーダーの音は、女の子たちが吹くジブリアニメの曲かな。

目白中学校の移転と練馬の宅地開発。

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 1926年(大正15)の秋、下落合の目白中学校Click!は豊島氏の居城だった豊島城(現・豊島園)の西北側、豊島郡上練馬村2305番地(のち練馬高松町1丁目2305番地)へと移転している。なぜ、目白駅も近い好立地のキャンパスから、当時はかなり不便だったと思われる上練馬村へ移転したのか、当初は不思議に思っていた。
 目白中学校(東京同文書院Click!)は、近衛新邸Click!の敷地(下落合432~456番地)の西側に隣接Click!して建っており、キャンパス全体が近衛家の所有地だったのだが、近衛文麿Click!が借入金の返済に迫られたものか、同敷地を手放さざるをえなくなったのが移転の主因なのだろう。しかし、それにしても生徒が周囲から集まりにくい、市街地からはさらに遠い上練馬村をなぜ選んだのかが、ずっとどこかで引っかかっていた。移転後に撮られた目白中学校の写真を見ると、下落合にあったのと同じ意匠の第一校舎が、田畑の中にポツンと建っているのがわかる。おおよそ、中学生が集まりそうもない地域に、ではなぜ同校は移転したのだろうか?
 先年、豊島園へ行く機会があったので、周囲をちょっと散策してきた。散策のメインは、1924年(大正13)2月から豊島城跡の南側に造成がスタートした「城南田園住宅」だ。その名のとおり、豊島城の南側にあたるので「城南」なのだが、郊外遊園地・豊島園の開設は1926年(大正15)9月なのでいまだ存在しておらず、下落合では目白文化村Click!の第三文化村が販売されていた時期と重なる。城南田園住宅は、江戸期から藩邸で生活していた山形の旧・米沢藩(上杉家)出身の人たちが、大正の初期から「田園住宅組合」を組織して東京郊外の環境のいい地域に、田園住宅地を開発しようと計画していたプロジェクトだった。
 1921年(大正10)ごろから住宅地探しがはじまり、豊島城跡の南側に敷地を見つけて「城南田園住宅組合」を結成、1924年(大正13)の暮れまでに敷地の造成を終えている。翌1925年(大正14)7月には、同組合の倶楽部兼事務所が竣工し、電燈線や電話線も引かれて本格的な住宅建設がはじまった。城南田園住宅地が異色なのは、大正期に結成された城南田園住宅組合がそのまま現在まで活動をつづいている点だろう。同組合では、緑が濃い住環境を後世に伝えていくために、当初から建蔽率は敷地の4割、建物は隣地から最低でも6尺(1.8m)の間隔を空ける、敷地境界は塀ではなく生垣とする……など、細かな住宅建設の条件を規定している。2009年に同組合が策定した、城南田園住宅地の最新「指針」を以下に引用してみよう。
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 「指針」は、敷地と建物に関する住まいの基準と、道路沿いの緑化に重点を置いたまちなみの基準からなります。/また各基準には、「取り決め」(必ず守っていただきたいもの)と「提案」(要望や例示を参考に工夫をお願いするもの)があります。/いずれの場合も、近隣組合員の同意と、理事会の承認が必要なのは言うまでもありません。
 ◆敷地
 「取り決め」最小敷地面積が250㎡(例外規定あり)であること。
 「提案」敷地の高さは既存建物の地盤高さまでとすること。
 ◆建物
 「取り決め」例えば、一戸建て専用住宅が原則。
 「提案」例えば、隣の家の建物との間隔を民法の規定(50cm)以上とする。
 ◆まちなみ―緑化―
 道沿いの緑化は、建物・車庫・物置・擁壁などの工作物が直接道路に面し、まちなみから緑の連続性が失われる事を避けるためのいくつかの基準からなります。
 「取り決め」例えば、道路と宅地との境界部に生垣かそれに類する植栽を行うこと。
 「提案」例えば車庫・駐車スペース・擁壁などについて緑化の様々な工夫をすること。
  
 いま現在、このような規定を適用している住宅地は都内でも数が少なく、緑の減少を食いとめ環境を保全する指針としては、先駆けとなる大正期のケーススタディだろう。旧・米沢藩士の子孫たちを中心に結成された組合という性格上、お互いに結束しやすかったという側面もあるのだろうが、同じ地域で暮らす人々が住生活へ配慮しながら、後世まで住みやすい環境を伝えていくというテーマは、いまの東京において緑地の減少と都市型温暖化の進行とともに、もっとも切実なテーマのひとつとなっている。
 城南田園住宅を歩いてみると、コンクリートやブロックの塀ではなく、生垣なのがなによりも心を和ませる。庭に植えられた木々はいずれも大きく、大正期からのものも少なくはないのだろう。石神井川の河岸段丘の一部であるせいか、住宅地の外れには坂道があるのだが、その両側も緑で覆われている。緑と土面が多いせいだろう、コンクリートの街中に比べると明らかに気温が低い。夏は、おそらく3℃前後の気温差が生じるのだろう。住宅地のところどころに、「環境宣言」とタイトルされた一種の“闘争宣言”文が掲示されている。以下、引用してみよう。
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 環境宣言
 このみどり豊かな地域は、1924年(大正13年)以来一世紀近くにわたるわれわれの街づくりの努力によって、形成されたものです。/われわれは、組合契約に基き、この居住環境がさらに改善されるよう努力するとともに、すべての破壊行為に対して、組合の総力をあげて闘うことを宣言します。
     “平成24年住まいのまちなみコンクール国土交通大臣賞受賞”/城南住宅組合
  
 豊島園に隣接していることもあり、おそらく80年代のバブル経済のころはマンション建設をはじめ、さまざまな再開発の手が伸びようとしていたのだろう。それらの再開発(破壊行為=町殺しClick!)に対し、住民たちが結束して明確な拒否宣言をしている、めずらしい住宅街だ。
 目白中学校が移転した1926年(大正15)、南東500mほどに位置する城南田園住宅地は開発が進み、豊島園もすでに開園していて、昭和に入ると住民たちが続々と家を建てては市街地から転居してきた。いや、城南田園住宅に限らず、移転した目白中学校の周囲では、豊島園を中心に郊外住宅地Click!の開発計画が目白押しだったかもしれない。武蔵野鉄道Click!の少し先、東大泉では箱根土地Click!が下落合の目白文化村につづき、1925年(大正14)より田園学園都市「大泉学園」Click!の造成を開始していた。目白中学校では、多くの郊外住宅計画が進行中であり、近いうちに人口が急増しそうな地域だと見こんで、移転先に同地を選んだのではないだろうか?
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 だが、思惑はみごとに外れてしまった。武蔵野鉄道の沿線で、新たな住宅地の開発は予想以上に進まず、それほど住民の数が増えなかったのだ。関東大震災Click!を契機とした、東京市民の郊外への転居がひと段落してしまったことも、宅地開発を鈍らせる要因だったろう。これは、箱根土地による大泉学園の開発も同様で、宅地造成の50%弱を終えたところで、同社は開発を中止して撤退している。それにともない、武蔵野鉄道の乗客は思ったほど増加せず、同社はほどなく経営難に陥っていることは以前の記事Click!でも書いた。目白中学校は1934年(昭和9)、ついに新入生0人の最悪の事態を迎えてしまうことになる。

◆写真上:豊島園の南に隣接して、住みやすそうな街並みが残る城南田園住宅地の現状。
◆写真中上:練馬高松町1丁目へ移転後の、目白中学校の正門と校舎群。
◆写真中下上左は、昭和初期に作成された地図にみる豊島園をはさんだ目白中学校と城南田園住宅。上右は、1936年(昭和11)に撮影された杉並へ移転後の目白中学校跡。は、1936年(昭和11)撮影の豊島園と城南田園住宅地。は、同住宅地の住宅明細図。
◆写真下:城南田園住宅の街並みだが、さすがに名称から「田園」が削除されている。

季節はずれの怪談物語。(1)

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 1928年(昭和3)6月19日(火)の午後6時、梅雨入りのどんよりとした雨もよいで空の下、新橋竹川町の料亭「花月」で開かれた怪談会へ、仕事を終えた8名の話者が参集した。それから6時間にわたり、延々と幽霊・怪談話が座敷で繰りひろげられることになるのだが、このとき集まった人たちは、今日ではちょっと想像しがたいような豪華な顔ぶれだった。その模様は、1928年(昭和3)に発行された『主婦之友』8月号(主婦之友社)に収録されているのだが、同号は古書市場にはほとんど出まわらず稀少本となっている。
 まず、出席者の顔ぶれからご紹介しよう。当時は日本エスペラント学会の理事であり、東京朝日新聞社の顧問だった民俗学者の柳田國男Click!、東京帝大の医学博士だった橋田邦彦、劇作家で『女人藝術』Click!を創刊しているまっ最中の長谷川時雨Click!、小説家の泉鏡花Click!と里見弴、新橋「花月」の息子で洋画家の平岡権八郎に日本画家の小村雪岱、実業家で当時は東京電燈副社長だった小林一三の、計8名が幽霊・怪談話を披露しあった。こんな顔ぶれで、怪談会が開かれたのはめずらしいだろう。
 ちなみに、この怪談会席は新橋「花月」の息子・平岡権八郎が、泉鏡花とともに企画していたらしく、以前にも小山内薫らが参加した怪談会があったらしいことがわかる。また、『主婦之友』に掲載された怪談会の挿画は、出席者のひとりである小村雪岱が担当している。こんな面白い記事を埋もれさせてしまうのはもったいないので、日本橋の長谷川時雨Click!にちなんでと無理やりこじつけて、このサイトでご紹介したい。
 「花月」の座敷は、40畳の大広間が用意され、中央に大きな円卓、周囲には青すだれが張りめぐらされた。最初に口火をきったのは、『主婦之友』の編集記者のひとり、題して「幽霊にも目方のある話」だ。それは、ある僧侶から聞いたこんな話だった。
  
 ◎『主婦之友』記者の怪談
 これは或る寺の坊さんの経験談ですが、そのお坊さんが、或る日檀家へ行つて、お念仏をあげて帰らうとすると、仏壇の中から、年取つた爺さんの声で、『私は長らくこの家でわづらつてゐたものだが、家中の人から虐待されて、たうとう半分殺されたやうな死方をした。こんなところにゐるのは、厭で厭で堪らないから、どうかお帰りがけに、目黒不動のあたりまで伴(つ)れて逃げてくれ。』と言はれ、門口を出ようとした途端、後ろから、先刻の爺さんが、物をも言はず、お坊さんの肩に負さつたものです。勿論姿は見えてゐるわけではありません。大抵の人なら『きやッ……』と腰を抜かすところでせうが、流石坊さんだけに、少しも慌てず、待たせておいた俥で目黒の方へ向ひました。途中で車夫が度々振返へつては怪訝な顔をしてゐたやうだが、はあはあ喘ぎながら、やつとの思ひで、目黒不動の門前近くまで俥がつきました。
  
 すると、俥屋はすっとんきょうな声をあげて、「どうも、不思議でござんすね。こゝまで来る間、俥が重くて重くて、今にもへたばりさうな気がしましたが、不動様の前まで来たら、急に俥が軽くなつて、何だか薄気味が悪くなりました」と話したという。さっそく、泉鏡花が「それからどうなった?」とオチのない話に突っこみを入れたが、記者がわからないと答えると、柳田國男が「判らない方が面白いですね」と話のリアリティを擁護している。
 つづいて、怪談小説を数多く手がけた泉鏡花が、記者から作品の中には「実際にあつた話もあるでせうね」と水を向けられると、それにはハッキリとは答えずに、実話だという怪談をすぐにはじめている。さすがに、鏡花は話し馴れているせいか、この怪談会でももっとも長い怪奇譚を語った。
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 それは、房州の浜辺に住んでいた若い漁師夫婦の家で起きたことで、夫が漁に出て若い女房と赤ん坊が留守番をしていた。すると、たそがれの逢魔がときになって家の前を見ると、ひとりの薄汚い坊主が立って、家の中を薄気味悪くジロジロ見ていた。
 女房は、「乞食行脚」で空腹なのだろうと、おむすびを作って出したが見向きもしない。今度は、銭をにぎらせようとしたが受け取らず、ジッと突っ立って家の中を見ているだけなので、女房は怖くなってしまった。日がとっぷりと暮れてあたりは闇になり、急に黒い海が時化(しけ)だしたのか波音がザワザワと聞こえる。鏡花は、まるで噺家のような凄みのある語り口調だったらしく、一同はシーンとなって聞いていたようだ。
 真っ黒い影のようになって突っ立つ坊主に、若い女房は恐怖心を抑えきれず、家から逃げ出したところへ、漁からもどってきた同じ村の若い衆に出会ってホッとする。夕方からの気味の悪い事情を話すと、「お前さんが別嬪だからよ、そいつ怪しからん、畳んじまへ」てんで、坊主を袋だたきにしたあと、波打ちぎわまで引きずっていって「状(ざま)をみろ」と放り投げてきた。そのうち、女房の亭主も漁から帰ってきて夕食になった。
  
 ◎泉鏡花の怪談(その1)
 話をすると、亭主も気になつたか、御飯のあとで、磯へ出て見たが、暗い海の唯渺茫(びょうぼう)として、それらしい影も見えません。それなり寝たさうですがね。夜の更くるまゝに、次第に、荒れて来て、その物凄さ、永年浜辺に住み慣れた人たちでさへ、気味が悪いくらゐだつたといふのです。(中略) その夜も更けて、一時から二時の頃、浜のやゝ遠手で、何となく、おゝい……と呼ぶ声が聞えて来た。耳を澄ますと、確に人声、亭主は直覚的に、「難船だ。」と飛び起きざまに、嬰児を抱きしめた白い胸のはだかつた女房の、留めるのをも振切つて、駆出すと、畳り累つた海岸の巌の上に、ずぼりと立つた影は黒い坊主、『やい、何をしてゐる。』と思はず声を掛けると、何にも言はず、坊主は、ぐしよ濡のあらめのやうな法衣を開いて、頭越しに亭主の来た方、……その住居、すなはち新家庭の方へ指さしをする。(中略) ふと我家の方を振向くと、そのとき、波にもまるゝ浮巣のやうな、楽しいが気がゝりな、我家のうちで、おぎい、おぎい、おぎい、火のつくやうな嬰児の泣声とゝもに、ああッと女房の泣声が聞える気がする。我を忘れて、『何をしやがる。』と坊主につかみかゝらうとするとき、ニヤニヤと笑つて、ざぶりと打上げる浪に消えた。いちどきに悚気(ぞつ)として、風に飛ぶやうに帰つて見ると、いまゝで、すやすやと眠つてゐた嬰児は、目をみはつて。(ママ)色のかはつた女房の膝に、もう冷たくなつていたといふのです。
  
 話の途中からチャチャを入れていた柳田國男は、その海坊主について学者らしく「お化の法則に合ひません」といったことから、出席者たちは一同で爆笑している。
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 泉鏡花はつづけて、鏑木清方の照(てる)夫人から聞いた話として、不思議な「南天怪談」を披露した。照夫人が9歳ぐらいのときのこと、場所は茨城県の鹿島灘から4里ほどのところにある、盤木平という土地で起きている。
  
 ◎泉鏡花の怪談(その2)
 秋の末ごろ、近所の農家の男の児で、十二三ぐらゐなのが、重い病気に罹り、その頃は医者も、これといふのがなかつたので、お照さんのお父さんが、どなたか神様のお札をその児の家へ授けました、それを水に浸して飲ませ飲ませすると、熱がひいて、病気が治つた。ところが、それから後といふものは、その子供は、お照さん達と遊んでゐて、村はづれへ行くと、いつの間にか姿が見えなくなる。子供たちでも気になつて、誰ちやんがゐないよ、どうしたと、人々が騒いでゐると、山の道から、にこにこ笑ひながら帰つて来たといふのです。しかも両手には、この付近の山には見られない、南天や草花を沢山持つて来て、お照さんも時折その実南天をわけて貰つたことがあるさうです。(中略)『どこへ行つて来たの。』と、その親たちなり、誰でも尋ねると、『お宮のない神様達と遊んで来た。』と、いつたさうです。
  
 この怪談は、子どもが連れ去られて異次元を旅するという、典型的な“神かくし”あるいは天狗譚のように思えるが、やはり柳田國男がいちばん強く反応している。この話を聞いた彼は、「南天」つながりで伯耆で採集した怪奇譚を話しだした。柳田の話を聞いた泉鏡花は、それまで照夫人の話す南天を紅色だと想像していたが、ひょっとすると「白南天」かもしれず、同系統の怪異譚かもしれないと気づいている。
  
 ◎柳田國男の怪談(その1)
 伯耆の羽衣石といふ山には、不思議な話が伝つてをるさうです。こゝの城が落城のとき、金銀財宝を敵に奪はれるのが口惜しさに、城主はこれを地中に埋め、目標のために白南天を植ゑておいたといふのです。久しい間金銀財宝は空しく地中に埋れてゐるわけですが、村の人は如何かしてその白南天を探し当てようと、山の中を探しまはつても、如何しても白南天の在処は判らないのださうです。(中略) ところが、山へ草を刈りに行つた若者達が、家に帰つて草を解いて見ると、知らぬ間に白南天を刈り込んで来てゐることが、時々あるさうです。それを翌日、場所を目当に探してみるが、如何しても見当らないといふのです。
  
 柳田が話し終えたとき、『女人芸術』7月号(創刊号)の仕事でてんてこ舞いだったと思われる、長谷川時雨がようやく「花月」の会席に到着し、『主婦之友』の記者によれば紅一点の参加で、急に座敷が明るくなったと書かれている。ちょうどその同じタイミングで、柳田國男は再び別の怪談を語りはじめた。会津生まれの「林男爵」が体験した、キツネにまつわる話だ。
  
 ◎柳田國男の怪談(その2)
 英国大使の林さんから聴いた話ですが、林さんが青年の頃、犬を連れて山へ狩に出かけた。犬といふものは、いつも先へ走つて二三町も行つて、また戻つて来るものだが、その朝も犬が遠くへ行つてゐるうちに、突然何ともかともいへない厭な臭がして来て、実に変な気持になつたので、ふと頭を上げて右手の山を見ると、二間ばかり上の方の岩の蔭に、狐が一匹坐つてこちらを見てゐたさうです。そしてその狐の周囲だけが、ぼんやりと明るくなつてゐるやうに感じたさうです。そのうちに、犬が尾を振りながらまた戻つて来たと思ふと、はつと狐が飛びのき、そのいやァな気持がしなくなつたといふ話でした。
  
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 柳田國男の話が終わると、黙ってニコニコしながら聞いていた帝大医学博士の橋田邦彦が、泉鏡花から「橋田さんは、づるいよ、何(ど)うも、微笑して、唯聞いておいでなすつて」と、突っこみを入れられている。怪談会に出席していながら、他人事のようにひとり楽しみながら聞いている橋田にも、なにか話せと水が向けられたかたちだ。
                                    <つづく>

◆写真上:国芳『東海道五十三対』から、桑名「船のり徳蔵の伝」(部分)の海坊主。
◆写真中上は、1928年(昭和3)発行の『主婦之友』8月号に掲載された「幽霊と怪談の座談会」の扉。は、日本画家の小村雪岱による挿画で「幽霊俥」。
◆写真中下:怪談会で興奮しノリノリになっていく、柳田國男()と泉鏡花()。
◆写真下は、小村雪岱の挿画「海坊主」。は、1928年(昭和3)現在の『主婦之友』の装丁で、写真は同年2月号「中流模範住宅新築号」の表紙。

学習院昭和寮の寮誌「昭和」。

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 下落合406番地にある学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)が、近衛町Click!南端のバッケの丘上にあたる帝室林野局敷地跡に建設されたのは、1928年(昭和3)のことだ。翌1929年(昭和4)の8月あたりだろうか、前年の入寮時から同年4月までの寮内活動や寮生たちの手記を集めた、年に2回刊行される寮誌「昭和」が創刊された。
 以前にご紹介した、目白中学校Click!の校内誌「桂蔭」Click!が生徒たちの文集に近く、紙質や装丁もそれなりに粗末で簡易だったのに比べ、寮誌「昭和」は良質な用紙に高品質な装丁と印刷でつくられた、200ページを超える本格的な雑誌仕様になっている。わたしが手に入れたのは、1932年(昭和7)の4月から10月までの寮内の活動記録や寮生たちのエッセイ・小説・詩歌などを収録した、1933年(昭和8)年2月発行の「昭和」第8号だが、80年後の今日でも状態がそれほど劣化しておらず、手軽に読むことができる。
 学習院昭和寮は、おもに学習院中等科を卒業した高等科の学生たち(17歳から20歳まで)を集めた寮だが、同誌を読むと1932年(昭和7)から翌年にかけては、文科と理科の学生がちょうど半々ぐらいの割りあいだったようだ。昭和寮には、別に地方から東京へとやってきた学生ばかりでなく、東京に自宅のある学生も昭和寮へ入寮して自室をもっており、また入寮せずに近くの自邸から学習院へ通う高等科の学生もいたらしい。
 いずれも裕福な家庭の子息が多く、昭和寮の自室に加え、東京市内にある自邸の勉強部屋、軽井沢の別荘にある勉強部屋と、自室が3つもある学生もめずらしくなく、夏休みなどはその3ヶ所を転々としながらすごす様子が記録されている。また、夏休みなど学校の長期休講を利用して、海外旅行に出る学生もめずらしくなかったらしい。
 学習院昭和寮は、北に面した正門近くに建てられた塔のある本館と、南側に並ぶ4棟の寮とで構成されていて、たとえば4棟のいちばん東側にあたる第一寮を例にとると14室、つまり14人の学生が寝起きしており、寮全体では60人近くの学生たちが暮らしていたことになる。学生たちは、高等科を卒業すると寮を出て大学へ進むことになるのだが、ほとんどの学生が全国の帝大、つまり官制大学へと進学していた。
 昭和寮の生活は、朝の6時30分に起床して洗面したあと、本館の食堂へ集合して朝食をとるところからスタートする。だが、目ざまし時計をかけて寝ても、どうしても起きない学生のもとへは、「女丈夫」で怖い「オバサン」(寮母)がドアをドンドン叩きにやってくる。6時30分から、15分間の猶予はあるようだが、6時45分になっても起きない学生は彼女の洗礼を受けることになった。寮の朝は、「オバサン」のノックからはじまる。それでも起きないと、怖い「舎監先生」が登場してくる。同誌から、Ma Chan-shan(慶光院利彰/第三寮)が書いた『ON EARLY RISING』から引用してみよう。
  
 ON EARLY RISING
 楽しい此の昭和寮生活の中で我々の最も苦痛の種となるのは起床ではないでせうか、目覚時計をかけて眠つても朝六時半に鳴り出すと無意識の中に手を伸すのらしいが、何時の間にか鳴り止んで、いつともなしに御丁寧にも夢の続を見るなんて。七時に十五分位前になれば必ずオバサンのKNOCKが聞こえるらしい。何時も反射的に答へはするが、決して自覚はしてゐない、之心理学上の珍現象である。それでも起きずに執拗くねてゐる時にはわざわざ舎監先生の御足労を煩はしてやつとの事正気に帰る始末、何とも御恥しい次第ではある。
  
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 「昭和」第8号は、たまたま古書店で見つけたので、昭和寮の周辺、つまり下落合の様子が記録されているのではないかと思いさっそく入手した。同誌は、寮生のひとりで「オマル」というあだ名で呼ばれた佐竹義正という学生が、結核のために郷里の熊本で死去したため、冒頭のグラビアや記事は追悼号のような編集になっていた。だが、そのうしろの記事は通常号と変わらないらしく、寮生たちのさまざまな創作が掲載されている。
 同誌では、第三寮にいた宮丹貴夜志というペンネームの清岡元雄『随想随感(たわごと)』の中に、昭和寮周辺の情景が登場している。どこまでが幻覚・幻想で、どこからが現実なのかわかりにくい文章で、被害妄想気味な箇所もある作品なのだが、1932年(昭和7)6月16日の手記から、ちょっと引用してみよう。
  
 帰寮の途中、交番の先の大きな木の前で歩き乍ら考へた。/黒い木 蔭に人/左側は木刀を持ち、右側を行けば短刀で斬りつけられる。/僕は初め左を選んだ。僕は死にたくない。打たれても生きて居たかつた。然し少し前で翻然右を選んだ。斬りかゝつて来たら――いや殺されはしない――僕は彼を取つて抑へる。
  
 昭和寮へ帰る途中、近衛町の交番前にさしかかったところで、前方の近衛篤麿邸Click!玄関跡にあった馬車廻し(車廻し)に生えている、双子のケヤキClick!から幻想した文章なのだろう。左右のケヤキの陰に、それぞれ木刀と短刀を手にした暴漢がひそんでいるという想定だ。最初に読んだとき、なにかの、たとえば思想的なメタファーかとも考えたのだが、他の文章を読むとそうでもないらしい。
 著者の清岡元雄はこのとき、学習院の文芸部で交友誌「輔仁会雑誌」を編集しているが、左傾した文芸部の学生たちを排除して、「中立」的な立場で同誌を発刊しようとしていたようだ。当時、学習院でも左翼思想に影響された華族の子弟たちが、次々と特高Click!に逮捕され目白警察署へ連行されるような状況だった。特に「輔仁会雑誌」の編集委員を兼ねていた文芸部は、大半の部員たちが検挙されるというような状態だった。
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 もうひとつ、清岡元雄『随想随感(たわごと)』には下落合の情景が描かれている。同年7月10日、学期末試験の最終日に徹夜した早朝、第三寮の屋上へ出て下落合の街を見わたした情景だ。
  
 学期試験の最後の夜を徹夜して充血した眼に、今朝の朝靄の景色はとりわけて美しかつた。濃い靄に少し遠くは見えない。家々もまだ戸を開かぬ朝の沈黙(シゞマ)に、木立の遠近だけが、しかもはつきり浮んで居た。しつとりと空気が濃い。/寮の屋上から泳ぎ出せさうに
  
 当時は、いまだ土の地面が多かったので、気温が低めになると濃い朝もやが立ちこめる夏の日があったのだろう。いまでは、コンクリートやアスファルトに覆われた地面が多いせいか、朝もやが立つ日は数えるほどしかない。もっとも、わたしが起きたときには気温が上がり、すでに消えてしまっているだけなのかもしれないのだが……。
 また、同年10月1日に昭和寮を出て下落合を抜け、おそらくオリエンタル写真工業Click!の第1工場の南にあったプールか、あるいは下落合1147番地にあった落合プールClick!へ出かけようとしたところ、道に迷って中野区の上高田あたりへ出てしまった「大東京」と題する詩もつくっている。
  
  大東京
 プールに行く積りで道を間違へて
 丁度散歩か(ママ)出来た
 此処は 中野区
 東京市はまた水の上に浮いた油
 広くて薄い層だ
 その下に武蔵野が
 薄の赤い穂に呼吸してゐる
  
 1932年(昭和7)10月1日は、東京市が35区編成Click!となった年であり、ちょうどこの日に「中野区」や「淀橋区」(現・新宿区の一部)が誕生している。10月になってもプールに入りたくなるほど、この年は残暑がつづいたのだろうか。この年の5月、大磯の裏山で慶大生と華族の娘との坂田山心中Click!が発生しており、清岡元雄は「先般新聞の三面記事を写真入で賑した大磯の心中事件の如きも僕は卑怯者の所為と云ひ度い」と批判的だ。
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 「昭和」第8号には、ペンネーム騎士夢兒によるSF小説が掲載されているが、その内容がちょっとにわかに信じられない。米海軍の中尉が、日米戦争中に体験した海戦の様子を語るという手法で、フィリピンを占領した日本軍と制海権をめぐり、真珠湾を出撃した米海軍の巡洋艦と駆逐艦が、日本艦隊を求めて魚雷戦を展開する……というようなストーリーなのだ。その様子が、まるでソロモン海戦(1942年)をほうふつとさせるのだが、同作が書かれたのは1932年(昭和7)で10年も前のことだった。第一寮に住んでいたこの学生には、10年後の未来が見えていたものだろうか。でも、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1928年(昭和3)に建設された学習院昭和寮(現・日立目白クラブ)。
◆写真中上は、「昭和」第8号の表紙()の内扉()。は、同誌の目次()と奥付()。編集発行人の馬場轍は、昭和寮に隣接する下落合306番地の学習院官舎に住んでいた、学習院教授で学生課長だった人物だ。
◆写真中下は、昭和寮本館の尖塔へとつづく最後の階段。は、1933年(昭和8)に低空の飛行機から撮影された昭和寮の全景。
◆写真下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる学習院昭和寮。実際は分離している第二寮棟と第三寮棟が、接続しているように誤って採取されている。は、本館の2階から北を向いて近衛町方面を眺めたところ。

土曜日の夜にすっかり酔っぱらって、更新日を1日まちがえてしまったようです。この記事は、17日(月)ではなく16日(日)にアップするはずでした。失礼しました。

季節はずれの怪談物語。(2)

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 「花月」で開かれた怪談会席Click!で、いちばん困っていたのが帝大の医学博士・橋田邦彦だろう。「ぃやぃやぃや、ど~もお疲れさまです。実は、あたしもこんな怖い経験をしてるんだ」などと話してしまえば、大学内でうしろ指Click!をさされるばかりか、ヘタをすると教授会で先任教授から「キミ、自然科学をなんだと思っているのかね?」などと追及され、教職を追われかねない危うさを感じていたかもしれない。事実、水を向けられた橋田は、多少しどろもどろになっている。
 だが、泉鏡花Click!は追いかけるように「死人の爪や髪が伸びるという話」は、ほんとうかどうかを訊ねている。それに対し、橋田は「さあ、そんなことはどうも私にはわかりませんが。見まちがひではないでせうか?」と、一度は質問をはぐらかそうとした。ところが、柳田國男Click!がすぐにそれを否定し、里見弴がつづけさまに事例をあげて問うと、まったくちがうことをいいだしている。
  
 ◎橋田邦彦の怪談じゃない話
 人間は、呼吸が止み、心臓の鼓動が止つても、身体全体が死んではゐないのです。その間に、爪も髪も伸びても差支はありませんね。死ぬとすぐ爪を剪り、髯を剃つてみれば、すぐわかる話ですね。
  
 泉鏡花と里見弴が、さらに「ほんとうにあった怖い話」の実例をあげて死者の“黄泉がえり”を追及しにかかるのだが、橋田は「そんな話もあるやうです」と返答に窮している。そこで、長谷川時雨が助け舟をだして話を引きとった。
 長谷川時雨Click!の怪談は、彼女が夫の三上於兎吉とともに、神楽坂の赤城神社も近い崖線沿いの赤城下に住んでいたころの出来事で、「死者の知らせ」あるいは「虫の知らせ」とでもいうべき異様な体験をしている。それは、死んだばかりの人間が座布団ほどの大きな顔になって、彼女のもとへ知らせにきたという怪談だ。
  
 ◎長谷川時雨の怪談(その1)
 赤城下の路地裏にゐた頃の話です。(中略) 御承知でせう、詩人今井柏楊を。今でも銚子君が浜に三富朽葉、今井柏楊二人の碑がありますが、その頃、あの人達は銚子の別荘に暮してゐまして、三上も(中略)一緒にいつてゐたのですが、歯が痛くて東京へ帰つて来た翌日、昨夕ステーションまで送つて来た二人が水死したのです。その日あたしは鶴見の家までいつて、帰つて来たのは宵でした。細い路地を煉瓦塀に沿つて行くと、覆ひかぶさるやうに青葉が茂つてゐて、狭い潜戸のあるところまで来ると、木戸の上の、青葉の中に、突然、こんな大きな――今井さんの顔が、かう下を覗くやうにして、白い綺麗な歯並を見せて、にこりと笑つてゐるのです。(中略) その顔を、青葉の中にありありと見たあたしは、妙な気持で木の下闇をぬけて入つてゆくと、家の中は真つ暗で、しいんとしてゐるのです。急いで電燈を灯けて見ると、机の上の原稿紙に三上の筆跡で、大きく『三富と今井が死んだ。死骸を探しに銚子へ行く。』と書いてありました。
  
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 柳田國男は、おそらく全国で採集した怪談奇譚の中にも多くの事例があったのだろう、長谷川時雨の話と「虫の知らせ」とを結びつけているようで、「死の予感といふことは、あり得べきことです」と発言している。つづけて、平岡権八郎の奨めにしたがって、彼女は自宅の離れで「疫病神」を見たという話を披露している。
  
 ◎長谷川時雨の怪談(その2)
 佃島に住んでゐた頃、妹が腸チフスで、離室の二階に寝てをりました。あたしはずつと枕頭に付き切りで看病してゐましたが、或る夜、ふと、後ろを振返つてみると、あたしの後ろに……床の間のずつと隅に、十五六とも覚しい男の子が、腕組みをして、しやがみこんでゐるのでした。その髪の毛は、ひよろひよろと焦げついたやうになつてゐて、顔は細長く、丁度茄子の腐つたやうな色艶をしてゐるのです。(中略) はつとして、とても、もう一度見るだけの勇気はありません。怖かつたんですが、こゝであたしが負けたら、妹はこのまゝ死んでしまふのではないか知ら、と思つたんです。(中略) うんと勇気を奮つて、あたしはもう一度、見てやつたのです。すると、そこには、もう何も見えないんでした。えゝ、それから妹の病気は、快くなりました。
  
 柳田國男は「その眼に負けると最期です」などと、よくやったといわんばかりに時雨をたたえ、泉鏡花は「疫病神に勝ったわけですな」と称賛している。そのとき、橋本博士がどのような反応をしていたかは定かでないが、「ど~せ、床の間にあった軸画か、隅に置かれた三味かなにかを見まちがえただけじゃん」と、苦笑していたかもしれない。
 泉鏡花によれば、ある地域で目撃された「疫病神」の姿に多いのは「婆さんと乞食と坊主」だそうで、「坊主と乞食」の場合はそれほど深刻ではないが、「婆さんの疫病神」の場合はひつっこくて退散させるのがむずかしい……というような話をしている。加えて、柳田國男が「婆さん」疫病神の目撃例がいちばん多く、「人間よりは目下なんだから、これに負けてはなりません」と、わけ知り顔で教訓めいた話をした。
 ここにおよんで、帝大の橋田医学博士は「この人たち、いったい、なんの話をしてるんだよう!」と、出席したことを後悔したかもしれない。出席者の顔ぶれからして、当代一流の「文化人」たちだと思って「花月」にやってきたのに、いってることがわけのわからない世迷言だらけで、「誰か、こいつら止めてよ」とでも思っただろうか。
 鏑木清方の照夫人は、よほど怪談に遭遇する機会が多かったものか、泉鏡花ばかりでなく洋画家の平岡権八郎にも、あれこれと怪談話を語っていたようだ。平岡が「天井裏に消えたお婆さん」を話しだしたとき、橋田博士は「かんべんしてよ、そろそろお開きにしないかな?」と、天井を仰いだかもしれない。
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 ◎平岡権八郎の怪談(その1)
 鏑木の奥さんが、お産をして、産褥熱が堪(ひど)かつたので、夜中に、吊台で病院に運ばれて行つたことがありました。(中略) 病院に着くと、既に刻限過ぎなので、裏門の、死骸の出入りする非常口から、吊台を担ぎ込んださうです。(中略) 入院して二三日経つた或る夜、奥さんがふと眼を覚すと、仰向きに寝た奥さんの頭の後ろの上に、物凄い婆さんが、髪を振り乱して坐つてゐて、上からぢつと奥さんの顔を見下してゐたさうです。(中略) つまり、その婆さんは、空に坐つてゐたわけですよ。奥さんは、こ奴に負けてはならぬと、怖さを忘れて、睨みかへしてゐたさうです。(中略) やがてその婆さんは、忌々しさうに舌打をして、『お前さんは剛情な女だね。』と捨台詞を残しながら、すうつと、部屋の隅まで後ずさりして、天井裏へ掻き消すやうに見えなくなりました。
  
 やたらに(中略)が多いのは、柳田國男と里見弴、泉鏡花が話に興奮して、随所で茶々を入れ平岡の話の腰を折っているからだ。この怪談は、泉鏡花も以前に照夫人から聞いていたらしく、平岡の話を引きとり、このあと看護婦が照夫人の病室へ駆けこんでくる、つづきのくだりから話しを接いだ。
  
 ◎泉鏡花の怪談(つづき)
 その途端に、ばたばたと廊下を走る女の足音がして、慌しく入つて来たのは受持の看護婦でした。『奥様、何か変つたことはありませんか。』と、息をはずませて訊ねるので、お照さんは、『別に何ともありません。』 看護婦が、ほつとしたやうな顔付で、『実は、今、奥様のお部屋から、誰か出たやうな気配がしましたので、変だ……と思つてをりましたら、一つおいた次の病室の患者さんが、突然、天井を指さして、「何か来た。何か来た。」と譫言を言ひながら、息を引き取られました。』と話したさうです。これには流石のお照さんも、思はずぞつとしたといふことです。
  
 「なにいってるんだよう。帝大病院でもよくあるんだけど、やつれた入院中のもうろく婆さんが、病室をまちがえただけなんだよう!」と、橋田博士はノドもとまで出かかったかもしれない。でも、それを黙って聞いていた里見弴が、「さう言はれると、僕にも思ひ当ることがありますよ」とすぐに次の話をはじめたので、「ヲイヲイ、あんたもかい!」と橋田博士はため息をついただろうか。
 里見弴の怪談は「疫病神」というよりも、「死神」の話だった。里見の話は、1928年(昭和3)現在から12~13年前に経験した大正期の出来事で、大阪に家族を置いたまま里見ひとりが、東京の父親の家で暮らしていたころのものだった。
  
 ◎里見弴の怪談(その1)
 或る晩、私が散歩に出て、麹町の家に帰つて来る途中、或る寂しい横町の石垣の下に、折釘のやうに首ばかり前につン出した、白髪の婆さんが立つてをりました。(中略) 夏の宵のことで、まだ散歩の人もちらほら見えてゐるくらゐでしたから、私は別にその婆さんを怪しいものとも思ひませんでしたが、ほんのちよつと通り過がりに見たゞけにも拘らず、今日でも判然とその姿を思ひ浮べることができるほど、強く印象されてゐます。家に帰つてみたら、大阪の家内から電報で、長女の死を知らして来ました。(中略) 尤もこれは、もつと詳しく『夏絵』といふ作に書いておきましたが、まさか死神だとは、今が今まで考へて見たこともありません。
  
 このような怪談会は、以前から「花月」で夏になると開催されていたらしく、小山内薫や泉鏡花が出席していた別の会もあったらしい。その席で、芸者の“花千代”が語った怪談が怖かったらしく、鏡花はこの席でも再び繰り返して語っている。
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 このあと、泉鏡花が話を引きとって「死神」の話がつづくのだが、東京電燈副社長であり阪急電鉄や宝塚の立役者である小林一三は、いまだ仕事が抜けられないのか姿を見せていない。いちおう小林が到着するまで、「花月」怪談会はお開きにできないので、橋田博士は多少イライラしながら沈黙を守りつづけていたものか。「死神」につづいてフラフラ飛びまわる「人魂(ひとだま)」の話になると、彼は沈黙をやぶり一度だけ発言をしているのだが、もう半分ヤケになっているとしか思えない口調になっている。
                                   <つづく>

◆写真上:1890年(明治23)制作の、歌川芳幾『百もの語』の1作「雨女」(部分)。
◆写真中上は、座談会記事に描かれた小村雪岱の挿画「妖狐」。は、歌川芳員『百種怪談妖物双六』(部分)より化けギツネの王者「金毛九尾の狐」。
◆写真中下は、こういう席ではいろいろと気配りを欠かさない長谷川時雨。は、新橋の料亭「花月」の息子であり洋画家の平岡権八郎。
◆写真下は、小村雪岱の挿画「死神」。は、本記事にまったく関係がないけれど、小学生のとき「少年サンデー」の連載で怖かった川崎のぼる『死神博士』。


吉屋信子の下落合風景「牛」。

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 吉屋信子Click!は、下落合を散歩するときに犬を連れ歩いていたが、ときには手に入れたカメラも携帯していたようだ。彼女が散歩Click!に持ち歩いていたカメラは、大正期の末に米国コダック社から発売され、さっそく日本へも輸入されているコンパクトカメラ「ベストポケット・コダック」という機種だった。そして、下落合のあちこちを写真に収めては、プリントをしてアルバムに貼っていたようなのだが、それらの写真は戦災で焼けてしまったものか、そりともアルバムが行方不明なのか、現在ではほとんど目にすることができない。
 しかし、下落合を撮影した写真の中から、雑誌社へ提供されたものは現存している。冒頭の写真は、1928年(昭和3)の「主婦之友」8月号に掲載された、吉屋信子撮影による「下落合風景」だが、ホルスタインと思われる道端の乳牛を撮影している。そして、牛の背後には、前年に開通したばかりの西武電鉄Click!(現・西武新宿線)の線路がとらえられている。線路沿いに、最初期の西武線に設置された送電鉄塔が写っているのも貴重だが、周辺の風情がかろうじてとらえられているのがめずらしい。
 写真が掲載されたのは、「主婦之友」8月号(7月発売)なので、この情景が撮影されたのは同年の5~6月ごろの散歩だろうか。中央には、近くの牧場あるいは委託を受けた飼育農家の乳牛が、葉桜になったサクラと思われる木につながれている。その向こうには西武線の真新しい線路が見え、線路に沿った三間道路らしい道が左手につづいている。線路を越えた向こう側の右端には、平屋と思われる家の屋根や切妻と、変圧器が載る電力柱Click!が確認できる。その手前に見える棒状のものも、やはり電柱だろうか。線路の奥にも、屋根のようなかたちが連続して見えるので、家並みがありそうだ。同号に吉屋信子が書いた、写真のキャプションから引用してみよう。
  
 牛といふ動物は何んとなく好きです。この間散歩のとき愛用の粗末なベストで撮つたのですが、すつかりポーズをくづ(ママ)されて、がつかりしました。
  
 下落合2108番地に建っていた、吉屋信子邸Click!の近くにあるこの風景は、いまどうなっているのだろうか? さっそく、場所を特定してみよう。
 まず、1928年(昭和3)現在で、このように住宅がほとんど見られない地域は、五ノ坂寄りにある吉屋邸のさらに西側、すなわち下落合4丁目(現・中井2丁目)の最西部にしか存在しない。また、そのような環境で線路際にほぼ並行した三間道路が設置されている場所も、下落合の西端を除いてほかにはない。すなわち、吉屋信子は自宅を出て南側の斜面にある路地を抜け、五ノ坂へ出たあと一気に坂下の中ノ道Click!(現・中井通り)へと下りている。そして、道路を道なりに西へ歩いていった。
 現在、この道路の突きあたりは佐伯祐三Click!が描く「下落合風景」Click!の1作、「洗濯物のある風景」Click!に描かれた農家のある角で、妙正寺川に沿ってほぼ直角に北へと折れているけれど、吉屋信子がこの写真を撮影した1928年(昭和3)現在は、いまだ道路らしい道路が線路沿いを同作品の農家まで通っていなかった。それは、本来存在した斜めの道路が、西武線の敷設で断ち切られ線路の下になってしまったため、急きょ線路沿いに新たな三間道路が設置されたことによる。この新三間道路は当時、現在の七ノ坂下までしかいまだ拓かれていなかった。
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吉屋信子1928.jpg
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 吉屋信子の写真にとらえられた三間道路は、前年の西武線開通と同時に造成されたばかりの道であり、本来の落合村からの道路筋は、写真の奥に見える左へと屈曲していく道が、そのまま真っ直ぐ手前の線路敷地を、右方向へ斜めに横切っていた。奥に見えている屈曲部は、踏み切りのある六ノ坂下にあたる地点で、そこから50mほど離れた位置に立ち、吉屋信子はほぼ真東を向いてシャッターを切っている。画面の右端に見えている家のさらに右手、吉屋信子がもう少し画角を広めに撮影していたなら、おそらく上落合三輪に建っていた三の輪湯Click!煙突Click!がとらえられていただろう。
 すなわち、吉屋信子が立って愛用カメラの「ベストポケット」をかまえているのは、下落合2143番地前の路上で、線路向うに見えている家のあたりは、1928年(昭和3)現在は葛ヶ谷(現・西落合)の飛び地だった葛ヶ谷御霊下と呼ばれたエリアで、1932年(昭和7)の淀橋区の成立とともに下落合5丁目となる地域だ。
 吉屋信子は、五ノ坂下に出たあと右折し西へブラブラと歩いていった。五ノ坂下の右手には、付近の地主が建てた大きな西洋館Click!(下落合2133番地)が竣工しており、すでに誰かが住んでいただろう。4年後、『放浪記』がヒットした林芙美子Click!手塚緑敏Click!とともに上落合三輪850番地Click!から引っ越してくる、“お化け屋敷”Click!と名づけた五ノ坂下の西洋館だ。中ノ道は、ゆったりと西へカーブを描きながら、ほどなく西武線の線路が見えはじめ踏切りのある六ノ坂下へとさしかかる。すると、吉屋信子は線路際の並木につながれた牛を発見した。彼女はこわごわとホルスタインへ近寄り、ベストアングルで撮影しようとシャッターを切ろうとしたら、急に牛が向きを変えて線路端の草を食(は)みはじめてしまった。「う~ん残念、でも現像したら千代子に見せてあげよう」と、3ヶ月後に迫るフランスへの渡航準備をはじめた実行力のある門馬千代を想いながら、散歩を切りあげてそそくさと家路についた……、そんな情景が想い浮かぶ。
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 さて、このホルスタインはどこからきたのだろうか? 上落合にある三の輪湯の南には、椎名町の安達牧場Click!と提携してキングミルクの原乳を生産する、牧成社牧場Click!が営業していた。もう少し時代がくだると、三の輪湯の西側にキングミルクの牛乳店がオープンすることになる。ただし、牧場から牛をわざわざ連れ出して、付近を散歩させることはありそうもないので、この牛は牧成社牧場から委託飼育のために、付近の農家へとどけられる途中なのかもしれない。
 東京の市街地へ新鮮な牛乳を供給するために、次々と郊外に開業した「東京牧場」Click!だが、住宅地と近接している地域Click!が多かったために、それほど広大な面積の牧場地を確保することができなかった。したがって、牛の頭数を増やすのにも限界があり、牛乳の需要が急増して生産量が追いつかなくなると、付近の農家へ乳牛を数頭ずつ預け、飼育と搾乳を委託するビジネスが盛んに行われるようになる。牧場では、早朝に委託農家をトラックでまわり、原乳を集めては加工場へと運んでいた。おそらく、吉屋信子が遭遇したホルスタインも、近くの農家へとどけられる牛の1頭だったのではないかと思われる。
 吉屋信子が丘上の目白文化村Click!ばかりでなく、中ノ道を西へとたどる散歩をしていたことが判明した。ひょっとすると、佐伯が描いた「洗濯物のある風景」の農家を目にし、さらにはそこから屋根が見えたと思われる、桜ヶ池の不動堂Click!までブラブラ歩いてやしないだろうか。少なくとも1928年(昭和3)以降は、ポケットにカメラを入れて歩いていたと思われるので、付近の風景へ向けシャッターを切っていた可能性は高い。
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 吉屋信子は生涯にわたり、8軒の自宅を建設している。敗戦を鎌倉の大仏裏に建てた別邸で迎えた彼女だが、下落合2108番地から転居した先の、市谷砂土原町3丁目18番地に建てた本邸は空襲で焼けてしまっている。もし、下落合時代のアルバムが鎌倉の別邸へ運ばれているとすれば、1926年(大正15)から1935年(昭和10)の10年間にわたり「ベストポケット」で撮影された下落合風景の写真類が、アルバムに残っていやしないだろうか。

◆写真上:1928年(昭和3)の「主婦之友」8月号に掲載された、吉屋信子撮影の「牛」。
◆写真中上上左は、同誌掲載の吉屋信子プロフィール。上右は、彼女が愛用していた米国コダック社の「ベストポケット・コダック」。は、葛ヶ湯御霊下(のち下落合5丁目)に点在する家々のクローズアップ。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」で、吉屋邸が「吉田」とまたしても誤採取されている。は、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」で、新たに線路沿いに三間道路が拓かれているのがわかる。は、吉屋信子が市谷砂原町へ転居して1年後の空中写真にみる散歩コース。
◆写真下は、撮影ポイントの下落合2143番地路上の現状。六ノ坂下から、戦後さらに道路が直線化されているのがわかる。中左は、吉屋邸から五ノ坂へと抜ける路地で少し前に舗装された。中右は、吉屋信子が頻繁に上り下りしたと思われる五ノ坂。は、戦災からまぬがれた中ノ道の一隅で、いまでも吉屋信子と同時代の家が残っている。

“落合パズル”11年めに感じるダイナミズム。

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 きのうで、このサイトをはじめてから丸10年がすぎ、きょうから11年めに入る。文章を書いていると、ときどき果てしない複雑なジグソーパズル、ときに謎ときゲームへ挑戦しているようだ……と感じることがある。
 落合地域に残る、地元のさまざまな口承伝承や伝説(フォークロア)、物語、事件、エピソード、ウワサ話や風聞のたぐい、そしてこの地域に関連して残された膨大な紙資料(写真含む)の山が、パズルを構成するひとつひとつのピース(あるいはピースの一部)にあたるわけだが、それさえも、すぐにあてはめられる整然としたピースのかたちをしているとは限らない。まずは、パズルへとあてはめる以前に、それに見あうピースづくり、あるいはピースが分解してしまった断片探しから、はじめなければならないこともある。
 そんなことをエンエンと繰り返して、11年めを迎えてしまった。さすがに、そろそろ飽きてきた気もするのだけれど、目の前にピース(やその断片)の山が、PCのフォルダやクラウドのストレージ、ftpサーバに、あるいは紙資料の場合は段ボール箱やクリアファイルに綴じてそのままになっていると、どうしても気になってつい手を伸ばし、パズルボードのあてはまる部分を横目で探しはじめてしまう。あるいは、この断片とあの断片とがつながるかもしれない……とか、現在はこの部分が欠落しているけれど、そのうちにピッタリな切片が見つかるかもしれない……などと考えはじめると、その欠けた切片のありかや接着剤(材)を探しにあちこち歩きまわったり、資料の山をひっくり返したりしながら、知らないうちにPCの前に座って記事を書いてたりする。
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 わたしには“霊感”Click!はまったく存在しないし、アタマの回転も記憶力もそれほどよくはないけれど、なにかの“気配”Click!“気脈”Click!、自然ではない人工的で不可解な“意図”Click!や人為的な“匂い”Click!を、どこかで感じとれる性格をしているようだ。だから、なにかに“ひっかかり”をおぼえると、それがアタマの基底に沈殿し、別の新しい発見がきっかけとなってスイッチが入ったとたん、沈殿していた課題が異なる姿で大きな意味をもって浮上してくる……というような経験を何度かしている。それが、いってみれば楽しく感じる瞬間でもあるだろうか。こんなことを10年間もつづけていると、それはもはや生活習慣のようになってしまって、ほかの日常的な暮らしが想像しにくくなってしまう。まさに、スパイラル状に繰り返す“生活習慣病”の領域へと踏みこんでしまったようだ。
 それでも、“落合パズル”ゲームをやめないのは、パズルをかたちづくる、あるいはピースをあてはめるときの想像や推理、予測・予想などの組み立て作業が、楽しくて面白くてしかたがないからだろう。多彩な状況証拠や物的証拠、また、さまざまな地元の証言を積み上げつつ、ひとつの時代風景の基層を組み立て、やがて全体像を構築していくのは、それが実際にあった出来事や人間関係であるがゆえに、上質な推理小説を読むよりも面白いことがある。そう、単なるフィクションではなくリアリズムの面白さなのだが、寝食も忘れて熱中してしまうことも再三にわたってあるのだ。このような密度の濃い精神的なダイナミズムは、小学校時代に図書館で夢中になって読んだドイルの作品や、夏休みの自由研究の高揚感にも似ているだろうか。
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おとめ山公園芝庭.JPG

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 ひと口に“落合パズル”ゲームといっても、当然ながら歴史的あるいは美術史・文学史的なアプローチのみでは間に合わない。ときに、民俗学や地理学のような視点や思想史、政治史、宗教史、さらに自然科学的な切り口を持ちこまなければ見えてこない、落合地域ならではのベクトルが存在している。文科系の、しかも社会科学(歴史学含む)分野がベースのわたしには、とても手におえないようなテーマにぶつかると、とたんに記録する気力が失せてしまうのだが、それが別の重要な物語と連携しているような課題だったりすると、イヤイヤ取材や調べものへ取り組んだりもしている
 それが案外面白くなったりすることもあるのだが、このような作業を10年もやっていれば、おのずと好きなテーマやそれほど好きでないテーマに分化してくる。でも、好きなテーマばかり追いかけていると、落合地域の、ひいては落合を含む江戸東京地方のほんの一側面しか捉えられていないのに気づき、もうひとつ別の視座から改めてテーマを見直してみたりする。そんなことの繰り返しで、この10年間がすぎたようにも思う。
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第一文化村渡辺邸.JPG

 丸10年やってみての感想ではもうひとつ、やはり当初の予測どおり、落合地域に堆積した膨大な時間軸による史的な地層(物語)を、それぞれのテーマごとに多角的かつ人を中心としてドリルダウンしていくと、期せずしてもっと広い地域の課題、すなわち江戸東京地方のテーマへと直結していることが判然としている。
 さらに、このブログがスタートしたころ小川紳介監督のドキュメンタリー映画『ニッポン国 古屋敷村』(1982年)を例に出して書いたClick!けれど、江戸東京地方の枠組みさえ飛び出して、落合地域が「ニッポン国 落合町」であることにも改めて気づかされる。別に落合地域に限らず、日本のあらゆる地域や街で同じような試みを積み重ねれば、そこにはひとつの地域史を超え、また一地方史をもはみ出して、日本史そのものへ直接的に敷衍できる大きなテーマ性が浮かび上がるだろう。
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 このブログで取りあげた多種多様な物語は、落合地域やその周辺域を中核としたほんの狭い範囲内で起きている出来事であり、人々の軌跡であり、また街角の移ろいであるにすぎないのだが、それがある時期の江戸東京の姿を象徴するものであり、ある時代の日本列島の姿を透過して見せてくれるものであり、また近代国家としての枠組み「日本」における大きな課題を内包しつつ、その矛盾が噴出している現場や最前線そのものであったりもする。そんな人々の思想や思念、愛憎、悲喜こもごもの感情が色濃く溶けこんだ、多彩な物語に長く手を突っこんでいると、ある種の認識が“パターン化”してくる点については、十分に気をつけなければならない。
 事実は小説やドラマ、舞台とは異なり、エンディングを構成する予定調和や劇的な幕切れなどどこにも存在しはしない。人が生を終えるとき、満足しきって調和し安定した精神状態であることが少ないように、このサイトに登場する多くの人々は、戦争による不本意な死や“不治の病”による死に象徴されるように、なにか仕事をやり残したままのある日、突然、生を断ち切られたケースがほとんどだ。
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六天坂中谷邸.JPG

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 また、そうであるがゆえに「悲劇の物語」という、ある種の先入観とともにパターン化(ある意味では矮小化)され、どこか“神話”化・“聖人”化されたようなヒロイズム的でアイドライズされた世界も存在しない。人々の生死は、それぞれ千差万別であり、人の数だけ人間臭い(人間らしい・人間ならではの)物語があり、また地元の生活現場に近ければ近いほど、人々の物語には生活臭が強くまとわりついてくる。そして、その周囲には「正史」や「伝記」には決して取りあげられない、ある意味では“美化”されない率直かつ素のままの人間像が浮かび上がってくる。
 上記のような現象は別に人に限らず、史的事件やエピソードについてもいえることだ。ある種の思い込みや偏見、規範、「常識」、あらかじめ「教科書」的に整理されてしまったバイアスにもとづいて対象をとらえようとすると、同じ誤りを繰り返し、どこまでも再生産していくことになる。
 ここでも、芝居や講談(=フィクション)に描かれた世界と、地元・大江戸Click!(おえど)や、その後の東京の街中で語り継がれてきた史実とが、まったく乖離して一致しない(ときに正反対の)ケースをいくつかご紹介してきたけれど、あらかじめ既存の印象やイメージにもとづき「こうだろう」、あるいは「こうであるべき」という規範化、事なかれの怠惰な思いこみが、人の物語や史実にもとづく事象の記事を書く場合、“最大の敵”であり障碍であることを改めて肝に銘じたい思いがしている。
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 このサイトには、多くの方々が知っている「有名人」から、「隣りのお婆ちゃん・お爺ちゃん」にいたるまで、落合地域や江戸東京地方などに昔から住んでいる多彩な人々が登場している。わたしの現住居が新宿区北部の下落合なので、どうしても直接その現場に立ち、その周辺をすぐに取材してまわれる落合地域とその周辺域の記事が多くなりがちなのだが、わたしにとってたいせつで重要だと思われるテーマは、また落合地域との濃い繋がりのあるテーマについては、別に地域や地方に縛られず、これからも足をのばして積極的に書いていきたいと思っている。(できるかな?w)
 さて、11年めに突入して手はじめに取りあげる記事は、この次の、床屋の物語……。

◆写真:下落合(現・中落合/中井含む)に展開する多彩な街角風景で、佐伯祐三・米子夫妻Click!のアトリエのみ撮影は小道さんClick!

常連たちは床屋でなにを夢みたか。

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 その昔、下落合に住んでいた人たちは、どこの床屋(理髪店)を利用していたのだろうか? ……と、こんなどうでもいいことにこだわり出して、また、しょうもなくつまらない記事を書くのだろうと思われたみなさん、実はそのとおり。w 普通ならどうでもいいこと、別に知らなくてもいいようなことにこだわって書くのが、このサイトの大きな特徴だと思っている。
 でも、どうでもいいことを調べていくと、意外なところで面白いテーマに出会うことも決して少なくない。今回の記事も、そんなもののひとつだろうか? たとえば、下落合436番地の近衛新邸Click!に住んだ近衛文麿Click!、下落合426番地の近衛町Click!に大正期から住んでいた3つの内閣で外相をつとめた有田八郎Click!、下落合437~456番地にあった目白中学校Click!で英語教師をしていた金田一京助Click!、下落合310番地の広大な相馬邸Click!御留山Click!を買収し住宅開発地の一隅Click!に自邸を建てて住んでいた東邦生命の5代目・太田清蔵Click!、これらの人々に共通するのはなんだろう? それは、通っていた床屋がみんな同じ店だったということだ。
 本郷にあった加賀藩前田家上屋敷の赤門Click!前、理髪店「喜多床」という床屋がそれだ。「喜多床」は、明治政府が文明開化の象徴ともいえる断髪令を出した、1871年(明治4)に営業をスタートしている。中邨喜太郎という人物が創業者で、もともとは幕府旗本の舩越家の出身だった。それまで、江戸の街中には髷(まげ)を結う数多くの髪結い床が存在したが、本格的な技術をもつ西洋理髪店として開業したのは「喜多床」が嚆矢だった。中邨喜太郎は、前田家に出入りする顧問外国人だったフランス人から、当時は最新の西洋散髪技術を学んだらしい。赤門前に建てられた店舗は、当時としては人目を惹く3階代建てのモダンなビル状の西洋建築だった。店名の「喜多床」は、当時の加賀藩当主で前田家13代めにあたる前田慶寧(よしやす)が命名したらしい。
 開店当初から、スタッフの全員が洋装で白衣を着用し、店内の機材はすべてフランスから輸入されたものが使われていた。特に、客と相対する巨大な鏡を製造する技術が、当時の日本にはいまだ存在しなかったため、わざわざフランスで製造されたものを細心の注意を払って運んでいた。創業者の中邨喜太郎は、「喜多床」と店名に「床」がつくものの、自分の店を「理髪店」、自職を「理髪師」、そして散髪技術を習得したスタッフを「アーテスト」と呼んでいた。当時、このような建築や店は、いまだ東京市街でもめずらしかったらしく、一時期は「東京新名所」として見物客を集めたらしい。
 つまり、今日的な近代理髪店の元祖が、前田家の正門前、のちに東京帝国大学Click!の赤門前に開店していたわけで、当時の新しもの好きたちはこぞって「喜多床」へ通ったようだ。同店の常連には、実に多彩な分野の人々の顔が見える。ちょっと挙げてみると、夏目漱石Click!、徳田秋声、内田百閒Click!森鴎外Click!尾崎紅葉Click!菊池寛Click!久米正雄Click!、石川啄木、芥川龍之介Click!佐々木信綱Click!、山本有三、伊藤博文Click!渋沢栄一Click!、前田利為、新渡戸稲造、吉田茂Click!……etc.。
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 たとえば、落合地域も登場して主人公が逍遥する、夏目漱石の『三四郎』Click!にはこんな描写がある。角川書店版の『三四郎』(1909年)から、引用してみよう。
  
 講義が終ってから、三四郎はなんとなく疲労したような気味で、二階の窓から頬杖を突いて、正門内の庭を見おろしていた。ただ大きな松や桜を植えてそのあいだに砂利を敷いた広い道をつけたばかりであるが、手を入れすぎていないだけに、見ていて心持ちがいい。野々宮君の話によるとここは昔はこうきれいではなかった。野々宮君の先生のなんとかいう人が、学生の時分馬に乗って、ここを乗り回すうち、馬がいうことを聞かないで、意地を悪くわざと木の下を通るので、帽子が松の枝に引っかかる。下駄の歯が鐙にはさまる。先生はたいへん困っていると、正門前の喜多床という髪結床の職人がおおぜい出てきて、おもしろがって笑っていたそうである。その時分には有志の者が醵金して構内に厩をこしらえて、三頭の馬と、馬の先生とを飼っておいた。ところが先生がたいへんな酒飲みで、とうとう三頭のうちのいちばんいい白い馬を売って飲んでしまった。それはナポレオン三世時代の老馬であったそうだ。
  
 夏目漱石Click!は、相変わらずここでも癇性でヘソまがりで神経質そうな性格をあらわにしており、店主の中邨喜太郎が「先生、良いお天気です」と声をかけると「大きなお世話だ」と答え、散髪しながらグッスリ寝入ってしまい、疲れている様子なのでしばらくソッとしておいてやると、目をさましてから「終わったのか。遅いぞ」と叱られたらしい。w 喜多床へよく通っていたのは、漱石が西片町10番地ろ7号Click!に住んでいたころのことだろうか。あるいは、気に入った床屋は遠くへ転居しても通うものなので、早稲田南町7番地Click!からも移転した「喜多床」へ通いつづけたかもしれない。
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 そのうち、「喜多床」は1階が学生、2階が博士・文士たちと、当時の知識人たちが集まるサロンないしは倶楽部のような場所と化していったらしい。1887年(明治20)ごろになると、本店だけで散髪椅子は18台に増え、従業員は20人ほどにまで成長している。また、このころから全国各地に「喜多床」を勝手に名のる床屋が多く出現し、モダンな理髪店の代名詞として、一種のネーミングブームにもなっていたようだ。
 「喜多床」の2代目・舩越景輝は、明治末に「大日本美髪会」つづいて「一会(はじめかい)」という団体をつくり、機関誌「美髪」の発刊をはじめている。また、欧米各国を視察旅行をして、米国の理髪店がもっとも発達しているのを知ると、帝大の学者たちとともに理髪師の勉強会や研究会を開催している。大正期に入ると、「一会」の会員は日本国内ばかりでなく朝鮮や台湾、清国、ロシア、ハワイにまで拡がっていった。1914年(大正4)になると、舩越景輝は「帝国通信理髪大学」を開設し、理髪師に必要な知識や技術を習得するための通信講座をスタートさせている。
 筑摩書房版の内田百閒による随筆『ねじり棒』(1933年)から、引用してみよう。
  
 本郷の赤門と正門の丁度真中辺りの向こう側に、喜多床と云う大きな床屋があった。喜多床は老舗であって昔から続いていたらしく、漱石先生の『三四郎』の中にもその名前が出て来る。/初めて上京した当時は落ちつかなくて頻りに下宿を変わったから、その時分は床屋にもどこときまった記憶に残る様な店もない。只行き当たりばったりに転々としていた様である。/その内に大分東京に馴れて落ちついて来て、下宿も正門前の森川町にあったから喜多床に行き馴れた。店に這入って行くと、喜多床の鏡は左右の壁を一ぱいに潰してきめ込んであるので、その前に起った自分の身体が、右にうつっているのが左にうつり、それがそのまま右のもっと奥にうつり、それが又左のもっと奥にうつり、何処まで行ってもきりがない。
  
 1922年(大正11)になると、赤門前の本郷通りの拡幅と区画整理のため、「喜多床」本店は本郷からの移転をよぎなくされ、丸の内にあった日本倶楽部会館ビルの地下へ移転している。日本倶楽部会館は、当時の政財界人たちが数多く集まる社交場として使用されており、同店に政治家や実業家の常連が多いのはそのせいだろう。
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 戦争の混乱をへて、GHQによる「喜多床」の「床」が封建主義的だという理由から、「舩越理容室」へと改称命令を受けながらも、同店は「喜多床」Click!の名前に復帰して、現在でも渋谷のクロスタワー地下で4代目と5代目がともに営業をつづけている。理髪料は少し高いけれど、同店へ散髪に出かけると下落合やその周辺域をめぐる、いろいろな人物たちの飾らない素顔のエピソードが聞けるかもしれない。

◆写真上:旧・下落合282番地の高田邸跡に建つ、七曲坂下の理髪店。
◆写真中上上左は、荻外荘Click!応接室Click!で撮影された近衛文麿。上右は、1940年(昭和15)に撮影された下落合時代の5代目・太田清蔵。下左は、大正期から下落合に住んでいた有田八郎。下右は、目白中学校で英語教師をしていたころの金田一京助。
◆写真中下上左は、2006年(平成18)に発行された小冊子『喜多床 百三十五年史』で、表紙に写る3階建ての店舗は創立時の意匠。上右は、同史に掲載された米国のKOKEN社製理髪イス。は、常連だった夏目漱石()と内田百閒()。
◆写真下:丸の内にあった、めずらしい日本倶楽部会館ビルの写真。(同史より)

寮誌に描かれる昭和初期の下落合。

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 1933年(昭和8)2月に発行された、学習院昭和寮の寮誌「昭和」Click!には、下落合の情景をとらえた文章がいくつか掲載されている。第四寮で生活していた通利生(おそらく本名)という学生は、夕暮れが迫る目白通りを散歩した体験をエッセイに書いている。
 おそらく、前年の1932年(昭和7)9月から10月にかけての文章なのだろう。すでに目白通りは舗装され、歩道沿いにはイチョウ並木が植えられていた様子がうかがえる。同誌に掲載された通利生『憶出した事』の中から、「(一)夕方」を引用してみよう。
  
 置時計が五時を指して居る。ふと眼を窓外にうつせば、外はもう紫色の夕靄につゝまれて居た。私は秋と言ふ感をはつきり頭の中に画いた。/急に秋の夕方の目白の通りが、歩いて見たくなつた。誰も知らないかも知れないが、私はこんな誌的な感情を時々現はす人間なのだ。/私の靴の裏には釘が沢山打つてある。/コツコツ歩く度毎、いや、其の一歩一歩、舗装道路の上を快く鳴る靴音。/木の葉が、かさりかさりと落ちる。私の首筋にひんやりした風が吹いて来た。/なんだか妙に、やるせない感じがした。年老つた父の事とか、是からの自分の事とか、!!/――自分の前に、見るからに見すぼらしい一人のルンペンとでも言ふ様な男が、垢じみた半纏に泥だらけの足袋をはいて歩いて行く。/仕事の帰りとも見えない。無精ひげが目立つて見える。私は、よく此の男を観察して見たくなつた。/眼に光のないどんよりとした瞳。ひたいのしわは此の男の今迄の苦労を語つつ(ママ)て居る様に、深くそして沢山あつた。
  
 学習院昭和寮から目白通りへと出るには、近衛町Click!のメインストリートをそのまま北へ300mほど、まっすぐ歩いていけばいい。目白通りへ出た彼は、はたしてどちらに曲がっただろうか。おそらく右折、つまり目白駅や学習院のある方角へ曲がったように思うのだが、具体的な風景描写はなされておらずハッキリとはわからない。そろそろ夕闇が迫り、あちこちの商店では歩道に設置された白熱球の黄色い街灯のスイッチをひねる光景が見られただろうか。仕事を終え、目白駅から吐きだされた家路を急ぐ人々を乗せて、ダット乗合自動車Click!が通りを行きかっていただろう。
 いかにも、おカネ持ちの子息らしい彼は、革靴の底にたくさんの鋲くぎを打ちこんで、歩くたびにダンディな靴音が響くようにオシャレには余念がない。当時の流行なのだろう、舗装されたコンクリートの道路や、リノリウムなどの堅い床面を歩くとコツコツ鳴る靴音に、女子たちが振り向くのを期待していたのかもしれない。しかし、靴音を響かせて歩いていた彼の前に現れたのは、女子ならぬ汚い格好をした「ルンペン」だった。
 いや、汚れてはいながらも、どこかの会社か組の半纏を着て地下足袋をはいているところをみると、彼は「ルンペン」などではなく、当時の言葉でいえば、その日の職にあぶれた日雇いの「土工」ないしは「職工」だったのかもしれない。彼らは、昭和初期の不況で街中にあふれていた最下層の労働者、つまり経済学史の視点から当時の経済学界で議論が繰り返されていた、講座派vs労農派的な論争の表現に倣えば、経営者の都合(資本蓄積・需要減退・生産過剰)によって、いつでも切り棄てが可能な、相対的過剰労働力(=いわゆるマル経では「産業予備軍」と呼ばれる労働力)のひとりだったのだろう。事実、1930年(昭和5)前後は大学を卒業した学士でさえ就職先が見つからない、「大学は出たけれど」状況がつづく不景気な世の中だった。
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目白通り1935頃.jpg

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鶴巻川暗渠工事1932.jpg

 さて、学習院高等科の彼はどのように感じたのか、つづきを引用してみよう。
  
 私は少し歩きながらこう思つた。此の男には人生の楽しみがあるのか、此の秋の黄昏をも味ふと言ふ訳でもなく、唯食ふ事ばかり考へて居なくてはならない。私は人の世の矛盾を考へずには居られなくなつた。/此の男がふと立止まつた。そして丼をさぐつてバツトを一本つまみ出した。/マツチの火が夕暗近い薄暗い中に此の男の薄蒼い顔を一瞬照らした。紫色の煙を深く吸つて、はきだした。さもうま相に、微笑みに似た表情が此の男の顔に見えた。/私は救はれた様な気持になつて何とはなしに空を見げれば(ママ)、もう星が澄んだ空に輝いて居た。
  
 もし、ゴールデンバットを吸う男が目白駅へと歩いていったとすれば、ひょっとすると下落合か長崎の西部で行われていた、宅地造成か道路整備の工事現場からの帰り道だったのかもしれない。当時、「職工」や「土工」が丼(どんぶり)を手ぬぐいや風呂敷にくるんで持ち歩くのは、別にめずらしい光景ではない。ちょっとした小物、たとえばタバコやマッチ、手ぬぐい、濡れると困る紙類などを入れて持ち歩く、今日の防水ポーチのような役割りをはたしていた。作業現場の露天では、丼を手ぬぐいなどでくるんだまま伏せておけば、雨が降っても濡れないで済むからだ。
 さて、「昭和」第8号を読んでいて、ひとつ気になったことがある。のちに、国産ロケット開発の分野で糸川英夫とともに有名になる戸田康明が、1932年(昭和7)現在は高等部理科3年の学生として昭和寮の第二寮で生活していた。同誌には、同年7月10日から9月1日にかけて、つまり夏休みを通じて日記風に書かれたエッセイが掲載されている。戸田康明は、昭和寮で暮らすかたわら大井町にあった自邸へともどり、ときに軽井沢の駅から「十丁」ほどのところにあった別荘へと出かけている。この間、登山やテニス、ドライブ、音楽鑑賞、野球観戦、海水浴、ゲームと当時の学生としてはずいぶん贅沢な夏休みをすごしているのだが、その暮らしぶりは華族さながらだ。
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 戸田康明は、ひょっとすると雑司谷旭出41番地(現・目白3丁目)から下落合へ転居したことになっている、戸田邸Click!戸田康保Click!となんらかの姻戚関係(たとえば子息か甥)があるのだろうか? 戸田康保は、1930年(昭和5)に自邸の広大な敷地(現・徳川黎明会Click!+徳川ドーミトリーの敷地)を徳川義親Click!へ売却すると、下落合へ引っ越したことになっている。しかし、下落合側では戸田康保が転居してきた事実が見つからない。1933年(昭和8)に出版された、『高田町史』Click!(高田町教育会)から引用してみよう。
  
 戸田康保
 旧信州松本藩主子爵戸田康保は、明治三十六年頃から、雑司谷旭出に住み、昭和五年下落合に移転した、子爵は多年、高田町教育会の会長の任に在つた。
  
 1930年(昭和5)に解体された、戸田邸の部材の一部を使って建設されている、和洋折衷の邸宅Click!は下落合で現存しているが、戸田家そのものが『高田町史』の記述にもかかわらず、目白界隈からこつ然と姿を消してしまっているのだ。これは、ブログをはじめた当初からの“謎”だった。しかし、もし戸田康明が戸田康保と関係があるとすれば、1932年(昭和7)夏の現在、戸田家は下落合ではなく大井町に居住していたことになる。なぜ、周囲に公言していた下落合への移転を取りやめ、当時は郊外で大森海岸など海浜別荘地にも近い、大井町へと転居したのだろうか?
 戸田康明が、目白駅近くにいた松本藩戸田家の人物だったとすれば、その答えは彼の手記の中にある。彼の妹は高熱がつづく原因不明の病気で、ここ数年間は重態だったのだ。1月には、医者からもう身体が持たないと宣告されるほどの容体だった。だが、妹は同年の夏ごろを境に、みるみる健康をとりもどしていく。8月には、母親とともに散歩へ出歩けるまでに快復している。つまり、戸田家では娘(あるいは姪)が重病にかかったため、予定していた下落合への引っ越しを急遽取りやめ、当時は海浜別荘が建ち並ぶ保養地として拓けていた大井町へ、転居先を変更してやしないだろうか? この仮説には、戸田康保と戸田康明が姻戚関係であり、同じ邸に住んでいたという前提が必要なのだが……。
 第二寮棟のまん前には、大黒葡萄酒Click!の工場が見下ろせた。戸田康明は同年8月7日の手記に、「長い様で短かい学習院生活。昭和寮第二寮。赤い大黒葡萄酒のネオンサイン。其等は一生涯わすれられぬ追憶だ」と書いている。このころ、大黒葡萄酒Click!の瓶詰め工場には、建屋の正面か屋根上かは不明だが、夜になると赤く光るネオン看板が設置されていたのがわかる。
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 さて、戸田康保が周囲へ語っていた下落合への転居を中止したとすれば、それは慌ただしい計画変更だったはずだ。つまり、戸田家では下落合に設定された転居先の準備を早くからしていたものとみられ、敷地の確保はもちろん新邸の建設寸前まで計画が進んでいたのではないだろうか。とすれば、雑司谷旭出(現・目白3丁目)に建っていた戸田邸の規模からみても、1930年(昭和5)現在でなにも建設されていない、下落合の広めな空き地が怪しいことになる。下落合の東部ですぐにも思い浮かぶのは、近衛文麿Click!が手放して空き地のままの状態がつづいていた目白中学校跡地Click!、ミツワ石鹸の三輪善太郎邸Click!の北側に拡がる空き地、そして西坂徳川邸Click!とは渓谷(のち聖母坂Click!)をはさんで東側の“対岸”にあたる、見晴らしのいい丘上の池田邸Click!を見下ろす広い空き地だ。このいずれかに、昭和初期の戸田邸にまつわる伝承が残されてやしないだろうか?

◆写真上:学習院昭和寮(現・日立目白クラブ)の、西端にある第四寮棟。
◆写真中上は、1935年(昭和10)ごろの目白駅近くの目白通り。写っているのはダット乗合自動車を合併吸収した東環乗合自動車のバスガールたちで、右手に学習院初等科の子どもたちが見える。(小川薫様Click!より) は、1932年(昭和7)に鶴巻川(弦巻川)の暗渠化工事を行う労働者たち。(『高田町史』より)
◆写真中下は、日立目白クラブ(旧・昭和寮本館)の談話室。は、本館南側の庭。
◆写真下:昭和寮の第二寮から大黒葡萄酒の工場を眺めたところで、は1932年(昭和7)には1936年(昭和11)に撮影されたもの。

季節はずれの怪談物語。(3)

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 1928年(昭和3)6月19日に、新橋「花月」で開かれた怪談会Click!は佳境を迎えていた。泉鏡花Click!は、いくらでも怪談話を披露できたらしく、また柳田國男Click!と同様に巷間で囁かれる怪談話には精通していたらしく、放っておけばいつまでもしゃべりつづける勢いだったように見える。おそらく、過去に開催された「花月」怪談会でも、常連のひとりになっていたのだろう。
  
 ◎泉鏡花の怪談(その3)
 何でも、麻布の市兵衛町とかに住んでゐた常磐津の女師匠で、この新橋あたりへ出稽古をしてゐたのがあつたんださうです。花千代といふ芸者も、そのお弟子の一人で。ところが女師匠が病気になつて、間もなく亡くなりました。それから数日経つて後、師匠の遺族の人が、葉書を一枚持つて、新橋へやつて来て、お弟子達をあちらこちらと、たづね歩行(あるっ)て、その葉書の差出人をさがしたが、如何しても判らなかつたと言ふのです。その葉書には、こんなことが書いてありました。『御病気と承りましたので、何月何日の午後何時すぎに、お見舞に上りましたら、お宅の格子戸を細くあけて、痩せたお婆さんが挟まれたやうにお内を覗いてゐて、ぐあひが悪くて、如何しても入ることができません。そのまゝ失礼して帰りました。どうぞ一日も早く、全快遊ばすやうに。』……ところが、この日付と時間とが、師匠の死んだ時刻とぴつたり合つてゐるので、どうも不思議でならないといふので、見舞を出した方を探すけれども、まるッきしわからんかつたッて、さういふんですがね。
  
 「ヲイッ、近所の婆さんが、建てつけの悪い格子戸にアタマ挟まれて抜けなくなり、ただ往生してただけじゃん! 助けてあげなかったのかい!?」と、橋田邦彦医学博士はそろそろ呆れそうなものだが、ここはなんとかこらえて沈黙をつづけている。
 このあと、しばらく死後の人間から便りがあったという「死人からの葉書」が話題になって、出席者の経験談がつづくのだが、長谷川時雨が「死の前兆」について質問したのを契機に、実際に彼女の妹夫婦に起きた不思議な出来事を語りはじめた。
  
 ◎長谷川時雨の怪談(その3)
 実は、あたしの妹の良人(おっと)のことですが、まだ海軍中尉だつた頃に、新婚早々、呉軍港に家を持つたので、記念だといつて博多人形を買つて送つてくれたことがありました。海軍々人の像と若い花嫁の像でしたが、どうしたわけか、その軍人の像が、頭から肩へかけて割れてゐました。新婚間もないときに、縁起でもないと、年取つた父は大層気に病んで、その人形を、元のまゝ綿に包んで、箱に入れて、土蔵の隅に蔵(しま)ひこんでしまひました。それから七年ほど過ぎて、妹婿は中佐になり、まだ呉軍港に住んでゐました。と、或る日、七年前に蔵ひこんだ人形が、どうしたはずみか引つ張り出されたのですが、父はまだ気にしてゐて、土蔵の窓から海の中へ投げ捨てました。土蔵は佃島の岸に立つてゐたのです。すると間もなく、その妹婿は、軍艦の上で、部下の水兵のために斬られて死んだのです。(中略) 呉鎮守府からの急報で、父の代りにあたしが呉に行きましたが、傷のやうすを聞くと、頸筋から肩先へかけた傷口が、七年前に見た博多人形の割れ傷とそつくりなのです。
  
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 娘婿を斬った水兵は、演習で出港する僚艦から預かったノイローゼ患者だったらしく、この日は休暇で乗組員はほとんどが上陸していたが、上陸を許されなかった水兵が激昂し、艦で当直勤務をしていた娘婿の中佐に手斧で斬りかかったようだ。
 「ただの不注意なんだよ。人形が割れたのは、長谷川のお父つぁんの不注意なんだよ! どうして、誰も指摘しないのぉ?」と、橋田博士は胡坐をかいた膝頭をイライラと揺すって、「もう、飲むっきゃないし」と盃を重ねていたかもしれない。
 このあと、『主婦之友』の記者が人魂(火の玉)Click!の存在に話を向けると、さっそく平岡権八郎が反応している。彼は実際に人魂を見ており、新橋駅前にある烏森稲荷社の縁日で、「大屋根の上を、すうつと飛んで行くところでした。沢山の人が、わいわい騒いで見てゐました」と思い出を語った。つづいて、泉鏡花が麹町通りで見た人魂の目撃情報を披露し、「電車通りの向う側の屋根の上三尺ばかりのところを、尾を引いて、ふはふは飛んでゐました」と話している。
 「ふっ、今度ぁ人魂だってさ」とボソボソつぶやいて、空になった銚子をふりながら、腫れぼったい目で赤い顔をした橋田博士は、かまわず左隣りの長谷川時雨が手をつけずにいる銚子に手を出したかもしれない。
  
 ◎平岡権七郎の怪談(その2)
 或る晩、町に人魂が出たのを見つけた二人の夜廻りの鳶のものが、鳶口でそれを突かうとしたら、人魂はすうつと、前の方へ逃げましたので、それに釣られた仕事師達は、鳶口を振り翳して、どんどんその人魂を追つて行きました。すると、その人魂は、ふはりふはりと逃げながら、或る路地に折れて、突当りの家の櫺子窓から、家の中へ飛び込んでしまひました。と、家の中で『うゝん、うゝん。』と唸る声がして、やがてお婆さんの声で、『お爺さんや、何をそんなに魘されてゐなさる。』と、頻りにお爺さんを呼び起してゐるらしい様子でした。するとお爺さんは眼を覚したと見えて、『あゝ、恐ろしい夢を見た。私が町を歩いてゐたら、何を感違ひ(ママ)したのか、二人の仕事師が、突然に、鳶口を振り翳して俺を追つかけて来たので、生命からがら逃げて来た夢を見た。』と語つてゐました。窓の外まで追ひかけて来た二人の鳶のものは、この話を立ち聴いて、ぞつと慄へ上つたさうです。
  
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 橋田博士は、「科学」とはなんなのだろうか? 「文明開化」はどこへいったのだろうか?……と、改めて自問していただろうか? それとも、「ここは、江戸時代のまんまじゃねえか。もう、どにでもなれってんだ、ちくしょうめ! こんな会に出席したオレが、バカだった」と、ついにヤケのやんぱちになっていただろうか? どこか、あきらめたような、半分ふてくされてような反応をしている。
  
 ◎橋田邦彦の茶々(たぶん酔っぱらいながら)
 ♪♪追つかける仕事師も仕事師だが、人魂をぶらぶら散歩に出した、お爺さんにも困りますな。(一同哄笑)♪♪ハハハハ(笑うっきゃないし)
  
 このあと、柳田國男と泉鏡花が『甲子夜話』に登場する「人魂」についてひとくさり語ると、今度は柳田が怪猫Click!について話しはじめた。投げやりな茶々を入れてしまった橋本博士は、すかさず「ニャーッ」と赤い顔で招き猫のようなポーズをしただろうか。
  
 ◎柳田國男の怪談(その3)
 自分の祖母から聴いた話ですが、信州の飯田で、長患ひをしてゐた人が、毎日毎日家の猫が蒲団の上へあがつて、朝から晩まで寝てゐる。後には病人が心づいて、あゝいやな猫だ、この猫は、どうしてかう朝から晩まで来てゐるのか、と言つてゐたさうです。(中略) 病気が治つたら、棄てゝ来なくちやと、病人は口癖のやうに言つてゐました。それから病気は次第によくなつた。するとその猫を棄てゝ来ると、風呂敷に包んで出かけて行つて、それつきりもう還つて来なかつたといふのです。
  
 寒がりのネコが、人間のぬくもりのある布団に寄りつくのはあたりまえで、この話はあまり怪談には聞こえない。橋田博士の茶々に影響されたのか、平岡権八郎が「猫婆ですな」といったので、また一同はドッとわいたようだ。
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 お株をとられた橋田博士は、「山へ棄てにいって、ヒック、そのまま婆さんも道に迷って、どこかで遭難したんだぜ、きっと。ヒック」と、少しは論理的な思考回路がまだ残っていただろうか? それとも、このあとひと言も発しなくなってしまったので、すっかり酔いがまわって、意識がモウロウとしていたのだろうか。
                                   <つづく>

◆写真上:天保年間に制作された、歌川国芳の団扇絵『猫すゞみ』(部分)。
◆写真中上は、小村雪岱の挿画「死神」。家の中をうかがう「死神」なのか、格子戸にはさまって往生している老婆かは不明だ。下左は、長谷川時雨の妹婿の遺体を描いた小村雪岱「斬られ中佐」。下右は、長谷川時雨のブロマイド。
◆写真中下:小村雪岱の挿画で、「人魂」を追いかける鳶のふたり。
◆写真下は、1941年(昭和16)に東條内閣で文相に就任した橋田邦彦。は、1945年(昭和20)の自決前に描かれた鏑木清方『橋田邦彦像』(部分)。

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